古本屋通信

再録・2回目の私のプロフィール

古本屋通信    No 1552   8月9日

  再録・2回目の私のプロフィール



  つい先日、左欄プロフィールを起草したが、これはプロフィールを逸脱している。読者はこういう政治的立場の説明は求めていないのではないか、とフト思った。旧いプロフィールが残っていた。再録したくなった。


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古本屋通信   No 203  5月7日

  プロフィール補記 

 今回、このブログの [プロフィール] をすこし変えた。
この欄は初めての訪問者がけっこう見るらしい。下記のようにした。

街の古本屋
1945年岡山市生れ。
岡山に本社がある
テスト屋兼出版社
の勤務を経て、
パチンコで稼いで、
1994 年古本屋を開業。
古本のブログにあらず、
新旧左翼のブログです。

 私のブログは匿名だ。匿名性のあれこれについては、今回ここでは書かない。このプロフィール、いちおう匿名ではあるけれど、「私は身元・素性を隠しません」というのがこの欄だ。だから匿名性は確保するけれど、無責任な事は書けないし、書かない。これだけで十分なのだが、インターネットはグローバルだ。まさか中国や朝鮮に読者はいないだろうが、私を全く知らない遠方のひとにも読んでもらいたいので、本文記事を読む時の参考になるかも知れない事を、少しだけ補記したい。
 

 私は1945年5月、岡山市巌井西新町に生まれた。これは岡山空襲の一ヵ月まえ、日本の敗戦の二ヵ月半まえだ。私は生後39日目に岡山空襲のなか、岡山から北25キロ岡山県赤磐郡五城村新庄の母の実家に、祖母に背負われて帰った。母の実家といっても、一人娘の母は嫁いで実家を出たわけではなく、新庄の家は空家の自分の家だった。私はここで高校を卒業するまで18年間生活した。父は岡山師範学校卒の教員だった。生涯の教職生活では国民学校と小学校が多かったが、私が中学生のころは中学の教員だった。教科は社会と体育だった。私はいずれも父に教わった。母は岡山女子師範学校付属保母養成専門学校卒で、戦後の一時期を除いて保育園か幼稚園で仕事をした。この母が冒頭で書いた現在93歳の母である。

 私は満18歳で家を出た。国立一期校のO大学法文学部法学科をすべり、国立二期校のK大学学芸学部(1年後に教育学部に名称変更)中学校課程英語専攻に入った。どっちも余り変わらない難易度だったが、このときO大学に入っていたら、私の左翼観はかなり変わっていたと思う。私は民青にではなく、民学同に加盟していただろう。ただしプロ学同・共労党には行かなかったと思う。私が構造改革派にいまだにこだわるのはこのときの後遺症なのだ。

 K大学の4年間は、私の生涯でもっとも輝かしい時代だった。恥ずかしい失敗や未熟を含めてそうだ。そして、学生時代の4年間がもっとも輝かしい時代であったのは、民青同盟員・共産党員だけでなく、民学同、マル学同、社学同に所属していた学生の多くにも共通していただろう。加入する党派はちょっとした偶然で決まる。私は永田洋子と同学年だ。奥平剛士も同学年だ。奥平は岡山朝日高校から京大工学部に入った。私が奥平の道を歩まなかったのは、奥平が勉強ができ私ができなかったから、そういうことも言える。絶対にありえないが、万が一に私が京大に入っていたら、私は自分がブントに加盟していた可能性を否定しきれない。そういう偶然の要素もある。私にとってトロツキストは自分の「影」だった。敵ではあったが、わが内なる敵でもあった。
 
 卒業後の就職先については書いたとおりだ。この時代は自分の労働で賃金を得て生活した労働者の時代だ。書きたいことは多いが、書くとしてもずっと先になるだろう。将来も書けるかどうかわからないので、今ちょっとだけ書く。充実した「時」であった。マルクス主義の言葉で言う。労働が人間を作る。労働は資本主義下の労働としては「疎外された労働」以外にはありえないが、それは「疎外された労働」に包摂されつつも、労働それ自体の論理を貫徹する。* * この辺のことは芝田進午の受け売りだ。私の現実の即していえば、ここで拙文が書けるのもテスト屋兼出版社で編集・校正の労働に従事したおかげだ。個別出版資本については色々あるが、私のいたテスト屋兼出版社、文春、新潮、いずれも出版資本は独占資本ではない。そういう意味では敵ではなく、新聞資本ともども打倒の対象ではない。これと言論内容の階級性は全く別問題だ。

私のいた会社の先代社主についてひとことだけ書く。戦うべきは微力をつくして戦った。協力すべきは協力した。悔いはない。しかしそれは賃労働と資本の関係の問題としてだ。人間個人の問題としては、先代社主 T は実に魅力的なひとだった。かれに私がどう映ったか分らないが、私はかれを憎んだことは一度もない。かれは私の退社後3年をまたず急逝した。この人物にいやな思い出はなにもない。懐かしい思い出なら腐るほどある。しかし、後継者が社名をかえて事業を継続している以上、先代社主についてこれ以上具体的な肯定的評言を記すことはできない。唯物論者として生きていくとは、階級的に生きることだ。その原則に照らして、書くべきでないことは死ぬまで書けない。

「パチンコで稼いで」というのは実は正確ではない。「パチンコ屋にて稼いで」というのが正確だ。つまり出回りはじめたスロットマシーンで儲けたのだ。私がアウトロウの世界に出入りしていた数年間だ。いかに儲けたかは一切書かない。他人から聞かされる自慢話ほど退屈で鬱陶しいものはなかろう。それにこの世界、半年もすれば過去話はゴミになる。三十年まえがよかった話などに何の意味もなかろう。この時代にスロットで家をたて奴もいた。私は本をたくさん買った。その本は古本屋開店の際にも役に立った。かつてはこの世界でしぶとく生きている人はいた。然しいまや業界はその存在を必要としなくなっただろう。いまではパチプロはいないのではないかと思う。

 このブログが「古本のブログ」でないことについて。ブログに限らず、古本屋、新刊屋について書いた本や記事ほどくだらないものはない。私はちらっと横目でみるが、買って読んだことはない。HP の目録( 注文カタログ )以外の記事に碌なものはない。よく本を知っていますといわんばかりの軽薄さが耐えられない( 岡山の柘野健次さんの本は例外的によい。これについてはいずれ書く )。私はこういうものだけは書きたくない。ついでだが、たいていの古本屋はこういうものは読まない。なんの役にもたたないし、面白くもないからだ。

 最後に。新左翼・旧左翼の呼称そのものが本来曖昧だが、今日では左翼の呼称そのものが死語になった。かつて左翼ということばは独特の光彩を放っていた。誰もが我こそは真の左翼であるといい、他派を偽左翼と呼んだ。今日では誰も左翼を名乗らない。どっこい、ほんとうに左翼に再生の可能性はないのか。私はそうは思わない。だから左翼のブログを名乗る。「新旧」を冠せたのは、私のブログ全部をよんで頂ければご理解いただけるだろう。今や新旧の区別など何の意味もない。中核派の集会に行ってみたらよい。1960年代、1970年代の安保破棄中央実行委員会主催の集会のような雰囲気だ。参加者が爺さんばかりだという点を除いて。

 今回、この記事けっこう気楽に書いた。しかし、引用を多用するようになってから、引用のない記事もつい長くなる癖が付いてしまった。余り意味のない長文化はやめなければならない。
 数少ない ( 然し当初の予想を数倍する ) 読者のみなさん、短文でも頑張って毎日更新したいので、拍手のほうもよろしくお願いします。

** 註 『人間性と人格の理論 』 『現代の精神的労働 』

  1. 2015/08/09(日) 17:11:22|
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