古本屋通信

みなと横浜みなみ区3丁目様から

古本屋通信    No 1630   9月28日
 

  みなと横浜みなみ区3丁目 様から


  表題の方から投稿を頂いた。読み応えのある記事だったので、私の本文に転載させて頂きます。実はコメント欄にではなく、トラックバック欄に長文の記事が現われたので驚きました。初めてだったので戸惑いましたが、左欄にも現われているので、公開してもよさそうです。たぶんローカル通信を主宰している方ではないかとお見受けしました。今後とも宜しくお願いします。何時も本文に転載するとはお約束できませんが、条件のある時には私の読者にも読んで貰いたいと思っています。尚、転載にあたり改行関係を基本的にツメましたが、これが不十分で読みにくかったり、適切でなかったりすると思います。ご了解ください(古本屋通信)。



みなと横浜みなみ区3丁目

ローカル発全国版*身の回りのポリテイックス

参院選挙協力もいいが、沖縄を切り捨てて「安保法制反対」とか「護憲」って言えるの?【東京新聞の記事から】
アベ政権の手による″安保法制”法案が国会で可決、成立した。世間では、来夏の参院選に政局は移っているかのような論調が支配的だ
生活の党の小沢一郎代表が提唱してきた全野党による参院選統一名簿構想をはじめ、法案成立後に浮上した共産党・志位和夫委員長の野党選挙協力などがそれだ。
だが、そうしたことが果たして本当に実現可能なのだろうか。選挙協力くらいは、今までも様々な組み合わせでやってきたし、それによって部分的には成果を上げてきたことは確かだ。
しかし、現時点で見ると、その野党共闘が大きな果実を得てアベ自公政権を打倒する、あるいは安保法制を覆すところまで行くのかは大いに疑問だ。
いや、それよりも、そもそも民主党や維新の党を含めた野党共闘が、成立するのかすら問題だ。

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民主党や維新の党の半数は、集団的自衛権行使には賛成というのが本音だろう。彼らは、むしろ政権にすり寄る、あるいは対米追随を志向する政治集団である点で、アベ政権と基本的には変わりない。
安保法制と沖縄・辺野古新基地建設は表裏一体の意味を持つ。アベ政権が意図する集団的自衛権の行使にとって、日米安保条約の強化と新基地建設は不可欠のものだ。
沖縄県民は、そこを見据えて反対運動を構築している。それが、常に米軍の世界軍事戦略の最先頭に立たされてきた沖縄県民の基地反対闘争なのだ。
だが、安保国会のさ中に、約1か月にわたった沖縄県と政府との″政治休戦”の期間中、ほとんどの野党が、沖縄県民の戦いとかかわりを持とうとはしなかった。
かつて鳩山民主党政権が在沖縄米軍基地の「国外、県外」移転構想を打ち出した時、民主党内からすら、それを支持する声がうねりとなって高まることはなかった。
あたかも、沖縄に基地があることが当然だと言わんばかりに鳩山首相と沖縄の声を無視し、民主党政権の最初で最大の外交をとん挫させた。
続く菅、野田両政権は、明確な脱原発政策を打ち出せなかったばかりか、矢継ぎ早に消費税の8%への増税、TPP交渉参加、日米新ガイドライン制定交渉合意とそれによる沖縄米軍基地の固定化など、「政権交代」にかけた有権者の期待をことごとく裏切り続け、坂を転がり落ちるように「自民党化」していった。それが民主党政権だった。

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アベ政権の安保や集団的自衛権には反対するが、沖縄の新基地建設には賛成、もしくは黙認するというのでは、どこに解釈改憲反対や集団的自衛権反対の意味があるのだろうか。
民主党幹部の中からは、早くも共産党提唱の″国民連合政府構想”に対し、「共産党とは基本政策が違う」、「共産党との統一政権には参加できない」という声が噴出している。
今日の東京新聞「本音のコラム」では、山口二郎・法政大教授が、共産党からの選挙協力の提案に対する民主党幹部の反発について、こんなことを書いている。
「基本的な政策理念の一致が必要というのは正論である。いまの日本においては違憲の安保法制を止めるという以上に、崇高な理念はない。参院選で勝った後、次の展開を考えればよい」
山口氏は憲法を守るという一点で野党が参院選1人区で結集すべき時に、「非自民、非共産」などとぜいたくを言える状況ではないと、民主党保守派をけん制している。
沖縄の基地問題を棚上げして、憲法を守る?
おかしくはないか、山口さん。沖縄を見捨てた民主党に、何をどう期待すれば「憲法を守る」ことになるの?そう考えるのが、私の錯覚であればいいのだが…。
今日は、口直しに東京新聞のもう一つの記事「こちら特報部」を、次に転載しておきます。
日米地位協定や安保条約が、沖縄のこんな状況を平気で隠し通してきたことを暴き出すのが、「護憲」ということではないのか、という問題提起です。

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ベトナム戦争終結40年 沖縄 続く枯れ葉剤禍 
地位協定で米は免責
(東京新聞「こちら特報部」2015年9月27日)
ベトナム戦争の終結から40年。米軍はこの戦争で、毒性の高い枯れ葉剤を使った。沖縄では現在、この薬物を保管していたとみられるドラム缶が米軍基地跡地から見つかり、土壌汚染が懸念されている。しかし、沖縄での保管は元米兵が証言しているものの、米政府は否定している。仮に米側が認めても、日米地位協定で免責されるため、日本政府は調査に消極的だ。いまも引きずる戦争の傷が、両国のはざまで置き去りにされている。(鈴木伸幸)
1509277_沖縄県で
(改装工事中にドラム缶が見つかり、その後、調査のために掘り起こされた沖縄市サッカー場=沖縄県で)

基地跡地からダイオキシン
沖縄県を南北に縦断する沖縄自動車道に面した沖縄市サッカー場。現在、地面は掘り起こされ、ところどころに深さ10メートルもの穴があいている。サッカー場だったことをうかがわせるのは照明灯ぐらいだ。隣接する米軍嘉手納基地から飛び立つF15戦闘機が「ゴー」と爆音を響かせていた。
サッカー場はもともと同基地の一部だった。1978年に返還され、沖縄市が造成。子供たちの歓声が飛び交う場所になった。
ところが、2013年6月、改修工事中に土中から枯れ葉剤製造会社の一つ、ダウ・ケミカル社の印章が入ったドラム缶22本が見つかった。
1509277_枯れ葉剤
環境保護団体「沖縄・生物多様性市民ネットワーク」の河村雅美ディレクターは「沖縄市の調査で、枯れ葉剤成分のダイオキシン類が検出された。それ以外にも、ポリ塩化ビフェニール(PCB)やヒ素など有害物質があった。複合汚染が発覚した」と振り返る。
改修工事は中断。沖縄防衛局が調べたところ、次々とドラム缶が見つかり、これまでに100本を超えた。いまも調査は継続中だ。
ベトナム戦争時、前線への中継基地だった沖縄に枯れ葉剤が保管されていたことは、以前からうわさされていた。注目されるようになったのは「沖縄で枯れ葉剤を浴びて健康被害を受けた」と訴えた元米兵が公的に保証され、それが07年に報じられてからだ。
著書に「追跡・沖縄の枯れ葉剤」がある在京の英国人ジャーナリスト、ジョン・ミッチェル氏によると、沖縄に勤務した元米兵が「枯れ葉剤の保管」を証言。枯れ葉剤が入っていたとされるドラム缶の写真も見つかった。米陸軍化学物質庁(CMA)の03年の報告書には、ドラム缶2万5000本の枯れ葉剤が沖縄にあったと記載されていた。
ミッチェル氏の取材に応じた一人で元米兵のジョー・シパラ氏は11年、沖縄で枯れ葉剤を浴びた元米兵たちの情報交換サイトをネット上に立ち上げた。
サイトには300人もの元兵士が集まるようになり、健康被害について打ち明けあった。シパラ氏自身も糖尿病を患い、2人の子供には障害がある。交換された情報で明らかになった症状は糖尿病、白血病や前立腺がんなど。ベトナム戦争に従軍した元米兵の枯れ葉剤後遺症と重なった。
ところが、米国防総省は13年の報告書で「記録がない」とベトナム戦争時の沖縄での枯れ葉剤保管を否定。CMA報告書についても「記載は誤り」と決めつけた。サッカー場のドラム缶から検出されたダイオキシン類についても「低温でごみを焼却処分したときに発生した灰に由来する」という見方を示した。

150927_ダウケミカル社
(沖縄市サッカー場の地中から見つかった「THE DOW CHEMICAL」と印章のついたドラム缶=沖縄・生物多様性市民ネットワーク提供)
健康被害の恐れも 政府は「住民より米軍」
この国防総省の報告書について、ミッチェル氏は「現地調査をろくにしていない。『焼却灰が原因』説では、ドラム缶のたまり水から検出された高濃度のダイオキシン類については説明できない」と反論する。
ドラム缶の調査結果を分析した摂南大の宮田秀明名誉教授(環境科学)も「毒性の強いダイオキシン類が高濃度で検出されていて、枯れ葉剤の可能性が強い」という見解をとる。
米軍が枯れ葉剤を使い始めたころ、国防総省は人体への影響を否定していた。管理はずさんとなり、ドラム缶から漏れた枯れ葉剤を浴びた米兵もいた。戦場ではベトナム人に加え、米兵も浴びた。徐々に健康被害が明らかになり、使用を止めたという経緯がある。
元岐阜大教授で、枯れ葉剤問題に詳しいジャーナリストの中村梧朗氏は「米軍がうそをついて枯れ葉剤を使い始めたことが、今も影響している」という。米国でも健康被害への対応は遅れ、元米兵への補償は91年にようやく始まった。沖縄での被害者に対してもごく少数ながら、枯れ葉剤ではなく、「有害物質」を原因として補償している。
沖縄でこうしたドラム缶が見つかったのは、サッカー場が初めてではない。しかし、日本政府の対応はこれまで消極的だ。
というのも日米地位協定によって、米側には基地跡地の原状回復や補償の義務はない。汚染が分かったとしても、洗浄はあくまで日本側の負担。このため、事態を小さくしがちだ。
02年1月には北谷町の基地跡地から187本のドラム缶が見つかった。だが、河村ディレクターは「沖縄防衛局はドラム缶を1本だけ調べて、処分した。ダイオキシン類の調査もしていない」と明かす。
「今回は沖縄で健康被害を受けた元米兵の存在が注目された後に見つかった。加えてドラム缶にダウ・ケミカル社の印章があった。沖縄市が問題を重視して独自調査をしたことも、沖縄防衛局が重い腰を上げざるを得なかった一因だ」
日本政府の「住民より米軍」という姿勢は珍しくない。例えば、米軍厚木基地で01年、隣接する産廃処理業者の排煙からダイオキシン類が検出された。米政府の要求に日本政府は補償金を負担し、焼却炉を直ちに撤去した。沖縄のドラム缶とは対照的だ。
1509277_ジョー・シパラ氏とドラム缶
(1970年に沖縄の米軍基地で撮影された元米兵のジョー・シパラ氏。右後ろのドラム缶に枯れ葉剤が入っていたと証言している=ジョン・ミッチェル氏提供)
ちなみに沖縄防衛局は、今回のドラム缶ついても米当局の主張を追認し、枯れ葉剤の存在を認めていない。ジャーナリストの中村氏は「日本政府は米国が相手だと思考停止になる。戦勝国のベトナムは、ダナン米軍基地跡地のダイオキシン汚染を米国に認めさせ、洗浄させた。それと比べると、日本政府の対応はあまりに無責任だ」と語る。
著書に「米軍基地と環境問題」がある環境省元職員の世一良幸氏も「環境問題への関心の高まりから、ドイツではボン補足協定の改定で、米国側に米軍基地跡地の環境浄化責任を負わせるようにした。現在は日米地位協定の締結時とは時代が違う。日本政府も国民の健康に影響する環境問題については、日米安保条約や在日米軍の問題とは別に対処すべきだ」と話す。
元米兵に枯れ葉剤による健康被害が出ている以上、当時、米軍基地で働いた地元住民にも影響があった可能性は否定できない。
河村ディレクターは「沖縄では、枯れ葉剤の影響と思われる健康被害を訴える人はいる。けれど『補償もされず、奇異な目で見られるだけではないか』と表に出てこようとしない。日米地位協定にみられる日本と米国の関係。そして、在日米軍基地に象徴される本土と沖縄の関係は、ここにも表れている」と指摘した。
1509277_デスクメモ
(転載おわり)
  1. 2015/09/28(月) 17:58:35|
  2. 未分類

改稿・こういうデタラメな文が

古本屋通信     No 1628   9月28日

   改稿 ・ こういうデタラメな文がよく書けるな。



  石崎徹氏の最新の記事を転載する。


  「わたし」が主語になった
 雑文 - 2015年09月25日 (金)  石崎徹の小説
 今回の運動に触れながら、五野井郁夫は1968年「パリ五月革命」との共通性を示唆している。その「体制転換なき革命」とも呼ばれる運動は「必ずしも政権を取らず、体制転換もせず、けれども決定的にその後の人々のものの考え方には影響を与え」た。それは政治運動というより文化運動であった。そして優れた劇を観終わったとき、観客が、観る前とでは世界がすっかり変わってしまったと感じるように、その参加者の「内面」も「価値観」も変えてしまうような運動だった>
 きのうの朝日紙上の高橋源一郎による論壇時評に、「現代思想10月臨時増刊号」の五野井郁夫を引用しながら書かれている言葉である。
 高橋源一郎はいまぼくが最も共感できる言論人だ。月一回の論壇時評は、高橋が、いろいろユニークなところを探し歩いて、それぞれ個性的な人々の言葉を拾い集めてくる。いわゆる論壇にこだわらない選択をする。今回高橋は、同じ「現代思想臨時増刊」のなかからだが、SEALDsに参加した一人の若い女性の言葉を紹介し、<「わたし」が主語になった>と書いている。
 日本にも70年前後に学生たちの運動があった。その運動家たちの主語は「われわれ」であり「わたしたち」だった。だがその運動は決定的に敗北し、影響力を失って、ただ団塊世代の郷愁のなかにのみ細々と生き延びる存在となった。もはや日本で若者たちが立ち上がることは決してないのではないかと思わせるような状況が続いてきた。
 それが変わるかもしれないという兆しを見せている。もちろんいま時代は変わった。振り返ってみれば40年前の日本の運動はまだどこか後進国的な運動だった。いま、新しい時代の若い人々が新しいスタイルで動き始めた。それが主語を「わたしたち」から「わたし」に変えた。スタイルが違えば当然内容も違う。それは「いま」という時代が要求する主語なのだ。
 ぼくが吉良よし子に注目したのも、彼女が「わたしたち」で語らず、「わたし」で語ったからである。世の中は徐々にだが、動き始めている。




  古本屋通信 
 ここまで来ると詐術による立派な詐欺文であろう。しかしこう云うペテンに引っ掛からない特別な「知性」があるわけではない。つまり詐術には事実を対置して欺瞞を暴くしかなかろう。

 自論の冒頭にブル新聞の記事を配置する、その文は他人(高橋源一郎)の文の断片であり、しかも引かれているのは別人(五野井郁夫)の文の断片である。こういう手法が絶対に許されないというわけではないが、普通は詐術を警戒する。

 案の定である。五野井郁夫の地の文も、それを引用した高橋源一郎も。はたまた三重コピーの石崎氏も、その基本認識が恥しいほど低脳である。こんな認識は少なくとも45年前の1970年にはクリアーされていた。

 1960年代後半ヨーロッパを吹き荒れた 「スチューデントパワー」 を一括して論じることには無理があるが、それでも大雑把に言えば、既成の政治勢力・党派に領導されない学生たちの自主的立ち上がりを特徴としていたことは事実であろう。しかし大衆運動の盛り上がりとは本来そうしたものだ。それが革命党派の運動と調和することもあれば、互いに反りあうこともある。

  その「体制転換なき革命」とも呼ばれる運動は「必ずしも政権を取らず、体制転換もせず、けれども決定的にその後の人々のものの考え方には影響を与え」た。それは政治運動というより文化運動であった。そして優れた劇を観終わったとき、観客が、観る前とでは世界がすっかり変わってしまったと感じるように、その参加者の「内面」も「価値観」も変えてしまうような運動だった

  これは結果的にそう言えないでもない側面があったにせよ、あくまで結果であった。そういうものを目指した運動ではなかったし、「文化運動」などでは全くなかった。明らかに体制変革、というより現存する目の前の政権を打倒する運動であった。然しそれは多くの場合挫折した。五野井のペテンは(そしてそれを引用する高橋のペテンは、さらに朝日と高橋と五野井をトリプル引用する石崎氏のペテンは)本来運動が目指した目標が達成されなかった失敗を、後から美辞麗句でもって賛美している点にある。なぜ運動が挫折したか。これは単純には言えないが、大衆運動が政治党派に収斂されなかったからだろう。つまり自主的な運動がプチブル的な限界にとどまったゆえだ。ここらの認識も低脳たちはまるで逆の筈だ。彼らは聞く耳を持つまいが、これは褒め上げるようなものではなく、限界性こそ指摘されるべきであろう。政治目標を達成できなかったのだから。

 ああ、馬鹿丁寧に書いてしまった(反省)。こういう事は既に45年前に常識だったのだ。

 これはヨーロッパの「スチューデントパワー」に影響を受けた日本の全共闘運動を見れば明らかである。私は全共闘派の運動は殆んど新左翼党派の運動だと思っているが、日本の全共闘について、今回五野井郁夫が、そして高橋源一郎が書いている事と全く同じことを書き、それをキャンペーン化したのが当時の朝日の全共闘称揚だった。まあ、救いがなかったナ。当時は 『朝日ジャーナル』 を読んで全共闘に加わった者もいた。そういう部分が一番に脱落した。学生運動の「流行」が終るとサッサと身を引いてしまった。ちょうど石崎氏のような人たちで、自己批判がなく全て他人が悪いのである。最もハレンチで軽蔑された人たちである。「左翼」崩れであった。

  朝日は何の事はない。半世紀のちに同じ低脳を繰り返しているのだ。だいたい朝日に書かせて貰える文筆業者がラディカリストであるわけがなかろう。今回の反戦争法のキャンペーンでもそうだった。ここまでが一般論だ。

  以下、石崎氏の究極のデタラメ。「われわれ」と「わたし」。まず全共闘運動はアジ演説の冒頭の言葉は「われわれが」だったが、個人の自立(これ自体プチブル的)を運動の理念にしていたのだから、内実は「わたし」だった。これはヨーロッパも日本も同じだったろう。
その運動家たちの主語は「われわれ」 であり 「わたしたち」 だった。だがその運動は決定的に敗北し、影響力を失って、ただ団塊世代の郷愁のなかにのみ細々と生き延びる存在となった 石崎徹ちんぷん低脳語録

 
まあ、無茶苦茶だね。68~70年の闘争が行き詰ったのは運動が個の原理に立脚しなかったからだという超デタラメ。事実はむしろ正反対だったろう。マルクス主義に立脚しない小ブル急進主義、すなわち個の原理を止揚する革命的共産主義を運動がわがものにできなかったからだ。運動の末端で金魚のフンをしていた自分を傍観者に設えてよく言えたものだ。

 「われわれ」と「わたし」。自立した個、つまり 「わたし」 は社会的存在としてしか政治と関われない。それは集団の中に個を埋没させることを意味しない。「わたし」は「われわれ」の部分としてしか社会的に存在しない。何でこんな小学生向けのことを書かなきゃならんのだ。

 石崎氏の最後は天然記念物である。どんなによい小説を仕上げても、この白痴文が小説家石崎を殺すワナ。吉良よし子も妙な惚れられ方をしたもんだ。叶わんな。まあ、志位が悪いという事にしておこうか。

・・・もはや日本で若者たちが立ち上がることは決してないのではないかと思わせるような状況が続いてきた。それが変わるかもしれないという兆しを見せている。もちろんいま時代は変わった。振り返ってみれば40年前の日本の運動はまだどこか後進国的な運動だった。いま、新しい時代の若い人々が新しいスタイルで動き始めた。それが主語を「わたしたち」から「わたし」に変えた。スタイルが違えば当然内容も違う。それは「いま」という時代が要求する主語なのだ。
 ぼくが吉良よし子に注目したのも、彼女が「わたしたち」で語らず、「わたし」で語ったからである。世の中は徐々にだが、動き始めている  石崎徹ちんぷん低脳語録


  最後に一言。シールズなんてゴミよ。こういう形態をとらざるを得なかったのは本人たちの責任ではないが、結局なんにも無かった。権力はちっとも恐れていません。
 ゴミと書くとまたイチャモンをつけてくるだろう。スケールからしても運動の質から言っても、安保ブントにも全共闘にも遥かに及ばなかったという事だ。そもそも私は安保ブントも全共闘も全く評価していない。全共闘といえば東大全共闘は構内で三島由紀夫をよんで公開討論会をやった。左翼ではなかった、究極のイカレポンチであった。

 高橋も五野井も売文だから、朝日の読者ニーズに合わせて毒にも薬にもならない低脳文を書いて原稿料稼ぎだ。低脳には違いないが、産経から注文が来れば別の文を書くだろう。石崎さんとはちがう。まあ、朝日などを本気で読むヒマがあったら、産経の方がまだ勉強になるゾ。 
  1. 2015/09/28(月) 04:06:21|
  2. 未分類

大山奈々子はさすがの見識

古本屋通信     No 1622  9月24日

  
大山奈々子はさすがの見識



  きのう私はエントリー末尾に武田英夫氏の文を(なんの批判も付さず)貼ったが、これが典型的な党カルトの文だろう。党が聖戦だと言ったら迷わず人殺しをする人間の文である(戦前の社会ファシストがまさにコレに該当する。何も特異な例ではない。武田氏のかいていることは典型的な戦前の裏切り者の文である)。スターリン主義プチ官僚とは、自主的な思考と無縁なと云うより、生まれつき他人の頭でメシを喰ってきたのだから、軌道修正は絶対に無理である。打倒するしかない。石崎さんも同じなんだが、彼は政治に関わっていないから、まだ救いがある。

 さいど河村さんのブログがストップしている。いいことだ。悩んだらよい。

 おそる、おそる 神奈川県の大山奈々子さんを訪ねた。さすがは私が坂井希と双璧だと絶賛しただけあった。完璧である。盤石だ。党の現職県議としてはここまでしか書けないし、書いてはならない。恐れながら、彼女のスゴイところを私が赤変換させていただいた。
 それと最後の、野路浩幸さんのコメントは絶品である。こういう絶品のコメントが得られると云うのも大山さんの実力である。このコメントは今回の4中総の性格を(私のようにクドクド書かないで)ズバリ言い当てている。スゴイな

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 国民連合政府構想!! 日本共産党史上初(*’▽’)
 2015年9月20日  大山奈々子
戦争法案が強行採決とすらいえない乱暴な可決がされた今日、9月19日。緊急の中央委員会総会が開かれて以下の声明が出されました。
野党間で選挙協力をして、暫定的な国民連合政府を作り、安倍政権を打倒する。
ママの会の皆さんと宣伝したときに、野党統一候補の可能性をきかれて
「一点だけなら協力できても、原発でも消費税でも立場が違うから選挙協力は難しいと思うぁ。でも私たちは単独で政権取ろうとか言う考えではないんだけどね」と答えた翌日のこと。

ママの会のタイムラインには、「私たちが国会で秘書さんたちにお願いしたことが生かされたのかな」というコメントが。生かされたんですよ!
これが現実になるためにはそれこそ野党の合意が必要になるわけで一山も二山もあると思いますが、まさに「国民の声で政治を動かす」共産党の面目躍如といったところか
この動画が志位さんの記者会見。記者たちが皆さんと同じ疑問を持って質問しています。

※通常、党の重要な政策は長い時間をかけて党中央から、都道府県、地区、地域支部の往復で丁寧に全員で討議しますが、犠牲者が出る前に急いで安倍政権打倒、戦争法廃案を達成しなければならないので急な決定となりました。

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 (志位和夫「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現をよびかけます」の全文を省略した。

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  コメント

  野路浩幸より   2015年09月20日 01時57分

 大山奈々子さま

こちらではご無沙汰です。1点確認します。

上記では「通常、党の重要な政策は長い時間をかけて党中央から、都道府県、地区、地域支部の往復で丁寧に全員で討議します」と記されておりますが
正確には下記のような1往復半ですね?(※党規約より)

1:党中央から機関紙等を通じて政策案が示される
2:中央⇒都道府県⇒地区⇒(地域・職場・学園)支部の順に提起と詳細が示される
3:討議は2の逆の順序(上り)で進み、党中央で討議して決定(採択)
4:党中央決定を基に2の順序(下り)で各機関・支部の方針を具体化
(※他に中央や都道府県直属の党グループ及び支部、補助指導機関、青年支部もあるが上記に準ずる





  古本屋通信 

 まあ、ここまで皮肉たっぷりに書いても、鈍感な人は武田文と同じに読めるんでしょうね。暗示的だが、明らかに党中央を批判しています。尚、タイトルの 「日本共産党史上初(*’▽’)」と云うのも皮肉だろう。
 選挙のまえに、単なる選挙向けの「目玉商品」を提出するだけの目的で、開催しなくてもよい中央委員会を開催したことは、私の記憶では過去3回あったと思う。いずれも選挙前の中央委員会総会という意味ではなく、大向こう受けを狙った突発的な提案をした記者会見用の中央委員会総会だった。少なくとも党史上初めてではない。それを知って書いたなら完全にイヤガラセだし、知らないで書いたとしても皮肉っぽい。まあ、たいした力量だ。
  1. 2015/09/24(木) 13:53:49|
  2. 未分類

性愛と家族のあり方

古本屋通信     No 1607  9月15日

 
 性愛と家族のあり方は歴史的条件に拠って異なる



  デボーリンの墓守氏が石崎さん所でウンチクを披露している。こうして見ると石崎ブログもまあまあ利用価値があるな。全文を引用して私見を対置しておこう。



522: by デボーリンの墓守
on 2015/09/13 at 14:31:26 (コメント編集)
だいぶ時間が空きましたが、思い出したので書きます。
マルクスが貧困生活を送ったのは、娘たちにブルジョア教育を受けさせたり、貴族趣味の浪費生活を送ったからでした。マルクスが結婚してはいけなかったとは思いませんが、庶民の娘と結婚し、子供を作らなければ、もっと多くの業績を残せたとおもいます。
トロツキーの息子セドフは立派な革命家でしたが、父親より早くスターリニストに暗殺されています。
一般的に言って、革命家が子供を持つことに利点はないと思います。金日成もそうだったと思います。




  古本屋通信

  マルクスは娘にも手紙を書いているし、愛妻イエニーとの性愛については多く語られている。その愛の形を一般化して賛美することは出来ないが、現代においても学ぶべき多くのものはあるだろう(『革命家マルクスとイェニー』 2012/2 土屋保男)


  この問題は歴史的条件と各人の個別的条件を捨象して論じても始まらない。戦前の日本で党が非合法化されていた時代にはハウスキーパーという形もあった。これを非人間的だと非難したのが平野謙だった。観念論なのだ。いまの石崎さんと一緒だ。

 現代でも、中核と革マルが「戦争」していた時には、両派の活動家が家庭を持つということはご法度だっただろう。詳しくは知らないが、岡山の中核派の幹部は、その細君によると命を狙われていたそうで、結局家庭を捨てて出て行った。離婚という形だが、その内実は分からない。男がどうなったか知らないが、健在であっても名前は変わっているだろう。細君は自立して子どもを育てた。いまでは彼女の行方も分からない。彼女は有名な日本共産党員(数学者で岡大教授)の娘だった。

  いまの日本共産党の組織方針は「大衆的前衛党」である。いまの党綱領からは前衛の名が消えているが、政治機関誌『前衛』は残っているから、組織規定は変わっていないのだろう。「大衆的」とは、党員も一般の民衆の生活に倣うという事だ。その条件が日本にはある。党員はふつうの民衆の生活(家族生活)をすべきだ。それで革命は達成できる。

  ただし、ここから先は党員各人の価値観に委ねられている。党岡山県委員長は未婚・シングルである。書記長には子供がいる。いまは社会一般も結婚を回避する傾向にあるようだ。私の周囲の息子・娘も未婚が多い。党員の家庭でもそうだろう。それでよい。ただし人間は人間を再生産しなければ歴史が途絶える。とくに日本共産党員は優秀な子どもを残すべきであろう。吉良よし子が出産休暇に入った。元気な子どもを出産して議員活動を再開する日を俟ちたい。母親の党国会議員は日本共産党の宝となる。
  1. 2015/09/15(火) 05:03:09|
  2. 未分類

デボーリン氏の貧困

古本屋通信     No 1602  9月8日

  デボーリン氏の貧困

 たったいま石崎徹さん所にデボーリン氏から投稿あった。今回は古本屋通信の悪口もソコソコに、新刊書ならぬ10年前に出た旧刊書の紹介である。まあ、旧くても良いものは良いから構わないが、内容の素描さえない。仕方がないから此処に補足のコピーを貼った。もちろん私は読んでないし、今後も読む気もない。上に(私の悪口を除く) デボーリン文を転載し、その下に書籍概要を付した。最後に私の若干の感想を付ける。


デボーリン文
面白い本を発見しました。
佐藤正 著

日本共産主義運動の歴史的教訓としての野坂参三と宮本顕治〈上巻〉―真実は隠しとおせない
日本共産主義運動の歴史的教訓としての野坂参三と宮本顕治〈下巻〉―真実は隠しとおせない

新生出版 2004
この本ですが、著者は日本共産党(行動派)の人です。日本共産党(行動派)というのは、大武礼一郎という人物が指導者で「マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛沢東の正統マルクス主義万歳」「日本共産党の三賢人=渡辺政之輔・市川正一・徳田球一万歳」を掲げているので、当然ながら野坂参三と宮本顕治に否定的で、野坂参三と宮本顕治を「スパイ」としています。スターリンや徳田礼賛を除けば読むには値する本です。宮本顕治が非転向だったというのはうそであり、転向していることの指摘はなるほどと思いました。
宮顕が逮捕・起訴されたのは殺人罪や治安維持法違反だったのですが、袴田里見の奮闘で殺人罪が適用されないことが明確になると、1944年10月の公判から「党員であるかどうかを答えない」という事実上転向の態度に変化したのです。ここに権力と宮顕の取引があったことは明らかでしょう。
徳田球一がスパイでないことは、第3回党再建大会(山形県五色温泉)に出席していることからも明らかですが、野坂参三と宮本顕治がスパイだという傍証は強力だし、そう考えれば多くの謎が解けます。
また、宮顕が世に出た「改造」懸賞論文「『敗北』の文学」は間違いなく他人(松山高等学校での同志)の作品であり、「改造」の文芸評論賞がこの1回で終わったのはそのことが「改造」編集部にばれたからに違いないと説得的に解明されています。



補足コピー
野坂参三と宮本顕治 上 日本共産主義運動の歴史的教訓としての 真実は隠しとおせない 1   佐藤正
2,160円(税込)2,000円(税抜) 送料無料
発売日: 2005年01月
著者/編集: 佐藤 正
出版社: 新生出版
サイズ: 単行本
ページ数: 387P
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
本書では、野坂参三と宮本顕治の行動を通じ、国家とは何か、権力とは何か、という問題を、抽象的な形ではなく、具体的な形で解明することに全力を注いだ。この二人の人物の背後にある国家権力の姿を読みとって頂きたい。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 動かすことのできない厳粛な事実/第2部 ゾルゲ団と別系統の共産主義者組織(ゾルゲ事件とは/明るみに出た日本政府のスパイ政策 ほか)/第3部 野坂参三の中国大陸での謀略工作(野坂参三の満洲、太原、北京、延安などでの活動)/第4部 横浜事件・満鉄事件と野坂参三(横浜事件と満鉄事件/横浜事件の戦後処理)

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
佐藤正(サトウタダシ)
1929年、香川県生まれ。1951年、東京大学法学部卒。哲学研究会主幹。思想の科学研究会会員。日本人民戦線運営委員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



 古本屋通信
 スミマセン、下巻の目次が見つかりません。発見され次第コピーします

 まあ究極のイカレ本の妄想文だろう。野坂は措いて、宮本に就いてのスパイ説はこれまでもいくつかあった。いまも貼ろうと思えば貼れるが、百合子の差し入れの本が多すぎるとか、網走刑務所での厚遇がどうのとか、袴田里見を援用してまで書いてある。待遇の改善は宮本が獄中闘争でたたかいとったものであるし、袴田はじめ転向した逸見重雄もスパイ大泉兼蔵も、宮本のスパイ疑惑など一言もいっていない。アマゾンレビューに1件、評価3の文があった。それによると行動派の佐藤氏でさえも疑惑(可能性)を仄めかしているにすぎない。
 デボーリン氏はこの件はもうやめたほうがよい。書けば書くだけ貴殿の品格が落ちる。

 野坂についての記述のコピーが上記にもある。日本共産党の野坂スパイ説も含めて、すでに百年近く前の事を検証するのはどだい無理だ。数百年前であろうと、純粋に歴史研究として(仮説として)やる分には構わない。しかしそうではなかろう。文脈は明らかに同時代史だ。特定の政治目的がまず先行し、それに組み入れる目的で事実を恣意的に探し、あるいは捏造する

1944年10月の公判から「党員であるかどうかを答えない」という事実上転向の態度に変化したのです

 暇だねえ。私はコミュニストは公判ではハッキリと自分の党籍を明言すべきだと思うよ。けど、ここにも「事実上」と書かれているように、状況シチュエーションがハッキリしない。それにいったい為にする反共以外の誰がこんな事に関心を持つというのか。世間が全く問題にもしていない戦前のスパイ査問事件、これは現代の5人のスパイとは異質である。それに貴殿は筆坂を転向者と見做しているらしいが、貴殿の位置からは共産党と右翼の筆坂は同列だから、転向者とは言えまい。

 「敗北の文学」 しかり。貴殿は読んでいない。あの文体は明らかに宮本に一生付き纏う文体だ。いい意味でも悪い意味でもね。批評家は一発で見抜く。それに彼が生活費稼ぎに応募した習作が盗作か否かなど、いまさら問題にもならない。盗作ならあっ晴れだ。「改造」の完敗である。


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 この記事は少し弱いように思うので書き足そう。

 上記に 「マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛沢東の正統マルクス主義」 という表現がある。翻って日本共産党はどうだったか。1965年日本共産党香川県委員会の事務所(高松市藤塚町)には大きな肖像が掲げられていた。その名はマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、徳田球一の5人。ただし事務所は農家の土間そのままであり、そこに机を並べただけの佇まいだった。肖像はずっと前から変わってない可能性が大だった。それにしてもスターリン批判から10年経っていた。スターリンは相変わらず英雄だった。私も大いに影響を受けた。哲学論稿を措いても、スターリン言語論は誤っていないであろう。

 徳田の評価はこうだった。党東讃地区委員長の土倉敬(のちに香川県議)は指導に入った学生細胞でこう言った。

 わが党の徳田同志は非常に優れた同志でしたが、一面で家父長的指導をするという誤りを犯しました。彼は北京で客死しましたから、自己批判する機会はありませんでしたが、彼の誤りを公然と批判し、極左冒険主義の51年綱領を改めたのが党の六全協でした。

 私はすかさず反論した。「それは違うでしょう。六全協決議には51年綱領は完全に正しかったと書かれていますよ」 と私。この時から土倉は私を目の敵にするようになった。この件もいずれ書きたいと思っている
  1. 2015/09/08(火) 10:11:09|
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岡山平和書房(2)

古本屋通信     No 1601  9月8日

 岡山平和書房(2) 岡山平和書房の初代女店主



  話は8月26日の 「No1579 岡山平和書房」 の続きなのだが、断片的な思い出だから独立して読んで貰ってよい。今回は副題を 「岡山平和書房の初代女店主」 とした。ここでいう初代とは店舗が柳川通り(蕃山町)に移転する以前の、南中央町(田町の歓楽街に隣接していた)の時代の店主である。

  私的な経過から書かねばならない。私は1964~68年まで高松市にいた。その学生生活のかなりは民青同盟員としての生活であり、左翼文献は欠かせなかった。党文献は民青の事務所(中央通りと観光通りの交差する2階建てのビルだった。向いのビルからは24時間望遠カメラで覗いて撮影していた。だから非公然部分は出入りを避けていた)や党県委員会(藤塚町)にもあったが貧弱だった。だから大抵の書籍は宮脇書店で買った。当時の宮脇には大月書店の国民文庫などズラリ揃っていた。しかし民青県委員長の上杉さんは香川に民主書店が存在しないことを嘆いていた。いつもこう言っていた。 「岡山はいいなあ、立派な党の本屋がある。香川も早く持ちたい」。

  私は1968年4月に岡大に学士入学した。その日に南中央町の平和書房に行った。店は狭かったが上杉さんが言った通りの魅力的な店だった。本も多かった。社会科学一般や新左翼本はなかったが、党文献や党員・民青同盟員の必読書は全て揃っていた。その日に何を買ったかは憶えていないが、10冊ほど買った。

 中年の品のある女性店員が対応してくれた。私は初めての客だった。遠慮がちにいくつか質問した。女性はインテリには見えず生粋の労働者に見えた。そして私の質問に過不足なく的確に答えてくれた。

  そこで私は調子に乗って予定外のことを話した。「あのう、実はドイツ語のテキストを入手しなければならないんです。これから丸善に行こうかと思っていたのです。出来ればこちらで注文を出して下されば助かります」。女性が本の題名を訊いたので、私は紙に書いた。「経済学・哲学草稿」 と 「ドイツ・イデオロギー」。そして、こう添えた 「まだドイツ語が読めないんです。だから原文のドイツ語の書名の正確な名前や出版社は分かりません。全集本や選集本に入っているものでもいいんです。とりあえず読めれば・・・」。私はこの話を切り出すには躊躇があった。いくら書店員だといっても、労働者らしい女性にいきなり自分でも読めないドイツ語の原書の注文を出すのはどうかと思ったのだ。

 女性は私の懸念などまったく頓着しなかった。「ええ、すぐに手に入るか、それともかなり懸るか、何ともいえませんが、とにかく手配してみます」。結果だけ書く。一週間で本は届いた。売価は予想よりはるかに安かった。届いたのはディーツ版のマル・エン全集の初期巻だった。あとで成る程と思った。私は既に「経済学・哲学草稿」 と 「ドイツ・イデオロギー」 の英語版は持っていた。何のことはない、仕入れルートはソ連系の友好商社、たぶんナウカ社(脚注)経由だったのだ。この女店主はこのルートに精通していた。


  岡山平和書房が南中央町を引き払って蕃山町に移転した正確な時期は分からない。私の岡大時代2年間は南中央町店だった。たぶん10回くらい行っただろう。他にアルバイトの手伝いもいただろうが、私は女店主しか記憶にない。まあ、私の中では偶像化された理想の女性だ。しかし彼女は蕃山町店には来なかった。以後45年間、噂を聞いたことはない。

 然し昨日とつぜん思いついた。この女店主は岡山平和書房のオーナーだった板野勝次氏の細君だったのではないか。何の根拠もない。状況証拠さえもない。しかし私の妄想は膨らむばかりだ。だから今日の記事となった。


 もうひとつだけ。この女店主と係わって忘れられないことがある。私が店を訪問したとき、たいてい先客がいた。いつも女店主と親しく歓談していた。彼は(後で知ったのだが) 岡大医学部の民学同の活動家のN氏だった。ずっと常連だったのだろう。私はその後の彼が岡大闘争を経る中で、岡大を中退して県北で酪農しながら日本原基地反対闘争を担ってきたことを知った。今でも緑おかやまの関係に名前がある。その非転向に脱帽するが同時に、「反党分子」の学生を手厚く遇した女店主も特筆に価するだろう。


 尚、この女店主がN氏を厚遇したことについて、後に岡山平和書房の店員になった藤原ひろ子さんがこう言っていた。「お客だから本を売らないとは言えないだろうが、何も親しく話すことはないでしょ。共産党員なのに党派性が疑がわれるワ」 と。評価の是非は読者に委ねよう。


 それよりも私はこの文を藤原ひろ子さんの息子さんに読んで貰いたくて書いた。藤原さんと私の間には私の党籍を巡って色々あった。然し彼女が他界してすでに久しい。息子さんは父親の姓を継いで東田さんという。いま日本共産党岡山市議団の事務局員として働いている。


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  参考  ウィキペディア

 ナウカ
ナウカは、ロシア・ソ連関係の書籍を主に扱う神田神保町の書店・出版社である。店名は「科学」を意味するロシア語の女性名詞 наука に由来する。ナウカ書店、ナウカ社といわれることもある。

沿革[編集]
1931年(昭和6年)、当時の東京日日新聞(現在の毎日新聞)記者であった大竹博吉により創業。ソ連からの洋書輸入や、ソ連の社会主義建設を紹介する本、ロシア・ソ連関係の広い範囲の書籍を輸入し、日本におけるロシア研究、ロシア語学習に大きな役割を果たした。辞書の編纂、教科書の作成も手がけ、季刊誌『窓』の発行元でもあった。
大竹はプロレタリア文学とも関係が深く、徳永直や本庄陸男の作品集を出版し、プロレタリア作家の拠点となっていた。しかし、1936年(昭和11年)、小林多喜二全集を出版したところ、治安維持法違反として解散を余儀なくされた。
第二次世界大戦後営業を再開したが、GHQによって再び閉鎖された。1952年(昭和27年)、三たび設立。
ソ連だけでなく欧米の洋書も輸入し取り扱っていたが、ロシアへの関心の低下とインターネット個人取引の拡大に伴い書籍の売り上げが低迷し、さらに国立大学の法人化によって研究機関からの書籍の発注が減少したことで経営が行き詰まり、2006年(平成18年)7月6日に東京地方裁判所にて破産手続開始を申請[1][2]、9月半ばで閉店した。季刊誌『窓』は、133号(2005年10月)を最終号として休刊。
2006年11月17日、ナウカ・ジャパン合同会社を設立。2007年2月23日、小売店舗も開店(再開)した。

脚注[編集]
1.^ ナウカが自己破産 新文化 2006年7月11日更新
2.^ ナウカ書店 老舗のロシア語専門書店が破産 神田神保町(毎日新聞)2006年8月22日更新

参考文献[編集]
大竹会『大竹博吉・遺稿と追憶』(ナウカ、1961年)
古本昭三『ロシア特派員』(ナウカ、1991年)



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  古本屋通信

 ナウカ社について私は詳しくないが、知る限りのことを少し書いておこう。この頃のナウカ社は商売としては取次の比重が圧倒的だったように思う。小売の岡山平和書房と直接取引があったか、それとも東販、ニッパン、鈴木などを経由して本を入れたか判らない。しかしソ連関係は独占していた。まあ商売なのだけど、ソ連のプロパガンタだったろう。

 で、微妙なのは1963,4年に日本共産党にソ連分派の日本のこえが出来てからのナウカ社の動向である。これは正式には志賀一派と組んで、日本共産党とは絶縁した建前になっている。だから共産党の本屋ともいえる全国の民主書店とは取引きが消滅した筈である。しかし実際には商売第一で、平気で本を売っていたのだ。ここら辺りも当時の赤旗には関連記事が載っていた。

 ナウカ社ではないが、モスクワ放送の関係でも面白いことがあった。例の岡山の片山潜。岡山の共産党は片山潜を天まで持ち上げているが、かれの遺族はモスクワ放送に勤務していたから、実際はソ連派だった。久米南町の片山の碑も微妙なのだ。私に言わせれば早々に撤去したほうが良いと思うが、これは他日にゆずる。
  1. 2015/09/08(火) 00:57:41|
  2. 未分類

デボーリン氏の2文

古本屋通信     No 1600  9月07日  

  
デボーリン氏の2文について


  
デボーリン氏が石崎さん所で、「古本屋通信記事は支離滅裂の度を増していますが」で始まる2文を書いている。 外国人の共産党籍問題。 若い党員、といっても坂井、吉良、池内、大平の世代の党員だが、彼らの無能。その両方について簡単に答えておく。転載も引用もしないから、興味ある方は石崎さん所へどうぞ。

くどいなあ。論の発展はない。私も理論問題として書こうとは思わない。それが現代日本で当面アクチュアルで緊急な課題とはなっていないからだ。

 実際問題として生起した歴史(戦後日本史)の問題してのみメモしておく。戦後の日本共産党の再建に在日朝鮮人の日本共産党員が果たした役割は大きかった。その正確な実数と党員比率を示す資料を私は持たない。然し党中央幹部7人の中に金天海脚注)が入っていたし、その他にも中央と地方に多くの朝鮮人党員がいた。党員全体の1割を超えていたらしい。もちろん日本にあっても彼らの国籍は朝鮮である。朝鮮民族は朝鮮人の誇りであったから、彼らの多くは日本に帰化しなかった。まあ、いまの朝鮮人学校のようなものだと考えたら分かり易いだろう。党内で揉め事はあったかも知れないが、そんなものは日本人党員どうしでもあった。
 党中央で朝鮮人党員の党籍が否定的文脈で問題になったことは無かったろう。理論的にも実際的にも無かった。これを根本から否定したのは日本の党ではなく、朝鮮の党と国家だった。朝鮮戦争前後だったろう。対岸からの朝鮮同胞にたいする呼びかけ、実質的な指令であった。これは党派だけではなく、大衆的運動組織にも適用された。殆んどの朝鮮人がこれに従って、日本共産党と日本の運動組織から離脱した。日本共産党と日本の大衆的組織もこれを了承した。ずっと後になってだが、文学運動に於いてもそうであった。これは金達寿(キム・タルス)が民主主義文学同盟を離れる経緯のかたちで書いている。
 中途は全て省略する。これで万事うまくいった。これが逆に党籍を残したままだったら、たぶん党内で血の雨が降ったであろう。党の50年分裂はもっともっと深刻な問題になっていただろう。コミンテルンの解散後にコミンフォルムを残しただけでも禍であった。

  下の脚注にウィキの金天海に関する長文記事を貼っておくが、要(かなめ)は次の一節であろう。
 1945年12月1日から3日まで、代々木の日本共産党本部で日本共産党第4回大会が開催された。金天海は中央委員に選出され、中核である7人の政治局員にも選ばれた。20人の中央委員候補には、金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(本名は李浩明)、宋性澈の4人の在日朝鮮人が含まれていた。後に、遠坂寛(本名は崔斗煥)も中央委員候補に入った。このときの共産党員は6847人(うち約1000人が在日朝鮮人)だった。党中央には朝鮮人部が設立され、金天海が部長に、金斗鎔が副部長になった。



坂井、吉良、池内、大平の世代の党員の無能。これも何回いっても分からない。よっぽど同世代の若い党員にコンプレックスがあると見える。私はこのうち吉良はこっぴどく批判しているし、池内と大平についても批判を暗示している。坂井についてはツイッターや論文を引いて称揚している。デボーリン氏には具体が何もない。単に気に食わないというだけである。これは高原氏と一緒である。一元的観念論である。 坂井の何処が悪いのか。ツイッターを一人の母親として発信したのが悪いそうだ。私は寧ろ立派だと書いた。それにたいする反論はない。あのね、私は最近10日間、不破綱領を批判し続けている。坂井、吉良、池内、大平の中の誰にも自衛隊を称揚する文言はない。丁寧に、大きな目をパッチリ開けて、よく御覧なさいね。

 
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  参考  ウィキペディア


金天海
金 天海(キム チョンへ、きん てんかい 1899年5月10日 - 没年不明[1])は、在日朝鮮人の左翼活動家。在日本朝鮮人連盟最高顧問。日本共産党中央委員。本名は金 鶴儀(キム ハギ、きん かくぎ)。 「天海」は僧名。大韓帝国(後の大韓民国)慶尚南道蔚山郡出身。日本大学中退。

来歴[編集]
1899年5月10日、大韓帝国慶尚南道蔚山郡で流通・貿易関係を営んでいた家に生まれた。現在は蔚山特別市内の方魚津(パンォジン)(行政区画としては方魚里)である[2]一人っ子だった金天海は梁山の通度寺に預けられ、仏道の修行を行なった。
1916年、京城の仏教学校・京城中央学林に入学。京城中央学林卒業後、慶尚南道蔚山郡に帰り、夜間学校の教師をした。

日本に渡る[編集]
1922年冬、朴広海へのまたいとこからの紹介状と、密教系大学への朝鮮仏教会からの推薦状を持参して来日し、大阪市梅田の朴広海を訪ねた。朴広海は夜間学校に通いながら、朝鮮人の経営する薬局で働いていた。朴は金天海を自分の部屋に寄宿させた。2週間後、金と朴は、梅田駅で、40人ほどの両班階級の観光団と出会った。観光団は、日韓併合に尽力したことにより、同年3月に東京上野の不忍池で開催される平和記念東京博覧会に参加する予定だった。金天海は、観光団の人に、朝鮮独立の意識を持たせなければならないと考え、朴広海と協議した。金と朴は、金を出し合って学生服を購入し、朴の滞納していた学校の授業料1か月分を支払って学生証を入手し、朝鮮人留学生となった。金と朴は、観光団の滞在していた「いばらぎ旅館」を学生服を着て訪れ[3]、観光団を説得した。7人が説得に応じ、「東京には行かない」と宣言した。7人は仮病を使って東京行きを取り止めたため、大阪府衛生課や警察などが7人を説得した。その過程で、7人が金天海から説得されたことが発覚し、金天海に逮捕状が出された。金は、東京に逃げた。その後、金天海は、日本大学社会科に入学した。日本大学社会科には、三・一独立運動(万歳事件)に参加した者などが在籍していた。また、李雲洙も日本大学専門部に在籍していた。

同年春、朴広海も東京に出た。朴は東京駅で巡査に拘束されたが、金天海を訪ねる予定であることを話すと、巡査が電話をして調べ、すぐに金の住所を教えてくれた(警察は、多くの朝鮮人の住所を調査・把握していた)。朴は、金が住む下谷の長谷惣一宅を訪ねて、金と再会した。金天海は共産主義者になっており、労働者のストライキを見たり、堺利彦や山川均の書物を読むなどしていて、「朝鮮が独立するためには、日本の帝国主義を打倒しなければならない。打倒するためには、日本人労働者と結束して、革命を起こすしかない」という結論に達していた。金と朴は、長谷惣一宅で共同生活を始めた。

同年7月15日、暁民会、水曜会、建設者同盟などが連合して、日本共産党(第一次共産党)が結成された。同月、信濃川朝鮮人虐殺事件が発生した。

同年、信濃川虐殺事件を受け、在日朝鮮人は、在日本朝鮮労働者状況調査会を結成し、在日朝鮮人労働者の実態調査を始めた。朴広海は、在日本朝鮮労働者状況調査会に参加し、茨城県、長野県、群馬県、愛知県の飯場を、実際に働きながら調査した。

同年11月、在日本朝鮮労働者状況調査会参加者を中心にして、東京朝鮮労働同盟会が結成された。金天海は、東京朝鮮労働同盟会の実行委員に就任した。金は、東京淀橋の東京朝鮮労働同盟会本部に移り住み、階級闘争を始めた。

1923年5月、朴広海は東京を離れ、ソビエト連邦を目指した。朴は、故郷の咸興から豆満江の中国との国境を抜け、満州を経て、ソ連に密入国した。朴は資金稼ぎのために阿片栽培を手伝いながら、ソ連を見聞した。

同年、朝鮮共産党日本総局東京西南部ヤチェイカの細胞員となった。

1924年3月16日、東京朝鮮労働同盟と日本労働総同盟は、「関東大震災被虐殺日支労働者合同追悼会」を開催した。出版社従業員組合共済会、芝浦労働組合、自由労働連盟など日本人労働者350人も出席した。金天海は、朝鮮人代表として、日本労働総同盟に対して、「日本政府に朝鮮人虐殺を抗議しよう」と提案した。日本労働総同盟幹部は、金天海の提案に賛同しなかった。その後、金天海は、近代的工場労働者を組織するために、東京南部、京浜工業地帯で活動した。

1925年1月、思想団体・一月会が結成された。金天海は一月会に所属した。一月会は、朝鮮・内地で分立する社会運動に対して、絶対中立の立場から、積極的に大同団結を促進することを目標とした。福本和夫が主張した「福本イズム」を信奉する者からは、「改良主義的右傾化」だと批判された。

同年2月、全国の10数の朝鮮人労働組合団体が大同団結し、在日本朝鮮労働総同盟(略称は在日朝鮮労総)が結成された。同年7月、金天海は、在日朝鮮労総の神奈川県の地方組織として、神奈川朝鮮合同労働会を結成し、常務執行委員に就任した。

同年、横浜市のメーデー準備会に、朝鮮労働組合代表として参加し、「請負制度撤廃」などの朝鮮人労働者の要求を、メーデーのスローガンに加えた。その後、神奈川県厚木市に移り住み、砂利採取労働者へのオルグを行なった。根府川で、朝鮮人労働者が、関東大震災復興事業として砂利採取で働いていたが、賃金が未払いだった。金天海は発注先の復興局と話し合い、さらに鉄道大臣に直談判して、工事代金を支払わせた。

同年、京城で、黒濤会[4]のメンバーだった金燦(本名は金洛俊)、金若水(本名は金科全)らが朝鮮共産党を再建した。

1926年、共産主義系の朝鮮労働青年団の指導者となった。このころ、在日朝鮮労総の朴相勗とともに東京や神奈川でオルグ活動を行なった。同年、神奈川朝鮮合同労働会中央委員、関東朝鮮労働組合連合会委員長に就任した。

同年12月10日、神奈川県足柄上郡松田町で、町役場と警察署が内鮮融和講演会を開き、融和派の3人の朝鮮人が公演を行なうことになっていた。融和に反対する朝鮮人飯場の親方6人が乱入し、公演予定の朝鮮人3人を殴打した。内鮮融和講演会は中止になった。警察は、6人の朝鮮人親方を逮捕して取調べた結果、金天海が朝鮮人親方をオルグしていたことを突き止め、金天海は小田原町弁財天の旅館「北辰館」で逮捕された。

1927年1月10日、小田原区裁判所で金天海の第1回公判がおこなわれ、東京、神奈川、静岡などから、朝鮮人飯場の親分40人以上が、傍聴にやってきた。第2回公判でも、30数人の朝鮮人の親分が、傍聴に訪れた。警察は公安担当者全員で法廷内外を警備した。金天海が控訴して横浜に送致されることになると、30人の朝鮮人親分が同行した。同年2月、朝鮮共産党日本総局が設立された。

朝鮮共産党の活動[編集]
1928年5月、金天海は在日朝鮮労総中央執行委員長兼争議部長に就任し、日本全体の在日朝鮮人労働運動の最高指導者となった。同月、朝鮮共産党に入党し、東京西南部ヤチェイカの細胞員となった。このころは、東京目黒に住んでいた。

同年6月上旬、朝鮮共産党日本総局責任秘書・韓林ら、大多数の日本総局幹部が逮捕されると、金天海は朝鮮共産党日本総局責任秘書に就任した。

同年夏、朝鮮共産党日本総局と高麗共産青年会日本部は、国恥記念日(日韓併合により朝鮮総督府が発足した8月29日)と関東大震災虐殺同胞追悼記念日(関東大震災が起った9月1日)に向けて、闘争を組織した。この闘争は、労働者の要求に基づく「経済的部門的闘争」ではなく、民族主義に基づいた「民族的政治的闘争」となった。

同年8月29日午後9時、東京新宿の武蔵野館横の空き地で、150人の朝鮮人労働者が集まって、集会を開いた。その後、革命歌、労働歌を歌い、ビラをまきながら、デモ行進した。デモ隊は、駆けつけた警官隊と乱闘となり、23人が治安維持法違反で現行犯逮捕された。警察は、23人の朝鮮人労働者を取り調べて、朝鮮共産党指導部の存在と、指導部指示による集会・デモ闘争を把握した。官憲は、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓、朴台乙ら闘争指導者を割り出した。

同年10月25日、金天海は、神奈川朝鮮労働組合横浜支部で逮捕された。その後、同年11月初旬までに、朝鮮共産党日本総局関係者36人が検挙され、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓、朴台乙ら31人が治安維持法違反で起訴された。金天海ら中心メンバーは保釈を認められず、市ヶ谷刑務所に拘留された。保釈を得た被告は、日本赤色救援会(略称はモップル)とともに、公判対策協議会を立ち上げ、公判闘争を展開した。

同年12月、コミンテルンは、朝鮮共産党の分派抗争に関して、どのグループも支持しないとして、朝鮮共産党承認を取り消した。コミンテルンは「12月テーゼ」を出し、「労働者と農民に基礎を置いて、党を再組織する」ように指導した。

1929年、在日朝鮮労総では、日本共産党指導下の日本労働組合全国協議会(略称は全協)への解消が提起された。同年7月、在日朝鮮労総関東協議会で、川崎と横浜の代表が解消に反対した。金斗鎔らが解消を推進した。金斗鎔は、労働者独自の運動に戻り、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』に基づいて民族的闘争を放棄することを主張した。その後、東京の在日朝鮮労総と川崎・横浜の在日朝鮮労総の間で内ゲバが起った。

同年12月14日、在日朝鮮労総全国代表者会議で、在日朝鮮労総を解体し、工場を基盤として、組合を産業別に再組織化することが決定した(産業別闘争に向かうことを意味した)。また、全協への即時加盟が決定した。全協には、朝鮮人委員会が設立され、朝鮮人委員会が朝鮮人問題の指導に当たることになった。在日朝鮮労総傘下の組合員数は3万数1000人あった。

1930年10月、在日朝鮮労総は全協に再組織されたが、組合員数は2600人に激減した。

裁判と戦時下の活動[編集]
同年11月25日午前10時30分、東京地方裁判所で、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓らの公判が開かれた。金容杰は「コミンテルン万歳」を叫び、朴得杰、朴相勗は朝鮮語で、「日本共産党と被告会議を開催して、完全に公判闘争を敢行した」と叫んだ。李雲洙が革命歌を歌い始めると、被告全員も起立して唱和した。朴得絃が全員を静かにさせて、裁判長に、金漢郷を議長とした、被告たちの公判会議の開催を要求した。裁判長の制止を振り切って、金天海ら被告たちは次々に発言した。同日11時20分、裁判長は、裁判の公開を禁止し、分離裁判を行なうことを明言した。金天海ら被告全員が抗議したが、力ずくで退廷させられた。同日午後、金天海らの分離裁判が始まった。金天海は、「朝鮮語禁止は、日本帝国の暴圧だ」「何故、自分たちの保釈が認められないのか」「共産党被告はコミンテルンの支部として闘っているから、日本・中国・朝鮮の被告を全部統一して裁判しろ」と主張した。

同年12月8日に第2回公判が開かれ、最初は「統一審理・公開裁判」で行なわれたが、第1回公判と同様に混乱したため「分離裁判・非公開裁判」となった。

1931年3月21日、金天海は懲役5年の実刑判決を受け、控訴した。同年10月30日、控訴審公判第1回準備手続の法廷で、看守、巡査、憲兵の退席を要求した。弁護士の介入により、警備が緩和された。

同年10月、幹部の大量検挙により、朝鮮共産党日本総局が解体した。同年、全協組合員1万人中、4000人が朝鮮人だった。

その後、控訴審公判第2回準備手続は、金漢郷を議長とした被告会議となり、各被告の陳述内容が決定された。金天海は、公判常任委員に選ばれ、党の労働農民運動の活動内容を陳述することになった。

1932年4月11日、朴相勗が獄中で暴行されて死亡した。同年4月15日、朴相勗の葬儀委員13人が、葬儀デモを協議した。協議中に、警官隊に踏み込まれ、葬儀委員13人全員が検束された。

同年8月30日、控訴審判決があり、金天海の懲役5年の実刑判決が確定した。金天海は市ヶ谷刑務所に服役した。

1934年5月、李雲洙が出所した。同年7月、李雲洙は朴台乙と再会した。朴台乙は東京江東区で、全協とは異なる独自の労働組合結成を進めていた。李雲洙は、朴台乙に、合法的な朝鮮語の新聞を作ることを提案し、賛同された。朴台乙は、職場や地域に根付いた合法的な革命運動・労働運動を考えていて、社会大衆党を含んだ統一戦線を目指すべきだと思っていた。

1935年、金天海は市ヶ谷刑務所から出所した。服役中に結核を患い、しばらくは病床に伏せていた。その後、李雲洙が訪ねてきて、金天海に合法的な朝鮮語の新聞を作ることを提案した。金天海は、李雲洙の提案に賛同した。同年11月初旬、横浜市井土ヶ谷の金天海の同志の家で、金天海、李雲洙、朴台乙ら5人は、朝鮮語新聞を通した再組織化の方針を決定した。新聞では、在日朝鮮人の身近な生活問題を採用して宣伝し、新聞に寄せられた要求を纏め上げて、運動を起こしていくことになった。

同年12月16日、合法的に「朝鮮新聞社」が設立された。「在日朝鮮人労働者の文化的向上を目指し、在日朝鮮人労働者に社会的・階級的・民族的自覚を喚起させること」を目的とした。社長兼編集局長に李雲洙、営業局長に朴台乙、資金と読者獲得と新聞を通じた支局の組織化担当に金天海が就任した。その後、編集局に金斗鐙が参加した。同年12月31日、『朝鮮新聞』創刊準備号が発行された。新聞では、発行、配布、集金、拡大を読者参加型にした。

その後、金天海は「愛国者金天海先生出獄歓迎会」を各地で開催してもらうように手配し、会を通じてオルグ活動を行なった。特高警察2人が必ず金天海に付いて、監視した。金天海は、神奈川県、静岡県、長野県、愛知県、岐阜県、京阪地方を回った。大阪で、金文準に、金が発行していた『民衆時報』と『朝鮮新聞』との合同を了承されたが、その後、金文準が病死し、合同は実現しなかった。『朝鮮新聞』は毎月2回の発行で、毎号4000部を発行した。

金天海は、名古屋市で朴広海と再会した。朴広海は、三信鉄道争議[5]を指導した後、名古屋合同労働組合に所属していた。

1935年7月、コミンテルン第7回大会で、「反ファシズム統一戦線路線」が採択された。1936年2月、野坂参三と山本懸蔵は連名で『日本共産主義者への手紙』を発表し、人民戦線樹立のための運動を訴えた。金天海は、人民戦線を実践しようと考えた。また、『朝鮮新聞』は、部落細胞を作り、全ての自主組織に働きかけをし、朝鮮人部落からの信頼を得ることを第1とし、セクト性の打破を実践することになった。『朝鮮新聞』は、東京に11支局、神奈川・長野・愛知・石川・富山・新潟・奈良の各県に10支局を開設し、静岡・岐阜・京都・大阪・兵庫・千葉・福島などにも読者組織を立ち上げた。

同年、朴広海は岐阜市で藤原巳二(本名は朴景順)とともに、岐阜市市議会議員の李相雲を、地酒の「白鹿」と牛肉を携えて訪ねた。李相雲は在日朝鮮人で、元々は在日朝鮮労総岐阜責任者だったが、転向して内鮮融和派となり、融和組織・正和会会長だった。朴広海は李相雲に、「正和会の名称を貸して欲しい」「正和会の名前で、高山線沿線に正和会の支部を作りたい」と頼んだ。李相雲は朴広海の頼みを了承した。朴広海は、高山線沿線の飯場や朝鮮人部落に、正和会加茂支部(120人参加)、正和会川辺分会(約80人参加)、正和会葛牧分会(約50人参加)、正和会丹生班(156人参加)などを作ると、夜学会を始めた。それから、朴広海、正和会支部を拠点にして、焼石の道路工事現場での労働条件改善闘争や川辺の首切り反対闘争、西白川村の水力発電工事現場での日常品販売価格減額闘争などを開始した。

同年5月、金天海は滋賀県大津市に入り、紡績工場でオルグ活動を行い、その後内鮮融和会に行き、内鮮融和会副会長が日本陸軍中将から額縁を貰ったことを糾弾した。また、盲腸炎を患い、大津市で説教カンパを得て大阪大学病院に入院。同年7月29日に手術を受けた。一方、同年7月10日、『朝鮮新聞』の中心メンバーが、「新聞を通じて共産主義を宣伝し、日本共産党の目的遂行のために活動した」として逮捕された。同年7月31日までに、李雲洙、朴台乙、金斗鐙が検挙された。

同年8月3日、大津市の内鮮新和会幹部に独立思想を説いたことを脅迫と見なされたこと、また、愛知県での「愛国者金天海先生出獄歓迎会」で講演した内容が警察にもれ、共産主義宣伝とされたことで逮捕された。同年12月5日、朝鮮人の人民戦線運動家が一斉に検挙された。朴広海と朴景順も、「合法組織を偽装して共産主義非合法グループを組織し、『朝鮮新聞』を通じて共産主義を宣伝した」として逮捕された。

1937年11月1日、金天海は起訴された。懲役4年の判決を受けて滋賀県の膳所刑務所に服役した後府中刑務所に移送され、独房生活を送った。その間、1941年3月に治安維持法が改正され、予防拘禁制度ができたことにより、共産主義から転向しない限り、刑務所から釈放されないことになった。金斗鐙は共産党から転向し出獄したが、金天海は転向を拒否した。

1942年9月、刑期が満了したが、共産主義からの転向を拒否していたため、予防拘禁制度により東京・豊多摩刑務所の東京予防拘禁所に送られた。このころ肺結核が悪化し、腸結核に進行していて、歩くこともできなかった。山辺健太郎が金天海を介抱した。

1944年12月、朝鮮総督府から創氏改名の通知が来た。金天海は司法大臣宛に抗議の手紙を出し、改名を拒否した。

戦後[編集]
1945年8月15日、日本が無条件降伏を受け入れると、金天海は面会に来た朝鮮人に金斗鎔と連絡をつけるように頼んだ。金斗鎔は金天海と面会した。金斗鎔は、朴恩哲、金正洪、宋性澈、曺喜俊らの在日朝鮮人とともに、日本人共産主義者に呼びかけて「政治犯釈放促進連盟」を結成した。金斗鐙が委員長となった。その後、思想検事が金天海の元に来て、治安維持法が廃止されていないことを理由に、予防拘禁を更新しようとしたが、金天海は、「日本の敗戦により自分はすでに独立国朝鮮の公民である」として思想検事を追い返し、即時釈放を要求した。

同年9月10日、在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)中央準備委員会が結成され、新宿角筈の朝鮮奨学会に、事務所を開いた。政治犯釈放促進連盟事務所も、朝連中央準備委員会事務所に置かれた。朝連中央準備委員会は、日本共産党の再建のための集会費、自動車代、印刷代などの費用を援助した。

同年10月10日、寺尾五郎が豊多摩刑務所から出所し、400人(多くが朝鮮人)が寺尾を出迎えた。寺尾ら400人は、数台のトラックに「歓迎・出獄戦士・万歳」と書かれた幕を貼り付け、トラックに分乗して府中刑務所に向かった。同日、徳田球一、黒木重徳、志賀義雄、金天海、山辺健太郎ら16人が、府中刑務所から出所した。寺尾ら400人が出迎えた。府中刑務所前で、徳田と志賀が挨拶し、天皇制の打倒と人民共和国樹立を目標とすることを宣言した。金天海は、「日本帝国主義と軍閥の撲滅」「天皇制の廃止」「労働者農民の政府樹立」「朝鮮の完全独立と民主政府の樹立」を訴えた。その後、出獄した政治犯は、アメリカ軍のトラックで、陸軍中野学校跡の兵舎に連行され、連合国軍最高司令官総司令部からの事情聴取を受けた。出獄歓迎の群衆2000人は、芝田村町の飛行会館で、「出獄同志歓迎人民大会」を開催し、新橋と銀座に出て、デモを行なった。

同年10月15日、日比谷公会堂で在日本朝鮮人連盟が結成され、日本各地から代表4000人が集まった。結成時の綱領は「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。金天海は、最高顧問に就いた。韓徳銖(後の在日本朝鮮人総連合会議長)は神奈川県本部委員長に就任した。同年11月、朴烈は秋田刑務所から出所した。その後、朴烈は新朝鮮建設同盟を結成し、後に在日本大韓民国居留民団(略称は民団。後の在日本大韓民国民団)の民団長になった。

同年11月16日、在日本朝鮮人連盟の左翼化に反対した在日朝鮮人の青年が集まり、朝鮮建国促進青年同盟(略称は建青)を結成した。町井久之(本名は鄭建永。後の東声会会長、東亜相互企業社長、釜関フェリー社長)は朝鮮建国促進青年同盟東京本部副委員長となった。 

1945年12月1日から3日まで、代々木の日本共産党本部で日本共産党第4回大会が開催された。金天海は中央委員に選出され、中核である7人の政治局員にも選ばれた。20人の中央委員候補には、金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(本名は李浩明)、宋性澈の4人の在日朝鮮人が含まれていた。後に、遠坂寛(本名は崔斗煥)も中央委員候補に入った。このときの共産党員は6847人(うち約1000人が在日朝鮮人)だった。党中央には朝鮮人部が設立され、金天海が部長に、金斗鎔が副部長になった。

1946年2月27日、永田町国民学校で、在日本朝鮮人連盟の第2回臨時全国大会が開催された。大会は「朝鮮人民共和国支持問題」で紛糾した。在日本朝鮮人連盟の右派は「共産主義者を在日本朝鮮人連盟から追い出せ」と書かれたビラをまいた。これを切っ掛けに、町井久之の建青ら右派と朝連の左派との乱闘となり、右派の鄭哲が左派の若者の腹部を銃撃した。

同年3月6日、在日朝鮮人連盟傘下の青年組織として、在日朝鮮民主青年同盟(略称は民青)が結成された。

同年夏、金天海は北海道旭川市の炭鉱近くの朝鮮人部落を訪れ、朝連への参加を呼びかけた。朝鮮人部落の全員が朝連への参加を決めた。同年7月19日深夜、金天海は、民青中央メンバーに「建青の若者は困った者だ。自分が説教して言い聞かせるから、連れて来い」と言った。民青中央メンバーは「拉致して、罵倒して暴行を加えて、懲らしめろ」と解釈した。民青メンバー約100人は、拳銃や日本刀や棍棒を持ち、トラック3台に乗って、六郷橋のアメリカ軍憲兵(MP)の検問を突破し、川崎市四谷建青支所に向かった。同年7月20日午前1時30分、MPの検問を突破した民青メンバー約100人は、川崎市四谷建青支所を襲撃した。その後、桜木町の朝鮮人住宅を襲い、建青幹部10人を拉致し、板橋の民青のアジトに連行し、暴行を加えた。同日、民青メンバーは建青本所支部を襲撃した。一方、同日、建青メンバーは、朝連荒川支部、朝連上野支部などを襲撃した。同年7月22日、MP司令部は警視庁警備課長と朝連の代表者と建青の代表者をMP司令部に呼び、抗争事件を再発させないように警告した。

同年7月、金天海は京都の会議に参加した。宿舎がなかったため、京都到着時に迎えに来てくれた在日朝鮮人の労働運動家宅に泊まることになったが、労働運動家が玄関先で「私の妻は日本人ですが」と言うと、金天海は家には入らずに野宿した。

同年10月3日、朝連の左翼化に反対するメンバーが、在日本朝鮮居留民を結成した。

同年12月20日、皇居前広場で、朝連主催の生活権擁護人民大会中央大会が開催され、1万人を超える人が参加した。デモ隊の一部が首相官邸に乱入し、警官隊と乱闘になった。警官隊は拳銃2丁と実弾10発を奪われた。武装警官とMPが出動し、デモ隊に向けて銃弾4発を発砲して、デモ隊を鎮圧した。警官隊の重軽傷者は24人。15人の在日朝鮮人がMPに連行された。

1947年10月、ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。1948年1月24日、日本政府は、各都道府県知事に、朝鮮学校の閉鎖と在日朝鮮人生徒の日本学校への転入を通達した(朝鮮学校閉鎖令)。これを切っ掛けに阪神教育事件が勃発した。

詳細は「阪神教育事件」を参照

同年8月15日、東京・皇居前広場で、朝連と日本共産党は生活防衛・反ファッショ人民大会を共同で開催した。金天海は、民族教育闘争や不当弾圧反対闘争のアジテーションを行った。

同年秋、朴烈、建青幹部・李孝燮らは金天海の暗殺を計画した。

同年11月、金斗鎔は北朝鮮に密航した。1949年1月、李孝變が暗殺された。同月、朴烈は、若手アナキストによって、民団長を辞任させられた。

このころ、金天海は金恩順と内縁関係にあった。金恩順は後に朝連婦人部二代目部長となり、在日本朝鮮民主女性同盟(略称は女同)の初代委員長となった。

同年4月4日、団体等規制令が発布された。同年5月31日、行政機関職員定員法が発布され、日本国有鉄道などで人員整理が敢行された。同年6月9日、国鉄労働組合東神奈川分会は、国鉄の人民管理を決議し、朝連の支援を受けて、労働者管理の人民電車を走らせた。

同年6月24日、南北労働党が合併して、朝鮮労働党が設立された。同年6月25日、平壌で祖国統一民主主義戦線(略称は祖国戦線)が結成された。韓徳銖は祖国統一民主主義戦線創立大会で在日朝鮮人代表として中央委員に選出された。

同年6月30日、福島県平で、平事件が勃発した。

同年9月8日、団体等規制令により、在日本朝鮮人連盟に解散命令が下され、金天海、韓徳銖、曺喜俊ら19人の朝連幹部は公職追放となった。同日、在日本朝鮮民主青年同盟、在日本大韓民国居留民団宮城県本部、大韓民国建国青年同盟塩釜支部も解散させられた。民青では9人が公職追放となった。

同年9月16日、日本共産党は党本部にて在日本朝鮮人連盟などの団体等規制令による解散に対する緊急対策会議を開催、翌17日には2日間に渡り在日本朝鮮人連盟などの団体等規制令による解散に対する日本共産党朝鮮人部拡大全国会議を開催した。会議の冒頭では金日成のメッセージが朗読された。金天海らはGHQと法務省に抗議をおこない、朝連などの解散撤回と公職追放撤回を求めたが却下された。金天海はこのころ、共産党幹部・長谷川浩と同幹部・岡田文吉と常時連絡を取っていた。

同年12月初旬、朴恩哲が日本共産党朝鮮人部に代わって、新たに日本共産党民族対策本部(略称は民対)を組織した。韓徳銖は民対の指導メンバーになったが、朴恩哲体制が確立すると、韓徳銖は反朴恩哲グループを形成した。

朝鮮にもどる[編集]
1950年6月10日、金天海は金桂淡とともに、香住丸で鳥取県境港から大韓民国釜山に密航した。金天海は日本共産党中央委員のポスト後継者に韓徳銖を指名した。同年6月15日、金天海は北朝鮮に密航した。朝鮮戦争が勃発した6月25日、朴烈は、韓国の郊外の料亭で開いた宴会の最中、北朝鮮軍の特殊部隊によって北朝鮮に拉致された。

1951年11月、朝鮮労働党第2回大会で、金天海は労働党中央委員・社会部長に就任した。12月10日、日本へのラジオ演説を開始した。1952年5月2日、日本向けラジオで「在日同胞に訴う」を演説した。

朝鮮戦争休戦後の1955年7月8日、金天海は平壌放送で在日朝鮮人に向けて「8・15解放10周年を祝おう」と訴えた。1956年1月27日、祖国戦線議長として「在日朝鮮公民の帰国と大村収容所の釈放問題は正当に解決されるべき」との声明を発表した。

1957年1月1日、朝鮮総連に激励の辞を送った。同年11月18日、祖国戦線第2回大会で議長団に選出された。1958年、金日成から労働勲章を受けた。1960年8月13日、「8.15朝鮮解放15周年慶祝訪朝日朝協会使節団」を平壌の飛行場で出迎えた[6]。1961年、金恩順が北朝鮮に帰国した後、子宮癌で死去すると、金天海は金恩順の葬儀に参列した。

1970年の労働党第5回大会で金天海の名前が中央委員名簿から消えた。以後、金天海の消息は途絶えた。アムネスティー・インターナショナルが発表した勝湖里(平壌市勝湖区域にある)強制収容所の収容者名簿に載ったと伝えられている[7]。

脚注[編集]
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1.^ 1971年死亡説が書かれているが確な情報はない[樋口2014:133]
2.^ 。樋口[2014:11]
3.^ 朝鮮人学生として信用してもらう狙いがあった
4.^ 大正10年(1921年)、東京で、在日朝鮮人留学生が、日本人社会主義者や無政府主義者の協力を得て、思想団体・黒濤会を組織した。その後、黒濤会は、共産主義系の金若水(本名は金科全)のグループと無政府主義系の朴烈(本名は朴準植)のグループに分裂した
5.^ 1930年、五月女組は、愛知県北設楽郡三輪村川合から長岡までの約7kmの三信鉄道工事を落札した。
朝鮮人労働者には賃金が滞りがちとなった。
同年7月26日、朝鮮人労働者は、山中の桑畑に、砦を築いた。砦の前には川が流れていた。砦には、投石用の石やダイナマイトが運び込まれた
同年7月29日、約600人の朝鮮人労働者が争議団を結成し、五月女組に「未払い賃金の即時支払い」「工事中での負傷者への治療費と日当の支払い」を求めて、ストライキに入った。
新潟朝鮮労働組合は、朴広海を派遣して、ストライキの指導を任せ、争議団統制部長に据えた。高根光泰は、食料や雑貨を五月女組に納入していたが、朴広海に「ストライキで勝ったら、優先して自分のところに、売掛金8万円を払って欲しい」と申し出た。
朴広海は、高根に、米350表と味噌と醤油を朝鮮人争議団に用意するように提案し、「ストライキに勝てば16万円を支払う」と返答した。高根は、了解し、米と味噌と醤油を運び込んだ。
朴は、五月女組についていた朝鮮人監督らを花札に誘い、争議団の若者に朝鮮人監督と喧嘩をさせた。
高根の若衆が喧嘩を止めている隙に、朴は米と味噌と醤油を高根から奪い、朝鮮人争議団の砦に運んだ。
砦では、半鐘やマキビシ、パンク針が作られていた。朴は、川の橋に、行動隊を配置し、ダイナマイトを持たせた。朴は、国道入り口にあった天然記念物の杉の木に、「三信鉄道争議団」と書かれた赤旗を掲げた。
同年7月30日、浜松市の航空隊が、争議団の砦を偵察した。
同年7月31日午前4時30分、消防団や自警団や警察のトラック12台と警察官200人から300人ほどが、争議団の砦に到着した。
朝鮮人争議団組織部長・金明植は、消防団と自警団に対して、「五月女組の賃金未払いで、地元から納入した野菜代金4万円を支払えない。ストライキに勝てば、4万円を支払えるが、負ければ野菜代は支払えない。争議に干渉しないで欲しい」と訴えた。消防団と自警団は撤退した。が、警官隊は、砦に突っ込み、朝鮮人争議団と乱闘となった。
金奉達が警官にサーベルで斬られた。争議団は警官隊を追い返し、警察官18人を捕虜とした。争議団は、捕虜の警察官18人を裸にして、砦から追い出した。朝鮮人争議団は、地元農民と協力して、国道を封鎖し、砦で自給自足の生活を行なった。
同年8月25日、警官隊1200人が朝鮮人争議団の砦を制圧し、朝鮮人300人を川合小学校に検束した
6.^ 関貴星『楽園の夢破れて―北朝鮮の真相』全貌社、1962年
7.^ 李洋秀「凍土の北朝鮮に殺到した在日朝鮮人」、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会『生命と人権』第4巻p.67

エピソード・人物[編集]
オルグは得意だったが、大衆を前にした演説は苦手だった。

参考文献[編集]
宮崎学『不逞者』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4-87728-734-5
樋口雄一『金天海 在日朝鮮人社会運動家の生涯』 2014年 社会評論社 ISBN 978-4-7845-1205-8
  1. 2015/09/07(月) 02:12:40|
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東京選挙区候補山添拓

古本屋通信     No 1598  9月06日

  参院東京選挙区候補・山添拓



    書こう書こうと思いながら、つい先延ばしになっていた件。
  参院選東京選挙区候補(日本共産党)のこと
 これは地方にいると殆んど情報が入ってこない。党中央の予定候補の頁にも、比例区(第1次)は掲載されているが、選挙区候補は一人も載っていない。しかし各都道府県で随時決定・発表されている。今は必勝区だとか重点区を決める段階ではないから掲載されていないのだろう。で、東京と大阪と京都に注目するわけだが、今回は東京である。




 参院東京選挙区 山添拓氏を擁立

日本共産党東京都委員会は5日、2016年参院選東京選挙区候補に、弁護士の山添拓氏(30)=新=を擁立すると発表しました。
都庁で開いた記者会見で山添氏は、国民大多数の声を無視して戦争法案を強行しようとする安倍政権に、若い世代を中心に大きな反対の声が上がっていると紹介。弁護士として労働者の権利を守るために取り組んできた活動にふれ、派遣法や労働基準法の改悪をねらう安倍政権の動きを批判し「安倍暴走政治を止めることが求められている。若い世代の声を届けて、憲法をくらしにいかす政治の先頭に立ちたい」と決意を表明しました。
若林義春都委員長は山添氏について「2007年に東京の学生が憲法9条を守る運動を立ち上げた時ににリーダーとして活躍。憲法と平和、民主主義を守る若手弁護士の運動の中心を担ってきた。憲法と民主主義を踏みにじる暴走を続ける安倍政権に厳しい審判を下すために、もっともふさわしい」と紹介しました。そのうえで、東京では比例選挙で110万票を獲得し、田村智子参院議員ら比例候補の全員当選と、選挙区で山添氏を押し上げたいと述べました。
会見には、田村参院議員と笠井亮衆院議員が同席しました。
▽山添氏の略歴 京都府出身。東京大学法学部卒。早稲田大学大学院法務研究科修了。(「しんぶん赤旗」2015年8月6日付より)



  古本屋通信

 最初に人選を見たときは我が目を疑った。無名の新人で弱冠30歳ではないか、党は東京を投げたのではないかと。そんな筈はなかった。やはりこの候補で勝つ積りなのだ。勝てると踏んでいるのだ。まあ、新しい国会議員の誕生だ。恐れ入った。ここは3年まえに吉良がブームを起こして当選した選挙区だ。もともと野坂参三いらい上田耕一郎が引き継いできた必勝選挙区である。最近では田村智子や小池晃が落選してミソを付けたが、吉良が挽回した。今回は定員が一人増えた。まあ勝てるだろう。

 候補者の山添拓についての詳細は省略する。関連して思い付いた感想。最近の衆院選東京で連続2回候補を務めた(選挙区と比例の重複立候補だった)大田朝子の連れ合いだ。大田もよかった(東京の選挙候補者の女はみんないい顔をしている。田村、吉良、池内、坂井和歌子、そして大田朝子)が、その連れ合いも「一級品」なのだろう。党機関の職員ではなく弁護士だから、落選したら弁護士に戻れるが、そういうケースはなかろう。大田が学生時代からの仲間だと書いている。この場合の仲間は党の同志だという意味だろう。そして東大法学部卒だ。大田はたしか都立大(現首都大)理学部卒だったな。ついに東大法学部卒が出た。やれやれ、ついに出たという感じだ。むかしには松本善明(いまボケて手も付けられなくなっているみたい)や正森成二がいたけれど、私は評価しなかった。かれらは所詮弁護士だった。議員はソコソコ務まったけれど、党の幹部には向いていなかった。山添は全く未知数だけれど、将来は坂井希や宮本徹のポストを脅かすかも知れない。学歴を馬鹿にしてはいけない。坂井希と宮本徹は東大教育学部卒である。あっ、東京都委員長の若林義春も東大教育卒だったな。若林は評判わるいなあ。この男も一度選挙に出たけれど惨敗だった記憶がある。しかし最近はけっこう当選議員を出している。常幹に復帰するかもしれない。
  1. 2015/09/06(日) 01:34:41|
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暴走する自衛隊

古本屋通信     No 1597  9月04日

 シビリアンコントロールが効かず暴走する自衛隊。自衛隊は日本の軍隊ではなく、アメリカの軍隊である。

シビリアンコントロール 政府の文民の指揮のもとに職業軍人である軍隊の最高指揮官が置かれなければならないという近代国家の原則。軍隊の政治への介入から民主政治を守るために唱えられる。文民統制。

 以下は今日の赤旗の記事である。理屈は既に十分書きつくしたから、共産党に追い討ちは掛けない。現党綱領の下でもやれることをとりあえずやれ。統幕長の国会招致を支持する。頑張れ、日本共産党。



 事実と責任究明は法案審議に不可欠
 自衛隊の内部文書問題 志位委員長が会見
 
統幕長の国会招致を

 日本共産党の志位和夫委員長は3日、国会内で記者会見し、仁比聡平参院議員が2日の参院安保法制特別委員会で暴露した統合幕僚監部の新たな内部文書について、「米軍指揮下での自衛隊の暴走の姿が会談録という形で生々しく明らかになった」として、「この問題の事実解明と責任究明は法案審議にとって避けて通れない問題だ」と述べました。
(写真)記者会見する志位和夫委員長=3日、国会内
 新たな内部文書は、自衛隊トップの河野克俊(かわのかつとし)統合幕僚長が総選挙直後の昨年末に訪米した際、米軍幹部との会談を記録したものです。
 志位氏は、河野統幕長が戦争法案を「来年夏までに」成立すると約束したり、翁長雄志沖縄県知事が誕生した後でも辺野古新基地建設を「強力に推進する」と表明していたことなどをあげ、「公務員の政治的中立性をわきまえずに暴走している」と指摘。「これを首相、防衛相が知っていたなら、政府ぐるみで国会をあざむき、米軍と約束を取りかわしたことになる。知らなかったとすれば、自衛隊の暴走で、まったくシビリアンコントロール(文民統制)がきいていない、指揮監督責任を果たしていないことになる。どちらにせよ大問題だ」と強調しました。
 志位氏は、新たな内部文書の確認とともに河野統幕長を国会招致するよう主張。「この問題の事実と責任究明をすることは法案審議に不可欠だ」と述べました。
  1. 2015/09/04(金) 11:06:56|
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三浦つとむとデボーリン

古本屋通信     No 1595  9月04日

   三浦つとむ デボーリン


  投稿者のデボーリン氏の名前のデボーリンは、私にとっては戦前の哲学雑誌 『唯物論研究』 を連想するものであり、とりわけ 「デボーリン批判」 と結びついて永田広志を想起させるものであった。ながいあいだ哲学にごぶさたしていたので、グーグルに 「デボーリン 永田広志」 と入れてみた。そしたら永田は現われず、三浦つとむが出てしまった。仕方がないから三浦を貼っておく。私も何冊かは読んでいる。正直よく分からない。元東大民青さんと共産党和歌山県議氏の愛読書だったと記憶している。私ももう一度読んでみようと思ってコピーした(古本屋通信)。




三浦つとむ選集2 『レーニン批判の時代』
勁草書房 1983年6月3日

*ゴシックはボールドで表した。

序論 レーニンのヘーゲル的偏向とその影響
 レーニン真理論の批判

 ソ連の第一次五ヵ年計画の成功が、マルクス主義者にとってどんなに感激的であったか、その理論の正しさを確信づけるものであったか、これはその時代にあって自ら体験しないかぎり想像することはむずかしいと思う。川上肇もまたその一人であって、その感激と確信は『第二貧乏物語』にも伝えられている。これはまた、当時のソ連の指導者たちに対する大きな信頼ともなった。スターリンに対する信頼や、スターリンとともにマルクス主義の前進のために努力するソ連の学者たちに対する信頼が、これによって高められることになった。

 しかしながら私としては、その感激と確信と同時にソ連のマルクス主義に対する疑いがつねにつきまとっていて、これが次第に具体化していったのである。それは私が探偵小説の愛読者であったために、万人が疑いを持たぬものを疑ってかかるという習慣をもっていたことも無関係ではないが、どうしても疑わずにはいられないような事実がつきつけられていたのである。その第一は、モンタアジュ論であった。これは映画理論として、さらには芸術についての基礎的な理論として、ソ連の映画作家たちがつくり出したものであり、それこそ世界を震撼させた理論であった。この中ではマルクス=エンゲルスがひきあいに出され、弁証法が論じられていて、唯物弁証法を適用した映画理論であり芸術理論であると名のっていた。だが、芸術に理論的な関心をもって検討していた私にとって、この理論が現象に目のくらんだ逆立ち理論であることは疑う余地がなかったのである。それにもかかわらず、マルクス主義から足をすべらしたときはたちまちきびしい批判をあびるはずのソ連において、このマルクス主義と無縁なことがあまりにも明瞭なモンタアジュ論が何ら批判の対象になっていないのはなぜか? 経済学や哲学のように、マルクスやレーニンがすでに確立した理論の分野ならばきびしい批判がなされるが、確立していない理論の分野ではこんな逆立ち理論さえ批判できないのはなぜか? こう考えていくと、ソ連の学者たちには自分の頭で理論を検討しあやまりを発見する能力が欠けているという結論にならないわけにはいかなかった。

 その第二は、第一とつながることだが、学者たちが執筆し権威あるものとして出版された教科書が、批判をあびて書き変えられるという事実であった。個人の著書とか新しい分野の研究論文とかならば、大きな欠陥があるとかあやまっているとか批判をあびても、それはうなずけることである。そうではなくて、唯物弁証法とかマルクス経済学などについての教科書が多くの学者によって集団の労作として書かれる場合には、、すでにたよるべき権威ある論文もたくさんあるし共同討議も十分に行なったうえで執筆されるのであるから、完成したものがまわりから批判の雨をあびて絶版にしなければならなくなるなどということは常識的にみて考えられない。それにもかかわらず、絶版にして書き直すという事実がしばしば起るのである。もし故意に内容をゆがめるのであれば、これはまた別の話だが、そうでないなら、マルクス主義の権威ある文献さえも正しく理解できないような、低いレベルの学者たちしかいないのだ、という以外に説明のしようがないのである。

 以上の二つの事実は、学者たちに対する粛正についても疑いを持たせることになった。おそらく学者たちは、善意で努力したにもかかわらず、能力不足で理論的に足をふみすべらしたのではなかったか? それを批判する人たちも、なぜ彼らがそのようなあやまりにおちいったかを理論的に分析し、批判する能力を持たないために、故意にあやまった理論を流布し混乱におとしいれたものだと解釈して、敵のスパイとか反革命分子だとかいう結論に持っていったのではなかったか? と私は疑ったわけである。

 さて、一九二九年十二月にマルクス主義農業家会議の席上でスターリンは演説を行い、理論戦線の現状はまったく不満であって理論が実践の要求にこたえていない事実を痛烈に批判した。ここから、一方では「プロレタリア文学におけるレーニン主義のための闘争」として「ラップ」(ロシアプロレタリア作家同盟)の指導者たちとその指導理論を批判するカンパニアが起り、他方では「哲学におけるレーニン的段階」のための闘争として、哲学において指導的な立場にあったデボーリンたちのグループとその理論を批判するカンパニアが起った。現実が要求している理論をつくり出さなかったではないかといわれた場合、講壇マルクス主義哲学者たちが一言もないことは当時も現在も変りがないわけで、なぜこんな立ちおくれがあらわれたのかその原因をさぐって批判し自己批判しなければならないのだが、それが「修正主義者」や「反党分子」のせいにされることも当時も現在も変りがない。ただソ連の場合には、指導的な立場にある哲学者の責任が問われ、彼の仕事のしかたや理論の中にその原因がさぐられることになり、ちょうどデボーリンがその立場にあったために、彼とその周囲の人たちの「偏向の克服」ということになったのである。このデボーリン主義批判を通じて、ミーチンが指導的な立場についた。ミーチンはデボーリン主義批判をまとめたいくつかの報告を行っており、日本でも訳されている。私は一九三一年四月に戦闘的唯物弁証法論者協会全連邦会議でミーチンの行った報告を、『マルクス主義の旗の下に』の日本版で読んだのだが、それは十分に説得的ではなかった。あとでのべるように、そこにはいくつかひっかかるものがあった。前記の第一と第二の事実から、別にミーチンの能力を評価していたわけでもなかったし、彼の主張のなかのいくつかの疑問は戦後の私のスターリン批判やレーニン批判につながっているのである。
 
 「ラップ」批判のカンパニアと「デボーリン主義」批判のカンパニアとの間には、理論的なつながりがある。ミーチンにいわせればつぎのようになっている。

「ロシアプロレタリア作家同盟の個々の代表者の間にも、またこの同盟の指導的活動家の間にも、幾多の折衷主義的誤謬の累積があり、『熟した果実』を諸々方々から借入れているといわねばならぬ。デボーリン一派が理論的領域に供したもの、いわゆる哲学的指導部が供したものは、いうまでもなく、理論戦線のこの分野にも影響を及ぼさざるをえなかった。この分野には、非常に大きな任務、デボーリン=プレハーノフの遺産を批判し、その誤謬を批判するという任務があり、同様にあらゆる事業を十分に高い理論水準に引き上げるという任務がある。」

 理論が実践の要求にこたえていないのは、理論家たちに責任があるのはたしかだが、その原因は彼らが「プレハーノフの遺産」のとりこになっているからだ、なぜならばプレハーノフはメンシェヴィキでその属している第二インターナショナルは理論と実践とが分離していたではないか、――こういう論理がカンパニア全体をつらぬいていたのである。『ラップ』批判のカンパニアは、蔵原惟人はじめ芸術理論家たちがうのみにした、悪名高い「唯物弁証法的創作方法」なるものは「トロツキスト的反革命家」アウエルバッハが反革命工作のために唱えたものであるかのようにいいふらして来た。だがこの創作方法は、科学と芸術とを同列におくベリンスキイ的発想から必然的に出て来たものである。デボーリン主義批判のカンパニアも、永田広志・古在由重その他哲学者たちがうのみにして、ミーチンと同じようにレーニンの『哲学ノート』を神聖化して来た。だがわれわれはミーチンの主張をも再検討しなければならない。

 周知のように、毛沢東の『実践論』『矛盾論』は、ソ連におけるデボーリン主義批判の「成果」をふまえ、「哲学におけるレーニン的段階」において展開されたものである。ところが中島嶺雄は『現代中国論』において、毛沢東の哲学的著作が一九三一年に出版されたシロコフ=アイゼンベルグの教程にもとづいている点を指摘しながら、ここでのべられている「ミーチン哲学がスターリン主義の哲学であることはいうまでもない」と、論証ぬきでもはや自明のこととであるかのようにのべている。なぜ「いうまでもない」のかといえば、それは哲学者山田宗睦の主張であり中島の接している代々木構改派の人たちがそう思いこんでいるからであろう。それでは、なぜ山田がミーチンの主張を「スターリン主義の哲学」だと言ったのだろうか? それは山田のかついでいる加藤正がミーチンの批判者だったところからはじまっている。山田は、加藤がスターリン主義の哲学の批判者としてトップを切ったかのようにまつりあげるのだが、それにはミーチン哲学すなわちスターリン主義の哲学でミーチン批判すなわちスターリン批判だという規定を必要としたのである。つまり山田は、スターリン批判の時流に乗って加藤の論文や自分の解説文を売るために、加藤のミーチン批判を誇張してこのような虚構をつくり出したのだが、中島はそれを見ぬけないでうのみにしたというわけである。

 たしかに、一九三八年にスターリンが「弁証法的唯物論と史的唯物論」を書いてのちはミーチンもスターリン哲学の礼讃者になって、レーニンよりもさらにスターリンが前進したと言っている。しかしこのことは、一九三〇~一年ごろのミーチンの主張や教程のたぐいがスターリン主義の哲学だったことを意味するものではない。前記のように一九三〇年にはじまった理論戦線でのカンパニアは、レーニン主義のための闘争であり、プレハーノフの遺産の排除とレーニンの遺産の神聖化によってつらぬかれていたのである。『ラップ』の理論家たちは「正統プレハーノフ主義のために」というスローガンをかかげたことやプレハーノフの美学や文学批評を支持したことを非難され、デボーリン一派はマルクス主義哲学の根本問題においてプレハーノフとレーニンとの間にちがいはないと言ったことを非難されているのである。ミーチン哲学は山田や中島の考えているようにスターリン主義の哲学ではなくて、レーニン哲学であった。加藤はたしかにミーチンを批判したのだが、このレーニン哲学を批判しなかったばかりでなく、ミーチンに輪をかけて礼讃したのである。デボーリン主義批判は、スターリンの理論戦線批判に端を発したという意味で、スターリンとかかわり合いはあるのだが、スターリン主義の哲学なるものがデボーリンの理論にとって代わったわけではない。

 スターリンはデボーリン主義を「資格」づける人間として、カンパニアの途中にも登場する。ミーチンの報告はつぎのようにのべている。

「全討論の決定的な段階は、哲学および自然科学赤色教授学院細胞ビューローとの会談における同志スターリンの言明であった。同志スターリンが与えたその言明と指令とは討論を新たな高所に引き上げた。すべての問題が明らかとなり、明確に提起されてから、まず第一に、デボーリン一派の見解がメンシェヴィキ化しつつある観念論として資格づけられることになった。……同志スターリンとの対話はこの討論を現在の水準にまで高め、デボーリン一派を決定的に特徴づけた。」

 私はこれを読んで、デボーリン主義に対する態度がスターリンのイニシアティヴによってなされたことを知ったのだが、ここにひっかかるものを感じないわけにはいかなかった。なぜならば、デボーリンたちがマルクス主義から観念論へと足をすべらしたというのなら、そのすべらかしかたは哲学的なものであるから哲学的な特徴づけを与えてしかるべきであろう。事実「ヘーゲル主義的修正」という特徴づけが与えられているのである。スターリンの演説の批判にこたえようとする学者たちが、スターリンと会談してその意見を聞こうとするのはその当時として当然であろうし、学者たちが十分な能力のないにもかかわらず指導的な立場にいるデボーリンの理論を検討しようというのだから、スターリンの片言隻句がそのまま「決定的に特徴づける」結果になったであろうことも理解できる。しかしスターリンが哲学上の権威だという話は聞いたことがないし、専門的な論文もないらしい。デボーリンがプレハーノフを過大評価したとしても、それは唯物論者としてのプレハーノフであってメンシェヴィキとしてのプレハーノフではない。それにもかかわらず「メンシェヴィキ化しつつある」という政治的な傾向を特徴とする党派の名前をかぶせたのは、政治家スターリンの行きすぎた規定で政治主義のあやまりではないかと感じたのである。このことは、戦後になってスターリンが『ソ連共産党史』の中に哲学的な論文を書いたと聞かされ、それを見せられたときに、他のマルクス主義者のように神聖視してかかる気もちになれなかったことと、無関係ではない。

 ところでデボーリン主義批判においては、デボーリン主義なるものはつぎのように特徴づけられていたのである。デボーリン主義を再検討しようとする人たちは、これらの特徴づけが果して正統であるか否かについて自分の答を出さなければならないのである。

「一、理論の党派性の無理解。哲学におけるレーニン主義的段階の否定。
 二、唯物弁証法のヘーゲル主義的修正。
 三、弁証法と認識論とを対置すること、および弁証法の革命的本質の歪曲。
 四、メンシェヴィキ的=トロツキー主義的階級闘争観、機械論との合流。」(古在由重編『哲学講座第四巻、ソヴェト哲学の発展』)

 デボーリン主義者といわれる人たちが、いろいろあやまった主張をのべたことはたしかであるが、それがミーチンの解釈するようなものであったかどうか、それは問題だといわなければならない。それと同時に、ミーチンのこれこそ正しい理論だとふりかざしているものの中にも、あやまりがなかったかどうか、それも問題だといわなければならない。まず第一にあげられている「哲学におけるレーニン的段階」なるものについて、果してミーチンのいうように「哲学におけるレーニン主義はマルクス主義の哲学の発展における新しい最高の段階である。」か否か、レーニンの主張から検討してみる必要がある。もちろん、レーニンが個別科学としてのマルクス主義を前進させ豊富にしたことは疑いないし、高く評価しなければならないが、これが同時に哲学的な発展であるかどうかは吟味してみてからのことで、即断するわけにはいかない。現に、個別科学者としてすぐれた業績をあげている人たちが、哲学においては不可知論や観念論におちいっていることを、レーニン自身指摘しているからである。ミーチンは「レーニンの労作のような著しく新しい内容が――唯物弁証法そのものの発展、具体化、深化なしにありうるだろうか?」と、勝手にきめてしまっているが、私はこの点に疑いを持った。ミーチンはデボーリンが「哲学におけるレーニン的段階」を無視し否認していると非難したが、私はミーチンとは逆の意味で、デボーリンに異議を持っていたのである。
 
 一九二五年にレーニンの『唯物論と経験批判論』のドイツ語版が出版されたとき、デボーリンはこの本の成立のいきさつをのべた長い序文をつけた。これもデボーリン批判において、レーニンを低めプレハーノフを不当に評価するものとして抹殺されてしまったのだが、佐野文夫の訳した戦前の岩波文庫版(一九三〇年刊)にはこれがついていた。デボーリンはここで一九〇八年にレーニンがゴリキイに送った手紙を引用しているのだが、私はこの手紙の全訳を持っていたのでそれと引用文とを比較してみたところ、奇妙なことに気がついたのである。レーニンは「私は哲学の上では単純な一マルクス主義者にすぎないだろう」とか「哲学はよく読んでいません」とか書いているのに、デボーリンはそれらのことばの直前のところでいつも引用を打ち切っている。これらのことばがレーニンの神聖さを傷つけることを考慮して、処置したものであることは疑いない。したがってデボーリンはレーニンの哲学的な業績を無視し否定するどころか、反対に哲学的な未熟を隠蔽したということになる。デボーリン的なやりかたではまだまだレーニンの神聖化が足りないと、ミーチンが叱責しているのだということにもなる。永田広志は当時ミーチンの尻馬に乗って論文を書いていたが、彼の『唯物論と経験批判論』の訳本では、「人類の唯物論史の最高に位置」するものだという、これまた尻馬がのべてあった。私はこの本にレーニンの哲学的な未熟を、マルクス=エンゲルスの真理論からの後退を読みとっていただけに、永田の讃辞には不愉快な感じしかしなかった。

 周知のように『唯物論と経験批判論』には付録としてレーニンの『哲学ノート』の断片「弁証法の問題によせて」がついている。そこにはこうしるしてある。

「弁証法はまさに(ヘーゲルの、そしてまた)マルクス主義の認識論である。まさしく事がらのこの側面(ここでは『側面』ではなくてむしろ事がらの本質なのだ)に、プレハーノフは注意をよせなかった。他のマルクス主義者については言うまでもない。」(強調は原文)

 私はこれにひっかかるものを感じた。さらに『哲学ノート』を読むと、「ヘーゲル弁証法のプラン」という断片にこう記してある。

「論理学、弁証法、および認識論(三つの詞はいらない。それは同じものだ。)」

 これは前の記述と相通じるものであるが、私はこれにもひっかかるものを感じた。

 私がひっかかったのは二つの理由からである。第一に、エンゲルスは『反デューリング論』で弁証法について論じているが、「弁証法とは、自然・人間社会および思惟の一般的な運動=発展法則に関する科学以上のものではない」といい、さらに「個々の特殊過程の特殊性のことは考慮していない」と明言している。そうだとすれば、弁証法は思惟すなわち認識についても論じるにはちがいないが、それは自然や社会と共通した認識の論理について論じるにとどまるのであって、それ以上に出るわけではない。認識の持つ特殊過程の特殊な法則のことは考慮の外におくわけである。しかしながら、これを果して認識論といいうるであろうか。なるほど特殊と一般とは不可分であるにはちがいない。認識論の建設も弁証法に助けられ弁証法を導きの糸としてはじめて可能であるにはちがいない。だがこのことは、弁証法イクオール認識論であるということを何ら意味するものではない。エンゲルスならば、それは一般と特殊とを混同するものだ、と批判するにちがいないのである。

 第二に、私は芸術論・言語論をやっていたのだが、これらは人間の認識の全体的ありかたとかかわっているのだから、これらを科学として確立するにはどうしても具体的な認識のありかたを理論的に解明しなければならない。それすらまだほとんどなされていない状態である。芸術では、フィクションの世界の創造や、認識のありかたのかたちや音による表現などの問題があるし、言語では語法・文法など規範の問題があるが、これらはいずれも認識の特殊なありかたであるから、認識論はこれらの解明をもふくんだ個別科学として展開されなければならないと考えられた。この私の認識論に対する考えかたは、弁証法イクオール認識論だというレーニンの主張とはあまりにもへだたりがありすぎたのである。そこでさらに思ったことは、ソ連の芸術論がリアリズムについての一般的な規定を論じるだけですこしも具体的な創作方法を論じない事実や、マルクス主義言語理論が体系として展開されていない事実であった。これらは、弁証法イクオール認識論だという主張によって、間接的に足をひっぱられているのではないかとさえ、思われたのである。
 
 戦後主体性論争の中で、田中吉六がレーニンの「論理学、弁証法、認識論の同一性」をとりあげたとき、私もふたたびデボーリン批判の時代に立ちかえってこれを検討してみた。そのとき気がついたことは、第一にデボーリンの罪状の一つとしてあげられていた「弁証法と認識論とを対置すること」は実はデボーリンのほうが相対的に正しかったのであって、ミーチンがレーニンのことばをふりかざして正しい主張を押しつぶしたのだという点である。すなわち、デボーリンが弁証法を「一般的な理論」だといったことそれ自体は、エンゲルスも指摘しているように正当なのであるが、これが「弁証法の理論からあらゆる具体的な物質的内容を観念論的に去勢する」ものだとか、「まったく経験の一分子をふくまず、抽象的で『一般的な』、具体的なもの特殊なもの個別的なものから引きはなされた、思考の範疇」で「形式と内容の分離」「弁証法と認識論との観念論的な分離」だとか非難されたのである。第二にレーニンが「弁証法はまさに(ヘーゲルの、そしてまた)マルクス主義の認識論である」と言ったのは、ヘーゲル論理学を読んでヘーゲルにいかれたためだという点である。弁証法はヘーゲルの認識論である、が、マルクス主義の認識論ではない。にもかかわらずレーニンは、ヘーゲルを検討して前者を認めただけでなく、それをただちにマルクス主義へ持ちこんで、マルクス主義にとってもやはり認識論であるという、あやまった結論へ足をすべらせたのである。ところが私がこのことを知ったころ、突如としてスターリンが言語論文を発表したために、私はそれまで言語学について発言して来たマルクス主義者として、自分の見解を発表しスターリン理論をその根底から批判しなければならぬ立場におかれることになった。このスターリン批判がいれられなかったために、レーニンに対する批判はスターリン批判が一段落したのちに延期しなければならなかったし、それもまず国家論の誤謬の批判からはじめることになった。こうしてレーニンの『哲学ノート』の批判は、雑誌『現代思想』(一九六一年六月号)に書いた「弁証法とは何か」で公にされたわけである。

 私は右の論文のなかで、レーニンの主張は「ヘーゲル的偏向の端的な告白にすぎない』と指摘しておいた。それをかいつまんでくりかえして説明するとこういうわけである。ヘーゲルにとって、現実的な世界は絶対精神が自らを「外化」したものにすぎない。いいかえるならば、物質的な世界は精神がそのかたちを変えたものでしかないから自然も人間社会も思惟もすべて本質的に同じもの、すなわち精神である。つまり万物は認識のありかたである。「ヘーゲルにあっては、その弁証法は精神の自己発展なのである。」(『フォイエルバッハ論』)それゆえに、絶対精神のありかたすなわち弁証法、認識のありかたすなわち弁証法であって、弁証法について論じることはとりもなおさず認識について論じることを意味している。論理学は万物をつらぬく論理を論じるのであるから、万物すなわち認識のありかただとするヘーゲルにあっては、論理学も認識のありかたについての論理を論じることになり、認識論だということにならざるをえない。それゆえヘーゲル観念論においてこそ、弁証法は認識論だとか三つは同じだから別のことばはいらないとかいう主張が成立するのである。唯物論ではそういうことにはならない。認識論はあくまでも認識のありかたを解明する個別科学として体系化されなければならない。認識が物質的な世界の反映である以上、物質的な世界のありかたもその意味で問題にはなるが、認識の特殊性にもとづく特殊な法則の解明に重点がおかれるのであるから、論理学のようにすべてを対象としてそこから一般的な法則をひき出す学問とは明確に区別をしなければならない。

 ヘーゲルの弁証法とマルクス主義の弁証法とのちがいは、『フォイエルバッハ論』に説明してあるのだが、レーニンはこの著作をどちらかといえば軽視する傾向があったようである。それがヘーゲル弁証法にひきずられた原因の一つになっているように思われる。けれどもソ連の学者たちは、ミーチンに端的にあらわれているように、エンゲルスにくらべてすべての点でレーニンのほうが前進しているものと信じていた。デボーリンは革命以前からの活動家であり、ヘーゲルにも通じていただけに、レーニンの哲学的な仕事に対して信仰的になりえなかったし、「哲学におけるレーニン的段階」をさわぎ立てることもできなかったが、たとえ彼がレーニンの誤謬について確信を持ったとしても、それを公言することはただちにスターリンによる処刑となってわが身をほろぼすことになるから、口をつぐんでいたにちがいない。このようにして、論理学も弁証法も認識論も同じものだというレーニンの主張は、ヘーゲルへの後退どころかマルクス=エンゲルスよりもさらに発展した段階なのだと信じられ、これをめぐっていろいろな議論が行われた。このレーニン信仰と議論とは、そのまま戦前の日本の唯物論研究会にも持ちこまれ、雑誌『唯物論研究』の誌上をもにぎわしたのであった。
 
 弁証法についてのエンゲルスの規定とレーニンの規定とが相いれないものだと自覚できないマルクス主義者は、結局のところ両者を折衷しなければならなくなる。戦前派としては加藤正がそうであったし、戦後派としては寺沢恒信がそうであって、ちがいはただ折衷のしかたにすぎない。一九五六年すなわちスターリン批判後に寺沢の書いた『認識論史』は、つぎのようにのべている。

「レーニンのこれらの指示は、ソ同盟の哲学界で必ずしも十分に実現されてこなかった。ことに、弁証法と論理学と認識論とを統一的に理解することがきわめて不十分であった。自然と社会およびそれらの人間の意識内への反映である認識の、もっとも一般的な発展法則の科学である唯物論的弁証法のなかから、とくにその一部分である認識の弁証法を取り出し、これに特有の諸法則を組織的に研究するのが弁証法的論理学である。ところがソ同盟では、レーニンの死後、その指示に反して、弁証法的論理学の研究がないがしろにされてきた。唯物論的弁証法の研究において、その諸法則の普遍性のみを一面的に強調するという、偏った傾向が支配的であった。このような欠陥が批判され、弁証法的論理学を体系的に仕上げるという任務の重要性がようやく一九五四年になって強調されるようになった。そして一九五五年には、『論理学と認識論と弁証法との統一』というレーニンの指示がとくに重要視され、この指示にもとづいて今後数年間の研究テーマを組織的に整理し、この研究計画にもとづく研究が開始された。この計画どおりに研究が遂行されれば、ソ同盟の哲学界は面目を一新し、近い将来に弁証法的論理学の体系的叙述が完成されるであろう。しかし現在までのところでは、弁証法的論理学の(したがってまた認識論の)仕上げという仕事は、はがゆいほど遅々としたあゆみをつづけている。」()

 「一般」というときには、そこにはもはや特殊性は捨象されてしまっている。それなのにその「一般」の「なかから」「その一部分」である認識の弁証法を「取り出す」といのだから、これはまったくのナンセンスであり一般から特殊をとり出してくる観念論者に共通したナンセンスである。認識に特有の法則を研究するのが論理学だというのもナンセンスである。エンゲルスとレーニンとを折衷しようとすれば、こういうナンセンスにならないわけにはいかないし、こんなことをしていたのでは「面目を一新」するどころか「遅々たるあゆみ」しかできないのが当然である。

 読者はここで疑問を持つかも知れない。認識に特有の法則を研究するのは認識論だと思っていたが、それを寺沢は論理学だと主張するのであれば、彼は認識論を何と規定しているのだろうか、と。寺沢はいう。「知ること(認識作用)およびその結果獲得された知識(認識)についての何らかの哲学的反省のすべてを、認識論とよぶ。」認識論を論理学とよぶ人間は、論理学を認識論とよばなければならないように論理的に強制されることになる。認識についての「哲学的反省」すなわち一般的な法則を研究することは、論理学においてなされるのであってそれ自体は認識論ではない。

 マルクス主義哲学者と称する人たちは、哲学を教えて生活しているという自らの存在によって意識を規定され、「哲学一般はヘーゲルとともに終結する」(『フォイエルバッハ論』)というマルクス主義の立場を受けいれようとはしないで、何とかして哲学が存続するかのように解釈しようとした。そして認識論は「哲学的反省」によって得られるものだという、昔からの哲学者の主張に抱きついたのである。レーニンのヘーゲル的偏向はそのためのつっかい棒として役立てられることにもなったのである。しかしながら、寺沢のように認識論と論理学との内容を入れかえて逆立ちさせてしまうと、認識論も論理学もどちらも動きがとれなくなってしまう。なぜなら、認識に特有の法則を研究するのが論理学だといっても、論理学はそもそも「一般」的な法則をとりあげるのであるから、「一般」に重点がおかれて体系化されていくことになり、特殊はそれを説明するための例証以上の役割は与えられない。認識に特有の法則をたぐって体系化していこうとすれば、論理学を展開できなくなる。また、認識についての「哲学的反省」は認識に特有の法則を超えた「一般」的反省であるから、個々の認識のありかたはその「一般」的な法則の例証として位置づけられないわけにはいかない。ここでも認識論と名のりながら、認識に特有の法則をさぐって体系化することはできない。したがって二つの相反する逆立ちした内容の規定は、ともに個別科学としての認識論の確立を阻止するという点で一致する。寺沢のあやまった規定は、これまた皮肉なことに、弁証法の正しさの一つの証明になっているのである。
 
  スターリンの伝記には、彼の『弁証法的唯物論と史的唯物論』を、「マルクス・レーニン主義哲学思想の最高峰を示すもの」と書かれている。すなわち、この出現によってもはや「哲学におけるレーニン的段階」なるものも、正しくはあるがすでに過去のものとして扱われることになったわけである。ところがスターリンの死後、スターリンに不満を持つ学者たちが『弁証法的唯物論と史的唯物論』以前に立ち帰ってそこから再出発しようとして、寺沢も指摘しているようにレーニンのことばにもとづいた研究計画もつくられることになった。この、デボーリン批判このかたレーニンのヘーゲル的偏向の枠の中で常に学者が動いて来たという事実を理解するならば、ソ連の学界にあらわれたいろいろな奇妙な事実についても、納得がいくだろうと思う。そのいくつかをあげてみよう。

 まずミーチン時代のできごととして、形式論理学を弁証法の特殊な形態と解釈する主張が出現した。これはいうまでもなく、弁証法イクオール論理学であるとするならば、弁証法以外に論理学の存在を認めることは「哲学のレーニン的段階」の否定になるからである。エンゲルスは形式論理学と弁証法とを「二つの思考方法」(『反デューリング論』)ととらえていたのだが、このように形式論理学を弁証法と独立した論理学であると認めることはもはや許されないのであって、どうしても一つにしなければならないからである。しかし右の新しい解釈は、形式論理学の持つ特徴と、一定の限界の中での有効性を、それなりに正当に評価することの妨害となった。それと同時に、弁証法の論理学としての限界も無視されることになった。形式論理学を役立てている人たちが、これを納得できなかったことはもちろんである。右の解釈のしかたは、リアリズムとロマンチシズムを芸術の二つの方法ととらえることのできなかったソ連の理論家が、社会主義リアリズムの提唱にあたってロマンチシズムをリアリズムの「構成部分」としてぶちこんだのと、似たところがある。これもロマンチシズムの持つ特徴と有効性を評価することの妨害となり、リアリズムの方法としての限界を無視し、説得力を欠くこととなった。

 つぎに、ソ連にはいまもって認識論と名乗る体系的な個別科学が存在しない。そしてこれに近い内容を持つ個別科学は、心理学の名のもとに教科書化されている。これは認識を多面的に扱っていないという点でも、また従来の心理学がとりあげたさまざまの問題を扱ってその成果を吸収していないという点でも、はなはだ中途半端な認識過程についての体系的な叙述である。弁証法ということばは使われているが、認識の諸矛盾はほとんど解明されておらず、俗流反映論をぬけ出していない。そして認識の具体的な問題ととりくんでその特殊な法則を研究する個別科学者がほとんどいないらしく、そのような論文は稀にしかあらわれない。

 さらに、ソ連の哲学の教科書にあっては、マルクス=エンゲルスの諸論文がとりあげている具体的な理論をさらに論理的につっこんでいく仕事がほとんどなされないで、レーニンのやった仕事を(そのまちがったものをもふくめて)引用するにとどまっている。たとえば「疎外」についても、マルクスは現実的な労働における疎外としての商品や、観念的な疎外のありかたとしての宗教や法律をとりあげているのだが、これを論理として問題にしようとはしない。もし論理としてとらえれば、これは疎外した側とされた存在との対立の統一として、すなわち矛盾の一つの形態としての疎外と非敵対矛盾の一形態としての疎外との区別および相互の関係を論じるまでに、すすまなければならないことになる。しかしソ連の哲学者たちはそんなところへすすもうとはしないで、レーニンの『哲学ノート』の設定した枠の中でおっかなびっくりふみ出しはしたものの、レーニンの矛盾論にはあやまりがあったと公言することもできずに、中国側から修正主義だと攻撃をあびているような状態である。
 

(註)七三年の春に、長い間書きためた原稿のなかで、もう不要だと思われるものをミカン箱一杯燃やしたが、しまい場所の関係でその時燃やせなかったものを八一年一月に発表した。これはその中の一篇だが、本書の序論として適当だと思われるので印刷することにした。

  ディーツゲン・マルクス・エンゲルス>三浦つとむ『レーニン批判の時代』
  1. 2015/09/04(金) 01:46:06|
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