古本屋通信

正森成二と中国ブロック

古本屋通信    No 1465   6月05日

  正森成二 衆院比例中国ブロック選挙


  きのう古本整理中に 『正森成二国会論戦集 道ひとすじに』 なる全288頁の本が出てきた。言うまでもなく共産党の代議士だった正森の本である。私は一目みて、素人が作った本だと直感した。大部の書籍なのだが、作りがまるで自費出版の本の如く粗末なのである。まあ、よくある選挙用のパンフレットを膨れさせた作りなのだ。


 果たしてそうであった。1995年発行。発行元は日本共産党衆議院中国ブロック事務所(広島市中区八丁堀)。本の扉にはカラー写真が掲載されている。それは党衆議院中国ブロック候補者3人、つまり正森成二と中林佳子と林洋武の写真であった。


 (下記を参照されたいが) これは正森が選挙制度が変わって旧大阪1区から比例中国ブロックに移って選挙をたたかう際に出版された選挙用の 「それ行け本」 なのだ。


  内容は本人の国会での活躍をアピールして中国地方での票の上積みを目指す本である。いま読むとサッパリ面白くない。良い事づくめである。まるで表現になっていない。正森の弁舌の鋭さには定評があったが、いまこれを本にして読まされると、いささか興ざめである。然しひとつだけ傑作があった。それをかいつまんで紹介しておこうか。ブロック選挙4人の履歴を挟んでそのあとに書こう。



正森成二 (まさもり せいじ、1927年1月19日 - 2006年10月18日)
1972年12月10日、第33回衆議院議員総選挙で当時の中選挙区大阪1区から初当選
   (中  略)
1996年10月20日、第41回衆議院議員総選挙で9選(選挙制度が変わり、旧大阪1区から比例中国ブロックに移って当選
1997年11月6日、健康上の理由で議員辞職、引退



中林佳子 (なかばやし よしこ 1945年12月2日 - )
1979年 衆議院議員初当選(島根県全県区)。1983年に再選。
1996年 選挙後比例中国ブロックで正森成二の辞職にともない繰り上げ当選
2000年にも比例中国ブロックで再選。2003年、2005年、2009年と比例中国ブロックの単独候補となるも落選


石村智子
2012年の衆議院議員総選挙に比例中国ブロック単独候補第1位で出馬するも落選


大平喜信 (おおひら よしのぶ、1978年2月28日 -   )
2012年の衆議院議員総選挙に比例中国ブロック単独候補第2位で出馬するも落選。
2014年の衆議院議員総選挙に比例中国ブロック単独候補第1位で出馬し初当選日本共産党が比例中国ブロックで議席を得るのは2000年の第42回衆議院議員総選挙にて当選した中林佳子以来14年ぶりである。



 『正森成二国会論選集 道ひとすじに』
 終章・私の生い立ちと決意  
 衆議院中国ブロック比例代表候補となるにあたっての「決意」



 まあ驚いた。これは1994年3月に開かれた党第11回中央委員会総会での 「中国ブロック比例代表としての決意」 表明を掲載したものである。表面的には党中央に従っている。然しコレはまるで恨み節である。それ以外ではない。つまりヒラの中央委員として幹部会の決定には従わざるを得ない、しかし最低限これだけは中央委員会総会の席で言わないと収まらないという正森のギリギリの恨み節なのだ。延々3頁にわたって、大人しい言葉ではあるが無茶苦茶に正直に本音が語られている。


 ロハで公表するのは惜しい。一寸書き惜しみしてみようか(笑)。それはそうと、この本は選挙用だから、選挙が済んだら残っていないだろう。何処の通販サイトにもなかった。正森も死んだし、党中央にとってはケガラワシイ本であろう。ところがこれを先だっての選挙中に大平さんに薦めた 「中国ブロックのひと」 がいたそうな。大平さんがそう書いていた。コレは武田英夫君以外になかろう。ついでに比例候補を中林さんから受け継いだ石村さんも読んでいる。これも石村さんがそう書いていた。しかしこの2人は正森成二の真意などまるで読み取れなかったのだ。間違いない。だから武田君は武田君でありえたし、石村さんも石村さんでありえた。「幸福な人」 たちである。



  ちょっとサワリだけ。

 大阪一区の幹部と党員は端をくいしばって赤旗拡大と大衆組織の拡大につとめ、大阪全区のなかで当初只一つ重点区に指定されないという環境のなかで・・・

 まあ激しいワ。ここまで率直に言えば11中総の参加者は震えた? それでも正森は中国ブロックに赴いて当選を果たした。

 天晴れである。天晴れではあるが、私は実は正森をコミュニストとしてはあまり評価していない。この辺も何れ書きたい。




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 いま思い出した事もあるので 少し加筆 したい。


 私は正森をコミュニストとしてあまり評価しないと書いた。その点を書きたい。


 正森の国会での弁舌には切れがあった。だから評価は高かった。これは弁護士としての弁舌の切れでもあった。


 私はここで弁護士正森を問題にする。情報源も明らかにしておこう。大阪の東中光雄弁護士事務所に籍を置いていて、その後岡山に帰って弁護士活動を続けた浦部信児弁護士である。浦部さんは東中氏とはもちろんのこと、正森とも親しかった。いや本人は2人とも「雲の上の人でした」と言っていた。歳が違っていたのだ。浦部さんは駆け出しだった。その彼が情報源である。まだご存命である。


 私は彼の話を参考に判断した。正森は最初に党から大阪1区立候補の要請があった時点で断るべきであった。本人も書いているが、大阪1区は分区も絡むが、志賀義雄除名の後をぬやまひろし(西沢隆二)が継ぎ、そのぬやまも除名された選挙区であった。元来正森は党派性を隠した弁護士だった。大阪の地で解放同盟の弁護活動もやってきた。志賀派の幹部の何人かとは特に信頼関係にあった。名前は挙げない(浦部さんの受け売りだから)。それはそれでよい。だが志賀と正面からたたかうに相応しい経歴ではなかった。つまり勇ましすぎるのである。私はこういう勇ましさを信用していない。
  1. 2015/06/05(金) 00:12:15|
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