古本屋通信

石崎ブログの転載

古本屋通信    No 1508    7月01日

  
石崎ブログの転載



  石崎徹さんが自分のブログに連続的に私小説風の読み物を掲載された。私は面白く読んだ。私の読者がどう感じられるか分からないが、いつもゴツゴツした私の文を読まされている方には清涼材になるかも知れない。石崎さんは記事一般の転載は構わないが、文学作品には著作権があるから転載はお断りだと書いていた。抗議が来たら削除することを前もって書いておく。編集上の手はまったく加えていない。石崎さん宜しく。





  旧友   2015年06月28日 (日)

 旧友のことを書いている。ぼくの青春時代のことなので、つい懐かしさで話が長くなり、さりとて書き出したらきりがないので、いい加減ではしょるので、結局、中途半端でわかりにくい内容のまま400字詰めで25枚になってしまった。このままアップしてもだれも読まないだろうから、どうするか検討中です。少し文章を手直しして読んで読めないこともないだろうという程度にできたらアップします。


  小林清のこと(1)  エッセイ - 2015年06月29日 (月)

 小林清のことを思い出したのは、一田和樹のハードボイルドを読んだせいだ。 
「木枯らし紋次郎」が流行ったとき、彼が言った。
 ――紋次郎は「あっしには関わりのねえことでござんす」と言いつつ、結局は関わってしまう。冷たいように見せて実際にはやさしい。それが人気の秘密だ――
 高倉健のこともあった。ある日、高倉健のやくざ映画を観てきたと言った。それには、次のような事情があった。当時の我々の仲間に、美貌とはいえないがとても生きのいい女がいて人気者だった。高倉健の映画をしょっちゅう観にいっては「ケンさん、いいわあ、いいわあ」と言いまくっていた。彼女に恋しながら相手にしてもらえない我が友は、彼女がどういう男を好きなのかという参考のために行ったのだ。そして帰ってきて言うには――高倉健の演じるやくざは、結局やさしいんだ。

 この旧友、小林清について少し書きたい。そこから脱線して当時のことをいろいろ長々と書いてしまうかもしれない。
 どういうわけか、ぼくの友達はみな若死にしたが、小林もその一人だ。いつごろ亡くなったのだったか。ソ連が崩壊したときにはまだ生きていたが、それから間もなく死んだ。あれから24年になるから、まだ40代になったばかりの頃と思う。
 顔を合わせればソ連、中国、共産党の悪口を言う男だった。それがソ連が崩壊すると、なんだか元気がなくなった。好敵手を失って生き甲斐を失くしたように見えた。
 妻も子も兄弟もなく、父もなく、母親は彼と同じときに亡くなった。近親者が誰もいないから、本名でプライバシーを書いても差し支えないだろう。
 母親と二人、花園団地に住んでいた。ここは工芸繊維大学の寄宿舎だったところの跡地に当時新築されたばかりだった。蛇口をひねれば湯が出るのだと自慢していた。
 母親はすでにリューマチやいろいろ持っていて身体が不自由で、本人が自宅で癲癇の発作を起こして倒れると、母親には為すすべがなく共倒れとなった。彼が癲癇を持っていたことをぼくは知らなかった。知らずに、ドストエフスキーもマホメットも癲癇だったという話を彼と語りあった記憶がある。
 三歳くらい年下だ。くらいというのは、出会ったころの記憶があやふやでちゃんと計算できないからだ。20才を過ぎて少しのち、ぼくは同志社にまだ籍を置いていたが、もうまったく単位を取れる見込みがなくなって、その夏、淡交社でアルバイトをしていた。
 淡交社というのは裏千家の本屋だが、よく淡路交通というタクシー会社だと間違えられていた。淡く交わるというお茶の心得が社名になっている。堀川通りの北大路を少し下がったところに社屋があって、その夏の間にかなり大きなビルに建て替えた。
 お茶の教科書のシリーズ本、京都の有名人たちのエッセーシリーズ、京都・奈良の寺社紹介シリーズ、そして花鳥風月を描いた日本画を収録したカラー刷りの、一冊何万円という大部の本もあった。
 我々が働いたのは倉庫だ。そこには本が山と積まれている。日版、東販といった大手の本問屋、あるいは地方のお茶屋だとかの小売店などに向けて荷造りし、トラックに積み込む。逆にトラックで運びこまれてきた返本を下ろして倉庫に積み上げる。数名のバイトが並んで本のリレーだ。数冊の本を重ねてぱっと投げる、それをさっと受け取って次の人に投げる。それを延々と繰り返す。悲惨なのはコンテナが来たときで、コンテナの中には無数の本があり、やってもやっても仕事は終わらない。ぼくはキャッチボールをしたことがなかったので、投げられた本を受け取ることが出来ずに、ばらばらと落とした。だが毎日繰り返すうちにだんだん上達した。ぼくはそれまで自分を訓練した経験がなかったので、これはその最初の経験となった。
 話が小林のことからずれるが、この本屋にはもう一つ仕事があった。本を破るのである。返本されてきてもう売れる見込みのなくなった本を破る。何時間も黙々と破る。何百冊もある。もちろん二つにカットしさえすればよい。細切れにまでする必要はない。なんのために破るかというと、古本屋に流れることで新刊が値崩れするのを防ぐためなのだ。
 本屋の仕事が本を投げることと破ることだとは、このとき初めて知った。
 そこで話を元に戻す。ここに嵯峨高校を卒業して大学受験に失敗した浪人生たちがアルバイトに来ていた。彼らはみな北野近辺の子供たちで、それぞれに一癖ある面白い者たちだった。その一人T・Mが、近所に平安高校へ行って、ニーチェやサルトルを読んでいる変わり者がいるといって紹介してくれたのが小林清である。ニーチェばかり読んでいたせいか彼も受験失敗組で、だから、このときみんな18才から19才になった年だというのは分かっている。分からないのはぼくの齢の方で、たぶん21から22になる年なんじゃないかと思うのだがはっきりしない。


  小林清のこと(2)  エッセイ - 2015年06月29日 (月)

 小林の母親は、北野天神から少し下がった商店街の長屋の一軒を自宅兼用の小店にして、そこでコロッケを揚げて売っていた。小さな粗末な家だった。それでも二階があって、そこが小林の自室だった。中央公論社の箱入りの「世界の名著」が本棚にずらりと並んでいた。
 やがて知ることになるが、小林はめかけの子だった。つまり小林の母親があるお金持ちのめかけだったのだ。小林が小学生のころにその男は死んだ。それまで小林はそういう家族関係に何の疑問も持たず、普通の父と子と思って明るく生きていた。だが、父親が死んだとき小林は葬儀に招んでもらえなかった。このときから小林はものを考えはじめた。
 中学か高校かで柔道をやっていたとかで、たしかにごつごつした感じはあったが、服を着ているとすらりとやせて見えた。背はぼくより少し高かった。短髪で、頬がこけていて、狐を連想させる顔つきで、これが実際以上に彼をやせて見せていたのだろう。近眼だったが眼鏡もコンタクトもしておらず、細い目をいつもいっそう細めて人を見た。人を睥睨しているような、傲岸不遜な雰囲気があった。
 ある日、彼をぼくに紹介したT・Mのお母さんがぼくに言った。
「小林君は子供のときからずっとここに住んでいて、それでも近所の人と出会っても素知らぬ顔をする。あれは彼が近眼で、出会ったのが知っている人なのか赤の他人なのか見分けがつかないからなんだ。そういうとき、気の小さい人は、相手がだれであろうとおかまいなしにともかくお辞儀する。だけど小林君の場合は逆に相手がだれであろうとおかまいなしに気付かないふりをするんだ」
 かなり親しくなってから(あるいは彼が太ってからのことだったかもしれない)、本人の口からこんな話を聞いた。
 ある日、北野天神の祭りに行った。参道の出店を歩いていて、ふと一人のやくざ者と目が合ってしまった。内心これは困ったと少しびびったが、えいままよと思ってわざと目をそらさなかった。すると相手はいきなり「おアニイさん、ご苦労様です」と言って頭を深々と下げた。
 この話にはしゃべったほうも聞いたほうも大笑いした。世の中ハッタリが大事だという結論になったが、柔道の心得があるからこそ肝を据えることもできたのではあろう。ただ、どうかするとやくざに見えかねない顔ではあった。しかしこれは後の話だ。知り合ったころはそんなに打ち解けることはなかった。辛気臭い顔で、サルトルやキェルケゴールの話ばかりした。
 だが、おしゃれだった。洋服のよく似合う体型だったから、ラフなベージュのブレザーコートにネクタイ着用、同系色のすっきりしたズボンに革靴で、いつもぴっちり決めていた。
 当時風呂のある家は滅多にない。銭湯が近所にいくらでもあるのでその必要もない。T・Mに言わせると、「小林は銭湯へ行くにもネクタイを結んでいく」
 小林に問うとそれは事実でその言い訳が、「一日ずぼらでいるから、せめて外出するときは気分を転換したいんだ」
 ぼくらは同人を結成し、雑誌を発行した。嵯峨高校OBを中心に、同志社英文科からぼくともう一人(これはのち金光教の教会主になった。彼についてもいずれ書きたい)、あとは成安女子短大のOB二人(うち一人が妻である)、それに小林。


  小林清のこと(3)  エッセイ - 2015年06月29日 (月)

 一番熱心だったのは、小林をぼくに紹介したT・Mだ。ぼくらのグループを作り上げたきっかけになった人物なので、しばらく小林を離れてT・Mのことを書く。名前を出してよいかどうかわからないので、T・Mとする。
 彼にも父親がなかった。小さな家の中で、母と祖母とが機を動かして生計を立てていた。その賑やかな機の音がT・Mの少年時代の生活の音だった。
 京都の町というのは、碁盤目の道路がある。道路に面して家は密着して建っている。その間口は狭く、ウナギの寝床で奥の深い構造になっている。その奥にじつは庭がある。これは家々に囲まれているので、街路からは見えない。ところが場所によって、家々の隙間を抜けてこの中庭風のところに出られる場所があり、しかもそこにも家が建っていたりする。T・Mの家があったのはそういう場所で、家々に囲まれて雑草の生い茂るところに、掘立小屋のように建っていた。トイレは共同らしく外にあった。もちろん汲み取り式だ。まるで江戸時代から変わらないような風景に思えた。
 ぼくは京都で初めて貧困を目にした。福山でぼくの家族はせまいアパート暮らしだったが、鉄筋コンクリート作りの五階建てで、都市ガスが来ており、水洗トイレだった。そこでは、ほんとうに貧しいと思える暮らしを目にしたことはなかった。地方というのは全体に豊かなのだ。貧困は都市にある。
 だが、このT・Mの母親は貧しかったが読書家で、息子も本を読んだ。太宰治に心酔していたところからぼくとの付き合いが始まったのだが、もちろんカミュやカフカも読み、高橋和巳なども読んでいた。その上、嵯峨高校では落語研究会で、お茶もたしなむ。淡交社に来たのはその関係だった。バンドマンでもあった。一度コンクールに出場したが、ギターの弦が切れたりでさんざんだったらしい。そのコンクールに猛烈にうまいグループが出場していて、彼らがやがてタイガースとして現れたというおまけまである。(沢田研二はたぶん鴨沂高校だ。この高校はたんめん老人さんのブログにも出てきたが)。クラシック音楽も好きでときたま口ずさんでいた。
 背が低かったが、縮れっ毛で、色が黒く、彫りの深い顔立ちで、どうかするとマレー系に見えた。太宰治に心酔するくらいだから、そういう情感の持ち主なのだが、見た目は陽気でにぎやかで、落語で仕込んだ冗談で人を笑わせてばかりいて、社交的で面倒見のよい男だった。だが、感激屋で、さびしがり屋のところがあり、そういうところが太宰治に惹かれたのだろう。
 二度目の受験に失敗して被服会社に就職し、まもなく結婚して、じきに枚方に家を建てた。家を建てるという考えと縁遠かったぼくはびっくりしたが、彼の育った家を目にしているので、理解はできた。根本に、堅実で実務的なところがあった。だが、それも危ういバランスだったのかもしれない。のち、脱サラして司会業やラジオのパーソナリティをやり、京都観光案内的な本を何冊か出版したが、いま行方不明になって、出版元に問い合わせても、こちらも探しているのだという答えが返ってくる。何があったのか、当時の仲間たちの連絡先を失ってしまったので、確かめようがない。
 昔のことを書き始めると、懐かしさでつい脱線してしまう。T・Mについても書きたいことはいっぱいあるが、そろそろ話を戻そう。
 その年の暮れにぼくは日新電機に就職し、九条の寮に入った。ところが働き始めたとたんに俄然勉強したくなってきて、立命の夜間を受けることにして受験勉強を始めた。永年怠けてきたので大変だった。同志社を受けたときも受験勉強などしたことがなく、生まれて初めての受験勉強だった。三か月しかない。さいわい三教科でよいので、計画を立て、一教科を一ヶ月で上げることにし、仕事(現場作業)から帰ると食事、入浴をすませてまず布団に入って寝る。夜中に起きて勉強した。
 このとき同人仲間の何人かが一緒に立命を受けた。T・Mはもちろんいた。あと何人かいたと思うのだが、小林は受けなかったような気がする。結果的にはぼくだけが受かってあとは全滅し、大学をあきらめてそれぞれの道に散った。京都で就職したT・Mが中心になってなお何冊か雑誌を出した。
 当時のメンバーの一人U・Kは東京の演劇学校へ行った。結局俳優にはなれずに、何年かして嫁さんだけ連れて帰ってきた。姉さん女房で、訊くとぼくと同い年だった。Gパンの似合う小柄でかわいい人だった。カフカが好きで、いつも鋭い警句を短く吐く。説明しないので、ちょっと頭を悩ませるそういう女だった。
 U・Kはひょろっと背が高く、いつもまじめな顔をしていて、その顔のまま、いきなり道端で能を演じはじめたりする。それがなかなか堂に入っている。淡交社のバイト担当者に「あいつはまじめなやつかと思ったら、とんでもないひょうきんなやつだったな」とつぶやかせた。
 彼にも父親がなく、祖父母の家で育ったような話だったが、その家はちょっとした邸宅で、ほかのメンバーとは違っていた。いちばん大人っぽい雰囲気だった。
 帰京後、障害者施設で働いているという話だったが、いつの間にか比叡山で修業して坊さんになっていた。小林が死んだとき、彼がお経をあげてくれた。墓もどこかに作ってくれたという話だったが、ぼくの人生がままならなくなっていた時期で、連絡も取れずに結局そのままになってしまった。
 もう一人彼らの仲間に、どのあたりだったかどこか裏通りのクラシック喫茶の経営者の息子がいて、これが唯一眼鏡をかけたどこかすっとぼけたような味わいのある男だったが、これは横浜の消防音楽隊に入った。
 こうして仲間は散ってしまったが、T・Mが職場の仲間を連れてきたり、嵯峨高校の同窓生を連れてきたりして、集まりは続いた。


  小林清のこと(4)  エッセイ - 2015年06月29日 (月)

 小林も一度だけ書いた。未完の作品(というよりもほとんど書き出しだけ)だったが、ちゃんと小説らしい文章表現になっていて、おや、こんな才能があったのかと、一同で見直した。
 小林は細々とアルバイトをしていた。お母さんが嘆いた。「そこらでサラリーマンなんかやるより、コロッケ屋の方がずっと儲かるのに、本人がやる気にならないんだから」
 このころ一度民青に入ったと報告に来た。だがすぐに、馬鹿ばかりで話にならないと言ってやめてしまった。
 その頃ぼくは結婚して阪急の長岡天神に住んでいた。駅から五分のアパートだったが、当時はまだまわりに田んぼが多かった。小林はよく遊びに来て、周辺を一緒に散歩した。ある日田んぼを見ながら小林が遠慮がちに尋ねた。
「これはネギか?」
 ぼくは驚いた。稲とネギの見わけもつかないのだろうか。だいたい田んぼになんでネギが植わっているのか。だが、下町育ちで郊外に出たことのない人間は田んぼなど目にしたことはないのだ。
 高倉健ファンの女の子に熱をあげたのもこのころだ。デートを申し込みたいが勇気がないので橋渡ししてくれという。
 馬鹿なことをと思ったが、仕方がないので引受けた。雨の日だった。喫茶店に呼び出すと女の子は喜んできた。それでかくかくしかじかと話しはじめると、とたんに不機嫌になった。
「そんなん、おかしい。なんで本人が自分で言わへんの」
「だから本人はいつも生意気なことばかり言っているけど、ほんとうはとても純情で勇気がないんだよ。電話をしようとして受話器を取り上げるんだけど、結局指が震えてダイヤルをまわせないと言っている。会ってくれるだけでいいと言ってるんだから、ともかく一度だけ会ってやってくれ」
 女は相当怒っている。ぼくの顔を睨みつけて、絶対嫌だという。説得してなんとか思い返させたが、ほんとうはその日に会わせる段取りだったのを、「今日はいやや」「なぜ今日ではだめなんだ」「何が何でも今日は絶対いやや」それで結局、その日になったのか、ちがう日になったのか、そこまでは覚えていない。ともかく約束は成立した。外へ出ると、女は派手に油がぎらついている真っ赤な唐傘を拡げた。もちろんそんなものが普及していたような時代ではない。
「なんて傘をさすんだ」
「ええかっこしたいんやもん」
 そんな女だった。
 そののち、ぼくは京都生活に見切りをつけ、いまは福山市になっているが当時は郡部だった新市に数カ月、そのあと倉敷市水島に移った。72年の秋から73年にかけてだ。
 小林は車の免許を取ってトラックに乗ったりしていたが、いつのまにかコロッケ屋を継いだ。人に雇われたってつまらないということを悟ったのだろう。
 この先を書く前に、いままでのところで書き洩らしていることを追加しておく。
 サルトル、カミュ、ヘミングウエイをよく読んでいたが、魯迅も好きだったという話をのちに誰かから聞いた。だが、魯迅を語りあった記憶はない。
 司馬遼太郎が好きで、ほとんど読んでいた。戦国時代や幕末の話を好んだ。
 太宰治を大嫌いだった。太宰に対する評価は人によって両極端に振れるようである。大好きか大嫌いかだ。中間はない。
 三島由紀夫のファンだった。と聞けば小林という男がだいたいわかるのではないか。普通の少年が、ある日自分は普通ではないのだということを知ってしまい、自己の存在の根拠を探し求めて哲学的世界を逍遥する。だが、柔道をやってきたこの男は、太宰治のように人生に甘えて愚痴ばかりこぼすような女々しい生き方はしたくない。どうせ社会も人生も矛盾だらけだ。ならば、ハードボイルドに生きようではないか。
「太宰治の悩みなど、乾布摩擦をするだけで解消する程度の悩みだ」と三島が言ったという話をぼくに紹介したのは小林だ。
「『憂国』は少女漫画だ」とぼくが言うと、「少女漫画で腹が切れるか」と反発した。
 もちろん彼はマルクスもレーニンも多少は読んでいた。悪口は言うが、選挙になれば共産党に入れた。このころぼくのまわりにいた京都人はみなそうだった。普段は悪口を言うくせに選挙になれば共産党に投票する。「だって、ほかに投票できるところがない」と彼らは言った。ソ連軍がチェコに侵攻したとき、赤旗の報道が遅れたことを誰かが批判した。するとのっぽのU・Kが「赤旗は政党の機関紙だから、統一見解をまとめるのに時間がかかるのは仕方ないだろう」と弁護した。(この話をしたとき、ぼくらは裸で銭湯にいたような記憶がある)。
 みんなそんな感じだったが、なかでも小林は特にマルクス主義への関心が強く、それだけよけいに反発していた。彼はほかの人々よりも、自己の存在基盤を確かめたい気持ちが強かったのだと思う。それは父親の葬儀への出席を阻まれたときに彼の中に生まれた喪失感――足元から自分の存在基盤が崩れ去っていく感じ――からくるものなのだろう。だから、それを確認することが最優先するので、普通の人々のように普通に社会があり、普通に自分がいて、普通にその中で選択していくということが出来なかったのだろうと思う。


   小林清のこと(5)  エッセイ - 2015年06月29日 (月)

 80年ころ、京都で久しぶりに会ったコロッケ屋の亭主は、すっかり太っていた。といっても腹が出たというのではなく、胸と腕とにモリモリと筋肉をつけていたのだ。細く見えていた身体が、いまでは逆三角形だった。体型から三島由紀夫になってしまった。
 コロッケ屋は繁盛し、立命の女子学生たちをアルバイトに雇っていた。隠し持っていた経営の才をにわかに発揮し出していた。
「でも、どっちがプロレタリアか分からないよ。あの子たちが剰余価値を生みだしているようには思えない。おれが彼女たちに搾取されているような気がする」
 当時まだ珍しかった3ナンバーの馬鹿でかい車を乗り回していた。お母さんが嘆いた。
「家の家賃は永年借りているから安いんだけど、あんた、車を置いておくところがないから、駐車場の借り賃が、家の家賃の何倍もするんだよ。人間様二人の住む所より、車一台の住むところの方が高いんだ」
 株の売買をやっていた。70年代の二度のオイルショックとドルショックとで高度成長が終わりを告げた日本経済は、バブルの時代に入りかかっていた。設備投資する対象を失ったマネーが土地、不動産、株、商品、美術品などに殺到する第一次バブルである。すでにその兆候はあったのだろうが、それはのちになって思うことで、まだ人々は気付いていなかった。
「どの株がいいかじゃないんだ。人がどの株をいいと思うかなんだ。心理戦だよ」
 株の売買でもしっかり稼いでいた。
「美人投票のパラドックスて知ってるか。美人投票をやる。でも、一位になった女性に投票した人には賞金が出るという条件でやるんだ。すると人は自分が美人と思う女性ではなく、不特定多数が美人と思うだろう女性に投票する。投票の結果はそれでまるで違ってくる。株も一緒だよ」
 すでに市電が廃止された京都の、それでもなお狭い道を小林は大きな車にぼくらを乗せて移動した。植物園あたりの郊外型の店で昼食をとって、ビールを飲み、また運転を始めた。
「大丈夫、酔ってないよ。少し飲んだ方が勘が鋭くなる」
 その夜は木屋町のバー・レストランに昔の仲間を集め、そこからカラオケ・バーに行った。同行したぼくの妻にデュエットさせて石原裕次郎を気持ちよさそうに歌った。これがキェルケゴールを語っていた男だろうか。まったく信じられないことだった。U・Kは、もうまったくお手上げだ、というふうに大きく肩をすくめて、にやにや笑った。T・Mもそのそばで笑っていたが、小林が中座したときに、
「でも、驚いたよ。あの小林がカラオケだ。歌なんか歌ったことのない人間だよ。それがなんとかかんとか歌ってるじゃないか。見直したよ」
 決してからかうというのじゃなく、真から感心した口調だった。
 数年後、小林はコロッケ屋の権利を親戚に売り払って、母親と二人花園団地に引っ越した。株が4万円の大台に向かって上がりはじめようとする頃だった。全国的な赤旗まつりを大阪でやるという年だった。水島に来てからできた友人が滋賀の友達を車で訪ねるというのに便乗して(新幹線代を節約して)京都で別れ、花園に小林を訪ねた。母親はすでにだいぶ弱って何度か入退院を繰り返していた。
「カトリック系の病院は駄目だね」と彼は言った。「病院は共産党の病院がいちばんだ。非常に親切だ。今回しみじみと身にしみたよ」
「いまの株は異常だ。あんな株価はありえない。おれはもう手を出していないんだ」
 蓄えだけで食べているんだろうか。コロッケ屋を手放してしまって、今後どうするんだろうという疑問がわいたが、それ以上追及しなかった。
 ここまで来たのだからついでに赤旗まつりに行ってみると言うと、どうぞ行ってらっしゃいと言っていたが、そのうち、おれも行く、と言い出した。ところがそのあとのことをほとんど覚えていない。大阪のどこだったのかも記憶にない。ただ会場に向かう道路の右翼街宣車のすさまじさ、機動隊の物々しさだけが記憶に残っている。

 90年代に入ってからのある日、小林は突然死んでしまった。ぼくは自分の青春がこれで完全に終わったのだと思った。

  1. 2015/07/01(水) 06:09:26|
  2. 未分類