古本屋通信

西部邁って虫唾が走る

古本屋通信    No 2266    2016年 11月12日

  ちょっと臨時の挿入だけど、2チャン161の東大民青さんよ、新しい論点はないのかい? 今回の投稿はすでに答えたよ。二言だけ。河村さんを褒めた拙文を読んでくれてアリガトさん。それから国家とパルタイ(党)を区別せよ。然し赤松克麿脚注)とはよく云ってくれたな。憶えておこう。アンタのアタマではマルクス主義者が同時に愛国主義者であることが理解できまい。全学連の機関紙は戦後間もない頃からずっと「祖国と学問のために」(略称 学)だった。愛国は右翼のスローガンではなく、左翼のスローガンだった。



  西部邁(進)って端から虫唾ムシズが走るんですけど



  朝一番に赤旗二面に、ソコソコの大きさの記事をた。小池が「保守の論客・西部邁」と討論したそうな。私はバカにして一行も読まなかった。昼まえキンピーサイトに板が立った。ユーチューブの冒頭に西部の顔があった。老醜をて吐き気がした。もちろんなかった。

  この記事を書くに当っても、ウィキを一瞥する気さえ起きない。軽蔑の一語である。

  私は西部について殆んど何も知らない。私には、よく言われる左翼から右翼への転向という認識はない。第1次ブントだったろう。東大の最後のブントだったかな。変わり身は早かった。典型的なブントだ。

 それから、こいつのお陰で中沢新一が仲間だと知った。これはありがたかった。

  ふと思った。ブントの前に共産党籍はなかったのだろうか? この点だけを知りたかったので、ウィキを引いた。何も書かれていなかった。しかし直感では党籍はあった。そうすると小池は被除名者と対談したことになる。それは現在の西部が天下衆知の右翼だから構わないということだろう。しかし「保守の論客」とはナ。こういうかたちで低脳右翼をたてまつる赤旗の品性がさもしい。

  私は右翼だからといって端からバカにはしない。日本共産党員から右翼に転向したからといって、端から論じるに価しないと断定しない。例えば「新しい教科書をつくる会」の藤岡信勝がいる。スポンサー付きの、左翼からの転向者だが、右翼としての運動の実態はある。藤岡なりに身を挺して戦っているのだ。左翼はかれらの新しい教科書のたくらみを粉砕しなければならない。

  西部邁には何もない。舌先三寸の口先だけで、右翼オピニオン誌『正論』に飼われている人間のクズである。こういうゲスに市民権を与える赤旗の不見識。

 左翼にせよ、右翼にせよ、メディア左翼、メディア右翼は有り得ない。メディア右翼の典型が西部邁と鈴木邦男だろう。右翼としての組織もなければ、根性もない。だから平気で左翼に流し目を送る。対談などをなさる。下の下である。


  ここで私はどうしたことか、何の関係もないだろう 『週刊金曜日』 を想った。感じる所があった。再びウィキを引いた。何番目かに下の記事があった。西部邁の記事ではない。表面的な左右の違いにも拘わらず、ブルメディア無しでは生きられない畏友・佐高信の記事である。今回コレを貼って私のエントリーに代えたい。断っておくが、私はコレを救い難い低脳たちの話として紹介している。佐高信について云えば、もちろんマルクス主義者でも左翼でもない。しかし多少でも思想的な教養があれば、例えば漱石について西部と話が合うなんてことは絶対に有り得ない。売文の徒なのだが、本質的には右翼なんであろう。でなかったら西部との対談は苦痛で耐えられないはずである。


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 論敵なのに嫌いな人間は同じだった西部邁

 
佐高信   2015年12月7日
率直に言って西部邁は敵対する人だった。いや、いまでも思想的に対立するところはある。そこに着目してCS放送「朝日ニュースター」が「学問のすゝめ」という対談番組を企画し、2009年の春から、それはスタートした。毎週土曜午後9時から約1時間。最初に思想家、次に本、そして映画を論じて3年続いた。かなり熱心なファンもいて、『思想放談』(朝日新聞社)以下、6冊の本になっている。

 謳い文句には「保守・リベラルを代表する論客」とあるが、要するに右と左の激突を期待したのだろう。確かに西部と私は対立的な形で並ばされてきた。

 たとえば、2000年の11月15日に参議院の憲法調査会で参考人として話した時、改憲賛成派が西部で、反対派が私だった。その時はそれぞれが意見を述べ、調査会の議員たちがそれぞれに質問するということだったので、直接討論はなかったが、新聞や雑誌で賛成と反対のコメントを並べられるといったことも何度かあった。そして遂にロングランの直接対決となったわけである。

「サタカ君を左翼にしておくのは惜しい」

 私が西部と初めて会ったのは、1994年の10月20日である。徳間書店が出していた月刊誌『サンサーラ』の対談のホストをしていた私は、1995年1月号掲載の相手に西部を頼んだ。

 西部は編集者に、「それはサタカの意志か」と尋ねたらしい。

 そんな経緯もあって実現したのだが、私が西部に、「西部さんのようなお寺の子どもにとって、宗教は信仰ではなく生活ですよね」と問いかけたあたりから緊張がほぐれた記憶がある。西部が頷いてくれたからである。

 それから15年。日本と世界の思想家について1回ずつ語ることにした「学問のすゝめ」では、最初の福沢諭吉からニーチェ、夏目漱石など関心をもつ思想家が重なっているのに驚いた。番外的に取り上げた美空ひばりでは好きな歌まで同じである。それで一緒にカラオケに行ったりしたのだが、まもなく、西部はしばしば、「サタカ君を左翼にしておくのは惜しい」と私を冷やかし、私も、「西部さんは保守にしておくのは惜しい」と笑って返すようになる。

 私がサヨクかどうかは別にしてもである。

 思想的には真反対だといわれている西部と私が、嗜好的にはよく似ているのだなと思ったのは、黒澤明について話していた時だった。

 『世界』で、亡くなった人のことを書く「追悼譜」を連載していて、黒澤については書く気になれなかったけれども、木下恵介は迷いなく追悼しようと思ったと言ったら、西部はすぐに、「わかりますよ、それ」と応じてくれたのである。

「ある程度大人になると、黒澤のあの映画はっていう風に、身を乗り出してしゃべる気は起こらない」と続けた西部と私の遣り取りは『思想放談』に載っている。

「それは黒澤映画と切っても切れない三船敏郎について論じようという気になれないのと同じですよね」

 そこで私がさらにこう同意を求めると、西部は、「あの人はひたすら吠えたててる感じだ」と受け、「言っちゃ悪いけど、奥行きはあまりないですね」という私の断定にも、「陰影がない」と共鳴してくれた。

 あるいは黒澤ファンからは総スカンを食う2人の発言だろう。

片道切符しか手にできない生き方

 映画をめぐる対話は、『モロッコ』から始まった。

「ワンウェイ・チケット」を持って彼の地に渡って、いまだけを生きる人たち。

 片道切符だけでとういう生き方に憧れる点でも西部と私は共通している。いや、「憧れる」というより片道切符だけしか手にできない生き方を2人はしてきたのである。これからも、そういう生き方をして最期を迎えることになるのだろう。

 好きな思想家が共通していると書いたが、それ以上に嫌いな人間が同じということで、2人は“同盟”している。

 発言に体重がかかっていない、あるいはペラペラしゃべる口先だけの人間を侮蔑するという共通感覚をもっているのである。たえば竹中平蔵であり、橋下徹。京セラの稲盛和夫の説教臭さも完膚なきまでに指弾した。

 それを収録した『ベストセラー炎上』(平凡社)の「おわりに」に西部はこう記している。

「この両名、批判相手の著名度には意を払いません。たとえば、つまらぬこと限りなしと批判するしかない類の有名人の書物に対しては、トンデモナイ、クダラン、バカヤロウと、広言しないまでも、万已むを得ず公言してしまうのです。ただし、語気高くバカヤロウと怒鳴るわけではありません。この2人、自分も莫迦かもしれないとわきまえているものですから、発音に気をつけて、バ~カ~ヤ~ロ~ウと、できるだけ急がずに、できるだけ平らかに、発声するのです。そうすることによって生じる心の余裕を利用して、ユーモア(諧謔)の気味を(バカヤロウという嫌な言葉に)盛り込もうという心づもりなのでしょう」

 また、西部は『西部邁と佐高信の快著快読』(光文社)の「あとがき」では、私が、「何の顔ばせあって、保守を自称して憚らない西部なんかと仲良く対談を続けるのか」と追及されることが少なくなかったのではないか、と心配している。西部にも、「左翼の佐高と談笑の絶えない語りをすることができるのは、西部が元左翼過激派としての痕跡を持ち長らえているからだ」という噂話が届くこと頻りだったからである。しかし、2人共、悪罵には慣れていた。

 それで、西部が、「保守を自称する連中には馬鹿が多くて困りますわ」と言うと、私が「左翼でいることに満悦している者にも莫迦がわんさかいるよ」と返して笑っていたのである。

 たしか、田中角栄を論じていた時、西部が自分も吃りだったと告白したので、私も中学になっても寝小便することがあったと言ったら、それをテレビで観ていた西部の兄が、幼時、1つの布団に寝ていた弟に自分の寝小便を押しつけたことがあったと懺悔したという。ほぼ60年後に明らかになった秘話で、西部と一緒に笑い合ったのが忘れられない。



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  脚注    赤松克麿   ウィキペディア

赤松 克麿(あかまつ かつまろ、1894年(明治27年)12月4日 - 1955年(昭和30年)12月13日)は、大正・昭和時代の社会主義運動家で、その後左翼活動家・国家社会主義運動家に転じた。衆議院議員。

経歴
山口県徳山市(現・周南市)に浄土真宗本願寺派徳応寺住職赤松照幢、安子の4男として生まれる。徳山中学に進学するが4年次在籍中の1911年(明治44年)に、校長排斥運動から同盟休校を起こし退学。中学検定試験に合格して旧制第三高等学校に進み、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治科へ入学した。

帝大在学中に勃発したロシア革命の影響を受けて、宮崎龍介や石渡春雄と相談の上で1918年(大正7年)12月に、新人会を結成。指導教官だった吉野作造教授にも協力を仰いだ。1919年(大正8年)に東京帝大を卒業すると東洋経済新報社に勤務し雑誌「解放」の編集に携わるが、2年後には日本労働総同盟に参加。更にその翌1922年(大正11年)には日本共産党(第一次共産党)に加わって中央委員に就任するも、検挙され獄中転向。それ以降は寧ろ無産党の中でも右派の立ち位置を取る様になり、1926年(大正15年)に労働農民党から分裂した社会民衆党(社民党)の結党に参加し、中央委員となった。

1928年の総選挙では恩師・吉野の故郷だった宮城1区から立候補するも、落選。1930年(昭和5年)には社民党書記長に就任するが、この頃から社会民主主義から更に右派的な国家社会主義への関心を深め、翌1931年(昭和6年)には石川準十郎、津久井龍雄ら右翼活動家と共に日本社会主義研究所を創設し、三月事件や十月事件にも関与する。同年10月21日に社民党の中央執行委員会によって片山哲・小池四郎・島中雄三の三氏を派遣し、同年11月22日には三氏の報告に基づき満蒙問題に関する決議を発表したが、その決議では日支の無産大衆の生活利益のために満蒙を社会主義的国家管理体制に移行させ、両者の共同経済を樹立することが満蒙問題の真の解決につながると、ともすれば国家社会主義的な色彩の濃い内容だった。

この決議による国家社会主義派の優勢を見て、1932年(昭和7年)1月18日に社民党新運動方針が中央執行委員会で可決されたが、同年3月21日に大阪で開かれた官業勞働總同盟の中央委員会が社会民主主義を擁護する立場から赤松の国家社会主義に反対の声明を発表。更に鈴木文治や西尾末広などが赤松の動きを社民党自体を親軍化せんと非難するに至り、4月15日に赤松は一派を率いて社民党を脱党する。

社民党を追われる格好となった赤松は、日本社会主義研究所の面々や全国労農大衆党を離党した小池四郎・独自に農民運動を率いていた平野力三とともに5月29日日本国家社会党を結成し、自身は党務長に就任した。しかし国家社会主義から科学的日本主義に向かう赤松とあくまで国家社会主義の側に立つ津久井・平野らが対立。結局赤松は国家社会党を離党して国民協会を設立し雑誌「国民運動」を発行、1937年の総選挙で北海道4区から立候補し初当選し、初めて国政進出を果たした。右翼団体を束ねる時局協議会内で議会進出と新党結成を掲げてきた赤松は、同年7月に江藤源九郎、菅舜英、津久井竜雄(元大日本生産党)、小池四郎(愛国政治同盟)、下中弥三郎(新日本国民同盟)らの右翼活動家と共に日本革新党を結党し党務長となり、9月には陸軍の依頼で上海派遣軍報道部に所属。新体制運動には積極的な協力姿勢を見せ大政翼賛会が結成されると初代企画部長に就任したが、その後は翼賛会でも主流の座から追われ1942年の翼賛選挙でも非推薦候補となって落選した。
戦後は戦争協力の罪により公職追放となり、追放解除後の1953年(昭和28年)に日本産業協力連盟を設立、理事長として労務管理に携わるが2年後に癌により死去。61歳。

著書
『社會革命史論』(大鐙閣)1922年
『國際勞働總會概況報告』(出版元不明)1924年
『無産階級の政治行動』(科学思想普及会)1924年
『勞働爭議』(日本評論社)
『労働組合運動』(科学思想普及会)1924年
『日本勞働運動發達史』(文化學會出版部)1925年3月20日
『轉換期の日本社會運動』(厚生閣書店)、1926年
『勞働歌集』(社會民衆新聞社)1927年
『日本勞働運動發達史』(新潮社)1928年
『社會運動に於ける現實主義』(青雲閣書房)1928年
『解放運動の指導理論』(クララ社)1929年
『社會民主主義の旗の下に』(忠誠堂)1930年
『日本無産政黨史』(白揚社)1931年
『無産戰線を撹亂する者は誰か?』(クララ社)1931年
『五ケ年鬪爭史 社會民衆黨』(社會民衆黨書記局)1932年
『新國民運動の基調』(萬里閣)1932年4月24日
『故吉野博士を語る』(中央公論社)1934年
『人民戰線打倒論』(国民協会出版部)1936年
『日本人の新教養』(教材社)1942年
『日本社會運動の歴史的研究』(労務行政研究所)1948年
『日本社會運動史』(岩波新書 青83)1952年
『東洋への郷愁』(日本政經公論社)1953年
『勞使関係の在り方』(元々社)1954年
『東洋と青年』(池田書店)1954年

訳書
アー・ボグダーノフ『經濟科學十二講』(白揚社)1924年
バーバラ・ドレーク『英國婦人勞働運動史』(厚生閣書店)1927年
カール・カウツキー『エルフルト綱領』(平凡社)1929年

親戚・血縁
祖父は西本願寺の重鎮赤松連城、父・照幢は与謝野鉄幹の実兄にあたる。

長兄の赤松智城は浄土真宗本願寺派の僧侶の傍ら宗教学者となり、次兄・赤松信麿は医学者、三兄・赤松義麿は洋画家となった。弟の赤松五百麿も兄を追って政治活動家となり、和歌山高等商業学校で教鞭をとった。妹・赤松常子は全繊同盟での活動を経て戦後、右派社会党・民社党の参議院議員となっている。妻の明子は恩師吉野作造の次女。
  1. 2016/11/12(土) 19:44:34|
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