古本屋通信

村井さんのツイートから

古本屋通信    No 1001     8月20日

  村井明美さんのツイートから


 一昨日の村井さんがツイートで 浅井久仁臣さんを引いていた。

浅井久仁臣
RT @asaikuniomi: 昨夜の「NEWS23」で沖縄戦や日中戦争の体験を赤裸々に語った近藤一氏が、早速ネット上で罵詈雑言を浴びている。私は同氏に数回取材しているが、証言力は高い。重い腰を上げて加害体験を語る元日本兵に 無礼な言動は慎み、重大な過ちを二度と起こさぬ為にも…


 古本屋通信

 ここから更に近藤一さん関連の話を転載しておくが、その前にコメントしておきたい。

 私はコレを検証していないから、資料としての添付である。ただし現段階でも一定の資料批判はある。侵略戦争下の残虐行為のアレコレを何処までリアルに表現するのが、戦後69年目に相応しい表現かという問題である。下手をするとクソ・リアリズムになる。 私の古本屋稼業に即して言おう。戦時下の兵隊写真は腐るほど出る。私はそれを基本的に保存している。この中には日本兵に虐殺されたばかりの中国人の死体写真も混じっている。逆に日本兵の死体写真もある。私はこれらをすべて焼却する。グロテスクで正視するに耐えない。売っても違法ではないだろうが、資料としても意味がない。そんな証拠写真は要らない。私はまだ強姦写真を見たことがない。しかし存在したとしても同じく意味がない。近藤さんの証言は朝日新聞の記事のように、その証言をもって個々具体の事実を確定しようとするものではない。しかし資料吟味は要るだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  「米兵は自動小銃、日本兵は旧式単発銃。大本営は大和魂で行け、と」
 
 〜日中戦争と沖縄戦の戦場体験を聞く


 「戦争になったら、誰が犠牲になるのか。戦争とはどんなことで、天皇はどうであって、統治はどういうことだったと、ちゃんと教えないといけない。日本は憲法9条を守り、コスタリカのように国家予算の3分の2を福祉と教育に使うべき。戦争は、絶対起こしてはならない」──。

 2014年4月27日、大阪市北区のPLP会館で、「元日本軍兵士の証言 日中戦争と沖縄戦の二つの戦場体験を聞く ~第3回連続講座『戦争を忘れない』」が行われた。元日本兵で、中国、沖縄の前線で戦った近藤一氏と、「山西省明らかにする会」の加藤修弘氏が講演した。95歳の近藤氏は、戦場で体験した日本軍の加害行為を語り、戦争の悲惨さを訴えた。

 加藤氏は、山西省明らかにする会(正式名称:山西省内における中国侵略旧日本軍の性暴力の実情を明らかにし婦人たちと共に進む会。1996年発足)で、中国人の性暴力被害者を支援している。2000年から11回、近藤氏と中国に同行。「政府はともかく、市民レベルでの交流が日中友好のカギだ」と語った。

記事目次
◾二度と戦争をしない教育にもっとお金を使うべき
◾非人間的な行為を訴えたい
◾いつも泣いてしまう、沖縄戦「中塚伍長の悲劇」
◾裸女のいる隊列
◾兵士の犯罪の温床「高度分散配置」戦術
◾市民レベルの交流が日中友好のカギ
◾ピースおおさか「政府見解」で日本の加害展示を撤去

◦収録 2014年4月27日(日)
◦場所 PLP会館(大阪市北区天神橋)
◦主催 ピースおおさかの危機を考える連絡会

二度と戦争をしない教育にもっとお金を使うべき

 今回、近藤氏は体調が優れず、来場せずにスカイプ中継で話すことになった。主催者が「近藤氏は現在95歳。三重県の兼業農家で育つ。20歳で中国出兵、沖縄へ転戦。米軍の捕虜となり、終戦を迎えた」と紹介した。

 近藤氏は、軍隊で体験した中国人殺害の様子、自らも殺害に加わったことなどを語り、「(戦後の日本は)戦争の真相を、ちゃんと子どもたちに教えていない。それは隣国と仲良くやっていくためにも重要である。憲法9条の素晴らしさを讃え、二度と戦争をしないような教育に、もっとお金を使うべきだ」と訴えた。

 そして、「敵兵を殺していく時、罪悪感は何もなかった。むしろ『やったー』と喜んでしまう。周りには、出世にかまける幹部たちも大勢いた」と、戦場での兵士の心理を振り返った。

非人間的な行為を訴えたい

 「昭和19年、上海から沖縄に移動した。最初、あまりに美しいところなので、天国に来たと感動した。1945年4月1日、5キロ先で米軍の沖縄上陸が始まり、水陸両用戦車に、まず驚いた」。

 「最前線では、アメリカ軍は自動小銃で一斉に撃ってくる。対する日本兵は旧式単発銃で応戦するしかない。それでも大本営は、大和魂で行け、と言うだけ。こんな指導者では、部下は死んでも怒りが醒めやらない」。

 沖縄戦について、このように語った近藤氏は、「非人間的な行為を訴えたい。憲法9条を守る、平和を守ることが、自分たちの責任ではないかと考えて、『兵士たちの沖縄戦を語る会』を結成した」と述べた。

いつも泣いてしまう、沖縄戦「中塚伍長の悲劇」

 続いて、加藤氏がマイクを握った。加藤氏は1歳の時、横浜空襲で母を亡くした。『あの日、火の雨の下にいた ―私の横浜空襲』の著者であり、近藤氏からの聞き書きの共編著『ある日本兵の二つの戦場―近藤一の終わらない戦争』にも関わっている。

 加藤氏は、まず、近藤氏について、「戦場で死んでいった戦友たちに代わって、生き延びた自分の無念さから戦争反対を訴えている。そのことがはっきりわかるのが、沖縄戦での中塚伍長の悲話だ。近藤氏は、そのくだりを話す際には必ず泣いてしまう」と述べ、次のように紹介した。

 「沖縄で62師団に配属された近藤さんたちは、『死ぬなら火炎放射器(焼死)ではなく、銃弾で死にたい』と願うくらい熾烈な決戦となった、首里城防衛にあたった。残された作戦は、20キロの爆弾を背負って戦車に体当たりをする肉攻(肉薄攻撃)しかなかった」。

 「そして、近藤さんが一番信頼していた中塚伍長が、ついに肉攻で出撃となり、最後に振り向いて、『こんな愚かな作戦で死んでいくのは耐えられない』と言ったという。こういう思いを背負って生きてきたのが、近藤さんたちだ」。そう語りながら、加藤氏も言葉を詰まらせた。

「7回生まれ変わって、天皇陛下のために死ね」 ~戦争は悪魔だ 一生に一度の青春も奪い去る ─私の戦争体験 堀之内八郎氏

裸女のいる隊列

 次に加藤氏は、1940年12月、山西省に八路軍掃討のため進駐した、という近藤氏の話に補足した。「近藤さんたちの部隊が進軍し、ある村で女性を強姦し、そのまま裸で赤ん坊を抱かせながら、部隊で連れ回した。やがて女性が弱ってしまい、扱いに困ると、いきなり1人の日本兵が赤ん坊を谷底に放り投げた。そうしたら、その女性も、後を追って身を投げた」。

 「これに似た小説に、田村泰次郎の『裸女のいる隊列』があるが、この悲劇を聞いたのではないだろうか」。そう語る加藤氏は、「日本軍がそんなことをするはずはない」と否定した、大宅壮一ノンフィクション賞受賞者で国文学者の尾川正二氏の意見に批判を述べた。

兵士の犯罪の温床「高度分散配置」戦術

 加藤氏は「日本軍の師団は1万2000人~1万5000人くらいで構成される。近藤さんが入営した独立混成旅団とは、日中戦争の長期持久戦のために作られたミニ師団相当の部隊だ」と、当時の日本陸軍の構成を解説し、このように指摘した。

 「北支那方面は、八路軍に対し『高度分散配置』という戦術をとった。前線へ分散配置される少人数の部隊は、人員不足で軍規も守られず、性暴力なども数多く行なわれ、犯罪の温床になった」。

 最後に、近藤氏と訪中した山西省などの写真をスライドで見せ、「この中には、戦争での性暴力被害者が多くいた。年々、亡くなっていく彼女たちのためにも支援は続けていきたい」と話して講演を終えた。

市民レベルの交流が日中友好のカギ

 休憩後、質疑応答に移った。「山西省で調査を始めたきっかけは?」という質問に、加藤氏は「(日本軍の元慰安婦だったと名乗り出た)万愛花さんの講演に行ったこと。彼女は会場で突然、上半身裸になり、自分の体の傷を見せて、『金銭目当てで名乗り出たのではない』と訴えた。これにショックを受け、自分の目で確かめるために訪中した」と答えた。

 また、「加害・被害」という言葉について問われると、「幼い頃、横浜大空襲に遭い、母親は黒焦げになり焼死した。それを大人たちに聞かされ、被害者意識が強い少年時代だった。大学で歴史を学び、戦後の補償問題に関わるようになった」と自らの体験を語った。「近藤氏の原点も、被害者意識だと思う。戦死した戦友たちを犬死にさせたくない、彼らの死が無駄ではなかった日本を作りたいという、切なる思いが彼を駆り立てている」。

「逃げたら非国民」情報隠しで被害を拡大した防空法 ~大阪空襲被害者の証言と「防空法制」

 その上で、「国家として、中国への加害者としての責任を決着させないと、日本の被害も語れない。そういう意味では、近藤氏らは二重の被害者だ」と述べた。

 中国の性暴力被害者へ支援を続ける加藤氏らに対し、中国の人々は「日本の右翼に襲われるのではないか」と心配してくれるという。加藤氏は「政府はともかく、市民レベルでの交流が日中友好のカギだ」と力を込めた。

ピースおおさか「政府見解」で日本の加害展示を撤去

 最後に、ピースおおさかの危機を考える連絡会のメンバーから、大阪国際平和センター(ピースおおさか)リニューアル問題について、報告があった。ピースおおさかは、戦争と平和に関する多くの資料を収集・保存・展示していたが、日本側の加害の歴史を展示した部分が批判され、リニューアル計画が進んでいる。

 「昨年4月、日本がアジアで犯した加害展示をなくす、子ども目線で見て残酷な表現はやめる、などのリニューアル構想が発表された。さらに今年2月、『政府の統一的見解』という文言が、突然、リニューアル案に加えられた。教科書に国の統一見解を反映させるという、今の政府の考えが背景にある」と述べて、安倍政権に追随するような改装計画に懸念を表明。大阪市長と大阪府知事へ提出する抗議文案を読み上げた。【IWJテキストスタッフ・関根/奥松】

■関連記事
•2014/03/14 【大阪】「逃げたら非国民」情報隠しで被害を拡大した防空法 〜大阪空襲被害者の証言と「防空法制」
•2014/03/01 【京都】第21回縮小社会研究会 ─米澤鐵志氏・石田紀郎氏講演
•2014/02/28 「歴史修正主義者達は、自分自身の民族観に怯えて虐殺を必死に否定している」~岩上安身による能川元一氏インタビュー 第一部~南京大虐殺
•2013/12/01 【兵庫】「7回生まれ変わって、天皇陛下のために死ね」 ~戦争は悪魔だ 一生に一度の青春も奪い去る ─私の戦争体験 堀之内八郎氏
•2013/11/28 【青森】「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ2 青森空襲体験者 平泉喜久郎さんの証言「沼が命を救った」
•2013/10/30 【青森】「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ1 青森空襲体験者 富岡せつさんの証言

3ヶ月前 .
平和 軍隊 日本軍 大阪 沖縄 戦争 iwj .
140407 【大阪】元日本軍兵士の証言 日中戦争と沖縄戦の二つの戦場体験を聞く~第3回連続講座「戦争を忘れない」
iwakami_staff @iwakami_staff 2014-05-08 20:08:42

【録画配信・IWJ_OSAKA2】ただ今、大阪Ch2で、4月27日に行なわれた「元日本軍兵士の証言 日中戦争と沖縄戦の二つの戦場体験を聞く」を録画配信中です。大阪Ch2→ ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/prJr0J4Szo).

岩上安身 @iwakamiyasumi 2014-05-08 20:09:12

【録画配信・IWJ_OSAKA2】ただ今、大阪Ch2で、4月27日に行なわれた「元日本軍兵士の証言 日中戦争と沖縄戦の二つの戦場体験を聞く」を録画配信中です。大阪Ch2→ ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/aoC0xwsnbj).

再配信ありがとうございます。「今、中国の脅威を喧伝し、戦争をあおるような時代に。それじゃだめなんですよ。誰が犠牲になるのか、よく考えてほしい」 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

「偉い人達が何をいっても、犠牲になったのはほとんどが貧乏人の子どもです。」 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

「偉い人達が何をいっても、犠牲になったのはほとんどが貧乏人の子どもです。」 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/oAxb2gPES3).

「戦争をしない、それが日本にできる、一番の貢献です。」 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

戦争体験者 「憲法九条を守り続ける国でいてほしいと私は思っています。」 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ)

中国大陸での戦争体験を語る方。従軍慰安婦をめぐる証言もされている、と。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

中国大陸での経験:赤ん坊が傍らにいた、とおもったら、20m先に投げ捨ててしまった、ひどいことをするなぁと思った、と。(よく聞き取れなくて残念)  ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

:若い女性のお腹を切った、無惨としかいえない情景を前に、刀剣の切れ味を話し合ってた光景も。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

:なぜ9条があるのに、また戦争をできるように変えるのか。私ら貧乏人の子どもだが、戦争が日本文化ではないことを知ってる、天皇制を悪用したのが先の戦争だ、それを忘れてないか ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

:ほんとうにひどいことをしたんですよ、韓国や中国の人に。もう戦争をしない、九条を守っていく、それが日本の道だとおもうから、こんな体験を語り続けてきました。 と。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

加藤さん:1943年生まれ、都立高校で教えてきた。今お話された近藤さんたちの戦争体験記や従軍慰安婦の記録をまとめてきた方。幼児期に空襲も体験。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

加藤さん:近藤さんの体験をきくたび、「無念の大きさ」に、うたれてしまう。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

永添泰子 @packraty 2014-05-08 21:11:09
こんばんは。声がきれぎれでよく聞こえないです。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/IdbmSSLYxv).

近藤さんは、亡くなった戦友たちを犬死ににさせないために、二度と戦争をおこさせないために、つらい体験を話し続けてきた、と。沖縄線の最前線の話をすると、いつも涙される、と ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

首里の防衛線に参加・・ ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

:肉攻:肉薄攻撃・・ 爆弾背負って、戦車に突撃、それしか作戦がなくなってた頃・・ 沖縄戦。近藤さんのお話の解説 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

:中国・山西省に近藤さんが入ったのは、1940年・・ すさまじい戦争の始まりの部分 八路軍・・ ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

山西省での体験:赤ん坊といっしょに逃げ遅れた女性を捕まえた部隊、強姦、裸にして靴だけはかせて、連れ歩いた、と。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

永添泰子 @packraty 2014-05-08 21:19:02
41年アメリカやイギリスと戦争する前の最後の作戦。夜道で女性にあったので強姦して逃げないように服を脱がせて靴だけにした。赤ん坊も連れていた。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/IdbmSSLYxv).

永添泰子 @packraty 2014-05-08 21:21:05
近藤さんは連れ歩かれる女性の後からついて行軍した。近藤さんと同じ13大隊に入っている作家がいるがすでに有名な人だった。同じような光景を見ていたのでは ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/IdbmSSLYxv).

:山間部の行軍で母親は衰弱、どうしようかと相談していた偉いさんが、抱いていた赤ん坊を谷底に投げた。その直後、お母さんも谷底に身を投げた。近藤さんの目の前で起きたこと、と。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/3P0HBbjHQQ).

永添泰子 @packraty 2014-05-08 21:22:27
女性の連れていた子供は谷に投げ捨てられた。おやましょうじろうという小説家はそのようなことはしてないと書いている。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/IdbmSSLYxv).
永添泰子 @packraty 2014-05-08 21:23:06
谷底に子供を投げすてられたお母さんは自分も身を投げた。 ( #IWJ_OSAKA2 live at http://t.co/IdbmSSLYxv).



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ウィキペディア

浅井 久仁臣(あさい くにおみ、1947年9月17日 - )は、日本のジャーナリスト。

略歴[編集]
1947年、愛知県岡崎市に生まれる[1]。愛知県立岡崎高等学校卒業[2]。
1973年、「AP通信」(米)入社[1]。アジア総局の記者として、日本国内および中国、朝鮮半島を担当。
1976年、AP通信を退職後、フリーランス・ジャーナリストとして、レバノン内戦を取材[1]。テレビ・ラジオ・雑誌などに取材報告を発表。その後も、中東、東南アジア、北アイルランドなどの戦争(紛争)を取材する。
1977年2月、埼玉県さいたま市で英会話スクールを開校。生徒をジャーナリズムに導く。[3]。
1981年、アラファトPLO議長の初来日の密着取材。その模様を、多くのメディアで発表。アラファト氏の「知られざる素顔」を紹介したとして、評価を受ける。
1982年のイスラエル軍(陸海空)によるレバノン侵略を、TBSの契約特派員として現地取材。この頃から、民生用のビデオカメラを使っての単独取材を始める。
1989年6月、天安門事件の取材にTBSから特派され、北京および成都を取材。
1991年、湾岸戦争勃発。TBSの報道局と社会情報局の特派員として契約し、現地取材。
1993年、数度にわたり旧ユーゴスラビア内戦取材。「サラエボのロミオとジュリエット」の射殺現場を世界で初めて撮影し、TBSテレビ「報道特集」で発表した。
1995年1月の阪神淡路大震災の被災現場に若者達と駆けつけ神戸市長田区にテント基地を作り、救援・支援活動を行った。そして、防災・災害支援ボランティア団体「アクト・ナウ(ACT NOW)」を設立(2006年1月、活動停止[3])。レスキューチームを作り、浦和市(現さいたま市)消防本部の訓練指導を受け、その後、起きる大規模災害の救援活動を行った。その他に「帰宅難民ウォーク」「外国籍住民向け防災訓練」「図上想定訓練」などの訓練の普及活動も行った。
2002年、テレビ朝日と契約し、当時、軍事占領下にあったパレスチナに潜入取材[1]。
2003年3月のイラク戦争では、解説者としてテレビ出演。その後、マスコミ各社と自ら距離をおき、ブログやツイッターなどのインターネット・メディアで活躍している[3]。
2003年春から「メディア塾」を東京都内などで開設[3]。
2007年4月8日投開票のさいたま市議会議員選挙(南区選挙区)に無所属で出馬するも、落選。公約を「災害に強い街づくり」に絞っての立候補であった[4][5]。
2012年5月、活動の拠点を郷里の愛知県岡崎市に移す[6]。

書籍[編集]
「レバノン内戦従軍記」 (三一書房、1977年)
「パレスチナは戦争館―硝煙の街角15年のグラフィティ」(情報センター出版局、1985年)
「魔術的カケヒキ学―国際舞台で磨いた交渉術のノウハウ」(センチュリープレス、情報センター出版局、1986年)

雑誌記事[編集]
「モロ民族独立闘争に栄光は」 (「現代の眼」1976年6月号)
「レバノン内戦を追って-1・2-タール・ザータルの殺戮」(「現代の眼」1977年3・4月号)
「レバノン内戦を追って-3完-アブデル・ハミド氏に聞く--PLOはいまなにを望んでいるか / インタビュー アブデル ハミド ; インタビュー」(「現代の眼」1977年5月号)
「二極化進むパレスチナ解放運動--協調路線に反発する青年層」(「朝日ジャーナル」1977年10月号)
「外国勢力にほんろうされるモザイク国家レバノン」(「朝日ジャーナル」1978年7月21号)
「中東・新たな対立の構造--またもイスラエルのお家芸電撃的『力の論理』 / 対談 牟田口 義郎」(「朝日ジャーナル」1982年6月25号)
「ベイルート報告 アマル民兵(貧民武装集団)に虐殺されるパレスチナ難民--TWA機人質事件の陰で」(「Asahi journal」1985年8月2号)
「ヨルダン川西岸地区ルポ--救急医療活動も妨害するイスラエル軍」(「Asahi journal」1988年3月18号)
  1. 2014/08/20(水) 04:31:12|
  2. 未分類