古本屋通信

結党大会に「国旗」を掲揚の民進党

古本屋通信    No 1837   3月30日

   
結党大会に日の丸の 「国旗」 を掲揚した民進党


  とりあえず事実だけを記す。たったいま江田五月のHPから民進党の結党大会のユーチューブを見た。江田がいちはやくHPに新党のHPをリンクしたことに先ず敬意を表明しておく。たったこれだけのことを柚木も、高井も、津村もしないのだ。

 私が見たのは30秒、岡田の演説の冒頭部分だけだ。その内容に興味はない。なんと、なんと演壇のすぐ横に日章旗が、日の丸の旗がひらめいている。なんだ、なんだ、これはいったいなんなのだ。

  私は二日前の産経新聞のニュースで、この新党が日の丸の旗こそ掲げていたが、君が代を歌わなかったと言って非難していたのを読んでいた。産経のキチガイに怒っても仕方がないが、政治党派が日の丸・君が代はなかろうと思った。まあ自民党と大阪維新はやるだろうが、公明党でもやらないだろう。然し民進党は日の丸を掲揚した。

 はっきりと云う。この党に託すものは何もない。日の丸がんばれ! 自衛隊を海外に派兵して人殺しをして日章旗を揚げる、それが自公政権と民進党である。くたばれ、日の丸の民進党! この日本から出て行け、民進党!



  と書いても、このブログ、民進党関係者は誰ひとり読んでいません。読んでいるのは共産党周辺と左翼シンパばかりでしょう。いまの共産党周辺にはこういう民進党糾弾が欠かせませんね。


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 上記を書いたついでに「民進党は日の丸を掲揚した」を入力したら、最上位に以下が出た。右翼らしいが、右から民進党のアラを抉っている。おもしろい。

 民進党結党大会 2016年3月27日
・日の丸、国旗掲揚なし(舞台横の見えない所に隠していた)
・君が代、国歌斉唱なし
・議長が「民主党」と言い間違う
・松野頼久が「民主党」と言い間違う
・岡田克也が「新進党」と言い間違う
(えっ、どこが違うの? あっ、そうか、民進党か。しかし党首の岡田がこれじゃあ沈没は間違いなしだな。「新進党」って、かつて存在した政党だナ。だからもう救いがないナ。古本屋通信

 ひとことだけ、お断り。岡田って、もともと自民党の竹下派なんよ。憶えておいてね(古本屋通信)。



  参考  ウィキペディア


  新進党

成立年月日  1994年(平成6年)12月10日
前身政党 新生党 民社党 日本新党 自由改革連合
解散年月日  1997年(平成9年)12月27日(手続上は1997年(平成9年)12月31日)
解散理由 大連立構想による求心力の低下、公明勢力が独自に選挙へ臨む事を表明したため
後継政党 自由党 新党友愛 新党平和 国民の声 黎明クラブ 改革クラブ
政治的思想・立場  中道右派、新自由主義、新保守主義
機関紙 『新進』(タブロイド判)
新進党(しんしんとう)は、1994年末から1997年末にかけて活動した日本の政党。55年体制成立以後、自由民主党以外で初めて日本社会党を上回る数の国会議員を擁する政党であった。

党史[編集]
結成までの経緯[編集]
1994年(平成6年)6月の自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣の発足で下野した非自民・非共産勢力は、次期総選挙で施行される小選挙区比例代表並立制への対応に迫られていた。小選挙区で自民党に対抗するためには野党各党が合流して各選挙区で候補者を1名に絞らなければならず、新・新党を結成する流れが一気に傾き、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党・自由改革連合などが結集し、同年12月10日、結党された。理念は「自由、公正、友愛、共生」。

党結成に関して、新生党の代表幹事であった小沢一郎(当時:新党準備委員会委員長)は「保守党」と名付けることを希望したが、周囲の反発により断念した。初代党首選挙は、自由改革連合代表の海部俊樹元首相、新生党党首の羽田孜元首相、民社党委員長の米沢隆の3名で争われ、海部が勝利した。

結成時の所属国会議員数は214人(衆議院176人、参議院38人)である。結党時の国会議員数が200人を超える政党が結成されたのは、1955年(昭和30年)結成の自民党以来39年ぶりであった。

公式の英語党名は、当初「New Progressive Party(新進歩党)」とする案も出されたが、異論があり「New Frontier Party (新開拓地党)」となった。公式の略称は新進、NFPとされた。日本の英字紙であるジャパン・タイムズは公式英称をあまり用いず、ローマ字名称の「Shinshinto」を多く用いた。

1995年(平成7年)7月の第17回参議院選挙において改選議席の19議席から40議席へと議席を倍増させ、比例区の得票では自民党の獲得票を上回る躍進を見せた。

相次ぐ党内対立[編集]
1995年(平成7年)12月の海部党首の任期満了に伴い行われた党首選において、羽田孜と小沢一郎が激突し、小沢が党首に就任した。海部と争った前回の1994年(平成6年)12月党首選に続き敗退した羽田の支持グループはこれ以降、党運営を巡り小沢との対立を深めていくことになる。

1996年(平成8年)10月の第41回衆議院総選挙では政権交代を目指し、野党第一党としては38年ぶりに衆議院議員定数の過半数の候補者を擁立した。消費税率を20世紀中は据え置くことや、減税およびそれに伴う経済の活性化による財政再建を公約の目玉にするも、解散前議席に届かなかった。

主な敗因として、
自民党・新進党・民主党の候補者による三つ巴の戦いで反自民の票が割れた結果、自民党が勝利した小選挙区が多かったこと(重複立候補を原則行わなかったため、多くの小選挙区でわずか1万票前後の差で野党候補の落選者が出た。)
自民党、特に亀井静香と白川勝彦による新進党の有力支援組織である創価学会に対する反創価学会キャンペーンの存在。
公明や支持母体の創価学会が一部選挙区(東京5区や神奈川11区など)で新進党候補者(反創価系の新進党候補者)へ投票せず独自投票を行い、事実上の分裂選挙になったこと。
増税を推進する自民党や民主党に所属していながら候補者自身は増税反対と主張するなど、政党の公約と個人の公約にねじれがあり、有権者を混乱させたこと(消費税をなくす会の調べによると、自民党から当選した239人のうち108人、民主党から当選した52人のうち32人が、消費税引き上げ問題に関して反対もしくは見直しと公約したという)
などが挙げられる。

解党、分裂へ[編集]
総選挙後、羽田・細川護煕らの離党や自民党による引き抜き工作により求心力を失いつつあった小沢執行部は、自民党との大連立構想、いわゆる保保連合構想を模索し、自民党内で自社さ派の加藤紘一・野中広務に対抗する保保派の梶山静六・亀井静香との関係強化を図った。しかしこれに対し、自民党に取り込まれると党内から反対論が吹き出し、小沢の求心力をさらに失わせる結果となった。

1997年(平成9年)11月、旧公明党のうち新進党に合流していない参議院議員・地方議員を中心とする政党・公明が新進党への合流を取りやめ、1998年(平成10年)の第18回参議院選挙に独自で臨むことを決定した。

同年12月、小沢党首の任期満了に伴い党首選が行われ、小沢党首と鹿野道彦元農水相の一騎打ちとなり、小沢が再選した。小沢は純化路線に進むことを決断し、同月27日に両院議員総会を開いて新進党の分党と新党の結成を宣言した。これによって新進党は消滅し、自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブ・国民の声の6党に分裂した。

略年表[編集]
1994年(平成6年) 11月24日 - 新党準備会で「新進党」と名称決定。
12月10日 - 結党大会。初代党首は海部俊樹。大会の司会は岡田眞澄が務めた。

1995年(平成7年) 4月9日 - 第13回統一地方選挙で重点的に支援した候補(北海道道知事選挙出馬の堀達也、岩手県知事選出馬増田寛也、三重県知事選出馬北川正恭ら)が当選。秋田県知事選出馬佐藤敬夫は敗北。東京都知事選挙は新進党・公明・民社協会の足並みが揃わず自主投票。
中西啓介が電通社員の長男の大麻取締法違反で通常逮捕されたことで代議士辞職(翌年復帰)。
7月23日 - 参議院議員通常選挙で40議席を獲得。比例区得票で自民党を上回る。
12月28日 - 第2代党首に小沢一郎が就任。

1996年(平成8年) 9月 - 鳩山邦夫・船田元・石破茂らが離党。
10月 - 第41回衆議院議員総選挙では政権交代を目指し、衆議院定数の過半数を超える候補者を擁立するも、解散前議席を4下回る156議席獲得に止まる。
12月26日 - 羽田孜・奥田敬和・畑英次郎らが離党、太陽党結成。

1997年(平成9年) 1月29日 - オレンジ共済組合事件で友部達夫が逮捕される。2001年に最高裁で判決が確定するまで、議員の地位に留まった。
2月15日 - 公明の藤井富雄代表が新進党合流の先送りを表明。
6月18日 - 細川護熙が離党、年末にフロムファイブ結成。
7月6日 - 東京都議会議員選挙で11人の公認候補全員が落選
7月14日 - 鴨下一郎・上田清司・愛知和男・北橋健治・伊藤達也が離党。
10月26日 - 宮城県知事選で自民党・公明とともに推薦した市川一朗が現職の浅野史郎に敗北し落選。
11月28日 - 公明が翌年の参院選比例代表を独自に戦う方針を決定。
12月18日 - 小沢が党首再選。
12月27日 - 党両院議員総会で解散を決定。
12月31日 - 政党助成法に基づく分党手続、新進党解散。

解党後の地方組織[編集]
新進党の分党後、地方組織の多くは中央と同一歩調で各党派に分裂したが、一部で新進の枠組みを維持した地方組織もあった。
青森県民協会(青森県)旧新進党の青森県支部連合会をそのまま引き継ぐ形で地方議員を中心に結成された。木村太郎・山崎力の現職議員を擁すると共に、県知事だった木村守男の支持母体として影響力を維持し、第18回参院選で田名部匡省を当選させる原動力となった。しかし、山崎・木村は自民党に移籍し、津軽地方の地方議員の多くが脱退した。その後、2000年(平成12年)の第42回衆議院総選挙では三村申吾を当選させるも、三村も後に脱退した。末期には田名部系の地方議員が中心となった組織となり、2004年(平成16年)3月に田名部が民主党に入党すると合流した。岩手政和会(岩手県)岩手県知事選挙において新進党推薦で当選した増田寛也系列の保守系会派。岩手県議会では社民党と統一会派を組んでいた。当初は小沢一郎直系だった県議だが、小沢が自由党に移った後も自由党に移らずに小沢と対立するようになった。その後自民党を離党した一部県議と地域政党いわてを結成する。新進石川(石川県)奥田敬和を支持する地方議員を中心に結成された。奥田の死去後も後継者の奥田建を支援しており、県政における非自民勢力の中核を担っている。2007年の参院選では民主党候補一川保夫を応援し、当選させた。2009年の衆院総選挙後、民主党幹事長の小沢一郎から民主党への合流を要請され、合流した。その後も議会会派として存続したが、2012年12月19日に解散が決定した[2]。新政みえ(三重県)三重県知事選挙で新進党推薦で当選した北川正恭、民主党副代表の岡田克也を支持する地方議員を中心に結成された。県議会では自公を抑えて第1党である。山口県政治改革協議会(山口県)細川内閣時代の与党勢力で構成。新進党解党後も県議会会派「民主・公明・連合の会」(民公連)として存続したが、やがて公明党が離脱した。新進沖縄(沖縄県)自民党に復党した仲村正治を支持する地方議員を中心に結成された。2000年(平成12年)6月に自民党に合流した。

参加党派[編集]
新生党二階俊博・岡田克也ら自民党の派閥で最大勢力だった経世会が分裂して旗揚げの改革フォーラム21(羽田派)を母体に結党し、直後の総選挙では松沢成文・上田清司・西川太一郎・古賀敬章・山本幸三・柴野たいぞうらが初当選。後に、自民党清和会(安倍派)の後継争いに敗れた政真会(加藤グループ)も院内会派「新生党・改革連合」を経て入党している。(三塚博会長時代の)清和会扇千景、政科研、小坂憲次・石破茂、新政策研究会(河本敏夫派)石井一二、宏池会(宮澤喜一派)浜田卓二郎・原口一博らも途中入党。公明新党新進党に参加する公明党国会議員により結党。公明党からの分党手続きを行った。公明党の衆院議員と参院の改選議員全員に加え、党籍を持たない比例区選出の参院議員で「公明党・国民会議」として会派をくんでいた広中和歌子ほか6名も参加。日本新党新党さきがけとの統一会派解消後、江田五月も自身が代表の社会民主連合を解散して合流し、小池百合子と共に副代表就任。衆院では、4月の「改新」参加以降、さきがけに参加するグループが「グループ青雲」、「民主の風」、9月の「改革」参加以降は海江田万里・牧野聖修らが「民主新党クラブ」を結成、離党している。野田佳彦・山田宏・中田宏・伊藤達也・長浜博行・樽床伸二ら松下政経塾出身者が多かった。小泉晨一・石井紘基・茂木敏充・遠藤利明は不参加。民社党西村真悟・小平忠正・青山丘ら、大半は参加したが、大内啓伍前委員長(当時)は公明党との合流を拒否して不参加、自民党に合流した。なお、民社党系の国会議員、地方議員は政治団体として民社協会を結成。自由改革連合9月に結成した衆院会派「改革」に参加した保守系4党派(改革の会・新党みらい・高志会・自由党)により結成。

このほか、無所属の笹木竜三や「リベラルの会」を経て「改革」に参加していた山口敏夫らがいる。

参院で統一会派「新緑風会」を結成していた民主改革連合(前代表中村鋭一除く)とスポーツ平和党、横山ノックらは参加しなかった。

総理大臣指名選で羽田・海部を支持しながら新進党不参加の無所属徳田虎雄は前出の栗本・大内・柿沢・佐藤静・石井紘・小泉と自由連合を結成し自民党と歩調を合わせた。
  1. 2016/03/30(水) 10:51:15|
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古本屋通信板の削除に就いて

古本屋通信    No 1836   3月30日
  

   古本屋通信板の削除に就いて


 私の拍手欄に下記のような問い合わせがありましたので、このさいお答えしておきます。

 なにゆえか!!削除されて!!おります!!!
古本屋通信 No 1804 3月17日 >「民主党」と書いて投票しよう >民主党支持者は来る参院選比例区で「民主党」と書いて投票しよう >「民進党」なんてダサイし、だいいち覚えにくいでしょう。


 
  私はしょっちゅう自分の書いたエントリーを削除する習慣があります。色々なケースがありますが、基本的に自分の書いた文が誤りだったから反省して削除するのではありません。また、他人を傷つけるから取り消すのでもありません。私は古本屋通信を通信文だと思っています。つまり既成のブル・メディアで云えば新聞と週刊誌の中間くらいの位置づけです。つまり賞味期限はせいぜい数日間だとの自己認識です。つまり旧くなった記事を長期に残すことに意味を認めないのです。しかし削除する板は主に他人を激しく非難した文だと思います。これは自分の書いたことが間違っていないのは確かだけれど、さりとて何時までも残して当該の人物に不快な想いを懐かせ続けることにも意味を見出さないからです。私の過去板は合計で現在1800を越えますが、このうち残っているのは800余りです。つまり約1000エントリーを削除しています。この中には選挙記事など時事的一過性のものが多いのですが、結論的に云えば古本屋通信は文学上の表現でもなければ、学術論文でもない。だから残すに価しないという自己認識です。ならば月が変われば全て消去してしまえばよいのですが、そこは私の未熟さゆえに、未練もあるのです。

 付言 しますが、私が消そうが残そうが、私の文を誰がどのような文脈で引用されようが勝手です。このブログの文に著作権はありません。リンクも転載も引用も全く自由です。たとえ180度歪曲されて使われようと異議を唱えることはありません。無視するだけです。というのは私は自分でブログを書きながら、ネット上の文を一人前の証言能力を有する文と認めていないからです。この点に関しては「通信 No1810 ブログ言語の責任能力」 に書きましたので、それを参照してください。
  1. 2016/03/30(水) 05:40:42|
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みんなにいい顔、岡田さん

古本屋通信    No 1835   3月30日

   みんなにいい顔、岡田さん


  ちょっと息抜きの板です。谷垣さんと岡田さんは友達になれるね。でも、谷垣さんのほうがソフトイメージですね。なぜか京都の自民党はリベラルな感じです。衆院3区補選も見送ったしね。でも、国会って、みんな同じフィールドにいるお友達なんだ。ここのところをしっかり見ないといけない。つまり、みなさん、共産党も含めて真剣にはたたかっていない。極端にいうと、国会とい所は相互扶養の機関なんです。議員がメシを食う場所なんです。そういう目で国会と国会議員を見なければなりませんね。私がくどいほどブルジョア議会主義を非難する理由もここにあります。共産党でも宮本岳志なんか典型的なダメ議員ですが、これは宮本の能力が劣っているからではありません。根性が腐っているからです。人間は油断しているとみんな宮本のようになります。気をつけたいですね。



民進・岡田代表 「『谷垣首相』なら違う」現政権を批判
毎日新聞
  2016年3月29日 20時50分
 民進党の岡田克也代表ら執行部が29日、国会内で各党幹部にあいさつ回りした。岡田氏は、リベラル色の強い自民の谷垣禎一幹事長と公明の山口那津男代表への親近感を強調する一方、「安倍晋三首相はかなり危ない」と厳しく批判した。
 自民党では、首相への対決姿勢をあらわにしたものの、「『谷垣首相』なら違います」と秋波。谷垣氏は「何をおっしゃいますか」と苦笑いを浮かべた。
 公明では、山口氏が「(1990年の衆院選の初)当選同期で世代も近く、目指す大きな方向は共通点も多い」とエールを送ると、岡田氏が「考え方はかなり近い」と応じた。
 衆院選で独自候補の積極擁立方針を打ち出した共産執行部へのあいさつでは岡田氏が志位和夫委員長らに対し、「両党があまり競い合うと(野党が)落ちてしまう」と述べ、連携を呼びかけた。【田所柳子、松本晃】
  1. 2016/03/30(水) 04:44:58|
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もうガタガタ、共産党の選挙方針

古本屋通信    No 1832   3月29日

    もうガタガタの共産党の選挙方針


  たぶん全国の党機関と党員から激しい突き上げがあったのであろう。当たり前だ。古本屋通信がこれまで書いてきたようなことは真面目な党員がとうぜん懐く党批判である。もうガタガタであった。参院選単独でもガタガタなのだ。これに衆院選が加わって衆参同時選挙になれば、共産党方針で行けば独自候補は擁立できないことになる。加えて、参院選ではまだ候補一本化の含みを残していた民主党(民進党)が明確に共闘拒否なのだ。こういう現状をそのままにしておくと、共産党は衆参ともたたかわない党になってしまう。いくら供託金没収を免れるとはいえ、これでは地方は堪らない。私が書いたように、岡山では自公両党も民進党も衆参同時選挙用の抱き合わせポスターを貼りまくっている。幸福実現党でさえも貼りまくっている。一枚も貼っていないのは日本共産党だけだ。候補者が全く決まっていないからだ。

 以下は山下書記局長の記者会見だが、山下なんか使い走りの事務員にすぎない。常任幹部会の決定が以下である。私はこれは志位ー小池ー山下の無能ラインに愛想が尽きた常幹からの横槍だと見る。だからといって、これであたらしい展望が開けるというわけではないが、とりあえず無能ラインを放置しないで軌道修正を計ったということだろう。




 3月29日(火)   赤旗

衆院小選挙区で、選挙協力を追求しつつ、候補者擁立をすすめることについて  山下書記局長が会見
  (写真)記者会見する山下芳生書記局長=28日、国会内

 日本共産党の山下芳生書記局長は28日、国会内で会見し、衆院小選挙区の候補者擁立について次のように表明しました。

 一、本日の常任幹部会で、衆院の小選挙区で野党間の選挙協力を追求しつつ、わが党として候補者の擁立を進める方針を確認しました。

 わが党は2月19日の5野党党首合意を踏まえて、2月22日の全国都道府県委員長・参院選候補者会議において、衆院小選挙区での選挙協力のあり方について、「直近の国政選挙の比例代表選挙の野党各党の得票を基準にした『ギブ・アンド・テイク』を原則として推進する」という、党としての基準と原則を明らかにしました。

 一、その後、他の野党との協議の場でも繰り返し、わが党の立場を説明するとともに、どういう原則で選挙協力を行うかも含めて、衆院選での選挙協力の協議に入ることを呼びかけてきました。民主党との2党間協議でも、繰り返し協議に入ることを呼びかけてきましたが、「難しい」との回答でした。こうした状況のもとで、わが党として、衆院小選挙区の候補者の擁立は抑制する態度をとってきました。???

 一、3月23日の共産、維新、社民、生活の4党の党首会談での合意―「5野党間で速やかに衆院小選挙区での選挙協力のための協議に入るべきである」という合意を踏まえて、3月25日の5野党書記局長・幹事長会談で、私は衆院小選挙区での選挙協力について5野党党首間で確認されたことであり、衆参ダブル選挙の可能性もあるもとで速やかに協議に入るべきだと改めて提起しました。

 それに対し、民主党の枝野幸男幹事長は「難しい」「協議には入れない」と繰り返し表明しました。枝野氏が「協議に入れない」理由としてあげたのは主に「党内を説得できない」「既に立候補している人を降ろせない」というものでした。一方、同党の玄葉光一郎選対委員長は、民進党として「単独過半数238は立てる」と述べ、既に200人近くを擁立しています。自らは候補者を擁立しながら、「立てたら降ろせない」、選挙協力の協議に入ることさえ拒否するというのは、5党首合意を誠実に履行する態度とは言えません。???

 一、民進党がこうした態度をとるもとで、わが党として総選挙をたたかう独自の準備を急ぐ必要があります。そのことが、結果として、民進党を含む野党間の衆院小選挙区での選挙協力を前に進める力にもなると考えます。??? 以上の理由から、わが党として衆院小選挙区の候補者の擁立を進める方針を確認しました。
  1. 2016/03/29(火) 10:55:34|
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冥土の旅への一里塚

古本屋通信    No 1831   3月29日

   
壊滅への道標、冥土の旅への一里塚。


  これでは一対一で対決する参院選挙区で民進党候補が勝てる可能性は先ずない。日本共産党は(今からでも遅くないから)候補者を降ろして民進党候補を推薦した以下の選挙区での決定を撤回せよ!

  「野党統一」という名前の民共合作が実現した10選挙区のうち、沖縄と熊本を除く8選挙区は青森・田名部、宮城・桜井、長野・杉尾、山梨・宮沢、長崎・西岡、宮崎・谷山、高知・徳島・大西、衆院補選北海道5区・池田。



2016.3.27 19:10  産経新聞
【民進党結党】
 民進党「期待しない」67%も…支持率8%、両党合計分を下回る 世論調査 
 民進党の結党大会であいさつする岡田代表=27日午後、東京都内のホテル
 共同通信社が26、27両日に実施した全国電話世論調査によると、民主党と維新の党の合流新党「民進党」について「期待しない」との回答は67.8%で、「期待する」の26.1%を大きく上回った。
 政党支持率も8.0%にとどまり、2月の前回調査で民主党と維新の党が得た支持率を合計した10.5%を下回った。
 夏の参院選比例代表で民進党に投票するとの回答は10.5%で、前回調査で民主党と維新の党に投票するとした割合の合計(10.6%)から横ばいだった。



 古本屋通信
 つまり 1+1が2 にならなかった。ふつう新党だと発足時には3にも4にもなるんだ。これに共産党の支持が加わると、民進党候補の支持は更に減少するだろう。つまり敗北のための野党候補一本化である。





「民進党」支持率 合流前を下回る 
ANN世論調査
  (2016/03/28 10:04)  
 民進党について、ANN世論調査の初めての支持率は15.6%と、前回調査の民主党と維新の党の支持率を足した数を下回りました。
 民主党と維新の党が合流して27日に結党した民進党の支持率は15.6%と、46.3%の自民党に大きく水をあけられました。先月の調査では、民主党が14.6%、維新の党が1.3%でしたが、新党になっても支持が伸びませんでした。また、民進党に期待するかどうかを尋ねたところ、「期待しない」と答えた人が57%に上りました。一方、最近の安倍内閣の閣僚や自民党議員の発言や態度については「気の緩みやおごっている様子が目立つと思う」と答えた人が84%に上りました。安倍政権が進めている子育て支援策については、4分の3以上が「十分だと思わない」と回答しました。



  古本屋通信

  ご覧のように安倍政権に対する不快感は相当なものだ。なのに自公政権が安泰で改憲まで日程に上っている。この責任は挙げて野党にある。つまり全ての政治方針が誤っている。これを民進党に言っても仕方がない。そもそも同じ穴のムジナだから。しかし民進党を支持する共産党は許せない。
  1. 2016/03/29(火) 08:35:21|
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ザマミロ民進党と北海道池田真紀

古本屋通信    No 1830   3月29日

ザマアミロ、民進党と北海道5区の池田真紀。地獄に堕ちろ。

 たったいま池田真紀の 新札幌駅前での街頭演説を見た。全く支持がない。立ち止まる人も聞き入る人も、ただの一人もいない。落選は間違いないだろう。

 いまのところ赤旗に同調する日本共産党議員のカルト文は現れていない。然しもし発見したら、古本屋通信はその党員に集中砲火を浴びせ、必ずやそのブログを閉鎖に追い込むであろう。かつて武田英夫や石村智子を粉砕したように。



 他人の記事3本を転載する。選挙には謀略が付きものだとしても、このところの赤旗は度はづれである。このツケは必ず廻って来るだろう。 



世に倦む日日   3月28日
支持率が上がらない民進党 - 敗北必至の北海道5区補選と同日選

昨日(3/27)、民進党の結党大会があり、すぐにマスコミ各社から世論調査が発表された。共同では、民進党について「期待する」が26.1%、「期待しない」が67.1%となり、日経では、「期待する」が26%、「期待しない」が66%の結果となった。NNN(日テレ)の調査では、「期待する」が26.6%、「期待しない」が59.7%となっている。NNNの結果のみ、「期待しない」の数字が少し小さいが、基本的に2週間前のNHKの世論調査と同じ結果であり、国民の3分の2が期待していない現実が浮き彫りになっている。注目するべきは共同の政党支持率で、前回2月の調査では民主党9.3%、維新の党1.2%だったのが、今回3月の調査では、民進党8.0%と低い結果に出てしまったことである。二党が合流して新党を結成したことで、逆に支持率が下がってしまった。事前に十分に予想された醜態だ。代表は岡田克也、幹事長は枝野幸男で変わらず、綱領から原発ゼロの目標を外し、何も代わり映えしてないのに、延々と永田町族の自己宣伝である「新党結成ショー」をテレビで見せられて、国民は辟易としているのである。野合を美化する政治業界の身内話で国民の支持が集まるはずがない。世論調査には国民の拒否感と倦怠感が現れている。 【続き - 以下は有料です】





赤旗の連日の大本営発表(デマ宣伝)から

2016年3月27日(日) 赤旗
大激戦の衆院北海道5区補選 焦る官邸 なりふり構わず
夏の参院選に衆院解散・総選挙を重ねるダブル選の可能性も強まる中、その前哨戦として注目される衆院北海道5区補選は、5野党統一予定候補の池田まき氏と自民党の和田義明予定候補との一騎打ちの構図です。当初、楽勝を予想していた自民党にとって思わぬ大激戦となり、危機感を強めています。
 「19日から21日の3連休で行った自民党独自の情勢調査では、野党候補がものすごい追い上げだ」
 自民党関係者の一人は生々しい数字をあげました。「これまでダブルスコア以上の差だったのだから、勢いを含め評価すれば互角。官邸は『誤差の範囲』とし危機感を強め、焦っている」
 同党閣僚経験者は「無党派層で野党候補支持が伸びている。投票率が上がると非常に厳しくなる。この流れは非常に怖い」と語ります。別の自民党議員は「野党共闘の効果は想像以上だ」と警戒します。
 急きょ政見放送
 安倍晋三首相は23日に急きょ、衆院北海道5区用の政見放送を党本部で収録しました。関係者によると、候補者を立てる故・町村信孝衆院議長の派閥(現・細田派)だけでなく、自民党すべての派閥に対し「半強制」で「トータルで1000人以上」の秘書を現地投入する“大量動員態勢”を敷いているといいます。
 「もし負ければ参院選、ダブル選などのシナリオが大きく狂う可能性もある。何が何でも負けられない」(関係者)という官邸の強い執念を示しています。自民党内には「野党共闘に関心も集まり、市民が前に出始めている」という不安の声が広がっています。
 安倍内閣は22日、現在でも日本共産党が破壊活動防止法に基づく「調査対象団体である」などとした政府答弁書を閣議決定しました。日本共産党が「暴力革命」を方針としているかのような悪質なデマ攻撃を政権があげて行うもので、野党共闘の前進に対する焦りの表れです。同答弁書は、北海道5区補選で日本共産党との共闘に反対して民主党からの離党を表明し、同党から除籍となった鈴木貴子衆院議員の質問主意書への返答です。鈴木氏の出身母体である北海道の地域政党・新党大地と安倍政権との謀略的な協力関係を示すものです。
 参院選挙に向け、安倍政権は来年4月予定の消費税率10%への増税実施を再延期する検討に入っています。「参院選自体、増税の是非を争点にしては勝てない」(関係者)という思惑です。
 党略あけすけに
 自民党の溝手顕正参院議員会長は20日のNHK「日曜討論」収録後、記者団に「増税をやるかやらないかという状況のままで参院選に入れない」「来年4月(増税)というタイミングでは良くない。大変だ」と語り、ダブル選について「賛成だ。やった方が参院選には有利だ」と語りました。これに対し自民党内からは、「正直といえば正直だが、あまりに露骨に党略的意図を語るもので、党内や公明党からも批判が出ている」という声が漏れます。(中祖寅一)





 93年の日本共産党史上で初めて他党の結党大会をベタ褒めした低脳の赤旗記事。キチガイか? 

2016年3月28日(月)  赤旗
「民進党」が結党大会
立憲主義守り、安倍暴走止める (こういう評価を他党の結党大会に送ったのが正気でない。古本屋
 民主党と維新の党の合流による「民進党」の結党大会が27日、都内で開かれました。所属議員は衆参両院で156人となり、新代表に岡田克也氏(前民主党代表)が就任。「野党勢力を結集し、政権を担うことのできる新たな政党をつくる」と結党宣言しました。
 岡田氏は就任会見で野党共闘について問われ、日本共産党や当時の民主、維新両党など5野党の党首会談(2月19日)に言及し、「5野党代表で確認した通り国会対応、国政選挙においてできる限り協力するというのが合意事項だ」と改めて表明しました。大会あいさつでは「憲法の保障する基本的な権利すら脅かされ、憲法の根幹である平和主義がないがしろにされている。安倍政権の暴走を止めなければならない」と述べ、「安倍政権が衆参同日選挙をやるというなら、受けて立とうではないか。 『自公対国民の良識』のたたかいに勝利しよう」と呼びかけました。 維新の党代表だった松野頼久氏は、同日開いた臨時党大会で同党解散を決定したことを報告しました。
 民進党綱領は、「自由と民主主義に立脚した立憲主義を断固として守る」と明記。「新しい人権、統治機構改革など時代の変化に対応した未来志向の憲法を国民とともに構想する」、「原発に頼らない社会を目指す」などと掲げました。
 新幹事長の枝野幸男氏(前民主党幹事長)が活動方針を報告し、「安保法制の廃止と現実的かつ必要な安全保障体制の整備に向けて総力を注ぐ」と述べました。 来賓あいさつで連合の神津里季生会長は、政策に関して「民主党政権が瓦解したのはガバナンス(統治)のつたなさによるもの。“社会保障と税の一体改革”をはじめ民主党政権でなければできなかった理念、政策はしっかりと引き継がれるべきだ。間違っても目先の人気取りで魂まで失ってはならない」と要求しました。
 脳科学者の茂木健一郎、東京大学教授の大沢真理、SEALDs(シールズ)の奥田愛基の3氏があいさつをしました。
 27日に結党した「民進党」大会で決定された役員は次の通りです。(敬称略)
 ▽代表 岡田克也▽代表代行 江田憲司、長妻昭、蓮舫▽幹事長 枝野幸男▽政調会長 山尾志桜里▽国対委員長 安住淳▽選対委員長 玄葉光一郎▽参院議員会長 郡司彰


 つまり批判の視点が皆無だ。これが他党の結党大会の記事としてはキチガイだということだ。コレならば日本共産党はこの党に合流すればよいのだ。それほどヒドイ記事である。思想的には解党主義である(古本屋通信)。


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 以下の男、江田五月はある意味で立派だ。党派性を最後の最後まで貫徹している。まあ、結果でもって江田五月に答えようではないか。
  それにしても党大会に出席していた民主党岡山県連の誰一人として大会の報告文を書かない。これは横着しているのではない。ホントに一行も書けないのだ。これ柚木や高井や津村だけではない。8割の国会議員が似たような低脳なのだ。だからこれより少しマシな山尾が政調会長に選ばれたのだ。



 江田五月活動日誌  3月27日(日)
 民進党結党大会
 今日は、民進党結党大会です。午前中は議員宿舎でゆっくりして、12時前に出て昼食を取り、会場に近づくと大交通渋滞となりました。13時前にやっと会場に着き、開会に間に合いました。
 13時に開会し、素晴らしい結党宣言が披露された後、大会実行委員会の大串博志事務局長の司会で、議長に坂本祐之輔衆議院議員と相原久美子参議院議員を選出し、大会成立宣言の後、松野頼久さんが維新の党の解党手続きを終えたことなど民進党結党の経過報告をし、さらに綱領と規約の提案をし、さらに民進党代表として岡田克也さん提案し、続けて民主党離党から民進党結党に至る過程でのご自身の反省と岡田さんの指導力への信頼を述べました。続いてすべての提案が満場の拍手で一括了承され、岡田新代表が力強く新しい出発の挨拶しました。
 同 - 議長選出
 同 - 松野頼久さん
 同 - 岡田克也代表


 13時20分ころから来賓挨拶となり、最初は連合の神津里季生会長、続いて脳科学者の茂木健一郎さん、大沢真理教授、最後にSEALDsの奥田愛基さんが、それぞれ内容豊富で聞かせる激励挨拶をしてくれました。会場には、外交使節の皆さんも来賓として参加してくれました。その後、岡田新代表から新役員の提案があり、拍手で了承の後、枝野新幹事長から活動方針が示されました。そこで議事が終了し、議長が退任となりました。
 同 - 連合神津会長
 同 - 茂木さん
 同 - 大沢さん
 同 - 奥田さん
 同 - 枝野幸男幹事長

 そこからは補欠選挙支援で、まず北海道5区の池田真紀さんのビデオメッセージがあり、京都3区の泉ケンタさんが登場して力強く決意を述べました。そして、新役員、女性議員と候補、さらに泉さんと同年の31歳以下の議員と候補がすべて壇上に上がり、全員起立して新政調会長の山尾志桜里さんの音頭で、頑張ろう三唱をして終了しました。その後、会場を出て地元記者のぶら下がりを受けました。


  古本屋通信

  一言だけ。トコトン民主党にゴマを擦っている日本共産党の志位委員長になぜ挨拶をさせなかったのか?
  回答は私が自分でする。民進党は共産党をまったくお呼びではないからだ。共産党の本音を知っている。どんなにおべんちゃらを垂れても腹の底では民進党の壊滅を目ざしていると知っている。まあ狐と狸だ。いずれにしても現政権はビクともせず、きのう堂々と安保法制を実効に移した。これを撤回させるには全国ゼネストしかない。そういう視点は皆無なのね。
  1. 2016/03/29(火) 00:15:17|
  2. 未分類

市民(=烏合の衆)を粉砕!

古本屋通信    No 1829   3月28日

  市民(=烏合の衆)が政治を動かすことは絶対にあり得ない。

  今日の赤旗の大々的なデマ宣伝を粉砕し、「野党統一が実現した」10選挙区のうち、沖縄と熊本を除く8選挙区(青森・田名部、宮城・桜井、長野・杉尾、山梨・宮沢、長崎・西岡、宮崎・谷山、高知・徳島・大西、衆院補選北海道5区・池田)の統一候補の敗北を切望する(全員が民進党のゴミ候補である)。



  赤旗がここまでデマるなら、もう黙ってはいられない。たったさっき午前3時半に早朝配布された赤旗は一面 「野党統一候補勝利へ力あわせ 市民が政治動かす 市民連合 意見交換会」、四面と五面でも大々的な特集を組んでいる。

  一面は読む気にもなれない。四面は「市民連合 意見交換会から」と称して、高田健(総がかり実行委員会)、山口二郎(立憲デモクラシーの会)、河原茂雄(「市民の風・北海道」共同代表)、平野みどり(熊本・あべ広美後援会副会長)、吉田美智子(ママの会宮城)の4人が登場して喋っている。五面にはなぜか宮城のいわぶち彩子候補と長野の唐沢ちあき候補だけが登場し、「政策協定・共闘協定」 もこの両県のものだけが掲載されている。

  そしておかしかったのは二面に「民進党が結党大会 立憲主義を守り、安倍暴走止める」と、他党の大会、それも結党大会が肯定的な見出しで、肯定的な記事内容で書かれていることだ。これは93年の党史上でもかつてなかったことではないか。驚愕する前に爆笑してしまった。ここまでオカシクなれるのか。

 しかし今日の赤旗には真っ当な記事もある。八面は民青特集だ。「行動するってかっこいい 民青に新入生が注目」 の全面記事だ。写真も記事も秀逸だ。オマケに女優の内藤理沙さんが超きれいだ。何でこれを一面に持って来ないのか。さらに九面には「保育園落ちた パパも怒る」 だ。これもよい記事だ。

  くどくどネチネチと批判するには及ばない。冒頭のタイトルが全てである。「市民」が政治を動かすことは絶対にあり得ない。これを一貫して主張してきたのは他ならぬ日本共産党であった。べ平連や社市連などの「市民」主義が反共と結合して日本の運動にどんな害悪を及ぼしてきたか、それを孤立を恐れず粘り強く主張・説得してきたのも日本共産党であった。

  日本の政治を動かす力は労働者階級の団結した組織力以外にあり得ない。それを核として農民、婦人、中小企業者、各種民主団体、知識人、青年学生、高校生などの組織された運動がある。組織された運動でなければ絶対に力にならない。

  上記の団体は組織綱領と規約を有する団体ではない。烏合の衆である。誰でもが組織成員であると詐称可能なペテン組織である。目立ちがり屋のデッチアゲ組織である。見れば分かるだろうに、山口二郎など典型的な商売人の社民である。ここには登場していないが、澤地久枝もそうだ。古本屋通信が評価するインテリゲンチャーは共産党界隈には現れない。

  あのナア、率直に言う。アホばっかやらず、民青を再建するしかなかろうが。苦しくても急がば回れだ。いま完全に中核派にも、革マル派にも水をあけられているという自己認識あるの? 負けてんのよ。

  シールズのアホ学生の一人が国際キリスト教大学で表彰されたんだってね。それを赤旗が褒めていたという。もうオシマイだね。コレ政治活動への大学当局の干渉の現れなんだけど、そういう認識ないんだね。今後は民青の学生も表彰してくれと頼んだら? 真っ当な学生の政治活動が大学によって表彰されることはあり得ない。シールズは新自由主義の落とし子なんだ。だから国際キリスト教大学というアメ帝のヒモ付きが疑われる大学によって絶賛されたんだ。

 市民(=烏合の衆)を粉砕!

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 別件だけど、きょうの赤旗に折込み広告が入っていたので紹介しておこう。

 第5回 倉敷民商を支える市民集会
 4月3日(日) 午後1時開場 倉敷労働会館 
 倉敷市稲荷町5-38 電話 086-425-0873
 私は無罪 どなたでも参加できます。
 集会のプログラム 会長あいさつ 弁護団からの報告 経過報告と御礼 その他 閉会

 小原淳さんと須増和悦さんは
、岡山地裁で昨年4月に有罪判決(執行猶予)。続く高裁で不当にも控訴棄却。両氏とも倉敷民商を守りながら、最高裁でたたかっています。ご支援をお願いします。

 ね屋町子さんは、昨年3月24日、427日ぶりに帰宅できました。しかし、きびしい保釈条件のため、生活が制約されたまま。ご支援をお願いします。
 倉敷民商を支える会
 
  1. 2016/03/28(月) 04:06:59|
  2. 未分類

山尾を政調会長に選んだ民進党

古本屋通信    No 1828   3月27日

 
  山尾志桜里を政調会長に選んだ民進党


  この女は東大卒の元検事のヒヨコだというのに、下記に再録の保育園問題の国会質問にみられるように、超低脳で悪名を馳せた。何でこんな女をわざわざ選ぶんだ。先の蓮舫といい、今回の山尾といい、この党は 「女は若くて顔」 だと思っているのか。156人もいるなら、もう少しはマシな女もいただろうに(共産党とはエライ違いだ。確かに坂井希吉良佳子も若くて美人だ。しかしこの女とはオツムの出来がちがう。知性において雲泥の違いだ)。



 民進党が発足大会 衆参156人、代表に岡田克也氏選出
 2016年3月27日15時29分
  朝日新聞デジタル
 民主党と維新の党は27日、合流・結成する「民進党」の発足大会を開いた。改革結集の会や無所属議員を含めて衆参両院で156人の勢力となり、二大政党の一翼として政権交代を目標に掲げる。代表に岡田克也氏、幹事長に枝野幸男氏、政調会長に山尾志桜里氏を選出した。前維新代表の江田憲司氏は代表代行に選ばれた。




  古本屋通信

  こういう第二保守党に期待するものは何もないが、改めて力こぶを入れて批判するにも及ぶまい。ただ私はこの党と日本共産党が選挙候補を一本化する参院選挙区において、全ての候補者が落選することを切に願う。だからといって対立する候補を応援する訳ではない。ようするにどっちでも大差ないが、共産党が絡んでいるだけ(選挙民に幻想を懐かせるだけ)、民主党候補がより悪質だということである。この問題における共産党のペテン性と云うのが言い過ぎなら、ヌエ性に就いては書き尽くした。繰り返さないが自他を欺く戦術は必ずツケが廻ってくると言っておこう。


ヌエ 性格や本性が捉えられないさま・ 正体が不明な ・ 素性の知れない ・ とらえ所のない

  尚、岡田が大会後の記者会見できれいごとを言ったそうだ。「山尾氏については、かねてから注目していて、難しい法案の取りまとめに力量を発揮し、予算委員会でも待機児童の問題で切れ味のいい質疑もした。実力も十分あり、育てたい人材だと思って起用した。間違いなく将来のリーダー候補の1人だ」 と。本音ではあるまいが話にならない。「貧すれば鈍する」の典型であろう。


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  再録 (一部カット) 

  古本屋通信    No 1798   3月07日

   ブログ言語の責任能力

 おそろしい世の中になった。
  国会議員(民主党)の山尾志桜里やまおしおりは出所不明の匿名ブログをふりかざして安倍首相に迫った。


  以下の HuffPost さんのよくまとまった文がネット上にあった。拝借する。これだけで十分だ。保育園落選のブロガーの全文もあったが、これを転載する必要はない。保育園落選者の文はブログの文として、きわめて真っ当な一文である。こういう訴えは今後もネット上でなされるべきである。これと国会の質疑はまったく別である。

「保育園落ちた日本死ね」ブログに安倍首相「本当か確認しようがない」、国会では「誰が書いたんだよ」などのヤジ

執筆者: HuffPost Newsroom   投稿日: 2016年03月01日
安倍晋三首相は2月29日の衆院予算委員会で、話題の匿名ブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」について、「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」などと述べた。民主党の山尾志桜里氏への質問に答えた。

このブログは、保育園に申し込んだものの落選したブロガーが「一億総活躍社会じゃねーのかよ」「子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?」「どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ」などと、待機児童問題に対する憤りをつづったもの。人気ロックバンドGLAYのボーカル、TERUさんも、「政府には本気で考えて欲しい問題」などとツイートするなど、ネット上を中心にこの訴えに共感が集まっていた。

山尾氏はこのブログについて「当事者の悲鳴を、国民に知ってもらいたい、予算委員のみなさんにも知ってもらいたいとこう思って、フリップと資料を準備しましたよ。でも、与党のみなさんが、これを委員の皆さんに配ってもいけない、国民の皆さんにフリップで見せてもいけないとそういうことですので、私は本当に安倍政権というのは、都合の悪い声は徹底して却下する、都合の悪い声は徹底して無視する、本当にそういう安倍政権の体質の象徴となる対応だと思いました」などと主張。ブログの内容を口頭で読み上げた。

山尾氏がブログの内容を読み上げる最中には、議員席から、「中身のある議論をしろ」「誰が書いたんだよ」「ちゃんと本人を出せ」などのヤジが飛んだ。

安倍首相はこのブログの投稿については、「私は承知をしておりませんが、かつまた、匿名ということですので、これ、実際にどうなのかということは、匿名である以上ですね、実際にそれは本当であるかどうかを、私は確かめようがないのでございます」とコメント。

一方で、このブログのように、「実際に、待機児童がたくさんおられることも事実」「残念ながら保育所に入れることができなかったと、大変残念な、苦しい思いをしている方がたくさんおられることは承知しています」などと述べ、保育所などに入れない待機児童の解消に向け、50万人の受け皿を用意することや、一度仕事を離れた保育士が現場に戻る保育士に対し20万円の準備金を出すこと、保育を学ぶために専門学校や短大に通う人に月5万円の返済免除の奨学金を出すなどの政策を進めるとした。

このブログを書いたとみられる人のTwitterには、この安倍首相のコメントに対し「匿名の文章ですが、現実に起こっていること」「待機児童が2万人以上いる事は事実であり現実」などのツイートが投稿されており、「待機児童がゼロになるように願う」などと書かれていた。




  
   古本屋通信

  まず民主党の山尾議員が決定的に間違っている。配布を試みた「フリップと資料」はネットに投稿された落選者の文であろう。これはネットの文である。ネットの文はそれとして極めて有効性を持っている。時として世論形成に一役はたす場合もある。だから私も書いている。しかしこれはあくまで仮想バーチャル空間の言語である。実社会のリアル空間の言語ではない。つまり如何なる意味でも、リアル空間で証言能力を持たない。また証拠能力も有しない。当然である。これがリアル空間で通用するならデッチアゲ、誹謗中傷、謀略はやりたい放題である。リアル空間の対応は不可能である。だから古本屋通信の文に対して、日本共産党の実在のいかなる機関・個人からも応答はない。だからこそ私も自由に書ける。

  そういうネット上の文を「フリップと資料」として配布するなど許されない。配布が議会当局によって許可されなかったのは当然である。そもそもそんな怪文書を配布しようというのが狂っている。

 配布が許可されなかったから、ブログの内容を口頭で読み上げたのはもっと悪い。とんでもない暴挙である。

  安倍が「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」と答弁したのは当然である。真偽が確認できない事を前提にした答弁などありえない。安倍に非はまったくない。

  議場からのヤジは真っ当である。「中身のある議論をしろ」、「誰が書いたんだよ」、「ちゃんと本人を出せ」 は議会の常識である。 怪文書や怪質問が国会の場で許されよう筈がない。議長は質問の中止を求めるべきである。それでも続けるならば懲罰が課せられるべきである。

  それでも安倍は丁寧に答えている。百点満点の百二十点の答弁である。だからさすがにこの問題で後追いするものはいなかった。岡山の共産党員で書いた者もいなかった。そこへ石村とも子のツイッターである。閉口した。

  この問題で約20人の母親が「私がツイッターだ」といって国会前でデモをしたと伝えられている。こういう行動を引き起こすブログは有意義である。ただしそれは直接ブログに反応しての行動にかぎってである。

  またブル新聞がブログ主を逆探知して特定したという話も伝えられている。殺人事件だとかは別にして、自由な言論の場であるインターネット・ブログを管理・統制することは許されない。ブル新聞業界の止め処もない退廃をきびしく糾弾しておきたい。


  1. 2016/03/27(日) 16:22:44|
  2. 未分類

見違える林じゅん岡山市議

古本屋通信    No 1826   3月25日

  
 見違えるように成長した林じゅん岡山市議



  現職の共産党市議のブログとしては百点満点である。これだったら河田さんのあとを継いで立派に市議団を率いていけるだろう。書いていることは満点ですが、引き続いて勉強してください。古本屋のブログなど読まなくてよいから、直前板で私が掲載した田中真人教授の研究論文を読んでください。




 日本共産党からはゲバ棒一本出てこない
 日本共産党岡山市議  林じゅん 
日本共産党は、政府が鈴木貴子衆議院議員の質問趣意書に対して日本共産党が「破壊活動防止法に基づく調査対象団体である」との答弁書を閣議決定したことについて抗議し、撤回を求めました。

政府が戦後、ずっと暴力団体だと認識している割には暴力革命のためのゲバ棒一本、計画書一枚出てきません。
そもそも日本共産党は暴力革命の方針など持っていないからです。
日本共産党の最重要の方針である綱領には次のように書いてあります。

綱領
四章抜粋
「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破だは―日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。」

五章抜粋
「社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。
 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。」

国民の合意を得る、とは議会で多数派になることです。私は地方でその任務の先頭に立っていると自覚しています。
当面の課題に取り組みつつ、気が長いのが日本共産党員です。
暴力革命で社会を変えたい人は、綱領に反するので日本共産党に入党することはできません。そういう人の方からも「合ってない」と拒否してくるでしょう。

破壊活動防止法(破防法)は公安調査庁の飯の種です。
「証拠は見つかっていない。でもあるはずだ」と言い続ければ予算が付くというわけです。
そして選挙前になるとこのように日本共産党を誹謗中傷する反共デマのネタにできる、という効果があります。

今回の件で破防法の危険性とそんな法律を振りかざす安倍政権の危険性がますます明白になりました。
安倍政権が誰に向かって「お前は危険人物だ。危険な団体に所属している。証拠はないが、探し中だ」と言うか分かりません。
「危険だ」と認定して調査対象を決定するのは政権だからです。
大量破壊兵器のでっち上げで始められたイラク戦争と同じ構図です。ファシズムと戦争に向かう政権の動きです。

この件の本質は民主党に除籍された転向議員の選挙目当てのやらせ質問でしょう。
そんなことまでして日本共産党を貶めようとするのは安倍政権が日本共産党を「政治的に」危険な政党だと認識している証拠です。
金で動かせない、アメリカの圧力にも屈しないやっかいな政党であることは自認しています。
だからこそ日本共産党が勢力を増せば政治が変わります。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-03-23/2016032301_03_1.html



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  田中真人教授の研究論文(再録)


 1、日本共産党の「50年分裂」の正閏

 日本共産党中央機関紙『赤旗』は二〇〇六年七月二三日号でもって、一九二八年二月一日の創刊以来の紙齢が二万号を数えた。一九三五年二月二〇日付の第一八七号までは非合法刊行物であり、一九四五年一〇月一〇日に府中の予防拘禁所から解放された徳田球一・志賀義雄の声明を掲載したものを復刊第一号とした。その後、党創立40周年記念日とされた一九六二年七月一五日付でもって、前日までの紙齢から一気に一八七号分をとばして、戦前の非合法紙『赤旗』の紙齢を加えた。

 現在の『赤旗』は一九五二年五月三〇日付で第三種郵便物の認可を得ており、毎日の第一面欄外に明記している。合法紙として復刊した『赤旗』は一九四五年一二月五日付けでいったん第三種郵便物を認められたが、朝鮮戦争勃発の翌日一九五〇年六月二六日に三〇日間の、やがて無期限の発行停止命令がGHQよりなされ、この間に第三種認可資格を喪失した。対日講和条約が発効した二日後の一九五二年五月一日のメーデーを期して、発行停止命令の根拠が失われたとして『アカハタ』を復刊した日本共産党は、ただちに第三種認可再取得の申請を行い、その承認されたものが今日に至っている。二年近くの発行停止中に、日本共産党臨時中央指導部などによって『アカハタ』の後継紙として『平和と独立』などの定期刊行物が、半非合法的に刊行されているが、これらは現在の『赤旗』の紙齢には加えられてはいない。

 この『アカハタ』が占領軍命令によって発行停止されている時期は、日本共産党のいわゆる50年分裂時代である。現在の日本共産党は、一九五〇年代前半の時期の、いわゆる徳田主流派による「臨時中央指導部」や、そのもとでの「四全協」(一九五一年二月)「五全協」(一九五一年一〇月)の決定を、分裂した一方の側、『日本共産党の70年』や同『80年』の表現を使えば「徳田・野坂分派」が勝手に行ったもので、日本共産党としての活動ではなく、関知しないとの立場をとっている。しかし同紙誌の紙齢のカウントの仕方や、第三種認可日付を見れば、この「徳田・野坂分派」によって発行された『アカハタ』や『前衛』などの機関紙誌は、その後の現在に至る継承・継続関係を維持しているといっていい。東京代々木に所在する中央委員会の土地や建物についても同様のことがいえよう。

  * ただし一九五二年五月一日に復刊された『アカハタ』は発行主体を「日本共産党中央指導部」とし、「日本共産党中央機関紙」と明記された。発行名義が「中央指導部」から「中央委員会」に変わるのは、六全協直後の一九五五年八月三日付からである。

 つまり紙齢や第三種認可日付を見るに、宮本「公式党史」においては党の正史としてオーソライズされていない、一九五〇年代前半の日本共産党分裂期の徳田主流派=「所感派」の活動も、その正閏に関わらず、現在の東京代々木に本部を置く日本共産党が、正負ともに歴史的継承と責任を有することになる。その再統一の過程であった第六回全国協議会(一九五五年七月)や、第七回党大会(一九五八年七月)が、両派の妥協、旧両派の均衡人事であったことからも、必然化されよう。そして一九六〇年代以降の日本共産党内においては、公式には否定された過去の戦術の実行責任者の多くが、なお幹部クラスにも、平党員にも存在した。これらの、所感派ないし、非国際派的な動きをとった党員たちが、一九六〇年代以降、分裂期をどのように回顧していたかをまず検討してみよう。

 2、旧所感派幹部 沈黙と空白

 50年分裂の回復と再統一のための日本共産党の公式の大会が「第六回全国協議会(六全協)」という形式であったことが、この会議の中間的性格を物語る。本来ならば党大会として、一九四七年の第六回党大会選出中央委員会の責任でもって召集されねばならないものだが、現実には第六回大会選出中央委員会は分裂の過程で機能せず、この一部と第五回全国協議会(一九五一年)選出中央委員とで、六全協は準備された。四全協や五全協は、のち宮本顕治らの主導する日本共産党中央によって、分裂組織が一方的に召集した、正統な手続きを経ない会議としてその正当性を否定されているものであり、この会議が採択したという「51年綱領」は、のちの一九九三年になって、同じ理由から「51年文書」と、公式には言い換えることとなった曰く付きのものである。主流派の志田重男と、国際派の宮本顕治の二人三脚で、「六全協」という形で準備され、その決議において、五一年綱領の正しさを再確認するというところに、六全協が持つ折衷的性格がよく現れている(51年綱領の廃止が公式に確認されたのは一九五八年の第七回党大会である)。

 六全協と、それに続く第七回党大会が、分裂の克服を第一義課題としたために、旧国際派主導下の一九六〇年代以降の日本共産党中央にも、多くの旧所感派幹部が残った。このうち参議院議員にもなった河田賢治と春日正一に関わる文献を見てみよう。

 河田賢治が一九九五年に逝去した際、追悼会の記録や思い出を綴った数編からなる小冊子として『夜明けを目指して-河田賢治さんを偲ぶ-』(河田賢治追悼文集編集委員会、一九九七年)が刊行されている。執筆者はほとんどすべて共産党関係者で、さらにその大部分は京都府委員会関係者。したがって叙述のほとんどは戦後の京都での活動に限定され、河田のもっとも華々しい活動期といえる一九二〇年代の評議会時代についての語り手はない。また「北京機関」での活動は、党内事情ではばかるところあってか、年譜の二行の記述でもって、一九五六年にいたる二年間は北京にいたことがかろうじて知られるのみである。河田は一九五七年に公然活動に復帰して以来、京都府委員長、そして第九回大会からは幹部会員であり、一九五八年以来、京都府知事選挙や参議院選挙の共産党候補者、一九六八年からは参議院議員(京都地方区選出)としての経歴を有する。しかしこの間に理論的主導論文を発表したということもなく、宮本執行部の伝声管としての公式発言以外の肉声を開いたという印象もない。幹部会員という共産党序列の中での最高の地位は、河田の沈黙の代償として与えられた均衡人事というところか。宮本執行部に対して恭順し、所感派時代のことに沈黙するならば、相応の処遇を与えるという典型例であり、河田は十分にそうした注文に応えた。この薄っぺらな追悼の小冊子は、河田の晩年の三〇年間の姿勢をよく表している。

 河田と似た位置にいたものとして春日正一がいる。主流派による「臨時中央指導部」員であり、統制委員長であった春日は、やはり第七回大会以後に中央委員、幹部会員、そして一九六五年以降は全国区選出の共産党参議院議員であった。その春日が、現役を引退したあと、その妻ミツの死ののちに、ともに共産党のもとに暮らした四六年間を追想した春日正一『おばさんのこと』(一九八四年、私家版)を書き下ろしている。すでにともに検挙歴のある三〇歳代となっていた男女が、生活と活動の必要から同志の斡旋で見合い結婚ををしたのは一九三六年のこと。正一はいわゆる京浜グループ事件で敗戦までの五年余を獄中に過ごし、一九五〇年代前半の三年余も徳田派幹部として勾留された。正一は本書「あとがき」で、ミツの生涯が党に忠実であり、夫の党活動にささげられ、その点で正一のよき協力者であり、理想的な家庭との友人の評を肯定的に記す。見事なまでに「内助の功」としての妻への賛辞である。いわゆる「50年分裂」でのみずからの政治的位置については、淡々と事実を述べるのみで、価値評価のともなう自己反省的文章は全くない。妻と過ごした党生活と私生活の身辺雑事から叙述が大きくそれることはない。旧主流派という、現党執行部が否定的に見ていることについて、価値評価しない、つまり居直ることも懺悔することもしないという姿勢をうかがわせる。

 なお春日正一の上記著では、ほとんどその内容にふれていないが、春日が一九五〇年代の数年を獄中に過ごしたのは団体等規制令違反に問われたからである。一九四九年制定の団体等規制令と法務庁特別審査局は、一九五二年の破壊活動防止法と公安調査庁の直接の前身として、いわゆるポツダム勅令の一つとして制定された。「占領軍に対して反抗し、若しくは反対し、又は日本国政府が連合国最高司令官の要求に基づいて発した命令にたいして反抗し、若しくは反対すること」など七項に該当する「政党、協会その他の団体は、結成し、又は指導してはならない」とし、さらに公職の候補者を支持したり、日本と諸外国の関係を論議したりする政党は届け出義務を負うことが義務づけられた。一九五〇年七月一四日、春日正一、松本三益ら日本共産党九幹部に対して団規令違反で逮捕状が発せられ、春日については講和発効直前の一九五二年四月に有罪が確定した。起訴されたもう一人の松本三益に対しては講和後の一九五三年から一九五六年にかけて東京地裁で二二回の公判が開かれ、一九五四年、一九五六年、一九六一年の東京地裁、東京高裁、最高裁の判決を経て免訴が確定した。最高裁は大法廷で審理が行われ、教判官の判断の内訳は免訴九名、無罪二名、有罪四名であった。『松本三益団規令事件公判記録』(あゆみ出版、一九九一年)は地裁の公判記録、および地裁、高裁、最高裁の判決文を収めたもので、団規令違反の裁判自体が限られた事例しかなく、貴重な記録である。しかし特審局への党員名簿の届け出実施をはじめとする当時の共産党のとった戦術についての価値判断は一切避け、裁判記録の収録に徹している。

 このほか旧所感派の人脈で、宮本体制下の指導部を形成し、一九八〇年代末には、不破哲三の病気による代打とはいえ党委員長となった村上弘がいるが、一九六〇年代以降の党内序列が高いことに比例して、五〇年分裂期の沈黙度も高くなる。

 3、旧所感派の確信犯

 日本共産党の「50年分裂」といわれるものは、「所感派」と「国際派」に大別され、徳田球一と宮本顕治がそれぞれの代表的人物であるというのが、きわめておおざっぱな一般的区分けであろう。その収拾と再統一の過程は、徳田が一九五三年に北京で客死した後の所感派を引き継いだ志田重男(一九一一~一九七一)と、宮本との間の手打ちとして一九五五年の六全協を迎えた。志田本人はこの直後に「トラック部隊」「人民艦隊」事件や党の公金使い込みなどが問題とされて失踪=除名となるが、所感派の流れをくむ旧志田派が、宮本体制が確立しつつあってもなお、党内で隠然たるグループを形成したのは、このような50年分裂修復過程の党内均衡の力学の産物であろうか。しかし一九六〇年代後半に日中共産党の全面対決を迎える時期には、志田派の多くは中国派として党外に放逐された。『志田重男遺稿集』全二集(志田重男遺稿集出版編集委員会、一九七五~七六)は、六全協後の日本共産党が「精算主義」に陥り、徳田時代の経験の成果まで否定している実情を憂え、徳田時代の積極性を評価した志田論文が、ほとんど未発表のまま放置されていることを憂慮するとして、志田派の旧同志たちによって刊行されたものである。六全協から第七回党大会を迎えるころ、一九五六年八月から一九五八年九月の時期の論文が集められ、第一集と第二集に時系列の連続関係はない。

 その志田の忠実な同志の岩本巌に『風鳴り止まず』(一九九三年、私家版)という晩年の手記がある。堺刑務所に下獄中の一九三六年に志田重男と邂逅したことは、以後の岩本の人生を大きく規定し、岩本は志田と義弟の関係にもなった。一九四六年二月の日本共産党第五回党大会で中央委員候補、大阪地方委員、続いて一九四八年には統制委員として党本部勤務となる党歴は、志田との関係を抜きにしては考えられない。共産党50年分裂期において、志田派の首切り役人として国際派や神山派への圧迫の下手人であったことは多くの被害者の証言(たとえば浅田光輝『激動の時代とともに』)があるが、本書ではこうした反対派党員への圧迫の誤りを認めつつ、それを逆手に取った主流派党員への、六全協後の不当な圧迫、志田への「個人的な醜聞をでっち上げ」ての攻撃を「清算主義」として不満を漏らす。一九五七年に志田とともに共産党を離れた頃と同じ理屈が、岩本が80歳を過ぎて本書を書いた一九九〇年代にも貫徹しているわけである。

 徳田球一については『徳田球一全集』全六巻(五月書房、一九八五年~一九八六年)が刊行された。『全集』が準備された直接のきっかけは、一九八三年一〇月に志賀義雄・黒田寿男を提唱者として開催された徳田球一没三〇周年記念の集いと、そこから組織された「徳田球一記念の会」で、同会は一九八三年七月創刊の「会報」を少なくとも、二〇〇三年四月の第七七号まで継続刊行している。全集編集委員会の代表は、かつての臨中議長の椎野悦朗であるが、旧徳田・志田派にとどまらないより広い人脈を世話人とする配慮を見せている。さらに徳田球一顕彰記念事業期成会編『記念誌 徳田球一』(教育資料出版会発売、二〇〇〇年)は、沖縄県名護市をはじめとする徳田の郷里の関係者が中心となった郷土の名士の顕彰録としての色彩を強く持っている。記念事業会の事務局は名護市立中央図書館内におかれた。だが「徳田球一記念の会」の渡部富哉らの全面的な協力もあって、徳田の年譜や著作目録は、「全集」第六巻収録のものよりもより充実したものになっている。これらの徳田関係事業に現役の日本共産党関係者はまったくタッチしていない。

 4、分裂時代の中間諸派

 50年分裂において所感派と国際派のいずれにも属さない、あるいはいずれからも疎外された独立諸派も存在する。もともと国際派に属しながら、中ソ友党の勧告という国際権威主義によって、所感派=主流派の軍門に自己批判して下るということを潔しとしなかった「国際主義者団」をひきいた野田弥三郎の『共産主義者の責任』(新輿出版社、一九六六年)や、野田の自伝「マルクス主義の60年」を収めた『野田弥三郎著作集』第五巻(小川町企画、一九八八年)、この時期には孤高の独立分派をつらぬいた福本和夫や中西功、波多然『気品と真実』(新泉社、一九八三年)など、その数は少なくはないが、それぞれの自伝において、当該時期のことについてはかならずしも詳述していない。とりわけ野田弥三郎は、宇田川恵三とともに志賀義雄「意見書」をを散布して主流派から真っ先に規律批判のやり玉に挙げられ、志賀自身が「意見書」を撤回するということもあって、五〇年分裂期の主要な配役の一人であり、野田の論集はこれらの問題点について『火花』など「国際主義者団」の機関紙に多くの論考を寄せたものが収められている。

 栗原幸夫『革命幻談 つい昨日の話』(社会評論社、一九九〇年)は、共産党員、ベ平連、日本アジアアフリカ作家会議で活躍した栗原幸夫の半生を、ドイツ文学者の池田浩士と、反天皇性運動などの市民運動家の天野恵一が聞き取ったものであるが、神山茂夫の一派と見なされた共産党50年分裂時代、編集者として勤務した青木書店や三一書房といった左翼出版社の内情と共産党との関係が具体的に生き生きと語られている。

 所感派、国際派のいずれからも疎外圧迫され、党の再統一過程において復帰がもっとも遅れたものは、栗原もその一人であった神山茂夫らのグループであろう。浅田光輝『激動の時代とともに』(情況出版、二〇〇〇年)は、その神山派への政治的圧迫の悲喜劇のもっとも詳しい証言である。マルクス経済学者にして『日本帝国主義史』『天皇制国家論争』などの著書のある浅田光輝(一九一八~二〇〇六)は、中学生の時に日記の記述から不敬罪に問われ、慶應義塾大学在学中にも治安維持法違反事件で勾留される。本書は左翼学生時代、中国大陸での戦歴、戦後の中央労働学院・静岡大学での共産党員大学教師時代、長期にわたる破防法裁判傍聴記を書き記すことになる新左翼へのシンパシーを抱く立正大学教員時代と、ほぼ時系列に回顧したもので、雑誌 『情況』に一九九六年から一九九九年にかけて連載されたものである。なかでも圧巻は一九五〇年代前半の日本共産党分裂時代における「神山茂夫派排除」キャンペーンの悲喜劇的な実態を、中央労働学院を主な舞台として、克明に描いた部分である。著者は『アカハタ』一九五四年九月二七日号が、「全党が断固として闘う」とした「神山派」一一名のうちの一人、このなかの川島優の自殺、茂木六郎の自殺未遂、党主流の線で神山派の抑圧に動いた菅間正朔の自殺という多くの悲劇を生み出した。この排除劇を通じて、特高警察の様式と変わらぬ党内査問と自己批判要求、天皇制国家官僚と変わらぬ責任回避と権威主義、ご都合主義を著者は共産党内にも見る。記述の多くは実名である。また神山茂夫派と目された日本経済機構研究所の設立過程とその実態、その間の神山本人の動きにも、コミンテルン的、スターリン的「党」を乗り越ええなかったものとして批判的な論評を加えている。のちの一九六〇年代後半には、革共同中核派などの新左翼への、シンパシーと同時に日本共産党と変わらぬ体質への批判的視点を隠さないが、荒畑寒村に比べれば、新左翼への愛憎の起伏は緩やかといえよう。

 5、「武力闘争路線」の一兵卒たち

 『死んでも命があるように-宇佐美清治追悼作品集』(宇佐美清治追悼集編集事務局、一九九八年)を残した宇佐美清治(一九二〇~一九九八)は東京都の青梅、福生、立川などにおいて、日本共産党によるいわゆる「武装闘争」を展開した中心人物の一人。一九五〇年には、中央に先立ち非合法軍事組織結成方針を地区委員会で決定、一九五一年には小河内地区での山村工作隊の受け入れ準備、西多摩軍事委員長に就任、五一年一二月の関東軍事委員会が警察の手入れを受けた「柴又事件」には難を逃れ、一九五二年に三多摩地区軍事委員長となり、武蔵野署火炎瓶攻撃事件で全国指名手配中、一九五二年のメーデー事件において独立遊撃隊長として人民広場の最前線で指揮を執る。同年七月逮捕、獄中から『人民文学』などに詩作品を投稿、一九五八年刑期満了で出獄。一九六三年日本共産党除名、以後も立川=砂川や三里塚での運動を支援するとともに、詩雑誌『原詩人』に参加し、妻の野口清子とともに『新日本文学』などに関わる。幼少のころに奉公で修行した鋸鍛冶職人を生涯の大半の生業とし、また一時手がけたらんちゅう養殖の試行錯誤を作品化した文章も収められる。

 本書前半には詩を中心とした宇佐美の作品を収める。さらにメーデー事件は日本共産党が明確に武装闘争の一環として、意識的な軍事闘争として積極的に展開したとする宇佐美の体験談(『文芸春秋』一九九二年八月号)と、これに対して権力側の謀略であったとするメーデー事件弁護団長の反論も収める。日本共産党自身がみずから否定した「軍事方針」を、その実践者として肯定擁護する姿勢を堅持し、それを市井の一市民職人として生計を維持しつつ、文章にし、発言し続けた点で、宇佐美はまことにユニークな存在であった。武装闘争と軍事方針の正当性を貫いた所以は、宇佐美が政治的には一匹狼的存在であったこともあって、本書では十分に伝わらない恨みがある。

 大窪敏三『まっ直ぐ』(南風社、一九九九年)は、戦前は中国戦線の前線で、戦後は日本共産党の戦列において、いずれもノンキャリアのミリタント(戦士)として、つまり一兵卒として活動した者の回想記、その息子による聞き書きである。敗戦、六全協といった、それまでの自己を突き動かしてきた基本理念が大転換したときに露呈する同志たちの身の処し方を描きつつ、思想の内容ではなくてその質のあり方を問う。大窪も、前記宇佐美と同様に、日本共産党が武装闘争方針をとった時期の、首都圏の中核自衛隊のキャップの一人で、宇佐美が逃れた「柴又事件」で検挙される。宇佐美と違うのは六全協後の日本共産党に党員として残ったことである。六全協が宮本顕治と志田重男の手打ちによってもたらされたゆえに、志田派は(志田本人を除いて)再統一後の日本共産党内において、事実上の公然たる分派組織を維持するという希有の存在となる。自身の属する新しい党指導部によって完全に否定された「武装闘争方針」という活動歴を持つ党員の身の処し方を知るうえでも興味深い。

 千曲川最上流の信州川上村の豪農出身の由井誓は、五五歳の生涯を終えたあと、『由井誓 遺稿・回想』(由井誓追悼集刊行会、一九八七年)が多くの友人たちによって編集された。戦後版早稲田「人生劇場」の青成瓢吉といえる学生生活、日本共産党の方針にもとづく小河内村での山村工作隊、六全協後の『アカハタ』記者、ならびに除名後に関わった党派の機関紙『新しい路線』『統一』、そして『労働運動研究』の編集者としてすごした。早稲田での学生運動の時代のあとの由井の政治生活は目立たないところで獅子奮闘する裏方、それも義務感に奮い立たせてというよりは、少年のようにあっけらかんと、しかし細心の配慮をしのばせながら、兵站乏しい戦線を守ったことが、多くの証言に共通する。由井自身には「私の山村工作隊体験」(『運動史研究』第四号、一九七九年)が詳しいが、問題党員が懲罰的に工作隊に派遣されるという実態などにも言及されている。

 思想の科学研究会とその周辺で活動し、また京都市職員としての体験をふまえた『方法としての現場』(社会評論社、一九七四年)などの著書のある北沢恒彦(一九三四~一九九九)の論集『隠された地図』(クレイン、二〇〇二年)には、京都の高校生時代に体験した一九五二年の共産党「武装闘争」の体験談が収められている。市民生活の日常性の中に降って湧いたような「武装闘争」が出現する悲喜劇を具体的に描く。

 「武力闘争」の中でも三大騒擾事件のひとつといわれる闘争の体験を検証した大著、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店、二〇〇四年)は、武力闘争体験者の著書としては最大の検証の成果である。著者の脇田氏は一七歳の高校生の時に、共産党の武装闘争の一環として企てられた大阪府枚方の軍需工場への攻撃闘争と、朝鮮戦争への軍用列車妨害のための陽動作戦などに参加して検挙される。保釈後、大阪、奥吉野などで山村工作隊や基地工作活動に参加。六全協後、共産党を離れ、労働組合運動に参加、総評のオルグとなる。

 本文七七〇ページ、それに伊藤晃の二〇ページの解説論文などを付す。のちの共産党の主流から否定され、なかったこととされている歴史の体験者が、自らの情熱と体験を歴史化するというのはどういうことかを自問し、半世紀ぶりの再調査に乗り出す。著者が直接参画しなかった吹田事件についても、詳細な現地調査と聴き取りが行われている。本書は回顧録と言うよりは、過去の追体験の検証の旅の記録という趣がある。

 伊藤晃は本書の解説で、共産党の軍事方針はコミンフォルムによる野坂占領下平和革命論の批判を驚喜して迎えた宮本や志賀ではなく、批判された徳田や野坂の所感派によって主導されたことに注意を喚起する。占領下平和革命論へのひそかな党員の不満を所感派は引きつけ、なによりもこうした不満が強かった関西の現場活動家を基盤にしていた志田重男一派が、所感派をリードしていた。つまり武力闘争は、党内権力闘争におけるスローガンであった。武力闘争がスローガンたり得たのは、党員とその周辺における、理不尽な現状を打破せんとする熱情と、それに対する荒々しい権力への対抗への「本気」が存在したこと、たとえ現実に武力闘争を実行する力が党組織になかったとしても、日本共産党主流派はこうした革命への破壊衝動の「本気」を代弁していたと見る。

 脇田の書は、戦後の左翼運動史の空白も、ようやく歴史化されてきたとの感を抱かせる書である。体験者の執筆にありがちの「執念の書」ではあるかもしれないが、それを感じさせない、淡々とした事実の検証と追及の姿勢に好感を持てる。

 6、三大騒擾事件と被告たち

 一九五二年の三大騒擾事件の一つであるメーデー事件の被告としての20年の苦闘を回顧したもののひとつに山本朗『ある被告の自分史』(白石書店、一九七七年)があるが、事件当日のことは記述は少なく、その救援運動と被告たちの「力強い人生」を検証する叙述が中心である。その救援運動が日本共産党やその系列の多くの人々が支えてきたことが強調されても、事件そのものが日本共産党といかなる関係にあったのかということについてはまったく言及されない。

 岡本光雄『メーデー事件』(白石書店、一九七七年)の著者は、二百数十名にのぼるメーデー事件被告団の団長として、一九七二年の控訴審での騒擾罪無罪にいたる20年間の裁判闘争の中心で活動した。いわば被告としてのメーデー裁判通史というべき書である。巨大被告団を理由とする分離裁判攻撃への反撃、第一審だけで一七九二回にもおよぶ公判への対策のひとつとしての「常任被告」制度の設置、事件の「指導」があったはずの日本共産党が責任を取らないなかで、長期裁判に耐えきれず、裁判闘争打ち切り宣言まで出さざるを得なかった一九五七年前後の低迷期と、そこからの再起の過程。長期の裁判闘争をめぐる当事者としての詳細な記録である。

 一九五二年五月一日の皇居前広場(人民広場)での事件、いわゆるメーデー事件の刑事裁判は、同じ時期の大須事件・吹田事件とならび、騒擾罪が適用されるかどうかが最大の争点となった。それにしても裁判闘争の主目標が無罪を目指すということの確認がなされたのが事件後10年を経た一九六二年にしてようやくであったこと、検察側の論告が、敗戦後の国内外情勢のなかで日本共産党の軍事方針の形成に膨大なスペースを費やしているのに、被告側はこれらを事件と無関係、ことさらに日本共産党と関連づける恣意的論告としりぞけているにすぎないとしていることなど、「事件」そのものと切り離された「裁判闘争」という、この時期の国民救援会や日本共産党系の裁判闘争の典型を示している。

 メーデー事件裁判闘争史編集委員会編『メーデー事件裁判闘争史』(白石書店、一九八二年)において、日本共産党がメーデー事件にたいしていかに冷淡な態度をとったか、被告人たちが共産党にたいして激烈な批判を展開し、人民広場突入軍事方針の実態を公表せよと要求したのかを、かなり詳細に記述している。この点では、日本共産党の軍事指導についてまったく不問に付し、これを問題視しし、追求しようとした党員被告を除名処分とした名古屋の大須事件裁判と比較すると、その対応でかなりの違いがある。

 一九五二年七月七日の名古屋の大須事件は、唯一騒擾罪成立を認めた上告審が確定(一九七八年九月)したもので、有罪二六名(うち実刑五名)、この間、被告の自殺三名、変死一名、事件現場の警官襲撃による死亡二名を数える。関根庄一編著『被告-大須事件の二十六年』(労働旬報社、一九七八年)は、大須事件被告を守る全国連絡会の委嘱を受けた元福島県高校教員によるルポ風の記録で、権力側の陰謀による意図的弾圧事件、被告たちはまったく受動的に事件に巻き込まれたという立場を取る。したがって日本共産党名古屋市軍事委員会の存在とその組織実態、名古屋市委員長・愛知ビュローキャップ永田末男の、裁判過程における共産党からの除名、党中央軍事委員岩林虎之助の存在、その軍事命令の有無など当時の共産党の政治指導についてはまったく言及していない。日本共産党にとって触られたくない、無関係を装う過去について、一九七〇年代に事後対応的に言及するとすればこのようにしかならないだろうというものの典型といえる。上告審判決を目前に控えて、事件の当事者やこの間の裁判闘争の被告でもない関根を聴き取り役として急遽作成したルポは、あらかじめ定められた構図の中に事件を押し込めようとするにはむしろ好都合な編成だったかも知れない。

 被告人永田末男は、大須事件における現場での日本共産党の軍事方針の指導者であったが、その公判陳述において、大須事件とはせいぜい抗議デモ、官憲の弾圧には貧弱な火焔瓶をもって身を守るというささやかな抵抗運動であったとして、騒擾罪の無罪を主張した。そのような限定的主張であっても、法廷の場でもって「武力闘争」指導を容認するという永田被告の立場を、日本共産党は容認できなかったのである。なお大須事件の究明の作業は、宮地健一「謎解き・大須事件と裁判の表裏(一)」(『象』第五五号、二〇〇六年、並びに同氏のサイトhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/osu1.htm)などで本格的に始められようとしている。

 なお大須事件弁護団の一人の天野末治に『ある現代史』(東海タイムズ社、一九七一年)がある。天野(旧姓柴田)末治(一九〇一~一九七六)は、愛知県を中心に、戦前は全農全会派系農民組合の顧問弁護士、全協の組合員による三信鉄道争議の弁護などで活動し、共産党被告への弁護士活動を治安維持法違反とした「日本労農弁護士団事件」で有罪とされ、一時、弁護士資格を剥奪された。戦後も郷里岡崎に弁護士事務所を構え、大須事件や愛大事件をはじめとする多くの事件を弁護し、また一九五〇年の参議院選挙では愛知地方区から共産党公認で立候補した。ただし大須事件の裁判が佳境に入った頃、天野は病床にあり、十分な弁護活動を展開できなかった。本書の大部分は労農弁護士団事件で検挙されたさいの一九三三年一一月から一二月にかけて八回にわたって、名古屋の鍋屋警察署で行われた特高刑事への聴取書であり、本人自身による回顧録が残されていないことが惜しまれる。

 脇田憲一の前掲書は、戦後の左翼運動史の空白も、ようやく歴史化されてきたとの感を抱かせるものと書いたが、その少し前に自費出版された川口孝夫『流されて蜀の国へ』(一九九八年、私家版)を読むと、この時期を歴史として叙述することの困難さをなお強く感じる。かの一九五二年一月の白鳥警部殺害事件当時に札幌地区の中核自衛隊の責任者として「知りすぎた男」であった著者は、六全協後の統一指導部の手によって、口封じのためにか、だまし討ち的に中国奥地への島流しならぬ「陸流し」にあう。彼が一七年もの中国での生活を終えて帰国できたのは、日中両共産党が断絶状態となり、かつ日中国交が回復した後の一九七三年のことであった。伊藤律と類似の運命をたどった著者は、革命党の、組織第一の論理の持つ非情さを自身の姿に写す。しかし著者はこの本でも、白鳥事件の真相については曖昧にしている。白鳥事件について、知っている事実関係を詳述せよとの出版社側の要請を、著者は拒否したがゆえに、出版契約は成立せず、自費出版となったと聞く。こうして著者は本書でも、白鳥事件の真相については明確な説明をしていない。しかし検事側証人となった元共産党員高安知彦の検事調書を、ほぼみずからの見聞と一致すると証言するなど、白鳥事件が共産党関係者の実行にかかるものであることを示唆している。また本書は大躍進期から文化大革命期における中国社会の実相の貴重な見聞記でもある。

 白鳥事件から五〇年以上が経過し、中国に亡命した、事件関係者とされる共産党員の幾名も、すでに多くは客死した。その中で、白鳥事件が権力による謀略であり、共産党は無関係であるとの立場で書かれた代表作というべき山田清三郎『白鳥事件研究』(白石書店、一九七七年)が文庫化されるにあたり、事件の共同被告であった元共産党員高安知彦の長文の証言を収録した和多田進の一〇〇ページもの「解説」は、実行行為者の特定を含む共産党員による犯行を述べるものであった(『白鳥事件』新風社文庫、二〇〇五年)。しかし下山事件が、関係者の証言をつなぐだけでは真相に迫れなかったのと同様に、白鳥事件も証言を裏付ける実証が必要となろう。刑事手続きとしてでなく、歴史研究としての究明のあり方が問われる。この点で佐藤一らによる『下山事件全研究』(時事通信社、一九七六年)の先駆例を思い起こすべきであろう。

 7、日本共産党中央幹部たちの回想録

 まず亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社、一九七八年)を取り上げよう。亀山幸三(一九一一~一九八八)は、一九四七年の日本共産党第六回党大会で中央委員となり、書記局員・財政部長を担当するが、一九五〇年に公職追放。以後、国際派七中央委員の一人として50年分裂期を過ごし、一九六一年に綱領問題で主流と対立して離党する。本書は、戦後初期の一九四〇年代後半における日本共産党の再建過程を、財政担当者として回顧した部分、並びに一九五〇年のコミンフォルム批判をきっかけとする共産党50年分裂が、六全協と第七回党大会で修復されていく内情を当事者として記録された部分からなる。とりわけ一九五〇年代の動きについては、徳田主流派と対立した国際派が、中ソ友党の勧告を受け入れて自己批判して復帰していく過程での、個々のメンバーの動き、「北京機関」と国内指導部との連絡の精粗、再統一の場となる六全協の準備過程、そこでの宮本顕治と志田重男の野合の実態と、他の主要幹部の対応など、「そのとき責任ある党幹部として何をしていたか」を、究明する姿勢で書いていることである。ただしこれらの記述は当事者としての著者の記憶と体験の比重が高く、資料的裏付けが十分とはいえず、関係者からの異論の表明も少なくない。第七回党大会前に日本共産党内に設置された、著者も関わった「日本共産党50年問題調査委員会」についても、その公表文書さえも十分には活用されていないように思える。なおこの調査委員会の活動は、日本共産党中央委員会五〇年問題文献資料編集委員会編『日本共産党五〇年問題資料集』全三巻として一九五七年二月に刊行され、さらに文献集『日本共産党の五〇年問題について』を加えた四巻として復刊された(新日本出版社、一九八一年)。

 元日本共産党副委員長、戦後は一貫して宮本顕治とともに歩んできた袴田里見の自伝のうち、戦前編『党とともに歩んで』は日本共産党理論機関誌『前衛』にまず連載され、戦後編というべき『私の戦後史』(朝日新聞社、一九七八年)は一九七八年の『週刊朝日』に二〇回にわたって連載されたものがもととなっている。この間の一九七七年暮れに袴田は日本共産党を除名された。本書は、党員、党幹部という制約から離れた時点での証言であるが、周知のものが多く新事実はそれほど多くはない。それでも50年分裂期、あるいは中ソ対立期において、各国共産党との交渉という国際舞台で活動した機会が多いだけに、その現場証言は具体的である。武力闘争方針をすすめた「51年綱領」を採択するというスターリンの裁定が下る場面、その間の「国際派」代表という微妙な立場での北京とモスクワでの七年間、一九六〇年の81カ国共産党代表者会議と中ソ対立の予兆を示す水面下の激論、一九六四年の旧ソ連共産党、一九六六年の日中共産党会談とその破綻に至る経過、「自主独立」路線にたいする心情、関わったスースロフ、ホーチミン、毛沢東、フルシチョフらの世界の共産党の指導者群像の描写などを、現場の空気とともに伝えている。

 一九六〇年代から四半世紀にわたる宮本顕治の日本共産党の党史に関わる重要論文を集めたものが宮本顕治『党史論』(上下)(新日本出版社、一九九三年)である。一九五八年の第七回党大会以来、宮本は党の書記長、委員長、議長として、文字通りの最高指導者として、その後の三五年間を君臨してきた。宮本個人署名の論文も、党の公式見解として扱われてきた。宮本顕治の多くの論集の中で、党史に関わるものが含まれているものは、この以前にも少なくない。『わが党のたたかった道』(一九六一年)、『宮本顕治現代論』全三巻(一九七五年)、『宮本顕治文芸評論選集』第四巻(一九八〇年)、『五〇年問題の問題点から』(一九八八年)などの宮本の論集や、『科学的社会主義の不滅の党として』『歴史に背く潮流に未来はない』『現代史の中の日本共産党』といった党関係者の論集にもかなりのものが収められている。『党史論』はこのなかで、党創立五〇周年、六〇周年などの節目における宮本演説など基調的論文を収める。また宮本党史としての完成形態といわれた『日本共産党の70年』におけるものとまったく同一の文章が、本書に収められた宮本の個人論文に登場するなど、『70年史』のいくつかのパラグラフは宮本が直接手を加えたことの傍証ともなっている。なお本書には東欧=ソ連の社会主義体制崩壊後における唯一の論文「著作集『五〇年問題の問題点から』の「まえがき」再録にあたって」(一九九三年)が収められているが、日本共産党50年分裂の実態を示すモスクワの文書庫からの新資料に言及はあっても、ソ連崩壊についての言及はない。

 前述の亀山幸三もそうだが、50年分裂期の党中央委員クラスの幹部たちは、一九六〇年代になってから日本共産党を離党、もしくは除名となった人びとが少なからずおり、その関係書も少なくない。『追悼春日庄次郎』(刊行委員会、一九七六年)、『内藤知周著作集』(亜紀書房、一九七七年)、『濁流を悠々と-山田六左衛門とその時代』(山六会、一九八一年)、小森春雄『共産主義運動の原点』(ウニ夕書舗、一九八六年)、野田弥三郎『自伝 マルクス主義六〇年』(小川町企画、一九八八年)、『片山さとし遺稿集』(同編纂委員会、一九九五年)、『一柳茂次-著作・回想』(社会評論社、二〇〇二年)などを容易に数え上げることができる。しかし50年分裂期にそれぞれが何をしていたかの叙述は、いずれも平板である。

 そうした離党した元中央委員の関係書のひとつとして『彦さんの本領-西川彦義の回想と遺稿-』(西川彦義遺稿集刊行会、一九八二年)を取り上げてみよう。野武士のようなストライキマン、「組合主義者」が日本共産党の中央委員であり得た時代があった。たとえ一匹狼、異端の存在であったとしても。西川彦義(一九〇五~一九七九)はそうした象徴的存在だった。党機関においても、産別会議金属労組などの労働運動においても、中央=東京での活動期間があるのだが、西川は生まれ故郷の大阪のにおいが染みついている。庶民性、柔軟さ、弾力性-西川の追想文にはこうした用語で西川の特色が語られることが多い。そこでは「党」さえもが、大衆運動、労働運動における有用性においてのみ量られるかのごとくで、西川においては党の物神化、絶対化とは無縁であった。しかし全協以来の赤色労働組合主義の発想は強く、それゆえに一九五〇年代までは党と組合主義は両立し得たのかもしれない。本書は、西川の生涯を時期区分して全協時代、戦時下の党再建時代、産別金属時代、六全協後の党中央委員と社会主義革新運動時代、地域住民の一人としての住民運動時代に分け、それぞれの時期についての西川自身の文章、関係者の回想、そして一九七〇年代に行われた数次の聴き取り会の記録を再編集したもので、時期別、テーマ別にまとめられている。

 8、おわりに-「自伝・回顧録」の真実

 同志社大学人文科学研究所では二〇〇四年度より共同研究班「近代日本の社会運動家-その書誌的総合研究」を立ち上げ、その作業の中心の一つとして、近代日本の社会運動家の自伝回顧録、追悼録、著作集などの目録の作成を手がけている。書誌のそれぞれには短い解説コメントを付すことになっており、メンバーは分担してこの執筆にあたっている。本研究ノートはこうしてできあがったコメント原稿をつなぎ合わせて論文調のものにしたものである。

 つとに自伝や回顧録は、みずからの執筆時の立場を正当化する指向が強いことがかねてから指摘されており、とりわけ社会的に一定のステイタスを築き上げた人物においてはいっそうその危険性が高い。本誌第五三号井上史論文がとりあげた片山潜の自伝記述の変遷においてもその傾向が顕著であるし、野坂参三『風雪のあゆみ』は、今となっては回顧録がどのような作為をもって書かれたか、功成り名を遂げて、その位置を保持した人物の晩年における自伝や回顧録が、その時点の立場から敷衍し、合理化して叙述されることがいかに多いかの代表事例とさえなっている。

 日本共産党創立の直接のきっかけとなった、コミンテルンのもとで開催された一九二一年の「極東勤労者大会」の日本の代表団の構成とその発言について、参加者の多くの証言がなされ、それぞれの発言証言の食い違いや齟齬についてさまざまな議論が展開された。当初は複数の証言に共通する内容を真実とする推論が行われたこともあったが、その後、山辺健太郎による独文報告集、隅谷三喜男・山極晃による英文議事録、高屋定国による別の英文議事録などの、大会の報告集・議事録が紹介されるようになり、この解釈をめぐる論争が、岩村登志夫・犬丸養一・松尾尊允・川端正久らによって、一九七〇~八〇年代にわたって展開された(犬丸義一『第一次共産党史の研究』青木書店、一九九三年、第二部二参照)。極東勤労者大会をめぐるこれらの論争は、旧ソ連文書が発掘される以前の一九七〇年代より、コミンテルンの原史料にアプローチできた数少ない事例であり、関係者の回顧録にのみ依拠した研究の危険性はすでに十分に共通認識となっていた。

 日本共産党50年分裂期の問題についても同様のことがいえる。少なくとも関係者=党関係の直接当事者の証言をつきあわせただけでは、容易に実態に到達しえない。党内でのタブー視がいっそう、その傾向を助長している期間が長く続いていたし、それが完全に過去のものとなりきってはいない。当事者以外の観察者の証言、たとえば古くは大井廣介『左翼天皇制』(拓文館、一九五六年)、同『革命家失格』(同、一九五七年)、あるいは公安筋の情報、警察庁警備局『日本共産党の六全協をめぐる諸問題』『日本共産党の第七回党大会党大会をめぐる諸問題』などを傍証とすることも試みられていた。また小林勝『断層地帯』『影のなかの火』、高史明『夜が時の歩みを暗くするとき』『闇を喰む』、窪田精『ある狂人の手記』などの「武力闘争」体験者による創作作品もある。

 本稿に紹介された文献は、ほほすべて同志社大学人文科学研究所に資料として配架済みのものである。また社会運動家の記録は非商業的、非流通的な形態での刊行が多く、入手にはさまざまな情報の入手と取り寄せ手段を必要とする。予算においても、労力においても筆者の勤務先であるこの研究所の寛容な体制に依拠することができていることに感謝する。
  1. 2016/03/25(金) 11:58:47|
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いわゆる所感派と国際派の問題

古本屋通信    No 1825   3月24日

   いわゆる 所感派 国際派 の問題



  キンピーサイトが取り上げていることで知ったが、今日の赤旗に全文以下の論文(?)が掲載された。一読していくらか思うこともあるが、全面的に論じるだけの今日性は感じない(新しく持ち出されてきた党攻撃にたいする党の反撃の大部分を基本的に認めるという意味だ)。ただ一点、日本共産党が最近30年くらい言い続けている 51年綱領は分裂した一方の側 所感派=徳田球一や野坂参三らだけが採用したのであって、正規の党綱領ではない という言い分についてのみ書きたい。



2016年3月24日(木)   しんぶん赤旗
「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭  政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ

 政府は22日の閣議で、鈴木貴子衆院議員の「日本共産党と『破壊活動防止法』に関する質問主意書」への答弁書を決定しました。このなかで政府は、日本共産党について「現在においても、破壊活動防止法に基づく調査対象団体である」とし、戦後、「暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」とか、「現在においても…『いわゆる敵の出方論』に立った『暴力革命の方針』に変更はない」などといっています。これは党の綱領路線を百八十度ねじまげ、歴史の事実を歪曲(わいきょく)した悪質なデマです。

 「敵の出方論」=「暴力革命」が成り立たないことははるか前に決着ずみ

 「敵の出方論」をもちだして「暴力革命」の根拠とする議論が成り立たないことは、政府答弁が引用している1989年2月18日の衆議院予算委員会における不破哲三副議長(当時)と石山陽公安調査庁長官(当時)との論戦でも決着ずみのものです。
 同委員会で不破氏は、国民多数の支持のもとに政権を目指す日本共産党の綱領路線を説明し、「敵の出方論」について、日本共産党など統一戦線勢力が選挙で勝って政権についたとき、これに従わない勢力が暴挙に出た場合に、政府が取り締まることは憲法に基づく当然の権利であることを解明しました。これに対し、石山長官は、「政権を確立した後に、不穏分子が反乱的な行動に出てこれを鎮圧するというのは、たとえどの政権であろうとも、当然行われるべき治安維持活動です」と答えざるをえませんでした。
 その一方で、石山長官は、「敵の出方論」について、「民主主義の政権ができる前にこれを抑えようという形で、不穏分子をたたきつけてやろうという問題」もあると答弁しました。
 これに対しても、不破氏は、1970年の第11回党大会決議の「人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的な障害をつくりだす場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集してこのようなファッショ的攻撃を封殺することが当然の課題となる」との文言を読み上げ、反論しています。
 日本共産党が、かつての一連の決定で「敵の出方」を警戒する必要性を強調していたのは、反動勢力を政治的に包囲して、あれこれの暴力的策動を未然に防止し、社会進歩の事業を平和的な道で進めるためであって、これをもって「暴力革命」の根拠とするのは、あまりに幼稚なこじつけであり、成り立つものではありません。それは、国会の質疑でもはるか前に決着ずみのことです。
 日本共産党の綱領には、「『国民が主人公』を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」こと、さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。
 「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。

 党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もない

 政府答弁書では、日本共産党が「暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と述べています。
 1950年から55年にかけて、徳田球一、野坂参三らによって日本共産党中央委員会が解体され党が分裂した時代に、中国に亡命した徳田・野坂派が、旧ソ連や中国の言いなりになって外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだことがあります。
 しかし、それは党が分裂した時期の一方の側の行動であって、1958年の第7回党大会で党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題です。
 日本共産党が綱領路線を確立した1961年の第8回党大会では、日本の社会と政治のどのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざすことを綱領上も明確にしました。これは外国の干渉者たちが押しつけてきた武装闘争方針を排除したことを綱領上はっきり表明したものでした。
 日本共産党は、戦前も戦後も党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もありません。歴史の事実を歪曲した攻撃は成り立ちません。

 憲法が保障する結社の自由に対する重大な侵害行為をやめよ

 今回の政府答弁書は、このような使い古しのデマをもとに、今もなお日本共産党を「破壊活動防止法に基づく調査対象団体」だとしています。
 しかし、前述の1989年2月18日の衆院予算委員会での不破氏の追及の前に、石山公安調査庁長官は、当時までの36年間にわたって、「現実に規制の請求を致したことはありません」と述べ、「暴力革命」の「証拠」がそれまでに一つとして見つからなかったことを認めました。
 その後も、27年間が経過していますが、公安調査庁が多額の国民の税金を使い、不当な手段を弄(ろう)して日本共産党への「調査活動」を行っているにもかかわらず、「暴力革命」の「証拠」など、一つもあげることなどできません。
 天下の公党である日本共産党に対して、「暴力革命」という悪質なデマにもとづいて、不当な監視、スパイ活動を行うことは、憲法の保障する結社の自由にたいする重大な侵害であり、ただちにやめるべきです。





  古本屋通信

 党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もない」のか?
 こういうことは7回大会の決議にはもちろん書かれていない。また7回大会の代議員の発言を見ても、とうじ誰もこういう発言をしていない。7回大会は51年綱領を党(言うまでもなく党全体)が採用した極左冒険主義の誤った綱領として自己批判して廃棄したのである。でなければ誤った綱領と方針を採用した部分(所感派)を批判する大会決議を上げなければならない。然しそうはならなかった。つまり51年綱領には当時の国際派幹部も含めて全党に責任があったのだ。だから自己批判のうえ51年綱領を党として廃棄して新綱領草案を発表したのである。もちろん幹部それぞれの個人責任に濃淡はあるが、7回大会は所感派メンバーの個人責任の一切を問わないことで(もちろんこれを許した国際派の責任も問わないことで)全党の統一を回復した。徳田も野坂も51年綱領について個人責任を追及されていない。野坂は自己批判をしてはいるが、それは7回大会採択部分ではなく、個人としての反省、いわば心情の吐露的感想であった。これがあったから7回大会以後の「野坂議長」があったのだ。。徳田はすでに北京で客死していたが、徳田が負わなければならなかったのは家父長的指導(組織運営)の誤りだけであり政治指導の誤りではなかった。それをずっと後になって分裂した一方を非難するのは公平でないし、だいいちそれで行くならば7回大会は成立していなかった。新綱領草案もありえなかった。もちろん8回大会の61年綱領の採択などあり得る筈もなかった(何だったら8回大会以降の各大会で選出された旧所感派のメンバーを列挙してもよい。現在の党中央の言い分は一致団結して新綱領のもとで指導に当たっていた8回大会以降の新指導部と全党を愚弄するものだ)。これが歴史の弁証法であり、現在の党中央の論法は歴史的形而上学ということになろう。

 一口に所感派と国際派というが、当時の勢力は大体7割が所感派細胞だったし、岡山など9割が所感派だった。また国際派は一致団結していた訳ではない。3派入り乱れており、宮本と神山など全く別行動だった。当時の認識としては51年綱領は全党の綱領であった。その核心部分を所感派が担っていたというだけである。国際派が強力(暴力)革命論に強く異議を唱えたという事実を私は知らない。

 私の入党は1965年で、9回大会3中総のときである。このときハードカバー濃紺の綱領集には27年テーゼや32年テーゼとともに、51年綱領も収録されていた。もちろん正規の党綱領としてである。歴史的過去文献としてではあるが、これは27年テーゼや32年テーゼも同じである。分裂した一方の側が採用した綱領ではなかった。

  「党の正規の方針として暴力革命の方針をとったことは一度もない」 と言い始めたのはおそらく1980年代に入ってからであろう。これには宮本の責任が大きい。一気に言い始めたのではなく、徐々に言い出したのだ。そこらの検証は「日本共産党の50年」 「日本共産党の50年増補版」 「日本共産党の60年」 「日本共産党の65年」 「日本共産党の70年」「日本共産党の80年」 で見ればよかろうが、たぶん旧所感派の幹部の消滅と並行しているだろう。野坂は脛に傷を持つ身だから我慢するしかなかったし、紺野与次郎、春日正一ほかは鬼籍に入っているだろう。 あと当面言いたいことはない。




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  関連資料として田中真人氏の著作から転載 しておく。田中氏は同志社大学教授在職中に死去された。学生時代から民学同と社革日本のこえ(訂正しました)、さらに共労党に関わっておられ、白川真澄氏との対談も残っている。なお本稿の転載は宮地健一氏に負うている。宮地氏に厚くお礼申上げたい(古本屋通信)。



  『キリスト教社会問題研究・第55号』 (2006年12月) に載せた研究ノートから   田中真人

 1、日本共産党の「50年分裂」の正閏

 日本共産党中央機関紙『赤旗』は二〇〇六年七月二三日号でもって、一九二八年二月一日の創刊以来の紙齢が二万号を数えた。一九三五年二月二〇日付の第一八七号までは非合法刊行物であり、一九四五年一〇月一〇日に府中の予防拘禁所から解放された徳田球一・志賀義雄の声明を掲載したものを復刊第一号とした。その後、党創立40周年記念日とされた一九六二年七月一五日付でもって、前日までの紙齢から一気に一八七号分をとばして、戦前の非合法紙『赤旗』の紙齢を加えた。

 現在の『赤旗』は一九五二年五月三〇日付で第三種郵便物の認可を得ており、毎日の第一面欄外に明記している。合法紙として復刊した『赤旗』は一九四五年一二月五日付けでいったん第三種郵便物を認められたが、朝鮮戦争勃発の翌日一九五〇年六月二六日に三〇日間の、やがて無期限の発行停止命令がGHQよりなされ、この間に第三種認可資格を喪失した。対日講和条約が発効した二日後の一九五二年五月一日のメーデーを期して、発行停止命令の根拠が失われたとして『アカハタ』を復刊した日本共産党は、ただちに第三種認可再取得の申請を行い、その承認されたものが今日に至っている。二年近くの発行停止中に、日本共産党臨時中央指導部などによって『アカハタ』の後継紙として『平和と独立』などの定期刊行物が、半非合法的に刊行されているが、これらは現在の『赤旗』の紙齢には加えられてはいない。

 この『アカハタ』が占領軍命令によって発行停止されている時期は、日本共産党のいわゆる50年分裂時代である。現在の日本共産党は、一九五〇年代前半の時期の、いわゆる徳田主流派による「臨時中央指導部」や、そのもとでの「四全協」(一九五一年二月)「五全協」(一九五一年一〇月)の決定を、分裂した一方の側、『日本共産党の70年』や同『80年』の表現を使えば「徳田・野坂分派」が勝手に行ったもので、日本共産党としての活動ではなく、関知しないとの立場をとっている。しかし同紙誌の紙齢のカウントの仕方や、第三種認可日付を見れば、この「徳田・野坂分派」によって発行された『アカハタ』や『前衛』などの機関紙誌は、その後の現在に至る継承・継続関係を維持しているといっていい。東京代々木に所在する中央委員会の土地や建物についても同様のことがいえよう。

  * ただし一九五二年五月一日に復刊された『アカハタ』は発行主体を「日本共産党中央指導部」とし、「日本共産党中央機関紙」と明記された。発行名義が「中央指導部」から「中央委員会」に変わるのは、六全協直後の一九五五年八月三日付からである。

 つまり紙齢や第三種認可日付を見るに、宮本「公式党史」においては党の正史としてオーソライズされていない、一九五〇年代前半の日本共産党分裂期の徳田主流派=「所感派」の活動も、その正閏に関わらず、現在の東京代々木に本部を置く日本共産党が、正負ともに歴史的継承と責任を有することになる。その再統一の過程であった第六回全国協議会(一九五五年七月)や、第七回党大会(一九五八年七月)が、両派の妥協、旧両派の均衡人事であったことからも、必然化されよう。そして一九六〇年代以降の日本共産党内においては、公式には否定された過去の戦術の実行責任者の多くが、なお幹部クラスにも、平党員にも存在した。これらの、所感派ないし、非国際派的な動きをとった党員たちが、一九六〇年代以降、分裂期をどのように回顧していたかをまず検討してみよう。

 2、旧所感派幹部 沈黙と空白

 50年分裂の回復と再統一のための日本共産党の公式の大会が「第六回全国協議会(六全協)」という形式であったことが、この会議の中間的性格を物語る。本来ならば党大会として、一九四七年の第六回党大会選出中央委員会の責任でもって召集されねばならないものだが、現実には第六回大会選出中央委員会は分裂の過程で機能せず、この一部と第五回全国協議会(一九五一年)選出中央委員とで、六全協は準備された。四全協や五全協は、のち宮本顕治らの主導する日本共産党中央によって、分裂組織が一方的に召集した、正統な手続きを経ない会議としてその正当性を否定されているものであり、この会議が採択したという「51年綱領」は、のちの一九九三年になって、同じ理由から「51年文書」と、公式には言い換えることとなった曰く付きのものである。主流派の志田重男と、国際派の宮本顕治の二人三脚で、「六全協」という形で準備され、その決議において、五一年綱領の正しさを再確認するというところに、六全協が持つ折衷的性格がよく現れている(51年綱領の廃止が公式に確認されたのは一九五八年の第七回党大会である)。

 六全協と、それに続く第七回党大会が、分裂の克服を第一義課題としたために、旧国際派主導下の一九六〇年代以降の日本共産党中央にも、多くの旧所感派幹部が残った。このうち参議院議員にもなった河田賢治と春日正一に関わる文献を見てみよう。

 河田賢治が一九九五年に逝去した際、追悼会の記録や思い出を綴った数編からなる小冊子として『夜明けを目指して-河田賢治さんを偲ぶ-』(河田賢治追悼文集編集委員会、一九九七年)が刊行されている。執筆者はほとんどすべて共産党関係者で、さらにその大部分は京都府委員会関係者。したがって叙述のほとんどは戦後の京都での活動に限定され、河田のもっとも華々しい活動期といえる一九二〇年代の評議会時代についての語り手はない。また「北京機関」での活動は、党内事情ではばかるところあってか、年譜の二行の記述でもって、一九五六年にいたる二年間は北京にいたことがかろうじて知られるのみである。河田は一九五七年に公然活動に復帰して以来、京都府委員長、そして第九回大会からは幹部会員であり、一九五八年以来、京都府知事選挙や参議院選挙の共産党候補者、一九六八年からは参議院議員(京都地方区選出)としての経歴を有する。しかしこの間に理論的主導論文を発表したということもなく、宮本執行部の伝声管としての公式発言以外の肉声を開いたという印象もない。幹部会員という共産党序列の中での最高の地位は、河田の沈黙の代償として与えられた均衡人事というところか。宮本執行部に対して恭順し、所感派時代のことに沈黙するならば、相応の処遇を与えるという典型例であり、河田は十分にそうした注文に応えた。この薄っぺらな追悼の小冊子は、河田の晩年の三〇年間の姿勢をよく表している。

 河田と似た位置にいたものとして春日正一がいる。主流派による「臨時中央指導部」員であり、統制委員長であった春日は、やはり第七回大会以後に中央委員、幹部会員、そして一九六五年以降は全国区選出の共産党参議院議員であった。その春日が、現役を引退したあと、その妻ミツの死ののちに、ともに共産党のもとに暮らした四六年間を追想した春日正一『おばさんのこと』(一九八四年、私家版)を書き下ろしている。すでにともに検挙歴のある三〇歳代となっていた男女が、生活と活動の必要から同志の斡旋で見合い結婚ををしたのは一九三六年のこと。正一はいわゆる京浜グループ事件で敗戦までの五年余を獄中に過ごし、一九五〇年代前半の三年余も徳田派幹部として勾留された。正一は本書「あとがき」で、ミツの生涯が党に忠実であり、夫の党活動にささげられ、その点で正一のよき協力者であり、理想的な家庭との友人の評を肯定的に記す。見事なまでに「内助の功」としての妻への賛辞である。いわゆる「50年分裂」でのみずからの政治的位置については、淡々と事実を述べるのみで、価値評価のともなう自己反省的文章は全くない。妻と過ごした党生活と私生活の身辺雑事から叙述が大きくそれることはない。旧主流派という、現党執行部が否定的に見ていることについて、価値評価しない、つまり居直ることも懺悔することもしないという姿勢をうかがわせる。

 なお春日正一の上記著では、ほとんどその内容にふれていないが、春日が一九五〇年代の数年を獄中に過ごしたのは団体等規制令違反に問われたからである。一九四九年制定の団体等規制令と法務庁特別審査局は、一九五二年の破壊活動防止法と公安調査庁の直接の前身として、いわゆるポツダム勅令の一つとして制定された。「占領軍に対して反抗し、若しくは反対し、又は日本国政府が連合国最高司令官の要求に基づいて発した命令にたいして反抗し、若しくは反対すること」など七項に該当する「政党、協会その他の団体は、結成し、又は指導してはならない」とし、さらに公職の候補者を支持したり、日本と諸外国の関係を論議したりする政党は届け出義務を負うことが義務づけられた。一九五〇年七月一四日、春日正一、松本三益ら日本共産党九幹部に対して団規令違反で逮捕状が発せられ、春日については講和発効直前の一九五二年四月に有罪が確定した。起訴されたもう一人の松本三益に対しては講和後の一九五三年から一九五六年にかけて東京地裁で二二回の公判が開かれ、一九五四年、一九五六年、一九六一年の東京地裁、東京高裁、最高裁の判決を経て免訴が確定した。最高裁は大法廷で審理が行われ、教判官の判断の内訳は免訴九名、無罪二名、有罪四名であった。『松本三益団規令事件公判記録』(あゆみ出版、一九九一年)は地裁の公判記録、および地裁、高裁、最高裁の判決文を収めたもので、団規令違反の裁判自体が限られた事例しかなく、貴重な記録である。しかし特審局への党員名簿の届け出実施をはじめとする当時の共産党のとった戦術についての価値判断は一切避け、裁判記録の収録に徹している。

 このほか旧所感派の人脈で、宮本体制下の指導部を形成し、一九八〇年代末には、不破哲三の病気による代打とはいえ党委員長となった村上弘がいるが、一九六〇年代以降の党内序列が高いことに比例して、五〇年分裂期の沈黙度も高くなる。

 3、旧所感派の確信犯

 日本共産党の「50年分裂」といわれるものは、「所感派」と「国際派」に大別され、徳田球一と宮本顕治がそれぞれの代表的人物であるというのが、きわめておおざっぱな一般的区分けであろう。その収拾と再統一の過程は、徳田が一九五三年に北京で客死した後の所感派を引き継いだ志田重男(一九一一~一九七一)と、宮本との間の手打ちとして一九五五年の六全協を迎えた。志田本人はこの直後に「トラック部隊」「人民艦隊」事件や党の公金使い込みなどが問題とされて失踪=除名となるが、所感派の流れをくむ旧志田派が、宮本体制が確立しつつあってもなお、党内で隠然たるグループを形成したのは、このような50年分裂修復過程の党内均衡の力学の産物であろうか。しかし一九六〇年代後半に日中共産党の全面対決を迎える時期には、志田派の多くは中国派として党外に放逐された。『志田重男遺稿集』全二集(志田重男遺稿集出版編集委員会、一九七五~七六)は、六全協後の日本共産党が「精算主義」に陥り、徳田時代の経験の成果まで否定している実情を憂え、徳田時代の積極性を評価した志田論文が、ほとんど未発表のまま放置されていることを憂慮するとして、志田派の旧同志たちによって刊行されたものである。六全協から第七回党大会を迎えるころ、一九五六年八月から一九五八年九月の時期の論文が集められ、第一集と第二集に時系列の連続関係はない。

 その志田の忠実な同志の岩本巌に『風鳴り止まず』(一九九三年、私家版)という晩年の手記がある。堺刑務所に下獄中の一九三六年に志田重男と邂逅したことは、以後の岩本の人生を大きく規定し、岩本は志田と義弟の関係にもなった。一九四六年二月の日本共産党第五回党大会で中央委員候補、大阪地方委員、続いて一九四八年には統制委員として党本部勤務となる党歴は、志田との関係を抜きにしては考えられない。共産党50年分裂期において、志田派の首切り役人として国際派や神山派への圧迫の下手人であったことは多くの被害者の証言(たとえば浅田光輝『激動の時代とともに』)があるが、本書ではこうした反対派党員への圧迫の誤りを認めつつ、それを逆手に取った主流派党員への、六全協後の不当な圧迫、志田への「個人的な醜聞をでっち上げ」ての攻撃を「清算主義」として不満を漏らす。一九五七年に志田とともに共産党を離れた頃と同じ理屈が、岩本が80歳を過ぎて本書を書いた一九九〇年代にも貫徹しているわけである。

 徳田球一については『徳田球一全集』全六巻(五月書房、一九八五年~一九八六年)が刊行された。『全集』が準備された直接のきっかけは、一九八三年一〇月に志賀義雄・黒田寿男を提唱者として開催された徳田球一没三〇周年記念の集いと、そこから組織された「徳田球一記念の会」で、同会は一九八三年七月創刊の「会報」を少なくとも、二〇〇三年四月の第七七号まで継続刊行している。全集編集委員会の代表は、かつての臨中議長の椎野悦朗であるが、旧徳田・志田派にとどまらないより広い人脈を世話人とする配慮を見せている。さらに徳田球一顕彰記念事業期成会編『記念誌 徳田球一』(教育資料出版会発売、二〇〇〇年)は、沖縄県名護市をはじめとする徳田の郷里の関係者が中心となった郷土の名士の顕彰録としての色彩を強く持っている。記念事業会の事務局は名護市立中央図書館内におかれた。だが「徳田球一記念の会」の渡部富哉らの全面的な協力もあって、徳田の年譜や著作目録は、「全集」第六巻収録のものよりもより充実したものになっている。これらの徳田関係事業に現役の日本共産党関係者はまったくタッチしていない。

 4、分裂時代の中間諸派

 50年分裂において所感派と国際派のいずれにも属さない、あるいはいずれからも疎外された独立諸派も存在する。もともと国際派に属しながら、中ソ友党の勧告という国際権威主義によって、所感派=主流派の軍門に自己批判して下るということを潔しとしなかった「国際主義者団」をひきいた野田弥三郎の『共産主義者の責任』(新輿出版社、一九六六年)や、野田の自伝「マルクス主義の60年」を収めた『野田弥三郎著作集』第五巻(小川町企画、一九八八年)、この時期には孤高の独立分派をつらぬいた福本和夫や中西功、波多然『気品と真実』(新泉社、一九八三年)など、その数は少なくはないが、それぞれの自伝において、当該時期のことについてはかならずしも詳述していない。とりわけ野田弥三郎は、宇田川恵三とともに志賀義雄「意見書」をを散布して主流派から真っ先に規律批判のやり玉に挙げられ、志賀自身が「意見書」を撤回するということもあって、五〇年分裂期の主要な配役の一人であり、野田の論集はこれらの問題点について『火花』など「国際主義者団」の機関紙に多くの論考を寄せたものが収められている。

 栗原幸夫『革命幻談 つい昨日の話』(社会評論社、一九九〇年)は、共産党員、ベ平連、日本アジアアフリカ作家会議で活躍した栗原幸夫の半生を、ドイツ文学者の池田浩士と、反天皇性運動などの市民運動家の天野恵一が聞き取ったものであるが、神山茂夫の一派と見なされた共産党50年分裂時代、編集者として勤務した青木書店や三一書房といった左翼出版社の内情と共産党との関係が具体的に生き生きと語られている。

 所感派、国際派のいずれからも疎外圧迫され、党の再統一過程において復帰がもっとも遅れたものは、栗原もその一人であった神山茂夫らのグループであろう。浅田光輝『激動の時代とともに』(情況出版、二〇〇〇年)は、その神山派への政治的圧迫の悲喜劇のもっとも詳しい証言である。マルクス経済学者にして『日本帝国主義史』『天皇制国家論争』などの著書のある浅田光輝(一九一八~二〇〇六)は、中学生の時に日記の記述から不敬罪に問われ、慶應義塾大学在学中にも治安維持法違反事件で勾留される。本書は左翼学生時代、中国大陸での戦歴、戦後の中央労働学院・静岡大学での共産党員大学教師時代、長期にわたる破防法裁判傍聴記を書き記すことになる新左翼へのシンパシーを抱く立正大学教員時代と、ほぼ時系列に回顧したもので、雑誌 『情況』に一九九六年から一九九九年にかけて連載されたものである。なかでも圧巻は一九五〇年代前半の日本共産党分裂時代における「神山茂夫派排除」キャンペーンの悲喜劇的な実態を、中央労働学院を主な舞台として、克明に描いた部分である。著者は『アカハタ』一九五四年九月二七日号が、「全党が断固として闘う」とした「神山派」一一名のうちの一人、このなかの川島優の自殺、茂木六郎の自殺未遂、党主流の線で神山派の抑圧に動いた菅間正朔の自殺という多くの悲劇を生み出した。この排除劇を通じて、特高警察の様式と変わらぬ党内査問と自己批判要求、天皇制国家官僚と変わらぬ責任回避と権威主義、ご都合主義を著者は共産党内にも見る。記述の多くは実名である。また神山茂夫派と目された日本経済機構研究所の設立過程とその実態、その間の神山本人の動きにも、コミンテルン的、スターリン的「党」を乗り越ええなかったものとして批判的な論評を加えている。のちの一九六〇年代後半には、革共同中核派などの新左翼への、シンパシーと同時に日本共産党と変わらぬ体質への批判的視点を隠さないが、荒畑寒村に比べれば、新左翼への愛憎の起伏は緩やかといえよう。

 5、「武力闘争路線」の一兵卒たち

 『死んでも命があるように-宇佐美清治追悼作品集』(宇佐美清治追悼集編集事務局、一九九八年)を残した宇佐美清治(一九二〇~一九九八)は東京都の青梅、福生、立川などにおいて、日本共産党によるいわゆる「武装闘争」を展開した中心人物の一人。一九五〇年には、中央に先立ち非合法軍事組織結成方針を地区委員会で決定、一九五一年には小河内地区での山村工作隊の受け入れ準備、西多摩軍事委員長に就任、五一年一二月の関東軍事委員会が警察の手入れを受けた「柴又事件」には難を逃れ、一九五二年に三多摩地区軍事委員長となり、武蔵野署火炎瓶攻撃事件で全国指名手配中、一九五二年のメーデー事件において独立遊撃隊長として人民広場の最前線で指揮を執る。同年七月逮捕、獄中から『人民文学』などに詩作品を投稿、一九五八年刑期満了で出獄。一九六三年日本共産党除名、以後も立川=砂川や三里塚での運動を支援するとともに、詩雑誌『原詩人』に参加し、妻の野口清子とともに『新日本文学』などに関わる。幼少のころに奉公で修行した鋸鍛冶職人を生涯の大半の生業とし、また一時手がけたらんちゅう養殖の試行錯誤を作品化した文章も収められる。

 本書前半には詩を中心とした宇佐美の作品を収める。さらにメーデー事件は日本共産党が明確に武装闘争の一環として、意識的な軍事闘争として積極的に展開したとする宇佐美の体験談(『文芸春秋』一九九二年八月号)と、これに対して権力側の謀略であったとするメーデー事件弁護団長の反論も収める。日本共産党自身がみずから否定した「軍事方針」を、その実践者として肯定擁護する姿勢を堅持し、それを市井の一市民職人として生計を維持しつつ、文章にし、発言し続けた点で、宇佐美はまことにユニークな存在であった。武装闘争と軍事方針の正当性を貫いた所以は、宇佐美が政治的には一匹狼的存在であったこともあって、本書では十分に伝わらない恨みがある。

 大窪敏三『まっ直ぐ』(南風社、一九九九年)は、戦前は中国戦線の前線で、戦後は日本共産党の戦列において、いずれもノンキャリアのミリタント(戦士)として、つまり一兵卒として活動した者の回想記、その息子による聞き書きである。敗戦、六全協といった、それまでの自己を突き動かしてきた基本理念が大転換したときに露呈する同志たちの身の処し方を描きつつ、思想の内容ではなくてその質のあり方を問う。大窪も、前記宇佐美と同様に、日本共産党が武装闘争方針をとった時期の、首都圏の中核自衛隊のキャップの一人で、宇佐美が逃れた「柴又事件」で検挙される。宇佐美と違うのは六全協後の日本共産党に党員として残ったことである。六全協が宮本顕治と志田重男の手打ちによってもたらされたゆえに、志田派は(志田本人を除いて)再統一後の日本共産党内において、事実上の公然たる分派組織を維持するという希有の存在となる。自身の属する新しい党指導部によって完全に否定された「武装闘争方針」という活動歴を持つ党員の身の処し方を知るうえでも興味深い。

 千曲川最上流の信州川上村の豪農出身の由井誓は、五五歳の生涯を終えたあと、『由井誓 遺稿・回想』(由井誓追悼集刊行会、一九八七年)が多くの友人たちによって編集された。戦後版早稲田「人生劇場」の青成瓢吉といえる学生生活、日本共産党の方針にもとづく小河内村での山村工作隊、六全協後の『アカハタ』記者、ならびに除名後に関わった党派の機関紙『新しい路線』『統一』、そして『労働運動研究』の編集者としてすごした。早稲田での学生運動の時代のあとの由井の政治生活は目立たないところで獅子奮闘する裏方、それも義務感に奮い立たせてというよりは、少年のようにあっけらかんと、しかし細心の配慮をしのばせながら、兵站乏しい戦線を守ったことが、多くの証言に共通する。由井自身には「私の山村工作隊体験」(『運動史研究』第四号、一九七九年)が詳しいが、問題党員が懲罰的に工作隊に派遣されるという実態などにも言及されている。

 思想の科学研究会とその周辺で活動し、また京都市職員としての体験をふまえた『方法としての現場』(社会評論社、一九七四年)などの著書のある北沢恒彦(一九三四~一九九九)の論集『隠された地図』(クレイン、二〇〇二年)には、京都の高校生時代に体験した一九五二年の共産党「武装闘争」の体験談が収められている。市民生活の日常性の中に降って湧いたような「武装闘争」が出現する悲喜劇を具体的に描く。

 「武力闘争」の中でも三大騒擾事件のひとつといわれる闘争の体験を検証した大著、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店、二〇〇四年)は、武力闘争体験者の著書としては最大の検証の成果である。著者の脇田氏は一七歳の高校生の時に、共産党の武装闘争の一環として企てられた大阪府枚方の軍需工場への攻撃闘争と、朝鮮戦争への軍用列車妨害のための陽動作戦などに参加して検挙される。保釈後、大阪、奥吉野などで山村工作隊や基地工作活動に参加。六全協後、共産党を離れ、労働組合運動に参加、総評のオルグとなる。

 本文七七〇ページ、それに伊藤晃の二〇ページの解説論文などを付す。のちの共産党の主流から否定され、なかったこととされている歴史の体験者が、自らの情熱と体験を歴史化するというのはどういうことかを自問し、半世紀ぶりの再調査に乗り出す。著者が直接参画しなかった吹田事件についても、詳細な現地調査と聴き取りが行われている。本書は回顧録と言うよりは、過去の追体験の検証の旅の記録という趣がある。

 伊藤晃は本書の解説で、共産党の軍事方針はコミンフォルムによる野坂占領下平和革命論の批判を驚喜して迎えた宮本や志賀ではなく、批判された徳田や野坂の所感派によって主導されたことに注意を喚起する。占領下平和革命論へのひそかな党員の不満を所感派は引きつけ、なによりもこうした不満が強かった関西の現場活動家を基盤にしていた志田重男一派が、所感派をリードしていた。つまり武力闘争は、党内権力闘争におけるスローガンであった。武力闘争がスローガンたり得たのは、党員とその周辺における、理不尽な現状を打破せんとする熱情と、それに対する荒々しい権力への対抗への「本気」が存在したこと、たとえ現実に武力闘争を実行する力が党組織になかったとしても、日本共産党主流派はこうした革命への破壊衝動の「本気」を代弁していたと見る。

 脇田の書は、戦後の左翼運動史の空白も、ようやく歴史化されてきたとの感を抱かせる書である。体験者の執筆にありがちの「執念の書」ではあるかもしれないが、それを感じさせない、淡々とした事実の検証と追及の姿勢に好感を持てる。

 6、三大騒擾事件と被告たち

 一九五二年の三大騒擾事件の一つであるメーデー事件の被告としての20年の苦闘を回顧したもののひとつに山本朗『ある被告の自分史』(白石書店、一九七七年)があるが、事件当日のことは記述は少なく、その救援運動と被告たちの「力強い人生」を検証する叙述が中心である。その救援運動が日本共産党やその系列の多くの人々が支えてきたことが強調されても、事件そのものが日本共産党といかなる関係にあったのかということについてはまったく言及されない。

 岡本光雄『メーデー事件』(白石書店、一九七七年)の著者は、二百数十名にのぼるメーデー事件被告団の団長として、一九七二年の控訴審での騒擾罪無罪にいたる20年間の裁判闘争の中心で活動した。いわば被告としてのメーデー裁判通史というべき書である。巨大被告団を理由とする分離裁判攻撃への反撃、第一審だけで一七九二回にもおよぶ公判への対策のひとつとしての「常任被告」制度の設置、事件の「指導」があったはずの日本共産党が責任を取らないなかで、長期裁判に耐えきれず、裁判闘争打ち切り宣言まで出さざるを得なかった一九五七年前後の低迷期と、そこからの再起の過程。長期の裁判闘争をめぐる当事者としての詳細な記録である。

 一九五二年五月一日の皇居前広場(人民広場)での事件、いわゆるメーデー事件の刑事裁判は、同じ時期の大須事件・吹田事件とならび、騒擾罪が適用されるかどうかが最大の争点となった。それにしても裁判闘争の主目標が無罪を目指すということの確認がなされたのが事件後10年を経た一九六二年にしてようやくであったこと、検察側の論告が、敗戦後の国内外情勢のなかで日本共産党の軍事方針の形成に膨大なスペースを費やしているのに、被告側はこれらを事件と無関係、ことさらに日本共産党と関連づける恣意的論告としりぞけているにすぎないとしていることなど、「事件」そのものと切り離された「裁判闘争」という、この時期の国民救援会や日本共産党系の裁判闘争の典型を示している。

 メーデー事件裁判闘争史編集委員会編『メーデー事件裁判闘争史』(白石書店、一九八二年)において、日本共産党がメーデー事件にたいしていかに冷淡な態度をとったか、被告人たちが共産党にたいして激烈な批判を展開し、人民広場突入軍事方針の実態を公表せよと要求したのかを、かなり詳細に記述している。この点では、日本共産党の軍事指導についてまったく不問に付し、これを問題視しし、追求しようとした党員被告を除名処分とした名古屋の大須事件裁判と比較すると、その対応でかなりの違いがある。

 一九五二年七月七日の名古屋の大須事件は、唯一騒擾罪成立を認めた上告審が確定(一九七八年九月)したもので、有罪二六名(うち実刑五名)、この間、被告の自殺三名、変死一名、事件現場の警官襲撃による死亡二名を数える。関根庄一編著『被告-大須事件の二十六年』(労働旬報社、一九七八年)は、大須事件被告を守る全国連絡会の委嘱を受けた元福島県高校教員によるルポ風の記録で、権力側の陰謀による意図的弾圧事件、被告たちはまったく受動的に事件に巻き込まれたという立場を取る。したがって日本共産党名古屋市軍事委員会の存在とその組織実態、名古屋市委員長・愛知ビュローキャップ永田末男の、裁判過程における共産党からの除名、党中央軍事委員岩林虎之助の存在、その軍事命令の有無など当時の共産党の政治指導についてはまったく言及していない。日本共産党にとって触られたくない、無関係を装う過去について、一九七〇年代に事後対応的に言及するとすればこのようにしかならないだろうというものの典型といえる。上告審判決を目前に控えて、事件の当事者やこの間の裁判闘争の被告でもない関根を聴き取り役として急遽作成したルポは、あらかじめ定められた構図の中に事件を押し込めようとするにはむしろ好都合な編成だったかも知れない。

 被告人永田末男は、大須事件における現場での日本共産党の軍事方針の指導者であったが、その公判陳述において、大須事件とはせいぜい抗議デモ、官憲の弾圧には貧弱な火焔瓶をもって身を守るというささやかな抵抗運動であったとして、騒擾罪の無罪を主張した。そのような限定的主張であっても、法廷の場でもって「武力闘争」指導を容認するという永田被告の立場を、日本共産党は容認できなかったのである。なお大須事件の究明の作業は、宮地健一「謎解き・大須事件と裁判の表裏(一)」(『象』第五五号、二〇〇六年、並びに同氏のサイトhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/osu1.htm)などで本格的に始められようとしている。

 なお大須事件弁護団の一人の天野末治に『ある現代史』(東海タイムズ社、一九七一年)がある。天野(旧姓柴田)末治(一九〇一~一九七六)は、愛知県を中心に、戦前は全農全会派系農民組合の顧問弁護士、全協の組合員による三信鉄道争議の弁護などで活動し、共産党被告への弁護士活動を治安維持法違反とした「日本労農弁護士団事件」で有罪とされ、一時、弁護士資格を剥奪された。戦後も郷里岡崎に弁護士事務所を構え、大須事件や愛大事件をはじめとする多くの事件を弁護し、また一九五〇年の参議院選挙では愛知地方区から共産党公認で立候補した。ただし大須事件の裁判が佳境に入った頃、天野は病床にあり、十分な弁護活動を展開できなかった。本書の大部分は労農弁護士団事件で検挙されたさいの一九三三年一一月から一二月にかけて八回にわたって、名古屋の鍋屋警察署で行われた特高刑事への聴取書であり、本人自身による回顧録が残されていないことが惜しまれる。

 脇田憲一の前掲書は、戦後の左翼運動史の空白も、ようやく歴史化されてきたとの感を抱かせるものと書いたが、その少し前に自費出版された川口孝夫『流されて蜀の国へ』(一九九八年、私家版)を読むと、この時期を歴史として叙述することの困難さをなお強く感じる。かの一九五二年一月の白鳥警部殺害事件当時に札幌地区の中核自衛隊の責任者として「知りすぎた男」であった著者は、六全協後の統一指導部の手によって、口封じのためにか、だまし討ち的に中国奥地への島流しならぬ「陸流し」にあう。彼が一七年もの中国での生活を終えて帰国できたのは、日中両共産党が断絶状態となり、かつ日中国交が回復した後の一九七三年のことであった。伊藤律と類似の運命をたどった著者は、革命党の、組織第一の論理の持つ非情さを自身の姿に写す。しかし著者はこの本でも、白鳥事件の真相については曖昧にしている。白鳥事件について、知っている事実関係を詳述せよとの出版社側の要請を、著者は拒否したがゆえに、出版契約は成立せず、自費出版となったと聞く。こうして著者は本書でも、白鳥事件の真相については明確な説明をしていない。しかし検事側証人となった元共産党員高安知彦の検事調書を、ほぼみずからの見聞と一致すると証言するなど、白鳥事件が共産党関係者の実行にかかるものであることを示唆している。また本書は大躍進期から文化大革命期における中国社会の実相の貴重な見聞記でもある。

 白鳥事件から五〇年以上が経過し、中国に亡命した、事件関係者とされる共産党員の幾名も、すでに多くは客死した。その中で、白鳥事件が権力による謀略であり、共産党は無関係であるとの立場で書かれた代表作というべき山田清三郎『白鳥事件研究』(白石書店、一九七七年)が文庫化されるにあたり、事件の共同被告であった元共産党員高安知彦の長文の証言を収録した和多田進の一〇〇ページもの「解説」は、実行行為者の特定を含む共産党員による犯行を述べるものであった(『白鳥事件』新風社文庫、二〇〇五年)。しかし下山事件が、関係者の証言をつなぐだけでは真相に迫れなかったのと同様に、白鳥事件も証言を裏付ける実証が必要となろう。刑事手続きとしてでなく、歴史研究としての究明のあり方が問われる。この点で佐藤一らによる『下山事件全研究』(時事通信社、一九七六年)の先駆例を思い起こすべきであろう。

 7、日本共産党中央幹部たちの回想録

 まず亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社、一九七八年)を取り上げよう。亀山幸三(一九一一~一九八八)は、一九四七年の日本共産党第六回党大会で中央委員となり、書記局員・財政部長を担当するが、一九五〇年に公職追放。以後、国際派七中央委員の一人として50年分裂期を過ごし、一九六一年に綱領問題で主流と対立して離党する。本書は、戦後初期の一九四〇年代後半における日本共産党の再建過程を、財政担当者として回顧した部分、並びに一九五〇年のコミンフォルム批判をきっかけとする共産党50年分裂が、六全協と第七回党大会で修復されていく内情を当事者として記録された部分からなる。とりわけ一九五〇年代の動きについては、徳田主流派と対立した国際派が、中ソ友党の勧告を受け入れて自己批判して復帰していく過程での、個々のメンバーの動き、「北京機関」と国内指導部との連絡の精粗、再統一の場となる六全協の準備過程、そこでの宮本顕治と志田重男の野合の実態と、他の主要幹部の対応など、「そのとき責任ある党幹部として何をしていたか」を、究明する姿勢で書いていることである。ただしこれらの記述は当事者としての著者の記憶と体験の比重が高く、資料的裏付けが十分とはいえず、関係者からの異論の表明も少なくない。第七回党大会前に日本共産党内に設置された、著者も関わった「日本共産党50年問題調査委員会」についても、その公表文書さえも十分には活用されていないように思える。なおこの調査委員会の活動は、日本共産党中央委員会五〇年問題文献資料編集委員会編『日本共産党五〇年問題資料集』全三巻として一九五七年二月に刊行され、さらに文献集『日本共産党の五〇年問題について』を加えた四巻として復刊された(新日本出版社、一九八一年)。

 元日本共産党副委員長、戦後は一貫して宮本顕治とともに歩んできた袴田里見の自伝のうち、戦前編『党とともに歩んで』は日本共産党理論機関誌『前衛』にまず連載され、戦後編というべき『私の戦後史』(朝日新聞社、一九七八年)は一九七八年の『週刊朝日』に二〇回にわたって連載されたものがもととなっている。この間の一九七七年暮れに袴田は日本共産党を除名された。本書は、党員、党幹部という制約から離れた時点での証言であるが、周知のものが多く新事実はそれほど多くはない。それでも50年分裂期、あるいは中ソ対立期において、各国共産党との交渉という国際舞台で活動した機会が多いだけに、その現場証言は具体的である。武力闘争方針をすすめた「51年綱領」を採択するというスターリンの裁定が下る場面、その間の「国際派」代表という微妙な立場での北京とモスクワでの七年間、一九六〇年の81カ国共産党代表者会議と中ソ対立の予兆を示す水面下の激論、一九六四年の旧ソ連共産党、一九六六年の日中共産党会談とその破綻に至る経過、「自主独立」路線にたいする心情、関わったスースロフ、ホーチミン、毛沢東、フルシチョフらの世界の共産党の指導者群像の描写などを、現場の空気とともに伝えている。

 一九六〇年代から四半世紀にわたる宮本顕治の日本共産党の党史に関わる重要論文を集めたものが宮本顕治『党史論』(上下)(新日本出版社、一九九三年)である。一九五八年の第七回党大会以来、宮本は党の書記長、委員長、議長として、文字通りの最高指導者として、その後の三五年間を君臨してきた。宮本個人署名の論文も、党の公式見解として扱われてきた。宮本顕治の多くの論集の中で、党史に関わるものが含まれているものは、この以前にも少なくない。『わが党のたたかった道』(一九六一年)、『宮本顕治現代論』全三巻(一九七五年)、『宮本顕治文芸評論選集』第四巻(一九八〇年)、『五〇年問題の問題点から』(一九八八年)などの宮本の論集や、『科学的社会主義の不滅の党として』『歴史に背く潮流に未来はない』『現代史の中の日本共産党』といった党関係者の論集にもかなりのものが収められている。『党史論』はこのなかで、党創立五〇周年、六〇周年などの節目における宮本演説など基調的論文を収める。また宮本党史としての完成形態といわれた『日本共産党の70年』におけるものとまったく同一の文章が、本書に収められた宮本の個人論文に登場するなど、『70年史』のいくつかのパラグラフは宮本が直接手を加えたことの傍証ともなっている。なお本書には東欧=ソ連の社会主義体制崩壊後における唯一の論文「著作集『五〇年問題の問題点から』の「まえがき」再録にあたって」(一九九三年)が収められているが、日本共産党50年分裂の実態を示すモスクワの文書庫からの新資料に言及はあっても、ソ連崩壊についての言及はない。

 前述の亀山幸三もそうだが、50年分裂期の党中央委員クラスの幹部たちは、一九六〇年代になってから日本共産党を離党、もしくは除名となった人びとが少なからずおり、その関係書も少なくない。『追悼春日庄次郎』(刊行委員会、一九七六年)、『内藤知周著作集』(亜紀書房、一九七七年)、『濁流を悠々と-山田六左衛門とその時代』(山六会、一九八一年)、小森春雄『共産主義運動の原点』(ウニ夕書舗、一九八六年)、野田弥三郎『自伝 マルクス主義六〇年』(小川町企画、一九八八年)、『片山さとし遺稿集』(同編纂委員会、一九九五年)、『一柳茂次-著作・回想』(社会評論社、二〇〇二年)などを容易に数え上げることができる。しかし50年分裂期にそれぞれが何をしていたかの叙述は、いずれも平板である。

 そうした離党した元中央委員の関係書のひとつとして『彦さんの本領-西川彦義の回想と遺稿-』(西川彦義遺稿集刊行会、一九八二年)を取り上げてみよう。野武士のようなストライキマン、「組合主義者」が日本共産党の中央委員であり得た時代があった。たとえ一匹狼、異端の存在であったとしても。西川彦義(一九〇五~一九七九)はそうした象徴的存在だった。党機関においても、産別会議金属労組などの労働運動においても、中央=東京での活動期間があるのだが、西川は生まれ故郷の大阪のにおいが染みついている。庶民性、柔軟さ、弾力性-西川の追想文にはこうした用語で西川の特色が語られることが多い。そこでは「党」さえもが、大衆運動、労働運動における有用性においてのみ量られるかのごとくで、西川においては党の物神化、絶対化とは無縁であった。しかし全協以来の赤色労働組合主義の発想は強く、それゆえに一九五〇年代までは党と組合主義は両立し得たのかもしれない。本書は、西川の生涯を時期区分して全協時代、戦時下の党再建時代、産別金属時代、六全協後の党中央委員と社会主義革新運動時代、地域住民の一人としての住民運動時代に分け、それぞれの時期についての西川自身の文章、関係者の回想、そして一九七〇年代に行われた数次の聴き取り会の記録を再編集したもので、時期別、テーマ別にまとめられている。

 8、おわりに-「自伝・回顧録」の真実

 同志社大学人文科学研究所では二〇〇四年度より共同研究班「近代日本の社会運動家-その書誌的総合研究」を立ち上げ、その作業の中心の一つとして、近代日本の社会運動家の自伝回顧録、追悼録、著作集などの目録の作成を手がけている。書誌のそれぞれには短い解説コメントを付すことになっており、メンバーは分担してこの執筆にあたっている。本研究ノートはこうしてできあがったコメント原稿をつなぎ合わせて論文調のものにしたものである。

 つとに自伝や回顧録は、みずからの執筆時の立場を正当化する指向が強いことがかねてから指摘されており、とりわけ社会的に一定のステイタスを築き上げた人物においてはいっそうその危険性が高い。本誌第五三号井上史論文がとりあげた片山潜の自伝記述の変遷においてもその傾向が顕著であるし、野坂参三『風雪のあゆみ』は、今となっては回顧録がどのような作為をもって書かれたか、功成り名を遂げて、その位置を保持した人物の晩年における自伝や回顧録が、その時点の立場から敷衍し、合理化して叙述されることがいかに多いかの代表事例とさえなっている。

 日本共産党創立の直接のきっかけとなった、コミンテルンのもとで開催された一九二一年の「極東勤労者大会」の日本の代表団の構成とその発言について、参加者の多くの証言がなされ、それぞれの発言証言の食い違いや齟齬についてさまざまな議論が展開された。当初は複数の証言に共通する内容を真実とする推論が行われたこともあったが、その後、山辺健太郎による独文報告集、隅谷三喜男・山極晃による英文議事録、高屋定国による別の英文議事録などの、大会の報告集・議事録が紹介されるようになり、この解釈をめぐる論争が、岩村登志夫・犬丸養一・松尾尊允・川端正久らによって、一九七〇~八〇年代にわたって展開された(犬丸義一『第一次共産党史の研究』青木書店、一九九三年、第二部二参照)。極東勤労者大会をめぐるこれらの論争は、旧ソ連文書が発掘される以前の一九七〇年代より、コミンテルンの原史料にアプローチできた数少ない事例であり、関係者の回顧録にのみ依拠した研究の危険性はすでに十分に共通認識となっていた。

 日本共産党50年分裂期の問題についても同様のことがいえる。少なくとも関係者=党関係の直接当事者の証言をつきあわせただけでは、容易に実態に到達しえない。党内でのタブー視がいっそう、その傾向を助長している期間が長く続いていたし、それが完全に過去のものとなりきってはいない。当事者以外の観察者の証言、たとえば古くは大井廣介『左翼天皇制』(拓文館、一九五六年)、同『革命家失格』(同、一九五七年)、あるいは公安筋の情報、警察庁警備局『日本共産党の六全協をめぐる諸問題』『日本共産党の第七回党大会党大会をめぐる諸問題』などを傍証とすることも試みられていた。また小林勝『断層地帯』『影のなかの火』、高史明『夜が時の歩みを暗くするとき』『闇を喰む』、窪田精『ある狂人の手記』などの「武力闘争」体験者による創作作品もある。

 本稿に紹介された文献は、ほほすべて同志社大学人文科学研究所に資料として配架済みのものである。また社会運動家の記録は非商業的、非流通的な形態での刊行が多く、入手にはさまざまな情報の入手と取り寄せ手段を必要とする。予算においても、労力においても筆者の勤務先であるこの研究所の寛容な体制に依拠することができていることに感謝する。
  1. 2016/03/24(木) 17:03:19|
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