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古本屋通信

Oさんから妻へのハガキ

古本屋通信   No 4095    2019年  7月30日


  Oさんから妻へのハガキ

 私は「通信No4068 妻真佐代宛ハガキ」で、私が妻から譲り受けているハガキを紹介したが、別ファイルに重要な見落としがあった。それは妻が結婚前から絵を通じて付き合っていたOさんからのハガキである。私がこれを譲り受けたのは、ひとえに印刷されているOさんの版画に魅せられたからだが、いま見るとふるい時代の真佐代も偲ばれて興味をそそられる。Oさんは今も現役の開業医なので匿名とする。

 Oさんと妻の付き合いの最初は、妻の丸亀高校時代の友人Kさんを通じてであった。妻とKさんは丸亀時代ともに美術部だった。妻は香川大学の教育美術課程に行ったが、Kさんは岡大医学部に行った。一方のOさんは地元高校から岡大医学部に行った。3人が何かの機会に意気投合した、そういう関係だったらしい。しかし今見るとKさん(妻は「カンちゃん」と呼んでいた)のハガキは一枚もない。Oさんのものばかりがある。

 Oさんと妻との年賀状のやり取りはずっとあった。いま手元に22枚あるが、実際はこの2倍あったと思う。半分は失なわれている。

 私が興味あるのは、Oさんの版画を除けば、初期のハガキの文面だ。それと真佐代宛の住所だ。結婚前の琴平ものもあれば、岡山に来てからの邑久郡虫明のものもある。私達が結婚した直後の西大寺中野のものもある。中野から宝伝に転送したハガキも一枚ある。岡山市下伊福西町いわいサンコーポ宛のものもある。もちろん現住所宛が最も多い。差し支えない範囲で転記する。

 そのまえにOさんのことだが、結婚前は別姓だった。だから当初の7枚は未婚時代の姓である。姓がOに変わったのは1973年である。このとき夫君とご長男(赤ん坊)との連名で年賀状を受け取っている。Oさんは、岡大医学部を卒業後、しばらく高島屋の産業医をされていたが、同じ医学部出身の夫君と結婚され、何年かの勤務医を経て開業された。しかしいま夫君は亡い。十年程まえに他界されている。この時も忌中ハガキを頂いたが、いまは見当たらない。

 妻は何度かOさんに会っている。最後は10年程まえ一患者として彼女の病院で診察を受けている。この病院はご夫婦で開業されたが、この頃は夫君は既に他界されていた。広い病院の半分は絵画教室として使っておられた。

 私はOさんに会ったことはない。その代わり夫君を存じ上げている。私の母がある病院で夫君の診察を受けていたからだ。

 以下、ハガキの文面()と、私のコメント(黒)


1969年 香川県仲多度郡琴平町榎井136 京兼真佐代様  岡山市須崎 結婚前の姓
お会いしてから大変失礼しています。お変わりありませんか。絵・調子はいかがですか。私もそろそろ県展のを始めようかとしています。お体大切に。

 毛筆で。二人が23歳のときだった。妻は香川で中学校の講師、Oさんは医学部進学課程の学生だった。



1970年たぶん1,2月頃 邑久郡邑久町虫明 4404 松木様方 京兼真佐代様  岡山市須崎 結婚前の姓
岡山におられるとは全く知りませんでした。新しい生活は大変だったでしょう。近いのですからぜひ寄って下さい。お便り下さい。××××に電話下さい。夜は必ず居ます。

 毛筆で。妻は秋に香川の中学校から岡山邑久町裳掛小学校に移った。岡山の採用の口が掛かったからだ。但しこの時は助教諭で、新年度から教諭という暗黙の合意があった。



1970年たぶん1,2月頃 邑久郡邑久町虫明 4404 松木様方 京兼真佐代様  岡山市須崎 結婚前の姓
前略 先日は寒い中、お訪ね下さりありがとう。おみやげ大変おいしくいただきました。気分だけ忙しく、あなたにいらぬ心配をさせたようです。すみません、十分おもてなしできなくて。
 やはり春にならないと心のゆとりが持てぬ様です。母も四月には又おいで下さるようにと申しております。それとも岡山市へ出て来られた時には、顔を見にでもお寄り下さいます様に。
 五月からは私も社会に出られ(?)そうですが、本当にあなたは立派だと思いました。なんだか絵が出来るのが待ち遠しくて仕方ありません。
 最近の私の絵ー私の気持、生活、すべて浮ついている様です。あなたのことを思いながら反省しています。
 それでも社会に出る事を思えば、かなり身も引きしまる今日この頃ですが。
 まだまだ寒さが続く様です。二月になれば岡山にも雪が降る日もあると思います。お体にはくれぐれも気をつけてがんばって下さい。かしこ。

 版画なしの官製ハガキにペン書きで。



1971年正月 岡山市西大寺中野外小野900-4 石川真佐代様  岡山市須崎 結婚前の姓
 版画のみで文面なし。このとき我々は結婚して、新居は西大寺中野の安アパートだった。学校は正式教諭で犬島小学校だった。長男が生まれてからは、宝伝に借家を借りて船で犬島小学校に通った。ついでに言えば、赤旗は中野には配達されたが、宝伝時代は岡山市議の辻野さん宅に置かしてもらって取りに行った。



1971年夏 岡山市西大寺中野外小野900-4 石川真佐代様  岡山市須崎 結婚前の姓
毎日大学病院に出ています。来週1w間夏休みです。お盆の頃おいで下さい。近況お知らせ下されたく。ご自愛の程。

  版画を転載出来なくて残念。



1972年正月 岡山市西大寺中野外小野900-4 石川真佐代様  岡山市須崎 結婚前の姓
いかがお過ごしですか。先生としてご経験を増された事と思います。ますますの躍進をお祈り致します。おいで下さいます様に。


1973年正月 岡山市西大寺中野外小野900-4宝伝3390 石川真佐代様   岡山市須崎 結婚して新しいOの姓
 住所ちがいで転送されている。妻が犬島小学校に赴任したので、向いの宝伝に下宿した。ちょうど長男が産まれた時だったので、宝伝で乳児を預かってもらうのが一苦労だった。
 迎春で始まる年賀ハガキの印刷文面は形どおりで、差し出し人は夫君とOさんとご長男。この時からOの名前になる
。ただし住所は今までと変わりない須崎である。これは御養子ではなく、元から広い土地のあったOさんの親の土地にご夫婦が家を建てたものであろう。以下の手書きの文が添えてあった。

 日頃の御無沙汰お許し下さい。長男誕生致しました。こちらにお出かけの折には是非お寄り下さい。お子様もつれて。

1974年正月 岡山市岩井630の1  いわいサンコーポ 316号 石川真佐代様   岡山市須崎 結婚して新しいOの姓
 明けまして おべでとう ございます。一家おそろいで、お幸せな新年をお迎えのことと存じます。早々に年賀状をいただきありがとうございました。うかつにも新住所を記さなかったものですから、返送されてきました。
 勉強の方は手を抜いて、育児の方にというよりも、どれもこれも手抜きで仕方がないと思っています。本年早々に又、家族が一人増える予定です。時間がありますれば、お寄り下さい。

 私の方は岡山市のマンション一号とも云われる、いわいサンコーポを購っている。妻が岡山中心部の伊島小学校に変わった時である。購入価格が640万で、頭金が200万だった。2年間でこれだけ貯めていたから支払えた。ローンは1000万だった。この全額は毎月分割して私が支払った。一戸建てに移った時、マンションのローンは当然まだ残っていた。一戸建ての頭金は2人が等分に負担したが、ローンはすべて妻の支払いとなった。従ってマンションは私の所有物、今の家は妻の家なのである。アッ、マンションは古本屋を開店する時に売った。800万で売れた。これは資金も必要だったが、マンションの本1万冊を古本屋に移すことで売却可能だった。
 これが我々夫婦の経済生活の根幹なのだが、こういうのも私が妻に寄生するヒモというらしい。要するに男女平等な負担が気にくわない。男はつらいよである。私は恥じ入らねばならないといふ。


1975年正月 岡山市岩井630の1  いわいサンコーポ 316号 石川真佐代様  今治市日吉町 結婚して新しいOの姓
今年も良い年であります様に。

 差し出しの住所が今治になっている。よく分からないが、夫婦そろって勤務医の転出だろうか? でも1978年正月の賀状は岡山市平福からであり、「時々高島屋医務室に出ています」となっている。
 やがて私はいわいサンコーポから、今の一戸建てに移るのだが、その後もずっと年賀状を戴いている。

  これまでとしようか。
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  1. 2019/07/30(火) 03:34:04|
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妻の最期(7月3日 ~7時44分)

古本屋通信   No 4094    2019年  7月29日


   妻の最期 (7月3日 ~午前7時44分)

 この日については、まだ書いていなかった。残しておきたい。

 私は毎日午前6時50分に自宅を出発して、バイクで病院に行った。病院の表玄関が7時にひらくと同時に妻の病室に駆けつける。

  ちょうど6時50分に私の携帯が鳴った。御津新庄の長男からだった。

 「お母さんの容態が急変して、いま心臓マッサージをしとる。病院から電話があった。直ぐに来いと言うた」

 「えっ、わかった。直ぐ行く。おまえも来い」

 「当然じゃ。直ぐ行く」

 なぜ私の携帯ではなく長男の携帯だったか、その時は分からなかったが、瞬間私の携帯が不通だったらしい。

 7時5分に病院の412号室に入った。医師が2人と看護師数名が懸命に心臓マッサージをしていた。想像を絶する大掛かりな病室だった。

 しかし私は到着が確認されると同時に別室に連れ出された。そういう規則だった。

 別室にいること約15分、主治医のM先生が私の前に現れた。

 「今朝はやく病室を巡回していた看護士が石川さんの急変に気がついて、直ちに当直の医師2人が心臓マッサージを開始しました。いま30分を経過したところです。呼吸はすでに停止していますが、必死で心臓の蘇生を試みています」

 「ふつう20分間で蘇生しなければ諦めるのですが、ほんの僅かの可能性に賭けて、もう少し続けます」

 このとき私はまだ病室に戻っていなかった。だが主治医の言葉から蘇生の可能性がないと悟った。10分後にもう一度先生が現れた。

 「40分やっています。息子さんの到着はまだですか?」

 「53号線が渋滞しているのです。でも、もう来ると思います」

 結局、マッサージは長男が到着して数分間続行した。7時35分頃だったろう。私と長男は病室に迎え入れられた。最後のマッサージはM先生自身が渾身の力を込めて実行された。だが妻はついに蘇生しなかった。

 「先生、もういいです。よくやってくださいました。これだけやっていただいたのですから・・・」

 M先生は両手を止めた。

  「じゃあ、管を抜きますよ」

 「臨終は7時44分です」

 脇にいた看護士が記録をとった。

 私は瞬間に涙が出たが、それでも妻の近くに進み出た。

 「真佐代さん、ごめんな」

 次に長男が歩み出たが、手を合せて目礼しただけだった。長男は主治医に頭をさげた。

 私も丁寧に主治医に礼を言ったが、その言葉は覚えていない。

 M先生は病室から半分出た場所で、私に深々と頭をさげられた。

 「本当に申し訳ありませんでした。ことばがありません。本当にごめんなさい」

 私はドッと涙が出てきた。だが悲しむ時間はなかった。直ちに葬儀社の手配に入り、9時に葬儀の日程と坊さんの手配を完了した。午前10時には葬儀社が病院に行って遺体を引き取った。この時には既に死亡診断書は準備され、葬儀社に私が手渡した。その日、私は悲しむ時間さえなかった。

 以上が妻の最期である。

 もうひとつ。妻の体から管を抜き取ったとき、赤い血を見た。その鮮血が妻のパジャマに飛び散ったのであろう。パジャマの血はそれ以外に考えられない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   別件

 すみません。たった今、かなり(30文くらい)削除したところです。削除しちゃったからには、これについて私は意見を言うべきではないでしょう。ママに貼らしていただきました。読者に関連性が伝わらず、申し訳ありません。削除は気分に依るものです。


投稿者 : KM生   07/29 13:12
投稿しようと思ってるうちに、「共産党地区委員会制廃止」のスレが消えちゃいましたので、こちらへ投稿します。1)「地区委員会が党員1人1人を把握している」というのは、飽くまで建前。公称30万党員として、まともに赤旗読んで活動してるのはせいぜい10万人で、むろん党機関が把握してるのはこの部分だけ。ゆえに党大会決定読了率も、つねに30%台。言われるような岡山県内党員3000人なら、党機関が把握してるのは1000人どまり。独立採算で専従雇おうと思うなら、1人しか無理でせう。むろん収入は、党費機関紙代のみならず議員関係収入や中央からの補助もあるから、もう少しましでせうけれど。実党員数から言えば、県委員会でも把握できる数だし、地区委員会全廃とまでは行かずとも、県内地区委員会の統合は(将来的に)不可避でせう。
  1. 2019/07/29(月) 05:23:50|
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妻の体力低下と最終的なリハビリ

古本屋通信   No 4093    2019年  7月28日


  妻の体力低下と、最終的なリハビリ(死の前日)まで

 妻が高知の母親大会に行ったのは昨年の8月だった。この時はすでに石井さんによって認知症の疑いは指摘されていた。だが当時、私はまったく意識していなかった。妻も平気で高知に出かけて行った。

 (認知症に加えて)圧倒的な体力低下で苦しんだのは今年1月9日の京都歌舞伎を観る会(前進座公演)に参加してからである。その3日まえの6日に小池演説会があり、妻はそれに参加して前進座公演のチケットを受け取っていた。だがその代金を含む参加料金は当日朝岡山西口の貸切バスで渡すことにっていた。妻は金の支払いが出来ない。たったそれだけのことが出来ないのである。それで私が自転車の妻の横にバイクで寄りそって送って行った。金は集金係の衣笠さんに私が支払った。でも妻はそのことを既にバスの中で忘れていた。

 このとき朝の駅までの2キロと、帰りの2キロ、妻は何回も自転車を降りて歩かねばならなかった。それどころか道路に蹲った。あわや京都行きを諦めなければならないほど苦しんだ。諦めれば敗北感に苦しむから、なんとか行って帰った。あとでT病院で報告したら、この時は心臓に水が溜まっていた時だった。その後、利尿剤を飲んで一時は改善されていた。

 そのご 2月24、25日津和野・萩への年金者組合の一泊旅行に参加した。このときも数人の知人と一緒だったから、私は安心して送り出した。無事帰ってきた。

 だがこの頃から(認知症はいっそう進んだし)妻の体力低下は徐々に進行していただろう。それは近くのニシナへの買い物行きに端的に現れた。極端に時間が懸かる。それも自転車に乗れないで押して行ったり、歩いて行ったりした。最後にはフラフラして、遂には行かなくなった。赤旗日曜版の配達は年末から既に私に交代していた。


 ここからは 5月22日のT病院入院以後である。リハビリに限定して簡単に記しておく。

 入院は肺炎によるものであった。全治 2、3週間というものであった。入院後まもなくリハビリを開始した。担当者は3人いて、それぞれが手分けして機能回復に当った。最初の数日で、平行棒に行き来するようになった。病室でも立ち上がったり、寝転んだり、かなりマトモなリハビリであった。一人の方は口の中のリハビリもした。食事が出来るようにというリハビリであった。もう一人の女性は認知機能のテストもやった。総合的な優秀なリハビリであった。

 これから 40日間まいにちリハビリが続くのだが、妻は機能が回復するどころか、目に見えて衰えていった。平行棒で歩けたのは最初の3回だけだった。後はベットの上だけのリハビリだった。

 主治医の先生に聞いたのは死の数日前だが、入院の一ヶ月で体力は急速に衰えていったという。だからと言ってリハビリが不要だとはならないが、衰えには勝てなかった。いかんともしがたいことであった。

 死の前日の異変は、その直前の軽度なリハビリが引き起こした可能性もあった、と主治医は言われた。だとしてもリハビリが不適切だったということにはなるまい。結果論であるから。それと異変の直前に、或る栄養を補給する点滴を開始した。そしたら一分後に呼吸が乱れた。これも点滴が不適切だったとは言えまい。そういうことを言っていたら、病気治療は不可能だからだ。

 私は体力が尽きたのだと思っている。入院中の43日間の認知症の進行については、体の病気の陰に隠れていて、なんとも測る尺度がないのだけれど、妻の口走る言葉の断片から考えて相当進行していただろう。食欲低下の要因でもあった。認知症も妻の死の速度を速めた。それが私の認識である。
  1. 2019/07/28(日) 04:51:28|
  2. 未分類

不在の理不尽もしくは欠落感覚

古本屋通信   No 4090    2019年  7月27日


   不在の理不尽、もしくは欠落感覚

 妻が死んだのは今月3日であり、翌日4日朝には葬式をしている。その日の夕方には「ご報告」を書いている。これを義務感だけで書いた時、その後の記事が書けるとは思えなかった。書かないと身が持たない面もあってどうにか続けてきた。

 以下に表示したのが、記事名と拍手数である。妻の死の関連と私の日常生活と半々である。妻の関連が読者に黙殺されることはない。むしろそちらの方が拍手が多い。何時までも書き続けることはないだろうが、暫く自分の自然体でいたい。

 日常は強烈な悲しみに襲われることは殆どない。他人が妻に触れたとき思わず涙するくらいである。一日として逃れられないのは表題の「不在の理不尽もしくは欠落感覚からである。これ自体が主観的な思いである。他人に説明するのが難しいのだが、要するに私の日常生活の範囲(時間と空間)に妻が存在しないことが、何とも説明し難い空しさ(虚しさ)をもたらしているのである。

 最も狭い自宅空間で云えば、私の空間は従来6畳一間だった。残りは全て妻の家だった。家主は妻だった。いま家主がいない。私は家主のいない空間で独りで生活している。そういう感覚がずっと持続している。

 これらの記事はそういう思いから一瞬たりとも逃れられないで書いた。自分で振り返ってみて、この通信も私の欠かせない日常だったのだと思う。以後も宜しくお願いします。


 拍手数

嗚呼、美空ひばりが入った   4

実務処理の進捗状況  8

病院のベットに横たわる妻  15

『詩集 石の叫びⅢ』 の表紙絵   11


参院選挙総括   14

真佐代の関係二件   14

坪井さんと川上さん(追補)  13

坪井あき子さんと川上由子さん   14

選挙に行ってきた  19

妻のパジャマ・その2   20

妻の遺稿・ひまわり学級に参加して   23

MY生命のTさん   18

比例は共産党、選挙区は白紙投票   23

党員に読まれているのか   35

妻の病気の前半(認知症)  29

妻の死後の記事についての自註   24

現状は4だが、頑張れば7   24

祝・キンピーブログ開設14周年   28

妻のパジャマ  38

選挙関係を2つ   29

真佐代の遺した写真   32

妻・真佐代宛ハガキ   34

妻の写真(アルバム)の所在    33


死に至る病   36

非礼のお詫び   45

曽田康載君と和子さん   43

悲しみの感情 家の片づけ    50

自分用の備忘録として   51

ご報告   68

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  妻の死の前後に書くべきであったのに、書きもらしていた重要なことがあった。たったいま思い出したので付け加えておく。

 妻が死亡する前日の7月2日に呼吸が乱れる危機があり、それとは直接関係なく翌3日早朝に妻は死亡した。この両日にすっかり目を奪われて、たぶん7月1日のことで忘れていたことがある。この日に心臓の水を抜き取る話があったことは書いた。だがもうひとつあった。

 それは数日間殆ど食事を摂取できなくなっていたので、鼻から管を食道に通して、食事をさせるという主治医の話である。翌日からやろうという話になった。私が同意しないわけがない。で2日の昼に第一回目をやることになっていた。そしたら急変である。食事どころではなくなり、私はすっかり忘れていた。

 この話は重要である。というのは妻の死後、私の中に僅かだが、病院と医師に対して疑問が湧いていた。なぜ食事が摂取できなくて衰弱しているのに栄養補給の点滴をしなかったのか、と。

 だがこれは完全に私の誤解であった。妻は肺炎で入院当時ずっと点滴で抗生剤投与と栄養補給をやっていた。当時食事は採れなかったのである。やがて肺炎が治り、点滴を中止し、以後食事を採るようになった。でもその後も必要に応じて点滴もやった。それは栄養補給の時もあった。ただ出来るだけ米の飯を食べさせるという方針だった。これを死亡の直前まで貫いた。

 でも、どうしようもなくなったので、7月1日の鼻から管を食道に通して食事をさせるという話があったのである。完全な私の誤解であった。私は不幸があり他人に言われなき疑いを持った。私の内面の問題だったが、ここに公表する。
  1. 2019/07/27(土) 00:34:05|
  2. 未分類

実務処理の進捗状況

古本屋通信   No 4088    2019年  7月25日


   妻の死亡に伴なう実務処理の進捗状況

 これは大変な処理である。死亡から3週間が経過して、完了しているのは生命保険会社一社だけという状況だ。あとも手を付けてはいるが、完了には相当な時間が掛かりそうである。金額などを伏せて概要を以下にメモしておく。

  MY生命保険については既に書いた。その後になってJ生命保険の保険があることが判明した。ただし受取人は私ではなく、二人の息子それぞれである。私は妻から聞いたことはあったが、忘れていた。長男は知らなかった。二男は知っていた。ここらが長男と二男の違いだろう。それは置いて、会社は息子たちと受け取りの手続きに入ると言う。結構な話だが、私は関係ないから、私には契約内容は教えてもらえなかった。ただし掛金からして大した受け取りにはならないだろう。

 妻の残した貯金はかなり少ない。それでも2社で数百万円あった。これを正式な遺産相続に付すのである。両社からそれぞれ相続手続きの書類が送られているから、私は書類を揃えるのみである。その書類は死亡診断書と、妻のハズレた戸籍謄本が中心だが、戸籍謄本は妻の入籍前のものまで求められる。昨日琴平町に請求を提出した。あとは息子二人の実印と印鑑証明である。これは大阪の二男が帰ってくる四十九日に決着を計って提出する。

 火災保険は継続するから保険金は入らない。2年後の満期に受け取れば受け取れるが、火事対策だからそのまま残す。保険金は下伊福西町の自宅を受け継ぐ二男が権利を継承するだろう。掛金はすでに無い。

 財布代わりの妻の口座も凍結を急いでいる。私の口座に切り替えつつある。だが10くらいあるから結構面倒である。オリコからの引き落としについては既に書いた。中国電力、ドコモ、メガエッグ等々を解決した。

 生協と医療生協は脱退したから、近日中に出資金が私に振り込まれる。簡単であったが、小額である。

 妻の年金の差し止めは結構面倒である。公立学校共催組合本部との郵送での手続きである。私が妻の年金から私に振り替える場合の受け取りのパーセンテージを訊ねた。そしたら5,6割だと仰る。ガックリきた。ならば私の現在の年金と余り変わらない。
 これは本日電話で質問して書類提出まで漕ぎ付ける予定であるから、提出書類を参考までに記しておく。
① 未支給(年金・保険給付)請求書・年金受給権者死亡届(報告書) 用紙同封
② お手続きの確認書 用紙同封
③ 年金請求書(国民年金・厚生年金保険遺族給付) 用紙同封
④ 請求される方の預金通帳の写し
⑤ 亡くなられた方の年金証書
六 基礎年金番号報告書 用紙同封
⑦ 請求される方の基礎年金番号が分かる書類の写し
⑧ 請求される方の最新の年金金額改定通知書の写し
⑨ 年金受給選択申出書 用紙同封
イ 請求される方の戸籍謄本 死亡日以降発行されたものの原本
ロ 死亡診断書の写し
 準備できるもの(「用紙同封」以外のもの)はすでに準備しているが、用紙記入が分からない点が多いから、これから電話で聞いてつぶしていく予定である。
 やれやれ一時間半懸けて色々聞いた。書類を書きおわったから、これから投函する。

 あと殆ど残高のない口座に振りまわされた。だがJ生命保険会社の例もあるから油断は禁物である。他にもあるが、これまでとしよう。
  1. 2019/07/25(木) 01:47:43|
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病院のベットに横たわる妻

古本屋通信   No 4087    2019年  7月25日


   病院のベットに横たわる妻 


 病院に担ぎこまれた5月22日から死の前日の7月2日まで、私は妻のベットの横にいた。妻はベットから離れて検査に行ったり、食堂で食事を摂る時間もあったが、大半の時間はベットに横たわっていた。私は大抵夕刻には家に帰ったが、朝7時には必ず病室に行った。ベット脇には短い日で3~4時間、長い日だと18時間くらいいた。そのトータルの時間は200時間を超えていただろう。

 話す時間も多くあった。無言で手を握ったり肌に触れる時間もあった。妻の顔に頬を寄せて寝息を確かめるのも常であった。私にとって生涯でもっとも幸せな妻との42日200時間であった。我われ夫婦は一生涯で、こんなに濃密な共同の時間を持ったことはなかった。

 対話はすべて憶えている。その過半は妻の意味のないことばに私が応じるものであった。だがそれこそ二人の最終の時にふさわしい二人だけの時間だった。妻の表情は豊かだった。手振りを交えて饒舌だったことも多い。ほとんど口を効かず、ひたすら眠ることもあった。だがトータルとして、もっとも濃密で幸せな42日200時間であった。

 これに匹敵する二人の時間があったとすれば、二人の十八歳の出会いの時代だったろう。だがその時代、我われは何時も不安定だった。生活も関係も不安定だった。甘い濃密な時代ではあったが、その一方で我われは何時も別れを考えていた。

 25歳で結婚してからは離別の危機は一度もなかった。生活はそういうことを考えさせなかった。その時代の結晶が二人の間の、二人の子供である。二人とも親から離れていて入院中は病院に駆けつけてくれた。妻は子どもたちに安心していた。だから最後の42日200時間は私と妻だけの時間だった。

 この42日200時間の最終が、棺で眠る妻の寝顔であった。きれいな寝顔であった。私は42日200時間と、棺の中の妻を永久に忘れない。



 追伸 200時間ではなく250時間~300時間だったという思いは今もある。だが日誌を付けていないから、確かな時間は永遠に分からない。200時間にしておく。

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 葬儀から3週間経った。その間の私の私生活だが、妻の入院中の43日間があったから、その延長で生活している。自宅での妻の不在には慣れていたのである。

 食事はすべてニシナで間に合わせている。炊飯器にもガスにも触れることはない。米袋の米は全て長男に譲った。

 洗濯のやり方は二男に教えられ、毎日やっている。入院中は手洗いであった。

 古本は適当に入庫する。忙しいというほどではないが、休業してはいない。客は来ない。

 そんなにさみしいことはない。けっこう用事があるのだ。
  1. 2019/07/25(木) 00:01:31|
  2. 未分類

『詩集 石の叫びⅢ』 の表紙絵

古本屋通信   No 4086    2019年  7月24日


  『詩集 石の叫びⅢ』 の表紙絵  真佐代のぼたんの絵


 先ほど自宅に重ねている古本の山の中から、古本市に出品する郷土本を選び出した。そしたら、表題の小型本(60ページ)がみつかった。何回か見ているのだが、常に埋没して行方不明になる。それが古本の運命なのだ。出品しようかと思ったが、思いとどまった。

  岡山詩人会議の詩人と、会に所属しない詩人、計24人が詩編を寄せている。そのお名前は以下である。

序にかえて(三宅陽介)  間野捷魯  なんば・みちこ  田中澄子  秋山陽子  谷葉子  高橋ひろ子  妹尾倫良  手塚亮  井奥行彦  岡隆夫  杉本知政  坪井あき子  大島元  檜山三郎  高田健一  沖長ルミ子  金光洋一郎  田中郁子  西川はる  多田聡  くにさだ きみ  矢木明  松田研之  富田まるみ  あとがき(松田研之)  表紙絵(石川真佐代)

 何かの折に真佐代のぼたんの絵が松田さんの目に留まったのだろう。よくぞ使って下さった。

 私が存じ上げている方は半数未満だが、その範囲でも物故者が多い。1995年に刊行だから自然である。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

石の叫び 詩集 有事立法・元号法制化に反対する  岡山詩人会議 1979
石の叫び 詩集 2 反核・平和・自由の声  岡山詩人会議 1986
石の叫び 詩集 3 戦後50年・いま…  岡山詩人会議 1995
  1. 2019/07/24(水) 14:28:53|
  2. 未分類

参院選挙総括

古本屋通信   No 4085    2019年  7月24日


   参院選挙総括

 まず別件。昨夕石井さんの訪問を受けた。約30分妻の思い出を話した。一点重要な石井さんの話があった。というのは石井さんが最初に妻の認知症に気がついて病院行きを勧めたのは、春のお花見の直後だったと言う。私は8月だと思っていたから、重要な誤認識であった。それから最初に病院に行ったあと9月に妻は石井さんに手紙を出している。いま思い出したが、これは私が勧めたもので、お礼をかねた報告である。第一回目の異常なしの時だったろう。でも認知症の診断は第二回目だった。この頃はもう石井さんらと一緒に活動できなくなっていたから、手紙を書いたのだ。そう記憶している。石井さんが目頭を押さえ、私も涙が出てきたので門前で別れた。


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  1. 2019/07/24(水) 02:56:01|
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真佐代の関係二件

古本屋通信   No 4084    2019年  7月23日


   真佐代の関係 二件

午前11時ごろ県委員会の植本さんの訪問を受けた。選挙が終ったので、私のほうから若干の実務レベルの話で電話を入れていた。その話と妻の悔やみである。前者はわかりきったことを確認しただけである。今後ともよろしくとなった。妻は植本さんと一緒に活動した時代もあったらしく、謹んで哀悼の意をお受けした。ただし唯物論者ゆえの失礼をお詫びして了解された。植本さんとは、今後とも今まで通り宜しく、となった。私の立ち居地は微動だにしない。最後は常任幹部会声明を確認した。それと石井さんに宜しくと伝え、了解された。

昼前に郵便ポストに封書が入っていた、差出人はアイの会のMさん、Tさん、Fさんの連名、中に某ギフト券一万円分が入っていた。読むと涙が止まらなかった。つらいから転載はしないが、死亡と葬儀をお知らせしなかった失礼をお許しください。アイの会と真佐代については、お世話になった方々のことも含めていずれ書こうと思っています。
  1. 2019/07/23(火) 12:56:51|
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坪井さんと川上さん(追補)

古本屋通信   No 4083    2019年  7月23日


   坪井あき子さんと川上由子さん(追補)

 今回の参議院選挙で、日本共産党は8議席改選(選挙区3、比例5)で、8議席を目標にしていました。しかし7議席にとどまり、比例選挙で仁比そうへいさん、大阪選挙区でたつみコータローさんの議席を失うことになってしまいました(河村ひろ子党福山市議)

 河村さん、寝ぼけなさんなよ。あなたの記事全体が我田引水なのだけど、この部分に限って言えば、党は比例7議席と選挙区現有3議席の10議席確保が最低目標だったのよ。さらに比例区得票目標で言えば、850万票を目標にしていたけれど、実際はその半分強の440万票しか獲得できなかったんだ。たのむよ、甘いんだ。どうしてこうなるかと言うと、選挙前のことをすっかり忘れてしまい、きょうの常任幹部会声明に依拠するからだ。そういう意味では声明もご都合主義だね。

 ありゃ早速訂正された今回の参議院選挙で、日本共産党は8議席改選(選挙区3、比例5)で、10議席を目標としていました」。さすがだねえ。いや古本屋通信の神通力ではなく、河村さんの情報収集力と率直さがすばらしい。有難うよ。

  さて本論。
 直前板は私の過去記事の再録が中心だった。2,3本目の記事に川上さんの名前を書いていない。これは私の古本直買いだったからである。でも、もういいだろう。長いものになったが、これだけでは、お二人と妻・真佐代との関係も不明である。そこで少し追加する。といっても旧い来歴など、私が存じないこともあるので曖昧な部分もある事をお断りしておく。記述はまとまりのないものになるだろう。

 坪井さんは我々夫婦より12歳年長である。川上さんは10歳年長である。ともに小学校の教員で、教員になったのは60年安保の前後である。妻が教員になって岡山市の伊島小学校に赴任したのは1973年だった。そこで同僚としての坪井さんに出あう。それ以前のお二人は推測するしかないのだが、たぶんお二人は1960年代から同じ小学校教諭として旧知の関係にあった。左翼で云えば、坪井さんは学生時代は文学だけであり左傾していなかった。いっぽう川上さんは京都学芸大学生の頃から美術専攻の左派学生であり、それは岡山教員時代の創成期の平和美術会の活動となっていた。でも当時1960年代のお二人の関係はよく判らない。

 妻・真佐代と坪井さんとの出会いの最初は伊島小学校であるが、妻が平和美術会に入会して詩画展のコンビを組むのはずっと後の1990年代であろう。

 妻・真佐代と川上さんとの出会いの最初は平和美術会だった。やはり1990年代の最初の頃であろう。だが1960年代に平和美術会の中心であった川上さんはやがて同会を離れる。離れた経緯を私は今田君から聞いているが、詳細は不明である。妻が同会で川上さんと一緒だった時代は短かったそうである。

 詩画展のコンビの作品は20くらいあるだろう。ということは20年間たがいに作品を出品し続けたということである。その作品は殆ど残っていないが、写真なら何枚か残っている。また残された作品の一枚が妻の葬儀の場に持ち込まれもした。妻が譲っていたのである。

 川上さんにたいする妻の印象は圧倒的な美術理論家というものであった。追いて行けなかったそうである。つまり勉強のレベルが違い過ぎた。私は納得した。ただし私は川上さんの絵は一枚も見ていない。今でも描かれているが、それが公表されることはない。

 私が川上さんから買い取った大量の古本のなかに創成期の平和美術会の資料があった。私はそれを昨年、平美の事務局長の谷本さんに譲り渡している。それを昨日川上さんに報告しておいた。妻も私もひとつ肩の荷が下りた。そういうわけで妻と川上さんとの付き合いは長くないが、これは川上さんが早期に教員を退職され、県北に帰って親の介護をされたこともあるだろう。

 まだまだ書けるが、いったん休憩する。
  1. 2019/07/23(火) 02:37:49|
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