古本屋通信

再録・白鳥事件関係

古本屋通信     No 1297   2月18日

  再録・白鳥事件関係



  志位委員長の国会質問中に 「テロ政党」 なるヤジが飛び、今日の赤旗日刊紙はスルーしたが、どうやら共産党の国対も問題にするらしい。私は 「テロ」 なる用語を拡大して使用するのには反対だが、共産党の過去について、白鳥事件の白鳥警部射殺は「テロ」が当てはまると思う。「見よ、天誅下る」 の実行はテロだろう。よって私の過去板をここに再録する。関連の書籍が川上徹さんの同時代社から刊行されたことも、この事件が再建全学連世代にとって黙殺できない事件であることを物語っている。



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 古本屋通信  No 94  2012年12月24日

 『白鳥事件 偽りの冤罪』

 白鳥事件に関する新刊予告!
 以下はすべて資料です。この事件を冤罪と見做し、村上国治救出の運動に加わった全てのひとはお読み下さい。私も1960年代後半、民青同盟の一員としてその活動に加わりました。刊は同時代社から、12月28日に発売されます。( 古本屋通信 )



『白鳥事件 偽りの冤罪』   同時代社刊
「不都合な真実」によって消された者たちに捧げる渾身のレクイエム
 渡部富哉 著  B6・384ページ 2,800円+税 

その内容の一部
白鳥事件は冤罪ではなかった
 新資料・新証言による60年目の真実   2012年 3月 18日 
 特別インタビュー 社会運動資料センター・渡部富哉氏に聞く①
             聞き手:今西 光男、山城 オサム
(インタビューは2月23日、東京・日比谷の日本記者クラブで行われた)

 60年前の1952(昭和27年)1月、札幌市内で同市警の警備課長、白鳥一雄警部が拳銃で射殺された「白鳥事件」。当時、捜査当局は、地下に潜行して武装闘争を目指していた日本共産党札幌地区委員会の組織的な犯行と断定し、同委員会の委員長・村上国治氏(故人)ら同党関係者を一斉検挙した。事件は村上氏が犯行を計画・指揮した首謀者として懲役20年の有罪判決が確定して終わった。ところが、この事件は、指名手配された実行グループは未だに逮捕されず、凶器の拳銃が未発見など物的証拠も乏しかった。さらに転向組の同党党員の証言が立証の決め手とされただけに、多くのナゾが残され、冤罪説や謀略説がいまだに絶えない。
 これに対し、日本共産党の元党員で同党大幹部やこの事件の関係者とも深い交流があり、同党の裏も表も知り尽くした元活動家、渡部富哉氏(82歳)は長年の独自調査で発掘した裁判の新資料などを基にこう断言する。「この事件は、日本共産党札幌委員会軍事部による組織的な犯行であり、冤罪ではなかった。ただ、朝鮮戦争という時代背景のなかで、当局は共産党の壊滅を狙った戦前の「スパイM」(飯塚盈延)を使って、大森銀行ギャング事件などを引き起こした手法を使った経験の再生ともいえる「やらせ」の側面、つまり当局は事件の発生を事前に承知のうえで謀略を行った。当局の証拠の弾丸のねつ造などもあったという。白鳥事件60年目の真実が今、明かされようとしている。

事件の核心を物語る裁判資料を発掘
当時から「党がやった」と確信
――米占領軍の統治下にあった昭和20年代、わが国では下山事件、松川事件、三鷹事件などの不可解な事件が相次ぎました。多くは当時の日本共産党による組織的な犯行とみなされ同党関係者が検挙されました。しかし、大半は証拠の決め手に欠き冤罪で終わっています。そうした流れの中でみると、同時代に起きた白鳥事件(注1)も、有罪判決が確定して一応の決着がついた形ですが、今でも冤罪説が根強いようですね。
渡部 そりゃそうでしょう。当時、日本共産党は公式には白鳥事件との関係を否定し、白鳥事件対策協議会(機関紙「白鳥事件」)を発行して110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた冤罪キャンペーンの国民運動を展開しましたからね。一般国民の目に冤罪と映ったのも無理はありません。それに、この事件を取り上げ独自の推理を展開した松本清張著『日本の黒い霧』の影響も大きいでしょう。彼はよく調べて書いてはいますが、CICの謀略・冤罪説ですね。確かに当局による一部証拠(弾丸)のでっち上げがありましたから、それが、なおさら冤罪説を広めたといえるかもしれません。しかし、あの当時、日本共産党にいて地下活動をしていた私達のような一部活動家にとっては、事件が発生した時、「ああ、党がやったな」とピンときたものです。
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白鳥事件:1952(昭和27)年1月21日午後7時40分ごろ(警察発表)、札幌市内で、札幌市警の警備課長、白鳥一雄警部(36歳)が自転車で帰宅途中、後ろの自転車の男に拳銃で撃たれ死亡した。体内から見つかった弾丸から凶器は拳銃(ブローニング32口径)とわかり、死体のそばから薬きょう1個が見つかった。捜査当局は、日本共産党北海道地方委員会傘下の札幌委員会メンバーの複数の自供などから、同党の地下軍事委員会指揮による中核自衛隊の犯行と断定。犯行を指揮したとみられる委員長の村上国治氏ら同党員多数を検挙した。しかし、殺人容疑で指名手配された関係者10名は中国に逃亡し、うち7名は帰国したが、実行犯(共同正犯)とされる3名は現在まで逮捕されていない。国外逃亡は時効が停止するため、逮捕状は現在も更新されている。殺人罪などで起訴された村上氏は1審、2審とも有罪となり、1963(昭和38)年、最高裁で上告が棄却され懲役20年の刑が確定した。その後再審請求を経て最高裁で特別抗告も棄却されたが、「疑わしきは被告人の利益に」という「白鳥決定」が下され、再審裁判の門戸を開く役割を果たした。村上氏は1969(昭和44)年に仮釈放されたが、1994(平成6)年11月、埼玉県大宮市の自宅で焼死体となって発見された。
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5全協から武装闘争に方針転換
――となると、立場は変わって渡部さんが、当時、白鳥警部殺害の指令を受けていたら犯行に加わっていたかもしれない。そんな党の時代だったということでしょうか。
渡部 極端な話で言えば、そういうことですね。私も独身の活動家の基準で選ばれて日電三田工場のレッドパージ反対闘争を支援する「南部プチロフ行動隊」に加わり、反米ビラを撒きましたからね。これが翌年の蒲田糀谷の反植民地闘争にいなって暴発したのです。ご存知のように、日本共産党は、1951(昭和26)年10月の5全協(第5回全国協議会)以降、武装闘争の時代(注2)に入っています。後に左翼冒険主義といわれる暴力闘争路線にカジを切ったのです。それは、紛れのない事実です。
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武装闘争の時代:日本共産党は5全協以降、それまでの合法的な平和革命論から武力による暴力革命へ、いわゆる武装闘争の方針に転換。表向きの組織とは別に秘密地下組織として、全国の都道府県、その傘下の地域単位に各軍事委員会が設置され、地域には闘争の実施部隊である中核自衛隊が組織された。党が発行した秘密文書「球根栽培法」「新しいビタミン療法」などには、軍事組織の作り方、戦略・戦術、武器の調達・製作の方法などが具体的に書かれており、これに基づいて軍事訓練なども実施された。このほか、農山村での革命の拠点づくりを目指す山村工作隊、祖国防衛隊などもつくられた。こうして主に警察、米軍、公共施設などを襲撃する本格的な軍事闘争が展開され、それは朝鮮戦争が休戦となる1953(昭和28)年7月ごろまで続いたとされる。
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――白鳥事件も、そうした軍事闘争の一環だったというわけですね。
渡部 その通りです。冤罪ではないという根拠を説明する前に、私のことをお話ししておきましょう。私は終戦の翌年16歳で郵政省の東京貯金局に就職し、1950(昭和25)年5月に日本共産党に入党し、11月にレッドパージされました。
党の非公然活動に入り、地下に潜行しました。非公然活動では、党の中央組織局(大衆運動綜合指導部)のテクをやりました。テクというのは、非合法の連絡や会議場所の設営などを担当する秘密技術部です。公然化した6全協以降は、神奈川県鶴見で未組織労働者を組織して労働組合運動、60年安保闘争、その後ベトナム反戦運動などに携わりました。

――地下に潜行してテクをやっていた時に、党の大物幹部と知り合うのですか。
渡部 潜行当時から六全協によって公然化したのち、さらに70年にかけて石川島播磨重工の田無工場(ジェットエンジン製造)の研磨工として、田無反戦を組織して活動した時代まで党の裏側を見ることができたし、大物幹部と接触し、深い交流をすることができました。名前を挙げると、政治局員クラスでは、志賀義雄(元衆院議員)、志田重男(国内指導部責任者)、椎野悦朗(元臨時中央指導部議長)、伊藤律(元党政治局員)、長谷川浩(元党政治局員)、鈴木市蔵(国鉄労組元副委員長、臨時指導部員)、御田秀一(組織部長)、)吉田四郎(北海道地方員会元議長)などです。ここに列挙した人物は全員が故人になっています)の各氏とは、親しくさせてもらいました。いずれも党の中枢にいた人たちですから、白鳥事件のことは、そういう人たちから詳しく聞いていました。このうちの何人かは、上京すると、私の自宅を定宿にしていたし、この人たちの葬儀や追悼会も私が担当しました。志賀、椎野、鈴木、御田氏は、その死後、各氏の資料整理をまかされました。それが社会運動資料センターの基礎資料になりました。志田重男は私が神奈川に行って労働者工作をする決意表明したとき、「所帯をもって落ち着いてやれ」と激励し、仲人になりました。私のかみさんは彼の女房が世話してくれのです。伊藤律は私が彼の遺言の執行者で、文藝春秋から、のち彼の遺稿『伊藤律回想録』を出版しました。吉田四郎の最期は経済的な苦境を私が援助したのです。こんなわけですから、白鳥事件が党の組織的な犯行というのは、当時から私にはわかっていました。

埋もれていた裁判資料をボランティアで製本化
――渡部さんは、戦後の党関係の様々な資料を収集・分析し、研究成果を発表しています。白鳥事件についても、膨大な裁判資料を収集・整理するなど研究を進めているそうですね。
渡部 ええ、白鳥事件は私の青春時代の忘れがたい事件ですし、友人たち(北海道地方委員、深倉其義氏)が関与していますので強い関心を持っていました。そんな折、この事件を研究している北海道の知人から白鳥事件の裁判資料を見たいと協力を求められたのです。調べてみると、長野県松本市の司法博物館に裁判資料一式が保存されていました。これは、事件の主任弁護人、杉之原舜一氏(故人)が保管していた札幌地裁、同高裁、最高裁の全裁判資料でした。段ボール箱30数個に入れられたままで未整理の状態にありましたが、同博物館関係者からこの整理を依頼されたので、原本のコピーを提供してもらうことを条件にこれを引き受けました。こうして私は、多くの友人の協力を得て、1年半をかけてボランティアで整理・製本化しました。全部で156冊にのぼる「白鳥事件関係裁判資料」が完成し、2002(平成14)年3月閲覧室で公開され、記者会見をおこない、テープカットして、華々しくスタートしましたが、2008(平成20)年、財政難から同博物館は松本市に移管となり、とたんに裁判資料はお蔵入りとなってしまいました。公開されては困る人たちの仕業といきり立ち、情報公開法にもとずいて白井久也氏(日露歴史研究センター代表)が手続きして調べましたが、真相はわからずしまいでした。そこで、私は、限られた友人に「白鳥事件裁判資料抄録」(上下、150頁)を30セット作って配っています。とにかく、この裁判資料を読めば、事件の核心がすべてわかります。冤罪ではないことが明白になります。

有罪の根拠となった「追平雍嘉(おいだいらやすよし)上申書」(手記)を発見  
――たとえば、その資料から具体的にはどんな事実がわかるのでしょうか。
渡部 その裁判資料によると、当時の日本共産党北海道地方道委員会の下にあった札幌委員会の組織的な犯行であることを、検挙されて脱党した3人の党員が詳しく自供しています。とくに追平雍嘉氏(札幌ビューロー委員)が自分の入党の経過、地下組織の全容、事件の詳細を述べた「追平雍嘉上申書」(手記)は、有罪判決の根拠の1つとなった重要な証言です。この上申書の存在は分かっていましたし、彼の供述は裁判資料にありますが、私が整理するまで本人が執筆した「手記」は行方不明でした。たまたま私が整理する中で発見できました。その全文は、これまで明らかにされていませんでした。裁判資料による供述書や裁判長の訊問記録などは「手記」にもとずいているから彼の供述の根本資料と言えるものです。
それによると、札幌委員会には、地下組織として軍事委員会があり、その責任者が委員長の村上国治氏です。彼の指示で事前に白鳥警部の銃撃作戦が練られ、拳銃の射撃訓練を実施。さらに北海道大学の学生を中心とした中核自衛隊の隊員が数グループに分かれて、白鳥警部の尾行を開始し、銃撃の機会をうかがいます。実際に銃撃をした実行犯はポンプ職人の佐藤博という人物(事件後中国に逃亡、1988年1月14日に病死、月刊「治安フォ―ラム」)、因みに宍戸均は同年2月7日死去)であることなどが詳細に述べられています。犯行翌日に追平氏が佐藤氏の自宅で、佐藤氏から犯行の具体的な状況を聞く部分があります。その一部を抜粋してみます。
   「(追平氏が)『やったなー』と炬燵のわきに立ったままで言うと、『誰がやったと思う』と、ヒロ(佐藤博氏)が真剣な顔つきで言うので『君だろう』と言うと、『うーん、どうしてわかった』と、多少警戒するような様子で、またどうしてわかったのだろうという顔つきで、慌てた様子であった」
   「また自転車の上から乗ったまま、ピストルを撃つのはどうやったのか、非常に興味があったので、『どうやって撃つんだ』というと、ヒロは『後ろからペダルをとめて手拭(?)に包んだまま出して、後ろから撃った』『しばらくそのまま走っていたがガックリとした』と言っていた」(以上原文のまま)

――生々しい証言ですね。脱党して転向した3人の供述は信用できないという言い方をする人もいますが、具体性があって信用できると渡部さんはみているわけですね。
渡部 ええ、詳細に分析してみましたが信用できますね。弁護団は佐藤直道、追平雍嘉、高安知彦たちの証言の微細な証言の食い違いと矛盾点を衝いて、「信用できない」としていますが、私はむしろそれが当然だと思っています。高安知彦を例にとれば、彼が逮捕されるのは翌年の6月9日です。1年4箇月も経っているのです。「そこに誰がいたか」、「それは何時、何時ころだ」と追及されても細部に記憶がずれるのはむしろその方が真実だと思っています。
事件立証の決め手はまだ他にもあります。しかし、それとは別に当局の証拠のねつ造の疑いも出てきました。真相に迫る事件のタネは尽きません。
渡部 富哉(わたべ・とみや)氏略歴  1930(昭和5)年東京生まれ。日本共産党元活動家。社会運動資料センター代表。46年郵政省東京貯金局に就職。50年日本共産党に入党し、レッドパージを受けたあと、翌51年労働組合の書記となり、その後、非公然活動に入る。6全協以降は造船所の労働者として労働組合を結成し、60年安保闘争を闘う。61年石川島播磨田無工場に研磨工として入社。同時に田無反戦を組織し、ベトナム反戦や数度の造船合理化と闘う。85年に定年退職となり、「徳田球一記念の会」理事となる。著作には、伊藤律のスパイの冤罪を立証した『偽りの烙印』(五月書房)。『生還者の証言』五月書房などがある。
「メディアウォッチ100 2012.3.16. 第159号」より許可を得て転載。
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<講演会・白鳥事件60年目の真実>
主催  社会運動史研究会、現代史研究会、ちきゅう座、社会運動資料センター
1. 日 時  4月14日(土)午後1時~5時
2. 場 所  明治大学リバティータワー
3. 講 師  ① 渡 部 富 哉(社会運動資料センター)
       演題「裁判資料から検証する白鳥事件」
       ② 中 野 徹 三(札幌学院大学人文学部教授)
       演題「北海道大学の学友たちが体験したこと」(仮題)
       ③ フロアー発言(事件関係者、研究者)
4. 参加費 資料代  1000円
      

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古本屋通信 No 134  2013年 2月17日


 狭山事件と白鳥事件

 2つの事件について、このさい個人的感想を書いておく。事件の検証ではない。私の心象風景だ。 (今回、狭山事件の部分については削除した。古本屋通信


  白鳥事件
 まず私の通信 No 94 『白鳥事件 偽りの冤罪』 をお読み下さい。痛恨の極みだが、どうしてこんなことになったか。そのまえにこの本がなぜ川上徹さんの同時代社から出版されたか。川上さんも痛恨の想いがあったのではないか。
 北海道警の白鳥警部補を殺したのは、極左冒険主義時代の日本共産党札幌地区委員会の党員だった。ディテールはともかく、村上国治は冤罪ではなかった。1964~1967年に懸けて村上の救出運動に末端で関わってきた私は痛恨の極みだ。「国治とそのお母さんの悔しさをバネに、あらゆる闘いを戦闘的に闘おう」 とアジったのは民青時代の私だ。われわれは国治に感動しなければならなかった。一番熱心だったのが、いま文学関係の出版社をやっているH川さんだった。記憶では当時建設された民青会館は白鳥カンパニア運動の時期のカンパで建てられた?
 といっても1964~1967年当時の日本共産党が組織をあげて白鳥無罪キャンペーンをやった訳ではなかった。熱心だったのは民青だけだった。あとから思ったのだが、当時の共産党主流は早く白鳥事件から撤退したかった? 1964~1967年には既に旧国際派が指導権を確立していたが、まだまだ所感派の勢力も残っており過渡期だった。白鳥事件は党の恥部だった。宮本顕治が当時どう考えていたか分らないが、党幹部の過半は村上クロ説だったのではないか。しかし事件をアメリカ軍による謀略とする説を捨てられなかった。阿呆は「親のこころ、子しらず」の民青だった。私も阿呆の典型のひとりだった。
 大部の小説 『小説 白鳥事件』 を書いたのは旧人民文学派=旧所感派の山田清三郎だ。シンヒヨで有名になった広谷俊二も札幌地区委員会出身で旧所感派だ。白鳥事件は旧所感派の最後の砦だった(?)。
 村上国治は保釈されて間もなく、精神の変調をきたす。かつての英雄がただのヒトとなったとき、かれの心の病気が発症した。国民救援会の役職についたが、簡単な実務もこなせず、自転車泥棒がばれて会を辞める。かれが失火で焼死したとき、『赤旗』に小さい記事が載った。私は50年党分裂の根は深かったと今でも思う。そして、責任の大半は所感派にあると思う。
 朝日訴訟の運動など所感派細胞が担った運動にも先進的な活動は多い。しかし、これらが山村工作隊や中核自衛隊の活動と同時併行的に、いわば任務分担的に行われた事実は押さえておかねばならないだろう。村上国治も朝日茂も同じ時代に日本共産党員だったのだ。
  村上国治 1923~1994
  朝日 茂  1913~1964



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 以下は 『白鳥事件 偽りの冤罪』 のアマゾンレビューである。5件とも星5つの最高評価である。


14 人中、13人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 冤罪説を信じていた人に是非読んでもらいたい。, 2012/12/30
投稿者 まさみ
レビュー対象商品: 白鳥事件 偽りの冤罪 (単行本)
白鳥事件は当時軍事方針をとっていた日本共産党の犯行です。しかし、日本共産党は長い間、この事件の真犯人は党員ではなかったと「冤罪説」をとり、救援活動を展開してきました。首班とされた村上国治は1994年自宅火災により焼死してしまいました。覚悟の自殺と言われています。真犯人と思われる佐藤博(ポンプ職人・前歴は海軍所属でボルネオ島で銃撃戦をした拳銃のプロ)の事件後の逃亡生活など人間味溢れるドキュミントとなっています。膨大な裁判資料を駆使しての真実に迫る迫力は感動的です。「冤罪説」を信じていた方は是非読んでみて下さい。


8 人中、7人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 衝撃に満ちた本です。共産党の方、読んで真摯に受け止めてください。, 2013/4/8
投稿者 太宰ファン
レビュー対象商品: 白鳥事件 偽りの冤罪 (単行本)
この本は、著者が膨大な裁判資料を読み解き、事件の真相(=共産党の札幌党委員長Mをリーダーに北京に逃亡したSら中核自衛隊を実行部隊とする組織犯罪)を明らかにしたものです。従来、M=冤罪説(国家謀略説)を蔓延させた、松本清張の著作や共産党の弁護士・全国協議会の嘘・詭弁を具体的に暴いています。もちろん、筋金入りの左翼である著者は、この事件が一方で公安(当時の国警)の掌で踊らされたものでもあることをも、二種のビラの分析やスパイの挙動や証言から暴いていきます。しかし、実際に武装闘争を行い、白鳥警部を暗殺したくせに、真摯に反省するのでなく、「なかったもの」として冤罪だとデマを振りまき、真実を証言した北大の学生ら(T氏ほか)を「裏切り者」、「ユダ」呼ばわりした日本共産党を強く糾弾しています。
この本、とても読みやすく、論理に説得力があり、著者の真摯な思いが伝わってきます。特に、北海道各地を潜伏・逃走した実行犯Sと接触した多くの人たちから警察がとった調書の数々からは、Sのまじめで純朴な人柄やエピソード、無念の思いがうかがわれて、大きな衝撃を受けました。本書ではそれほど詳しく書かれていないですが、中国に密航してからの生活や文革体験、望郷の思いを想像すると、実に哀れを誘います。帰国運動を考えていた著者に共感します。
それにしても驚きに満ちた本です。共産党は、宮本指導部以降も主だった幹部は、白鳥事件が冤罪じゃないって知っていたわけで。しかも、実行部隊が(伊藤律も)北京に置き去りにされてることも知っていたわけで。共産党は、今からでも、少なくとも被害者(白鳥警部遺族)、真実を証言した結果、裏切者呼ばわりされたかつての党員に謝罪すべきではないのかな。武装闘争をやったのは分裂していた一方の側だ、との主張と思うけど、日本政府に戦前のアジアへの蛮行を謝罪せよと今も政府に迫っているのと同じ意味において(もっと連続性は強いけど)、50年ごろの共産党の蛮行の被害者への謝罪は「今の指導部の責任」でしょう。「冤罪だ」っていう運動を指導していたのが宮本指導部であることは確かなんだから。


10 人中、9人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 「冤罪説」を覆す, 2013/1/31
投稿者 伊藤淳レビュー対象商品: 白鳥事件 偽りの冤罪 (単行本)
国民的な運動となった「白鳥事件」再審請求運動の歴史を覆す著書である。
著者は膨大な裁判記録と幾多の証言を精査しこれまでの「冤罪」を主張してきた
内容に大胆な反証を行っている。


9 人中、8人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 真実糾明に懸けた著者の熱情に感服, 2013/2/18
投稿者 NOBUTORA "NOBUTORA" (山口県)
レビュー対象商品: 白鳥事件 偽りの冤罪 (単行本)
『白鳥事件 偽りの冤罪』。かつて、日本共産党の軍事方針を忠実に実践した現場の下部党員たちの痛恨の体験を「なきものと」して踏みにじり、彼らを裏切り悪罵を投げつけ「追放」した、宮本顕治をはじめとした、その後の共産党指導部を、事実に基づいて痛烈に批判する、粘り強い、気の遠くなるような真実究明姿勢に感服。この労作は、超一級の資料的価値をも持つものと、確信する。


5 人中、4人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 衝撃, 2013/6/30
投稿者 柘植洋三
レビュー対象商品: 白鳥事件 偽りの冤罪 (単行本)
日本の黒い霧のファンだったのが、イマイチ霧が晴れないままに、喜寿を迎え
この本を通して、やっと清々しい気持ちになれた。



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 最後は出版社の同時代社に寄せられた読者の声ふたつ。


 ●著者への手紙―『白鳥事件 偽りの冤罪』を読んで
渡部富哉様
年末、年始にかけて雑用が多くて少し時間がかかりましたが、18日にやっと昨年暮れにご恵与賜りました『白鳥事件 偽りの冤罪』(同時代社)を読み終えました。
私の読後感は、文句なしに面白いと思います。本の構成、ストーリーの立て方も、先にお出しになった『偽りの烙印』(五月書房)以来の、渡部流とでもいうのでしょうか、独自の体裁(論の進め方)にますます磨きがかかったものになっているように感じました。
そして私の興味を特に強く引き付けたのは、白鳥事件の詳細な調査、分析、論証(従来定説化していた松本清張の「冤罪」説への徹底した反論)もさることながら、随所に出てくる1951年以後の日本共産党の非合法「武闘路線」への傾斜(朝鮮戦争勃発以後の国際的、国内的な動向から強いられたものであったにしろ)と、そのために人生を狂わされた多くの真面目な活動家たちのその後の人生模様への著者の共感にありました。党の「無謬神話」を守らんがために彼ら生真面目に運動に邁進した同志や仲間を無残に切り捨て、一切を党とは無関係の、一部妄動分子の起こした軽挙として片付けて、今日に至るまでその誤りを認めようとせず、総括をないがしろにしてきた日本共産党への渡部さんの満身の怒りと弾劾の気持ちに私も強く同感しながら読みました。
1951年8月21日の日本共産党第20回中央委員会での新綱領(51年綱領)と軍事方針の採択、同年10月16~17日の第5回全国協議会(5全協)における新綱領の採択と武装闘争方針の決定以来、多くの犠牲者を出しながら推し進められた運動路線が、1955年7月25~29日に開かれた日本共産党第6回全国協議会(6全協)をさかいにして、一片の自己批判も総括もなく、全ては傍系の極左分子によって引き起こされた間違いだったとして、また党本部とは無関係な運動方針だったとして(「軍事方針はなかったことにする」)、その路線に従事した者をも含めて一方的に断罪、排除される(除名処分など)。こういうやり方の中で党の空疎な「純粋性」、一貫して大衆の味方であるという見せかけ(「神話」)をつくりだし、ちゃっかりと「公認された、選挙の党」に衣装替えをする、この身代わりの速さ、無責任さにあきれ果てるとともに、間違った路線を歩まされたとはいえ、村上国治をはじめとする多くの献身的な活動家のその後の痛ましい生き様に心打たれます。
唯一六全協方針に反対した椎野悦朗さんの言葉(「党史は財産だけでなく負債も受け継がなければ教訓にならない」)ではありませんが、運動は過去の自己の間違いを真摯に認め、それを貴重な体験として総括しながらでなければ決して未来につながるものとはなりえない、ということをこの本はよく教えてくれていると思います。その意味では、やはり第6章が「白眉」だったと思いました。
更に付け加えるなら、松本清張が『日本の黒い霧』の中でこの事件を権力側のでっちあげとして弾劾し、日本共産党及びその関係者に対する「冤罪」であるとして非難したこと、そのことによって結果的には代々木の「無謬神話」の擁護者となったこと、これはかつてゾルゲ事件で伊藤律に濡れ衣を着せて「現代のユダ」として葬り去ろうとしたやり口と同じではないのか…。このような定説の誤りを、現場調査や資料調査(膨大な裁判記録など)、聞き取り調査を重ねて丁寧に解きほぐし、暴き、そして反証することは、著者渡部さんの真骨頂であり、この本のもう一つの大きな「見せ場」であることはいうまでもありません。
権威に決しておもねることなく、あくまで自分の信念と事実関係を追いかける渡部さんの情熱と心意気には、ただただ敬服いたします。ここで書かれていることは、決して単なる過去の出来事として見過ごされるべきことではなく、すぐれて今日的な問題としてわれわれが記憶にとどめて考え続けていかねばならない貴重な経験であろうと思います。


●『白鳥事件 偽りの冤罪』の新しい視点と論点 2012年12月28日、同時代社から渡部富哉著「白鳥事件 偽りの冤罪」が刊行された。白鳥事件60周年の節目の年にこのような本が刊行された意義は重要であろう。日本共産党の衰退と共に、白鳥事件はじめその当時に世間を騒がせた事件は人々の記憶から消え去ろうとしている。そういう意味でも、この本は当時の時代の記憶を蘇えさせるし、事件やあの時代から何を学ばなければならないのかを考える手立てとしても重要である。80歳を過ぎてこのような作品を著す渡部富哉という人物に改めて敬意を表したい。老骨に鞭打つ作業というよりは、これまでの渡部さんの生き様と信念、情熱などを著す作品としても後世に語り継がれる作品となることは間違いないであろう。この本についての紹介は簡単ではないが、わたしなりに読んだ感想を記したい。
まず本の構成が巧みである。わたしの極身近でも、白鳥事件救援活動を闘う中で党に接近し、今もって白鳥事件は冤罪だと信じている人が少なくない。そのような人達は、あの事件は冤罪ではない、といくら言っても耳を貸そうとしない。それに対しては、序章の「村上国治を死においやったもの」がぐっと読者をひきつける。何故国治は死ななければならなかったのか。そこに、白鳥事件の謎と闇を解く鍵がある。
 白鳥事件は1952年1月21日に発生している。1945年、日本は敗戦によりアメリカによる全面占領の状態におかれた。国土の多くは焼け野原となり、国民の多くは飢餓と物資の不足に喘いでいた。戦後間もなく、占領軍による解放令で政治犯は釈放され、日本共産党の再建運動も活発となった。国民の多くはこの共産党の活動に期待した。ところが、第二次世界大戦が終わると同時に、世界はアメリカとソヴィエトに代表される冷戦時代へと突入し、アメリカは日本の位置付けを変えざるを得なくなった。1951年9月、日本はアメリカと単独でサンフランシスコ平和条約と日米安保条約を締結したものの、1950年6月には朝鮮戦争が勃発していて、世界情勢は第三次世界大戦間近かと思わせる緊迫した情勢となっていた。アメリカは日本をソヴィエトに対する不沈空母という位置付けのもと、戦後間もなくとってきた方針を次々と転換させる。1950年6月、マッカーサーは徳田球一はじめ日本共産党中央委員を公職追放し、機関紙「アカハタ」を無期限発行停止とする。そして共産党員やシンパを職場から追放した。こうして日本共産党は公然化された活動と非公然の活動(いわゆる表と裏の活動)を余儀なくさせられた。1950年8月、警察予備隊が発足し、戦犯や旧軍人が追放を解除されていった。こういった緊迫した世界情勢と日本情勢のもとに白鳥事件は発生したのである。渡部さんが、村上国治や真犯人とされる佐藤博を偲んで、それは自分であったかもしれない、と回顧するのは頷けるのである。確かに、白鳥事件は当時の日本共産党が武力革命路線を歩み、中核自衛隊員による跳ね上がり的な犯行であったかもしれないが、当時忠実に日本革命を目指し活動していた者にすれば、「やっぱり」という心境でもあったのである。
 この本の新しい視点と論点は存在する二つの「天誅ビラ」であろう。「天誅ビラ」には「下る」と「降る」の2種類が存在したことに注目したのは渡部さんが初めてである。これは渡部さんが、裁判記録を整理している時に発見したものであるが、誰一人としてこの2種類のビラの重要性には気付かなかった。事件後、村上国治は「天誅」ビラの印刷を「機関紙共同印刷」に依頼し、その校正を高安さんに命じた。校正の時点で高安さんは「下る」ビラにミスをみつけることは出来なかった。ところが、もう一つの「降る」ビラには明らかに印刷ミスがある。当時、事件を報じる北海道新聞や、後の警察庁警備局発行の「回想」には、「天誅下る」と「天誅降る」ビラの2種類が、一つは写真で一つは文中に現れている。このビラについては、存在そのものの発見を確認できたのが極最近のことであり、活字や印刷所を特定する研究が不十分であるために、渡部さんが、このビラは当時の権力が共産党を壊滅させるために仕組んだ謀略である。白鳥事件は権力の側が共産党の動きを充分に掌握した上で「やらせたのだ」という推論を活かしきれていない感は否めないが、わたしは非常に重要な視点であり、新しい論点であろうと思う。この渡部さんの推論を巡ってはわたしの極身近な人達の間でも激論が闘わされた。わたしは昨年から、古参党員からの「聞き取り調査」を始めているが、この方は1952年7月、旭川における「火炎瓶事件」で逮捕された経験を持つ方だが、この方の証言によれば、当時においては、権力の側の情報収集能力の高さは大変なもので、共産党の活動などは、権力の掌中にあったと言っても過言ではないとのことである。権力の側はあらゆる部署にスパイを放って情報を得ていたのである。これは事実である。この点からすれば、渡部さんの推論が全く的外れのものとも思われない。今後この方面での研究が進めば、白鳥事件の真相の違う側面も明らかになるのではないかと思われる。
第4章「佐藤博の果てしない逃亡の旅路」も圧巻である。佐藤博は事件後、河田とか山下とかと名前を変えて、炭鉱や漁場の飯場を転々とする。佐藤博が海軍の特攻部隊「震洋」の生き残りであり、ボルネオ島で拳銃を打ち合っていた経歴などは、白鳥事件で警部を自転車で追いかけながら銃を発射するなどはプロの仕業で、共産党員などはそのようなことは不可能だとの説を覆す証左となろう。佐藤博が飯場の同僚に語ったという言葉には涙した。「可愛いかかあが口頭結核にかかった時も金がなく、診せた時は手遅れだった。それが入党の動機よ」。これは当時、虐げられていた人間に共通する心情だろう。こうして、渡部さんは、人間佐藤博の心情に寄り添い、事件の真相に人間的な側面から迫るのである。事件の真犯人とは言え、名前を変えての果てしない逃亡は、佐藤博に人間としての極限を体験させた筈である。

 裁判記録を丹念に読み込むことで、わたし達は事件の真相へと迫ることが可能となる。この裁判記録を克明に読み込むという作業がどれ程の忍耐を要求するものか。とうてい凡人がなし得る仕事ではない。
 この本は、日本的な推理作家として名をなした松本清張の杜撰さをも指摘している。清張が日本共産党籍を持ったことも初めて知った事実であるが、共産党にとって都合の良い部分だけを継ぎはぎしての推理がいかに出鱈目なものであるか。高安さんを、ユダよばわりしたことや伊藤律スパイ説を垂れ流した罪は重いと感じる。清張の仕事に反撃することは、歴史の真実を明らかにする上でも避けて通れない課題ではないだろうか。

 終章、3の「椎野悦朗の痛苦なる反省」では、日本共産党の衰退の原因が何処にあるのかを抉るものだ。六全協で、共産党は「軍事はなかったことにする」とのもと、極左冒険主義の自己批判はせず、忠実に方針に従った者を情け容赦なく切り捨てた。椎野悦朗はこれに対して、「革命には誤りはつきものだ。財産だけではなく負債も受け継がなければ教訓にならない」と言って反対した。方針に従って白鳥警部を射殺した者、火炎瓶を投げた者、山村工作隊員として活動した者、こういった革命の犠牲者にどうやってお詫びをするのか。椎野の痛苦なる反省は日本共産党には受け入れなれなかった。ここに現在の日本共産党の衰退の大きな原因がある。村上国治は何故焼死しなければならなかったのか!誤りを誤りとして認める勇気と誠実さが日本共産党には欠如している。
「白鳥事件 偽りの冤罪」は、単に真犯人を暴いて攻撃しているのではない。この本からは革命に命をかけた渡部さんの想いが伝わってくる。「偽りの烙印」「生還者の証言」その他、諸々の著作は、渡部さんの生き様そのものである。この本は、「不都合な真実」によって消された者達への鎮魂の書でもある。

  1. 2015/02/18(水) 17:34:23|
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