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古本屋通信

『投降主義者の観念論史観』

古本屋通信   No 4235    2019年  10月10日


『投降主義者の観念論史観』 (日本共産党中央委員会)

 志位の2論文は本書のなかに収められている
*変節者のあわれな末路   *退廃と遊戯の「哲学」

   
 これは志位の学対時代の習作です。下に私の文章を再録しておきます。


投降主義者の観念論史観 [単行本]
日本共産党中央委員会 1986
2. !
2019年10月09日 23:01
この本、共産党が出しているのですか?
出版社: 日本共産党中央委員会 (1986)
と、なっているのですが



  再録

古本屋通信  No 258   2013年  6月14日

  伊里一智と志位和夫


 通信No 255で予告しておいた志位和夫の処女論文の件。ざっと読み直してみたが、どう考えても論ずるような代物ではない。あとでちょっとからかうが、表題を上記のようにして、寧ろ伊里一智の事を書く。ウィキぺディアの記事を No 255 に貼ったので、予備知識がない方はそれを参照してください。書くといっても伊里は過去文献をひいて書かねばならないような人物ではなく、記憶に頼って書けば十分だろう。

 伊里一智 は話題になった時点で、既に2つの点で済んでいた。

 一つは、彼が党大会代議員を目ざしたのはよいとして、その主張が「宮本顕治の勇退を勧告する」であったことだ。これは人事案件であり、単独で取り上げること自体が異常だった。「長いから駄目だ、独裁だ」というのだろうが、こんな主張が都党会議まで上がる訳がない。むしろ東大院生支部で通ったのが不思議な位だ。党中央の人事は党大会の最後にくる案件だ。中央委員会議長、幹部会委員長などは、大会代議員によって選ばれた中央委員の互選で決められる。私はこれは現実的で民主的な選出方法だと思う。伊里が、いやこれはよくない、自民党や(当時はなかったが)民主党のように「トップは党員の直接選挙で選ぶべきだ」と言うのなら、そのように「規約改正しよう」と提案すべきである。伊里の目の上のタンコブとして宮本顕治がいたにせよ、宮本憎しなどは感情の問題であり、たとえ彼が大会代議員に選ばれたとしても、中央委員を選ぶ選挙の時に、宮本顕治に不信任票を投ずることが出来るに留まる。「勇退を求める特別決議案」など案件としても認められよう筈がない。なぜなら、党大会は新しい中央委員を選ぶことを大会の主要任務の一つとしており、党大会の始まった時点で宮本顕治は中央委員にさえ選ばれておらず、その候補者名簿さえも発表されてないからだ。

 だいいち、人事は大会決議案のあとに来るものだ。前大会以後の指導部の責任は、新しい議案の討議の中でそれも含めて討議される。いままでだって、第8回大会の綱領採択以降の限っても、4・17問題での聴濤常任幹部会員の辞任、宮城県委員会における誤まった指導の責任をとった藤原幹部会員の辞任など、前例はある。伊里は宮本顕治の指導責任を具体的に指摘すべきだった。それを、長いから辞めろなど児戯の類いだ。

 もう一つは、伊里一智が徹頭徹尾ブルジョアジャーナリズムに依拠して、或いはそれに期待して行動したことだった。私の記憶は薄れかかっているが、大会会場でのビラまきはブル新を意識してなされた。「朝日ジャーナル」は数ある商業媒体の中でも最悪である。これに登場したら一巻のオワリだ。

 余談だが、党批判がブル媒体に依拠したら、その時点で党批判は効力を失う。それはいかなる装いを凝らそうと、例外なく反共攻撃に堕すからだ。袴田里見も広谷俊二もそうだった。比べるべくもないが、伊里一智も完全に済んでいた。この点で新ヒヨが誰ひとりブル新に手記を寄せていないのは、際だって光っている。川上さんなんかにはずいぶん声が掛ったと思うよ。古在由重も沈黙をたもった。たとえ生あるあいだ認められなく死すとも、歴史の判断にゆだねる、これが唯物論者だろう。それと人間の品格が違うんだ。

 
 志位和夫 に移る。

 再読してみて筆が萎えた。志位にはネオ・マルクス主義批判の論文がある。こちらはまだマシだが、『投降主義者の観念論史観』所収の文は戴けない。
 「変節者のあわれな末路」
 せめて小見出しを書こうかと思ったが、その気持ちも失せた。これを書いたのは党中央青学対部員のころだ。志位はその後、ネオ・マル批判で党イデオロギー官僚の仲間入りする、十人程いた中の最若手だった。

 志位和夫擁護の弁。この男は私心のない人物だ。当時、かれは党の最高幹部になることなど夢想だにしなかっただろう。もしかれに党官僚として最高指導者への志向があったなら、こういう「首斬り朝」のような文は決して書かなかっただろう。かれは自分は捨て石でよいと思っていたのだ。今回は、志位文には一切触れない。但し、志位文の筆の運びだと、古本屋通信など反党分子( 私は党を除名されたのではない。地区委員会の手違いによって、転籍が不首尾に終わっただけだ。念のため )として殺してもよいという、連合赤軍顔負けの左翼ファシズムには当然行き着くだろう。


補記
 上記の文を書いて半日後、夕方のいま、再度書いている。振り返って、伊里の宮本退陣要求を引っ提げての行動は、マスコミ受けを狙っていたとは言え、解り易かったと思う。それにたいして、これを批判する上記の私の文は理屈っぽく、私が宮本の崇拝者に近い事もあってか、わかりにくくて支持されにくい。夕方までに「拍手」がたった一人しか付かないのを見てそう思った。

 志位和夫の文の、それぞれのセンテンス中の幾つかを抽出しておく。

・・・・低劣で、下品な党攻撃に終始している。・・・・かくしてこのふたりの反党分子は、手に手をとって・・・・。反党分子というのは、よほどの「義人」ぞろうということか。・・・ふたりの反党分子の麗しい「友情」が・・・。・・・そろって新しい党攻撃のシナリオを練りあげ・・・。・・・いかに低劣な内容のものであるかは・・・・。三文反共雑文を書き送る売文家と同じ地点まで、・・・。・・・破たんしたみずからの主張をとりつくろうための苦しまぎれの弁明・・・。科学的社会主義の階級的見地のイロハすらわきまえないもの・・・・。・・・・混乱した自己撞着におちいった弁明・・・・。・・・観念の世界での言葉遊びのようなもの・・・・・。右転落した社会党の新与党化路線への追従と投降という、底なしの敗北主義、右翼日和見主義に立ったもの・・・。・・・あからさまな解党主義の主張を・・・・・・。・・その深刻な政治的退廃ぶり・・・。    

  もうやめておこう。これは出だしの数ページだけだ。まことに貧しい処女論文の、こけおどしの形容句を抽出したものだ。書く者の品性が疑われるだけのこのような文でも、党内用の恫喝にはいくらかの効用もあるのかもしれない。しかし伊里批判の文としては、私の上記の短文にさえ及ばない。これが天下の党委員長の処女論文のサワリだったのである。
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  1. 2019/10/10(木) 01:04:28|
  2. 未分類

「妻よ眠れ」(徳永直)

古本屋通信   No 4234    2019年  10月10日


   妻よ甦れと言っても無理だろう、「妻よ眠れ」 (徳永直)

 妻が岡山中央病院に入院した5月22日から死の前日の7月2日までの42日間、私は毎日妻のベットに5時間~10時間は付き添っていた。この時間は少なくとも私にとっては、至福の時であった。妻と共有した18歳~74歳に至る 56年間で最も濃密な時間だった。認知症で実質の会話がなくていてもである。じゃあ妻にとっても至福の時だったのか。私は今日までそう考えてきた。そしてそれを訂正する理由は今でも見つからない。

 ただ一点だけ思い直すべきがあるかも知れない。それは私がベットのわきで、妻に毎日繰り返して呼び掛けていた言葉の再考である。「どうじゃ、えろうないか(しんどくないか)」 という言葉についてである。

 妻は42日間のうち意識がなかったのは2日間だけであった。それも数時間だけであった。あとの日々は意識ははっきりしていた。苦痛で顔を歪めた日はなかったと思う。

 それでも妻は、私の 「どうじゃ、えろうないか(しんどくないか)」 という言葉に対して、「大丈夫よ、ちっともしんどくない」 とは答えなかった。たいていは 「えれえ(しんどい)」 と答えた。でも私にはそんなにしんどそうに見えなかった。だから 「大丈夫じゃ、しんどうない。元気を出せ」 と励ました。これに対して妻は抵抗しなかった。頷いて私を肯定した。私は本当にそんなにしんどくなかったのだと今も思っている。だからこそ我々にとって至福の時であり続けた。

 でも私は今にして思う。本当はしんどかったのではないか、それを私は強引に自分の土俵に妻を乗せていたのではなかったかと、今にして思う。それは悔いではないが、いくらか甘美な想いを伴なう反省である。真佐代さん、ごめんな、本当はしんどかったのに、我慢して明かるくしていたんじゃな。

 入院中にお金のことを考えた瞬間はなかった。アンタが認知症になってから、私は我家の財産を知っていた。アンタが生き続けるお金は十分あった。だからお金なんか残してほしくなかった。闘病で使いきってほしかった。介護度3の特別養護老人ホームに二人で入所して、そこで二人の貯えを使い切ってしまいたかったよ。

 真佐代さん、今となっては静かに眠れ。甦ってほしいけど、3ヶ月経っているから、もう無理だろう。夫婦別の道を歩むことになった。できるだけ長生きするよ。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


  徳永直  ウィキペディア

徳永 直(とくなが すなお、1899年(明治32年)1月20日 - 1958年(昭和33年)2月15日)は、熊本県飽託郡花園村(現熊本市西区)生まれの小説家。

経歴[編集]

貧しい小作人の長男に生まれ、小学校卒業前から、印刷工・文選工など職を転々とした。また丁稚奉公をしながら一時夜学に通うも中退、その後勤めた熊本煙草専売局の仲間の影響で文学・労働運動に身を投じ、1920年に熊本印刷労働組合創立に参加する。同時期新人会熊本支部にも加わり、林房雄らと知り合う。1922年山川均を頼って上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。この頃から小説を書き始め、1925年に「無産者の恋」を組合の雑誌に発表し、また習作として「馬」を書いた(発表は1930年になって、単行本に収録したときである)。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。

1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載、労働者出身のプロレタリア作家として独自の位置を占めるようになる。以後旺盛な創作活動を展開するが、小林多喜二の虐殺など弾圧の強まる中で動揺し、1933年、『中央公論』に「創作方法上の新転換」を発表、文学の政治優先を主張する蔵原惟人らを批判し、日本プロレタリア作家同盟を脱退した。その一方で、小林多喜二の「党生活者」発表に当たって、弾圧への対策として伏字なしの校正刷りが作成された時には、その保管者の一人となり、戦後まで保管し、完全版の刊行に協力した。

1934年転向小説「冬枯れ」を発表し、1937年には『太陽のない街』の絶版宣言を自ら行った。もっとも、『先遣隊』(1939年)などの世に順ずる作品を発表する一方で、『はたらく一家』(1938年、これは映画化された)、『八年制』(1939年)など、働く庶民の生活感情に根ざした作品をも発表した。特に戦時下発表された『光をかかぐる人々』(1943年)では日本の活版印刷の歴史をヒューマニズムの観点から淡々と描くことで、戦争と軍国主義を暗に批判した。

戦後も『妻よねむれ』(1946年)、『日本人サトウ』(1950年)など旺盛な創作活動を行った。また、新日本文学会のなかでも、労働者作家の実力向上のために力をつくし、小沢清たちを育てた。とくに、東芝争議を題材に諏訪地方の労働者と農民のたたかいを描いた「静かなる山々」は、外国にも翻訳紹介され、1950年代の日本文学の代表としてソ連では高く評価されていた。『人民文学』の創刊に助力し、誌上で宮本百合子攻撃をしたこともあったが、基本的には労働者の運動を支持する立場をつらぬいた。1958年2月15日、『新日本文学』に連載中の長編「一つの歴史」を完結させないまま、末期の胃癌のために世田谷の自宅で病没した。享年59。

妻に先立たれ、55歳の時に再婚をしている。なお評論家の津田孝は徳永直の女婿にあたる。

主な作品[編集]

小説[編集]
『馬』
『黎明期』
『飛行機小僧』
『最初の記憶』
『他人の中』
『ひとりだち』

著書[編集]
『太陽のない街』戦旗社(日本プロレタリア作家叢書) 1929 のち岩波文庫、新潮文庫、角川文庫、新日本文庫  
『失業都市東京 太陽のない街 第二部』中央公論社 1930 のち三一書房
『約束手形三千八百円也』新鋭文学叢書 改造社 1930
『能率委員会』日本プロレタリア傑作選集 日本評論社 1930 
『小資本家』塩川書房(プロレタリア前衛小説戯曲新選集) 1930
『赤い恋以上』内外社 1931
『何処へ行く?』改造社 1931
『戦列への道』改世社 1931 のち青木文庫 
『輜重隊よ前へ!』内外社 1931 のち筑波書林ふるさと文庫
『阿蘇山 徳永直自選集』新興書房 1932
『新しき出発 評論集』ナウカ社 1934
『逆流に立つ男 他三篇』リアリズム文学叢書 文学案内社 1935
『冬枯れ』ナウカ社(プロレタリア短篇小説集) 1935
『はたらく一家』三和書房 1938 のち新潮文庫 
『八年制』新潮社(昭和名作選集) 1939
『梅と桜』新選随筆感想叢書 金星堂 1939
『はたらく人々』生活文学選集 春陽堂 1939 のち改題して『ひとりだち』
『先遣隊』改造社 1939
『藪の中の家』新潮社 (土の文学叢書) 1939
『長男 短篇集』金星堂 1940
『東京の片隅』筑摩書房 1940
『土に萠える』昭和書房 1940
『結婚記』河出書房 1940
『作家と生活 評論随筆集』桃蹊書房 1941
『風』桜井書店 1941
『幼ない記憶』桃蹊書房 1942
『小説勉強』伊藤書店 1943
『光をかかぐる人々 日本の活字』河出書房 1943
『甚左どんの草とり 少年小説』国華堂日童社(少国民図書館) 1943(装幀・吉田貫三郎)
『小さい記録 創作集』美和書房 1946
『町子』桜井書店(少年のための純文学選) 1947
『がま』高島屋出版部 1947 のち改題して『追憶』
『夜あけの風』新興出版社 1947
『泣かなかった弱虫』十月書房 1947
『妻よねむれ』新日本文学会 1948 のち角川文庫、新日本文庫
『はたらく歴史』新興出版社 1948
『私の小説勉強 小説作法』飯塚書店(芸術技法全書)1949 のち改題して「文学ノート」
『人生について』ナウカ社(ナウカ講座) 1949 のち改題して『私の人生論』として青木文庫
『あぶら照り』新潮社 1950
『村に来た文工隊』目黒書店(自選作品集) 1951
『静かなる山々』蒼樹社 1952 のち角川小説新書、青木文庫
『私の人生論』青木文庫 1952
『ソヴエト紀行』角川新書 1957
『一つの歴史 徳永直遺稿集』新読書社出版部 1958
『日本プロレタリア文学集』24・25(徳永作品だけで2巻) 新日本出版社 1987
『徳永直文学選集』全2巻 熊本出版文化会館 2008‐09

共著編[編集]
『弁証法読本』渡辺順三共著 ナウカ社 1933
『働く者の文学読本』(編)真光社 1948
『第二弁証法読本 史的唯物論入門』渡辺順三共著 新興出版
社 1954
  1. 2019/10/10(木) 00:03:14|
  2. 未分類

M證券の相続ようやく完了

古本屋通信   No 4233    2019年  10月09日


    M證券の相続ようやく完了

 こういっちゃあ何だが、證券会社で訳のわからん外国の債権なんか買うべきじゃない。ひどい目にあった。

 妻の死亡した翌週から遺産相続の手続きを開始、100日後の10月15日にようやく金が入る。その間ひっきりなしに電話と書類のやり取りがあった。とにかく売らせまい売らせまいとする。詐欺みたいなもんだ。

 遺産相続人に口座を開設させるのが味噌だ。これだけに70日懸かっている。もうイヤになるよ。

 貯金は郵便局と銀行の普通預金にすべきだ。本人が志望しても、直後だとカードで降ろせるからだ。一週間もあれば毎日50万か100万ずつ降ろすことが可能だ。降ろしてしまってから口座を閉じればそれでよい。これ位だったら文句は言われない。但し、中国銀行だけは、その場で通帳を取り上げて穴をあけて無効にする。

 それから口座を閉じた直後に引き落としが出来ない可能性がある。でもいきなり電気や水道や電話を止めたりはしないだろう。予告がある。私は口座引き落としはやめて、その都度コンビニで払い込む方がよいと思う。

  あ~あ、疲れた。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 以下は別に隠す必要がないから公表するのだが、主要には自分用の備忘メモである。記録に残しておかないと妻の遺産など一年も経てば忘却の彼方だろう。


 妻の38年間働いた退職金が3500万というのは誤りで、実際は2800万前後だったことは既に報告した。

 言うまでもないが、金なんか一文も要らないから、生きていてほしかった。その前提で家族のために残してくれた妻に涙ながらありがとうを言う。



自分の入院費と葬式代   200万

O信用金庫(普通)   119万
M信託銀行(普通)   334万
T銀行(定期)   86万
U貯銀行(定額)   140万
M證券(各種銘柄 計6点)   460万
ここまでが遺産相続の対象であり、長男二男は各285万を継承する。ささやかである。

M生命(私受領分)   542万
R損保火災保険(満期 ただし継続)   480万

                 計       2361万

  このほか生前今年の 1月にかんぽ生命保険の満額100万ちょっとがあった。認知症が進行していたから私が関わった。でもそれは上記の140万に繰り入れられているだろう。それと長男と二男受領の生命保険があるらしいのだが、これは本人たちのプライバシーだから私は額さえも知らない。これらを加えると、妻は退職金をそっくり家族のために残していた。これは平均的な退職公務員の遺産だろう。どう見るかは各人の自由だ。地方公務員は比較的恵まれているだろう。とは云えささやかな老後の生活保障だと私は思う。でも死んじゃ仕方がない。
  1. 2019/10/09(水) 13:25:05|
  2. 未分類

不破哲三とエンゲルス

古本屋通信   No 4232    2019年  10月09日


    不破哲三とエンゲルス


6. 太宰ファン@物凄い本発見!
2019年10月09日 09:38
スレと関係ない話題で恐縮ですが、掛け値なしに物凄い本を発見しました。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4780716543/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o00_s00?ie=UTF8&psc=1
「「空想から科学へ」と資本主義の基本矛盾」川上則道著(本の泉社, 2017)

不破哲がエンゲルスの資本主義の根本矛盾の定式化(「空想から科学へ」)は間違っている、と2001年ごろから言い始めていて、さらに調子に乗ってエンゲルスの編集で歪められた資本論を正すと称し、最近、新版資本論を出したのはご存知の通り。しかし、その不破哲のエンゲルス批判が、不破哲の「誤読」による謬論であることを、丁寧に、丁寧に、誰にでもわかるように説いた本。

マジ凄い。興奮冷めやりません。内容詳細はまた改めて書きたい。これ読むと、もう不破哲が日本共産党どころか、日本の社会主義の学習運動自体を今まさに捻じ曲げようとしているってのがわかる(だって、労働学校等で「空想から科学へ」が使えなくなる、不破哲の本と併読でないと読めなくなる)。党員学者・川上氏の並々ならぬ(さりげなく書いているが)決意もうかがわれる。

管理人様、ぜひ、アフィリエイトでこの本を本サイトから注文できるようにされたらどうでしょう。なお、この本を見つけたきっかけは、古本屋通信さんのブログで、和歌山県議の雑賀光夫さんが、不破哲の基本矛盾への批判に対しての疑念を表明されている記事を読んで、なにか胸騒ぎがし、アマゾンで探しまくって見つけました。今年一番の収穫。古本屋さんにも感謝。


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  再録


古本屋通信   No 4215    
2019年  10月02日


    雑賀光夫さんの不破批判

 たった今、私の一年半前の記事に拍手が付いているのを発見した。誰が拍手をしてくれたのか分からないが、もしかしたら雑賀光夫さん本人かもしれないという気がする。それは新資本論(翻訳)刊行のこの時機、もう一度オレの文章を読んでくれ、という督促だと受け取れないでもない。何はともあれ過去文を再録しておこう。

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  再録

   
古本屋通信   No 3061    2018年  01月22日


    日本共産党内の不破哲三批判

 私が共産党系の雑誌に目を通すことがないからか、最近30年も不破哲三に対する理論的批判など見たことがない。たぶんアホらしいからやらないのだろう。久しぶりに党和歌山県議の雑賀光夫さんの頁を開いたら以下が飛び込んできた。すこし古いが資料としてママに転載する。マア論争などする活力は残っていないだろうが。


  論争よ、おこれ・不破哲三氏の業績をめぐって

          (一)

 不破哲三氏の「古典講座」というものが、日本共産党中央主催でおこなわれ、インターネットを通じて広く受講されている。私も、一応は「受講者」となって、インターネットを通じて、あるいはCDで、覗いてみる。

 あまりきっちりと受講するわけでなく、不破さんの「通説」を超えた解説について、「古典への招待」(全三巻)でもう一度、読み直してみることにしている。限られた時間での「講義」よりも、「古典への招待」の解説のほうが、正確に読み取れると考えるからである。

 不破さんの年齢の限界もあるから、「古典への招待」から3年間の間に不破さんのマルクス・エンゲルス理解の発展は、もうないだろうとタカをくくっているが、もしもあるなら、真面目に受講した方が教えてほしい。

              (二)

 不破さんは、「資本論」について深く研究され、資本論第二巻、第三巻を編集したエンゲルスよりも深くマルクスにそって、マルクスの研究を再現していると思う。

 また、レーニンの著作と活動をあとづけ、その偉大な業績とともにその限界を明らかにした。その真骨頂は、不磨の大典と思われていた「国家と革命」が、マルクスの国家論から外れていたことを明らかにしたことである。党綱領から「プロレタリア独裁」ということばをはずした30年数前からの研究が実ったものであろう。


*「プロレタリア・ディクタツーラ」については、私は20歳代に、私なりの理解で論文を書いたことがある。レーニンのプロレタリアディクタツーラというのは、革命の極限状況で、「革命的合目的性が形式民主主義に優先する」という思想であることを論じた。


 「ゴーター綱領批判」の新しい読み方が、新綱領の大事な点になっているが、私にはいまだによくわからず、寝床に「綱領の理論上の突破点」という不破さんの本を持ち込んで読んでいる。

               (三)

 不破さんは、最近の講義で、「空想から科学へ」をとりあげ、エンゲルスの「資本主義的生産様式の矛盾」の問題点にふれた。「赤旗」の紹介では、エンゲルスを乗り越えた不破さんはすばらしいという賞賛が紹介されていたように思う。

 「古典への招待」では、「補論」として、7ページほどでふれている。これまで「通説」としてきたものが、7ページのコメントで覆るということがあっいいのだろうかという違和感を僕は持つ。

 どっかにエンゲルスの定式を論じた論文があったと思って、本箱を探した。「現代世界とマルクス理論の再生」(中村清冶・大月書店・1992年第1刷)である。ソ連崩壊の直後の思想的苦闘の時代の著作である。

 「第1章 宇野経済学がとらえた『ソ連型社会主義』破綻の構図」に「3 エンゲルス定式の意味内容」という節がある。

 そこでは、

エンゲルスの規定「生産の社会化と資本主義的取得との間の矛盾」

レーニンの規定 「生産の社会化と領有の私的性格の矛盾」

スターリンの規定「生産の社会的性格と生産手段の私的所有との矛盾」

と紹介されている。

宇野経済学では「資本主義の基本矛盾」を「労働力の商品化の無理」とされるそうだが、宇野学派の柴垣教授が、ソ連崩壊の根拠を「生産の社会的性格と領有(所有)の私的(資本主義的)性格」にもとめていることなどについて、中村清冶氏は、エンゲルスの規定から離れたものを批判している。

僕は、エンゲルスの規定、レーニンの規定、スターリンの規定のちがいなど考えたこともなかった。僕は「生産の社会化と取得の私的・資本主義的形態」として、この問題を解説していたような気がする。これは、3つの規定のなかの、どれに当てはまるのだろうか?

私のいい加減さは、いつも告白していることだから、別に罪悪感もないが、中村清冶氏が、ソ連崩壊の時期の混迷のなかで、エンゲルスを擁護して奮闘していたという事実だけを記憶にとどめておこう。私の知らないところで、エンゲルスの規定をめぐるさまざまな論争があったにちがいない。

 こうした問題が、不破さんの「古典への招待」の7ページのコメントで決着がつくとしたら、これまでの学術論争は、一体なんだったのか。

             (四)

 不破さんの労作で気になるのは、先行研究が全く紹介されないことである。「私は前から気になっていた。今回研究してみて、こんな結論になった」という言い方をする。論争は、不破さんの頭の中でおこなわれている。

 マルクスの「資本論」であれば「資本主義社会の冨は、膨大な商品の…」という書き出しから(注)があり、自著の「経済学批判」が初出であったことを指摘する。学問世界では、これが誠実な態度だとされる。

 私は、綱領改定のときの「新しい帝国主義論」が、1960年経済評論1月号の上田耕一郎論文「日本帝国主義の評価について」の発展であると論じたことがある。当時の「経済」編集長とメールのやりとりをした。編集長は、私の感想を上田耕一郎さんにとどけてくださった。「上田さんは、こんなことを勉強している人がいるんだね」と驚いておられたということだった。私が送った「読者欄への投稿」は、編集長氏のアドバイスを得て多少修正したものを載せることになっていたのだが、編集部内で「情勢も違うから誤解を生む」という議論があるということだったので、「これまでのメールのやりとりはなかったことにしましょう」「ありがとうございます」というやりとりでけりにした。その代わり「選挙で忙しいときだから、落ち着いたとき上田さんの感想をお届けします」という編集長氏は約束された。その約束が果たされないまま、上田さんはなくなられた。約束違反だから、私は、「経済」読者欄に投稿する予定の文を、「和歌山学習新聞」に投稿しておいた。

 そのことで私の恨みをひきずるつもりはないが、不破さんの研究についての学会の討論・論争が全くないことについては、大変気になる。

 かつての「田口・不破論争」のあと、中野徹三氏の不破批判論文以後、マルクス主義に近いところでの不破さんの研究についての論争を私は目にしていない。「田口・不破論争」が、研究者に論争を躊躇させることになっていないのならいいがなと思う。そんな思いから不破氏の輝かしい研究に瞠目しつつも、ある種の危うさを感じないではいられないのである。 2011年10月12日 記
  1. 2019/10/09(水) 10:02:58|
  2. 未分類

警告!篠原常一郎と手を切れ

古本屋通信   No 4231    2019年  10月08日


  警告! いい加減にしないとサイトそのものがぶっ潰れるぞ。文在寅大統領が朝鮮労働党員であることは万に一つも有り得ない

2019年10月08日22:38   キンピーサイト
篠原常一郎チュチェ思想研究、とうとうここまで来た!
ということで、 眠れる保守派を起こした篠原氏の活躍も相応の影響力があったのだろう。
これをきっかけに韓国が「正常化」するといいのだが・・・。


 いますぐペテン師のデマ商売人・篠原常一郎と手を切れ。たった以下だけのことでしょうが。

1. 秦野真弓
文在寅大統領は、すばら志位!
2019年10月09日 00:16
韓国の釜山に、今いますが、デモなんて起こってないし、交通機関も正常に動く姿、まさに韓国の方々と屋台で飲んでいる限りでは平穏無事です


韓国法相の疑惑で世論二分、文大統領「対立望ましくない」  TBS系ニュース
韓国のチョ・グク法相の疑惑をめぐって韓国世論が二分するなか、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「対立の谷に陥るのは望ましくない」と述べ、懸念を示しました。
「政治的意見の差が活発な討論の次元を超えて、深い対立の谷に陥ったり、全ての政治がそれに埋没するのは決して望ましくない」(韓国 文在寅大統領)
文在寅大統領は7日午後、チョ・グク法相の疑惑をめぐって二分する世論を念頭に、このように述べ、与党と野党が加わる形での対立激化へ懸念を表明しました。
韓国では先週、チョ法相の辞任を求める市民とチョ法相が推進する検察改革を支持する市民が、それぞれ数十万人規模の集会を開いていて、それぞれの集会に対する支持も拮抗しています。文大統領としては、事態の鎮静化を図りたいものとみられますが、一方で、国会に対し検察改革関連法案の早急な処理を要請するなど、検察改革を推進する考えを改めて示しています。
  1. 2019/10/08(火) 23:06:56|
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御津中ー金高時代の旧友来訪

古本屋通信   No 4230    2019年  10月08日


     御津中学ー金川高校時代の旧友S君来訪

 午前中にS君から電話があった。用件は来月の金川高校の同窓会の件だったが、私は妻の遺作展のことを言い、午後取りに来てくれるように頼んだ。妻はS君には西大寺の寺田医院で一度顔を合せただけである。私の友人としては初めて来て貰った。4点を選んでくださり、約2時間歓談した。

 主に中高の旧友の情報を聞いた。忘れないうちに衝撃度がつよい情報をメモしておく。

 未確認情報だが、御津中時代の美術の恩師・宗次秀男先生が一昨日亡くなられた。90歳であったろう。数年前に我々の同級生の白髭三郎君と宗田(西田)玲子さんと三人展をされた。先生は県下の水彩画の一人者だった。ご冥福を祈る。

 いきなり跳ぶが、我々の中学時代に成績がトップだったA君が広大福山高校(国立だから岡山県立と受験日が別)を受験してスベッていたといふ。初めて聞いた。ショックだった。因みに私は倉敷青陵高校(学区外5パー枠)をスベッていた。

 旧友は5,6人死んでいる。名前は挙げないが、そういう年齢になっている。妻の死をおもった。脳梗塞その他は数倍いる。明日はわが身か。

 高校時代に3年間担任だった高畑先生が(先月S君が先生にあったとき)石川にあいたいとおっしゃっていたという。この話にはかなり心を揺さぶられた。S君は月末にもう一度電話をするから考えておいてくれという。おそらく最後の機会になるだろう。稲田先生も栢野先生も亡くなられている。

 懐かしい何人かの女の旧友が離婚している。さまざまな人生だが、あいたい人がいないでもない。

 同窓会を頭から拒む人は確実にいる。私もその一人なのだが。こういう人にこそあってみたい。

 S君が野菜を食べろとさかんに言う。これは盲点だった。さっそくニシナで買おう。でもトマトは食べてる。果物でもよいのではないか。青いものは嫌いだ。


師弟三人展 展示 水彩画 宗次秀男  油彩画 白髭三郎  水墨画 宗田玲子(旧姓:西田)
  1. 2019/10/08(火) 16:56:44|
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『部落問題』 から 『人権 21』

古本屋通信   No 4229    2019年  10月08日


  岡山県部落解放連合会の非連続の連続としての人権おかやま。そして 『部落問題 調査と研究 から 『人権 21 調査と研究


  私は 「No 4210 人権21 調査と研究 おかやま人権研究センター発行」 を自信を持って書いたが、こういう問題について書くとき、つい身構えてしまう。書いたあとも後味がよくない。この雑誌に論考を寄せた人の何人かは確実に私の古本屋通信文を読んでいる。当然ながら反応はない。タブーというより、論じだしたら際限もなく泥沼に入ってしまうからだろう。

 で余り片意地張った文ではなく、思いつくままに書くことにする。すでに何回か書いていることと重複するかも知れない。

 『部落問題 調査と研究』が刊行されたのは1961年だというから、とうぜん部落解放同盟の分裂以前だった。解放運動は1965年ごろから複雑な経過を辿って各府県ごとに分裂する。これは運動組織である。しかし運動組織と密接な関係のあった研究組織も複雑な経過を辿る。ここらはキリがないから省略するが、地域の部落問題研究組織が持続したのが、兵庫と岡山であった。京都と大阪は複雑だから省略する。岡山の『部落問題 調査と研究』はハッキリ言って県解連の理論的バックボーンであった。組織そのものが別仕立てでも、実質はその理論誌であった。私はこれに異議はない。解同の側も岡山部落解放研究所を創設して、津山の運動に関する研究などを発表している。

 部落解放運動は劣悪な部落の環境改善のため行政に環境改善を要求する運動だった。それは運動組織への資金援助をも含んだ。部落解放会館だとか民主会館の建設は運動の成果だった。その運動団体が研究組織を並立し各種出版物を刊行する、それは商業出版物ではない。だから行政から獲得した金を使うのは当然である。それも部落解放運動の一環だからである。

  だがここまでである。21世紀に入って部落差別は基本的に解消した、それが正しい認識である。だから全国部落解放連合会は解散し県解連も解散した。解散した翌日から全組織を解体せよと言っても、それは現実的ではなかろう。だが組織の温存はよくない。残務整理のための組織にとどめるべきである。

 私は部落解放のための組織が人権一般のための組織に衣替えするのに絶対反対である。世間に色々と存在する差別は、部落差別のような身分差別でなない。わかりきったことである。そういう各分野の運動はすでにある。ことさら人権組織など無用である。組織の温存の目的は見え見えである。すでに存在しない同和、その予算の延長要求である。

 これに対して尤もらしい理屈はいくらでもつけられる。だが行政が正直に語っている。人権おかやまも新婦人も毎年、対市交渉をする。その両方に参加した人によると、人権おかやまの交渉では役所は局長クラスが対応てしピリピリしているが、新婦人だと小ばかにして居眠りをしているそうだ。つまり人権おかやまを解連の延長と見て恐れている、間違いない。

 こういう状況のもとで 『人権 21 調査と研究』 は刊行されている。刊行を直ちに打ち切るべきである。

 まあ今回、少し丁寧に読んでみたわナ。殆どの論考が優れている。だがここまでに仕上げたのは菅木智子事務局長 兼 編集人の力量だろう。これが小出隆司さんだったら可能だったか。絶対にありえなかった。菅木さん、読んでいるかい? 新婦人にSさんが妻の遺作展の案内を持っていったろ。よろしくね。

  『人権 21 調査と研究』 は、ハードとしての県民主会館とならんで、岡山の民主勢力の理論的ソフトとして君臨している。わがほうが血と汗を流して獲得してきた党の陣地だ、そうたやすく手離せるものか、それが一致した認識であろう。だが考えてほしい。こういう認識は党内だけなのだ。

 いまでも民主会館は党の建物だと見られている。わが家にこられる客人は平気で民主会館に車を置かれるが、それだけでもわが家は党員一家だと見られる。別に迷惑しないが公民館もあるからね。

 もういい加減に差別を再生産することは止めようよ。 『人権 21 調査と研究』 の原価計算はしたが、またの機会に公表します。まぼろしの高級雑誌ですよ。部落解放運動の遺産。今は過去の遺産で食いつなぐ時代ではありません。

 それから人権おかやまだけどね、望月いそこ講演会の総括はちゃんとしてね。天下の笑いものでしたよ。
  1. 2019/10/08(火) 04:47:21|
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原野翹あきら先生のこと

古本屋通信   No 4228    2019年  10月07日


     原野翹あきら先生のこと

 せんじつ岩間一雄というペテン教授を論難した記事の中で私はこう書いている。

・・・・・・・・・ こういう組織のトップにペテン師を戴いたらオワリである。全活動がペテンになるからだ。以前の原野あきら法学部教授は立派だった。岩間って何なのよ。・・・・


 私はちょっとだけだが原野あきら先生を知っているのである。それで自分のブログ内検索に懸けたら下の記事がヒットした。要するに原野先生の本が売りに出されていて私がまとめ買いしたという記事である。死亡に伴なう蔵書整理である。典型的な党員教授であった。本はあとで見ていただくとして、先生の思い出を書いておきたい。

 私は1968年4月に岡山大学法文学部哲学科に学士入学した。入学式があるわけでもなく、授業が始まる数日まえ、たぶん4月5日ごろ、哲学倫理の学生の溜りにいて、顔見世をしていた。宜しくという挨拶である。そこに哲学の学生でもなさそうな少し年長の人相のよくない男が入ってきた。法学部の助手だと名乗った。どうも目的は私らしかった。原野と名乗っていなかったと思う。私が哲学科に学士入学したこと、香川を卒業してやって来たことはご存知だった。

 有名な原野先生だという意識はなかったので、私が近藤洋逸先生を頼ってきたこと。哲学への関心は戦前の唯物論研究会に触発されたものであること、まあマルクスですな、と大見得をきって一時間ほど喋った。原野先生はもっぱら聞き役に徹して、最後に「恵まれた勉学環境で良いですなあ。まあ頑張ってください」と言われた。それだけのことである。そのご一回も学内で顔を見ることもなかったと思う。

 法文学部の文科と法経は学生自治会も別だった。文科は民学同、法経は民青の拠点だった。これは常識なのだが、それぞれの拠点には必ずバックに教官がいた。文科は好並助教授であり、法経は若き原野助手と佐々木助手と言われていた。私でもそれくらいの情報は事前に入手して岡大に行った。

 で原野先生がなぜ哲学倫理の学生の溜りに現れたかだが、これは同じ哲学の党員のMが呼び寄せたことが後でわかった。香川から一人党員がくるから見にこられえ、と。

 私は学生運動をするために岡大に来たのではなく、むしろ逃げてきたのだが、入る前から情報は入っていた。岡大の中核派の総帥にMという男がいたが、私の学士入学と入れ替わりにすでに卒業していた。その妹が香川の私の一級上の民青だったのである。女子寮の寮長をやった活動家だった。妹が兄に伝えたのだ。岡大の民青は中核派から聞いたそうだ。Mはそう言っていた。面白く言ったのか、それとも中核派的には有り得る話だからか知らないが、中核派は「岡大の民青がテンデ弱いから、拠点の香川から一人指導に入るそうだ」 と言っていたという。だから岡大の民青は私の学士入学を事前に知っていた。ゆえに私は転籍のまえに中原と武田に挨拶に行ったのだ。中核派にそのように言われて中原や武田が面白いはずがなかったから。でも当時の民青でそういう組織の横断はありえなかった。かりに中核派の言うような事実があったとしても、それは田村正人さんのような中央委員クラスの同盟員だったろう。

 その原野先生は最後まで党員を貫いたが、佐々木先生は北海道に渡り、党に反旗を翻した。札幌の例のグループだっただろう。

 原野先生は定年退職をまたず病死された。先生の奥さんは中学校の英語の先生だったが、体調をくずされ入退院を繰り返しておられる。真佐代は自分の最晩年までお付き合いはあった。ただし御病気だから死は誰もお知らせしていないだろう。私もそうである

原野翹
はらの あきら
1941 - 2005
岡山大名誉教授 行政法 徳島県
亡くなってから14年53日過ぎました。
64歳で亡くなりました。もし現在も生きていたら78歳です。
1941年に誕生、2005年08月16日に亡くなりました。
生誕78年が経過しました。没後14年が経過しました。



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  古本屋通信   No 58  11月22日

  シンフォニー古本まつり

 昨日はシンフォニー古本まつりの初日だった。今回は目録があったが、事前にほしい本はなかった。しかし会場で予期せぬ本があったので、それを買った。全点一口物で、出品者は S 堂書店さん、単価はオール百円均一。 以下、買った本をあげる。

☆民主的行政改革の理論 渡辺佐平編 大月書店 1978
☆現代の課題と日本共産党 下 宮本顕治 党出版部 1966
☆地域自治の政治経済論 遠藤晃他編 自治体研究社 1977
☆民主集中制論 榊利夫 新日本出版社 1980
☆21世紀と社会主義 聴濤弘 新日本出版社 1984
☆治安と人権 杉村敏正 中山研一 原野あきら 岩波書店 1984
☆もろき平和 上野博久 新星書房 1984
☆意識論 寺沢恒信 大月書店 1984
☆戦後日本の技術革新  中村静治 大月書店 1979
☆日本経済と危機管理論 二宮厚美 新日本出版社 1982
☆環境科学への扉 日本環境学会編 有斐閣 1984
☆理論戦線の到達点と課題 不破哲三・上田耕一郎 党出版局 1976
☆80年代の大衆運動 市川正一 新日本出版社 1981
☆世界平和と「勢力均衡」論 巣山靖司 新日本出版社 1985 
☆日本の貧困 柴野徹男・菅沼副夫 新日本出版社 1983
☆社会科学学習辞典 労働者教育協会編 学習の友社 1966
☆共産主義運動の基本問題 宮本顕治 新日本出版社 1988
☆マルクス主義と環境問題 ギ・ビラオ 青木書店 1976
☆管理社会と民衆理性 日常意識の政治社会学 栗原彬 新曜社 1982
☆現代民主主義の理論 榊利夫 新日本出版社 1975
☆経営での党活動と党建設 不破哲三 新日本出版社 1986
☆マルクス主義研究年報 No2 1978年版 芝田進午責任編集 合同出版
☆マルクス主義研究年報 No3 1979年版 芝田進午責任編集 合同出版
☆唯物論研究年報 1988年版 唯物論研究協会 白石書店
☆経済思想史読本 水田洋・玉野井芳郎編 東洋経済 1978
☆前衛 1969年3月号 日本共産党中央委員会理論政治誌
    東大闘争の到達点と今後の課題 ・・・・大野源一
    大学問題における各党の政策 ・・・・・小林栄三
    大学闘争におけるトロツキストの「理論」と行動 ・・宇野三郎
    哲学シンポジウム2 史的唯物論と現代の思想的課題
     古在由重  吉沢 達   森 宏一
     高田 求  中原雄一郎  司会・河野公平

☆自治体政策づくり読本 大原光憲・横山桂次編 総合労働研究所 1981
☆法と経済の一般理論 藤田勇 日本評論社 1976
☆婦人問題と日本共産党 党中央委員会出版局 1979
☆社会主義的所有の基本問題 シュクレドフ 御茶の水書房 1973
☆反共風土と社会進歩 党中央委員会出版局 1983
☆デモクラシーの二つの伝統 セイバイン 未来社 1977
☆南ベトナム小説集 炎のなかで ベトナム外交出版社 東邦出版 1967    
☆サイゴン解放作戦秘録 バン・ティエン・ズン 新日本出版社 1967
☆知りたい知らせたい女たちの戦後史 柴田悦子 創元社 1989
☆オルグ学入門 村田宏雄 勁草書房 1982
☆社会主義協会向坂派批判 日本共産党中央委員会出版局 1975
☆人間裁判 生と死をかけた抗議 朝日茂の手記 草土文化 1965
☆婦人論の学習 マルクスレーニン主義学習双書 村上益子 1972
☆現代技術論 有斐閣選書 中村静治編 有斐閣 1978
☆日中両党会談始末記 小島優編 新日本出版社 1980
☆日本共産党の45年 日本共産党中央委員会出版局 1967
☆日本共産党初級教科書(案) 教育部編 出版部発行 1968
☆投降主義者の観念論史観 中央委員会出版局 1986
   志位和夫氏の2論文は本書のなかに収められている。
  *変節者のあわれな末路   *退廃と遊戯の「哲学」

☆革新統一戦線の探究 日本共産党中央委員会出版局 1978
☆自由に生きる権利 小林孝輔 法律文化社 1972
☆高齢化社会と社会保障 角田豊他編 法律文化社 1978
☆東の風と西の風 毛沢東 新日本出版社 1958

 以上48冊、数冊を除いて珍しい本ではない。このうち半分以上は在庫がある。はじめ、在庫のない本だけを抜こうかと思った。然し頁をめくるうちにタダナラヌ空気を感じた。一瞥して同じ旧蔵者からでていることはすぐ分ったので、旧蔵者の正体を知ろうと本を探った。次々と本を手にとり頁をめくった。なんと、なんと、本に何の痕跡もないのだ。48冊中だだの一冊にも書き込み、傍線、蔵印、メモ用紙、なんにもないのだ。完膚なきまでに打ちのめされた。 S 堂さんに訊くなど、恥じさらしができるわけがない。それで、ほぼ全点を持ち帰った次第である。いやはや凄い天才がいるもんだ。読んでいないことは絶対にない。天才なんだろう。こういう出会いがあるから、古本屋はやめられないのだ。
 ひと晩、まっさらの古本と格闘して、なんとか旧蔵者の目星をつけた。今回の場合、私に守秘義務がないこと、旧蔵者が故人であるらしいことから、ここに書いてもいいと思う。旧蔵者は上記の本の著者のひとりと看た。しかし、違うかもしれないので、実名を書くのはとりあえず止めておこう。
  1. 2019/10/07(月) 19:45:54|
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1970年代、教員支部会議のこと

古本屋通信   No 4227    2019年  10月07日


   1970年代、党教員支部(細胞)会議のことなど

 きのう妻の永年党員証のことを書いたあと、54年間という長期の党生活は妻にとっても余り意味が無かったといふような事を書いた。だが読み返してみて消した。それを書くことのほうがさらに意味がないと思えたからだ。要するに永年党員証は学校の卒業証書みたいな一枚の紙きれに過ぎないと思えた。ただ1965年11月の入党といふのは9大会三中総の拡大運動での入党だったと思った。以下では趣向を変えて、(私はすでに脱落していたが)1970年代中葉に私たちのマンションで行われていた妻の党教員支部会議のことを書いてみたい。

 こういう半世紀まえの想い出ばなしは一般の物書きの書物にはいくらでも登場するが、素人のブログでは珍しいだろう。登場人物にいくらかの配慮をしたうえで自由に書いて構わない。アホなカルト党員がいるから、ねんのため。但し、書かれた本人限定だが、クレームが着けば、私はその部分は無条件に削除する。アッハッハ、物書きである坪井あき子さんがクレームを付ける可能性はパーフェクトにゼロである。カルト党員は坪井さんを見習えよ。

 たしか1975年だった。妻が犬島小学校から岡山市中心部の伊島小学校に転勤になった時、思い切っていわいサンコーポというマンションを購入した。すでに長男は生まれていたが、とても便利な住家だったので会議の場所に最適だった。私は部外者だったが、いちおうシンパだったから警戒もされず話にも入れて貰った。

 すっかり忘れていたが、このときの党支部長が坪井あき子さんではなかったかと思う。坪井さんも妻と同じ伊島小学校の勤務だった。ただし津島学院と呼ばれる親のいない子供ばかり集めた特殊学級だったろう。

 党支部は7,8名の支部だったと思う。多少入れ替わりがある合同支部だった。メンバーの多くは記憶から消えているが、記憶に残っている党員もいる。香川大学から岡山の教員になった我々夫婦の友人であるS君。それから同じく橋本君。橋本君は妻と同じ伊島小学校勤務だったが、まもなく病気で急逝してしまった。だから実名にした。香川大は健在だったのだ。それから武田英夫君の細君の道子さんは、教員ではなく県教組書記だったが同じ党支部に所属していた。それから則武真一さんの娘さんが同じ支部だった。彼女は幼稚園の教諭だったが、その支部が無かったので一時的に小学校支部に属していた。でもやがて転籍したと思う。それから萩原地区委員長の細君の清子さんも同じ支部だった。坪井あき子さんのあと津島学院の教員だった。

 あっ、もう一人思い出した。Aさんという愛媛大学を出た、私たちより一つ年長の党員だ。かれは清心女子大の附属小学校の教諭だった。私が古本屋になってからも清心の教授からAさんの武勇伝は聞いた。かなり強引な活動をしていたという。ところが公立学校の教員試験に合格すると同時に党から離れたらしい。それも離党ではなく自然消滅した。と同時に妻などとも、顔を合せても目を反らせるようになったという。私もよく知っている元愛媛大民青の方である。結局彼は夫婦とも教頭校長の道を歩んだという。私の中では管理職になったらオワリだという想いは強い。これは民間でも同じである。

 私はこの会議でたしか数回、絶世の美人に出会うのである。どうも同じ支部員だとも思えない、数回だけ臨時で参加したのだと思うが、それが田中のぞみ現岡山市議のお母さんだった。お腹が大きかったかどうか記憶にないが、学生結婚同様だったそうだから、すでにのぞみちゃんは生まれていたのかも知れない。絶世の美人であったことは最初にのぞみちゃんに会ったとき伝えた。あんたも別嬪じゃけど、お母さんには敗けとるなあ、と。それを先日も伝えたら、もう70歳ですからと言われた。

 それから当時の支部に指導に入っていたという記憶はないのだが、支部会議のイメージとダブって記憶にある美女がもう一人いた。それが石井妃都美さんである。別嬪ではあるが、学生あがりの嘴が青い娘さんだというイメージはあった。党地区専従になったばかりの後の党幹部会委員である。直接話した記憶はない。

 会議そのものには私は参加できなかったが、狭いマンションだから会話は筒抜けであり、警戒されることもなかった。キャップは坪井さんではなくS君だったかも知れない。それと則武さんの娘さんも大柄な美人だったが、みなさん父のために宜しくお願いします、という言い方が顰蹙をかっていた。坪井さんは親が甘やかして育てたから娘がなっていないと言っていた。あき子さんの亭主の宗康氏と則武氏は山陽新聞の元同僚であった。

 妻は会議の場所を提供するだけの末端の党員だったが、党生活は楽しかったように見えた。もっとも二人目を妊娠していて殆んど党活動はやっていなかったと思う。

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  この阿呆、一行で済むところを小理屈を並べて、自分をいっぱしの理論家だとでも思っている。無意味な多弁が恥かしい。


3. KF
2019年10月07日 02:40
日本共産党が、党中央の主体的判断として、政党助成金を受け取ることは、あり得ないと思います。

革命政党を自認する共産党にとって、革命以前の政府とは、支配階級(資本家階級=大企業・財界)の奉仕者であり、打倒の対象です。打倒の対象である政府から助成金を受け取るということは、政府に屈服するということであり、革命政党としての立場を放棄することです。すなわち、党のアイデンティティを自ら捨てるということであり、党中央としては、絶対避けなければならない。
アホ低脳。ならば議員歳費はなぜ政府への屈伏でないのか。それはブルジョア議会であっても一定の民意の反映はあるし、民意の反映が党の議席だから、有権者の税で賄われる議員歳費は当選ながら受け取る。この理屈と政党助成金受領の是非はまったく別である。党は議会内存在ではない。ブルジョア議会があろうがなかろうが、政治結社は大昔から存在する。もちろん憲法以前である。ならばブルジョア法によって助成される謂われはまったく無い。分かるか? 分からんだろうな。阿呆だから。

だから、党の内外から、党の財政を憂慮して「助成金を受け取ってもいいのでは?」という声が上がっても、それを否定するために、あらゆる理屈を繰り出して来ました。理屈なんか一切言っていない。

典型的なのは、政党助成金は憲法違反だという理屈( https://www.jcp.or.jp/faq_box/2002/0224-faq.html )。憲法以前だが憲法違反でもある。政治結社の自由の規定に違反している。

 以下、付き合い切れない。

もう一つは、助成金を受け取った党は、「政治とカネ」の感覚が麻痺して、堕落・腐敗した、税金頼みの「国営政党」になり下がるという理屈( https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-27/2014122703_01_1.html )。

こう言ってしまった以上、もし党中央が助成金を受け取ることを決断すれば、それはすなわち、「我が党は、今後は、憲法違反で、政治とカネの感覚が麻痺し、堕落・腐敗した、税金頼みの国営政党になる」と、党中央自ら宣言したことになります。

いくら党員たちが過去の党の主張(憲法9条反対党の憲法草案くらい読めや、阿呆、中国の核実験擁護など擁護などしたことは皆無である。帝国主義の圧倒的核兵器に対抗する中国の核実験を同列におくことが帝国主義の核兵器を結果的に利するという事実を指摘したまでだ。をきれいに忘れ去る実績を持っていても、これをも同じように忘れてくれる保証はありません。党中央に対する不信感が一気に高まる可能性があると、党中央は認識しているでしょう。

共産党が政党助成金を受け取るのは、党の支持者である「市民」たちから、「助成金を受け取って欲しい」という声が、「圧力」と言っていいほどに高まる場合バーカ、あるわきゃニャーイワ。しかあり得ないのではないかと思います。
  1. 2019/10/07(月) 02:37:10|
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永年党員証

古本屋通信   No 4226    2019年  10月06日


    永年党員証

 このころはまだ2004年の綱領改悪まえだったので、赤字のようなマトモな文言があったのだな。納得。


  永年党員証  石川真佐代同志 一九六五年十一月入党

 日本共産党は創立以来一貫して日本の労働者階級と人民を搾取と抑圧から解放するため不屈にたたかってきました
 貴同志が党歴三十年をこえ長期にわたって この党の党員として 活動したことを記念し 本証書と記章を贈ります。
 
  一九九五年七月十五日   日本共産党中央委員会



 応接間の本箱の上に、数個の紙筒に入った表彰状があった。その一つが上の文面の永年党員証であった。香川大学二年時の入党であった。私とほぼ同時の入党だったろう。当時の学生の入党は民青同盟で一年間試された者という暗黙の条件があったので、二年時の入党であったのだ。

 妻は生前、日本共産党員であることを公表していなかった。また公表することを考えてもいなかった。だが積極的に隠そうともしなかった。例えば妻の絵を今回お持ち帰りになった方のほぼ全員は、妻が日本共産党員しかも永年党員であることは知っておられただろう。私の古本屋通信を読む方も、妻の党員を当然の前提にしてお読みになっていたと思われる。

 妻は自分から積極的に公表することは考えていなかったが、死後に私が公表することを拒んでいなかった。これは確信である。まあ自分が夫より先に死ぬとは夢にも思っていなかったのだが。


 よってここに公表する。公表の根拠は、私の記憶や妻の語りではなく、物的証拠としての永年党員証が厳然と存在するということである。ここにあるのは党歴三十年の永年党員証だが、さらに二十年後に党歴五十年の証書を貰っている。これが2015年7月15日である。妻は今年7月に死亡したから、党歴は五十四年だったということになる。


 以下は公表に当っての私の感想である。正式に所感を述べるというような「見解」ではない。思いつきの「雑感」である。

 妻が私とちがって、この党に長期にわたって留まっておれたのは、私に言わせれば日本革命に対する理論的無関心の結果であった。別に非難に価しない。妻は多くの共産党員と同じように、この党に属する仲間への限りない信頼があった。ゆえに党員であり続けることができた。また同志たちも妻の誠実さを信頼して付き合ってくださった。今回の絵をお持ち帰りのかなりの方は妻の同志であると私は認識している。そういう信頼関係に恵まれた妻が私は羨ましいとさえ思う。

 この党に対する私の批判は多い。だがこの党のすべてを完全否定する地点からは日本革命の展望は拓けてこない。これまで論じ尽くしてきたとおりである。

 私が党によって転籍を不当に握りつぶされたのは1970年だったが、たとえこの時の除籍がなくても、2年後に私は確実に離党していた。新日和見主義事件の時である。

 この1972年から妻の死亡する2019年迄の47年間、私たち二人は党員と非党員の関係にあったが、この問題で対立や桎梏(または確執)は一度も無かった。我々の間には党の問題を遥かに超えた信頼があった。だが断っておきたい。これは性愛だとか夫婦愛では断じて無い。夫婦間には子育てや私の無職などを含めて多くの問題で対立や確執があった。だが党の問題と政治の諸問題については無かった。

 いきなり至近の問題に移るが、こういう問題がまったく理解できないのが例のカルト党員である。我々の夫婦仲が円満なのが不思議で堪らないのだ。なんで真佐代さんは反共の古本屋通信を許すのだろうと思って怒っておられる。言うまでもないが県委員会は完全に理解されている。理解できなければ一日たりとも党幹部はつとまらない。これは人間の問題ではあるが、極めて高度な階級闘争の問題である。

 妻の(政治的無関心に基づく楽観主義的)期待とは違って、この党はいま絶滅の危機にある。党員の老齢という自然死である。妻の死によって日本共産党員は確実に一人減少した。今の党方針では党の再建は絶対に不可能である。古本屋通信の批判こそが党再建の道である。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 以下、余談。

 世間には夫婦党員を遥かに超える、夫婦いずれか党員が存在する。しかし党員と非党員の組み合わせ生活をブログで公表している例は少ないだろう。ここに古本屋通信の人気の秘密がある。ノゾキ見趣味である。私はそれを十分意識して記事を書いている。ただしノゾキを満喫してもらうためではない。党の民主主義のためだ。それは日本の民主主義のためでもある。分かるかなあ。


 もう一つ余談。

 先日拙宅にこられたY・Mご夫妻。この方は明らかに党員ではないから、妻が50年党員であることを申し上げた。まったく当然のことと受けとられた。そして党に反対のブント崩れであっても、個々の党員には敵対しない。細君のMさんは九条の会である。妻の死は党員の知人から聞いておられた。このご夫婦に対する妻の姿勢と、私の新左翼に対する姿勢が共通しているということだ。我々は最早1970年のゲバに時代に生きていない。


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 別項目を立てないで、この場所で、現代志位政治がいかにデタラメで拙劣かを、かれ自身に語らせよう。



垣内京美さんがリツイート
志位和夫‏認証済みアカウント @shiikazuo · 10月4日
私たち日本共産党は、野党共闘の道を選択してから4年間。共産党独自の主張は堂々と行いつつ、不一致点を野党共闘に持ち込まず、一致点で大同団結をはかり、さらに一致点を広げ、野党共闘を発展させるために、一貫して努力してきたつもりです。今後もこの姿勢を揺るがずに貫きます!



 このツイッターにはネット右翼からの批判よりもカルト党員の支持が多いが、こういう綺麗ごとの詐術に惑わされるようでは日本革命の道は遥か遠いだろう。

 そもそも「野党共闘」など4年間皆無であったという点は置こう。党独自の主張とは、例えば日米安保条約を廃棄し米軍を日本からたたき出す政治課題であろう。この4年間、党はこの政治課題実現のため、いかなる独自のたたかいを実践してきたか。理念を掲げて降ろさなかったなどはダメだ。いかなる大衆闘争を組み主導してきたか。完全にゼロであった。のみならず政治課題として赤旗の冒頭に掲げることさえも止めている。完全に安保棚上げである。つまり米日反動勢力への完全な屈服である。

 それはそうだろう。旧民主党の前原一派は言うに及ばず、立憲民主党のすべての党員は日米安保大賛成、憲法改悪大賛成なのだ。「不一致点を野党共闘に持ち込まず」なら、日米安保に賛成し、憲法改悪には賛成だが安倍改憲にだけ反対するしかなかろう。これが「一致点で大同団結をはかり、さらに一致点を広げ」のペテン的現実なのだ。つまりブルジョア議会で戯れているだけである。その犯罪が最も端的に顕われたのが、27大会に元自民党幹事長の小沢を迎えて喋らせ、党始まって以来の大歓声を上げたことであろう。革命政党としてはもちろんのこと、議会主義改良政党としても完璧に済んでいた。これが「野党共闘を発展させるため」だったのである。次期28大会での引退はもはや既成事実となっている。小池ではもっと悪いワ。

 ねんのため。日米安保については即時廃棄しかない。これのみが正しい。かつての社共共闘のスローガンがそれであった。民社党は「駐留なき安保」だった。公明党は「安保の段階的解消」だった。これが如何なる末路を辿ったか。すべて日米安保大賛成である。アホらしくて付き合いきれんワ。

 垣内京美さんへ。真佐代の絵を貰ってくれて有り難うよ。でもそれはそれ。こんなアホなリツイートしているようでは県書記長は無理だ。ワシ、あんたの評価、しばらく変えんぞ。覚悟しとけ。
  1. 2019/10/06(日) 04:52:49|
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