古本屋通信

中原猛と岡大学生運動

古本屋通信     No 1938  5月24日

   中原猛と岡大学生運動

  きのう垣内京美さんの関係で故・中原猛さんの追悼集 『行く手を照らして』 に触れた。これを見れば中原さんが永眠したのは 2006年7月17日であると分かる。現役の党岡山県委員長としての死であった。葬儀は20日倉敷市児島アーバンホールで行われている。追悼集は死の3ヵ月後の10月25日に党岡山県委員会「偲ぶ会」の手で発行された。

  私は県委員長の中原さん(以下、中原)と面識がなかった。県委員長の名が中原であること、中原は党中央から島根の党に派遣され、のちに岡山県委員会書記長を経て県委員長となったとの認識だった。私は党員ではなかったから、私の中では中原はone of them の one に過ぎなかった。them とは歴代岡山県委員長である。いま記憶にある県委員長を順不同に挙げる。山手叡、峠田豊次、豊田秀雄、板野勝次、佐武弘、江草昭治、氏平長親、中原猛、石井ひとみである。実際はこの2倍はいただろう。挙げた名前の中にも記憶違いがあるかも知れない。

  私は中原の死を、死の当日か翌日に知らされている。自宅にいたら連れ合いが顔色を変えて飛んできた。「あんた、県委員長の中原さんが死んだ。心臓麻痺だそうな。ショックじゃ」。「そうか、岡山の共産党もたいへんじゃな」。

  私にとって中原は他人だった。何日か経って県委員会副委員長だった武田英夫が中原の葬儀の席で自分が詠んだ弔辞をネット上に公開した。それは後の追悼集に掲載されている武田文と同一文だった。

・・・・私の場合は・・・・岡山大学の同期の友人としての話から始めなくてはなりません。・・・・・・・・・・・

 なに? なんと? 県委員長の中原はあの中原だったのか。私も知っている岡大の中原だったのだ。ショックだった。しかし私は県委員長の中原の猛者ツラの写真は何回も見ている。学生時代の小柄でスマートな美少年と余りにも違うではないか。

  確かな記憶はないが、追悼集の話も武田の「いのしし日記」で知った。そして、それが刊行された直後に党岡山県委員会に買いに出掛けて行った。とうじ県書記長から地区委員長に替わったばかりの植本完治に声を掛けた。植本が2階の県委員会に案内してくれた。そこで松田準一が気持ちよく譲ってくれた。「非売品だから金は要らない」 と云うので甘えさせてもらった。植本、松田とも既知の党員だった。

  こんかい初めて気が付いた。中原が死んでこの7月でちょうど10年になる。もうそんなになるのか。しかし死は死である。私の感慨は中原の後を受け継いで県委員長になった石井ひとみがもう既に10年も県委員長を続けていることにある。これは歴代の県委員長でも、もっとも長期執行部ではないか。せんじつ石井と立ち話をしたとき 「若い人で適任者がいたら何時でも交代したい」 と言っていた。それでいてやる気満々なのだ。


  脱線気味になるが辛抱してほしい。私と中原のたった一度の対面を、私の過去記事を貼って再現しておく。この記事は3年前の古本屋通信の抜粋だが、私が中原と一度だけ会って話したのは1968年の春、今から48年前だった。岡大キャンパスでの出会いだったが、その時の確かな記憶は最早ない。

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   通信  No 240  6月2日   党籍消滅前後(その2)

 2つの大学のうち、前半の香川大学の党組織が素晴らしく、後半の岡山大学が駄目な組織で、党員レベルにも格差があったかに映ったと思う。しかし、実際はそんなことはなかった。先ず規模だが、全学生に占める活動家総数比率(各派合計)は変りなかったと思う。大体2~3割だったろう。これは今では考えられない数字だ。全大学(北から南まで、一部の女子大や新設大学を除いて)変わらなかっただろう。一方は民青の天下、もう一方は3つの党派の鼎立だったに過ぎぬ。京都でいえば、京大、立命館、同志社を引き合いに出せば分り易いだろう。然し同志社にちゃんとした党があったなんて、石崎氏の文章を読むまで知らなかった。

 つぎに、学士入学先の岡山大学の党組織で、私が拗ねていたかというと、そんなことはなかった。私の活動量は多くなかったし、仲間も少なかったが、私はいい同志に恵まれ、生きいきした党生活を送ることができた。少しだけ書く。私は法文学部・哲学科・哲学専攻への学士入学だった。学士として学部3年に編入した。これは学生仲間としてはやりにくいし、私としても年長者扱いにされそうで鬱陶しかった。組織の内外の両方でだ。しかし細胞には私より年長者がいた。Dといった。7回生の4年生。しかも哲学科・哲学専攻で細胞長だった。かれの存在で、私はどんなに助かったことだろう。私は彼をさん付けでよぶ。彼は私を「おい、おめえ」と呼び捨てにする。これがどんなに嬉しいことかは、学士入学したものでなければ分るまい。

 党の組織員は私を入れて僅か6人。民青はその倍。法経はずっと多かったと思うが、数は知らない。文科6人のうち3人が哲学科・哲学専攻。あと国文・国語が一人、東洋史が二人。私は文科自治会の代議員に立候補することになり、選挙活動もせず当選した。哲学科は拠点だった。しかしその後、全共闘の台頭で引っ繰り返される。

 D は第一線から引いていたが、ちょっと前まで総細胞委員だったらしい。総細胞機関紙 『地の塩』を自分で書いて、自分で配っていた。D が言った「おい、正式の転籍が完了する前に組織に挨拶を済ませとけえ。無断で学内をウロウロしてたら、スパイと思われるけえ」 「誰のところへ行けばええんで」 「そうじゃな、党は中原のところへ行け。同盟は武田じゃ。いいか、くれぐれも大きい顔をするな。そうのうても、おめえが四国からくる言うんで、気にしとる」 「うん、わかった」。それで、ふたりのボスに会いに行った。それぞれ5分ほどの立ち話だった。二人とも私より二歳若かったが、ボスだけのことはあった。「聞いてる。こっちこそよろしく」。それで面通しは終わった。

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  今回の表題は「中原猛と岡大学生運動」である。私は今回これを書きたかった。これだけを書きたかったのだ。しかし、やたらと長いプロローグになった。みっともないとも思うが、自分の立ち位置を最低限示しておたきかったのだ。

 ここからが本論になる。追悼集 『行く手を照らして』は大衆的な書籍ではない。殆どが日本共産党員の手になる中原に関する党的おもいで集である。県党の資料集としては第一級の逸品である。書かれている内容のほとんどは中原が岡大を中退して党の専従になって以後の中原との交遊関係である。貴重な資料だが私は個人的には余り興味がない。非党員の私には中原を含む党員の党生活は別世界だからだ。

 私の最大の関心は私が2年間の岡大生活で垣間見た中原の岡大細胞キャップとしての立ち位置と指導の実際だ。これに就いて、何人かの岡大出身者が少しだけ触れている。いちいち引用しないが、中原が一頭群を抜いたリーダーであることを揃って書いている。私はこれに深く同意する。しかし、そこから先が全く書かれていない。そういう性格の追悼集ではないこともあろうが、殆どわからないのだ。


  以下は当時の岡大の運動に対する批判でも、細胞キャップの中原に対する批判でもない。大いなる疑問である。


第1章 香川大学の党組織(1967年) と 岡山大学の党組織(1968年)

 党組織と同時に民青も問題にする。当時の香川大学は3学部合同の総細胞委員会があり、党員総数は約100人だった。学部による偏りはなかった。民青は3学部合同の総班委員会があり、同盟員は各学部 100人で計 300人だった。私は3学年時から4学年時に総細胞委員と民青総班委員長を兼務していたから、これらの数字を知っていたが、一般的には組織の中にいてもわからなかった。これはどこの左翼組織でも同じだろう。

  こう書くと、私が党と民青の中心にいたと思われるだろうが、実際はそうではなかった。たぶん当時のどこの大学でも似たようなものだと思うが、党の中心は学部細胞であり、民青の中心は学部班であった。総細胞とか総班委員会はいわば連絡機関で、飾り物であった。これがないと地区委員会が困るから作ったのであろう。ただし年に一度の総会はあった。ここで決めるのは人事だけである。まあ県党会議、地区党会議の学生版である。

  それから香川大学の組織は党、民青とも公然化していなかった。だから、あれほどの組織があっても、無関心層は組織の存在を知らなかった。

  岡大の組織の全容を私は知らない。私は法文学部の文科の組織に属していた。そこから一歩でも出て組織活動をしたことはない。文科は細胞が5人、同盟の班が10人だった。岡大全体では党が50人、同盟が150人くらいだったと推測できる。これは党内情報ではなく、民学同筋の見方である。

  で、ここで問題なのだが、中原の岡大細胞キャップは岡大の組織の中にあって、また岡大の学生運動を指導するうえで如何なる位置にあったのであろうか。指導部として指導し、優れた指導者であったことは一同が一致している。だがその実際が不明なのだ。

  1967年の香川大学は平時であった。 1968~69年の岡大は戦時であった。平時と戦時の組織の在り方は違うだろう。それにしても岡大の細胞委員会の役割が分からない。しかし分からないでは済むまい。かなりの確信をもって推測する。

  細胞委員会とは日本共産党岡大闘争臨時指導部であった。その指導にあたったのは当時の共産党岡山地区委員会委員長萩原嗣郎であった。毎夜、毎夜、萩原の自宅で、中原を中心に、武田英夫(民青岡大地区委員会キャップ)を含めて数名が作戦会議を持った。情勢は日々変わったから、連日の会議であった。その決定は各学部の細胞や民青班に伝えられるのではなく、ちょくせつ闘争現場の党員と同盟員に伝えられた。私はこれはよいも悪いもない、これしかない方法だったと思う。連日の作戦会議については萩原の細君の清子さんが証言している。「あの頃まいにち中原君や武田君が我が家に泊まりに来た。私ゃ、飯を食わしてあげるのに苦労した。けっこう好き嫌いがあったみたいじゃ」。


  ちょっと休憩。
  1. 2016/05/24(火) 02:21:20|
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