古本屋通信

私の「まがね文学会」と妹尾さん

古本屋通信     No 1959   6月04日


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    更新日時 : 2016/06/04  06:44


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   私の 「まがね文学会」 と妹尾さん


  あれっ、『まがね』 がこんなところにある、どうしたんなら?

  つれあい詩人会議の妹尾さんに貰うたんじゃ

  玄関口に投げ出された小冊子は懐かしい川上寿子挿画の 『まがね』 だった。この日つれあいは天神山プラザで開催中の「平和美術展」の当番だった。つれあいは絵を出しているが、妹尾さんは詩画展の詩を出していた。私もつれあいも妹尾さんと幾らか付き合いがある。かの女は付き合いのよい人なのだ。

  このところ政治関係ばかり追っている。いささか疲れる。この機会に民主主義文学同盟岡山支部誌 『まがね』 のことを思いつくままに書いてみたい。面倒なので以下では敬称を省略させていただく。

  確かな記憶ではないが、私が非会員のまま、『まがね』誌の月例会に参加させて貰っていたのは1990年前後の数年間だったと思う。民主主義文学同盟の正会員には一定の創作実績がなければなれなかった。支部の当時の正会員は浜野博三宅陽介妹尾加世子(のちに筆名・倫良を使った)の3人だった。例会に出てくるのはこの3人のほか、瀬戸町の実盛和子、丸亀市の有坂初江、それから東京の新日本出版社を退社したばかりの三戸潤子がいた。忘れてはならないのが作品を書かないで批評ばかりする「書かずの横」こと横畑義久だった。それから今号にも随想を書いている宇垣信子もいた。「踏鞴」(たたら)という新日本歌人協会の雑誌をやっていた森末一成(末森?)もいた。かれは浜野の運搬を引き受けていたが、やがて亡くなった。毎号のように力作を寄せる長瀬佳代子は熱心な会員だったが、例会には殆ど出てこなかった。やがて亡くなったが、車椅子の千石ゆきえにも何回か会った。このうち実盛、有坂、長瀬はやがて『民主文学』に作品が掲載されて正会員となる。

  私が例会に出ていた頃の『まがね』 誌は第十数号だったが、私はそれ以前の同誌も折々に読んでいた。それには色々な人物が書いており、すでに退会していた金藤清雄鬼藤千春の本名。これは鬼藤が福木京子を訪問する際に公開コメント欄で書いている。私がバラしたのではない。念のため)も書いていたし、山陽町の福木実(福木京子の夫君)も書いていた。詩人の坪井宗康も書いていたし、その細君の坪井あき子も創作を発表していた。私とちょうど入れ替わりだったが、石崎徹も書いていた。

  例会では今でもそうだが、決められた作品を合評し合った。作品は 『民主文学』 と 『まがね』 に掲載された作品が多かったが、時には文壇作家の単行本のこともあった。阿部昭の作品が記憶に残っている。意外だったが、みんな絶賛した。合評会ではみんな口々に喋ったが、私は短文を準備してそれを読み上げた。ちょうどいま石崎がブログに書いている形式である。そう思って石崎の批評を読むと、ちょっと可笑しかった。

 重度身体障害者の浜野を押し立ててやって行こうとする会であったと思う。それはよいのだが、やがて浜野は退会してしまう。ちょうど文学同盟中央で 『葦牙』 問題が発生し、その中心の一人だった霜多正次が浜野作品を賞賛していた作家であったから、その関係もあったのだろう。然し私が浜野に会って話を聞いた範囲では、はっきりした答えはなかった。浜野は一度だけ 『葦牙』に作品を投稿しているが会員ではなかった。私には浜野が優柔不断のひとに見えた。その浜野も旭川荘竜ノ口寮を年齢オーバーで退所したらしく、今は消息が分からない。

 当時すでに会の運営の中心は浜野ではなく三宅だった。三宅がいなかったら会は霧散していただろう。良くも悪くも三宅はふところが深かった。会の中心は共産党員だったろうが、そういう話が会で出たことは一度もなかった。また、来る者は拒まず、去るものは追わずだったから、文学修業その他、多用な目的で会に関わった人は多かっただろう。三宅の包容力がモノを言った。その三宅の作品だが、右遠俊郎は新聞記者の小説だと言ったらしい。三宅は開き直っているが、私も三宅らしくてよいと思う。

 あれこれ飛ぶが、私が一番良いと思ったのは浜野や三宅の作品ではなく、妹尾の幾つかの作品なのだ。私は妹尾作品のファンであり、妹尾作品に魅かれて例会に参加するようになった。ここでまた話が捩れるが、あるとき妹尾がいきなり、唐突に、安岡正篤を絶賛する発言をした。一同があっけに取られた。たちまち妹尾は袋叩きに逢った。あとで妹尾はくやしそうに独り言を言った。「なんぼ言うても石部金吉には分からんワ」。一同には妹尾の呟きが聞こえていた。座は白け切った。

 今年の5月3日の憲法集会で、妹尾は自作の詩を堂々と朗読した。みんなが 「加世ちゃんは大したもんだ」 と褒めている。私はこれが文学者で詩人だと思う。今日はこれ位にしておこうか。

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  肝腎の『まがね』第58号だが、創作ではまだ長瀬佳代子「寒い日」しか読んでいない。うまいと思う。私は長瀬作品のうまさの質を高く評価する。長瀬はずっとうまかった。しかし長瀬のうまさは必ずしも高く評価されなかった。例えば浜野博は「上手だけれど、上手以上のものがない」と批評していた。私は浜野が長瀬に望んでいたものはないものねだりだと思う。長瀬はこれでよい。阿部昭に小林多喜二を望むほうが間違っている。あと、妹尾の創作を読むつもりだ。話題になった笹本の作品も読んだことがなかった。読んでみようと思う。

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  以下に安岡正篤のウィキを貼っておくが、上記のエントリーを立てた意図は妹尾倫良を貶める目的はなく、文学に携わる者はなぜ斯くも一貫性が欠如しているかと云う事が言いたかったのである。それは日々まっとうな 『民主文学』 の作品批評を続ける石崎徹が、何ゆえデタラメな世界認識(日本はアジアの平和のために貢献しなれけばならない等々)なのかという問題とも重なる。これは石崎に問うても仕方があるまい。さいきん石崎のブログを訪問して彼の作品批評を褒めている 『民主文学』 の批評家・北村隆志に訊きたい「安岡正篤を絶賛する民主主義文学の批評はありうるのか」 と(古本屋通信)。
 

  ウィキペディア

安岡正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。

経歴[編集]
現在の大阪市中央区旧順慶町において、父・堀田喜一、母・悦子の四男として誕生。1904年(明治37年)大阪市道仁小学校入学。四書の「大学」から素読を始める。 1910年(明治43年)大阪府四条畷中学校入学。卒業までの五年間、歩きながら書を読んで電柱にぶつかったり、牛に突き当たったりしたという伝説が生まれる。中学校では剣道部に所属。一方で、近所の春日神社神官浅見晏斎に見出され、漢詩に親しみ、さらに柳生藩大参事であった陽明学者岡村達より感化を受ける。 第一高等学校に首席で入学し[1]、東京帝国大学で上杉慎吉に師事[2]。1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。

大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。

金鶏学院は軍部や官界・財界に支持者を広げて行き、1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、酒井や後藤文夫、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、新官僚の本山となった。同団体から、斎藤や岡田両内閣に、後藤や吉田茂(後の首相とは別人で同姓同名の厚相・軍需相)、廣田弘毅ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。

その間も金鶏学院などを通じた教化活動は続けられ、「二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人」とも言われる。北一輝や大川周明の猶存社のメンバーでもあった。年上である八代六郎(元海軍大将)、山本五十六、更には中華民国総統の蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わった。

敗戦後に、かつて安岡が創設した各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も大東亜省奉職を理由に公職追放される。1949年に「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行による次代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動を行った。

一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学、帝王学を説き、彼らの「精神的指導者」「陰の御意見番」「首相指南役」の位置にあった他、1958年には岸信介、安倍源基、木村篤太郎らとともに「新日本協議会」を結成、安保改定運動や改憲運動などに関わった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、「体制派右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。また、「平成」の元号の発案者と言われている(1990年に竹下登が記者会見で示唆)。「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。

安岡には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ・近鉄グループ・住友グループ・東京電力など多くの財界人をも指南していたとされる。

終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けていた。

数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから「昭和最大の黒幕」と評される。

主な事績・逸話等[編集]
戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。井上日召は、「血盟団事件の検挙の発端は、金鶏学院への波及を恐れた安岡が当局に密告したため」と、戦後に証言している。また安岡が、五・一五事件や二・二六事件の首謀者の一員とされる大川周明や北一輝と東京帝国大学時代に親交があったことからこれらの事件への関与を指摘する向きもあるが、安岡自身はこのことについて何も語っておらず、現在ではこれらへの関与を否定する見方が一般的である。一方で特に海軍関係者との親交や大東亜省顧問としての活動が挙げられるが、具体的に何に何処まで関与したかはほとんど明らかにされていない。

戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、「実践的人物学」、「活きた人間学」を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の位置にあった。安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など多くの首相が挙げられる。また代議士になった弟子に林大幹がおり、回想記を出している。
昭和20年8月15日の終戦の詔書(玉音放送)の草案に対して、加筆し原稿を完成させたとされる。
戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蒋介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった。
岸信介以降の歴代首相(田中角栄・三木武夫を除く)に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる。 但し安岡の次女の著書によると、三木自身、秘書経由でなく自身で電話をして演説の文章について相談していたという。[3]

池田勇人の派閥研究会「宏池会」の命名者である。
長年の親友であった政界長老の肥田琢司の追悼集の表題『浩然録』は安岡の案によるものであり、肥田との思い出も綴られている[4]。
佐藤栄作の首相就任前の訪米時に応対辞令の極意を授け、このときのケネディ大統領との会談がケネディに沖縄返還交渉開始を決断させたと言われる。
GHQによる「3S政策」の存在の可能性を著書『運命を創る―人生訓―』(プレジデント社・1985年)中で唱えている。
晩年陽明学に傾倒した三島由紀夫は、自決の2年前の1968年(昭和43年)5月26日付けで安岡に手紙を書いている[5]。この手紙では、当時入手困難だった安岡の著作を、伊沢甲子麿を通じ安岡本人から贈ってもらったことへの謝辞を「(安岡)先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せ」と言い表すと共に、朱子学に傾倒する江藤淳や徂徠学に傾倒する丸山眞男への批判が述べられている[5][注釈 1]。三島の自決後、安岡は新聞が論評した三島流の「知行合一」を「動機の純粋を尊んで、結果の如何を問わないなんていう、そんなものは学問でもなく真理でもない」と批判している一方、三島個人については「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」と述べたという。
「いつか昭和が終わったら次は平成というのはどうだろう?平和が成り立つのいう意味だ」と、生前、安岡自身が平成の元号を考案したということが、広く知られている。しかし、これは事実に反しており、元号制定時に内閣内政審議室長だった的場順三によれば「平成を考案したのは山本達郎先生です。日本学士院で初めてお会いした時、『これはいい文章だと思うんだけどな。これとこれを合わせるとこうなる』と、その場で『平成』を示されました。(中略)『平成』は安岡正篤先生の案だとまことしやかにいう人もいますが、事実ではありません。亡くなっている人の案を採用することは無いのですから」と証言している。[6]
戦後の歴代総理に「日本の黒幕はだれか?」と聞けばほとんどの首相が安岡正篤の名前を挙げたという[要出典]。
安岡本人は「自分はただの教育者にすぎない」と考えていたため、「黒幕」と言われるのを嫌がった。しかし、自分自身が直接権力を持たない反面、権力者に対して絶大な発言力を持っていた。名のある大物ほど安岡の教えに心酔し、意見や講演を求め、本人の意思に反して各界に影響力を拡大していったためである。

年譜[編集]
1898年2月13日 - 大阪市順慶町(現在の中央区長堀)に素封家の堀田喜一・悦子の四男として生まれる。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主、堀田真快がいる
1910年 - 東大阪市立孔合冊小学校を卒業。
1915年 - 大阪府立四條畷中学(現大阪府立四條畷高等学校)卒業。卒業後、高知県貫属士族で東京在住の安岡盛治の養子となる。安岡は、戊辰戦争の際、近藤勇を捕縛し斬首した功名で知られる土佐藩士安岡良亮の孫にあたる。
1919年 - 第一高等学校卒業。
1922年 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業、文部省に入省するも辞し、「東洋思想研究所」を設立。
1924年 - 拓殖大学東洋思想講座講師となる。
1927年 - 「金鶏学院」を創立。
1931年 - 「日本農士学校」を創立。
1932年 - 「国維会」を結成(~34年)。
1944年 - 大東亜省の顧問となる
1945年 - 起草された「終戦の詔勅」を刪修する。
1946年 - 連合国軍最高司令官総司令部により「金鶏学院」や「日本農士学校」に解散命令。本人も公職追放。
1949年 - 「師友会」を設立。
1954年 - 追放解除。以後師友会を「全国師友協会」と改め、ここでの活動を中心に陽明学を基礎とした東洋思想の普及に努める
1958年 - 「新日本協議会」を結成。
1975年 - 先妻が死去。二男二女があった。
1983年 - 当時赤坂のレストランパブ「マンハッタン」の経営者だった細木数子と再婚騒動があったが、安岡の死後に婚姻の無効が調停される。
1983年12月13日逝去。享年85。
葬儀葬儀は1984年1月25日に青山葬儀所で、葬儀委員長に岸信介、同副委員長に稲山嘉寛・大槻文平・田中秀雄、委員に新井正明・江戸英雄・平岩外四によって執行。政界からは当時の首相・中曽根康弘を始め、田中・福田・鈴木の各歴代首相が並び中華民国の馬樹礼、韓国の朴泰俊等高官の参列。会葬者は2千有余であった。再婚1983年、当時銀座のバーのマダムであった細木数子と再婚の約束を交わしたが[注釈 2]、当時85歳で、認知症の症状があったと言われ、40歳近く歳の離れた女性との再婚であり、実際の結婚生活がほとんどなかったことから安岡家の親族が猛反対したが、細木が安岡と交わしたとされる「結婚誓約書」なるものを元に、婚姻届を提出し、受理されたことで、安岡家は東京地裁に「細木との婚姻の無効」を求める調停を申し立てた。その翌月安岡は他界。調停は婚姻はなかったこととして、細木が初七日で戸籍を抜く事(結婚生活は事実上無し)で決着した。
脚注[編集]
  1. 2016/06/04(土) 03:42:40|
  2. 未分類