古本屋通信

板野『嵐に耐えた・・』

古本屋通信      No 1062  9月26日

  板野勝次 『嵐に耐えた歳月』


 岡山県の共産党から戦後に国会議員に当選したのは苅田アサノと板野勝次と則武真一の3人だ (岡山出身ではこれに川上貫一が加わるが、選挙区は岡山ではない)。私には3人のうち、板野だけが岡山で語られることが少ない気がする。尤もほんの短期間国会議員をやったからといって、党と社会運動への貢献が他の公然活動家に比べて勝っていると云う事ではないから、問題にするほうがおかしいのかも知れない。

 私にとっては苅田アサノは、津山の資本家の娘でありながら、戦後まもなく共産党から立候補して当選した伝説の才媛だ。則武真一はひと回り以上年上でありながら同時代人である。ところが板野勝次は中途半端なのだ。私が小学校の頃、岡山 2 区から選挙に出て何回か落選していたが、私が成人した頃には一線から引退していた。
 
 記憶にある板野勝次は1970年代の岡山平和書房の社長としての板野である。といっても書店に顔を見せる社長ではなく、名目的に担がれた社長だったようだ。当時板野の著書 『嵐に耐えた歳月』 が新日本出版社から刊行された。本が平和書房に平積されていた。私はそれを手に取って驚いた。この辺は端折るが、本が立派過ぎたのだ。それで店主の阿部さんに 「こんな本がよう出ましたなあ」 と言った。阿部さんは何を勘違いしたか、「ウチの社長の本じゃから、置かにゃなるまい」 と言った。実はこのとき私は始めて板野が平和書房の社長だと知ったのだった。

 たった一期でも国会議員をやったら、ウィキペディアに記事がある。以下がそれだが、奇妙なことに著書の 『嵐に耐えた歳月』 が載ってない。誰がこの記事を書いたのか。偶然に書き漏らしたのか。それとも故意に外したのか。とりあえず貼っておこう。



ウィキペディア

板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日 - 1985年12月30日)は日本の政治家、労働運動家。元参議院議員(日本共産党公認、1期)。元清涼飲料協同組合理事長。

出生から青年時代まで[編集]
岡山県岡山市紺屋町で古物商を営む森本岩助、寿子夫妻の次男として生まれる。3歳の時に広島に住む寿子の兄・板野安次郎の養子に出され板野姓を名乗る。岡山県立商業学校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)在学中から社会主義に目覚め、商業学校卒業後の1920年12月、堺利彦や山川均、大杉栄らが率いる日本社会主義同盟に加入する。
同盟は程なくして解散に追い込まれるが、在籍中は山川からマルクスの『共産党宣言』についての講義を聞き、労働組合の必要性を悟った板野は、1922年12月に県下初の本格的な労働組合・岡山労働組合を発足させる[1]。また、岡山労働学校や岡山県足袋護謨工労働組合の設立にも関わり、労働運動への献身を深めてゆく。
1926年1月に日本共産党に入党。板野にとっては念願の入党となったものの、共産党は当時非合法組織であったため、偽名を名乗りながら住所も転々と変える生活を余儀なくされる。1927年には神戸地方委員会の委員長に就任するが、翌年の三・一五事件で検挙。懲役8年の刑に服した末出獄すると、既に日本は戦争への道をひた走っていた。

国会議員として[編集]
終戦直後から農民運動の組織化に力を注ぎ[2]、1947年の初の参院選に岡山県選挙区から立候補し、定数4に対し7名が鎬を削る少数激戦の中、見事当選を果たす。この選挙で共産党は4名が当選しているが、板野は唯一の地方区選出議員であり、岡山県選挙区内でも最年少(当選時44歳)の議員となった。
議員在任中は農林や議会運営、決算の各委員会委員に就任。特に板野の専門分野であった農林委員会では、食糧確保臨時措置法改定法案の審議に際して、国内の農業保護の立場から同法案に反対し、当時の森幸太郎農相との10時間にも渡る議論の末、審議未了に追い込んだ[3]。議員当選から3年間で36回も登壇し政府の姿勢を質した。
再選を目指し1950年の参院選で、全国区に鞍替えし出馬するがあえなく落選。以後、衆議院を含め出馬を重ねるが何れも当選とはならなかった。1969年の総選挙で落選したのを機に、政界から引退を表明。引退後は党岡山県委員会名誉委員などを歴任する。
1985年12月30日死去。82歳。

政歴[編集]
1947年 第1回参議院議員通常選挙 岡山県選挙区 45,709票 当選
1950年 第2回参議院議員通常選挙 全国区 96,601票 落選
1953年 第3回参議院議員通常選挙 全国区 83,114票 落選
1956年 第4回参議院議員通常選挙 岡山県選挙区 18,955票 落選
1958年 第28回衆議院議員総選挙 岡山2区 10,105票 落選
1960年 第29回衆議院議員総選挙 岡山2区 8,960票 落選
1963年 第30回衆議院議員総選挙 岡山2区 9,405票 落選
1967年 第31回衆議院議員総選挙 岡山2区 14,314票 落選
1969年 第32回衆議院議員総選挙 岡山2区 11,427票 落選

関連項目[編集]
山川均
苅田アサノ
川上貫一





 古本屋通信

 手元に一冊の本がある。板野勝次著『嵐に耐えた歳月』 (新日本出版社 1977年)である。私が刊行時に平和書房から買った本ではない。この本自体は何回転もさせているので、手元の本の入手経路は分からない。ただ、本の表見返しに板野勝次の肉筆署名と落款があり、「向井喜典同志へ」 の献呈が明示されている。

 たぶん左翼に詳しくない古本屋は気にも留めないだろうが、私にとって赤字個所はそれだけで異様である。

 向井喜典は岡山大学法文学部(法経短大)教授だった人物だ。同姓同名は考え難い。向井はその後、著作権侵害で岡山大学を追われて大阪経済法科大学に移るが、当時はまだ岡山大学教授で国家公務員だった筈である。国家公務員であっても、誰もが党員だと知る大学教授はいる。しかしそれは公然化した事実ではない。それは例えば地方公務員の小中学校の教員の党員であっても、退職後も党機関の県委員、地区委員になれない。党が公務員党員の秘密を保護しているのだ。

 元に戻る。この献呈と署名が何時行われたのか判らない。出版記念会に知識人党員を集めて、その席で本を配ったのかも知れない。しかし「向井喜典同志へ」 はないだろう。たとえ署名本が純粋にプライベートな贈り物だったにせよ、贈り主の意識に公務員同志に対する配慮が決定的に欠けている。ここらも私の独善と偏見なのだろうか。

 次ぎに 『嵐に耐えた歳月』 の内容についてである。私は再読しないで40年まえの印象で書く。とうじ懐いた疑問は、党員はこういう本を出版してよいのだろうかという不審感だった。いうならば野坂参三の 『風雪のあゆみ』 や袴田里見の『党とともに歩んで』 のような本である。自伝だが党史の記述とも絡んでくる。野坂や袴田の著作は『前衛』に連載された、いわば党中央公認の本だった。それでも除名前後に問題になった。ここでまた独断だ。党員は現役の指導部を降りても、自分の歴史を党に重ね合わせて書いてはならぬ。ひとつの分野について書くのはよい。その範囲で自分を語るのはよい。しかしそれまでだ。現に徳田も、志賀も、宮本も自伝など書いていない。宮本が書いたのは戦前のプロレタリア文学運動の総括だけである。

  『嵐に耐えた歳月』は刊行後、党中央から叩かれたであろうか。板野の言い分は、これが党中央の何かの機関紙に連載された内容であった事だ。だから新日本出版社も書籍化した。けれどそれでは通らなかった。今まで遠慮して書いていた個所を、かなり大胆に加筆・訂正したからである。名前を出されて批判された党員が黙ってはいなかったのだ。このアレコレは何れ書きたい。証拠はあるが、十分とは云えない。

 とりあえず私の結論を書く。板野勝次は欠陥党員であった。自分が社長である岡山平和書房が(死後のことだが)多額の不良債務を残して倒産したことにも、幾分かの責任がない訳ではない。

 向井喜典については、板野に倍する不徳がある。しかし彼の生死が確認できない。植物人間に近いのは確かだから、そういう段階で追い討ちは掛けたくない。京大の岸本英太郎の高弟であった。専門は経済学と社会政策である。私の店の常連客の浦部信児弁護士との付き合いが長い。


 投稿

昨年来こっそりと拝読していますた(^^)。今後は公然と投稿させて頂きます。>退職公務員党員は公然化しないコレは事実に反します。わたすの地元京都でも、「退職教員や退職公務員が地方議員選に立候補(むろん党公認で)している」事実はあります。
09/26 08:07  KM生



 古本屋通信

 投稿を歓迎します。ただ、今回の投稿が何故画面左の「最新コメント欄」に表示されなかったのか、よく分かりません。たまたま「ブログ拍手」欄で見つけたので転記しましたが、見逃す恐れがあります。投稿は原則は表示です。非公開の投稿は受け付けないと言おうか、読まないのです。これは裏取引をしないということですが、もっと端的には実務量を削減するためです。例えていえば、今回のあなたの名前をもう一度コピーして貼らねばなりません。このブログ、実は記事を書く時間以上に編集に時間を取られるのです。宜しくお願いします。アッ、「ブログ拍手」欄の文字は既に消しましたよ。

 投稿内容に就いては、一面了解です。岡山でも中途退職と定年退職の公務員(おもに学校教員)が党公認で選挙に立候補する例は多くあります。しかし岡山で聞くところでは、これは例外で、やはり退職公務員は機関に入らず、公然党員としての活動はしないそうです。実質は余り変らないとはいえ、もっぱら党後援会活動です。それは退職しても以前の職場に同志はいるし、大衆的な影響力も残っていて、「嗚呼、やはりあの先生はずっと党員だったのか」 と云われるのがマズイからだと思います。全国一律の党規約の規定ではないでしょうが、少なくとも岡山地区党会議の地区委員リストからは外すと聞いています。もちろん党大会、県党会議、地区党会議の代議員にはなれます。これは当然です。党中央の人事でも元公務員を妨げないでしょうね。それから、元公務員が党公認で選挙に出たときの経歴表示は微妙です。決して入党関係を詳しく書きませんね。以上は私の心証ですから、間違いがあるかも知れません。


 再投稿

拍手からの投稿でうまく行かず、先程は失礼しました。何しろROM専ですたので、貴ブログへの投稿は初めてですたので(^^)。
>退職教員党員は基本公然化しない。
余談ながら、女子マラソン五輪メダリストの有森さんの父親は、岡山で党員教員だといわれていますた。やはり退職後も公然化はされていないのでせうか?
2014/09/26(金) 12:17:32 | URL | KM生 #-

 古本屋通信
 「正常ルート」に乗ってくださってホッとしています。
 有森さんのお父さんは高教組の活動をされていたらしいです。党員かも知れないし、そうでないかも知れません。それは私が「めったに無責任な事をしゃべらないゾ」と構えて言っているのではなく、今の高教組上がりの党員はみんな流動的ですからね。もちろん有森・父が公然党員であった事はなく、いまもそういう事実は一般的にはありません。しかし半公然で選挙の時に党員を名乗っているとしても、我々には分かりません。岡山の高教組の代々の委員長はたぶん共産党員だと私は思いますが、それは私がそう思っているだけです。もちろん公然党員ではありません。
 あのね、めったな事いえませんよ。私、ブサヨさんを元党員だと言って叱られ、謝罪しましたから。
  1. 2014/09/26(金) 04:49:37|
  2. 未分類