古本屋通信

追悼・町村信孝

古本屋通信    No 1462   6月03日

    
追悼・町村信孝




  「あんた、自民党の町村さんが死んだよ」 と教えてくれたのはテレビを観ていたつれあいだった。時は一昨日の夕方だった。自民党の町村は二人いるが、町村信孝であることはすぐに分かった。

 われわれ夫婦のあいだで自民党員に敬称をつけて呼ぶ習慣はない。にもかかわらず町村は「町村」ではなく「町村さん」だった。夫婦といえども、ここら辺は一歩間違えると喧嘩になる。町村はわれわれの間では正しく「「町村さん」だったのだ。

 「そうか、残念だったな」

 自民党の要職を歩んできた町村がどういう反動的な役割を果たしてきたか、私は殆んど知らない。いやずっと目をつむって見ないようにしてきたのだろう。私の中では町村はずっとデモクラット(民主主義者)であり続けネバならなかった。無理であっても、そうであった。

 この追悼文が2日遅れたのは私の逡巡のためである。このブログを始めてから(紙の通信の時代をふくめ)追悼記事は2つしか書いていない。すなわち宮本顕治と川上徹だけである(いま見たら No799に「追悼・大西巨人」を書いていた)。然し矢張り少し書くことにした。


 私は町村と面識が全くない。知っているのは1968年の東大闘争の時の町村だけである。このとき町村は民青ではなかった。誤って伝えられている面もあるので正しておきたい。また「学生運動の指導者だった」というのも、精確に言えば誤りであろう。だが、「東大闘争の牽引者だった」 という限りにおいては、そうであったと私は思う。すなわち東大経済学部の運動において、無党派クラス連合の中心のひとりだった。最終7学部集会において、経済学部代表として署名捺印している。


 これが東大闘争に於ける、民青といっしょになった「右翼秩序派」の策動といえるのか。私はそうではなかったと思う。このとき町村やクラス連合は反全共闘の民主主義者であった。或る意味では民青よりも民主主義者だった。私が書きたかったのはたったこれだけのことである。

 たぶん反論は多いだろう。それに反論しようとは思わない。以上がいささか度はづれであろう私の町村信孝追悼である。たったこれだけである。


 

 東大闘争の経過をもっとも精確に時系列で纏めているのは以下であろう。

 東大変革への闘い 
 東京大学全学大学院生協議会 東大闘争記録刊行委員会(編)、労働旬報社、昭44


 ここには東大全体と、各学部における全共闘、民青(時と学部によって名前は多少ちがう)、クラス連合の力関係が数字を持って記録されている。いまではこういう運動の記録は絶えて無くなっている。
  1. 2015/06/03(水) 03:59:48|
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