古本屋通信

吉塚勤治関係拙文2編の再録

古本屋通信    No 1818   3月22日

   吉塚勤治に関する過去板2編の再録


  きのう奉還町の芸術家から吉塚勤治の 『頑是ない歌』 を買ったら、吉塚に就いて書きたくなった。といっても私の主要な関心はかれの詩作ではなく、かれの党籍なのだ。書きたいことはあった。そう想って過去板を検索してみたら、二年半まえに書いた文が残っていた。私はかれの党籍を独立した稿として書きたかったのだが、過去文は苅田アサノの追悼文集との関係で書いている。とうじ私の手許にあった 『苅田アサノ 人と思い出』 も今は同業に売り飛ばしてしまっている。たぶんもう入手は無理だろう。そう想って読み返してみた。私は今これ以上の稿は書けないだろう。2文を再録することにした。なお吉塚勤治とはちょくせつ関係ないが、ほぼ同じ時期に共産党を除名された元岡山市議に河合徹がいる。ここに河合の2冊の著書がある。河合の除名など、いまの岡山県委員会のメンバーは誰も知らないだろうし、記録も残っていないだろう。これに就いては何れ書きたい。
 


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古本屋通信  No 259 6月15日


『苅田アサノ 人と思い出』


 表題の本がきわめ入手しにくい事が判った。「日本の古本屋」にない。アマゾンにもヤフオクにもない。たぶん、全国の古本屋を探しても、すぐには見つからないだろう。図書館にも当たってみた。県立図書館にも、岡山市立にも、倉敷市立にもない。国会図書館にもない。県下では笠岡の図書館のみにあった。
 私は持っている。ヤフオクに出品しようかと思った。しかし、思いとどまった。左翼ブログの名がすたる。共産党岡山県委員会にはあるだろうが、自由に借りて読めるというわけにはいくまい。どこまで出来るか判らないが、少しずつネット化していこうと思う。手始めに「本の概要」と「はしがき」と「あとがき」と「もくじ」を紹介する。

本の概要
 表題  苅田アサノ 人と思い出 
 発行人 堀江邑一   
 発行日 1976年8月   
 形態  224頁 変形  
 刊行委員会 阿部ちとせ 沼田秀郷 生田八重子 松崎浜子 
         豊田さやか 杉本ハマ 池田孝江

はしがき  
 苅田(堀江)アサノさんが亡くなったのは1972年8月5日 、婦人活動家たちが、関西でひらかれる第18回日本母親大会の準備におわれているときでした。
 あれから、もう三年近くの歳月が流れました。苅田さんの書きのこしたものや友人、知人の思い出をあつめて追悼集をつくりたいという願いは、夫君の堀江邑一氏をはじめ、苅田さんと親しかった人たちのものでありました。昨年秋に私たちは刊行委員会をつくることができました。
 刊行委員会は、前衛、赤旗、議会速記録や、故人の書斎などから論文、演説、詩歌を探しながら、苅田さんの友人、知人にも追悼文をよせていただきました。 
 このささやかな本が、多くの婦人のたたかいの道標になり、日本の平和と民主主義の運動に役立つことを念じて、発行に辞といたします。
 1976年8月5日                苅田アサノ 人と思い出 刊行委員会


あとがき 
 五月四日、刊行委員会一堂は、新緑に包まれた鎌倉を訪れ、苅田アサノさんが眠る東慶寺へ墓参しました。そしてあらためて苅田アサノさんの生前の人となりを偲び、苅田さんの遺稿集を出すことを大きな喜びと深く感じました。 
 この本を編集するにあたっては、堀江さんをはじめ、苅田アサノさんの恩師山原鶴先生や旧友からの示唆もいただき、うもれていた詩や歌を中心とする遺稿を、未発表のものをふくめて数多く発掘することができました。私たちは、その一つに、日本共産党婦人部長という重責をになった苅田さんの心の奥にひそめられていた「詩人苅田アサノ」「人間苅田アサノ」を発見し、感嘆の声を何度もあげました。苅田さんのきびしさと温かさのみなもとにふれた思いでした。そこで刊行委員会は、苅田さんの秘められたこの面を中心に編集しました。最後に、お忙しいなかを苅田さんの思い出を執筆して下さった方がた、また遺稿や写真、関係資料などをおよせ下さった方がた、岡山の皆様、山原鶴先生、表紙の題字と装画をおよせ下さった小野他忠重先生、苅田アサノさんのイメージにふさわしいレイアウトをして下さった宮沢とも子様に厚く御礼申し上げます。
 1976年8月5日                苅田アサノ三回忌を迎えて


もくじ

西の海 / 指導者 / 弟よ / 道 / 正倉院 / 池 / 東大寺 / 三月堂 / 阿修羅 / 冬のばら / 山脈 / 丹後山の碑 / 結婚を祝ううた / 反歌 / ひぐれまえ / 桐の花 / 寒山拾得 / 吉井川 / 友の門出 / ビラ貼り / にっぽんばら高原 / ゆびわ / 雨あがり / ヒマラヤ雪の下 / ベトマムの子 / ミモザの花 / 秋海裳 / 大会の花

短歌

国会活動・論文


追悼
苅田さんのお墓のこと  山原鶴
織女星(ヴェーガ)  赤木健介
白ばらの君  吉塚勤治
なつかしい友・えがたい友  石井あや子
戦前の苅田さん  阿部ちとせ
そのころの苅田アサノさん  中村郁子
津山時代の苅田さん  田外幸恵 
東洋経済のころ  松島治重
やさしかった叔母の憶い出  福永宣子
東慶寺のお墓  丸岡秀子
苅勝目てる
苅田さんを悼む  帯刀貞代
苅田さんの憶い出  松島とし子
いのちの尊さ   沼田秀郷
苅田さんと浅間山   生田八重子
白ばらの君といわれしやさしき人に  小笠原貞子
柔和の瞳の詩人  野田義人
アサノと私   堀江邑一
故苅田アサノ殿 病状と経過  佐藤猛夫

弔辞
日本共産党中央委員会/日本婦人団体連合会/新日本婦人の会/日本民主青年同盟/日本共産党岡山県委員会/日本共産党岡山県委員美作委員会/日本共産党愛生支部/妹尾包子/会葬御礼 堀江邑一 


古本屋通信より
 このところ眼のつかれが激しく、どこまでやれるか自信がありません。好きなところから、少しずづやるつもりです。さしあたり詩の関係で吉塚勤治の追悼文を貼って、そのあとに故人の詩を紹介しようと思っています。



 白ばらの君    吉塚勤治
 苅田アサノと、私は戦後の岡山で昭和二十一年に逢うことになった。戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加したのは、昭和二十一年はじめであったから、そのあと間なしのことにちがいあるまい。
 苅田アサノは、戦後間もなくだったりうと思うが、津山から岡山へ出てきて、上伊福絵図町の深見民市の二階に住むことになった。当時、深見民市は山陽新聞の校閲部におり、かれの奥さんも通信部にいたのである。そのころの苅田アサノはまだ若々しくずっと独身だったから、白薔薇の清潔な感じがあって、じじつかの女はしばしば「白薔薇」とあだ名を呼ばれていたのである。しかし、この白薔薇のきみ、苅田アサノが詩を書くことを知ったのは、知り合ってから、だいぶたってからのことであった。戦争中、津山の家にいたころから、かの女はネクラーツフの詩を訳しつづけてもいたのである。その一部分は「詩作」ではなく、久保文子、矢木明が中心になった「くるまざ」に発表されている。苅田アサノが「詩作」に参加したのは、第三集(昭和ニ三・三・二〇)の「朝」からで、第四集に「吉塚勤治に」第五集に「阿修羅」、第六集に「三月堂月光菩薩」を書いている。
 「」は、女ひとりきりの生活のなかで、白髪のお母さんの顔を思いうかべながらわが部屋にしだいに朝の光がみちてくるひとときつつましい朝げのはしをとることをうたった、女らしい静かな詩である。いかにも白薔薇らしい清潔な詩であり、母への孝心をうたったものであろう。

  金箋花をいれた花がめのそばから/ 小さな化粧水の瓶をとって / ほのかな匂いのある水を掌にこぼす / それからフキンをかけた小瓶のまえにすわって/ お母さんおはようございますと / 北にむかってあいさつする / くるしみもかなしみも / またときには訪れたかもしれない歓びも / 影をとめないしづかなとしよりの瞳をした白髪の / おだやかな母の顔を思いうかべ / こころたりおちついて / ゆっくりと / ただ一人きりのつつましい朝げの箸をとる

 苅田アサノが「詩作」に発表した詩のなかでは第五集の「阿修羅」がすぐれていると思う。この白ばらのきみは仏像に強く惹かれるところがあったのであろう。そのことはかの女の抑制された内部生命のあこがれの表われであり、あるいは形にみえない、かの女の生命力の希求する造形を、仏像そのものの姿に見たのでもあったろう。
 苅田アサノは「少年の姿をした阿修羅」の「うでわのはまった蜘蛛のように細かくながい手」が「胸のあたりで折れんばかるにうち合わされ」「その手はたえかねた叫びのように」「のろのろと天はさし伸されている」ことに、ほとんど全心の共感を示し、この像を刻んだ天下の仏師のところへとさかのぼっているのである。
 いってみれば、「この半ぶん裸の下袴だけのかぼそい少年らしい体を」「おしたおそうとしている」「無法な熱い願い」「無法な切ないなやみ」は、苅田あさの自身のものであろう。苅田アサノ、この津山の豪家にうまれて女子大を卒業した才媛の美女が、ほかならぬ社会主義運動の道に進み出た道すじについて、私は一度も話しあったことはなかったが、その苅田アサノの心の底からは、「どんな無法な切ないなやみが」かの女自身を「おしたおそう」とばかりに湧きあがってきたのであったことは疑う余地のないところである。「阿修羅」という一篇の詩は・それまでの作者苅田アサノの女人像をしめしているかの女の革命的情熱の源を明らかにしているばかりか、女としてにんげんとしての隠微な心のぞめきのようなものまでのぞかせているようである。
( 筆者は岡山の詩人。吉塚氏が中心となって、昭和二十二年詩の雑誌「詩作」を発刊、苅田さんは第三集から参加した。ここにのせた文は吉塚氏の著書「ぼう(漢字)々二十年」から、その一部を転載させていただいた。刊行委員会 )



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古本屋通信  No 262 6月17日

  吉塚勤治の党籍


 通信 No 259 『苅田アサノ 人と思い出』 の、吉塚勤治の追悼文をやっと入力し終えた。今日の記事で書きたい事は後回しにして、まず全文を貼っておく。この文は当然 No 259 に入れられるが、独立の詩人論、詩論としても読まれるべき内容をもっていると思う。もったいないないのでここに再録した。
 尚、吉塚文に限らず、本書の全文字がタイプ印刷で、校正ミスも所々にみられる。これは著者のミスというより、当時の出版事情からくる制約だろう。あきらかな誤植は訂正したものもあるが、基本的には原文のままとした。


 後半の「吉塚勤治の党籍」は、吉塚の本文とも、苅田の詩とも関係なく、私がこの期に便乗して提出したテーマである。関心のない方は読み跳ばしてほしい。(古本屋通信)

 
 白ばらの君    吉塚勤治

 苅田アサノと、私は戦後の岡山で昭和二十一年に逢うことになった。戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加したのは、昭和二十一年はじめであったから、そのあと間なしのことにちがいあるまい。
 苅田アサノは、戦後間もなくだったりうと思うが、津山から岡山へ出てきて、上伊福絵図町の深見民市の二階に住むことになった。当時、深見民市は山陽新聞の校閲部におり、かれの奥さんも通信部にいたのである。そのころの苅田アサノはまだ若々しくずっと独身だったから、白薔薇の清潔な感じがあって、じじつかの女はしばしば「白薔薇」とあだ名を呼ばれていたのである。しかし、この白薔薇のきみ、苅田アサノが詩を書くことを知ったのは、知り合ってから、だいぶたってからのことであった。戦争中、津山の家にいたころから、かの女はネクラーツフの詩を訳しつづけてもいたのである。その一部分は「詩作」ではなく、久保文子、矢木明が中心になった「くるまざ」に発表されている。苅田アサノが「詩作」に参加したのは、第三集(昭和ニ三・三・二〇)の「朝」からで、第四集に「吉塚勤治に」第五集に「阿修羅」、第六集に「三月堂月光菩薩」を書いている。 「朝」は、女ひとりきりの生活のなかで、白髪のお母さんの顔を思いうかべながらわが部屋にしだいに朝の光がみちてくるひとときつつましい朝げのはしをとることをうたった、女らしい静かな詩である。いかにも白薔薇らしい清潔な詩であり、母への孝心をうたったものであろう。

  金箋花をいれた花がめのそばから/ 小さな化粧水の瓶をとって / ほのかな匂いのある水を掌にこぼす / それからフキンをかけた小瓶のまえにすわって/ お母さんおはようございますと / 北にむかってあいさつする / くるしみもかなしみも / またときには訪れたかもしれない歓びも / 影をとめないしづかなとしよりの瞳をした白髪の / おだやかな母の顔を思いうかべ / こころたりおちついて / ゆっくりと / ただ一人きりのつつましい朝げの箸をとる

 苅田アサノが「詩作」に発表した詩のなかでは第五集の「阿修羅」がすぐれていると思う。この白ばらのきみは仏像に強く惹かれるところがあったのであろう。そのことはかの女の抑制された内部生命のあこがれの表われであり、あるいは形にみえない、かの女の生命力の希求する造形を、仏像そのものの姿に見たのでもあったろう。
 苅田アサノは「少年の姿をした阿修羅」の「うでわのはまった蜘蛛のように細かくながい手」が「胸のあたりで折れんばかるにうち合わされ」「その手はたえかねた叫びのように」「のろのろと天はさし伸されている」ことに、ほとんど全心の共感を示し、この像を刻んだ天下の仏師のところへとさかのぼっているのである。
 いってみれば、「この半ぶん裸の下袴だけのかぼそい少年らしい体を」「おしたおそうとしている」「無法な熱い願い」「無法な切ないなやみ」は、苅田あさの自身のものであろう。苅田アサノ、この津山の豪家にうまれて女子大を卒業した才媛の美女が、ほかならぬ社会主義運動の道に進み出た道すじについて、私は一度も話しあったことはなかったが、その苅田アサノの心の底からは、「どんな無法な切ないなやみが」かの女自身を「おしたおそう」とばかりに湧きあがってきたのであったことは疑う余地のないところである。「阿修羅」という一篇の詩は、それまでの作者苅田アサノの女人像をしめしているかの女の革命的情熱の源を明らかにしているばかりか、女としてにんげんとしての隠微な心のぞめきのようなものまでのぞかせているようである。
 (筆者は岡山の詩人。吉塚氏が中心となって、昭和二十二年詩の雑誌「詩作」を発刊、苅田さんは第三集から参加した。ここにのせた文は吉塚氏の著書「茫々二十年」から、その一部を転載させていただいた。刊行委員会 )


 以下が、今回古本屋通信がテーマとする「吉塚勤治の党籍」についてである。全文が古本屋通信の地の文である。

 党籍問題というのは難しい。私の党籍など世間になんの影響もないが、名だたる作家・詩人の党籍はそうはいくまい。それは彼らの生み出す作品との関係でいえば、関係ないことも「多い」が、関係あることも「多い」はずだ。
 ところが、厄介なことにすべての作家・詩人が自分の党籍を公表している訳ではない。そこに色々な推測、誤解、軋轢などが生じる。ふつう確かでない事は書かない。いまの社会では、共産党員だということをもって不当に差別されることもあろうし、それでなくても周囲と不必要な摩擦を起こさないために隠す場合が多い。「あなた、共産党員?」 などとふつう訊かないし、訊いても 「ええ、そうよ」 などと応える場合は少ないだろう。しかし、お互いの会話では 「あいつ、党員だろう」 とか 「あの作家、いつ除名になったの」 などの話になる事は多い。

 前置きは措いて、吉塚勤治の党籍。
 追悼文の冒頭に「戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加した」とある。吉塚は昭和21年はじめに「再入党」した。「山陽新聞のグループに加わり」は山陽新聞社に職を得たことを意味するが、山陽新聞細胞に加わったと読んでいいだろう。もうひとつ大事な事は「戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が・・」とあることだ。ここで「うじうじしていた」とは党籍が宙に浮いて、再入党をのびのびにしていた事を意味する。つまり彼は戦前に党員だったのだ。

 これについて、私は近親者(たぶん姪)の証言を得ている。古本屋を始めて間もないころ、市内門田文化町、東山の山頂の家で老婦人から本を分けて貰った。量は多くなく、自転車の荷台に積める位だった。その大半は吉塚関係の本だった。特に高価なものはなかったから、私はその場で金を支払おうとした。老婦人は固辞した。どうしても受け取ろうとしなかった。私は諦めて本を頂戴した。後にも先にも、金を払わないで本をもらった唯一のケースだった。もうお亡くなりになっているだろう。当時九十歳だった。あれから十五年経っている。

 かの女は初対面の私によく喋ってくれた。これはかの女が私に左翼の片鱗をかぎ取ってくれたからだろう。約30分間、戦前に特高が訪ねて来て怖くて押入れに隠れていたことなどを、生きいきと話してくれた。私はかの女が知識人だと思った。最後に、もっとも知りたかった事をズバリ訊いてみた。

「ところで、吉塚さんは除名になったんかな」

「除名されたんよ」

「それは何時だったのですか」

「はっきりしたことは憶えとらんけど、安保のあとだったと思うよ」

「いろんな組織ができていた頃だけど、その関係は分りませんか」

「それが分らんのよなあ、私がボケてきて忘れたんじゃあのうて、当時も分らなんだ。しかし市会議員の河合徹さんなんかと一緒じゃったと思うよ」

このあと、かの女は自分はずっと党だったから、吉塚は組織関係は隠したのだろうと推測を加えた。しかし、私の資料には吉塚も河合徹も社革(社会主義革新運動)関係に名前がない。除名はされたが新組織には加わらなかったのだろう。

 吉塚の追悼文の最後に付された刊行委員会の注記に注目されたい。本書が刊行された1976年には、吉塚は既に死んでいる。もう一度調べてみるが、1972年に死んだはずだ。これは苅田アサノの死「1973年4月代々木病院に再三の入院になり、8月5日朝永眠」(本書所収の「苅田アサノさんの経歴」)より1年まえだ。したがってこれは正確には追悼文ではない。その辺のことも本文を読むとき、若干考慮に入れて読まれたらよかろう。

 あとは党を除名されたのちの吉塚の後半生だ。なぜ被除名者で死者の文がわざわざ本書に加えられたのか。私は推測を逞しくして書く予定だった。然し紙幅も尽きた。いやパソコンだから紙幅などないが、これから店に行かねばならない。店にもパソコンはあるが、光ファイバーでないから字句の修正くらいしかできない。続きは暫くあとに「被除名者は追悼文集に参加できるか」「党員は被除名者の葬儀に参加できるか、またその追悼文集に文を寄せる事ができるか」みたいなことを、古在由重の葬儀の事例などを引いて書くつもりだ。共産党は嫌うだろうが仕方がない。では、ひとまず打ち切ります。



参考資料 [吉備路文学館の資料] より

吉塚勤治  よしつか きんじ

明治42年(1909)~昭和47年(1972)   詩人   岡山市
第6高等学校在学中から、詩のグループ「窓」に所属し、詩作をはじめる。京都帝国大学に入学したが、社会科学研究会に所属していたため、検挙され中退。上京し、出版社勤務を転々とした後、総合雑誌「日本評論」の編集に携わっていたが、病気のため帰郷。昭和20年、合同新聞社(山陽新聞社の前身)に入社、論説委員を務める。戦後、詩誌「詩作」を創刊。地元の詩作活動に活力を与えた。
のちに日本文教出版社に入り、岡山文庫を企画した。昭和20年刊行の詩集『あかまんまの歌』をはじめ、『鉛筆詩抄』、『日本組曲』、『頑是ない歌』がある。『茫々二十年』は遺作となり、没後『よしつかきんじ詩抄』が発刊され、昭和49年には遺稿集『あしうら』が刊行された。
  1. 2016/03/22(火) 01:46:20|
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