古本屋通信

オバマの広島訪問

古本屋通信     No 1951   5月29日

    オバマの広島訪問

  私はオバマの広島訪問などアホらしくて書く気もなかったが、下に転載した 世に倦む日日氏の文を読んで少しだけ書く気になった。


  オバマの広島訪問
  世に倦む日日
 
オバマの広島での演説について、マスコミがこぞって礼賛報道をしているのを見て、とても違和感を覚える。植民地的な反応だと感じて憂鬱になる。「核のない世界」など真っ赤なウソではないか。欺瞞そのものだ。昨夜(5/27)の報ステが映像付きで紹介していたように、米国は今後30年かけて1兆ドル(110兆円)を投じ、核兵器を開発し続ける計画を策定している。核ミサイルをよりスマート化し、戦術核として実戦で自在に使えるように技術開発している。その軍事政策を決定し推進している最高責任者がオバマなのに、どうしてその男が「核なき世界」の理想の持ち主だとか提唱者だという話になるのか。倒錯もいいところだ。

 米国の大統領が広島に来るなら、被爆者とテーブルで向かい合って話を聞き、その場で頭を下げて謝罪するのが当然ではないか。たとえば日本国の首相が南京を訪れる機会を持ったとき、そこで謝罪することなく、戦争と平和の一般論について偉そうな演説を垂れるなどということがあるだろうか。そんなことが許されるだろうか。中国人が許すだろうか。あり得ない話だ。原爆投下は南京大虐殺と同じ戦争犯罪である。無辜の民を大量虐殺した非人道的な戦争犯罪だ。どのような理屈をもってしても正当化できない。



  古本屋通信


  私は関係の記事はブル新、赤旗とも一行も読んでない。コンビニで朝刊に白ヌキのベタ活字が躍るのを見て、「このキチガイが ・・・」 と思った。また 「これで自民党が選挙有利になるな。 ・・・ とも思った。赤旗の記事は読まなくても分っている。この関係は毎日避けている。

 上記の世に倦む日日氏だが、前半は当然すぎる。わざわざ賛意を表明する必要はない。

  後半の「米国の大統領が広島に来るなら、被爆者とテーブルで向かい合って話を聞き、その場で頭を下げて謝罪するのが当然ではないか」 には賛成できない。以下は全て間違っている。オバマに原爆投下の謝罪を求めるような先の戦争についての認識はあり得ない。この認識だと先の日本の侵略戦争=「大東亜戦争」は正当化されてしまう。

  既に書いたから繰り返さないが、原爆投下がいかに非道のジェノサイドであっても、第2次世界大戦と太平洋戦争の戦争犯罪人は日本天皇制ファシズムである。この事実は動かない。日本天皇制ファシズムはアジア民衆だけでなく圧倒的な日本人民を殺した。反ファシズム統一戦線の提唱に基づいて戦争に参加したアメリカ軍は原爆投下を含めて日本の侵略戦争に終止符を打った。極端にはアメリカの戦争は民主主義のための戦争であった。この理屈が分からないから石崎徹は低能である。瀬戸内寂聴はスパイである。

  繰り返すが広島と長崎に多大の被害を与えたのはアメリカ軍ではない。日本天皇制ファシズムである。間違えてはいけない。そういう歴史認識がないから、オバマに謝罪を求めたりするのだ。それと、72前の広島原爆投下に何ゆえオバマの責任があるのか。情緒的な感性を下敷きにしたお涙ちょうだい式には反吐が出る。「原爆投下は南京大虐殺と同じ戦争犯罪である。無辜の民を大量虐殺した非人道的な戦争犯罪だ。どのような理屈をもってしても正当化できない」。これは没階級的戦争論で問題にならない幼稚な議論だが、俗受けはするだろう。たぶん本心ではなく、商売なんだろうけれど、こういうことを言い出したら石崎と変わらない。

  私はオバマの広島訪問に対する唯一の正しい政治方針は「オバマは広島に来るな」 だと思う。理由は省略する。説明しなければ分からないオツムの人はこのブログから去ってください。何を書いても理解は無理でしょうから。中核派を褒めるようなことではないのです。世界最大の殺人者との面接に何かを期待する、だから自民党の政治が続くのです。



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 参考

2016年05月29日00:00
北 「オバマの広島訪問は日米による幼稚な悪巧み」
 「幼稚な政治的計算」 オバマ氏広島訪問に北朝鮮
北朝鮮の朝鮮中央通信は26日、オバマ米大統領の広島訪問について、日本と米国の双方の利害に基づく「幼稚な政治的計算」と非難する論評を配信した。
論評は、オバマ氏の狙いは「広島で『核兵器なき世界』構想を再び力説し、核犯罪者としての正体を覆い隠そうとするもの」と主張。日本を引き寄せ、アジア重視政策を有利に進めようとの意図もあるとした。
日本の思惑は「戦犯者から被害者に化け、過去に犯した反人道的犯罪を隠す」ものだと批判した上で、オバマ氏訪問は「(日米が)それぞれ下心を追求する同床異夢の外交演技だ」と批判した。
米国に対しては「共和国(北朝鮮)の『核の脅威』が国際社会の最大の問題であるかのように誤導している」とも主張。一方、広島の被爆者には核廃絶への願いがあるとして「米国はこれに応えなければならない」としている。 sankei
  1. 2016/05/29(日) 10:11:20|
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日本共産党員の横田悦子追悼文

古本屋通信     No 1944  5月27日

   日本共産党員の横田悦子追悼文に関して

  『永遠の記』(横田えつこ追悼集とは直接関係ないが、日本共産党員3人が横田悦子さんの死にさいして文を書いた。これについて私の意見を述べる。

  私の知る限り、横田さんを「お送りする会」に出席したのは森脇県議と崎本敏子だ。竹永さんは所用で参加できなかったと書いていた。氏平県議の参加は定かでない。彼らは議員または元議員である。参加も不参加も傍からとやかく言うべきではない。本人の自由である。党議拘束すべき問題でもない。

  問題は追悼文である。議会内では議会の慣習に従うべきであろう。問題はそれとはべつの個人的な文である。本人が故人の家族に如何なる私信を宛てようと個人の自由である。ところが公開のブログで追悼文書くとなると、問題は別である。広く一般に公開されるのだから、共産党の故人にたいする態度と受け取られよう。あるいは共産党の「緑の党」にたいする態度と受け取られる場合もある。

  今回は竹永と崎本が自分のブログで横田との想い出を書いた。そして今回、短文ではあるが氏平が追悼文を書いた私はこれは3人とも共産党員として書くべきでなかったと思う。崎本も竹永も「所属は違っていたけれど、一致する問題も多く・・・」と書いていた。それはそうだろう。だが、横田ははっきりと「緑の党」の党員であった。議会の内外で「緑の党」の党員と共闘するのは大いに結構だ。個人的に付き合うのも構わない。でもそれまでである。個人的な感情を自分の党員ブログに書くのは日本共産党員として誤りである。日本共産党は「緑の党」を正面から敵視する文書を公表してはいない。然し少なくとも共闘していない。これは「緑の党」の側でも同様である。この党が日本共産党を支持することはない。共闘も一貫して拒否している。

  崎本も竹永も氏平も日本共産党員としては横田の死にさいして公開の文を書くべきではなかった。それとは少し意味が違うが、下市このみがかつての同志である横田の死を黙殺したのは節度ある態度であったと私は思う。議員は公職であるし、元議員もそれに準じる。竹永も、崎本も、氏平も尻が軽すぎる。尻軽女とまでは言わないが。氏平はよく亭主と相談してから行動するように。みんなそう言っているゾ。

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横田えつこ県議のご冥福をお祈りします
10月13日  竹永みつえ
横田えつこ県会議員の訃報が入りました。10日にご逝去されたそうです。本当につらい結果となりました。
闘病中なのは伺っていましたが、あの明るいキャラクターで、病気なんか吹っ飛ぶと思っていました。この写真は、今年の七夕に女性だけで宣伝行動をしようと、偶然ほかの会議でお会いした時に、立ち話で決めて、あとはメールのやり取りで、その日の朝、七夕だから笹でもたてない?といつものように無茶振りされて(笑)私があわてて用意し、なんとか盛り上がった宣伝行動になったのです。豊かな発想、アイデアマン、そしてあのキャラクターで不思議と周りを動かす人でした。
シェルターシンポジウムで二人部屋になったとき、修学旅行の少女のようにはしゃいで、夜中まで話し込んだこと、
横田さんが初めて保健福祉委員長になった時には、いつも事前にうちあわせして委員会にのぞみ、しっかり当局の姿勢をチェックすることをお互いネットワークを組めて取り組んだこと。
DV被害者支援や子どものことなど党派はちがっても一緒に取り組んだことの数々、教えていただいたことの数々・・・思い出は尽きませんが ありがとうございました。。心からご冥福をお祈りいたします。



横田悦子さんをお送りする会
2015年11月7日   崎本とし子
去る10月10日、友人であった横田悦子さん(県議)が亡くなりました。63歳でした。今日は「お送りする会」があります。参加しようと思います。
私より2つ上で、地域文庫の活動をしていて、幸町図書館建設運動にかかわったのを契機に、市議会議員になったのは今から20年前の1995年のことです。当時、4人目の子どもさん(確か4年生)と一緒の姿をよく見ました。同じ委員会になり、当選直後の1995年には北欧諸国へ一緒に視察に行きました。同じ部屋でいろいろ話し、意気投合。それ以来県議になってもずっと付き合いが続いていました。一致点を大切にして、一緒にいろんなことをしました。(岡山市議会は女性議員が連携する気風を作りました)
笑顔が輝いていて、「お話し」が上手でした。さすが文庫活動をしているだけのことはある・・・!と私は感心していました。感性が豊かな人でした。私も文庫活動をしていて、保健福祉分野の活動が多く、共通点が大いにありました。子育て真っ最中の議員という点でも共通でした。
私は5年前に子宮体がんのために治療を受け、その経験から市議会の中で提案して岡山市がん対策推進条例を全会一致で作り、次の年の選挙で引退しました。それ以来地域がんサロン・たんぽぽカフェの開設・運営(一粒でもいいからがん患者の流す涙を減らしたい・・・)をはじめ、がん対策を提案する患者団体の運動にかかわってきました。(今は訪問看護師としてもサポート)
昨年、彼女から自分の病気の話を聞いており、関係する患者団体を紹介もしました。彼女も関係の患者団体と連携してアクションしていました。
がん患者団体の活動で一番こたえるのは、一緒に頑張ってきた仲間との「別れ」です。私は今年そういう親しい仲間との別れが何人もあり、へこむこともしばしばです。そこへ届いた彼女の訃報に私は驚きました。
元気な笑顔の彼女の顔しか思い浮かばないのです・・・・。親しい方からいろいろ経過を聞いて、次第に彼女が生き抜いた経過がわかってきました。「生きようと思って治療にチャレンジした」のだ・・・・と。
結果はよくなかったけれど、事実を受け止めるしかありません。友の旅立ちは悲しいです。二度とあの笑顔に会えないことが寂しいです。これから一緒にできることがいっぱいあったのに・・・と思うと悔しいです。でも、よく生き抜いたね・・・と言わなければなりません。
私は他人ごととは思っていませんから、これからも一日一日を懸命に生きようと思います。
DV防止サポートシステムをつなぐ会・岡山で「女性議員大集合!」の総会記念行事をしたとき(2015年6月)の彼女の言葉を紹介します。
なんで議員になろうと思ったのか・・・の自己紹介で彼女は「私は憲法を守りたいから議員になった!」と話しました。
8月終わりに4番目の息子さんに初めての女の子が生まれたそうです(孫は6人になったとか)。その子を抱くことはできなかったそうですが、その誕生を知ってきっとうれしかったに違いない・・。その子の生きる世の中を憲法で守りたいと思ったに違いないと思います。
彼女の「思い残し切符」をみんなで受け取りましょう。輸血を呼びかけたり、ドナーを増やす運動や「憲法を壊すな!憲法を活かそう!」という運動を広げましょう。
この文章を書いて、また涙がこぼれました。いっぱい涙を流して、そして、上を向くからね・・・。悦ちゃん、空から私たちを見ていてくださいね。そしてゆっくりしてください。




  古本屋通信

 私ゃ、竹永の文にはムカつかないが、崎本の文を読んでると腹が立ってくる。とにかく調子がよい。結局は自分の自慢なのだ。他人の死をも自分をよく見せかけるために利用する。私ゃ、崎本は横田が生きていたら「悦ちゃん・・・」 なんて書かないし、書けないと思う。横田は 「フン」 と言うだろう。とにかく裏表がある。それが崎本である。
  1. 2016/05/27(金) 02:24:37|
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中原猛と岡大学生運動

古本屋通信     No 1938  5月24日

   中原猛と岡大学生運動

  きのう垣内京美さんの関係で故・中原猛さんの追悼集 『行く手を照らして』 に触れた。これを見れば中原さんが永眠したのは 2006年7月17日であると分かる。現役の党岡山県委員長としての死であった。葬儀は20日倉敷市児島アーバンホールで行われている。追悼集は死の3ヵ月後の10月25日に党岡山県委員会「偲ぶ会」の手で発行された。

  私は県委員長の中原さん(以下、中原)と面識がなかった。県委員長の名が中原であること、中原は党中央から島根の党に派遣され、のちに岡山県委員会書記長を経て県委員長となったとの認識だった。私は党員ではなかったから、私の中では中原はone of them の one に過ぎなかった。them とは歴代岡山県委員長である。いま記憶にある県委員長を順不同に挙げる。山手叡、峠田豊次、豊田秀雄、板野勝次、佐武弘、江草昭治、氏平長親、中原猛、石井ひとみである。実際はこの2倍はいただろう。挙げた名前の中にも記憶違いがあるかも知れない。

  私は中原の死を、死の当日か翌日に知らされている。自宅にいたら連れ合いが顔色を変えて飛んできた。「あんた、県委員長の中原さんが死んだ。心臓麻痺だそうな。ショックじゃ」。「そうか、岡山の共産党もたいへんじゃな」。

  私にとって中原は他人だった。何日か経って県委員会副委員長だった武田英夫が中原の葬儀の席で自分が詠んだ弔辞をネット上に公開した。それは後の追悼集に掲載されている武田文と同一文だった。

・・・・私の場合は・・・・岡山大学の同期の友人としての話から始めなくてはなりません。・・・・・・・・・・・

 なに? なんと? 県委員長の中原はあの中原だったのか。私も知っている岡大の中原だったのだ。ショックだった。しかし私は県委員長の中原の猛者ツラの写真は何回も見ている。学生時代の小柄でスマートな美少年と余りにも違うではないか。

  確かな記憶はないが、追悼集の話も武田の「いのしし日記」で知った。そして、それが刊行された直後に党岡山県委員会に買いに出掛けて行った。とうじ県書記長から地区委員長に替わったばかりの植本完治に声を掛けた。植本が2階の県委員会に案内してくれた。そこで松田準一が気持ちよく譲ってくれた。「非売品だから金は要らない」 と云うので甘えさせてもらった。植本、松田とも既知の党員だった。

  こんかい初めて気が付いた。中原が死んでこの7月でちょうど10年になる。もうそんなになるのか。しかし死は死である。私の感慨は中原の後を受け継いで県委員長になった石井ひとみがもう既に10年も県委員長を続けていることにある。これは歴代の県委員長でも、もっとも長期執行部ではないか。せんじつ石井と立ち話をしたとき 「若い人で適任者がいたら何時でも交代したい」 と言っていた。それでいてやる気満々なのだ。


  脱線気味になるが辛抱してほしい。私と中原のたった一度の対面を、私の過去記事を貼って再現しておく。この記事は3年前の古本屋通信の抜粋だが、私が中原と一度だけ会って話したのは1968年の春、今から48年前だった。岡大キャンパスでの出会いだったが、その時の確かな記憶は最早ない。

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   通信  No 240  6月2日   党籍消滅前後(その2)

 2つの大学のうち、前半の香川大学の党組織が素晴らしく、後半の岡山大学が駄目な組織で、党員レベルにも格差があったかに映ったと思う。しかし、実際はそんなことはなかった。先ず規模だが、全学生に占める活動家総数比率(各派合計)は変りなかったと思う。大体2~3割だったろう。これは今では考えられない数字だ。全大学(北から南まで、一部の女子大や新設大学を除いて)変わらなかっただろう。一方は民青の天下、もう一方は3つの党派の鼎立だったに過ぎぬ。京都でいえば、京大、立命館、同志社を引き合いに出せば分り易いだろう。然し同志社にちゃんとした党があったなんて、石崎氏の文章を読むまで知らなかった。

 つぎに、学士入学先の岡山大学の党組織で、私が拗ねていたかというと、そんなことはなかった。私の活動量は多くなかったし、仲間も少なかったが、私はいい同志に恵まれ、生きいきした党生活を送ることができた。少しだけ書く。私は法文学部・哲学科・哲学専攻への学士入学だった。学士として学部3年に編入した。これは学生仲間としてはやりにくいし、私としても年長者扱いにされそうで鬱陶しかった。組織の内外の両方でだ。しかし細胞には私より年長者がいた。Dといった。7回生の4年生。しかも哲学科・哲学専攻で細胞長だった。かれの存在で、私はどんなに助かったことだろう。私は彼をさん付けでよぶ。彼は私を「おい、おめえ」と呼び捨てにする。これがどんなに嬉しいことかは、学士入学したものでなければ分るまい。

 党の組織員は私を入れて僅か6人。民青はその倍。法経はずっと多かったと思うが、数は知らない。文科6人のうち3人が哲学科・哲学専攻。あと国文・国語が一人、東洋史が二人。私は文科自治会の代議員に立候補することになり、選挙活動もせず当選した。哲学科は拠点だった。しかしその後、全共闘の台頭で引っ繰り返される。

 D は第一線から引いていたが、ちょっと前まで総細胞委員だったらしい。総細胞機関紙 『地の塩』を自分で書いて、自分で配っていた。D が言った「おい、正式の転籍が完了する前に組織に挨拶を済ませとけえ。無断で学内をウロウロしてたら、スパイと思われるけえ」 「誰のところへ行けばええんで」 「そうじゃな、党は中原のところへ行け。同盟は武田じゃ。いいか、くれぐれも大きい顔をするな。そうのうても、おめえが四国からくる言うんで、気にしとる」 「うん、わかった」。それで、ふたりのボスに会いに行った。それぞれ5分ほどの立ち話だった。二人とも私より二歳若かったが、ボスだけのことはあった。「聞いてる。こっちこそよろしく」。それで面通しは終わった。

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  今回の表題は「中原猛と岡大学生運動」である。私は今回これを書きたかった。これだけを書きたかったのだ。しかし、やたらと長いプロローグになった。みっともないとも思うが、自分の立ち位置を最低限示しておたきかったのだ。

 ここからが本論になる。追悼集 『行く手を照らして』は大衆的な書籍ではない。殆どが日本共産党員の手になる中原に関する党的おもいで集である。県党の資料集としては第一級の逸品である。書かれている内容のほとんどは中原が岡大を中退して党の専従になって以後の中原との交遊関係である。貴重な資料だが私は個人的には余り興味がない。非党員の私には中原を含む党員の党生活は別世界だからだ。

 私の最大の関心は私が2年間の岡大生活で垣間見た中原の岡大細胞キャップとしての立ち位置と指導の実際だ。これに就いて、何人かの岡大出身者が少しだけ触れている。いちいち引用しないが、中原が一頭群を抜いたリーダーであることを揃って書いている。私はこれに深く同意する。しかし、そこから先が全く書かれていない。そういう性格の追悼集ではないこともあろうが、殆どわからないのだ。


  以下は当時の岡大の運動に対する批判でも、細胞キャップの中原に対する批判でもない。大いなる疑問である。


第1章 香川大学の党組織(1967年) と 岡山大学の党組織(1968年)

 党組織と同時に民青も問題にする。当時の香川大学は3学部合同の総細胞委員会があり、党員総数は約100人だった。学部による偏りはなかった。民青は3学部合同の総班委員会があり、同盟員は各学部 100人で計 300人だった。私は3学年時から4学年時に総細胞委員と民青総班委員長を兼務していたから、これらの数字を知っていたが、一般的には組織の中にいてもわからなかった。これはどこの左翼組織でも同じだろう。

  こう書くと、私が党と民青の中心にいたと思われるだろうが、実際はそうではなかった。たぶん当時のどこの大学でも似たようなものだと思うが、党の中心は学部細胞であり、民青の中心は学部班であった。総細胞とか総班委員会はいわば連絡機関で、飾り物であった。これがないと地区委員会が困るから作ったのであろう。ただし年に一度の総会はあった。ここで決めるのは人事だけである。まあ県党会議、地区党会議の学生版である。

  それから香川大学の組織は党、民青とも公然化していなかった。だから、あれほどの組織があっても、無関心層は組織の存在を知らなかった。

  岡大の組織の全容を私は知らない。私は法文学部の文科の組織に属していた。そこから一歩でも出て組織活動をしたことはない。文科は細胞が5人、同盟の班が10人だった。岡大全体では党が50人、同盟が150人くらいだったと推測できる。これは党内情報ではなく、民学同筋の見方である。

  で、ここで問題なのだが、中原の岡大細胞キャップは岡大の組織の中にあって、また岡大の学生運動を指導するうえで如何なる位置にあったのであろうか。指導部として指導し、優れた指導者であったことは一同が一致している。だがその実際が不明なのだ。

  1967年の香川大学は平時であった。 1968~69年の岡大は戦時であった。平時と戦時の組織の在り方は違うだろう。それにしても岡大の細胞委員会の役割が分からない。しかし分からないでは済むまい。かなりの確信をもって推測する。

  細胞委員会とは日本共産党岡大闘争臨時指導部であった。その指導にあたったのは当時の共産党岡山地区委員会委員長萩原嗣郎であった。毎夜、毎夜、萩原の自宅で、中原を中心に、武田英夫(民青岡大地区委員会キャップ)を含めて数名が作戦会議を持った。情勢は日々変わったから、連日の会議であった。その決定は各学部の細胞や民青班に伝えられるのではなく、ちょくせつ闘争現場の党員と同盟員に伝えられた。私はこれはよいも悪いもない、これしかない方法だったと思う。連日の作戦会議については萩原の細君の清子さんが証言している。「あの頃まいにち中原君や武田君が我が家に泊まりに来た。私ゃ、飯を食わしてあげるのに苦労した。けっこう好き嫌いがあったみたいじゃ」。


  ちょっと休憩。
  1. 2016/05/24(火) 02:21:20|
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民青同盟員数

古本屋通信    No 1902   5月07日

    民青同盟員数


Wikipedia  日本民主青年同盟
同盟員数は公称2万人。最盛期の1970年には同盟員数は約20万人を数えた(名古屋大学生総数4,000人中1,000人、東北大8,000人中1,000人、岩手大3,000人中1,000人、京大、立命四桁、東大600、早大、法政、中央数百)が、30回大会(2002年11月)において「2万2,000の峰を突破」との表現で公表したのを最後に、同盟員数は明らかにしていない。


  日本共産党もだが、民主青年同盟なしで日本革命が達成されることは絶対にありえない。青年の中で強大な同盟建設をなさずして、自然成長的な大衆運動の高揚で日本社会が変えられると考えるのは全て幻想である。私の見るところでは、現在の同盟員数は約2000人、最盛期の百分の一である。このようなみじめな数字に落ち込んだのは何故か。単純ではないが、1972年の新日和見主義事件を忘れてはならないだろう。つまりブルジョア議会主義の道を歩んだのがあやまりだった。議会の議席を獲得することに血道をあげて、人民の階級的利益を蔑ろにしたのだ。

  1967年、香川大学の同盟員は300人いた。1968年、岡山大学の同盟員は150人いた。いまは何人いるのか。ともに数名ではないか。ゼロかもしれない。絶対に「市民」革命は起こせない。アホでもわかる。こんな事を書かなくても大学に入ってみればわかる。何にもない。タテカンひとつない。だあれも共産党に見向きもしない。

 これは大学の中だけではない。階級的労働組合のナショナルセンターは不十分ながら全労連だ。これを強化するためには単産の戦いが不可欠である。ここも単純ではないが、労戦の右翼的潮流と戦わなければ労働者の生活と権利は守れない。連合こそが障害である。連合と一緒に、民進党と一緒に、何を戦いとるのか。アホでもわかる。ブルジョア選挙が労働者売り渡しの儀式になっている。おかやまいっぽん岡山一本こそが翼賛国会誕生の露払いである。許せない。必ずや叩きつぶす。

  1. 2016/05/07(土) 18:49:29|
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