古本屋通信

性的マイノリティー 補足

古本屋通信       No 1338  3月11日

  性的マイノリティー 補足



  直前板の続きであるにも拘らず別板を立てたのは、私は池内質問を現段階の国会質問として高く評価しつつも、私自身の疑問が全く氷解していない、その点を少し書きたいからである。
 
 池内質問以後、私は多くの関連記事を読んでいない。読んだのは2チャンネルの冷やかしと、キンピーサイトのエントリーだけである。どちらも考えさせられた。それをネタにして、少し発展させて書こうと思う。


2チャンネルの冷やかし

 
例によって例の如くのオンパレードだが、私がハッと感じたのは所謂ロリコンについての記入だ。つまりコレも性的マイノリティーの範疇に含まれるのか、それとも異常性愛つまり性的倒錯に入るのかということだ。それは精神科の治療の対象になるのか否かと云うことでもある。かつて宮崎クンなどという「大物」がいて、出版業界も書店業界も、そして最終的には古本業界も大変なアオリを喰った。ロリコン写真集の全面発禁と違反への度外れな懲罰(重罪)である。これは未成年少女の人権の由々しき問題として、何段階かに分けて、国会で超党派で通過した。その一々について異議を述べる暇はないが、最終の古本での売買禁止を私は許せない。

  いちじ清岡純子写真集に一冊数万円の古書価がついていたのは事実である。然しこれは過去に大手新刊書店で平積みで売られていた一般写真集である。成人図書指定でもなんでもない。色々な問題が生じて新刊の出版に規制を掛ける法改正はまだ許せる。しかし一度出回っている古書の売買を許さない、こんな馬鹿が何処にあろうか。これは江戸時代の焚書である。重罪は打ち首獄門だ。事実、これで全国多くの古本屋が廃業した。私は元から不扱いだが、だからと言って許せない。日本古書組合連合会は全くなっていなかった。抗議文のひとつも出していない。

 私はこの件で日本共産党を特に厳しく批判しようとは思わない。最近始まったことではない「通俗世論迎合」の顕れの一つだからだ。選挙の票になる方になびく。つまりブルジョア議会主義の当然の帰結である。多くは言うまい。

 江戸時代の浮世絵の枕絵(春画)は現物がアウト、複製図書はOK。誰が決めたんなら。それでいて研究者(機関)ならいずれもOK。

 ロリコン写真集の清岡さんの本には、少年を被写体にしたものはない。少女ばかりである。少女だけに性欲を感じる人は多いだろう。然しそれではこれは異常性愛なのか、それとも性的マイノリティーなのか。私は後者だと思う。しかしそれでも、それを受け止める側の少女の未成熟の問題は残る。ならば、少女の顔の部分をボカして個人を特定できないようにしてはどうか。

 もうひとつ。少女の写真がダメだという。ならば少年の裸体写真はどうか。今はどうか知らないがニューハーフだとかホモ雑誌というのは腐るほどあった。その少年版はどうなのか。池内さんの指摘にもあったが、男が好きか女が好きか、他人からとやかく云われる問題ではない。少年の乳首に性欲を感じる人もいてよい。その少年の上半身裸の写真がOKなら、なにゆえ胸も膨らんでいない少女の上半身裸がダメなのか。サッパリ解せない。



 書き始めたらきりがない。いくらでも書ける。私は池内質問の全てを是とする。そのうえでだが、同性が好きか異性が好きか、この問題は生まれた時から決定されている先天的な要因が大である、その前提で池内質問はあった。だが反面、制限された環境の中で生じる場合をハナから無視することも出来まい。軍隊の中での同性愛と云うより性処理の問題は措くとして、女子高校や女子大での同性愛はかなり多いらしい。私自身は近所に女子大がある古本屋として、20年間で三度、女子学生からそういう話を打ち分けられた。うち二つは自慢話とも取れる他愛もない与太話だったが、一つは「結婚したい」という真面目な話だった。聴くだけだったが、こういう話は精神科医はお断りりなのか。ハナから矯正の対象外だと言い切れるのか。その辺は池内質問の範囲では分からなかった。



キンピーサイトのエントリー

  管理人のブサヨさんは材料を提供しているだけだし、コメントも多くはないので引用はしない。要は共産党はいつの間にか方針転換して、自分が過去言ってきたことにほうかむりしているという批判である。これについて私の実感を書いておきたい。

 私はこういう問題で党中央委員会決定や幹部会談話は出ていないと思うが、赤旗記事なら沢山あっただろう。私は関連して最近の赤旗を読むことはなかったから、1960年代の記憶になる。

 このサイトのコメントどおりであった。同性愛というのは思想の頽廃、とりわけアメリカの頽廃文化が対米従属の日本文化に流入したものであり、健全な民族的民主的文化を創造するうえで、頽廃文化との戦いは避けられない。これは一般的表現で、1965年当時共産党の文化部長だった蔵原唯人『思想と文化のたたかい』 中の文言にあったと記憶している。特にホモ、レズを名指しで批判してなくても、そう解釈できる文言だった。

  当時の民青は殊のほか男女交際や青年の性の関係には気を遣っていたが、具体的な個人が槍玉に上がった記憶は余りない。まあ、ぬやまひろし(西沢隆二)くらいか。彼は 「わかもの」 というサークルを主宰していたが、かなり乱れていた。つまり性の放縦を黙認していた。あと1970年代に入ってはその逆で、綺麗ごとで禁欲主義を提唱したのが西沢舜一だった。愛の三部作とか言われて、民青の締めつけに使われた。この辺は元東大民青さんが書いていたから、坂井希さんの時代まで「同性愛は頽廃」というのはあったのだろう。

 ただ、こういうのは原発方針とは違って、少なからずムードなので、共産党が過去を自己批判して、今回の池内質問があったという風にはならないと思う。


 この部分について、以下の赤文字のような投稿があった。私が知らなかった正確な記載があるので、本文に転載した。今の私の実感からも納得できる。ありがとうございました。

「同性愛は頽廃」について私の知っていることを書きます。
まず、西沢舜一「愛の三部作」は、党内・民青内でも非常に不評でした。
それに、党・民青としては性的マイノリティの運動へ参加することはありませんでしたが、個人として参加しているものはいました。
ある奈良県のゲイ党員が、性的マイノリティの運動に参加しており、何度も党中央に以前の誤った立場をただすように質問を送っていました。それに対する党中央の回答が、1994年第20回党大会以前にあり、性的マイノリティの権利を尊重するという内容でした。そしてそれと同じ内容が、赤旗日刊紙の「読者からの質問への回答」という形で掲載されました。それをもって党中央は以前の態度を改めたとしています。ただし、性的マイノリティの運動に組織として関ることは、現在もあません。

2015/03/13(金) 00:26:50 | URL | 伝説の学士助手 #NqgXfLUo





  最後に宮本百合子の同性愛について。百合子はロシア文学者の湯浅芳子と同性愛の関係だった。2人は一緒に住んでいた。百合子が顕治に会いに行こうとすると、湯浅が百合子の草履を隠すのだそう。いわゆる三角関係である。百合子が死んだ時、湯浅を葬式に招ぶか否かで揉めたそうだ。中野重治や窪川鶴次郎は 「当然呼ぶべきだ」 と言ったが、顕治が承知しなかったとか。このとき顕治が持ち出した話が草履の件だ。私はこれを窪川経由で読んだと記憶している。そしたら顕治が 、「キミが死んだら(離婚した佐多)稲子さんを呼ぶのかね」と言ったか言わなかったとか。

 この辺は旧い党員はみんな知っている。元祖共産党ではレスビアンはタブーではありませんでした。


 ところで個人的にこの板作成の最終段階で大きな収穫があった。窪川鶴次郎の稲子との離婚の理由が、彼の女癖の悪さだというのは定評があり、私も何度か読んで知っていたが、その相手が田村俊子だとは今の今まで知らなかった。コレを私が大きな収穫だと言ったのは文学上の問題ではない。窪川は戦前の転向(許せる転向を許せないと言った吉本隆明こそ私は許せない)を経て、戦後再入党している。つまり女癖、しかも非党員の田村との浮気は入党の妨げにはならなかったのだ。かなりの自由恋愛を共産党は認めていたことになる。そう考えると市川正一の不倫除籍はますます納得がいかない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ウィキペディア


 窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 - 1974年6月15日)は、日本の文芸評論家。
 
静岡県菊川市出身。掛川中学から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。そのころ、田島いね子と知り合い、結婚する。いね子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか陽の目をみなかった。ただし、1930年11月号の『ナップ』に掲載された詩「里子にやられたおけい」は、作曲されて広く歌われるようになった。

評論家として窪川が認められたのは、1931年頃からのことである。1932年1月には共産党に入党し、そのために3月24日に検挙され、5月4日に起訴された。翌1933年、獄中で結核が再発し、政治活動をしないという条件で11月に保釈となった。その後、1934年に作家同盟が解散してからは総合雑誌や文芸雑誌にも活躍の場を広げた。このころの主要な著作として1939年に中央公論社から出版された『現代文学論』などがある。これらの評論集で、鶴次郎は、戦争へと傾斜する文学に警鐘を鳴らし、現実社会を描く文学のありかたを追究した。

しかし1938年には、19歳年上の田村俊子との情事が発覚、夫婦仲が悪化し、1945年二人は離婚、稲子は筆名を佐多稲子と改める。そして、ふたりの関係に取材した小説をいくつか書いた(『くれない』など)。

戦時中は1941年12月23日の『朝日新聞』「戦時提言欄」に「文学者として何を為すべきかに、迷うことは少しもない。日本にとって前古未曾有のこの大東亜戦争に直面して、国民の一人として必死の覚悟があるならば文学の仕事に携っている限りは、私たちの責務は、あくまで文学にたいする真の自覚より他にないであろう。かくて日本文化の法燈はいよいよ輝くであろう」という文章を掲載し、大日本言論報国会のメンバーであった。このことに対しては『文学者の戦争責任』(吉本隆明、武井昭夫共著、淡路書房、1956年)で批判もされた。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』(全貌社、1957年)には窪川について、「皇国文学の御用理論家」という副題が付けられた。

戦後は新日本文学会の結成に参加し、民主主義文学の立場から批評活動を続ける。1950年代にはいると、日本大学での講義に力を入れるようになり、評論活動はほとんどおこなわなくなったが、石川啄木研究を中心とする短歌論にも多く手をかけ、晩年は啄木研究者としてのイメージが強い。

著書
現代文学論 中央公論社 1939
文学の思考 河出書房 1940
文学の扉 高山書院 1941
文学と教養 昭森社 1942
現代文学思潮 三笠書房 1942
再説現代文学論 昭森社 1944
現代文学研究 九州評論社 1947
人間中心の文学思想 解放社 1947
文学・思想・生活 新星社 1948
現代文学の探求 解放社 1949
短歌論 短歌革命の展望 新日本文学会 1950
石川啄木 1954 (要選書)
近代短歌史展望 和光社 1954
文学・教養・人生 葦出版社 1955 (かわず文庫)
日本のプロレタリア文学 史的展望と再検討のために 平野謙、小田切秀雄共編 青木書店 1956
日本近代文芸思潮論 1956 (青木文庫)
東京の散歩道 明治・大正のおもかげ 社会思想社 1964 (現代教養文庫)
昭和十年代文学の立場 窪川鶴次郎一巻本選集 河出書房新社 1973
新浅草物語 造形社 1977.7
  1. 2015/03/11(水) 08:04:14|
  2. 未分類