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古本屋通信

共産党を除名された者

古本屋通信     No 1315  2月27日

  日本共産党中央役員で除名(または除籍)された者



  昔はこういうのは反共雑誌 『全貌』 改め 『ゼンボウ』 とか云うのがあって、いつでも書いてくれた。しかし今じゃあ誰も書かない。共産党が纏めて書くわけがないから、そのうちわけが分からなくなるかも知れない。私も記憶が消えて行きつつある。いま 『前衛』 の党大会特集号が7大会~26大会まで手元にある。これも近々に田舎に移そうと思っている。そしたら2度と取り出せないだろう。いまのうちに表題の件をメモしておこう。

第7回大会 (中央委員、中央委員候補、中央統制監査委員計44名) の役員、うち除名された者 (第8回大会以後) 
安斎庫治  岡田文吉  神山茂夫  亀山幸三  聴なみ克己(4・17ストの責任をとって降格されたが除名になった訳ではない)  志賀義雄  鈴木市蔵  内藤知周  中野重治  西川彦義  野坂参三  袴田里見  波多然  山田六左衛門  内野壮児  原全五  春日庄次郎


第8回大会 (中央委員、中央委員候補、中央統制監査委員計103名) の役員、うち除名された者 (第9回大会以後) 
西沢隆二  広谷俊二  市川正一(ずっと後に不倫で除籍になったらしい?が、公表されなかった。いちおうカウントしておく)  (たった3人しかいない)


第9回大会 (中央委員、中央委員候補、中央統制監査委員計118名) の役員、うち除名された者  
(私の知る限り一人もいない。この辺は自信がある)


第10回大会 (中央委員、中央委員候補、中央統制監査委員計144名) の役員、うち除名された者  
(私の知る限り一人もいない。この辺は自信がある)


第11回大会 (中央委員、中央委員候補、中央統制監査委員計165名) の役員、うち除名された者  
(私の知る限り一人もいない。この辺は自信がある)


 
  以上が私の党員時代までである。どこの組織でも人の浮き沈みはある。日本共産党も例外ではない。しかし戦後党史が粛清史であるというのは (第7回大会で宮本を中心に旧国際派が主導権を確立して以後に限っては) 著しく事実に反しているだろう。第7回大会17名は構改派と「こえ」派が大半、中国分派は安斎と岡田と西沢の3人だけ。つまり残るは袴田と野坂だけ。これは分派ではなかった。シンヒヨに至っては広谷ただ一人だが、彼が除名されたのは事件の8年後だった。


 ここまで書いたので、ついでに除名組が党内に与えた影響、特に学生戦線に与えた影響について、実感的感想をひとこと。

 第7回大会で綱領草案に反対した中心は春日と内藤だったが、この影響は極めて大きかった。春日の統社同と内藤の社革の影響下の学生はいちじ全学連反主流派・全自連の多数派を形成する。この頃の大学を描いた文学作品に稲沢潤子さんの小説がある。私は心情的にはこの派を支持していた。層としての学生運動であり、学生同盟論だった。しかし私はそうはならず民青に行った。これは時代のせいだったろう。だから私は春日の統社同と内藤の社革についてはトコトン勉強した。同時代の民青はみんな必死で勉強したように思う。それは61年綱領を資本論に戻って勉強することだった。私はシンヒヨとは何の組織的関係もないが、この時代に 「日本革命の展望」 をわがものにした民青同盟員は決してブルジョア議会主義を是としなかった筈である。そういう点で私は中原猛にも疑問を持っている。その後の武田なんか見ていると、この期に「脱落しなかった」党員がいかに低レベルのカスだったかがわかるというものだ。

 中国分派(毛派)の影響は学生戦線に皆無だった。山口大と下関市立大以外はゼロだったと思う。いたとすればゼニ目的の輩だけだったろう。それと笑えたのはブントに毛沢東崇拝の一派が生まれたことだ。私はトコトン馬鹿にした。本来ありえないことだったから。安斎、西沢は無理論だが、これは徳田譲りだったろう。だれにも理論書の一冊もないのだ。

 最後に上記の被除名者のうち、私が著作の上で評価している人物を上げておく。
 神山茂夫  中野重治
 う~ん、2人だけだ。しかも組織人としては2人ともガタガタだ。神山だって本質は「文学者」 だ。だって三度除名されるなんて普通はあり得ない。一度除名されたら復党はあり得ないのが共産党なのだから。
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  1. 2015/02/27(金) 11:36:23|
  2. 未分類

産経新聞の国際情報記事

古本屋通信     No 1314  2月27日

  産経新聞の国際情報記事


 とにかく凄いね。5大ブル新聞中最下位の強みですね。北京特派員もいるだろうに。「悔しかったら真似てみろ」 ってんだ。産経新聞だけが真実を報道しています。コレある意味で本当です。


産経新聞
2015.2.27 06:00更新

【国際情勢分析】
中国人富豪の平均寿命「48歳」 死刑、他殺、“政商”の超ハイリスク
 2008年3月31日、北京五輪を前にギリシャから北京空港に到着した聖火(中央)を出迎えた、党政治局常務委員時代の周永康氏(中央左)。権勢をほしいままにした周氏だが、その失脚に「連座」する形で9日、四川省の大富豪ら5人に死刑が執行された(共同)

 昨年失脚した中国共産党の周永康・前政治局常務委員(72)の腹心で、殺人罪などに問われ死刑判決を受けた四川省の大手企業、漢竜グループの劉漢会長(49)に9日、刑が執行された。証券、不動産、鉱業など多分野に進出し、一大財閥を築いた劉氏の総資産は400億元(約7700億円)に達したこともあり、逮捕されるまでは中国を代表する大富豪の1人だった。

周氏の腹心に死刑執行
 死刑執行される前、劉氏は中国メディアの取材に応じ「私の野心が大きすぎた」などと反省の言葉を口にしたという。判決などによれば、劉氏は1993~2013年まで、商売上の競争相手の殺害など5件の殺人事件を含め、武器密輸、不法経営など多くの犯罪に関わったという。長年警察に逮捕されずにいられたのは、ビジネスパートナーの周浜氏(43)の父親、周永康氏に守られたためである。

 中国ではビジネスを展開するのに、政治家と密接な関係をつくらなければ何もできないといわれる。反対に大物政治家を後ろ盾にすれば、許認可や融資などが容易に得られ、違法行為に及んでも警察に逮捕される心配すらない。しかし、後ろ盾の政治家が失脚すれば、間違いなく連座して粛清される。欧米や日本では財界人の犯罪といえば、贈賄や脱税などが多く、刑事責任を問われても刑務所暮らし数年程度で済む場合がほとんどだ。しかし、中国では命まで取られる。9日は劉氏とともに、一緒に企業経営をしていた弟の劉維氏(45)と、漢竜グループ幹部3人の計5人の死刑が執行された。テレビカメラの前に泣き崩れる劉氏の母親の姿が痛々しかった。

「後ろ盾」と一蓮托生
 劉漢氏の名前が最初に中国メディアに登場したのは1995年2月だった。当時、上海証券取引所の相場師だった劉氏は、他の3人の若手相場師、袁宝●(=王へんに景)氏、魏東氏、周正毅氏と連携して、「327国債」という金融商品の先物の値段をつり上げてから売り抜け、巨大な利益を手にした。のちに「327国債事件」と呼ばれ、中国の証券史に残る事件となった。
 その後、4人はそれぞれ四川、上海、北京、遼寧を拠点に起業し、全員がビジネスで成功を治めた。
 しかし、袁宝●(=王へんに景)氏は元部下を殺害したとして殺人罪に問われ、本人は無罪を主張し続けたが、2006年3月に死刑が執行された。「袁氏は商売のライバルにはめられた」と、事件を取材した中国人記者は主張する。

 周正毅氏は07年11月、権力闘争に敗れた上海市の陳良宇書記の失脚にあわせて不法経営の罪を問われで懲役16年の判決を受け、今は獄中にいる。魏東氏は08年4月に北京の高層マンションから飛び降りて自殺した。原因は不明だが、“政商癒着”の秘密を知りすぎて口封じのために殺されたとの噂がある。

平均死亡年齢は48歳
 このように、中国の富豪たちの人生はハイリスクだ。英国系調査会社「フージワーフ」が定期的に中国の富豪ランキングを発表しているが、米国の長者番付けではビル・ゲイツ氏(59)が20年以上も首位をキープしているのに対し、中国の場合は毎年のようにトップが入れ替わっている。
 14年のトップだった馬雲(ジャック・マー)氏(50)はIT関連企業グループ「アリババ」の経営者だが、トップになる富豪が経営する企業の業種はそれまで、不動産、飲料水、自動車、家電量販店などと、毎年のように目まぐるしく変化している。
 それぞれの企業の後ろ盾になっている政治家の引退などとも関係しており、中国政府が重要視している産業がよく変化し、政策調整が頻繁に行われていることも大きな理由といわれる。ちなみに08年の長者番付でトップになった国美電器の創業者、黄光裕氏(45)はその直後に株のインサイダー取引容疑で逮捕され、懲役14年の判決を受けた。

少し古いデータになるが、中国メディアの調べによれば、03年から11年の間に、中国で72人の大富豪が死亡した。15人が他殺、17人が自殺、7人が事故、14人が死刑、19人が病気となっている。平均死亡年齢は48歳で、中国人の平均寿命より20歳以上も若い。

 中国の富豪の半数以上が海外移住を希望しているとの調査結果もある。希望する国は米国がトップで40%、続いてカナダが37%と北米が多い。自分自身が生まれ育ち、しかもビジネスで成功した土地を離れたい最大の理由は、政治の不安定さであろう。(中国総局 矢板明夫)
  1. 2015/02/27(金) 10:30:11|
  2. 未分類

資料・緑の党

古本屋通信     No 1312  2月27日

 資料・緑の党


  資料としての掲載です。ハナから変な紹介で恐縮ですが、古本屋通信はこんご全国組織としての緑の党をいっさい支持しない事を表明しておきたいと思います。HPには定期総会の写真も掲載されていますが、これはもはや左翼の組織ではなく、ノー天気なガキのオアソビの政治ごっこの組織です。まあ、中学生の連合生徒会に毛が生えた程度でしょうか。あとは皆さんがご判断下さい。古本屋通信の出番ではありません。

 まあ、これだけでは余りにもそっけないので一言だけ。3年以内に組織消滅必至でしょうね。そしてこれは共労党(共産主義労働者党)の最終的敗北です。もっと云えば 1960年代の構造改革派(社会主義革新運動派)の最終の到達点です。これは共産主義者同盟(ブント)が環境政党 Actio Network に辿りついたのと似ています。マルクス主義者にとって「左」右の日和見主義と戦い続けることは何時の時代も避けられませんね。やがて緑の党も Actio Network も自民党に吸収されていくことでしょう。亡くなった好並隆司先生や岡確君はあの世でこれをどう見ているでしょうか
古本屋通信)。




 2月7日と8日、都内で第4回緑の党定期総会を開催しました。
参加者の総数は150名近くに上り、昨年を上回る活気ある総会となりました。
今回は初日にワークショップ、“5最重要政策をつくろう” 2日目には2016年参院選方針を巡るグループ討論・全体討論を行い、全国から集まった会員・サポーター間の意見交換と集約を試みました。ここで出された意見は、2015年、2016年の政策や選挙方針 に反映させていく予定です。審議された議案と採決結果は下記の通りです。
■ 総会議案  以下の議案が可決しました。
第1号 規約の改正 その1(会員の資格・義務・権利について)
第2号 規約の改正 その2(共同代表・運営委員の任期・人数について)
第3号 規約の改正 その3(規律について―新設)
第4号 規約の改正 その4(登録情報について―新設)
第5号 規約の改正 その5(規則の改廃について)    以上改正後の規約
第6号 2014年活動報告
第7号 2014年決算報告
第8号 監査の選出
第9号 2015年度活動方針
第10号 2015年度予算案
第11号 委任事項の議決
第14号 仲裁委員の選出

共同代表  選挙結果が報告され承認されました。 
長谷川羽衣子/京都府 長谷川平和/千葉県
松本なみほ/兵庫県 中山 均/新潟県

運営委員  選挙結果が報告され承認されました。 
八木 聡◎/長野県 漢人 明子〇/東京都 小森 忠良/岐阜県
井奥 雅樹/兵庫県 石崎 大望/東京都 新宮 あい/静岡県
星川 まり/東京都 清野 和彦/埼玉県 石川 奈央/東京都
野々上 愛/大阪府 ◎運営委員長  〇副委員長

監査 
武笠 紀子/千葉県 本河 知明/福岡県

仲裁委員 
久保 あつこ/北海道 高見 優/新潟県 笠原 一浩/福井県
(予備委員) 渡辺 さとこ/香川県



  1. 2015/02/27(金) 05:22:09|
  2. 未分類

苅田アサノのハガキ

古本屋通信     No 1307  2月25日

  苅田(かんだ)アサノのハガキ



  もう3ヶ月もまえ、県北の旧家からトラック2台分の荷が入ったことがあった。整理屋 → 古紙回収業者経由で買ったのだが、古本屋的には面白くなかった。それでも田舎の豪農で校長、教育長、町長を歴任した保守系の 「大物」 だけあって、それなりの雑本はあった。日本原自衛隊基地に保守側から関わるなど、到底是認できない行動もあったようだ。しかしも教育家だったとは思う。私は都市部ではこういうタイプはいないと思う。岡山市の教育長と言えば例外なく超俗物で極反動なのだ。

  この方に宛てた行李3つ分の私信(手紙とハガキ)があった。その中から戦後まもなく共産党の代議士になった苅田アサノのハガキが見つかった。表裏とも超下手くそな肉筆ペン書きである。字は下手だが、文は流暢で澱みない。苅田は元々詩を書いていたのだ。津山高校の記念誌にも、自校出身唯一の国会議員として名前と記事がある。

  ハガキは東京中央の消印だが、日付けは読み取れない。以下、全文を掲載する。



  岡山県勝田郡新野村 村役場気付   ○○○○ 殿

                               
                     日本共産党国会議員団 苅田アサノ


 地方財政平衡交付金の増額は第十二国会の補正予算で問題の中心になりましたが、この増額について政府の一機関地財本の意見並全会派一致の決議をも無視して政府案が通過しました。このように現在の国会は日本の予算でありながら日本で決定できない状態です。反面軍事予算は増額に一途をたどりそのしわよせか、交付金の増額すらできず地方財政を全くハタンに頻する状態においております。これが今度の講和安保条約の実態であり、来年は日本の再軍備のための厖大な費用のため、国民の生活、地方財政はさらに一そう困難になることは明らかであります。
 このためにも我々はこの両条約に反対し、日本の政治は日本人の手で行えるよう皆様方と共に日本の独立と平和のため斗い抜くことをお約束するものです。



 古本屋通信

 私が入党したのは1965年の9大会時だったが、このとき苅田アサノはまだ生きており、党中央委員会婦人部長だったと思う。目立つ指導者ではなくこつこつ実務をこなしていた。青年学生部長は塚田大願だったか。彼らが党分裂時にどちらに属していたか、このクラスになると分からなかったし、それは問題にすべきでもなかっただろう。ただ、私は個人史を語るとき「いいとこ取り」するのには抵抗がある。

 検索でヒットした記事を下記に貼る。



  苅田アサノ  ウィキペディア
苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)、1905年6月21日 - 1973年8月5日)は日本の政治家、婦人運動家、著述家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。夫は元日ソ協会副会長の堀江邑一。
岡山県津山町(現・津山市)生まれ。生家は代々地主の家系で、学生時代からロシア文学及び社会主義思想に傾倒し、日本女子大学国文科を卒業後の1931年、日本共産党に入る。
入党以降財政面で支援を行うものの、1933年に治安維持法の疑いで検挙。転向の後1935年に出獄すると東洋経済新報社などを経て、1938年には郷里の岡山県に戻り西日本製紙に勤務する。
戦後は日本共産党に再入党し、1949年の衆院選に旧岡山1区から出馬し初当選を果たす。しかし再選を期した1952年の衆院選に落選し、以降2度衆院選に挑戦するも返り咲きはならなかった。
戦前から晩年まで一貫して婦人解放運動に身を投じ、新日本婦人の会や日本婦人団体連合会、国際民主婦人連盟など婦人団体にも参加。1973年8月5日、脳腫瘍のため東京都渋谷区の代々木病院にて死去。68歳。
1949年 - 第24回衆議院議員総選挙 岡山1区 43,208票 当選(13名中2位)
1952年 - 第25回衆議院議員総選挙 岡山1区 12,285票 落選(13名中11位)
1953年 - 第26回衆議院議員総選挙 岡山1区 13,125票 落選(13名中11位)
1955年 - 第27回衆議院議員総選挙 岡山1区 15,154票 落選(8名中8位)



 古本屋通信  「No 31 郷土の詩人たち」 より
 *苅田アサノ 人と思い出 其刊行委員会 1976 発行人堀江邑一



 日本共産党津山市議・末永弘之さん の記事

 2月14日朝日茂さんと苅田アサノさん日本共産党津山市の戦後史の探索でした   2014年2月15日
★人間裁判「朝日訴訟」の原告、朝日茂さんが亡くなったのが、50年前の2月14日でした。岡山県と津山市の生活と健康を守る会を中心として、茂るさんの養子の朝日健二さんを迎えて、毎年、2月14日に、西寺町にあります、本行寺さんのご協力で墓前祭を行ってきました。昨年、50回忌の法要にあわせて、記念碑も建立し、ことしも墓前祭が企画・呼びかけられました。
★戦後の党の高揚期・岡山一区から日本共産党の苅田アサノさんが二位で当選、苅田さんは、津山市の生まれ、苅田酒造の次女でした。城東地域で、今年度、城東昔物語、町並みが、歴史建物郡地域に指定され、その建物の一つが、苅田家・苅田酒蔵などです。苅田アサノさんの生家です。昨年秋に、苅田家から、母屋・庭・酒蔵など一式を「津山市に寄付」が行われました。それを受けて、津山市は、苅田家を「国の重要無形文化財」指定の準備に入りました。そして、上記の朝日茂さんと苅田アサノさんを、戦後の津山市の党の歴史検索ツアーを呼びかけて、今年の行事としました。写真集でお届けします。
★ここまでが、本行寺での「墓前祭」です、このあと、苅田アサノさんのお墓、苅田家の墓地にお参りしましたが、カメラマンが小用で、写せませんでした。
★なんと、作州民芸館のなかに、朝日茂遺品展示場が・・・それは、それとして、人権尊重の会などの関係者の苦労があるわけですよ。。。ともかく、一度、訪問してみてくださいね・・・。そして、城東町並み保存地域へと移動です。
最初に、感激・驚きもしました。苅田家の当主・自ら迎えてくれまして、挨拶と説明をいただきました、アサノは大叔母になるとかの話でした。
アサノさんの勉強部屋の前で、ひだりから、岡山県平和委員会会長の大西さん、当主の苅田さん、朝日茂さんの養子・朝日健二さん、そして、私です。
手前の横姿の人は、当主の奥さん、御夫婦でせつめい、お出迎えでした。
苅田家の庭、後ろは、「ほうとう」というのでしょうかね・・宝塔?
★この苅田家・アサノさんの勉強部屋だけ見たいと合流したグループもありで、多少人が増えました。健二さんにしんどい思いをしてもらい、皆で写真収めました。苅田家の玄関、出雲街道側です。
出雲街道側の駐車場から眺めた苅田家の風景です。このあと、朝日茂さんの生誕の地・津山市京町58番地でしたか・・・を車の中から眺めまして・・・・休憩をして、朝日健二さんの講演会でした。
医療生協の井之上理事長の開会挨拶からでした。
★講演のあと、質問や報告、意見交換がありまして、わたしも、突然、今日の「ツアー」についての報告をさせられました・・・そのあと、数人で、健二さんをかこんでの「夕食会」までおつきあいでした・・・。





 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟  和歌山本部  どうめい日誌 より転載させて頂きました。

2007/7/15 12:14 苅田アサノ顕彰碑  顕彰碑探訪 
古都鎌倉東慶寺に眠る苅田アサノ

苅田アサノは、一九〇五年岡山の津山市で生まれる。二二年日本女子大学国文科に入学。卒業後、湯浅芳子、宮本百合子らと交流。三一年秋、日本共産党に入党。非合法で活動する共産党を財政的に支援する知識人、文化人らと活動。三二年一月十日検挙され大塚署に拘留。言語に絶するすさまじい拷問をうけ、同年八月治安維持法違反で市ヶ谷刑務所に未決収監。三四年出獄、三八年石橋湛山主幹の東洋経済社に入るが、そこも辞めざるをえず津山にもどる。敗戦後いちはやく郷里で日本共産党の再建に立ちあがる。四九年一月総選挙で岡山一区から当選。五六年党中央婦人部長。六二年全国単一の民主的婦人組織の結成よびかけ人となり、「新日本婦人の会」結成。七三年八月五日病没。享年六十七才。
日本女子大学以来、苅田アサノらを支えつづけ、よき相談相手であったのが舎監山原鶴先生であった。大学への警察の介入にも断固として生徒名簿を渡すことを拒否し、日女大を辞めざるをえなかった。面会に訪れる苅田の母を励まし、戦後は当選した苅田の上京を受け入れた。東慶寺で茶道の師範をしておられた山原鶴先生が寺の一角に石の観音像と顕彰碑を建立した。戦前ともに闘った女子社研の友の名も刻んだ。いまは山原鶴先生はじめ苅田アサノの分骨もともにねむっている。
(神奈川県本部蓮見孝子) 2007年7月15日発行 不屈 №397




2008年6月19日 (木)  長久啓太の勉客商売から

 苅田アサノさん! 
最近読み終えた本。
『女性革命家たちの生涯』(広井暢子、新日本出版社、1989年)

来月早々に、とある「語るつどい」をすることになり、
モチベーションを上げて行こうと、
自宅の本棚で「何かよいものは・・・」と探していたら
目に入った本(いつ買っていたのかは不明)。

戦前生まれの女性革命家たち(13人の方が紹介されています)。
その多くは、天皇制権力の弾圧によって
命を奪われる。まだ、20代、30代だ。

どの先輩も、科学的社会主義の
学習への気合いがハンパでない。
この時代の特徴といってしまえばそれまでだが、
見習うことが多い。

科学的社会主義の理論と出会い、
共産党員として、人々の命と生活、幸福のために
生涯を生き抜いた先輩たちから学ぶもの…。

あまり好きな言葉ではないが、
“不屈さ”ということなのかなぁ。
はっきりいって自分にはない…。
すぐ曲がる、妥協する(涙)。

一番印象に残ったのは、やはり地元岡山、
苅田(かんだ)アサノさんだった。
名前は聞いたことはあったが、
この人はすごい!
地主(当時は権力的地位にある)の出身で、
お嬢さんでありながら、
「人間の真の力、真の努力の価値が知りたい」(女学校のときの作文)
と、ロシア文学から科学的社会主義の理論へと飛躍して
いった経過が書かれている。
宮本百合子さんとの交流や、
婦人運動との関わりも書かれていた。
1949年の総選挙で岡山1区から2回目の出馬をし、
見事当選。岡山では初の共産党の国会議員となる。
苅田アサノさんも津山出身である。
朝日茂さんも津山出身だ。
片山潜も久米南町だ。
じつは革新のすばらしい伝統が岡山にはある…!
が、「岡山のすごい先輩」のことを
知っている若い人はほとんどいないだろう。
もっと学んで、私も語れるようにならなければ。

あと、野坂参三さんの妻の野坂竜さんの
ことも書かれていたけど、
参三氏は、妻にも党への裏切りのことを隠して
いたのだろうか…。気になるぅぅ。
『時代を開く党づくり』(浜野忠夫、新日本出版社、2008年)


 古本屋通信よりひとこと。
 広井暢子の本自体が他人の剽窃です。そのボロが出たのが野坂問題でしょう。私は野坂除名自体が無効だと思っていますが、とうじの活動を野坂が妻の竜(りょう)に隠せ通せたわけがなく、彼女が生きていたら当然処分の対象になっていたでしょう。死者を除名できなかっただけです。それにしても広井は無茶苦茶です。自著を反省するどころか、全てほうかむりですからね
  1. 2015/02/25(水) 05:35:06|
  2. 未分類

まともな新聞はこういう記事は・・

古本屋通信     No 1306  2月23日

 
 まともな新聞はこういう記事は書かんよ



 産経新聞の今日のウェブ記事をそのまま転載します。こういうのはスキャンダル週刊誌のジャンルだった筈ですが。しかしスキャンダル週刊誌も外国ネタはやらんでしょう。まあ、ウラも取らず書きたい放題ですな。



2015.2.23 11:44 産経新聞
中国共産党幹部の妻20人以上と…消えたイケメンキャスターは「情夫」だった 「夜のご奉仕」で仕入れた機密を漏洩か
 中国で政界やマスコミを揺るがすスキャンダルが勃発している。国営放送「中国中央テレビ」(CCTV)の人気男性キャスターが、中国共産党幹部の妻20人以上の“夜のお相手”をしていたことが現地メディアの報道で判明。ベッド上で聞き出した内部情報を漏洩(ろうえい)させたとして中国当局に身柄を拘束されているというのだ。キャスターには米系メディアのスパイ疑惑もかけられており、騒動はさらに拡大しそうな気配だ。(夕刊フジ)

 香港の大衆紙「蘋果日報(アップルデイリー)」など複数の中国メディアによると、スキャンダルの“震源”は、CCTVで夜の経済報道番組「経済信息聯播」のキャスターを務めていた●(ゼイ)成鋼(ぜい・せいこう)氏(37)。

 昨年7月に突然、番組を降板。中国の検察当局に拘束されたとみられ、長らく消息不明だったが、その後の調査でぜい氏が、党幹部の妻20人以上の「情夫」だったことが判明。プライベートの場で仕入れた党の内部情報を外部に流出させていた疑いも出ているという。

 「ゼイ氏が“ご奉仕”していたのは、党の次官級以上の役職に就く高官の妻たち。いずれも自分より20歳から30歳以上、年上で、ぜい氏は行為の一部始終を隠し撮りするなどあらゆる方法で相手を籠絡し、機密情報を引き出していたようだ」(現地事情通)

 ゼイ氏と親しい相手の中には、習近平国家主席による「反腐敗運動」で失脚した令計画・人民政治協商会議副主席の妻も含まれていたとされ、地元メディアはその親密さを称して「姉弟同然」と報じている。

 渦中のゼイ氏は、父親が小説家、母、姉ともにアナウンサーという家庭に生まれた。
 王毅外相を輩出した外交官を養成する専門大学「外交学院」を卒業。英語を得意とし、2010年、韓国ソウルで開かれたG20では、「私がアジアを代表する」と、オバマ米大統領にしつこく質問する姿が話題を呼ぶなど、中国では「国際派キャスター」として知られた存在だ。

 『中国「猛毒食品」に殺される』(SPA!BOOKS新書)の著者でジャーナリストの奥窪優木氏は、「国粋主義的な言動を繰り返すことでも有名だった。自身のブログで米国の大手コーヒーチェーン、スターバックスが北京の故宮内に店舗を開いたことを『スタバは故宮から出ていけ』などとブログで非難し、店舗を閉鎖に追い込んだこともある。体制側の人間だとみられていたこともあって、突然の降板に驚く人が多かった」と解説する。
  1. 2015/02/23(月) 14:23:05|
  2. 未分類

くにさだきみ

古本屋通信     No 1305  2月23日

  くにさだきみ



  私は2年あまり自分のブログを書いてきた。岡山の文学関係の現役の方のブログには気を配ってきた。石崎さんや鬼藤さんのブログにはすぐに気が付いた。然しくにさだきみさんにブログがある事は昨日まで知らなかった。散文であれ、詩歌であれ、ほとんどの方はネットをやらない。これはたまたまというのではなく、文学的思惟とその表現がどこかネットに馴染まない所があるのだろう。私は長い間そう考えてきた。


 話は飛ぶが、さいきん武田英夫氏が熊山の永瀬清子の没後20周年の催事に出たという文を読んだ。誰が永瀬を好きでも知ったことではないが、私は永瀬と聞いただけでゾッとするのだ。私は戦後の彼女の詩は殆んど食わず嫌いである。いまだに読む気がしない。戦前1930年の 『グレンデルの母親』 は (今では入手困難だが) 秀逸である。しかしその同じ詩人があそこまで酷い戦争賛美詩が書けるのか。これは単に天皇賛美だとか、やむを得ず体制に迎合した類いではない。青年が死地に赴くのを鼓舞する極悪非道の詩だ。人間技ではない。こういう処世は許されるべきでない。永瀬は戦後きっぱりと筆を折るべきであった。私は文学の責任は政治の責任と同等であるとの認識である。だから絞死刑に相当すると思う。せめて公職永久追放にでもしないと、死んだ若者が浮かばれない。永瀬を許した日本的心情こそが天皇制ナショナリズムなのだ。


 私は永瀬の戦前のこの詩を読む機会があった。古本で入手して数万円で売った (記憶はウスレているが合同詩集だったように思う)。これは今では完全に闇に葬られている。読んで以後、私は 「このクソばばあ死ね」 と叫び続けてきた。併せて岡山の戦後詩人が永瀬を利用し続けてきたことにも不信感を持った。とりわけ永瀬に可愛がられた坪井、三沢、井奥の岡大出身の3詩人に。


 最近になって、私は (永瀬というより世の殆んどの) 文学者がかくも簡単に 「転向」 する理由が分かってきた。悪い例で申し分けないが、石崎徹さんと鬼藤千春さんだ。2人はかなり違うが、共通している事もある。2人とも没論理だ。石崎さんは極端な状況追認主義だ。自分の頭で考えない。その時々の実感が全てだ。世間が左だと彼も左だ。世間が右だと彼も右だ。実感主義だとそうなる。ごく普通の庶民の感覚だ。コレだと抵抗が不要だから楽だ。鬼藤さんは共産党に盲従していれば安心出来る。安心立命 (あんじんりゅうめい) の典型的なカルトだ。自分の思考を党に預けて一丁あがりだ。最近そういう歌をさかんに詠んでいる。党が戦争を是認すれば鬼藤さんが戦争に反対する訳がなかろう。



 私は多くの詩人には上記の2人と同様な弱点があるように思う。中野や壺井(繁治)まで転向した。蔵原でさえ転向した。文学関係で転向しなかったのは顕治と百合子だけではなかったか。その百合子が永瀬を褒めている。然しそれは意味が違う。転向組も仲良く一緒にやりましょうという意味だ。


 私には詩プロパーを評価する能力はない。然しくにさだきみの散文、つまり文章力には驚愕した。具体的にはコーサック社から刊行した詩論集 しなやかな抵抗の詩想―詩人の生き方と言葉のあり方(1962-2010) の文章だ。今ここにない。それから彼女の詩がみんなに嫌われる政治詩であることだ。この点は (同じく私の好きな) 沖長ルミ子の詩と対照的だ。


 前置きが長くなった。くにさだのブログを貼る。ただし数年前の文 (2009/01の文だと思われる) がたった数日分しかない。これはたぶん家族の不幸で中断されたのだろう。その後は書かれていない。



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   くにさだきみのブログ 


 くにさだきみ 雑文 腹の虫



 廃墟を作れば「平和」と呼べるか?

 今日テレビを見ていてびっくりした。映像は確かに、ローマかどこかの廃墟なのだが、「ローマ人は、廃墟を作り、それを『平和』と呼ぶ。」と言っている。ウソでしょう!何だって廃墟が「平和」なの?

 納得できる話ではないのだが、映像はどう見てもローマの廃墟である。待てよ!廃墟と言えば、原爆ドームだって廃墟ではないか?日本の代表的廃墟であり、かつ日本の平和のシンボルと言えば、やっぱりあの原爆ドームでなければならない。だとすると、この国の人だって「廃墟を作って『平和』と呼んで」いるのではないか。いやいや、正確にはアメリカ人こそが、この国に廃墟を作り、「平和」と呼ばせているのではあるまいか?

 考えて見れば、朝鮮戦争だってベトナム戦争だって、アメリカは「平和」と呼びながら、廃墟を作って来たのではないのか?今、「平和維持軍」だとか「多国籍軍」だとか、もっともらしい言い方で、アフガニスタンやイラク.に廃墟を作り続けているのもアメリカサンなのである。

 テレビは、古今東西で覇権をふるった「帝国」の名を次々と上げていたが、ローマ人ばかりではないことが分かった。

 そうなのである。ローマに限らず、サラセンだってモンゴルだって、広大な廃墟を作り、「平和」とよんだのに違いない。

 覇権の崩壊が見えてきたアメリカなのだが、廃墟を作っても「平和」などとは呼んではいけない。廃墟になったローマの映像をみながら、今日はつくずく「国家の欺瞞」を見せられた気がした。



 雑文腹の虫を始めるまで

 昨日、「廃墟」とか「平和」とか屁理屈を書いたが、これはブログ一年生のテスト入力だった。実は、一年前に息子から「ブログを教えるから」と、機械音痴のわたしが「70の手習い」を始めたわけである。ブログには先ず「詩」を入力しようと思った。「詩」は短いから簡単と思ったのだ。ところがドッコイ「ブログ」というものは「行わけ」がエライむずかしいのである。

 結局、お手あげの形で、「ブログ」は休眠状態をほぼ一年間続けてしまった。「行わけ」が出来ないなら、雑文でと思いなおしたのが、今回の「くにさだきみ雑文腹の虫」である。どうにも腹の虫が治まらない事柄をかきたい。

 どんなことになるやら?もう休眠だけはしたくない。



 今年の仕事

 年金生活だから、無職の身。仕事といえば気がひけるが、馬力をあげて詩を書かなければ。あと何年書けるかを考えるとウカウカもしておれない。書きたいことも、書かなければならないことも年々増えて、その逆に、気力・体力がどんどん減っていく。どうしてもこの際、「馬力」を!となるのであるが、生来寡作であり、瞬発力がまるでない。だから、今年はどうでもいいことに手を出すまいと決めている

 無理をしてしなくても済むことなら、仕事は人様に譲りたい。客観的には、至極つまらないことだけれども、人様が書かないことが書けたらと思う。それが、いまのわたしのやりたい仕事である。もう一つ、あまり人様のやりたがらないことも、わたしの仕事にしたいと思う。



 麻生さん あなたが給付金貰うのはサモシクないのかしら?

 あなたは確か「お金持ちのひとが、定額給付金をもらいたいと言うのはさもしい考えだ」といいませんでした?国民はみんな覚えていますよ。そろそろ認知症になろうかという年齢のわたしだって、チャンと覚えていますからね。いいかげんなことを言ってると、また支持率下がりますよ。

 国会議員のみなさんも、定額給付金を受け取るそうですね。それだってサモシクありませんかねえ。自民党の方針にしたからサモシクなくなったの?

 77歳の、シガナイ年金ぐらしのわたしだって、定額給付金なんかもらっても景気がよくなるなんて思えませんし、選挙対策ミエミエの「サモシイ政策」と思ってきましたよ。22兆円もばら撒くんだったら、生活保護費や雇用対策に使ってくださいよ。

 ホームレスの人は、生活保護も受けられないまま放置され、多分住所がなければ、定額給付金だって貰えないでしょ。麻生さん。麻生セメントの御曹司のあなたに給付金が受け取れ、ホームレスの人はなぜ生活保護も給付金も貰えないのかしら?オカシイ思いません?

 多額の事務費を使って給付金をばら撒いたら、今度は消費税の増税!iいい加減にしてくださいよ。あなたが給付金を貰うか貰わないかは、どっちでもいいけれど、2兆円のわたしたちの血税を、事務的経費も含めて、自・公の党利・党略に使おうって魂胆がサモシイって、わたしはいいたいの。



 ちょっと楽しみなこと

 ケイコちゃんから電話があった。「生活と健康を守る会」専用の「なんでも相談」の電話へである。

 「なんでも相談」を始めて何年になるだろう。毎日のように結構深刻な相談が飛び込んでくる。今日は2件「相談」があった。1件目は会員からのものだった。次男とふたり、つつましく暮らしている人からであった。「長男が戻って来てなあ。仕事もやめてしもうとって、どうすりゃあええんじゃろうか。死のうか思うたりする。」というものだった。長男の方の了解を得て、生活保護の申請をしては?と話したが、話し合いが縺れたのかその後は音沙汰がなかった。

 2件目がケイコちゃんからだった。去年の秋から毎日ナガイナガイ電話をかけてきていた。ケイコというだけで住所も電話番号も明かさなかった。苗字も伏せたままの相談であった。

 母親が怖いという。母からも兄からも暴力を受けているという。一応は別居して独り暮らしなのだが、いつ兄や母が来るかと心配で眠れないのだという。鍵をいくつもかけているというのである。精神的に安定していないようで、わたしはずっとケイコちゃんの話を聞いてきた。

 最近、父親が亡くなり遺産相続の問題が起こって、母から度々「判を押せ」と言われている。「書留がきたけれど、事情を話して受け取らなかった」とケイコちゃんが言ったのが、年末のことであった。

 年が明けてもトラブルは続いていたようだ。「怖い」「怖い」「眠れない」「どうしよう」と何度も何度も電話が入った。精神状態が正直いって心配である。「お医者さんにみてもらったら?」とすすめるのだが「怖い」「怖い」というだけで、埒があかない。

 そのケイコちゃんが、電話番号も教えてくれて、「明日おばちゃんと逢いたい」と言ってくれた。ここには書けないけれど、苗字も明かしてくれている。とにかく、明日会ってみようと思う。声も明るかったしきっと会ってくれるとおもう。楽しみだ



 ケイコちゃんのこと 伊藤さんのこと

 ケイコちゃんに会うことができた。透き通るような声と皮膚の人。人の少ない店を選んで、スパゲッテーを食べ紅茶を飲みながら、彼女の透き通った淋しい声を聞いた。家族は血でつながっていて、切ることも切れることもない運命共同体だと思っていたのに、どうしてこんなにもモロイ関係に変わってしまったのだろう。原始共産社会の成立以来、日本の家族は、一つ釜の飯を食う共同体だったはずなのに、ケイコちゃんの話は、ズタズタの親子関係の延々と続く、なんとも惨めな内容であった。

 崩壊していく資本主義社会の、これが家族の姿かもしれない。ケイコちゃんの、澄んだ瞳とまるで似つかわしくない母親への憎しみ。

 話しているうちに、明るい表情に変わっていくケイコちゃんに、いくらかホットしたものの、人のつながりがここまでとは思わなかったから、駅のホームに立つ人影と、吹きすぎていく寒風が、ガラス絵みたいに思えて悲しかった。

 「生活と健康を守る会」の相談電話に、伊藤さんという人からも相談が入っていた。『雇用切れ』にあったのだという。昨日はケイコちゃんの心の問題だったが、今日は伊藤さんの生活の問題でありカネの問題だった。

 雇用促進住宅に入居するにあたって、4万円余りのお金を借りたいという相談なのである。「総社市社協」に独自の小口融資の制度があるので、わたしの夫が保証人になり、こちらはなんとか解決することが出来た。

 伊藤さんの話では、三菱の下請けの会社に非正規雇用で働いていて、突然、派遣会社から『解雇通知』を受けたのだと言う。派遣会社は三菱から1億円貰って、解雇の下請けまでしているのである。まったく開いた口がふさがらない。

 悲しいと言えばいいのか、悔しいと言うべきか、暗い現実にコトバを失う。決意を新たに、敢然として闘うしかない。



 骨を折った話

 実は昨年11月8日、ボランティアでバザーをしていて、左手首を骨折してしまった。2センチ位の段差に気づかないで、躓いてしまった。ぐぁんと、思わずついた左手に衝撃があった。ヤッタナ!と思ったが後の祭り。

 車で病院に運んで貰ったが、レントゲン写真をとると、明らかに手首が2箇所折れている。手首のあたりの骨も「くの字」に曲がっているのだ。医者は「手術が必要かなあ」と顎を撫でながら考えている。面倒なことになったなと思っていると、「引っ張ってみましょうか」とその若い医者は笑いながら言うのである。イタイなどと言うものではなかった。息ができない位の激痛である。しかし、もう一度レントゲンを撮って貰うと、嘘のようにすっかり形がよくなっている。

 ギブスがとれたのは、クリスマスの日だった。左手だったからよかったけれど、それでも1月半ほど片手の生活だった。運転ができない、タオルが絞れない、リンゴの皮が剥けない。右手の爪は右手では切れない。

 ギブスがとれても、実はまだ運転が出来ないでいる。ボランティアも開店休業のままで年を越した。それでも、手術をしないで済んだのは有難かった。若いあのお医者様のお陰である



 あってはならないことが起きてしまった



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 コーサック社の くにさだ きみ 紹介ページ


くにさだ きみ
【経歴】
1932年岡山生まれ。岡山県総社市在住。
詩集『くにさだきみ詩選集130篇』など、詩論集『しなやかな抵抗の詩想―詩人の生き方と言葉のあり方(1962-2010)』。
個人誌「径」発行。詩人会議、日本現代詩人会会員。
「コールサック」に参加。
壷井繁治賞、富田砕花賞を受賞。

【詩を紹介】

ホタルイカの自決 

ホタルイカの「身投げ」というものを 映像で見た。

あれは
ほんとうに  「身投げ」だったのか。
海から陸へ、
大量に打ちあげられていく
やわらかいもの 光らないもの―

ひょっとしてあれは 自決だったかも知れないのだ。

浅瀬には ホタルイカの
目と目と目とが無数に散らばり、
手かも足かもわからないものが もつれあい
無抵抗に、
浮かんだり沈んだり
からまりあったり 流れたりしている。

あの日
断崖に追い詰められたヒトビトは どうして
自殺ではなく
「集団自決」をしなければならなかったのか。

手と手と手とは 目と目と目とは
何を見つめながら(思いながら)
イノチを断っていったのだろう。
ムスコや ムスメや ハハオヤの―

ニンゲンの「自決」とは何だったろう。歴史の中で。

海から陸へ
波は 投網のように打ちあげられ、
陸から海へ
崩れるかたちに 砂粒が引き戻される。

テレビは 次の瞬間、
手に手に網(タモ)を持ち 裾をからげて
ズラズラズラっと波打ち際に佇ち並ぶ
ニンゲンの 目や手や足を映していた。

捕られる一瞬、
ホタルイカはあんなにも海をしたたらせ
あんなにも
ペッタリとひとかたまりになるものだろうか。
(血さえ吹かない ただの白いものを)
しっかりと網(タモ)にからまれていて―

ニュースは ひとつの「身投げ」で静かに終わった。

「集団自決」とは、
オキナワの だれが どこに
打ちあげられた話だったか。
その日はどんな色と
どんな臭いの 何がしたたり
だれとだれとが
どんな網(タモ)を持ち波打ち際で待ちうけたのか。

映像はそのあたりで音を消し 途切れる。

   *

もう半世紀を超えようというのに
へいわ。
  へいわ。
へいわ。
  へいわ。

海は―
投網の形相で打ちよせてくる。

波打ち際の
その日の記憶を呑みこんだままで―


闇の現(うつつ)

   (3) 闇を鬻(ひさ)ぐ

敗戦からわずか五日後のこと。
関東尾津組の親分衆
喜之助が
「新宿マーケット」という
葦簀張り
青天井の店を開いた。

―光は新宿から―

そこでは
ほんのさきほど目覚めたばかりの
家財道具と食器類とが
輝いている。
(ピッカピカに磨きたてられて)

  ご飯茶碗   一円二〇銭
  素焼七輪   四円三〇銭
  高下駄    二円八〇銭
  フライ鍋   一五円
  醤油樽    九円

ベークライト製の
皿や汁碗三ッ組 八円。
それらは
もはや統制価格の通用しない
闇価格であったし
闇市だった。

    「鉄兜を鍋に更正致します。
    二升炊
    加工賃 七円九十銭」

白木の
木の蓋もきちんとつけられていて、
それは見事な
軍需産業からの脱却であったし
平和産業への転換であった。

八月十四日。
鈴木貫太郎内閣が、唐突にも
  「軍その他の保有する
  軍需用保有物資、資材の緊急処分の件」
という通達を流してしまったので、
軍放出の物資は
大量に―
民間に出まわるようになったのだけれど。
  軍刀が
  包丁やナイフ・ナタ・マサカリに更正されて―
  機関銃の工場が
  国産ミシンの製造に鞍替えしたという噂も流れて―

軍需産業は
どれほどの闇を潜り抜け(付加価値をつけ)
浮上して
平和産業への転換を成就したかが問われている。

―光は新宿から―

敗戦からわずか三日後のこと。
内務省、警保局長通達というものが
全国都道府県に無電で打たれて
(その要請を受けてのことであったのだろう。)
特殊慰安施設協会(RAA)では
  「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に
  狂瀾を阻む防波堤を築き、
  民族の純血を
  百年の彼方に護持培養するとともに
  戦後社会秩序の根本に
  見えざる地下の柱たらんとす。」
と。
早速「昭和お吉」の募集を始めた。

   「   急 告
    特別女子従業員 募集
      衣食住及ビ高給ヲ支給 前借ニモ応ズ
      地方ヨリノ応募者ニハ 旅費ヲ支給ス
          Recreation and Amusement Association. 」

―光は新宿から― だった。
―闇もまた新宿から― である。

戦時中 
「従軍慰安婦」募集に協力した
「特殊慰安施設協会(RAA)所属の七団体」は、
戦後
  〈人柱〉にネッカチーフをかぶらせて
  〈人柱〉にハイヒールの靴をはかせて
  「平和的」に―
  「民主的」に―
身体(からだ)を米兵に鬻(ひさ)がせ続けた。
―ひっくり返した鉄兜を鍋にする仕方で―

   参考文献 「昭和の歴史⑧―占領と民主主義」 神田文人 著


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 以下は過去の古本屋通信の再録である。私は既に以下の詩集を全てお売り払っている。郷土出版物をいっせいに処分したとき同業に適正価で引き取ってもらった。シンフォニーの古本市に出たと思う。自分のたいせつなコレクションだったが、独占的私有はしばしば排他的であり、他人の目を詩人から遠ざける。そう思って一気に放出した(古本屋通信)。

古本屋通信  No 31  9月27日

 
郷土の詩人たち

 棚の本の中から郷土の詩人のものを取り出してみた。詩集ばかりではないが、私のお気に入りの蒐集の一部なので、リストアップした。

*共同詩集 青いデュエット 三澤信弘 坪井宗康
*追悼 詩人三沢浩二
 秋山基夫編 和光出版 2007 初版 追悼文
*詩集 存在のなかのかすかな声 三沢浩二 1959 初版 署名 知覚社
*西川緑道 三沢浩二 双書現代詩一千行 手帖舎 1989 初版 
*連帯詩集 坪井宗康 平和書房 1975 江草昭治装丁 帯 初版 
*詩集胃袋 坪井宗康 青磁社 1979 表題詩は1975年の入選作品
*坪井宗康詩集 カゲロウ異聞 手帖舎 宮園洋装丁 1982 初版 
*坪井宗康詩集 その時のために 手帖舎 佐藤定装丁 1986 二刷
*詩集 風景の中の風景 坪井宗康 手帖舎 佐藤定装丁 1986 
*郷土人物物語詩編 さんぽ太郎よ甦れ 坪井宗康 佐藤定 1986 

間野捷魯詩集 木犀書房 1971 「体温」全作品と当時の解説2文
*歳月 間野捷魯詩集 泰樹社 昭和62年 栞に永瀬清子と上林の評
 
*随想星霜記
 間野捷魯 日本文教出版 平成5年 石川真佐代版画 
*詩集年輪 間野捷魯 本多企画 2000 初版 帯 最後の詩集
*随想静夜抄 間野捷魯 本多企画 2001 初版 帯 遺稿 95歳

 くにさだきみ詩集

*木にかえす *写撃者 *ミッドウェーのラブホテル *けだもの考証録  
*獏の餌箱 *ブッシュさんのコップ *しなやかな抵抗の詩想
*罪の翻訳 *オリの春 *国家の成分

 坪井あきこ詩文集
*白い鳥  *遠い記憶  *アカシアの咲く町で  *小さな庭で

*茜空 青井憲一遺歌集 手帖舎 則武真一序文 宮園洋装丁 1998
*歌集 波涛 木島一直 赤木健介選 金光剛画 倉敷民文 1974
*中野重治詩集 1947小山書店 戦旗社版ナウカ社版に続く第3詩集
*永瀬清子詩集 1969年 昭森社 クレンデルの母親 諸国の天女所収
*全患協斗争史 森田竹次 森田竹次遺稿集刊行委員会 帯 1987
*詩集 日本組曲 吉塚勤治 創美社 1955 奥付欠 中津瀬忠彦素描 
 
*苅田アサノ 人と思い出 其刊行委員会 1976 発行人堀江邑一
*岡山県詩集 1959年版 刊行委編 最初の県詩集 詩人の住所録
*凍原 中務保二 文学手帖社 小説作品 献呈本 昭和25年
*片岡いほき詩集 背広 片岡五百樹 1979 献呈本 岸本徹解説

*詩集 木を挽く人 沖長ルミ子 視点社 1999
*亀島山地下工場 沖長ルミ子 手帖舎 1991

*詩集  (ムシ偏でikiと読む) なんば・みちこ 土曜美術社 1999
*21世紀詩人叢書 伏流水 なんば・みちこ 土曜美術社 1992 

*松田研之詩集 職場からの報告 明治乳業 支援する会 1980
*詩集 ねぶかの花 松田研之 詩学社 帯 初版 2001

*矢木明詩集 消えぬ導火線 矢木明 国鉄詩話会 金光剛画 1967
*駅の刻印 双書現代詩一千行 矢木明 手帖舎 宮園洋装丁 1991 
*何をしゃべってきたか十六年 市議会報告集 矢木明 手帖舎 1987

 上記は、郷土詩関係の私のコレクションの一部である。古本屋だから値をつけて売っているが、売るためだけに蒐めたものではない。趣味かと問われると返事に困るが、下手な書評を書くより目録的に羅列するのが、趣味と言えば趣味に叶っている。
  1. 2015/02/23(月) 00:06:23|
  2. 未分類

村井明美ツイートの混乱

古本屋通信     No 1303  2月22日

 
村井明美ツイートの混乱は此処から始まった。



01-27 17:19  村井明美  イスラム国の人質戦略は、許せるものではありません。危険な地域に行った人を冷笑するのは止めましょう。安倍さんが軍拡路線を進めれば、日本国内でテロや人質事件が起こることになるのです。あなたが拘束されないとは言えないのです。憲法9条を守り発展させてこそ、平穏に暮らせるのですから。


 古本屋通信

 村井さんがたったこれだけ書いた。そしたら今日に至るまで村井さんのページは混乱が続いている。ご本人は混乱しているとはサラサラ思っていまい。多くのツイートが夫々独立したつぶやきだから、喧嘩があるわけじゃあない。全体に安倍政権の批判者が多い。しかしその内容はよく言えば議論百出、実際は低レベルの御喋りクラブである。ハッキリ言おう。2チャンネル共産党村井板である。まあ、暇な人はその後の村井ツイートをフォローしてみてください。しかしコレは党員ページとしては異常である。私はこういうサイトが一概に悪いと言っているのではない。討論クラブも御意見板もあってよい。性格はまるで違うがキンピーサイトのようなのもある。しかしこの場合も管理人のリーダーシップはある。村井さんのはリーダーシップ無しである。無政府状態。本人はそれでよいと思っている。しかしそれがデタラメである一例が私の直前板である。他にもデタラメをたちどころに30くらい挙げることが出来るが、私はそこまで暇ではない。


  01-27の村井さんのこのツイートは、一人目の人質が殺されたあとネット上で一斉に自己責任論が起った直後に発せられた。名前さえも忘れたが、人生に行き詰って性器を切り落として名前をハルナと女性名に変え、戦地に賭けた男だった。武器を調達して一旗上げることを目指したらしい。この時点では割と正確に報道されていた。だから同情は起きず、自己責任論は圧倒的多数であった。ところが一人目の人質が殺されたあと、二人目の後藤さんが主役になったころから急に雲行きが変わる。ブルメディア上げてイスラム国=テロ組織糾弾である。この文脈の中で志位の池内叱咤もあった。私はそれを時間限定で支持した。しかしこの「非常事態」対応はそのご複雑な展開となるが、此処では省く。


  一人目が殺された時にはまだ残っていた自己責任論は二人目の後藤さんが殺された後ではほぼ完全に消えた。と言うよりブルメディアの情報コントロールである。ヨルダン政府と米軍の殺人を当然のこととした上で、「テロ組織」対応の是非に限定して論じるのだ。これは根本的に誤っているが、以後の村井ツイートも、小池質問も、志位代表質問も基調は変わらない。共産党が政府の対応を検証すると言っている。大筋で政府が2人を見殺しにしたのは止むを得なかったのだから、検証の仕様がないのだが。


  あれこれ書いても捩れた文になることは避けられそうもない。そこで下手な文を長々と書くことは止める。その代わり村井ツイートの中でとりわけ問題があるものを列挙する。夫々について私の一行コメントを赤で付ける。順番は新しいツイートからとなる。


ちえぞう @tchiezinha
· 10時間 10時間前
沖縄は捨て石でも、米軍にとって都合のいい要石でもない。
小さいけれど、本当に大事な、その石そのものが尊い、それが沖縄。


意味不明瞭。


ハフィントンポスト日本版 @HuffPostJapan
· 11時間 11時間前
【ダーイシュ(イスラム国)】殺害された21人のエジプト人男性、家族が語るそれぞれの人生 http://huff.to/189IdPN


ハッキリと有志連合側、つまり侵略者側。



ハフィントンポスト日本版 @HuffPostJapan
· 15時間 15時間前
【中東】ヨルダンのヒップホップグループがイスラエルのネタニヤフ首相を訴える。理由は? http://huff.to/1zSMKve


ハッキリと有志連合側、つまり侵略者側。


ミカエル ℳ✧ @Mikhail_1984
· 1月3日
まさか安倍が青林堂やワックから書籍を大量に購入していたとは…。
青林堂は桜井誠やKAZUYAの本を出版したヘイト出版社だし、安倍自身がヘイト本の氾濫に加担したも同然だ。



既に批判し尽くした。


mold @lautrea
· 3 時間 3 時間前
百田尚樹は物書きではなくただのマスかき。


書くほうが十倍不潔。

ちょっと根気が要る。時間があればやる。

 村井さんはしばしば自分のその時どきの実感で言葉を発する。つまり後先がない。こういうのは圧倒的に女に多い。コレでは困るのだが・・・・・・・・・・・。

  1. 2015/02/22(日) 05:52:21|
  2. 未分類

安倍批判者の劣化を憂える

古本屋通信     No 1302   2月21日

  
安倍批判者の劣化を憂える


  私はツイッターなる伝達手段(メディア)を殆んど知らない。時どき覗くのは坂井希さんと村井明美さんだけだ。坂井さんにはいつも教えられる。村井さんはブログをツイッターに切り替えられたので、仕方なく見るようになった。「通信 No 1200 12月30日 村井あけみ のツイート の力」 は私が村井さんのツイッターを絶賛した板だ。その後もずっと注目してきた。色々な人が登場してきた。まあ、こんなもんかなと思っていた。好きにつぶやくのがこのメディアだろう。しかし共産党議員の正式サイトとしては少し自由闊達すぎはしないか、そう思い続けて今日まで来た。ネトウヨが多いと云うのではない。いっけん共産党の主張に近いつぶやきにデタラメが多いのだ。そういういい加減さをコントロールできないとしたら、党はこのメディアを再考しなければならないのではないか。ひとつだけ村井ツイートから採りあげる。最新の表示分である。

ミカエル ℳ✧ @Mikhail
まさか安倍が青林堂やワックから書籍を大量に購入していたとは…。
青林堂は桜井誠やKAZUYAの本を出版したヘイト出版社だし、安倍自身がヘイト本の氾濫に加担したも同然だ。




 古本屋通信

 これには驚いた。私は青林堂をよく知っている。古本屋が好きな出版社だ。『ガロ』で有名だ。白土三平を育てた出版社だ。そのご色々出版しただろう。右も左も出版しただろう。何であろうが売れれば出版する、これが商業出版である。これは節度がないのではなく、市場原理に委ねるという点で、寧ろ商業出版の節度なのだ。無論その上で出版社のカラー (主義主張、出版理念) があってよい。しかしそれも商業主義の範疇なのだ


  安倍が青林堂から書籍を大量に購入して何処が悪い。キチガイか。青林堂が桜井誠の本を出して何処が悪い。低脳か。「左」からの魔女狩りか。あのね、私だってPHP出版だとか、幻冬舎だとか、企業自体が特別に階級的使命を担っている出版社はハナから糾弾する。ブル新聞も糾弾する。しかし一般に出版社は糾弾しない。たとえ右翼的傾向が濃厚でも出版社自体を糾弾しない。批判は個別の出版物についてやる。それが日本国憲法のいう表現の自由だ。言論出版の自由だ。

 「安倍自身がヘイト本の氾濫に加担したも同然だ」


 こういう認識の輩は少なくとも左翼戦線に馴染まない。ネットウヨ親和である。安倍のほうがずっとマシである。言論ファッショである。しかし信じられない。



 私の認識を書こう。いま日本で影響力があるもっとも反動的な出版社は新潮社と文藝春秋社だろう。週刊誌もそうだが、殆んどの出版物はゴミである。私も新刊でも古本でもまず買わない。しかし不破も自著を新潮新書で出している(註)。出してもよいではないか。これらの出版社には文芸雑誌もある。私はいま 『新潮』 や 『文学界』 がどうなっているのか知らない。しかしこの純文学月刊誌に登場する作家は「右翼本の氾濫に加担したも同然」なのか。その雑誌を買ったものも「右翼本の氾濫に加担したも同然」なのか。
 またその昔、新潮社は 『マル・エン選集』 を刊行していた。大月の文庫本よりよく売れた。私は「ド・イデ」 も 「イギリスにおける労働者階級の状態」 もこれで読んだ。

 日本共産党は将来にわたって出版の自由を保障すると明言している。村井さんに限らず全ての党員はツイッターの使い方を再検討しなければならない。




訂正
上記の赤字個所=不破本についてブサヨさんから指摘がありました。お詫びして訂正します。
『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』 不破哲三、新潮社、2005年 単行本でした。
『マルクスは生きている』 不破 哲三 (平凡社新書) 2009年 こちらが新書でした。
  1. 2015/02/21(土) 10:13:19|
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谷川俊太郎の永瀬清子論

古本屋通信     No 1300   2月20日


 
 谷川俊太郎の永瀬清子論


 以下の3文はいづれも武田英夫の いのしし日記 2月18日分である。書き溜めて深夜にアップしたのであろう。それぞれ私の短評を加えた。



谷川俊太郎の永瀬清子論    武田英夫
  2015年2月18日 23:34
15日、熊山で「第18回朗読会・永瀬清子の詩の世界・・イトハルカナル海ノゴトク」が開催されました。詩人・永瀬清子さんの没後20年を記念した集会であり、詩人の谷川俊太郎さんの話があるということですので、万障繰り合わせて参加させてもらいました。
 谷川俊太郎を囲んでの座談会は、地元赤磐市の小・中学校の教師の「詩の授業」の創意的な取り組みの紹介もあり、それはそれで勉強になったのですが、谷川さんの次の一言が極めて印象的でした。
・・皆さんの努力は素晴らしいものがあるが、永瀬清子をあまり地元に取り込まないでほしい。永瀬清子は女性詩人として全国的・世界的な位置を占めている人なんだから・・・
 あらためて永瀬清子の「大きさ」を痛感させられました。
・・ユラメキタダヨエド我ハマドワジ、流レ去ルトモ我ハ忘レジ・・
 (揺らめき漂えど我は惑わじ、流れ去るとも我は忘れじ)
(「イトハルカナル海ノゴトク」永瀬清子より)
永瀬清子さんの凜とした姿勢が伝わってくるもので、私が大好きな一節です。



 古本屋通信

 「万障繰り合わせ」 なくても行けるだろうが、たとえ暇で暇で死にそうだとしても、もう少し他に行くところがあったろう。永瀬だろうが片山潜だろうが、郷里の有名人の著名を使って村興しを試みるほどゲスはない。どうせ谷川を招んだのは吉備路文学館あたりを仲介にした熊山町だろ。谷川は来たくなかったが、仕方なくやって来た。それでも腹の虫が収まらないので (10万では不満? 30万は出せない。領収無しの謝礼金はホントに難しい。公務員は苦労する。明らかに谷川は不満だったんだ。そういう男だ。然し詩人なんて印税収入殆んどない。講演料だけが収入なんだ。同情はしないが、理解できる) 熊山町を皮肉った。

 「・・皆さんの努力は素晴らしいものがあるが、永瀬清子をあまり地元に取り込まないでほしい (こういう下らないイベントは今回限りにして欲しいという意味。古本屋)。永瀬清子は女性詩人として全国的・世界的な位置を占めている人なんだから」

 これは永瀬にたいする谷川の否定的な評価と皮肉が含まれている。「女性詩人として」 とはどういうことだ? 女だから(女限定で)「全国的・世界的な位置」 なのか? 谷川にアレコレ言われなくても、永瀬は世界的な位置は論外、全国的位置も占めてはおらん。よい詩もあるが酷い戦争賛美詩もある。全体のレベルもそんなに高くない。私に言わせると間野捷魯くにさだきみ以下である。

 まあ、それはそれとして、武田の文は 「谷川俊太郎の永瀬清子論」 になってない。それに永瀬もこういう引用のされ方を嫌がるだろうな。少しでも韻文(詩、俳句、短歌など)を理解するものは、こういう引用はしない。



憲法25条を問う「朝日訴訟」の意義・・裁判記録に沿って   武田英夫
  2015年2月18日 23:30
憲法第25条に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)を争った人間裁判・朝日訴訟の記念講演会に参加しました。主任弁護人である新井章弁護士が「朝日訴訟関連資料を発見して」と題して講演される興味深い講演会でした。
新井弁護士が紹介した裁判記録の中で、あらためて考えさされたのが、憲法25条の条文にある「最低限度の生活」という文言です。
単に「健康で文化的な生活」としていうだけでなく、「最低限度の生活」と記している意味は、「基準」を「時の政府の施政方針によって左右されることのない客観的なものとして国の責務を賦課している」という点です。
政府の恣意的な方針で社会保障の切り捨てがあってはならない・・この点を明確にすることこそ、私たちが現在、「朝日訴訟」に学ぶべきことだと考えさされました。


  古本屋通信
 アホらし。やめた。




衆院本会議での志位質問・・「テロに屈するな」の言論封じでよいのか   武田英夫  2015年2月18日 23:22
昨日の衆議院本会議での志位委員長の代表質問の中で、「テロ問題での安倍総理の態度について」の論戦を注目して聞きました。
志位委員長は、総理が、「テロに屈する」の一言で冷静な検証を拒否する態度をとっていることを指摘しています。この議論には経過があります。
日本共産党の小池晃参議院議員が、総理の中東歴訪での言動を指摘し、「そういう言動をとれば、2人の日本人に危険が及ぶかもしれないという認識があったのか」とただしたことに対して、安倍総理は質問に答えず、「そういう質問をすること自体が、テロに屈することになる」と答弁しています。
志位委員長はこうした経緯を踏まえて、「『テロに屈する』の一言で、異論を封じ、冷静な検証を拒否するという態度でいいのか」と総理の姿勢を正したのです。
 エコノミストの浜矩子氏も「テロリストが何をどう考えているのか」「どういうところからあの残虐性が出てくるのか」を探求しそれへの対応抜きにテロ対策はないと語っていますが、全くその通りだと思います。
 日本共産党は、「2人の日本人が拘束されてから今日にいたるまでの政府の対応について、国民に納得のいく説明を行うとともに、検証にとって必要不可欠な情報を公開することを強く求める」(志位質問)ものです。


  古本屋通信
 志位が無茶苦茶なのには綱領的根拠があるが、それに輪をかけた武田の無茶苦茶には根拠がない。浜矩子の引用などホラーのお伽噺か。私は既に書き尽したが、林や武田のような党員がいる限り、日本の帝国主義戦争は避けられそうもない。戦争前に二人を岡山の公職から永久追放しなければならない。
  1. 2015/02/20(金) 13:15:44|
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佳木斯医科大学

古本屋通信     No 1299   2月20日

  佳木斯医科大学 『初雁の集い』



 1年程前に入手した大型本数冊。捨て切れず自宅の押入れに放置していたものだ。これを今朝取り出した。その中に 『初雁の集い』 という医科大学の同窓会記念写真集があった。函入りで中味はカラー写真満載。いかにも金持ち医者の自費出版らしい贅沢である。本冊にはトビラも奥付けもない。到底本と呼べない代物である。私が捨てないで残しておいた理由は、日本が1940 年に旧満州に設立した医科大学資料だったからだ。当然ながら1945年の日本の敗戦で廃校となる。在学生の殆んどは日本の大学へ何とか編入して卒業し、そのご医者になった。戦後の何回かの同窓会の様子を写真に撮り、1983年に『初雁の集い』 の刊行となったのである。

 私としては何とか高く売りたいのだが、何所のサイトでも販売実績がない。アマゾンに表題だけあった。仕方がないのでグーグル検索をした。そしたら以下のお医者さんらしい方の記事があった。たぶん佳木斯医科大学と無関係な方だ。日本の侵略戦争末期に設立されたこの大学を的確に言い当てられている。転載させていただきます。ありがとう。



 鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽
 2014年01月28日  佳木斯医科大学と細菌戦
こんな学校があったことは知らなかった。
佳木斯と書いてジャムスと読む。濁らずにチャムスともいうようだ。旧満州に存在した医学専門学校である。児玉健次さんの「15年戦争と佳木斯医科大学」*という論文で、この学校のことが紹介されている。

1.チャムスの位置
まずは旧満州国の地図を広げてみよう。
http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/4/444727e1.jpg
ウィキペディアには以下のように記載されている。
満州国が建国されると新設された三江省の省都となり、周辺の穀倉地帯の拠点として、また沿海地方のソ連軍に対する将来の戦争の際の防衛・侵攻の拠点として重要な都市とみなされ、輸送・軍事用の鉄道などが整備された。
1937年には図佳線(図們-佳木斯)、1940年には綏佳線(綏化-佳木斯)が開通し、東満州一帯の農産物集積地となった。1937年には市に昇格している。
満州国時代には初期の武装移民団はジャムス南方の広大な沃野に入植し、弥栄村がその代表としてしばしば日本に紹介された。

2.前線に建てられた大学
満州には5つの医科大学があった。
新京医科大学(国立): 1929年吉林医学校として創設され、1935年吉林国立医院附属医学校(修業年限四年)と改称。さらに1937年新京医学校と改められ、ついで1938年1月新京医科大学として国立大学に昇格した。
哈爾濱医科大学(国立): 1926年9月に浜江医科専門学校として設立され、「満州事変」後も認可され存続。1938年、「満洲国」政府の大学令によって国立哈爾濱医科大学に改編された。
佳木斯医科大学(国立): 日本の移民政策に伴い、1940年、佳木斯医科大学が新設された。教職員及び学生は全部日本人であり、他の民族の者はいなかった。(若干の非日本人学生がいたことは後述のとおり)
満州医科大学: 南満医学堂(医専)が1922年に、日本の大学令による満州医科大学として再編され、満鉄によって経営された。東北地方で規模が最も大きい学府であった。
盛京医科大学: 1911年私立奉天医科専門学校として創立され、1939年2月に盛京医科大学と改称。
こうして並べてみると、チャムス医科大学の特異性がよく分かるだろう。まさに前線の大学であり、医学を学ぶこと自体が、直接軍事目標の中に据えられていたと考えてよい。

ここに卒業生の談話があるので紹介させてもらう。
…北海道・東京・福岡で入学試験があって、合格した人が満州に行くのです。満州は遠かったですね。飛行機なんかありませんから、長野から列車で名古屋経由でまず門司港に行き、船で釜山をめざします。そこからまた列車でソウルに入り、大学のある佳木斯(じゃむす)まで延々5日かかりました。
私はそこの3期生でしたが、3期生全80人のうち70人は日本人、残り5人ずつが韓国と中国の方でしたね。

3.佳木斯医大、なにが問題か
当然バリバリの軍国主義者が幅を利かせていたようだ。初代の学長は相当の大物で、陸軍軍医学校長、軍医総監を歴任した寺師という軍医中将である。
教務主任を務めたのが正路倫之助という生理学の教授で、この人物が731部隊と浅からぬ関係にあったとされる。
児玉さんの研究によると、京大生理学教授を兼任する正路は、京大の若手医学者を731部隊に送り込んだらしい。
これが悪役の一人。
もう一人が、こちらのほうが大物だが、北野政次という人物である。
この人は佳木斯医大ではなく満州医大の細菌学の教授だが、現役の軍医大佐でもあり、後に731部隊の隊長を勤めることになる。
この人が前線の佳木斯で“研究”を推進しようと考えた。そこで派遣されたのが岩田茂という人である。この人が41年4月に佳木斯医大に着任し、新設された細菌学教室の教授に就任した。
そこでどのような研究が行われたかは想像に難くないが、細菌戦の研究が行われたであろう状況証拠として、児玉さんは次の事実をあげている。
すなわち、関東軍司令部で731部隊の業務を担当した竹田宮参謀が繰り返し佳木斯医大を「査閲」していることである。
*「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」第8巻第1号(2007年10月)

滋賀医大の西山先生の論文が閲覧できる。題名は
「15年戦争」への日本の医学医療の荷担の解明について
というものである。(15年戦争 - 「戦争と医の倫理」の検証を進める会)
このなかで、石井四郎の京大への影響力、正路教授の果たした役割が明らかにされている。
ただし佳木斯医大への具体的言及はない。




 古本屋通信

 余談だが、この方の記事の最上段には内容の信憑性を?とする、よくある表示があった。名前を出された者の関係者がクレームをつけたのだろうか。 いや、名前を出されなくても、医者の中には様々な経歴の方がいる。この大学に限らなくとも人体実験はあっただろう。要は過去の戦争犯罪に蓋をしないで、二度と過ちを犯さないことだ。


 この間の国会答弁。安倍は論外として、民主・岡田も共産・志位もまるでなっていない。15年戦争前夜の様相を呈してきた。挙国一致。アメリカを中心にして、国際連合の旗の下、ありもしない 「国際社会」 をでっち上げて、一致団結して、テロ社会 (かなりの部分が正当防衛権の範囲の正義の反撃) を壊滅させよう。

  これは戦前の大東亜共栄圏思想と変わりない。組む相手が独伊から米に変わっただけ。右翼社民的裏切りもソックリ。志位がこうだから、マトモな共産党員は困っている。言いようがない。

 野次ったのは自民党のチンピラだったらしい。しかし 「さすがはテロ政党」 か。お詫びがあったから深追いしないらしい。
  1. 2015/02/20(金) 06:40:31|
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