古本屋通信

議員群像 と 同志宮本

古本屋通信     No 1193   12月25日

  日本共産党議員群像同志宮本

 いま少し面倒なテーマで書き続けたい。そう考えたのは、今朝になってある情報がもたらされたからだ。その情報によって今回の選挙で書き忘れたことがあるのに気が付いた。

 情報の詳細は書けない。不要だろう。

あきれるのは、借金があるからもう一期議員を続けなければならないと言った市議がいたという話を聞いた時です。また、ある青年党員に次の公認候補をバトンタッチしたいと言っていたある議員が、もう一期出たくなったため、その青年党員の電話に出なくなり、失望させたとか


 私もあきれたが、この話自体はそれほど目新しくもなかった。似たような話は聞いたことがある。それぞれ困難な家庭の事情も (共産党議員ゆえにという特殊性も含めて) 抱えているだろうから、個別の問題に深く立ち入ろうとは思わない。それよりも今後の問題がパッと閃いた。これは今後はトンデモナイ事が起こるかもしれない。そう思ったら書かねばならなくなった。


 今回の総選挙で日本共産党は躍進した。大躍進という程ではないが、勝ち選挙を知らない若い党員にとっては大躍進だったろう。その割には、はしゃぐ者が殆んどいなかった。勝利の喜びが無限定ではなく抑制されている。私はこれは若い世代の美点だと思う。で、ここから先が問題だ。私は問題を書きたいのだ。


 私の知った範囲で、今回の新当選者でオカシイ議員はひとりもいなかった。私は大平と藤野と宮本徹と雇用のヨーコ(東京3位)を挙げたが、その他の新人もみんなソコソコいけるだろう。私が危惧していたのは東海の河江明美だったが、今回は出なかった。私はこの人は竹永さんが褒めていたので注目した。確かに周囲をパッと明るくするし、喋りも上手だが、理論水準に不安があった。准中央委員なので今回も出るのかと思っていた。石村、河江を含めて、党中央は今回は当選圏内の比例ブロック候補をよく見ていた。


 大平については既に十分書いた。かれが自分を殺せる「党のひと」であることも書いた。今回の当選者は(大阪の宮本岳志を除いて)みんなそうだ。俺が俺がという議員はいない。だから共産党の国会議員なのだ。


 ところが選挙ともなれば、候補者という人(ひと)を通じて党の政策を訴えるから、人が脚光を浴びる。ここからトンデモナイのが出てくる可能性が大である。 「僕も、私も、国会議員になって、みんなのために働きたい」。これは共産党でも今後は必ず出てくるだろう。その最も先進的な例が石村とも子だった。民主党そのほかの「公募」 に応じるのはこういう人種だ。政治家志願。何党でもよい。今回は共産党が脚光を浴びた。必ず共産党にやって来る。で、いきなりが無理ならまず議員秘書だ。公費枠の秘書なら給与もよい(共産党は今回 50人の大募集である)。もってこいだ。


 日本共産党はこれらの政治的野心家にきっぱりとノーを突き付けなければならない。「あなたは政治に関わるというその意味を完全にはき違えています」 と。しかしこれは説得力を持たないだろう。色々の理屈よりも、こう言うのがよいだろう。

 「他党の国会議員は他党ですから知りません。共産党の場合、議員歳費は一括して党で管理します。その上で党から給料を支給します。給料といってもホンの少しの生活費だけです。額はマチマチですが、市議会議員よりは少ないかもしれません。貴方の場合でしたら月20万円くらいです」


 これでOKならよし。引くなら党には向かない。然しこれは政治家志望の若い青年についてだけ言える事ではない。政治が議員中心に動いていると見做している全ての人に当てはまるだろう。とりわけ地方議員に当てはまる。党の議席を自分の議席だと勘違いする頽廃。議員歳費は本来全て党の収入なのだ。議員諸氏に訊く。

 「なぜあなた方の給料が党専従の給料を上回らねばならないのか? その理由は一つもないのでは?」。

 たぶんグ~の音も出まい。然し不満そうな顔をする者はいるだろう。それは議員である自分は非議員の専従や、一般党員(経営、居住、農民、各団体の党フラクション)より優れていると思っているのだ。これは100%誤りである。誤りではあるが、その誤りには三分の理がある。党が議員をそういう存在と見られても仕方がないように、選挙で喧伝してきたからだ。これこそがブルジョア議会主義の弊害である。きっぱりとこれを批判せねばならない。


 日本共産党について、幹部会委員長も、県委員も、市議会議員も、赤旗分局の党員も、経営の党員も、寝たきりの施設の党員も等しく一党員として平等だ。だが、党中央委員、県委員、地区委員、支部長、支部党員は責任負担の領域において、上下関係、指導と被指導の関係は存在する。然しとまれ。各級議員は何の指導的権限もない。党内において一党員に過ぎない。


 私が以上のことを口で何回言っても始まらないと思う。以下を提案したい。
党議員の手取り給料を党専従並みに引き下げる
議員と機関の役員の掛け持ちを制限する。
党中央の役員から国会議員を制限する。

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 ここで 宮本岳志について 書く。

  悪いけど困っている。落選しない。このひと、このひとだけは救いがない。国会議員だから自分がエライと思っているのだ。アホウであるだけに、言っても分からない。しななきゃあ分からない。アホウでなきゃ、慎太郎の所に名刺を持って挨拶にいくかよ。これホームレスが宮本の所に寄って行ったら逃げるの裏返しだ。エリート意識丸出し。それの収め処が「和歌山大学教育学部放校」の公表。究極の世界認識不合格が、かつての同志・森実民青同盟委員長を偲ぶ文。救いがない。正直な文。京大を出て森実は職業革命家の道を歩んだ(森実は無条件に専従になったのではなかった。迷いに迷った挙句のやむを得ずの選択だった)。その森実がかつての同志がより困難な大企業の職場で頑張っていることに思いを馳せていた。それを見た宮本は森実に同情する。「京大を出るほどの秀才でありながら・・・、仲間はみんな大企業に就職する中で、ひとりだけ困難な道を選び、しかも彼らに想いをいたすとは・・・」。何の事はない。宮本にとって企業に就職した者は「いいめをしている裏切り者、脱落者」なのだ。それは自己賛美の裏返しなのだが、トコトン狂っている。革命は党専従がやるらしい。つまりおれが指導者だ。まあ、読んでみられえ。むかしはこういうボケが結構いた、私なんか受験産業に就職したからヒソヒソ話も聞こえてきた。マル経のイロハから説明するのだが、言い訳みたいで鬱陶しかった。生産手段は資本家が握ってんだ。ボケ、死ね。
 まだ書きかけ。少し加筆して整理しなければなりません。目標は大西巨人の小説世界ですが、これは到底無理でしょう。


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 一年半まえの旧稿が残っていましたので再録します。


  
古本屋通信  No 376  8月23日

  宮本岳志のこと 


 私が宮本岳志のことを、どうしようもない救いがたい不良党員だと思ったのは、以下に貼るかれの一文を読んだ時だった。全文を転載し、問題個所を色文字に変換した。そのあとに私の短文を添える。こういう男が何処でどう間違えたか、国会議員になってしまった。


 故・森実一広同志のこと 宮本岳志 2006年02月20日
 2月15日は私にとって終生忘れられない日です。1998年2月15日、ともに青年運動に打ち込んできた、当時日本民主青年同盟中央委員長だった森実一広さんが委員長在職のまま亡くなられました。前年末から「風邪ひきをこじらせた」とは聞いておりましたが、突然の訃報に驚愕したことを昨日のことのように思い出します。

 森実さんがまだ民青京都府委員長をされていた時、私は大阪府委員長でした。民青同盟の中央委員会や都道府県委員長会議は伊豆にある青年学習会館で開催されるのですが、だいたい近畿圏の府県委員長は同じ部屋が割り当てられ、よくお互い深夜まで語り合ったものでした。若い時代ですから夜はずいぶん酒も飲みましたが、彼はそういう時でもあまり深酒はせず、気がつくとベッドで一人本を読んでいるというたいへんな勉強家でした。

 森実さんは京都大学卒業という秀才で、頭脳が明晰というだけでなく、青年運動にあくなき情熱を傾ける情熱家でもありました。当時、大阪の民青が京都よりさほど進んでいたというおぼえもないのですが、年齢的にも先輩に当たる私に、絶えずいろんなことを質問し、「京都もぜひ大阪に学んで」などとおっしゃるのです。こちらのほうが恥ずかしくなるときもありました。

 1994年4月の民青同盟第22回全国大会で私が民青同盟大阪府委員長を退任、民青を卒業し、1995年7月にたたかわれる参議院選挙の日本共産党比例代表予定候補となったその時に、森実さんは民青同盟中央副委員長として、京都から東京に赴任されたのです。当時、私は彼のような有能な人が民青中央を担ってくれるのなら本当に安心だと思ったものです。

 森実さんの死は、民青同盟にとっても、私たち同時期に青年運動に打ち込んできたものにとっても、簡単には受け止めきれない出来事でした。民青同盟にとっては、「亀戸事件」で関東大震災のさなか、官憲にとられられ虐殺された共産青年同盟初代委員長、川合義虎氏以来、二人めの委員長の在職死となりました。

 「最初は風邪ひきだったものを、無理をしてこじらせてしまった」ということを知ったとき、私は忘れることのできない彼の人柄をあらわすある出来事を思い出したのです。

 私たちが民青の活動をしていた頃、まだ「青年運動」という月刊誌があり、そこには「専従同盟員として生きる」というコーナーがあり、全国の専従者が順番に自分の思いを書くことになっていました。ある号に、森実京都府委員長の文章が掲載されたのです。彼は次のようなことを書いていたのです。

 自分の大学の同窓生は、ほとんどが銀行や一流商社などにつとめ、海外へ赴任したりビジネスの最前線で働いている。しかし今、そういう職場では大企業の儲けのために、際限のない長時間過密労働がまかりとおり、体がボロボロになるまで働かされている実態がある。しかし自分は、民青同盟の仲間たちとともに、生きがいを社会進歩に結んで生きる道を選んだことはたいへん幸せなことだと。

 私はここまで読んで、きっと彼は「確かに経済的には恵まれない仕事ではあるが、いくら裕福でも身体がボロボロになるまで働かされるより自分のほうがずっと幸せだ」というふうに論じるのだろうと思ったら、彼は違ったのです。そこには「だから、深夜まで煌々と灯りがともるオフィス街を見上げながら、そこに苦しめられている同窓生たちがいる、もっと自分はがんばらねばならないと決意を固めるのです」と結ばれていました。

 私は恥じました。われわれはこうでなくてはいけないと。感動した私は、当時大阪の専従者を集めてこの文章をみんなで回し読みし、自分の反省を述べたのを覚えています。しかし、そういう人だっただけにがんばりすぎたのだと思うと、「森実君、もういい、何もそこまでがんばらなくってもよかったんだ」という思いが次から次へとこみ上げてきて、涙が止まりませんでした。

 私が比例代表候補の任務を終え、大阪の地区委員会で赤旗の配達集金の仕事をはじめてまもなく彼が中央委員長に選出されたと聞きました。やっぱり日本を背負う人だ、将来は国会に出ても十分活躍できる人だとうれしくそのニュースを聞きました。それが、私が98年参議院選挙の大阪選挙区の予定候補となり大阪を駆けめぐる中での突然の訃報…「森実君、それはないだろう」との思いでした。

 私は彼の葬儀の日、彼の遺影の前で、きたる参議院選挙で必ず勝利すること、そして彼がなしえなかった、政治の革新をその遺志を継いで必ず成し遂げることを誓ったのを今でもはっきり覚えています。98年の参議院選挙は彼の遺志も背負ったたたかいでありました。それ以来私は、彼とともにたたかっているつもりです。

 毎年2月15日がやってきます。今年で8回目の命日でした。「去る人、日々にうとし」と言いますが、「森実一広」という名前は徐々に人々の記憶から薄れていくことは否定できません。日本民主青年同盟は青年の組織です。未来の組織です。若き担い手たちが次々と入れ替わっていくのは当然であり、それでこそ前進するのです。いつまでも過去を振り返り、涙するというようなことは青年同盟に負わせるべき仕事ではありません。

 だからこそ、私たちが。「森実一広」とともに若き時代、青年運動に情熱を傾け、ともに学びともにたたかった我々同時代に青年運動を担ったものが、彼の名前と業績、その稀有な能力と優れた人となりを一生背負って行ってやらなければならないと思っています。2008年は彼の没後10周年です。ぜひとも彼を偲ぶ関係者のつどいを開きたい。そして来年は彼とともに参議院選挙をたたかい、再び勝ち抜いてその日を迎えることを彼に誓いたいと思います。



 古本屋通信の文
 青文字部分の要約からして、宮本流の捏造だろう。森実が「一流商社」などの語を使用する訳がない。すべてきれいごとだ。おまけに死者をダシにした、自分の立ち位置の正当化、合理化だ。アホらしくて書く気も失せるが。 
 宮本は何も分かっていない。この資本主義社会を根本から変革していく力が、大企業で厳しい労働条件で働いている労働者、すなわち森実の旧同窓生たちの中にあることを。森実や宮本などの職業革命家の位置は、社会変革の事業にとって特殊な、いわば例外的な位置にあることを、宮本は全く分かっていない。言うまでもなく森実は分かっていた。だから旧同窓生に対しての優位性の意識などハナからない。
 私が宮本を許せないのは、かれが革命における労働者階級の役割を理解していないだけではなく、職業革命家と労働者を対立させ、前者の優位性に囚われていることだ。そのうえ許せないことには、自分の甲羅に似せて森実を描いているのだ。その根底には科学的社会主義についての、驚くべき無知がある。しかし、こういうマルクス思想の欠片もない男が、非常勤とはいえ、党附属社会科学研究所に在籍していたという事実。宮本の一文は、死んだ森実の冒瀆であるばかりでなく、日本の労働者にたいする決定的な裏切りを示すものだ。

 あんまり否定的な評価ばかりでは気が滅入るので、もうひとつ森実に関する追悼文を貼っておこう。こっちはマトモだ。執筆時がちょっと分からない。現在もHPが生きている。



 森実一広さんの思い出 植田謙一
 1998年2月15日、当時の日本民主青年同盟中央委員長だった森実一広( もりざねかずひろ)さんが亡くなった。その第一報を聞いたとき、僕は言いようのないショックを受けた。民青同盟委員長としては、これからが本領発揮だと期待していたこともあったが、他方で病気療養中だと聞いていて回復を願っていたところでもあった。死因は「ヘルペス脳炎」だという。医学は門外漢だが、事実上の過労死だと受け止めた。われわれの運動の至らなさが森実さんを殺したような気がしてならなかった。
 森実さんについては、宮本たけしさんが ブログで思い出を書いておられる。宮本さんが民青同盟大阪府委員長だったときに、森実さんが同京都府委員長だったそうで、その頃の思い出が中心だ。僕は、学生時代にもっと密着して指導を受けた立場から思い出を語ってみたい。
 1987年に僕は大学に入学しているが、そのときの京大学生党委員長が森実さんだった。森実さんはすでに大学を卒業し専従活動家となっていたが、僕が法学部の直接の後輩に当たる、ということもあって、折にふれて大変身近にお世話になった。
 僕は、政治的に早熟で、小学校高学年の頃にはすでに「主義者」気取りだった。僕はそういうところをプライドにしてきたところがあったが、森実さんはレーニンの社会主義イデオロギーの外部注入論を紹介し、僕の経験は運動にとっては教訓化できないことを説き、僕の慢心を諫めてくれた。僕はレーニン理論の基礎を森実さんに教わったと思っている。僕の社会科学の基礎は、森実さんと学生学術サークルである社会科学研究会が固めてくれたと思っている。
 印象に残っているのは、森実さんの指導の温かさである。僕が入学する前は、下回生の日和見的な発言を聞くと血相を変えるような人だったらしいが、僕が入学した頃にはそういうことはなく(おそらく相当の努力をしたのだろう)、努めて温和に指導をしようとしていたようだ。運動がなかなかうまくいかないときでも、われわれの運動にありがちな精神主義的にあおる、ということはせず、状況を分析的にとらえることで、事態を打開しようとする姿勢が見られた。「運動が進まないといっても、活動家がサボっていてそうなっているわけではないのだから、そこはよく考えてことを進める必要がある」といった趣旨の発言をしていたのが印象に残っている。これは、僕にとってはわれわれの運動の現段階を見るときの視点として、重要な意味を持っている。
 僕は2回生のときに、所属大学を離れた活動上の任務を負っていたが、その任務を長期にわたって放棄をするという問題を起こし、所属大学での任務に復帰する、ということがあった。所属大学の活動家たちは割と僕に同情的だったが、当時民青同盟京大地区委員長だった森実さんはそこに釘を刺すことを忘れなかった。「問題を起こして帰ってきているのだから、大学の組織としては君を『歓迎』する、ということにはならない」と。厳しい言葉だったが、筋論だった。そういう筋を通す姿勢が、その温和な人柄とともに印象的な人だった。
 僕は活動上の困難があると寝込む、ということがときどきあったのだが、そういうときも根気強く話を聞いてくれて、打開のあり方を一緒に考えてくれた。
 プライベートでもお世話になることがあった。2回生の後期に僕は他大学の女性活動家と付き合っていたのだが、彼女は前の彼氏との関係を整理できず動揺を繰り返し、僕を振り回すことになり、僕はそれなりに苦労を強いられた。ことの経緯を知った森実さんは、率直に彼女の人格上の問題点を指摘し、僕に別れた方がいい、とアドバイスしてくれた。「恋愛は理性でするものではない」と即答を避けた僕だったが、そのことを彼女に告げ、「反論できなかった」と僕が言ったことが、別れの直接のきっかけとなった。反発した彼女は「じゃあ、別れよう」と売り言葉に買い言葉のつもりで、言ったが、僕はそれを機に本当に別れることにした。僕が本気で別れる決心をしたことに彼女はあわてたようだったが、僕の決心は固まってしまった。当時の彼女は恋愛をするには、人格上の問題点が大きすぎた。彼女に執着した僕にはそれは見えなかった。そこのところを森実さんは指摘してくれたのだった。この点では、僕は森実さんに感謝してもしきれないという思いを持っている。
 3回生の時から、僕の森実さんについての記憶は途切れる。当時の学生組織は、教養部(これ自体がもはや「懐かしい」概念だが)対策が中心だったため、3回生の僕を直接指導する機会が減ったのだろう。3回生以降、僕は苦悩をむしろ深めていくのだが、そのとき森実さんに相談ができていいれば、何かが変わっただろうか?
 その後、森実さんは民青同盟京都府常任委員、京都府委員長、中央副委員長、中央委員長と民青同盟での「出世」の階段を登っていく。森実さんの親しい指導を受けた身からすれば、それは自慢だった。
 最後に森実さんに会ったのは、1997年の中央赤旗まつりのときだった。ややお疲れの様子が気になったが、中央委員長ともなると大変だな、と思っていた。その後、森実さんは病に倒れ、逝ってしまうのである。
 僕は、民青同盟の方針に不確信を持つことも多く、森実さんが中央委員長だったときにもそれが払拭されたわけではないが、森実さんなら今後、なんとかしてくれるだろう、という希望を持てたのも事実だ。その希望が、森実さんの死によって断ち切られる、というのは何とも悲しかった。
 その後、民青同盟中央は、90年代後半の日本共産党の前進という情勢の中で、許しがたい路線をとることもあった。青年組織というのは構成員が若いため、どうしてもある程度の動揺が出てしまうものであるが、そんなとき、「森実さんが生きていたら」と思うこともあった。森実さんが健在であったら、本当に民青同盟の方針がまともなものになっていたかはわからない。しかし、森実さんは僕の希望の星だった。生きていたら、それこそ日本共産党を背負う人材になっていたに違いない、という思いもある。
 日本共産党と民青同盟の前途を考えるとき、森実さんの死はあまりにも大きな損失だったのではないか、という思いが僕にはある。それは、僕の森実さんへの個人的な尊敬とはまた別の問題であるが。
 厳密に言えば、唯物論者に「冥福」はない。森実さんの生きた証は、われわれ遺された者の中にしかない。森実さんの遺志をどう受け継ぐか、が問われている。しかし、ストレスにあまりにも弱い僕には、できることが少なすぎる。そのことの歯痒さを、森実さんならどう受け止めてくれるだろうか。
  1. 2014/12/25(木) 04:37:24|
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