古本屋通信

逸見重雄(へんみしげお)

古本屋通信       No 1331  3月8日

 逸見重雄 へんみしげお スパイ査問事件の関係者のひとり)


 せんじつ法政大学について書いているとき湯川和夫の名前に出くわした。そこからネット検索していたら逸見重雄に辿りついた。あれこれ書かないで、宮地健一さんのHPを転載させてもらいます。宮地さん、ありがとうございます。




逸見重雄教授と「沈黙」 

芝田進午氏一文と『逸見重雄追悼集』抜粋

 高橋彦博法政大学教授
 (注)、「スパイ査問事件」関係者の一人、逸見重雄中央委員はその後、法政大学社会学部教授、社会学部長となりました。これは、夫人『歌集』(1996年)における芝田氏の文、および『追悼集』(1978年)に関しての、高橋氏の『通信』(1996.7.5)です。このHPに全文を転載することについては、高橋氏の了解を頂いてあります。

1、歌人・逸見千鶴子さんの世界  芝田進午
2、『逸見重雄追悼集』より抜粋

 つい最近のことですが、逸見千鶴子作品集『薔薇真紅、添いとげ得しと』(*)を関係者からおくられました。そこに、芝田進午先生の次のような発言を見ることができました。同書は、私家版「歌集」なので、皆様のお目に触れることがないであろうと、左に芝田先生の一文の一節を紹介させていただきます。『薔薇真紅』に再録されている『逸見重雄追悼集』(一九七八年)からの何点かの追悼文も紹介させていだきます。(*)故・逸見重雄教授の教え子の会があり、この会が千鶴子夫人の詠まれた歌を一冊にして一九九六年四月に刊行しました。


  歌人・逸見千鶴子さんの世界      芝田進午 

 逸見千鶴子さんは、私が法政大学に職を得た時、同大学社会学部長の職責にあられて、私にとって人生の恩人になられた故逸見重雄先生の令夫人であられた方です。いっしょに助手に採用された増島宏さんとともに、鵠沼海岸のお宅を初めてお訪ねしたのは一九五三年春のことで、もう四十三年も昔のことになります。今でもご夫妻の丹精込めた薔薇が庭いっぱいに咲き誇り、芳香を放っていたことが昨日のことのように思い出されます。

 こうは申しましても、逸見千鶴子さんの人生が重雄先生の人生と切り離せないものであったことはいうまでもありません。重雄先生の人生と業績については、私も「逸見重雄追悼集」(一九七八年)に拙文を書き、特にわが国でのベトナム研究ならびにベトナムとの連帯運動の先駆者としての先生の功績を高く評価させていただきました。困難な時代における先生の苦難に満ちた、人情厚い人生についても、同書に寄稿された多くの人々の追悼文から、私は多くのことを教えていただきました。

 そのうちでも、とりわけ湯川和夫先生の文章「逸見先生と沈黙」が私に深い印象を残しました。湯川先生は、ある人を評価する場合、その人が語ったことよりも語らなかったことに、より多く耳を傾けなければならないと指摘されました。実際、沈黙のほうが多弁よりもより多くを語ることがあるものです。さらに、多弁はしばしば弁明になるもので、それに較べると沈黙は非常に大きな忍耐力を求めるものであり、だれにとっても難しいことです。その難しいことを黙々と続けられた重雄先生の生き方には、人をして襟を正させるものがあります。

 ある事件の関係者が、その事件について沈黙を守ことによって、事件について証言をする以上に真相を語る結果になっているようです。その事件の主人公が、関係者に沈黙を強いることによって、かえって重い証言をさせた結果になっているのでした。それにも関わらずですが、私は、ここで、左翼知識人の沈黙が何に対する誠実さの証になっているのかと問わずにはいられません。


 (「逸見重雄追悼集」より)

  逸見夫妻の思い出      伊豆公夫(赤木健介)

 逸見さんは、戦中の転向について苦しまれたにちがいない。同じ悩みは、私を含む多くの人びとが経験してきたものだ。それを時代の犠牲者などと言いたくはない。みずから選んだ道、その挫折、そして再起しようとした努力、――それらすべてが各人の負うべき責任であり、また時代の中で、本人ぬきに批判され、評価されるべきことである。誠実に生きぬいた逸見さんの生涯に浮かびあがってくる背光を、後世がどのようにつかむであろうか。それは歴史にゆだねたい。


  重雄さんのことども     中野新

 最後に。一昨年来「共産党のスパイ査問事件」がジャーナリズムをにぎわすに至り、当事者の一人としての逸見氏のところへも、新聞、雑誌社の記者がささり込んだようですが、その政治的影響を重視された氏は、終始沈黙を守り通されたとのことです。このことがあってから、氏は苦悩に満ちた日々を送られ、死期を早められたときいていますが、日本の未来のために、苦しみを一身に背負ながら、遂に倒れられたのでした。(一九七八年・四・八) (北海道経済研究所常任理事)


  逸見重雄さんと思い出    守屋典郎

 逸見さんを不屈の共産主義者だといったら、それは誤りであろう。だが、逸見さんを誠実な心をもった、人類の進歩のために一生を捧げた人だといったら、決して過褒ではないと思う。運命の不思議から、彼は共産党の最も困難な時代の中央委員となり、いわゆるスパイ査問事件に関係し、その重荷に堪えかねて獄中で転向し、一時保釈ののち、四三年再び獄につながれて、四五年二月病気が悪化して執行停止で六本木の病院に運び出されるまで、実刑に服した。その彼を転向した党員として非難することの出来るものは、宮本顕治君を除いたら何人いるであろうか。しかも彼は戦後、共産党からのきびしい冷遇に堪え、世界革命の勝利を信じ、党を支持する態度を崩さず、若い後進の青年たちを指導し、育ててきた。


  友よ安らかにねむれ      山本正美

 その後起きた「スパイ査問事件」の中味についてはこれ以上ここではふれるつもりはない。今日の時点ではこの事件については全貌がすでに明らかになっており、この事件の真の責任者もはっきりしてきたからだ。憎むべきは当のスパイであり、当時の支配権力であることはいうまでもないが、この事件の最大の被害者は、私は他ならぬ逸見君であると信じている。逸見君に身近かに接したことのある人なら誰でも知っているように逸見君は進んでそのようなことをする人柄では絶対にない。ただ彼の党に対する忠誠心が、ついに彼をこのような悲劇的事件に巻き込んだのである。この事件の当の責任者たちは現在ジャーナリズム紙上で互に醜いののしり合いをつづけ、責任のなすり合いをしているが、逸見君は出獄時からひとこともこの事件の秘密を洩らさず、心の中て苦悩しつづけてきたようだ。彼は出獄後も支配階級側からだけでなく、この事件の最高責任者たちからも陰に陽に迫害されつづけ、隠忍させられたのである。この逸見君の苦悩については彼がこの世を去る瞬間までつづいたときいている。こういうことはほんとうに誠実な人間でなければできないことである。


  逸見先生と沈黙      湯川和夫

 逸見先生はかならずしも多弁な方ではなかったと思います。しかし、お書きになった文章のなかでは、御両親や御兄弟について、師友について、それからまた御自身についても、かなり多くのことを述べておられます。そして、学連事件前後、一九二〇年代中期から三〇年代前半期にかけて、苛酷な弾圧下の社会・政治運動に挺身されたことについても、社会学部における最終講義、その他で言及しておられます。また、政治運動から離れた後、どういうお仕事、いかなる生活をなさったかということについても、述べておられます。しかし、政治運動から離れたこと、そのこと自体については、ほとんど書いておられないのではないかと思います。

 他方、先生が政治運動から離れた後も、組織と運動から離れなかった人たちのなかには、「スパイ査問事件」(一九三三)にかかわる「調書」のなかで、まったく事実無根のことを先生の行為であるかのように述べている人もいました。また、戦後三〇年も経ってから、戦後の先生の学問的・社会的活動についてはまったく触れないで、政治活動から離れた前後(三〇年代中期から四○年代前半にかけて)の先生の生きかたについて、きびしく否定的な価値判断を加えて言及した文章が雑誌に掲載されたこともあります。前の事例にせよ、後の事例にせよ、いったい、どういうわけでそういうことが起きたのか、わたくしにはまだよくわかりません。したがって、それらの事実について論評することは控えたいと思います。しかし、それらの事実によって、先生の心がどんなにふかく傷つけられたかということ、そのことを思うとき、「人間」について、「政治」について、また「組織」について、わたくしは何ともいいようのない感慨を覚えずにはいられないのです。いや、感慨というよりは、むしろ、感傷というべきものかもしれませんが、いずれにしても、それはわたくしだけのもので、先生自身がお書きになった文章のなかには、そういう子供じみた感慨・感傷はひとかけらも見当りません。また、前記のような作り話や非難にたいして、先生はいかなる反駁も、釈明もなさいませんでした。

 国会における「春日質問」以後、マス・コミや反共主義者がさかんに「スパイ査問事件」を取りあげるようになってからも、先生は依然として沈黙をまもり続け、そして、そのまま(ということは真実を語る機会を得ることなく、ということになるわけですが)、おなくなりになりました。おなくなりになったことにかんする記事は、「一般紙」には掲載されましたが、「機関紙」にはついに掲載されませんでした。

しかし、その後のさまざまの事態の進行は、先生自身の言葉によっては語られる機会がなかった歴史の真実を、きわめて間接的なかたちにおいてではあるにせよ、すぐれて客観的に語りはじめているようにも思われます。それを聴く耳をもたない人には聞こえないとしても。(法政大学社会学部教授)



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 探していると、全く新しい文が見つかった。新平家物語さんといわれる。戦後まもなくの百合子の文を激しく論難されている。ついでに顕治も。然し私はこれを読んでも一向に胸に落ちない。何が胸に落ちないかということを予め書いておく。

百合子の文章には、よく散見できる手法なのだが、人や社会現象を毀誉褒貶を与えるに実に安易な固定観念におぶさったり、一種の風評を前提として断定してしまう癖がある。早い話、レッテル貼りの悪癖だ。これが彼女の文学的核心に所在している。

 こんな百合子批評は聞いたことがないし、下記の文を読んでも全くの見当はずれとしか思えない。だが、資料として掲載させていただこう(古本屋通信)。




▼逸見重雄氏のこと

2013年07月17日  新平家物語
下は「信義について」と題されて1946年、すなわち敗戦の翌年に「東大新聞」に発表された宮本百合子の文章である。3千字ほどの短いものなのだが、みなさんにも、ぜひ一読してほしいと思い、青空文庫より全文コピーさせていただいた。この文章に対する私の文芸上の評価は、いたって否定的なものであり、その意味では悪い見本として、ここにコピーするわけで、いささか心苦しい。前もって深謝しておく。

去る四月一日の『大学新聞』に逸見重雄氏が「野呂栄太郎の追憶」という長い文章を発表した。マルクス主義を深く理解している者としての筆致で、野呂栄太郎の伝記が細かに書かれ、最後は野呂栄太郎がスパイに売られて逮捕され、品川署の留置場で病死したことが語られている。

「昭和八年十一月二十八日敵の摘発の毒牙にかかって遂に検挙され」当時既に肺結核を患っていた野呂は「警察における処遇に抗しかねて僅か二ヶ月に足らずして品川署で最後の呼吸をひきとった。数え年三十五歳であった。」

当時私の友達が偶然野呂さんのいた警察の留置場に入れられていた。そのひとは看護婦の心得があったので、自分で体の動かせなくなった野呂さんのために世話をしてあげた。

「どこへか運ばれてゆくとき留置場から自動車まで抱いて行ったんです。女のわたしが、軽々と抱き上げるほど小さくなってしまっていらしたのよ。抱き上げた途端はっとして、涙が出て、かくすのに本当に困ったの」そのひとは、そう話した。「自分も病気だったけれど、わたしは、本当に本当に何とも云えない気がした。私は死なないこと丈はたしかだったんですもの」これを話した人は、おそらく一生この光景を忘れることはないだろう。

逸見氏の文章を、私は様々のことを思いながら、読んだ。未完であったその「追憶」はつづけて四月十一日の『大学新聞』にのった。筆者はたっぷり、いい気持に、一種調子の高いジェスチュアをも加えて文章を進めているのであった。「マルクス主義は論壇で原稿稼ぎに使われるような、そんな生やさしいものではないのである。その理論の命ずるところは必ずプロレタリアートの実践と結びつく。」「この理論と実践との結びつきを、身を以て野呂が、あの健康をもって示したことは、今後のマルクス主義者に多くの範を示すものである」と。

それを読み、二度三度くりかえして読み、私の心には烈しく動くものがあった。この一節を書くとき、筆者逸見氏は、自分のうちにどんな気持がしていたのであろうか、と。

逸見重雄氏は、野呂を売って警視庁に捕えさせたスパイの調査に努力した当時の党中央委員の一人であった。特高が中央委員であった大泉兼蔵その他どっさりのスパイを、組織の全機構に亙って入りこませ、様々の破廉恥的な摘発を行わせ、共産党を民衆の前に悪いものとして映そうとして来たことは、三・一五以来の事実であった。そして、これは、今日の事実であり、明日の事実であるであろう。現に新聞は共産党への弾圧を挑発するためマ元帥暗殺計画を企てた新井輝成という男の記事を発表している。

当時の中央委員たちによって、スパイとして調べられていた小畑達夫が特異体質のため突然死去したことは、警視庁に全く好都合のデマゴギーの種となった。共産党員は、永い抑圧の歴史の中で沢山の誹謗に耐えて来たのであったが、この事件に関係のあった当時の中央委員たちは、人間として最も耐えがたい、最も心情を傷められる誹謗を蒙った。人殺しとして扱われ、惨虐者として描き出され、法律は、法の無力を証明して支配者の都合に応じて顎で使われ、虚偽の根拠の上に重刑を課した。

私は、一人の妻として計らずもこの事件の公判の傍聴者であり目撃者であった。一九四〇年(昭和十五年)春ごろから非転向の人たちだけの統一公判がはじまった。事件のあった時から足かけ八年目である。

転向を表明した人々の公判が分離して行われ、大泉兼蔵の公判も行われた。当時傍聴席は、司法関係者と特高だけで占められていた。家族として傍聴する者さえ殆どなかった。たまに誰か来ると、特高は威脅的にその人にいろいろ訊いたし、私のように関係の知れ切っている者に対してさえ、今日こそ無事には帰さないぞという風の無言の脅迫をくりかえした。

私は、その事件については、全然何も知らず、すべてを新しい駭(おどろ)きと、人間としての憤りとをもって傍聴したのであった。そして、この駭き、この憤りを感じてここにかけている一人の小さい女は、妻ではあるが同時に作家である。その意味では、民衆の歴史の証人である責任をも感じつつ、春から夏へと、傍聴をつづけた。

分離の公判で、はじめて逸見重雄氏を見た。そのときは、上下とも白い洋服で瀟洒たる紳士であった。仏語に堪能で、海軍の仏印侵略のために、有用な協力をしているというような地位もそのとき知ったように思う。

「野呂栄太郎の追憶」の終りにかかれている堂々の発言を見て、私の心が激しくつき動かされたのは、今から七年前の暑い夏、埃くさい公判廷で幾日も見た光景が、まざまざと、甦って来たからである。一個のマルクシストであり、中央委員であった人物が、残酷な悪法に挫かれて、理性を偽り、これからは共産主義に対してたたかうことを生涯の目的とするという意味の上申書を公表しなければならなかったことは悲劇である。どんなに日本の治安維持法は暴虐で、通常人の判断も意志も破壊するものであったかを語っている。

日本を今日の全面的破局に導くために、支配者の用いた暴力は、そのように人間ばなれのしたものであった。野呂栄太郎は、その治安維持法によって殺され、その直接の売りわたし手の査問を担当した事件の裁判に当って、自身もまた同じ悪虐な法律のしめなわにかけられ民衆に対する責任と義務と信頼とを裏切る仕儀に陥った。追憶の文章を流暢に書きすすめるとき、逸見氏の胸中に去来したのは、いかなる思いであったろうか。

野呂を尊敬し、後進する人間的な社会理念にとってその生きかたこそ一つの鼓舞であると感じることが真実であるならば、逸見氏は、どうして知識人の勇気をもって、自身の辛苦の中から、野呂栄太郎こそ、嘗て生ける屍となった自身やその他の幾多のものの肉体を超えて、今日生きつづけるものであることを語らなかったのであろうか。

そういう人間の物語こそは、私たちを励し、筆者への理解を正しくし、真に若い世代をゆたかにするものである。逸見氏はあれほどの汚辱に身を浸しながら、どうして今こそ、自身のその汚辱そのものをとおして、復讐しようと欲しないのだろう。悪逆な法律は、人間を生ける屍にするけれども、真実は遂に死せる者をしてさえも叫ばしめるという真理を何故示そうとしなかったのであろうか。肉体において殺されたものが、小林多喜二にしろ、野呂栄太郎にしろ、人類の発展史の裡に決して死することなく生存している。肉体においては生存していても、歴史の進む方向を判断する精神において既に死んでいる者が、死して死なざる生命に甦らされて今日物を云うという場合、死者に甦らされた生者として語るべき唯一のことは、真実あるのみである。信義ある言葉のみが語るべき言葉である。

戦時中、日本の青春は、根柢からふみにじられた。権力が行ったすべての悪業のうち最も若き人々に対してあやまるべき点は、若い人間の宝であるその人々の人間的真実を愚弄したことである。活々として初々しい理性の発芽を、いきなり霜枯れさせた点である。今日、聰明で、誠実な若い世代は、自身の世代が蒙った損傷をとりかえそうとして苦闘しているのである。

その努力の一つの表現として、自分たちの新聞一枚も出そうとしている人々に対して、守るべき信義というものは厳然と立っている。それは歴史を偽らぬ、ということである。 〔一九四六年七月〕



百合子の「信義について」が、まず私に不信感をもたらすのは、これだけで文章量で、読者にいかなる心象がもたらされるであろうかという疑念である。上記の一編から、百合子の主張の、なにが読者に伝わったであろうか。

逸見重雄(へんみしげお)という人物が、百合子によれば「信義」にもとる論難されているのだが、結局、どういうことなのか、よく伝わってこないのである。

百合子は書いている。自分は、逸見氏を語るに当然の立場があると、なぜなら彼の姿を公判にて見かけたこと、また自分は、その公判で罪を着せられた関係者の妻であり、作家であると自分の立場を証明しているが、それは一応のところ首肯できるとしても、百合子は意図的に問題を、文章の外に向かわせてしまっている。

逸見氏の書いた野呂栄太郎の功績と思い出話を、非の打ち所のないものとして認めておきながら、問題は、それ以外にあると言うのである。そこが、事情の知らない読者には、実に、あいまいにベールがかぶされたままなのだ。

百合子の文章には、よく散見できる手法なのだが、人や社会現象を毀誉褒貶を与えるに実に安易な固定観念におぶさったり、一種の風評を前提として断定してしまう癖がある。早い話、レッテル貼りの悪癖だ。これが彼女の文学的核心に所在している。

「信義について」も紙数が少ないと弁解できる問題ではない。逸見氏を、そこまで否定的人物として断定的に書くなら、どうして百合子自身は、査問事件により関係者一同の中でももっとも重刑である無期懲役を与えられた宮本顕治の妻であることを明言しないのだろう。正当に名乗った上で、夫だけが無期懲役にされた不当性を正面から訴えないのだろう。実際、宮本に比べて、逸見氏はわずか数年の懲役刑を与えられたに過ぎなかったことが百合子には不満だったのか。

百合子は、査問事件の公判にしげしげと通い傍聴をかかさなかった。それは日記を見ればよくわかる。そうであるなら、逸見氏を難じる前に、当の査問事件について知っている限りの詳細を書き連ねて、不当な裁判であったことを訴えるのが、率直な姿勢ではないのだろうか。当スパイ査問事件は、敗戦の一年前に判決が出された。各自の量刑は次のごとしである。この裁判は原則、治安維持法とは関係ない。小畑の死をめぐる監禁致死事件として裁かれたのである。年齢は事件当時のもの。量刑は原則、戦後も続いていた。宮本と袴田は、政治犯釈放のGHQ命令に乗じて、いわばどさくさにまぎれて監獄から放り出されたというのが真相のようである。

 宮本顕治 ----無期懲役  25歳
 袴田里見 ----懲役13年 29歳 
 秋笹正之輔----懲役7年  31歳(公判で転向)
 逸見重雄 ----懲役5年  34歳(早期転向)
 木島隆明 ----懲役2年  26歳(早期転向)

 大泉兼蔵----34歳 懲役5年
 小畑達夫----28歳 査問現場にて死亡


「信義について」が書かれた同じ年。岩波書店で「野呂栄太郎全集」が出版の準備にかかっていた。生前の野呂にもっとも親しかった逸見重雄氏も当然、編集委員として名をあげられていた。この折に、逸見氏がこうむったある不幸な事件をプロレタリア文学研究家の栗原幸夫氏が、次のように回想している。


昭和21年、敗戦の翌年に、当時、岩波書店から刊行される予定だった『野呂栄太郎全集』の編集の仕事を私は手伝っていた。その編集委員の一人に「リンチ」事件の逸見重雄がいた。間もなく宮本顕治から強硬な異議が出て、彼は編集委員会から去った。逸見のような裏切り者を入れることは、野呂を冒涜するものだという宮本の申し入れによったのである。逸見は長い手紙を野呂未亡人に送って、われわれの前から姿を消した。私はまだ二十歳になるかならないかの学生だったが、宮本の強さにひどく胸をつかれたのを今に覚えている。逸見重雄が逮捕されてすぐ屈服し、官憲の要求するような供述をすすんでおこなったのは事実であったにしても、また、そのような人間が野呂の全集をつくるという仕事にふさわしくないという宮本の主張が正当なものであるにしても、やはり少年の私には、かつて野呂の秘書であり協働者であった、銀ぶち眼鏡の学者風の物静かな逸見が気の毒に思えてならなかった。敗戦によって日本は変わったけれど、変わったゆえに、また恐らく彼もまた変わることを望んだがゆえに、彼の前にはこれからも苦しい日々がつづくだろうな、というのが、そのときの私の感慨だった。
「戦前日本共産党史の一帰結」より
(『リンチ事件とスパイ問題』三一書房所収)



周知のように、宮本顕治と百合子は夫婦である。作家である妻は巧みに粉飾された文章で党派根性にもとづく特定者に対する陰湿な攻撃をなし、獄中12年が自慢の夫のほうといえば裏に回って、あちこちに圧力をかけつつ自分にとって都合の悪い人物をジャーナリズムから排斥することに余念がなかったのである。政治活動とは聞こえはよいが、その内実たるや売名行為と自己正当化に他ならない。こんな風にして戦後の共産主義運動が始まった、と言っては、日本共産党に対して失礼だろうか。それにしても宮本らは、なにゆえに査問事件にかかわる他者の言動と彼らの存在を嫌ったか。彼らの口から真実が話されることが、こわかったのである。党と自分の無謬性が崩れるからである。共産主義の教条の信奉性が壊されるからである。その一点である。よって、徹底的に、査問事件の真実を隠し続ける。これが戦後の共産党の政治的出発の一つとなっていたと言っても過言ではないだろう。事件当初逸見氏は、大泉、小畑を査問することに反対だったという。宮本らに押し切られ、しぶしぶ行動に加わった。当日、アジトに集結した党員の中では、逸見氏が最年長者だった。宮本などは9歳年下の25歳の若造だった。査問は終始、宮本が仕切った。逸見氏は逮捕されて、まもなく転向することを表明した。予審から公判を経て、逸見氏の証言は真実に満ちており、戦後にいたっても逸見氏の存在が、宮本にとっては、なによりの目の上のタンコブとなっていた。

逸見 重雄(へんみ しげお、1899年 - 1977年10月16日) 略歴(「ウィキペディア」より)
1899年 北海道に生まれる。
1923年 東京帝国大学経済学部に入学。
1925年 2年次修了後京都帝国大学経済学部へ転学。
1926年 治安維持法違反などの容疑で岩田らと共に検挙され(京都学連事件)、中退。
1933年 日本共産党中央委員、党中央財政部長(野呂栄太郎委員長の秘書的役割にも携わる)。 日本共産党組織部長(財政部長の後任は小畑達夫)。同年暮れに、スパイ査問事件起こる。
1934年 スパイ査問事件で検挙される。その後獄中で転向して保釈。太平洋協会などで仏領インドシナの研究に従事。
1943年:再び収監される。
1945年 病気が悪化したため刑執行が停止され出獄。
<戦後>
1945年 中央労働学園大学教授に就任。
1951年 中央労働学園大学の法政大学への吸収合併(法政大学社会学部への改組)に伴い、同教授に就任。のち法政大学社会学部長、名誉教授。
1976年 立花隆の「日本共産党の研究」連載始まる。平野謙著「リンチ共産党事件」刊行される。同書に袴田里見の訊問公判調書の全文が収録される。査問事件の暴力的外貌が暴露されている。。宮本顕治 国会で春日一幸議員よりスパイ査問事件で糾弾される。
1977年 逸見重雄死去。78歳。世は前年より「スパイ査問事件」で騒然としていた。袴田里見副委員長、党より除名される
1978年 袴田里見の「昨日の同志宮本顕治」刊行される。この中で小畑の死に直接かかわっている者こそ宮本顕治であったことが暴露され、これをもって定説となる。

☆逸見重雄の著書
『佛領印度支那研究』日本評論社、1941年
『佛印の經濟資源』(南方經濟資源總攬・第4巻)日本經國社、1943年
『帝国主義と民族民主革命 - ベトナム問題を中心として』法政大学出版局、1965年
『道標』逸見先生を囲む会(編)、1969年
<2007.05.10 記>
  1. 2015/03/08(日) 05:32:39|
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