古本屋通信

坂井希クラスの女性党員を発見!

古本屋通信    No 1444   5月24日

  
 
 坂井希クラスの女性党員を発見!



  キンピーサイトにさっき立てられた板に大山奈々子なる未知の方のツイッターが載り、これをめずらしくKM生さんまで褒めている。私は彼女の素性を知りたくて党神奈川県委員会経由でHPを訪ねた。それが10分前である。キンピーサイトでの話題はそちらで読んで頂くとして、私は彼女のページのプロフィール欄しかまだ読んでいないのだが、すっかり魅せられてしまった。経歴が特に目を見張るというのではない。彼女の日本語にすっかりほれ込んでしまったのだ。私は他人に上手な日本語は求めない。特別に魅力的な文体も求めない。ただ、ただ分かり易い日本語だけを求める。そう、私はもと編集者なのだ。分かり易い日本語に出会うと跳び上がって喜ぶ。だって編集の仕事が飛び切り楽なのだ。多く言う必要はない。読んだ個所だけを転載する。まいったなあ、もう。しかし編集者のペンの入った書物(雑誌、新聞)を読み慣れている人はコレに慣れっこだから、たぶん感動しないだろう (ページの編集レイアウトも私よりは上手なので、行間ツメ以外はそのままです。写真は掲載できませんでした)。




プロフィール   日本共産党神奈川県議会議員   大山奈々子

こんにちは!大山奈々子です。私のブログへようこそm(._.)m。
2015年春県会議員として港北区から神奈川県議会に送っていただきました。
私の略歴に関しては下段にありますが、2011年県議会に初挑戦して敗れて以来の活動について簡単にご紹介します。

まずは名刺で追ってみます。肩書や所属が加わったり変わったりしています。
娘がコレクションしてくれていたのでそろいました(笑)

2011年県議選は
【日本共産党港北区教育スポーツ政策室長】として闘いました。
   ↓
選挙後は
【日本共産党港北区県政対策委員長】
【週刊新聞新かながわ記者】
【神奈川臨調から県民の暮らしを守る闘争本部事務局次長】 この三つを掛け持ちしていました。今思えば県議会がしっかり県民の立場にたったものであったならば最後の仕事は必要なかったものです。

ここまでの活動はこちらの旧ブログにもあります。
   ↓
そして2015年県議選で
【神奈川県議会議員】
当選させていただきました。全力でがんばります。

先日名刺を整理しておりましたが、真ん中の列が前回立候補時につくったもの。いろいろな方がご協力くださり、いろいろなものができています。
家族旅行の時に撮った髪がなびいているものが気に入っていましたが、有り得ない”(-””-)”というご意見も少しあり、廃案に。
真ん中はネットで注文したもの、ラブリーで私本人をはじめ、女性に人気でしたが、ちょっと”(-””-)”というご意見もあり、廃案に。
紆余曲折を経て、右斜め上のものを基本に使いました。
今回選挙は右斜め下の黄色の鮮やかな、名前がイメージカラーのロイヤルブルーにしたもので統一。
ところが、2014年、急きょ衆議院選に出ることになり、その上の国政名刺を作りました。

県議の名刺ですか?まだ不確定ですので、決まったらみなさんにご紹介したいと思います。

同時にみつかったのがこれら、行政側と交渉したり、県有施設を訪ねたり、防衛省や外務省に抗議にいったり、教育機関を訪ねたりした際の数々の名刺、他にも保存しているものがありますが、これはここ一年間だけでこれくらいになりました。我ながら「ひたむきに県政」だったなと思います。

そしてこれからはもっともっと多くの研鑽を積まなければなりません。ご指導ご鞭撻よろしくお願いします!


略歴(2011年の県議選初挑戦の際にまとめました。

京都市生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒。京都府立久御山高校教員。東京で日本語学校の教師。現在新日本婦人の会港北支部支部委員。家族は夫と高校生・中学生の4人家族。趣味はサッカーと絵画。党県委員会役員。七区国政対策委員長。

私はここ、港北区で子育てをしています。ここに私の暮らしがあります。市民活動に関わる中で、住民不在の県政が見えてきました。県は「緊急財政対策」の名のもとに、全ての県有施設や補助金を削減対象に。一方、大企業中心の「成長産業」支援には大盤振るまい。この逆立ちした県政に立ち向かう日本共産党の議席が必要ではないでしょうか。

私は、暮らしを守り、地場産業支援で雇用を生み、文化を重んじ、高齢者や子どもを温かく包む、だれでもが笑って暮らせる政治の実現のために力をつくします。


子ども時代

子ども時代私は一九六三年に京都市で生まれ、当時は府営住宅に住んでいました。
家の目の前が公園で、友人の声がすると、すぐに家から飛び出して遊んでいました。それと、幼い頃から本を読むのが大好きでした。家の隣が町内会館で、その中のミニ図書館によく通っていました。
中学・高校時代は、蜷川民主府政(一九五〇年から七期続いた革新府政)の下で過ごしました。
府庁舎には「憲法を暮らしに生かそう」とか「十五の春は泣かせない(十分な数の公立高校を設置するというスローガン)」という垂れ幕が掲げられていて、子ども心にも安心感がありました。よっぽど勉強をサボらない限り、希望する全員が公立高校に進学することができましたから。当時の京都は高校三原則(男女共学・総合制・小学区制)が守られ、どの高校も格差がなく、地域に根ざした教育をしていましいた。


大学時代

高校卒業後に一浪して、早稲田大学に入りましたが、学生が「学費値上げ反対」と言って集会をしていると教授が「彼らは何をしているんだか」って批判するんですね。
私も親に負担をかけられなかったのでアルバイトと奨学金で学費を捻出していましたから、お金の無い学生の気持ちを理解できない教授の態度は嫌な感じでした。
子どもの頃から作家になりたいと思っていて、大学では戦争児童文学を研究していました。しかし、具体的に将来のことは決まらず「文学の世界だけではなく、実際に 反戦・平和を訴えるような活動がしたい」という思いを抱いて卒業しました。


高校教師時代

高校教師時代生まれ育った京都が好きだったので、京都で教員採用試験を受けて京都府立久御山 高校に赴任しました。
赴任先の校長先生がかなり権力志向の右翼的な方で、他の先生方に私のことを「この子は戦争児童文学なんかを卒論にしているから気をつけろ」と言っていたそうです。
そんな感じの学校だったので思想の問題が職員会議で出されて、私が「国がカラスは白だと言ったら生徒に白だと教えるんですか?」と質問したら、当時の校長の態度 が「そうだ」っていう感じだったんです。その時に「おかしい。それでは戦前、戦時中の教育と変わらない。子ども達に銃を握らせるような教育や政治にしたくない」という思いと、「平和活動に参加したい」という思いから、日本共産党に入党しました。


日本語教師時代

京都の高校で教師をした後、結婚して東京に戻り、日本語学校の教師になりました。
日本語学校は様々な国の生徒がいて、ディベート(討論)の授業になると「日本は大量の排気ガスを出して経済成長したのに、発展途上国に対して排気ガスを出すなというのはおかしい」など多様な意見が出て、海外から日本がどのように見えているのか を知りました。その後、子どもができて横浜の港北区に来ましたが、認可保育園の少なさ―港北区は市内で待機児童が一番多い―など、子育て環境の悪さに驚き、「ダメなところは自分たちで変えるしかない」という思いを強くしました。


新日本婦人の会での経験

横浜に来てから新婦人(国連NGOの新日本婦人の会)に誘われ、「子どもと教育部 長」になって、三〇人学級の実現、中学校給食の実施とか教育関係の署名活動などをするようになりました。
特に歴史教科書問題は危険だなと思っていて、最近は日本の過去の侵略戦争を美化 する内容のものが横浜市でも採用されたりしています。最近だとアメリカが理由無くイラクを爆撃しましたよね。ニュース映像などを見て分かるように、爆撃で子どもを失った両親が泣き叫んでいたり、手足を失ったりしています。戦争とはそういうものですよね。
子ども達に「戦争とは悲惨なものなんだ、あってはならない事なんだ」っていうことをしっかりと伝えていかないと、いつか私たちの子どもが銃を手にすることがある かもしれません。


NPTでニューヨークへ

NPTでニューヨークへ新婦人で核兵器廃絶運動にも取り組んでいます。
日本は世界で唯一の被爆国です。地球上に核兵器が存在している限り、また地獄のような光景が生み出される危険性はなくなりません。誰もそんなことは望みませんよね。
確かに周辺諸国の核問題は脅威ですが、武力に武力で向き合うのではなく、大切なのは「どうすれば周辺諸国の武装を解除できるか」です。
人間は言葉を持っていて、対話という高度なことができるわけですから、他の動物のように暴力で解決を望むのは愚かなことですし、二〇世紀まで続いた戦争の歴史から進歩が見られません。
そんな思いで昨年の五月にニューヨークで行われたNPT(核不拡散条約検討会議)に送り出していただきました。
現地で核廃絶に向けた署名活動やパレードなどに参加して、同じ願いを持った様々な国の人たちと交流して、充実した時間を過ごしました。
日本からは六九〇万筆を超える署名と一六〇〇人が渡米し、現地を盛り上げていました。
パレードには世界各国から二万人もの人々が参加して、非核に対する世界中の願いがNPT議長の心を揺さぶり、核廃絶へ向けた一歩を踏み出しました。


子ども達に残すもの

子ども達に残すもの私はいつもフットワークが軽いけど、あんまり深く考えないから、何でもすぐに引き受けてしまうのですが、今回の「県会に挑戦してほしい」という要請には悩みました。「自分に候補者としてふさわしい働きができるのか」って。
いろいろと言い訳して、返答遅らせたりしました。(笑)
私の父は脳血管性の認知症で介護施設でお世話になっています。その父を難病の母が介護している典型的な老老介護です。
私の立候補を聞かされた父は「大変や。あかん」と言ったそうです。両親は共産党員で共産党の議員の大変さを知っていました
私は高齢出産気味で子どもを産んでいて、「子どもたちと生きられる時間は短いかも」なんて考える事があります。 そんなときにお金のような財産を残すよりも、安心して暮らせる政治や環境を残したいってうんです。そういう思いで決意しました。
そんな私の決意を母から聞かされた知った父は「誇りや」とうなずいていたそうです。
決意後は日々支部・後援会のみなさまと、新しい出会いや経験ができ、楽しんで活動ができています。でも、私の家族には少し苦労をかけています。
私が忙しいので夫と子ども達はご飯作りや洗い物が上手になってきました。(笑)


県民と力を合わせて

県民と力を合わせて前に新婦人で教育関係の署名を提出に行ったときに他党の県会議員の方々は署名の紹介議員になってくれませんでした。
自民党の議員さんは署名の内容を見て「趣旨には賛同できる」と言っておきながら、「署名を集めた団体が自分たちの党と関係ないから」という理由で受け取りを拒否しました。
紹介議員がいないと議会に署名を出せないので日本共産党の議員が必要だと強く感じました。
この四年間に提出された住民の署名数の九九・八%は日本共産党の議員が紹介議員になっているんです。
他党は選挙の時だけ「皆さんの願いを叶えます」みたいなこと言って議会での議決のときは真逆です。当選したら民意なんか知らんぷりです。
私学助成や三〇人学級を求めて六〇万筆も集めた署名も他党は簡単に無視しますからね。
私は皆さんと力を合わせて、税金の使い方を改め、医療や福祉、教育を充実し、地域を元気にするために全力を尽くします!


  1. 2015/05/24(日) 12:57:52|
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