古本屋通信

党籍消滅前後(その1)

古本屋通信  No 237 5月30日

   党籍消滅前後(その1) 

 他人の党籍のことをあれこれする羽目になった。「脱落分子」はいいとしても、それは俗称である。私自身の党籍を公表する。入党は1965年秋。正確な月日は憶えていないが、第9回大会3中総直後だったろう。党籍消滅は1970年秋。わずか5年の短い党生活だった。この5年間は私の2つの大学での学生生活6年のうちの5年である。
 一番肝心な党籍消滅のかたちに就いて書く。離党ではない。除名処分でもない。いわゆる除籍処分でもない。未結集(不活動)の自然消滅でもない。それならば一体何なのか。私自身、42年経った今でもはっきりとは判らないのだが、転籍書類の握り潰しなのだ。握り潰したのは地区委員会である。そんな馬鹿な話があるか、と言われても本当にあったのだ。それは当時よくあったらしい。しかし、いくら地区委員会が怠慢だとしても、何もないのに若い党員を切り捨てることはない。私の場合は転籍申請書類に添えて、長文の党批判文書を提出した。その細かい内容は憶えていないが、批判対象は党中央ではなく、中間機関だった。これが地区委員会には決定的に気に喰わなかったと見える。地区委員長の名は萩原。但し張本人が萩原かどうかは判らない。
 今回は「党籍消滅前後 その1」として、握り潰しに至る雰囲気を伝えるため、学生党組織の事を書いた私の文を貼る。これは、[古本屋通信 No46 大学中退] の一部分をとって再録したものである。これを読めば、私が提出した文書の内容は凡そ見当が付くだろう。当時の情勢を織り交ぜながら、私はこの通りの長文を提出して、転籍を握り潰されたのだ。


 [古本屋通信 No46 大学中退] から一部抜粋


私は1964年18歳で民主青年同盟に加盟し、翌年19歳で日本共産党に入党した。この時、私は四国の小さな大学の学生だった。小さな大学だったが、私が卒業するころ同盟は300人、党は3桁を数えた。いろいろな仲間がいたけれど、総じて自分たちが大学生であることに複雑な想いを抱いていたように思う。それはしばしば同年代の青年労働者にたいする劣等感だったが、同時に自分たちが大学で学んだことは労働者に返さねばならないという気負いのようなものもあった。とにかく一生懸命勉強して卒業し、一日も早く労働者になるんだ。そして階級的労働組合をつくる一端を担うんだ、それが当時の学生党員の共通の想いだったように思う。職業革命家になるんだと言うようなズッコケた学生は四国の小さな大学には一人もいなかった。

 61年党綱領のもと、党の青年学生運動の方針は戦後15年の経験を踏まえて練りあげられたものだった。学生同盟はつくらない、学生運動は青年運動の一翼として労働青年の運動から学んでこそ力を発揮できる、民青同盟で試されたものだけが入党を許される、学生運動 = 騎兵隊論も、「層としての学生」運動論も採らない。党の学生運動の指針は党綱領の採択から数年遅れて、「学生運動の2つの任務」として定式化された。2つの任務とは、平和と民主主義と学生生活擁護のために戦うこと。知識を身につけるために古い学問からも学ぶこと。それは『赤旗』や『学生新聞』に主張や論文のかたちで繰り返し載った。活動と勉強の両立で悩んでいたわれわれはそれを新鮮な感動で受けとめた。それをハンディな一冊に纏めたのが『現代日本の学生運動』(広谷俊二著 青木新書)だった。この指針のもと、60年代後半の民青同盟と民主的学生運動は飛躍的に伸びた。

 私自身は3年生のとき民青の地区委員の役がまわってきて、労働者と一緒に活動する機会に恵まれた。地区委員会ではいつも隅のほうで小さくなってほとんど発言することはなかった。みんな私をかわいがってくれた。これは私がいい子ぶったのではなく、当時の労働青年の、学生に対する優位性から自然な関係だった。日本共産党は綱領で明記しているように労働者階級の党であった。全人民の党ではなかった。ましてや小ブル知識人や学生の党ではなかった。党の構成は出身をふくめて労・農を中心に組み立てられなければならなかった。私は学生であることを恥じたことはない。しかし労働者から学ぶ事は一杯あった。それは主として労働者階級の規律性・組織性であったが、彼らは理論水準も高かった。

 当時の私のいた大学は小さかったので学生間のことはたいてい分った。病気以外で留年する者はいなかった。大学院入試 ( 旧帝大 ) に失敗して大学に残るものも留年しないで、専攻科に進んだ。民青同盟員や党員で大学を中退するものは私の在学中は皆無だった。みんな4年間で卒業した。五回生という言葉はなかった。それが党の方針だった。私自身は専門の英文学・英語学を十分勉強したとは言えなかったけれど、すべての単位を取って、卒業論文を書いて4年で卒業した。そのあと縁あって他大学に学士入学した。

 学士入学した先の大学でも私は組織の成員であることにに変わりはなかった。しかし私は自分の活動を制限した。やるべきはやったつもりだが、いい党員には映らなかったと思う。だから内部批判的な言動は一切しなかった。しかし、卒業して既に40年になる。もう書いてもよいだろう。
 今はじめてこの大学に移った時の驚きについて書く。全部ではないがこの大学の組織は、当時の党中央の指導の到達点とは著しく違っていた。多くは言うまい。留年が何人いたか。数え切れないほどいた。それも1年留年だけでなく2年留年、3年留年が何人もいた。中退は何人いたか。相当数いた。放校はいたのか。いたと聞いた。とにかく五回生から八回生という言葉は日常語だった。私が卒業したあとも、それは続いたらしい。まるで党の50年分裂時代の、学業を放棄しての党活動のように私には思えた。そして驚くべきことに、中退者は次つぎに党関係の仕事に就いていった。それが優秀な党員だけに許された道であり、英雄的な選択でもあるかのように。私は空いた口が閉まらなかった。これは資本主義社会における価値転倒のもうひとつの形態だった。正常と異常の価値転倒。ここで言う党関係の仕事とは党各級機関の専従のこともあれば、民主団体の職員のこともあったが、一般に卒業証明書の要らない職場だった。そのような仕事を経て議員になることも珍しくなかった。戦前ならともかく、また全学連中執などどんなに努力しても就職不可能な場合を除いて、学生党員が就職活動をしないのは闘争放棄だった。というより、そもそも入党の意味を理解してなかったことになる。

 稲沢潤子さんの初期の小説に、女主人公が授業に出ようとしないグウタラな恋人に説教する場面がある。恋人は「あんなつまらない授業に出席するのは時間の無駄だよ。そんな時間があったら自分で勉強するよ」と言う。女主人公は「つまらないって、そのつまらない授業にみんな出ているのよ。どうしてみんながやってることを、あなただけ出来ないの? あなただけどうして例外なの? まして、あなたは活動家を自認しているのに、それではひとを組織するなんて出来ないわ」 ( 引用は要旨 )。稲沢さんの小説は60年安保の頃の大学が舞台なのだが、60年代の学生運動の問題を考えるうえで、高橋和巳の小説とは違う意味で示唆に富んでいた。かの女は男を批判することで、当時の民主的運動の病める部分を抉った。主人公は恋人と別れ、恋人は運動から脱落し、自閉していく。
 稲沢さんには同じような作品が複数あるので、題名がはっきりしないのだが (『紀子の場合』だったか『青麦』だったか)、私は彼女の初期の作品が好きだ。それは宮本百合子の『伸子』との対比において特に好きだ。百合子より男をみる目が優しいから。ただし、読後感の強さでは『伸子』には及ばない。
 稲沢さんの小説で脱落し自閉していく部分がなぜ、実在する学生党組織では職業革命家になっていくのか。そしてそれはなぜ、遠いむかしの60年代70年代だけではなく、その後もずっと続いてきたのか。

 労働しない労働者はいない。労働しないものは労働者ではない。勉強しない学生は本来的に学生ではない。大学中退は、余程の事情がないかぎり怠学であろう。今日では雇用の形態も著しく変わってきたので、いちがいには言えないが、少なくとも60年代、70年代には、中退者は社会的にも怠け者と評価され、就職は著しく不利だった。それは不当な差別とは次元がちがう。そういう部分、いわば学業を放棄した横着者が、社会経験のないまま専従や民主団体職員になり、議員なっていく。当然ながら労働者的規律を身につけていない。それがすべて悪いと言うつもりはない。しかしそれは、当時の社会規範一般から外れていただけでなく、党が戦後作り上げてきた運動の峰を切り崩す試みだった。


  1. 2013/05/30(木) 21:02:28|
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