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古本屋通信

文芸同人誌『群狼』

古本屋通信   No 3088    2018年  01月30日


     文芸同人誌『群狼』


  右遠俊郎について自分が書いた過去文を検索していたら、偶然にも 『群狼』 のバックナンバーが顕われた。私としてはヒットである。古本屋を始めてから23年間のあいだで数冊は見たが、一覧などついぞ見たことはなかった。キーパースンは右遠の他は小林昭 と 稲沢潤子である。小林は岡山である。すっかり宝物を見つけてしまった。日本の古本屋にもアマゾンにもないであろう。

 この記事はあくまで自分のための転載なので、自分の必要に応じて赤字変換することをお断りしておきます。

文芸同人・群狼の会
文芸同人「群狼の会」は1969年に作家・右遠俊郎を中心に民主主義文学同盟の支部として設立されました。それから今日まで同人誌『群狼』の刊行を中心に活動しております。文学の危機といわれる今日、文学の本流とはなにかを探究しつつ、文芸創作活動をつづけています。

◎文芸同人誌『群狼』総目次
(創刊号1974年12月~第43号2003年8月)
1号 2号 3号 4号 5号 6号 7号 8号 9号 10号 11号 12号
13号 14号 15号 16号 17号 18号 19号 20号 21号 22号 23号 24号
25号 26号 27号 28号 29号 30号 31号 32号 33号 34号 35号 36号
37号 38号 39号 40号 41号 42号 43号
         

■第1次(創刊号~第12号)
●創刊号・1974年12月 評論= 歴史感覚と戦争体験―阿川弘之『暗い波濤』をめぐって/小林 昭、 稲沢潤子私論/愛敬浩一、 詩= ひらかれる窓(73~74)野津明彦、 作家を訪ねて(1)= 松田解子/聞き手・稲沢潤子、 書評= 『状況へ』を読んで/池内克郎、 『冬の花 悠子』を読んで/杵鞭静江、 朝日茂歌集『人間裁判』について/右遠俊郎、 小説= 見知らぬ街で/小林 昭、 母と1円玉/鬼丸国男、 萌えいでにけり/中島峰子、 黄色い影法師/吉野 晃
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●第2号・1975年8月 詩=声/野津明彦、 小説=星もとべば/池内克郎、 長い日/野津明彦、 ハモニカ/鬼丸国男、 K・M君の靴下店/稲沢潤子、 短歌= (現つなく)杉浦貞子、 評論= 稲沢潤子私論(2)愛敬浩一、 作家を訪ねて(2)=大岡昇平/聞き手・池内克郎、 苫小牧行/右遠俊郎、 小説= 十九歳の愛と革命/吉野 晃、 ある村の記憶/佐々木正康、 きららの沖へ/中島峰子、 わたやんの墓守り/吉野 圭、 忘れられた暗闇/白浜秀司
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●第3号・1976年2月 小説=おはぐろどぶ/白浜秀司、 めじろ/鬼丸国男、 誰かが戸をたたく/吉野 圭、 森の声/千葉 功、 ふるさと/佐々木正康、 招待/野津明彦、 帰郷/中島峰子、 ヒロイズムの太鼓/吉野 晃、 作家を訪ねて(3)= 戸石泰一/聞き手・小林 昭、 評論= 「レイテ戦記」考―死んだ兵士たちのために/小林 昭、 透谷試論(1)岩間輝生、 講演= 小説の可能性/右遠俊郎、 エッセイ= 婦人参政権についての宮本百合子の意見/稲沢潤子、 短歌= 梅雨に病む/杉浦貞子
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●第4号・1976年7月 小説= 雲/白浜秀司、 蕗/坂井久子、 風のある日/池内克郎、 九官鳥/鬼丸国男、 キリコのバーボンウィスキー/千葉 功、 紫陽花/吉野圭、 六月の陽の下で/中島峰子、 あの街角から/田尻満弥、 作家を訪ねて(4)=金石範/聞き手・岩間輝生、 評論=最近の『民主文学』について/右遠俊郎、 世子試論/愛敬浩一、 透谷試論(2)『蓬莱曲』について/岩間輝生、 回想し 悩めるひととき/杵鞭静江
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●第5号・1977年3月 小説= ゆらめく朝/粕谷ひろみ 魔術師/井上 猛 暮れの夜/田尻満弥 種/伊藤満枝 氷の幻想/佐々木増博 評論= 取残された側の論理/愛敬浩一、 形象のたいせつさ―三浦哲郎『野』について/小林 昭、 想像力について/右遠俊郎、 書評= 武田泰淳『目まいのする散歩』岩間輝生
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●第6号・1977年7月 小説= 石榴/井上 猛、 風がとまるとき/粕谷ひろみ、 オーディオ・フェア/渡辺知明、 作家を訪ねて(5)= 吉行淳之介/聞き手・右遠俊郎、 詩= 河原で/野津明彦、 エッセイ= 山岸外史さんのこと/稲沢潤子、 現代文学への提言(1)北からの〝ヤポネシア〟考/小笠原 克、 評論= 右遠俊郎『呼松水路』私論/愛敬浩一
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●第7号・1977年1月 小説= 風の夜/工藤勢津子、 酒/栗原 茂、 小さな青空/田尻満弥、 作家を訪ねて(6)黒井千次/聞き手・右遠俊郎、 評論= 戦後意識の座標―右遠俊郎の初期/愛敬浩一、 書評= 大岡昇平『事件』岩間輝生、 77文学状況(1)愛敬浩一
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●第8号・1977年12月 小説= 冬瓜/石井裕子、 花の宴/伊藤みつゑ、 海にいるのは/鬼丸国男、 窓/我妻二三九、 作家を訪ねて(7)霜多正次/聞き手・小林 昭、 評論=三島由紀夫の方法―戦後意識の座標への自註/愛敬浩一、 77文学状況(2)愛敬浩一、 小説= 新ちゃんのこと/右遠俊郎
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●第9号・1978年3月 小説= いぬふぐり/井上 猛、 格子縞/志賀岑雄、 版画/石井裕子、 人形/田尻満弥、 冬の陽/松井順子、 詩= 日曜日には/野津明彦、 小説= 錦ヶ浦でのこと/右遠俊郎、 書評= 三浦哲郎『おらんだ帽子』渡辺知明、 78文学状況(3)愛敬浩一、 評論= つかこうへい小論―〈演技論〉のゆくえ/愛敬浩一
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●第10号・1978年7月 小説= 犬とあひるのいる風景/石井裕子、 遠い場所/松井順子、 しつどかり/工藤勢津子、 石/渡辺知明、 作家を訪ねて(8)李 恢成/聞き手・愛敬浩一、 現代文学への提言(2)笑いの回復/池田広司、 78文学状況/愛敬浩一、 詩= アフリカより遠く/野津明彦、 評論= 党派的な個人への讃歌―稲沢潤子『冬草の萌え』小林 昭、 小説= 紫陽花いろのかげ/粕谷ひろみ、 冬の灯/井上 猛
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●第11号・1979年3月 小説= 安楽椅子/洲浜昌弘、 雨/我妻二三九、 握手/志賀岑雄、 作家を訪ねて(9)大原富枝/聞き手・稲沢潤子、 79文学状況/愛敬浩一、現代文学への提言(3)〈散文精神〉の再生 ―菊田均の言説について/栗坪良樹、 小説= 夏の光と影/鈴木真智子、帰省中の一日/渡辺知明、 惜別/右遠俊郎
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●第12号・1979年2月 戸石泰一追悼特集=グラビア・在りし日の戸石泰一、 再録・戸石泰一の小説2篇=祖先について/戸石泰一、 玉砕/戸石泰一、 概説・戸石泰一の文学と人間= 戸石泰一における「私」/小林 昭、 戸石泰一の横顔/稲沢潤子、 作品論・戸石泰一の特質と位置= 初期短篇について/右遠俊郎、 『青い波がくずれる』について/池内克郎、 『火と雪の森』について/愛敬浩一、 『消燈ラッパと兵隊』について/岩間輝生、 『愛と真実』について/田尻満弥、 「三鷹下連雀」その他について/鬼丸国男、 「欅並木の芽ぶくころ」について/志賀岑雄、 追悼・戸石泰一の思い出= 遺訓/沼田卓爾、 人生第一・文学第二/桜井幹善、 みかん/草川八重子、 悲秋/中島峰子、 戸石さんを憶う/松田解子、 戸石先生のこと/長谷川綾子、 骨の香り/小野才八郎、 在りのすさび/永井 潔、 夏の日の想い出/井上 猛、 戸石さんのこと/土井大助、 通夜の席で/澤田章子、 文学教室の夜/粕谷ひろみ、 細すぎる路/角 圭子、 突然の死/草鹿外吉、 戸石さんと出あいの頃/津上 忠、 夫のこと/戸石八千代、 インタビュー・戸石泰一に聞く= わが文学遍歴/聞き手・右遠俊郎、 戸石泰一年譜/鶴岡征雄
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■第2次(第13号~第24号)
●第13号・1979年8月 〈未発表書簡〉= 宮本百合子の手紙/佐々木一夫、 小説= 歌わない/志賀岑雄、 赤星病/洲浜昌弘、 葬儀の日/渡辺知明、 夏の沼/井上 猛、 人形/鈴木真智子、 批評を批評する(1)〈思想の悲劇〉という架空の劇 ―磯田光一の言説/栗坪良樹、 評論= 三島由起夫論のために―環境/愛敬浩一、 文学ジャーナル/愛敬浩一、 エッセイ=「ドッチデモ・イイ」顛末記 ―「戸石泰一年譜」余聞/鶴岡征雄、 〈人生問答〉民主主義者の歩道(1)古在由重・右遠俊郎ページ先頭
●第14号・1979年11月 小説=冥(くら)い河/松井順子、 耳/志賀岑雄、 星砂/粕谷ひろみ、 批評を批評する(2)=〈生〉の狡猾―江藤淳について/栗坪良樹、 農村からのレポート・都市からのレポート(1)日本農業の現実から出発する ―岡山平野の水田酪農/定本正芳、 高層ビルと街路樹―ビルメン労働者のつぶやき/千葉 功、 詩= 飛沫/三田 洋、 〈人生問答〉民主主義者の歩道(2) 古在由重・右遠俊郎、文学ジャーナル/愛敬浩一
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●第15号・1980年3月 小特集・佐々木一夫= インタビュー 農民・思想・文学/(「作家を訪ねて」10)聞き手・志賀岑雄、 「魅せられた季節」覚え書き/宮本阿伎、 「青い処女地」小論/村山雅彦、 自筆年譜/佐々木一夫、 小説= 雨/鶴岡征雄、 父への電報/小林邦代、 小滝橋/間方幸隆、 遺稿・修学旅行/戸石泰一、 批評を批評する(3)〈制度〉破壊という名の制度 ―柄谷行人・中上健次の論理/栗坪良樹、 詩= 視線/三田 洋、 エッセイ= 国民的合意ということ/右遠俊郎 飲み残された〝ダルマ〟―故戸石泰一氏追想―矢内 昇、 農村からのレポート・都市からのレポート(2)単一経営と複合経営の展開 ―北海道稲作の実態/定本正芳、 深夜の逃走―転々とした若者の体験/千葉 功、 文学ジャーナル/愛敬浩一
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●第16号・1980年8月 小説= 上京/渡辺知明、 舌/志賀岑雄、 おっさんのこと/秦 仁志、 しん/岡部一雄、 批評を批評する(4)泰平の逸民的跳躍飛翔の論理 ―高城修三・立松和平について/栗坪良樹、 評論= 「冬の大いなる虹」小論/宮本阿伎、 農村からのレポート・都市からレポート(3) 日本農業の性格とその展望―農民的有畜経営の意義/定本正芳、 子供は商品ではない―急増する育児産業・ベビーホテル/瀬谷道子、 評論〈投稿〉=事実に対する不偏と作家の責任/小林八重子、 〈人生問答〉民主主義者の歩道(3)古在由重・右遠俊郎、 文学ジャーナル/渡辺知明
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●第17号・1981年3月 小説= 父の墓/鶴岡征雄、 四月/渡辺知明、 批評を批評する(5)暴力する中学生 そしてクリスタル世代/栗坪良樹、 評論= 「妻たちの二・二六事件」私論/小林八重子、 農村からのレポート・ 都市からのレポート(4)猪が出る土地/佐々木一夫、 星が流れた-ゼロメートルの高層/織田 進、 文学ジャーナル/渡辺知明 〈人生問答〉民主主義者の歩道(4)古在由重・右遠俊郎ページ先頭
●第18号・1981年8月 小説= 灰色の風景/松井順子、 卒業/渡辺知明、 鶏頭/粕谷ひろみ、 朝焼けの富士/高熨斗千春、 評論= 島木健作(1)『再建』論を中心として/村山雅彦、 書評= 稲沢潤子『涙より美しいもの』粕谷ひろみ、 農村からのレポート・都市からのレポート(5)失われる共同化/佐々木一夫、 猫を捨てるな/織田 進、 文学ジャーナル/渡辺知明 詩= 黒いオルフェ シネマ・ノオト/三田 洋、 〈人生問答〉民主主義者の歩道(5)古在由重・右遠俊郎
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●第19号・1982年3月 小説= 父の上京/渡辺知明、 風車(かざぐるま)鈴木真智子、 誘惑/松井順子、 農村からのレポート・都市からのレポート(6)農村に思うこと 千葉 功、自立へのもだえ―「非行」洲浜昌弘、 評論= 『寵児』にみる自己確立の課題―7〇年代末の津島佑子/小林八重子、 島木健作(2)―破綻したベストセラー『生活の探求』『続生活の探求』 村山雅彦、 文学ジャーナル/渡辺知明 書評=歴史としての友愛―古在由重・右遠俊郎・対話 『思いだすこと忘れえぬ人』読後感/永井 潔、 右遠俊郎『安中騒動記』について/粕谷ひろみページ先頭
●第20号・1982年1月 小説= アセトン血性嘔吐症/鶴岡征雄、 夜更けの窓から/伊藤みつゑ、 牛乳/栗原 茂、 山本順一の記録/秦 仁志、 影/崎坂妙子、 真夏日/粕谷ひろみ、 評論= 〈塵の中〉の樋口一葉/小林八重子、 人間論ノート序章/右遠俊郎、 核問題エッセイ= 80年代の狂気にふれて―敦賀原発事故から一年/武藤永二郎、 6・12ニューヨーク反核集会に参加して/奥山修平、 古在由重著『草の根はどよめく』によせて/ 粕谷ひろみ
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●第21号・1983年4月 小説= 大学生/渡辺知明、 父/鬼丸国男、 おとうと/鶴岡征雄、 手紙/秦 仁志、 サチコ断章/間方幸隆、 週末/石井裕子、 夜行列車/千葉 功、 詩= 「また」という日は来ない/山本 萠、 評論= 澤地久枝の〈戦後〉小林八重子、 エッセイ=それでもおまえは日本人か/右遠俊郎ページ先頭
●第22号・1983年1月 小説= 再会/秦 仁志、 母/鈴木真智子、 路/粕谷ひろみ、 独法師/間方幸隆、 折れたハンドル/鶴岡征雄、 評論= 大原富枝論ノート(1) 『亜紀子』私論/小林八重子、 旧稿再録・旧稿再読= ある娘と母の立場/まことから出た嘘/角 圭子、 エッセイ= しゃべらされるの記―『草の根のうた』その後/志賀岑雄、 軍隊のなかの人間/右遠俊郎
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●第23号・1984年2月 エッセイ= 神格と象徴/右遠俊郎 小説= 大森日記/鶴岡征雄、 十年目の手記/渡辺知明、 佐平おじさんと村田銃/千葉 功、 随想= 大正作家の原稿料のことなど/江口栄子、 評論= 大原富枝論ノート(2) 『婉という女』私論/小林八重子、 文学ジャーナル、小野東のこと/右遠俊郎、 小説= 矢車草/間方幸隆、 母の話/秦 仁志
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●第24号・1984年1月 小説= 秋嵐/福井美保子、 杉の木と北風/桧山斗志光、 義母の入院/志賀岑雄、 夏の話/秦 仁志、 別れ道/渡辺知明、 書評= 右遠俊郎『こどもの目 おとなの目』洲浜昌弘、 評論= 大原富枝論ノート(3)十一年間のモノローグ/小林八重子、 絵本のリアリズム―ふるたたるひ「おしいれのぼうけん」について/右遠俊郎ページ先頭


■第3次(第25号~第36号)
●第25号・1985年7月 〈小特集・梅崎春生 人と文学〉 小説= 黄明華のこと/右遠俊郎、 埋葬/加勢俊夫、 螢/福井美保子、 酒のいたずら/栗原 茂、 棧橋/間方幸隆、 晩夏/鈴木真智子、 街角の手記/渡辺知明、 或る秋の1日/桧山斗志光、 長篇連載=波の音(1)洲浜昌弘、 評論=大原富枝論ノート(4) 〈神〉につづく道/小林八重子、 エッセイ= えび、ツグミのうた/伊藤信吉、 父・宮地嘉六/宮地彌生子、 「赤いシクラメン」に寄せて/中村喜和、 作家の遺品―野上弥生子展から/澤田章子、 多喜二とキネマ/日高昭二、 「国家機密法」断想/小林 昭、 阿蘇山と「久住」/志賀岑雄、 小特集 没後20年 梅崎春生 人と文学= 梅崎春生の書簡/霜多正次幻化の人/永井 潔、 或る日のこと/梅崎恵津、 賭けの文学/梅崎光生、 梅崎春生の生と死/鶴岡征雄
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●第26号・1985年12月 小説= 旧吾嬬町西三丁目/鶴岡征雄、 祖父のこと/福井美保子、 蟻地獄/間方幸隆、 忘れえぬ人/桧山斗志光、 祖母からきいた話/秦 仁志、 歓待/加勢俊夫、 梅崎春生・宮地嘉六両作家を偲びつつ―『群狼』懇親の夕談話集/ 右遠俊郎・梅崎光生・梅崎恵津・霜多正次・宮地彌生子・鶴岡征雄、 エッセイ= 穴あきのパンツ/志賀岑雄、 北海道への旅/鈴木真智子、 長篇連載=波の音(2)洲浜昌弘、 講演= 時代・人間・文学/右遠俊郎
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●第27号・1986年9月 小説= 開店祝い/渡辺知明、 家/加勢俊夫、 骨/間方幸隆、 そのひとのこと/鶴岡征雄。 長篇連載=波の音(3)洲浜昌弘、 特別寄稿= 『赤いシクラメン』始末記/右遠俊郎 『地熱』を書くまで/稲沢潤子、 エッセイ= カラオケとタバコ/志賀岑雄、 書評= 福田利子『吉原はこんな所でございました』 澤田章子 評論= 『何とも知れない未来に』を読む ―〈原爆〉追体験私記/小林八重子
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●第28号・1987年6月 小説= 初詣/鶴岡征雄、 眼/志賀岑雄、 父/渡辺知明、 つかのまの春/秦 仁志、 憂愁/間方幸隆、 評論= 習作時代の林京子/小林八重子、 追悼 佐々木一夫= 佐々木一夫さんを悼む/永井 潔、 佐々木一夫さんのこと/田村 栄、 父を想う/進 篤子、 佐々木一夫年譜/志賀岑雄編、 エッセイ= 黎子さんのこと/澤田章子、 長篇連載=波の音(4)洲浜昌弘、 講演= 啄木の小説について/右遠俊郎、 映画評「エル・ニド」秦 仁志
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●第29号・1988年7月 小説= 猫を捨てる/渡辺知明、 羽化/桧山斗志光、 声のない人/秦 仁志、 桜芝居/間方幸隆、 エッセイ= 君臨する神々/小林 昭、 ガンバレ!業者婦人(かあちゃん)志賀岑雄、 長篇連載=波の音(5)洲浜昌弘、 講演=短篇小説の魅力/右遠俊郎
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●第30号・1989年11月 小説= 「平和」志賀岑雄、 E線の歌―ある男の語る話/渡辺知明、 自転車のこと/秦 仁志、 アルゴンの告白/澤野勝也、 ペナン島にて/加勢俊夫、 五月雨/鈴木真智子。 朝まだきに/桧山斗志光、 右遠俊郎 多喜二・百合子賞受賞祝賀会 での祝辞・スピーチ= 自己変革と見事な総合/夏堀正元、 四十一年のつき合い/細窪 孝、 エッセイ= 阿部昭の短歌/小林八重子、 身の振り方/間方幸隆、 酔談= 人生と芸術について/永井潔・右遠俊郎、 長篇連載=波の音(6)洲浜昌弘、 エッセイ=永井潔の小説と碁/右遠俊郎
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●第31号・1991年1月 小説= ねがい/秦 仁志、 最高の休日/澤野勝也、 はなむけ/渡辺知明、 再会/も桧山斗志光、 大きな顔の小さな目/加勢俊夫、 夕食不要/右遠俊郎、 エッセイ= 「胡桃割り」断想/小林八重子、 大空ヒット氏のこと/志賀岑雄、 長篇連載=波の音(7)洲浜昌弘
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●第32号・1992年2月 小説= もみじ/加勢俊夫、 靴音/桧山斗志光、 失恋/渡辺知明、 運河にて/澤野勝也、 コスモス/秦 仁志、 エッセイ= 独歩の「窮死」について/右遠俊郎、 初めての体験/志賀岑雄、 長篇連載=波の音(8)洲浜昌弘
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●第33号・1992年12月 小説= 百日紅/鈴木真智子、 リヤカー/秦 仁志、 地下食堂にて/渡辺知明、 熱情/澤野勝也、 エッセイ= 放哉の句碑/右遠俊郎、 「関東大震災」のこと/志賀岑雄、 近況=どんぐり/桧山斗志光、 長篇連載 =波の音(9)洲浜昌弘
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●第34号・1994年3月 小説=クッションの刺繍/右遠俊郎、 母の手帳/渡辺知明、 金色の鯉/加勢俊夫、 あぜ道/桧山斗志光、 赤ちゃん/秦 仁志、 エッセイ= ここから歩く/小林八重子、 はな・ハナ・華/志賀岑雄、 長篇連載 =波の音(10)洲浜昌弘
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●第35号・1995年4月 評論= 国木田独歩の詩―『抒情詩』を中心に/右遠俊郎、 小説= 川の見える部屋/渡辺知明、 黄土色の感傷/桧山斗志光、 小さな舞台/秦 仁志、 評論= 黒島伝治の『橇』と『渦巻ける烏の群』加勢俊夫、 エッセイ= おとなのひと/小林八重子、 「うさぎ」/志賀岑雄、 長篇連載 =波の音(11)洲浜昌弘
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●第36号・1996年4月 小説= ミュンヘンの夕日/秦 仁志、 宮原さんの庭/渡辺知明、 悲の序曲/右遠俊郎、 回想・経岳端坐して白雲立つ―亡き橋爪利喜蔵先生に/小林八重子、 長篇連載 =波の音(12)洲浜昌弘、 エッセイ= おのが細道/志賀岑雄、 「城の崎にて」について/間方幸隆、 街に開発癌が/桧山斗志光、 書評= 『モーツァルト16の扉』秦 仁志、 「群狼」総目次(創刊号~第36号)
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■第4次(第37号~第48号)
●第37号・1997年12月 小説=タケノコの味/渡辺知明、 女たちの選択/鈴木真智子、 夏草や/洲浜昌弘、 エッセイ=我が家の松事情/栗原茂、 小説=柱/桧山斗志光、 春の日の幻想/秦仁志
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●第38号・1998年9月 小説=鯉/洲浜昌弘、 異母姉妹/鈴木真智子、 チロルの少年/秦仁志、 トンネルじん肺患者たち/新船海三郎、 緑の薬/小林八重子、 良太の挑戦/斉藤静子、 東京暮らし/渡辺知明
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●第39号・1999年9月 小説=立退き騒動/渡辺知明、 閉所恐怖/栗原茂、 コルティナの少年/秦仁志、 ひまわり/洲浜昌弘、 エッセイ=ある過去、あるいは、なにかの答え/加勢俊夫、 亡母断章/小林八重子、 特集=右遠俊郎短篇この一作/遠い春/枕頭部屋/さんどの恋/冬の日の記憶/弟/初恋/別離/他、日差しから北風まで―年譜を作成して/志賀岑雄
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●第40号・2000年8月 小説=峠道/洲浜昌弘、 どぶ川をわたる風/斉藤静子、 庭の風景/渡辺知明、 独り芝居/栗原茂、 白い死神/秦仁志、 つばめ一羽/小林八重子、 白寿/右遠俊郎
ページ先頭
●第41号・2001年8月 小説=大吉/洲浜昌弘、 伯母の家/渡辺知明、 母の湯釜/斉藤静子、 ストラグル、九年/加勢俊夫、 「いのちの時間」をゆく/小林 八重子、
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●第42号・2002年8月 小説=外濠まで/渡辺知明、 捏造/洲浜昌弘、 ウィンブルドン公園にて/秦仁志、 南の塩/稲沢潤子、 歳暮の客/右遠俊郎 ページ先頭
●第43号・2003年8月 小説=猫/洲浜昌弘、 過疎の春/斉藤静子、 従兄の恋人/渡辺知明、 煙草の害について/右遠俊郎、 平凡賛歌/はたひとし、
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  1. 2018/01/30(火) 17:41:51|
  2. 未分類

本日1/30赤旗紙面の怪

古本屋通信   No 3087    2018年  01月30日


   本日1/30赤旗 (日刊紙) 紙面の怪



  事実だけを端的に申し述べる。何の批判・非難の意図もない。

 きょうの赤旗日刊紙の一面と続きの三面に、以下の見出しの記事がそれぞれ頁の半面を使って大きく掲載された。

 北朝鮮問題 ペリー元米国防長官に聞く 外交的解決の論拠 94年危機より強い 使用の敷居低め 強い倫理的立場明確 国民の教育に力注ぐ


 見出しだけではわかりにくいだろうが、私は精読した。面白かった。それを除いて感想は2点あった。(米カリフォルニア州パロアルト=池田晋、遠藤誠二)とあるから、赤旗の独占インタビューであろう。よくやったな、ということだ。これ特ダネだろう。聞いたことのないヒットである。もう1点。にも拘わらず、日本共産党の政治機関紙の赤旗が現役を降りているとはいえ、米帝の元国防長官いわば人殺しの親玉の見解を肯定的に記事にしてよいのかということ。その相矛盾する感想をもった。

 で、とりあえずウェブ記事が出たら全文を転載しようと決めた。これが早朝の6時である。そのご店に行って帰り、正午過ぎに赤旗ウェブをひろげた。ない、ないのである。どこにもない。狐に摘ままれた気分である。一面と三面を大々的に使った本日の第一記事である。それがウェブ版に掲載されていない。

 どういう意図なのか分からない。事実だけを書いておきたい。或いは一日遅れで明日のウェブ版に載るのかも知れない。
  1. 2018/01/30(火) 13:46:16|
  2. 未分類

稲嶺進に絶好のプレゼントだわ

古本屋通信   No 3086    2018年  01月30日


   マア名護市長選(稲嶺進)に絶好のプレゼントだわナ


  私ゃもとから翁長も稲嶺も支持しとらんし、野中が小渕内閣時代にやった悪行も承知してた。そのうえでデモクラットと評価した。でも翁長も稲嶺もデモクラットでありゃせん。稲嶺選挙の邪魔しようとは思わんが、大平みたいなカルトにはアリの一言もまた良かろう。




野中広務氏と翁長雄志氏と辺野古移設
2018年01月29日  アリの一言
26日死去した野中広務元官房長官に対し、日本共産党までが「平26日死去した野中広務元官房長官に対し、日本共産党までが「平和と沖縄への深い思いを決して忘れません」(志位和夫委員長、27日付「しんぶん赤旗」)などと手放しで賛美しています。事実に反する評価と言わねばなりません。

 例えば、小渕内閣時代(1998・7・30~2000・4・5)、野中氏は官房長官として何をしたでしょうか。

 ★1999・5・24 「周辺事態法」など「新ガイドライン」3法成立強行(日米安保体制新段階へ)

 ★1999・8・9 「国旗・国歌法」(「日の丸」「君が代」法制化)成立強行

 ★1999・8・18 「通信傍受(盗聴)法」成立強行(プライバシー権侵害、支配体制強化)

 ★1999・8・18 「住民基本台帳法」改定強行(同)

 これでどこが「平和への深い思い」でしょうか。

 「沖縄」に対しても同様です。

 「大政翼賛会のような形にならないよう」という衆院本会議での発言(97年4月11日)が「ハト派」の象徴であるかのように取り上げられていますが、あの発言は米軍用地特措法の改定を強行した衆院特別委員会の委員長としての報告の一コマです。
 同特措法改定は、「米軍用地の強制使用を容易にする」もので「改定特措法の成立は、日本の政治が沖縄の世論を押しつぶす構図を象徴的に表現していた」(新崎盛暉氏『沖縄現代史・新版』岩波新書)のです。どこが「沖縄への深い思い」でしょうか。

 特筆する必要があるのは、野中氏が米軍普天間基地の辺野古移設を一貫して推進した張本人だということです。

 1997年12月21日、「辺野古海上基地建設の是非」を問う名護市民投票が行われました。結果は、賛成45・31%、反対52・85%で、辺野古移設・新基地反対の民意が改めて示されましたが、投票を前に危機感をもった橋本龍太郎内閣(当時)は反対派の切り崩しに躍起になりました。その先頭に立ったのが、当時自民党幹事長代理だった野中氏です。

 「政府側は賛成派の劣勢を覆そうと、港湾整備や市街地再開発などの『振興策』を提示し、地元ゼネコンや防衛施設局の職員たちまで大量動員して戸別訪問させた。幹事長代理の野中は現地入りして、その後押しをした」(魚住昭著『野中広務 差別と権力』講談社)

 翌98年11月、政府(小渕政権)・自民党は、県知事選で大田昌秀知事を倒し、辺野古移設容認の稲嶺恵一知事を誕生させました。全国に先駆けた自公連立が威力を発揮しましたが、その黒幕も、公明党の弱点を握っていたといわれる野中氏でした。

 野中氏は知事選前から「大田県政と手をつなぐことは絶対しない」(1998年7月1日琉球新報)と公言し、「大田県政が続く限りいかなる振興策も実現しないかのような閉塞感を煽(った)」(新崎盛暉氏、前掲書)のです。

 しかもこの知事選で「稲嶺陣営は…『県民党』を強調したが、実際には官房機密費が使われたとされ、政府・自民党の強力な後押しの中での県政交代だった」(櫻澤誠著『沖縄現代史』中公新書)と言われています。
 先日の最高裁判決でもその暗闇・非民主性が改めてクローズアップされた官房機密費。それが使われた知事選。使ったのは当時の官房長官・野中広務その人です。

 辺野古移設に反対し続けている人からこんな野中評が出るのは当然でしょう。

 「(野中氏を)ハト派、リベラル派と捉えることには違和感しかない。実務面で沖縄の民意をつぶすために豪腕を発揮した人だ。…今日に続く苦しみの根幹を作り出した」(名護市民投票に携わった宮城康博氏、27日付琉球新報)

 こうして辺野古移設を陰に陽に推進してきた黒幕・野中氏と密接な関係にあったのが翁長雄志現知事にほかなりません。

 翁長氏は野中氏の死去にあたり、「沖縄のことを心から考えて頂いていた方がまた一人お亡くなりになり、大変残念でならない」「沖縄に対して並々ならぬ深い思いを持たれていた方だった」と最大限賛美したうえ、「腹を割って話ができた、懐の広い政治家だったと思う」(27日付沖縄タイムス)と述べました。

 肝胆相照らす仲だった野中氏(当時、小渕内閣官房長官)と翁長氏(同、自民党沖縄県連幹事長)が二人三脚で取り組んだのが、辺野古新基地容認の稲嶺恵一県政を実現する知事選(1998年)でした。翁長氏自身がそれを誇示しています。

 「稲嶺(恵一)氏は普天間の代替施設の県内への移設を認めたうえで、『代替施設の使用は一五年間に限る』ことを知事選の公約に掲げました。この移設先の基地の使用期限を公約に入れさせたのは、自民党県連幹事長だった私でした。防衛庁の官房長クラスと話して『これを掲げなければ選挙に勝てない』と食い下がって、政府側にのんでもらった経緯があります」(翁長氏『戦う民意』2015年12月角川書店)

 重要なのは、翁長氏が4年前に知事選に立候補した時から今日に至るまで、過去に辺野古移設推進の先頭に立ってきたことに対し、なんら明確な反省・自己批判を行っていないことです。それが今回の野中氏に対する手放しの賛辞にも表れていると言えるでしょう。

 現に、翁長氏が支持者向けの言葉とは裏腹に、本気で「辺野古新基地は造らせない」つもりなのか疑わせる事象が多々あります。その典型は、今に至るまで選挙公約だった「埋立承認撤回」を行おうとしていないことです。

 28日告示された名護市長選で、翁長氏は稲嶺進候補の応援に立ちましたが(写真中)、「承認撤回」はおろか、「辺野古新基地は造らせない」とさえ言明しませんでした(29日付の琉球新報、沖縄タイムスの報道の限りで)。
  1. 2018/01/30(火) 12:45:18|
  2. 未分類

大平喜信‏の沖縄応援は無効

古本屋通信   No 3085    2018年  01月30日


   大平喜信‏は沖縄選挙の応援に行く金はないはず



  いったい、そんなお金がどこにあるのでしょうか。絶対に行ってはなりません。たとえ私財を使っての旅行でもです。大平の金は全て党からの拠出金です。国会議員歳費も党からの拠出と考えるべきです。元を質せば全て党員の党費や支持者のカンパです。それでも国会議員時代にはJR無料パスがありました。今はありません。沖縄選挙の応援は、ゆとりのある党員に任せるべきです。いますぐ帰って来い。


大平喜信‏認証済みアカウント @tekuteku_diary · 14時間14時間前
沖縄県へ到着。名護市長選挙の応援に。空港で、島根県からかけつけた片寄さんと吉井さんと合流し、ともに行動することに。今日から3日間、稲嶺ススムさんの勝利のために全力をつくす。




   古本屋通信

  いま日本の民衆は貧困で喘いでいます。私もそのひとりです。年金は普通のサラリーマン(40年間勤務者)の約4割です。古本屋の家賃+水光熱費で約7万円です。これを古本売り上げの粗利から捻出するのはギリギリです。沖縄はおろか福山市議会に新幹線で行く金さえ捻出できません。いったい大平はどういう選挙応援をするのでしょうか。下働きの電話当番なら、まだ許せます。まさか高い所から演説するのではないでしょうね。そんなことをしたら稲嶺は落選するでしょう。沖縄に外人部隊は不要です。接戦を制するのは大平らではありません。いますぐ帰ってこい。


 昨日の赤旗一面の記事は以下の見出しでした。

 追い詰められる生活保護利用者 焼きザケ一切れ2食分 自公政権下で扶助4分の1カットに 生存権かけ「たたかいます」

 私はウェブ版に載れば転載するつもりだったが、載らなかったのであきらめた。この記事には高齢者住宅でひとり暮らしをする88歳の吉田喜美さんのシルバーカーの写真が掲載されている。旅館の仲居を70歳で解雇され、生活保護を利用している。年金はない。私の見立てでは、たぶん党員だと思う(でないと、赤旗は正面からの個人写真は掲載しないだろう。本人同意で顔写真ありなら党員だろう)。党員の生活に格差があり過ぎはしないか。大平は国会議員だった時は党員任務だったから構わない。いまは吉田喜美さんに寄り添って、その目の高さで活動すべきではないのか。私は何も特別なことを求めていない。そういう目の高さで活動している党員は、大平の友人にもいる。謙虚になれ。元国会議員なんて屁でもないのだ。


生活相談

2018年 01月29日  日本共産党福山市議 河村ひろ子
ブーンと携帯のアラームが鳴ります
うう~ん(-"-)・・・・寒い・・・・布団から出たくない
しかし、今日は朝宣伝
えいやっ!と起きて、7時15分に家を出発

恒例の月曜日宣伝のあと、今日は生活相談に奔走です
生活保護を受けているシングルのママさん
仕事と保育所の利便性を考えて引っ越しをしたいけど、アパートが見つからない
という事でアパート探しです

福山市で二人暮らしの場合、生活保護で認められている住宅扶助の基準額は4万1000円
基本的には、この額内のアパートを探さなくてはならない
実際に不動産を周ると、家賃3~4万円代の住宅は
築30年、トイレは汲み取り式、日当たりが悪い、交通量が多い道路沿いなどなど
子どもがいるから、近くに公園で日当たりがいい所・・・・とは言えない物件ばかり

国は家賃の基準額を設け、その額以上の所に住んでいたら、基準額内の家へ引っ越すように指導します
健康で文化的な生活どころか、「住めればいい」
本当に許せません!

国は、生活保護費の削減を実施しようとしています
生活保護基準の引き下げで、影響を受ける様々な制度があります
介護保険料、利用料の減免、難病患者への医療費助成、保育料、障害福祉サービス、国民年金保険料の減免、就学援助など影響を受けるのです

生活保護費の削減は、保護受給者だけの問題ではありません
夕方も、生活保護に関する相談が寄せられました
夜も相談に奔走です
生活相談に多くなるという事は、政治が悪くなっている証拠ですね
明日も頑張ります
  1. 2018/01/30(火) 07:14:47|
  2. 未分類

デボーリン再登場!

古本屋通信   No 3084    2018年  01月29日


    デボーリン再登場!


  2チャンネルから撤退したと思われていたデボーリンが突如として再登場した。私を「性差別者」とするスレを立てることを提案している。感動した。私が「スターリン主義者」とは、デボーリンに言われれば名誉だな。でもデボーリンて、何処かで東大卒の匂いがするんかなあ。私は腰が高いとは思わないのだが。私がこの板に目を通すのはデボーリンとマル彦さんの投稿を見るためだけである。したがって腹が立ったことはない。




86革命的名無しさん (ワッチョイ) ← デボーリン
2018/01/29(月) 19:21:08.430

「にゃん」とかいう奴はどうでもいいから、性差別者古本屋通信専用のスレを立ててくれないかね?

【性差別者】古本屋通信【スターリン主義者】 みたいな感じで。

古本屋通信の誹謗中傷は明確に犯罪のレベルに達している。倉敷民商も国民救援会も「この性差別者・犯罪者の支援は拒否します。」と言わなければならない。

>>66
朝鮮は民族解放運動支援のために軍を派遣している。
第四次中東戦争では空軍将兵をシリアやエジプトに派遣している。エジプトが親米・親イスラエル化したにも関わらず1995年まで韓国と国交を結ばなかったのは、金日成への恩義があったからだ。
他にもアンゴラ・モザンビーク・ナミビアなどの民族解放運動支援のため派兵している。もちろん軍事分野だけでなく民生分野での協力もおこなっている。

>>56
「普通選挙」の定義を知っているか?

ニューワイド学習百科事典 | 学研キッズネット
https://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60017150.html
身分・納税額などで差別しないで,すべての成年の男女に選挙権をみとめる制度。

これを見れば、どこからどう見ても朝鮮民主主義人民共和国では普通選挙が行われているが…
「すべての成年の男女」とあるが、受刑者に参政権が認められていない日本のような国でも「普通選挙」の定義から外れないのだから、朝鮮民主主義人民共和国だって外れないはずだ。


87革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 19:35:17.300
居候のくせに態度ビッグな奴だな。


88革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 19:49:12.170
××翁は憎たらしくも可愛いいところがいっぱいあるので許せるが、間借り人のくせして図々しい>>86はダメだね。


89革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 22:02:36.860
ttps://dailynk.jp/archives/88415
韓国で「ホンモノ」の選挙を初体験する脱北者たち


90革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 22:06:08.800
北朝鮮・シリアの化学兵器コネクション
ttps://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/04/post-7458.php


91革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 23:03:33.230
デボーリンとやらは本当に東大を卒業したの??
古本屋がデボーリンだと名指しした人の書き込み見ても全然大したことないんだが。
嘘つくなら自称法政卒ののんちゃんみたくバレにくい嘘つけと・・・・
結局、あっちもバレたけどさ。

古本屋通信
横から失礼します。デボーリン(旧名 元東大民青)氏は間違いなく東大を卒業しています。すでに元東大民青のハンドルネームの投稿は全て消していますが、約2年にわたって、大量の投稿が私のブログにありました。私はその全てを掲載して彼と論争していました。そもそも最初の投稿は坂井希と彼が東大民青で仲間だった事から始まるのですが、そこには元東大民青でなければ書けない数々の事実が満載されていました。その遣り取りの一部は今でも私の収納倉庫に残っています。


92革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 23:32:19.890
東大卒はそれなりにいるが賢かったら共産党なんか入らないわけで。
むかし小川三四郎を名乗った文学部の院生は、マルクスの解釈でぶさよに
突っ込まれてへんてこな反論を繰り返してみんなのおもちゃにされてたし。

古本屋通信
そんなことはごく最近でしょう。戦後まもなくからデボーリンや坂井希の時代まで、東大生の優秀な部分はみんな左翼でした。東大は各派のオンパレードでしたが、そのなかでも共産党・民青は最強でした。疑う人は私の東京大学新聞のエントリーをお読みください。東大教養駒場の自治会は、殆どの時期民青が制していました。デボーリンはたぶん経済学部だったでしょう。教養から学部に上がるとき入党を拒否されています。私は彼がなぜ季節はずれにトロツキストになったのか分からないのですが、筋金入りのトロです。だから私は場所を提供し続けているのです。まあ私の関係ではマル彦さんと双璧ですね。私はべつにマゾヒストではありません。彼の高飛車な物言いは面白くありませんが、それにまさる見識があるから重宝しているのです。


93革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 23:34:45.230
バカでも間違って東大に入ることはある。
田川豊とか。


古本屋通信
この投稿、もしかしてデボーリン? 田川に怨みがあるんだねえ。田川は今も多磨の地区委員長のママですが、最近准中央委員に復帰して大きな顔をしています。兄弟の実は国際部員ですね。たしかに東大卒にも阿呆は多い。国会議員には腐るほどいる。だが、一枚上等が多いのも事実です。当ブログに絡んできた数少ない東大卒として、私はデボーリンを重宝している。何よりも言語明瞭です。読んで意味が分かる。これ大変な事なんだ(ちょっと誰とは言わないけれど、最近の2チャンネルにも意味が取れない投稿があった。苦労して解釈するのだが自信がない。自信がないママに応答する。そしたら突っ込まれる。私が悪いのではなく、相手がいい加減なのだが、先方は自分を棚上げして私の不明を責める。それだけで2チャンネルは疲れる。デボーリンの文にはそういう誤読を誘う曖昧さがないということです)。


94革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 23:38:45.190
>>92-93
デボーリンさんがどっかのスレで昔自己紹介してましたけど、
高千穂商科大学から東大教育学部に学士入学を果たして民青に入ったのだそうです。
だからそれなりに頑張り屋さんなのでしょう。頭も良いです。

古本屋通信
これは誤解です。これは前スレでデボーリンを貶す他の投稿者が 高千穂商科大学を右翼の偏差値30台の大学として持ち出したデマです。いくら学士入学といえども高千穂から東大教育への入学はないでしょう。東大教育は代々左翼の巣窟でもありました。学士入学は定員割れの時に有り得ますが、デボーリンはそもそも教育学部ではないと思います。まあ共産党本部職員へのエリートコースではあります。私は反対ではありません。だから坂井希委員長なのです。思い出しましたが、東大への学士入学といえば、1960年頃の滝口がありました。東京外大からの学士入学です。東大に社青同解放派の組織を作りました。今でも中核派なんか、あるんじゃあないですか。組織を作る目的の学士入学が。私も疑われたらしいのですが、これはピントはずれでした。

95革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 23:43:56.840
すげぇ!
  1. 2018/01/29(月) 20:27:06|
  2. 未分類

古本屋の罪は重い

古本屋通信   No 3083    2018年  01月29日


    古本屋の罪は重い


 老婆心ながら。貴殿がマルクス文献を読んでいないとは思わない。読んでいても、マルクス学徒として表現しないから、このザマになる。


  神原さんが藤原なる売文商人の本を実際に読んでツイートしたかどうか知らん。だが読まんでも分かるだろう、どうしようもないクズだとういうことが。べつに商売を非難しない。しないが商売の延長としてというより、商売そのものとしてやった「山口敬之準強姦疑惑の現場に足を運び徹底検証」を引用するとは、これは明らかに古本屋としての頽廃である。

 藤原なんて読まなくてもよい。私は一冊も読んだことはない。入れば片っ端からツブす。『東京漂流』 の大活字の表紙を見れば十分である。詐欺本なのだ。負けて、読み本である。新幹線で読み捨てる本である。まあ読まなくても右だ。直感まちがいなし。下にまともなレビューを貼っておく。

神原卓志(かんばらたくし)‏ @shiawasetakiji · 21 時間21 時間前
見出し=
藤原新也が山口敬之準強姦疑惑の現場に足を運び徹底検証!
ホテルでも寿司屋でも、山口の卑劣反論のウソが浮き彫りに
「LITERA」2018年1月28日
ttp://lite-ra.com/2018/01/post-3763.html



 東京漂流  藤原新也
 5つ星のうち1.0
 1983年に39歳だった男性の文明批評。
 投稿者ジョージ2015年6月26日
 著者に取っては反核運動もボランティア活動も憲法読書運動も似非文化の「カタカナのブンカ」なのだ。(P、231)
それは(あくまでも著者に取って)反核運動に「ソ連のプロパガンダが一枚噛んでいる」からであり(P、125)
日本国憲法はアメリカ軍に拠る日本改革のひとつ(P、121)ときた。
著者にとっては、日本国憲法は大勢の日本人が推敲し国会で採択決議をしたもの「ではない」のだろう。
たぶん現実とは違う,もう一つの歴史が著者の頭の中を流れているのだ。
著者の目には、戦後文化はアメリカナイズに拠るものでそれは旧前の良い日本を無くしたもの、なのだ。
これらが全て日本人が己の手で選び取ったものであることを著者は認めようとしない。
つまり著者は呆れるほどに旧態依然とした右翼であり、そのことは「デザイナーの意図があるように見えた」と
巧妙に責任逃れをした以下の文章にも現れている。
「、、、一国家一民族一言語の日本人は、、、」
これが間違いであることは、日本人とは何か、をまじめに考えたことが或る人なら即座に理解出来るであろう。
アイヌ民族や金髪碧眼の「日本人」もいるという、子供でも知っている常識が著者には無い。
現実を見ない,理想の姿が過去にしかない、更に思考が全体主義であればもうこれは立派な時代遅れの右翼である。
すでに古書として1円で売られているこの本を精読する意味があるとは思えない。
  1. 2018/01/29(月) 19:03:37|
  2. 未分類

「デボーリンではない」氏に答える

古本屋通信   No 3082    2018年  01月29日


    「デボーリンではない」 氏に答える



  2チャンネルの最新の投稿だが、これは低脳党カルトではなかろう。根拠はハンドルネームにわざわざ「デボーリンではない」を使っていることだ。どういう方か分からないが、真面目な疑問であり、多くの方が同じ疑問を持たれるだろうから、最小限度答えておく。二つ前提がある。一つは引用文の末尾の書いたように、これは私独自の見解ではない。党61年綱領の立場である。一般的には「敵の出方論」と言われており、革命が平和的な形態をとるか、或いは非平和的形態をとるかは、敵すなわち武装した国家権力の出方による、したがって予め味方の手を縛ってしまうのは現実的でないとする見解である。これに対しては綱領採択時から1980年代位まで、マスコミ中心に多くの疑問が寄せられた。そのひとつひとつに対して当時の宮本書記長(後の委員長、議長)が丁寧に答えている。私はそれに100パーセント同意する。私独自の見解は何もない。それでネットで宮本見解を探したが見つからなかった。もう30年も前だから当然だろう。正確ではないが、私の記憶で当時の宮本見解を最小限記しておきたい。紙の文献は多く残っているだろうが、すべて田舎の倉庫にあるから参照出来ない。それともう一つは革命の形態は一般論では言えるが、具体的な展開は其の時になってみなければ予測困難だということだ。最大限平和的形態を追及する、それだけだ。宮本書記長は記者からかなり突っ込んで訊かれていた。



84デボーリンではない (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 11:47:15.980
笑えるよな。党そのものが武装すんのかよ。

>私は非武装中立論者ではない。誤解を恐れず言えば、武装中立論者である。 日本革命のあかつきに世界に帝国主義列強が残存していれば、日本は憲法を改正して自衛軍を持つべきだと考える。但し今の自衛隊は米帝のための軍隊だから、これを利用することはありえない。ひとり残らず武装解除する。即ち全員解雇のうえ新しい職業を斡旋する。そうすると暫らくのあいだ日本はまる腰になる。この期間、いったい朝鮮や、中国や、ロシアが日本に攻めて来る? その可能性はないが、米帝が居座ってCIAを使って、日本の反革命勢力を手助けする可能性はゼロではない。ここに日本革命が流血を伴なう可能性がある。だからこそ日本共産党の組織を若返らせ、強固にしなければならない。これは私の独創ではない。日本共産党 61年綱領の立場である。



  古本屋通信

  断っておくが、上記の方の拙文の引用それ自体について、私は論を重ねない。ふつうの防衛論である。ただ、誤解があるといけない。私の云う「武装中立論者」というのは党が武装するという意味では全くない。自衛軍を(徴兵制ではなく)公募して、今の自衛隊に替わる国軍を持つという意味である。私は以下で、これとは別に革命の形態について書く。

 まず「党そのものが武装」するのでは全くない。つまり極左冒険主義の51年綱領を自己批判したうえでの61年綱領なのだから、中核自衛隊などという稚拙な戦術を採るわけがない。それに高度情報化社会で、武器など隠し持てるわけがない。弾圧してくれと頼んでいるようなものだ。

 以下はひとつのケース。民主連合政府が国会の過半数をもって樹立されるとする。そのさい一切の行政機関は政府主導で進められる。ただこの場合、権力機構の一部が旧勢力を担いでクーデターを起こす可能性は否定し切れない。別に特異な事ではない。戦後の世界史に数多くあった。

 警察機構がクーデターを起こす可能性は日本ではない。あるとすれば軍隊である。宮本も固有名詞は避けていたから私も避ける。軍隊たぶん一部が非合法のクーデターを起こしたらどうするのか。基本は民族民主統一戦線勢力の包囲網を持って未然に察知して予防することである。次に行政力である警察力でクーデターに対峙し、これを武装解除することである。あっさりと武装解除できればよいが、戦闘になる場合もあるだろう。マア浅間山荘みたいになるだろう。ここまで日本共産党の出番はない。

 ここからだが、日本共産党が武器弾薬をもってクーデターに対峙することはありえない。だが敵は共産党員を皆殺しにするつもりである。1965年のインドネシアでは一夜にして500万人の共産党員が殺された。最低限の自衛といってもピンと来ない人は、東大闘争のヘルメットと棍棒を想起されたい。まあ具体的なことは、その時になってみないと分からない。クーデターはありうるだろう。平和革命の思想が革命的警戒心をスポイルしなければ幸いだある。嗚呼、疲れた。
  1. 2018/01/29(月) 13:14:33|
  2. 未分類

日本防衛論と仮想敵国

古本屋通信   No 3081    2018年  01月28日


   日本防衛論と仮想敵国



  直前板で安倍改憲反対署名を取り上げたので、その続きを少し発展させて書いてみたい。

 いまキンピーサイトにおいて、太宰ファン様の安保をめぐる所説にKM生様が反駁され、他の方も加わってチョッとした論争になっている。私はそれに割って入るつもりはなく、太宰ファン様は彼なりに研鑽を積まれた反共だから、私は一目おくことにやぶさかではないが、そこらの論争を踏まえたうえで、それから独立したかたちで少し書くことにする。


 一般的なマスコミ用語、いやブルジョア議会用語でもあるのだが、「日本の安全保障」 という言葉自体がすでにマヤカシに充ちている。コレは、日本人民の国土と財産は、何かの軍事で護らねば、脅威に晒されている、という前提の議論である。ここから日米同盟と自衛隊が言われる。「日本の安全保障」 は「日本の防衛」 言ったほうがストレートで分かり易いだろう。それ自体は避ける議論ではない。

 避ける議論ではないが、ここに何時も誤った前提といおうか、幻まぼろしの存在が前提になる。それは仮想敵国の幻想である。現在の日本の仮想敵国はいうまでもなく朝鮮である。日米同盟がなければ、そして自衛隊がなければに日本は朝鮮の脅威に晒されるそうだ。それも一般的な脅威ではなく明日にでも日本に攻めてくるらしい。不思議なことに「島根県の竹島」を占領している「韓国」は大丈夫らしい。朝鮮が日本に攻めてくる、これに太宰ファン様においては中国が加わる。


 仮想敵国について考えてみよう。15年戦争の「米英鬼畜」は仮想敵国ではなく戦闘した現実の敵であった。日本こそアジア民衆の敵であったが、其れは措いて、1945年8月15日をもって米国は日本の同盟国になった。正確には数年後のサンフランシスコ単独講和条約によって日本は米国の新しい従属国になった。独立国になったのではない。属国になったのだ。ここが肝腎である。これが同時にソビエト連邦が日本の仮想敵国になった時である。

 端折る。私の小学生時代は戦後民主主義の良き時代だったが、同時に米ソ冷戦時代であった。阿呆な校長、確か周藤寛人といったが、朝礼で「みなさんはアメリカとソ連のどちらが好きですか、アメリカが好きな人は手をあげなさい」 と言った。手は一斉に上がった。ソ連には2人しか手は上がらなかった。誘導尋問である。そういう仮想敵国づくりがあった。

 新中国=赤い中国の誕生は米帝にとって脅威であったから、1950年代の中国革命から1972年の日中国交回復まで、今では到底考えられない反中国キャンペーンが日本に吹き荒れた。今の反朝鮮キャンペーンの10倍くらいだろうか。私の香川大学時代の日中友好協会組織は100人いただろうか。中国の真実を知り伝える友好組織だったが、文化大革命と日中両党の決別でパーになった。しかし今でも日中友好協会岡山市の活動は存続している。

 1972年の国交回復を機に反中国キャンペーンはピタッと止まった。日本って、怖しい国だ。猫も杓子も中国に出かけて行った。商売である。金儲けである。とりわけ格安の人件費が魅力であった。ここではもはや如何なる中国非難も説得力を失った。太宰ファン様の現代認識が一般者に説得力を持たないのは、中国がどんなに軍事突出であろうと、日本人はそんなことはどっちでもよいからだ。市場原理だけが問題になる。

 おそらく反朝鮮キャンペーンは長くは続くまい。その物質的基礎が存在しないから。脅威を煽るだけで、その根拠が皆無に近い。近々にデボーリンに反論した2チャンネルを引いておく。コレたぶん共産党員だろう。ここまでレヴェルが落ちるのるか。愕然とするが、党の最近の対朝鮮政策はここまでの党員を造って恥じない。

56革命的名無しさん (ワッチョイ)2018/01/26(金) 15:04:45.270
>>51(デボーリンのこと)さん
>朝鮮民主主義人民共和国でも普通選挙は行われているぞ
共和国社会主義憲法の字面の上ではそうかもしれないが、実態は普通選挙なんて言えるものではないでしょう。
朝鮮労働党中央委員会により指名された者以外が立候補することはできない。
また、”反党行為”の認定が腐敗した党官僚によって恣意的に行われ選挙権の剥奪も容易。
なんでもデッチあげて集結所→教化所送りにすればよい。
「被選挙権も選挙権も独裁者の思いのまま」これが何を意味するか?
悪虐非道独裁者に正統性を付与する装置でしかない字面上の普通選挙(ゲラゲラ)でわ?


 これ何の証拠もない、見てきたような描写だが、或いは部分的にはホントかも知れない。当面どっちでもよいのだ。日本と関係ない。この他にも「朝鮮は乞食の国」 らしい。日本にも何処にも極貧の部分は事欠かない。また、一国の政治を他国の基準で論じるなら、徳川 300年の鎖国をなんと説明するのか。私は朝鮮が西欧的な意味で先進国でないというならば、中国は今でも同様だとの認識をもっている。ベトナムだってキューバだってそうだろう。ブルジョア議会そのものが人民支配の装置であると捉えているものに対して、議会のブルジョア民主主義の発達を説教する議論の滑稽さ。言っても低脳には理解できまい。

 いずれにせよ、ピョンチャン五輪は朝鮮の真実の一部をいやおうなく見せてくれるだろう。それにしても私を「北朝鮮の金王朝を必死に下手糞な擁護」(ママ)と捉えるのは、たぶん本当にそう思えるのだろう。貧しい想像力というような生易しい代物ではない。戦前のアカ攻撃や戦後の「エタ狩り」と同レヴェルの痴性である。よくも共産党員をやっとれるな。こんな党員、何人増やしてもクソの役にも立たんワ、大平君、そうでしょ?


 まだまだ書きたいが、田舎の部落の総会に出席していた連れ合いが帰ってきた。町内会の田舎版だが、会長改選の選挙がある予定だった。ところが総会になって、とつぜん後任の会長予定者が「僕はやりません」とゴネ出したそうである。困った。つれあいは決着しないところで中座して帰ってきたそうだ。そうなると、もう2年Kさんがやることになるのだろう。気の毒だなあ。付記 何でゴネたかだが、やりたくないのにやるのだから、言うことを聞けとの布石だろう、との結論に落ち着いた。

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 思考が中断して元に戻らないのだが、とりあえず続きを、結論だけ。

 私は非武装中立論者ではない。誤解を恐れず言えば、武装中立論者である。日本革命のあかつきに世界に帝国主義列強が残存していれば、日本は憲法を改正して自衛軍を持つべきだと考える。但し今の自衛隊は米帝のための軍隊だから、これを利用することはありえない。ひとり残らず武装解除する。即ち全員解雇のうえ新しい職業を斡旋する。そうすると暫らくのあいだ日本はまる腰になる。この期間、いったい朝鮮や、中国や、ロシアが日本に攻めて来る? その可能性はないが、米帝が居座ってCIAを使って、日本の反革命勢力を手助けする可能性はゼロではない。ここに日本革命が流血を伴なう可能性がある。だからこそ日本共産党の組織を若返らせ、強固にしなければならない。これは私の独創ではない。日本共産党 61年綱領の立場である。

 最後に。発見した2チャンネルの誤字
77 弄って遊ぶのはどうかと思  「もてあそぶ」 と書きたいのでしょう。ならば 「弄ぶ」 だけ。

 成程。誤用ではないらしい。アリガトさん。

80革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/01/29(月) 09:08:04.180
 [ 古本屋さんへ ]
 いじる【弄る】
( 動ラ五[四] )
〔歴史的仮名遣い「いじる」とする説もある〕
① (必要もないのに)さわったり、動かしたりする。もてあそぶ。 「羽織のひもを-・る」
④ 弱い者をいじめる。困らせる。 「腰ぬけて鬼婆々となつて嫁子を-・り/浮世草子・禁短気」
[可能] いじれる
(大辞林第三版より)

引用した意味が分かりますか?
お分かりにならなければスルーしてください。
お体に気をつけて。
幸せが来るといいですね。
ごきげんよう
  1. 2018/01/28(日) 12:22:08|
  2. 未分類

倉敷民商弾圧事件弁護団声明

古本屋通信   No 3079    2018年  01月27日


     倉敷民商弾圧事件弁護団声明


  倉敷民商弾圧事件で、広島高裁岡山支部の一審の不当判決(懲役2年・執行猶予4年)を破棄し、審理を岡山地裁に差し戻す判決に対して、検察は上告しませんでした。証拠にならないものを証拠にした地裁の審理を一からやり直せ、ということです、これを受けて昨日弁護団が声明を発表しましたので、ママに転載します。
 尚、この事件の広島高裁岡山支部の判決について、私は1月12日の弁護団声明も転載していましたが、年始の削除によって消していました。改めて下に再録します。さらに1月15日の国民救援会の声明を付します。この事件では中央の支援の中心は全商連(民商の中央組織)ではなく国民救援会が担っています。



   弁護団声明

 2018年1月26日

 禰屋裁判


 検察の上告断念を受け、弁護団が声明を出しました。

1 本年1月12日、禰屋町子さんに対する税理士法違反・法人税法違反幇助被告事件について、広島高裁岡山支部第1部(長井秀典裁判長)は、岡山地裁の第一審判決を破棄し差し戻す判決を言い渡したが、本日、広島高検岡山支部より上告しないとの連絡があった。よって本件は岡山地裁で再び審理されることが確定した。

2 検察が上告を断念したことは、迅速果敢に上告断念を迫る署名・要請をされた支援団体の努力のたまものであり、運動の大きな勝利である。弁護団は支援団体の皆様にこの場を借りて感謝の意を表するものである。

3 さて、広島高裁岡山支部の判断は、第一審における検察官の杜撰な立証とこれに組した裁判所の審理方法を極めて明確に断罪したものである。しかし禰屋町子さんが無罪であるとまで判断したものではない。弁護団は差戻し審において禰屋町子さんの無罪を断固勝ち取るまで全力を尽す所存である。

4 岡山地裁での差戻し後の審理のあり方は、基本的に裁判所の広い裁量にゆだねられている。弁護団は差戻し審において、第一審の審理が起訴後から一貫して極めて杜撰であったことを厳しく追及し、裁判の冒頭手続から全てをやり直すべきだと強く訴えていく決意である。また税理士法違反についても、改めて徹底した審理を要求していくこととする。

5 検察に対しては、これ以上禰屋町子さんに不当な審理への応訴を強いることがないよう、直ちに公訴の取下げを求めることも訴えていきたい。

6 闘いはまだ続くが、これまでの状況とは違い、追い風を受けて反撃の展望が開けたことは間違いない。多大な御支援をいただいた全国のみなさまに心から感謝するとともに、引き続き、さらなるご支援をお願いする次第である。今回の破棄差戻し判決の確定という事態を画期的なものと評価し、弁護団は一層全力を尽して奮闘する決意である。

  2018年1月26日     倉敷民商弾圧事件弁護団



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   弁護団声明

 2018年1月12日

 禰屋裁判


 1/12高裁判決公判に対する弁護団の声明が出ましたのでご案内致します。


          声明

1 本日、禰屋町子さんに対する税理士法違反・法人税法違反幇助被告事件について、
広島高等裁判所岡山支部第1部(長井秀典裁判長)は、岡山地方裁判所の第一審判
決を破棄し、差し戻す判決を言い渡した。まずもって、本判決が不当な第一審の岡
山地方裁判所の判決(江見健一裁判長)を破棄したことを高く評価したい。

2 そもそも、本件は、不当にも第一審の岡山地方裁判所が、検察官に対して法人税
法違反幇助について木嶋査察官の作成した査察官報告書を鑑定書に準ずる書面とし
て提出することを慫慂したうえ、これに証拠能力を認め、有罪判決を言い渡した事
件である。

3 しかし、本判決は、第一審判決が木嶋査察官報告書を鑑定書に準ずる書面として
法人税法違反幇助の事実認定に用いたことについて、判決に影響を及ぼすことが明
らかな訴訟手続の法令違反があると断じた。

その理由として、

①本件の査察官報告書は税法上の特別の知識を用いて作成されたものではない、
②簿記会計の専門的知識に基づいて作成されたものでもない、
③一部の書面について法廷で作成の真正を証言した木嶋査察官と異なる者が作成して
おり証拠能力が認められないと判示した。

4 その上で、本判決は、第一審での検察官の立証が適切な争点整理を経ずに行われ
たものであることを厳しく指摘している。起訴直後から弁護団は綿密な争点整理に
よって争点を絞ったうえで審理するよう求めてきた。しかし、検察官も第一審岡山
地方裁判所も争点整理を行うことなく審理した結果、本判決が厳しく指摘したよう
な違法な判決にいたったものである。
本判決が差し戻し後の審理のあり方にまで立ち入って判断したことはいかに不当
で杜撰な審理が行われたかを如実に示すものである。

5 弁護団は、検察に対し、本判決を真摯に受け止め上告することのないよう厳重に
要求する。さらに、これ以上禰屋町子さんに不当な審理への応訴を強いることがな
いよう、直ちに公訴の取下げを求める。

6 闘いはまだ続く。これまでのご支援に感謝するとともに、引き続き、さらなるご
支援をお願いする次第である。
 
2018年1月12日   倉敷民商弾圧事件弁護団



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   岡山・倉敷民商弾圧事件 禰屋裁判の差し戻し判決に対する声明

  2018年1月15日

 日本国民救援会中央本部 日本国民救援会岡山県本部


 1月12日、広島高裁岡山支部(長井秀典裁判長)は、倉敷民商弾圧事件・禰屋町子さんに対して、一審の不当判決(懲役2年・執行猶予4年)を破棄し、審理を岡山地裁に差し戻す判決を言い渡した。
 判決では、一審判決が国税査察官の作成した報告書を「鑑定書」として採用し事実認定に用いたことについて、専門的知識にもとづいて作成されたものでなく、さらに別の査察官の作成したものを用いるなどしている点を指摘し、違法であると判断した。この判断は、検察の立証活動がずさんであったこと、そしてその検察に「助け船」を出して査察官報告書を鑑定書として提出させ、それを採用した岡山地裁の訴訟指揮・判断を断罪するものである。
 国民救援会は、本判決が一審判決の誤りを指摘し破棄したことを評価するものであるが、本来、一審における検察や裁判所の不当な態度を断罪し、有罪の根拠となった証拠(査察官報告書)が認められないと判断しているのであるから、裁判所は一審判決を破棄したうえで無罪判決を言い渡すべきであった。
 今回の判決を勝ちとった力は、なんといっても禰屋町子さん、小原淳さん、須増和悦さんが全国に支援を訴えたことであり、弁護団の有罪判決の問題点を具体的かつ的確に批判した弁護活動であり、そして禰屋さんらの訴えに応えて全国から寄せられた支援であった。短期間ながら署名は5万4000人分を超え、緊急要請はがきは9200枚を超えた。
 判決は査察官報告書問題以外の判断はおこなわなかったが、控訴審のなかで、弁護団は、法人税法違反ほう助(脱税の手助け)について、I建設は脱税の意図がなかったこと、禰屋さんが「脱税」の手助けをおこなった事実がなかったことを明らかにした。さらに、税理士法違反についても、禰屋さんは民商会員が作った会計書類に基づき申告ソフトに入力しサポートしたもので、パソコンが使えない会員のためにおこなった「代書」行為に過ぎず、税理士法に違反するものではないことも明らかにした。このように控訴審の審理を通して、今回の事件が、「脱税」を口実として、倉敷民商の弱体化を狙った弾圧であることが、いっそう明らかになった。
 検察は今回の判決を真摯に受け止め、上告をおこなわないこと、禰屋さんを428日間も長期にわたり不当に身柄拘束したこともふまえ、ただちに公訴を取り下げるよう強く求めるものである。
 国民救援会は、禰屋町子さん、さらに税理士法違反で最高裁でたたかう小原淳さん、須増和悦さんの無罪を勝ちとるために、最後まで奮闘する決意である。
  1. 2018/01/27(土) 10:47:33|
  2. 未分類

野中広務氏の死について

古本屋通信   No 3078    2018年  01月27日


     野中広務氏の死について


  きのう野中氏の死を知って、直に記事を書こうとしたが、氏の出自について確認が取れなかったので半日おくれた。以下の木下黄太氏の記事で、野中氏は自分が被差別部落の出自であると公表していると見做して構わないだろう。魚住氏の著書のことや麻生太郎氏の差別発言のことなど、一切省略する。

追加 ねんのため文末に、もうひとつ追悼のニュースを貼っておいた。これで出自関係は明らかであろう。



 オウム事件の時に僕が記者として担当、被差別部落出身を公言した野中広務元国家公安委員長逝去、92歳。
 2018-01-27 00:35:06   木下黄太のブログ
 最近、京都に関りが多くなって、本当に拠点を京都にしようかと考え始めている木下です。その京都の方で、僕がオウム事件で警察庁記者クラブに在籍した当時、国家公安委員長としておられた、野中広務さんが亡くなられました。92歳。
野中さんは、老獪な政治家として知られていますが、僕が若造の時に対した感覚では、今の自民党政治家の誰よりも賢く、強かな人物であったということです。
彼が国家公安委員長だったことは、オウム事件のような半ば革命になりかけた未曽有のテロ事件の際に、しかも警察庁長官狙撃という前代未聞の事態でも、日本が危機を或る程度は突破出来た要因であったと昔から思っています。警察のトップが殺されかけた状態で、その上に立つ国家公安委員長の肝は問われる事態ですから。
その意味では、「政治記者」ではない僕から見ても、野中さんは評価すべき点が多い政治家であったということです。
 また、部落解放同盟の取材担当も一定期間行っていた僕は、野中さんが「僕は被差別部落と言われる地域の育ち」というような公言をきちんとされていた政治家であることは、本当に興味深い点です。そうした出身であることを公にしていくことで、政治的なパワーを強めるのにどのような作用があったのか、実はその逆なのかという点は、これからも僕は考えていきたいことになります。
いずれにしても、またしても日本はしっかりとした政治家を一人失い、逆に幼稚化する政治に付き合う度合いが増すことは間違いありません。野中さんの御冥福をお祈りします。





  古本屋通信

 頭デッカチの文になったが仕方がない。野中氏が被差別部落の出身で、しかも其れを公表しているとの前提で以下の拙文を書く。

 あくまでイメージだ。私のなかで多少とも肯定的なイメージを持った自民党の政治家(新旧国会議員)は3人しかいない。野中広務、加藤紘一、町村信孝。加藤は60年安保の活動家だった。町村は私と同年生れで、私は追悼記事を書いた。野中のイメージは強面でありながら優しい人である。そして其れが、私の中では彼が被差別部落の出身である事と分かち難く結び付いている。

 3人とも一面識もないが、それぞれの仕事はそれなりに知っている。知っているが書かない。よいことをしているよりも悪いことをしている方がはるかに多いからだ。その意味は、自民党のトップに近い政治家として、労働者階級と人民にとって、という意味である。

 だが、にも拘わらず私の中では、3人がデモクラット(民主主義者)であるとのイメージは抜きがたく存在する。野中氏の発言をテレビで観たことは多くはない。たぶん幹事長時代の1,2回だろう。内容はまったく記憶にない。物言いがソフトだというのでもない。むしろ逆だろう。しかし不思議に優しさを感じたのだ。これが虐げられた過去の出自と何処かで結びついていた。たったこれだけである。まことに説得力のない話だが、これだけが書きたかった。共産党の志位委員長が追悼の談話を寄せたそうである。読むつもりはないが、違和感はない。全体としてデモクラットであったという評価は正しいと思う。


 2018年1月27日(土)  赤旗
 野中広務元官房長官が死去  「赤旗」に登場 9条への思い語る
 官房長官や自民党幹事長などを歴任した野中広務(のなか・ひろむ)さんが26日、京都市内の病院で死去しました。92歳でした。京都府南丹市(旧園部町)出身。

 京都府議、副知事をへて1983年の衆院補選で初当選。村山富一内閣で自治相・国家公安委員長として初入閣し、小渕恵三内閣では官房長官、森喜朗内閣では党幹事長を務めました。03年に政界を引退。その後、憲法や戦争と平和、政治の原点をテーマに活発に発言を続けました。

 97年4月の米軍用地特別措置法改悪の際、担当委員長として衆院本会議で「この法律が沖縄を軍靴で踏みにじる結果にならぬように…。国会の審議が再び大政翼賛会的にならないように、若い人にお願いしたい」と自らの思いを付け加えました。

 「しんぶん赤旗」には09年6月27日付の特別インタビューで登場し、憲法9条への思いなどを語りました。

 志位委員長がお悔やみ

 日本共産党の志位和夫委員長は、野中広務さんの訃報に接し、次のお悔やみを出しました。

 心からのお悔やみを申し上げます。1997年の沖縄の土地特措法の委員長報告で「国会の審議が再び大政翼賛会にならないように」と訴えた姿。09年「赤旗」インタビューに応じてくださり「戦争に加担しない道を」と訴えられたこと。平和と沖縄への深い思いを決して忘れません。



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  私は過去に何本か野中氏関連の記事を書いた記憶があるが、すでに消している。いささかピント外れの記事が一本残っていたので、それを貼っておく。武田クン、すみませんねえ。


       再録


   古本屋通信     No 1181   12月13日

  世に倦む日日 から 武田英夫へ



 人の意表を衝くような発言を貼っておく。トコトン商売人だから私は信用していない。掲載文はイントロ(導入)部分である。コレを有料部分に繋ぐわけだ。私は最近は殆んど読んでない。当否の問題もあるが、これは政治ブログではない。政局評論だ。まあ細川隆元の放談の類だろう(古本屋通信)。



 世に倦む(あぐむ)日日
不破哲三の演説 - 2014年衆院選のハイライト、三つの構成部分不破哲三の12/10の京都での演説が、朝日の紙面記事に出ていて、マスコミやネットでも話題になっていた。20分ほどの動画が上がっているのを見たら、あまりに素晴らしい演説なので驚いてしまった。いつもの、共産党特有の紋切り型の党略全開ではなく、往年の不破哲三を思い起こさせる、知性の光る説得的な言葉が並べられている。引き込まれて最後まで聴き入った。この衆院選のハイライトだと言える。主役を張った。84歳の高齢者が、まさかこれほど完成度の高い演説ができるとは、私だけでなく多くの者が感銘を覚えたことだろう。志位和夫の演説は年々劣化している。演説だけでなく、テレビ討論に冴えがなく、機知が枯れ、場の議論を主導したり、安倍晋三を論破したりする場面がない。報ステの生討論では、政党助成金の論点の場面で、逆に橋下徹に論破される醜態を演じていた。今回の衆院選のテレビ討論が面白くないのは、もっぱら野党に責任があるのだけれど、その責任の一端は共産党にある。共産党の議論内容は、身内だけへのメッセージと効果に徹していて、広く一般の共鳴を誘う政策トークに設計されていない。志位和夫と山下芳生のテレビ出演での態度は、従来に増してクローズドな主張と口調が際立っていて、見ながら失望と不満を深めさせられた。志位和夫が論戦で得点を稼ぐときというのは、市民の常識が代弁されるときで、マスコミが言わない庶民の正論が周囲を制するときだ。
【続き - 以下は有料です】


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 ここでまた思い出さなくてもよいことを思い出してしまった。キーワードは「時事放談」、パースンは武田英夫。行きがかり上、武田の記事を貼る(古本屋通信)。


政界の重鎮 野中・古賀両氏の「時事放談」
2014年11月24日 23:45   武田英夫のいのしし日記
安倍総理の解散表明の前々日、民放番組で「野中広務・古賀誠の時事放談」がありましたが、その中には今度の選挙を考える意味深い議論がありましたので、紹介しておきます。
どちらも自民党の元幹部に留まらない政界の重鎮です。
 司会者から「野中さんは11月解散を9月の段階で予想していた」と紹介。古賀氏も「安倍総理はそれを聞いて解散したのでは」と冗談を飛ばすシーンがありました。
 興味深いのは、野中氏の指摘です・・・「国会議員の任期はあと2年余り。しかし、自民党総裁の任期はあと1年もない。支持率が下がっている安倍総理にとって、『続投』を考えるとこの時期しかない」・・これは本質を突いた指摘です。
 安倍総理が、自分の続投のために絶妙のタイミングで選んだ解散時期・・「党利党略」解散ではなく、「安倍の自己保身解散」といえます。
 続いて古賀氏がこう指摘しています。・・「そうした解散だから、『解散の大義』をつけるのが非常に難しい」・・この指摘も本質を突いています。
 野中氏は「対談」の最後に「野党がだらしない・・共産党以外に野党として胸を張って堂々とたたかっていく姿は全くない」の指摘、「与党になりたい」とすり寄っていく野党もあり「このままでは日本の議会主義がだめになる」と危惧していました。
 党派を超えて、政界の重鎮の言葉には重みがあると実感しました。




 古本屋通信

 野中,古賀とも赤旗に登場したから、武田は安心して書いたのだろうが、「重鎮」、「重鎮」と権威主義丸出しの低能文の戯言にいちいち付き合えない。この番組のむかしを少し書いておこう。
自民党の引退したロートルは比較的口が軽い。後藤田なんか公安警察のトップだったが、赤旗に登場した。あの極右の中曽根でさえも宮本顕治が死んだ時に褒めた。他にもあった。その都度赤旗は彼らの発言を掲載した。これは構わない。限定的な言説を一定の政治状況下に限って載せるわけだ。然しコレに倣う低脳の武田。救いがない。理由は省く。

私は古賀を知らない。野中はそれなりに知っている。自民党の中では評価できる。然し功罪半ばだ。
 ところで、いま自共が競っている京都の選挙区で、野中はどういう選択をしているのだろうか(かれはずっと京都選挙区の選出代議士だった)。武田はいい加減な事を書かないほうが良い。武田ごときに料理できる素材ではないが、それよりも選挙中のこの時期、自民党員の野中を褒め上げることは慎むのが常識である。もし野中が穀田の選挙区で自民党候補の応援にでも入ったら、武田の言動は利敵行為そのものだ。もっときびしく言えば、穀田陣営の解体を目的にしたスパイ・謀略活動である。

「時事放談」は反共で名が通っている長寿番組である。登場者が誰であれ番組の評価がまずなされる。旧くなるが日本共産党はこの番組自体を否定評価していた。報道の自由の関係でそれ以上は言わなかったが、要するに反共攻撃を唯一の目的にした番組との評価であった。間違いない。

細川 隆元がホスト。ゲストがホストに媚びる番組だった。日曜日の朝9時だったろう。反共のオンパレード。今ほどネット右翼のいない時代の反共のトップ番組だった。トコトン通俗的で、まあよく出来ていたワ。
 あるとき細川がこう言った。「よし、宮本委員長にここに来て貰おう。来て自分が殺人者ではないと自分の口で釈明して貰おう」。対談の相手は藤原弘達だったろう。このころ藤原弘達は創価学会関連で共産党と接点があった。藤原は細川に賛成した。
 百にひとつも宮本顕治が出てくる可能性はなかった。番組から党広報室に正式の申し入れがあった。その経過と拒絶の理由が赤旗に掲載された。党は番組自体を否定的に評価している、それに党の宮本委員長が出席して発言することはありえないと載った。

私は最近この番組を見ていない。野中と細川は違うだろう。しかしこういう番組は出席者よりも制作の意図がまず問われよう。この反共のチャンピオン番組がリベラルに変るなど信じられない。日本共産党員多しといえども、こういう記事を書くのは武田しかいないだろう。党中央の意見を聞きたいものである。



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2018年01月26日 19時49分 J-CASTニュース
転機となった「裏切り」 野中広務さんの「政治と差別」
2018年1月26日に92歳で亡くなった元官房長官の野中広務さんは、近年、政権中枢を担った保守政治家の中ではとびぬけて重たい人生経験の持ち主だった。

戦争末期に召集され、軍隊生活を送っただけではない。身をもって「被差別」を知り、もがき苦しんだ過去があった。
「差別体験」を赤裸々に語る
元共同通信記者、魚住昭さんは2004年、『野中広務 差別と権力』(講談社)を出版、野中さんの波乱に満ちた人生に切り込んだ。当時、しぶしぶ取材に応じた野中さんは「話をするのはいいけれど、雑誌に書かれるのは迷惑な話なんで、死んでからにしてください」と、良い顔をしなかった。

だが、政界引退後の09年に人材育成コンサルタント、辛淑玉さんと共著で出した『差別と日本人』(角川書店)では、もう吹っ切れたのか、自らの「被差別体験」を赤裸々に語っている。

忘れようにも忘れられない「事件」が起きたのは25歳のころだ。野中さんは大阪鉄道局に勤めていた。抜群に仕事ができて、破格の出世をしつつあった。そんなとき、会議室の付近で偶然、野中さんの出世をねたむ先輩と、自分の中学の後輩とのこんな会話を耳にした。

「なんであいつだけ特待生みたいに昇給するんだ」
「野中さんは大阪におったら飛ぶ鳥落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人だ」
この後輩には特に目をかけ、可愛がっていた。働きながら夜間大学に通える手だてもしてやった。にもかかわらず、こんな形で裏切られるとは・・・。下宿に走って帰って4日間ぐらい七転八倒した。そこで出した結論は「自分の出自を知ってくれている場所に帰って、そこから人生をやり直してみよう」だった。

戦争中、高知の陸軍部隊で本土決戦に備えていた野中さんは、敗戦を知って仲間とともに坂本龍馬像の前で自決を図ろうとしたことがある。気づいた上官に殴られ、「死ぬ勇気があるんなら、日本の再興のためにがんばれ」と諭された。あれから5年、2度目の「再出発」だった。
いくつかの「原体験」
野中さんの実家は、地域では数少なかった自作農。父は保護司などもしていて、地元では信頼された人だった。長男ということで、旧制中学まで進むこともできた。帰郷した野中さんは青年団活動などに専心して、政治の道を志す。

町議4年目の1955年に結婚した。婚約のとき、妻になる人に「言うておかなければならないことがある」と切り出した。「それは僕が部落の出身者だということだ」。妻は、「私が理解しておればいいことです。親や兄弟まで了解を得なければいけない話ではありません」と答えた。

『差別と日本人』では、「部落問題」のほかにもいくつかの「原体験」を記している。

・戦時中、実家の近くに大阪の造兵廠が移ってきた。そこでは朝鮮半島から連行されてきた朝鮮人がたくさん働かされていた。小さなバラックに住み、日本人にムチで叩かれたり、重い荷物を運ばされたりして、ひどい目に遭わされていた。

・私の五人の弟妹は、朝鮮人の女性に子守りされた。これは私の親の考えである。在日朝鮮人の人といっしょにご飯を食べたり、いっしょに寝たりもした。

・71年、まだ日中国交正常化の前に、最初の訪中をした。そのとき、同行した後援者の1人が南京の雑踏で倒れて起き上がれなくなった。聞けば彼は、南京事変に参加していたという。上官の命令に逆らえず、何の罪もない女性や子ども百数十人を殺した。その忌まわしい記憶が現地で甦り、倒れてしまったのである。

・僕らが聞いてきたのは、兵隊から帰ってきた連中が自慢たらたら言っていたこと。ベニヤ板で造ったような箱物の中に女性が一人寝かされておって、そこにふんどし一丁の男が五十人も六十人も順番待ちしている。

・62年、初めて沖縄を訪れたとき、タクシーの運転手がいきなり車を止め、「あのサトウキビ畑のあぜ道で私の妹は殺された。アメリカ軍に、ではないです」と言った。

こうした体験を紹介しながら、結論づける。
「ともかくね、先の戦争で日本がやってきたことに対して・・・罪の意識がない日本人というのは、これは非常に後世のためによくないことだと思っておるわけでね」連立政権時代の調停者
だからといって野中さんは、単純ではなかった。部落問題ではむしろ、様々な「特権的」な同和対策事業に手厳しく、その一掃のために尽力した。

自民党の幹事長代理時代に、南京の「抗日大虐殺記念館」を訪れたときは、「虐殺者30万人」という不確かな数字が壁面に記されていることを知って、献花はしないと申し出た。官房長官の時代には、国旗国歌法を成立させた。一方で、従軍慰安婦問題では、政府の基金づくりに努力する一人に加わった。

一筋縄では理解しにくい政治家――『差別と権力』で著者の魚住昭氏は、「部落から求められる役割と部落外から求められる役割。相反する二つの要請に応えながら、野中は双方の支持を取り付けてきた・・・二つの顔を使い分けながら『調停者』の役割を演じてきたといってもいい」と分析。90年代、連立政権の時代に、利益の異なる集団の境界線上に身を置きながら、きわめてタフな調停者として権力の階段を上っていったと見る。
「最後の発言」で怒り爆発
だが、政治家人生の最後に「怒り」がストレートに爆発した。

2003年9月21日、引退直前の自民党総務会。野中さんは「私の最後の発言」と断って話し始めた。
「総理大臣に予定されておる麻生総務会長。あなたは(グループの)大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを私は、大勇会の3人のメンバーに確認しました・・・私は絶対に許さん!」
激しい言葉に総務会の空気は凍りついたという。(『差別と権力』より)

「部落出身者であってもまじめに真剣に働け。それでもなお差別されたら、その時は立ち上がれ」――野中さんは『差別と日本人』で「私はこんな信念を持っている」と書いていた。
「この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢までたどり着いた人間は野中しかいない」(魚住昭『差別と権力』)
  1. 2018/01/27(土) 02:35:37|
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