古本屋通信

賛成できない村井さんの教育論

古本屋通信    No 1773   2月12日

   どうにも賛成しかねる村井さんの教育論



  今回は「通信No1761日本共産党(福山)村井派の教育介入を糾弾する」につづく村井教育論批判となる。個別的な文言を論って(あげつらって)批判はしない。批判というより感想を書くことにする。



福山の教育の再生を!
2016-02-10 22:30  日本共産党福山市議   村井明美
新聞記事に、地元の中学校で、教師が「私はバカです」と叫ばせていた記事が載りました…。
この教師の生徒指導のあり方は、以前から、生徒や保護者から問題視されていました。
教師個人に問題があることはまちがいありませんが、なぜこのようなことがまかり通るのかということです。
福山市の教育には、「社会で許されないことは、学校でも許されない」として、生徒を厳しく指導する教育が持ち込まれてきました。
生徒が守るべき「生徒指導規程」には、下着の色や自転車の色まで決められる。
小学生の女児の髪形も、ポニーテールやおダンゴはダメ。
など、がんじがらめのきめ細かい規則が決められ、それに違反すれば「特別の指導」と言われる「別室指導」が行われています。
理不尽な規則や指導には生徒が反発しますから、より強い力で押さえつけ、規則違反を起こした生徒には、懲罰的な対応が行われたり、大声で生徒を威嚇するなどが行われている学校もあります。
教師間の一致した指導が必要ということで、この生徒指導規程に疑問があっても、意見もさしはさめない。
「力のある」生徒指導主事が幅を利かすなどが起きています。(学校によって、違いはありますが)
この度の、生徒に「私はバカです」と叫ばせた教師も、このような学校環境の中で、生徒や保護者が率直に意見や要望は言えない、いわゆる力のある教師とされてきたとのことです。
以前、今回の事件以外にも、その指導の在り方について相談も受けていました。
校内の教師の同僚性や民主的な集団性が壊れ、「力のある」教師に、仲間の教師が意見も言えないという環境があるのだと推察します。
多くの先生たちが、このまちがった教育指導法のために、病んでしまった、心が壊れてきていると思います。
これは、一中学校の一教師の問題ではないのです。
なぜなら、本質的に通じる、似たような児童・生徒の人権侵害があることを、いくつも、耳にしているからです。
福山市の教育に持ち込まれた、行き過ぎの「生徒指導規程」に基づく厳しい指導や、校長の権限強化は、速やかに是正されなければなりません。
昨日の9の日行動。寒い中、署名に応じてくださる人が多く、元気になりましたよ。 


  古本屋通信

  そもそも「福山の教育の再生を」という表題には「福山の教育は狂っている」 或いは 「福山の教育は崩壊している」という前提がなければならぬ。村井さんのこの認識は正しいか? 間違っている。村井さんこそ狂っている。バランス感覚を喪失している。たとえ福山の教育が管理主義(的)教育であってもだ。狂っている教育、崩壊している教育など、滅多にあるものではない。容易に断定できるものではない。現場で生徒指導に携わっている教師には、これだけで総スカンを喰うだろう。

  村井さんの論の背景(と私が推測する事)を書こう。福山における管理主義教育の中心は、旧社会党系(現新社会党系)組合員あがりではないか。どこの県でもそういうケースが多いようだ。管理職になりたくて組合活動に勤しんできた人物も多い。生徒指導主事や教頭・校長になった途端に反動化するケースが多いが、もとから反動化する素地があった。かなり始末がわるいのだ。

  然し、だとしても教育は基本的に教師集団によってしか変えられない。父兄の意見を聞いて生徒本位に、などはきれいごとである。教師集団に拠って以外では、教育は絶対に改善できない。村井さんは紛れもなく教育の妨害者である。外部からの不当な干渉者である。しかも村井さんは市井人ではない。市議である。議員の所属が日本共産党であっても、自民党や民主党であっても基本は変らない。議会の演壇からの発言はある種の権力行使である。ある意味では八鹿高校の民主教育を破壊した解同丸尾派よりもっとタチが悪い。

  とりわけ私が村井さんを容認できないのは、村井さんが教師集団について、「力のある教師」を設定していることだ。それを前提に教師集団内部に楔を打ち込んでいる。こういう発言は教育現場に馴染まない。どころか到底容認できない。村井さんこそ 「教師の同僚性」 と 「民主的な集団性」 を真っ向から否定している。よいではないか。 「力のある教師」が教師集団を引っぱって行っても、よいではないか。民主的な集団主義教育においても、教師集団全体をリードする人物は必要なのだ。

 また、現場の教師は生徒に何を言わせても構わない。こういう細部に口を挟むこと自体が教育の独立と自主を否定している。いちいちガタガタ言われては、教師は生徒指導できない。村井さんは新聞の教育介入をこそ糾弾しなければならなかったのである。

  「社会で許されないことは、学校でも許されない」 のどこが間違っているのか? まったく正しい。暴力、万引、窃盗、不順異性交遊(今はこういう言葉は死語らしい。ごめん、不異性交遊でした。生理不順と混同しました)、まだまだある。どこも間違っていない。

  以下、主観に充ち充ちた村井語(フレーズ)を列挙したい。

 がんじがらめのきめ細かい規則  特別の指導と言われる別室指導  理不尽な規則  懲罰的な対応  大声で生徒を威嚇するなど  意見もさしはさめない 幅を利かすなど  教師の同僚性  民主的な集団性  言えないという環境があるのだと推察  このまちがった教育指導法  病んでしまった  心が壊れてきている  児童・生徒の人権侵害  いくつも耳にしている
 
  これらの表現は厳密な事実関係を要求される裁判証言では不採用だろう。そういうレベルの発言である。要はシャシャリ出ない事だ。村井さんに必要とされている事は教師集団に協力することである。協力する中で提言するのでなければ教育内容は改善されない。たとえ反動的な教育であってもそうである。

 こういうことをやっていると 「署名に応じてくださる人」 も署名に応じてくれなくなるだろう。そういうレベルの唯我独尊である。

  引け。引け。引くんだ、村井さん。水や空気になれ。教育においては、そういう共産党員こそが求められている。

  私はこの拙論を自ブログの片隅に書いた。だが拙論の賛同者を集めて日本共産党福山市議団に抗議に行こうとはツユほども思っていない。私の声は大きくない。ところが村井さんはちがう。あきらかに圧力として広島の教育界に作用する。つまりある種の権力行使なのだ。それは決して福山の教育にプラスに働かないだろう。そういう自覚が村井さんに無い事が決定的である。

 本稿を書くに当たって、私は定年まで小学校教員だった連れ合いの意見を聞いた。連れ合いは村井さんの教育論に対して、私よりずっとシビアーである。アレコレの議論ではなく、村井論で行くと教師は立ち行かなくなるとの事。どういう民主的な教師であってもだと云う。これを私流に解釈すると、生き物である教育を村井さんは殺している。生徒がいて、教育がある。いっけん教育を殺しているのは管理教育の推進者であるかに見える。然し、それ以上に教育に混乱をもたらしているのが村井さんだろう。発展し、改良されるべき教育の息の根を根柢から止めている。教育分野でのたたかいは(他の分野の階級闘争と違って)純粋な力関係では決まらない。かならず説得と合意の過程を経なければならない。村井さんはこれを力でねじ伏せようとしているのだ。これは管理主義教育の裏返しの表現なのだ。


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  昨夜おそく、村井文に以下が追加された。基本的に同じ文脈だから、改めて批判を加える必要を感じない。転載しておこう(古本屋通信)。


「いやだ」と言える自我を育てよう
2016-02-11 21:48  村井明美
昨日の続きです。教師に「私はバカです」と叫ばされた女子生徒が、校長に訴え、親に訴えたということですが、よくぞ「抗議」できたと、ほめたいと思います。
福山市のような生徒を厳しい規程で縛る教育を行えば、生徒はただただ従う無気力な子になりかねません。
あるいは、「先生は、自分たちの事はわかってくれない」とあきらめて、冷めた学校生活を送る子になりかねません。
しかし、女生徒はあきらめませんでした。いやなことをいやだと表現できたのです。
民主主義の基本は、いやだと思うことをいやだと言えることと、かつて学びました。
自我を育むことができていることを、しっかりほめてあげたいと思います。
そして、きっと、その理不尽さを親御さんがしっかりと受け止めてあげたのだと思います。
その自我と誇りが、これからも降りかかってくるかもしれない理不尽とたたかう力となることでしょう。
学校こそが民主主義を学ぶ場であることを、福山市の教育関係者に、今一度思い返していただきたいと思います。



 古本屋通信
 かなり確信犯である。市議7期からくる自信過剰であろう。まあ教育の素人の究極の綺麗事だ。「模範的」な語句のオン・パレードである。これで難しい中学校の生徒指導が解決するのなら、教研集会なんか要らんワ。いいですか、教研集会は結論を出さないのです。討議を通じて各自が自分なりの解決方法を見つけるのだ。村井さんが村井さんなりの方法を発見するのは構わない。然し公職の市議として、自分の結論を書いて福山の教育を上記のように批判するのは権力行使である。私はそれだけを繰り返し批判している。あきれて、呆れて、ただ呆れるばかりである。

  1. 2016/02/12(金) 03:20:10|
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