古本屋通信

眼鏡(メガネ)について(2)

古本屋通信    No 1794   2月28日

 
  眼鏡(メガネ)について(2)



 No1786 眼鏡(メガネ)について」 の続きである。私は「パソコンには老眼鏡ではなく、中近メガネが最適だというM先生の指導に従って、中近を初めて購入した。だが私には中近は使い辛く、けっきょく引き続いて老眼鏡でパソコンに向った」 と書いた。

  中近メガネについて書きたい。

  中近メガネは一般に室内用とされている。その範囲で個人の用途に応じて上手に使えばよいのだろう。でパソコンだが、一般には老眼鏡ではなく中近メガネが適しているとされる。それは老眼鏡が常に一定の距離を保って対象を凝視する設定になっているのに対し、中近メガネには自在(フレキシブル)性があるからだろう 。つまりパソコンでは、ディスプレイ上の大小の文字を見るとき、キーボード(文字盤)を見るとき、見る対象との距離がまちまちだから、自動調整しなければならない。それには老眼鏡ではしんどく、中近メガネが最適だということだろう。

  ところが私はどこをどう調整して使ってみても、中近メガネ(同じものが2つある)ではディスプレイ上の文字が見えないのだ。まあ宝の持ち腐れである。一万八千円もした。

  この2つの中近メガネは初めて作ったのではなかった。最初の中近メガネが傷だらけになり2度目だった。ところが先日、最初の傷だらけの中近メガネを取り出してパソコンのディスプレイを見た。なんと、よく見えるのだ。傷だらけの方が新しい中近メガネよりよく見える。

  これはショックだった。作り変えたとき、度数も変更しているだろう。この度数が元に戻ったということであろうか? いちど見え難くなった目が時の経過と共に再度よく見えるようになる、そういう事はしばしば起きるといわれている。そういうケースだったのか?

  これを眼鏡屋の愛眼さんに持ち込んで相談した。懇切丁寧に新旧の中近メガネを調べてくれた。メガネ・カルテも残っていた。傷ついた古い中近メガネは2009年に作ったものだった。

  結論だけ書く。2009年に作った中近メガネは3年前に作り変えたあたらしい中近メガネとは全く構造がちがうそうだ。全てのメイカーが造り方を変えてしまったから、どうしようもないと言う。詳細な説明は省略する。メーカーが変更した最大の理由は室内テレビがもっとも見えやすいメガネ、つまり最大ニーズに応えられるメガネということだった。私は古い中近メガネと新しい中近メガネのそれぞれで、テレビ距離の物体を見た。明らかに新しい中近メガネが勝っていた。私の視力が変わったのではなかった。新しい中近メガネをパソコン用に造り変えようにもメーカーが製造していない。だから不可能なのだ。私は納得した。

  私はいちおう納得したが、これからも老眼鏡でパソコンを操作し続けなければならないことに多少の苦痛を感じている。老眼鏡は距離固定の読書用である。みなさん、それぞれ工夫してやっておられるのだろう。私の未熟な体験を書いて恥を晒したが、少しは役に立っただろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


  以下はメガネとは関係ないが、思い付いた身辺雑記である。私的なことで誇ることはないが、隠すようなこともない。少しは織り交ぜていく積りである。


  私の目の疲れの原因はもっぱらパソコンである。読書量は最盛期の百分の一に落ちている。私はたぶん18歳から40歳位まで一日10時間くらい本を読めた。そういう職業を得たのは幸せだった。これはたぶん研究者か、教員か、編集者にしか出来ない贅沢ではなかろうか。この時代の貯金があるからブログが書ける。

  しかし古本屋開店と同時に読書をしなくなった。いや、本に触っている時間は相変わらず10時間くらいはある。その向きあい方が全く変わってしまった。読書ではなく本の品定めである。本の冊数だけからすれば、これは読書時代の数百倍の冊数である。しかも幸いにして殆んど目が疲れない作業なのだ。

  パソコンに戻る。1時間やったら30分休めといわれている。私はしばしば5時間連続でやる。古本検索とブログ執筆である。後者について書く。

  私は文章を書くことは苦痛ではない。たぶん好きである。これは50年間ずっとそうだった。「まがね文学会」の三宅陽介によると100読んで1書くのが一般的らしい。小説ならそうであろう。私は10読んで1書いた。いくら多く本を読んでも、文を書くことなくしては思想形成は無理というのが私の見解である。発表目的でないのだから、上手な文など書かなくてよい。とにかく読書ノートでも、研究草稿でもよいから書く。いまのブログ記事もその延長のつもりである。だから書いて忽ち消しても惜しくはない。自分の思考訓練なのだから。

  とびとびになるが、ブログの作成は本当に目が疲れる。蛍光灯の光線を目一杯に浴び続けているのだから疲れない訳がない。だが私は蛍光灯の光線を意識する事はない。気が狂いそうになるほど疲れるのは「ブログの編集」である。これはやってみないと分からない。実に疲れる。たいていのブログはプロが予め設定した模範的なレイアウト設定に基づいて文を挿入する形をとっている。それは確かに楽だ。然したちまち不満が出てくる。ほんらい表現とは規格に入り切らないものだ。だからといって素人が好き勝手に書き散らかして碌なブログができる筈がない(このさい憎まれ口を叩いておくが、石崎ブログの訪問者の高原氏のブログなど、「読んでくれるな」というような代物だ。これは技術的な未熟ではない。他人と認識を共有しようとする志向が最初からないのだ。でないとこういうブログは公開できない。まあ思想上の欠陥であろう)。


  アトランダムに続けよう。短い細切れの記事を書けば疲れない。私はいつも逡巡する。短いほうが読む方も楽だ。拍手も明らかに多い。鬼藤さんの主眼は短歌だから一寸ちがうが、あれくらいの長さもひとつもモデルケースだろう。じじつ短いことがよいといえる場合も多い。じっさい長いと読まれないのだ。

  然し私の中に根強く残っている観念がある。事物を把握するにせよ、自己を表現するにせよ、直感的・感覚的認識には限界があるのではないか。理性的・論理的認識を得るにはどうしても一定の長さは欠かせない。

  私は長くて読まれる文を書きたかった。成功しているとは思わない。しかし固定読者がついていないでもない。ここ2年ほどアクセス数は変わらない。たぶん一日150人くらいで、うち50人は相互アクセス目的の非読者だろう。実質一日100人だ。でも1週間のうち一度の訪問者も常連様である。実質の常連様はこの5倍の500人である。私は紙の書物の流通については、いささかプロだとの自負があるが、ホントにインターネットは驚異的である。私は自費出版など考えた事もないが、モニュメントとしての出版ならともかく、何処をどうあがいても100人以上に読まれることはあり得ない。インターネット様様なのである。

  最後に分かりきった事を確認しておきたい。 世に倦む日日氏のようなネット商人は別にして、自己表現を目的とするブログがアクセス数自体を目的的に追求するのは邪道である。私がアクセスカウンターを取り付けない理由もそこにある。だが同時に、他人に読まれない公開ブログなど全く意味がない。出来るだけ広く読まれる工夫をしなければならない。そのために私は 分かり易い文を書くこと。読みやすい編集・レイアウトにすること。この2つを心掛けている。加えて、他人に対する情容赦ない罵倒。これは論争術として左翼ジャーナリズムから多くを学んだ。これを下品だとか傲慢だとか言って非難した石崎らには驚愕した。そんな暇があったら毎日20前後しか客のない自分のブログを改善すべきである。難しい事ではない。喧嘩ブログにしたら忽ち客は激増するぞ。これ初歩の初歩。常識である。
  1. 2016/02/28(日) 00:33:23|
  2. 未分類