古本屋通信

岡山平和書房(2)

古本屋通信     No 1601  9月8日

 岡山平和書房(2) 岡山平和書房の初代女店主



  話は8月26日の 「No1579 岡山平和書房」 の続きなのだが、断片的な思い出だから独立して読んで貰ってよい。今回は副題を 「岡山平和書房の初代女店主」 とした。ここでいう初代とは店舗が柳川通り(蕃山町)に移転する以前の、南中央町(田町の歓楽街に隣接していた)の時代の店主である。

  私的な経過から書かねばならない。私は1964~68年まで高松市にいた。その学生生活のかなりは民青同盟員としての生活であり、左翼文献は欠かせなかった。党文献は民青の事務所(中央通りと観光通りの交差する2階建てのビルだった。向いのビルからは24時間望遠カメラで覗いて撮影していた。だから非公然部分は出入りを避けていた)や党県委員会(藤塚町)にもあったが貧弱だった。だから大抵の書籍は宮脇書店で買った。当時の宮脇には大月書店の国民文庫などズラリ揃っていた。しかし民青県委員長の上杉さんは香川に民主書店が存在しないことを嘆いていた。いつもこう言っていた。 「岡山はいいなあ、立派な党の本屋がある。香川も早く持ちたい」。

  私は1968年4月に岡大に学士入学した。その日に南中央町の平和書房に行った。店は狭かったが上杉さんが言った通りの魅力的な店だった。本も多かった。社会科学一般や新左翼本はなかったが、党文献や党員・民青同盟員の必読書は全て揃っていた。その日に何を買ったかは憶えていないが、10冊ほど買った。

 中年の品のある女性店員が対応してくれた。私は初めての客だった。遠慮がちにいくつか質問した。女性はインテリには見えず生粋の労働者に見えた。そして私の質問に過不足なく的確に答えてくれた。

  そこで私は調子に乗って予定外のことを話した。「あのう、実はドイツ語のテキストを入手しなければならないんです。これから丸善に行こうかと思っていたのです。出来ればこちらで注文を出して下されば助かります」。女性が本の題名を訊いたので、私は紙に書いた。「経済学・哲学草稿」 と 「ドイツ・イデオロギー」。そして、こう添えた 「まだドイツ語が読めないんです。だから原文のドイツ語の書名の正確な名前や出版社は分かりません。全集本や選集本に入っているものでもいいんです。とりあえず読めれば・・・」。私はこの話を切り出すには躊躇があった。いくら書店員だといっても、労働者らしい女性にいきなり自分でも読めないドイツ語の原書の注文を出すのはどうかと思ったのだ。

 女性は私の懸念などまったく頓着しなかった。「ええ、すぐに手に入るか、それともかなり懸るか、何ともいえませんが、とにかく手配してみます」。結果だけ書く。一週間で本は届いた。売価は予想よりはるかに安かった。届いたのはディーツ版のマル・エン全集の初期巻だった。あとで成る程と思った。私は既に「経済学・哲学草稿」 と 「ドイツ・イデオロギー」 の英語版は持っていた。何のことはない、仕入れルートはソ連系の友好商社、たぶんナウカ社(脚注)経由だったのだ。この女店主はこのルートに精通していた。


  岡山平和書房が南中央町を引き払って蕃山町に移転した正確な時期は分からない。私の岡大時代2年間は南中央町店だった。たぶん10回くらい行っただろう。他にアルバイトの手伝いもいただろうが、私は女店主しか記憶にない。まあ、私の中では偶像化された理想の女性だ。しかし彼女は蕃山町店には来なかった。以後45年間、噂を聞いたことはない。

 然し昨日とつぜん思いついた。この女店主は岡山平和書房のオーナーだった板野勝次氏の細君だったのではないか。何の根拠もない。状況証拠さえもない。しかし私の妄想は膨らむばかりだ。だから今日の記事となった。


 もうひとつだけ。この女店主と係わって忘れられないことがある。私が店を訪問したとき、たいてい先客がいた。いつも女店主と親しく歓談していた。彼は(後で知ったのだが) 岡大医学部の民学同の活動家のN氏だった。ずっと常連だったのだろう。私はその後の彼が岡大闘争を経る中で、岡大を中退して県北で酪農しながら日本原基地反対闘争を担ってきたことを知った。今でも緑おかやまの関係に名前がある。その非転向に脱帽するが同時に、「反党分子」の学生を手厚く遇した女店主も特筆に価するだろう。


 尚、この女店主がN氏を厚遇したことについて、後に岡山平和書房の店員になった藤原ひろ子さんがこう言っていた。「お客だから本を売らないとは言えないだろうが、何も親しく話すことはないでしょ。共産党員なのに党派性が疑がわれるワ」 と。評価の是非は読者に委ねよう。


 それよりも私はこの文を藤原ひろ子さんの息子さんに読んで貰いたくて書いた。藤原さんと私の間には私の党籍を巡って色々あった。然し彼女が他界してすでに久しい。息子さんは父親の姓を継いで東田さんという。いま日本共産党岡山市議団の事務局員として働いている。


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  参考  ウィキペディア

 ナウカ
ナウカは、ロシア・ソ連関係の書籍を主に扱う神田神保町の書店・出版社である。店名は「科学」を意味するロシア語の女性名詞 наука に由来する。ナウカ書店、ナウカ社といわれることもある。

沿革[編集]
1931年(昭和6年)、当時の東京日日新聞(現在の毎日新聞)記者であった大竹博吉により創業。ソ連からの洋書輸入や、ソ連の社会主義建設を紹介する本、ロシア・ソ連関係の広い範囲の書籍を輸入し、日本におけるロシア研究、ロシア語学習に大きな役割を果たした。辞書の編纂、教科書の作成も手がけ、季刊誌『窓』の発行元でもあった。
大竹はプロレタリア文学とも関係が深く、徳永直や本庄陸男の作品集を出版し、プロレタリア作家の拠点となっていた。しかし、1936年(昭和11年)、小林多喜二全集を出版したところ、治安維持法違反として解散を余儀なくされた。
第二次世界大戦後営業を再開したが、GHQによって再び閉鎖された。1952年(昭和27年)、三たび設立。
ソ連だけでなく欧米の洋書も輸入し取り扱っていたが、ロシアへの関心の低下とインターネット個人取引の拡大に伴い書籍の売り上げが低迷し、さらに国立大学の法人化によって研究機関からの書籍の発注が減少したことで経営が行き詰まり、2006年(平成18年)7月6日に東京地方裁判所にて破産手続開始を申請[1][2]、9月半ばで閉店した。季刊誌『窓』は、133号(2005年10月)を最終号として休刊。
2006年11月17日、ナウカ・ジャパン合同会社を設立。2007年2月23日、小売店舗も開店(再開)した。

脚注[編集]
1.^ ナウカが自己破産 新文化 2006年7月11日更新
2.^ ナウカ書店 老舗のロシア語専門書店が破産 神田神保町(毎日新聞)2006年8月22日更新

参考文献[編集]
大竹会『大竹博吉・遺稿と追憶』(ナウカ、1961年)
古本昭三『ロシア特派員』(ナウカ、1991年)



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  古本屋通信

 ナウカ社について私は詳しくないが、知る限りのことを少し書いておこう。この頃のナウカ社は商売としては取次の比重が圧倒的だったように思う。小売の岡山平和書房と直接取引があったか、それとも東販、ニッパン、鈴木などを経由して本を入れたか判らない。しかしソ連関係は独占していた。まあ商売なのだけど、ソ連のプロパガンタだったろう。

 で、微妙なのは1963,4年に日本共産党にソ連分派の日本のこえが出来てからのナウカ社の動向である。これは正式には志賀一派と組んで、日本共産党とは絶縁した建前になっている。だから共産党の本屋ともいえる全国の民主書店とは取引きが消滅した筈である。しかし実際には商売第一で、平気で本を売っていたのだ。ここら辺りも当時の赤旗には関連記事が載っていた。

 ナウカ社ではないが、モスクワ放送の関係でも面白いことがあった。例の岡山の片山潜。岡山の共産党は片山潜を天まで持ち上げているが、かれの遺族はモスクワ放送に勤務していたから、実際はソ連派だった。久米南町の片山の碑も微妙なのだ。私に言わせれば早々に撤去したほうが良いと思うが、これは他日にゆずる。
  1. 2015/09/08(火) 00:57:41|
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