古本屋通信 No 3210 2018年 03月30日 平塚らいてう の直筆 は売れないだろうな 直筆 本人自身が直接に筆を取って書くこと。また、その書いたもの。直書。自筆。デジタル大辞泉 更新が停滞しているのは、店に荷が入ったからだが、今回も儲からない口である。儲からないが、一寸舞い上がって整理に手をとられている。 その前に佐川の証人喚問だが、きのう河村さんが書いている。いつもは書かないんだけど、拙文を読んで頭にきたのなら嬉しい。だって挑発してたんだから。 さて入庫の口だが、量はダンボール10箱。本は郷土史を除けば、ありきたりの雑本ばかり。だが資料モノが凄かった。福田(影山)英子関係資料 である。 福田英子の解説は省略する。岡山市の野田屋町の出身である。英子の記念碑が、1966(昭和41)年、岡山市笠井山に建立された。碑は今世紀初頭に、笠井山から西川沿いに移転されるのだが、今回入った資料は、笠井山に建てられたときの資料である。 私はこの記念碑については3つ書いている。一回目は、婦人民主クラブが佐多稲子と一緒に1970年代に記念碑を訪れた時。そして二回目、三回目は、移転のさい当時岡山市議だった崎本さんらの対応を批判した。左翼は碑など立てるべきではないと書いた。今もその思いは変わっていないが、今回は資料のことだけを記す。 何から何まで見つかった。募金者の募金額まであった。だが今回は記念碑と平塚らいてう のかかわりのみ 。「福田英子を記念する岡山の会」が平塚に碑建立除幕式に寄せる文を依頼した。平塚がこれに応じた。その過程で双方の遣り取りがあった。そのうちの、平塚が岡山に宛てた直筆の原稿と、書簡と、葉書きの、計10通が発見された 。いや、私が整理屋さんから購入した資料一式の中から発見したのだ。 でも偶然あったのではない。一瞥して其れを見つけたから大枚2枚を支払ったのである。今回のテーマはコレで元が取れるや否や。どうも難しいみたいだ。 岡山の会のメンバーを書いておく。発起人は名誉職で名目だけだから省略する。世話人が実質の牽引者である。 永瀬清子 太田此実 戸田ハリエ 中垣智津 鬼丸弘行 河合勝 吉塚勤治 木村脩 宗政若子 このうち実質的に中心になって動いたのは赤字の6人である。事務局は宗政の自宅に置いている。私は中垣智津という女性は知らないが、その他の赤字は知っている。 このとき平塚は(1886年生まれだから)80歳だった。このとき福田は既に死後50年だった。平塚は 「わたしの存じあげています晩年の英子は、長い苦労つづきの生活の中で、笑いを忘れたかのような、こわい、けわしい顔をしていられましたが、今日は、・・・ 」 と書いている。 直筆10点だと、いくらで売れる売れるのだろうか。オークション向きではない。大市でもいくらも値が付かないだろう。いま暫らく手元に置いて愉しみたい。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 再録3つ 古本屋通信 No 264 2013年 6月19日 佐多稲子 ここに一枚の色紙がある。寄せ書きである。写真を掲載すればよいのだけれど、その術を知らないので、文字で全文を載せる。 福田英子の碑を佐多稲子さんと訪ねて 一九七〇年十月三十日 (マジックペンと毛筆の肉筆で) 佐多稲子 好並かおる(その下に、二人のお子さんの名があるが省く) 溝辺節子 豊田美津保 イイダシヅエ たおまさこ 磯崎加世 中西寛治 河合徹 山口佳子 宇佐美寛子 矢田清 永瀬清子 宍甘エミ子 よこたゆみこ 古川たま 寺田憲生 藤田昌子 よしつかきんじ この色紙は、私が五年前の買取りで得たものだ。福田英子の碑は、現在は西川緑道公園添いの野田屋公園に移されているが、当時は笠井山にあった。そこを婦人民主クラブ岡山支部のメンバーが訪れたとき、互いの記念に、寄せ書きし合ったっものだ。当時の岡山支部は分裂しており、その辺の事は私の「通信 No 209 坪井あき子さん」を参照されたい。この中の坪井さんの証言は共産党系の側からの証言である。実際の反共産党系組織は坪井さんが言うよりも大きかったようだ。その中心には好並かおるさんがいた。これは坪井さんが言う通りだ。 上記のなかの半数程は私も名前を知っているひとだ。この中には当時岡大哲学科の学生だった懐かしいたおまさこ の名もある。これまでブログでとりあげた人も数名いる。死ぬ二年まえのよしつかきんじ も参加しているし、同じころ除名になった市会議員の河合徹 もいる。寺田憲生 はこのとき議員だったかどうか。しかしここでこの色紙について、これ以上書く事はしない。永瀬清子 も含めて当時これらの人々が、こういう運動をつうじて交流があった事を示せればよい。 さて、この日岡山に来た佐多稲子は好並さん宅に泊まった。今日この記事を書く私の意図は、ゆいいつ佐多稲子にある。岡山を訪れて好並かおる宅に泊まった佐多稲子が、のちの好並かおるの死後書き送った追悼文を、ここに全文掲載したいのだ。 私は、好並かおるさんの死と、追悼文集については、「通信 No 209」ですでに書いている。多くの人がそれぞれ、故人の思い出を書いている。心のこもった文ばかりだ。僭越ながら、みんな筆達者であり、たどたどしい文などひとつもない。それを前提にして言う。 数ある追悼文の中にあって、佐多稲子の文はずぬけて光っていた。私はまたしても、素人の文と職業的物書きの文のちがいをいやと言うほど見せつけられた。掲載文は、佐多が走り書きしたものだろう。数年後に刊行が始まった講談社 * 『佐多稲子全集』 にも入れられていないだろう。私は佐多のこの文をいつか貼りたいと思って機会をうかがっていた。文学の文としても、岡山の婦人運動史の文としてもいいと思う。この文をここに貼る、大袈裟にいえば、これは岡山の古本屋の矜持なのだ。掲載文の評価は読者に委ねられる。誉めすぎだという評価は私への批判として受けとめたい。 好並かおるさんを偲ぶ 佐多稲子 好並かおるさん、と胸のうちに好並さんを浮べると、そこに見えるのは元気な、生きいきした美しい元気なお顔である。何年前だったろう。婦人民主クラブが創立記念の集会だったかを東京で開いた。このとき、好並さんは岡山支部のかた達三、四人と連れ立って上京なさった。 「大勢で来ました」というようなことをおっしゃって明るく笑われた。このときのことは、岡山支部のかた達も覚えていられるとおもう。そのとき好並さんはきびきびとした感じであった。私も嬉しくて、手を取り合うようにしてあいさつしたのである。好並さんと遇ったのはこのときが最後であったろう。 それより数年前に、岡山支部の開催した講演会があって私を招んでもらった。このとき私は好並さんのお宅に泊めて頂き、お連れ合いの好並隆司さんにもお目にかかった。良き御夫婦とおもったのを覚えている。 婦人民主クラブ岡山支部での好並かおるさんは、数年の間、支部長の役をなすった。中央委員には、十鳥小夜子さん、国定幸子さんというかたたちをおくって、好並さんは支部長でいらっしたようだ。好並さん支部長の時期は数年つづいたのではなかろうか。好並さんに私のお目にかかったのは今書いてきたように、数度でしかないが、もっとお目にかかったような気がするのは、お宅に泊めていただいたりしたせいかもしれない。または私が忘れていて、大会などでお目にかかっていたのかともおもう。岡山の好並さん、と言えば本部のみなさんにも印象が深いのは、きっと岡山での好並さんの活動によっていることなのであろう。とにかく本部のみなさんにもそして私にも、好並かおるさんへの思いが濃いのは、岡山支部における好並さんの活動によるものに違いない。が、同時にまた好並かおるさん、と言う人そのものが、誰にでも深い印象を与える人だった、ということがあるようにおもう。好並さんに私の逢ったときなどの好並さんは鮮明な、きびきびした好並さんだったのである。誰にでも深い印象を与える人柄であったと私のおもうのは、好並さんのこの一面なのであろう。 好並さんの一面と、私は書いた。そう書くしかない。その一面は複雑だったということだろうか。好並さんの死が惜しい。何故、何故、と問う想いである。好並さんの御逝去を聞いたとき私は、夫君の隆司さんにおくやみの手紙を書いた。が、私は、好並さんの霊前にお花を供えることはできなかったのである。何故、何故、とおもうとき、お花を供えられはしなかった。この気持は複雑であった。そして少し経って、岡山支部で、好並さんを偲ぶ集りがあるとき、ようやく私は、好並かおるさんの霊前にお花を供える気にもなったのである。 婦人民主クラブ岡山支部が、この度、好並かおるさんを偲ぶ本を出されるという。支部のみなさんの、好並さんへの想いを察する。支部のみなさんの思い立たれたこの出版は、私にも嬉しい。好並さんを偲ぶこの本が出されることで、好並かおるさんという、ひとりの鮮やかな人の在りし日が、いろいろな姿で浮るび出され、そして私たちには、共にあった時の想いを、一層深く呼ぶことであろう。型どおりの表現になれけれど「平和と民主主義」を求めて共に活動したつながりは、好並かおるさんへの私たちの想いとして残ります。* 『佐多稲子全集』 全18巻 (講談社 1977〜79年) ひと頃、古書価はずいぶん高く、私が古本屋を始めた頃は全18巻揃で25万円位だった。いまは落ちついて3~5万円位だ。随分な差だと思うが、需給の変動を示す指標のひとつと見れば参考になろう。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 古本屋通信 No 267 2013年 6月21日 碑について ひ【碑】後世に伝えるために先人の事跡・氏名などを石に刻んで建てたもの。いしぶみ。「―を建てる」 ① 私は碑について詳しくない。碑を自分で意識的に訪ねたことはない。 [通信 No 264 佐多稲子] で福田英子の碑にふれた。その文の末尾で、これを詳しく取り上げる事も考えたが、思い止まった。あれは佐多稲子を肯定的に書いた記事であり、碑を批判的に書く文ではなかった。私は福田英子の碑も含めて、碑にはすこぶる否定的な考えの持ち主なのだ。ただ、碑といっても色々なレベルがあろうし、その方面の知識に乏しい私は、それらのすべてを否定してしまう自信はない。だから、ここではひとつの問題提出のつもりで書く。批判をまちたい。特に文学碑については、「あってもいいのかなあ」という気もする。急がないから、石崎さんあたりの意見が聞ければ嬉しい。② さて、福田英子の碑から済ませたい。私は好並かおるさんたちの、福田英子の碑詣りに感心しなかった。今まで書いた事はないが、婦人民主クラブは一流でないなあと思っている。佐多稲子も一緒に行ったが、これは岡山支部の企画に乗っただけだ。佐多は追悼文の中で福田英子の碑について触れていない。女性解放運動の先達であるにも関わらず、だ。だから佐多稲子は一流であり、好並かおる以下は二流なのだ。 随分嫌味な書き出しになったので、ここでバランスをとっておく。少し長くなるが、事の性格から、万全を期したいので辛抱ねがいたい。かなり古い、市会議員(当時)の崎本とし子さんのブログから引用する。 福田英子顕彰碑の移設運動にとりくんで 崎本とし子 (1) 県母親連絡会の元会長・豊田文子さんの「思い残し切符」 豊田文子さんは長年、県母親連絡会会長として活躍された女性運動の大先輩である。若いころ治安維持法のもとで不当な拷問の体験者である。かつて私は「モグラの唄」で知られる地下鉄争議の闘いの話をきいた。(労働学校の記念講演だったと思う) その講演の際、「崎本さん、福田英子の碑を山奥から生誕地の町中へ移したいの」と相談された。そうして、私は豊田さんからの「切符」を受けとった。その後、豊田さんが亡くなり、その切符は「思い残しの切符」をなって私の手に残った。 「これは、どうしても実現しなくては・・・!」と決意し、議会で福田英子さんのことや碑の移設を取り上げたのが3年前(2002年)の6月議会だった。その時の市長の答弁は「市民の盛り上がりを見て・・・」 それならば市民運動を・・・!と思うがなかなかうまくいかない。運動はいつも直線ばかりではない。川の流れのごとく蛇行するが必ず大河となる。 (2) 治安維持同盟の皆さんとともに本格的に「移設する会」ができ、それから募金集めがはじまった。大先輩が、体の不調をおして活躍される姿をみて、私も事務局として縁の下でがんばった。 市公園緑地部との調整、地元調整、市長への要請、そして募金集め・・・。 1番大切なのは「福田英子」という人を知ってもらうことだ。パネル展を4回企画。市民協働事業で講演会も成功。マスコミも関心をもって報道していただいた。マスコミの力は大きい。40年前にかかわられた人々からの反応があった。 (3) ついに6月19日除幕式 東京からひ孫の福田博さん。40年前の建設時の事務局長・宗政若子さん、岡大名誉教授の宮本隆先生なども参加をしていただき、市長や議会代表も加わって盛大で感動的な除幕式が実現。 懇談会で感涙にむせぶ皆さんの姿をみて、豊田文子さんから受けとった「思い残しの切符」の決着がついたと空を見上げた。 (4) これからがスタート! 140年前に岡山市に生まれ、信念をもって闘いつづけ生きぬいた福田英子さん(旧姓 景山英子)。6月26日に井久保先生の語る「英子の生涯」をあらためて思った。今度は「福田英子顕彰会」をつくり(10月5日の誕生日に発足めざす)「福田英子賞」を創設して、女性も男性も1人の人としてその人らしく生きぬける社会づくりを後押ししたいと決意した。さあ、これから第2ステージのスタートだ! おわりに 今、英子が生きていたら、毎日どれほどのエネルギーで闘っているだろうか。空の方から「男女平等を明記した憲法を生かしてよい社会に!」「平和と人権は何としても守るのよ。今、女性ががんばる時よ!」と偉大な先輩たちの声が聞こえるようだ。 岡山とは「社会にシッカリかかわって生きる女性」のエネルギーの脈々と流れているところなのだ 先人がいてこそ今がある! この社会を少しでも前に進めて娘たちにバトンタッチしたいと思っている。UP 2005年6月29日 以下の文では、敬称を省略させていただく。長い文に逐一批判を加えることはしない。崎本の文で決定的に欠落している点がニ点ある。もっとも重要なニ点だ。 第一に、崎本が福田英子を尊敬するのはいいとして、何故それを碑で顕彰しなければならないか、それが彼女の頭には全くない。豊田文子にもなかったと思われるが、ここには豊田の文はないから確定的な事は言えない。崎本は井久保伊登子も引用しているが、井久保は講演しているだけだ。「治安維持同盟」の「大先輩」も感心しないが、戦前に生きた人々に過大な要求はできまい。しかし崎本は戦後民主主義に生きた世代なのだ。 第二に、崎本の文には「福田英子の碑を山奥から生誕地の町中へ移」さなければならない理由が全く書かれていない。これは致命的である。私はかりに笠井山の碑をよしとするにせよ、碑の移転は全くの無駄だと思っていた。だが、崎本の頭にはそういう市民もいる事について、想像力が全く欠如している。あるのは大先輩豊田文子の切符を引き取って、共産党市会議員としての筋を通すことだけだ。この限りにおいて崎本に何の私心もないことは疑いない。しかし、それだけでは困るのだ。気負いで世の中は変わらない。共産党のいちばん悪いところが顕れた。 余談だが、崎本が思いもしない事を書いておく。私はこのとき、長年の崎本支持を止めた。止めて横田えつこに乗り換えた。横田も市議会で顕彰碑の移転に賛成しただろう。しかしせいぜい便乗組だ。横田は一流で、崎本は二流だ、私はそう思った。これは佐多稲子が一流で、好並かおるが二流なのと対応する。 ついでだが、豊田文子も一流じゃあない。戦前の戦いに対する敬意が無条件でないこと(転向の問題)も知らねばならない。であれば、あとにつづく者、とりわけ崎本タイプに自分の想いをバトンタッチすることに慎重であってほしかった。推測だが、崎本には「転向」の観念はなかっただろう。酷かも知れないが、戦前の拷問を書く以上、口にしないまでも、それに耐えて非転向を貫いたか、屈して転向したかは、どちらでもよい事ではない。私の一貫したモチーフは 「転向者は大きな面をするな」 だ。でないと非転向が浮かばれない。 私は知識人でない崎本に無理な要求はしない。ただ、共産党の名を背負って「いいとこ取り(ポイント稼ぎ)をするな」ということだけだ。3・11のあとに市職員に、カンパ集めで街頭に立つことを呼び掛けたのも崎本だった(林潤のブログによる)。万人が賛成せざるを得ない案件で、党の看板を背負って嫌われることをするな、ということだ。あと、豊田が崎本に直接相談したなど、随分眉唾だが、死人に口なしとばかり、いい加減なことを書かない方がよい(この点については、いずれ崎本の欺瞞を暴くつもりだ)。 この項が長くなり過ぎたが、ついでにもうひとことだけ言いたい。佐多稲子も転向したじゃあないか、という論に就いて。たしかに佐多は転向した。しかし佐多はそれを明言し、戦後の作品でしばしば書いている。豊田とは桁が違う。③ 私の頭のなかにある実在の碑をあげておく。家の近所500米位離れた所に坪田譲治の碑がある。坪田は中学(のちの高校)の先輩だ。私は記念誌に載っている文を精読したが、碑を訪ねたことはない。旧岡山職安の近くに土光敏夫の石碑がある。これは階級敵だし、行革理論も取るに足りないから馬鹿にしているが、碑そのものは「敵陣営の勝手」であり、知った事ではない。あと、別個に取り上げる碑を列挙しておく。片山潜の碑(これは資料もあるようだ)。朝日茂の人間裁判の碑。北海道の小林多喜二の碑。たったこれだけだ。思い出したら付けくわえるかも知れない。④ 個別にはいるまえに、顕彰碑一般について、私見をかいておきたい。顕彰碑は基本的には、個人崇拝だろう。 レーニン像は引き摺り降ろされた。私が入党した頃、四国の共産党県委員会にはマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、徳田球一の肖像が掲げられていた。随時降ろされて、今はないだろう。尊敬や敬意を表すのに肖像や碑は、民主主義の国の民主主義者のあいだのやりかたとしては、決定的に間違っている。個人崇拝は前近代の封建思想の表現である。 すでに「スターリン批判」で決着が付いている。顕彰碑 はその典型だろう。これはそれにかかわる人間に、ある種の思考停止をもたらすから、碑の対象になった人物の真の理解に繋がらないのみか、理解を妨げる。 しかし、こんなことを考えるのは余程の暇人だろう。碑は実際は街おこし、村おこしの目的で、多くの場合、超党派で作られる。つまり商売なのだ。 ⑤ 片山潜の碑。これについては既に [通信 No 9 野坂参三スパイ論] で触れているので、その部分を引いておく。 「これは、資料を見たひとの話ではなく、見たひとから話を聞いた人の話だが、片山潜が野坂と同じような手紙を書いたという話がある。久米南町の片山潜の碑はどうなるんだろうか。これについても、私の結論を書いておきたい。碑など作るのがそもそも間違いだったのだ」 私は野坂参三がコミンテルン書記長のディミトロフに手紙を書いた事をもって(その結果、山本懸蔵が殺されたにせよ)、コミンテルンのスパイだとは思わない。しかし、この論でいくと、片山潜も確実にスパイになると私は思う。違いは、旧ソ連の資料室が解放されたとき、生きていたか死んでいたかの違いだ。私は潜の著作を可能な限り持っている。入手し難いものばかりだ。これを読む限り潜は革命家であり、理論家だ。それは措いて、久米南町の建物はもう取り壊してはどうか。衣服の展示など何の意味もない。県委員会はアリバイ的な訪問行事をやめて、その時間に赤旗の拡大でもやったらどうか。潜の著作の復刻でもやったらどうか。⑥ 朝日茂の人間裁判の碑について。ここに至って、私は須増伸子のブログ記事を貼れば、他に言うべき事はない。「朝日茂生誕100周年・50回忌を記念して」のおしらせ 2013/2/18 須増伸子 憲法25条の生存権をかかげたたかった「人間裁判」の原告朝日茂さんの命日にあたる2月14日に、早島町矢尾にある碑の前で恒例の碑前祭を行いました。 今年は、なんと、朝日茂さんの生誕100周年そして50回忌の年に当たります。この記念すべき年に、朝日茂さんのたたかいを忘れてはならないし、社会保障の大改悪が進められようとしているいまこそ、引き継いでいかなくてはならない活動だと思いを新たにしました。 早島の朝日さんにゆかりのあるメンバーで実行委員会をつくり、「朝日茂生誕百周年記念講演」を計画することになりました。骨子は「朝日茂生誕100周年記念講演会 ――憲法25条の生存権を守れ朝日茂の功績を学び、現代の社会保障充実・再生へ」 実行委員会(仮称) 【目的】 ①国立療養所南岡山病院(早島町)を舞台に行われた「人間裁判」を起こした朝日茂氏が、今年、生誕100周年であり50回忌という記念すべき年です。早島町にゆかり深い、全国に誇れる「憲法の生存権をかけた」たたかいの歴史を、広く町民に知らせる。 ②また、いま、安倍自公政権が計画している社会保障の大改悪は「毎年一兆円の社会保障費の社会保障給付を縮小する」という小泉「構造改革」のときより悪い形で復活させようという狙いで進んでいる。その最初の標的が生活保護の切り下げ・改悪であり、それを突破口にしながら、介護、医療、年金、保育などの制度改悪に乗り出そうとしていることを広く知らせる。 ③さらに、生活保護受給者と国民を対立させるような思想攻撃に対し、社会的連帯で反撃し、国民全体にかけられた社会保障改悪許さず、充実への道を開くたたかいとする。 ④早島町が、あたたかい自立のまちとしてさらに発展する一助となるようにすすめ 日程―5月19日(日) 14:00~ 場所―早島町ゆるびの舎 研修室(100人席あり) 講師 朝日健二氏(予定) まだこれから具体化をしていきますが、詳細が決まればまた、お知らせします。 朝日茂生誕百周年記念講演会 2013/5/20 須増伸子 朝日茂生誕百周年を記念し「人間裁判」朝日訴訟を学ぶ会が、早島町のゆるびの舎で開かれました。 この講演会は、昨年から早島町の朝日訴訟にゆかりのあるメンバーで企画し、後援会の実行委員会として進めてきたもので、私も実行委員の一人としてかかわりました。 早島町と早島町教育委員会の後援もいただき、NPO法人朝日訴訟の会と共催で、実施しました。 当日は、町の林副町長と磯山議長が来賓として挨拶をされましたがお二人とも早島生まれで早島に住んでおられるので早島の国立療養所の結核患者さんとの交流や大変な実態なども懐かしい話も交えて話をしてくださいました。 講演は、もちろん朝日茂さんのご養子になられ、裁判を引き継ぎ、さらに社会保障の充実を目指す専門家として全国で講演活動や執筆活動を進めてこられた朝日健二さんが東京から駆けつけてくださり、話をされました。 生活保護のバッシングの中、現政権が大幅に生活保護予算を削る方向を出しているが、、生活保護を削ることは、あらゆる社会保障の制度が、生活保護を゛ものさし゛となり後退していくことを具体的な資料で話をされとてもよくわかりました。 さらに、朝日さんの養子になるエピソードなどは、朝日健二さんがどんな思いで引き継がれたのかとてもよくわかり、感動し健二さんご夫婦を尊敬しました。 完璧な文で文句のつけようがない。ここでういう完璧な文とは、深い認識に裏打ちされた文ということだ。その意味でスキが全くない。垣内(女性)と双壁の第一級だ。碑のことは、事実として碑前祭を執り行ったことだけが書かれている。私は朝日が碑の建立に苦笑いすると思うが、須増が実行委員の一人であるかぎり安心することもできる。その上で、朝日訴訟は画期的なたたかいだったが、今日の生活保護を求める運動とはまるでちがっていたことも強調しておきたい。⑦ 小林多喜二の碑。 (丁度ここで石崎さんの見解が入った。これを読んでの私の感想だが、すっかり安心した。みょうな安心だ。これはあんしん ではなく、あんじん だ。石崎文を貼って一先ず終りにする。)古本屋通信さんへ 12 メッセージ - 2013年06月21日 (金) ぼくはほとんど旅をしたことがないので、文学碑を訪れたこともなく、訪れたいとも思いません。小説家は小説がすべてです。碑に何か意味があるとは思えません。ただ例えば子供がそれを目にしたとき、興味を持つかもしれない。長い年月のうちには誰かに何らかの影響を与えるかもしれない。そういう意味はあるのじゃないですか。それは作家の碑に限らないでしょう。 古本屋通信さんは岡山県の事情をいろいろと書いてくれるので、興味深く読ませてもらっています。ただぼくは岡山県下で40年近く暮らしたわりに、岡山のことはほとんど何も知らないのです。登場する人物名の大部分が初めて聞く名前か、かすかに聞いた覚えがある程度です。いま福山に住んでいて、(ここがもともとの故郷なので)、岡山は結局仮の宿だったなという気がしています。だから、興味深く読んではいるけど、内容に意見を持つことはできません。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 古本屋通信 No 277 2013年 6月25日 文学碑に就いて 私は「通信 No 267 碑について 」で、顕彰碑について否定的見解を書いた。その時、文学碑については「あってもいいのかなあという気もする」と、曖昧に態度保留の含みを残した。それは私が文学碑に就いて殆んど知らなかったという理由もあった。その後とくに調べたわけではないが、すこし書いてみたい。 小林多喜二の文学碑が北海道小樽にあることは知っていた。あってもいいのかなあと思ったのは、多喜二の碑を意識しての事だった。そのとき宮本百合子の文学碑はきっとないだろうと思った。これは確信に近かった。生前の百合子がこういうことを極端に嫌っていたことを知っていたからだ。ところが意外にも、百合子の文学碑は福島県郡山にあった。「貧しき人々の群れ」の文が碑に刻まれていた。民主主義文学会の現在のHPにも紹介がある。 それと関係がないが、全国に文学碑なるものがゴマンと存在することも初めて知った。なんと佐多稲子の文学碑も兵庫県相生市にあるではないか。 この辺の新しい認識をふまえて少し書きたい。私は文学碑については、私が一般論として書いたこと、つまり 「碑は基本的には、個人崇拝だろう」「尊敬や敬意を表すのに、碑は間違っている」「これはそれにかかわる人間に、ある種の思考停止をもたらすから、碑の対象になった人物の真の理解に繋がらないのみか、理解を妨げる」 は妥当ではないと思った。それじゃあ、それでもう言いたいことはないのか、と問われればやはり言いたいことはあるのだ。 色々書けばキリがなくなるので、今回は宮本百合子の碑に限って書きたい。建立の経緯については知らない。それは公表されている訳でもないだろう。だから推測で書くことになる。顕彰碑建立に著作権が絡んでくるのか否かは知らない。然し、たとえ法的に絡まなくても、この場合宮本顕治の承認がなくては建立は不可能だったろう。因みに百合子の著作権は、現在は死後50年経過して消滅しているが、建立時の1970年代には顕治にあった。 私の推測を書く。宮本顕治は百合子の文学碑建立に極めて否定的、消極的だったと思う。それは生前の百合子を知っていれば当然だが、加えて顕治自身が碑について、否定的は認識を持っていたと考えられるからだ。私は何処でそれを読んだか定かでないが、上記の私の考えは、顕治から学んだように記憶している。顕治は徳田派の百合子攻撃から百合子の文学を守りたい気持ちは強かった。そのためのたたかいをかつて精力的に為してしてきた(『宮本顕治文芸評論選集』 第三巻)。その顕治が徳田派の百合子攻撃の口実になる文学碑を嬉々としてすすめるはずがない。私の知る限り、顕治の残した文に百合子文学碑にふれたものはない。これでも顕治の全著作を集めてきた積りなのだ。断定するにはちょっと躊躇うが、そう思う。 それと日本共産党だが、百合子は党員作家だったが、党のお抱え作家だったわけではなかったし、党の幹部でもなかった。だから、公的には日本共産党の出る幕は何処にもなかった。党が百合子の文学碑建立に取り組んできたという事は、公式にも非公式にもなかっただろう。しかし古いはなしだから、或いはカンパ活動などやっていたかも知れぬ。 百合子の文学碑建立は結局、民主主義文学と近代文学の周辺、それと地元郡山から出た要望に、顕治周辺が押し切られて建てられたのではないかと私は思う。党の周辺も「あってもよいのではないか」という意見が強かったのではなかろうか。袴田里見あたりがしたり顔で、顕治に説教を垂れる情景が目に浮かぶ。これは碑に就いての意見というより、当時の大衆運動一般をすすめていく立場からだったろう。 顕治は例の苦虫を潰したような顔で、苦り切っていたのではないか。百合子の葬儀に湯浅芳子が参列するのを拒み切れなかった時の顔だ。顕治はその顔で序幕式に出ただろう。「赤旗」は極めて小さな報道記事だった。党側からはただ一人、桑原信夫幹部会員が出席した。顕治も共産党も、「百合子の文学は顕彰に値しないのか」という一般の声に引きずられた格好だった。時は高度成長の真っ盛り、全国で文学碑が乱造された時代だった。 ところで、百合子の文学碑は百合子の文学の理解になんらかの貢献をするのだろうか。民主主義文学会のHPの紹介にもあるが、私はこの場合悪くないと思う。ただ、こういう碑を百合子が嫌っていたことを(変な話だが、碑の脇に)明示しておいた方がよいのではないかと思う。しかし、そういうみっともない事ができるか、と言われれば黙るしかない。 ここまで書いてきて、文学碑はやはり商売だと思った。ただし罪のすくない商売だ。大目に見てもよいのではなかろうか。そのうえで誉められた事かと問われれば、やはり感心しないと言わざるを得ない。近代文学、現代文学の評価が定まるのは、作家によって異なるだろう。文学碑はそんな事に構わず建てられる。大江健三郎辺りが、生前のいまから「ボクの碑は絶対に断わる」と明言しておいても、松山市は子規以来の巨匠の碑は建てるだろう。 この項、かなり独断的に書いた。私の事実認識に大きな誤りがないとは言えない。もうひとりのキーパーソンは大森寿恵子だったが、かの女も死んでしまった。宮本太郎氏は何も知らないだろうが、宮本家の文学関係の資料は公開していただきたいものだ。補記 上記の文を書いたあと、ネット検索していたら早くも下記の文献に出会った。まだ全文が読めないので何とも言えないが、少なくとも私の文中の「顕治の残した文に百合子文学碑にふれたものはない」は誤りということになる。拙文が印刷物ではないから、誤りの記述も暫くそのままで残すが、ハラハラものだと思った。参考資料 露草あをし: 宮本百合子文学散策 宮本顕治, 小林栄三, 桑原信夫 宮本百合子文学散策編纂委員会, 1996 - 205 ページ 宮本百合子文学マップ(宮本百合子文学碑;安積野開拓顕彰碑と中条政恒翁頌徳碑;開拓者の群像;開成山の堤の桜ほか);百合子文学誕生の地―郡山(宮本百合子と郡山;開成山を描いた初期作品―宮本百合子文学の思想的基盤;露草あをし―小説『播州平野』のこと;『貧しき人々の群』私の読み方―宮本百合子文学碑建立十年に寄せて;宮本百合子の今日的意義―近代史に生きた日本の知性ほか)
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2018/03/30(金) 08:46:03 |
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古本屋通信 No 3209 2018年 03月28日 新華社発 金正恩と習近平のトップ会談は本当だった 日本政府と日本共産党はツンポ桟敷である。ザマアミロ。「韓国」大統領府でさえも事前に情報を入れている。何時までも反朝鮮で、制裁、制裁と呪文を唱えていれば、やがてアメリカも見捨てるだろう。CIAクーデタ、石破さん、期待してる? 訪中は北朝鮮キム委員長 習主席と初の首脳会談 新華社通信 3月28日 8時41分 NHK 中国国営の新華社通信がさきほど、伝えたところによりますと、北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長は、28日までの4日間の日程で、中国の北京を訪問し、習近平国家主席と初めての首脳会談を行ったということです。 この中で習主席は、ことしに入ってから朝鮮半島情勢には前向きな変化が出ていると指摘したうえで「北朝鮮が重要な努力をしたことを称賛する」と歓迎しました。 そのうえで「朝鮮半島の問題においてわれわれは非核化を実現するという目標を堅持し朝鮮半島の平和と安定を守り対話を通じて問題を解決する」と述べ、中国政府の従来の立場を強調しました。 これに対してキム委員長は「祖父のキム・イルソン(金日成)主席と父親のキム・ジョンイル(金正日)総書記の遺訓に従って、朝鮮半島の非核化の実現に力を尽くすのは、われわれの一貫した立場だ」と述べ、非核化に向けた意思を示したということです。 キム委員長が首脳会談に臨んだり外国を訪問したりしたのは、2012年4月に、名実ともに北朝鮮の最高指導者となって以来これが初めてです。 会談では、核・ミサイル問題をめぐって冷え込んでいる中朝関係の改善に加え、来月末の南北首脳会談や、5月までに開かれる見通しの米朝首脳会談について、突っ込んだ意見が交わされたものとみられます。韓国大統領府 「まもなく発表」と中国から事前通知 北朝鮮のキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長が中国の北京を訪問し、習近平国家主席と初めての首脳会談を行ったことについて、韓国大統領府は、中国政府から「まもなく発表する」と事前に通知があったことを明らかにしました。 金正恩氏が訪中、習氏と会談 米朝首脳会談巡り意見交換 朝日新聞デジタル 北京=延与光貞 2018年3月28日09時10分 中国国営新華社通信によると、北朝鮮最高指導者の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長が25日から28日まで中国を訪問し、北京で習近平(シーチンピン)国家主席と会談した。非公式の訪問としている。来月に迫った南北首脳会談や5月末までに実現を目指す米朝首脳会談についても意見を交わした。 習氏は対話の動きが進む朝鮮半島情勢を念頭に「朝鮮側の努力を称賛する」と評価。「中国側は引き続き建設的な役割を果たし、ともに緊張緩和に向けて努力したい」と協力を表明した。 これに対し、金氏は「われわれは自ら緊張緩和に向けた措置をとり、平和的な対話を呼びかけた。金日成主席、金正日総書記の遺訓に基づき、朝鮮半島の非核化に向けて努力する立場は変わらない」と応じた。さらに、「韓国と米国が我々の努力に誠意をもって応え、平和で安定した雰囲気を作れば、朝鮮半島の非核化問題は解決できる」とも述べた。 金氏にとっては、2012年4…
2018/03/28(水) 09:17:56 |
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古本屋通信 No 3208 2018年 03月28日 現実政治の虚像と実像。政治のリアリティを何処に見るか。 直前エントリーを仕上げたあと、2時間ほど店に出掛け、いま午前6時に帰って来た。続きを少し書く。 わが家の新聞はいま赤旗と毎日新聞である。両方とも佐川の証人喚問記事が超大きい。然し、辛うじて一面に 「金正恩氏 訪中か」 が載っている。これも昨日からNHKで取り上げられていたが、訪中が金正恩か、それとも其の妹かぼかしていた。産経だけが金正恩だと断定しており、これはきょうの産経朝刊にも載っていた。マアそれは置こう。 赤旗も毎日も、佐川の証人喚問に沸きかえっている。そればかりと云ってもよい。どういう扱いにするかは、メディアの勝手である。これで安倍政権の支持率はさらに低下するだろう。だが其処に現実政治のリアリティのあるや無しや。それを少し書きたい。 ちょっと脇に逸れるが、きょうの赤旗の折り込みチラシは 「4.3 アベ政治を許さないプラスターアクション」 の案内である。今だからこそ 「アベ政治を許さない」 であるらしい。これがリアリティーがあるか? せっかくだが、4月3日に岡山駅東口マツキヨ前に人が集まることは有り得ない。いやゼロではないだろう。共産党は動員を掛けるだろうから100人くらいか。さらに 「立憲野党の合同街頭宣伝」 だろうから、共産党以外で30人位は来るだろう。 今日の赤旗や毎日の勢いだと、岡山駅前には1000人位来ても不思議ではない。だが絶対に来ない。その理由もはっきりしている。安倍政権を退場に追いやることが日本人民の切実な要求になっていないからである。どうしてそんなことが分かるか。 つまり安倍政権を退場に追いやろうと訴えている弁士の声がホンモノの肉声として伝わって来ないからである。それに尽きる。 先日の岡山駅前の「立憲野党の合同街頭宣伝」で、立憲民主党の高井崇志が訴えた。安倍政権を声を大にして批判した。ところが、だあれも、高井が本気でそう思っているとは、思っていないのである。高井の唯一の関心は、如何にして代議士生活を続けるか、それだけである。その他にはまったく関心がない。前二回選挙は比例復活であった。あと詐欺で、いかに延命するか、それだけが彼の関心事である。それは高井の姿を見る者、高井の演説を聴く者に、いやおうなく伝わって来る。 はっきり言う。本当に安倍政権を退陣に追い込もうと思っているなら、高井のような元大阪維新の党に演説させないことだ。安保破棄をはっきり掲げ、その最大目標のもとでモリカケ問題を追及すべきである。 朝鮮の金正恩が中国の習近平と会談したというニュースこそ、世界を揺るがす大ニュースである。佐川どころではない。しかしこのニュースさえもブル新聞は中朝の関係改善の文脈でしか捉えていない。何処までも朝鮮を国際的な孤児にしたいのだ、それがミエミエである。中朝間にも矛盾はある。だが中国ー朝鮮ーロシアが反帝ブロックであることに変わりはない。国際的な孤児は安倍政権と日本共産党である。 金正恩であろうが、習近平であろうが、日本共産党のトップが彼らと会談してもちっとも不思議ではない。かつて宮本も、野坂も、袴田も、そして不破でさえも毛沢東や金日成と会談している(不破は毛とは日中両党会談に臨席しただけ )。志位和夫のインポテンツここに極まれりだナ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日中両共産党会談資料 ここで紹介する文献は、1977年、昭和52年に、日本共産党の宮本顕治氏が週刊朝日(昭和52年6月24日号)に発表した手記「毛沢東との最後の会談」です。宮本氏は、日中両共産党の断絶の直接のきっかけになった1966年3月の会談の経過について、氏の目からみた事実を比較的抑えた調子で淡々と記述しています。この手記からは、当時の宮本氏および彼の同志たちである日本共産党の氏と同世代の指導者たちの眼に、国際共産主義運動やベトナム戦争などの世界情勢、国内の共産主義運動、民主主義運動などがどのように写っていたのかを窺い知ることができると思います。宮本氏の手記に、「週刊朝日編集部」の前書きと注が付されています。 2000年8月18日 猛獣文士 毛沢東との最後の会談 一九六六年、上海での二日間 宮本顕治 週刊朝日(昭和52年6月24日号)より 「こんなコミュニケは何の役にも立たない」――毛沢東主席のこのひと声で、いわば中国共産党と日本共産党の、”断絶”が始まった。十一年前のことである。いったい毛主席と、日共代表団長宮本顕治氏(当時党書記長)との間に、どんな激論がかわされ、何が毛主席の逆鱗にふれたのか。当事者の宮本氏が、いまその真相を明らかにする 。 目 次 毛沢東との最後の会談 思いがけず中国が共同声明を提案 ソ連路線めぐり続いた両党の論争 共同声明は軟弱と拒否した毛沢東 冗談も出て和やかなやりとりも 「この会談はなかったことにしよう」 文化大革命を号令した日だった (週刊朝日の)編集部注 北爆開始の翌年の一九六六年二月、日本共産党中央委員会は、ベトナム侵略反対の国際統一戦線の結成を願って、ベトナム、中国、朝鮮の三カ国の共産党、労働党と会談するために、大型の代表団を送ることになった。代表団は二月九日、福岡の若松港から、中国の貨物船「紅旗」号で上海にむかった。 一行は、団長が当時書記長だった私で、副団長長岡正芳幹部会員、団員は蔵原惟人、米原昶両幹部会員、不破哲三、上田耕一郎 、工藤晃各中央委員候補 だった。随員は小島優、立木洋の両名。なお、北京に駐在していた砂間一良書記局員も中国到着後、団員にくわわった。 毛主席(右側手前2人目)と会談する宮本顕治氏(ただし、1959年2月、鄭州でのもの。1966年3月の毛・宮本会談の写真は中国側から日共側に提供されなかった) 上海では、政治局員の彭真、同候補の康生、中央委員で当時の中国共産党国際連絡部長劉寧一らが参加した歓迎宴がおこなわれ、また、これらの人びととの会談をおこなった。この会談は、後に予定されていた北京での本格的会談への予備的なものに過ぎなかった。 二月十七日にハノイに入り、ホー・チ・ミン主席、レ・ズアン第一書記、チョン・チン政治局員らの歓迎宴、レ・ズアンを団長とする代表団との会談をおこない、十日間の滞在ののち、共同コミュニケに調印し、二月二十八日には北京に到着した。 その日、人民大会堂でおこなわれた歓迎宴には、中国側から党副主席の劉少奇、周恩来、総書記鄧小平、政治局員李富春、李先念、同候補陸定一、康生、葉剣英、劉暁、劉寧一、蕭華、謝富治等々らが列席した。会談は三月三日から始まったが、中国側の顔ぶれは、劉少奇、鄧小平、彭真、康生、劉寧一、廖承志、呉冷西、張香山、趙安博であった。 北京には一週間余滞在し、四回にわたって会談した。会談では双方の主張に共通点もあったが、不一致点も大きかった。簡単にいえば、「アメリカのベトナム侵略に反対する国際統一戦線」か、「反米反ソの統一戦線」かの違いだった。双方が意見をつくしたが、どちらからも共同声明やコミュニケを出そうという発意はなされず、私たちは次の訪問地の朝鮮へむかった。 思いがけず中国が共同声明を提案 三月十一日に平壌に着き、二十一日に共同声明を発表して平壌を発った。この日、北京に着いたが、私たちは北京はただ通過するだけで、そのまま帰国する予定であった。 ところが北京空港で私たちを迎えた中国側から、日本共産党代表団歓迎の大集会を開きたい、共同コミュニケを発表したい、との申し出がなされた。思いもかけないことだったが、協議のうえ、ことわる理由もないので応じることにした。 二十六日北京で開かれた代表団歓迎大集会には、周恩来、朱徳(副主席)、彭真、康生、廖承志、林楓、劉暁、劉寧一ら多数が出席し、私と彭真がそれぞれ党を代表して演説した。私の演説全文は「人民日報」でも報道された。 共同コミュニケについては、すでに双方の不一致点は明りょうだったし、中国側がそのうえであえてコミュニケを出そうと申し入れてきた以上、不一致点は保留し、一致点でまとめるという良識を前提にするだろうと、私たちは考えた。このときには、朝鮮訪問前の北京での両党会談に参加した劉少奇はパキスタンに旅立っており、鄧小平は地方出張ということで、先方の会談の責任者は周恩来だった。 共同コミュニケを起草する小委員会は、当方は岡、米原、不破、上田、先方は劉寧一、呉冷西、張香山、趙安博のそう方四人ずつで設けられた。初めに日本側が草案を示し、それに中国側が対案を出した。 中国側は、ソ連共産党を名指しで批判する案を出したが、ソ連共産党指導部に批判をもっている点では双方共通しているものの、ソ連の権力の性格の評価、国際共産主義運動と国際統一行動での位置づけなどでは、双方に見解の違いがあった。また、私たちは共同コミュニケで第三党を批判するというやり方はとらないという態度だった。小委員会は五日間六回の会議で討議をつくし、結局、一致点を書くということで、ソ連への名指しの批判はコミュニケにはもられなかった。出来上がった共同コミュニケは、アメリカのベトナム侵略を激しく糾弾し、それとたたかう国際統一戦線の呼びかけを重視し、アメリカ帝国主義を美化する現代修正主義とたたかう、といった点を中心にし、さらに国際民主運動の分野での活動の強化、アジア諸国の労働者階級と人民の連帯、日中両共産党の友好と連帯などをうたった約三千字のものとなった。 周恩来を団長とする代表団との最終会談で共同コミュニケを確認し、翌日は上海にむかうという三月二十七日の夜、人民大会堂で私たちの歓送宴がひらかれた。周恩来、譚震林、康生、林楓、廖承志、劉寧一らが列席し、各界人士三百人ほどが参加した。北京在住の日本人も参加していた。この席で周恩来は「日中共同コミュニケの発表はアメリカ帝国主義と現代修正主義に大きな打撃を与えるだろう」といい、私も「このコミュニケは敵に対して打撃を与え、見方には勇気を与えるだろう」とのべ、ともにその成立を祝って乾杯した。 もちろん、このとき私たちは、これで中国側との正式会談は全部終わったものと考え、あとは共同コミュニケをいつ発表するかを、中国側ととり決めるだけと考えていた。朝鮮訪問以後の私たちの中国での日程を、中国側は、今回の中国訪問の「第三段階」と呼んでいたが、上海にいる毛沢東との会見も、共同コミュニケに書き込まれていた。したがって、共同コミュニケの発表は、上海での毛沢東との会見のあと、できるだけ早くと考えていた。 私たちの会談の経過や共同コミュニケの内容は、当然、党主席である毛沢東に報告され、その指示と了解のもとにすすめられたであろうということを私たちは一点も疑わなかった。上海で予定されている毛沢東との会見は、いわば表敬訪問的なものであると、私たちは考えていた。 三月二十八日、私たちは朝七時四十分北京発の特別機で上海に向かった。同行したのは康生、趙毅敏、趙安博だった。趙毅敏は中央委員候補、党国際連絡部副部長で、北京での両党会談には出席していない。 上海の空港には午前九時半に着いた。康生、趙毅敏らがまず毛沢東のところへ行って、事前の報告や打ち合わせをするというので、私たちは空港で小一時間待機した。毛沢東邸へ行ったのは十時二十五分くらいだった。広大な邸宅で、門を入ってしばらく自動車で走ってから、やっと玄関に着いた。毛沢東との会見には、先方も少人数らしいので、幹部会員と書記局員が参加することとし、私と岡、蔵原、米原、砂間の五人が会見の部屋に入った。広い部屋で扇形に安楽椅子が並べてあり、私たちはその一翼にすわった。 まだ毛沢東は見えず、趙毅敏、趙安博、魏文伯らがいた。まず趙毅敏が口をきった。 「コミュニケについて、毛主席に若干の意見がある。かなりよくできているが、これでは主題がはっきりしない。痛くもかゆくもないコミュニケだ。これではなんのために出すのかわからない」。そして彼は、毛沢東の修正点を口頭でのべた。 私はこれには驚いた。中国共産党の主席である毛沢東が、北京での両党会談で正式に確認されたコミュニケに、今になってこのような意見を出すのは一体どういうことか。毛沢東は、北京での両党会談に責任を持たないという立場なのか。中国共産党は一体どうなっているのか。私は、この唐突な思いもかけないできごとから、きわめて異常な、重大な事態を感じた。 毛沢東の修正案というのは、実際にはコミュニケの基調を別のものに変える提案であり、また北京での会談では出なかった新しい問題も含まれていた。 修正案は第一に、原文がアメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線であるのにたいし、「全世界の革命的人民との団結」という革命路線の統一戦線を強調し、第二に、原文の現代修正主義という言葉に「ソ連共産党指導グループを中心にした」という規定をくわえ、また第三は、両党内の教条主義とセクト主義反対、特に「現代修正主義の思潮に断固反対」という、党内闘争の課題を提起したものだった。 第一、第二の問題は、結局「革命党」と認められるものの範囲内での共同闘争をして、ソ連を国際統一行動から名指しで排斥するという、北京の会談での中国側の主張の復活提案であった。第三の問題は、それぞれの党の党内闘争の性格まで規定するもので、北京の会談でも出なかった論点であった。 ソ連路線めぐり続いた両党の論争 当時、日本共産党はソ連共産党と公開論争を続けていた。それは、ソ連共産党指導部のわが党への公然とした一連の攻撃、志賀義雄一派と「日本のこえ」への公然たる支持、プラウダ、モスクワ放送などでのそれらの反復などに端を発したものである。フルシチョフらの一連の方針に顕著に現れていた、ケネディを頭とするアメリカ帝国主義の美化論とその押しつけにたいし、私たちは率直な反批判をおこなっていた。 中国共産党とソ連共産党のあいだでも、当時すでに数年に及ぶ論争がおこなわれていた。しかし、日本共産党と中国共産党の立場には、以前からかなりの相違があった。中国共産党指導部の立場は、国際共産主義運動の分裂不可避論であり、事実、その立場からいわゆる「左派」の党を各国にどんどん組織していた。もっとも、毛沢東は、広範な反米統一戦線の重要性については、一九六五年五月までは、日本人民、パナマ、コンゴ人民などの闘争についての声明、談話でたびたび強調していた。 日本共産党は、ソ連指導部の根強い大国主義的干渉と対米追随路線をきびしく批判しながらも、同党指導部が一定の時期から、正確には一九六五年三月以後、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する共同行動を呼びかけていることに、注目していた。そして、ソ連共産党がベトナム人民の闘争に、物質的にも具体的な援助をおこなっている以上、アメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線へのソ連の参加を拒むべきではないという立場だった。そして、その共同行動のなかで、正当なことは肯定し、正しくないことは肯定しないという明確な態度、いわゆる革命的ニ面政策をとることによって、事態は発展するというのが、私たちの見地だった。 北京での両党会談参加者の記念撮影(1966年3月3日)。前列右から康生、米原昶、彭真、岡正芳、劉少奇、宮本顕治、鄧小平、蔵原惟人、砂間一良の各氏 これにたいして、北京階段で中国側が強調したのは、ソ連と統一行動をとれば、修正主義と革命的立場の境界線がわからなくなり、「左派」の党を混乱させる、ソ連は不介入の日和見主義政策から、アメリカに対する妥協的解決をベトナムに押しつけるための介入政策をとろうとしているに過ぎない、という主張だった。 私たちは、統一戦線問題の国際的経験について、レーニンの一九ニ一年の第二インターナショナル、第二半インターナショナルへの統一行動の呼びかけその他を、全面的に研究し、革命勢力でないから統一行動の相手にしないという立場はとるべきではないという結論に、しっかりと立っていた。三カ国訪問前に発表した論文「アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために」(「赤旗」一九六六年二月四日)はこの立場の詳細な展開であった。 したがって、アメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線の強化の呼びかけを、反米反ソの統一戦線の呼びかけに変える、といった提案に、私たちがいまさら同意する余地などまったくありえなかった。 私は、趙毅敏にたいし「このコミュニケは、もともと両党が完全に合意に達したうえでつくられたものではなく、意見の不一致があるなかでつくられたものだ。作成にあたっては両党から小委員を出し、一致点にもとづいて書く、不一致点にはふれない、できるだけ簡略にする、という三つの点を互いに確認し合ってつくった」と話し始めた。 このとき、毛沢東が康生とともに入ってきた。 共同声明は軟弱と拒否した毛沢東 私は毛沢東に会うのは、これが三度目だった。最初が一九五九年二月鄭州で、二度目が一九六四年秋杭州でだった。第一回目のとき、毛沢東から思いもかけず、一九五〇年の日本共産党の分裂時代にとった、中国共産党の態度が「誤っていた」ということばを聞き、私は毛沢東は大きな人物だという感じをいだいていた。(<(週刊朝日の)編集部注>参照)また、その中国革命についての理論と実践は画期的なものであると、長いあいだ評価していた。 さらに、一九六四年春、私が長い肺炎ののち、非常に衰弱して歩行も困難になり、中国の好意で海南島の暖かい気候のなかで療養していたとき、広東に来た毛沢東が、私に会いたいが療養中でもあるからやめたことを聞き、思いやりという点でも、私は毛沢東に好い印象をもっていた。 だから、この一九六六年の中国訪問にあたっては、それまでに中国側が発表していた一連の論文などから見て、合意はきわめて容易でないにしても、このような毛沢東なのだから、彼と冷静に話し合えば一致点も生まれるだろうという期待をもって、私たちは中国を訪れたのだった。 毛沢東は非常にきびしい表情で「孤立を恐れてはいけない。また戦争を恐れてはいけない。裏切者にたいしては融和的態度をとっては駄目だ。あなたたちは、志賀や右翼社会民主主義に対して融和的態度をとっているか」と切り出して、彼自身が過去に孤立した経験をのべ、レーニンも孤立を恐れなかったと力説した。そして「あなた方は孤立した経験があるか」と尋ねた。 私が「ある」と答えると、毛沢東はつづけて「アメリカはベトナム戦争を中国までエスカレートしようとしている。しかしわれわれは戦争を恐れない」、アメリカが中国を攻撃し、南から侵略を拡大したらソ連も北から攻め込んでくるだろうといい、莫大な犠牲も出るだろうが、犠牲を恐れてはならないとして、彼の長男は朝鮮戦争で戦死し、妻や弟、妹なども国民党に殺されたとの事例を挙げた。「しかし自分は生きている。二十二年間戦争をしてきたが、一発のたまもあたらなかった。これはマルクスに守られていたからだといえないだろうか」 毛沢東はさらに、アメリカの爆撃がベトナム人民を団結させ、日本の中国侵略が中国人民を団結させたということをのべて、戦争を恐れてはならないことをかさねて強調した。そして、「コミュニケにたいする私の修正案について意見はどうか」と聞いた。 私自身の考えは疑問の余地なくはっきりしていたが、団員間での意見はまだ交換する機会がなかったので、私は「あとで研究する」と答えた。 毛沢東は「私はあのコミュニケを読んでたいへん不愉快だった。これは主題がはっきりしない。現代修正主義とあるが、だれを批判しているのかわからない。中国共産党も日本共産党もソ連の修正主義を公然と批判しているのだから、はっきり名指しで書かなければ駄目だ。このコミュニケは妥協的だ。私はどうしてもいわなくてはならない。このコミュニケは勇気がなく、軟弱で、無力である」といった。私が「コミュニケは最初日本側で起草した」と発言すると康生は「われわれの提案もはいっている」とのべた。 毛沢東は「北京の連中もこれに同意したのだろう。軟弱だ。私の意見を押しつけるわけではないが、原文のままだと発表しないほうがよい」と緊張した表情で、ところどころ声を強めながらのべた。そして彼は「これで私の意見は終わる。今度はあなた方が私を攻撃する番だ」と話を結んだ。きわめて緊張した雰囲気が続いていた。 冗談も出て和やかなやりとりも もう昼の十二時近くになっていた。 私は「毛沢東同志も率直に意見をのべた。われわれも率直に意見を交換するために来たのだ」と前置きして、自分たちの経験としてさまざまな誤った傾向とたたかって綱領を採択した経過にふれた。また、党が分裂したとき、スターリンがつくった五一年綱領のなかの極左冒険主義の方針で、党が大きな打撃をこうむった苦い経験から、自主独立の方針を確立して、今の綱領も自分たちの手で独自につくりあげたこと、この経験があったから一九六〇年の八十一カ国共産党・労働者党代表者会議の予備会議でも、はじめは少数だったが恐れず、独自の修正案を出して主張することができたこと、これは中国を含めて、どの党の指示のもとでやったことでもないこと、などをのべた。 また私は、ソ連共産党との論争の問題にふれて、公開論争が始まるまえに、原水禁大会で来日した趙安博が私に、「ソ連共産党との公開論争を早く始めないとバスに乗り遅れる」と「扇動」したが、わが党はこの「扇動」に乗らず、ソ連の党が公然とわが党を攻撃するまで、名指しの論争はやらなかったという点も指摘した。 さらに私は、わが党の第七回党大会で一九五〇年のわが党の分裂問題を総括するまえ、ソ連を訪問した志賀、蔵原にたいし、フルシチョフはこの総括をやめるようにいい、志賀、蔵原が帰途北京にたち寄ったさい、劉少奇もこの総括をやることに反対した。「当時ソ中は世界の二つの大きな党で相当権威をもっていた。しかしわれわれは孤立を恐れず、フルシチョフや劉少奇に追随した志賀の意見をしりぞけ、われわれの自主的な判断で五〇年問題の総括をおこなった」とのべた。 毛沢東が口をはさんで、「これは初めて知った」と、この劉少奇の件をかたわらの康生に聞いたが、康生は首をふって、知らない旨を示した。 私は話を続けた。 「ブカレスト会議でも、ここにいる米原同志が出席したが、フルシチョフの中国攻撃に賛成しなかった。これはだれに相談したことでもない。ソ連の第二十三回大会への欠席の問題も、どの党とも相談しないで独自に決めたことだ。中国との会談でもこれは話題にならなかった。このようにわれわれは孤立を恐れず、正しいと思ったことは、自主的な判断で勇気をもってやってきた」 「われわれは、ソ連共産党にたいしてきわめて原則的な態度をとっている。ソ連大使館のレセプションや革命記念日などの集会にも、彼らが志賀一派を参加させる限り断固として参加していない。その点ではわれわれはきわめて頑固派である」 「そういう頑固派はよい」と毛沢東が口をはさんだ。ソ連にたいする日本共産党の態度のくだりになると、毛沢東は少し表情をやわらげ、私たちのいくつかの態度について「あなたたちの方が進歩している」といって笑った。 私は、ベトナム問題の重要性を強調して、次のようにのべた。 「ベトナムの同志たちはよくたたかっているが、これにたいする国際的支援は必ずしもうまくいっていない。八十一カ国声明では社会主義の優位性ということをいっているが、いまベトナム問題では、その力を十分出し切っていない」 「中国が最悪の事態にそなえることはよいことだが、悪い可能性に備えるだけでなく、よい可能性を実現するために全力をあげる必要がある。中国に戦争が拡大した場合に備えることはもとより大事だが、ベトナム問題をベトナムで解決し、中国に拡大しないように努力することが大切だ。毛沢東同志もいったように、政治的に敵を包囲し、孤立させなければならない」 毛沢東が口をはさんで「もちろん政治的にも備えなければならない」とのべた。 「そのためにはアメリカに反対する一切の力を結集してゆく必要がある」と私は続けた。「あなた方は、ソ連の権力は資本主義になった、ファシストになったといっている。しかし、そういう規定をするには、いろいろ科学的な研究をする必要がある」 毛沢東も「研究する必要がある」といった。 1966年、毛主席は揚子江を泳ぎ、健在を印象づけた(UPIサン) わたしはさらに、国際民主運動のなかでの活動の問題、当時のインドネシアの事態の見方などについてものべた。 毛沢東は、コスイギンが中国に来て、公開論争をいつまで続けるのかと尋ねたのにたいし、一万年ぐらい続けるつもりだといったこと、かつて蔵原と会ったとき、共産主義は一国で可能かと聞かれ、できないと答えたこと、「資本主義の復活の問題は、たえずおきてくる問題で、たばこ二箱で買収されるものもある」こと、などを話した。 このとき、昼食の用意ができたとの知らせがあった。毛沢東が「食事にしてからまたやることにしては」と提案し、私たちも同意して食堂に入った。江青の姿は見かけなかった。 ときに、午後二時すぎだった。 会食には私たち代表団は全員が出席した。 会食時の毛沢東はかなりくつろいで、「中国の党は日本の党に干渉しすぎた」と、一九五〇年当時のことを、自分から反省的にもち出した。 私が「とても元気そうだ」というと、彼は「時どきせきがでてこまる」といい、話はたばこのことに移って、互いに冗談の応酬が続いた。たばこをやめると国家財政が破たんするといった冗談も出た。 「この会談はなかったことにしよう」 毛沢東が「孔子は七十三歳で死んだ。私はいま七十二歳だが、今年七十三歳になる。そろそろ今年の終わりごろに、マルクスに会いに行けることになるかもしれない」というので、私は「このまえ会ったとき毛同志が、私の五カ年計画はマルクスのところに行くことだといったので、私はその五ヵ年計画には反対だといった。私はいまもその意見をかえていない」といった。蔵原は「この点でもよい可能性の方を追求してください」といった。 漢字制限の話も出て、毛沢東が「日本では漢字をどれぐらい使っているか」と問い、蔵原が「当用漢字で二千あまりある」と答えると、「まだそんなに使っているのか。漢字は早くやめて、ローマ字にしたほうがよい」といった。私は「それには反対だ。だが、この問題は研究課題として議題からはずそう」などといい、さらに話ははずんだ。 会食の最後に、毛沢東は「会談をどうする。私はもういうことはない」といった。私は「私の方はまだ残っている。そんなに多くはない」といった。毛沢東は「ではあすつづけよう」と答えた。終わりに一同ならんで写真におさまった。 私たちはその晩、代表団の会議をひらいて正式に毛沢東の修正提案について討議した。きわめて重大な原則的問題であるので、若干の字句の置きかえであいまいに処理することはできない問題であると、皆が発言した。会議の決裂による日中両党関係の将来は多難が予想されるが、私たちが原則的な態度をとらなければ、理論的にも重大な誤りをおかすことになるし、内外に重大な混迷を与えることになるという点で、皆の意見は詳しく論議するまでもなく一致していた。この点、代表団に「軟弱」なメンバーは一人もいなかった。 翌朝、毛沢東邸に着くと、趙毅敏がまずコミュニケについての意見をきいたので、「もしまとめるなら不一致点は保留し、一致点を簡潔に書いた原文のようなものとしてしかまとまらない」といって、私は問題点についての私たちの見解を詳細に説明した。そして、むしろ今日の会議は「コミュニケをまとめる問題に限定せずに、重要問題について話し合う良い機会だと思っている。お互いに自己の見解をおしつけることはできないが、話し合うよい機会だ」といった。 趙毅敏は、毛沢東に報告にいった。やがて毛沢東がはいってきた。そして、無表情に「まだ話すことがあるか」と聞いたので、私は「少しあるから話す」といって、前日の話の補足として語った。それは趙毅敏にもいったように、私たちの立場をいっそう明確にしておくことが、訪問の主旨にかなうからである。私はレーニンが第三インターナショナルをつくった時期と今日との比較、ハバナでおこなわれた第一回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯大会の評価などについてのべた。毛沢東は、私の話の半ばで「北京での会談の記録は見た」と、ポツリといった。おそらく昨晩見たのであろう。そして、もう私たちを修正案の線で同意させることは、まったくあきらめたように見えた。 私は、話が終わるまえに、「この会談をつうじて、論文を読むだけではわからないお互いの立場、論点やその根拠を知ることができた。一致しない点については、お互いにさらに研究し、こんごの実践の検証をえよう」とのべた。そして最後に、アジアの四党――日本、中国、朝鮮、ベトナムの、それぞれアメリカに領土を侵略されている国の党が共同しあうことが必要であると強調した。 「話すことは以上のとおりだ」と私は結んだ。毛沢東はいった。「私もこれ以上話すことはない。ただ一こと二ことある。あなた方の態度はソ連共産党指導部に歓迎されるだろう。これが一こと目。私たちは歓迎できない。これが二こと目。コミュニケは発表できない。あなたたちの方でコミュニケを出すことを要求しないのに、われわれが出そうといったのはまちがいだった」 「われわれは出すことに固執していない。われわれは、われわれの立場が、アメリカにもソ連指導部にも歓迎されないことを確信している。この点は意見が違うということだ」と私はいった。 毛沢東は「どちらの意見が正しいか、事実で証明しなければわからない。天は落ちてくることはない。今後機会があればひきつづき話し合える。これでうちきろう」とのべた。最後に先方は「この会談はなかったことにしよう」といった。そして、毛沢東は立ち上がって歩きながら「さあ、これで双方とも身が軽くなった。お互いに荷物をおろしたから」とつぶやいた。 毛沢東は二日目の会談ではわずかしか話さず、ニコリともしなかったが、それでも私たちが毛沢東邸を出るときには、玄関まで来て、私たちが自動車に乗るのを見送った。 私たちはその日、飛行機で広州に行った。広州の人たちは、私たちが毛沢東に会ったが共同コミュニケは出なかったということで、両党関係になにか起こっているということを感じて、ショックを受けたようだった。予定されていた大規模な宴会も、全部とりやめになった。 文化大革命を号令した日だった 日本に帰ってから私たちは、先方が「なかったことにしよう」といったことも考慮して、約束したわけではなかったが、この会談については沈黙を守っていた。しかしその後、北京の「紅衛兵」の新聞が会談内容をゆがめて攻撃し、さらに岩村三千夫などが趙安博から聞いた話として、大変ゆがめた内容を伝えたので、私たちはその範囲内で必要な反撃をくわえた。 その後判明したことだが、私たちの会談の第一日、三月二十八日という日は、毛沢東があの「文化大革命」の“引き金”となったあの有名な指示――「私は地方にむほんを呼びかけ、中央に進攻することを呼びかける。各地は多くの孫悟空を輩出させ、天宮に攻めいるべきだ」という指示を出した日となっている。毛沢東が修正案のなかに、党内闘争にかんする規定をもち出した歴史的背景は、明白となった。(<(週刊朝日の)編集部注>参照) それから十一年の歳月がたった。私たちが中国で会談した多くの人びとの身の上にも、有為転変があったようだ。周恩来、毛沢東も天界に去った。私はこの会談について、当事者としての判定を、改めてここに書きつけようとは思わない。ただその後の二つのできごとに、私の関心はそそがれた。 第一は、中国共産党指導部はその後、一九七一年六月にルーマニア共産党と、七一年十一月、七三年六月にベトナム労働党と、最近では一九七五年四月に朝鮮労働党と、それぞれ会談したが、どの共同コミュニケのなかにも反米反ソの主張は書き込まれなかったことである。 第二は、私たちの三カ国訪問の最大の主題であった、アメリカの侵略にたいするベトナム人民の解放闘争は、二年前にアメリカの全面撤退という完全な、世界史的な勝利をかちとったことである。私たちの重視した国際的な反帝統一戦線は、形の上では実現しなかったが、この間事実上世界の社会主義国、反帝勢力、すべての共産主義者の党が、それぞれベトナム人民を支援するという立場を表明した。そして、ベトナム人民の賢明で自主的な偉大なたたかいを土台に、アジアの歴史は大きく書きかえられた。 会談で毛沢東も、また機会があれば話し合えるといっていたように、両党間の意見の不一致は、両党関係断絶を少しも意味しなかった。しかし、その後遺憾ながら、日本共産党の中国駐在の中央委員や赤旗特派員らにくわえられた北京での集団暴行、日本共産党の路線への攻撃と干渉、中国追随の分派活動で党から除名された者への支持などが相つぎ、両党関係は断絶して久しい。 十年に及ぶこの断絶の機関は、短くはないが、しかし両党が生まれてからの長い友好の歳月から見れば、一期間に過ぎない。共産主義運動、社会主義国の誕生以来の歳月も、人間の寿命にくらべれば短くはないが、長い人類の歴史から見れば一瞬である。それぞれの国の人びとが、最善と思う道を探求しているが、歴史の検証はゆっくり待とう。 (週刊朝日 昭和52年6月24日号) (週刊朝日の)編集部注 <五〇年分裂と中国> 一九五〇年一月六日コミンフォルム機関紙は、「日本の情勢について」と題する論文のなかで、日本共産党の「占領下平和革命路線」は、「帝国主義占領者美化の理論」であり、「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない」と、日本共産党を激しく非難し、党内は大混乱となった。 徳田書記長を主流とする党政治局会議は志賀義男、宮本顕治ら「論評」受け入れ派の意見をしりぞけ、非難は日本の人民大衆として受け入れがたいとする「所感」を発表した。 しかし、やがて、「所感」の態度はまったく嘆かわしいと批評した「人民日報」社説の内容が伝えられ、徳田らは「論評」の受け入れを認めることになる。これを契機に、日本共産党は、分裂、大きな痛手を受けた。 <上海と文化大革命> 前年の六五年十一月、上海で姚文元の「『海瑞、官をやめる』を評す」が発表され、上海を中心に着々と文革の準備がすすめられていたが、この会談直後、毛主席や上海グループの動きがあわただしくなる。 一九六六年五月、毛沢東は半年ぶりに公式の場に姿を現し、上海でアルバニア党・政府代表団と会見、同年七月十六日には、五千人の人々の前で揚子江を泳いで見せた。「毛主席健在」をアピールしたのである。 このころ、毛沢東は、北京から遠ざけられて上海にいた、という説もあるが、宮本氏との会談での「毛語録」は、劉少奇・鄧小平勢力の強い北京、毛沢東を中心とした上海――といった文革直前の中国の雰囲気を伝えている。宮本氏らを前に演説した彭真は、その二ヵ月後に失脚した。
2018/03/28(水) 06:18:02 |
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古本屋通信 No 3207 2018年 03月28日 佐川証人喚問 = 永田町の予定調和 予定調和とは、世界の秩序は、あらかじめ神が定めた結果だとする学説 私は当初から一貫して疑獄事件に関心が薄いが、それでも佐川とやらの証人喚問を一瞥した。すべて予定調和である。初めから分かりきった結論だ。さらに安倍夫人が喚問される可能性はないが、仮にあって安倍退陣ということになったとして、それがどうしたというのか。日本独占資本もアメリカ親分も、痛くも痒くもない。首をスゲ替えるだけである。かつてロッキードありき、田中角栄の7奉行の一人小沢一郎は今も健在である。疑獄事件が政治を根本から変えることはありえない。政局は政治ではなく、しばしば政治の本質から目を背けさせる茶番である。 いま日本の不幸を打開する道は、日米安保条約を廃棄し、日本の真の独立を勝ちとる道以外にない。それを領導する前衛党が日本に存在しないことが日本人民の不幸なのだ。日本共産党を一日も早く正常に戻し、日本革命の達成にむけて再建することが急務である。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。 以下、余談。 有田芳生 認証済みアカウント @aritayoshifu · 11 時間11 時間前 明日の予算委員会締めくくり質疑で「日朝首脳会談の可能性と拉致問題」を質問します。「片道3分」ですから答弁をふくめると約10分。公文書改ざん問題から目をそらすための日朝首脳会談構想。実現にはリスクが多く、高いハードルがあります。参議院の立憲民主党が増えないと質問時間が少ないのです。 古本屋通信 いちいち引用しないが、有田のツイッターには、糞ネトウヨがまぶれ付く。その中には、有田が朝鮮のスパイだと云うデタラメさえも混じっている。有田も名誉なことだが、有り得ない。有田が朝鮮の意を受けて日本で暗躍している? 万に一つもない。有田は日本の国家権力のスパイである。二重スパイではない。 有田はそもそも拉致をデッチ上げるために横田夫妻に取り入った最悪のスパイ分子である。だが自分の政治的野心を先行させ、夫妻から借りた横田めぐみさんの孫の写真を週刊誌に売った。そのため夫妻の逆鱗に触れ、反朝鮮の急先鋒の位置を喪失した。有田が反朝鮮のスパイ分子 であることは昔も今も微動だにしない。 しかし有田は不思議な男である。私がもっとも頻繁にツイッターを覗く男は彼である。じつに精力的にツイートしている。すでに見たように、そのかなりは架空とデマである。それにしてもタフである。 有田に就いて、どうしても指摘しておきたいことがある。いま立憲民主党員である。しかし何党の時代であれ、この男はまったく同志から信用されていない。疑う者はよく見たらよい。有田はじつに多くの同志をヨイショする。同志だけではなく共産党員をもヨイショする。だが双方向のヨイショがまったくない。枝野やれんほうの口から有田の名前だ出ることはない。共産党員はもちろん有田を避ける。何のことはない、有田がスパイであることを、皆さんはウスウス御存知なのだ。 然しこの一匹狼のスパイを軽視してはならない。要所のポイントはちゃんと押さえているのだ。上記の 「公文書改ざん問題から目をそらすための日朝首脳会談構想 」 は正解である。日朝会談など有り得ない。拉致が存在しないのだから有り得ないのだが、有田にとって拉致の存在は前提になっている。誤魔化されてはならない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ブル新聞は佐川証人喚問一色だが、その中で比較的急所を衝いたのは、またしても極右の産経だったろう、面白いね。 【佐川氏証人喚問】 野党、誤算と裏目で空振り…籠池被告接見も負のイメージに 参院予算委員会の佐川宣寿前国税庁長官の証人喚問で質問する立憲民主党の福山哲郎幹事長=27日午前、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影) 佐川宣寿前国税庁長官への証人喚問は、政権追及の好機とみていた野党にとって実りの少ない結果に終わった。 「あなたは火に油を注いだ」。立憲民主党の福山哲郎幹事長は27日の参院予算委員会で、怒りに満ちた言葉で質問を締めくくった。「事実を解明する場」(福山氏)とは程遠い喚問に終わったからだ。 だが、「誤算」はそもそも喚問の前に生じていた。 立憲民主、希望、民進など6野党の議員は23日と26日、大阪拘置所(大阪市)に出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、籠池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見した。喚問を前に追及の材料になる証言を得ようという狙いだった。 しかし、新味のある発言を聴取できなかっただけでなく、与党側に「詐欺事件で勾留されている籠池被告との接見によって、どのような真相が明らかになるのか」という反論の余地を与えてしまった。 接見後に議員がテレビカメラの前でやり取りを紹介する様子は「籠池被告とタッグを組む野党」という負のイメージを流布し、追及の矛先を確実に鈍らせた。「嘘はアカン」。籠池被告のこんな発言を笑顔で披露した社民党の福島瑞穂副党首に至っては、もはやブラックジョークだ。 それでも、接見の成果を証人喚問に生かすことができればまだ救いはあった。 23日の接見後、記者から「喚問に備え『隠し玉』があるか」と問われた希望の党の今井雅人国対委員長代理は「あります」と胸を張った。しかし、27日の喚問でそれらしき「玉」を繰り出すことはなかった。 「何ら隠し玉が出てこなかった。接見がパフォーマンスであるという証明だ。日本維新の会の馬場伸幸幹事長は27日の記者会見で冷ややかに語った。 (松本学)
2018/03/28(水) 02:59:13 |
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古本屋通信 No 3206 2018年 03月27日 現代革命論争資料蒐集 (その2) 革共同中央派の反撃 資料としての転載です。新左翼党派とそこから離脱した個人に対する私のスタンスを一言。実効支配している党派の優位を認めたうえで、離脱者がなお革命をめざす個人として言論活動を続けるならば、それは他党派の内部問題と見做し、双方に等しく共感を寄せるということです。私が最も憎悪するのは直前に紹介したエセ宗教者のような輩です(古本屋通信 )。 《当サイト管理者から》 『革共同政治局の敗北』(2015年5月刊)に対する革共同側からの反駁のキャンペーンが続いている。それにしてもこの種の領域で『前進』編集局声明というのもめずらしい。中味は一歩踏み込んだものとなっている。とくに『革共同政治局の敗北』が初めて詳しく明らかにした1990年10月の清水=中野密約(同書第10章第1節)を中央派の側から認めた内容となっていると指摘されている点は、興味深い。また「岩本」という名は掲げられているものの、批判の対象は基本的に岸氏と水谷氏にすえられている。革共同内で「なぜ岩本慎三郎氏も、なのか」という疑問と不信が起こっていると言われている。 血債主義で5月テーゼに全面敵対 必ずスパイ岸・水谷・岩本打倒する 『前進』編集局 『前進』 2684号 (2015年6月8日) 闘いの前進に追い詰められて権力の懐へ 韓国・民主労総のゼネスト、沖縄の全島ゼネスト情勢をはじめ、全世界でゼネストとゼネスト情勢が日々成長している。そのただ中で革共同は、2010年代中期階級決戦を国鉄決戦を基軸に闘いぬいている。1~5月の国鉄決戦や沖縄闘争をはじめ闘いの画期的な前進が、日本階級闘争の新しい地平を開き、動労総連合の全国的建設と労働組合の拠点建設へ驀進(ばくしん)している。 この革共同の嵐のような前進が岸、水谷、岩本ら脱落転向分子に革命の恐怖を与え、追い詰められた彼らはついに権力の懐に飛び込み、極悪のスパイ本の発行に及んだ。 最大・最悪のスパイと化した岸は、スパイ本で「革命は……現実的には可能性は薄いと実感」などと本音を漏らし、自らが革命運動にまぎれ込んだ投機分子だったことを告白し、水谷は別の転向本【註 川上徹著『戦後左翼たちの誕生と衰亡―10人からの聞き取り』を指す】で、党を除名されて以降「党を離れて共産主義者でいられるのか」などと「悩ん」で、「それでもやれる道をみつけた」と言う。その「道」こそ権力の最大のスパイになることだったのだ。 彼らが「自己批判」と称しつつ書きなぐったものは、清水丈夫議長と動労千葉の故中野洋同志への悪罵と憎悪、革共同政治局員として知りえた党の「内情」を暴露するかのようなデッチあげの数々だった。国家権力中枢が最も知りたがっているものを、うそと推測と脚色を交えてデッチあげ、権力に差し出したのである。これは世界の革命運動でもかつてない最大・最悪の犯罪行為、スパイ行為だ。革共同の潰滅を狙う権力にくみする、恥ずべき行為だ。革共同と労働者階級は断じて許さない。 岸や水谷は、06~08年の「党の革命」で与田らとともに労働者によって打倒され、革共同からたたき出された。マルクス主義に敵対し、除名後に彼らに残ったものは、革共同と動労千葉への憎悪と敵対だけだった。 そして『現代革命への挑戦』上下巻が発刊されたことが彼らに追い討ちをかけた。その革命的な歴史と総括と新たな挑戦の中味が、岸や水谷らに突き刺さり、打ちのめした。脱落転向分子はこれで再度、粉砕・打倒され、遂に権力の恥ずべき最大のスパイに成り果てた。徹底的な粉砕と打倒あるのみだ。 中野同志と動労千葉への一貫した憎悪 岸、水谷、岩本らは、革共同の5月テーゼに、一貫して反対し敵対してきた。 91年の革共同の5月テーゼは、20年間におよぶ対カクマル戦争の勝利と、動労千葉の闘いの歴史的地平の上に提起された。それは「労働者の中へ」の実践と階級的労働運動を柱とする党のあり方への大転換を打ち出した。 この党の転換を清水議長に提起し、その後も主導したのが中野同志であった。動労千葉は、権力・資本とカクマル・松崎の動労千葉解体攻撃をはね返し、国鉄分割・民営化に反撃して85~86年に2波のストライキを打ちぬき、労働組合の団結を守りぬいた。そして階級的労働運動の原型をつくりあげた。この闘いを抜きにして5月テーゼはなかった。 中野同志は5月テーゼと一体のものとして、与田や岸や水谷らの血債主義を打倒・止揚することを訴え、またマルクス主義青年労働者同盟の創成を提案してきた。この実践が今日の革共同の骨格をつくったのだ。だから極悪のスパイ分子どもは、動労千葉と動労千葉を指導する中野同志を忌み嫌い、憎しみをつのらせた。そこには労働運動と革命運動についての根本的な対立があった。 中野同志は、自らの政治生命をかけ階級的労働運動路線を提起した。労働者の自己解放的決起であり、プロレタリア独裁【註 中野氏ら労働者が党の体制と路線を「独裁」するという意味。権力奪取して樹立されるべきプロレタリア独裁のことではない】への要求であり、マルクス主義をよみがえらせよという提起だった。日本革命に勝利する党、真の労働者党への飛躍をかけた決起であった。 スパイ本は5月テーゼに「クーデターだ」「動労千葉支援に党を利用する政治的利用主義だ」などと敵対している。彼らの革共同からの脱落・変質・転向は極まった。 労働者蔑視しマルクス主義と革命を否定 血債主義は「労働者蔑視の思想」であり、労働者階級への絶望を組織するものである。労働者は差別主義・排外主義にまみれ、それを克服しない限り革命の主体たりえないという、マルクス主義否定のイデオロギーだ。 中野同志は、マルクス主義について語っている。「マルクスという人は、労働者という存在をみすぼらしい存在じゃなくて、素晴らしいものなのだと……初めて認めた」「今の資本主義社会で、世の中を動かしているのは企業じゃなくて、労働者が動かしている」「したがって世の中を変革する力を持っているのは労働者だけだ」「労働者は、常に搾取され、抑圧される労働過程の中にいる。だから実感としてわかる」(『甦る労働組合』)。 この労働者自己解放闘争の土台の上に動労千葉労働運動、階級的労働運動路線がある。労働者階級にとって資本と闘う基礎的な団結形態が労働組合である。労働組合で資本と非和解的に闘い階級的団結を固め、自己をプロレタリア革命を担う階級として形成していく。そしてプロレタリア革命のための党を、労働者階級の最高の団結形態として労働組合運動を通して建設していく。 中野同志は、革命に向け党と労働組合を一体的に建設していくことを実践した。党の時代認識と路線を真っ向から労働組合に提起し、一致をかちとり、実践していった。こうして労働組合はゼネスト、ソビエト形成、プロレタリア独裁の水路となり、土台となる。単なる戦闘的労働運動は、プロレタリア革命をめざして闘う階級的労働運動ではない。 だが血債主義は「党と労働組合の一体的建設」を「政治的利用主義」と一蹴した。体制内労働運動であると自認したのだ。 「党の革命」で労働者に打倒された水谷ら 差別との闘いについて中野同志は語っている。「『労働者は差別者だ』というところから問題を立てたら、何も解決しない」「労働者として団結するということを基本にすえて、そこから差別問題を解決していくという立場に立たなければならない」(同) そもそも血債主義は70年「7・7自己批判」とは縁もゆかりもない。「7・7自己批判」は日本と中国の労働者階級の国際主義とプロレタリア革命の路線としてある。日本の労働者階級を日本革命の主体として位置づけるものであった。また日韓米を柱とする国際連帯が動労千葉によって圧倒的に前進していることは誰もが認めている。血債主義は血債主義者によって、動労千葉への憎悪・敵対を組織するものに集約されていったのだ。 5月テーゼ路線の飛躍的前進をかちとるために03年に「新指導路線」が出された。スパイ本は「これもクーデターだった」と非難しているがまったく問題にならない。「新指導路線」で階級的労働運動と労働者細胞建設を基軸にすえること、マルクス主義青年労働者同盟の建設の闘いを開始することが決まった。これが「党の革命」の決定的な動力になった。 03年に結成されたマル青労同は、労働運動の実践とマルクス主義の学習を2本柱にして活動を開始した。そして06~08年の「党の革命」で、5月テーゼ反対派、血債主義派に対する労働者の決起が始まった。それは「連合党」「戦線の党」ではなく、「労働者の党」「労働者階級の単一の党」「労働運動ができる党」を求めた闘いそのものだった。 「党の革命」から9年、革共同は動労千葉、動労水戸を先頭に国鉄決戦を基軸にして、あらゆる面で大前進している。さらに何よりも動労総連合の全国的建設の推進、労働組合の拠点建設に勝利し、ゼネストとプロレタリア革命を切り開くために闘いぬこう。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 《当サイト管理者から》 『前進』では毎号毎号、『革共同政治局の敗北』に対する反駁キャンペーンを張っている。中央労働者組織委員会(WOB)声明が同2685号に掲載された。ここでは同書が明らかにした一連の事実に対して「デッチあげ」「デマ」「脚色」「歪曲」という批判がまったくなく、むしろ事実を認めているのが特徴である。「スパイ」規定を説明しなければならないために「事実を権力に売った」とする必要があったのであろう。だが、そこでの一つひとつの事実を認めるとなると、せっかく出した『革共同50年史』が崩れてしまう。革共同・中央派が大変なディレンマを抱えてしまった様子が、WOB声明によく現われている。「スパイ」規定よりも「小ブル」「日和見主義」といった批判の方が前面に出ており、いかにも自信なげである。【 】内は管理者の註。 労働者に打倒されて最悪のスパイに転落した岸・水谷・岩本を絶対許さぬ 革共同中央労働者組織委員会 『前進』 2685号 (2015年6月15日) 革命党破壊狙う卑劣な攻撃に必ず勝利する! 世界大恐慌の深まりと新自由主義の破綻が、搾取と戦争、大失業と非正規雇用化、原発と基地の強制、治安弾圧の強化に転化し、日帝ブルジョアジーと労働者階級人民の非和解的対立が日々激化している。 革共同は、すべての労働者階級人民の怒りと利益を体現し、この死闘的攻防を動労総連合建設を基軸とする階級的労働運動路線を貫いて決定的に勝利し抜いている。戦争か革命かをかけた階級決戦を、東京・全国における党と労働組合の一体的建設の闘いとして進めている。 安倍政権の「戦争と非正規雇用化による命と生活の破壊」に対し、労働者階級の闘いを軸とする全人民的反撃を訴え、ゼネストを提起し、プロレタリア革命の道を不退転に突き進んでいるのがわが革共同だ。 労働者階級の怒りがひとつになることを恐れ、その団結の要である革命党破壊のために卑劣な攻撃をしかけているのが日帝国家権力であり、その支配から利益を得ている全政治勢力である。革共同は、動労総連合の闘いを基軸とする階級的労働組合建設を水路に、沖縄、福島、広島・長崎、三里塚、在日・滞日、障害者、女性、兵士などすべての人々の怒りと闘いを急速にひとつにしている。この党と労働者階級の闘いの前進と、史上最悪の原発事故と日帝経済破滅の危機という二つの「メルトダウン」にのたうち回り、ぶざまな延命のために「内と外の戦争」に打って出ているのが日帝・安倍だ。日帝にとって、革命党破壊は至上命題になっている。戦争法案の閣議決定と国会審議の過程は、日帝の治安政策の根本的転換を伴っているのである。 革共同は不屈・非転向の星野文昭同志を先頭に、全同志が完全黙秘・非転向を貫くことで国家権力との死闘の最前線で勝利し抜いてきた。それこそが労働者大衆の、わが党に対する信頼の土台であり、国家権力を根底から打ち破る力なのだ。この党への信頼を傷つけ解体すること、今やそこに国家権力のすべての反動が集中している。 日帝は戦前の日本共産党を壊滅させたように、革共同とその運動の中に「内通者」をつくることで内部から不信を生み出し、同時に「もっともらしい日和見主義」を忍び込ませることで変質・解体することを狙っている。絶対反対の闘争を通じて生み出される階級的団結に基づく完黙・非転向の闘いとその勝利こそ、革命党としての階級的到達地平の核心である。これに追い詰められた国家権力は、日和見主義的反動分子をスパイ化して党の解体を図ることを基本手段にしている。ここに、ゼネストとプロレタリア革命の時代の核心的攻防点があることをはっきり見据えよう。 労働者指導部を憎悪し攻撃する小ブル反革命 労働者党員を先頭とした「党の革命」に反対し自己批判できずに打倒された岸・水谷・岩本は、革命的労働者党の破壊のために、『革共同政治局の敗北』なる反革命本を出版した。彼らは、自分たちが労働者党員に打倒されたという階級的真実を見据え謙虚に自己批判することもできないプチブル(小ブルジョア)に過ぎない。ブルジョア的「権力闘争史観」で党の歴史を歪曲するこのような出版物が、現在の党と労働者階級に影響を与える余地は1ミリもない。 問題は、彼らが労働者階級そのものとして打ち立つ革共同の解体を公然と呼びかけ、旧指導部時代の党内情報を公然と敵に売ったことにあるのだ。彼らは、国家権力と反動に情報を売り、労働者指導部を中心とする党中央の破壊を呼びかけているのである。その悪質さにおいてかつて類例のない、反革命スパイ行為に手を染めたのだ。この反革命分子を、革共同と中央労働者組織委員会は絶対に許さない。 第一に、彼らは現在の革共同を「中央派」と勝手に規定し、彼らとともに打倒された「関西派」をも批判するふりをしながら自分たちを「左派」だと規定している。 まさにこういう規定からして、漫画的で初めからずれている。体制内勢力は、左派であれ右派であれ、労働者階級に依拠できないならば反革命でしかない。だから、かつての歴史を物知り顔に語りながら、その歴史を踏まえて、自分たちが今どう闘い革命に向かうのかという提起は一切ない。プロレタリア革命から完全に脱落したところから「中央派」打倒を呼びかけているのである。 第二に、彼らにとっては、革共同の歴史も、ブルジョア政党やスターリン主義政党同様の「権力闘争の歴史」としてしか描くことができない。労働者階級不在の「判断の誤り論」であり、革共同が日本労働者階級自身の歴史として「50年史」を総括し抜いたことに、根底から打撃を受けている。この没階級性ゆえに自分たちが労働者党員に打倒されたことが今もって分かっていない。 だから彼らは、労働者指導部である中野洋同志をはじめ、大原【武史】同志、松岡【松丘(静司)のまちがい】同志に憎しみを集中している。中野同志が「分派活動」をしていたかのように歪曲し、それに対して「(関西派の)与田を抱えた左派」が路線闘争を構えられずに敗北したというのである。そして、階級的労働運動路線を「動労千葉特化論」の右翼的路線として攻撃しているのだ。 中野同志は、彼らが描くような陳腐な権力主義者などではない。労働者階級と現場労働者をとことん信頼し、党と労働組合の一体的建設でプロレタリア革命の現実性を切り開き続けた希有(けう)な指導者である。まさにその点において、カクマル・松崎明を終生圧倒し、その支配の崩壊を生み出し続けたのである。 革共同の大多数の労働者党員と指導部は、動労千葉と中野同志がいるからこそ革共同を選択してきた。清水議長、そして天田書記長も、中野同志を革共同が生み出した最高の労働者指導部として尊敬し、団結してきたのだ。岸・水谷・岩本には、それが自分たちへの「背信」だというのだ。これは岸・水谷・岩本自身が、金銭的にも対権力的にも腐敗した与田とともに分派闘争を展開していたことを自己暴露しているのである。 そもそも、プロレタリア革命党が労働者とその党指導部を否定して、どのような路線闘争が成立するというのか。かつて彼らが書いてきた論文と同様、無内容の極みだ。労働者と党員に忌み嫌われ続け、みじめに破産した姿がここにある。 労働者階級に血債主義で敵対し完黙も解体へ 第三に、自分たちが打倒された「党の革命」をテロと規定するために、革共同の歴史を「テロの歴史」として描きあげて解体を呼びかけている。 しかし、最高指導部という責任ある地位にあるものが、労働者党員には際限ない命がけの献身を要求し、その拠金で腐敗した生活をおくり、それを「血債主義」で正当化してきたことに労働者党員の怒りが爆発するのはあまりにも当然のことである。労働者の信頼と団結を裏切った者が、厳しい鉄拳(てっけん)制裁を受けるのは当たり前だ。ましてその最高の団結体である革命党を裏切ったことは万死に値する。 こうした党と労働者階級の闘いを「テロ」と規定するのは、安倍とまったく同じ立場に立ったということである。 第四に、労働者階級の団結した闘争に「血債主義」を対置することで、権力との完全黙秘の闘いの解体を狙っている。 打倒された塩川一派の「完黙するかどうかはケースバイケース」論とまったく同根の主張であり、労働者階級の上に党と常任指導部を置き支配する思惑から来ている。“労働者階級には戦争に加担し差別してきた「血債」があるから、被抑圧民族や被差別人民に完黙・非転向を求めてはならない”というのだ。スターリン主義を免罪し、労働者階級の団結を破壊し絶対反対の闘いを根本からねじ曲げる考え方だ。 その結論は、「革命党」を名乗る体制内改良主義であり、日和見主義と転向の正当化に他ならない。だから70年闘争を語りながら星野同志の不屈・非転向の闘いにまったく触れられない。 彼らの主張と逆に、5月沖縄闘争で圧倒的に示された事実は、星野同志の闘いを軸とする労働者階級の絶対反対の闘いが生み出す団結こそが、沖縄の人びとの根底的信頼を深く獲得していくということである。すべての人民を労働者階級とともにひとつに団結させる根本的力が、完黙・非転向の闘いにあるのだ。彼らの小ブル日和見主義は現実において粉みじんに粉砕されている。労働者階級の絶対反対の闘いから生み出される階級的団結は、ブルジョア国家権力に対する完全黙秘・非転向の闘いにおいて究極の勝利を切り開いていく。その解体こそ、彼らの役割なのである。 非合法・非公然の党の解体をスパイ本は狙う 第五に、そこから来る結論は非合法・非公然の党の解体であり、清水議長の売り渡しである。 戦争か革命かをめぐる最先端の攻防は、革命党のガラス張り化であり一網打尽を狙う攻撃との闘いにある。非合法・非公然体制は、労働者階級と革命の防衛そのものである。だからこそ国家権力はその全容解明と解体に全力をかけるのだ。非合法・非公然体制を守りぬく同志たちは、最も厳しい前線で日々勝利を重ねている。その同志たちを一顧だにしないどころか「50年たっても革命ができない党はやめるべき」「清水議長は顔を出せ」などと言い、自分たちが情報を売ることを正当化している。まさに国家権力の最悪の先兵・スパイになり果てたのだ。 第六に、彼らは「一人一人の中に革共同がある」と言う。まさに小ブル個人主義の極みだ。 党は、ブルジョアジーによる人間的共同性の根本的破壊に対し、労働者階級の団結した闘争を通して現代社会を根本から打ち立て直そうとしている。したがって階級の団結に立たない個人の中に革共同は存在しない。個の実現とは、共同性の責任との矛盾的緊張関係の統一の過程としてある。 人間的共同性から疎外され自分を特別な個としてしか認識できない傲慢(ごうまん)な存在に、人間としての真の輝きが訪れることはない。 青年労働者と学生は革共同に結集し闘おう 岸・水谷・岩本らの対極に『前進』2682号(5月25日付)に掲載された青年労働者の革共同加盟宣言がある。 新自由主義によってすべての希望を奪われ、死の淵まで行き、さらに共産党にも失望した青年労働者が、ついに自分が求めていた党に巡り合い輝いている。その深い感動と決意が、万人の胸を打つ。しかも彼だけではない。あらゆる職場、地域、戦線ですさまじい苦闘を重ねてきた人々が、革共同に巡り合い根底的決起を始めている。ここにゼネストとプロレタリア革命の現実性があり、革共同の存在を媒介にして、日々その情勢が主体的に生み出されている。この革共同に、岸・水谷・岩本のような転向スパイ分子がつけ入る余地は1ミリもない。 わが革共同は、労働者階級そのものである。革共同は、労働者階級人民の信頼を絶対に裏切らない。とりわけ絶望の淵にある青年の生きかつ闘う希望となり、プロレタリア世界革命の巨大な勝利の展望を示す。それが動労総連合の全国的建設を基軸とする階級的労働運動路線である。その革命的貫徹によって、何よりも青年労働者と学生を革命の指導部として建設していく。 日帝国家権力は震え上がり、破壊のために激しく暗躍し始めている。しかし、権力とその手先、岸・水谷・岩本の卑劣な願望とは逆に、革共同は不退転でその世界史的任務に邁進(まいしん)する! 革共同中央労働者組織委員会はその最先頭でたたかう。すべての青年は、君たちの党=革共同に結集して闘おう! 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 《当サイト管理者から》 革共同・中央派は2013年5月、荒川碩哉を権力スパイとして摘発、査問にかけた(5月8日摘発から6月4日荒川逃亡まで)。その査問での荒川の自白にもとづいて「荒川自白文書」が作成された。それは党本部である前進社で閲覧に付されたが、コピー禁止、持ち出し禁止とされていた。そのため、同文書の抜き書きが作成され、限定された範囲で共有されていた。この度、その抜き書きが当サイト管理者の元に寄せられたので、掲載する。 荒川が自白している内容の記述については、語り言葉そのままであるため、抜き書き作成者によるかなり詳しい各種の註が入っている。また重要な部分には色マーカー塗りや赤字などの強調がされているが、とりあえずここでは太字、下線で示した。 荒川自白文書(抜き書き) 口述/荒川碩哉 memo 【〔〕内は、後から補ったもの。人物の固有名詞は原文に書かれていた通りで、本名、組織名などがランダムに不統一に使われ、間違いも含まれている。】 〔公安調査庁との最初の接触について〕 15年半の獄中生活の後に91年7月に戦列復帰した。43歳。 94年に一子をもうける。とたんに財政問題に直面した。 01年に〔公庁との〕最初の接触。〔集会の解散過程で〕上野で尾行に気づき鶯谷で電車を降りて誰何したところ、〔尾行してきたその男は〕「恐れ入りました。前進の読み方をお尋ねしたいのです」と応え、「権力か」と聞くと「お察しの通りです」。 「尾行するな」と言ってその時は終わり。 程なく2度目の接触があって、「お嬢様に何か買ってあげてください」と茶封筒を握らされ10万円が入っていた。 〔公庁は〕当時住んでいた都営住宅に訪ねてきた。「警察ではありません。法務省の者です」〔と自己紹介した。〕 〔最初の接触があったあと、定期的に密談をするまでに一気に関係が深まっていくのが、極めて不自然と思われるが、原文にもそれ以上のことは書かれていない。〕 その後の密談の場所。 品川プリンスホテル、高輪プリンスホテル、京王プラザホテル、などホテルの個室がある高級食堂〔で、そのつど場所を変えながら毎月定期的に会って、公庁に情報を渡した〕。 〔向こうから手渡された〕金は当初は月額10万。 担当者は01~05川俣、05~09森、09~13藤浪と3人交代〔それぞれがそう名乗った〕。 相手の〔最大の〕関心事項は、「〔NCは〕本当に労働運動一本で行くのか、ゲリラに戻るのか」ということだった。 さらに中野〔洋〕さんについて〔の情報〕、清水〔議長〕浮上説、病気説〔の真偽について〕。〔NCの各メンバーの〕脱落、処分、逃亡の事案〔などについては熱心に聞いてきた。〕 情報入路〔権力に話す情報を誰から仕入れていたのかというと〕 藤本〔部落解放戦線〕、川添〔PB〕、甘糟、関西の津山、仙台の東、〔などだったが〕 最大の情報源は中野洋、特に02~04年はそうだった。 05年に大動脈乖離で倒れた。内面もずたずただった。 相手〔公安調査庁の担当者〕は〔見舞いということで〕病院の外来にも現れて驚いた。 05年は〔自分は療養中ということで〕党との正式な接触はなく、06年から向山さん〔才谷、国労5・27臨大闘争弾圧被告〕と喫茶店でトーク〔をして基本会議の代わりとした〕。 3・14(党の革命)があり、〔自分は〕現場に身をおかぬまま事態は進行。 岩本〔慎三郎=筆名・杉田明〕、甘糟はこの時期重要な情報源になった。 〔岩本、甘糟との関係はどういうものだったのか、という問いに答えて〕 岩本と自宅で会ったことを坂木同志に追及されて4~5年音信不通だったが、13年1月に〔岩本と〕会った。 甘糟とは同じ病気療養中〔の身の上〕ということで、1~2カ月に1度会った。 〔甘糟から〕09年頃にフラクションをやりたいが出席しないかという誘いがあったが、断った。そこには今回の〔2013年、反中央フラクの件で処分された〕涌井〔=和久井、東京南部キャップ〕、広瀬らのメンバーがいた。 甘糟とは処分後2度会った。2回目に会ったときに大内文書〔髙木徹筆の資本論に関する文書〕を受け取った。 丸田だったと思うが「吉岡〔塩川派〕が会いたがっているが会う意思はあるか」と聞かれ、同志は裏切れないという気持ちで会うことはできなかった。 権力には情報交換するのに、党派性と同志としての信義は裏切れないという背反は説明が付かない。〔権力と密会してスパイ活動を行いながら、塩川派の人間と会うと同志たちとの信義を損なってしまうと考える自分は、明らかに矛盾しているが、なぜそうなのかということについて、自分では説明できない、という意味。〕 2010年に夏合宿の誘いを甘糟から受けた。参加者は丸田、中野清一、高田純子〔裕子の誤り〕、川浦、尾形、伊藤ほか。断った。中野清一の逝去で看取ったのも彼らだったと思う。 2011年〔に自分は〕ガンの発症、三度の手術。膀胱ガン。 権力〔公安調査庁の担当者〕にはガン発症の事実は言わず、会うのをやめようとしたが、「何も聞かないから。会うだけで十分だから」といわれ、〔定期的に会う関係を〕続けた。 12年の秋口に妻から財務諸表を突きつけられ、「なぜこんなに金があるのか」と追及された。妻は権力との関係を疑っていたが、「甘糟、岩本と会っていた」と弁解し、これを隠れ蓑にした。 05年までは自分も現役だったので原資料を担当者に渡した。 向こうがほしがったのは○○総会とかの基調報告。集会人数、発言者、主催者の総括。特に三里塚と11月集会〔について関心が高かった〕。 さらに労働運動全般、都労連、国鉄。韓国民主労総との結合に異常な注目。 〔NCが〕武装闘争〔路線に〕回帰〔すること〕はないのか〔という点については常に関心が高かった〕。 今にして思えばこの頃の私は自分の持つ情報量の豊富さに担当者や権力が目を白黒させながらメモを取っていたことに酔っていたのかも知れません。講義して謝礼を受け取るという感覚に近かった。 中野洋サイドと、藤本を通した川添サイドの情報をとらえて私見とし〔て公安調査庁に自分の分析・意見を述べ〕た。 藤本は71~72年からの隠れ家があり、岸〔川添〕らと組んで党内フラクを拡大しようという意思があり、草野〔与田、関西PB〕の意を受けて東京で動いていたのだと思う。 〔NCは動労千葉労働運動を前面に押し立て、労働運動基軸路線を推進していたが、これに川添、藤本、与田らが隠然と秘密フラクを形成し、対抗していた。荒川はその両方から得た情報を合わせて公安調査庁に流していた、ということ。〕 私はある時点で中野さんに与したので、藤本は私を組み込むことを諦めた。 このころの〔公安調査庁の担当者と会って交わす主な〕話題は、ゲリラ、非公然体制、本社移転、高井戸事務所(けしばがらみ)。 中野さん〔との関係について〕。〔中野洋さんから自分は、〕階級的労働運動の中軸に国鉄すえて労働運動を甦らせるとハッパをかけられて、私は信じた。権力との関係をしばし忘れるくらい。 〔この種の権力への「情報提供」と「お金」の魔力、そして「階級闘争に絶望した」後の中野路線は本質的に矛盾はなく両立するのだと思う。〕 〔奥村岳志(岡=元SOB議長、分裂後に塩川派から脱落)との関係はどういうものだったのかという問いに答えて〕 奥村とは東拘で重なっていたときに、資本論などで手紙のやりとりをしていた。 〔東工大のノンセクトグループとはどういうかかわりだったのかという問いに答えて〕 東工大グループとのかかわり。山根、石黒、田中。岩本が橋渡し。 〔東工大の活動家が主催する〕合宿に参加。東京の労働運動と石原都政について小一時間話す〔講演した〕。小田原紀夫とともに。 60人参加に衝撃。〔東工大グループのもとにこれだけ多くの学生活動家が参加していることに衝撃を受け、彼らを獲得すればNCのもとに学生運動のヘゲモニーをとれる、と思ったということ〕 〔東工大グループは首都圏と全国の大学のノンセクト勢力のセンター的な位置をもっており、一時期それがNCに接近し、全学連との共闘関係が成立していた。だが東工大グループは、NCとの交渉力をもってノンセクト学生運動を強権的に牛耳るという陰湿な体質を深め、権力の弾圧を契機に自壊していった。〕 その後〔東工大グループとの関係づくりは〕SOB指導に移り、〔自分は〕手を引いた。(担当山川) その後の〔東工大グループの〕分解過程は知らない。 〔自分は〕東交青年部にも関与。中野さんに指導され。これらも〔公安調査庁の〕担当者に一般論として話した。 2006~2012年 〔公安調査庁と〕何を話したか。世間話30分。自分は集会に出ておらず、向こうが話すことに感想を求められた。 流れ出ていた塩川派や水谷のサイトのコピーを受け取り、一部持って帰って、次回感想を言う〔というパターンで毎回会っていた〕。 金銭の授受は09年頃は1回10万円。そのほかに一時金と称してボーナス時に5~10万上乗せ。誕生日とか入学祝とかで2~3万別封筒をもらったことも。 09年から憲法研〔本社などで行われる数人規模のテーマ別の学習・研究会の一つ〕に入る。甘糟は百万署名事務局に入り、憲法研に。事前に彼から連絡で、親しそうにしないと口裏を合わせた。 中野清一とも時々〔会っていた〕。 椎名千恵子さん〔福島の反原発活動家〕とは仙台の八木同志からの連絡があり、「旧姓佐竹」の紹介があり、11月集会で40年ぶりに再会。佐竹明夫は早稲田二文でYだったことがあることを八木〔東北地方委〕に伝えた。 奥村が塩川派を離れて、相馬に移り住んだ〔ことを知った〕。 法大闘争については〔公安調査庁の〕担当者は異様に関心をもっていたが〔自分には〕前進以上の知見はなし。 吉岡〔塩川派〕が地下生活者の手記を出すと丸田から聞いて、「やめろ」と忠告した。湯本が自分史を出版するということを聞いたときもやめた方がいいと伝えた。 涌井フラクについて。 フラクをやることは甘糟から聞いていたが、メンバーは〔具体的に誰々なのかは〕尋ねていない。 彼〔甘糟〕が療養中に住んでいた古河の住居から〔反中央フラク活動の証拠となる〕文書を取られたとき〔甘糟から〕連絡があった。 私〔荒川〕に関する記載があるメモが含まれている可能性もあるかもしれないから、〔中央から〕追及されたらなんとかごまかしてくれと〔甘糟から電話で言われた〕。〔甘糟とは〕その後2度会っている。 〔甘糟が行っているフラクの〕路線上の問題では〔自分は〕違和感〔を感じた〕。支持する部分もあるが、組織的には問題がある。黙って引く人生もあると考えを〔甘糟に〕伝えた。このころはもっぱら自分の病状に関心。〔自分はこのフラクには直接かかわっていない、支持もしていない、という意味〕 体調を理由に〔公安調査庁との〕月2度の密談を1回に減らした。3月末には「今回限りにしたい」と切り出した。私も65歳。〔活動家として最前線への〕復帰はむずかしい。妻も退職間近。娘が大学に入り一定のめど。 〔公安調査庁の担当者は〕「上司に相談するので待ってくれ」と。「直接の上司が庁内調査を受けていて、異動がある」 新聞でどこかの局長の処分、辞職が書かれていた。(不正経理の問題。) 〔公安調査庁内部で不正が摘発され、組織問題として発覚し、担当者も焦っていた、ということ。〕 〔公安調査庁と〕最後に会ったのが4月24日。三里塚集会の記述などに言及。 金銭問題〔金銭・財政問題についての総括を求められて〕 95年までは定期カンパと家族の援助でやってきたが、93年に〔妻の〕出産のために荻窪にアパートを借りて、財政行き詰まる。 91年に出所すると父は〔遺産の〕相続権の放棄を迫った。それを飲んだ。 直後に父は遺言書を作成。次男〔荒川〕に対しては相続権を放棄する代償として金1億円を贈与するという一筆があったと後に知るが、兄によると金額が5千万、1千万、抹消と書き換えられていった。〔父の〕後妻によって。 兄が後妻に隠しながら、月々20万円くれた。これを現在の住居にあてた。 実母の遺産、換金性のある流動資産は3千万円くらい。これを生活費にあてた。自分が仕事につかなくてもよくなった。 都営住宅に当たって住居費は10万から3万に激減。96年頃。 権力から受け取った総額は2500万円くらいになる。 権力からの金の授受が始まったのは、困窮時ではなく、一定のめどがたってから。 金融にも少し手を出した。 両親の離婚後、母と名古屋の実家で母子家庭〔として生活した〕。経済的困窮〔を味わった〕。 学生運動時代の困窮。〔自分が活動を続けていくうえで財政問題での〕不安〔が募った〕。労働者の持つたくましさのない、学生あがりの常任の弱さか。 71年、国労高崎地本の専従書記の誘いに応募しようと相談したら、当時の地区委員長に「反革命!」と一蹴された。 中野洋さんにこのことを話したら、「だから革共同はだめなんだ」とさんざん諭された。 67年10・8羽田、佐世保を転戦。68年に〔高崎経済大学〕自治会の再建に集中した。 党の指導方針と自治会執行委の方針がぶつかり、自分は党籍を返上して自分の方針を貫いた。この時党へのゆがんだ考えをつくり出したかも。 もう一つのコア〔自分の腐敗・変質の原因となる核心点〕は獄中15年。11・14渋谷をやりきって獄中に入ったという感覚がない。指導部、指導上の敗北の結果、獄中生活を強いられた。15年はこれとの葛藤だった。 星野をふくめ7人の殺人罪での下獄、16人の逮捕起訴につながった。 群馬学生運動の壊滅。本来担うべき対カクマル戦を獄中に回避したとも言える。 星野が3年後に逮捕され、4年後に統一裁判に合流。統一方針の欠如、弁護団の混乱。 私は現場不在、実行行為なしだが、統一公判では現場指揮者実行行為で闘われているのです。 だから獄中闘争も、耐えたというのが現実で、学習に没頭して現実を見すえきれず、満期出所して自分的には決着した。 〔荒川は、星野同志とともに渋谷の闘いの輝けるシンボルとして獄中に送り出されたのだが、実は、自ら担っていない渋谷の現場現場責任者としての罪を着せられ、獄中では骨が折れてしまった状態だったということ。〕 〔自己批判〕 階級的裏切りと党破壊〔を自分は行ってしまった〕。 昨秋一端を暴かれ妻から追及〔された〕。〔だがその時は自らのスパイ活動をそのまま〕口に出せなかった。 〔今回それが暴かれたことで〕腐った自分を打倒する最後のチャンスを与えられた。〔妻に〕感謝する。自分を素直に表現できない。ごまかしてきた。 妻からの指弾を受け続ける。 〔彼のこのような表現は、当時党内において「自己批判すれば許され、活動家として復帰・再生できるかのような口調」として厳しく弾劾されながら、会議などで報告された。そして実際に彼は、査問が始まって一定期間(少なくとも1週間以上)を経た上で、もう一つの権力機関とのかかわりについてやっと自白し始めた。〕 内閣調査室とのかかわり。 最後まで秘匿し続けたかった今ひとつの権力機構との接触について〔以下に明らかにします〕。 94年に実父他界。後妻から688万の銀行振り込みあり。 その後兄、姉と3人で会う。兄、姉にくらべて〔自分、碩哉の〕相続が不均衡〔少ない〕で、姉は兄を「どうにかしてあげられなかったのか」と責めた。 当時労問研として労働問題の学習に励んでいた。 〔そのことを兄に話すと〕兄「そんな漠然としたことでは食っていけない。本当に調査や研究をやるつもりなら、誰か何とかならないか検討してみよう」〔と兄が言った。〕 後日、日比谷松本楼で〔兄から〕紹介された人物と会う。渡部と名乗り、立派な名刺。 銀座、新宿、などで一般的な学習対象の話をした。 会い始めて2~3カ月、母が倒れ逝去。 渡部は「みんなから集めた霊前だから」と120万円をくれた。「上司からお母様のことは十分に配慮するよう言われていたのに何一つして差し上げられないうちに突然の訃報。せめて受け取ってくれ」 最初の金銭の授受は「お母様の薬代にしてくれ」だった。 翌年自宅に招かれて、料理をごちそうになった。 村山政権の基盤などについて話をしていた。 〔兄から紹介された渡部というこの男が、内閣調査室の人間だったというわけだが、荒川はどの時点で渡部をそう認識し、自分が権力機構に情報を流しその対価として金を受け取るというスパイ活動を始めたのか、その点については原文にも具体的に書かれていない。また文書の冒頭では、権力=公安調査庁との最初の接触が01年とされていたが、それに先立って内閣調査室との接触が始まったことについては、何も言及していない。〕 〔以下、内調の担当者が列挙される〕 2人目の担当者は青山。体育会系の空手自慢。 転換点は3人目の高柳から。(99年頃から02か03年に血液癌で死ぬまで。) テーマは我々〔NC〕が既成労働運動とどうかかわりむすびつくのか。若手が同席。 一番の興味は中野洋さんとDC運動。松崎とJR総連との比較など。 〔内調は〕20労組などとの関わりにも興味〔を示した〕。 このころ〔自分は〕全労連、全労協、自治労本部、日教組、社民党などの人間と関係があった。 4人目の担当は山口(02~05) 自分の持っている情報量の豊かさと分析が事態を動かしているという実感。権力内抗争なども理解できた。 私と内閣官房調査室との距離が一番近かった時。 若手にレクチャーしている感覚。謝礼が跳ね上がった。 私見に過ぎませんが、〔権力は〕革共同(中核派)、革共同(カクマル)両派とも路線上の対立を抱えていて、分裂の可能性があるのではないか、もしあるなら、そこにくさびを撃つ込み、国鉄分割・民営化以来の難題を一挙に解決できるのではないか、そのように考えていたようなふしがあります。 〔この部分はほぼ原文どおり〕 5人目は月岡と名乗っていた。実名は違っていた。労働運動分析の専門家。 これに交代した直後〔自分は〕倒れて、のちに連絡を入れたら、お見舞いをもってきて、神社の境内で会った。 党の革命について、尋ねてきた。 09年に6人目の担当の山城。10年くらい前に同席していたこともあり「〔荒川の担当者となることを〕希望してきた。」と表明。沖縄出身。早稲田。内閣府の職員か。 沖縄についてよく議論。なぜ〔NCは〕知花〔昌一〕を切ったのかなど。 12年に現在の担当、中野に。 中心話題は50年史〔本の出版〕。武装闘争の記述、労働運動との整合はどう表すのかなど〔について関心を表した〕。 以下は〔荒川の〕私見。 中野洋さんの弱点をしらべ、革共同中央と中野さんDCとの間にくさびをうちこみ、あわよくば分裂、対立、不協和音をつくり出し、革共同を衰退させようと言う戦略があったのでは。これは完全に失敗したと思います。 〔この部分はほぼ原文どおり〕 〔スパイ荒川打倒の声明などで、Fにおいては「権力は動労千葉と党の分断を図ったが、完全に粉砕された」といった総括が繰り返し書かれているが、元をただせばこれはスパイ荒川自身の見解だったということになる。〕 〔尋問の内容は再び、一連の過程で党から追放されていった人々と荒川の関係を問いただす、という方に向けられていく。それに答えて、荒川は尋問者から提示された名前を挙げながら答えていく。〕 反革共同策動について〔自分とのかかわりを問われたので、以下に述べていく。〕 岩本に最近会ったのは1月に新宿で。反原発テントのことなど〔を話題にした〕。 岩本と岸、水谷とは接点がある。岸は党中枢の限られた人しか知らない文書を直に手に入れている。水谷はその点は〔そういうパイプは〕まったくない。 涌井フラクについてはかかわっているのは大きく言って岩本学校の生徒たち。 涌井フラク発覚後に最初の連絡〔最初に自分に連絡してきた人〕は甘糟だった。 私は涌井とはまったく面識はありません。連絡手段もない。 石丸〔金丸の誤り、EB〕、本間〔三里塚現闘〕についても接触はない。常盤、大河、大江、北山と名前が挙がっているが、集会であいさつなどしたが、直接連絡はない。 大江〔労対、月刊労働運動編集〕とはパンフ購読申し込みなど〔で連絡すること〕はあるが、本件とは関わりのない関わり。 〔反中央フラクのメンバー、さらにいわゆる組織建設委員会問題でやり玉に挙げられた人たちの固有名詞を出して、「関係を明らかにせよ」と尋問されたということ。〕 甘糟について 06年に党の革命。彼が〔病気で〕倒れ〔彼の活動が〕暇になると、彼と積極的に意見交換した。 泊まり込みで話すことも。年に1~2回佐久の中野清一宅などで。 全般的に討論。党への不満も。 09年にフラクをやりたいので出席しないかとの誘い〔を甘糟から受けた〕。涌井を中心、若年中心に場をつくる、と。病状を理由に断った。 路線的にはDC特化論はおかしく、反戦運動を推進すべきといった反中央の色を鮮明にしていった。 私は、新自由主義、最末期帝国主義論、恐慌、特に「世界恐慌を革命に」という私の理解を越える情勢論にとまどい、批判を述べた。 〔「甘糟とそういうやりとりをしていたということは、反党活動に加担したということではないのか」という尋問に答えるなら、〕甘糟とペーパーをやりとりしたことは、反党行為に加担したことになる。 「恐慌→革命」論、「侵略を内乱へ」との整合性、そこには戦争問題を巡る深刻な欠落があるのではないかと。 「ゼネスト→革命」ではなく、「ゼネスト→蜂起→革命」ではないか。〔そういう議論をした。〕 2回のうち1回は尾形も同席した。 涌井については、イストの国鉄論文を読んだ。吉野君は「彼が主筆で私は補筆」と〔言って和久井のことをほめていた〕。 岩本について。 「松本〔=岩本〕意見書」を出して党を離脱する前後に何回か会っている。 涌井フラクについては、発覚直後彼の逃亡を援助したのは南部の同志と聞いた。吉野、井上のどちらかか両名が宿泊場所を提供した。 涌井はいったん関西へ、石丸は京都の自宅へ、本間は逃避しないで意見書を書くとなり。 今年の甘糟との会話では、甘糟は水谷に相談、涌井は九州に、石丸は京都に、「長期戦のため兵站獲得しなくては持続できない」〔と甘糟が言った。〕 引き際ではないかとの私の話に甘糟は頷いていたが、「涌井がなあ~彼がやる気である以上、俺びびり逃亡するわけにはいかないだろう」〔と言った。〕 〔尋問者の意図は、荒川と反中央フラクとを強く関係付けようというものであることは明らかだが、それはあまり成功していない〕 溝の口病院の服部史雄とは11月集会の後方で会話、連絡先を確認。その後、〔自分は〕妻の追及受け連絡せず。 権力との会話の内容。 11月集会の動員が減ったのはなぜか。5・1独自メーデー。鈴コン。根津さん。全逓、銀座局。郡山工場橋本さん。郵政〔非正規〕ユニオン。〔これらのことについて会話した。〕 〔自民党・谷垣との関係への追及〕 谷垣禎一さん〔自民党元総裁〕について。 兄、姉は善意の人だと思っている。 兄の大学時代の同期同級同部同ゼミ、ともに司法試験をめざした。 兄宅で偶然お会いした時は財務大臣かなにかの要職。私のことをどこまで知っていたかはわからない。そういう話はしていない。 〔荒川はブログ・パンフの中で「私の部屋のガサで谷垣とのツーショット写真が出てきた」ことから追及を受けたと言う。確かに当時党内では、自民党トップとツーショット写真を取り、「谷垣さん」とさん付けにする荒川への弾劾が強調されていた。〕 〔自己批判〕 労働者階級への裏切り。この事実を痛苦に受けとめ一生背負っていく。 〔財政問題についての自分の反省〕 学生活動家時代、生活の基礎は両親の援助だった。 獄中から出て財政能力を個人として高めるしかないと考えていたが、常任費をもらってびっくりした。党からお金をもらうことなど想像していなかった。 個人の能力という考えは間違っていたと思う。 日本共産党の〔財政問題にかんする〕問題点。 〔具体的批判が書かれていたが、略。〕 〔このあたりになると、尋問する側のある種のネタ切れ状態が伝わってくる。すでに荒川の大きな罪状については自白を得た。その上で尋問側は「あれについて書け」「これについて見解を言ってみろ」と質問を追加し、迫るわけだが、荒川に日共批判など書かせてみても、あまり意味があるとは言えない。〕 〔さらに「自己批判を深めよ」というような尋問・追及だったのかどうか、荒川の筆は自分をそういう裏切り・スパイ行為に及ばせた党内事情の歴史的詳述へと向かっていく。この領域においては、党の内情暴露的な様相を呈して、書いている荒川のある種の「高揚感」のようなものまで伝わってくる。〕 裏切りに及んだ理由の今ひとつは、党のあり方、考え方、情勢判断、路線性に違和感をもったから。 5月の転換はスターリン主義崩壊情勢に対応した正しい判断だと今言えるが、そう断言した指導部は〔当時においては〕いなかった。91年の出所から何人かの指導部に会ったが、明確な解答なかった。〔それぞれ言うことがバラバラで〕「武装闘争へ回帰するためのいっときの時間稼ぎ」「財政破綻こそが5月テーゼの核心である」「動労千葉の脱落をくい止めるため」と言いきる指導部もいた。 〔そうした混沌とした状況の中で、ある時〕70年当時の学生指導部が奇跡的に一堂に会した。獄中から、裏から、地方から。誰もが70年-80年代の総括に大混乱していた。総括を提示できる人が自分も含めて誰もいなかった。結束していたのは党への忠誠心だけだった。 03年、中野さんは階級闘争に「絶望」に誓い感情をもったのではないか。1047名支援闘争を通してDC労働運動が復活するという〔中野さんの〕確信と展望が揺らいだ時だと思っている。 〔NC〕5回大会後、イデオロギーが階級の現場と別の所に存在していた。イデオロギー担当者の集まる会議で、自分以外は現場労働者と接触する者がいなかった。 〔自分は〕「新自由主義の概念を取り入れるべきではないか」など提起したが「わが党には新自由主義という概念はない」と一言で一蹴された。 公調の目的〔は何だったのか。〕 破壊活動防止法の適用団体に指定したときのための組織実態調査。 〔私と会う時、公調が〕私に質問するさいにカンペのようにのぞく、組織構成員ファイルがあった。議長、副議長、書記長、政治局員に始まり、地方委員会、県委員会、本社部局にいたるまで、氏名、経歴、本籍、現住所〔などが詳細に記載されていた〕。 19-20cc〔全国委員総会〕の時期、次期書記長ポストに川添擁立の動き〔があって、それ〕に私にも〔同調を求める〕声がかかった。折田さん〔深谷邦男〕か藤本だったか、堀内日出光も同様なこと〔川添を次期書記長に推薦〕を言っていた。 93年新年号をめぐり、清水さんが秋山論文を批判して〔秋山さんが〕失脚したと聞きました。事実はわかりません。 93-97〔年において〕政治局は機能停止し、いつどこでだれが決めたか分からない「裏からのペーパー」が権威をもち決定権があった。〔ペーパーの主は〕清水さん高木さんだと考えていた。 その過程で水谷、川添、草野、けしば、関西地方委員会、中国地方委員会、九州地方委員会のフラクが形成された。今思うに〔このフラクは〕中野洋労働運動路線反対ブロック〔という性格のものだった〕。 各地方委員会の実情〔はどういうものだったか〕 関西。草野、西島、遠山、高山〔これらが関西地方委の実権を握っていた。〕 中四。青島夫妻中心で、それに対し四国などの反発〔が存在していた。〕 九州は宇谷〔平田〕・尾上と酒井・和田が路線上の不和〔があった。〕 白井新党問題。 新党構成メンバーを記したメモが発覚して、尾形史人が書記長になる人事案があると藤本か甘糟から聞き、人に漏らしたところ、水谷に伝わり「誰から聞いたのか」と追及され「川添」と答えたことがある。「他言無用」と注意された。 〔権力は〕白井新党には強い関心を持っていた。「同調者はいるのか」 尾形に直接ただしたところ、「何度か会ったのは事実。法大の先輩後輩ということが最初。新党構想は知らない。白井が勝手に書いたもの。いかにもメモ魔の白井さんらしい」 これらのことも〔公調に〕当然話したと思う。 〔この「白井新党問題」についての記述が事実だったとして、これをまとめなおしてみると、白井朗(最古参PB、のちに自己批判を拒否して逃亡)が、どういう意図でか「新党」を構想し、その人事案を書いたものが、不用意に露呈して問題になった、ということ。これだけでは不明瞭としか言いようがない。〕 97年に政治局再建。〔政治局に〕中野さん、高山、草野が加わり画期をなした。直後から中野さんの愚痴が始まった。 「政治局会議に行きたくない」「話が通じない」「清水さんと話した方が早い」 このころ強烈な川添フラクが活発化していた。 私も藤本と会う機会が増えていた。千束のB研の部屋で。 やがて川添本人と神田で月一回会うことになり、これは坂木同志の忠告でやめました。 〔NC〕6回大会について。〔開催されたのは〕01年。 開催から4~5カ月たってから日時、場所もつかみ、〔そのことを権力に話すと〕質問責めにされた。発表された人事なども伝えた。 白井除名、規約改定、カクマル勝利宣言。 最大の関心は人事構成。 6T〔NC第6回大会で発表された人事は〕、議長清水 同代理高木、副議長中野、北小路 書記長天田。 〔政治局員は〕水谷、岸、草野、高山、天田純子、坂木、向山、奥村 岸書記長案はこれでつぶれた。新生革共同の息吹感じた。 〔天田〕書記長人事の実現には中野さんの推挙が大きいと伝え聞いた。岸フラクの蠢動は途絶えないが、いったんは中野・天田体制の確立〔がなされた〕。 2001年都議選前後で、候補者擁立をめぐりけしばと区議控え室で話した。学生時代からの関係がある。 〔候補者として〕長谷川さん、けしば、白崎、鎌田などの名をあげていた。「けしばチャンピオン論」で区議から都議に立つ経過も大体理解した。 〔自分は〕出所後10年、労対着任8年、自治労担当7年目にしてさまざまなパイプが形成された。 〔労組関連では〕都労連、東交、東京清掃、都庁職。 陸海空の主軸労組、全国港湾、全港湾、海員組合、全国自治体港湾協、村中日航、国労の日共(鈴木勉)。 カクマル東京の自治体労働者委員会が分解。中央市場で山田護拉致事件。再建会議の基調メモがすぐ手に入った。〔権力と会った時〕カクマル分析などひとしきり話す。重宝がられた。 岸フラクは政治局では多数だが、労働現場は交流センターを通して中野さんを代表に労働運動への傾斜論〔の方がまさっていた〕。盛んに党と労働組合の関係の論議になり、中野さんは労働学校など独自の教育養成学校をつくる。労働者の団結、ゼネスト、革命論〔などの議論が活性化した。〕 〔こうした中野路線は〕水谷・岸らの従来の革共同の「内戦・内乱――蜂起」論と衝突〔していった〕。「侵略を内乱へ」の綱領的路線の根拠は帝国主義間争闘戦、戦争の必然性論。 〔こうした反発に対して〕中野さんは「ゼネストも組織できずに革命なんかできるか」と一喝〔して労働運動路線を進めた〕。 03年6月全国WOBを前に中野さんは「一種のクーデターをする」と決意を語った。 政治局少数派が実体的路線を造るには、全国WOB〔会議〕に中央委員、地方責任者を呼んで、そこで路線をつくり、決定、それをもって新たな前進をはかるというもの。 呂嘉民〔ろかみん、中国のレーニン研究家〕の労働組合論学習で〔学習運動を進めることで〕、労働組合と党の関係の修復〔転換〕をはかった。 中野さんは労働運動、労働組合が党の下に見られ、職革が組合運動も知らぬのに組合を指導しようとしている、笑止千万!と怒っていた。 03年6月合同WOBは、関西、中四、九州を追及するという異様なもの。草野、宇谷は事前に察知して欠席。事情を知らずに代理できてたり、代わりに答弁に立った者は気の毒だった。 Fには「新指導路線」と唐突に出たが、読者には〔それが何のことか〕理解できなかった。 公調の担当者は理解し、庁内で〔NCの新指導路線とは何なのかについて〕説明したと得意がっていた。 岸フラクにとっては全国WOBで路線が決まるということは、許されざる事態だが、驚くほど腰砕けだった。公調はあわよくば分裂・分派にいたるチャンスと考えても不思議ではない。情報集めに奔走したはず。特に全国連はじめ戦線運動。 中野さんは次々に新方針を出した。 労働学校、マル青〔マルクス主義青年労働者同盟〕再建、四大産別〔重視〕、国際連帯〔11月集会に米韓の労組を招くなど〕、ランク&ファイル運動。 本社改編、現場オルグに動員。日の丸君が代〔不起立闘争〕、全逓ビラまき。 国労、及び国労闘争団とのかかわり 各闘争団との接触。 DCの国労祭への参加、2002年。 03年、DC訪米。民主労総来日。 中野さんは国労臨対闘争弾圧を目の当たりにして、国労への見方、スタンスを03年から変えたと思う。これが03年全国WOBへ。 国労に一切の期待を寄せなくなる。 解体〔「国労解体」スローガン〕だけではまずいので、「国労の解体的再生!」を発言。11月集会もにわかに「1万人集めて勝負しよう!」〔というスローガンになった。〕 画期的な11月集会。その過程で、私の〔担当する〕自治労も「新綱領不採択」〔となり〕、〔教労では〕10・27都教委〔による〕日の丸・君が代〔強制〕通達〔が出されるなどして、労働運動推進が活気づいた〕。 〔荒川は、中野顧問の名代であるかのごとく、中野顧問の政策、行動、アイデア、などを紹介し解説し、その指導力に賛辞を送っている。そしてそれらを最もよく理解している者としての自分を誇らしく売り込んでいる。「どうだ」と言わんばかりである。「新指導路線」を公調の担当者が庁内で説明したことを得意になって自分に報告した旨を荒川は書いているが、明らかに荒川自身が「それを伝授したのは俺だ」と得意になっている。〕 01年は記憶が希薄だったが、1月から選挙対策に入って給食民託化阻止、つくる会教科書採択阻止に集中し、8月まで杉並に張り付いていた。 〔記述はここで終わっている。〕 〔ここでは省略したが、尋問者の「一体どれだけ金、預貯金、財産などを持っているのか、洗いざらい書き出せ」という質問に答え、かなりの分量で詳しく述べた部分が途中にあった。〕 [以上]
2018/03/27(火) 13:07:52 |
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古本屋通信 No 3205 2018年 03月27日 朝鮮は国際的に孤立していない。圧倒的に支持されている デマ報道を垂れ流しているのは日本のマスコミと、安倍政権と、日本共産党だけである。本格的な米朝交渉は核の双方放棄の開始を期待させるが、圧倒的な朝鮮の戦略的勝利であろう。日本共産党は今からでも遅くない、日朝両党の関係正常化に入れ。 ひとこと加える。日本の立ち位置からは朝鮮半島に複雑な問題は皆無である。米軍の沖縄基地に核兵器は存在するのか、それとも存在しないのか。存在するのなら、日本は朝鮮の防衛的核ミサイルの一切を非難する資格はない。なすべきは米軍の沖縄基地撤去、即ち日米安保条約の即時廃棄である。これを回避した一切の朝鮮非難は無効である。コレ小学生レベル。 北朝鮮 最高人民会議の代表 国際会議で米政権に政策転換 3月27日 4時24分 NHK 北朝鮮の最高人民会議の代表が、スイスで開かれている国際会議で演説し、ことし5月までに開かれる見通しの米朝首脳会談を控えて、アメリカのトランプ政権に対し、制裁をやめて対北朝鮮政策を転換するよう求めました。 世界178の国と地域の議会で構成するIPU=列国議会同盟は、今月24日から5日間の日程で、スイスのジュネーブで会議を開いていて、北朝鮮からは、最高人民会議のリ・ジョンヒョク議員をはじめ4人の代表団が出席しています。 会議では26日、リ議員が演説し、この中でキム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長が今月5日に韓国のムン・ジェイン(文在寅)大統領の特使と会談したことなどに触れながら、「南北関係の改善や、朝鮮半島の平和と安定に向けた努力は、国際社会から幅広い支持と前向きな反応を得ている」と自賛しました。 そのうえで、「いまこそ、アメリカの北朝鮮に対する時代錯誤な敵視政策を終わらせ、無益な制裁と圧力をやめる時だ」と主張し、ことし5月までに開かれる見通しの、史上初の米朝首脳会談を控えて、アメリカのトランプ政権に対し、制裁をやめて対北朝鮮政策を転換するよう求めました。 ただ、米朝首脳会談についての言及はありませんでした。一方、リ議員は、北朝鮮の友好国であるシリアやモンゴルなどの代表団と個別に会談したほか、韓国の議員から声をかけられて贈り物を手渡される場面も見られ、南北の融和ムードを印象づけていました。北朝鮮要人が中国訪問か キム委員長か妹ヨジョン氏との見方も 3月27日 2時08分 NHK 北朝鮮の要人が26日、中国の北京に列車で到着したという観測が広がり、厳戒態勢が敷かれた北京の中心部で10数台の車列の移動が確認されたことから、キム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長か、妹のキム・ヨジョン(金与正)氏が、訪問しているのではないかという見方が出ています。 複数の外交筋によりますと、26日、北朝鮮から中国の北京に、要人を乗せたとみられる列車が到着したということです。 中国版ツイッターのウェイボーには、北京で撮影されたとされる、深緑色の車体に黄色のラインが入った車両の写真が投稿されているほか、同じ模様の列車が走っている映像も広まっていて、北朝鮮のものと特徴がよく似ていると書き込まれています。 さらに26日夜は、北京の中心部で厳戒態勢が敷かれる中、人民大会堂を出発した黒塗りの車両10数台が警備当局の白バイ隊に先導されて移動し、その後、釣魚台迎賓館に入っていく様子が確認されました。 中国や北朝鮮の国営メディアは、これまでのところ北朝鮮の要人の中国訪問について一切、伝えていません。 また、中国外務省の華春瑩報道官も、26日の記者会見で「状況を把握していない」と述べるにとどまりましたが、北京の外交関係者の間では、北朝鮮の最高指導者に就任して以来、一度も外国を訪れたことがないキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長か、キム委員長の妹で、先月特使として韓国を訪れたばかりのキム・ヨジョン氏が、中国を訪問しているのではないかという見方が出ています。 外務省 北京の大使館通じ情報収集 外務省はNHKの取材に対し、「報道は把握しているが、情報収集を進めている段階だ」としていて、北朝鮮の要人が中国を訪問している可能性も含め、北京にある日本大使館を通じて情報収集にあたっています。 近年の北朝鮮要人の中国訪問 北朝鮮のキム・ジョンイル(金正日)総書記は、生前、たびたび特別列車で中国を訪問していましたが、後継者のキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長は、最高指導者に就任して以降、一度も中国を訪れておらず、側近の派遣にとどまっていました。 キム・ジョンイル総書記は、2010年、5月と8月の2回にわたって特別列車で中国を訪れ、このうち5月の訪問では、東北部の遼寧省大連などで経済視察を行ったほか、首都・北京で当時の胡錦涛国家主席と会談し、核問題や経済支援などについて意見を交わしました。 キム総書記は、よくとしも2回、特別列車で中国を訪問し、このうち、5月に東部の江蘇省で経済開発区を視察したあと、北京で胡主席と会談したほか、8月にはロシア訪問を終えてそのまま特別列車で中国に入り、東北部を視察しました。 一方、後継者のキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長は、2012年に名実ともに北朝鮮の最高指導者に就任して以降、一度も中国を訪れておらず、側近の派遣にとどまっていました。 このうち、最側近であるチェ・リョンヘ副委員長は、2013年、キム委員長の特使として特別機で北京に送り込まれ、習近平国家主席と会談したほか、2015年にも、中国政府が「抗日戦争勝利70年」を記念して北京の天安門広場で行った軍事パレードに派遣されました。 おととしには、36年ぶりに開かれた朝鮮労働党大会の結果を説明するため、党で国際関係を統括するリ・スヨン副委員長が空路、北京を訪問して習主席と会談し、核問題などを巡って意見が交わされました。北朝鮮外相 来月にロシア訪問か 3月26日 20時11分 NHK 北朝鮮のリ・ヨンホ外相が来月中旬にモスクワを訪問するため、両国間で調整が進められているとロシアの国営メディアが伝え、北朝鮮がアメリカや韓国との首脳会談を控えて外交活動を活発化させているという見方が出ています。 これはロシア国営のタス通信が26日、ロシア外交筋の話として伝えました。それによりますと、北朝鮮のリ・ヨンホ外相がモスクワの訪問を計画し、来月中旬の訪問実現に向けて両国間で調整が進められているということです。 外交筋は「リ外相の日程の詳細は今後、明らかになる」ということで、具体的な訪問目的には触れていませんが、タス通信は前回、外相会談が行われたのは去年8月だと伝えていることからロシア側も外相が応対し、外相会談が行われる可能性があります。 リ外相は今月18日までスウェーデンの首都ストックホルムを訪問してスウェーデンとの外相会談を行い朝鮮半島情勢について意見を交わしていて、北朝鮮がアメリカや韓国との首脳会談を控えて外交活動を活発化させているという見方が出ています。首相 日米朝首脳会談の可能性 排除せず「拉致問題解決のため」 3月26日 12時35分 NHK 安倍総理大臣は、参議院予算委員会で、日朝首脳会談の可能性について、対話のための対話では意味が無いと強調する一方、将来的には、拉致問題の解決のため、アメリカも含めた3か国での首脳会談の可能性も完全には排除しない考えを示しました。古本屋より 日朝間に未解決の拉致問題など存在するわけがなく、万に一つもこの問題での日朝首脳会談は有り得ない。これカルトのイカレポンチ以外には初歩的常識である。すべては日本側が挑発的に「制裁」を仕掛けた報いである。 この中で、安倍総理大臣は、日朝首脳会談の可能性について「北朝鮮との間では北京の大使館ルートなどさまざまな手段でやり取りを行っているが、詳細は差し控えたい。話し合いのための話し合いは意味が無く、日本にとって極めて重要な問題は拉致問題の解決だ。米朝首脳会談の機会に拉致問題が前進するように全力で取り組んでいきたいし、そのための来月の日米首脳会談にもしていきたい」と述べました。 一方、安倍総理大臣は、米朝に日本も加わって3か国の首脳会談を行う可能性について「今の段階で実行することはないし、やる以上は拉致問題について成果がある程度見込まれる可能性がなければならない。南北、米朝首脳会談が行われるが、もちろん日米朝という形の首脳会談を否定するものではない。拉致問題を解決するうえで必要なことはさまざまな可能性を考えなければならない」と述べました。
2018/03/27(火) 08:06:25 |
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古本屋通信 No 3204 2018年 03月26日 せめて沈黙を守るだけの友情も残っていなかったのか。立身出世主義は見苦しい。 『革共同政治局の敗北 1975〜2014 あるいは中核派の崩壊』 (水谷保孝 岸宏一 2015年5月) の感想文で、際立って印象に残った一篇 私は表題本の全文は読んでないし、読んだ範囲でも書評を書く能力はない。それは中核派を含む新左翼の歴史のディテールに疎いから書きようがないのである。ただ他人の書評や感想はかなり多く読んでいる。その多くは新左翼諸党派に関わってきた同時代人である。重信房子のような著名人もいるし、第四インターのものもある。共産党民青のものは川上さんを除いて皆無である。これは書こうにも書けないのである。誠実だったら他人が生死を賭けてたたかっている間に入って批評するなど出来るものではない。 ところがここに際立った例外があった。全文を貼る。私はたった数行で正体が分かった。あとはクイズである。正解を祈る。解答は氏名をグーグルに入れればウィキが顕われる。私はこの方の生き方を総否定はしない。でも書かねばよいのだ。冒頭部分を一箇所だけ例に取って欺瞞性を指摘しておく。 赤松正雄 2015年06月18日 06:06 ある左翼革命家の敗北と新たなるたびだち 先日、高校時代の友が出版した本の広告を朝日新聞の一面記事下で発見した。水谷保孝 岸宏一共著『革共同政治局の敗北』なるものだ。副題は、「あるいは中核派の崩壊」とある。革命的共産主義者同盟全国委員会、略して革共同と云われても私には良く分からない。中核派と云われて、ああ、あの過激な新左翼学生運動の集団か、というぐらいしか知識がない。 (そんなことはないでしょう。あなたくらい文章が書ける方が革共同全国委員会が中核派あることを知らないなんて有り得ない。それにあなた、水谷さんと高校の同期でしょ。早稲田と慶應。 慶應の新学同? ありゃ言ってしまった) 水谷保孝(敬称は略す)は兵庫県立長田高校で同期だった。卒業後、彼は早稲田大学へ。同大学時代に、学費・学館ストライキで無期停学処分になったまま中退し、のちに佐世保エンタプライズ闘争で米軍基地に突入して逮捕されるなど、学生運動でならした男だ。こう書くと読まれる方は、彼がかなりの闘争的猛者だと思われるに違いない。二十歳のころから今に至るまで一貫してこうした運動に関わってきているのだから、それは当然だろう。しかし、その印象たるや、ひげを蓄えているところを除けば、高校時代と変わらぬ優しそうな雰囲気であった ▼60歳になっていわゆるプロの革命家の道から足を洗い、普通の人間社会に立ち戻ったという噂を数年前に聞いた。驚きと好奇心で直ぐに連絡先を探し、少し経って出会ったものである。非合法的な活動をした結果、逮捕・起訴され下獄の憂き目に合うなど、警察から追われ続け、いわゆる地下に潜った生活を約40年もしていた。そういう彼とは真逆に、私は革命すべき対象を、第一義的には社会におかず、人間そのものにおいた。同じ歳月を必死に生きてきた私には、彼の40年は想像を絶するだけに大いに興味深かった。だが、その身にまとってるはずの闘争歴はリアルさを欠いていた。以後、同窓会のたぐいで会っても、ひたすら淡々としていた。やがてすべては遠い過去のこととなり、本人も周りの同期生たちもまとめて忘却の彼方に流れ去るものと思わざるを得なかった。そこへこの本の登場である。少なからず衝撃を受けた。直ちに彼に電話をして「読むよ」って言ったら、「そうか」と喜びの響きを滲ませながらも「ドキュメントだから」と言葉少なかった ▼正直言って読むに堪えない本である。全部で446頁なのだが、そのうち緒言と序章、最後の第11章「”革共同の敗北”から新しい道へ」の70頁ほどしかきちっとは読んでいない。あとは飛ばし読みだ。リンチ、粛清の顛末ばかりに付き合う暇は持ち合わせていない。組織内抗争のいいわけやら攻撃に終始している。要するに普通の読者を想定していないのである。冒頭に本書執筆の動機と目的についてこうある。「(革共同いわゆる中核派)の分裂と転落の歴史および実相の切開であ」り、これは「筆者らにとって肺腑をえぐられるほどつらい」し、左翼運動に関心を持つ多くの読者にとっても「暗く、重く、失望の念を禁じ得ない」幾多の出来事を書くことになる、と ▼1945年に生まれ、1968年という世界学生運動の文字通りピークの年に、青春のただなかにいたものとして、関心はないわけではなかった。しかし、もうとっくの昔に左翼運動には失望し、呆れ果てたというのが本当のところだ。であるがゆえに、水谷が沈黙を破って普通の人間としての生の声をこの本に書いているものと期待した。つまり、なぜ自分たちが左翼革命運動に挺身し、夢破れたかを赤裸々に明らかにすることを。だが、ここには彼らの主たる敵である革マル(一般にはこう略称するはずだと思うが、本書にはカクマルとあり、その正式名称も触れられていない)への徹底した糾弾の声のみが際立つ。カクマルは「世界史的にも類例のない『現代のナチス』と呼ぶべき存在」だ、と口を極めて罵ることの連続なのだ。鎮魂の書ではなく、新たな告発の書なのである ▼そんな中に、かろうじてまともに読めるくだりがあった。「今日の21世紀時代にあって延命に延命を重ねてきた現代資本主義が世界史的には何度目かの危機に陥り、またしても歴史的終焉の限界状況をあらわにして」おり、「世界各地で『反テロ』『自衛権行使』の名による侵略戦争、民族排外主義、領土拡張主義が火を噴き、無差別虐殺がたえない恐るべき世界戦争の世紀となっている」という基本的な世界認識を述べているところだ。確かにそういう見方もできよう。だからこそ、若き日に”打倒資本主義”の道に入り、50年を経て今に至るまでの壮大な闘いの跡を知りたい。だが、そのまなざしは違うところに向いているとしか思えない。組織内部における憎しみの連鎖的対応といったことしか迫ってこないのだ。尤も、最後のあとがきで水谷なりの意匠を凝らした感情の発露をくみ取れた。「革共同は筆者らの愚かな破産と敗北を含めて、もう死んだのだ。弔旗もいらない。葬送の歌もいらない。ただ、インターナショナルな共産主義的解放を求める一人ひとりの人間がいればいい」と。自らの死に至る病のありようをさらけだした今、水谷は原点に回帰したということなのだろう。「本書では詳述しないが」とか「詳しくは別のかたちで考察したいが」といった記述が気になる。要するにこの本で過去を彼なりに総括し、革共同からの離党のいきさつを述べた後、これからひとりの共産主義者として文筆活動を含め、新たな闘いに入るということに違いない。つまりはプロの組織的革命家からは手を抜いたが、一人の革命家としてこれからは生きるとの宣言だ。革命家の道からすっかり足を洗ったという風に思い込んでしまったわが身の勝手さと浅薄さに恥じ入る。水谷の穏やかなたたずまいとこの本の奇妙な激しさとの落差を思うにつけ、人間というものは見た眼だけで判断すると見誤るという平凡な結論を得るに至った。次なる作品にこそ人間・水谷の生の声を期待したい。(2015・6・17)
2018/03/26(月) 21:40:47 |
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古本屋通信 No 3203 2018年 03月26日 現代革命論争資料蒐集 (その1) 元革共同全国委員会(中核派)政治局員・水谷保孝 から きょう店に置いていた川上徹 『戦後左翼たちの誕生と衰亡』 (2014年1月 同時代社) を再読した。再読と言っても、10人の聞き取りのうち元中核派の水谷保孝の章だけである。内容はすっかり忘れていた。私にとっては水谷という固有名詞は何の意味もないから憶えようもなかったのだ。再読して面白かった点はたくさんあるが少しだけ。彼は私と同年1945年生まれだが、頭が良かったので早稲田の政経である。中核派に入る経緯など語っているが、それよりも早稲田の1965ー6年の学費・学館闘争を担っていたこと、団塊の世代でない自己認識があったこと、早稲田では革マル、民青、青解、フロントに次ぐ少数党派であったこと、などを語っているのが印象に残った。川上さんの一人称で纏められた記録だが、水谷の生活史のようなことが中心である。対革マル戦争の理論的ないっさいは避けている。 こんかい再読して水谷という名前を何処かで見たような気がした。すぐに思い出した。それは 『革共同政治局の敗北 1975〜2014 あるいは中核派の崩壊』 (水谷保孝 岸宏一 2015年5月) の著者二人のうちの一人であった。これは話題になったから直後にいくらか読んでいる。だだし紙の本ではなく、ネット上で部分的に読んだと思う。川上さんにの本のすぐ後に読んだはずだが、このときは同一人物だと思わなかった。で、書評も書いたと思うが、いま残っている拙文は以下だけ である。 「革共同五〇年」私史 -中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって」 2016/9/13 尾形史人(著) 著者は例に違わず中核派を離脱した人だそうだ。私より5歳若かったが、ガンで死亡した。法政大学出身で主に非公然だったらしいが、『前進』の編集にも携わったことがあるという。まあ死ぬ間際に残しておきたかったのだろう。中核派離脱者の本は殆ど読んでいるが、これまでロクな本がなかった 。白井などというのはサイテイだったし、「革共同政治局の敗北1975〜2014 あるいは中核派の崩壊 」(水谷・岸) も下らなかった。 まあ内側にいた人は色々あるんだろうが、私的には今の執行部がマシに見える。それは最近の関西派再建協議会をみてもそうだ。尾形史人の総括は主に中核派の戦争に充てられているらしいが、私に言わせれば所詮は勢力争いだ。百人を超える死者、自殺者、精神障がい者を産んだのは党派としては同情に価しない。私は中核派清水ーー天田執行部にいまだに共感を寄せている。 まあ否定評価である。清水ー天田執行部の肩を持っている。 さて全面検証は出来ないが、川上さんの本で水谷を確認した以上、上の一行で事足れりでは済まなくなった。で、ここで 「現代革命論争資料蒐集」 を貼りたいと思う。私は数年前まで頻繁に「現代革命論争資料蒐集」 を見ていたのだが、最近は左翼リンク集が消えたので見落としていた。すっかり新しくなっている。 当「現代革命論争資料蒐集」は、日本の新左翼党派の中で大きな位置をしめてきた革命的共産主義者同盟全国委員会(いわゆる中核派)の2006年3月以降の公式文書、内部文書を蒐集し、そのうち重要と思われるものを掲載するサイトです。 『現代革命への挑戦―革命的共産主義運動の50年』(いわゆる革共同50年史)上下巻が13~14年に、それを偽史とする『革共同政治局の敗北 1975~2014―あるいは中核派の崩壊』が15年に出版されました。その強固な組織性を自他ともに認めてきた革共同。その革共同が06年以降、決定的に内部分裂し、その後もさらなる分解の過程にあることは明らかです。このことは、戦後日本の歴史と左翼運動の総括、そして今後の闘いのあり方に、重大な問題を投げかけています。そこから何らかの教訓を導き出せるのか……。ともに考えていくきっかけとなれば、幸いです。 諸文書の蒐集には、これまで少なからぬ方々にご協力をいただいたことに感謝します。今後とも、可能なご協力をお願いする次第です。 File-087 自著『革共同政治局の敗北』を語る 水谷保孝 岸 宏一(2016年2月) 元革共同(中核派)政治局員の見解《当サイト管理者から》 水谷保孝・岸宏一著『革共同政治局の敗北』(2015年5月刊)が出版されたのに続いて、その9か月後に、著者らによる対談「自著を語る」が雑誌『流砂』に掲載された。これは著書で書かなかったことの補論になるとのことである。対談「自著を語る」が出るや、そこで初めて明らかにされた革共同政治局における組織問題の具体的諸相、とくに秋山勝行氏が起こした問題は、革共同関係者に当然にも大きな衝撃を与えたようである。書記長・天田三紀夫氏や議長・清水丈夫氏らは党内では「本も悪いが、対談はもっと悪い。もはや岸・水谷を許さない」と声高に言っているとのこと。そのため両氏の身辺を懸念する向きもあったが、何事も起こっていないようである。当サイトには、対談「自著を語る」を掲載してほしいとの要望も寄せられており、左翼運動の総括に関わる提起も多々あるので、全文をアップする。 自著『革共同政治局の敗北』を語る ――党概念のコペルニクス的転覆ができるか 2016年2月/水谷保孝 岸 宏一 『流砂』2016年/第10号所収 1 「敗北」の実体規定をより徹底的に ●二〇〇六年三・一四党内リンチの真実から逃げてはならない岸 運動の先輩である味岡修さんのご配慮で私たちの共著『革共同政治局の敗北1975~2014――あるいは中核派の崩壊』(以下、『敗北』とする)を語る場を与えていただきましたこと、感謝します。「自著を語る」のは少々やりにくいけど、ほとんど素っ裸になって恥をさらしたんだから、何でも来い、という感じでやりましょう。水谷 そうだね。辛口批評や拒絶、反発がいくつか寄せられているので、それに答えないといけないしね。岸 いいたいこと、いうべきことのほとんどは『敗北』で書いた。二〇〇六年三・一四Ⅱ(関西でひき起こされた党内テロ・リンチ)とは何であったのか、首謀者たちの政治的思惑とその思想は何であったのか、革共同史上前例のない集団的・差別主義的な党内テロ・リンチが何ゆえにひき起こされたのか、与田問題とは何だったのか、清水丈夫、中野洋(故人)、天田三紀夫、大原武史らによる三・一四Ⅱの支持・美化・扇動がいかに卑劣でおぞましいものなのか、そして三・一四Ⅱの結果生み出された革共同ならざる革共同の堕落と反動化の極みがどのようなものか、これらについて満天下に示すことはできたのではないか。「墓場まで持っていく」ことをしなかったのは、三・一四Ⅱへの自己批判を明確にさせなければならないと思ったからだ。水谷 そうだね。自己批判としてのみ三・一四Ⅱの全真相、全貌は語りうる。自己合理化では三・一四Ⅱを語ることはできない。 誰であろうと三・一四Ⅱのようなことは二度と再び起こしてはならない。革共同関係者のみならず、およそ左翼たる者は絶対にあのような党内テロ・リンチをやってはならない。一九七一~七二年連合赤軍事件をくり返してはならない、と誰もが肝に銘じているように――。『敗北』は「あれはまちがいだ、絶対にくり返すな」というわれわれの叫びを記したものだった。 もし『敗北』を前にしてなおかつ三・一四Ⅱを肯定する人、今後も三・一四Ⅱをやるという人がいたら、堂々と前に出てくるべきだろう。岸 そうなんだよ。天田、清水ら革共同中央派は、何と『前進』二〇一六年新年号の政治局一・一アピールで『敗北』にかんしてまったく言及していない。『敗北』の「は」の字もない。「岸・水谷は史上最大のスパイ」というデマキャンペーンであれほど騒いだのに、だ。異様な事態だよ。関西派(革共同再建協議会)にいたっては、いまだに何の態度表明もない。それぞれの構成員として残っている人たちには、三・一四Ⅱ党内リンチの真実から逃げてはならない、といっておきたい。水谷 『敗北』の第1部は三・一四Ⅱのドキュメントだけど、やはり党の歴史と政治局指導の検証を試みた第2部を置いたから、第1部の意味が明らかにできたんじゃないか。岸 第2部は第1部を書く以上につらいものがあったな。歴史的検証の作業は悪戦苦闘だったけど、自分を含めた革共同を突き放して客観視した。『敗北』はその意味で、革共同研究、とりわけ清水丈夫研究の書だといっていいと思う。水谷 ある歴史家が『敗北』を読んで、「反スターリン主義の党がスターリン主義の党になったという歴史的な問題を提起している」と批評してくれた。『敗北』でどこまで深く掘り下げられたかは、課題として残っている。今後さらに検証を深めたいね。岸 まあ自画自賛はこれくらいにして、次に、反省点は何なのか、ということをやりましょう。 ●反省点は財政腐敗の問題を割愛したこと 水谷 『敗北』の反省点を項目的にいえば、政治局指導のまちがいとして二つの問題を書かなかった。ひとつは、財政問題について。つまり党費・機関紙誌代・各種カンパなどの収入面、非合法・非公然体制にともなう支出面、財政思想における問題ということだけど、秋山勝行に示される組織犯罪を含む財政問題では政治局はとんでもない過ちをしてしまった。この問題は、第11章のひとつの節にして書いたけど、紙幅オーバーで全部割愛した。 岸 とくに「Nビル建設資金」問題はずっと棘が刺さったような深刻な問題だった。 水谷 概要を説明してみて。 岸 党本部事務所である前進社の移転・増築・拡張のために「Nビル建設資金」集めが三回行われた。第一回目は一九八一年で、借りたカネは一年間据え置いたうえで二年目から五回に分けて利子(年五分)を付けて返済するという計画だった。一方的なカンパでないため、画期的な方法と受けとめられ、党員・家族・親族・支持者から予想を超える二億円の資金が集まった。返済はおおむね履行されたが、じつは返済原資は利子分ではなく、当時やや拡大基調にあった『前進』購読料が充てられた。巨額の資金運用による金利で返済するというやりかたには強い反対意見が出された。 第二回目は同じ方式で一九八五年から始まった。日本経済のバブル期と重なったこと、同年一九八五年一一・二九浅草橋戦闘への激しい弾圧への危機感から必死に取り組んだことから入金が次第に膨らみ、予想を超える五億円が集まった。ところが膨らんだ金利をあてこんで党財政を安易に流用する傾向となった。そのなかで秋山による一億円の公金横領(この時点では発覚せず)もあり、財政管理に失敗した。約束通りの返済ができなくなった。そのため組織の支部段階や個人のレベルで苦労してカネをやりくりして返済したり、返済期限を延長したり、一部をカンパに切り替えてもらったりした。現場は財政重圧の矛盾を受け、貸付者からの抗議、離反に直面し、非常に苦労した。党中央への不信が募った。 第三回目は九二年。これは本社中心で、三里塚現闘などには分担がなかった。 水谷 第三回目は、一九九一年五月テーゼにともなう軍縮小への対応、常任の増大傾向などから本部社屋の拡張の必要性を訴えるものだった。第二回目の失敗があり、集まったのは五〇〇〇万円だった。金利を返済原資に充てる方式はバブル崩壊でもはや成り立たなくなっており、財政管理も旧態依然だったため、返済が著しく滞った。約束違反の利子なし返済や返済期限の延長を出資者に要請するしかなく、現場は苦しめられた。一九八五年秋を頂点として党勢が減退していく時期に本部事務所の移転・拡張をしたのは、今思えば無謀で愚かな暴挙だった。党員と支持者に財政破綻のしわよせをするだけだった。 岸 第二回目では集まった五億円を清水、野島、秋山などに一億円ずつ各自に割り当てた。要するに複数の会計単位の一元的な財政管理がないこと、会計監査システムがないこと、財政支出の不公正、不透明が放置されたことなど、政治局の財政管理は無原則、無知無能、無責任そのものだった。そうした野放図が秋山の巨額抜き取り・横領に気づくことなく放置するという結果を許した。革共同の財政問題の誤りが秋山問題に凝縮している。恥ずかしいかぎりだけれど、じつに非常識で前近代的で、財政的腐敗の温床を自らつくってきた組織だったんだ。 水谷 Nビル資金問題は労働者人民への傲慢不遜、独善的自己絶対化を表わしているというほかない。まして返済不履行、その開き直りなど政治的詐欺であって、労働者人民の支持・支援を蹂躙するものだ。 こうしたことを党員にも支持者にも明らかにせず、秘密にしてきた政治局がオレたちを含めて最悪の腐敗分子の集まりだったんだ。財政は党の姿をもっともよく映し出す。すべての党員、支持者の皆さんに土下座して謝らなければならない。 岸 本多延嘉さんはコミンテルンからの資金援助を自主的に拒否して独自の道を進んだユーゴスラビア共産党のチトーの財政思想を高く評価していた。『チトーは語る』(一九五三年刊)を読んでいただくとして、一言でいうと、財政規模は組織自らが日常的組織活動として集められる範囲を超えてはいけないということだ。われわれは革共同創業の初心を忘れたんだ。創業精神をおろそかにする党は大きくなればなるほど腐敗し堕落するということを、厳しく戒めなければならなかった。 ●秋山勝行の驚天動地の組織犯罪 岸 関連する最大の問題は秋山問題だ。秋山は愛人(適切なことばがないのでとりあえず愛人とする)と子どもの問題を抱えて、隠し続けることが限界となり、一九九四年、清水に男女関係と財政問題を告白した。びっくり仰天する話だった。それも、さかのぼること一九七〇年代からの愛人関係であること、全学連委員長時代に別の女性たちを何と三人もレイプしたことがぼろぼろと出てきた。しかし清水は、いったん処分なしとしたんだ。その会議の翌日、財政の公金横領、私物化が一億円にもなることを改めて自覚し、とても容認できない、処分相当と判断し、秋山処分問題を決定するために政治局会議を招集したのだ。 水谷 右の事実関係ははっきりしていることだから、核心問題を確認しよう。 岸 清水主宰の政治局会議で秋山を同席させて、秋山問題追及の議題をやったが、その場の図柄は今から考えると、じつは象徴的だった。発言し追及したのはほとんど水谷さんとオレだった。水谷さんが主に秋山における政治路線の指導、組織指導のあり方を弾劾し、それが秋山の財政および男女関係の腐敗から発していることを追及した。オレが軍事指導のデタラメさを追及し、秋山の軍事的無方針とデタラメな思いつきで現場がいかに苦しめられたかを弾劾した。それらのことで新たにわかった諸問題もあった。 清水は討議の勢いに押され、もはや最大級の処分を下すしかないと、まとめみたいな発言をしたが、口数が少なかった。高木徹も昨日まで秋山にへいこらしていたから、的外れなことを少しいっただけだった。 水谷 天田がだらしなかった。天田を、北小路敏が病気で倒れた後、前進社の責任者に任命したのは秋山だった。天田は自分を引き上げてくれた秋山を弾劾できるわけがなかった。 じつは秋山はカクマルによる一九七五年三・一四本多書記長虐殺以降、天田(当時神奈川県委員長)と大蔵(当時東京南部地区委員長、その後軍事委員会へ移籍)を囲い込んできた。組織的に必要ないのに私的にもたれる秋山の会議の際に、天田と大蔵は、いつも付け届けをしていた。カネも出していた。これについては関係者の二人から証言がある。秋山は、天田と大蔵が自分にへつらい、隷属している現実を楽しんでいた。権力者特有の愉悦感に浸っていたんだ。迎合する方も迎合する方だけど、それを暗に強要していたのが秋山だった。 岸 秋山は軍指導に責任を負っているにもかかわらず、愛人との生活に相当の時間とエネルギーを振り向けた。愛人を遠隔地の九州に住まわせ、脈管の任務についている周囲をだまして愛人の元に通う生活を約二〇年間にわたって続けた。非公然といいながら、自分は寝台夜行特急で九州まで行き帰りしていた。「防衛戦争」もへったくれもない。さらに問題は、Nビル資金をマンション購入関係などに費やしたんだ。 清水は秋山問題についてじつに軟弱だった。後日、清水=岸会談があるのだが、清水は「女性問題だけだったら処分は控えたが、財政問題で許せなかった」と発言した。 水谷 秋山は軍事委員会を形成する前段階から軍の責任者であるという組織的地位を利用して、かつ非公然部門にいることを隠れ蓑にして、自分の権力的世界をつくった。対カクマル戦第一という路線ゆえに軍の責任者であることをブルジョア的な名誉欲を満足させるものとして悦にいっていた。それはお定まりの「地位と名誉を得た人間はカネと女性をほしいままにしていい」というとんでもない堕落の姿だった。秋山が悪いのははっきりしているが、それを点検もしない清水の責任は大きいものがある。 ●秋山問題は清水問題=天田問題 岸 われわれは自分への評価にかかわることだから遠慮してはっきり書かなかったけれど、清水は岸書記長構想をもっていた。そのため、秋山処分・更迭の直後に清水=岸会談をもった。その際、清水は最初に「オレは軍事にコンプレックスがある。不入斗(いりやまず)事件の失敗はオレの責任だ。軍事能力がないことを痛感している。だから軍事委の責任をとるのは無理だ。あんたが秋山の後をやってくれ」といった。それは分かりましたと返事したら、続いて「オレはKG主義(神奈川県委員会主義、つまり天田指導スタイルのこと)は嫌いだ。一種独特で党ではない。組合主義、社民主義だ」と露骨に批判し、さらに「本社の責任もお前がとってくれ」といってきた。オレは「その話はやめましょう」と断った(第7章第2節を参照)。 水谷 木崎冴子が岸さんに「熊沢さん(天田の組織名)は病気もあるし、本社責任者を長く続けられない。だから、岸さんやってよ」と語りかけていたことがあったね。本社政治局会議の休憩時間にも、非公然会議に向かう過程の雑談の際にもあった。他の政治局員にも聞こえるように話しかけていた。 岸 そうだったよな。天田からも「書記長は持ち回りで次は頼む」ともいわれていた。オレは笑い飛ばしていたんだが、あれはなんだったのだろうかね。 水谷 おそらくこうだよ。天田は清水から次期書記長=岸構想を聞かされていたんだよ。木崎は、近い将来の岸権力から天田前書記長が飛ばされないように岸にすりよった。あたかも「書記長職の禅譲」という形にしようとした。あるいは来たるべき書記長権力の抗争を想定して、左派を武装解除しておこうとした。木崎はじつにずるい人間だということだよ。 岸 それに比べて左派が何と呑気だったことか。政治局とか党指導部を一個の権力としてとらえる認識がまったくなかったね。そういう見方が嫌だったというのが真実に近いだろうね。組織的日和見主義そのものだった。権力亡者にならずに、それでよかったとも思うけどね。 水谷 その「天田書記長」生みの親は秋山なんだ。天田はかつての親分だった秋山を、二〇一一年八月、政治的・組織的に復権させた。天田は以前の腐れ縁を復活させたわけだ。ほんとうにおぞましいかぎりだ。 岸 天田自身も憶えているはずのことだが、秋山について組織的な復権はありえないことを政治局は決定していた。党の管理下で罪を償わせた後はどこかでひっそりと暮らさせることにしていた。それが適切な方針だったかは再検討されなければならないけど、組織に戻すことはしないという確認だった。少なくとも、われわれが党にいた二〇〇六年時点までは。 水谷 秋山問題を抱え込み、事実を隠蔽し続け、「伝説の全学連委員長の復活」話をしている天田ら革共同。腐敗・堕落の極致じゃあないか。 ●男女関係の歪み問題を直視できなかった 水谷 反省点のもうひとつは、財政問題と重なるんだけど、組織内での男女関係の歪み、何人かの政治局員が犯した犯罪、その解決の指導放棄という問題だ。 岸 この問題は関係者のプライバシーの問題があるから、論じ方を慎重にしなければならない。とはいえ政治局やそれに準ずる組織的位置にあった人間については犯した罪の責任は厳しく追及すべきだった。 水谷 オレが知っているかぎりでは、歴史的には秋山以前に小野田襄二、田川和夫が問題を起こしている。さらに高山(西山信秀)、晩年の中野洋を挙げることができる。われわれも問題のあまりのおぞましさゆえに踏み込むのを避けてきてしまった。本多さんも含めて政治局として指導放棄した、と認めなければならない。 岸 このテーマをオレは少々毛嫌いしてきた傾向があるので、水谷さん、しゃべってよ。 水谷 オレも、「こんな事態を放置して何やってたのよ。政治局は見識がない」と連れ合いから弾劾され続けてきた立場だから、大きなことはいえないよ。 岸 確かにね。水谷さんがこの問題を論じると道徳主義的に弾劾しているように受け取られる。 水谷 うん。性・恋愛・結婚・離婚・妊娠・出産・育児・教育の問題を左翼の政治・思想問題として、革命党の固有の組織問題そのものとしてつかむのが弱かったからだと反省している。 ●腐敗と歪みをどう組織的に克服するのか 水谷 党内での数々の事例はここでは省くとして、理論的・実践的に整理してみよう。一方では、腐敗した党の権力者=男性指導部がその指導的地位を利用して男女関係の歪みを起こすという問題、他方では、運動と組織の内部で自由恋愛主義、「一杯の水」論(「性的欲求を満たすことは喉が渇いた時に一杯の水を飲むようなものでなければならない」という理論・思想)が絶えず発生し、それを口実に男性指導部が性的腐敗を起こしかつ開き直るという問題ということではないか。 性・恋愛にかかわる問題を共産主義者と労働者人民がブルジョア的疎外、ブルジョア的束縛からどう解き放つかは、共産主義の普遍的テーマであり、そればかりか現在的に日常直面する問題にほかならない。革命運動においてこのテーマをどう解決するかは、古今東西いつでも、どこでもぶつかってきたことだ。 問題はレーニンが強調しているように、「共産主義者も一皮むけば俗物である」という認識を踏まえることに尽きるんじゃないか。 岸 確かレーニンが『青年・婦人論』でいっていたね。 水谷 そう、レーニンがクララ・ツェトキンとの対話やイネッサ・アルマンドへの書簡の中で、「恋愛の自由」や「一杯の水」論を厳しく批判した。そのなかでのことばだ。この認識をもつということは何なのか。組織的実践としては階級社会に生きているかぎり男女関係の歪みは起こるという認識に立って、指導部間・同志間の相互点検・相互報告と告発・通報・調査と審査・処罰のシステムを党組織のなかに編み込むということなんだ。男性指導部によるレイプ、レイプまがいの行為は明らかな犯罪なんだから。本多さん風にいえば〝共産主義の掟〟が必要なんだ、財政腐敗と歪んだ男女関係には――。 岸 革共同にはそれがなかったな。むしろそうした腐敗がすべて「革命」「非合法・非公然体制」の名で、「同志的信頼」という名目で放置され、温存され、隠ぺいされてきた。党組織それ自体が男女関係の歪みの温床となってしまう。 水谷 要するに、『敗北』では党のあり様のいかんが集中的に露呈する財政腐敗の問題と男女関係の歪みの問題の検証を欠いたということだ。 岸 政治局の〝敗北〟の実体規定が不徹底だったといわざるをえないな。 2 三里塚基軸路線のもつ誤り ●革命の全体性を崩壊させた 水谷 ある旧友の読書感想が寄せられた。「『敗北』で一番なるほどと思ったところは、党(革共同)が一九八〇年代から三里塚闘争に急角度で入っていった。三里塚農民のたたかいに応えて力を尽くすのは必要なことだ。それはいいんだけれど、安保闘争、アジア侵略との対決の方はどうなるの、と思っていた。なぜ三里塚基軸になったのか。説明を受けても『前進』を読んでも不明だったので、その理由や事情が今度の本でよくわかった」とのことだった。 岸 それはありがたいね。二人の共著だったから、問題の核心をつかむことができた。一九七七年段階で三里塚基軸路線に異を唱えたオレが三里塚闘争基軸への路線転換の先頭に立ったわけだけど、じつはそこに潜在的疑問を抱いていたこと、総括にあたってもう一度こだわろうとしたことがあった。他方、水谷さんが獄中にいて不在のときの革共同第五回大会の問題性への疑問をもっていて、第五回大会を白紙の状態から徹底究明しようとこだわった。その両者のこだわりが別々の視点からの検証となってぴったりと重なった。 水谷 第五回大会以降の三里塚基軸論について端的にいうと、日本革命・アジア革命を展望する革命の路線ではない、ということだね。三里塚二期決戦はあくまでも三里塚農民の農地死守、開港阻止のためのたたかいなのだから。 革共同の三里塚基軸路線は本質的に党の利害を三里塚農民の利害の上におくものだった。土地と農業と生活を全面的に破壊してくる者らにたいして怒りをもって立ち上がった三里塚農民の利害が何であり、それをどうやって実現するかという実践的観点を、党がどう生き延びるのか、他党派との党派闘争をいかに制するのかということに従属させるものだった。 三里塚農民、とくに青年行動隊の多くは、そうした革共同の姿勢を政治的利用主義として嫌い、ときに猛反発した。青行との関係は最初からずっと厳しいものだったね。 岸 オレの個人史的にいわせてもらえば、着任して最初の一年間はほんとうに苦しいものがあった。反対同盟と青年行動隊には東峰十字路闘争(七一年九・一六)への重罪攻撃の重圧が加えられており、青行は中核派を信頼していなかった。党の体重が三里塚にまだかかっておらず、現闘は孤軍奮闘の感があった。それが先制的内戦戦略の第二段階への移行、つまり三里塚基軸路線に舵をきったことで、これで党の力が三里塚に投入されるということだから、ホッとした。オレは以後、党全体を三里塚に引っ張りこもうと全力を挙げたわけだ。麻生浩論文を熱心に何回も書き、それが党の基本路線論文として全体に下ろされていった。 自分が先頭にたってやったことだから誤魔化さずにいわなければならないけど、革共同が三里塚二期決戦を基軸にして組織と運動を動員すればするほど、革共同本来の革命の全体性が崩壊していった。 ●産直を起こしたことの積極的意義 水谷 一九六六年以来の成田空港建設・農地強奪に加えて、一九八〇年代は日本帝国主義の農民・農業切り捨てが強まる一方という時代状況だった。臨調行革路線が日米経済摩擦の激化を背景に農政転換をおし進めた。三里農民にとってたたかいのなかでの営農はほんとうに切実なものだった。 岸 現実に生きてたたかう農民を前にして、オレたち現闘は、日米争闘戦をもテコとした日本帝国主義の農業破壊のすさまじさを実感していた。今まで専業農家でやってきた農家が米作と農協出荷では食べられなくなってきたんだ。一般的にいわれる〝農民殺し〟だ。農民は生活自体がほんとうに大変だった。 それだけに「空港を絶対に造らせない」という願いと執念が強まっていった。 三里塚基軸論への反省は尽きないんだけど、現闘が必死になって産直を立ち上げ、敷地内農家を支え続けたことは、積極的に総括したい。 三里塚二期決戦の厳しい状況下でたたかう農民の営農をいっさいの基礎にすえ、知恵をふりしぼり、そのために党組織を動員した。それができたのは、三里塚二期決戦基軸論があったからでもある。 水谷 ほんとうは労農同盟論の立場なんだよ。本多さん以来の革共同は……。清水の三里塚基軸路線はこれとはちがったんだ。清水は産直のもつ切実な意義と位置をわかっていなかったね。 岸 労働者階級による農民への犠牲的援助なしには農民は獲得できないという労農同盟論は、学生時代の若いときから本多さんにたたきこまれた理論であり、農民の生活に触れてほんとうにそれを実感した。 水谷 今まさに日本帝国主義の農民殺しがTPPをもって一挙的に強まっている。 岸 三里塚農民のたたかいの意義は依然としてというか、ますます大事なものになっている。 ●第四インターへのテロルは政治局会議で決定 水谷 第四インターの『かけはし』紙上で『敗北』の第9章第1節が厳しく批判され、事実上拒絶された。あの表明は第四インターとしての組織決定にもとづくものではないと思われる。というのは、二〇〇九年の関西派の態度表明ならぬ態度表明に際しては、JRCL中央委員会声明を発表しているが、今回はL・Lという個人署名なんだ。とはいえ、第四インター組織構成員に共通した応答であると受け止めなければならない。 L・L氏の強調点は二点。ひとつは、内ゲバ主義・赤色テロリズム論の路線・立場を維持したままの自己批判は自己批判ではない、受け入れられないということ。もうひとつは、テロル行使の組織決定過程をつぶさに明らかにせよということ。 岸 『敗北』で明らかにしたことを前提として答えられるかぎり答えたい。 水谷 第四インターへのテロル行使は一九八四年一月の場合も、同年七月の場合も清水主宰の政治局会議で決定した。 オレは、一九八三年一〇月に下獄を終えて外に出てきた。しばらくは心身ともに休養するということで、すぐには活動に復帰しなかった。しかし約三年半の政治的空白期間があるからむしろ非公然政治局会議には出席するだけでいいから出るということになった。任務は担当していない状態だったので、記憶は漠然としているけど、一九八三年一二月の非公然政治局会議で第四インター問題を議題にし、そこでテロル行使を決定した。別の人が「決定してから実行されるまでの間は早かった」と証言しているから時期はまちがいないと思う。提案し推進したのはいうまでもなく清水である。 第四インターせん滅戦の決定と同時に、一坪再共有化運動への賛同団体・個人にたいする賛同撤回オルグを全党挙げて展開することを決定した。撤回オルグといってもテロル行使を背景にした恫喝を加えるということを意味するものだった。これらは現地の党、つまり岸とは無関係に政治局だけで決めたんだ。 当時の政治局会議の議論とその雰囲気は、今だからいえることだが、非常に粗暴なものだった。この件も議論らしい議論は何もなかった。政治を軍事で総括するという転倒した清水のえせ「理論」のために、〝政治的困難は軍事で突破するのだ〟というスタンスがほとんどだった。まして先制的内戦戦略第二段階で対権力武装闘争を展開している革共同にことあろうに反対するなど許せない、そんな第四インターはせん滅してしまえ、というものだった。 岸 水谷さんは事態を理解していたの。 水谷 清水ら他の政治局員にいわれるままという、何も考えていない状況だった。ただオレとしては一九八一年の先制的内戦戦略第二段階への移行は対カクマル戦の棚上げではないかと疑問をもっていた。政治局としては〝水谷は党の路線を何もわかっていない。水谷にわからせろ〟ということで、野島三郎が二、三回、時間をとってオレの説得に出てきた。政治局忠誠人間だったオレは、従順に従い、その先頭に立ったんだ。 岸 第四インターへの組織的テロル行使について現地のオレには何らの相談も、事前通告すらもなかった。今の話を聞いても、やはりなと思うけど、第四インターへのテロルをやったら現地でどんなリアクションが生まれるか、青行や農民、他党派がどう対応するかなど何も検討していなかった。少なくともオレと水谷さんは、改めて革共同の犯した誤りを誤りとしてはっきりさせておきましょう。 第一点目については、『敗北』で書いたのでくり返さないが、対カクマル戦は今でも必要で、必須のたたかいだったと思っている。対カクマル戦をやったから他の諸々のまちがいも起こしたのだ、とは即いえない。われわれとしては、対カクマル戦自体を内在的に検証することで、どこが誤りかをそれなりに明確にさせたし、革命的テロリズムの正しいあり方を創造しえたはずだったと総括した。 水谷 この第四インターへのテロルで革共同への大衆的信頼は基本的に消滅したといえる。水戸巌さんを始め、革共同を知る人たちの怒りはすごかった。「中核もカクマルと同じになった」と批判された。 岸 そうだった。そのことを思うと、ニーチェのことば――「怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ。汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである」(『善悪の彼岸』)という通りだな、と今は感じている。カクマルという反革命との戦いをやっているなかで、左翼諸党派の党派闘争にテロルを持ち込むというカクマルと同じ考えになっていたことを近年思い知らされた。 3 荒川スパイ問題のその後 ●スパイ自認に等しい荒川碩哉の現状 水谷 荒川スパイ問題は重大な問題なので、再度、簡潔にふれておきたい。一番大事なことは、荒川碩哉本人が「スパイではない」というなら労働者人民の前に現われて身の潔白を示す行動をとるべきなんだ。それをやっていないということだよ。二〇一三年五~六月に荒川スパイ問題が表面化して以来、すでに二年八カ月。姿を隠していること自体が荒川=権力のスパイを自認するに等しい。そもそも娘さんに会ったのか。 岸 変な話だが、水谷さんとオレは『敗北』を出して、革共同から「史上最高のスパイ」呼ばわりされている。われわれは当然にもスパイのレッテルはデマであると即座に態度表明した。さまざまな場に顔を出し、もし「あなたたちはスパイなのか」と訊ねる人があったら、革共同の流すデマへの全面的反論をする構えでやってきた。誰もそんな質問をする人はいなかったけどね。ぎゃくに「スパイだなんて、革共同も愚かだね」「本で書かれていることが事実だと認めることになっているよ」と激励されてきた。革共同の岸・水谷スパイ説などだれも見向きもせず、笑い飛ばされている。 だから荒川よ、表に出て来い、ということなんだ。それができないのはスパイの自認なんだ。 水谷 付け加えると、問題発覚から一年七カ月後の二〇一四年一二月、甘糟義信が編集にかかわった荒川署名のパンフレット『スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する』が発行された。それにたいしては、われわれが詳細な論駁を加え、むしろ荒川がスパイを自認したも同然である、とした。それなのに、それにたいする反論も何もない。 甘糟にもいう。いつまでスパイ荒川の片棒を担いでいるのか。われわれはもちろん、甘糟を知る多くの人たちが甘糟へのスパイ疑惑をもつのは当然ではないか。甘糟自身が態度表明を迫られているのだ。 岸 『敗北』執筆の過程で、荒川スパイ問題にかかわる新証言を得ることができた。荒川は未決拘留中に権力との取り引きに応じていた可能性がきわめて濃厚だというものなんだ。 ●荒川は未決拘留中に権力と取り引きした? 水谷 荒川がスパイ化したのは、革共同中央派の『前進』声明では一九九五年に内閣情報調査室のスパイ、二〇〇〇~〇一年頃に公安調査庁のスパイになったとしているんだが、じつは、それよりはるか前の一九七〇年代半ばにスパイ化していたかもしれないという疑惑だったね。 岸 どういう証言か紹介する。一九七一年一一・一四渋谷暴動闘争の件で翌一九七二年四月に逮捕・起訴された荒川は一九七四年九月、一審段階で保釈される。保釈され群馬に戻った荒川は、革共同群馬県委員会の人たちに迎えられた。それまで二年五カ月間の未決拘留の疲れを癒し、今度は外から裁判闘争に取り組むとともに、予想される長期下獄への備えをすることとなった。そうしたなかで、荒川は群馬県委の指導的同志(当時。Q氏とする)に次のように語った。 「オレは党の情報をいっぱい知っている。権力と取り引きできる。〝完黙〟ということにして(註 調書には書き記さないで)、話すことができる。」 Q氏は荒川が何をいい出したのかと当惑した。しかも調書には書き残さないで取り調べの権力と話したことを、何と自慢げにいったのだよ。Q氏はまさか、という気持ちがあったが、そのまま聞き捨てた。その後、長い間、この荒川との会話は封印してきた。しかし、荒川がスパイであるという革共同の声明に接し、封印してきたとはいえ、ずっと引っかかっていた記憶を反芻し、他の元同志に打ち明けたのだ。 はっきりいって、これは重大なうえにも重大な証言だ。当時の中核派の学生指導部で「党の情報をもって権力と取り引きする」「権力(この場合は検事であろう)と調書に残さない話をした」などということを口にすることは考えられないことだ。驚くべき事実だ。Q氏が憶えていた荒川の自慢げな様子とその発言は、まぎれもなく権力と取り引きしたことを意味する。 ではどのような取り引きか。同じく起訴され裁判闘争をたたかっている星野文昭さん、奥深山幸男さんと切り離して荒川だけ保釈となったこと、一審判決で星野=二〇年、奥深山=一五年にたいして荒川=一三年であったこと、二審で星野さんだけ刑が加重されて無期になったことを考えると、権力側は荒川による革共同内部情報提供と引き換えに保釈を与え、減刑を操作したのではないか。 水谷 彼ら三人は事後逮捕だった。星野さん、奥深山さんが現場に行っていたのに対して、荒川は現場に行っていない。しかし荒川は一一・一四渋谷暴動闘争における群馬軍団(群馬・栃木で構成)の政治責任者だった。星野さんは当時三里塚九月決戦で指名手配されており、一一・一四当日、国鉄中野駅で初めて群馬軍団と合流した。つまり彼は、荒川が組織した群馬軍団の上に当日になって舞い降りてきただけだった。渋谷暴動闘争の遂行主体の側からみると、荒川は群馬軍団の統括者であり、その政治的・組織的責任の位置は星野さんより高く、重い。権力側からみると、群馬軍団による機動隊せん滅戦を殺人罪として追及しているのだから、荒川の役割は、当日ぱっと出てきただけの星野さんの役割と同等ないしそれ以上のものがある。 ところが、一審の検察の論告求刑および判決文を、Q氏証言を踏まえて今読み返すと、たしかに荒川の役割への言及に甘さがあると読めなくもない。求刑も判決も、荒川への刑罰適用には匙加減を変えた可能性がある。 岸 もちろん推察のレベルだが、荒川は未決拘留中に党の情報を権力に売ったのは事実なんだろう。とすると、この時点でスパイとなっていたんだ。その後、下獄し、一九九二年六月に出獄した荒川を権力が手放すわけがない。改めてスパイの道に引き込んだという流れなんだろう。 水谷 Q氏証言が示す事実は直接証拠ではないにしても、荒川を権力スパイと断定しうる、ダメ押しといっていい。 革共同は一九七〇年代半ば以降、敵権力への内通者=荒川を内部に抱え込んでいたことになる。われわれの敗北は深刻なうえにも深刻だ。荒川には烈火の怒りをたたきつけねばならない。荒川スパイ問題の事実関係を隠ぺいする革共同中央派は権力に迎合する奴隷に成り下がった。オレたちは改めて労働者人民に謝罪し、この問題を追及し続けたい。 4 どのような党を構想できるのか ●権威主義との意識的闘争こそ 水谷 「組織論における反スターリン主義の不徹底」と書いたわけだが、これだけでは何もいってないに等しい。未整理だけど、現在の段階でもいえることがある。 第一に、われわれは権威主義とのたたかいを意識的な組織活動として措定してこなかった。じゃあ、党における権威主義とは何か。 それは単なる官僚主義的傾向とかではなく、党の本質の疎外化が権威主義である。官僚主義、行政主義、上意下達や独善性は権威主義の結果なんだ。何かとよく官僚主義うんぬんといわれるけど、『敗北』のわれわれ筆者としては、権威主義との闘争と定義づけたい。 党はさまざまな個性をもった共産主義者の政治的結集体である。この本多規定はまちがっていない。党の究極目標の達成の過程では指導・被指導関係が必要となり、それが前提に置かれている。そこまではいい。だが党が究極目標を忘れ放棄し、たたかわない党になるやいなや、あるいは権威主義とたたかうのではなく党指導部自ら権威主義の権化に逆転するやいなや、共産主義者間の指導・被指導関係とその基礎である対等な組織的人間関係が、〈支配と隷属〉の関係に必ず疎外される。 なぜ必ず疎外されるのか。それは、近現代の人間社会、あるいは帝国主義段階にまで進んできた資本主義社会、近現代ブルジョア社会にわが身を置いているからだ。ブルジョアイデオロギーに汚染されているからだ。加えて国際階級闘争のなかでスターリン主義が発生し、スターリン主義が歴史的・社会的・精神的にいわば所与の存在様式と化してきたからだ。 日本の場合は、ブルジョア社会の支配秩序とその論理プラス天皇制・天皇制イデオロギープラス日本共産党のすさまじい権威主義が沁みこんでいる。日本の左翼の伝統的体質・文化になってしまっている根深いものがある。 岸 その通りだよ。だから権威主義とのたたかいを排外主義・差別主義と並べて本多さんは強調した。権威主義とたたかうには、どうしたらいいのか。難しいけど、やはり権威主義と闘争するという意識性をもつということしかないだろうね。 水谷 うん。共産主義者としての組織的・個人的意識性をもつことだね。清水政治局体制のもとで権威主義を強めさせた自分の堕落した姿を見直してみると、権威主義の対極は理性である、という気がする。われわれにおける理性、知性の後退はひどいものだった。 ●なぜ党大会なのか――その必須性と絶対的意義 岸 権威主義とのたたかいの意識性を保障するものが党大会であり、それしかないといっていいのではないか。もちろん党大会をただやればいいというものじゃない。だけど、党大会を毎年行うこと自体の決定的な意義があることを積極的に確認すべきだ。 わかりやすくいうと、党執行部の活動、その姿の可視化ということかな。党員からみた党の透明性が保障されなければならないし、それを担保するものが党大会であるといえる。その上で、組織論の考え方として権威主義との闘争が重要なんだ。 日本共産党は宮本顕治体制の出発点となった第七回大会(一九五八年)以降は大体二~四年に一回、その間に何回かの中央委員会総会をやっているが、自由な討論などまったくない。大会も総会も権威主義をセメント化するための道具にしている。日本共産党の書記局長代行を務めたこともあり、共産党の顔として登場していた筆坂秀世が書いた『日本共産党』(新潮新書)を読んだけど、筆坂の政治的スタンスが日共より右寄りで、何の信念もなく、無内容そのものだった。ところが、党大会の叙述だけは権威主義の極致のままで、まったく同じだなと笑ってしまった。 水谷 トロツキーがロシア共産党およびコミンテルンのスターリン主義への一挙的な変質を目の当たりにして、スターリンの官僚主義的独裁に反対し、〝毎年必ず開いていた党大会を開いてもいない〟という点を強調していることは想起されていい。官僚主義との闘争の場として党大会が意義づけられることを、トロツキーはわかっていた。当時のロシアの革命家たちは激しい党派闘争と党内闘争の経験則からも、それがわかっていたのだと思う。 『敗北』では、それらのことを意識して「党員の権利行使の場としての党大会という位置づけが確認されるべきであろう」(第11章第4節)と書いた。 岸 そこを補足すると、政治権力論・統治論との関係で党の基本的性格やあり方の特徴を、本多さんが論じていたのを聞かされたもんだ。 つまり、ブルジョア民主主義の三権分立論がある。大統領制にしても議院内閣制にしても、立法府は行政府にたいして実質的に独立した権力ではなく、行政府を多かれ少なかれ補完する機能でしかない。いざというときには必ず行政権力の肥大化、独断専行となる。「国会は国権の最高機関である」という日本国憲法の規定ほど空疎なものはなく、国会は独立の活動能力を付与されていない。そのため国会が時の支配政党および官僚機構に牛耳られるだけなことは、日常、見せつけられているところだ。今の安倍政権の独裁政権ぶりは、ほかならぬ憲法が規定する議院内閣制という統治機構のゆえにもたらされているものだ。「国民主権」など絵に描いた餅なんだ。 それにたいして一九世紀のマルクスが、コミューン型国家の四原則の一つとして「議会風の機関ではなく、同時に執行し立法する行動機関でなければならなかった」(「フランスの内乱」)と問題を突き出していた。そのことがもつ意味を重視していた本多さんは、〝党大会は議会ではないんだ、「全国大会は同盟の最高議決機関である」という革共同規約の一項は特別の重要性がある、しゃんしゃん大会にしてはならない〟と強調していた。レーニンのいう中央集権主義の党は、最高議決機関としてフル展開する党大会を基礎にすることで、じつはもっともよく建設できる。党大会が本来の機能を発揮すれば、党の中央集権主義が盤石のものになる。だから、党大会をしないということは、党の執行部が党員から遊離・乖離し、つまり集権ではなく独断専行することをもたらす。党指導部が一個の権威主義的権力と化し、党全体が〈支配と隷属〉の権力関係にすり替わってしまう。清水政治局体制はそういう政治局絶対化の党をつくってしまった。オレたちはその先頭に立っていたわけだ。 水谷 その通りだね。ブルジョア民主主義者以下だった。「政治局の顔が見えない。そんな党でいいのか」という党員の叫びは、まさに至言だったのだ(第8章第3節)。 岸 一言追加する。清水が党大会開催にネガティブであったことは敗北本でも書いたとおりだけど、じつは秋山が党大会開催に激しく反対していた。いつだったか、清水は「オレは十数人の会議を開きたいんだが、秋山がそれでは防衛戦争ができない、やめてくれ、と強硬にいい張った」と弁解気味にいっていた。すでに大きな組織的犯罪を犯していた秋山の立場からすると、党大会や十数人の会議を開くことは自分の秘密がさらけ出される予感がして、拒絶したんだ。秋山は自己の秘密の防衛に汲々としていたんだよ。この点でも、革共同を内部から腐らせる役割をした秋山の罪はあまりにも重い。 ●三派連合の統一戦線は〝党〟になりえたか 水谷 「組織論における反スターリン主義の不徹底」ということの第二に、われわれ革共同の党建設論は党派闘争と党内闘争の規定をもたなかったということがある。また同時に統一戦線の本質論を欠如させていたということがある。 岸 レーニン『なにをなすべきか』の扉には「党派闘争こそが、党に力と生命をあたえる。党は、自身を純化することによってつよくなる」というラッサールのことばが置いてある。しかし、その本文では党派闘争と党内闘争それ自体をテーマにしていない。 水谷 そうなんだ。ちょっと話を変えるようだが、他党派で三派全学連時代の旧友が年賀状をくれた。そこには「昨年は久し振りに話せてよかった。党派の鎧がなければ、かくも真率な話ができるものを、と返らぬ後悔が――。」と書かれていた。胸が詰まる思いだった。まったく同感だ。 一九六〇年代半ばから一九七〇年代初頭にかけてのいわゆる三派・五派・八派時代の他党派のなかには、権力やカクマルにたいしてともにスクラムを組んだ戦友と呼べる人たちが少なくなかった。それがお互いを罵倒し、いがみ合った。あの戦友関係はどうすれば維持・発展できたのだろうか。 岸 われわれが脱党した後、三派・五派・八派時代の他党派の人々がわれわれをほんとうに温かく迎え入れてくれた。何もいわなくていい、時間がかかっても心の傷を癒せばいい、と激励し支えてくれた。三派・五派・八派時代にお互いに培った人間関係は独特のものがあったのだ、と改めて思ったものだ。 水谷 マルクスの時代の第一インターナショナル(国際労働者協会)は、それ自体がまだ党とはいえなかったが、マルクス執筆のれっきとした綱領と規約をもつ、新たな党をめざすものだった。組織分裂し十余年の短命ではあったが、革命闘争の激闘の過程をとおして労働運動のセンターという以上に世界革命の本部となっていた。また初期コミンテルン(共産主義インターナショナル)は、ロシア革命の勝利を土台にして世界各地の諸党派・諸勢力が結集し、現代革命の第一線の激しい論争をとおして複合的=単一的な世界革命党をめざすものだった。議長ジノヴィエフが第一回大会(一九一九年三月)の席上、コミンテルは十人十色だ、これが新しい党だ、という趣旨の発言をした。 それらは挫折、失敗し、あるいはスターリン主義的に歪曲されていった。けれども、われわれがめざすべき党は第一インターや初期コミンテルンがめざした同じものに重なるべきであり、それぞれの党派が来たるべき党の一分派として自らを位置づけるという考え方が求められるのではないだろうか。 岸 レーニン『なにをなすべきか』は、創り出すべき党を構成する分派組織論として読むということかな。 実際、ボルシェビキは一九一七年ロシア革命の過程でどんどん変わっていった。メンシェビキのコロンタイが結集し、時代遅れとなった古参ボルシェビキを尻目にただ一人、レーニン「四月テーゼ」を熱烈に支持した。一九〇三年のロシア社会民主労働党の第二回大会以来、レーニンと一貫して対立してきたトロツキーがボルシェビキに合流し、混迷する古参ボルシェビキを圧倒してソビエト組織化と武装蜂起を主導した。またレーニンは革命の農業綱領にエス・エルの「土地社会化」綱領を位置づけることで農民革命を鼓舞し、農民の支持を得て初めて蜂起・革命を達成した。だから一九一七年ロシア革命のボルシェビキはもう旧来のそれではなくいうなれば脱ボルシェビキ化した新しい型の党だった。革命的ダイナミズムのなかでの党とは革命的に変貌しうる党なんだ。そうした党だけが革命的蜂起を準備・貫徹してプロレタリア独裁を樹立できるということを、一九一七年ロシア革命は示した。 水谷 だから、あの三派全学連を想起するとき、あそこにめざすべき党の萌芽があったと思うんだ。旧友のことばを借りれば、「党派の鎧のない、かくも真率な人間的組織関係」を発見し、それを培い、育てていく道はなかったのか、と思うね。 岸 本多さんのことばでいえば、「革命の緊迫化のなかで党―大衆―階級の具体的結合をかちとる」(「七〇年安保闘争と革命的左翼の任務」。後に「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」でも引用)、そのなかでこそ党は創造される。ある固定された党が革命を実現するんじゃない。プロレタリアートの権力獲得のたたかいのなかでそれを可能とする党へと拡大・発展し質量的に変化する党ということじゃないか。清水政治局体制の革共同は、非常に固定化された閉鎖的な組織になってしまい、そうした内的なダイナミズムを喪失していた。それでいて、革共同が唯一正しい、革共同の周りを世界が回っているという革共同中心天動説に陥っていた。 水谷 そうだったんだよ。党概念の地動説へのコペルニクス的転覆が絶対に必要だね。 5 二〇一五年安保闘争は「次は何か」を問うた ●安保闘争は日米軍事同盟との闘い 岸 戦後七〇年で最大級に重大なたたかいであった二〇一五年安保闘争について、『敗北』と重ねて考えてみたい。 水谷 日本革命・アジア革命において日米軍事同盟とのたたかいが革命戦略の基軸である、このことが再び三度明らかにされたんではないか。安保法制はそれに先立つ四月2プラス2(日米安保協議委員会)で決定された新新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)の国内法化だった。ネーミングすれば日米侵略戦争法制だ。 この意味で、革共同が歴史的には一九八一年第五回大会において、安保・沖縄闘争という革命戦略の本質的次元で逃亡したことの誤りの大きさを無念の思いで噛みしめざるをえなかった。 岸 三里塚基軸路線という名目で安保・沖縄闘争から逃亡した。 水谷 忘れてはならないことは、三・一一福島原発事故への怒りと反省をテコとする広範な労働者人民の反原発運動が形成されてきていた新たな政治的・社会的・運動的な土壌の上に、巨大な国会闘争が登場したことだ。一九六〇年代、一九七〇年代の安保・沖縄闘争、反戦運動を担った層がこぞって立ちあがったことの意味は大きい。オレはとくに経産省前テントひろばの存在が安保闘争でも運動センターの役割を果たしたこと、決起した数十万のなかにあってかつてのラディカル左翼たちの存在が歩留まりの高さを示したことは、ほんとうに嬉しいことだ。 ●SEALDsの位置と役割 岸 このなかでSEALDsが、マスコミによるクローズアップの要素を除いても安保国会闘争の前面に躍り出て、牽引役を担った。SEALDs運動の核心点をまとめると、憲法第九条第二項の改定に賛成しているように装いを変えた改憲派である、日米安保肯定派、日米安保体制下の日本の個別的自衛権容認派である、歴史認識においては侵略肯定であり、その意味で反七・七路線派である。政治的には第二改憲論に立っている。それらは、彼らの設立理念やその都度の発言をみれば明らかだろう。SEALDsメンバーが書いた論文、千葉泰真「若者はこの国の政治を変えられるか?」(『Journalism ジャーナリズム』二〇一五年一二月)にもそのへんはよく出ている。そういう運動が若者を捉えたことを、ラディカル左翼の立場からは自己批判的に総括せねばならない。 水谷 SEALDsを総じていうと、保守派青年の決起といっても過言ではないだろう。彼らは反戦運動団体ではなく、戦後体制の秩序を守る運動団体なんだね。本年になって議会制民主主義の補完物になる方向を強めている。 岸 そのSEALDsを支え共闘してきたのが、レイシストをしばき隊を前身とするCRAC(クラック)だった。彼らは首都圏反原発連合から出てきた人たちでもあった。CRACは反原発を掲げながら放射能による被曝、汚染問題をまったく重視しない。それどころか被曝の被害を訴える人たちを攻撃する。あるいはSEALDsの侵略肯定史観を批判する人に排外主義的・差別主義的な悪罵を投げつける。CRACの構成員には天皇主義右翼も含んでいる。一九六〇年代・一九七〇年代のラディカル左翼、とくに七・七論にたいする強烈な拒否反応をその成立の動機にしている。 それは、左翼が衰退したという大きな空隙があり、そこに発生したCRACのような支離滅裂な保守的運動体に民衆が体制変革を期待するという事態だった。ファシズム前夜になりかねないという危機すら感じた。 ●沖縄の自己決定権行使のたたかいへ 水谷 二〇一五年安保国会闘争は一方では沖縄・辺野古新基地阻止闘争と並ぶたたかいだった。もう一方では、二〇〇七年以来の、二〇一三年以来の在特会の異様な登場とのたたかいが進行してきたなかでの運動だった。二〇一五年は、原発問題を全体のベースとしながら安保問題と沖縄問題と差別・排外主義問題が同時進行するという時代状況だった。さらにいうと天皇・皇后前面化問題が同時進行したことの重大性を看過してはならない。天皇の国家元首化の動きをみすえなければならない。 そのうち在特会との対決という反差別運動がCRACによって牽引されたという問題は、じつに複雑な難問を提起している。たとえば新大久保コリアタウンでの在特会のヘイトスピーチデモ=襲撃に際して現存の新左翼党派はどこも駆けつけなかった。差別・排外主義とのたたかいの戦場を反七・七路線派であるCRACに乗っ取られたといわなければならない。ここに左翼の危機、日本階級闘争の深刻な主体的危機がある。 岸 その通りだね。沖縄問題だけど、沖縄県民自身がかちとってきた沖縄闘争・辺野古闘争のグレードアップはほんとうに偉大なことだ。やはり安保闘争はイコール沖縄闘争なんだ。沖縄が本土の階級闘争の危機を救い、たたかいをリードし、安保闘争全体を決定的に励ましている。 革共同は本多さんを先頭にして「沖縄問題は独特の民族問題の契機を含む」と位置づけてきた。その問題が本土復帰以後の段階において決定的に現実化してきたのが翁長雄志知事登場だといえる。沖縄の自己決定権行使が現実のものになっている。これは沖縄―日本の近現代史において初めての事態であり、前人未到の試練に挑戦するものだ。 水谷 二〇一五年安保闘争は「次は何か」を突き出した。皆さんの総括から学びながらさらに考えていきたい。 岸 時間がきたので今日はこれまで。またやりましょう。 水谷・岸 『流砂』の貴重な誌面を割いていただき、御礼申し上げます。『敗北』を読んでくださった全国の皆さん、ありがとうございます。ぜひとも厳しいご批評をお願いします。 (おわり) 全論文 目次 File-089 革共同私史 橋本利昭(2016年7月) 革共同(中核派)関西派前議長の見解 File-088 (準備中) File-087 自著『革共同政治局の敗北』を語る 水谷保孝 岸 宏一(2016年2月) 元革共同(中核派)政治局員の見解 File-086 荒川さんを「スパイ」とでっちあげる安田派を弾劾する 革共同再建協議会首都圏委員会(2016年2月) 革共同(中核派)関西派・首都圏委員会の見解 File-085 荒川自白文書(抜き書き) 口述/荒川碩哉 権力スパイ荒川碩哉の査問における口述 Fileー084 労働者に打倒されて最悪のスパイに転落した岸・水谷・岩本を絶対許さぬ 革共同中央労働者組織委員会 (2015年6月) 革共同(中核派)中央派の見解 Fileー083 血債主義で5月テーゼに全面敵対 必ずスパイ岸・水谷・岩本打倒する 『前進』編集局(2015年6月) 革共同(中核派)中央派の見解 Fileー082 革命運動史上最大のスパイ分子に転落した岸・水谷・岩本を打倒せよ 革共同政治局(2015年5月) (準備中) File-081 清水丈夫よ、うろたえるな! 真実を正視するのだ!(2015年5月) 元革共同(中核派)政治局員の態度表明 File-080 革共同政治集会基調報告 大原武史(2014年7月27日) (準備中) File-079 全国機関紙担当者会議の基調提起 天田三紀夫(2014年4月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-078 荒川パンフは、なぜスパイ問題をはぐらかすのか(2014年12月) 元革共同政(中核派)治局員の態度表明 File-077 荒川スパイ問題をめぐる新事実公表と革共同政治局断罪の表明(2014年5月) 元革共同(中核派)政治局員の態度表明 File-076 全国単一の党の復権~『革共同50年史』から(2013年12月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-075 序章~『革共同50年史』から 清水丈夫(2013年12月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-074 刊行の辞~『革共同50年史』から(2013年12月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-073 全国業務報告(抜粋)(2007年4月中旬) 革共同(中核派)政治局による会議指導メモ File-027 北島邦彦殿――杉並に今の中核派は必要ない(2007年4月) 東京都杉並区民の声(1) File-072 階級的労働運動路線実践し杉並・北島必勝へ全力決起を(2007年3月) 革共同(中核派)の見解 File-071 杉並2区議問題について 大原武史(2006年10月) 革共同(中核派)の見解 File-070 荒廃する革共同――高木徹氏(前議長代行)除名・追放が意味するもの(2013年10月) 革共同(中核派)に対する批判 File-069 大内(高木徹)意見書にかんする手紙類 天田三紀夫他(2013年1月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-068 意見書「宇野理論の根本的批判」 大内(高木徹)(2013年1月) 革共同(中核派)元政治局員(議長代行)の意見書 File-067 荒川スパイ問題にたいする私たちの謝罪と自己批判(付 手紙)(2013年6月) 元革共同(中核派)政治局員の態度表明 File-066 権力のスパイ荒川碩哉を打倒(2013年6月) 革共同(中核派)中央派の見解(No277号) File-065 全国労組交流センター第20回定期全国総会での提起 入江史郎(2013年2月) 月刊『労働運動』2013年4月号(No277号)所収 File-064 交流センター運動の課題とス労自主の立場 入江史郎(2011年11月) 月刊『労働運動』2011年11月号(通巻No260)所収 File-063 3・14への意見書 西島(2006年3月) 革共同関西地方委員会内反対派の意見 File-062 毛利同志にかかわるHockey討議(西島)(2005年12月) 革共同関西地方委員会への報告 File-061 革共同・関西政治集会への提起 小山明(塩川三十二)2006年7月 革共同(中核派)の見解 File-060 3・14労働者蜂起の経緯(毛利)下(2006年7月) 革共同(中核派)関西派の見解 File-059 3・14労働者蜂起の経緯(毛利)中(2006年7月) 革共同(中核派)関西派の見解 File別01 当サイト管理者からのご挨拶(2011年3月) File-058 3・14労働者蜂起の経緯(毛利)上(2006年7月) 革共同(中核派)関西派の見解 File-057 政治局会議Ⅱへの提起(清水丈夫)3(2006年7月) 革共同(中核派)の見解 File-056 政治局会議Ⅱへの提起(清水丈夫)2(2006年7月) 革共同(中核派)の見解 File-055 政治局会議Ⅱへの提起(清水丈夫)1(2006年7月) 革共同(中核派)の見解 File-054 私は百万人署名運動の呼びかけ人を辞めます(藤本治) (2009年10月) 『今、憲法を考える会通信 No1』から File-053 百万人署名運動への永訣宣言(小田原紀雄) (2009年10月) 『今、憲法を考える会通信 No1』から File-052 革共同第25回全国委員会総会・第1報告(天田三紀夫) (2009年9月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-051 綱領草案(第四次草案) 革命的共産主義者同盟全国委員会 (2009年9月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-050 百万人署名運動 全国連絡会活動者会議(報告と議事録) (2009年8月22日) 事務局(革共同中央派)の見解 File-049 綱領草案(第三次草案)(2009年8月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-048 脱革共同を宣言した綱領草案――帝国主義権力打倒なき、闘わない団結革命論 (2009年8月) 革共同(中核派)中央派に対する批判 File-047 綱領草案(第二次草案) (2009年7月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-046 綱領草案(革共同中央労働者組織委員会・全国会議での提案) (2009年5月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-045 革共同全国代表者会議第Ⅲ報告(田中康宏) (2008年8月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-044 革共同全国代表者会議第Ⅱ報告(天田三紀夫) (2008年8月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-043 革共同全国代表者会議第Ⅰ報告(辻川慎一) (2008年8月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-042 7・25南部労働者集会の呼びかけ (2008年7月) 国鉄1047名闘争勝利!国労5・27臨大闘争弾圧と闘う南部労働者集会実行委員会 File-041 弁護団声明―5・27裁判の勝利をめざして (2008年7月14日) 国労5・27臨大闘争弾圧弁護団(弁護団長 佐藤昭夫) File-040 弁護人更新意見 弁論分離がなぜ不可避であったのか(2008年5月23日) 国労5・27臨大闘争弾圧弁護団(弁護団長 葉山岳夫) File-039 国労5・27臨大闘争弾圧を許さない会会報第32号 (2008年5月15日) 当事者(7被告、松崎被告、弁護団)それぞれの見解 File-038 〈部落差別のない糾弾〉の階級的本質はなにか 小山たかし(西村豊行) (2008年2月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-037 抗 議 文 (2008年4月9日) 「外登法・入管法と民族差別を撃つ研究交流集会」の呼びかけ人の脱退の声明 File-036 革共同との決別宣言 (2008年4月1日) 全国の「部落青年戦闘同志会」の宣言 File-035 「08年3・14」にあたって (2008年3月) 革共同(中核派)に対する批判 File-034 三里塚闘争のプロレタリア的爆発にむけて 織田陽介 (2008年3月11日) 革共同(中核派)中央派の見解 File-033 首都圏活動者会議提起 天田三紀夫 (2008年4月6日) 革共同(中核派)中央派の見解 File-032 2・3同住連全国代表者会議議事録 (2008年2月3日) 同和住宅家賃値上げ反対全国連絡協議会の会議 File-031 2・24広島差別事件についての真相報告集会のご案内 (2008年1月31日) 革共同による広島での部落差別事件関連文書 その4 部落解放同盟全国連合会 File-030 『革共同通信』創刊のアピール 革共同を奪還する! (2008年1月22日) 革命的共産主義者同盟関西地方委員会―関西派の意見 File-029 都革新「支持者」の言動を中核派中央に通報していた工藤文書を暴露する (2008年2月9日) 東京都杉並区民の声(2) 投稿 File-028 07年区議選に向けての若干の意見ほか 工藤 (2006年9月2日~10月18日) 革共同(中核派)中央派の見解 File-027 北島邦彦殿――杉並に今の中核派は必要ない(2007年4月) 東京都杉並区民の声(1) File-026 「同志会総会(12・23)」議案批判 速見(清水丈夫) (2008年1月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-025 労働運動研究会1月レジュメ (2008年1月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-024 革共同中央指導部会議メモ (2008年1月) 革共同(中核派)中央派の見解 File-023 意見書№2 松本 (2007年12月31日) 革共同(中核派)内反対派の意見 File-022 スターリン主義的反革命への転落の道か、革命的共産主義の再確立の道か 203(2007年12月23日) 革共同による広島での部落差別事件関連文書 その3 関西DS総会での提起 File-021 合同労組に取り組む全同志のみなさんへ 大原(2007年2月20日) 革共同(中核派)の見解 File-020 全学連中島副委員長・革共同中四国地方委への「申し入れ書」 など (2007年9月24日~12月2日) 革共同による広島での部落差別事件関連文書 その1 部落解放同盟全国連合会広島支部など File-019 石嶺同志の策動を徹底的に弾劾する 報告者/ドナウSF・中条 (2007年10月13日) 革共同による広島での部落差別事件関連文書 その2 革共同(中核派)の見解 File-018 党の変質をきわめた23全総批判 (2007年11月18日) 革命的共産主義者同盟関西地方委員会―反中央派の意見 File-017 「11・6政治局決定」に関する意見―11・18関西党員総会へ(2007年11月18日) 革命的共産主義者同盟関西地方委員会-反中央派の意見 File-016 橋本自己批判書(2007年7月5日) 革共同関西地方委員会 File-015 革共同政治局会議(07・7)議事録(2007年7月) 革共同(中核派)の見解 File-014 意見書 松本 (2006年12月31日) 革共同(中核派)内反対派の意見 File-013 11・18革共同関西地方委員会党員総会(2007年11月19日) 革命的共産主義者同盟関西地方委員会 File-012第24回拡大全国委員会総会特別報告①当面する部落解放闘争の諸問題(2007年11月) 革共同(中核派)の見解 File 011 第24回拡大全国委員会総会提起 (2007年11月) 革共同(中核派)の見解 File 010 この間の路線論争の論点整理(序) (2007年5月) 革共同(中核派)内反対派の意見 File 009 マルクス主義とかくも異質なるもの―3・14天田論文を怒りをこめて批判する(2007年4月) 革共同(中核派)に対する批判 File 008 「党の革命」1周年にあたって 天田三紀夫(2007年3月) 革共同(中核派)の見解 File 007 7・7路線を清算した革共同7月テーゼ(2007年9月) 革共同(中核派)に対する批判 File 006 階級的労働運動路線のもと7・7思想の革命的再確立を(7月テーゼ)(2007年8月) 革共同(中核派)の見解 File 005> <歴史的存在としての革共同>を否定した大原議案(2007年6月) 革共同(中核派)に対する批判 File 004 全国会議議案 革共同中央労働者組織委員会・大原武史(2007年5月) 革共同(中核派)の見解 File 003 革共同中央の「新路線」を批判する (2007年3月3日) 革共同(中核派)に対する批判 File 002 前進「07年政治局1・1アピール」について (2007年1月1日) 革共同(中核派)に対する批判 File 001 革共同政治局1・1アピール(2007年1月) 革共同(中核派)の見解
2018/03/26(月) 19:19:51 |
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古本屋通信 No 3202 2018年 03月26日 現代天皇制議論にひとこと 私はさいきん現代象徴天皇制について語ることに、極めて消極的である。いま言わなくて良いんじゃあないの、という感じなのだ。何時だったか、福山の神原さんが美智子さんの新聞投稿を皇室のメディア露出として批判した時も、私は美智子さんを吉永小百合と同格の有名人と捉えたらどうですかと書いた。あんまり神経をピリピリさせなさんなという意味だ。 明仁天皇の退位と皇太子の天皇即位に関する新聞記事を私は読んでいない。赤旗の関連記事もスルーである。いまキンピーサイトを見たら、何やら志位委員長が言ったらしく、新しい板が立てられていた。私は共産党には興味がないまま投稿に目をやった。ありゃ、冒頭から太宰ファン様がエライ正論をブッていらっしゃるではないか。嬉しくなって下を見たら、623 さんが関係ない件で、エライ保守的なことをおっしゃっているではないか、少し反応してみたい衝動にかられたが、その前に私の天皇制に対する基本的スタンスを言っておこうか。 私は日本国憲法など屁とも思っていないから、第一条、第二条がどうであれ、またその天皇条項が憲法の主権在民と両立しようがしまいが、そういうことには興味がない。それと関係なく、ひとがひとのうえにひとを置く、いっさいの差別制度に反対である。現代世界の流れからも、あらゆる王制は過去形になりつつある。共和制こそ、ふつうの統治国家である。ちなみに朝鮮は金王朝ではない。共和制である。日本は朝鮮よりずっと後進国である。よって日本の現代象徴天皇制は廃止すべきである。理由は太宰ファン様とワーストトリオ様が書かれている通りである。 1. 太宰ファン 2018年03月25日 12:21 こんな下らんことを言う前に、もう一気に天皇制は人権上問題がある(皇族に生まれた人たちの、人間としての諸権利の制限)から廃止を考えよう、とか言ってみろよ。少なくとも、皇族関係者を普通の人として生活できるようにしろとか何とか。中途半端なアホな議論ばかりだな。 3. ワーストトリオ 2018年03月25日 18:37 太宰ファン様に全面的に賛同します。 天皇制は人権上問題があるどころの話ではなく、天皇条項を他の憲法条項よりも上に置いていることに他なりません。なぜなら憲法で保障されているはずの「基本的人権」「職業選択の自由」「被選挙権」などが、皇族に生まれたというだけで一切保障されないからです。 今の日本で「生まれながらに職業を決められている」のは天皇一家以外に一切ありません。歌舞伎役者とか老舗とかで「跡継ぎ」と決められていても、それに法的な拘束力は何もない、その家の関係者が勝手に言っているだけのこと。ところが皇族は法的拘束力があるのです。 こんなことを認めておいて、憲法を守るべきというのは許しがたきごまかし。 現実には無理だと思いますが、本来なら共産党は天皇制廃止を掲げなければいけません。 4. 623 2018年03月25日 21:32 老害不破に権限がるのか。 不破氏、共産党の名称堅持=野党共闘「壁越える」だってさwww > 共産党の不破哲三前議長は時事通信のインタビューで「党名は堅持する」との考えを示した。 他の野党には連携に当たり、共産主義を連想させる同党の名称に抵抗感が根強いが、不破氏は「党名の意味をはっきり分かってもらうことで、その壁は越えるつもりだ」と強調した。 古本屋通信 病院の予約があるので、帰ってから続きを書くが、623様のおっしゃること、よく分からない。不破上皇がどう言おうが、また日本共産党がコミュニストパーティーを語る資格があろうがなかろうが、日本に共産の名をかぶせる政治党派は必要なのか、それとも不要なのか、この一点を避けた議論は左翼の議論ではない。623様はゆるやかな転向をなさっているのではないか、そう感じた。 続きは帰ってから。 続き。 623様に。マルクスが「経哲草稿」で述べたような3つの疎外がある社会は、疎外を止揚するには共産主義の実現しか方法はない。ならば革命を指導する前衛の存在は不可欠である。以上。 私は1989年のヒロヒトの死=大喪の礼をもって、日本の支配権力による天皇利用はかなり弱まったと見ている。しかしコレは実感だから根拠を示せと言われると弱い。いまでも日本会議その他の極右が皇国史観であることは間違いない。日の丸・君が代攻撃も相変わらずだろう。だがブルジョアジャーナリズムの皇室報道を量と質に於いて10年スパンで観察せよ。昭和20年代から平成20年代まで検討せよ。明らかに変わってきている。皇室スキャンダルなんかヒロヒトの時代には表面に出なかった。明仁と美智子さんの結婚報道と、皇太子と雅子さんの結婚報道を比較せよ。十分の一以下だろう。最近の紀子さんの娘のハズなんか目も当てられないではないか。あきらかに菊タブーは減少している。コレは日本の独占ブルジョアジーが階級支配に皇室を利用する必要がなくなったことを意味している。それは部落差別の利用価値がなくなっていることと表裏一体だろう。 まあ異論も出ることを覚悟で書いた。上記の私の意見から結論は、憲法の天皇条項の削除は先延ばししてもよいのではないかということである。正直に書こう。紀子さんの娘さんの結婚はささやかな愉しみである。然しコレは或る大学準教授によると、私が騙されているんだそうな。さて ・・・。
2018/03/26(月) 07:40:57 |
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古本屋通信 No 3201 2018年 03月26日 池内沙織は意味不明な性リツイートをするな たかがリツイートだから見逃して貰えると思って、気軽にするのだろうが、その犯罪は過小評価できない。またしても池内沙織である。ここまで来ると(逆)色キチガイの範疇だろう。簡単に見ていく。 池内さおりさんがリツイート 桜島ニニコ @sakurajimanini · 3月23日 「女の子が望んだ場合もある」とか「2人は恋愛関係」とか言う男性擁護派はいるけど、たとえ少女のほうが成人男性に好意で近寄った場合でも、成人男性の正しい反応はこれだと思うよ。「君が児童だっていう点において現時点では絶対に許されないことなんだよ。」大島弓子「恋はニュートンのリンゴ」より 古本屋通信 池内がリツイートしている桜島ニニコ の元ツイートには、大島弓子「恋はニュートンのリンゴ 」 のマンガの3コマが副えられている。読者をそれを読むことが出来る。マンガには少女と成人男子が描かれている。このさい絵は重要ではないので、2人の会話部分だけを抜粋しておく。少女 「年の差は別れの理由にならない たとえ百歳はなれていても あたしと同じ気持ちって あなたも持ってもらいたいけど それが無理なら 友達でも妹でもいい とにかく別れたくないの 」 「そのうち あたしも年をとるし イザコザは少なくなるわ それまであの大人達にまけないで おねがい 」男子 「だめだよ この年の差っていうのは 18歳と29歳 60歳と71歳の差とは わけがちがうんだ 君が児童だっていう点では 絶対的に許されないことなんだよ 」 大島マンガの文脈を捨象して3コマだけで論じるのに危険を感じるが、ここでは3コマだけを前提にする。まずこの男女は18歳と29歳なんだろう。そうとしか読めない。大島が、男に、何ゆえ18歳を児童と言わせたか分からない。たぶん少女の未成年(20歳未満)を言わせたかったのだろう。それは分かる。だが18歳は少女であっても児童ではない(ふつうの日本語では小学校児童、中学校生徒、高校は生徒でも学生でも可、大学は学生であろう )。 少し正確に言おう。18歳は初潮年齢と見做される13歳を、とっくに超えている。従って同意があれば、性交が法律的に是認される年齢である。これは今では社会的にも一般に認められている。 このマンガの3コマだけで少女が男に性関係を求めたと読むことには無理があるが、そう読めないこともないから、桜島と池内がそう読んだことは了解する。 さて男の発言だが、18歳と29歳の恋愛、さらに性的関係は「絶対的に許されないこと 」なのか。男が本当にこう思って発言しているのか、それとも少女から逃げたい口実なのか、3コマだけでは我々には分からない、が然し、桜島は、そしてリツイートした池内も、明らかに18歳と29歳の性的関係は許されないことと読み取っている。 ここで大島マンガから離れる。18歳と29歳の恋愛、さらに性的関係が許されないなど、どこをどう見ても有り得ないことである。 桜島と池内はキチガイというよりファシストである。なぜなら自論の結論を導くためには手段を選ばず他人を悪用しているからである。 18歳と29歳の(恋愛や同棲は云うまでもなく)正式結婚は無数にある。女の法的結婚年齢の下限は16歳である。これを18歳にするという法律論は現在あるが、現状は16歳である。桜島と池内は論外である。 つぎに現在の教育現場と世間の平均認識を書く。私の中高時代は60年安保の直後だったが、その頃は不純異性交遊という言葉が文部省の指導要録か何かにも明記され、教育の立場からも男女の一対一の交際は望ましくない、ましては性交は法度であった。男女同意の性交であっても、妊娠すれば高校を退学というケースもあった。ふつうは女子が自分から自主退学するのである。 あれから50年経った。いまでは不純異性交遊という言葉は死語になり、男女の婚前性交はふつうのことになった。教育現場、中学・高校の現場での議論は、あってよい。然し、少なくとも男女の恋愛、それに基づく性交は人間的自然の営みであるとの基本認識は現代社会のコンセンサスになった。これは進歩である。 私は桜島と池内は貧しいと思う。70歳の私が何ゆえ桜島と池内に説教を垂れねばならないのか。私は池内の性感覚は歪んでいると思う。男女の性愛は性交も含めて男女双方を豊かにする。人間の性が動物の性とちがう点は、性が出産目的以外の歓びであることだ。池内は常にマイナスファクターしか口にしない。だから変態扱いにされる。性的マイノリティを語るのは構わない。だが性的マジョリティの認識を踏まえての性的マイノリティ議論でなければならぬ。池内はイビツである。 今回の私の記事を、実にクダラナイと思った方は多いだろう。だが私は池内を有田につうじる人物として捉えている。事実、有田は衆院選挙東京ブロックで池内の応援に入った。池内は断っていない。つまり池内にはスパイに付け込まれる理由が十二分にある。それは上記のリツイートと無関係あるまい。パッパーの阿呆で済ますわけにはいかないのだ。
2018/03/26(月) 02:41:53 |
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