古本屋通信

結党大会に「国旗」を掲揚の民進党

古本屋通信    No 1837   3月30日

   
結党大会に日の丸の 「国旗」 を掲揚した民進党


  とりあえず事実だけを記す。たったいま江田五月のHPから民進党の結党大会のユーチューブを見た。江田がいちはやくHPに新党のHPをリンクしたことに先ず敬意を表明しておく。たったこれだけのことを柚木も、高井も、津村もしないのだ。

 私が見たのは30秒、岡田の演説の冒頭部分だけだ。その内容に興味はない。なんと、なんと演壇のすぐ横に日章旗が、日の丸の旗がひらめいている。なんだ、なんだ、これはいったいなんなのだ。

  私は二日前の産経新聞のニュースで、この新党が日の丸の旗こそ掲げていたが、君が代を歌わなかったと言って非難していたのを読んでいた。産経のキチガイに怒っても仕方がないが、政治党派が日の丸・君が代はなかろうと思った。まあ自民党と大阪維新はやるだろうが、公明党でもやらないだろう。然し民進党は日の丸を掲揚した。

 はっきりと云う。この党に託すものは何もない。日の丸がんばれ! 自衛隊を海外に派兵して人殺しをして日章旗を揚げる、それが自公政権と民進党である。くたばれ、日の丸の民進党! この日本から出て行け、民進党!



  と書いても、このブログ、民進党関係者は誰ひとり読んでいません。読んでいるのは共産党周辺と左翼シンパばかりでしょう。いまの共産党周辺にはこういう民進党糾弾が欠かせませんね。


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 上記を書いたついでに「民進党は日の丸を掲揚した」を入力したら、最上位に以下が出た。右翼らしいが、右から民進党のアラを抉っている。おもしろい。

 民進党結党大会 2016年3月27日
・日の丸、国旗掲揚なし(舞台横の見えない所に隠していた)
・君が代、国歌斉唱なし
・議長が「民主党」と言い間違う
・松野頼久が「民主党」と言い間違う
・岡田克也が「新進党」と言い間違う
(えっ、どこが違うの? あっ、そうか、民進党か。しかし党首の岡田がこれじゃあ沈没は間違いなしだな。「新進党」って、かつて存在した政党だナ。だからもう救いがないナ。古本屋通信

 ひとことだけ、お断り。岡田って、もともと自民党の竹下派なんよ。憶えておいてね(古本屋通信)。



  参考  ウィキペディア


  新進党

成立年月日  1994年(平成6年)12月10日
前身政党 新生党 民社党 日本新党 自由改革連合
解散年月日  1997年(平成9年)12月27日(手続上は1997年(平成9年)12月31日)
解散理由 大連立構想による求心力の低下、公明勢力が独自に選挙へ臨む事を表明したため
後継政党 自由党 新党友愛 新党平和 国民の声 黎明クラブ 改革クラブ
政治的思想・立場  中道右派、新自由主義、新保守主義
機関紙 『新進』(タブロイド判)
新進党(しんしんとう)は、1994年末から1997年末にかけて活動した日本の政党。55年体制成立以後、自由民主党以外で初めて日本社会党を上回る数の国会議員を擁する政党であった。

党史[編集]
結成までの経緯[編集]
1994年(平成6年)6月の自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣の発足で下野した非自民・非共産勢力は、次期総選挙で施行される小選挙区比例代表並立制への対応に迫られていた。小選挙区で自民党に対抗するためには野党各党が合流して各選挙区で候補者を1名に絞らなければならず、新・新党を結成する流れが一気に傾き、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党・自由改革連合などが結集し、同年12月10日、結党された。理念は「自由、公正、友愛、共生」。

党結成に関して、新生党の代表幹事であった小沢一郎(当時:新党準備委員会委員長)は「保守党」と名付けることを希望したが、周囲の反発により断念した。初代党首選挙は、自由改革連合代表の海部俊樹元首相、新生党党首の羽田孜元首相、民社党委員長の米沢隆の3名で争われ、海部が勝利した。

結成時の所属国会議員数は214人(衆議院176人、参議院38人)である。結党時の国会議員数が200人を超える政党が結成されたのは、1955年(昭和30年)結成の自民党以来39年ぶりであった。

公式の英語党名は、当初「New Progressive Party(新進歩党)」とする案も出されたが、異論があり「New Frontier Party (新開拓地党)」となった。公式の略称は新進、NFPとされた。日本の英字紙であるジャパン・タイムズは公式英称をあまり用いず、ローマ字名称の「Shinshinto」を多く用いた。

1995年(平成7年)7月の第17回参議院選挙において改選議席の19議席から40議席へと議席を倍増させ、比例区の得票では自民党の獲得票を上回る躍進を見せた。

相次ぐ党内対立[編集]
1995年(平成7年)12月の海部党首の任期満了に伴い行われた党首選において、羽田孜と小沢一郎が激突し、小沢が党首に就任した。海部と争った前回の1994年(平成6年)12月党首選に続き敗退した羽田の支持グループはこれ以降、党運営を巡り小沢との対立を深めていくことになる。

1996年(平成8年)10月の第41回衆議院総選挙では政権交代を目指し、野党第一党としては38年ぶりに衆議院議員定数の過半数の候補者を擁立した。消費税率を20世紀中は据え置くことや、減税およびそれに伴う経済の活性化による財政再建を公約の目玉にするも、解散前議席に届かなかった。

主な敗因として、
自民党・新進党・民主党の候補者による三つ巴の戦いで反自民の票が割れた結果、自民党が勝利した小選挙区が多かったこと(重複立候補を原則行わなかったため、多くの小選挙区でわずか1万票前後の差で野党候補の落選者が出た。)
自民党、特に亀井静香と白川勝彦による新進党の有力支援組織である創価学会に対する反創価学会キャンペーンの存在。
公明や支持母体の創価学会が一部選挙区(東京5区や神奈川11区など)で新進党候補者(反創価系の新進党候補者)へ投票せず独自投票を行い、事実上の分裂選挙になったこと。
増税を推進する自民党や民主党に所属していながら候補者自身は増税反対と主張するなど、政党の公約と個人の公約にねじれがあり、有権者を混乱させたこと(消費税をなくす会の調べによると、自民党から当選した239人のうち108人、民主党から当選した52人のうち32人が、消費税引き上げ問題に関して反対もしくは見直しと公約したという)
などが挙げられる。

解党、分裂へ[編集]
総選挙後、羽田・細川護煕らの離党や自民党による引き抜き工作により求心力を失いつつあった小沢執行部は、自民党との大連立構想、いわゆる保保連合構想を模索し、自民党内で自社さ派の加藤紘一・野中広務に対抗する保保派の梶山静六・亀井静香との関係強化を図った。しかしこれに対し、自民党に取り込まれると党内から反対論が吹き出し、小沢の求心力をさらに失わせる結果となった。

1997年(平成9年)11月、旧公明党のうち新進党に合流していない参議院議員・地方議員を中心とする政党・公明が新進党への合流を取りやめ、1998年(平成10年)の第18回参議院選挙に独自で臨むことを決定した。

同年12月、小沢党首の任期満了に伴い党首選が行われ、小沢党首と鹿野道彦元農水相の一騎打ちとなり、小沢が再選した。小沢は純化路線に進むことを決断し、同月27日に両院議員総会を開いて新進党の分党と新党の結成を宣言した。これによって新進党は消滅し、自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブ・国民の声の6党に分裂した。

略年表[編集]
1994年(平成6年) 11月24日 - 新党準備会で「新進党」と名称決定。
12月10日 - 結党大会。初代党首は海部俊樹。大会の司会は岡田眞澄が務めた。

1995年(平成7年) 4月9日 - 第13回統一地方選挙で重点的に支援した候補(北海道道知事選挙出馬の堀達也、岩手県知事選出馬増田寛也、三重県知事選出馬北川正恭ら)が当選。秋田県知事選出馬佐藤敬夫は敗北。東京都知事選挙は新進党・公明・民社協会の足並みが揃わず自主投票。
中西啓介が電通社員の長男の大麻取締法違反で通常逮捕されたことで代議士辞職(翌年復帰)。
7月23日 - 参議院議員通常選挙で40議席を獲得。比例区得票で自民党を上回る。
12月28日 - 第2代党首に小沢一郎が就任。

1996年(平成8年) 9月 - 鳩山邦夫・船田元・石破茂らが離党。
10月 - 第41回衆議院議員総選挙では政権交代を目指し、衆議院定数の過半数を超える候補者を擁立するも、解散前議席を4下回る156議席獲得に止まる。
12月26日 - 羽田孜・奥田敬和・畑英次郎らが離党、太陽党結成。

1997年(平成9年) 1月29日 - オレンジ共済組合事件で友部達夫が逮捕される。2001年に最高裁で判決が確定するまで、議員の地位に留まった。
2月15日 - 公明の藤井富雄代表が新進党合流の先送りを表明。
6月18日 - 細川護熙が離党、年末にフロムファイブ結成。
7月6日 - 東京都議会議員選挙で11人の公認候補全員が落選
7月14日 - 鴨下一郎・上田清司・愛知和男・北橋健治・伊藤達也が離党。
10月26日 - 宮城県知事選で自民党・公明とともに推薦した市川一朗が現職の浅野史郎に敗北し落選。
11月28日 - 公明が翌年の参院選比例代表を独自に戦う方針を決定。
12月18日 - 小沢が党首再選。
12月27日 - 党両院議員総会で解散を決定。
12月31日 - 政党助成法に基づく分党手続、新進党解散。

解党後の地方組織[編集]
新進党の分党後、地方組織の多くは中央と同一歩調で各党派に分裂したが、一部で新進の枠組みを維持した地方組織もあった。
青森県民協会(青森県)旧新進党の青森県支部連合会をそのまま引き継ぐ形で地方議員を中心に結成された。木村太郎・山崎力の現職議員を擁すると共に、県知事だった木村守男の支持母体として影響力を維持し、第18回参院選で田名部匡省を当選させる原動力となった。しかし、山崎・木村は自民党に移籍し、津軽地方の地方議員の多くが脱退した。その後、2000年(平成12年)の第42回衆議院総選挙では三村申吾を当選させるも、三村も後に脱退した。末期には田名部系の地方議員が中心となった組織となり、2004年(平成16年)3月に田名部が民主党に入党すると合流した。岩手政和会(岩手県)岩手県知事選挙において新進党推薦で当選した増田寛也系列の保守系会派。岩手県議会では社民党と統一会派を組んでいた。当初は小沢一郎直系だった県議だが、小沢が自由党に移った後も自由党に移らずに小沢と対立するようになった。その後自民党を離党した一部県議と地域政党いわてを結成する。新進石川(石川県)奥田敬和を支持する地方議員を中心に結成された。奥田の死去後も後継者の奥田建を支援しており、県政における非自民勢力の中核を担っている。2007年の参院選では民主党候補一川保夫を応援し、当選させた。2009年の衆院総選挙後、民主党幹事長の小沢一郎から民主党への合流を要請され、合流した。その後も議会会派として存続したが、2012年12月19日に解散が決定した[2]。新政みえ(三重県)三重県知事選挙で新進党推薦で当選した北川正恭、民主党副代表の岡田克也を支持する地方議員を中心に結成された。県議会では自公を抑えて第1党である。山口県政治改革協議会(山口県)細川内閣時代の与党勢力で構成。新進党解党後も県議会会派「民主・公明・連合の会」(民公連)として存続したが、やがて公明党が離脱した。新進沖縄(沖縄県)自民党に復党した仲村正治を支持する地方議員を中心に結成された。2000年(平成12年)6月に自民党に合流した。

参加党派[編集]
新生党二階俊博・岡田克也ら自民党の派閥で最大勢力だった経世会が分裂して旗揚げの改革フォーラム21(羽田派)を母体に結党し、直後の総選挙では松沢成文・上田清司・西川太一郎・古賀敬章・山本幸三・柴野たいぞうらが初当選。後に、自民党清和会(安倍派)の後継争いに敗れた政真会(加藤グループ)も院内会派「新生党・改革連合」を経て入党している。(三塚博会長時代の)清和会扇千景、政科研、小坂憲次・石破茂、新政策研究会(河本敏夫派)石井一二、宏池会(宮澤喜一派)浜田卓二郎・原口一博らも途中入党。公明新党新進党に参加する公明党国会議員により結党。公明党からの分党手続きを行った。公明党の衆院議員と参院の改選議員全員に加え、党籍を持たない比例区選出の参院議員で「公明党・国民会議」として会派をくんでいた広中和歌子ほか6名も参加。日本新党新党さきがけとの統一会派解消後、江田五月も自身が代表の社会民主連合を解散して合流し、小池百合子と共に副代表就任。衆院では、4月の「改新」参加以降、さきがけに参加するグループが「グループ青雲」、「民主の風」、9月の「改革」参加以降は海江田万里・牧野聖修らが「民主新党クラブ」を結成、離党している。野田佳彦・山田宏・中田宏・伊藤達也・長浜博行・樽床伸二ら松下政経塾出身者が多かった。小泉晨一・石井紘基・茂木敏充・遠藤利明は不参加。民社党西村真悟・小平忠正・青山丘ら、大半は参加したが、大内啓伍前委員長(当時)は公明党との合流を拒否して不参加、自民党に合流した。なお、民社党系の国会議員、地方議員は政治団体として民社協会を結成。自由改革連合9月に結成した衆院会派「改革」に参加した保守系4党派(改革の会・新党みらい・高志会・自由党)により結成。

このほか、無所属の笹木竜三や「リベラルの会」を経て「改革」に参加していた山口敏夫らがいる。

参院で統一会派「新緑風会」を結成していた民主改革連合(前代表中村鋭一除く)とスポーツ平和党、横山ノックらは参加しなかった。

総理大臣指名選で羽田・海部を支持しながら新進党不参加の無所属徳田虎雄は前出の栗本・大内・柿沢・佐藤静・石井紘・小泉と自由連合を結成し自民党と歩調を合わせた。
  1. 2016/03/30(水) 10:51:15|
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