古本屋通信

日本共産党の党名

古本屋通信     No 1711  1月 2日

  
 日本共産党の党名



  キンピーサイトで共産党の党名が話題に上っている。日刊スポーツが震源地で 「党は歴史的転換を図ろうとしている。今までかたくなに党名変更を拒んできたが、党内にはひそかに党名委員会が発足。今も議論が続いている」 と書いているのをたたき台にして、投稿者諸氏が代替案などを出している。まだ始まったばかりだが面白い。で、私も書いてみたい。

  もう30年以上も前から共産党に好意的な人を含めて、党名変更が繰り返し取り沙たされてきた。その度に党中央は全面否定した。


  まずキンピーサイトの投稿者の見解で私が注目した2つの意見を貼っておく。ブサヨさん、つまみ食いでスミマセン



623  2016年01月01日 22:10
”日本共産党”の名称を変えることは理論的に不可能だと思います。あつかましくも指導者であり前衛であることを自称するからには、共産主義を捨てて解党のうえ、新党を結成するか共産党継続かの選択肢しかありえません。
尤も、常に欺瞞に満ちた歴史から今後、どのような詭弁を使って変化していくのか興味はありますが誰も信用することはないでしょうw


ラスティ・ネイル  2016年01月02日 02:28
このさい「民主集中党」とかにすればいいのでは。


  古本屋通信

  623さんの後半はともかく、党名変更はあり得ないと言っている。ラスティ・ネイルさんも民主集中制を放棄することはないと言っている。私はここのみなさんとは、管理人さんも含めて、民主集中制にたいする(肯定、否定の)考え方は正反対だが、共産党が党名を変えることはないだろうという点では概ね同じ意見のようである。

 ありえないが、仮に夏の参議院議員選挙のまえに臨時党大会(第27回党大会)を開催して、そこで党名を変えたとしよう。参議院比例区の得票数は増えるか、減るか? 党は850万とって8議席以上確保すると言っている。私は500~550万で 5~6議席だと踏んでいる(これでも改選 3を増やすのだ。だからタカをくくって「国民連合政府」で遊んでいる)。

 選挙をかりに日本共産党以外の党名でたたかったら、どうなるか? せっかくみなさんが (冗談半分に) 挙げて下さっているので列挙してみる。

日本生産党  日本労働党  日本共同党  日本独善党  日本ファシス党  日本選民党  不破ジョイル党  民主集中党  革命的マルクス主義党(革マル党)  歴史必然実現党(歴然党)  日本前衛党  意識変革党(識変党)  科学的社会党(学社党)  (このほか日刊スポーツでは) 大衆党  日本大衆党


  まあ、ジョークなんだけど、それにしても代替案で光る党名はない。唯一のマトモな名前は 「日本労働党」 だが、これは実在する党派があるから使えない。じつは左翼らしい名前はあるのだ。然しそれはみんな既成の小党派が既に名乗っている。脱左翼の緑の党など崩壊は目前なのだ。良い党名など絶対にありえない。日本共産党以外の党名だったら、日本共産党は比例区で何票とれる? 私の結論を書く。党員数より少し多い 40~50万票。つまり党外はだれも投票してくれない。それともいっそ分かりやすく 「志位和夫とその仲間たち」 とでもするか? これなら200万票くらい取れるかもしれない。

  これは来夏の参院選のことだが、このスパンを5年10年に変えも基本的に変わらない。日本共産党はまさに(栄枯盛衰ふくめて)日本共産党の名前で活動してきたし、その名前で支持され、また忌み嫌われてきた。この党名を変えたら万事休す。ソフトイメージで愛されるなんて絶対にあり得ない。

新春の志位記者会見
記者団から「開会式出席は現実路線にみえるが、党の名前を変える考えは」と聞かれ、「まったくない。私たちの党名は根本的な理想と理念を刻んだ党名だ。人類社会は資本主義の社会で終わりだと考えていない。未来にわたってこの党名で活動する」と述べました。


私は日刊スポーツのデマだと思うが、そういう情報があるとすれば、党周辺が話題作りのために意図的にリークした可能性もある。「国民連合政府」提言だって、話題作りの注目集め戦略としては十分な効果があっただろう。マスゴミ戦略である。
リーク 意図的に秘密や情報などを漏らすこと。「マスコミに―する」

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 日本共産党以外の現在活動中の日本左翼の名前を挙げておこう。

日本革命的共産主義者同盟(JRCL)(第四インター新時代社派)
革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)
革命的共産主義者同盟全国委員会の再建をめざす全国協議会 (革共同再建協議会)、
日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)
共産主義者同盟(統一委員会) (2004年結成)
社会主義労働者党(全国社研→マル労同→社労党)
マルクス主義同志会(旧社労党)
新しい労働者党をめざす全国協議会(旧ワーカーズ・旧社労党離党)
統社同系フロント
民学同民主主義の旗派→民主主義的社会主義運動(MDS)
民学同デモクラート派
民主主義学生同盟(民学同新時代派)
日本共産党 (行動派) 日本労働党 
労働者共産党(労共党)
人民新聞社(人民新聞)
革労協現代社派
新社会党
社会民主党(社民党)
緑の党


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日本共産党の党の旧い呼称(蔑称)である 「日共(にっきょう)」 と 「代々木」 に就いては、いずれ書きたいと思いますが、たまたま公安資料が見つかりましたので貼っておきます。


公安資料
暴力革命の方針を堅持する日本共産党

1 暴力的破壊活動を展開(昭和20年代)

1 占領下での勢力拡大
 第二次世界大戦終了後、公然活動を開始した日本共産党は、敗戦直後の国民生活の窮乏と社会不安を背景に党勢の拡大に努め、昭和24年1月の衆院選では35議席を獲得し、10数万人の党員を擁するようになりました。

2 「51年綱領」に基づく暴力的破壊活動を展開
 日本共産党は、同党の革命路線についてコミンフォルムから批判を受け、昭和26年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定しました。そして、この方針に基づいて、20年代後半に、全国的に騒擾事件や警察に対する襲撃事件等の暴力的破壊活動を繰り広げました。しかし、こうした武装闘争は、国民から非難されるところとなり、27年10月の衆院選では、党候補は全員落選しました。
 ところで現在、日本共産党は、当時の暴力的破壊活動は「分裂した一方が行ったことで、党としての活動ではない」と主張しています。しかし、同党が20年代後半に暴力的破壊活動を行ったことは歴史的事実であり、そのことは「白鳥警部射殺事件」(27年1月)、「大須騒擾事件」(27年7月)の判決でも認定されています。

2 「51年綱領」の廃止と現綱領の採択(昭和30年代)

1 「51年綱領」の廃止
 日本共産党は、昭和30年7月の第6回全国協議会(6全協)で、20年代後半に行った武装闘争を「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」(=革命情勢がないのに武装蜂起した)などと自己批判しました。そして、33年7月の第7回党大会で、暴力革命唯一論の立場に立った「51年綱領」を「一つの重要な歴史的な役割を果たした」と評価した上で廃止しました。

2 現綱領の採択
 同大会では、「51年綱領」に代わる党の新綱領が「党章草案」(綱領と規約を一つにしたもの)として示されましたが、現状規定や革命の性格等について反対意見が多く、党内の意思統一を図ることができませんでした。そうしたことから、草案の綱領部分は引き続き討議することとし、この大会では規約部分のみの採択となりました。
 その後、宮本顕治書記長(当時)の指導の下、3年間にわたる党を挙げての綱領論争と、いわゆる反党章派の幹部の除名等を経て、昭和36年7月、第8回党大会が開催されました。そして、同大会で「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本である」とする現状規定や、民主主義革命から引き続き社会主義革命に至るという「二段階革命」方式等を規定した現綱領を採択しました。
 また、両党大会や綱領論争の過程における党中央を代表して行われた様々な報告の中で、革命が「平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による」とするいわゆる「敵の出方」論による暴力革命の方針が示されました。

3 「革命を準備する時期」における党勢拡大(昭和40~60年代)
 日本共産党は、革命に至る過程を情勢によって「革命的情勢の時期」と「革命を準備する時期」という二つの時期に分け、それぞれの時期において、採用すべき戦術、方針を明確に区別しました。そして、現状を「革命を準備する時期」ととらえ、革命の条件づくりのため、長期展望に立って党勢拡大を始めとする各分野での影響力の増大や国会、地方議会での勢力の拡大を図るという戦術を採りました。その後、党勢は拡大し、昭和50年代には、党員40万人、機関紙300万部を超える勢力を擁するに至りました。
 また、国政の分野では、47年12月の衆院選で40議席(革新共同・推薦2議席を含む。)、49年7月の参院選で13議席を獲得するなど、議席を伸長させました。しかし、その後、55年1月には、共産党が共闘の対象と考えてきた日本社会党が、共産党排除の連合政権構想で公明党と合意し、また、ソ連のアフガニスタン侵攻(54年12月)、ポーランド問題(56年12月)、「大韓航空機撃墜事件」(58年9月)、「ラングーン爆弾テロ事件」(58年10月)等、社会主義のイメージダウンとなる出来事が頻発したことなどもあって、議席数、得票数とも頭打ちとなりました。

4 ソ連・東欧の崩壊等による党勢の停滞(平成元年~)
 昭和60年3月に就任したゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、停滞した経済等の立て直しのため、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)政策を押し進めました。そして、この影響を受けた東欧の社会主義国では、民主化要求が急速に高まり、平成元年以降、ポーランドで非共産勢力が主導する政権が誕生したのを皮切りに、「ベルリンの壁」の崩壊に象徴される東西ドイツの統合やルーマニア・チャウシェスク政権の打倒等、東欧諸国の社会主義体制は一挙に瓦解しました。そして、3年12月、世界で最初の社会主義国家として大きな影響力を有していたソ連が解体され、69年間に及ぶ歴史に幕を降ろしました。また、中国では元年6月、政府が民主化運動を反革命運動として武力鎮圧した「天安門事件」が発生し、共産党独裁国家の民主化運動に対する断固とした態度を示す事件として、全世界に衝撃を与えました。ソ連・東欧の崩壊という事実に対し、日本共産党は、「ソ連共産党の解体は、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事」、「(ソ連の崩壊は)科学的社会主義の破綻を示すものではない」などとする宣伝に努めましたが、共産主義イデオロギーの破綻が明らかとなったことで党勢は停滞しました。

5 日本共産党の現状

1 宮本議長の引退と「不破・志位体制」の確立
 平成9年9月の第21回党大会で、長期にわたって日本共産党のトップとしての地位に就いてきた宮本顕治議長が議長職から退き、以後、不破哲三委員長が党の最高指導者として、志位和夫書記局長とともに党運営に当たることとなりました(12年11月の第22回党大会で不破委員長が議長に、志位書記局長が委員長に就任)。
 その後、10年7月の参院選では、これまでの得票を大幅に上回る約820万票を得て15議席を獲得しました。そして、次の衆院選で自民党が過半数割れした際には野党暫定政権に参加する用意があることを強調し、同参院選後の首班指名選挙では、約38年振りに第1回投票から他党党首(菅民主党代表)に投票したり、不破委員長が「暫定政権としては、安保条約にかかわる問題は凍結する」などとする日米安保条約凍結発言を行ったりしました。しかし、他の野党は、日本共産党を含めた政権構想には否定的な態度に終始しました。

2 規約、綱領の改定
 その後、日本共産党は、平成12年6月の衆院選、13年7月の参院選で議席を減少させ、さらに、15年11月の衆院選では、改選前議席を半減させ、約36年振りに一けた台となる9議席にとどまりました。
 日本共産党は、12年11月の第22回党大会で、規約前文を全面削除する大幅な規約改定を行い、「労働者階級の前衛政党」、「人民の民主主義革命を遂行」、「社会主義革命をへて日本に社会主義社会を建設」等の革命を連想させるような表現を削除しました。しかし、「科学的社会主義を理論的な基礎とする」との党の性格や「民主集中制を組織の原則とする」との組織原則は、「党の基本にかんする、規約として欠くわけにはゆかない部分」として条文化しました。
 引き続き、16年1月の第23回党大会で、昭和36年7月の第8回党大会で採択して以来5回目となる綱領改定を行いました。
 改定の結果、マルクス・レーニン主義特有の用語や国民が警戒心を抱きそうな表現を削除、変更するなど、「革命」色を薄めソフトイメージを強調したものとなりました。しかし、二段階革命論、統一戦線戦術といった現綱領の基本路線に変更はなく、不破議長も、改定案提案時、「綱領の基本路線は、42年間の政治的実践によって試されずみ」として、路線の正しさを強調しました。
 このことは、現綱領が討議され採択された第7回党大会から第8回党大会までの間に、党中央を代表して報告された「敵の出方」論に立つ同党の革命方針に変更がないことを示すものであり、警察としては、引き続き日本共産党の動向に重大な関心を払っています。
  1. 2016/01/02(土) 04:53:59|
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