古本屋通信

苅田アサノのことば

古本屋通信     No 1389  4月10日

 
 苅田アサノ(浅野)のことば



  郷土史誌もそうだが、学校史誌の場合も作る者(編集)の実力がモロに出る。編集技術の問題もあるが、もっと大きいのは担当者の見識の問題であろう。小中学校の記念誌に過大な要求は酷だろうが、高校ともなれば資料の蓄積もあろうから、一定の水準は求めたい。

 私は岡山県下の高校についてはあらかた収集している。実感としてはレベルは高くない。高校の教員が多忙の中で手分けして編集・制作するのだから無理も言えないが、要は歴史記述がなっていない、というより糊と鋏で切り貼りしてオワリなのだ。あれこれ言うとキリがない。

 マメに発行するけれどダメなのが岡山操山高校だ。かなり質が悪い。そしてこの質の悪さは前身が女学校(岡山一女)だったことと関係がある気がする。つまり女のエリートがどうなのかと云う問題だ。これと対照的にピカイチなのが岡山朝日高校である。理由は色々あるが見識が違う。何人かすぐれた教員がいたからだ。その中でも日本史の後神(ごかん)俊文教諭の役割は大きかったろう下記参照。朝日高校の学校誌については別の機会に譲る。


 ここでは津山高校八十周年記念誌に触れる。やはり素晴らしい。編集委員会は私が知らない人だが、責任者が福田卓也となっている。刊行は昭和50年、ソフトカバー137頁、B5版の冊子である。今回はこの全容に触れないで、僅かに苅田アサノ(浅野)について書かれている個所だけを転記する。それだけで、この冊子の質の高さを示すには十分だ。つまり此処では前身の女学校はマイナスになっていない。岡山一女ほどエリート校ではなかったからだろう。




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   「あたらしい女」 たち


「或は人生は大いなる劇であるのかも知れぬ。華やかに表面を飾って、舞臺に立つ。うそのおどし文句を云ひ合ふ。贋の刀で切り合ふ。泣く笑ふ。一度は反逆者の位置に立つ。一度は志士にもなる。しかし、それもつまるところは仕組まれた筋を順を追うて演じてゐるに過ぎない」。

これは校友会誌に載った苅田浅野さん(当時4年生)の文章であるが、同じ頃、

「私は男女同権を叫ばねばならない。私は参政権を得なければならない。自分達はよろしくあの無謀な資本家の圧制からのがれねばならぬ。若き労働者の群よ立て!」

とか、また、就学旅行記に大阪で法被姿の労働者を見て

「寝て居て食べられる人と黒くなって働いて漸く一日の糧が得られるか得られないかといふ人、労働問題の起るのも當然だ。自由の叫びを挙げるのも當然だ」 (大正10~11年)

とある。従順で家庭的な女性像からすれば目を見はるような女学生たちー新しい時代の足音が聞えてくるようだ。


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  婦人代議士  苅田アサノ

 本校出身者で唯一の国会議員である苅田アサノは津女17期(大正11年)卒業である。日本女子大を卒業、早稲田大学露文科に通いロシア文学・ロシア語を研究した。最初検挙された時26才であった。彼女はみるからに良家の子女らしいしとやかな人柄であったが、口はかたかったと言われる。戦後日本共産党員としてカムバック、岡山一区から衆議院の選挙に出て婦人代議士となった。その後中央委員婦人部長として活躍。昭和48年8月5日死去した。



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 別件  岡山朝日高校・後神 (ごかん) 俊文教諭のこと

 古本屋通信はかつて仕事で岡山朝日高校に出入りしていた時、後神俊文先生にお会いした記憶はかすかにあるが、それは仕事上のつきあいと言う程のものではなかった。私が先生の大きさを知ったのは古本屋を始めてからである。朝日高校関係の歴史資料は圧倒的で他を寄せ付けないが、その編集の仕事は殆ど先生の肩にかかっていたのだ。ここではアレコレ書かないで、先生の学恩を受けた光田さんの文を転載させて頂く。光田さん、宜しくお許しください。




 後神先生の日本史授業   昭和51年卒  光田京子

 1973(昭和48)年春、私は朝日高校に入学した。当時のカリキュラムを今春(2004年)京都の私立高校に入学する娘のそれと比較すると、科目数の多さが際立っている。特に社会科は娘の高校が現代史だけなのに対し、朝日高では日本史・世界史・地理・倫理の四科目がそれぞれ週一時間教えられた。同様のことは理科にもいえ、選択科目が一年の後半から始まる娘の高校に対し、当時の朝日高は二年生の終わりまで、家庭科等男女別の科目の他はほぼ全員が同じカリキュラムで学んでいた。三十年の時代の変化は大きく、一概に優劣は決められないが、当時の朝日高は全ての生徒に巾広い教養を万遍なく与えていたといえる。
 入学当初の話に戻れば、最初の一週間は二十人もの個性豊かな先生方との新らしい出会いに緊張の連続だった。数学の藤井準先生などは、猛烈な早口と、たたきつけるような板書で数式を書き連ね、「このスピードについてこられない人は、高校数学はダメです。」と、断言される。中学時代から数学の好きだった私も、すっかり恐れをなしてしまった。
 緊張する授業の多い中、ほっとする授業もあった。後神俊文先生の日本史もその一つであった。授業の内容は後述のとおり高度なものだったが、それを語られる先生の口調はやわらかく、いつも微笑をたたえておられた。その風貌は画にみる寒山拾得の如く、世俗を超越した趣があった。当時の後神先生は四十歳前の若さだったが、私には老成した人物に思われた。その授業のおもしろさと独特の語り口に魅了され、週一時間の日本史の授業はもっとも楽しみであった。
 当時のノートを広げてみると、第一回の授業では「歴史とは何か」との根本問題を正面から論じ、史料批判を経て科学的になること、歴史家の史観が歴史をつくることを教えられた。次に時代区分を論じ、経済発展と生産関係に基づいた時代区分論を示された。中学を卒業したばかりの私共にどれだけ理解できたかは別として、歴史学会の水準をそのままわかりやすく話される高度な内容であった。
 授業は後神先生が作られたプリントにしたがって進められた。ザラ半紙に美しい文字でガリ版印刷されたプリントは、室町時代までに17枚、応仁の乱から昭和初期までが57枚に及び、他にも補足プリントがあった。教科書としては山川出版と三省堂の二冊があったがあまり使われず、特に山川出版の方は「入試用」ということで各自の自習用の観があった。
 高校三年間をかけて授業は奥深く、ゆっくりと進められた。一年生の中間考査の範囲は縄文時代までで、教科書にするとわずか数頁分であった。やさしそうな後神先生のテストを甘くみた私は見事に裏切られ、42点という最悪の点をいただいてしまった。テスト解説のとき、先生はニヤニヤ笑いながら、「試験というものは教科書の註から出るものです。」と仰り、私は自分の不勉強を愧じた。
 一年の一学期は邪馬台国までで、邪馬台国についての学会の諸説を説明された。期末考査の論述問題は次の通りだった。

 問三 邪馬台国の位置について、大別して二つの説があり、いずれの立場をとるかによって、大和朝廷の統一の時期が、約一世紀ずれるといわれている。しかし邪馬台国以下約三十国を畿内とその近辺に位置すると考えるならば、その広がりは九州説とほとんど変わらなくなり、一世紀のずれは生じないことになる。
    この新しい仮説(新畿内説)が成立するかしないかについて論じなさい。
(まず、するかしないか書いてから、その理由を述べなさい。)


 このような難問を出題され、大いに苦しめられた。古代史についての造詣の深さに圧倒され、後神先生の研究の専門分野は古代史だと浅はかな私は考えていた。ところが同じクラスで私と同じく後神先生のファンだった大島恵さんの話をきいて驚いた。やはり朝日高卒の大島さんの兄上の話だと、後神先生の御専門は近代史とのこと、ますます先生の学識の広さと深さを思い知った。
 後年、後神先生から直接伺ったたとえ話がある。顔を洗うために実際顔にふれて洗浄に使われる水の量はわずかでも、洗面器いっぱいの水がなければ手で掬うこともできない。授業も同じで、生徒に教える内容はわずかでも、教える者は洗面器いっぱいの学識がなければ教えられないと、授業に対する先生の態度は、御自身に厳しいものだった。
 二年生の時、私にとって幸いなことに後神先生に担任していただくことになった。このクラスで親友となった高橋佳代子さんにも私の後神熱(?)が感染してしまい、よく二人で先生のことを語り合った。この年の夏休み、高橋さん、私、それに同じクラスの富樫朋子さん等と後神先生の御自宅を訪問した。家庭における先生は、三人の子供さんのよきパパであった。何をお話しいただいたか、舞い上がっていて記憶にないが、これ以後何度かお邪魔させていただいた。奥様には突然おしかけて、お昼まで御馳走になり本当にお世話をかけたと思う。
 この年の秋か冬、ホームルームの時間だったかに、後神先生の恋愛に関する特別講義があった。メモも残っていないが、私の記憶によれば、「恋愛結婚」とひと続きに言うが、恋愛と結婚はその起源からして別の原理に立っており、本来相対する概念である、との結論だった。ヨーロッパ中世の騎士道から説き起こされ、実に興味深かった。しかし漠然と「恋愛結婚」にあこがれている十七歳には衝撃的なお話だった。 後神先生を崇拝する私は、先生の母校の京大文学部国史学科に入学した。出身高校をきかれて「岡山朝日高です。」と答えると、多くの先生から「朝日高には後神先生がおられるでしょう。」と言われた。「はい、後神先生に日本史を教わりました。」と答えられたことは私の幸せである。
 今日に至るまで、後神先生の学恩は尽きない。



  1. 2015/04/10(金) 15:43:40|
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