古本屋通信

何処に目がついているのか

古本屋通信     No 1736  1月17日

    
何処に目がついているのか。



  下記は石崎徹が 『民主文学』 誌に掲載された浅尾大輔の作品 「支部の人びと」 を評した文の末尾の一節である。書評だけやっていればよいものを、末尾に超低脳の蛇足を付けることによって全文を殺している。末尾に限って論難しておこう(論難する criticize)。


  作品から少しだけ離れるが、いま10代から20才そこそこの人たちが政治の舞台に登場してきて注目を浴びている。古い活動家が焼きもちを焼くのではないかと心配していたが、この作品を含めて「民主文学」で目にしたもの以外にはあまり情報もないわけだが、その限りでは、どうやら杞憂だったのではないかとほっとしている。
 思うに、ずっと活動してきた人たちは、活動の成果がなかなか現れないことに苦しんできただろうし、だからいま若い人たちがどっと登場してきたことは、彼らにとって純粋に喜び以外のものではないのだ。逆に、若いときに運動から離れてしまった人々のほうが、置いていかれるような焦りを覚えているようにも思える。彼らは活動してきていないので、時代の変化を体で感じとっていないし、ただ頭の中で栄光の過去を思い浮かべるだけなので、現代の動きに全くついていけないのだろう。

   
  古本屋通信

  「いま10代から20才そこそこの人たちが政治の舞台に登場してきて注目を浴びているって、石崎はいったい何処を見て、何を指してこう書くのか? まさか中核派系のマル学同が京大の自治会(同学会)を再建したことではあるまい。そうではなくて、石崎が絶賛したシールズのことであろう。シールズに就いては私も書いてきたし、デボーリンが石崎の板で石崎批判を書いた。それに石崎は何も応えず今回の文を書いた。

 石崎はいったい朝日新聞を読んでいれば正しい政治認識が獲得できると思っているのか。デモなどに行ったことがないのだろう。岡山であろうと、都市部であろうと、「10代から20才そこそこの青年の参加」など殆んど無い。シールズなど影もかたちもありはしない。あのなあ、石崎、何処かのデモで、シールズが50人100人と隊列を組んでデモしたのを見たことがあるか? 無かろう。あればテレビが映すし、なくても自分たちでユーチューブで流すだろう。ブルメディアの作りあげる虚像に惑わされず、社会で起こる出来事の実像をみろヤ。岡山でも 「10代から20才そこそこの」青年の政治参加など微々足るものだ。デモを含めて政治参加の中心は(石崎には気の毒だが)平均年齢六十歳台だ。ちょうどわれわれの世代だ。私はこれを誇って言っているのではない。残念に思っている。これは共産党系であろうと中核派系であろうと変わらない。デモの隊列に青年が大勢いれば、言われなくても民青に組織しているだろう。岡山の民青は倉敷の余江クン中心に頑張っている。先日ようやく岡山市で専従を確保した。然し学生党員はゼロだと聞いている。シールズなどいるはずがない。組織規約がないのだから、そもそも存在の余地がないのだ。
 では青年の活動家はいないか? いや、いる。革マル派の集会にはかなりいる。彼らのHPを見れば分かる。その他にはいないのか? いや二世党員がいる。これは共産党、中核派ともだ。親はみんな党員だ。それほど一般の活動家が生まれにくいのだ。「10代から20才そこそこの人たちが政治の舞台に登場しきて注目を浴びている」? トンデモ認識である。何故青年はいないのか? 石崎には理由が分かるまい。理由は簡単である。労働組合運動と大衆闘争がないからである。

 石崎の後段は俗耳に入り安いだろう。まあ、よくできた謬論だ。「ずっと活動してきた人たちは、活動の成果がなかなか現れないことに苦しんできただろうし、だからいま若い人たちがどっと登場してきたことは、彼らにとって純粋に喜び以外のものではないのだ」 の 「ずっと活動してきた人たち」 とは現役の共産党員のことだろう。志位や小池は例外だが、日本共産党員でシールズを 「新しい出現」 と看ている者は皆無である。ただ戦術上、馬鹿にしていないに過ぎない。でもこんなこと、石崎には理解するのは無理だろう。共産党員のブログを先入観なしに丁寧に読めば分かることなんだが。

  「彼らは活動してきていないので、時代の変化を体で感じとっていないし、ただ頭の中で栄光の過去を思い浮かべるだけなので、現代の動きに全くついていけないのだろう」。 石崎が 「活動してきていない」 からといって、他人も「活動してきていない」 と蔑むのは傲慢であろう。石崎のように 「日本はアジアをリードする国だから」 と書く人間に他人の活動をとやかくいう資格があろうはずがない。 これに就いては過去記事を部分再録しておこう。然しこれもバカに付ける薬にはならないだろう。


再録
要するに今回の安保法制に反対するたたかいが60年安保闘争、そして70年につづく大闘争だったと言っているわけだ。意識的なデマゴーグのデマと、無知な遅れてきた世代の誤解または希望的観測を含めて、いっぱんの認識にも影響を与えているように見える。日本共産党の周辺などにも今回の安保法制反対のたたかいが新しい市民革命につうじる画期的なたたかいだというトンデモナイ誤認識もある。
 これは明らかに過大評価である。面倒だからいちいち論証しないが、質と量の両方において、全くの誤りである。私とて新しい今回のたたかいを過小評価しなければならない理由は何もないのだ。だが、私の評価を正直に数字で書いておく。60年安保闘争を100とする。
   60年安保闘争  100
  
70年闘争(これは70年安保闘争と呼べるものではなかった) 30
   今回の安保法制反対の闘争
 
 あらゆる指標において上記であった。これは日本革命があらゆる意味で後退しているという事である。市民革命などは空絵事というより、石崎流でいえば空想的社会主義である。
 60年安保闘争についてひとこと添える。私はこの世代から5年遅れだから、追体験である。大闘争ではあったが、はじめから大運動が起こった訳ではなかった。政治課題としての安保は労働組合の中には入りにくかった。それを外部から組合の中に粘り強く持ち込んで共闘組織を作り上げたのが日本共産党と社会党向坂派だった。それでも安保共闘会議はシドロモドロだった。
 今回の安保法制反対運動に多く云うことはない。シールズなどという幼稚園児 (人によっては権力の手下と言う。私も中枢はそうだと思うが、組織なき組織のメンバーの大半は青年同盟などの受け皿が不十分だから参加したのだろう。まあ昔のべ平連の幼稚園版だ。軽薄ではあるが丸ごとスパイ組織とは断定できまい)がウロウロしているだけで失格である。革マル派や中核派の全学連のほうがまだ百倍マシである。 
  1. 2016/01/17(日) 09:04:49|
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