古本屋通信 No 3966 2019年 4月30日 部分再録 ・ 旧優生保護法の国会成立(1948年)に関して 4つ前のエントリーが長くなり過ぎて読みにくいので、資料のウィキ記事を除く後半部分をここに再録した。 やれやれ、やっとマトモな詳論が出た。パーフェクトな議論である。それを認めたうえで、5)部分の党の対応(悪いことは何でも徳田や野坂のせいにする)に関して、今回の件に限ってだが、疑問を提出しておきます。 10. KM生@その1 2019年04月30日 08:03 当時の時代背景を考えずに今日的視点で問題視するのは、「時空を超えた妄想」に過ぎません(^^)。 1)終戦直後の混乱期、食糧不足は深刻だった。しかも復員兵による46年結婚ラッシュと、(結果的に翌年の)いわゆる「ベビーブーマー・団塊の世代の出現」は、国策としての人口抑制=産児制限を余儀なくした。 2)産児制限自体は、「産めよ増やせよ」が国策だった戦前戦中は当然認められず、闇中絶に頼るしかなく(結果的に)当時の未発達の産科医療の中で多数の女性が命を落としたり或いは重篤な後遺症を蒙った。 3)ある意味「旧優生保護法」が(今日的に見れば障碍者の人権侵害という問題点はあっても)、「人工妊娠中絶の合法化(それこそ日共系山宣が自らの生命を賭して戦前から訴えてきたものだった)」という長年の女性の権利拡大の象徴として、「旧社会党婦人議員の議員提案で、保守派や日共も含めて全会一致で採択された」のも、当時の時代背景を考えれば当然だった。(続) 11. KM生@その2 2019年04月30日 08:17 (承前) 4)以上より私は、「言い出しっぺだった(旧社会党の流れをくむ)社民党が謝罪する」のは当然だ。しかし(当時の時代背景の中で )これに賛成した自民党や日共は党として謝罪する必要はない。穀田の謝罪で十分。 5)むしろ今回の件で日共がいただけないのは、「徳球や野坂など(死後否定的評価をしたり除名した者)に責任を擦り付けている」点。少なくとも「自分の党名に誇りを持っているがゆえに党名変更の必要はない」というのなら、自らの党史に対して誠実であるべきだ。何度も繰返したように、旧優生保護法は(今日的不十分さはあっても)当時としては画期的意義を持つものであった。そうであるがゆえに、当時の日共も含めた全会一致で採択されたのだ!当時の日共が賛成したのはある意味当然であったし、むろん今日的不十分さは(決して野坂や徳球の個人責任ではなく)、「党自体の歴史的限界によるもの」だったのだ! 12. KM生@その3(最終) 2019年04月30日 10:20 6)第一終戦直後であれ現在であれ、日共は「国会法案議決に関しては議員団や議員個々で対応するのではなく、党として対応を決定している」ことに変わりはない。むろん当時でも、法案採決に関しては「議員個々の自己判断ではなく党として対応した」筈である。この点からも、「徳球や野坂の個人責任を問うことはできない」のは当然だ!「党として責任を負うべき」事柄なのだ! 党が機会あるごとに自党の歴史の負の部分について、徳田や野坂を悪者にして現執行部の責任逃れをしてきたことは紛れもない事実である。だが今回の件は如何であろうか。同じことをやった可能性は大いにある。だが提出されている資料と証言は以下のみである。これが信頼に足りる資料と証言であらうか。はなはだ疑問である。 Kame Ron Diaz(San Diego出身) @kamesan1959 旧優生保護法は、当時の衆院の野党、社会143議席、共産4議席。参院で社会47議席、共産4議席も賛成して成立した。 共産党は賛成の事実に触れず謝罪することなく「国の謝罪と補償を早急に行う必要がある」との見解を表明し、穀田氏が「不作為の責任」だけを謝罪している。 これが誠実な態度なのだろうかKame Ron Diaz(San Diego出身) @kamesan1959 友人の質問に中央委員会政策委員会からの回答があった。 1.当時は野坂参三、徳田球一らが議員であり、現在と意識が違う。 2.社民党は謝罪をしたが、我が党と異なり積極的な提案をしたからだ。 3.昨年の見解、穀田議員の謝罪で十分であり追加謝罪の考えはない。 が 4.国の謝罪については未検討。 上段はこの男の時空をこえた共産党の責任追及の弁であり、他にも倉林の国会発言を批判したりしている。まあよい。だが下段はいったい何だ。仮にこの男の友人が党政策委員会に質問を提出して、政策委員会から回答があったのは事実としようか。だが1~4は回答の全文ではなく、たぶん要旨でさえなく、この男が自分流に各一行で翻訳したもの であろう。それが決定的に創作だということだ。デタラメなデッチ上げだということだ。 主要には1である。党が徳田を悪者に仕立て始めたのは7大会以後、旧徳田派が鬼籍に入り始めてからは罵倒のやり放題だった。野坂は除名以後だから、古い話ではない。やりたい放題だった。だが只の一度も彼らの「意識」を非難したことは無かった。 笑わせるではないか、「当時は野坂参三、徳田球一らが議員であり、現在と意識が違う」 と。完全なでっち上げである。こういう言葉は共産党中央の誰であれ絶対に使用しない。してみれば2~4もいい加減である。ほぼ確定である。とくに2は他党への言及であり、当時の社会党と現在の社民党は別の党である。社民党が旧社会党の歴史を引き継いでいるから謝罪したのは正しいだろう。だがそれについて、共産党が 「我が党と異なり積極的な提案をしたから」 謝罪した、などと言うであろうか。これもこの男流の歪曲された要約であろう。 私はKame Ron Diaz(San Diego出身)なる男のツイッターがそもそも信頼性がなかったと思う。党のご都合主義はそのとおりだが、今回それに当たるとの証拠はない。敢て党弁護の弁を書いた。
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2019/04/30(火) 15:28:15 |
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古本屋通信 No 3965 2019年 4月30日 明仁氏の天皇退位に(花を副えると言わんばかりの)他愛のない事件 悠仁さま の机に刃物、56歳男を逮捕 建造物侵入の疑い 2019年4月29日22時36分 朝日新聞 大塚署に入る自称・長谷川薫容疑者=2019年4月29日午後10時34分、東京都文京区、小玉重隆撮影 秋篠宮家の長男悠仁(ひさひと)さま が通う東京都文京区のお茶の水女子大付属中学校に何者かが侵入し、悠仁さま の机の上に刃物が置かれた事件で、警視庁は29日、住居、職業不詳、自称・長谷川薫容疑者(56)を建造物侵入の疑いで逮捕した。「中学に入ったのは間違いない」と容疑を認めているという。 捜査1課によると、逮捕容疑は26日午前11時ごろ、文京区大塚2丁目の同校内に正当な理由がないのに侵入したというもの。 「正当な理由がないのに」 入ったら、犯罪になるのよねえ。ちっとも知らなかったワア。だって私、夕方ときどき三門小学校の運動場を散歩するもん。もう止めとくワ。 捜査関係者によると、26日昼ごろ、同校の教室内の悠仁さま の机の上に、棒状のものにテープで巻き付けられた刃物2本が置かれている のが見つかった。刃の部分はピンク色に塗られていた。 同校周辺の防犯カメラを確認したところ、26日昼ごろ、青色っぽい作業着でヘルメットをかぶった中年の男が工事関係者を装って 正門から入り、中学校に侵入する姿が映っていた。この時間帯、悠仁さま の学級は教室の外で授業を受けており、教室は無人だった。警視庁は防犯カメラ映像などを分析して捜査。警視庁は29日、男を神奈川県平塚市内で発見し、逮捕した。 古本屋通信 ねんのために今朝の朝日新聞の記事をママにコピーしたが、nhkでは「お茶の水女子大付属中学校」の名前が伏せられている。それにしても片っ端から防犯カメラか。断固反対である。総監視社会だな。 今の皇太子に息子がいないから、次男坊の秋篠宮の長男が皇位を継承するという。悠仁やらもまだ子供なのに気の毒なことだ。生まれが悪いと本人がかわいそう。 それはおいて、茶水は国立だったな。お茶大の学生自治会執行部は今も革マル派なのか否か知らないが、とんだ醜態をさらけ出したな。私立学習院なら仕方がなかろうが、国立だったら小中であろうと、すべての生徒を平等に扱う義務がある。べつに天皇家の悠仁を受け入れても構わないが、その場合は一切の特別扱いをしないという条件付きだ。当然ながら特別警備の一切は拒否しなければならない。家族の秋篠宮家が車で送迎するまでだ。でも実際はそれでは立ちゆかないだろう。だったら悠仁の受け入れは断固拒否しなければならない。 投稿者 : KM生 04/30 08:32 お茶大学生自治会執行部は、(私の大学入学の1974年当時は)民青ですた。12月集会でお茶大を会場に「がんばれ日フィルコンサート」が開催されて、「ドヴォルザーク新世界より」が公演されますた。この時開会挨拶に立ったのは、当時の学生自治会委員長ですた。「美人委員長だな」と当時参加学生の間で話題になったものですた(^^)。津田塾と奈良女はカクマルですたが、(わたすの記憶の限りでは)お茶大がカクマルということはなかったと思います。 成程。1960年代後半の党派別学生自治会一覧表をもう一度参照してみます。私の記憶では1966年頃には民青と革共同が取ったり取られたりの印象でした。東京の集会に妻を含む十数人で行ったとき、妻の丸亀高校の同級生が茶水大の学生として参加していました。丸亀の才媛で、そのときの自治会執行部は民青でした。少し前に戻り60年安保の直後は構造改革派でしたね。これは当時茶水の学生だった稲沢潤子さんが小説のモデルとして使っています。『冬草の萌え』でしたか。しかし津田塾と奈良女は半世紀経っても微動だにしませんね。国学院も琉球大も愛知大もです。 投稿者 : KM生 04/30 15:26 お茶大学生自治会の件、速攻で掲載頂き有難うございました。さて、今日のTV番組は(民放も国営放送も)「平成最期の日」一色。ある種のファシズムを感じさせるような怖さです。まだ昭和天皇の死の際には、「元号法制化への疑問や昭和天皇の戦争責任の有無」など負の部分も取上げられていますた。今回そうした影の部分への視点の報道がないのは、「戦争を知らない世代が国民の大多数を占める現在、皇室や元号への抵抗がなくなったから」といってしまえばそれまでです。しかしこうした社会的雰囲気の中にあっても、京都新聞が(読者の反発を覚悟してでも)読者投稿欄に「令和という元号は戦争中の勅令を思い出させてけしからん」という高齢者の声や、「天皇代替りに伴い使われる巨額の皇室費の元は国民の血税であり、むしろ年金に回すべき」という声を掲載した勇気には敬服しますた。「まだまだ日本のマスゴミも捨てたものではない」と感じますた。 今回の「事件」でトコトンぼろが出たな。だいたい逮捕された長谷川薫さんはせいぜい建造物不法侵入容疑だろう。軽犯罪でさえなかろう。残念ながら無思想らしい。褒められたことではないが、ある種の支持は広範に存在するだろう。なんせ「刃物」を置いただけだからな。 報道で不思議なのは「刃物」の設置のされ方と、その具体の描写がまったく無い点である。警視庁が隠したのか、それともブル新聞が自主規制したのか、まるで不自然なのだ。まるで犯罪でない軽微ないたずらを重要犯罪に仕立ているよふ やう に見える。 いずれしても、ここにきて、という意味は明仁天皇退位に当たって、ブルメディアの菊タブーは一斉に再開された如くである。ただ、長谷川薫さんの意図の如何に拘わらず、彼が天皇退位と、浩宮の天皇即位に花を副えたことは事実である。だからと言って長谷川薫さんのやったことを評価しているわけではない。たんなる幼稚な悪戯でしたね。
2019/04/30(火) 07:59:28 |
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古本屋通信 No 3964 2019年 4月29日 いまさらのシンヒヨ事件 久保護といふ人の 「分派」と呼ばれた男 “新日和見主義"事件と日本共産党改革案 なる新刊書が、この2月に白順社という出版社から刊行されたそうだ。この社は「革共同政治局の敗北1975~2014 あるいは中核派の崩壊」 を出版している。福冨健一の「日本共産党の正体」の如きデマ本ではない。真面目な左翼本である。それにしても3170円は高い。 取り扱いは模索舎だった。これで小売りと地方小出版の流通ルートに乗せるのだろう。目次も見たが特に読みたいとも思わない。だが今あらためてシンヒヨに就いて、屋上に屋根を重ねるのも悪くないと思った。 投稿者 : KM生 04/29 23:52 白順社は、10年以上前に「小林多喜二を売った男」 くらせみきお著を発行しています。ここで初めてスパイ三舩留吉の正体と事件後の生涯が明らかにされますた(立花隆や松本清張でさえも明らかにできなかった)。いわば歴史的スクープですたが、その割には話題にならなかったですねえ。 結論を端的に書く。この事件は川上さんの著書で終っている。つまり過去完了になっている。教訓など、あると言えばあるし、言わなくても判り切っている。つまり川上さんはシンヒヨ同窓会を経過する中で、この事件を早々に相対化した。分派であろうとなかろうと同じだが、分派と認めて総括を終えた。これに対してネチネチと未練たっぷり事件に拘泥し続けたのが油井さんである。 さらに結論を書く。シンヒヨ事件に連座した民青同盟員党員は200名あまりだったが、当時かれ等を支持した民青同盟員党員は、私も含めて数万人はいた。そして其の殆どは事件を相対化できた。つまり川上さんを支持したが、油井さんを支持しなかった。それは川上さんのお別れ会に参加した人々に典型的に顕われているだろう。久保護さんの本は未読だが、おそらく事件を相対化していないと思う。時機が遅すぎるのだ。私があまり食指を動かされない所以である。 私はいつもいつも事件を意識しているわけではないが、拙文のすべては新日和見主義者の遺言 といえば遺言である。 問題は古本屋通信が只の1ミリでも現在の日本共産党に届いているかである。ゼロではないと思っているから書き続けている。 いま階下に降りて行って、連れ合いに訊いた。私 「おい、オカアさん、新日和見主義事件って、アンタ、聞いたことがあるか 」 連れ合い 「ああ、ある、ある。でも何か説明せえと言われても、何か言える素地は全くないよ 」私 「民青の香川県委員長の田村さんが連座したのを知ってたか 」連れ合い 「聞いたことある。アンタ以外からも聞いた。へーえと思った。それだけよ 」 当時の民青の半分は連合いの類いだった。面白がって言っていない。 その後の半世紀の党生活を分けた分岐点であった。ただ、この事件が他の分派事件と決定的に違ったのは、われわれ夫婦の間で離婚は勿論のこと、夫婦間の政治的軋轢を引き起こすことが皆無だったことだ。すなわち公式的には新日和見主義事件など存在しなかったのである(党も隠したのだ。事件後に党論文を集めて「新日和見主義批判」なる文献集が出版されたが、それは批判対象の個人名・論文名を挙げていない文集であった。いま見たらアマゾンで1万円以上の高値がついていたが、資料としても下らない本である。こんなものを読んでも事件について何ひとつ分かりはしないのだ。私は油井さんの資料収集の意味が理解できない) 。 また、党に残った者がしあわせだったか、それとも離れた者に100パーセント正当性があったか。にわかには断定できまい。私は男の典型、連れ合いは女の典型であった。私は寡聞にしてシンヒヨの女をひとりも知らない。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 虚言癖がある方なので、責任は持ちません。 1. 被差別者の秦野真弓 2019年04月29日 14:15 久保護様は、 1940年、♪夕焼けの赤とんぼ負われてみたのはいつの日かで、知られた兵庫県たつの市生まれ 1958年、姫路工業大学附属高校卒後は 理系営業職経て 団体職員に転職→これ日本共産党系かなあ 何で久保さま断らなかった? きっと、営業マンよりも 日本共産党系団体職員のほうが、給料良かったのかな 久保護様は、新日和見事件の後は、会社社長歴あるようです。羨ましいな 私も会社社長になり、楽したいな。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 あれっ、白痴の荒らしはまだ生きていたのか。 2. 一労組幹部(一応w) 2019年04月29日 19:51 今後不破没後の小池時代になったら、彼は右翼修正主義路線を取っていまの小池は右翼修正主義ではないらしい。 「党名を変更する」「科学的社会主義を放棄する」という可能性がある。いまでも言われているゾ。新発見とでも言うのか。 それで左翼教条主義反主流勢力VS右翼修正主義主流勢力の果てしない内紛に突入して左翼教条主義反主流勢力の担い手なんていないだろう。誰と誰なのか名前を挙げてみろ。 新たなる【玲和新日和見事件闘争】が勃発するかもw新日和見事件は闘争なんて無かったゾ。1972年春から夏に掛けて瞬く間に一網打尽にされた。分派でさえも無かったという見解が強かった。地方は皆無であり、後になって其の傾向の者を含んで新日和見主義者と命名されたに過ぎぬ。 もしこうなれば、共産党は実質的に壊滅するだろう。小池が委員長として党を牛耳っているのではないのか。支離滅裂。 それに対する考察のオモロイ動画w↓ 「野党共闘」の崩壊を予告する大阪12区補選の結果 https://youtu.be/_elf6j5gses まあでも民主集中制を共産党が放棄しない限りは、オマエ、小池が委員長になって、党名を変更して、科学的社会主義を放棄しているのに、民主集中制だけはまだ堅持しているのだな。分かってないんか、阿呆だから。 分裂の可能性は低いし分裂しないんだな。 なにより今の共産党員の大多数は、既得権益によってのみ結びついている層が殆どだから、実際共産主義なんてどうでもいいと思っているだろうから、意外に党名変更と共産主義放棄路線は、スンナリ行くだろう。自己撞着だな。 しかしスンナリ事が運んでもそれは・・・「だったら共産党は要らないだろ」で、有権者に対する訴求力を失うからジリ貧転じてドカ貧になって、植物人間状態になって、徐々に衰退・消滅していくのだろう。右翼の党消滅待望論そのものだな。 どうしようが共産党には悲劇的な未来しかないのだから、開き直って左翼回帰路線しかベターな選択肢はない。腰が定まらんが、要するに通俗的反共右翼を超える考察がゼロの投稿である。これじゃあ荒らしとしても三級品だな。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 俗論しか言うことはないのか、情ないなあ。 3. popper 2019年04月29日 21:56 党名変更は30年遅い。今やっても笑われるだけ。今までの党幹部全部引退ならインパクトがあるだろうけどw 1989~1990の東欧・ソ連の崩壊にあって、かなりの党が社民になった、そういう中でなんとか共産主義の旗を死守してきたのが日本の党だった。それを嘲笑するゲス。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 下が、新日和なんか無かったという証言。4. ぼやきのおっちゃん。 2019年04月29日 23:19 70年台半ばに民青に引き込まれたおっさんやけど、 新ヒヨ事件なんか聞いたことがなかった。 由らしむべし,知らしむべからず やったんでしょうなぁ。 思い返すと気分が悪い。 腹が立つ。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 an>6. KM生@読後感=葬送行進曲 2019年04月30日 23:43 150頁程度の薄っぺらな本に税抜き1400円は高いが、それでも「折角出版したのだから買ってあげよう」と購入しました。速攻で読破したが、 1)何一つ目新しい証言はない。「よくこんな無内容な本を出版社が(鼻から採算取れないのが判り切ってるのに)発刊してくれたなあ」といふところ。 2)前半で「自身の新日和見主義追放体験」を語っているが、これらは基本的に従来の川上徹や油井喜夫の著書と同じ。後半で「党改革への提言」を行っているが、これも「藤井一行のレーニン主義論=批判の自由と行動の一致」の焼写し。 以上何ら評価するところのない駄作(^^)。それよりも(皮肉を込めて)感心するのは、79歳の著者がいまだに日共への幻想を捨てきれていないところ。是非日共と共に逝去してくれ給へ。合掌 なんでアマゾンで3000円以上だったのか、早くも古書価だったのか。それは措いて、目次を一瞥して、それをコピしようとも思わなかったのは、上記のような駄本だと直感したから。それは同じ著者の他の著書を検索していっそう思った。「久保護様は、新日和見事件の後は、会社社長歴あるようです。羨ましいな」 (秦野様)。別に社長けっこうだがね。 久保護 1940年、兵庫県たつの市に生まれる。1958年、姫路工業大学附属高等学校卒。ゴムベルトメーカー勤務3年、団体役員10年、臨床検査所営業職約10年、民間医療機関事務幹部約9年勤務。1993年、会社設立。薬局、保育、訪問介護の管理運営。2008年、引退(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 『「分派」と呼ばれた男 新日和見主義 事件と日本共産党改革案』より 『 神戸長田で四十年 イネさんの看護物語』 ¥1,543
2019/04/29(月) 14:10:53 |
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古本屋通信 No 3961 2019年 4月28日 古本屋通信はヘイトスピーチ満載ですが、いけませんか 林 潤さんがリツイート C.R.A.C. Okayama @crac_cgk · 4月20日 [広島] [HATE ALEART] 4月28日(日) 13時〜 広島市中区本通交差点付近 日本第一党広島(在特会広島)による差別街宣にカウンター。 差別主義者に対抗することでマイノリティや他市民に対し正義が行われていることを示せるはずです。 #0428広島ヘイト街宣を許すな 詳細→ https://tmblr.co/ZUEXIq2hgE-9w 古本屋通信 ヘイトスピーチであろうが無かろうが、いかなるスピーチ(言論)も、民主主義社会においては等しく保証されなければならない。それぞれの言論は言論内容自体の当否によって、支持または不支持される。その選択の自由によって有力な言論が力を持ち、やがて世論を形成する。言論内容が拙劣だったり差別的だったりすれば、やがて其の言論は淘汰され、社会的力を持つことなく、社会から消えていくだろう。そのためにはいかなる言論も出発点において平等に保証されねばならない。 自分の気に入らない言論を、前もって実力で阻止することは絶対に許されない。だいいち誰に他人の言論を「差別」だの「ヘイト」だのと決める権利があるのか。仮に明らかに多数が 「差別」 だ、「ヘイト」 だと認定したとして、そう思わない少数者の言論は抹殺してもよいのか。絶対に許されない。 カウンターなる奇妙な用語は言論の自由を実力で阻止するとき使われる。右翼団体であれ誰であれ、予め届け出た集会の自由はある。その集会に反対であれば、集会反対の別集会を別な場所で届け出て開催しなければならない。いずれの集会がより多くの支持を得ることができるか、それのみによって勝敗は決定されるべきである。 他人の言論を「差別」だの「ヘイト」だのとレッテルを貼って言論封殺し、挙句のはて多くの利権集団を生んだ経験が、かつて日本でもあった。部落解放同盟である。いま同じことをやってる中枢は、かつての解同の流れをくむ旧民主党、現立憲民主党である。典型的人格は有田芳生であろう。暴力分子である。 おどろくべきは旧全解連の流れをくむ人権連が断固とした態度をとらないことである。 林のようなチンピラが、と私が書けば、それがヘイトスピーチになり、カウンター行動で阻止されることになるという。恐ろしい世の中になった。
2019/04/28(日) 16:35:48 |
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古本屋通信 No 3960 2019年 4月27日 旧優生保護法の国会成立(1948年)に関して、日本共産党の責任を問う見解は、ためにする批判である なにやらキンピー板が問題にしているようなので、それをお読み頂いたあとで古本屋通信をお読みください。私の見解をざっと書いておきます。 半世紀以上前の社会状況、その世界史的流れと日本の貧困の中にあって、全体状況を捨象して、一政治党派が採用した選択、ここでは優生保護法賛成の当否を論じることは、少なくとも弁証法的唯物論の立場からは賛成できません。それが人権問題に抵触する様々を後に引き起こそうともです。 当時にあって、日本社会党と日本共産党が採った選択はやむを得なかったと考えます。ただ当時にあってやむを得なかったにせよ、後の経過の中で誤りだったことは多々あります。だから社会党は謝罪した。共産党も穀田が一定の反省を示した。これで十分です。これは政府の安倍総理も同じです。かれも戦後まもなくの保守政権の優生保護法制定がもたらした不作為を謝罪した。だからといって当時の政権のやったことに自分が責任があると思って詫びたわけではない。 とにかくキンピー板のとおりがかり様のようなのは感心しない。没歴史と没論理の典型であり、それがもたらすものは低俗な反共である。少し断種手術で有名な岡山邑久郡の長島愛生園のことを書いてみようか。 半年ほど前に長島愛生園の旧事務局から出たらしい大量の資料を読んだ。ここでの園長・光田健輔の断種手術は有名である。トコトン糾弾する人は多い。だがライ治療の父と慕われていたのも事実である。二つの顔を持つ戦後ライ病の大家である。だが今に至るも評価は確定していない。そんなことはなかろう、共産党は光田をトコトン糾弾しているだろう、と思うだろう。だがそんなことはないのだ。党としての評価はしていない。個人の評価まで制限しないということだ。 日本の敗戦からほどなく、日本共産党は徳田や野坂らによって再建された。岡山での党再建のトップを切った一つが長島愛生園患者会細胞であった。この党組織は今日に至るまで延々70年存続している。今でも党岡山県委員会は年に一度、長島に出向いて党組織と交流している。 結論を急ぐ。党長島愛生園支部が、戦後まもなく党が採った選択を知らないことはありえない。当時徳田や野坂が採った選択は正しかったとは云えないまでも、やむをえぬ選択であった。 これ以上は書かないで下にウィキの記事を貼っておく。非歴史は非論理に通じる。非論理は弁証法ではなく形而上学である。さあ如何なる投稿があるか。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ちょっと追加する。下に光田健輔のウィキ記事を貼ったからお読み頂きたいが、かれが断種手術を断行した個所にこういう記述がある。 患者への断種については、優生学に基くというより、患者間の性の問題が関係していたとして光田を擁護する論がある。それによれば、各地の国立療養所では、男女別に収容されていたにもかかわらず、早朝に施設を巡検すると男女が入り乱れて寝ている姿が発見されることなどがあり、結果的に望まぬ妊娠・出産が多発し、子供の扶養の問題が施設の運営を圧迫していた。 この問題に対して、ハンナ・リデルの運営する熊本回春病院などキリスト教系施設では、徹底して患者に禁欲を強いたが、光田は人間の恋愛の情を強制的に禁ずることの惨さを批判し、一定の制約の下で結婚を認めようという現実的な方針を採用し、結婚の条件として患者に生殖能力を人工的に消失させる断種手術を課したという。強制断種は当時においても違法であり、光田は「告訴されれば私が刑務所に行くまでだ」と確信的であったという。 私は納得する。熊本回春病院の禁欲主義は当然ながら違反者を園から追放したであろう。長島愛生園の光田は患者間の性愛をみとめ、次善の対策として強制避妊を実行した。もちろんこれを非人間的として批判することは容易い。小状況を見て大状況を見ていないとの批判も当たっている。だが経験則上は批判できないのではないか。私はとにかく後になって結果でモノをいう論法に反吐が出るのだ。とおりがかり様については、日本共産党のもっとも稚拙な部分、たとえば池内さおりが多用する言い方とそっくりだ。なにが共産党批判かと言いたい。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 以下だが、殆ど取るに足る批判は無い。とくに623が情ない。坊主憎けりゃで、ここまで目が見えなくなるのか。 私の上記記事を読んで、さらに党が弁明に終始していると見えるのだろう。今後は単なる反共分子と見做す。こういう低レベルの罵倒に終始している限り、党は生き長らえるだろう。痛くも痒くもないからだ。 3 623 @共産党 2019年04月27日 17:45 謝罪と自らの負の部分については責任逃れと詭弁に終始する共産党! ま、いつもの事だけどね。 共産党は人民に「指導」してもらわないとねw 恥を知りなさい。 5. ぼやきのおっちゃん。@623様 2019年04月27日 23:15 指導するに値せず。 ただただ監視するのみ。 ですわw7. 623@ぼやきのおっちゃん様 2019年04月28日 03:15 5. そうですね。 もはや監視する必要すらないかも知れませんw 呉の全労連は釣りクラブと化しました(爆 市議もたった一人になって虫の息です。 8. 糾す会@3.623様 2019年04月28日 08:00 共産党の辞書に<責任>と<恥>の文言はありません。 9. 623@糺す会様 2019年04月28日 21:22 ご無沙汰しています。 まさに、その通りですね。 一切責任を取らず、恥も外聞もなく責任転嫁して前向きな議論や将来展望すらまともに出来ない連中だと思います。 ほっといても共産党は自然淘汰され、屍の上に真の民衆政党が誕生することでしょう。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 やれやれ、やっとマトモな詳論が出た。パーフェクトな議論である。それを認めたうえで、 5)の部分の党の対応(悪いことは何でも徳田や野坂のせいにする)に関して、今回の件に限ってだが、疑問を提出しておきます。 10. KM生@その1 2019年04月30日 08:03 当時の時代背景を考えずに今日的視点で問題視するのは、「時空を超えた妄想」に過ぎません(^^)。 1)終戦直後の混乱期、食糧不足は深刻だった。しかも復員兵による46年結婚ラッシュと、(結果的に翌年の)いわゆる「ベビーブーマー・団塊の世代の出現」は、国策としての人口抑制=産児制限を余儀なくした。 2)産児制限自体は、「産めよ増やせよ」が国策だった戦前戦中は当然認められず、闇中絶に頼るしかなく(結果的に)当時の未発達の産科医療の中で多数の女性が命を落としたり或いは重篤な後遺症を蒙った。 3)ある意味「旧優生保護法」が(今日的に見れば障碍者の人権侵害という問題点はあっても)、「人工妊娠中絶の合法化(それこそ日共系山宣が自らの生命を賭して戦前から訴えてきたものだった)」という長年の女性の権利拡大の象徴として、「旧社会党婦人議員の議員提案で、保守派や日共も含めて全会一致で採択された」のも、当時の時代背景を考えれば当然だった。(続) 11. KM生@その2 2019年04月30日 08:17 (承前) 4)以上より私は、「言い出しっぺだった(旧社会党の流れをくむ)社民党が謝罪する」のは当然だ。しかし(当時の時代背景の中で文字色 )これに賛成した自民党や日共は党として謝罪する必要はない。穀田の謝罪で十分。 5)むしろ今回の件で日共がいただけないのは、「徳球や野坂など(死後否定的評価をしたり除名した者)に責任を擦り付けている」点。少なくとも「自分の党名に誇りを持っているがゆえに党名変更の必要はない」というのなら、自らの党史に対して誠実であるべきだ。何度も繰返したように、旧優生保護法は(今日的不十分さはあっても)当時としては画期的意義を持つものであった。そうであるがゆえに、当時の日共も含めた全会一致で採択されたのだ!当時の日共が賛成したのはある意味当然であったし、むろん今日的不十分さは(決して野坂や徳球の個人責任ではなく)、「党自体の歴史的限界によるもの」だったのだ! 12. KM生@その3(最終) 2019年04月30日 10:20 6)第一終戦直後であれ現在であれ、日共は「国会法案議決に関しては議員団や議員個々で対応するのではなく、党として対応を決定している」ことに変わりはない。むろん当時でも、法案採決に関しては「議員個々の自己判断ではなく党として対応した」筈である。この点からも、「徳球や野坂の個人責任を問うことはできない」のは当然だ!「党として責任を負うべき」事柄なのだ! 党が機会あるごとに自党の歴史の負の部分について、徳田や野坂を悪者にして現執行部の責任逃れをしてきたことは紛れもない事実である。だが今回の件は如何であろうか。同じことをやった可能性はい大いにある。だが提出されている資料と証言は以下のみである。これが信頼に足りる資料と証言であらうか。はなはだ疑問である。 Kame Ron Diaz(San Diego出身) @kamesan1959 旧優生保護法は、当時の衆院の野党、社会143議席、共産4議席。参院で社会47議席、共産4議席も賛成して成立した。 共産党は賛成の事実に触れず謝罪することなく「国の謝罪と補償を早急に行う必要がある」との見解を表明し、穀田氏が「不作為の責任」だけを謝罪している。 これが誠実な態度なのだろうかKame Ron Diaz(San Diego出身) @kamesan1959 友人の質問に中央委員会政策委員会からの回答があった。 1.当時は野坂参三、徳田球一らが議員であり、現在と意識が違う。 2.社民党は謝罪をしたが、我が党と異なり積極的な提案をしたからだ。 3.昨年の見解、穀田議員の謝罪で十分であり追加謝罪の考えはない。 が 4.国の謝罪については未検討。上段はこの男の時空をこえた共産党の責任追及の弁であり、他にも倉林の国会発言を批判したりしている。まあよい。だが下段はいったい何だ。仮にこの男の友人が党政策委員会に質問を提出して、政策委員会から回答があったのは事実としようか。だが1~4は回答の全文ではなく、たぶん要旨でさえなく、この男が自分流に各一行で翻訳したもの であろう。それが決定的に創作だということだ。デタラメなデッチ上げだということだ。 主要には1である。党が徳田を悪者に仕立て始めたのは7大会以後、旧徳田派が鬼籍に入り始めてからは罵倒のやり放題だった。野坂は除名以後だから、古い話ではない。やりたい放題だった。だが只の一度も彼らの「意識」を非難したことは無かった。 笑わせるではないか、「当時は野坂参三、徳田球一らが議員であり、現在と意識が違う」 と。完全なでっち上げである。こういう言葉は共産党中央の誰であれ絶対に使用しない。してみれば2~4もいい加減である。ほぼ確定である。とくに2は他党への言及であり、当時の社会党と現在の社民党は別の党である。社民党が旧社会党の歴史を引き継いでいるから謝罪したのは正しいだろう。だがそれについて、共産党が「我が党と異なり積極的な提案をしたから」謝罪した、などと言うであろうか。これもこの男流の歪曲された要約であろう。 私はKame Ron Diaz(San Diego出身)なる男のツイッターがそもそも信頼性がなかったと思う。党のご都合主義はそのとおりだが、今回それに当たるとの証拠はない。敢て党弁護の弁を書いた。 この部分、読みにくいので、10. KM生@その1以下を別板として立てる。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 優生保護法 ウィキペディア 優生保護法(ゆうせいほごほう)とは1948年から1996年まで存在した、優生学的断種手術、中絶、避妊を合法化した法律。 法律制定の背景、経緯[編集] 19世紀後半にフランシス=ゴルトンが提唱した優生学は、20世紀に入って世界的に国民の保護や子孫のためとして大きな支持を集めるようになった。その教義の一環は断種法の制定であり、早くも1907年にアメリカ合衆国のインディアナ州で世界初の優生思想に基づく堕胎・断種法が制定された。それ以降、1923年までに全米32州で制定された。カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者なども対象となったこともあった。1930年代はドイツ、北欧諸国など世界的に断種法が制定されていった。日本でも1940年(昭和15年)の国民優生法が制定され、戦後、1948年(昭和23年)に優生保護法に改められた。 戦後の優生保護法の背景になったのは、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題であった。戦前から産児調節運動家として活動してきた加藤シヅエや太田典礼は、1946年(昭和21年)4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙で当選した後、日本社会党の代議士となり、1947年8月に優生保護法案を提出した。母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあると判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めた。彼らは死ぬ危険のある出産は女性の負担だとして人工中絶の必要性と合法化を主張した。これに加えて、国民優生法では不充分とされた断種手術の徹底も求めた。しかし、この社会党案はGHQとの折衝に手間取ったこともあり、国会では十分な議論がされず、審議未了となった。1948年6月12日に提出され、参議院で先議された後、衆議院で6月30日に可決され、7月13日に法律として発布された。1949年、52年に優生保護法は改正され、国家的に避妊を奨励し、中絶規制を緩和する内容となっていった。1952年に「経済的理由」を目的とした中絶が認められた。 改正案を巡る議論[編集] 1949年(昭和24年)の法改正により、経済的な理由による中絶の道が開かれ、1952年(昭和27年)には中絶について地区優生保護審査会の認定を不要とした。 その後、高度成長により、経済団体の日本経営者団体連盟(日経連)などからは、将来の優れた労働力の確保という観点から中絶の抑制が主張されるようになった。また、宗教団体からは、生長の家とカトリック教会が優生保護法改廃期成同盟を組織して、中絶反対を訴えた。 一方、羊水診断の発展により、障害を持つ胎児が早期に発見されるようになり、日本医師会や日本母性保護医協会は、生長の家などの主張には反対しつつ、障害を持つ胎児の中絶を合法化するように提言した。1972年時の優生保護法改正案には、下記の2に示される胎児条項が記載されたが、これは同時代の出生前診断技術の勃興を受けて、日本母性保護医協会が導入を主張した結果であった。これに対して、全国青い芝の会などの障害者団体は優生学的理由を前面に出した中絶の正当化に対して、中ピ連やリブ新宿センターなどの女性団体からはそれに加え、経済的な理由に基づく中絶の禁止に対する反発が広がるようになった。 1970年代から1980年代にかけて、中絶規制緩和をめぐって激しい議論がなされた。それを受け、1972年5月26日、政府(第3次佐藤改造内閣)提案で優生保護法の一部改正案が提出された。改正案は宗教団体などの意向を反映したもので、以下の3つの内容であった。 1.母体の経済的理由による中絶を禁止し、「母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれ」がある場合に限る。 2.「重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる」胎児の中絶を合法化する。 3.高齢出産を避けるため、優生保護相談所の業務に初回分娩時期の指導を追加する。 障害者団体からは主に2が、女性団体からは主に1と3が反対の理由となった。法案は一度廃案になったが、1973年に再提出され、継続審議となった。1974年、政府は障害者の反発に譲歩し、2の条項を削除した修正案を提出し、衆議院を通過させた。しかし、1974年6月に同修正案に反対する日本母性保護医協会の推した候補、丸茂重定が選挙で圧勝したことで、参議院では審議未了で廃案となったとの意見がある。 生長の家などによる、経済的理由による中絶禁止運動はその後も続いた。中絶容認しないカトリック教徒のマザー・テレサは、1981年・1982年と二度の来日で、中絶が認められることへの反対を訴えている。一方で日本母性保護医協会、日本家族計画連盟などが中絶を禁止するべきでは無いと主張し、地方議会でも優生保護法改正反対の請願が相次いで採択された。 その結果、1981年(鈴木善幸内閣)から再度の改正案提出が検討されていた。1983年5月(第1次中曽根内閣)には、自民党政務調査会優生保護法等小委員会で「時期尚早」との結論を出した。1983年6月26日投票の参議院議員選挙では、自民党内の生長の家系、日母系の陣営のいずれが勝利するかが、改正案の帰趨を制すると見なされたが、勝利したのは日母の側であった。結果、生長の家政治連合は解散した。以後の優生保護法改正案の国会提出は断念された。 1996年(平成8年)の法改正により、法律名称が母体保護法になった。なお、優生保護法、母体保護法ともに、議員立法によって制定・改正が行われてきている。ただし、行政実務上の主務官庁は厚生労働省(雇用均等・児童家庭局母子保健課)となっている。 <
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 光田健輔 ウィキペディア 光田健輔(1956年) 光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年1月12日 - 1964年5月14日)は、日本の病理学者、皮膚科医。生涯をハンセン病の撲滅に捧げ、国立長島愛生園初代園長等を歴任した。生前は「救癩の父」と崇められ、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けた。その一方で、患者の絶対隔離政策を推進する「癩予防法」改正、無癩県運動、「らい予防法」制定等の中心人物であり、日本の対ハンセン病政策の明暗を象徴する人物ともされる。贈正三位勲一等瑞宝章。 生涯[編集] 1876年(明治9年)1月12日、山口県佐波郡中関村(現・防府市)に生まれる。 高等小学校卒業後に上京し、医師・賀古鶴所宅で住み込み書生をしながら苦学して、医術開業前期試験に合格した。合格後は実技試験対策のために済生学舎に入学、1895年、開業後期試験に合格する。済生学舎の同期に野口英世がいる。 東京帝国大学医学部選科に籍を置き、学士でないハンディを乗り越えて病理学を学び、ハンセン病の撲滅を志すようになる。当時ハンセン病の療養施設「養育院」から献体があったが、学士の同僚達は罹患を恐れ、誰も解剖をしようとはしなかった。「ハンセン氏病の患者を救いたい」という一心から光田は危険を顧みず、解剖にあたったとされる[1]。 1898年、東京帝国大学医科大学専科(病理特科)を卒業し、同年7月に、東京市養育院に就職する。翌1899年にかけて、院内に「回春病室」を開設し、ハンセン病患者の医療に取り組み、患者隔離政策の推進派となる。1908年には同院副医長に就任。 1909年、公立癩療養所全生病院医長に就任。1914年(大正3年)、全生病院長に就任するとともに、保健衛生調査会委員に就任し、ハンセン病予防事務視察のため、欧米各国などに渡る。1915年には、入所者に対してはじめて断種手術(ワゼクトミ-)を行う。これは男女別に収容されていた入所者間に子供が生まれたことを背景に、入所者間の所内結婚(通い婚)を認める条件として、男性入所者に対して行われたものであった。 1919年に発表した論文「らい結節乳剤を以ってする皮膚反応の価値」は、ハンセン病の病型を診断する「光田反応」の開発へと繋がる研究成果であった。1923年にストラスブールで開催された第3回国際らい学会では名誉会頭・座長を務め、「光田反応」などについて発表したが、反応はなかった[2]。なお、光田反応は弟子の林文雄によって完成された。 1930年(昭和5年)頃より日本政府によるらい根絶運動が本格化し、光田はその中心人物の一人となる。同年、岡山県の長島に完成した国立療養所長島愛生園の初代園長に就任する。1931年4月には癩予防法が改正され、全ハンセン病患者を強制隔離する無癩県運動がはじまった。1943年にハンセン病特効薬プロミンが開発され、1947年には日本でもプロミンによる治療が開始され、薬物療法が確立されて強制隔離の医学的必要性が疑われるようになっても、光田は強制隔離政策の維持・強化を主張し続けた。 1951年、ハンセン病治療研究および患者救済における功績により文化勲章を受章する[3]。また、山口県防府市並びに岡山市名誉市民[4]となる。大島青松園長野島泰治によれば、すでに1943年に文化勲章受章の動きがあったという。これによれば、同年秋の全国癩療養所所長会議が東京で開催された翌日、厚生省医務課秘書課長が野島に対し、光田反応の発見を理由とした光田への文化勲章奏請について意見を聞いたといい、野島は光田反応は光田の業績のごく一部にしか過ぎず、「先人未到のライ病理の解明をされたことこそ文化勲章に値する」という理由で、光田反応を理由としたもの文化勲章奏請に反対したという[5]。また青柳緑は、1950年から翌年にかけて光田のハンセン病関連論文をまとめた『癩に関する論文』の第2〜4輯が刊行されたのは、光田を文化功労者にするための井上謙と厚生省の好意ある陰謀と評している[6]。 その後も、1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法令の存続に力を入れた。1957年3月に退官し、長島愛生園名誉園長となる。1961年には、ハンセン病医療への貢献に対して贈られるダミアン・ダットン賞(Damien-Dutton Award)を受賞した。 1964年5月14日死去。享年89。死後2時間後、岡山大学の浜崎名誉教授と小川教授の執刀により、遺体が病理解剖された後[7]、遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。叙・正三位、勲一等瑞宝章追贈。 評価[編集] 光田はハンセン病の治療、研究に長年従事し、ハンセン病関連の日本おける政策提言や、患者救済事業に積極的に取り組んだ「パイオニア的な存在」として、医学界からも社会からも高く評価され、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けている。 病理学においては、多くの診察・解剖を通じて、結核とらいの合併の証明、中枢神経病変、動脈病変の研究など、広範囲にわたる業績を残した。特に1919年の「らい結節乳剤を以てする皮膚反応の価値」は、病型分類に大きく貢献する「光田反応」の基礎となる内容で、世界に先駆けた業績として高く評価される。光田反応は、その後、林文雄をはじめとする光田の門下生により完成された。ただしこの反応自体は現在は抗原を入手することが困難になり、行われることは少ない。 また、19世紀末から20世紀初頭、市井において、ハンセン病患者に対する激しい忌避と差別感情が存在し、それに対し当時の内務省が、本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅に献身したことも評価されている。以下の文化勳章受章理由は、光田に対する肯定的評価を代表するものである。 厚生技官(国立療養所長島愛生園長)光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。 — 内閣府 一方、主に20世紀後半以降、日本におけるハンセン病政策の不当性や、患者・元患者に対する人権蹂躙が論じられるようになるにつれ、光田に対する批判もなされるようになった。特に患者に対する強制不妊手術・人工妊娠中絶手術の実施や、ハンセン病患者の強制隔離政策(無癩県運動)の推進に深く関わった点、1940年代以降、特効薬プロミン等による薬物療法の確立後も強制隔離政策の継続を強く主張し、らい予防法(1953年)に積極的に関わった点等は、ハンセン病元患者や、藤野豊などのハンセン病問題を研究する歴史学者などから、差別や人権侵害を助長したものとして批判されている。無癩県運動にかかわった組織による反省声明にも、光田の主張を受け入れてしまったことによる謝罪の弁があり[8]、文化勲章を剥奪すべきとする人もある[9]。 このような光田批判に対しては、当時の文脈においては合理的な判断であり、また光田自身には患者を救済しようとする人道的意図があったとして光田を擁護する反論もある。例えば、光田が患者救済と差別助長という矛盾した行動を取った背景について、藤野豊は「らいは恐ろしい伝染病であり、らい患者が存在することは文明国の恥である」という光田独自の考えがあったからではないかと論じている。 これに対して、光田に師事した医師犀川一夫は、光田が「たとえ病原菌が無くなっても、世間の差別の目のせいで元患者が社会復帰するのは難しい。だからあえて隔離するのだ」と主張した事例を紹介し、当時の患者を取り巻く状況においてはそれなりの合理的な理由があったのではと述べている[10]。 また、患者への断種については、優生学に基くというより、患者間の性の問題が関係していたとして光田を擁護する論がある。それによれば、各地の国立療養所では、男女別に収容されていたにもかかわらず、早朝に施設を巡検すると男女が入り乱れて寝ている姿が発見されることなどがあり、結果的に望まぬ妊娠・出産が多発し、子供の扶養の問題が施設の運営を圧迫していた。 この問題に対して、ハンナ・リデルの運営する熊本回春病院などキリスト教系施設では、徹底して患者に禁欲を強いたが[11]、光田は人間の恋愛の情を強制的に禁ずることの惨さを批判し、一定の制約の下で結婚を認めようという現実的な方針を採用し、結婚の条件として患者に生殖能力を人工的に消失させる断種手術を課したという[12]。強制断種は当時においても違法であり、光田は「告訴されれば私が刑務所に行くまでだ」と確信的であったという[13]。 光田の人柄についても、傲慢という評価がある一方で、謙遜ではにかみ屋、気前がよい等の評価も見られる。実力者でありながら、医学博士号をとらなかったことを謙虚さの証とみる者もいる。1907年の日本医学校の卒業証書に及第と署名した18人の教員中、光田一人が「医学博士」とも「医学士」とも書いていなかったという[14]。年俸は全生病院時代は2000円、愛生園園長時代は4000円であったが、研究や患者に必要なものには気前よく支出したといい、気の毒な患者に会うと50銭を握らせたといったエピソードが語られている[15][16]。 学問的業績[編集] 光田のハンセン病関連論文は5編の『癩に関する論文』に纏められている(長濤会、1935〜1952年)。以下には主要な論文等を挙げる。著者名のないものは光田の単著。 「癩性りんぱ腺炎について」東京医学会雑誌』13, 1899年 光田健輔・菅井竹吉「癩病の末梢神経および血管に於ける病変に就いて」『東京医学会雑誌』14,15, 1900年 「癩病の血管殊に静脈の変化及びその臨床的の意義について」『日本医学』15, 1906年 「癩病の中枢神経系における病理解剖知見増補」『神経学雑誌』6(6 and 7), 1906年 「癩性禿頭について」『東京医事新誌』1711, 1911年 「癩病に対する大風子油の価値」『皮膚科泌尿器科雑誌』12(12), 1912年 光田健輔・村田茂助「癩の血清反応について 第1報」『皮膚科及泌尿器科雑誌』19(7), 1919年 「癩結節乳剤を以てする皮膚反応の意義」『皮膚科及泌尿器科雑誌』19(8), 1919年 「疥癬と癩病との注染」『日本公衆保健協会雑誌』10(11), 1934年 Mitsuda K. "On the Langhans giant cell in leprosy and the stellete body in nodular leprosy". Int J Leprosy 3(3), 1935 「「ワゼクトミー」20周年」『愛生』第6巻4号、1936年 Mitsuda K, Ogawa M. "A study of 150 autopsies on cases of leprosy". Int J Leprosy 5(1),1937 Mitsuda K, Nagai K. "On alopecia leprosa". Int J Leprosy 5(3),1937 「「ワゼクトミー」に就いて」『皮膚科泌尿器科雑誌』41(3)、1937年 「30年間癩患者に接触したる石渡婦長の血液像と皮内反応」(第12回日本癩学会総会 抄録)『レプラ』13(1), 1941年 「癩型の分類について」『レプラ』15(2), 1943年 光田健輔・田尻敢・立川昇・本多正八郎「Cepharanthinによる癩の治療」『日本医学』3389, 1944年 「南方に行く程癩症軽るし」『レプラ』15(3), 1944年 佐藤秀三「第3回国際癩病学会概況」佐藤秀三により、同学会での光田の活躍が記される。 「癩病理講習会講演」(1949年)は質疑応答を含む。 光田健輔・横田篤三・犀川一夫「Promin並びに類似化合物による癩治療の協同研究」(第13回癩学会 抄録)『レプラ』20(5), 1951年 Atlas of Leprosy, 1952年(図譜) "Primary and secondary tuberculoid leprosy". Int J Lepr 24(3):264-8; 1956 Jul-Sep. また、『愛生』開園50周年記念号(昭和55年10別冊)に『愛生』に書いたエッセイ、短歌、参考事項250編以上の題号が纏められている。 文献[編集] 光田健輔『回春病室』朝日新聞社、1950年(朝日新聞社の藤本浩一と医師内田守による自叙伝) 桜井方策編『救らいの父 光田健輔の思い出』ルガール社、1974年(没後9年たって多くの人物による「思い出」をまとめたもの) その他、光田に関する論評や文献は多数存在する。 脚注[編集] 1.^ 武田徹『「隔離」という病い』 2.^ 第3回国際らい病学会概況 佐藤秀三 光田健輔 らいに関する論文第2編 1950 3.^ 『朝日新聞』1951年10月18日「文化勲章の受章者内定」等。同記事では、国立長島愛生園の光田健輔園長はライ患者の救済をはじめ、らい予防法制定などにつくした功績により受章内定と紹介されている。 4.^ 岡山市名誉市民|岡山市|市政情報|岡山市長室 5.^ 野島泰治 らいと梅干と憲兵 昭和46年 6.^ 青柳緑 らいに捧げた八十年 光田健輔の生涯 新潮社 1965 7.^ 桜井[1974:329-335] 8.^ (無癩県運動における真宗大谷派の謝罪声明を参照。) 9.^ 国本衛「光田健輔と文化勲章」『ハンセン病市民学会ニュース』6号、2008.3.13. 10.^ ただし、犀川自身はハンセン病国家賠償訴訟における証人の場でハンセン病隔離政策は誤りであったと主張しており、間接的にではあるが、光田のハンセン病に対するスタンスを批判している 11.^ 青木恵哉『選ばれた島』 12.^ 武田徹『「隔離」という病い---近代日本の医療空間』 13.^ 高山文彦『火花---北条民雄の生涯』 14.^ 桜井[1974:64-65] 15.^ 桜井[1974:160, 234] 16.^ 桜井[1974:234]
2019/04/27(土) 14:30:52 |
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古本屋通信 No 3959 2019年 4月27日 本日の赤旗 「参院選1人区一本化加速 志位委員長が枝野代表と合意 」 について アホらしいから赤旗記事の全文も要約も転載しない。この志位と枝野の鳩首会談に先立って、国民民主党の玉木雄一郎と小沢の会談が行われ、自由党はすでに解散した。新国民民主党の誕生になったわけである。 旧民主党の分裂から今日までの離合集散は、これ自体が第二保守党の内紛であり、その考察など日本政治の主要な問題ではないが、現時点の特徴は一言で言えばこうだろう。 野党第一党の立憲民主党の主要な関心は、野党共闘などであるはずがない。候補者一本化は自党候補に他党が乗るなら賛成だが、共産党を含む他党の候補者を推すなど、全く考えていない。主要な関心は国民民主党の解体である。そのことを枝野は隠していない。すなわち野党の課題の中心は国民民主党員が個別に立憲民主党に加わることだと公言している。ここまであからさまな他党攻撃は稀有であろう。 ここまで言われれば、国民民主党が野党共闘など考える訳がない。立民に対する憎悪のみで動いてきた。ここで支持率0パーセントの自由党の登場となる。策士小沢と言えば聞こえがよいが。他党の褌で相撲をとるしか能のない政治家のカスである。 あのね、共産党の志位であれ、国民の玉木であれ、小沢を利用しようと思った段階で、人間としてオワリなのよ。まだ枝野のほうがマシである。 以上のような中にあって、冒頭の赤旗の 「参院選1人区一本化」 など、当事者の志位も枝野も殆ど関心がない。今までの消化試合の延長としてやってるだけである。 この二人も衆参同時選挙の可能性を口にし始めた。私は余り興味が無いが、いずれにせよ参院小選挙区の32の一人区の大半では、同床異夢の候補者一本化はなるだろう。共産党が降ろすだけである。共産党候補で一本化される可能性はゼロである。よくて他党が候補者を立てないケースだけである。 さて立民と新国民の間で候補者調整が成るかだ。もちろん選挙協定も政策合意もない。そういう形では私はあると思う。要は自党の勝ち目のない一人区では立てないだけだ。 問題は、そういうガタガタの候補者で自民党に勝てるかということだ。私は3年前の12人はもちろんのこと、場合によっては0勝32敗もあると思う。野党共闘万々歳である。 衆参同時選挙は公明党に懸かっているが、ありえない想定ではない。そうなれば日本共産党は2017年総選挙を上回る惨敗であろう。はじめから小選挙区を投げているのだから比例だけだが、これまでに加えて、高橋千鶴子、畑野君枝、藤野保文、田村貴昭、本村伸子も落選するだろう。中国ブロックと四国ブロックは惨敗である。440万は300万前半まで下がるだろう。 共産党の命綱は参院東京選挙区と京都選挙区の2議席だけだ。吉良はジャンヌダルクである。京都の倉林明子は立民と国民のゲバが前提での当選である。以上、オワリ。補足 自由党と国民との合併が岡山の立民に及ぼす影響は多少はアルだろう。これまで国民の国会議員は衆院の津村だった。国会議員がありながら、国民の岡山県連がないのも奇妙な話だが、これは単に江田の指示だった。さて津村がどうするかだが、離党するのではない。まあ注目しておこうか。
2019/04/27(土) 06:46:35 |
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古本屋通信 No 3958 2019年 4月26日 宮本岳志さんはもう国会議員ではありません あとは静かに消えてくれ 国会議員ではありませんから、国会の中の何処にも宮本岳志さんの席はありません。形式上は党中央委員ですが、中央委員会勤務員ではありませんから、党本部の何処にも宮本岳志さんの坐る席はありません。もちろん党大阪府委員会にもありません。何処にも彼の行く場所はないのです。だって所属がないのですから椅子があるわけ無いのです。 どうだ、やい宮本、わかったか。処刑とはそういう意味なのだ。あと全党は誰ひとりの例外もなく本人の××を待っています。できるだけ他人に迷惑をかけないでね。村上国治は焼×体で発見されました。××でしょうが、失火の可能性もあります。理想的な×に方でしたね。 宮本岳志は阿呆だというので、キンピーサイトの多くの方も、何処か憎めない人格として語っておられます。私はこれにずっと違和感がありました。憎んでも憎みきれない売党分子でした。差別主義者でもありました。石原慎太郎のところに名刺を持ってオベンチャラを言いに出かけるようなエリート主義者でもありました。どうしても許せなかったのは、民青委員長森実の死に際しての追悼文でした。無条件に××です。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 共産党の屈辱的惨敗 - 展望を失って清算を迫られている「野党共闘」 世に倦む日日 2019-04-23 23:30 c0315619_15421186.png大阪12区補選の結果は、「野党共闘」の看板で出た元共産候補の惨敗に終わった。マスコミの情勢報道で苦戦が伝えられ、候補者4人中最下位落選ではないかと噂されていたが、何と、得票率8.9%で供託金没収という目も当てられない失態劇となり、ネットの各所で嘲笑されている。票数は、当選した維新新人が6万0341票、次点の自民新人が4万7025票、3位の樽床伸二が3万5358票、最下位の宮本岳志が1万4027票。樽床伸二の半分にも達していない。マスコミの出口調査によれば、選挙区の共産支持層すら固められず、2割を樽床伸二に奪われるというお粗末となった。過去の大阪12区(衆)の選挙で共産党候補が得票したどの票数よりも少なく、絶句させられる衝撃的な結果と言うほかない。現職議員だった共産党の宮本岳志がこの補選に打って出たのは、7月の参院選に向けての「野党共闘」の景気づけのためであり、この選挙で善戦して「野党共闘」を盛り上げ、その主導権を共産党が握るためだったが、全く逆の民意が返り、甚だしく共産党の威信低下をもたらす顛末となった。 c0315619_15422769.png大阪12区補選に対する共産党としばき隊のフォーカスとモチベーションは凄まじかった。2014年の東京都知事選ほどではなかったが、昨年の新潟県知事選の2倍から3倍のリソースの注力と動員はあっただろう。4月7日の統一地方選前半日程が終わった後、投票日までの2週間、しばき隊左翼のTWは宮本岳志の応援一色で塗り潰され、他の政治話題はTLに上がらなかった。来る日も来る日も、(1)宮本岳志の人物像の褒め上げ、(2)いかに有能で卓越した議員かの宣伝、(3)「野党共闘」の大義のために身を捨てた美談の強調、それらのフレーズが制作動画と共に乱れ飛び、埋め尽くされ、洪水のように溢れていた。選挙の戦況はどうだろう、何か情報を知りたいと思って、TWで「大阪12区」と検索すると、他の候補者の情報は出ず、客観的な情報は何も出ず、とにかく、しばき隊左翼による青と黄の宮本岳志の宣伝TWだけが山のように、果てしなく延々と連なり流れるという状況だった。TWの発信と拡散の量だけを見れば、宮本岳志がぶっちぎりのトップ当選でもおかしくない圧倒的景観だった。最下位というマスコミの中間情勢報道が出たとき、本当だろうかと疑ったものだ。 c0315619_15423966.pngネットの選挙運動だけでなく、共産党と「野党共闘」勢力による街頭活動も壮絶で、志位和夫と森ゆう子が毎日張り付いて宣伝カーに登壇し、「野党共闘」のシンボル・タレントである香山リカや山口二郎が顔見せし、小さな町にアピールとアジテーションを集中投下していた。選挙運動に投入された熱とエネルギーだけを計算すれば、宮本岳志陣営のそれは他候補の十倍以上だったに違いない。中盤、宮本岳志の苦戦が伝えられ、さらに選挙運動は激しく熱を帯びた。当選は無理でも接戦の次点が目標だったから、最下位落選では話にならず、「野党共闘」の展望が損なわれてしまうため、しばき隊左翼は必死になって奮闘した。3位の樽床伸二の襟首をつかむべく、寝食を惜しんで応援と激励のTWを乱打した。そして、今、戦い済んで日が暮れて3日が経とうとしている。私は常々、1978年の京都府知事選の思い出話に耽り始め、それを関ヶ原の戦いに喩えて物語る政治の習癖があるが、今度のネット選挙運動に没入し狂奔した若い人たちは、それと類似した苦い感覚を持ち、人生後半に何度も反芻し回顧することになるのかもしれない。共産党が徹底的に敗北した選挙となった。 c0315619_15425332.png今度の結果は次のように意味づけることができる。大阪12区に住む共産支持の有権者は、訳の分からない「野党共闘」の看板で出てきた無所属候補を拒絶したのだと。本当なら2万2000票入らなくてはいけないのに、1万4000票しか入らなかった。基礎票すら集めることができなかった。「野党共闘」のテーゼとスローガンが否定されたのだ。無党派だけでなく、共産支持の有権者までが、党本部が掲げて進めている「野党共闘」に納得しておらず、それに疑念を示しているのだ。立憲民主の支持層は6割近くが樽床伸二に投票していて、これまた「野党共闘」に期待・共鳴していない。「野党共闘」とは何なのか、その戦略で果たして安倍自民に勝てるのか、共産党や立憲民主党の支持者がそのことに確信を持っていない現実が浮き彫りになっている。「野党共闘」には4年の歴史があり、2015年のSEALDs運動の後に中野晃一が「市民連合」を立ち上げ、共産党が「国民連合政府」構想を宣言したときに戦略として定置された。いわゆる「3.11以後の社会運動」(=その中身はしばき隊運動)の延長上に構築された左翼の政治戦略だ。 c0315619_15430586.png私はそのときからずっと、「野党共闘」は国民に支持されないと言い、それは生き残りを模索する既成諸政党の打算と詐欺だと喝破し、必ず失敗し崩壊すると訴えてきた。SEALDs運動の欺瞞と合わせて包括的に批判し、しばき隊学者を糾弾してきた。理念と政策を共有できない既成勢力の野合では、安倍政権を倒す力にはならない。そう主張し、別の戦略設定(=永田町の外からの新党)が必要だと唱えてきた。時間が経てば、欺瞞の本質を国民が見破り、設計ミスが露呈し、説得力を衰えさせて国民の支持が離れるだろうと観測してきた。果たして、破綻はすぐ現れたかに見え、2016年2月の京都市長選で共産系候補が惨敗、同年4月の八王子市長選で「野党共闘」候補が惨敗する。3年前の京都市長選は、今回の大阪12区補選と風景が酷似していて、内田樹、白井聡、浜矩子、佐藤学らが応援団に名を連ね、共産党が本格的に組織を駆動させたパワフルな選挙戦が展開された。この頃は、SADLが都構想住民投票を阻止した2015年5月の余韻が残っていて、しばき隊運動が左翼世界で勢いの絶頂にあった時点だったが、結果はまさかのダブルスコア敗北で、京都の政治に例のない歴史が刻まれた。 c0315619_15431856.png今回、奇妙なことにSADLが動いておらず、大事な共産党の選挙戦に役立っていない。なぜ、こんなことになったのだろう。惨敗の原因を分析究明する必要があるが、私は仮説として - 3年前と同じだけれど - しばき隊の悪影響というイシューを提起したい。共産党の退潮は2016年から始まっている。その前、共産党の躍進は2013年から始まり、党勢を押し上げた原動力は明らかにしばき隊運動だった。その点についてはすでに詳しく論じた。2016年から下り坂になり、2017年の総選挙では、2016年参院選の601万票から160万票も減らした440万票となっている。本来、共産党はこのときに敗因を検証総括し、党勢失速の真因を突き止めなくてはいけなかった。だが、共産党はそれをせず、希望の党が「野党共闘」を壊したからと責任転嫁し、「野党共闘」戦略(=「国民連合政府」構想)の正当性に頑迷に固執、しばき隊との一体化路線をひたすら維持・継続することになる。そして、今回の統一地方選と衆院補選を迎えた。この敗北の事実について、科学の党がどこまで社会科学して問題点を正しく検出するかが問われている。共産党の支持層までも「野党共闘」に愛想をつかしていることを、党幹部は正しく認識する必要があるだろう。 香山リカや山口二郎が賑やかしで選挙カーに登壇する図は、最早、選挙の集票においてマイナス効果でしかない。有権者はうんざりしている。揚棄すべきだ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 党本部の何処にも居場所がありませんね 中央委員会の機構と人事(第27回党大会) 新しい中央委員会の機構と人事 第27回党大会で選出された中央委員、准中央委員と、第1回中央委員会総会で決定した新しい中央委員会の人事。2017年1月18日 三役 幹部会委員長 志位和夫 書記局長 小池晃 副委員長 市田忠義、緒方靖夫、田村智子、浜野忠夫、広井暢子、山下芳生 常任幹部会(25人) 幹部会が選出した常任幹部会は次の通りです。(50音順、○印は新) 市田忠義、岩井鐵也、浦田宣昭、太田善作、緒方靖夫、笠井亮、紙智子、小池晃、小木曽陽司、穀田恵二、志位和夫、高橋千鶴子、○辰巳孝太郎、○田中悠、田村智子、田村守男、寺沢亜志也、中井作太郎、浜野忠夫、広井暢子、藤野保史、不破哲三、水谷定男、森原公敏、山下芳生 幹部会(59人) 第1回中央委員会総会が選出した幹部会は次の通りです。(50音順、○印は新) 青山慶二、赤嶺政賢、鮎沢聡、市田忠義、井上哲士、○今田吉昭、岩井鐵也、岩中正巳、植木俊雄、浮揚幸裕、浦田宣昭、大久保健三、太田善作、大幡基夫、岡宏輔、緒方靖夫、岡野隆、荻原初男、笠井亮、紙智子、小池晃、小木曽陽司、穀田恵二、佐々木陸海、○沢田博、志位和夫、高橋千鶴子、○辰巳孝太郎、○田中悠、田邊進、田村一志、田村智子、田村守男、田母神悟、○堤文俊、寺沢亜志也、土井洋彦、中井作太郎、西口光、長谷川忠通、浜野忠夫、土方明果、広井暢子、○藤井正人、○藤田文、藤野保史、不破哲三、紅谷有二、増子典男、松田隆彦、水谷定男、森原公敏、○柳利昭、山口富男、山下芳生、○山村糸子、山谷富士雄、若林義春、渡辺和俊 書記局(23人) 第1回中央委員会総会が選出した書記局長を責任者とし、幹部会が任命した22人の書記局員で構成される書記局は次の通りです。(○印は新) 書記局長 小池晃 書記局次長 中井作太郎、田中悠、佐々木陸海 書記局員 ○今田吉昭、大幡基夫、○吉良佳子、○沢田博、田川実、田村一志、田村守男、辻慎一、○堤文俊、寺沢亜志也、土井洋彦、土方明果、○藤井正人、○藤田文、藤田健、藤野保史、水谷定男、山谷富士雄、○吉岡正史 訴願委員会、規律委員会、監査委員会 第1回中央委員会総会が任命した訴願委員会、規律委員会、監査委員会は次の通りです。(50音順、○印は新) 訴願委員会 責任者 太田善作 副責任者 紅谷有二 委員 武村拓三、姫井二郎、平井恒雄、○平兼悦子、吉田秀樹 規律委員会 責任者 田邊進 委員 ○岡嵜郁子、貝瀬正、成中春樹、福島敏夫、○米沢幸悦、松井信嗣、柳沢明夫 監査委員会 責任者 西口光 委員 三羽和夫、和田一男 中央機関紙編集委員会(23人) 幹部会が任命した中央機関紙編集委員会(23人)は次の通りです。(50音順、○印は新) 責任者 小木曽陽司 委員 飯山博之、石渡博明、稲田達、金子豊弘、工藤徹也、栗田敏夫、近藤正男、坂本伸子、○菅原啓、高柳幸雄、○竹本恵子、○堤由紀子、○中祖寅一、○中山芳樹、西澤亨子、○深山直人、藤田健、星野大三、松井信嗣、宮澤毅、○森近茂樹、山本豊彦 大会で選出された新中央委員会 第27回党大会で選出された中央委員、准中央委員は次の通りです。(50音順、○印は新) 青山慶二(62)/赤嶺政賢(69)/秋元邦宏(61)/鮎沢聡(52)/○石黒良治(57)/○石山淳一(51)/○伊勢田良子(42)/○板橋利之(51)/市田忠義(74)/市谷知子(48)/○井上和好(65)/井上哲士(58)/猪原健(40)/今田真人(70)/今田吉昭(59)/岩井鐵也(71)/岩切幸子(59)/岩中正巳(64)/植木俊雄(70)/上田俊彦(63)/○植本完治(57)/浮揚幸裕(67)/内田裕(60)/浦田宣昭(74)/遠藤いく子(68)/大内久美子(67)/大久保健三(69)/太田善作(69)/大嶽隆司(55)/大幡基夫(65)/大山とも子(61)/岡宏輔(69)/緒方靖夫(69)/岡野隆(69)/荻原初男(63)/奥谷和美(64)/貝瀬正(65)/笠井亮(64)/加藤清次(66)/金森亨(60)/紙智子(62)/上村秀明(58)/神山悦子(61)/川田忠明(57)/神田米造(67)/○吉良佳子(34)/久保田仁(60)/倉林明子(56)/小池晃(56)/小木曽陽司(62)/穀田恵二(70)/小菅啓司(66)/後藤勝彦(48)/小林年治(64)/小日向昭一(69)/駒井正男(49)/小松崎久仁夫(70)/小村勝洋(62)/佐々木陸海(72)/佐藤登(72)/佐藤文明(67)/佐藤正美(76)/沢田博(66)/志位和夫(62)/○椎葉寿幸(40)/塩川鉄也(55)/○柴岡祐真(32)/下角力(64)/庄子正二郎(61)/白川容子(50)/菅原則勝(58)/大門実紀史(61)/高橋千鶴子(57)/○田川実(52)/田代忠利(63)/○辰巳孝太郎(40)/田中悠(35)/田邊進(68)/○田邊良彦(52)/田村一志(54)/田村智子(51)/田村守男(67)/田母神悟(68)/田谷武夫(65)/○千葉隆(59)/塚地佐智(60)/○辻慎一(52)/○堤文俊(57)/鶴渕賢次(67)/寺沢亜志也(63)/土井洋彦(54)/土肥靖治(64)/中井作太郎(68)/中島康博(63)/○長瀬由希子(48)/長久理嗣(69)/西口光(68)/仁比聡平(53)/練木恵子(54)/○野村節子(63)/野元徳英(67)/長谷川忠通(72)/畑中孝之(53)/畑野君枝(59)/畠山和也(45)/花田仁(55)/浜野忠夫(84)/林紀子(54)/林田澄孝(66)/春名直章(57)/土方明果(66)/日高伸哉(61)/火爪弘子(61)/平兼悦子(68)/広井暢子(69)/樋渡士自夫(63)/○藤井正人(66)/節木三千代(58)/藤田文(59)/藤田健(56)/藤野保史(46)/○藤森毅(56)/○藤原正明(44)/不破哲三(86)/紅谷有二(73)/細野歩(59)/細野大海(65)/堀江ひとみ(57)/本間和也(62)/前屋敷恵美(66)/増子典男(76)/松岡清(66)/○松崎真琴(58)/松田隆彦(58)/松原昭夫(60)/○松本隆(55)/水谷定男(69)/南秀一(67)/宮本岳志(57) /宮本徹(44)/武藤明美(69)/村上昭二(69)/○村上亮三(60)/盛美彰(62)/森原公敏(67)/柳下礼子(70)/柳利昭(61)/柳沢明夫(79)/山内佳子(62)/山口富男(62)/○山口典久(56)/山下満昭(64)/山下芳生(56)/山村糸子(66)/山村幸穂(61)/山谷富士雄(69)/結城久志(69)/○吉岡正史(42)/吉田秀樹(63)/米田吉正(69)/若林義春(66)/和田一男(63)/渡辺和俊(65)/○渡辺ゆり子(64) 准中央委員(50人) ○浅賀由香(36)/阿藤和之(46)/○池内沙織(34)/○岩渕友(40)/梅村早江子(52)/○大平喜信(38)/○岡嵜郁子(46)/岡田政彦(51)/○小倉忠平(55)/垣内京美(50)/金倉昌俊(42)/河江明美(51)/香西克介(40)/小越進(55)/○小山農(29)/○斉藤和子(42)/坂井希(44)/○坂本伸子(46)/○佐藤彰(55)/○島津幸広(60)/清水忠史(48)/関口達也(57)/祖父江元希(41)/高柳幸雄(51)/○多川正(57)/○田川豊(48)/○武田良介(37)/谷本諭(46)/○田村貴昭(55)/○中祖寅一(54)/○中野武史(42)/西澤亨子(57)/能勢みどり(44)/林伸明(50)/○比嘉瑞己(42)/○姫井二郎(45)/福井英俊(49)/○藤本哲也(46)/堀内照文(44)/○真島省三(54)/町田和史(40)/松岡勝(43)/宮本次郎(41)/村主明子(45)/本村伸子(44)/○矢加部裕哉(58)/○山添拓(32)/山本豊彦(54)/吉俣洋(43)/○渡部結(35) 第27回党大会で承認された名誉役員 今大会で新たに承認された名誉役員(11人) 有坂哲夫(75)、石井妃都美(66)、石坂千穂(68)、和泉重行(70)、佐々木憲昭(71)、棚橋裕一(70)、林通文(76)、最上清治(67)、柳浦敏彦(71)、山口勝利(72)、吉村吉夫(72) 前大会からひきつづき承認された名誉役員(47人) 相羽健次(80)、青木正彦(86)、足立正恒(78)、阿部幸代(68)、石井郁子(76)、石灰睦夫(83)、今井誠(72)、岩佐恵美(77)、上田均(82)、上原清治(83)、梅田勝(89)、大内田和子(73)、大塚一敏(82)、岡崎万寿秀(87)、奥原紀晴(71)、金井武雄(72)、金子逸(70)、河邑重光(77)、神戸照(93)、木谷八士(82)、工藤晃(90)、小池潔(74)、小島優(89)、児玉健次(83)、五島寿夫(85)、小西武雄(85)、佐々木季男(87)、佐藤庸子(76)、菅生厚(90)、瀬古由起子(69)、立木洋(85)、反保直樹(67)、寺前巌(91)、成田悧(84)、新原昭治(85)、西井教雄(93)、花房紘(77)、古堅実吉(87)、細野義幸(91)、堀井孝生(78)、松本善明(90)、八島勝麿(90)、山手叡(90)、雪野勉(90)、吉井英勝(74)、吉川春子(76)、若林暹(90)日本共産党中央委員会の機構と人事(2018年2月1日現在) 他の国会議員は党中央の機構に入れられて仕事をするのですが、宮本だけはどうにも使いものにならないので除外されていますね。これまで宮本の国会質問の原稿を作るだけで大変な負担でした。国会質問は原稿の棒読みでなんとかごまかしましたが、第二質問は惨めでしたね。議会全体が薄ら笑いで一種特有な空気でした。 政策委員会 責任者 笠井亮 副責任者 辰巳孝太郎 同 寺沢亜志也 同 畠山和也 同 藤野保史 事務局長 神田米造 次長 坂井希 経済・社会保障政策委員会 責任者 垣内亮 副責任者 谷本諭 同 佐藤洋 政治・外交委員会 責任者 山根隆志 副責任者 小松公生 宣伝局 局長 田村一志 次長 西村哲 同 星野正弘 広報部 部長 植木俊雄 国民の声室 責任者 藤原忠雄 国民運動委員会 責任者 山下芳生 副責任者 浦田宣昭 同 紙智子 同 大幡基夫 事務局長 堤文俊 次長 姫井二郎 委員 川田 忠明 同 小泉親司 同 米沢幸悦 労働局 局長 大幡基夫 次長 米沢幸悦 農林・漁民局 局長 紙智子 次長 橋本正一 市民・住民運動・中小 企業局 局長 堤文俊 次長 梅津邦夫 平和運動局 局長 川田忠明 基地対策委員会 責任者 小泉親司 女性委員会 責任者 広井暢子 副責任者 高橋千鶴子 同 藤田 文 同 畑野君枝 事務局長 平兼悦子 学術・文化委員会 責任者 土井洋彦 事務局長 改正充 次長 土井誠 委員 藤森毅 同 西澤亨子 同 平静丸 文教委員会 責任者 藤森毅 宗教委員会 責任者 土井洋彦 事務局長 平静丸 スポーツ委員会 責任者 畑野君枝 事務局長 鳥井健次 選挙対策局 局長 水谷 定男 次長 沢田博 同 吉田秀樹 同 小松崎久仁夫 同 佐藤登 同 多川正 自治体局 局長 今田吉昭 次長 岡嵜郁子 同 金子邦彦 国際委員会 責任者 緒方靖夫 副責任者 森原公敏 事務局長 田川実 委員 神田米造 同 田代忠利 同 小島良一 同 菅原啓 党建設委員会 責任者 中井作太郎 責任者代理 長谷川忠通 副責任者 田村守男 同 土方明果 同 山谷富士雄 委員 太田善作 同 増子典男 同 奥谷和美 同 小日向昭一 同 細野大海 同 吉岡正史 事務局長 今井賢一 組織局 局長 土方明果 次長 細野大海 同 奥谷和美 同 吉岡正史 局員 岩切幸子 同 加藤清次 同 和田一男 同 中野武史 機関紙活動局 局長 田村守男 次長 小日向昭一 同 井上和好 同 庄子正二郎 学習・教育局 局長 山谷富士雄 次長 長久理嗣 同 村主明子 同 若林節子 青年・学生委員会 責任者 田村智子 副責任者 増子典男 事務局長 辻慎一 中央党学校運営委員会 責任者 浜野忠夫 副責任者 中井作太郎 事務局長 山谷富士雄 委員 長谷川忠通 同 土方明果 同 山口富男 法規対策部 部長 柳沢明夫 副部長 矢加部裕哉 同 小林亮淳 人事局 局長 浜野忠夫 次長 板橋利之 事務局長 稲津浩一 財務・業務委員会 責任者 岩井鐵也 事務局長 大久保健三 委員 佐藤正美 同 結城久志 同 藤本哲也 同 三輪慎 財政部 部長 大久保健三 副部長 藤本哲也 同 堀田美鈴 機関紙誌業務部 部長 佐藤正美 副部長 神田正夫 同 大井伸行 管理部 部長 結城久志 副部長 秦克也 同 深沢純一 同 山田優子 厚生部 部長 大久保健三 副部長 三輪慎 同 佐藤憲七 資料室 責任者 菅原正伯 副責任者 鈴木裕子 社会科学研究所 所長 不破哲三 副所長 山口富男 事務局長 小野秀明 出版企画委員会 責任者 岩井鐵也 委員 寺沢亜志也 同 土井洋彦 同 田代忠利 出版局 局長 田代忠利 次長 北村優治 雑誌刊行委員会 責任者 田代忠利 事務局長・『前衛』編集部編集長 盛美彰 委員・『女性のひろば』編集部編集長 藤田文 同・『月刊学習』編集部編集長 酒井雅敏 同・『議会と自治体』編集部編集長 渡邉幸久 委員 坂井希 同 土井誠 同 西村哲 党史資料室 責任者 岡宏輔 中央委員会事務室 責任者 佐々木陸海 副責任者 岡宏輔 同 小田悦三 コンピュータ・システム開発管理部 部長 田中芳樹 副部長 今村拓也 同 葛西邦生 第二事務室 責任者 髙宮正芳 副責任者 秦克也 同 坪井光男 事務局長 菊地英行 2017年2月6日、常任幹部会は、つぎの機構と人事を決定しました。 原発・エネルギー問題対策委員会 責任者 藤野保史 (常任幹部会委員 衆議院議員) 副責任者 浦田宣昭(国民運動委員会副責任者) 事務局長 姫井二郎(国民運動委員会事務局次長) 委員 寺沢亜志也 同 吉良佳子 同 岩渕友 同 栗田敏夫 同 佐々木勝吉 同 佐藤洋 同 鈴木剛 同 土井誠 同 三木利博 赤旗編集局の人事(2018年2月1日現在) 編集局長 小木曽陽司 次長 藤田 健 同 坂本 伸子 同 山本 豊彦 同 近藤 正男 同 松井 信嗣 編集センター責任者 藤田健 編集センター 坂本伸子 同 飯山博之 同 稲田達 同 栗田敏夫 編集総務 星野大三 論説委員会責任者 宮澤毅 特報チーム責任者 藤田健 政治部長 高柳幸雄 社会部長 森近茂樹 経済部長 金子豊弘 国民運動部長 深山直人 外信部長 菅原啓 地方部長 中山芳樹 学術・文化部長 西澤亨子 くらし家庭部長 堤由紀子 囲碁・将棋・行楽部長 田中良明 スポーツ部長 和泉民郎 テレビ・ラジオ部長 藤沢忠明 読者室長 勝又健 写真部長 宮下秀和 党活動部長 石渡博明 整理部長 工藤徹也 同 高橋正樹 校閲部長 河邑哲也 工程管理・開発部長 坂下清香 広告部長 森田桂三 総務部長 西田外志光 日曜版編集長 山本豊彦 副編集長 竹本恵子 同 田中倫夫 同 平田和宏 同 村木博 東日本総局長 大星史路 首都圏総局長 山田英明 東海・北陸信越総局長 斎藤統美 関西総局長 渡辺健 西日本総局長 内野健太郎
2019/04/26(金) 05:52:23 |
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古本屋通信 No 3957 2019年 4月25日 ピンボケのアホ投稿について 単なる阿呆だから放置しておけばよいとはならない。虫酸が走る。阿呆でも容赦なく叩かねばならない時には叩く。 5. 背教者ユリアヌス 2019年04月24日 23:22 共産党の野党共闘の狙いはなにか。もちろん安倍政治の阻止の要素は少しはあるだろう そんなもん、 ありゃせん。 全くないと言っては言葉が過ぎることになるだろう。全くない。ここで既に完全なアホ低脳。 しかし共産党の国政選挙での野党共闘を必要とする切実な理由は、共産党は国政選挙の多くの選挙区に候補者にする人員と選挙活動する人員及び選挙資金が決定的に枯渇しているからだ。あんた、ソレあんたの新発見か。そんなこと書いた投稿みたことねえぞ。何処かの小学校へでも行って講釈を垂れてこい。 人員と資金がないため立候補できませんと発表することは社会変革を掲げる政党としては死を意味するからだ。既に公表し尽くしているも同然ではないか。たとえば衆参の党独自候補を立てる大半の小選挙区と選挙区では、赤旗紙上で公然と供託金カンパを募っている。負けを前提にして、供託金の名前を前面に出してのカンパである。 6. 背教者ユリアヌス 2019年04月24日 23:39 選挙協力によって選挙区での共産党候補の当選が期待できるのではと思う人がいるかもしれない。いないよ。それに選挙協力によって党候補に一本化された選挙区はゼロだ。沖縄の赤嶺は違う。香川の田辺けんいちは他党が擁立しなかっただけだ。 でも他の政党支持者は共産党には入れない意味不明。多少の投票を見込んでるでせう。 無党派層で反安倍の人は共産党に入れるかもしれないが今回のように非自民の候補があればそちらに多く流れる。いったい何が言いたいの。 その理由は共産党が長い間「共産党だけです」とその独自性をアピールしてきたからだ。ナルホドな。 それをいまさら「普通のおばさん」ならぬふつうの政党を装って 党の独自性を主張して衆参選挙をたたかうことは、共産党に限らず全政党の基本の基本である。それは日本の選挙制度が議院内閣制を採っていることから当然である。寧ろ選挙共闘だとか、候補者調整などこそ例外的な選挙のあり方である。それに共闘とは選挙後に政策の異なる政党同士が一致する課題でともに協力して院内外でたたかう事を言う。まちがえるな。 選挙協力などできるわけがない。他の野党の本音は変なところに候補者をたてて野党の票を分散させて自民党候補者の勝利に協力しないでくれ。 頭が悪い人の文は疲れるなあ。少しは他人の文を学べよ。 8. 背教者ユリアヌス 2019年04月25日 00:05 これから4年間に起こることを予言すると、多くの地方議員の個人後援会の復活だ この阿呆が。あるわけねえよ。 何年か前に共産党は個人後援会を廃止してすべて共産党後援会にした。ボケが。何年か前ではなく、今から39年前の1980年の第15回党大会決定だ。 多分個人後援会を足場にして共産党から離反する地方議員が続出したからだろう。続出してはない。そもそもの発端は1960年代後半の志賀義雄の選挙だった。その後は大きな造反はなかったが、そもそもの党選挙の基本を党大会で明記したということだ。尚、下記の赤旗はきれいごと過ぎて、肝腎の事を避けている。党はいかなる個人選挙もブルジョア個人主義であるから容認しないということだ。私は完全に同意する。党を除名されたり、除籍された党公認議員は、理由を問わず直ちに辞職せねばならない。辞職すれば唯の人だが、再度無所属で立候補すれば反党分子として徹底的に戦わねばならない。議会内で共同会派など、党の自殺である。 しかしそれは個人後援会のせいと言うより共産党の革命路線から導きだされる政策体系が不明確となっており、住民本位の議員活動するのに共産党にいるメリットはないと思い始めたからだ。 もちろんこの状況で個人後援会を復活すれば離反する議員が多く出るだろう。殆ど出ない。党組織なしでは当選できないからだ。 でも選挙活動をもはや党で行えなってくるだろう。候補者は友人で協力したいが共産党後援会では入れないという人がいっぱいいる。まったくいない。断言できる。 よって離反者の危険があっても個人後援会を復活せざるを得ない。 2009年12月19日(土)「しんぶん赤旗」 共産党後援会が個人名でないのはなぜ? 〈問い〉日本共産党は個人単位の後援会でなく、党後援会をつくって選挙をたたかっています。なぜ、個人後援会ではないのでしょうか。(岩手・一読者) 〈答え〉日本共産党の第22回党大会決議は、「選挙戦を、党員だけでなく、後援会員、支持者とともにたたかうことはわが党の一貫した方針」だとのべています。 自民党をはじめ他党の後援会は、国政選挙でも、地方選挙でも、議員や候補者を中心にした個人後援会です。 日本共産党の後援会についての考え方は、党が推すすべての候補者を、どんな選挙でも推薦していくことをめざすものです。それが一時期、選挙戦の戦術上、個人名(候補者名)を冠したものとなり、実際の活動でも、あらゆる選挙戦をたたかううえで障害になるような傾向がでました。とくに衆院選と参院選が同時選挙としてたたかわれたり、地方選挙と国政選挙がかさなったりすると、個人後援会では効果的にたたかえないという問題がありました。 そこで、1980年6月の衆議院と参議院のダブル選挙を前にして、日本共産党後援会として「名称と性格を統一・発展させる」ことにしました。同80年に開催された第15回党大会決議は、後援会を日常不断に活動する恒常的な組織として大きく発展させ、「特定の候補者だけの支持活動でなく、各種の選挙で共産党の議員候補者を支持して連続的にたたかえる、共産党後援会的な機動性をもった組織」として確立することを明確にしました。 その後、選挙制度が変えられ、衆議院、参議院とも比例代表選挙に政党名投票が導入され、「政党選択」選挙の様相が強まっているもとで、日本共産党後援会と「名称と性格」を統一させ発展してきたことは大きな力になっています。 来年の参院選にむけても、党大会決議案で強調しているように、地域・職場・学園のすべての支部が、対応する単位後援会を確立して、650万以上の得票実現へ、後援会活動を日常的に強化しましょう。 2009・12・19(土) まあ武田や石村の個人後援会で選挙を戦っていたら、党はトコトン腐っていただろうよ。岡山ではかつて備前市議の草場が党議席を簒奪したことがあった。除名後も一度は議席を許したが、二度目に叩き落とした。裏切者には死刑しかない。なぜなら草場の議席は草場個人への支持ではなく、党への支持で勝ち取った議席であったからだ。追伸 一時間ほど遅れてキンピー板が立てられた。管理人様のモチーフは私とは正反対だ。投稿を待ちたい。私のモチーフを一言で云えば、党の上に個人を置くな、いや置きたければ置けばよい。だがそれは必ず党の崩壊をもたらすだろうと云うにつきる。離反者の議員活動は等しくブル転向である。ひとつの例外もなく人間としての頽廃である。
2019/04/25(木) 00:42:13 |
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古本屋通信 No 3956 2019年 4月24日 冒頭 2019年4月26日(金) 赤旗 朝鮮半島情勢改善へ会談 ロ朝首脳 8年ぶり ロシアのプーチン大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長による初の首脳会談が25日、極東ウラジオストクの極東連邦大学で開かれました。両首脳は1対1の会談と拡大会合で合わせて約3時間会談。プーチン氏は拡大会合の冒頭、1対1会談で朝鮮半島情勢の改善に向けて話し合ったと明らかにしました。 ロシア大統領府によると、プーチン氏は「(1対1の会談で)朝鮮半島情勢が改善に向け良好な展望を持つために、どのように、何をしなければならないのか意見交換をした」と語りました。 金氏は今回の会談で「朝鮮半島と地域情勢について意見を交わし、今後戦略的にこの地域の安定を図って、共同で情勢を管理していく問題について深みのある意見交換をしたい」と述べました。 またプーチン氏は、南北対話の進展と米朝関係正常化について、金氏の努力を「無条件に歓迎する」と発言。金氏のロシア訪問が「現在、進んでいる肯定的なプロセスを支援するためにロシアに何ができるかを、理解する上で役立つと確信する」と述べました。 ロ朝首脳会談は2011年8月、メドベージェフ大統領(当時)と故金正日(ジョンイル)総書記が行って以来、8年ぶり。 「スターリンからプーチンへと続く覇権主義へ 」 だって。時空を超越した妄言ここにありだな 日本政府もようやくバランス感覚を取り戻したようだ。ここに至って日本共産党の救い難い反共右翼の本質が露呈した。ここまで右翼ナショナリズムに媚びて票がほしいかのう。あのなあ、日本政府が折れたのは、これまでどおりのゴロツキ路線だと、日本は国連でも誰にも相手にされなくなったからなのよ。いいなあ、共産党は。誰にも相手にされなくても何の責任もないから。でもトコトン馬鹿にされてるんよ。 林 潤さんがリツイート 志位和夫 認証済みアカウント @shiikazuo · 4月23日 「『北方領土は日本に帰属』消える」 「私の手で解決する」とあれだけ大騒ぎしてきた結果が、戦後の自民党政府の主張すら自己否定する屈辱外交か。スターリンからプーチンへと続く覇権主義への批判ぬきに、「すり寄れば交渉が進む」と考えるとは、愚かの極みだ。 「北方領土は日本に帰属」消える 外交青書、対北朝鮮圧力も削除 2019/4/23 09:08 共同通信 北海道・根室半島の納沙布岬(下)沖に広がる北方領土。中央は歯舞群島、左上は色丹島 河野太郎外相は23日の閣議で2019年版外交青書を報告した。18年版にはあった「北方四島は日本に帰属する」との表現が消えた。「北朝鮮に対する圧力を最大限まで高めていく」との文言も削除された。4島を実効支配するロシアと、拉致問題解決に応じない北朝鮮への態度を一定程度軟化させることで、それぞれとの交渉を前進させる狙いがある。 北方領土の記述で19年版は日本の法的立場に関する説明を回避。「問題を解決して平和条約を締結」するとの言い回しにとどめた。18年版にあった「未来志向の発想により、平和条約の締結を実現する」も踏襲しなかった。 古本屋通信 北方四島の領有権は日本にはなく現ロシアにある。不動の事実である。その根拠の第一は1945年の日本の無条件降伏にある。あるが間違えてはならない事は、日本は戦争に負けたから無条件降伏したのではない。数千万の罪無き海外の人民を殺したから戦争に負けて無条件降伏したのだ。だから戦争した相手国すべてと全面的に講和すべきであった。ところが1951年に日本政府は多くの日本人民の反対を押し切って、アメリカとのみ単独講和条約を結んでしまった。ソ連は無視だが、サンフランシスコ条約には日本が北方領土を放棄することが明確に書かれていた。そして今に至るも同条約は放棄されていない。 ここから先に、見たような妄言つまり、サンフランシスコ条約を不動の前提にしていては何も解決しない、という志位のキチガイ発言が飛び出すのだが、究極の観念論ここに至るだな。ここまで意味の無い寝言を言った人物は志位和夫をおいていない。委員長は馬鹿でも務まるからいいなあ。 志位ツイッターの冒頭にある支持返信だけを叩いておく。 dala_khani @dctr_express フォローする @dctr_expressをフォローします 返信先: @shiikazuoさん 端的に言えば、第二次世界大戦後にヤルタ会談による密約により、日本のあずかり知らないところで勝手に日ソ国境を定められた故、そのような不当な取り決めは当然ながら認められるはずもない。元来、日露国境は千島列島最北の占守島とカ半島間であり、無論、千島列島に日本の主権があるのは必然である。 何をほざいているのか。ヤルタ会談が密約であろうと公式会談であろうと同じだが、密約であるならいっそう、その前に無条件降伏している日本は、同会談について一切の発言権も、論評する権利も無い。それは国際関係を時系列で論じる場合は、野党の日本共産党とて同じである。志位によると、この時のソ連の密約者がスターリンであったそうな。スターリンが悪い奴だから、ヤルタ会談はゆるせない。北方領土は日本のものとなるそうだ。いいなあ共産党はアホで。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 再録 古本屋通信 No 3946 2019年 4月18日 東 つよし @Tsuyoshi_Azuma · 8時間8時間前 参院選の成果作りのために四島返還まで放棄した安倍政権が、ロシアに足下見られまくって破綻しただけの話かと。これでよかったのです。サンフランシスコ条約を不動の前提としては解決できません。 日露平和条約交渉6月の大筋合意見送り 歴史・主権溝深く - 毎日新聞 サンフランシスコ条約を不動の前提にするな、だって。そういう日本語あるの。コレ東が女を強姦した。捕まって裁判に掛けられた。そしたら「強姦罪を不動の前提にするな」と主張するのと何処がちがうの 一知半解の出鱈目はそれだけで市議失格 いちばん上は東つよしが毎日新聞の記事を読んでツイートしたものだが、私は毎日の記事など読まない。東の文中の太字個所 「サンフランシスコ条約を不動の前提としては解決できません」 だけを問題にする。この阿呆は何をほざいているのか。自分の言っていることの意味が分かっているとは到底思えない。 あのなあ、サンフランシスコ条約は1951年に日米政府間で締結された基本条約である。私はこの単独講講和条約こそ其の後の日本の対米従属を決定した最悪の条約だと思っている。北方領土の放棄もサンフランシスコ条約に起因する。ソ連をふくむ戦勝国すべてと全面講和を採らなかったことこそ戦後日本の最大の不幸であった。 だがその後、今日に至るまでサンフランシスコ条約は破棄されていない。厳然たる事実である。だったら「サンフランシスコ条約を不動の前提としては解決できません」とはどういう意味だ。条約を破棄せよという以外にありえないだろう。ところが東はそういう意味で言っていない。いったいどうせよ、というのか。結論は何もない、単に党の過去文献の断片を拾って貼っただけである。こういうカルトは党の信頼を破壊するだけだ。まあ言っても分からんだろうな。下に20年近く前の党文献を貼っておくが、これ自体が苦しい弁明であるな。スターリンが気の毒である。世界史の改竄であるな。まあ読んでみな。これが通用する世界はどこにもない。自分たち日本共産党は(ソ連と関係改善して北方領土を何とかする)責任がないから、選挙民向けに、言いたい放題を言っているだけである。 然し誰が書いたか知らんが、長文の尤もらしい修辞をよくも書き連ねたもんだな。こういう専門家は昔からいたな。思い出す名前は榊利夫とか小林栄三。彼らは不破ではなく宮本顕治の理論官僚だったな。特徴は、いずれも修辞には長けているが、言葉にリアリティが無いこと。もともと本人も無理を承知で書いている。でも下の長文、ロシアの誰が読んでも鼻先であしらうだろうことは分かりそうなもんだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日ロ領土問題と平和条約交渉について 森・プーチン会談と「イルクーツク声明」は何を示したか 2001年4月13日 日本共産党 政策委員会、同 国際局 森首相とプーチン大統領との日ロ首脳会談は、「イルクーツク声明」(三月二十五日)を発表して終わりましたが、両国間の領土問題について、な んらの具体的な前進がなかったばかりか、いっそうの困難をつくりだすものとなりました。日本の各紙も、「依然隔たり大きい日ロ平和条約交渉」、「かすむ 『領土』 日本苦渋 日露交渉進展せず」などと、きびしい見方を示しています。 いったい、このゆきづまりを打開する道はどこにあるのでしょう。そのためにも、あらためて、日ロ間の領土問題の原点はどこにあるのか、自民党外交のどこに問題があるのか、日本共産党はどう考えているのか――について明らかにしておくものです。 一、日ロ領土問題の原点と解決の基本方向は (1)歯舞、色丹と千島列島全体が日本の歴史的な領土 政府もマスコミも、ロシアとの領土問題というと「北方領土」という言葉を使います。「北方領土」という場合、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の四島のことをさしています。 しかし、日本の歴史的な領土は、この四島だけではありません。歯舞と色丹は、もともと北海道の一部です。国後と択捉は、千島列島のなかの南千 島部分だけです。本当は、その北にある得撫(うるっぷ)から占守(しゅむしゅ)までの北千島までを含む千島列島全体が、日本の歴史的な領土なのです。 このことが確定したのは、幕末から明治にかけての十九世紀後半のことでした。 それまでは、千島列島と樺太(サハリン)島がどの国の領土であるかは確定しておらず、千島列島の南からは日本が、北からはロシアが、それぞれ 進出し、利害が衝突したところでは紛争が起こるという具合でした。それが、千島は日本の領土、樺太はロシアの領土となったのは、二つの条約が結ばれたこと によってでした。 一つは、徳川幕府と帝政ロシア政府との間に結ばれた、一八五五年(安政元年)の「日魯(にちろ)通好条約」です。伊豆の下田で結ばれたこの条 約によって、択捉島と国後島の南千島は日本領、得撫島から占守島までの北千島はロシア領とし、択捉島と得撫島のあいだの海峡を日ロ間の国境とすることが決 まりました。しかし、樺太島については、両国間の境界を決めず、従来どおり日本人もロシア人も自由に活動できる“雑居の地”とされました。 もう一つが、その二十年後、一八七五年(明治八年)にロシアの首都サンクトペテルブルクで結ばれた「樺太・千島交換条約」です。この条約に よって、樺太全島をロシア領とするかわりに、北千島を日本領としました。この結果、千島列島全体が最終的に日本の領土となったのです。この点では、日露戦 争の結果、日本がロシアから奪いとった南樺太とは根本的に異なります。 このように千島列島は、日本が暴力や戦争で他国から奪った領土ではなく、平和的な外交交渉によって日本への帰属が最終的に確定したものであ り、日本の歴史的な領土を問題にするなら、一八七五年の樺太・千島交換条約で画定した国境が、日本とロシアとのあいだの歴史的な境界線となるべきことは、 日ロ外交史が示す自明の結論です。 (2)日本の歴史的領土を奪ったスターリンの大国主義的誤り その千島列島や北海道の一部である歯舞、色丹が、どうして旧ソ連、現在のロシアの領土にされてしまったのでしょう。それは、第二次世界大戦の 最終段階に、ソ連の指導者だったスターリンが、日本の歴史的領土である千島列島の併合を対日参戦の条件として強引に要求し、しかも平和条約の締結もまたず に併合を実行してしまったからです。 もともと、第二次世界大戦の戦後処理については、ソ連が支持した「大西洋憲章(英米共同宣言)」(一九四一年)でも、ソ連ものちに加盟した 「カイロ宣言」(一九四三年)でも、連合国側は「領土不拡大」を最大の原則として確認していました。「大西洋憲章」には、「両国は領土的その他の増大を求 めず」と明記され、カイロ宣言は「右同盟国は自国のために何等の利得をも欲求するものにあらず。また領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」と強調し ていました。 ところが、第二次世界大戦末期の一九四五年二月、クリミア半島のヤルタでおこなわれた米英ソ三国首脳による秘密会談でスターリンは、対日参戦 の条件に日本の正当な領土である千島のソ連への「引き渡し」を要求し、アメリカ、イギリスともこれを認めてしまったのです(「ヤルタ秘密協定」)。スター リンは、この会談で「ソ連が対日戦争に参戦するためには、ソ連が極東で欲している一定の利権が認められることが肝要である」とのべ、「利権の譲渡」を強く 要求したのです(当時の米国務長官ステティニアス著『ルーズベルトとロシア人』)。スターリンの要求は、「領土不拡大」というソ連も参加していた連合国の 戦後処理の原則を乱暴に踏みにじるもので、なんらの国際的道理ももたないものでした。 しかもソ連は、千島列島だけでなく、ヤルタ協定で言及されなかった北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事占領し、戦後まもない一九四六年に、平和条約も問題にならないあいだに、千島列島と歯舞・色丹のソ連領への「編入」を一方的に強行してしまいました。 その後、一九五一年にサンフランシスコ平和条約が結ばれた時、日本は、この条約の領土条項で、千島列島にたいする「すべての権利、権原および 請求権を放棄」すること(第二条C項)を強要されました。これは、この条約の起案者であるアメリカが、一九四五年のヤルタ協定の内容を不当にもちこんだも のでした。しかし、日本はヤルタ協定の当事者ではなく、そこでの秘密の取り決めに日本国民が拘束される理由は、どこにもありません。 日ロ間の領土交渉にあたっては、「領土不拡大」の原則を乱暴にふみにじったスターリンの横暴、大国主義的な領土拡張主義にこそ、今日の日ロ両国間の領土問題の根源があることを、しっかり見定めなければなりません。 ロシア連邦の政府自身が、旧ソ連の国際的地位を継承したものとして、スターリンのこの重大な誤りを正す責任を負っていることは、当然です。 (3)ロシアに領土返還を要求する日本国民の大義は、 スターリンの大国主義的な誤りの是正にある 日本国民がロシアに領土返還を要求する根拠は、スターリンの大国主義的な誤りを正して、日本の歴史的な領土の回復を求めるという点にあります。そこに、領土問題の解決にあたっての、日本国民の側の大義名分があるのです。 領土交渉にあたっては、米英ソ三国のヤルタ協定はもちろん、サンフランシスコ平和条約の「千島放棄条項」にも拘束されないで、歴史的な領土の 回復を要求するという、日本側の大義を明白にすることが、重要です。このことを抜きにしては、日ロ交渉のなかでも、また国際世論の前でも、日本の領土返還 要求の正当な根拠を明らかにすることはできません。 ところが、歴代自民党政府は、平和条約の「千島放棄条項」を絶対化し、この条項を不動の前提とするという立場で、ソ連およびロシアとの領土交 渉にあたってきました。つまり、スターリンの大国主義の誤りを是正するという根本問題を、自民党政府の対ソ・対ロ外交の内容から、完全に欠落させてしまっ たのです。 その結果起こったことは、日本が領土交渉において、国際的に通用する大義を失ってしまうという、重大な事態でした。 (4)領土返還要求の大義を失った自民党外交 自民党政府が、領土返還要求の唯一の国際法的な根拠としたのは、サンフランシスコ条約での「千島放棄条項」を認める、しかし、択捉、国後、歯 舞、色丹の四島は千島列島には含まれないのだから、日本に返還すべきだという主張、すなわち、“南千島は千島にあらず”という主張でした。 これは、きわめて無理な主張でした。 歯舞、色丹は、歴史的にいって、北海道の一部であり、千島列島には含まれません。しかし、択捉、国後は千島列島の一部であり、だからこそ、南 千島と呼ばれてきたことは、日本と世界の常識でした。だから、“千島でないから返せ”という主張は、歯舞、色丹の二島については成り立ちますが、択捉、国 後については成り立ちません。 そして、国後、択捉が南千島であり、したがって千島の一部であることは、その放棄条項を決定したサンフランシスコ会議でも、当然の解釈とされ ていました。アメリカ代表も、その趣旨で発言していました。日本政府代表として出席した吉田首相も、放棄した千島列島には歯舞、色丹が含まれないことを主 張しましたが、択捉、国後については何の異論もとなえず、当時、「千島南部の二島、択捉、国後両島」という発言をしています。また、この条約を批准した一 九五一年の国会での政府の答弁は、「千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含む」(外務省西村条約局長)という答弁で一貫していました。 日本政府は、その五年後の一九五六年に、にわかにその立場を変更して、“南千島は千島にあらず”と主張しはじめたのです。それが、国際的に通 用しない、あとからのこじつけであったことは、当時、サンフランシスコ会議の参加国として、日本政府から見解を問われたイギリスやフランスの政府が、“南 千島は千島にあらず”という見解に同意することをきっぱり拒否したことにも、明確に示されました。 自民党政府が、こうして、スターリンの大国主義の誤りを是正するという大義ある立場を投げ捨て、領土返還要求の根拠を、サンフランシスコ平和 条約の勝手な「解釈」論だけに求めるという道を選んだことは、ソ連およびロシアとの領土交渉における日本政府の立場をきわめて脆弱(ぜいじゃく)なものに しました。 日本政府が“南千島は千島にあらず”と言い出してから、すでに四十五年という月日が経過しました。その間に、形だけの交渉は断続的におこなわ れましたが、交渉の内容――日本側が何を根拠にして領土返還を要求しているのか、ソ連あるいはロシア側がそれを拒否しているとしたら、どんな根拠をもちだ しているのか、そして日本側はそれにどのように反論しているのか等々については、日本国民も日本の国会も、政府から中身のある説明を受けたことは一度もあ りません。それは、日本政府の領土交渉の無力さを示すものです。 領土交渉のこうした状態の根底には、日本政府が、スターリンの誤った領土拡張主義を正すという国際的な正義の立場を捨て、「千島放棄条項」の 枠内での領土返還要求というごまかしの道を選んだという、外交上の根本問題が横たわっていることを、いま、あらためて指摘せざるをえません。 二、領土問題での一方的譲歩を表明した「イルクーツク声明」 自民党政府の領土交渉のこうした弱点は、今年三月二十五日、日ロ首脳会談で発表された「イルクーツク声明」のなかに、集中的な形で示されまし た。そこには、領土問題の根本にかかわる、三つの重大な問題点が含まれており、そのすべてが、領土問題での日本側の一方的な譲歩を表しているのです。 (1)北千島は最初から放棄 「イルクーツク声明」(以下、「声明」)の第一の問題点は、領土交渉の対象を、択捉、国後、色丹、歯舞の四島に限定し、得撫以北の北千島については最初から放棄することを、あらためて確認したことです。 「声明」は、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属にかんする問題を解決することにより、平和条約を締結」するとしています。この 「四島返還」論は、一九九三年の細川首相とエリツィン大統領との間の「東京宣言」でも明記され、一九九七年の橋本首相とエリツィン大統領との間の「クラス ノヤルスク合意」でも確認されてきたものです。 「東京宣言」の際、わが党は当時不破哲三委員長の談話で、この立場は「北千島を最初から領土返還交渉の枠外におくと同時に、択捉、国後の南千 島についても領土返還要求の国際法上の根拠を失わせるものである」(「赤旗」一九九三年十月十四日付)と指摘しました。それは、この立場が最初から北千島 を放棄するというだけにとどまらず、“南千島は千島にあらず”という国際的に通用しない立場と一体のものだからです。 日本が、ロシアに領土返還を要求する最大の論拠は、千島列島全体が日本の歴史的領土であるにもかかわらず、第二次大戦後の不公正な処理によっ てロシアに引き渡されたものだからです。それが、北千島は最初から領土返還交渉の枠外に置くというのでは、南千島の国後、択捉の返還要求も根拠がないとい うことになってしまうからです。 (2)歯舞、色丹の早期返還の道を閉ざす 「声明」の第二の問題点は、歯舞、色丹の早期返還の道を閉ざしてしまったことです。 歯舞、色丹は北海道の一部であり、もともと千島放棄条項の対象とはなりえない島々です。この点については、サンフランシスコ条約批准国会で日 本政府自身が、「色丹島および歯舞島が北海道の一部である事実は連合国の絶対多数の承認を得ておるところ」(西村条約局長)、「千島列島の中には歯舞、色 丹はこれは全然含まれない」(草葉外務政務次官)と明言しています。 ですから、歯舞、色丹は、問題の性格からいって、平和条約の締結を待つことなく、その速やかな返還を要求して当然なのです。現に、日本共産党 は、旧ソ連の時代に、政権党であったソ連共産党と領土交渉をおこなったさい、平和条約の締結にいたる以前に、日ソ間で中間的な条約を結び、歯舞、色丹の二 島をまず返還すべきだと提案し、ソ連側に迫りました(一九七九年)。 この点で、「声明」が、一九五六年の「日ソ共同宣言」を、「平和条約締結にかんする交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」と確認 したことは、重大です。その「宣言」では、歯舞、色丹の日本への「引き渡し」について、両国間の「平和条約が締結された後」と明記されているからです。こ れを、領土交渉の出発点を設定した「基本的な法的文書」として扱うということは、日本側にとっては、平和条約以前に歯舞、色丹の返還問題を解決する道を閉 ざすという意味をもつものです。それはまた、ロシア側には、歯舞、色丹の返還を領土交渉の終着駅にしようとする思惑に有力な根拠を与えることになります。 政府は、この部分を含む「宣言」の“有効性”を初めて両国の共同文書に明記したことを今回の首脳会談の大きな“成果”としていますが、成果どころか、平和条約締結以前の二島返還への道を閉ざしてしまったものであり、重大な後退というべきです。 (3)国後、択捉についても施政権の放棄という日本の譲歩だけが残った 国後、択捉についても今後の交渉への新たな具体的手がかりはなんら得られませんでした。そればかりか、一方的な譲歩だけが残りました。 日本政府は一九九八年の川奈での日ロ首脳会談のさい、択捉と得撫のあいだを想定した「国境線の画定」だけの合意で平和条約を締結し、国後、択捉の「施政権」はロシア側に残してよいという一方的な譲歩の提案をおこないました(橋本首相の「川奈提案」)。 しかし、「施政権」問題の解決は先送りするといっても、いったん平和条約を結べば、戦後国境・領土問題は最終的に解決したと見なされ、施政権 の返還の保証はどこにもありません。これは事実上の放棄論に等しいものです。この川奈提案は今なお当時の両国首脳会談の記録に残っています。それどころ か、昨年十一月のブルネイでの日ロ首脳会談のさい、森首相は「川奈提案は今でも最良の案だと考えている」とのべて、それまで非公開の交渉で内々の提案とさ れていたものをみずから公表し、再確認してしまいました。こうして、ロシア側は何らの譲歩もしないのに、日本側が施政権放棄という一方的な譲歩の言明をお こない、その言明だけが日ロ交渉の記録に既定事実として残るという、重大な事態を招いてしまったのです。 この足元を見すかされたのが、今回のイルクーツク会談です。日本側は、「日ソ共同宣言」を“初めて公式文書で明記したことにより歯舞、色丹の返還は法的に確認された。今後は国後、択捉の帰属問題の交渉をおこなう”などといっています。 しかし、ロシア側の解釈はそうではありません。対日交渉を担当しているロシュコフ外務次官は四月四日、「宣言」にもとづいて歯舞、色丹を「引 き渡す」場合、残りの国後と択捉の帰属にかんする交渉を継続することは意味がなくなるとの立場を示しました。もし歯舞、色丹を返還したら、もう国後と択捉 の帰属問題は交渉しないというのです。 このように、ロシアへの日本側の譲歩につぐ譲歩というのが、森・プーチン会談の実質だったのです。 結論 一方的譲歩や小手先の外交では前進できない 「イルクーツク声明」にいたる領土交渉の全経過が示しているのは、一方的な譲歩や小手先の対応だけの外交では、領土問題は解決できない、ということです。 日本政府は近年、対ロ交渉のゆきづまりから抜け出そうとして、国民に真実を隠した密室交渉を進め、北千島放棄を確認するだけでなく、四島につ いても一方的な譲歩を重ねてきました。自民党の内部には、歯舞・色丹の返還だけで平和条約を結んではどうかといった声もあると伝えられています。この点で は、前述のロシュコフ発言と一致します。 もう一つが、経済援助を領土問題打開の梃子(てこ)にしようとしたり、首脳間の個人的な“友好”関係に頼ったりすることでした。こうした小手先の対応では、積極的な結果をもたらすどころか、問題をいっそう複雑にするだけというのが、この間の教訓です。 「イルクーツク声明」発表後、森首相は記者会見で、「これまでの交渉の姿を明確な形で総括した」とのべましたが、たしかに国際的大義をもたな い自民党の無原則外交のもとでは、領土返還が前進するどころか、一方的譲歩と後退しかもたらさないことを証明したという点で、自民党外交の破綻(はたん) を「総括」するものといえるでしょう。 自民党の領土返還交渉がなんらの大義もなしにおこなわれていることは、三月二十七日、衆院本会議でのわが党の山口富男議員の質問でも鮮明にな りました。森首相は、山口議員が「いったいどういう根拠と大義を示してロシアとの領土交渉にあたったのか」と質問したのにたいし、なにひとつ大義を示すこ とができず、北千島を最初から放棄した一九九三年の「東京宣言」など日ロ間の合意事項を交渉指針としていると答えるだけでした。ロシアとの領土交渉にあ たって、そのロシアとの合意事項を指針にするなどとは、外交とは何であるかも知らないものの議論としかいわざるをえないものです。 結局、自民党外交がもたらしたものは、北千島は完全放棄、国後、択捉が返還される可能性は限りなく小さい、歯舞・色丹の「引き渡し」は前途遼遠(りょうえん)――ということでしかありません。 三、問題解決への道を切り開くために 日本共産党の立場と見解 では、どうすれば領土問題を解決することができるのでしょうか。 日ロ間の領土問題は、前述のとおり、第二次世界大戦終結のさいスターリンが「領土不拡大」の原則を破り、千島と歯舞、色丹を一方的にソ連に併 合したことから起こったものです。したがって、問題解決の基本は、この大国主義的、覇権主義的な誤りを是正することにあります。そのためにも、一国の正当 な歴史的領土を他国が併合することは許されないという、二十世紀が到達した国際法の根本原理にたって、今後の交渉にあたることです。この立場から、わが党 は、領土 交渉にあたる基本的な態度として、次のことをあらためて提案するものです。 (1)ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」や サンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提としないこと 対ロ領土交渉にかんする日本政府の立場は、サンフランシスコ条約の千島放棄条項の絶対化です。ここから、“南千島は千島にあらず”という国際的に通用しない無力な奇弁も出てくるのです。これを根本から正すべきです。 ソ連がヤルタ会談で対日参戦の条件の一つとして千島列島のソ連への「引き渡し」を要求したこと、それに米英が応じたことは、ともに「領土不拡 大」という戦後処理の原則に明白に背反する行為でした。その後、サンフランシスコ条約にアメリカの要求で「千島放棄条項」が入れられたことは、ヤルタ協定 での不公正な密約を具体化するものでした 問題の公正な解決には、戦後処理のこの不公正を国際的な民主主義の道理にたって是正することが欠かせません。そのためには、ヤルタ協定やサンフランシスコ条約の千島関連条項を日ロ交渉の不動の前提としないことです。 サンフランシスコ条約の個々の条項に明記された内容がその後、条文の公式な取り消しなしに、実際に変更された事例はあります。たとえばアメリ カは沖縄の施政権を確保しましたが、一九七〇年代はじめに、米軍基地の問題は残されたものの、施政権は返還されました。沖縄の祖国復帰が沖縄県民をはじめ とする国民的な強い要求と運動によってかちとられたことは、周知のとおりです。 日本は、ロシアの世論にたいしても、世界の世論にたいしても、歯舞、色丹と千島列島が日本の歴史的領土であること、そのロシアへの併合が国際 道理に照らして不公正なものであり、それをもたらしたのがスターリンの大国主義的誤りであったことなどを正面にかかげ、訴えることこそ必要です。 (2)基本に十九世紀後半の日ロ両国政府間の 平和的な領土交渉の到達点をおくこと 日ロ両国が、近代国家形成の過程で、戦争などの手段に訴えることなしに国境を画定しあった十九世紀後半の平和的な領土交渉の到達点を、両国間の国境画定の出発点、基準とすることが、強く求められています。 この時期の国境画定にかんしては、すでにのべたように、一八五五年の日魯通好条約と一八七五年の樺太・千島交換条約があります。日本共産党 は、領土問題解決の歴史的な基準としては、当時の領土交渉の最終的な到達点である一八七五年の樺太・千島交換条約にもとづくべきだと主張してきました。平 和的な交渉の結果、同条約によって最終的に全千島列島が日本の領土と決められたのですから、全千島を返還の対象として平和条約締結交渉を進めることには、 十分な根拠があります。 (3)必要なら段階的な返還のための交渉をおこない、 平和条約は領土問題が最終的に解決されたときに締結すること 歯舞、色丹は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島には含まれていないのですから、日ロ平和条約締結を待たず、早期の返還を要求すべきです。そのさい、必要なら、両国間で中間的な条約を結ぶことも可能です。 日ロ交渉は国家間の交渉であり、領土返還要求のすべてを一挙に実現できない場合もありうることです。戦後五十六年間の経過や現状を考えれば、なおさらそうです。 その場合でも、段階的な返還ということで交渉に臨むべきであって、合意できなかった部分の放棄を安易に宣言すべきではありません。ましてや、日本政府が、すでに指摘したような一方的な譲歩を提案することは、絶対に容認できないことです。 そして平和条約は、領土問題が最終的に解決され、日ロ両国間の境界が最終的に画定されたときに締結するべきです。 さらに、外交交渉にあたって、日本側が、返還されるべき島々については、非軍事化すること、自然環境を保全すること、現在の住民が返還後もそ こでの定住を希望すれば彼らの生活と権利を保障するための措置をとることを、今から明らかにしておくことは、重要な意味をもつと考えます。 このような立場を確立してこそ、真剣な領土交渉もできるし、ロシアの世論や国際世論にも訴えることができます。 日本共産党は、これらの提案の実行をめざし、日ロ領土問題の公正な解決のために、今後も全力を尽くすものです。
2019/04/24(水) 18:05:19 |
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古本屋通信 No 3955 2019年 4月24日 一労組幹部(一応w) といふ あたらしい荒らしの参入で混迷を深めるキンピー板 まさに悪貨は良貨を駆逐するの譬え、こういう低偏差値のゲスが左翼的言辞を弄しつつ支離滅裂を書きまくる。そうすれば声が大きくて多弁なだけに、つい惑わされてしまうのだろう。最近のキンピー板はコイツの独裁であるかの如きだ。太宰ファン様は時にからまれるので、かわしておられるがね。でも人によっては、コイツを太宰ファン様と同格な論客とお考えではないか。でも惑わされるな。コイツの日本語を見よ。精神分裂病者特有の謂いである。一知半解な左翼用語の使用はカモフラージュにさえなっていない。 私は何回かコイツの徹底批判を試みたのだが諦めた。次々に新しい論点を投稿するのでキリがないのだ。したがって、ここではコイツの過去文を集めて一覧に付す。まあお読みください。これは私の読者に向けたエントリーです。 ただ、冒頭にまともな分析的投稿 を貼っておきました。良貨も健在 です。12. 623 2019年04月23日 23:13 まったくアホな選挙でしたね。恥をしれ! 呉市議選も1議席減でたった一人の会派になりました(議員室は個室→相部屋に) 13. $$$ 2019年04月23日 23:49 大阪は、「自主的支援」とか言って府知事・市長選挙は自民党と組んでましたからね。補選のときは自民党を「自主的支援」でないのか、わかりにくかったのでしょう。官邸は改憲の味方にするために維新の実勝利を喜んでいるようですが、それならなおのこと、「反安倍」で自民党大阪府連とも共同すればいいのに、と有権者は思うのではないでしょうかね。 14. ストラス 2019年04月24日 00:06 前半戦段階では、国民と立民が分裂し、漁夫の利でいくつかの複数区取れる、という仮説でいました。 95年選挙の時の再来だと考えていました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC17%E5%9B%9E%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%80%9A%E5%B8%B8%E9%81%B8%E6%8C%99 この時は、埼玉県選挙区は30万票で共産党が当選し、東京都選挙区は49万票、大阪は47万票で当選しています。 比例は380万前後で5議席確保していました。 2013年選挙では21万票で共産が京都でとっています。 最低ラインの基礎票(350万票、これは1992、2010、2012)があれば野党分裂で東京、神奈川、埼玉、京都、大阪あたりは取れそうな流れと判断していました。 ところが、統一地方選で大阪の補選は、基礎票が危ういという状況を晒しました。 共産党が予想以上に衰退していますね。 15. ああああ 2019年04月24日 05:04 立憲民主が草の根活動(ボトムアップ)で安倍批判は控えめにして着々と地盤を整えている気がします 候補者も若くまだ上がり目はありそうですね その分共産党が食われたのは必然的 共産党が必要なのは人材ですね、昔と違い今は 候補者がよければ共産党でも票を大きく伸ばすことが可能なのは 一部で話題になった秋山もえとか 地道な活動で今回初めて議席を得た東栄町の浅尾もとことかを見れば明らかなので 問題は今の共産党にそういう人材がいるかどうかなのですが16. ああああ 2019年04月24日 05:09 そして大阪の壊滅的状況はもうどうしようもないような気がします。 革新票が維新に流れてしまってますからねえ ただ維新はポンコツが多いので自滅する可能性はありますが 政治家になってはいけないひとがなっているパターン多し 17. 糾す会@1. 星鈴様 2019年04月24日 06:54 豊島区大塚に都委員会が引っ越してきて初めての区議選でした。 結果 6人立候補(全員現職) 2人落選で4人に 違法疑惑の豊島民商をかばい疑惑を隠蔽しようとする都委員会にはよい教訓でした。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 以下のすべてがキチガイの低脳投稿 3. 一労組幹部(一応w) 2019年04月23日 16:35 凄い! 大躍進じゃないか! 毛主席もびっくりのw 5. 一労組幹部(一応w) 2019年04月23日 20:25 >>4 今共産党の偽装団体の会合から解放されたので、何故勝てなかったかに付いて、私が共産党に代わって敗因を書く。 その某会合に答えがあったからw いかなる団体が不明だが、いわゆる民主団体だろう。そういう組織は殆ど全員が共産党員だから、顔を合わせば選挙の議論にはなるだろう。だが民主団体が特定の候補者の支持団体(組織)になっていることはないから、そういう組織で選挙総括が正式議題になることはありえない。 その会合でも民主集中制が崩壊状態で、その会合の主催団体は党ではなく、民主団体なのだから、はじめから其の組織の民主集中制など問題になりえない。 一応の議題があるのにも関わらず、それぞれが勝手に喋って、結局何も決まらないという最悪の状況だったw大衆団体の議論としてはふつうのことだ。 でその内容は、共産党では某市長選に勝てないので、偽装野党統一候補を誰にするかが主題だったが、大衆組織でこういう議論を正式議題にすることはありえない。雑談としてはあるだろうし、あってよい。 その内の有力若手候補がなんと、某自民党大物防衛族議員の秘書上がりで市議崩れの男で、しかも私の県の総人口が100万人以下なのに、県庁所在地の人口を大阪万博効果で100万人に増やすという誇大妄想をw政策に掲げているような奴だったんだww 内部情報を公表していると自慢らしいが、ガセネタだろう。組織の攪乱者め。 そもそも自民党員?(現在の党籍は?)を担ごうという自体前代未聞だし、どうしてよりにもよって自民党の奴かと言うと、保守票を取り込みつつ、自民系色で共産党の存在をカモフラージュしようという魂胆な様だよ すでに日本語がシドロモドロだな。幻覚段階かよ。有り得ないことではないだろうが、一般的には考えにくい想定だ。だから、そういう曖昧な事実とも虚偽とも定かでない事を吹聴する貴殿には、スパイの疑いがかるのよ。 そういう様なアホを真剣に野党共闘候補として担ごうかどうか議論した挙句に、何も決まらず流会になる様な事をばかりしているから、勝てないんだよwww バカはテメエだ。 6. 一労組幹部(一応w) 2019年04月23日 20:44 >>4 「会議を終了させる為に会議を開く」by.ソビエト桂冠詩人のマヤコフスキー先生の金言が頭に浮かぶw 結局これならガチガチの民主集中制で、愚かな党員・シンパを洗脳・統制して命令していた方が、ずっと効率的だったのよ。コイツが精神分裂なのは、そもそもの立脚点が定まっていないことだ。いったいレーニン主義の組織原則である民主集中制にテメエは賛成なのか、反対なのか。殆どの論者はいずれかの立場を明確にした上で発言している。例えば太宰ファン様は反対、私はレーニン主義者だから賛成である。中間があっても構わない。構わないが、それは賛否論者のそれぞれに明確な批判的論点を提出しての上でだ。てめえのようなのはスパイの言い草なのよ。でも分からんだろうな。 だから民主集中制を発明したレーニンは、発明だとか発見だとか、ようも思いつくな。それにレーニン自身は「民主集中制」 という言葉を「発見」していたわけではない。後になってレーニンの組織論がそのように命名されたのだ。 ロシア内戦に勝利しその弟子のスターリン あのなあ、レーニン自身はスターリンを自分の後継者だとは考えていなかった。トロツキーを寧ろ評価していた.いずれにしてもスターリンはレーニンの弟子ではなかった。そんなことも知らんのか。 は、大祖国戦争に勝てたんだね。 しかし、長年個人の自由な思考を禁止して、宮顕・不破の電波を受信して、それに盲従するように躾けられて来た共産党員たちに、遅れ過ぎたプラハの春を解放してもそれは却って逆効果w テメエいま党員なのか、非党員なのか、それくらいハッキリさせろ。党員なんだろう。そしたらテメエも上記に責任が無いとはいえないだろう。党批判は構わないが、理念丸ごと否定してプラハの春かよ。公安委員会さんだな。 ただ非効率と井戸端会議宜しく、仲良し同士のみの内輪でのみ交流するという、共産党が最も警戒する私的な無数のグループに、分裂するだけになってしまっているのよwいわき市議団の分裂騒動も真相は、そういうところだと思う。 根拠が皆無である。すべてデタラメ。精神分裂病気症状。こういうのに一々反論すると、こっちの頭が疑われる。せっかくのいわき市議団の問題をこういう言い掛かりで台無しにする破壊投稿。 9. 一労組幹部(一応w) 2019年04月23日 21:14 まあ以上の様な状況じゃあ逆に・・・外部注入論を他の極左セクトから仕掛けられて、わたちのオツムでは、意味が分からんのですが。中核派が共産党に外部注入論を仕掛けるってどういう意味なんでしゅか。 共産党内がバラバラに分裂するかもね。トロが共産党に加入戦術を採用するって意味なのね。それは無いですよ。やるときには公言しますからね。 しばき隊や極左と平気で共闘するご時勢だから、チャンだぞ中核派の諸君w 中核派支持なの。 まあ今の共産党の右翼修正主義日和見連中合成語だな だらけの状態ならば、革命ヤルヤル詐欺?!の中核派の方が、まだマシだろうw 【背教者カウツキーへの手紙】を受け取るのは、社民主義者達じゃない。 日本共産党よ、お前達だw ということはカウツキー批判のレーニンを支持しておられるように見えますね。 2. 一労組幹部(一応w) 2019年04月23日 12:16 実は離党問題は、そんなに対した反党的な問題ではなかったのかもw 何をおっしゃっていますか。離党はそれが認められた時点で円満解決です。反党活動なら除名、反党活動とは断定しないが、党員であることと両立しなければ除籍です。 だから中央は苦肉の策として、とりあえず放置・静観しながら大人の対応のポーズを取りつつ、この処置から生じる利益があれば、それに乗っかろうと言うことじゃあないのかな。考え過ぎの邪推。党中央が一地区委員会内部の地方議会のトラブルに口を挟む事は有り得ない。だいいちそんな余裕は無い。 無ければもちろん全員粛清だろうけどw 粛清とは除名のことでしょうが、仮に除名にする場合は、地区委員会がやり、県委員会が承認する。中央委員会は関係無し。 かつては粛清すら党の危険なカルト的魅力ですらありしかも、民主集中制を支える鞭だったのだが、ついには粛清すら人材不足から出来なくなったのだろうし、今はそれをやれば簡単に拡散される世の中だから・・・民主集中制よ!嗚呼 実感なんだろうが、論拠のベースになる立脚位置が不明だから、結局は公安委員会の党オブザーブという結論になる。 4. 一労組幹部(一応w) 2019年04月22日 10:18 >>3 バックが、Y組な反動ごろつきファシスト集団の人殺しやサラ金のパシリ候補にすら負けるんですよねぇw >共産党も、もうええかげん「野党共闘実現」を看板にするのやめろ。考え抜いた実現可能の優れた政策(保守や維新支持者でも納得するような)を看板にする方針に変えるべき。) >>これは無理です。 これを変えたら共産党の統制が崩壊するから。 つまりボルシェビズム特有の民主集中制と、革命の前衛としての外部注入論の二本柱が、共産党の核心そのものだから、貴方の主張どうりのことをもし共産党が実行すれば、それこそ共産党の結党・存続意義を自己否定することになるから、絶対に無理です。 むしろ共産党の頑迷さが、党の宗教的な魅力に繋がっているのだから、共産党の生命線を否定できる訳がないです。 6. 一労組幹部(一応w) 2019年04月22日 10:49 >>5 確実に党の知的水準が低下しましたよね。 ある共産党の事務方の幹部に日本資本主義論争について問うた事がありましたが、ベトナム戦争がどうのうこうのとか、全然方向違いの答えが返って来ましたもの・・・(本当に開いた口が塞がらなかった) 大体党員の上下全てが、考えるという行為を不破さんに委ねてしまっているから、不破さんの衰えと共に自動的に全体の知的水準も下がるのだと思います。 多分殆どの党員は、資本論なんて読んでないだろうし、共産党宣言すらも怪しいと思います。 7. 一労組幹部(一応w) 2019年04月22日 04:59 シミズバ!ライブ配信「侠気☆宮本たけしのラストスパート!」 https://youtu.be/HazuT-vqHq8 安定の大敗北でしたね。 黒田革新府政を過去に実現していたのに、ますます共産党はガタガタになる一方ですね。 これも実質共産主義を捨てて、完全に修正主義の泥沼に陥った挙句の自己規定すら出来ていないくせに、共産党の看板を下ろすことの出来ない矛盾の結果ですねえ。 そもそも「共産主義でなければ、別に社会民主主義でいいだろ」だから、共産党結党・存続の意味すら無い訳だから。 それに共産主義を放棄すれば、共産主義固有の宗教的神秘性が無くなって、有権者に訴求する材料も無くなるんだから、完全に負の連鎖ですな。 共産党がこれから生き残る為には、左翼回帰路線ともう一回【党細胞】という神秘的固有名詞を復活させるしかないでしょう。 8. 一労組幹部(一応w) 2019年04月22日 05:07 まあ共産党は、E・テールマンでも見習うんだなw ただのスターリニストと切り捨てているようだが。 Ernst Thälmann-Lied https://youtu.be/AzBCiyDkXPw Demo-Tipps von Ernst Thälmann https://youtu.be/XXkwlfQc3Mo Thälmann - Der Feind steht im eigenen Land https://youtu.be/gwg-xhfg68o Ernst Thälmann - Führer seiner Klasse (DEFA 1955) - ending scene with eng subs https://youtu.be/aEOpcqVPSDU Ernst Thälmann Sohn seiner Klasse (Ερνστ Τέλμαν Γιος της τάξης του)ελληνικοί υπότιτλοι https://youtu.be/L1R7sNL8wRI Ernst Thalmann - Fuhrer seiner Klasse (Ερνστ Τέλμαν Ηγέτης της τάξης του) https://youtu.be/4nI2DweBBOM 9. 一労組幹部(一応w) 2019年04月22日 06:50 それとコレやっても勝てないけど、 共産党隠しより公然と共産党という看板を背負って、宮本たけしは出るべきでしたね。 その方が有権者からの同情票・政権への抗議の意思票が集まってもっと票を獲得出来て、もう少しマシな敗戦の弁の材料が出来たのに。 それなのに共産党隠しをして、日頃批判している自民系無所属と同じことをしたから、共産党の秘密陰謀結社的な負のイメージを喚起して印象を悪くしたのと、それが為に共産党の神秘的イメージを逆に訴求する手段を自ら放棄してしまったから、まあ当然の大敗北ですね。 12. 一労組幹部(一応w) 2019年04月22日 10:01 >>10 その正森さんも確か・・・何の件か忘れたけど(宮顕の件だったかな?)党内で随分冷遇されてたようですね。 多分共産党で、一番出来る議員だったでしょう。 それから国会追求の一番の花形だった、故山原健二郎さんも党内序列のせいで、後輩の低脳な中央委員のUに虐められていたそうです。 出る杭が打たれるのは、革命政党も一緒ですな。 実に日本的ですw 13. 一労組幹部(一応w) 2019年04月22日 10:05 僕の県は、共産県議が一増及び県庁所在地で共産党の市議がトップ当選で、現有勢力保持の堅調です。 まあ昔から貧乏県で、革新が強いところですから。 ただし国会議員の席は、失ったままですが。 17. 一労組幹部(一応w) 2019年04月23日 12:00 >>16 『エルンスト・テールマン』ヴィリィ・ブレーデル著・村山知義訳(かつての日共知識人のw) 『エルンスト・テールマン伝』高村宏著(こちらは労農派系の知識人の方?) 多分日本語で出ているテールマン関係の代表的な著作が、この2冊くらいしかないと思います。 当然私は、この2冊と東ドイツ製のテールマンの肖像入りペナントを、額縁に入れて自宅に保管しています。 結局旧左翼のスターリン批判と、新左翼の反スタ闘争というそれぞれ延命の為のまたは、勢力拡大の為のご都合主義運動が展開された結果が、偉大なる人物であったテールマンを、ただの頭の悪いスターリニストの一人として、矮小化してしまったので、テールマン研究は日本においては、未だに手付かずですよね。 9. 一労組幹部(一応w) 2019年04月20日 19:19 どうせまたアレでしょう。 「敵の反共謀略宣伝で落選したが・・・得票数は増えたので、実質的勝利です!」 といういつもの奴でしょw そもそも供託金ライン云々よりも、ここで誰かが書いてた「供託金は誰が払うの?」の方が問題だと思う。 宮本は、無所属だけれども共産党員であるという、日頃共産党が批判している自民系地方議員や無所属国会議員の保身的ポジションと同じジャン。 話は飛ぶが、今の共産党は知的カスしか残っていないので、革命を労働者の頭脳となって指導する為の前衛党として、共産党は正統マルクス主義者達が立ち上げた社会民主党から「結合の前の分離」して、結成されたデカブリスト・ナロードニストの秘密結社の運営方法を丸パクリした秘密結社的政党であるという事すら理解していない・出来ないつまり何故共産党が(民主集中制=レーニンイズム)を採用しているかの真の理由すら理解していない連中が殆どだから、安易に下部・中堅は妄想的に野党共闘に飛びつき、一部の上層部は共産主義という指導原理を清算する事は、自分達の特権が喪失される事を認識しているので、共産党という看板を下ろせない挙句の野党共闘という延命手段に迎合・積極的に旗振り役を持って任じているしかないのである。 10. 一労組幹部(一応w) 2019年04月20日 19:20 もっと書くと、マルクス・レーニン主義更には科学的社会主義というバカ表現を唱えている事自体が、共産主義を理解していない証拠だ。 マルクス主義が平時共産主義なら、レーニン主義は戦時非常時共産主義だから、それぞれ異なる方法論をくっ付けて自分達を正当化する表現としている自体バカの証拠だが、更には自然科学に立脚した思想・哲学・経済分析の集大成であるのが、一応社会主義なのだからわざわざ社会主義に科学的をくっつけて、国民を誤魔化そうとしているのは、小賢しいにも程がある。 そうやっても国民は騙されないと言うより、関心すら多数派はないから(関心があるのは産経に読売新聞だろw)ますます共産党の唯我独尊の独りオナニーに、拍車がかかるんだろうなあ。 そういえば・・・昔共産党は綱領をプロレタリアート独裁からプロレタリアートの執権政治と表現を変えて、世間に恥を自ら晒した事があったが、僕もそれを始めて知った時は「一体いつから共産党は、鎌倉幕府の北條氏になったのかw」と笑い転げた事がありましたが、やっぱりアノ頃からもうダメだったのですねえ。
2019/04/24(水) 08:10:17 |
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