古本屋通信

私のプロフィール補記として

古本屋通信      No 2171  10月01日

   私の貧しい旅行体験  「私のプロフィール補記」 として 


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    更新日時 : 2016/10/01   06:42



 尊敬する秦野真弓様が以下のように書いて下さいました。で、貧弱な私の鉄道体験というより旅行体験をありのままに書いて過去を振り返りたいと思います。私はこれまで旅行記や旅行エッセイの類いは一度も書いたことはないのですが、それは今考えると旅を楽しむ心の余裕、もっと言えば豊かさがなかったからだと思います。つまり目的的にカスカスの交通機関の利用しかしてこなかった。そういう恥を書く事になりますが、それはそれとして、恥を書く機会を与えて下さった秦野様に感謝します。 

5. ゴミスケの秦野真弓
2016年09月30日 22:30
♪古本屋通信様というと,22才の,多感な時期,高松に住んでおられたそうです。当然ながら(≒残念ながら私は,乗車できませんでしたが…)
A:古本屋通信様は,高松駅から,宇高連絡船に乗り
B:宇野駅からは
伝説の【急行・鷲羽号】に乗り換え
C:宇野駅→茶屋町駅→岡山駅→上郡駅→姫路駅→西明石駅→舞子駅→須磨駅→三ノ宮駅→尼崎駅→大阪駅と,汽車旅した,御経験,あられる筈です
◎古本屋通信様に,あられましては,何らかの形で
【鉄道旅行の楽しさ】→語って頂きたいです



18~22歳の「多感な時期」に私は香川大学の学生で、高松市に下宿していました。郷里は旧岡山市から北25キロの地にある御津郡御津町新庄でした。この4年間に寄宿先と郷里を往復したのは10回程だったでしょうか。盆と正月だけでした。大抵1泊2日でした。郷里をきらう左翼少年でした。最初の2回だけ国鉄を利用しました。(津山線)金川駅→岡山駅→(宇野線)茶屋町駅→宇野駅→(宇高連絡線)→高松駅です。これは小学校の修学旅行に琴平(つれあいの実家があります)に行ったとき以来でした。私は岡山大学法文学部法学科(当時は法文学部に経済学科はなく、正確には法文学部法科でした)をすべって香川大学教育学部(これも正確には学芸学部で、教育学部への名称変更は1年後でした。多くの教員養成系学部は反対を押し切って一斉に教育学部の名前に統一されました)中学校課程英語に入りましたが、このこと自体ははイヤではなかったのです。なぜなら岡大なら自宅通学で両親のもとを離れられなかったからです。然し高松に来てずいぶん都落ちした気分にはなりました。私は岡大を合格していたら、それを蹴って(国立2期校の)大阪外大に行きたかったのです。その願書を提出していました。合格すると大阪に住める、そう考えていました。学力不足から高松の住人になったのです。しかし政治的には大阪外大でも、高松でも、行きつく先は民青でした。岡大だったら民学同だった。一歩間違えると中核派でした。不要な事を書いてしまいました。私は宇高連絡船が好きではありませんでした。その十年ほど前には紫雲丸が沈没して修学旅行の生徒全員が死んでいます。それで私はもっぱら宇高国道フェリーを利用して往来しました。特急バスは岡山天満屋から宇高国道フェリー乗り場行きが1時間に3本出ていました。それもフェリーにピッタリ接続して1時間に3本です。所要時間は連絡船が1時間10分、フェリーが1時間弱です。つまり離着陸の所要時間が違うのです。まあ連絡船は連絡船なりに風情もあった。でも便利さだけだと、みんなフェリーを利用していましたね。

高松市というより四国は陸の孤島というのが言いすぎなら僻地という感覚がヨソ者にはありました。地元の感覚はちょっと違っていたでしょうが、やはり上方や東京を志向する想いはあった。それは国立2期校の存在する地方都市に共通していたかも知れません。香川県は一貫して高校の総合選抜制を拒否していました。高松高校(タカタカと呼んでいました)と丸亀高校(マルコウと呼んでいたのです。丸亀商業があるのにです)がオセをするのです。昭和40年代末までに多くの県は総合選抜制度になります。保守的な愛媛県(だったかな?)や徳島県でさえもそうなりました。だが香川県はエリート高校を堅持する方針を貫いたのです。これが保守県と言うより貧乏県です。九州の鹿児島県と北陸の福井県がそれです。話がそれましたが、要は私にとって高松は終の棲家ではないという感覚がありました。

国鉄の旅ですが、私は香川大学在学中に大阪の集会には一度だけ、東京の集会には五度出かけて行っています。原水禁大会には広島にも長崎にも行っていません、東京には夜行特急「瀬戸」を利用するのが常でした。夜8時ごろ高松を出発して早朝に東京に着きます。上京するという感覚です。この感覚が消えたのは昭和45年の山陽新幹線の開通時だったでしょう。でも当時は新幹線に乗る金を節約するため鈍行で東京に行ったという話もよく聞きました。こういう当時の事情からも、私は石村智子の全国跳ね歩きなど許せなかったですね。夜行特急「瀬戸」で東京に着くと、疲れきって東京の集会では寝てしまうわけです。いちと法政大学であった全学連と全寮連と大学生協連の合同集会では、記念講演の弁士が蔵原惟人(日本共産党文化部長)だったのですが、2000人の参加者の大半が寝ていました。蔵原の喋りが眠気を誘ったのです。しかし後で本になったのを読むと優れた論考になっていました。私は話の巧拙など過大に評価すべきではないと思いました。あのときは蔵原のあとで全学連委員長の川上徹と書記長の新保寿雄がアジ演説すると、議場は一声で目を醒ましたのです。演説は川上より新保のほうが少しだけ上手でしたね。われわれは競ってアジ演説の練習をしたものです。少なくともアジれない活動家は単位自治会の委員長にはなれませんでした。そういう時代でした。私は下手でしたがそれでも教育学部学生委員会の委員長を2期やっています(当時の香川大では3学部とも学生自治会ではなく学生委員会の名前でした。また改選の任期は1年ではなく半年でした。すぐに改選になるのですが、当時の学生の個人事情などからは現実的な自治会規約だったでしょう。私は2学年時(前後期の)委員長でした。当時の活動の中心的な担い手は2年生だったのです。これが健全なありかただったでしょう)。あとでこのアジ演説さえも、シンヒヨの象徴として論難されるのです。言いがかりとしか言いようがありませんでしたね。そのあとが不破と筆坂のしゃべりでしょう。蔵原の下手クソの伝統なのかも知れませんが。

いまでもそうですが、私には交通費・車馬賃は金の無駄使いだという感覚が根づよく、これが私が旅を楽しむ事を妨げているように思います。これは逆に言うと、公費出張の旅なら存分に満喫できるのです。私は秦野様には及びませんが、日本各地をかなり旅しています、半分は車でしたが残り半分は電車とバスの旅でした。それは四国4県と九州全域、ちょうど仁比さんと同じくらい旅をしています。訪問先は高校と大型新刊書店と競輪場でした。北陸にも行きました。雪にはめっぽう強いです。富山競輪場での高橋健二の頭の万配当は忘れられませんね。アッ、高橋といえば高知競輪場500バンクで、中野浩一のアタマから高橋のヒモで連勝単式の的中。このとき私は1万円の1本買いをして当りました。710円の配当でしたから6万円儲けました。

引き続いて競輪の旅の話です。公費出張時には北は新潟・弥彦から南は熊本、武雄、別府、久留米、小倉まで行きました。東京はちょうど後楽園競輪が廃止されたばかりの頃でしたが、千葉や川崎や松戸を含めて都下と周辺の全競輪場に通っています。中部地区の名古屋、岐阜、大垣もです。しかしこれらが全ては公費出張のついでです。自費で行く競輪場は近回りだけでした。これは電車の旅を満喫しました。高松、観音寺、玉野、広島、甲子園、西宮、岸和田、向日町 (松山、高知は出張時でした。山口の防府には行っていません。山陰には競輪場はありません)。昨年福山市議会を傍聴に行ったのですが、このとき新幹線に乗るのが20数年ぶりだと気が付いてビックリしました。ケチなんですが、同時に旅行嫌いなのです。よく 「貧しいなあ」 と言われます。弁護士の浦部先生は「貧乏しても本は必要だ し、旅行に行って美術館巡りだけはしたい」 とおっしゃいます。私はもう競輪場に行きたいとは思いません。ネットで観れるからです。メンバーはすっかり入れ替わっていますが、現役のスタークラスでは京都の村上義弘が好きです。旧い選手では阿部道が好きで福島正幸が嫌いでした。また井上茂徳が好きで中野浩一が嫌いでした。現役を引退して解説者をやる根性が醜い。
  1. 2016/10/01(土) 02:55:16|
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