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古本屋通信

1968年岡大学生自治会の勢力図

古本屋通信   No 3353    2018年  05月30日


  「岡山民報」特報ーー1968年岡大学生自治会の勢力図

 たったいま豆のように小さい記事で特報があった。とても小さいので全文は転載できない。虫メガネで読み取った数字を記しておく。

 この年は私が学士入学した年であり、春先から各派の選挙戦が派手に展開されていた。各学部自治会選挙ではなく、自治会連合の中執選挙だった。形式は2名連記の候補者群で各派が立候補して、それに全学生が投票するかたちだった。

 開票は7月の暑い盛りに学生会館で行われた。結果は以下の通りであった。( )内は昨年。

統一会議(民学同)   7人(11人)
反戦会議(中核派)   6人(4人)
全学連支持委(民青) 8人(3人)



 これが当日の直接選挙(定員21人)分だが。実際の中執は、これに各学部からの派遣中執が加わる。これは学部の執行部を握っている党派がふつうは派遣の権利を有する。しかし学部の全員投票で選出する学部もあった。ちなみに学部自治会の執行部を握っているのは以下であった。

教育学部ー民学同   法文学部文科ー民学同   医学部ー民学同   理学部ー中核派   農学部ー中核派   法文学部法経ー民青   工学部ー不明   法文Ⅱ部ー不明


 このうち理学部と農学部は執行部は中核派だったが、派遣中執の学部選挙では民青が取った。その結果、全中執数では以下で確定した。

統一会議(民学同)  10人
反戦会議(中核派)   6人
全学連支持委(民青) 10人



 なお、自治会選挙はこの1968年までだった。翌年には全共闘が結成され、全共闘はそもそもポツダム自治会解体の方針だったから、選挙を実施するわけがなかったのである。

 私は1970年3月には卒業するので、後の詳細は分からないが、自治会連合は機能しなくなったと思う。学部自治会の選挙はやがて再開された学部もあるし、そのまま自治会が消えた学部もあったように聞いている。

。。。。。。。。。。。。。。

 余談だが、岡大の自治会連合なんて元々何の機能もなく、各派の勢力を表示する指標に過ぎなかった。だが学生はそれを党派への信頼度と受け止める。それだけに選挙戦は熾烈を極めた。いま考えると自治会民主主義が機能していた最後の良き時代だったろう。

 反戦会議の法経のH君なんか、「民青諸君の法経自治会の私物化を乗り越え・・・」 と云う調子で、ちゃんと君付けしていた。

 文科からは倫理専攻の岡確(たしか)君が統一会議から立候補して当選した。

 その後の全共闘運動を経て、H君も、岡君も、東大安田講堂事件に連座して逮捕された。たぶん1年位の懲役だった。岡君はそのご岡山の解放同盟の専従をやるが、若くして病に倒れた。

 この中執選挙で大量得票したのが反戦会議の島元氏だった。学生会館まえで「前進」を販売していた島元の名前は有名だった。彼が全共闘運動に関わった記憶はないが、大学には未練がなかったのだろう。やばて中退して、西川沿いに古本屋・梁山泊を開店する。この店は大阪梅田を経て、いま京都に店がある。私が古本屋を開店したのは梁山泊の影響もあった。典型的な左翼古本屋の品揃えだったろう。

 上記の各派の勢力比は、その後の岡山の運動(岡大ではない)の底流に、少なくとも30年間は影を落とす。岡山の中核派はほぼ消えたが、広島では完全に生き残っている。

 また、岡山の共産党と傘下組織で数十年間に亘って活躍したのは、この時代の岡大民青だった。中原君と武田君が有名人だか、その他でも十指に余るだろう。良かれ悪しかれ学生運動は今も生き残っているのである。

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 それからこの中執選挙に立候補した三派以外の党派のことを書き残しておこう。それはブントである。

 三派にはそれぞれ岡大でも歴史があった。だが岡大ブントには何の歴史もなかった。選挙用に3人で作って、立候補した。惨敗だった。3人は法経のK、同じく法経の行方、それともう一人が女性だった。落選したあと全共闘運動に参加した。

 そしてKは大阪御堂筋闘争で逮捕され服役する。行方が問題なのだ。ブント赤軍派を経由して連合赤軍に加わる。後は知る人は知る結末である。森だか永田だかにリンチで殺され、穴に埋められたのである。こういう連合赤軍が大衆的支持を得られるわがはない。

 Kは赤軍派には行かなかった(逮捕されて行けなかった)が、塩見の論文には感動したという。その塩見も駐車場の管理人を経て死亡した。ブントはしょせん左翼ではなかった。まあ今だったら立憲民主党だろうな。
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  1. 2018/05/30(水) 19:48:56|
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秦野真弓様。江田VS則武

古本屋通信   No 3352    2018年  05月30日


    秦野真弓様。江田五月 VS 則武真一

 最近心配しておりましたが、お元気でホッとしました。まいど古本屋通信をご贔屓くださって感激です。岡山で同時期に衆院の議席を争った江田五月と則武真一の名前を出して下さったので、下で少し書いてみたいと思います。当落だとか得票数などには関心がありません。いま思い付いたことだけです。

  アッ、秦野様の文体は超一級品ですねえ。いつもホレボレします。セックスフォード大学も秀逸ですが、シャミンのトロなんてスバラシイ。第四インターなんかピッタリですね。


4. ゴミスケの秦野真弓
2018年05月30日 13:46
古本屋通信様の地元、岡山も国土交通発達してますね。私は岡山駅からB'zの稲葉様の実家=東津山駅経由で鳥取側に行く旅、好きでした。イギリスもまた国土交通、発達してます。しかしながらイギリスも日本と同じ学歴社会。裁判官出身=江田五月様=江田三郎社会党委員長の息子=所詮シャミンのトロも、イギリス=セックスフォード大学留学歴あります。古本屋通信様にとり日本共産党の則武真一様の方が良いかな
今回の旅、フランスも成功。美容業社長=トモコさんの店にも行きました
トモコさん:何でイスラム系航空会社で来たの?だから審査厳しいのよ
私:カタールというとサウジアラビアと同じく、最も戒律厳しいイスラム教クンニ派。ところが、サウジは日本人ならいくらでも酒、提供するカタールが嫌いなせいか、サウジは一方的に断交。カタールが孤立しないようカタール航空使いました
トモコさん;見て見て。あれがフランスの機動隊よ
私:警察活動には警備公安部門と司法警察部門があります。機動隊は警備部門です。何かありました?
トモコさん:知らないの⁉一昨日、オフェラ駅付近で、テロがあり1人死んだのよ
と楽しい会話となりました。私は黒人嫌いですが、黒人美容師、私になつき、有意義でした



  古本屋通信

 ここ数日、岡山の地域新聞「岡山民報」を見て板を(5)まで立てました。選挙関係が圧倒的に多い党岡山県委員会の新聞です。その中でも5回の衆院選に出馬した則武関連にはもうウンザリでした。私の則武評価は既に書いたようにマアマアなのですが、たった先ほど、「岡山民報」の中に彼の恩師だという長崎宏次広島大学名誉教授の 「燃えろ、則武真一君」 という文を見つけました。よくある激励文ですから転載はしませんが、ここに紹介されている彼の経歴も含めて、以下が則武の略歴です。

 則武真一は岡山の和菓子屋の伏見屋の一人息子。父親は市議会議長だった。その当事、彼は岡大法文学部文学科の学生として長崎先生に教わっていた。だが岡大にはとうじ仏文がなかったので、長崎先生は広島大学に転任した。そのとき教え子の則武を広大に連れて行った。これは大学院でも、学士入学でもないだろう。たぶん3年生にそのまま横滑りした。教授はそれくらいの権限は持っていた。また則武は、岡大でも広大でも典型的なノンポリだった。左傾化したのは山陽新聞に入社した後である。後は知ってのとおり。労組の委員長時代に馘首され、党の半専従から県議会議員一期。衆院に2回目で当選したが、わずか数ヶ月で衆院解散。その後は3連続落選。武田に候補者を譲って隠居。和菓子屋の専務。評判わるかったなあ。息子は党派性は明らかにしていないが、党関係の弁護を引き受けている弁護士である。倉敷民商事件の主任弁護人。


 さて、江田五月 VS 則武真一の資料がありましたので。江田の文を引用した6年前の古本屋通信の一部分です。江田の文は40年以上まえの文です。今回はこれだけにしておきますね。

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  古本屋通信 No 404 より

  ここに、江田が書いた古い短文があるので貼っておこう。


 1983/04 五月会だより No.17

 共産党は「金も組織もない江田なんか問題外」と豪語していたが、最近は江田人気の上昇がよほど気になる様子。三月二十日の赤旗には則武真一さん直々に執筆して江田攻撃。
 まるで江田五月を不具戴天の敵あつかい。
「共産党をのぞく五野党合意を絵に描いたようなメンバー」
「労働界からも、反共右翼再編成を先どりしたように同盟から総評まで勢揃い」
「父君の江田三郎氏こそ、社会党右転落の元祖」
「臨調のニセ行革、軍拡推進者に期待される江田氏」
「“不沈空母”相乗りの江田五月氏」と――
 則武さんはもっと紳士と思っていただけにビックリ。
 いちいち反論するのも大人げないから感想だけのべておく。この短文の中に、共産党の独善性セクト性が見事にでている。「社会、公明、民社、新自由ク、社民連の揃い踏み」は悪いことですか。日本の政治の不幸は、野党の不団結にあるのではないですか。共産党も国民のために、もっと他党と仲良くしてはいかが。
 「労働界も同盟から総評まで勢揃い」とケナシているが、労働者が団結することはケッコーではないですか。共産党も対立、抗争よりも共斗提携の道を大切にしてはいかが。
 「不沈空母に相乗り」「軍拡推進者から期待される江田五月氏」にいたっては論外。反論する気にもならない無茶苦茶の暴論。
 こんなことでは、共産党を含む野党共斗はますます困難だ。
社民連連・民社・新自ク 協力関係ふくらむ
 公明党・民社党・新自由ク・社民連は、院内外においてさまざまな共同行動をすすめている。選挙協力もいろいろな障害を乗りこえて模索されている。
 岡山県下においても社民連、民社党、新自由クの協力関係は徐々に発展している。


 これは30年前の江田五月の文だ。内容のあれこれは読者の判断に委ねたいが、私は共産党の則武真一の文(江田が「 」で引用)は完全に正しかったと思う。江田三郎と五月の果した役割、その反動性は、30年後の今日ますます際だったものになった。つまり江田の言った通りになり、その結果最悪になった。民主党岡山県連が崩壊する日が遠くないことを再度確認して、今日の長過ぎたブログを終わりたい。

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  それから、シャミンについて一言。

 社会民主主義のことです。詳しくは ウィキペディアですが、独断でこう思います。戦前の裏切り者の代名詞。侵略戦争反対の旗を降ろして、祖国防衛戦争の名で青年を戦場に送り出したからです。

 戦後は主に社会党左派を指すことが多いです。向坂協会派など。社会党右派や民社党は決して該当しません。したがって江田親子はシャミンではありません。自民党ですね。

  いまの日本にはシャミンはいません。いるとしたら日本共産党です。立憲民主党はむかしの江田三郎に近いでしょう。現に五月は枝野や管直人の人脈ですね。松竹や有田は社民ではありません。スパイです。いちばん真っ当なのは保守の筆坂さんです。人間的に信頼できます。政策委員長時代とまったく変わっていませんね。
  1. 2018/05/30(水) 14:37:48|
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連盟、自己省察を回避する処断

古本屋通信   No 3351    2018年  05月30日


  アメフト連盟、自己省察を回避する処断 ーー 極刑(除名処分)断行

 既に述べた通り、私は今回の除名処分に何の異論もないが、さあ、これで何かカタが付くだろうか?

 関東学生アメフト連盟は日大を切ってオワリにする積りだろう。だが似た体質のアメフト部は。連盟傘下のアメフト部の多くにあるのではないか。そのことついての自己省察は皆無である。その自己批判を回避する故の極刑であったろう。

 ことは関東アメフト業界だけの問題ではない。ド田舎地方大学の運動部は除いて、有名ブランド大学すべての運動部が冒されている商業主義こそが犯罪の温床である。

  要するにスポーツは商品なのだ。選手も商品である。

  私は虚しくなって過去記事を消した。

  赤旗が殆んど記事にしていないのが救いである。

 ブル新聞の犯罪には底がない。きょうの毎日新聞などとうてい読むに耐えない。商品としての記事以外ではない。スポーツ報道など必要ないのだ。

 あと司法の裁定が残っている。

 傷害事件として仮に有罪があるとするならば、まさに実行犯の学生が犯罪者となる。悪質だろうが、グランドでのタックルが傷害認定されることは万に一つもないだろう。もしあれば、以後のスポーツに決定的な打撃をあたえる判決になる。



日大アメフト部の特異体質浮き彫りに
5月30日 4時22分  NHK
日本大学アメリカンフットボール部の選手が重大な反則行為をした問題で、関東学生アメリカンフットボール連盟の臨時の理事会は、日大の内田正人前監督と井上奨前コーチを最も重い除名処分としました。規律委員会の調査からは選手を精神的に追い込む指導が日常化していたなど、特異な体質が改めて浮き彫りになりました。

今月6日に行われた日大と関西学院大学の定期戦で日大の選手が後ろからタックルする重大な反則行為をして全治3週間のケガを負わせました。

試合を主催した関東学生連盟は29日臨時理事会を開き日大の内田前監督と井上前コーチを「除名」、森琢ヘッドコーチを「資格の剥奪」、反則行為をした選手とチームについては「今年度シーズン終了までの公式試合の出場資格停止」とする処分を決めました。

事実解明にあたった規律委員会の調査によりますと日大アメリカンフットボール部では、一度監督を退いた内田前監督が復帰した去年からチームの雰囲気が変わり、「白いものも内田さんが黒といえば黒なんだ、というコーチもいた。理不尽でも、はいというのが当然のおきてだった」としています。

また「内田前監督は活躍しそうな選手を全員の前で名指しして、『結果を出さなければ干すぞ』と圧力をかけ、ひたすら厳しい条件を課した。選手の間では『はまる』と表現され、当該選手も『はまった』と言える。『はまった』選手の精神的重圧は相当なものだった」として、日大では内田前監督のもと、選手を精神的に追い込む指導が日常化していたと指摘しました。

さらに、反則行為の背景として内田前監督が絶対的な権力を持つ中、「行き過ぎた指導、それをおもんばかったコーチ、何も言えなかったチームがあった」と結論づけていて、日大アメリカンフットボール部の特異な体質が改めて浮き彫りになりました。

規律委員会の委員長を務め調査にあたった森本啓司専務理事は「スポーツの中ではある程度、厳しくするなかで成長するということも事実だが、精神的に最後まで追い込んでしまったことについては、指導者として不向きであるとしか言いようがない」と話しました。
  1. 2018/05/30(水) 08:51:11|
  2. 未分類

「岡山民報」 を読んで

古本屋通信   No 3350    2018年  05月29日


     「岡山民報」 を読んで


  「岡山民報」縮刷版 1,2,4,5,6,7の6冊は時期的には1965年4月~1987年12月までだった。虫眼鏡を使いつつ、2度読み通した。一度目はこの通信の記事を仕上げるため、そして二度目は記事中の写真を切り抜いてハガキ容れに収めるため。二度に亘る鬱陶しくて愉しくない作業を通じて、見えてきた全体像と個別登場人物の感想を記しておきたい。

 私は当初このシリーズを自分用のメモランダムとするつもりだった。読者には読まれないことを想定していた。だが途中から、何時もと変わらぬ読者がいると知った。少し気分をよくして記述に力が入った。シリーズ後半が長くなったのはそのせいである。

 まず縮刷版全体の評価。以前にフォローした東京大学新聞の縮刷版や、中核派「前進」縮刷版に較べて、私個人の観点からだが、社会運動史資料としては圧倒的に魅力がなかった。それは記載が岡山だからではない。書かれている記事の9割がブルジョア選挙のことだったからだ。県党としては仕方がないのだろう。ウンザリして、ほぼ完全スルーした。

  それでも、ここではメモとして残しておく。

 全国選挙たる衆参議員選挙の記事が約半分、残りの半分が地方自治体の首長選挙と地方議員選挙である。9割が選挙関係だから、これは赤旗よりもブルジョア議会主義である。

 それから党勢拡大の記事は、なかったかと云えば、5パーセント位はあった。残りの5パーセントがその他の大衆運動などの記事である。私はそれを使ったわけである。

 選挙関連のうち、地方議会は党員が力を集中してたたかった。だから記事も多くなったのだろう。私は殆ど読んでいない。通算では数百人の顔写真が登場している。

  私が豆記事を拡大して読んだのは、総社市議の中田きみ(喜美、くにさだきみ)と、倉敷市議の大本芳子、それに同じ倉敷市議の小山博通だけ。この3人について、私は既にしばしば書いている。ベタ褒めとトコトン貶しの文脈でだ。「岡山民報」にもしばしば登場する。しかし記事に差はない。中田きみがイヤイヤ選挙をやった形跡はない。また、大本や小山の活動もすばらしく書かれている。文章も載せているが、少なくとも問題はない。まあ選挙記事なんて人民だましの典型だと思った。大本や小山が議員失格でないはずがない。

 衆参選挙のまえに県委員長だが、峠田委員長が中央に転出したあと、ひとり挟んで佐武委員長だった。佐武は衆院岡山二区の候補者にもなった。県委員長の期間も長かったが、現役の県委員長のまま急死した。その後が江草県委員長だが、ここで私の「岡山民報」は途切れている。私は江草と石井ひとみが並んで歩いているのを目撃している。江草は県委員長をやりたくない人だったように思う。江草のあとが中原猛で、そのあとが長期政権の石井である。でもそれはずっと先の話である。

 衆参全国選挙関連では、則武真一の記事がダントツに多い。選挙活動は周知のとおりだから書かない。私の則武評価を記しておこう。山陽新聞総細胞出身の党専従として、則武が特に優れていたという事実はない。政治的理論的力量は萩原や坪井のほうが遥かに優れていた。しかし則武には大衆性と毛並みの良さがあった。良家のお坊ちゃまんである。だから辛うじて当選した。これが本人にとって良かったか不幸だったか。おそらく後者だ。しかしそういう者としては、彼はよく勉強し且つたたかった。残された全蔵書を見る機会もあった。萩原には遥かに及ばないが、立花や野下の比ではない。フランス文学もよく読んでいた。結論的には衆院議員は適任ではなかったと私は思う。

 武田英夫は地味な専従だった。大学を中退して民青の専従になった。民青県委員長を務めたあと、党県委員会常任委員だった。そのまま裏方に徹すべきであった。先輩の坪井のように。だが武田の不幸は、彼がイケメンで恰幅がよかったことだ。これはネクラなイメージの坪井や萩原と較べれば一目瞭然だ。武田は参院候補 → 県知事候補 → 衆院一区候補(則武の後釜)を経て、立花の急病を受けて岡山県議に当選する。あと言うことはない。日本共産党員がここまで腐敗できるのか、その典型である。ただし実際に汚職をしたわけではない。政治感覚(感性)の問題である。もちろん理論は無い。選挙演説は無理論でも可能だったのである。新しい発見だった。

 いま午前3時である。これから店に行き、古本にまみれて至福の時を過ごす。何か一つ新しい発見があれば、それをブログのネタにする。「岡山民報」も、そうして発見した全6冊だった。


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  いま店から帰ったら、拍手コメント欄にKM生様から投稿があったので、無断で転載させて頂きました。私は正規のコメント欄を閉鎖しておきながら、キンピーサイトの本文や投稿を平気で採り上げて自由に論じています。批判もしています。でもこれはよく考えてみれば、公平さを欠くことです。従って 今後はキンピーサイトの常連様に限って、拍手欄に投稿された場合は転載 しようと思っています。ただ当方の条件もありますから、取捨選択の余地は残させていただきます。それと転載した場合も、論争のひろば的にしない方針なので、応答は基本的にしない方針です。MK生様の投稿にも吉開さんのことなど、書きたいのですが敢て禁欲したいと思います。


「岡山民報」 を読んで   投稿者 : KM生   05/29 05:16
垰田委員長=懐かしい名前ですね(^^)。66年日中両国共産党対立の際には、山口県委員会へ指導に出向き、吉開那津子さんの小説「前夜」にも「靴下に穴の開いた中央委員」として登場。
  1. 2018/05/29(火) 01:32:35|
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赤嶺政賢あかみねせいけん落選

古本屋通信   No 3349    2018年  05月28日


    赤嶺政賢あかみねせいけん落選必至


  私はオナガ雄志の膵臓癌の進行や転移には関心がない。オナガといっしょに写真に納まっている赤嶺を見るたびに、むかつく。公職選挙法はみんなで破れば違反でないとウソ吹く低脳である。よし確実に落選である。よかった。それだけ。一言だけ。こいつらのやり方で行けば日本の政党政治も議員内閣制も成り立たんのだ。これを全国に定着させる試みが志位低脳方式だ。




翁長雄志知事支持の「オール沖縄」事実上分裂 革新に不満、保守系が新組織設立
産経新聞   2018.5.27 21:45

沖縄県の翁長雄志知事再選を目指す新組織の会長に就任した赤嶺昇県議会副議長(右から2人目)=27日午前、沖縄市(杉本康士撮影)

 沖縄県の翁長雄志知事を支持する県議会の一部会派や企業が27日、12月に任期を迎える知事選で翁長氏の再選を目指す新組織を設立した。新組織には共産党や社民党、労組などでつくる「オール沖縄」を離脱した県内有力企業も参加し、オール沖縄は事実上、分裂したことになる。背景には、オール沖縄が革新政党の生き残り策として利用されているとの不満もあり、知事選への影響もありそうだ。

 27日結成されたのは「オナガ雄志知事を支える政治経済懇和会」。沖縄市で開いた総会には保守系無所属を含む県議8人の会派「おきなわ」のほか、オール沖縄を離脱した観光大手「かりゆしグループ」と建設大手「金秀グループ」の関係者も出席した。

 翁長氏は15日に膵(すい)がんを公表した。知事選に向け健康不安はぬぐえないが、総会に出席した謝花喜一郎副知事は「映像で見るよりも、ご本人ははるかに元気だ」と強調した。

 ただ、保守と革新が混在して翁長氏を支える態勢は一枚岩とは言い難い。会派「おきなわ」幹部は「オール沖縄の名前を使うのはおかしい。有権者へのごまかしだ」と憤る。県内市長選ではオール沖縄系候補の敗北が続き、全11市のうちオール沖縄系は2市にとどまる。自民党県連幹部は「オール沖縄ではなくパーシャル沖縄だ」と揶揄(やゆ)する。

それでも革新政党にとってオール沖縄は魅力的な看板となっている。共産党が昨年の衆院選で選挙区を制したのは沖縄1区の赤嶺政賢氏のみ。社民党も照屋寛徳氏=沖縄2区=が唯一の選挙区当選者だった。懇和会の幹部は「革新政党はオール沖縄にしがみつこうとしている」と手厳しい。

 一方、会派「おきなわ」はオール沖縄から離脱したわけではない。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対で、政府と距離を置く。懇和会会長の赤嶺昇県議会副議長は27日の記者会見で、革新政党側と協力する考えを示したが、「翁長氏はもともと保守系だ」と強調した上で、こう牽制(けんせい)した。
 「オール沖縄勢力の実態がどうなのか、なかなか見えにくい」(杉本康士)
  1. 2018/05/28(月) 06:02:44|
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しんぶん赤旗は商品である

古本屋通信   No 3348    2018年  05月27日


    しんぶん赤旗は商品である


市庁舎は市長の管理下にある役所であるから、いかなる外部の団体、個人と云えども政治活動をすることは出来ない。政治活動をする自由が制限されるのではない。もともと政治活動をする場所ではないから、政治活動をすることは許されない。これは民間の企業内で同様な政治活動をすることが出来ないのと同じである。

議員が市庁舎内に自由に出入りできるのは、「行政調査権行使」のためであって、所属政党の党勢拡大、すなわち政治活動の自由の行使のためではない。したがって自党入党の勧誘、自党の政治宣伝や署名活動、また説得等の活動、一般的にオルグと呼ばれるような活動をすることは出来ない。

しかし議員である無しに拘わらず、市庁舎内で物品の販売が習慣的に認められている現状にあって、特に回避されるべき理由のある商品を除いて、商品(物品)を販売することは習慣的に出来る。また、商品(物品)に差別を設けることは適当ではない。端的には、ヤクルトとしんぶん赤旗の、商品(物品)としての差別(化)は認められない。

また、物品を販売するヒト(人格)に差別を設定することは適当でない。のみか正しく差別である。共産党のしんぶん赤旗の販売について云えば、党所属議員と一般党員(例えば赤旗分局員)の差異はない。所属議員は市庁舎に出入りする機会が多いから、市庁舎の内部事情に精通しているだけである。

そもそも如何なる党所属の議員も、行政に携わる職員(部局長クラス、中間管理職、一般公務員、現業)と上下関係にはない。対等という以前に利害関係はない。党議員が議会に於いて質問し、これに対して当局たる部局長クラスが答えることが、議員と部局長の主従関係を暗示するなど笑止千万である。それぞれが立法と行政の立場から、独立した関係として応対する。そこに情実の契機など介入する余地はない。もし万一あるとすれば、行政の側が疚しいのである。党議員が赤旗購読の有無をもって、行政当局への対応に傾斜を設けるなどということが万に一つもあるわけがない。あると写るのは錯覚である。

ヤクルトのおばさんでもよいが、山陽新聞の拡張員の例をとってみよう。山陽新聞販売では、拡張員(営業)が支局長を伴なって挨拶に行く場合もある。「今度地方版に東備版を新設しましたのでご案内に伺いました。取材にもいっそう力を入れますので、部長さんも宜しく御購読をお願いします」。これがパワハラになるでしょうか。なりません。でも鬱陶しいと思う管理職はいるでしょう。それは糖尿病でカロリー制限されている部長さんがヤクルトをうらめしく思うのといっしょです。見て見ぬふりをするしかありません。

前にも書きましたが、市庁舎内ではいっさいの物品の販売を厳格にに禁止するのでない以上、公明新聞と、聖教新聞と、しんぶん赤旗と、デイリースポーツだけを販売禁止にすることは出来ません。これ日本国憲法の拠って立つ平等の原則でしょうね。

 長々と愚論を申し述べ、失礼いたしました。
  1. 2018/05/27(日) 21:41:27|
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「岡山民報」 記事抜粋(5)

古本屋通信   No 3346    2018年  05月26日


    「岡山民報」 記事抜粋(5)


  引き続いて第五回目の記事になる。縮刷版6に収録されている記事からの抜粋である。縮刷版6に収録されている「岡山民報」の時期は1984年1月~1986年12月であり 3年間である。


岡 山 民 報  1984年 (昭和59年)


2月5日  誇りある私学を作ろう 学費の据え置きを 岡山・笠岡で四千名集会

岡山で3100人、笠岡で1100人だそうな。教職員はごく一部で、あとは実際の父兄と高校生だろう。私学助成の65万署名を集めている。これはすごい。


5月6日  マル青同が策動 札つきの「暴力集団」

これはちょっと分からない。記事によると、さいきん岡山で、拡声器騒音防止条例で策動を強めているという。しかし集会などをやっているのではなく、紳士的に共産党議員団控室を訪問したという。まあ大人しくなったということだろう。しかし岡大北津寮で理学部一年生の大沢を殺したのが1975年だった。そのとき全滅しなかったのか。後になると完全に保守になったが、この時はまだ左翼を装っていたらしい。
この記事ではマル青同を、連合赤軍の片割れである日共革命的左派神奈川県委員会の流れをくむと書いている。が、曖昧である。マル青同はブントの末裔であって、京大の人脈である。日共神奈川県委員会が毛沢東盲従は確かだが、これは共産党とはもともと無関係なML派の流れだったろう。かなり複雑だが、この記事はあやまりだと思う。



5月27日  岡山赤旗まつり盛大の開く 五千人が参加 10万の「赤旗」読者を

これは玉野市の深山公園で開催されたにしては大成功だろう。今までは岡山県営グランドか、三野公園だった。会場が取れなかったのではなかろう。玉野へのテコ入れである。もともと三井造船玉野には党の大きな細胞があった。佐武弘県委員長はそこの出身だろうこれは記憶ちがいだった。玉野はちがいないが逓信つまり郵便局出身だった。死亡記事の経歴にそうあった。


8月12日  広島の2万人以上 原水爆禁止世界大会 核兵器の全面禁止を 岡山原水協から百八十人

この大会は草野信男、吉田嘉清、古在由重などが原水協から排除された大会だったろう。私は彼らを支持せず党を支持した。金子満広だったな。しかしこの大会を境に原水禁運動は凋落の一途をたどることになる。2万人は最高時の動員数である。核不拡散条約を支持した時点で日本の原水禁運動は終った。昨年の動員は往時の1割弱だった。このとき大平の落選が最終的に確定した。
  

9月30日  知事選に武田英夫氏 県民が主人公の県政を 各界連の要請で共産党から立候補 

7月に参院選岡山選挙区の候補者に決定したばかりの武田を知事選に横すべりさせたのは、長野の変節が決定的になったのと、共産党の候補が他にいなかったからである。まあ仕方がないが、武田はそのご則武真一がバテた後を受けて衆院一区の候補者になる。当選の可能性はなかったから、立花一也の急病で県議選に出馬し当選、以後20年間の県議時代となる。その中でかれは「地方議員だけれど、押しも押されもせぬ政治家」(武田自身の自己評価。救いがない低脳)に成長するのである。古本屋通信がもし書かなかったならば、彼は一流の政治家として党の内外からソンケイされていたであろう。まことに残念である、そうではありませんか、浅口市議の桑野さん?
 長野士郎  440096票
 武田英夫   89464票


岡 山 民 報  1985年 (昭和60年) 

8月 11日  原水爆禁止1985年世界大会 広島のひろばに1万人 岡山から七百人参加

1万人は昨年に較べて半減だが、さらに日本原水協主催の広島集会には6000人とある。この数字が再び増えることはなかった。 


10月6日  人民と共産党へ貢献 中央委員 県委員長 佐武弘氏が死去 葬儀に各界から五百人が参列

56歳だった。三井造船は私の記憶ちがいで、全逓出身だった。現役の委員長の死は初めてで、第二号が中原猛だった。私は当時、F書店の仕事一本で党関係の集会など無縁だったから、佐武氏を見たことは多くない。ただ一度、石井中学校で全立候補者の立会い演説会の門前で握手を交わした。則武氏と一緒だった。そばに矢山有作もいた。イカツイ印象だった。


11月17日  津山民商が再建へ 17日に総会 若林一派の不法許さず

これは驚いた。民商でも分派とのたたかいがあったとは。政治路線の対立ではなく、単に揉めたらしい。あほらしいけど珍しいから記録に留めた。


12月1日  詩人・共産党権委員 坪井宗康氏が死去 脳幹部出血 五十三歳 1954年に山陽新聞に入社、1962年に党常任活動家。

葬儀は市内祇園の自宅で行われ、喪主のあき子さんの教員の後輩だった私の連れ合いは参加した。のちに夫人ではない複数の恋人?が現れ、宗康氏の分骨を要求する一幕もあった。いわゆるスキャンダルだが、あき子さんは臆することなく、これを詩篇に結晶させている。見事という他はない。したがって我々は坪井さんの女関係を公然と語ることが許されている。これとは別に私は坪井さんの文学書簡を大量に所有している。これは関係者から譲ってもらったのではなく、まったく無関係な廃紙ルートから入手したものである。まさに文学書簡である。
 


12月22日  一万の党、十万の読者 共産党が第44回県党会議開く

ということは県内の党員数は一万未満、赤旗日曜版の読者も十万未満だということ。それ以上は発表になっていない。
新しい執行部の名前と年齢は以下。この時から現在も知る名前がチラホラ登場する。
県委員長=江草昭治(45)、副委員長=鴨川俊作(57)、木島一直(62)、則武真一(54)、書記長=剣持信生(49)、常任委員=磯島好治(53)、栗本泰治(54)、小山和生(42)、近藤?(42)、武田英夫(38)、藤本光志(51)、×立太郎(42)、松田準一(36)、石井妃都美(34)。ここに県党史上初の?女性常任委員の誕生となる。彼女が県党出身の初の名誉中央委員のひとみさんである。このとき若冠34歳でありました。



岡 山 民 報  1986年 (昭和61年)

1月 19日  共産党名誉県委員 板野勝次氏が死去 肺炎のため 八十二歳 

戦後党史は遂に刊行されなかった。惜しいといえば惜しいが、板野が最後まで県委員会に居場所を求めたから未刊に終った。なお著書『嵐に耐えた歳月』に対する異議は県内からのものではなく、全国的だったであろう。「岡山民報」連載と新日本出版刊行ではどだいインパクトが違う。お山の大将の板野が袋たたきになったのは当然であった。


3月16日  総社市議選は十三日告示 西森よりお氏を必ず

中田喜美(くにさだきみ)氏の後任だそう。西森氏は私の近所の市営住宅に住んでいて、息子どうしが同級だった。このとき総社に移住して、以来党議員である。くにさださんの引退については多々噂があるが、噂以上ではない。党との政治的アレコレではないが、とうてい議員に納まる人ではなかった。それは詩人としての仕事を見ればわかる。政治詩である。すごいの一言。


 以上をもって連載を終了する。読みにくい記事を、自分のつごうで、何の脈絡もなく貼った。読者にお詫びしたい。
  1. 2018/05/26(土) 21:28:52|
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「岡山民報」 記事抜粋(4)

古本屋通信   No 3345    2018年  05月26日


    「岡山民報」 記事抜粋(4)


冒頭
鞆町が日本遺産に認定!
2018年 05月 25日  日本共産党福山市議  河村ひろ子
福山市鞆町の「近世鞆町」が文化庁の日本遺産に認定されました!
あの「崖の上のポニョ」の舞台にもなったところです❤
鞆町は、常夜灯・雁木・波止・船番所跡・焚場跡の5か所は
江戸期からの港湾施設がまとまって現存する全国で唯一の港町です
重要伝統的建造物群の保存地区の選定や、朝鮮通信使のユネスコ世界記憶遺産登録
それに続く日本遺産の認定です!
何十年も前から、広島県が鞆の港に橋をつくろうとする「架橋計画」の問題がありました
日本共産党は歴史的な価値がある鞆港に「架橋は必要ない」と、住民のみなさんと運動をしてきました
架橋の推進派と反対派で町が分断されてしまうなど、地元は大変な事態に・・・
しかし、県が架橋計画を撤回したことで、状況は大きく変わりました
地元のみなさんが住みやすい環境づくりと、さらなる観光振興や保存に向けた取り組みが求められます
私もひな祭りの時期など、鞆に行くことがあります
潮の香りがして、波の音がきこえる・・・ステキな町ですよ~❤
子どもの頃は、鞆の港ちかくから出るフェリーに乗り、仙酔島へ渡り海水浴を楽しんでいました
鞆は、歴史ある港や町並みをじっくり楽しむことができます
ぜひ、お越しくださいね~
# by kawamura0827 | 2018-05-25 17:00




  引き続いて第四回目の記事になるが、縮刷版3を所有していないので、縮刷版5に収録されている記事からの抜粋である。縮刷版5に収録されている「岡山民報」の時期は1980年1月~1983年12月であり 4年間と長い。だが通読したところ関心がある記事は少なかった。乗りかかった船だから、何とか興味がある記事を拾い私のコメントを赤で付ける。元記事の取り扱いは小さいものが多かった。



岡 山 民 報  1980年 (昭和55年)



12月28日  戦後史を記録するための御協力の訴え 板野勝次(共産党名誉県委員)

アタマが完全にイカレている。県党史をどこまでも板野個人で書き続けるつもりらしい。それが間違いだがら、書かれた同志から不満が出て、誤った記述も指摘を受けた。そしたら資料が不十分だから、俺のところに資料を寄せろと言う。いったい貴様は県党の代理人か。県委員会は党史の記述を板野に委託していない。党50周年企画として党中央が全国の県党史を残す企画を立てた。その岡山版として板野が「岡山民報」に連載記事を書いた。だがそれは県党史にはならず、各方面から批判があり、企画そのものも全国的に頓挫した。それが経過である。



岡 山 民 報  1981年 (昭和56年) 


2月1日  私学の充実を訴え 岡山で3000人集会成功

これはすごい。いまなら30人も集まらないだろう。岡山の私教連の全盛時代である。私学教職員は254回の地域懇談会を父兄と重ね、35万署名を達成し、その力で3000人集会となった。集会では三人の父母代表が登壇している。岡山日大高校、山陽女子高校、山陽高校だ。ここらが強かった。

岡山の私学では組合がある高校とない高校があり、これがない高校はたしかに管理者の締めつけが厳しかった。就実がそうだった。だが真備、関西、吉備商、金光学園、金山学園などは組合が最強だった。これが崩れるのは当局の弾圧のせいではなかった。自ら崩れていった。ここらの考察も戦後史の課題になろう。



5月24日  雨の中 1500人 岡山県赤旗まつり

雨のせいなのか、それとも平井小学校のせいなのか、たったのこれだけ。でも同じ号に以下が。

国民的融合で部落解法を 全国から一万人参加 岡山で部落問題集会 



岡 山 民 報  1982年 (昭和57年)


9月19日  随想 前川三選に寄せ 田中政利

これは県議選倉敷選挙区の候補者になった田中が香川大時代の前川県知事を回想した短文である。どうということはない文だが、田中個人のことをメモしておく。前川県政誕生は1974年度で、このとき田中は党支部委員と経済学生自治会副委員長だったそう。たしか経歴に全学連中執とあったが、それはこの後のことなのか? いずれにしても1964年の全学連再建から10年ほどの間に経済学部は崎山、松浦、田中と3人の中執を送っている。まさに民青最強の大学だった。


11月7日  随想 母校 操山 武田英夫

これは参院選岡山選挙区の候補者になった武田が操山高校時代の民青同盟と党高校細胞を回想した短文である。内容的にはいささか度肝を抜かれた。武田が民青に加盟したのが二年生時だったのは驚かなかったが、その民青がやがて50人を上回ったそうである。で全貌社の「恐るべき民青」に操山の名前が載ったという。さらに武田は三年時に入党し、3人で県下初の党高校生細胞が出来たそうだ。

コレ無条件には賞賛できぬ。同じような経過は倉敷青陵高校の中原猛もたどっている。民青の高校班なんて数名なら自然発生で生まれる場合もあるが、数十ともなれば地区のテコ入れだけで出来るものではない。党員教師の影響である。当時、倉敷青陵高校に長谷川グループという赤い教師集団があった。最強の党員集団だ。1963年頃、県教委は手を焼いて分散を計った。岡山朝日高校に飛ばされたのが立花一也、操山高校にとばされたのが藤森賢一だった。ただし藤森は非党員だ。とにかく当時の高教組は圧倒的に共産党が強かった。約10年後の林野高校は民青高校班は三桁いたという。ここは春名の母校だが、高教組だけでなく県解連の影響もあった。岡あきらの出身地に該当する。まあこういう時代だった。



岡 山 民 報  1983年 (昭和58年)

2月23日  随想 理学部 武田英夫

同じ武田の随想だが、岡大理学部時代について書いている。高校生のとき入党して、将来どういう道に進むにせよ、自然科学の勉強をと思って、理学部物理学科を選んだそうだ。理学部にはすでに近藤紗智子がいたのは知っていたが、岡大総細胞の中心が理学部のメンバーとは初耳である。理学部自治会は再建されたが、主導権は中核派ではなかったか。ちなみに全共闘代表委員の小山と小笠原はいずれも理学部だった。まあソコソコたたかっていただろうが、最強は法文学部の法経学生会だったろう。この武田の文で、法経学生会が1974年に全学連に加盟したことをはじめて知った。でもその頃は法経民青はすでに傾いていただろう。

武田の口からエンゲルスの「自然弁証法」とレーニンの「唯物論と経験批判論」が飛び出すとは夢にも思わなかった。読んでるんだ。ならせっかく入った物理学科の授業になぜ出席しないんだ。大学の物理学科のことは一行も書いていない。教師のことも。いい教師が理学部にはいたぞ、数学の稲垣さんとか、物理にも原子燃料の専門家がいた、私でも知っている。

 武田はこのとき以来、数え切れないほど多くの選挙に出ている。だが大学関係者の応援が皆無に近い。一度だけ那須教授が名前を貸したが、これは武田個人支援ではなく、党の後援会長としてだ。それはそうだろう。大学の先生は教え子がかわいい。多少主義主張が異なっていても応援してくれる。だがそれは教え子の記憶があってこそだ。

私は武田がなぜ大学で勉強しなかったのか、色々思ったが、結局楽な道を選んだのだろう。それと自分は普通とは違うというエリート意識だろう。なら、とっとと、学生をやめて、労働者になればよかった。それも出来ず民青の専従なった。最悪であった。

もうひとつだけ書いておく。私は岡大闘争は義務としてしか関わらなかったから、今まで言ったことはないが、武田はなぜ大衆闘争としての岡大闘争にいっさい関わらず、民青ブロック責任者として現場指揮を執ったのか。抽象的に言っても分かるまい。あの局面で、何回も全共闘と肉弾でぶつかったことはあった。私でもあった。バリケード解除の時期にもあったし、多数派工作でオルグに走ったこともあった。武田が危険なたたかいに加わったのを見たことはない。この活動スタイルは生涯いっかんしているように見える。
  1. 2018/05/26(土) 01:24:56|
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日本共産党とギャンブル

古本屋通信   No 3344    2018年  05月25日


    日本共産党とギャンブル

 他者(他人)を批判するとき、まったく調べもせず 「でしょうか?」 と、自分のあやふやな実感だけで、他者(他人)を誹謗するやり方は下劣である。私は若干の実体験を踏まえてひろゆきの様を批判したい。


7. ひろゆきの。@中央競馬NGでパチンコOKという矛盾?
2018年05月25日 08:16
改めて思うのですが、日本共産党は「カジノと競馬と競輪と競艇とオートレースはNG、でもパチンコはOK」と考え続けているのでしょうか?あくまでも私の想像ですが、日本共産党の党員ないし地方常幹連中は中央競馬の馬券さえめったに買わないのにパチンコホールにはしばしば通っているのか?これが事実だとしたら、日本共産党の「矛盾体質」が馬脚を現しかねないのかと思いたくなりますがねぇ・・・

現代の若者日本人にして、アメリカナイズかつスマートでオシャレなギャンブルたるカジノの日本における合法カジノ早期開設待望論は、時間が過ぎればすぎるほど高まっているのでしょうか?「もう8年先まで待てない!今すぐ速やかに東京や大阪のどこかに合法カジノを開設しろ!」という現代若者日本人たちからの圧力は、これからいっそう高まりかねないのでしょうか?



  古本屋通信

 党文献などに当たらないで書く。まとまったギャンブル政策などないだろう。

 まず公営ギャンブルだが、地方財政が博打のテラ銭で成り立つのは望ましくないという一般的見解を表明したことはあるだろう。それはそれとして正論だから、私は甚く同意する。

 次に個別の公営ギャンブル(場)に、党中央として賛否の見解を表明したことはないだろう。また党県委員会、党地区委員会、党県議団、党市議団が、個別の公営ギャンブル(場)を格別の理由なく、批判したり廃止を求めたことはないと思うが、或いは個別例外があるかも知れぬ。

 私の最も古い記憶は、東京都の美濃部都知事が後楽園競輪を廃止した例だ。コレには党都議団も同意したのではないか。それ以後の(公営ギャンブルだからという理由で廃止した)例を私は知らない。

 岡山には戦後ずっと玉野競輪と児島競艇がある。前者は玉野市の主催である。後者は旧児島市の主催から、合併に伴なって倉敷市の主催になった。合併時に倉敷市に移管するとき議論があり、党は反対したと思う。だがそれは一般的に公営ギャンブルの収入に倉敷市の財政が依存することに対する、党としての批判的見解の表明であった。反対運動をやったわけではない。

 以後半世紀、玉野市と倉敷市の市長選挙と議員選挙は4年ごとに行われている。党は首長選には殆んど独自候補を立てている。また市議選挙にはすべて立候補している。今までに玉野競輪や児島競艇の存続か廃止かが争点になったことは一度もない。黙認しているのだ。

 隣県の福山競馬は赤字が累積して、遂に廃止になった。これは従業員の生活権の問題もあるから、福山市議会でも問題になって河村さんも書いた。だがそれは公営事業の存廃に関わる諸問題であって、公営ギャンブルそのものの是非ではない。

 児島競艇は現在もなんとか採算ラインに乗っているが、玉野競輪はまさに玉野市の負担である。私は廃止すればよい思うが、党の岡山地区委員会も玉野市議団も完全にスルーである。岡山県委員会書記長の垣内京美さんは玉野市民である。

 かくして、ひろゆきの様の 「競馬と競輪と競艇とオートレースはNG」 は当らない。カジノはニュ-フェイス(新登場のギャンブル)だから反対している。

 カジノについても、パチンコについても、大阪の前衆院議員の清水ただし氏が書いており、私は批判したが、パチンコの部分は党の見解だとか政策ではなく、清水氏の個人的意見であろう。パチンコを廃止することは当面は不可能だから、依存症が分かっていても手付かずの状態である。それを党がOKと見做しているするのは事実と違う。また党員の個人的な問題にすり替えるのは詭弁である。

 最後の5行だけど、キンピーサイトは夢遊病者でも投稿OKでよかったね。ポン中毒? それとも統合失調症? 貴方は時空の観念がないんだ。


 パチンコについては、太宰ファン様も依存症の最大の敵と書いておられ、私も同意する。だが、廃止しようにも廃止できにくい事情は、党の側の問題ではなく、日本資本制そのものに関わる問題だと私は思う。下に拙論を再録した。


。。。。。。。。。。


    再録


  
古本屋通信   No 3310    2018年  05月10日


 原理的には資本主義の疎外された労働がギャンブル依存症をもとめているんだろうね


  清水ただしは何の効果もない寝言を言って議員商売の食い種にするのは止めてほしい



  この間のセクハラ議論もそうだが、クソの役にも立たない空論を弄んで議員稼業の食い扶持にするのはやめてほしい。だいたい下半身ネタを政治に持ち込むのがゲスだ。なぜなら何処まで行っても、完全立証など不可能な世界だ。密室殺人や密室強姦は警察と司法の管轄だが、他人の寝室のアレコレに第三者が立ち入れるわけがないのだ。立民はさすがに懲りたらしいが、赤旗はきょうも書いている。麻生が辞めるまで書けや。アホウにつける薬はないワ。

 さて大阪の清水ただしだが、根が正直で謙虚でもあるから、大阪維新の橋下に正直に謝罪した。それはよいのだが、今朝の清水のツイッターに以下があった。


清水ただし‏認証済みアカウント @tadashishimizu · 19 時間19 時間前
清水ただしさんが佐藤美津子をリツイートしました
今年から出玉規制が始まりましたが、特殊景品を換金できる三店方式にメスを入れない限り射幸心を低減させることは難しいのではないかと考えています。
清水ただしさんが追加
佐藤美津子 @nihonoosaka
パチンコも規制すべきですね。 https://twitter.com/tadashishimizu/status/994109853227401216 …

清水ただし‏認証済みアカウント @tadashishimizu · 19 時間19 時間前
清水ただしさんがをリツイートしました
今までも訴えていますよ(^ ^)
私はこの間、もっともパチンコ問題やギャンブル依存症問題を国会で取り上げている政治家の一人です。



 これまで清水がパチンコ問題やギャンブル依存症問題を国会でどれだけ取り上げたか知らぬが、ここに書いてある文を読んだだけでも零点だ。なんの効果もありはしない。そもそも清水はパチンコを分かっていまい。だから、今年になってから出玉規制がどうのだとか、三店換金方式がどうのだとか、ピントはずれを言っている。

 清水は暇つぶしでパチンコをやった経験はあるだろうが、数年間パチンコ屋に入り浸りになった経験はなかろう。そこで依存症になった経験も、私のように月給なみに儲け続けた経験もなかろう。つまり書いていることが、性根が入っていない綺麗事なのだ。

 つまり作文。なんにもならない月給ドロボー。多くは言わない。出玉規制なんて、今年が始まりではない。半世紀前から数え切れないほど繰り返されてきた。三店方式というのは靴下をもらって、近くの景品交換所に持参して、現金に換えてもらう換金方式だ。これも戦後いくらかの変更があったが、基本的には変わっていない。だれが靴下がほしくてパチンコをするか。三店方式にメスを入れるなどと、何の対策もなく口から出まかせを言うなよ。

 あのなあ、この問題はあんたらみたいなチンピラが逆立ちしても解決できる問題ではない。下に私の過去記事を貼っておくが、究極的にはすべてのパチンコを賭博として禁止するしかない。コレやろうと思えば直にでもできる。現に30年ほど前に、国道沿いに乱立していた暴力団絡みの賭博場(スロットやカジノ)は一掃された。でも、今のパチンコは禁止できないだろう。それは売春と同じで、それに依存して生活している人が多くいるということだけではなく、資本主義的労働の再生産過程で必要とされているからだ。しばしば朝鮮に資金が流れているという話になるが、じゃあ朝鮮にはパチンコ屋はあるのか。公営のパチンコ施設はあるか。ないだろう。朝鮮の社会主義経済が褒められたのもではないのは私でも分かるが、それでもパチンコ屋がないだけ日本よりマシなのではないか。清水は暇なんだからパチンコ屋の店員になれよ。そうすれば、ちっとは根性がマトモになるよ。国会議員など屁でもないんだ、大平君。池内のようになったら単なる寄生虫のウジ虫ですよ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  


   再録


   
古本屋通信   No 3091    2018年  02月01日


   パチンコ出玉規制は焼石に水


  ギャンブル依存症は一攫千金の夢を見さしてくれるから発生する。パチンコに較べて公営ギャンブルの依存症は圧倒的に少ない


パチンコ出玉3分の2程度に 改正風営法施行
2月1日 7時02分  NHK
警察庁は、パチンコの出玉の上限をこれまでの3分の2程度に抑えるよう風俗営業法の規則を改正し、1日から規制を強化します。

カジノを含むIR・統合型リゾート施設の整備推進法の成立を受けて政府がギャンブル依存症の対策などに取り組む中、警察庁は、パチンコの出玉の上限をこれまでの3分の2程度に抑えるよう風俗営業法の規則を改正しました。

具体的には、パチンコの業界団体の調査で客が1度に遊ぶ標準とされる4時間で獲得できる玉の数を金額にして5万円分を下回るようにするほか、1回の「大当たり」で獲得できる玉の数を現在の2400個から1500個に引き下げるなどとなっています。

パチンコの依存者から電話相談を受け付けている団体の調査によりますと、相談してくる人のおよそ70%は1か月当たりのいわゆる「負け」が5万円以上になるということで、警察庁は、出玉の総数を5万円分以下にすることで、負けを取り戻そうという思いを抑制したいとしています。

改正された規則は1日施行され、警察庁は「今回の規制強化は借金を抱えながらパチンコを続けているような人たちに対し、一定の効果があると考えている。業界によるギャンブル依存症対策とあわせて実効性のあるものになるよう指導していきたい」としています。


  古本屋通信

  以上のようなパチンコの出玉規制は戦後どれくらい行われてきただろうか。フィーバー機が登場したのが1975年頃だったろう。一発777が揃えば1万円になるという機種である。大当たりした。客が大当たりしたのではない。店と業界が大当たりした。儲かって儲かって笑が止まらなかった。当然ながらビョーキが続出した。ギャンブル依存症は以前からあったが、子供が車の中で死んだとか、サラ金漬けで一家離散だとか。当然ながら出玉規制で、一回の大当たり777を5000円までとか、3000円までとかに規制した。そこから考え出された新案が2つあった。ひとつは一発機である。数字や絵柄は揃わなくてもOKである。何処か指定された穴に入れば1万円である。もうひとつはフィーバー機種の確率変動である。これはストットの方が流行った。詳細は省略する。

 一発機を例にとろうか。こんなもの偶然でポンポン穴に入ったら、店の経営は成り立たないわ。当然ながらコンピュータで制御されている。時間がきたらまるで磁石に吸い取られるように玉が一発1万円の穴に入る。そのとき以外は入らない。打ち込みの量も関係するだろう。それはマアよい。そこからが問題である。

 面倒だから結論を急ぐ。裏基盤はないのか。それともうひとつ、客を見ての遠隔操作はないのか。2つとも違法である。時に思い出したように摘発されるが、殆ど野放しであろう。

 ここから先は私の心証である。証拠はない。私がパチンコ屋の経営者だったら、裏基盤と遠隔操作なしには一日たりとも経営を続行する自信はない。この2つがなければ、負ける客は毎日負ける。勝つ客は毎日勝つ。1ヶ月負け続けて来る客はいない。店は潰れる。そうすると勝つ客もいなくなる。

 私的体験。私はスロットでは儲けているがパチンコでは余り儲けていない。それでもかなり黒字である。スロット+パチンコで仮に1000万円儲けているとしようか。裏基盤と遠隔操作がなければ単純計算では3000万円儲けていることになるだろう。だが実際にはそうはならない。裏基盤と遠隔操作がなければ負ける客は負け続ける。彼らはとっくにいなくなっている。だから店は潰れ、私が儲ける空間は何処にも存在しない。

 もうよいだろう。パチンコにおいてギャンブル依存症を生む最大の要因は、パチンコ店の違法行為にある。出玉規制は何の効果もない。それはフィーバー機登場以来の40年で実証済みである。しかし裏基盤と遠隔操作をなくしたら、そもそもパチンコ屋は成立しないだろう。

 一円パチンコというのもあるらしい。カムフラージュだろうか? 私は母に連れられて岡山市ハリウッドでやったパチンコが今も鮮明である。百円で玉は50個だった。遠隔操作はなかった。クギ師の時代だった。チョコレートが楽しみだった。

 いま釘師はいるのだろうか。いるとしても昔のように高給取りではないだろうナ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    再録


    
古本屋通信    No 2307   2016年  12月03日

    ギャンブル依存症について

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     更新日時 : 2016/12/03    06:42


 カジノ法案が土壇場に来ている。私は反対だがそれは別にして、カジノ法案との関連でギャンブル依存症が語られている。大いに語ったらよいが、たぶん熱心に語っている人はふだんあまりギャンブルをやったことのない人のように見える。私自身はギャンブル依存症ではなかったが、それでも競輪とパチンコに入れ込んだ時期があった。その体験から少しギャンブル依存症について書いてみたい。初めに私の競輪とパチンコの期間を限定しておく。競輪は1970~1990年の約20年間、パチンコは1980~1990年の約10年間。体験談ではないからギャンブル依存症に照準を当てて書こう。


  競輪

  私の場合、公営ギャンブルは競輪一本で、競艇がごく僅か。競馬とオートレースはゼロだった。しかしギャンブルの性格としてはいずれも変わるまい。私のトータル金額は1000万円の負け。これは交通費を除いてである。全国の競輪場の3分の2に足を運んでいる。年間50日、20年間で1000日である。一回に付き1万円の負け。勝ったのは1割である。あとは全部負けている。負けても楽しんでいる。私の場合はごく大人しい競輪だった。公営ギャンブルに出入りする全ての人は(賭け金の多少はあるが)私と同じである。つまりトータルとしてだれひとり勝者はいない。これは絶対的真実である。従って言葉の正確な意味でギャンブル依存症はありえない。ただ悪い習慣として病み付きになることはある。しかしこれは金銭的な意味の依存症ではない。だれも勝てると思ってやっていないのだ。25パーセントのてら銭は選手と開催自治体に吸収される。私はいちど福山競馬廃止のとき、河村さんの文を受けて書いた記憶がある。私は廃止する必要はないと思うが、実際には若者ファンの減少によって廃止に追い込まれている。向日町競輪も廃止ではなかったか。


  パチンコ(スロット)

  私は上記の期間中、パチンコのプロ・セミプロとしてそれなりの収入があった。だが私のような、仕事としてパチンコをやっていた者を除くと、パチンコこそギャンブル依存症の元凶であろう。即刻廃止というわけに行かない事情はあろうが、極力全廃に向けて世論を動員すべきであろう。常勝する者は5パーセントである。95パーセントは負けるのだ。この比率は動かない。パチンコ業界の常識である。負ける者だけがギャンブル依存症になる。時々勝たして貰うから、余計に依存症になる。

  ここから先は証拠がないから誰も書かない。書けないのだ。ネットで匿名だから書ける。イカサマを疑った方がよい。今は知らない。30年前のことである。裏基盤は必ずあった。遠隔操作である。これがないとパチンコ屋は経営できないと云われていた。裏基盤は違法である。加えて法外な金が懸かるらしかった。それでもパチンコ屋は競って導入したという。私なんかは遠隔操作に泣かされクチだった。スロットを廻すときも、フィーバー台を廻すときも、常に台を動かねばならなかった。でないと、永久に目が揃わない。逆に云うとパチンコ台に座れば一瞬にして一発穴に入り、10,000円オメデトウなのだ。完全にイカサマである。パチンコ依存症の秘密はココにあった。

  私はパチンコは全廃すべきだと思う。イカサマなしで経営が成立すればよい。しかし無理だろう。だがコレは30年前の話である。今は知らない。かつて岡山市と倉敷市に200店舗のパチンコ屋があった。今は半減しているという。さいきん街中でかつてのパチプロを見かけない。みんな逞しく生きているだろうか。


結論 公営ギャンブルに八百長はない。パチンコは全て八百長である。但し八百長で勝たして貰っているのはプロではない。搾取・収奪のターゲットたる一般遊戯者である。パチンコ屋なんかなくした方がよい。向日町競輪の灯よ、永遠にあれ!
  1. 2018/05/25(金) 16:56:31|
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「岡山民報」 記事抜粋(3)

古本屋通信   No 3343    2018年  05月25日


    「岡山民報」 記事抜粋(3)


  引き続いて第三回目の記事になるが、縮刷版3を所有していないので、縮刷版4に飛ぶ。縮刷版4に収録されている「岡山民報」の時期は1975年11月~1979年12月であり 4年間と長い。だが通読したところ関心がある記事は少なかった。この時期の最終は衆院岡山一区で則武真一の当選となるのだが、「岡山民報」も選挙関連が圧倒的に多い。拾いたい記事が殆んどないのだ。だが今と較べると動員力は数倍あった。例えば岡山駅前で党の街宣をやれば忽ち千人は集まった。今は150人である。1979年の岡山赤旗まつりは5000人である。今より圧倒的に活動家層が厚かっただろう。

 乗りかかった船だから、何とか興味がある記事を拾い私のコメントを赤で付ける。元記事の取り扱いは小さいものが多かった。




岡 山 民 報  1975年 (昭和50年)



11月5日  岡山「赤旗まつり」開く 総選挙必勝を 秋空の下4000人参加

場所は県営グランド、第7回目だそう。毎年ではなく隔年だったと思う。全県下からバスを仕立てて参加。党員と家族が9割だろう。これをもって党員数を算出することはできないが、衆院一区とニ区の得票合計が7万票だから、党員数は1万までだろう。



岡 山 民 報  1976年 (昭和51年)


1月4日  文化運動の発展のために 関 一志 散文に停滞克服の動き 映画 活発な非劇場上映活動 多様な形で要求前進 絵画 注目される平美の今後

関一志が三宅陽介(高田雅之)のペンネームというのは私の思い違いだったろう。専従でないと無理な仕事だ。但し山陽新聞の元記者はそうだ。坪井宗康か萩原嗣郎である。これは「岡山民報」の編集人でもある。1960年代には編集兼発行人の名前は坪井か萩原が明記されていた。


同じ号  随想 17年目の出立 浜野博(作家)

作家とは大きく出たもんだ。とうじ党は身体障害者の浜野を党の作家として売り出そうとしていた。これ自体は良い事だった。「岡山民報」は浜野にとっても好ましい媒体だった。内容的にもよい文が多かった。浜野だけにはいくらか稿料も支払ったと思う。


5月16日  民文岡山支部 再建総会開く 毎月例会や機関誌

同盟員および準同盟員を12人にまで拡大できたから再建大会の運びになったらしい。支部長=浜野博、事務局長=東田一雄、機関誌編集責任者=高田雅之、会計=妹尾加世子


5月23日 民青同盟が県大会開く 新たな前進を決意 

新日和見主義事件に連座した同盟員は岡山にはいなかったのか、私は機会があれば、氏平に聞いて見たい。当時を知る人は武田と氏平しかいないだろう。ところが武田は憶えていないだろう。この男は都合の悪いことを忘れる天才なのだ。たぶん朝鮮総連の友人のことなど記憶にないだろう。晩年に自民党に行けば、50年間の党員時代は忘れることができる。これはこれで才能なのだ。大会では新委員長に氏平長親、副委員長に武田英夫と藤原美代子を選出。


6月27日  民主候補大差で勝つ 岡大医学部学生会委員長選挙

これは意外である。プロ学同が最強の医学部で、一昨年から民青が執行部を握っており、今回も委員長単独選挙で、312対191で勝ったそうだ。それはよかったが、どうもプロ学同はトロになったらしい。これは誤認ではなく、当時の共産党岡山県委員会がトロ認定したのだろう。でもせめて中核派と呼称のうえで区別してほしかった。


8月29日  一人もいない断る人 ロ署名に取り組んで 中田きみ
 
総社市議のくにさだきみさんはすでに180人の署名を集めたそうだ。ほんとうにロッキード疑獄追及は盛り上がった。田中角栄を辞任に追い込んだ。然し日本の支配構造は1ミリも変わらなかった。ここから得た教訓は政権スキャンダルは独占資本の打倒には決して至らないということ。なぜなら人民大衆が腹の底からは怒ってないからだ。ましてやモリカケなんかロッキードの百分の一でさえもない。人民があきれ果てているのは安倍政権にではない。不毛な野党、とりわけ立民と共産にである。



岡 山 民 報  1977年 (昭和52年)


5月22日  平和書房 倉敷書店 5月15日開店!

これは記事ではなく広告である。場所は倉敷市阿知。私は2度行ったと思う。美観地区をずっと先に行ったあたりで、今の蟲文庫の辺りだったろう。1977年 (昭和52年)が民主書店の黄金時代だった。この時は倉敷に続いて赤磐郡山陽町のネオポリスにも出店計画があった。倉敷店が何時まで続いたか、記録はないし、証言もないであろう。私の記憶ではせいぜい2,3年だった。早かったな。これは岡山の経営が拙かったのではない。全国一斉だった。取次の鈴木書店も潰れたし、岡山店も経営悪化で店員の合理化もあった。


6月5日  岡山赤旗まつり開く 七千人が相集う 歌や屋台に終日歓声 この力で加藤・木島を国会へ 「これまでの最高の参加者」

いつものいずみ町の県総合グランド。たぶん私は行っている。バイクで10分である。共産党は人数の水増し発表はやらない。7000人はこれまでの最高だし、今後もなかっただろう。共産党の大衆運動における動員のピークは1960年代後半だが、党独自集会の動員のピークは10年遅れだったろう。活動を選挙と党勢拡大に特化しての動員である。だがピークはこの頃までだった。それは衆院岡山一区の則武真一の得票数に集約されよう。ここで則武の5回分の絶対得票数を紹介しておく。得票率等はいっさい関係ない。得票数だけが党の地力の表現である。

1976年(昭和51年)  47509票 次点
1979年(昭和54年)  62990票 第5位で当選
1980年(昭和55年)  60914票 次点
1983年(昭和58年)  52979票 次々点
1986年(昭和61年)  47106票 次々点

9月11日  後進への魂こめた指針 板野勝次著『嵐に耐えた歳月』を読んで(上・下) 浜野 博

まあ絶賛だが、私にある視点が浜野に無いことを論難するのは当るまい。浜野の目は文学の目であり、私の目は社会運動史の目だからだ。四肢の不自由な浜野が板野の力作を読み通して批評した力を讃えたい。ただ、その目が文学に留まっていることの(表現者としての)限界は明らかにある。なぜなら板野は社会運動家だからだ。その晩年には詩人の沖長や国定に対する不当な言いがかりもあった。板野は浜野を含ぬ文学へ視線は歪んでいた。


岡 山 民 報  1978年 (昭和53年)

6月18日  勝共連合の妄動を許すな 岡山の四大学の学長に要請 共産党県委員会 (街宣車の垂れ幕に則武真一と共に 「韓国の干渉謀略組織 勝共連合が韓国に帰れ

これは超面白かったので採用した。この時代に全国の大学で勝共=原理研が伸してきたので、左翼はホトホト手を焼いた。岡大でも民青、プロ学、中核派とも原理研と闘っていた。東大教養では執行部を取った時さえあった。だから街宣はよいのだが、韓国の単語に使い方が面白い。つまり勝共連合≒韓国のイメージを意識的に流布している。そしてそれは完全に正しい。それから、ここでは韓国を使用しているが、「岡山民報」には南朝鮮の語も使われていたことを付記しておきたい。


9月3日  人民大学倉敷教室へ3000人 老若、全国各地から 感銘うけ十余人が入党 

これは最初に見たとき岡山の教室かと勘違いしたが、全国規模の教室を三日間にわたり倉敷で開催したものだった。それにしても多い。伊豆学習会館なみだろう。私たちの時代、1960年代の人民大学は県単位で数ヶ月に亘って夜間に開催されたが、もうそういう形式では不可能になったのだ。それはマルクス・レーニン主義を党綱領から削ったため、マルクス主義の三つの構成部分を系統的に学習することがなくなったためだろう。つまり三日もあれば党員の学習は修了するのである。新日和見主義批判の眼目の一つは学習の比を圧倒的に高めるということだったが、まあ勉強しない方向に進んでいた。それでも3000人集まった。今じゃゼロだろう。フワフワさんの綱領教室で、マルクスと友達になろうよ。究極の白痴教室ですね。


岡 山 民 報  1979年 (昭和54年)


1月14日  「岡山県民主会館」オープン 民主運動の拠点に

 私は今もってこの会館の性格がよく分からないのだが、それは置いて、岡山市中央町にあった旧解放会館が老朽化したので、総工費2億9千万円を懸けて建設したとある。竣工式には県解連の岡あきら執行委員長が「長い間の念願が適った。県内の民主運動の砦にしていきたい」と挨拶している。つまり県解連が闘いとった県解連の建物だろう。建設費は当然ながら県費である。だから「岡山県民主会館」となっている。

 もう40年が経つのか。私は民主会館を意識てではないが、至近100メートルの距離に自宅を建てた。これは1982年だった。とうじ三門小学校区は、近隣の石井小学校区や伊島小学校区に較べて、土地がかなり安かった。それでも坪42万だったかな。岡山駅からバイクで10分の距離に自宅を建てるには、この場所しかなかった。良い場所だったと思っている。おまけに自宅は角の家だから、民主会館に出入りする党関係者はよくご存知である。モグリは新婦人の赤坂てる子さんだけであったろう。

 まあ民主会館は近いといえば近いといえるが、遠いといえば遠い。こういう距離感は私だけでなく地域全般が持っているようだ。偏見でもないし、敬遠しているのでもない。ただ、会館を利用する層は一定であり公民館ではない。借用料はかなり高いそうだ。出入りはあるが十前後の団体が間借りしている。
  1. 2018/05/25(金) 01:48:44|
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