古本屋通信

読点の上手な使い方

古本屋通信    No 2265    2016年 11月12日

    読点の上手な使い方  


  私の古本屋通信文については、はじめから美しい文を書くことはあきらめている。かなり長文になることもある。意味が通り、読者に読んで貰えればよい。文に2度3度と訂正を加えることはある。然しそのさいの訂正・加筆・削除・修正の基準は他人がマトモに読めるような文にすることである。文中の表記の不統一は、気になれば直すが、そのママのことも多い。一例を挙げれば、「しかし」・「しかし、」・「然し」・「然し、」である。読めないことはないと開き直る。でも読まされる方は気になるだろう。新聞や週刊誌でも統一している。「コレ」なんかも使うべきでない表記だ。でも、分り易いから気に入っている。「けっこう難しい」を「結構むつかしい」と書く場合もあれあれば、「むずかしい」または「むづかしい」とする時もある。「時」は「とき」とした方がよいだろう。「よい」を「ベターだ」とするのは日本語を「壊す」。「毀す」もある。けど、これらに配慮して通信文を書くことは、私の場合できない相談なのだ。紙の書物の編集者時代にはもちろん統一した。しかし経験しないと分らないだろうが、漢字のかな送りまで統一するのはもの凄い時間がかかる。その割合に意味は大きくない。


  以下は以上とは直接関係のない話である。古紙回収業者さんから雑誌が入る場合は多いが、先日『詩人会議』の、けっこう新しいのが20冊ほど入った。2、3年前の『詩人会議』は初めてだった。その1冊の中に照井良平氏の 『ガレキのことばで語れ』 (詩人会議出版)第41回壺井繁治賞受賞の言葉
があった。これについて書きたい。詩集にたいして与えられた賞であって個々の詩文に与えられた賞ではないから、詩文の引用はいっさいしない。




  照井良平 受賞の言葉
 ありがとうございます。まず選考委員のみなさま方にお礼を申し上げます。第1詩集が第41回壺井繁治賞を受賞することになってびっくりしてビックリするほどびっくりしております。
 詩集の内容は表題の『ガレキのことばで語れ』の通り東日本大震災の特に津波で被災された直後の古里の姿、声を詩った詩篇ですが未だに目に見えた形で復興が立ち上がってきたとは言えない状況下での受賞さすがに元気になります。
 被災に対し金銭的な応援はなかなかできませんがこの詩集が一面で何かの役にたてたらと改めて思います。3・11と原発避難のような災害では政治から経済からスポーツから国のすべての営みが価値が相互扶助の構造を持たなければグローバルの何たるか経済成長の何たるかと言うものつまり何のための社会活動かが問われていると言うもの。有限な地球の人間社会の進むべき道の何たるか羅針盤を見誤ることのないようにして欲しい。このように願わずにはいられない。受賞詩集の願いはそこにあります。
 それにしても東京で復興復興と掛け声ばかりの政治家たちの現地に足を運んで見よう声を聞いてみようともしない精神細胞の組織はどのような構造なのだろうか。
 この3月末の3日間3・11の3周忌を機に詩集の表題を掲げ「震災 詩展と写真展と朗読」の追悼行事を開催した。大震災を忘れないで欲しいとの願いを込めての開催であったが連日切れ目のない入場者があり朗読会は会場が溢れるほどの盛況であった。受賞の知らせはこの行事の準備の最中でありましたからさらに格別の嬉しさが込み上げてきました。 照井良平 『ガレキのことばで語れ』 (詩人会議出版)


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   古本屋通信

  私は照井良平氏の詩集も、一篇の詩も読んでいない。上記の散文 「受賞の言葉」 だけを読んだ。読んで感心した。句読点と言っても実質は読点である。むしろ不自然なまでに多用している。私は文章論などに疎いから、私の過大評価の可能性は大いにある。然し私はこういう読点の打ち方が好きなのだ。それでいて真似ができない。つまり散文にメリハリを利かせていると思える。私の独りヨガリかも知れない。書きたかったのは、それだけのことである。

  私には現代詩を評論する力はないが、岡山詩人会議 『道標』 は愛読している。大むかしに壺井繁治賞を受賞した坪井宗康氏のつれあいの坪井あき子さんが欠かさず持参してくださる。私は詩文よりも散文を読んで感心する。上手いなあと。つまり詩人の散文なのだ。真似ができない。

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   またしても決定的な失点。

  「、」 は句点ではなく、読点ではないかというご指摘あり。

 俄かには信じないぞ。然し、これケアレスミスではない。だが今回は50年間そう信じていたというのでもない。私が編集者時代から認識がグラグラして、その都度しらべて正しい結論に達した件である。だが、けっきょく覚え切れず、曖昧な認識が再度あたまを持ち上げてきたのだ。

  編集現場で、小学生でも知っている事を知らないで恥を隠した記憶がある。さあ、ご指摘をそのまま信じないで辞書を引いてみましょう。ガ~ン。


句読点
文につける句点と読点とうてん。ひとまとまりの文の最後に句点を、また、文中に読みやすく正確な理解を助けるために読点をつける。現在は普通、句点に「。」、読点に「、」を用いる。横書きやローマ字文では「 . 」「 , 」などが使われる。なお、感嘆符 ...大辞林 第三版



  完璧にアウト。私の完全な間違いでした。

  それを前提に何故こういう誤りを再三繰り返したかについての弁明をひとこと書きます。たぶんコレ、数年後には私は同じ誤りを繰り返すと思います。それは何故か?

  英語の句、つまりフレーズとの混同です。英語の句はピリオドで完了する一文ではなく、コンマで区切る文中の一部分、つまり句(フレーズ)なのです。ここから句を(、)として認識し切っていたのです。

  これは上記の大辞林の後半「横書きやローマ字文では「 . 」「 , 」などが使われる」でいっそう混乱に拍車が掛かります。つまり「 . 」ピリオドが句点で、「 , 」コンマが読点なのですから。

  また、読了と言います。読み終わるのですから(。)です。読み終わる記号に(、)を付すという理屈がどうしても理解できません。

  私のこの誤った認識はたぶん今後も改まらない気がします。

  しかし正しい国語を覚えないと、どうしようもないでしょう。でも、正解が出てもスッキリしません。

  上記の拙文の誤りを訂正しておきます。いまさら未練がましく訂正印など入れないで、句点を読点に変更します。


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追記 そのご間接的にだが、或る高校国語教師からレクチャーを受けることによって、私の疑問の殆んどは氷解した。その成果を独占するのは勿体ないので、レクチャーの要点を以下に貼っておきたい。情報を下さった方、有難うございました。
   
「句」は文のことである。したがって、文の区切りとして使うのは「句点」=「。」である。

「読」は読むということである。読んで息継ぎをする所に使うので「読点」=「、」である。

ついでに、「私=主語」である。「私は=主部」で、「私は」は「主観」、「私が」となれば「客観」。

「読点」の使用については約束事がある。原則として、
  長い部分の間に付ける。
  言葉の順序が逆になる場合に付ける。
  接続語の後に付ける。
  以上が原則で、後は様々な考え方がある。
  1. 2016/11/12(土) 05:37:56|
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