古本屋通信

左翼を日共と反日共に二分

古本屋通信     No 1289   2月14日

 左翼を 「日共」 と 「反日共」 に二分する滑稽


  直前板の座談会出席者の面々をもう一度ここに貼る。

蔵原惟人  宮本顕治  小田切秀雄  野間宏  本多秋吾  荒正人  佐々木基一  平野謙  亀井勝一郎  中野重治  林房雄  山田清三郎  鹿地亘  神山茂夫  高見順  窪川鶴次郎  新島繁  久野収  寒川道夫  栗林農夫  除村吉太郎  青地晨  江口渙  岩上順一  菊池章一  花田清輝  竹内好  猪野謙二  服部達



 座談会は戦後9年を経た1954年である。戦前派と戦後派が入り乱れているが、この時点での所属は「新日文」派と「近代文学」派が大半である。この中には戦前にプロ文学に関係していて転向し、戦後は右に行った亀井勝一郎や林房雄もいるが、大半は戦後左翼である。「新日文」派はもちろん左翼であり、この時点では全員が共産党員だったろう。「近代文学」派も広い意味で左翼と云って差し支えないだろう。ただ、大半が非党員で、拠って立つ理念が近代個人主義なのだ。

 私は小文字に縮小した6人を余り知らない。それ以外はだいたい知っている。「新日文」派つまり共産党員を赤に変換した。「近代文学」派つまり非党員左翼を青に変換した。黒のままは右翼の2人だけである。

 ここで断っておくが、赤はハッキリしているが、青のうち高見順 久野収 青地晨 竹内好は「近代文学」 の所属が曖昧である。これは私が知らないというより元々曖昧なのだ。しかしここで問題にするのは赤字だけである。青はどちらでもよい。

 赤のうちには終生の党員と、党を除名されたものがいる。前者を赤のままとし、後者をピンクに変換した。

 きれいに色分けできた。「日共」が赤、「反日共」がピンクということになる。こんな分類に意味があるか? たしかに前者は党員人生をまっとうした。後者は党を裏切った。だから党の形式では扱いは違うだろう。しかし文学的にも文学史的にも、こういう色分けは全く意味がない。


 何処から書いていこうか。元東大民青さんは宮本をミソクソだったなあ。私は絶賛だから話が合わなかった。先ず宮本中心に書いて行こう。宮本にとって蔵原は先輩であり、何時も「蔵原さん」だった。二人がうまく行かなかったという事はなかった。しかし宮本は晩年になって、長文の蔵原批判を書いた。『宮本顕治文芸評論選集』 第1巻「あとがき」である。これは名指しはしていないが、蔵原のプロレタリア文学論の根底的な批判だった。私は名著だと思う。このとき蔵原はまだ生きており、呆けてもいなかったが、沈黙を保ち、自らの晩年の仕事である思想史研究に専念した ウィキより 晩年には、江戸時代の画家渡辺崋山の研究や、中国古代の諸子百家の思想の研究にも努めた)。もうひとつ。宮本が中野を切るさい、嫌がる蔵原を使ったという批判がある。しかしこれは蔵原がやるのが妥当だったろう。蔵原は党の文化部長だった。中野はヒラの中央委員だった。宮本の仕事ではない。

 端折って書く。小田切はもともと「近代文学」だった。法政だったかな。百合子との関係で顕治ともよい関係だった。また私は宮本がなぜ野間 『真空地帯』をあんなに擁護したのか分からない。これは近代主義的偏向だろう。


 急に予定外の本の買い受け依頼が入ったので中断します。

 市内津島福居に伺って帰ってきた。十年以上まえに一度伺った御宅だった。白い本は全くダメだった。戦前の蔵が残っていたので、懐中電灯で探ったが何も出てこなかった。残念。


 二日置いて少し書く。
 宮本には除名後の中野に触れた文は(一般的な規律違反を駁す文以外に)ない。だから9大会での中野非難も蔵原だった。蔵原が嫌がったのは事実だろう。この3人は百合子を挟んでずっと「同志」だったのだ。つまり宮本にとって中野は切りたくなかった同輩だった。。それは同時期に斬った志賀、神山に対する感情とはかなり違った筈だ。中野こそ百合子のもっとも親密な理解者だったからだ。
 そこへ行くと山田清三郎と鹿地亘は終生の党員でありながら、けっして宮本の軍門に下らなかった点で疎ましい存在だったのではないか。 

 いま思い出したが、戦前百合子が検挙されたとき、林町の百合子の家に集まった面々の写真があった。探して紹介したいが、今ここにはない。顕治はむろん獄中だった。私の記憶では佐多と窪川が同席していたと思う。このとき 2人は離婚していたのか否か。私は微妙な時期ではなかったかと思う。それから窪川の浮気の相手の女は誰だったのか。窪川は党員のまま死んだ。女クセの悪さには顕治も中野も閉口していたと聞く。その点で中野は愛妻家(原いずみ)だった。それから私は顕治と大森寿恵子の (百合子存命中の)フィジカルな(肉体的な) 関係を信じない。百合子死亡時に顕治が大森の自宅にいたことは何の証拠にもならない。戦後のこの時期、顕治は党員として大森を指導する立場にあった。俗論・謬論が通用している。一言いっておきたかった。
  1. 2015/02/14(土) 11:00:18|
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