古本屋通信

備忘録 4

 古本屋通信 No 187  4月19日


 備忘録 4

  今回はちょっと変わった備忘録になる。私の中では飽くまで備忘録なのだが。No 181 で緑の党の前史にふれて「社革から緑の党まで」を書いた。それはその必要を感じたからであり、その折自分の過去ブログも併せて再録した(通信 No29 グローカル最終号 )。しかし、その後、自分の認識について反省する点があることに気が付いた。私はグローカル最終号を不真面目にしか読んでいなかったのだ。そのことに気付いたのは No 181 を書いた後である。とりあえず丁寧に再読した。然しそれについて書いても仕方がない。幸いなことに蒼生のHPがまだ残っていて、「グローカル」最終号の2論文のうち白川論文はいまだコピーできることが分かった。いつまでも、という訳にも行くまい。私は紙の新聞も持っているが、ネットに勝るものなしだ。大急ぎでコピーした。間に合ってよかった。


共産主義労働者党の歴史的な挑戦
――思想と行動のラディカルさを追い求めて

               2012年8月 白川真澄
  
 ・共労党のたたかいの歴史を振りかえる
 ・資本主義へのラディカルな批判とオルタナティブ社会の構想
 ・社会変革と主体形成の路線の探究
 ・組織活動の経験から学ぶ



Ⅰ 共労党のたたかいの歴史を振りかえる


 共産主義労働者党とそれを引き継いだ「政治グループ蒼生」は、八月二五日、政治党派としての歴史的役割を終えて解散することを決定し、その活動に幕を下ろした。この党派を担ったメンバー、共にたたかった人びと、陰で支えてくれた人びとに心からお礼を言いたい。党派としての活動には終止符を打つが、私たちが歴史的に挑戦してきた課題や目標は、これからも一人ひとりが自分なりの形や場で追求することになる。
 私たちは何に挑戦し、どこまで来たのか。何が未決の課題として問われているのか。新左翼党派のなかで最もラディカルであろうとした私たちの歴史的な挑戦について論じたい。

ベトナム反戦闘争の渦中での結党
 共産主義労働者党は、ベトナム反戦闘争の渦中に誕生した※。このことは、私たちの党のその後のあり方を規定する重要な意味をもった。党は、結党大会直後に(六七年九月、第三回中央委員会)、ベトナム反戦闘争を第一義的な課題とし、このたたかいに全力で取り組むことを確認した。
 この時代、南ベトナムで解放民族戦線(一九六〇年結成)は米軍に支援された政府軍に対して優位に立ち、米軍はついに北爆を開始した(一九六五年)。ベトナム革命とベトナム反戦闘争は、米国を盟主とする帝国主義との対決の世界的な焦点にせり上がった。
 日本でも、米国の侵略戦争に加担する佐藤政権と対決しながら、戦争加担の具体的な拠点の鉾先を向けるたたかいが全国に燃え広がった。総評のベトナム反戦スト(六六年一〇月)、砂川闘争(六七年五月、七月)、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止羽田闘争(一〇月)、南ベトナムでテト大攻勢、佐世保で空母エンタープライズ寄港阻止闘争(六八年一月)、王子野戦病院闘争(三月)、北九州山田弾薬庫の列車阻止闘争(四月)、一〇・二一新宿:米軍タンク車輸送阻止闘争(騒乱罪適用)、沖縄二・四ゼネスト闘争(六九年)、四・二〇全国反戦青年委員会総決起闘争、四・二八東京:沖縄闘争。
 私たちの党は、中核派など新左翼諸党派がベトナム反戦闘争で先行していた状況のなかで、これに負けじと「左旋回」をとげ、行動主義的な左翼たらんとした。とくに、党の指導下にあった学生部隊は、民主主義学生同盟から訣別し、プロレタリア学生同盟を結成し(六九年三月)、実力闘争を担っていった。
 ※一九六六年一一月の結党大会は、党名を含めて議論が白熱して結論を出せず、六七年二月の後期結党大会で正式に結党した。機関紙「統一」は六六年一二月に創刊された。

六八~六九年反乱に全力投入
 六八~六九年の世界的な青年・学生の反乱は、社会運動の歴史的な分岐点になるたたかいであった。それは、ベトナム革命・ベトナム反戦闘争(米帝とのたたかい)の枠組みには収まりきらない深さと広がりをもって展開された。フランス五月革命(六八年)、世界各地での大学占拠の学生反乱は、その象徴である。日本でも、日大闘争と東大闘争が大学占拠の形態をとって始まった(六八年四月、六月)。東大安田講堂の攻防戦(六九年一月)を合図にして、大学占拠・封鎖の闘争が全国一一〇の大学に波及していった。
 ベトナム反戦・安保粉砕の闘争と全共闘運動は互いに共鳴・連動して相乗的に発展したが、しだいに引き裂かれていった。大学占拠・封鎖が空洞化しはじめ、警察による占拠・封鎖の解除とともに、運動全体は社会的拠点を失った。六九年のたたかいは、街頭実力闘争による政府打倒闘争へ絞りこまれていった(党は、これを「強いられた政治決戦」と規定した)。
 党の第三回大会(六九年五月)は、六九年秋の佐藤訪米を阻止することが政府打倒・安保粉砕(一〇年目の日米安保条約の自動延長阻止)の鍵になると位置づけ、その阻止闘争に全力を投入することを決定した。プロ学同は全共闘運動の行動的中核となっていたが、一〇・二一反政府闘争で実力闘争を展開した。反戦青年委員会を形成していた党のメンバーは、職場での拠点スト(休暇闘争)を試みた。大衆的実力闘争は引き続き、一一・一三に大阪(このとき糟谷貴幸君が機動隊によって虐殺された)と東京で、一一・一六~一七佐藤訪米阻止の羽田闘争として展開された。
 しかし、六九年の一〇・二一闘争をピークにした政府打倒の街頭実力闘争は、国家権力の分厚い包囲網の前に一敗地にまみれた。とはいえ、反戦・反安保のエネルギーはすぐには下降線を辿らず、七〇年にも十万人規模のデモが展開され、七一年秋の沖縄返還協定阻止闘争まで街頭実力闘争は継続した。同時に、街頭実力闘争の限界を武器のエスカレーションによって突破しようとする軍事主義の傾向が台頭し、すべての党派を捕えていった。私たちの党も例外ではなかった。
 党は、七〇年から七一年にかけて反安保闘争と沖縄返還協定阻止闘争に取り組み、同時にゼネラル石油精製の長期スト(七〇年七月~九月)や三里塚の代執行阻止闘争(七一年二月、七月、九月)に力を注いだ。また、日産車体京都工場で季節工の山ねこストを組織し、労働運動の新しい展開を試みた。
しかし、三里塚の九・一六闘争(東峰十字路闘争)、一一月の沖縄返還協定阻止闘争をくぐる過程で、党内では軍事主義への傾斜(「建軍」路線)をめぐる路線対立が表面化し、党は七一年末に三分裂した。

三里塚闘争を献身的に担いきる
 七〇年代の民衆運動は、六八~六九年反乱を特徴づける反権力(国家権力だけではない)の異議申し立てのエネルギーをさまざまの課題と分野で噴出させた。水俣病患者がチッソ本社前座り込み(七一年)、自衛隊の沖縄派兵阻止闘争(七二年)、第一回ウーマンリブ大会(七二年)、国労・全逓の反マル生闘争(七三年)、狭山差別裁判糾弾闘争(七四年~)。反政府の街頭実力闘争は後景に退くが、社会生活の多様な分野では運動はむしろ活性化した。
 党は三分裂したが、新左翼党派のなかでは例外的に内ゲバに走ることを自己抑制できたことは、特筆すべきことであった。そして、党の再建をめざして共労党全国協議会が結成され(七三年四月)、「統一」再刊準備版が発刊された。また、プロレタリア青年同盟全国協議会も結成された(五月)。三分裂した他の二つの流れは、全国組織を維持することができず、党の全国協議会が共労党を実質的に受け継ぐことになった。
一九七七年、三里塚闘争は、福田政権による成田開港宣言を受けて最大の決戦場を迎えた。「三里塚闘争に連帯する会」に結集する人びとと党派は、「空港包囲・突入・占拠」の方針を掲げて開港阻止決戦を組織した。五月には岩山大鉄塔破壊に対して怒りの大衆的実力闘争が展開され(東山 薫さんが虐殺される)、夏の試験飛行阻止闘争、そして全国の人びとを三里塚闘争に招き入れる全国大行進が組まれた(九月~一〇月)。年末には、私たちが空港突入を試みる闘争を敢行した。年が明けて、建設されたばかりの横堀要塞を死守する二昼夜にわたる闘争が厳冬のなかで展開された(二月)。
こうして、三・二六管制塔占拠・空港突入の闘争が成功し、開港を延期させた。民衆のたたかいの見事な勝利であった。福田政権は巻き返しに転じ、五月の開港阻止闘争にもかかわらず、滑走路一本で開港を強行。これに対して、飛行阻止闘争(~七九年)、ジェット燃料輸送阻止闘争がたたかわれた。
党とプロ青同は、「すべての力を三里塚へ」の方針の下で、多くの逮捕者を出しながら三里塚決戦に総力を投入し、闘争の行動的中核の役割を献身的に担った。

社会運動の多様化・拡散の中での政治の復権への試み
 八〇年代に入ると、民衆運動は、いちじるしい多様化・拡散という特徴を見せはじめた。特定の課題(反安保、三里塚など)に人びとの関心やエネルギーが集結するという求心力は後景化し、新しい課題や分野で運動が次々に生まれた。シングル・イシュー型の「新しい社会運動」の時代の到来である。代表的な運動だけでも、次のような運動が展開された。
 韓国の光州蜂起に連帯する行動(八〇年)、四〇万人を結集した反核行動(八二年)、トマホーク配備反対運動(八四年)、反天皇制運動の大衆的展開(八六年~)。
柏崎を皮切りにして全国で原発新設公開ヒアリング阻止行動(八〇年~)。そして、チェルノブイリ原発事故をきっかけに、都市部でも反原発運動(「原発いらない、いのちが大事」のニューウエーブ)が高揚(八八年)。
反開発の住民運動は、逗子の米軍住宅建設反対運動(八二年~)、三宅島の訓練基地建設反対運動(八七年)、長良川河口堰建設反対運動(八八年~)、ゴルフ場・リゾート開発反対(八九年~)が噴出。
女性たちによる真の男女平等法を求める運動(八三年~八六年)。生活クラブ生協、ネットの結成を生んだ「生活者」の運動。在日外国人の指紋押捺拒否行動(八五年~)。
他方で、戦後の民衆運動を支えた総評労働運動は解体の危機に陥った。国労の分割・民営化反対運動(八六年)は敗北し、連合結成と総評解散に行き着いた(八九年)。
党は、民衆運動の多様化・拡散を積極的に評価しながら、新しい形態での運動の全体性、つまり政治の復権の必要性を提唱し、一連の取り組みを開始した。すなわち、政治的イニシアティブ装置としての「時局協商懇」の立ち上げ(八二年~)、 社会主義理論フォーラム開催(八六年)を積極的に推進した。同時に、「共産主義者の連合」をめざす「建党協」に参加し(八二年、後に脱退)、後に「社会主義政治連合」の結成(九二年)に関わった。
私たちは、赤の潮流と緑の潮流が連合する「人民的政治勢力」の形成を提唱し(八七年)、その具体的な試みとして参院選で「原発いらない人びと」の選挙に力を注いだ(八九年)。また、「ピープルズ・プラン21」の開催(八九年)、「フォーラム90s」の創設(九〇年~)をきっかけとして、オルタナティブの議論の推進を提唱し、自分たちもこの作業に継続的に取り組んでいった。

社会主義の歴史的敗北とグローバル資本主義の攻勢の中での試行錯誤
 八九年から九一年、二〇世紀の歴史は大転換に見舞われた。ベルリンの壁の崩壊(八九年)からソ連邦解体(九一年)へ、そしてユーゴ内戦の勃発(九一年~)と、社会主義の歴史的敗北は誰の目にも明らかになった。このことは、冷戦の勝者としての米国が主導権を握って、グローバル資本主義が全世界を呑み込んでいくことでもあった。
九〇年代は、地球環境サミット(九二年)に象徴される地球環境問題が世界政治の焦点化する時代となった。日本では、反PKO法闘争(九一年)がたたかわれ、参院東京選挙区で反PKO選挙が組織された。全国各地で、原発・基地・ごみ処分場・開発などの課題をめぐる住民投票運動が活発化し(九六年~、巻町、名護市、御嵩町、徳島市など)、政府と住民の対決点が浮上した。同時に、村おこし・まちおこしの運動が広がった((長井市のレインボープランなど)。阪神大震災(九五年)をきっかけに、ボランティア活動が噴出し、NGO/NPOの運動が法制化を伴いながら広がった。
世界的には、グローバル資本主義の攻勢に対抗して、シアトルでの大衆的直接行動(九九年)を号砲にして反グローバリゼーションの運動が高揚していった。しかし、この時期、沖縄の米軍基地撤去のたたかい(九五年、二〇一〇年)を別とすると、日本の運動の活力は目立って落ち込んだ。
九・一一同時多発テロ(二〇〇一年)は、ブッシュ政権をアフガン戦争、イラク戦争(〇三年)に走らせたが、戦争の泥沼化の中で米国の軍事的覇権の凋落が始まった。
日本では、二一世紀に入ると、小泉「構造改革」(〇一年~〇六年)という形で新自由主義改革が本格的に強行され、非正規労働者の急増によって格差拡大と貧困の急増が進行した。新自由主義改革に対する抵抗と反撃はひじょうに弱かったが、二〇〇八年リーマンショックに伴う「派遣切り」は反貧困の課題と運動を登場させた。
九〇年代以降、私たちが力を注いだ課題は、新しい政治勢力の形成と登場であった。統一地方選挙への本格的な挑戦(九一年~)と国政選挙への取り組みを進めた。参院選「平和・市民」の選挙の惨敗(九五年)を経て、ローカルな政治勢力の登場に重点を移し、地方選挙では着実な成果を得た(岡山、大阪、神奈川、東京など)。同時に、ローカルを基盤にして全国的な政治勢力の可視化を諦めずに追求し、「虹と緑の五〇〇人リスト」結成(九八年)、参院全国比例区選挙(〇四年、「緑の会議」)、東京選挙区選挙(〇七年、川田龍平)、「みどりの未来」結成(〇八年)に積極的に推進し関わった。
もうひとつの課題は、社会主義の歴史的敗北を総括して、社会変革の路線と将来社会のオルタナティブを打ち出す作業であった。その一環として、私たちは党名を変更することを決断し(九六年)、「共産主義労働者党」は「自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ蒼生」に、「統一」は「グローカル」に変更された(九七年)。

民衆運動の新しいうねりの到来
 グローバル資本主義は、全世界を席捲し新興国の高い経済成長をもたらした。だが、それは金融資本主義化による経済の極度の不安定化、環境の危機の深刻化、至るところでの格差の拡大を引き起こした。リーマン・ショック、そしてユーロ危機(一一年)は、資本主義が先の見えない危機の時代に入ったことを告げた。
これに対応する動きとして、「アラブの春」(一一年)、「99%」を代表するオキュパイ運動、緊縮財政路線に対するヨーロッパ民衆の抵抗行動、ドイツなどの脱原発行動に代表される民衆運動の新しい波動が出現しつつある。
日本でも三・一一福島原発事故以降、脱原発運動の高揚と持続が始まり、大飯原発再稼動に抗議する大規模な官邸前行動のなかで「デモ」が蘇りつつある。民衆運動の新しい動きに呼応して、「緑の党」が結成された。


Ⅱ 資本主義へのラディカルな批判とオルタナティブ社会の構想

帝国主義への批判・闘争としての資本主義批判――六〇年代後半
 “資本主義は帝国主義(侵略と抑圧の体制)して現われている”、“米国のベトナム侵略戦争を阻止・挫折させることが資本主義の世界システムに大打撃を与える”。これが、 六〇年代のベトナム反戦闘争の渦中で共有されていた資本主義批判の内容であった。この認識は、新左翼のみならず旧左翼にも共通するものであった。
 当時の党は、米国のベトナムでの軍事的劣勢とドル危機の同時進行は、“戦後の安定的な世界秩序(米ソの平和共存、高度経済成長による統合)の危機・崩壊の始まり”であると捉えていた。ただし、“戦後世界秩序の崩壊は、一挙的ではなく漸次的・波及的に進行する”という時代認識(第三回党大会)に立っていた。しかし、それがひじょうに長期にわたる複雑でジグザグなプロセスを辿ることを予測していなかった。
 そして、資本主義に代わるオルタナティブ像は、「プロレタリアート独裁」を経由しての「社会主義的市民社会」の形成という抽象的なものにとどまっていた。

第三世界解放革命との合流という視座からの資本主義批判
 当時のベトナム革命は、間違いなく戦後の世界秩序を食い破る民衆運動の最先端に位置していた。世界を根本から変革するたたかいというリアルな可能性が、そこに見出された。
 私たちは、ベトナム革命を、民族解放闘争(独立と民主化)の枠を超える普遍性をもつ(近代的と前近代的の複合的な支配構造を変革する)革命たりうると美化した。すなわち、ベトナム革命のなかに、“近代的な物質的生産力に優越する人民の革命的創造力”による社会形成の可能性を見ようとした(『「第三世界」解放革命との合流のために』、七二年)。しかし、理念化されたベトナム革命像と現実の勝利した革命(七五年)・その変質とのあまりにも大きな落差を突きつけられていった。
 米国を盟主とする資本主義世界は、ベトナムでの敗北、さらに七〇年代の石油危機の衝撃をグローバル資本主義化によって包摂する再編へ向かったのである。現在から捉え返すと、ベトナム革命の勝利は、民衆を政治的に解放したが、同時に資本主義的近代化=市場経済化を推進する政治的前提づくり(杖払い)に帰結したのである。この逆説的な事態は、ロシア革命、中国革命にも当てはまる。
 民衆による独裁政権打倒の解放闘争の前には、巨大な壁が立ちはだかっている。韓国とフィリピンでも(八六年)、東欧でも(八九年)、アラブでも(2011年)、政治的民主化を実現するまでには至る。だが、資本主義的市場経済(グローバル市場への統合)に代わる新しい社会・経済システムの創出にまでは進めない、という壁である。この壁をどう乗り越えるが、問われ続けている未決の課題である。そのためには、自力更生の路線(中国)、内発的発展の路線などが、なぜ挫折したのかを総括することが必要である。
 また、ベトナム革命勝利後、武装闘争は国際的に波及した(パレスチナ、フィリピン)。しかし、武装闘争による勝利を達成することはできず、挫折・衰退に向かった。

近代への批判・対決としての資本主義批判、エコロジカルな経済と社会の提唱

  ――七〇年代後半から八〇年代へ
 七〇年代から八〇年代、三里塚闘争や反公害住民運動が燃え上がると同時に、科学技術(の中立性)批判が出現した(宇井純の公害原論、高木仁三郎の反原発論など)。また、社会主義理論フォーラムや「ピープルズ・プラン21」を契機としてオルタナティブ議論も始まった。そして、八〇年代末には、社会主義の歴史的敗北が冷厳な現実となった。
この時代、私たちは、エコロジーの視点(自然・人間関係の根本的な捉え返し)を学ぶことによって、マルクス主義が色濃く保持してきた“開発・進歩”の神話、科学技術の発達(自然支配)の礼賛、生産力主義、工業化の推進といった近代主義イデオロギーと最終的に訣別していった。資本主義批判は、近代への根本的な批判という深みにおいて行なわれるべきだというのが、私たちが辿りついた地平であった。そこから、オルタナティブとして、農(的価値)の復権、循環型経済といった要素を積極的に評価することになった。
私たちは、新左翼党派のなかでほぼ唯一、三里塚闘争からエコロジー思想を学びとったと言える。 
それでは、「近代の乗り越え」とは何か。私たちは、エコロジー・フェミニズム・人権思想(リベラリズム)・ポストモダンの思想との対話を通じて、「近代の乗り越え」の内容を提示した。それは、近代が否定・破壊・切り捨ててきたもの(エコロジー、共同体的自治)の再生・復権と近代から継承すべきもの(個人の自立と人権、自治と参加の民主主義、権力への監視、市場経済の一定の合理性)を明確にすることであった。
エコロジーとコミューン的自治の視点を取り入れた私たちの思想的な営為は、八〇年代末に訪れた社会主義の歴史的敗北を総括する座標軸ともなった。敗北の主要な理由は、「国家に転じる革命」への変質と国家の独裁の完成、その根拠としてのプロレタリアート独裁論と前衛党主義、また近代的生産力(工業化)の継承による自然と農民からの収奪、経済成長の速度を競う資本主義との競争という路線にあった。
私たちは、オルタナティブの討論の呼びかけと提案を行ない、そのための活動を強化してきた。そして、「自治・連帯・エコロジーの原理に立つ民衆主体の社会」(九一年)、「循環型で失業なきゼロ成長社会」(九六年)といったビジョンをいち早く提唱した(九六年)。「脱成長」というオルタナティブは、二〇〇〇年代後半に市民権を獲得し、いまや無視できない社会的潮流に成長している。

グローバル資本主義への批判・闘争としての資本主義批判、多様なローカルが連帯する世界へ

 ――九〇年代後半から二一世紀へ
“資本主義に代わるオルタナティブはない”というイデオロギー=神話が、ポスト冷戦=グローバル資本主義の時代に圧倒的な力をもって世界を席捲した。 このイデオロギーとたたかい、資本主義を乗り越えるオルタナティブを提示することが、民衆の解放運動にとって避けて通れない重要な課題になった。
グローバル資本主義は、非資本主義的な要素(労資同権制、所得再分配、競争の制限など)を組み込んだ資本主義[ケインズ主義的福祉国家]を否定・解体し、国境を超える市場原理に純化する資本主義[新自由主義的な純粋資本主義]として登場した。社会主義という対抗力の消滅は、資本主義をある意味では古典的な姿(市場原理主義)に立ち帰らせた。
しかし、グローバル資本主義の展開は、エコロジーの危機をいっそう深刻化した(地球温暖化、原発事故、「リスク社会」化)。同時に、金融資本主義化(マネーの暴走)によって世界経済を極度に不安定化している(リーマン・ショック)。そして、格差のいたる所での拡大(「1%」VS「99%」)を招き、民衆の不安と怒りをかき立てている。
問われている選択肢は、何か。非資本主義的な要素を組み込んだ資本主義(「ルールで規制された資本主義」、「グリーン資本主義」)への再度の進化か。それとも資本主義世界システムと非資本主義的なローカル・システムの拮抗(後者による前者の蚕食 → 前者による後者の再包摂 → 再度の後者による前者の蚕食 という永続的な過程)か。これが、グローバル資本主義がその行き詰まりと限界を露わにしている現在、あらためて問われている課題である。
そして、現代の世界は、覇権国=基軸国なき混沌の世界へ入りつつある。米国の軍事的覇権の凋落は、アジア・太平洋への軍事力のシフト、中国との主導権争いとして現われれている。同時に、米国はリーマン・ショックによって「世界の金融センター」の地位を喪失し、基軸通貨としてのドルの信認は地に墜ちた。ユーロがドルに代わって基軸通貨になる夢も潰え去った。
それでは、中国がアメリカに代わって覇権国となるのだろうか。その可能性はおそらく小さい。世界は、米中二極=G2体制というよりも「Gゼロ」、つまり覇権国=基軸国なき時代に入りつつある。
希望は、多様なローカルが連帯する世界の構築にしか見い出せないだろう。民衆が自分たちの手でエコロジカルな循環型社会と自治・参加型の社会を創りあげる。ローカルな社会像は、かなり明確なビジョンとして共有されつつある。だが、多様なローカルが国境を超えて連帯する仕組みの原理とビジョンは、まだ空白である。この課題をどのように解いていくのか、問いは重く大きい。


Ⅲ 社会変革と主体形成の路線の探究

政治=社会同時革命という路線の提起――六八~六九年反乱の意味の捉え方
 六八~六九年反乱は、次のような特徴を帯びながら、世界的な同時代性をもって出現した。それは、独自の起源をもち性格の異なる二つの闘争が共鳴し合いながら発展したことである。ひとつは、国家のあり方や路線を変えるべく政治権力に挑む闘争(ベトナム反戦、安保粉砕、政府打倒の闘争)。もうひとつは、社会生活のすみずみにまで張り巡らされた権力関係を解体し、自治・自主管理・自己決定を実現する闘争(全共闘運動、フランス五月革命の占拠運動)であった。
 私たちの党は、六八~六九年反乱の特徴を「政治=社会同時革命」(政治革命と社会革命が同時的に進行する)という視点から捉え、現代革命の路線として一般化した(党三回大会)。これは、政治権力奪取だけをめざす革命路線(レーニン主義)に囚われていた当時の新左翼の中では、群を抜いた理論的提起であった。しかし、「政治=社会同時革命」論は、抽象的な次元にとどまり、政治闘争と社会闘争の相乗的発展と引き裂かれの複雑な過程を描ききれていなかった。両者のダイナミックな関係をどのように組み立てるべきかという未決の課題は、その後、私たちを長く悩ませることになった。
六八~六九年反乱は、政治闘争と社会闘争が相乗的に発展する局面から、両者が引き裂かれていく局面に反転することを教えた。日本では、社会的な反乱や拠点が潰され(大学占拠・封鎖の解除)、たたかいはそこから切断された反政府の街頭実力闘争に絞り込まれ敗北した(フランスの工場・学園占拠の闘争は、ドゴール政権打倒の闘争にまで登り詰めたが敗北)。しかし、この敗北をくぐって、社会的な権力関係に対する異議申し立てと自己決定の運動が噴出してきた(ウーマン・リブ、地域住民運動、工場の占拠・自主管理闘争など)。
六八~六九年反乱の敗北は、反安保闘争(佐藤訪米阻止闘争)の敗北という以上に政治権力奪取を優先する社会変革の構想の終焉を歴史的に告げた。
しかし、当時の党は、この敗北から学んで「政治=社会同時革命」論を再検証し、政治権力奪取優先主義に代わる社会変革構想の獲得と提示を行なうまでには至らなかった。その理由は、次のことにあった。(1)反安保・沖縄返還協定阻止の反政府政治闘争のエネルギーはすぐには衰えず、七一年まで持続していた。(2)街頭実力闘争から政府打倒・政治権力奪取へという路線は、武装闘争への戦術的高次化に向かい、その是非が主要な論争点になった[「攻撃の暴力」も「抵抗の暴力」も一括りにした「武装闘争」論の枠に囚われていた]。(3)私たちも、強固な前衛党主義に呪縛されていた。
さらに、七〇年代の党再建の時期も、私たちは、“党―革命的統一戦線”という古典的な主体形成の構想に固執していた(これは、“建党―建軍”路線との対抗という意味をもったことはたしかだが)。これは、六八~六九年反乱における主体の特徴(政治党派と無党派活動家との協力・競合、“左翼政党と労働組合”の統制を突破する活動家や市民の登場など)を捉え損ねていた。

「根拠地」の形成という構想
三里塚闘争は、国家権力による「問答無用」の農民の土地強奪に対して実力による抵抗が持続し、全国的な反権力闘争の最前線にせり上がった。しかし、この闘争には、主体の複合性(部落共同体の連合とその組み換え、反対同盟と支援勢力の協力・相互変革と利用・依存の関係)、そして闘争を通じて「土」の思想や「農」的価値が再発見されたという特質があった。日本の「緑」の原点の1つは、疑いもなく三里塚闘争にある。
私たちは、三里塚闘争のなかに「闘争とその大義の主張が、生産・生活の現場から切り離されることなく、闘争と生産・生活との一体化した姿で実現されてきた」「根拠地の生成の可能性を発見」した(八二年、注1)。
 「根拠地」の形成という着想は、その後、これまでの世界的な革命の経験を捉え直すことを可能にした。私たちは、“国家権力奪取による社会変革”のモデルとされたロシア革命のなかに「自治と対抗社会形成」というコミューン革命(「共同体の自治の革命」)を見出した。また、中国やベトナムの人民戦争の過程で形成された「解放区」を、政治権力獲得の足がかりという位置づけではなく、新しい社会形成のモデル(対抗社会形成)として意味づけた。
「根拠地」は、国家権力に対する実力抵抗(闘争)と対抗社会モデルの形成(生産・生活)という二つの面を併せもつ。したがって、「根拠地」は、特殊な条件の下で個別課題での闘争に即して生まれる(三里塚闘争から学んだ国家は、強権的・暴力的な方法で住民の土地を強奪するやり方を回避するようになった)。
したがって、「根拠地」の生成と維持はいくつかの難題にぶつからざるをえない。一方では、個別闘争の実力抵抗は当然にも永続できない(人はいつまでもたたかい続けることはできない)。他方では、対抗社会形成の運動は急速に広がってきたが、抵抗や闘争から切断された市民事業(食の自給・産直、ケア、エネルギー自給など)に純化しがちである。市民事業は、行政の下請け事業化や市場経済への順応とどこで一線を画するかという課題に直面している(その点で、祝島の反原発闘争がエネルギー自給の実験に着手していることは興味深い)。
しかし、「根拠地」の構想は、いぜんとして有効な面をもっている。サパティスタの革命運動に見られるように、国家権力との攻防の特殊な条件の下で自治的な社会が登場する可能性があるからである。

            ※注1)白川『もうひとつの革命』(社会評論社、一九八二年)

主体形成(“党と人民”の関係)および「暴力」問題の発想の転換
私たちを含む新左翼の政治党派は、三里塚闘争の過程では行動的中核の役割を果たしたが、八〇年代に入ると、その役割が次第に小さくなっていった。社会運動の多様化・拡散(可視的な全体性の消失)、実力闘争の衰退、内ゲバの影響と思想的硬直性による新左翼党派の政治的・組織的力量の急速な低下が、その理由であった。
私たちは、ベトナム革命への連帯と三里塚闘争の過程で、“革命主体としてのプロレタリアート”という神話からの脱却を試みていたが、三里塚闘争をくぐり抜けて、「人民」という主体像を提起した。「人民」は、すでにどこかに存在するものではない。異なる利害・要求や対立・分断を抱える諸集団の相互変革的な連帯として生成する主体である。このことは、前衛党主義(“党―革命的統一戦線”構想)の自己批判と新しい“党―人民”関係の定立を不可避の課題とした。
そのとりあえずの答えが、“指導的核心としての党”(八〇年)という立場であった。“前衛としての党”観を克服し、自ら権力になる人民の矛盾を孕んだ主体形成の内側に党(党派)を契機として埋め込むという発想であった。その上で、党(党派)の固有の役割を、抽象的だが仮説としての全体性の提示(「大きな物語」、課題提起)と行動的な集中力に求めた。そして、九〇年代には、私たちは、自分たちを「党」という規定ではなく「政治集団」として規定することにした。その固有の存在意義を、問題提起者、課題設定、支援者=「ボランティア」集団、政治議論の場、人材育成として確認した(九六年)。
新左翼運動のアイデンティティのひとつは、「革命的暴力の復権」(議会主義の乗り越え)にあった。六〇年代のベトナム反戦闘争から七〇年代の三里塚闘争は、「実力闘争」として展開された。だが、八〇年代に入ると実力闘争は下降線をたどり衰退していった。その背景には、パレスチナやフィリピンやラテンアメリカにおける世界的な武装闘争の行き詰まりがあった。
私たちは、三里塚闘争の渦中はむろんのこと八〇年代においても、国家権力奪取優先の社会変革構想を再検討する作業との関係で、実力闘争の意味と「革命的暴力」を捉え返す作業に手をつけず、先送りしていた。
「革命的暴力」の抽象性、つまり実力闘争から武装闘争までを包摂する融通無碍さを自己批判し、「抵抗の暴力」の意味を明確にするのは、九〇年代以降のことであった。三里塚闘争の経験を総括し、国家権力奪取のための「攻撃の暴力」と自らの生活空間を守るための「抵抗の暴力」を区別し、「抵抗の暴力」を自分の身体を武器にする非暴力直接行動から大衆的・象徴的な実力闘争までを含むものと位置づけた。そして、「抵抗の暴力」=「対抗暴力」の特徴としての自己限定性と防御性を明確にした※。
現在、「アラブの春」を含めて、世界的にも非暴力直接行動が世界的な民衆運動の特徴となっているが、独裁政権に対する武装抵抗が行なわれている国もある。ベトナムをはじめ第三世界の解放闘争における武装闘争の意味と問題点をきちんと総括する課題は、いぜんとして残されている。
 ※注2:白川「暴力はなくせる?」(『格差社会から公正と連帯へ』、工人社、〇五年)

新しい政治勢力形成をふくむ社会変革の構想の提唱
 八〇年代は、中曽根政権が登場し、日米同盟の本格的な強化と新自由主義改革の攻撃が開始された時代であった。しかし、民衆運動の側は、運動と課題の多様化・拡散による活性化がありつつも、国家に対するトータルな政治的反撃を組織できず、戦後の民衆運動の基盤であった総評―地区労の運動は解体されていった。
 私たちは、赤と緑の潮流の連合による「新しい政治勢力形成」を提起した(八七年)。運動の全体性という意味での「政治」の衰弱と社会運動の多様化・拡散、そして実力闘争の行き詰まりのなかで、三里塚闘争に依存する形ではない「政治」の創出が、私たちに問われたからである。
 私たちがめざした「新しい政治勢力」(「人民的政治勢力」)は、前衛党(革命政党)ではなく制度圏内の政党をめざすものと位置づけられた。その大きなヒントになったのは、ヨーロッパ左翼の再生、すなわちドイツにおける「緑の党」の出現の経験である。
 政治勢力(制度圏内の政党)の形成という課題の定立は、3つの契機=要素から成る社会変革のプロセスの明示化によって根拠づけられた。私たちは、実力抵抗プラス対抗社会形成という社会変革の構想を、もう一歩前に進めた。それが、“持続する抵抗(大衆的直接行動など)”と “対抗社会の形成(市民事業の組織化など)”と “制度的改革(議会や法制化の活用など)”の緊張を孕んだ結びつきと相乗的な発展という展望である(八八年※)。
 そして、実践的には、国政選挙への共同の取り組みの推進およびローカルな選挙への(無党派の人びととの協力の下で)独自の取り組みに力を傾注した。
 ※注3 白川「地域住民運動」(フォーラム90s『20世紀の政治思想と社会運動』)

民衆運動の新しい波と「緑の党」形成の緊張に満ちた関係をどう構築するか
 グローバル資本主義の動揺と危機が民衆に厄災と犠牲を押しつける状況に対抗して、世界的な民衆運動の新しい波が登場している。これは、二〇世紀末からの反グローバリゼーション運動を助走路とし、一一年のオキュパイ運動に代表される。これはまた、「アラブの春」や南欧での反緊縮財政策の闘争と緊密に連動している。日本では、三・一一以降の脱原発運動の波、とくに原発再稼動に抗議する行動の高まりは、新しい何かの始まりである。
 オキュパイ運動に象徴される民衆運動の新しい波は、(1)特定の中心や指導部が存在せず(イニシアティブを発揮した個人はいるが)、多様な個人や集団の柔軟で水平的なつながり、(2)ツイッターなどインターネットの自在の活用による動員、(3)非暴力の直接行動、(4)広場の占拠による「コミューン的自治」の空間の創出、を特徴としている。
 オキュパイ運動は、個別の要求の実現ではなく(要求リストのない運動)、「体制」(1%による富と権力の独占)そのものに異議申したてをする運動である。その点で、シングル・イシュー型の運動(「新しい社会運動」)が噴出した六八年以降の時代の民衆運動とは異なり、古典的な階級闘争(格差や貧困を問題視し資本主義的「体制」を標的にする)の復権という面をもつ。しかし、運動の中で「コミューン的自治」や「公共空間」の創出を試み、多様な人びとが水平的なネットワークで結びつくという主体と運動のあり方は、シングル・イシュー型の運動の時代の経験や特徴を引き継いでいる(ポストモダンの運動)。
 いま登場している新しい波の民衆運動は、(1)それがどのような形で持続し、波及するのか、(2)資本主義に代わるどのようなオルタナティブを共有できるのか、(3)制度圏内の政党の動きを含めて、どのような政治表現を獲得するのか、という課題を解いていくことを求められている。
 日本では、民衆運動の新しい波は、三・一一以降の脱原発運動の波として出現し、「デモ」(直接民主主義)が再生している。このデモには、オキュパイ運動に見られる多様な人びとの水平的なつながり、ツイッターなどインターネットの自在の活用、非暴力といった特徴が現われている。
そして、脱原発の運動と意識の高まりに後押しされて、新しい政治勢力形成の努力がようやく「緑の党」の立ち上げとして結実した。もちろん、それは始まりにすぎない。現在の民衆運動は、誰かによって「代表」されたり「指導」されることを拒む多様性や自立性を特徴としている。「緑の党」は、民衆運動を「代表」したり「指導」する存在ではないが、民衆運動の孕んでいる重要な契機(ビジョン、制度圏への要求や発言)を表現する。
脱原発運動はさまざまに異なる発想や多様な人びとから成る運動であるが、「緑の党」は、この脱原発運動との間にどのような協力・対話=論争・相互促進・緊張の関係を創りだしていくのか。「緑の党」は、いかにすれば脱原発運動および人びとの脱原発・脱成長の志向の政治的表現になりうるのか。


Ⅳ 党の組織活動の教訓
    (ここでは項目のみを挙げ、別の機会に論じたい)

1 活発な党内論争と組織分裂
 ◆第三回大会における組織分裂:六九年秋期政治決戦に突入する判断をめぐる古参共産主義者の離脱
 ◆七一年秋の三分裂:暴力をめぐる路線対立(「建党・建軍」路線)の表面化
 ◆八〇年代初頭、「建党協」参加をめぐる方針上の対立で、九州地方委員会の一部の離脱。
 ◆分裂は回避できたか:論争のあり方、論争のリーダーシップの発揮の有無、路線上・方針上の対立と人間的な不信感の作用、

2 分権的な組織論と行動的集中力
 ◆地方党組織の専従活動家は地方組織が責任をもち、中央指導部が介入しなかった。
 ◆行動的集中力の発揮:六九年秋期政治決戦、七一年三里塚九・一六闘争、七七~七八年三里塚決戦。現地闘争団の設置(三里塚、熊本での自衛隊沖縄派兵阻止闘争)
 ◆女性党員の比重、役割、位置づけ(中央指導部に女性が一人もいなかった)。
 ◇グラムシのいう「党形成の3つの基本要素の融合の必要」という視点からみた組織のあり方を総括する。

3 組織活動の経験から何を得たか
 ◆定期的な会議と政治討論、学習会
 ◆共同の闘争体験を蓄積することの意味と限界。
 ◆組織からの離脱(「脱落」)をどう考えるか。

4 人材(リーダー)養成にどこまで成功したか
 ◆トップリーダーの継承:内藤知周議長・いいだもも書記長(結党時) → いいだ議長・白川真澄書記長 → 田井允男書記長・白川編集局長(全国協議会) → 白川代表 → 宮部 彰代表
 ◆指導部内(幹部間)の関係はどのようなものであったのか。
 ◆地方党組織のリーダー。
◆専従活動家という問題、専従活動家と(働いている)党員の関係。

5 指導者の個性
6 党組織を内と外から支えた人びと。
 
  1. 2013/04/19(金) 18:33:34|
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