古本屋通信

昭和20年生まれ

古本屋通信      No 1396   4月17日

 
  昭和20年生まれ



  いま午前4時半である。体が痛くて目が醒めた。風邪である。もう半年前からそうである。風邪の諸症状を完璧に備えている。ずっと治ることはないが、何時も症状が出て耐えられない程ではない。タチが悪い痛みではないと知っている。朝、昼、晩と医者から処方された感冒薬PLを飲んでいる。風邪に特効薬なし。対症療法だがそれにしても効かない。
 病院には糖尿病で30年間おなじ病院に通っている。主治医は極めて信頼できる。生活指導医である。難病でない場合には自分と波長の合う先生だけが頼りになる。
 今回も聴診器で診たあと、肺のレントゲン、心電図、超音波エコーとやってくれて異常なし。各種血液検査ではコレステロールの価がやや高いが、その他は(血糖値を除いて)異常なしであった。

 ああ、こうやってパソコンのキーボードを叩いていたら、気が紛れる。その程度の痛みだ。う~ん、やはり痛いか。

 私は昭和20年生まれである。1945年だ。何れを使用するかだが、昭和天皇が生きているころは昭和は使わなかった。元号に反対だからであるが、加えて昭和天皇が戦争犯罪人だっらから。ところが明仁の時代になってしまった。相変わらず元号には反対だが、明仁には恨みはないし、美智子さんやその子ども孫たちには何のわだかまりもない。これも一種の風化だろうが、私は元号もある種の符帳として使ってもよい気がしてきた。ただし明治、大正、昭和までだ。現役の平成は決して使う気になれないし使わない。

 それをいちばん思ったのは、自分の生年月日を云うときである。私は1945年5月生まれである。敗戦の8月の直前に生まれた。ところが1945年生まれよりも、昭和20年生まれの方がピンとくるのだ。どうしてか分らない。また何時からそうなったかも分らない。しかし昭和20年生まれを使いたいのである。

 これを切実に感じている例を書こう。全共闘世代という言い方がある。私はずっとこの言い方を避けてきた。それはそもそも全共闘に市民権を与えていないからだが、使い方としても曖昧だったからだ。ところが川上徹さんの著書も全共闘世代を使っていた。これを読んで、私も符号としては便利だから使ってもよいという気がして来た。

 じゃあ、全共闘世代とは何時から何時までを云うのか。これは昭和22年生まれ以降である。昭和25年生まれくらいまでであろう。これを1947~1950年生まれとしたのではピンとこないのだ。


 少し飛躍するが、全共闘世代について書く。

 私は明らかに全共闘世代ではない。これは川上さんの聞き取りの本に登場した昭和20年生まれの方もそういっていた。明らかに違うという自己認識(自覚)である。そして、そういう時、全共闘世代の昭和22年生まれ以後を強く意識する。彼らは私の回りににも一杯いるのだ。このブログ周辺では、石崎徹さんも鬼藤千春さんも昭和22年生まれである。他に学生運動仲間で一杯いた。共産党員では武田英夫氏や、死んだ中原猛氏(元岡山県委員長)も昭和22年生まれだった。有名人では加藤哲郎(東大闘争の7学部集会の時の法学部代表、のちの一橋大学教員)なんかもそうだ。

 で、私は全共闘世代に特にウラミがあるわけではないが、この世代が生まれつき大きな顔をしているという認識はある。それは昭和20年生まれに較べて人口が圧倒的に多いからだろう。昭和20年生まれは圧倒的に品薄である。不作といってもよい。その理由は、敗戦直前で出征兵士が多くて種が仕込まれなかったからだ。だからといって、受験の年の競争率が低くて学校に入りやすかった記憶はないのだが。

 「全共闘世代」 の命名が堺屋太一に拠ることは知っていた。然しコレはどっちでもよい事だろう。便利だから定着した。私がこの命名に抵抗があったのは、全共闘=全学共闘会議の市民権もあるが、この時代の大学進学率は全体として20%に満たなかったからだ。世代論としても全共闘は何も代表していない。特にノンセクトラディカルなどは商業論壇の命名に過ぎなかった。全共闘もノンセクトラディカルも、いわば一部の層の謂いに過ぎなかった。然し皮肉なことに、この世代からのち、大学は急速に大衆化して行き、またその後十年後には学生運動はほぼ消滅することになる。これは共産党の路線変更があったにせよ、それだけでは説明が付かないだろう。


続きは休憩してから書くつもりであるが、体の痛み次第ということにしておこうか。


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 投稿

 全共闘時代  雑文 - 2015年04月17日 (金)  石崎 徹
 ぼくのやること為すことが幼いので、古本屋さんがぼくの生年を一年まちがっている。じつは46年9月の生まれである。同志社に入ったのは65年で、日韓条約の年だ。だから日中両党の対立もまだで、日本共産党は中国派と呼ばれ、原水禁運動でも中国派対ソ連派という図式であった。
 全共闘はまだない。社学同も民青も同じ土俵で自治会選挙をたたかっていた。
 古本屋さんとちがって、ぼくは滅多に学校へ行かなかったし、民青も出たり入ったりだ。さりとて読書するとか、普通何かするものだが、それもしていない。いったい何をしていたのか自分でもわからない。
 生活がすっかりいきづまってしまったので、退学届けを出して、日新電機の労働者になった。はっきり思い出せないが、たぶん68年だ。69年に立命館の夜学に入り直した。その頃には反代々木各派が離合集散を繰り返しながら、暴力集団となっていた。全共闘もその頃のことだが、ぼくは日新電機での組合活動に少し入れ込み、立命もすぐにやめたので、全共闘はあまり身近ではない。
 そののちもぼくの生き方は定まらず、右往左往していつか年寄りになってしまった。
 つまらない生き方だが、こういう人間として、生きてきたなかで感じたことを文章にしている。
 時代とは、ずれて生きてきた。でも確かにその時代を生きてきた。そういう雰囲気を当時意識しなかったけれど、まちがいなくその時代を生きてきたのだ。
 そういう感覚はぼくのなかにある。
  1. 2015/04/17(金) 04:22:46|
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