古本屋通信

シベリア抑留問題に就いて

古本屋通信     No 2118  8月24日


    シベリア抑留問題に就いて

 今日の赤旗(3)が1頁を使って「シベリア抑留とは何だったのか」という特報を組み、さらに(15)でも関連時事を載せている。「シリーズ戦後補償」 という特集の一環らしく、そういう視点からの記事と見た。

  問題を全面的に論じる余裕はなく、また時間的に余裕があろうとも、私には重すぎるテーマである。記事を、それも前半だけを読んだ感想に書く。

  事実そのものは繰り返し言われてきたことである。私はシベリア抑留体験の自費出版本も何冊か読んできた。抑留体験そのものはビルマ南方戦線での生死の間を彷徨った過酷な戦争体験とは少し違った記録だった。けれど筆致そのものは私に言わせると変わりなかった。すでに書いたがオールゴミである。なぜゴミか。書かれていることは事実である。過酷な被害体験である。しかし体験に当てられるべき歴史の視点がない。加害者であった自分がない。まったく書かれていないのだ。この典型が立石憲利氏の『戦争の民話』である。

 今日の赤旗特報記事は微妙である。まず真っ当な部分は、シベリア抑留者支援センターの有光健さんの平和祈念展示資料館についての発言部分である。

 他の戦争関連の展示もまとめて、歴史的な視点から再構成し、その中にシベリア抑留も位置付けるべきです。シベリア特措成立法(2010年)のときにそこへ踏み出すべきでした。日本側の悲劇を語る際に、そもそも他国に出掛けて軍事支配し、100万人もの日本の軍隊(関東軍)が中国東北部に常駐していたこと自体が異常な状態で、無理なことだったのではないか? 抑留問題もそこから考えねばなりません。

 私は極端に云えば、この問題はこれでオワリだと思う。有光さんは書いていないが、関東軍の多くは徴兵制で徴用されたのではなく、いわば青雲の志功名を立て、立身出世をしようとする志)をもって志願した兵士たちであった。満蒙開拓団が当時の青年の野心の顕われであったと同じ文脈であった。コレとて農家の三男坊が生きるためにやむをえなかった選択だったという理屈はある。然しそれらは全て侵略を受けた側に通用しない理屈である。

 日本帝国主義は戦争に敗れ、無条件降伏を受け入れた。ソ連軍が日ソ不可侵条約を破って・・云々・・は全て無条件降伏する以前の言い分である。

  ここから先で赤旗は 「シベリア抑留の悲劇がなぜ起こったか」 を書く。識者を引いて、「スターリンの指令」がポツダム宣言に違反だと書く。

  ここから先は読む気がしないし、読まなくても分っている。スターリンひとりを悪者にする非歴史。これはソ連の国家国防委員会の決定であった。日本共産党の徳田指導部は当時これを支持した。そしてその後の日本共産党暫定党史も、これを徳田らの誤りだったと言っていない。

 当時のシベリア抑留はやむを得ぬ侵略戦争の見返りだった。それに対する不服と異議申し立てはあろう。然し歴史を塗り替えることはできない。「50万の旧日本兵はどうにでもしてください」 とソ連に申し出たのは共産党ではない。日本政府であった(実際に申し出ていなくても、捕虜の存在を認めるとはそういう意味でしかない)。戦後の天皇ヒロヒト(および象徴天皇制)を残す代わりに戦犯(関東軍そのものもC級戦犯であった)は好きに料理してくださいと言ったのは日本政府であった。日本共産党は日本兵に赤化教育(マルクス・レーニン主義の正しさ。そしてこれは間違っていなかった。こういう教育を受けて多くの抑留者が戦後に日本共産党に入党した。竹永光恵岡山市議の義父さんもその一人だった)をしてくれるようスターリンの党に依頼しただけである。

  シベリア抑留問題は国際的には全て解決済みである。戦後賠償は国内問題である。

  余談だが、北方領土も竹島も未解決の問題は皆無である。きのう岡山県庁前に巨大な垂れ幕を見た。なんで岡山県庁が北方領土を言うのか。県知事が悪い。共産党の県知事を当選させよう。県議補選は大塚愛さんをよろしくお願いします。

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  参考

  
  関東軍   ウィキペディア


関東軍(かんとうぐん、旧字体: 關東軍)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。

概要
旅順の関東軍司令部跡(現・関東軍旧蹟博物館)
大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京に移転した(現在の長春市であり、司令部跡は中国共産党吉林省委員会本部となっている)。「関東軍」の名称は警備地の関東州に由来し(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する)、日本の関東地方とは関係ない。

張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行したことは、1920年代からの外交安全保障戦略を現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の日中戦争(支那事変)や太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす契機となった。なお、これら一連の行動は、参謀本部・陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、明確な軍規違反であり、大元帥たる昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動をする事は死刑に処される程の重罪であったが、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。

歴史
日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年(大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した[1]。当初の編制は独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみである小規模な軍であった。

1919年4月25日、関東都督府旅順陸軍軍法会議を関東軍旅順陸軍軍法会議に、関東都督府遼陽陸軍軍法会議を関東軍遼陽陸軍軍法会議と改称することを決定し同年5月1日に施行した[2]。同年5月16日、関東軍憲兵隊を配置した[3]。

1928年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し(易幟)、工作は裏目となった。そのため1931年、石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国する。当初、犬養毅首相は満州国承認を渋るが海軍青年士官らによる五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、1934年に満州国の首都新京市(日本の敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。

一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、ソ連軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。1938年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第19師団が初めてソ連軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するが大きな損害を被り日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった[4]。

これらの武力衝突によりソ連軍の脅威が認識されたことや第二次世界大戦の欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっていた。そして、翌1937年の日中戦争(支那事変)勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力74万人以上に達した。「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと謳われていたのはこの時期である。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。

1942年10月1日には部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格。関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。

しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用され、また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘がなかったため関東軍も進んで戦力を提供した。その埋め合わせに1945年になると在留邦人を対象にいわゆる「根こそぎ動員」(25万人)を行い、数の上では78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期よりはるかに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には至っていなかった。

1945年5月ドイツ敗北後、ソ連軍の極東への移動が活発になった。6月4日梅津参謀総長は大連に赴き、日ソ開戦時、一部の満州地域を放棄し、防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を関東軍に命令した。

同年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。満州に侵攻してきたソ連軍に対し、10日大本営は朝鮮防衛と司令部の移転を命令した。14日関東軍司令部は通化に移転。これによって関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と後に非難されることとなった(殖民を守る部隊が全く存在しなかったゆえに葛根廟事件という悲劇まで起きた)。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎えた。正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜10時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。

停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部は11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に獄死したため、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐこととなる。また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第4練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いた。
  1. 2016/08/24(水) 04:18:16|
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