古本屋通信

苅田アサノのハガキ(2枚目)

古本屋通信     No 1355  3月22日

  苅田アサノのハガキ(2枚目)


  苅田アサノのハガキの1枚目を紹介したのは通信 No 1307 (2月25日) だった。約1ヵ月後に2枚目が出てきた。前回は県北の勝北町の町長宛だった。今回の宛先は津山市福渡町で、消印は昭和29年1月14日となっている。このころ福渡が津山市だと初めて知った。当時津山はオセをしてたんだな。以下ハガキの文面の全文(印刷)添書き(万年筆)


 新年おめでとうございます 
 賀状のついでに失礼でございますが、私どもは去月廿六日に細川嘉六夫妻の晩酌で結婚いたしました。今後とも協力して平和と民主と独立のために働く覚悟でございますから、相変わらず御指導と御厚誼を御願い申上げます。
 先は右略儀ながら御挨拶まで。
 なお当分の間引きつづき各左記の場所で従来通りの仕事を続けますことを申しそえます。

 一九五四年一月一日

                 東京都世田谷区経堂町六三    堀江邑一
                 岡山市放送局通西町 江田方   苅田アサノ



 今日はお忙しい中をいろいろお世話いただきましてありがとう存じました。遅れて失礼でございますが、挨拶状をおとどけいたします。   十三日夜


  表書き    津山市福渡町   前原まさよ様 (仮 名)    


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 ウィキペディア


堀江邑一
堀江 邑一(ほりえ むらいち、1896年12月18日 - 1991年11月24日)は、日本の経済学者。専攻はソ連経済、マルクス経済学。妻は元日本共産党衆議院議員の苅田アサノ。日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)顧問などを務めた。
来歴[編集]
戦前[編集]
徳島県の出身。京都帝国大学経済学部を卒業後、同大大学院に進学し河上肇の一番弟子として彼の薫陶を受ける。1926年に高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)教授となり、翌年ドイツへ留学しベルリン社会科学研究会(後のベルリン反帝グループ)に参加、ドイツ共産党へも入党した[1]。また、1933年には上海の東亜同文書院に留学するが、この時高商時代の政治活動を理由に検挙、留学から半年足らずで内地へ戻ると共に教授職を辞す。
その後外務省や昭和研究会の嘱託に就任。昭和研究会では尾崎秀実や松本慎一と親交を深めたほか、1930年代後半以降は『中央公論』及び『改造』に中国関連の論文を多数発表する。1939年4月には南満州鉄道(満鉄)調査部の嘱託となるも、唯研事件に関与した疑いで特高に逮捕。同年末まで拘留された後、大連の満鉄本社調査部へ赴任するが、1942年9月治安維持法違反で関東軍憲兵隊に検挙され、約2年間にわたり留置を余儀なくされる(第1次満鉄調査部事件)。1944年5月に内地釈放となるものの上京を認められず、山梨県の疎開先で終戦を迎えることとなる。
戦後[編集]
終戦程なくして日本共産党に入党、1947年の参院選で全国区(同党公認)から出馬するも当選には至らなかった。サンフランシスコ講和条約締結直前の1950年9月4日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命により、他の共産党幹部とともに占領政策違反で逮捕される[2]。その一方で日ソ親善活動にも尽力し、日ソ図書館長や日ソ学園理事長などを歴任。日ソ国交回復から20年が経過した1976年、山本薩夫らと日ソ平和条約締結促進のアピールを出したことでも知られる[3]。
1991年11月24日、肺炎のため埼玉県所沢市の病院で死去した。94歳。奇しくも堀江の死の翌月、ソ連邦が崩壊した。
エピソード[編集]
上海留学時に言語学者の陳文彬と知り合い、帰国後も家族ぐるみの付き合いを行う。東京都世田谷区経堂の堀江の自宅で文彬の子が預けられることとなるが、その1人が後にNHK中国語講座の講師を務める陳真である。
ソ連シンパであった堀江だが、1938年11月号の同誌には「国共合作の楔、三民主義」と題し、ソ連が日本と満洲国を包囲する目的で国共合作を遂行したと記している。また1940年2月号の『中央公論』誌に「ソ連対支政策の動向」という論文を寄せ、その中で「ソ連はわが北樺太利権に対して近来益々露骨なる不法圧迫を加え、日ソ漁業条約暫定協定締結についても言を左右にして誠意を示さず、遂に昨年内取り決めを不可能ならしめた」と記している。『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には堀について、つぎの副題が付けられている
堀江邑一(経済評論家・日本共産党員)“ソ連、日本侵略”の警鐘を乱打
— 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年
主著[編集]
単著[編集]
『戦後世界情勢の分析』(研進社、1948年)
『資本主義と社会主義』(ナウカ社、1949年)
『ソヴエト経済論』(研進社、1949年)
『民主主義と社会主義』(労働教育協会、1949年)
共著・訳書・編著[編集]
コンスタンチン・ポポフ著『日本の技術的経済的基礎』(ナウカ社、1935年)直井武夫との共訳
エム・エヌ・スミツト著『統計学と弁証法』(ナウカ社、1936年)
ヴェ・セレブリャーコフ著『独占資本と物価』(清和書店、1937年)団迫政夫との共訳
エム・イー・カザニン著『支那経済地理概論』(日本評論社、1938年)
中国農村経済研究会編『現代支那の土地問題』(生活社、1938年)
ロンドン王室国際問題研究所編『英国の観た日支関係』(清和書店、1938年)
『大英帝国当面の諸問題』(清和書店、1938年)
『囘想の河上肇』(世界評論社、1948年)
レーニン著『国家と革命』(国民文庫社、1952年)
レーニン著『帝国主義論』(国民文庫社、1952年)
ヴァルガ=メンデリソン共著『帝国主義論にかんする戦後の新資料』(大月書店、1954年)
脚注[編集]
1.^ 当時の同志に国崎定洞がいる。
2.^ 日本労働年鑑 第25集 1953年版第二部 労働運動五編 労農政党法政大学大原社会問題研究所
3.^ 平和条約締結促進の取り組み日本ユーラシア協会
参考文献[編集]
『市民・社会運動大事典』(日本図書センター、1990年2月)ISBN 4-8169-0916-8
野田正彰『陳真 戦争と平和の旅路』(岩波書店、2004年12月)ISBN 4-00-023828-0
鶴見俊輔監修『平和人物大事典』(日本図書センター、2006年)ISBN 4-284-10000-9 C0500
大門正克『全集 日本の歴史 第15巻 戦争と戦後を生きる』(小学館、2009年3月)ISBN 978-4-09-622115-0



苅田アサノ
苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)、1905年6月21日 - 1973年8月5日)は日本の政治家、婦人運動家、著述家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。夫は元日ソ協会副会長の堀江邑一。
来歴[編集]
岡山県津山町(現・津山市)生まれ。生家は代々地主の家系で、学生時代からロシア文学及び社会主義思想に傾倒し、日本女子大学国文科を卒業後の1931年、日本共産党に入る。
入党以降財政面で支援を行うものの、1933年に治安維持法の疑いで検挙。転向の後1935年に出獄すると東洋経済新報社などを経て、1938年には郷里の岡山県に戻り西日本製紙に勤務する。
戦後は日本共産党に再入党し、1949年の衆院選に旧岡山1区から出馬し初当選を果たす。しかし再選を期した1952年の衆院選に落選し、以降2度衆院選に挑戦するも返り咲きはならなかった。
戦前から晩年まで一貫して婦人解放運動に身を投じ、新日本婦人の会や日本婦人団体連合会、国際民主婦人連盟など婦人団体にも参加。1973年8月5日、脳腫瘍のため東京都渋谷区の代々木病院にて死去。68歳。
政歴[編集]
1949年 - 第24回衆議院議員総選挙 岡山1区 43,208票 当選(13名中2位)
1952年 - 第25回衆議院議員総選挙 岡山1区 12,285票 落選(13名中11位)
1953年 - 第26回衆議院議員総選挙 岡山1区 13,125票 落選(13名中11位)
1955年 - 第27回衆議院議員総選挙 岡山1区 15,154票 落選(8名中8位)
参考文献[編集]
「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(日外アソシエーツ、2003年)



細川嘉六
細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年9月27日 - 1962年12月2日)は、日本のジャーナリスト・政治学者。元日本共産党参議院議員。
経歴・人物[編集]
富山県下新川郡泊町泊(現朝日町)出身。小学校の代用教員を経て、東京帝国大学の小野塚喜平次を頼って上京。新聞配達をしながら錦城中学校に通い、第一高等学校を経て1917年に東京帝大法学部政治学科を卒業。小野塚の紹介で住友総本社 に入るも、ジャーナリストの夢捨て難く読売新聞社に入社。
更に1919年、高野岩三郎の紹介で東京帝大経済学部助手となり、高野が大原社会問題研究所設立に伴い所長として招かれると細川も大原社研入りする。
大原社研では1925年から1926年にかけてドイツ・フランス・イギリス・ソ連に留学し、ソ連で片山潜の知遇を得る(この時片山から米騒動の研究を薦められ、帰国後に米騒動の資料収集と研究を始める)。また大阪朝日新聞記者の尾崎秀実や立憲民政党の衆議院議員だった風見章とも知己となり、その後協力して「支那研究室」を運営してもいる。
しかしながら、こうした交友関係は官憲から左翼的・共産主義的と見られることも多く、1933年には共産党シンパ事件の余波で治安維持法違反容疑で検挙、1941年にもゾルゲ事件に絡んで検挙されている。1942年には『改造』誌上に「世界史の動向と日本」を発表、この論旨を巡って陸軍報道部に摘発され、細川は元よりかねてより交際のあった『改造』『中央公論』の編集者や研究者が逮捕された(横浜事件)。
終戦後の1945年9月4日に保釈、9月10日に横浜事件に関して免訴となる(なお同年11月、細川が中心的よぴかけ人となって横浜事件の被害者33名が共同で神奈川県特高を特別公務員暴行傷害罪として告発、1952年4月に最高裁判所で特高警官3名に有罪判決が下った)。
1947年4月の第1回参議院議員通常選挙で日本共産党公認で全国区から出馬、当選して初代の党国会議員団長となる。1950年の第2回参議院議員通常選挙でも当選するが、1951年9月に占領政策に反したとして逮捕される。不起訴処分となったが、公職追放(レッドパージ)を受けた。
同年、風見章の後援を得て「アジア問題研究所」を設立し主宰、また別に「国際事情研究会」(のちにジャパン・プレス・サービス社)を創立。
日中友好協会の設立にも尽力し、日中の国交回復に後半生を捧げた。また、大内兵衛とともに、大月書店版の『マルクス エンゲルス全集』の監訳者としてマルクスの文献の普及に努めた。
  1. 2015/03/22(日) 03:52:35|
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