古本屋通信

漱石 彼岸過迄 初版 

古本屋通信      No 1059  9月24日

  夏目漱石 彼岸過迄 大正元年 初版本 春陽堂 菊版 箱傷み


  このところオークション出品もままならず、出してもサッパリ値が付かない日々が続いている。一昨日やはり雑紙と残り雑本を1万円で買い取った。こういう口は旧蔵者次第だと書いた。その通りだが、もうひとつ言えば、私が現場へ行って荷物を選択して積み込まなくてもよい、これが非常に助かるのだ。

 私よりひと回り年長の学校教師の残り本だ。ひと目みて敬虔なクリスチャンだと分かる。聖書・キリスト教を中心に、英語関係がたくさんある。しかし値が付かないジャンルなのだ。洋書半分は端から拾えない。支払った1万円は博打である。

 素人写真が腐るほどあった。しかし写真がボロである。カメラも写真の腕もよくない。カラー写真が出回り始めた頃だろう。現像も悪い。大半は捨てたが、白黒でアッと驚くピカ一が数十枚あった。何と矢内原忠雄の青年時代の生(ナマ)写真があったのだ。1951年(昭和26年)、南原繁の後任として東京大学総長に選出された総長だ。普段着のまま岡山で写っている。詳しく書くと出所が分かる。嬉しかった。売る気はない。


 本の中に一冊だけピカ一があった。タイトルの文豪の初版本である。解説は要らないだろう。すぐヤフオクに出品した。「日本の古本屋」 に3件だけ出品があったが何れも再版で、25000~45000 円の売価である。私のは初版だから10万円相当だ。然しこれは値を付けてみるだけだろう。ともかく出品した。後は結果が出るのを待つしかない。まあいい所、15000円だろう。文学作品の初版本がサッパリ売れない時代である。

結果  18000円落札

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ウィキペディア

 矢内原忠雄

矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年(昭和36年)12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。

目次 [非表示]
1 人物・生涯 1.1 青年期
1.2 壮年期
1.3 晩年

2 著作
3 著作・講演集
4 翻訳
5 伝記
6 エピソード
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク

人物・生涯[編集]
青年期[編集]
愛媛県今治市に四代続いた家系の医者の子として生まれる。教育熱心な父の影響で、神戸の従兄弟(望月信治)の家から兵庫県立神戸中学校(兵庫県立神戸高等学校の前身)に通学して卒業。旧制第一高等学校に在学中、無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていった。東大に入学後は、吉野作造の民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、思想形成を行っていった。ちなみに、矢内原が卒業した神戸中学校の在校当時の校長鶴崎久米一は、札幌農学校で新渡戸稲造と同期の入学生である。一高を出て大学に入る間の夏休みに、一人で富士山に登っている。1913年(大正8年)20歳の時であった[1]‎。

壮年期[編集]
1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属される。同年5月友人のすすめで西永愛子と金沢で結婚式を挙げた。新居浜時代は新婚生活時代でもあった。翌年5月長男が生まれ伊作[2]と名付けた[3]。当時の別子銅山には、後に住友を辞して無教会主義のキリスト教伝道者となる黒崎幸吉が先に赴任しており、黒崎の伝道集会で聖書講義を行ったりもした。1920年(大正9年)、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる。彼は、学者になって何か社会に貢献する事を神から示された道として決心した[4]。同年秋に欧州留学に旅立つ。イギリス・ドイツ・パレスチナ旅行・フランス・アメリカなどへの留学を経て、1923年(大正12年)予定を早め帰朝し、肺結核に侵されて療養中の妻を見舞った。しかし、その一ヶ月半後の3月26日に、24歳の若さで世を去った。同年9月に関東大震災に見舞われ、死者行方不明約14万3千人、全壊焼失訳57万5300戸の被害出る。この年に教授に就任し、植民政策を講ずることとなった。一年後、幼い子どもたちのことも考え堀恵子と再婚する。

昭和に入って日本の国全体が右傾化、ファッショ化の道を進み始めた。19231年(昭和6年)満州事変が起こっている。 矢内原の植民政策学は、統治者の立場から統治政策として考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に分析し、帝国主義論の一環として扱っている点に特色がある。前任者の新渡戸の学風を発展的に継承しているものといえよう。その研究の結実の代表的なものが、各言語に翻訳された『帝国主義下の台湾』(1929年)である。このような矢内原の姿勢は、しだいに軍国主義的な風潮が強まる中で体制との緊張関係を深めていくこととなった。 1937年(昭和12年)、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌に「国家の理想」と題する評論を寄せた。国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことなど、今日では日本でも常識化した民主主義の理念が先取りして述べられており、この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられた。同じ頃、矢内原が個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された南京事件を糾弾する目的で行われた彼の講演の中の一言、「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」が、不穏の言動として問題となった(以上、広い意味のファシズム批判を行った)。結局1937年(昭和12年)12月に、事実上追放される形で教授辞任を余儀なくされた(矢内原忠雄事件)。 辞職後は『通信』に変えて『嘉信』を毎月定期的に発行した[5]。毎日曜日、自宅で若者に対して聖書の講義をしたり、月一回の帝大聖書研究会を行った。1939年(昭和14年)から土曜学校を開いた[6]。 また、キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けた。

1941年(昭和16年)11月5日の夜、東京芝のフレンド教会で新渡戸稲造記念講演が行われ、矢内原が「新渡戸先生の宗教」という題で講演している[7]。

1945年(昭和20年)8月15日、矢内原は終戦の詔勅を山中湖畔で聞いて、これから新しい時代がくるのだから、平和のために働かなければねばならないと感じた[8]。

敗戦後の1945年(昭和20年)11月、経済学部からの度重ねた要請で東京帝国大学経済学部に復帰した。辞職してからちょうど8年後であった。休職になっていた大内、有沢、脇村らも復帰した。担当する植民政策論を国際政策論に名称を変更した。 その後1946年(昭和21年)社会科学研究所長、1948年(昭和23年)経済学部長、1949年(昭和24年)教養学部長を歴任し、1951年(昭和26年)、南原繁の後任として東京大学総長に選出される(1957年(昭和32年)まで2期6年務めた)。1952年(昭和27年)には、学生劇団「ポポロ」公演にて摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見し、東大側と警察が全面対立したが(東大ポポロ事件)、矢内原は総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取った。一方、学生のストライキに対しては厳しい姿勢を示し、ストライキを計画指揮した学生(学生自治会委員長、学生大会議長、ストライキ議案提案者の3名)は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出した。この原則を適用され退学処分を受けた者に、江田五月、今井澄などがいる。この「矢内原三原則」は東大紛争で廃止に至るまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となった。

晩年[編集]
退任後の1958年(昭和33年)に名誉教授の称号を授与され、その後も精力的に講演活動を行う。1960年(昭和35年)11月、姫路野里教会で「生死の問題」と題して講演している。教会における最後の講演となった。翌年の6月、東大教養学部学友会主催の講演会で「人生の選択」という題で東大生に対する最後のメッセージを残している。同年7月、札幌市民会館に於いて北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュワイツアー」と題してを講演し、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」、そして「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結んでいる。また、退職後は、学生問題研究所を創設し、その所長として学生の生活や思想の調査・研究に取り組んだ。[9]。 晩年の人生論に、1961年(昭和36年)NHK放送の「子供のために」の中で子供を大事にする思想的根拠として次のように述べている。「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちでありありますけれども、実はそうではなく、人に仕えることが人生の意味である。」[10]。 1961年(昭和36年)、胃癌のため逝去。68歳。なお、法大名誉教授で著名な詩人矢内原伊作、慶大経済学部名誉教授・作新学院大学長の矢内原勝は子息である。矢内原家は、食事時に私語をせず厳格な忠雄を子息たちは恐れていたという。東京大学駒場Iキャンパス内には、かつて「矢内原門」があり、今は「矢内原公園」にその名を残している。

著作[編集]
基督者の信仰 聖書研究社 1921 
英国植民省に就て 拓殖局 1921 
植民政策講義案 有斐閣 1925
植民及植民政策 有斐閣 1926
植民政策の新基調 弘文堂書房 1927 
人口問題 岩波書店、1928
帝国主義下の台湾 岩波書店 1929 「矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読」岩波現代文庫
マルクス主義と基督教 一粒社 1932 のち角川文庫 
満洲問題 岩波書店 1934
南洋群島の研究 岩波書店 1935
民族と平和 岩波書店 1936 
帝国主義下の印度 経済特殊研究叢書 大同書院 1937 
余の尊敬する人物 岩波新書 1940
イエス伝講話 マルコ伝による 嘉信社 1940 
山上垂訓講義 向山堂書房 1941 
訣別遺訓講義 ヨハネ伝による 嘉信社 1943 
アウグスチヌス「告白」講義 教文館 1943 のち講談社学術文庫 
日本精神と平和国家 岩波新書 1946
日本の傷を医す者 白日書院 1947
植民及植民政策 1947 経済学博士論文
内村鑑三と新渡戸稲造 日産書房 1948
帝国主義研究 白日書院 1948
聖書の平和思想とリンコーン 高木八尺共著 岩波書店 1948 (新渡戸博士記念講演)
聖書講義 第1-9 角川書店 1948-59
続余の尊敬する人物 岩波新書 1949
キリストの生涯 嘉信社 1949.2
講和問題と平和問題 河出書房 1950
大学について 東京大学出版会 1952
キリスト教入門 角川新書 1952
日本のゆくえ 東京大学出版会 1953
銀杏のおちば 東京大学出版会 1953
国際経済論 楊井克己共著 弘文堂 1955 (経済学全集)
主張と随想 世界と日本と沖繩について 東京大学出版会 1957
私の歩んできた道 東京大学出版会 1958
政治と人間 民主化と人間形成のために 東京大学出版会 1960
人生と自然 東京大学出版会 1960
教育と人間 民主主義と平和のために 東京大学出版会 1961
内村鑑三とともに 東京大学出版会 1962
『矢内原忠雄全集』全29巻(岩波書店、1963-64年)

著作・講演集[編集]
『嘉信』第1-7巻、みすず書房、1967年
『聖書講義』第1-8巻、岩波書店、1978年
『基督者の信仰』第1-8巻、岩波書店、1982年
『信仰と学問――未発表講演集』新地書房、1982年
『矢内原忠雄』日本平和論大系第10巻、日本図書センター、1993年
『土曜学校講義』第1-10巻、みすず書房、1998年
『矢内原忠雄』日本の説教第11巻、日本キリスト教団出版局、2004年

翻訳[編集]
ヨブ記 向山堂書房 1935
イザヤ書 向山堂 1936
奉天三十年 ドゥガルド・クリスティー 岩波新書 1938
武士道 新渡戸稲造 岩波文庫 1938
帝国主義論 ジョン・アトキンソン・ホブスン 岩波文庫 1951

伝記[編集]
矢内原伊作 『矢内原忠雄伝』 みすず書房、1998年7月23日。ISBN 4-622-03200-7。 『朝日ジャーナル』誌に1974年 - 1975年に連載されたものをまとめたもの。ただし連載は東大辞職事件の直前のくだりで中断され、著者はその後も完成を企てたが果たせず未完のまま刊行された。

エピソード[編集
矢内原と親交があった長谷川町子は、『サザエさんうちあけ話』の第29章でその思い出について触れている。

脚注[編集]
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1.^ 鴨下重彦他 2011年 69ページ
2.^ アブラハムの子イサクで、ヘブライ語で「笑う」と言う意味
3.^ 鴨下重彦他 2011年 20ページ
4.^ 鴨下重彦他 2011年 21ページ
5.^ これは真理の敵ファシズムに対する宣戦布告を意味した。(鴨下重彦他 2011年 31ページ)
6.^ 鴨下重彦他 2011年 31ページ
7.^ この日は、御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定された。つまり、12月初旬に米英欄に対しての開戦を決意したのである。(鴨下重彦他 2011年 35-36ページ)
8.^ 鴨下重彦他 2011年 38ページ
9.^ 鴨下重彦他 2011年 60-61ページ
10.^ 鴨下重彦他 2011年 74ページ

参考文献[編集]
大川原礼三 編著 『矢内原事件50年』 木鐸社、1987年12月。
『矢内原忠雄』 鴨下重彦・木畑洋一・池田信雄・川中子義勝 編、東京大学出版会、2011年11月。ISBN 978-4-13-003370-1。
『近代日本のキリスト者たち』 高橋章 編、パピルスあい(出版) 社会評論社(発売)、2006年3月。ISBN 4-7845-9110-9。
竹中佳彦 『日本政治史の中の知識人――自由主義と社会主義の交錯』上・下、木鐸社、1995年2月。ISBN 4-8332-2202-7 ISBN 4-8332-2203-5。
中村克己 『内村鑑三と矢内原忠雄』 リプロポート、1981年1月。ISBN 978-4-8457-0016-5。
南原繁ほか 『矢内原忠雄――信仰・学問・生涯』 岩波書店、1968年。
西村秀夫 『矢内原忠雄』 日本基督教団出版局〈人と思想シリーズ〉、1975年。
量義治 『無教会の展開――塚本虎二・三谷隆正・矢内原忠雄・関根正雄の歴史的考察』 新地書房、1989年11月。ISBN 4-88018-135-8。
藤田若雄 『矢内原忠雄――その信仰と生涯』 教文館、1967年。
三浦甫ほか 『矢内原忠雄と現代――矢内原忠雄記念講演集』 新地書房、1990年6月。ISBN 978-4-88018-138-7。




 彼岸過迄

『彼岸過迄』(ひがんすぎまで)は、夏目漱石の長編小説。1912年1月1日から4月29日まで「朝日新聞」に連載され、同年に春陽堂から刊行された。

「修善寺の大患」後初めて書かれた作品。自意識の強い男と、天真なその従妹との恋愛を描く。短編を集めて一つの長編を構成するという手法が具現化されている。後期3部作の第1作である。

連載が始まる前年、漱石は文部省からの文学博士号の授与を辞退している。辞退した理由は、学位の授与を審議する博士会が授与を見送ったにもかかわらず、漱石が大病を患ってから一転授与に変じたことにあるとされている。

目次 [非表示]
1 作品背景
2 あらすじ
3 関係図
4 外部リンク
5 注釈

作品背景[編集]
漱石は1910年の夏に病を悪化させ、危篤状態になった(修善寺の大患)。この1年半ののちに「彼岸過迄」の連載が始まったのだが、漱石は連載開始に当たり、初日(1月1日)に、「彼岸過迄に就て」という題の序文を発表している。これによれば、長く休んだために面白いものを書かなくてはいけないと感じているとしている。また、「彼岸過迄」という題名は、元日から始めて彼岸過ぎまで書くつもりだったので名づけたことがわかる。

漱石は修善寺の大患のほかにも、発表前年の11月に、生後2年の五女ひな子が死亡している。また、江藤淳は漱石がこの時期に文壇で孤立化していたと指摘している[1]。「彼岸過迄」は、序文にある通り、数本の短編が集まって1つの長編を構成する、という手法が採られている。柄谷行人は、これは「吾輩は猫である」と同じ構成だとして、この作品は漱石が原点回帰を図った探偵小説であると評論している[2]。ただし、漱石はその序文で、数本の短編が集まって1つの長編を構成する作品はこれまで試みたことがないとしている。

連載が始まった日と同じ1912年1月1日には孫文が中華民国の成立を宣言し、その翌月に愛新覚羅溥儀が清朝皇帝を退位して清が滅亡している。中国情勢だけではなく世界情勢はいよいよ混迷を深め、日本が暗澹の渦中に身を置き始めた時代でもあった。作品にはそうした時代的背景が盛り込まれているが、序文に「今の世に無闇に新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇に於る一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。自分は凡て文壇に濫用される空疎な流行語をかりて自分の商標としたくない」とあり、100年を過ぎてなお色褪せない作品と言える。

あらすじ[編集]
いくつかの短編小説を連ねることで一編の長編を構成するという試みがなされている。いくつかの章は話者がかわる。鈴木三重吉の選んだ「現代名作集第一編」には『須永の話』が独立した短編として収録され、『雨の降る日』は独立して文集『色鳥』に収録された。長編として厳密な統一性をもとめず、各章を個々の短編をかくようにして視点と文体の変化をさせている。各章の概要は以下である。
「風呂の後」大学を卒業して仕事に就けないでいる田川敬太郎の人物像が、同じ下宿の住人で、さまざまな仕事を遍歴した森本と比較して描かれる。「停車所」大学の友人の須永の叔父で実業家の田口に就職を頼む決意して、須永の家を訪ねると一人の女が家にはいるのを目撃する。須永から紹介された田口からはある時間に小川町の停車場に降りるある男の電車から降りてからの2時間以内の行動を調べて報告しろという依頼を受ける。敬太郎はそれを実行する。停車場には女が人を待っていて、調査の依頼がされた男はその女性と町を歩く。ミステリー的な風味を評価する解説もある。「報告」「停車場」の種明かしの章で、田口から、調査した男への紹介状をもらって、敬太郎は男を訪問する。男は義兄の松本で、女は田口の娘の千代子であったことが明かされる。松本は働かないで、財産で高等遊民として暮らしている。このイタズラを通じて、敬太郎は田口の家に出入りすることができるようになった。「雨の降る日」前の章で松本が雨の日に面会をことわった理由として、雨の降る日に幼い娘が突然死んだ話とその葬儀の話である。漱石自身の五女・雛子が1才で急死した時の気持ちを松本に託した章である。「須永の話」須永と千代子の恋愛の話である。この章では語り手が須永に変わる。須永の母親は千代子と須永の結婚を強く望み、千代子も須永に好意をよせているが、須永はそれから逃げようとする。「千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫の上に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違ひない。・・・僕は今云つた通り、妻としての彼女の美くしい感情を、さう多量に受け入れる事の出来ない至つて燻ぶつた性質なのだが、よし焼石に水を濺いだ時の様に、それを悉く吸ひ込んだ所で、彼女の望み通りに利用する訳には到底も行かない。もし純粋な彼女の影響が僕の何処かに表はれるとすれば、それは幾何説明しても彼女には全く分らない所に、思ひも寄らぬ形となつて発現する丈である。万一彼女の眼に留まつても、彼女はそれをコスメチツクで塗り堅めた僕の頭や羽二重の足袋で包んだ僕の足よりも難有がらないだらう。要するに彼女から云へば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、次第々々に結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。」などの一節がある。「松本の話」松本が語り手となって、須永の千代子をさけようとする気持ちが、須永が母親の実の子供でなかったという出生の秘密にあったことが明かされる。松本は須永に意見して、須永は気持ちの整理のために、関西に一人で旅にでる。須永からの手紙がとどくようになり、内向から世間への関心をもつようになってきていることが示されて物語はおわる。

関係図[編集]

                ┏━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓ 
     父(死去)┳ 母 妹 ┳ 田口    弟(松本)┳ 御仙
           ┃  ┃         ┃
   ┏━━━┻━┓ ┏━━━┻┳━━━┓      ┏━━┻━━━┓
 (主人公)    ┃   ┃  ┃    ┃   ┃      ┃      ┃
 田川敬太郎───須永市蔵  妹(夭折) 千代子  百代子  吾一    兄2姉2    宵子(夭折)
   │  (友人)                │        
   │                      │
   │                      │   
   森本                     高木
 (同じ下宿)               (百代子の友人の兄)
  1. 2014/09/24(水) 08:57:29|
  2. 未分類