古本屋通信

坪井宗康の手紙(2)

古本屋通信       No 1342  3月13日

  坪井宗康の手紙 (2)
 

 以下、手紙。


  お手紙、拝見しました。速達便だから、きっと原稿だろうと思ったのに、ちょっとがっかり。でもまあ、何という忙しさ、同情します。同情しますが、エッセイもかかず、詩もかかず、受賞の感想もかかずというのは困ります。せめて原稿用紙一枚の受賞の感想と作品は書いて下さい。

 あれからだれからも原稿が来ないので、星村氏とぼくらは一番ヒマなのだ、といっそうわびしい話をかわし始めています。

 ぼくは午前中県立図書館に通勤をしはじめて一週間になります。 学習室というところで、本と原稿用紙を広げて、受験生にまじって二時間あまりすごしています。ここで贈られた四冊の詩集 (詩脈の佐藤巌、松江の田村のり子、横浜の伊藤幸雄、裸足の坂本明子) を読み、九号のために寸評をかきました。作品は九号用と詩人会議用の二つをかきました。もどちらもまるで詩にならず、ことばにならぬうめきを上げ始めています。それにしても、あつくて騒々しい病室に比べて、ここは別天地で、もったいないような気持ちです。うらやましいでしょう。

 病状のこと、あなたにかくしだてしても仕方がないから、はっきりいいます。腎組織を採取し、その拡大写真を見ました。基礎単位ででる糸球体が健康なのが10~20%、あとは破壊されていました。この残り少ない糸球体が、今は何とか腎機能を50%にまで動かしています。代償作用だとかいうのだそうです。その機能が30%を切ると、いわゆる腎不全で、人工透析の必要があります。いまはスレスレという話です。だから今生きている糸球体を大切にして、これで日常生活や労働ができるように体調をもっていけ、ということです。幸い、腎機能は悪化していません。横バイか少しよくなっています。この一週間血尿は下がり、午前中の図書館通いもこたえていません。いずれにせよ、定期的に検査さえつづけておれば、生命に関係ない病状です。だから、人に聞かれれば、だんだんよくなっていると答えています(高木君だけは奥さんがぼくらの看護婦なのでしっているようですが)。

 榎南の戦中詩のことがそんなにあなたの重い負担になっているとは知りませんでした。この問題について、豊田秀男さんとちょっと話をしました。道標に連載中の道満氏のエッセイ、壷井の転向問題のとらえ方と関連して。道満氏は繁治がまれにみる誠実さで、自分の戦争詩を人間的敗北として自己批判したことに同感し、一篇の作品をもって繁治の戦時中の活動を全面否定する論に反ばくしています。これは正しいと思います。けれども、あの繁治がなぜああいう戦争詩をかいたのか、その外的条件と内的要因については道満氏はまだ自分の意見をのべていません。それを知りたいというのが、ぼくたち若いものの疑問でもあります。それはひとり繁治の問題ではないし、過去の問題でもないからです。榎南についてもかれが戦後生きていたら、戦中詩についてどういったか、自分の間違いだったといったか、間違いの原因はこれこれだ、といったかどうか、僕にはわかりません。榎南についてのぼくの憶測は、かれのヒューマニズムのもつ限界性(歴史の未?)というものを感じます。農民への思いやりの視線が、そのまま中国文?学への視線になり、一統?の大東亜戦争=解放戦争論へすべっていったような気がします。かれはたぶん繁治とちがう。自分の作品の転向性について自覚していなかったのではないか、心ならずも権力に屈して書いたのでなく、すすんで書いたのではないか、そんな気がしたので、豊田さんと話してみました。かれは、戦時中の転向者がいかにあっさりと党へ復党したか、転向というもののもつ重みを自覚さえしていなかったものが、いかに多かったか、つまり中身までコミュニストであることがいかにむつかしいか、転向する確固たる思想さえもっていなかった自分(豊田)は、その自責こそあれ、他人をとやかくいう資格はないとおもっているといい道満氏もまたそうであろう、といっていました。ぼくはたとえば榎南の戦中詩について、その内面的な変化について、独力で解明する力はありません。それは僕の宿題というよりも、民主主義詩運動の宿題であり。実作品がその実際の回答と考えるのです。そして自分が恥なく生涯を貫いたといいうる人のみが解明できる問題だと思うのです。それに支配権力からのイデオロギー攻撃だけでなく、例のスターリン問題で、マヤコフスキーにしろ、エルンスト・トラーにしろ、自殺に追い込まれていることもあります。政治と魂の統一という問題、しかしこれは二つのものが一人の人間の中で矛盾しあい、たたかいあっているからこそいわれることではないでしょうか。そこの矛盾があればこそ、ぼくらは活動もするが、詩も書くのでしょう。

 またも舌たらずな独断を書いてしまいました。雨があがって急に照りつけてきました。でも夏の夕ぐれは好きです。夕もやが心をやさしく、これ以上やさしくはできないというほど、やさしく抱いてくれます。

 編集の予定は決まれば電話で連絡します。

          六月十九日                        坪井宗康 
                 
    

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 参考

  文学者の戦中戦後責任 
 ――自著『花咲ける孤独』を通して―   重本恵津子

 大東亜戦争中に「詩歌翼賛運動」というものがありました。大政翼賛会宣伝部発行のB6判60頁ほどの仮綴、これが何巻も出されていて、1巻づつの初版が3万部です。扉には「この本をお読みになったら隣組やお友だちに回覧してください。これからは本でも、一冊を十人も百人もで読めるように工夫してください」と印刷してあります。この仮綴の中には当時、詩人として名を知られた人々全員が網羅されています。たとえば北原白秋は《とどろけよ、よろづよの道の臣、大御軍、いざふるへ、いくさびと....》という調子です。佐藤春夫は「大東亜戦争史序曲」と題して《勇猛果敢は相模太郎が膽、神速適確は源九郎が略、日本男子由来たたかひにくはし…》という調子で書いています。
 尾崎喜八にも同じような蒼古調の詩があります。《わが戦ふは敵にして、この世にわれをうちほろぼし、地上よりわれを抹殺し去らんとするもの、実に即ちこの敵なり…》云々というものです。草野心平、三好達治、伊東静雄、室生犀星、西条八十、大木惇夫、壷井繁治その他多勢、戦意昂揚のための愛国詩を書いています。金子光晴はどういうわけか戦争中も反戦を貫いた詩人だと伝説になっていましたがとんでもない、しっかり書いています。櫻本富雄氏はこうした詩人たちの戦争中の表現活動を50年間検証し続け、今年5月、青木書店から『日本文学報国会―大東亜戦争下の文学者たち―』という500頁にわたる本を出されています。また昭和30年代には吉本隆明と武井昭夫が、『文学者の戦争責任』という本を書き、当分は戦争中の作品の暴露と責任追及が続いたのですが、やがて「いったい、手の汚れていない者が日本人にいるのか」という論義になり、次第に立ち消えになったようです。たとえば吉川英治はじめ高名な作家の全集から「撃ちてし止まむ」式の作品はすべて削除され、今ではまるでそんなことなんかなかったかのように、隠蔽され、若い人なんかもう本当に何も知らない社会が出来上がっているのです。
 さて、尾崎喜八についてですが、彼に親しく接した人を核に構成されている「尾崎喜八研究会」では、彼の詩精神と人格は戦前、戦中、戦後、一貫して変わることがなかったので、特に戦争中の作品が論義されたことはありません。しかし、外部にいくとそうではないのです。たとえば、1992年は喜八生誕百周年でしたが、京都の「ロマン・ロラン研究会」で、鶴見俊輔氏が「ロマン・ロランの革命劇をめぐって」という講演をされました。尾崎喜八は長年にわたってロランと親しく文通をかわした日本人の一人ですから、私は興味を持って聞きにでかけました。
 鶴見氏は「ソビエト連邦がなくなった今、社会を作り変えようとする理想そのものが衰えている」と前置きされ、「ロランの日本での人気のピークは大正10年頃だった。軍国主義になるとロランに魅せられていた社会主義者や自由主義、平和主義者の多くが、軍国主義のもと、思想の衣がえをしていく。尾崎喜八、高橋健二、高村光太郎、倉田百三、武者小路実篤らです。同じ種類の問題を今、我々は持っている」と言われました。私はこの言葉が腑に落ちず、尾崎喜八が戦争中に私が知らない何か特別なことをしたのかと思い、猛然と調査を開始したのです。
 敗戦の翌年に、雑誌「文学時標」と「新日本文学」がそれぞれ30名前後の文学者の名を挙げて責任追及をしていますが、両方ともに、尾崎喜八の名はありません。アメリカ占領軍によって公職追放仮指定された文筆家331名も当時の読売新聞で調べましたが、この中にも喜八の名はありません。また、戦争中に長谷川時雨が発行していて、女流たちが翼賛記事を書きまくっていた新聞「輝ク」も調べました。こうした作業を通して解ったことは、現在大作家として通用している人たちの何食わぬ居直りぶり、罪を他人になすりつけ、生まれながらの平和主義者の顔をしている文学者たちのしたたかさです。そしてみずからの罪を恥じて戦後、寒村で自己流謫を生きた高村光太郎や尾崎喜八の名だけがスケープゴートになって残り続けていることです。今になって私は解ります。鶴見さんは、節操のない厚顔無恥なやからは歯牙にもかけず、純粋な人道主義者、純文学者だけを問題にしたのだということが… しかし、後世の人にはそこの処をしっかり伝えて置かねばならぬ、と私はこの問題を扱った第六章に特に力を入れたのです。(戦後、信州富士見で流寓の生活を送りながら、最高の詩集『花咲ける孤独』を完成させた喜八の「詩人」としての真面目と「ただびと」としての懐の広さ深さをここにしるせないのが残念です)。
  (1965年卒業)  (《Вести》第6号 1996年4月25日発行 所収)
 

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榎南謙一 えなみけんいち (1913-1945)

岡山県金光町生まれ。別名、謙二・黒島謙。はやくから農民運動に従事。ナップに参加す。日華事変に応召。1945年、北支にて戦死した。/「日本詩人全集 第7巻」より


「日本プロレタリア文学集39・プロレタリア詩集2」より

【農村から】
――失業反対――
――よう戻って来た
娘の手を握りながら
両親(ふたおや)は娘一人ふえたこれからの生活(くらし)を考える
正月だと言って
餅を鱈腹食うて寝ては居れなかった
地主の塀からきこえる
景気のいい餅搗きの音に
餓鬼どもは咽喉をグウグウいわせて駄々をこねた
お父うが鍬をかついで
裏口からコッソリ出かけようとしたとき
お母あはどう言って泣いたか
――三ヵ日にようもまあ、仕事をするだ
フウが悪うて……
米の有り余る豊年に
百姓の納屋はがらん洞だ
出来がよい、と聞けば
――いつかの不足米を、とぬかして
ゴソッと持って行く奴め
豊年じゃいうておどる間抜けがどこにある
百姓の生活は何時もかわらぬギリギリだ
豊年飢饉!
バスケットをぶらさげて
東京の工場を追ン出された娘は帰って来た

――操業短縮 強制帰国
東京モスリン××工場に戦いの火はもえた
人殺しの馘首に抗して
二千の女工たちはストライキへ入った
だが見ろ!
大衆党幹部のポケットへ札束が入り
女工たちの要求は勝手にゆがめられた
失業地獄のどん底で
垢ほどの手当が何になる
泣き 泣き
女工たちの帰って行くのは何処なのか
豊年飢饉になやみ 疲れ
くたばりかけの農村へ!
――よう戻った 達者でよかった
だが、帰って来た娘は
もう肺がくさりかけだ
工場での絶え間ない労働強化に体を痛め
荒い野良仕事は出来そうにもない!
見ろ!
資本家(きゃつら)の死物狂いの重圧は
くたばりかけの農村にまで襲いかかる
産業合理化に押しひしがれ
わしら百姓が
さらに背負わされる数え切れぬ苦労の山々!
わしはあんまり暢気すぎた
遠いようで決して遠くない
他人のようで自分のことだ
農村から!
そうだ、わしらは叫ぼう
失業反対だ!

暗い!
くたばりかけの村は暗い!
だがわしらは貧乏だから賢かったぞ
わしらは合点した
わしらは行こう
此の暗さから抜け出て一つのあかるい出口へ!
わしらは一人じゃねえ
金輪際ガッチリと一緒だぞ!
わしら百姓は一つの赤旗の下、全農へ密集(あつま)る!

おっひろがった野良で肩がはる!
わしらは
春さきの風の中をまっすぐに行きながら
此の闘いをたたかい抜こう!
失業反対だ!
『プロレタリア詩』 1931年4月号に黒島謙名で発表


【無念女工】
お早うさん
昨夜の夢は?
故郷(くに)の庭には柘榴の花が散ってるだろう
けさもまた
やめて帰ろと思うたが
帯はあせたし
汽車賃なしではどうにもならぬ
爪をもがれた蟹のように
冷たい石畳みをヨチヨチと私たちは工場へはいる
今日もいちんち
トタン塀の中で無自由だ!

渇いて 渇いて やりきれぬ
トタン塀の外は
たんぽぽが咲いて乳をながしたような上天気
町の活動小屋がラッパを吹いて廻るし
糸をつなぐ手がこんなにそわそわする
無理もない
娘十七八 いろんなことを考えるンだろ
それに掃き溜めのない青春だもの
年中、蟹の横歩きそのままの立ち通しで
足はむくんで むくんで
夜は死んだようになってねむる
彼女の四年間の会社勤めは
何ンちゅうことだ――肋膜瘤!

棉ごみの中で
青春は八方ふさがり
ニキビの吹き出た頬っぺたをつめたい窓硝子に寄せる
ネクタイの連中は
朝ッぱらから花見に出かけたし
たんぽぽの咲く花は命がけ癪だ
天井を突き抜ける轟音と
その三層倍も湧きあがった棉ごみの中――
見たか
のみでもぶち込まねば
赤い血の出そうにもない襟首を――
のしかかる労働強化!
胸が痛くて血を吐いたが
それでも帰れん、帰れん!
豊年飢饉の村じゃ
田甫がなくて
百姓はウヨウヨと押し合うているのだ

百三十呎(フィート)の煙突の下で
無数の飢えがガンガンのたうっている
ナメクジみたいな沢庵ばかり食わされて
しわくちゃの胃袋が
そろそろ不逞な考えを吹く
昼の休み――
便所に行ったらビラがあった
ダラ幹を蹴っとばせ!
さしあげる手は団扇のように大きい
指輪の代りにガリを切るタコが固い
お、メーデーはもうじきだ!

お早うさん
ゆうべの夢は?
石畳みをほおずき色の蟹が這うている
海は明るい雄弁だし
ホンに春だなあ
だが いつになったら
安心して活動でも見る春がやってくるのかしらん?
無念女工は歯ぎしりして大股にゆく
飢えた胃袋はギリギリと不逞の汽笛を吹きあげる
がまんのオジメをくだいて くだいて
うずうずと寄せ のしかかりせりあげる波は
脈になり 防ぎ難い動力になり
ギシギシとプロレタリアの戦列へ!
『プロレタリア詩』 1931年9月号に黒島謙名で発表
『1931年版日本プロレタリア詩集』より


【天瓜粉】
この兄が怖いか
おぼつかなげな眼をおずおずさせて
母の胸にあとしざりする

久しぶりに会う兄は
柿いろの獄衣
その傍には
肉親の談話を書きとめている無表情の立会看守
世馴れた大人でさえ
おびえるこのコンクリトの塀のなかへ
よくやってきてくれた、妹よ

兄はそんなに痩せてはいないだろう
ここでは
鰯が食える
豚肉のカレー汁が啜れる
痩せているのはお前だ
このごろのごはんに眼立つのは黒い麦粒だけだろう
高い年貢は
幼いお前までを押しひしぐのか

怖がらずに眼をあけな
兄の全身を縛っている眼に見えぬ鎖が見えぬか
お前にはかならず見える

こんなに痩せたお前に見えない筈があるものか
いつまでもこうしていたいのに
看守の靴がいらだたしげに床をすりつける
さよなら
お辞儀しやがった
ほんとにいじらしいやつ
接見室から出てゆくその後首に
はしかでもわずらったのか
天瓜粉が白く吹いている

暑さだから気をつけるんだよ
さよなら、さよなら、妹よ
おれは
焼けただれた煉瓦屋根の下へ帰ってゆく
さわやかな涼風に胸をふくらせて
――「獄中詩篇」のうち
『詩精神』 1934年9月号に発表


『1934年詩集』より
【夜雲の下】
自動車が動揺すると
細引で縛られたまま
私たちの肩と肩とがごつんとあたる
争議は敗れた
送られる私たちは胸の苦汁をどうすることが出来たろう
「あちらでは吸えないんだぜ」
一本ずつもらった最後の煙草
言いようのない感慨とともに
蒼いけむりを腹の底までのみ
でこぼこだらけの道路を揺られて行った

やがて陽は墜ちたのか
道路にかぶさる青葉がだんだん翳ってくる
うなだれている私たちは
そのとき
道路のただならぬざわめきに気づいた
号外の鈴が慌しく鳴りひびき
気色ばんだ人たちがそこここに群れ
何か声高に話し合っていた
「犬養さんが殺されたんだって」
そう教えてくれた男は哀しげな表情をしたが
顔を見合わせた私たちは
思わずきっと眉があがった
1932年5月15日であった

日はとっぷりと昏れて
スピイドを増した自動車は
ますますひどい動揺に喘いだ
車輪の軋りだけは微かにきこえるが
いまはどこを走っているのか
車窓のセルロイドには
泥のようにぬるぬるした闇だけだ
劇しい疲れにうつらうつらとなりながらも
ともすれば私たちは
おびえたように幾度も眼をしばたたいた
恐怖はびっしょりと全身を濡らしてくる
どうなとしやがれと観念きめても
さっきの号外の鈴が耳にこびりつき
しぼんだ心臓は急ぜわしくのたうちつづけている
黒い夜雲は低く垂れさがり
これからしばらくは
つむじ風が荒れるにちがいない

眠っている町角をカーヴすると
自動車は突然スピイドをぐっと緩めた
もう一度肩と肩がごつんとあたり
裂かれねばならぬ私たちは
しょうことなしにほんのすこし微笑み合った
くろぐろと空をのんでしまった
夜雲の下
刑務所の赤い燈が
車窓のセルロイドに点滅するのであった。
――「獄中詩篇」のうち
『詩精神』 1934年12月号に発表
  1. 2015/03/13(金) 06:36:54|
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