古本屋通信

石崎徹 VS 鬼藤千春

古本屋通信     No 1975   6月11日
    
  
 石崎徹 VS 鬼藤千春

 昨夜遅く石崎徹のブログで石崎と鬼藤千春の間で以下の遣り取りがあった。私は毎日ふたりのブログを訪問しているので分かったのだ。ふたりも古本屋通信を訪問している。かれらは岡山の民文 『まがね』 誌の元仲間である。私はこのふたりの今回の遣り取りに短評をつけるが、これはふたりの間に割って入ろうというのではない。ふたりに向けて書いた文ではない。読者に向けて書いた文である。だから中立性を保つ必要は感じない。それと対象化したいので、敬称を省いた。


 ポスター
 雑文 - 2016年06月10日 (金)   石崎徹
 たぶん誰かがすでに指摘しているだろうし、遅きに失したのでもあるが、毎日散歩に行くたびに、いつまでも目に付いて、気になってしょうがないので、少しだけ書く。
 共産党のポスターである。「力を合わせて」と打ち立てて、志位和夫の上半身を画面いっぱいに配している。それは良いのだが、志位さんが自分の右手と左手を合わせて、力を込めて引っ張っている。
 志位さん、自分の両手を合わせてどうするの? あなたが力を合わせねばならないのは、ポスターの前にいる、われわれ、考え方も、感じ方も、価値観も、生き方も、何もかもがあなたと違っている、われわれその他大勢ではないのですか?
 あなたはポスターの前の我々に向かって、握手の手を差し伸べるべきなのです。自分の両手の力を合わせても、いままでと少しも変わりがないでしょう?


  608:志位さんのポーズについて
  by 鬼藤千春  on 2016/06/10 at 19:49:16 
 あなたは何も知らないのですね。志位さんの両手を合わせたポーズは手話からきています。
 手話では、あのポーズは「ぜひ」という意味があり、「ぜひご一緒に」という意味です。あのポーズは志位さんの、「自慰的で、独りよがり」のものではありません。
 もっというと、「ぜひご一緒に新しい政治を開きましょう、力を合わせましょう」というポーズなのです。
 多くの市民・国民に向かっての、「ぜひ」というメッセージなのです。
 あなたが「政治的な発言?」をすると、どこかが歪んでいますね。あなたの眼と心が曇っているのでしょうね。可哀想な人間だと哀れに思います。


 志位ポスター
 メッセージ - 2016年06月10日 (金)   石崎徹
 手話のポーズとは知らずに失礼しました。鬼藤さんご指摘ありがとう。これはぼくの不明でした。




  古本屋通信

  まず私がかれらを何ゆえ知っているかだが、これは「通信 No1959 私のまがね文学会と妹尾さん」に書いている。遣り取りに限って感想を書く。

 日頃の鬼藤のブログからは考えられないような石崎の人格に踏み込んだ批判である。当否は措いて、これがかれの本領である。私は今回は鬼藤に言いたいことはない。しかし石崎には言いたいことはたくさんある。鬼藤の石崎批判は当たってない事はないが、表面的で突込みが足りない。以下は私の石崎批判である。

  とにかくよく分からんことを書くのが決定的に誤りである。指摘されたらゴメンナサイだが、誤りの根源について思想的自己批判が全くないから、何回でも同じ誤りを繰り返す。石崎の決定的な誤りとは何か。それは事実を事実として、弁証法的過程として、事物の根源に遡ってとらえず、自分の貧しい感性のおもむくままにフィーリングで捉えることだ。「ボクがこう思うんだから、それでいいじゃあないか」は子供である。案の定、志位ポスターの早とちりである。疑問に思ったら先ず調べなければならない。確信が得られなければ口に出さないことだ。特に石崎の政治関係はデタラメが度を越している。正しい発言は皆無だある。私に対する批判など話にならない。私は自分に対する批判を嫌ってはいない。元東大民青あらためデボーリンの批判など、同意するにせよ同意できないにせよ勉強になる。石崎の批判など屁以下である。だいぶ根気よく付き合っていたが、余にもアホらしいので投げ出してしまった。たとえば私が「マルクス主義者とは思えず、むしろ古本屋主義者といえる」 という規定だが、根拠はゼロである。思いつきである。コレ最大の誹謗中傷なのだ。しかしマルクス主義など全く知らない石崎にとって、これが中傷誹謗などトンデモナイ言いがかりであろう。まあ、鬼藤の指摘は当たっているワ。政治なんかに口を出さず、自分の守備範囲を文学批評に限って書けば罪は浅い。そしたら北村のように褒めてくれる者も現れる。もっとも北村は要注意だろう。かつての新船海三郎だ。赤旗の記者である。民文の作家を束ねる使命を持って作家に臨んでいる。文学官僚である。

  石崎は自分の図体を心得た方がよい。その点で鬼藤のほうがマトモだ。しかし短歌はともかく、ああゆう安全地帯に身を置いた雑文は感心しない。コレだったら、誰からも文句は来ないだろう。しかし冒険がないから進歩がない。そのストレスが今回の石崎への八つ当りだったのではないか。

 ふたりに断っておく。自分のブログで何を書こうと勝手だが、当ブログへの投稿はかたくお断りする。投稿欄は閉鎖中だが、拍手コメントは可能だ。然し読まないで削除するから、無駄な事をしないでほしい。

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  加筆

  日ごろ見慣れているポスターだが、志位の両手の配置など気にしたことはなかったから、改めてポスターを眺めてみた。鬼藤は手話を知っているから上記のような指摘をした。これはこれでよい。

  しかし私は手話など、知る機会がなかったから、このポスターを幾ら眺めても鬼藤が書いているような事など思いつきもしない。手話に不案内な有権者は私と同じだろう。石崎とて同じ筈である。だったら石崎は鬼藤に指摘されて「ありがとう」と言うのはよいが、「知らずに失礼しました。・・・これはぼくの不明でした」 は不要だし、慇懃無礼だろう。知らないのは 当たり前なんだから詫びる問題ではない。それより石崎が自己検討しなければならない問題は他にある。

 志位ポスターは共産党のイメージポスターだから、それにふさわしい出来上がりかどうか意見を出すのは有意義だ。しかし志位のポーズがどうだとか、服装がどうだとか、両手の組み方がどうの、これは個人の好みだろう。石崎が自分の好みを言ってもよい。しかし志位やポスターを批判するような問題ではない。

  もう一度石崎文を読んでみればよい。ことごとくピント外れである。そのピント外れを自分が手話を知っていないから的を外したように言い繕うこと自体が傲慢である。石崎は全てこの調子なのだ。

  それから、私はポスターを批評(批判)すること自体は大賛成である。この点を書いておこう。かつて1970年代に党のポスターの背景に富士山を使ったことがあった。少し論争になった。民主連合政府が話題になった頃だ。愛国主義やナショナリズムとの関係で批判あったと記憶する。私は賛成派だったが、この論争は有意義だった。

  それからポスターの文言はいつも問題になる。「確かな野党」 にも賛否があった。今回だって抽象的だとの声もある。議論はやったらよいが、石崎のはどっちでもよいことを他人に説教する口調でやるから醜いのである

 党のポスターではないが、私も「アベ政治を許さない」を最悪のポスターとして批判した。澤地久枝というクソババアに相応しい文言である。よくもこんなポスターを使うもんだ。岡山地区委員会も使っていた。何が悪いかって、これカルトだろ。安倍は内閣総理大臣として政治をすることを許されている。これは日本国憲法の規定によって許されている。これを許さないというのはファッショだろ? よくもこんな低能カルトのスローガンを考えたな。これだったら当然ながら志位政治を許さないだって出てくる。自民党の支持率は共産党の支持率の数倍はある。恥ずかしい限りである。やるんだったら、こういう有意義な議論をやるべきである。嗚呼、疲れた。だから石崎なんか相手にしたくないんだ。得るものは何もない。

 
  1. 2016/06/11(土) 03:13:43|
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