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古本屋通信

資料・共産党見解

古本屋通信      No 1065  9月29日

  資料・「河野談話」に就いての共産党見解

 以下の記事を資料として、赤旗日刊紙ウェブ版 (9.27付 赤旗) から転載しますので、活用してください。赤旗を含めて新聞記事には著作権がありません。尚、赤字は古本屋通信に依ります。私は今回のメインは遅ればせの謝罪であると看ています。古本屋通信






歴史を偽造するものは誰か
――「河野談話」否定論と日本軍「慰安婦」問題の核心


「吉田証言」が虚偽だったことを利用した「河野談話」攻撃の大キャンペーン

 朝日新聞は8月5、6日付で掲載した「慰安婦問題を考える」と題した報道検証特集で「吉田(清治)氏が(韓国)済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」と訂正しました。これをきっかけに、一部右派メディアと過去の侵略戦争を肯定・美化する「靖国」派の政治勢力が一体となって、異常な「朝日」バッシングが続けられています。見過ごせないのは、その攻撃の矛先が、「慰安婦」問題で日本軍の関与と強制性を認め、謝罪を表明した河野洋平官房長官談話(1993年8月4日――以下「河野談話」)に向けられていることです。

 それは、「吉田証言」が虚偽であった以上、「河野洋平官房長官談話などにおける、慰安婦が強制連行されたとの主張の根幹は、もはや崩れた」(「産経」8月6日付主張)というものです。「靖国」派議員の集団である自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は8月15日に緊急総会を開き、「河野談話の根拠が揺らいだ」などとして、萩生田光一・同会幹事長代行(自民党総裁特別補佐)が「(河野談話を否定する)新しい談話が出てきてもいい」などと発言しています。8月26日には、自民党の高市早苗政調会長(当時)が「河野談話」に代わる「新たな内閣官房長官談話」を出すよう菅義偉官房長官に申し入れています。「河野談話」否定派からは、「河野談話の取り消しなくしてぬれぎぬは晴らせない。潰すべき本丸は河野談話なのである」(ジャーナリストの桜井よしこ氏、「産経」9月1日付)と、本音があからさまに語られています。

 「河野談話」を攻撃するキャンペーンは、これまでも繰り返し行われてきました。それがどのような特徴をもっているのか、歴史の真実と国際的道理に照らしていかに成り立たない議論であるかについては、すでに日本共産党の志位和夫委員長が今年3月14日に発表した見解「歴史の偽造は許されない―『河野談話』と日本軍『慰安婦』問題の真実」(以下、「志位見解」)で全面的に明らかにされています。「志位見解」は、「河野談話」の作成過程と、日本の司法による事実認定の両面から、「談話」の真実性を明らかにしつつ、「河野談話」否定論について、「歴史を偽造し、日本軍『慰安婦』問題という重大な戦争犯罪をおかした勢力を免罪しようというものにほかなりません」と批判しました。

 ここでは、「志位見解」を踏まえて、「吉田証言」取り消しに乗じた「河野談話」攻撃に反論するとともに、それを通じて日本軍「慰安婦」問題の核心がどこにあるのかを、改めて明らかにするものです。

「河野談話」は「吉田証言」を根拠にせず――作成当事者が証言

 第一に、「河野談話」否定派は、「吉田証言が崩れたので河野談話の根拠は崩れた」などといっていますが、「河野談話」は、「吉田証言」なるものをまったく根拠にしていないということです。

 「吉田証言」とは、1942年から3年間、「山口県労務報国会」の動員部長を務めたとする吉田氏が、1943年5月に西部軍の命令書を受けて、韓国・済州島で暴力的に若い女性を強制連行し、「慰安婦」とした(いわゆる「慰安婦狩り」)とする「証言」です。この「証言」は、1982年に「朝日」が初めて報じて以来、同紙が16回にわたって取り上げ、「慰安婦」問題が政治問題に浮上した90年代前半には他の全国紙も連載企画や一般の報道記事のなかで伝えました。「しんぶん赤旗」は92年から93年にかけて、吉田氏の「証言」や著書を3回とりあげました。

 この「吉田証言」については、秦郁彦氏(歴史研究家)が92年に現地を調査し、これを否定する証言しかでてこなかったことを明らかにしました(「産経」92年4月30日付)。また、「慰安婦」問題に取り組んできた吉見義明中央大教授は、93年5月に吉田氏と面談し、反論や資料の公開を求めましたが、吉田氏が応じず、「回想には日時や場所を変えた場合もある」とのべたことなどから、「吉田さんのこの回想は証言としては使えないと確認する」(『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』97年6月出版)としました。

 「吉田証言」の信ぴょう性に疑義があるとの見方が専門家の間で強まり、一方で元「慰安婦」の実名での告発や政府関係資料の公開などによって、「慰安婦」問題の実態が次々に明らかになるなかで、日本軍「慰安婦」問題の真相究明のうえで、「吉田証言」自身が問題にされない状況がうまれていたのです。

 そうした状況のなかで、93年8月に発表された「河野談話」は、その作成の過程で、「吉田証言」をどのように扱ったのでしょうか。問題の核心はここにあります。この点で、9月11日に放映されたテレビ朝日系「報道ステーション」の「慰安婦」問題検証特集は、当時、官房副長官として「河野談話」作成に直接かかわった石原信雄氏の注目すべき証言を紹介しました。

 そこで石原氏は、「吉田証言」について「あれはこう、なんていうか、眉唾(まゆつば)もんだというふうな議論はしていましたね、当時から」とのべ、日本政府として「吉田証言」をはなから問題にしていなかったことを明らかにしました。

 そのうえで石原氏は、「吉田証言をベースにして韓国側と議論したということは、私はありません」「繰り返し申しますが、河野談話の作成の過程で吉田証言を直接根拠にして強制性を認定したものではない」と明言しました。

 実際、当時、日本政府は吉田氏をヒアリングの対象にしましたが、証言は採用しませんでした。番組では、当時調査にあたった担当者に取材し、「私たちは吉田さんに実際会いました。しかし、信ぴょう性がなく、とても話にならないと。まったく相手にしませんでした」という証言も紹介しています。

 石原氏が断言するように、「河野談話」はもともと「吉田証言」を根拠にしていないのですから、「吉田証言が崩れたから河野談話の根拠もなくなった」などという議論は成り立つ余地などないのです。

元「慰安婦」の証言から強制性を認定――「河野談話」の正当性は揺るがない

 それでは、「河野談話」は、何をもって、「慰安婦」とされた過程に強制性があったと認定したのでしょうか。その点で、前出の石原元官房副長官が、同じテレビ番組で、元「慰安婦」の証言によって、「慰安婦」とされた過程での強制性を認定したとあらためて証言したことは重要です。

 石原氏は、強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったもとで、韓国の16人の元「慰安婦」からの聞き取り調査をした経過を次のように説明しました。

 「政府としては、その(女性の)意に反する形で慰安婦を募集したということがあったのかないのか、これは非常に重大な問題ですから、再度全省庁を督励して当時の戦中の資料の発掘調査を行った」

 「慰安所の運営につきまして深く政府が関わっておった」「輸送について安全を図ってほしいとか、あるいは慰安所の運営について衛生管理あるいは治安の維持をしっかり頼むという趣旨の文書は出てきた」

 「(募集にあたっての強制性を裏付ける資料は出てこなかったため)当事者(元『慰安婦』)の話を聞いて、その話の心証から、強制性の有無を判定することが必要だと決断した」

 そして、石原氏は、元「慰安婦」からの聞き取りを行った結果、「募集の過程で、かなり強引な募集が行われたことがあったようです。結果的に脅かされたとか、だまされたとか、あるいは当時の官憲ですね、まあ巡査なんかが関わってかなり強制的に慰安婦に応募させられたという人がいることが証言から否定できないということになりました」と明らかにしています。

 今年3月の「志位見解」は、「河野談話」作成にいたる経過を検証し、強制的に「慰安婦」にされたことを立証する日本側の公文書がみつからないもとで、強制性を検証するために元「慰安婦」の聞き取り調査を行い、他の証言記録や資料も参照したうえで、日本政府が「慰安所」における強制使役とともに、「慰安婦」とされた過程にも強制性があったことは間違いないという判断をするに至ったことを、当時の河野官房長官らの証言によって明らかにしました。そのことが、当時、官房副長官だった石原氏の証言によってあらためて裏付けられたのです。

 「志位見解」が明らかにしているように、そもそも強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったことは、不思議でもなんでもありません。当時から、拉致や誘拐などの行為は、国内法でも国際法でも明々白々な犯罪行為でしたから、それを命令する公文書などを作成するはずがないからです。また、日本政府と軍は敗戦を迎える中で、みずからの戦争責任を回避するため重要文書を焼却し証拠隠滅をはかったとされています。

 被害者の証言は「被害者でなければ語りえない経験」(河野氏)であり、もっとも重要な証拠です。それに基づいて「河野談話」が、「慰安婦」とされる過程で強制性が存在したと認定したことは公正で正当なものでした。

 「河野談話」の正当性は、いささかも揺るがないものであることは、これらの経過に照らしても明らかです。

日本軍「慰安婦」問題の本質を覆い隠す、問題の二重の矮小化は通用しない

 「河野談話」否定派による、「吉田証言が虚偽だったので河野談話は崩れた」とする議論の根本には、「『強制連行の有無』が慰安婦問題の本質である」(「読売」8月6日付社説)と、「慰安婦」問題を「強制連行」の有無に矮小(わいしょう)化することで、その全体像と本質を覆い隠そうという立場があります。

 「河野談話」が認定した事実は、(1)日本軍「慰安所」と「慰安婦」の存在、(2)「慰安所」の設置、管理等への軍の関与、(3)「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反して」いた=強制性があったこと、(4)「慰安所」における強制性=強制使役の下におかれたこと、(5)日本を別にすれば、多数が日本の植民地の朝鮮半島出身者だった。募集、移送、管理等は「本人たちの意思に反して行われた」=強制性があったこと―の5点です。

 このうち「談話」否定派が否定しようとしているのは、「もっぱら第3の事実――『慰安婦』とされる過程が『本人たちの意思に反していた』=強制性があったという一点にしぼられています」(「志位見解」)。

 ここには、日本軍「慰安婦」問題の二重の矮小化があります。

 第一に、「河野談話」否定派は、「慰安所」における強制使役=性奴隷状態とされたという事実を無視して、「慰安婦」とされた過程で「強制連行」があったかなかったかだけに、問題を矮小化しています。こうした攻撃の手口そのものが、日本軍「慰安婦」問題の本質をとらえない、一面的なものであることは、すでに「志位見解」が次のようにきびしく批判しています。

 「女性たちがどんな形で来たにせよ、それがかりに本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ、一たび日本軍『慰安所』に入れば監禁拘束され強制使役の下におかれた――自由のない生活を強いられ、強制的に兵士の性の相手をさせられた――性奴隷状態とされたという事実は、多数の被害者の証言とともに、旧日本軍の公文書などに照らしても動かすことができない事実です。それは、『河野談話』が、『慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった』と認めている通りのものでした。この事実に対しては、『河野談話』見直し派は、口を閉ざし、語ろうとしません。しかし、この事実こそ、『軍性奴隷制』として世界からきびしく批判されている、日本軍『慰安婦』制度の最大の問題であることを、まず強調しなくてはなりません」

 第二は、そのうえで、「河野談話」否定派は、「慰安婦」とされた過程における強制性についても、「官憲による人さらいのような強制連行」があったか否かに問題を矮小化しています。

 安倍首相は「家に乗り込んでいって強引に連れて行ったのか」(衆議院予算委員会、2006年10月6日)どうかを問題にして、そんな事例はないと繰り返してきました。首相は、「人さらい」のような「強制連行」だけをことさらに問題にしますが、甘言やだまし、脅迫や人身売買などによって「慰安婦」とされた場合は、問題がないとでもいうつもりでしょうか。「人さらい」のようなものでなくても、「慰安婦」とされた過程に「本人たちの意思に反した」強制があったかどうかが問題なのです。この点で強制性が働いていたという事実は、「河野談話」が明瞭に認定している通りです。

 くわえて、「人さらい」のような「強制連行」もあったことは、インドネシア(当時オランダ領東インド)のスマランや中国南部の桂林での事件などでも明確であること、「軍や官憲による強制連行を直接示す記述はなかった」とする第1次安倍政権時代の政府答弁書は事実と違うことは、すでに「志位見解」で詳しくのべている通りです。

 日本軍「慰安婦」問題の本質を覆い隠す、「河野談話」否定派による問題の二重の矮小化は、到底通用するものではありません。

「河野談話」否定派の議論は、国際社会では到底通用しない

 国際社会が問題にしているのは、すでにのべた日本軍「慰安婦」問題の最大の問題――女性の人権を無視し、じゅうりんした、「慰安所」における強制使役=性奴隷制度にほかなりません。これまでに、米国下院、オランダ下院、カナダ下院、欧州議会、韓国国会、台湾立法院、フィリピン下院外交委員会と、七つの国・地域の議会から日本政府に対する抗議や勧告の決議があげられていますが、そのいずれもが問題にしているのは、「強制連行」の有無ではありません。軍(政府)による「慰安所」における強制使役=性奴隷制度こそが、国際社会からきびしく批判されている問題の核心なのです。

 たとえば、2007年7月に米下院で採択された対日謝罪要求決議は、「河野談話」を弱めたり、撤回させようとする動きを非難し、「(日本政府は)世界に『慰安婦』として知られる若い女性たちに性的奴隷制を強いた日本皇軍の強制行為について、明確かつ曖昧さのない形で、歴史的責任を公式に認め、謝罪し、受け入れるべきである」と求めています。

 「朝日」が「吉田証言」を取り消したからといって、この国際的立場はまったく変わるものではありません。英誌『エコノミスト』8月30日号は「『朝日』は済州島の件で間違ったのだろうが、戦時中、女性たちに売春を強制した日本の責任は疑いない」と指摘。同じく英紙のフィナンシャル・タイムズ(8月15日付)も、「日本の保守派の一部は、兵士や当局者が直接女性たちを力で狩り集めたかどうかの問題に焦点をあて、そうでなかったなら日本には責任がないと主張している。しかし、これは醜い言い訳だ」とする慶応大の小熊英二氏のコメントを紹介しています。

 日本軍「慰安婦」問題の核心である軍「慰安所」における強制使役=性奴隷状態とされたことを無視し、「慰安婦」とされた過程における強制性も「強制連行」だけに矮小化する「河野談話」否定派の議論は、国際的にも到底通用するものではありません。

 それは、「慰安婦」問題の本質と実態を隠し、重大な戦争犯罪を行った勢力を免罪するものにほかなりません。

「河野談話」攻撃の「論拠」が覆るもとでの悪あがき

 「吉田証言」取り消しに乗じた「河野談話」攻撃は、みてきたように、実体的な根拠がないばかりか、国際的な道理ももたないものです。

 経過を振り返ると、「河野談話」否定派は、「談話」が出た直後から、歴史的事実や被害者の証言も無視して、「河野談話」を“日本の名誉をおとしめるもの”などと攻撃してきました。2012年に第2次安倍政権が誕生すると「河野談話」否定派は勢いづき、今年2月20日には衆議院予算委員会で日本維新の会(当時)議員が「河野談話」見直しを求める質問を行い、同月28日には政府として「河野談話検証チーム」を発足させて作成過程を検討する事態にまでなりました。

 こうしたなか、3月14日には、「河野談話」見直し論への徹底反論を通じて、「慰安婦」問題の真実を明らかにした「志位見解」が発表されます。その後にこの「見解」に対して「談話」否定派からの反論はいっさいありませんでした。

 さらに、6月20日には政府による「河野談話検証チーム」が、検証結果を報告しますが、これを受け政府は「河野談話の継承」を表明せざるをえませんでした。政府自身が「河野談話の継承」を表明したことで、「談話」否定派は、その足場を失うことになりました。そこに飛び出したのが「朝日」の「吉田証言」取り消しです。「談話」否定派は、これに飛びついて、起死回生の大キャンペーンを開始しました。しかし、「河野談話」を否定する大キャンペーンは、国内外で矛盾をいっそう深めることにしかなりません。

 すでに、「志位見解」は、元「慰安婦」らが日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判では、(1)八つの判決での被害者35人全員について、強制的に「慰安婦」にされたとの事実認定がなされていること、(2)「慰安所」での生活は文字通りの「性奴隷」としての悲惨極まるものだったことを、35人の一人ひとりについて、具体的に事実認定されていることを、明らかにしています。そして、こうした強制が国家的犯罪として断罪されるべき反人道的行為であることを「極めて反人道的かつ醜悪な行為」「ナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害」などの峻烈(しゅんれつ)な言葉で告発していることを示しています。

 「河野談話」否定派がどんなに事実をねじ曲げようとしても、加害国日本の司法によって認定された事実の重みを否定することは決してできません。

 「河野談話」否定派がいま行っているキャンペーンは、自らの攻撃の「論拠」が根底から覆されるもとでの、悪あがきにすぎません。歴史を偽造するものは誰か。すでに答えはあまりにも明らかです。

安倍政権、一部メディアの姿勢が厳しく問われている

 最後に指摘しておきたいのは、安倍政権が、「河野談話」攻撃に一切反論しないどころか、同調さえするという態度をとっていることです。

 安倍政権は「河野談話」を継承するとの態度を繰り返し表明し、検証チームの結論も受けて、「河野談話の継承」を明確にしたはずです。ところが、「朝日」報道をきっかけに「河野談話」攻撃が強められているのに、それにいっさい反論していません。これは、政府としての重大な責任放棄といわなければなりません。

 安倍首相は9月14日のNHK番組で朝日新聞に対し「世界に向かって取り消していくことが求められている」としたうえで、「事実ではないと国際的に明らかにすることを、われわれも考えなければならない」などとのべています。首相は、一体何を「取り消せ」というのでしょうか。「吉田証言」が虚偽であったことにかこつけて、日本軍「慰安婦」制度が「性奴隷制」であったこと、「慰安婦」とされた過程に強制性があったことを、「取り消せ」というのでしょうか。そうであるとするならば、「河野談話の継承」といいながら、「河野談話」否定の立場に自らの身を置く、不誠実な二枚舌といわねばなりません。

 安倍政権が、「河野談話」否定論に毅然(きぜん)とした態度をとらず、同調する態度をとるならば、国際的信頼をさらに大きく損なうことは避けられないことを、私たちは強く警告しなければなりません。

 「河野談話」攻撃に象徴される歴史偽造のキャンペーンに、日本の言論機関、大手メディアの一部がかかわっていることも重大です。戦前の侵略戦争に対して、現在の全国紙の前身である新聞各社は、その片棒をかつぎ、「満蒙は日本の生命線」とする議論をあおり、はては「大本営発表」を垂れ流すことで国民を侵略戦争に駆り立てました。今日のメディア状況をこの時代と重ねあわせ、深い憂慮を抱く人は少なくありません。

歴史偽造の逆流を決して許さない

 「しんぶん赤旗」は、日本の良心を代表する新聞の一つとして、そうした心ある人々とともに歴史偽造の逆流を決して許さないたたかいに全力をあげるものです。そして、日本社会の一部に生まれている排外主義の風潮を許さず、女性の尊厳、人間の尊厳が守られる日本社会をつくるうえでも、歴史の真実を広く国民の共通認識にしていくために努力を続けるものです。


「吉田証言」の記事を取り消します

 「しんぶん赤旗」は、吉田清治氏の「証言」について、日曜版92年1月26日号、日刊紙93年11月14日付でそれぞれとりあげたほか、日刊紙92年1月17日付では著書を紹介しています。93年11月の記事を最後に、「吉田証言」はとりあげていません。

 別掲論文で明らかにしたように、「吉田証言」は、研究者らによって否定され、「河野談話」でも根拠にされませんでした。吉田氏自身がのちに、「本に真実を書いても何の利益もない」「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか」(『週刊新潮』96年5月2・9日号)などとのべています。

 「吉田証言」は信ぴょう性がなく、本紙はこれらの記事を掲載したことについて、お詫(わ)び し、取り消します。

 赤旗編集局





資 料

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話

1993年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫(わ)びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(外務省ホームページから)

日本の司法による事実認定―「河野談話」の真実性は歴史によって検証された

 (「志位見解」から抜粋)

 各国の元「慰安婦」が、日本政府を被告として謝罪と賠償を求めた裁判で認定された事実について、「志位見解」は、つぎのようにまとめています。



 一連の判決は、「各自の事実経過」として、元「慰安婦」が被った被害について、一人ひとりについて詳細な事実認定をおこなっています。

 八つの裁判の判決で、被害を事実認定されている女性は35人にのぼります。内訳は韓国人10人、中国人24人、オランダ人1人です。一人ひとりの被害に関する事実認定は、読み通すことに大きな苦痛を感じる、たいへん残酷かつ悲惨な、生なましい事実が列挙されています。その特徴点をまとめると、以下のことが確認できます。

(1)35人の被害者全員が強制的に 「慰安婦」 にさせられたと事実認定した

 八つの裁判の判決では、35人全員について、「慰安婦」とされた過程が「その意に反していた」=強制性があったことを認定しています。「慰安婦」とされた年齢については、裁判記録で確認できるものだけでも、35人のうち26人が10代の未成年でした。

 韓国人の被害者のケース。甘言など詐欺によるものとともに、強圧をもちいての強制的な連行の事実が認定されています。たとえば、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の東京高裁判決(2003年7月22日)、「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」の広島高裁判決(2001年3月29日)で認定された個々の被害事実のうち、4名のケースについて示すことにします。(〈 〉内は引用者)。

 ●「帰宅する途中、釜山駅近くの路地で日本人と朝鮮人の男性二人に呼び止められ、『倉敷の軍服工場にお金を稼ぎに行かないか。』と言われ、承諾もしないうちに、船に押し乗せられてラバウルに連行された」。

 ●「『日本人の紹介するいい働き口がある』と聞いて行ったところ、日本人と朝鮮人に、芙江から京城、天津を経て〈中国各地の慰安所に〉連れて行かれた」。

 ●「日本人と朝鮮人が来て、『日本の工場に働きに行けば、1年もすれば嫁入り支度もできる。』と持ちかけられ、断ったものの、強制的にラングーンに連れて行かれ、慰安所に入れられ〈た〉」。

 ●「日本人と朝鮮人の青年から『金儲(もう)けができる仕事があるからついてこないか。』と誘われて、これに応じたところ、釜山から船と汽車で上海まで連れて行かれ、窓のない三〇ぐらいの小さな部屋に区切られた『陸軍部隊慰安所』という看板が掲げられた長屋の一室に入れられた」。

 中国人の被害者のケース。そのすべてについて、日本軍人による暴力を用いての文字通りの強制連行が認定されています。「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第一次)」の東京高裁判決(2004年12月15日)が認定した4名の被害事実について示すことにします。

 ●「日本軍兵士によって自宅から日本軍の駐屯地のあった進圭村に拉致・連行され、駐屯地内のヤオドン(岩山の横穴を利用した住居。転じて、横穴を穿(うが)ったものではなく、煉瓦(れんが)や石を積み重ねて造った建物も指す。)に監禁された」。

 ●「3人の中国人と3人の武装した日本軍兵士らによって無理やり自宅から連れ出され、銃底で左肩を強打されたり、後ろ手に両手を縛られるなどして抵抗を排除された上、進圭村にある日本軍駐屯地に拉致・連行され、ヤオドンの中に監禁された」。

 ●「日本軍が襲い、……銃底で左腕を殴られたり、後ろ手に縛られたりして進圭村に連行され、一軒の民家に監禁された」。

 ●「日本軍兵士によって強制的に進圭村の日本軍駐屯地に拉致・連行され、日本軍兵士などから『夫の居場所を吐け』などと尋問されたり、何回も殴打されるなどした上、ヤオドンの中に監禁され〈た〉」。

(2)「慰安所」での生活は、文字通りの「性奴隷」 としての悲惨極まるものだった

 被害者の女性たちが、「慰安所」に入れられた後の生活は、一切の自由を奪われる状況のもとで、連日にわたって多数の軍人相手の性行為を強要されるという、文字通りの「性奴隷」としての悲惨極まりないものだったことが、35人の一人ひとりについて、具体的に事実認定されています。「慰安所」での生活は、性行為の強要だけでなく、殴打など野蛮な暴力のもとにおかれていたことも、明らかにされています。

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  1. 2014/09/29(月) 16:37:27|
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板野『嵐に耐えた・・』

古本屋通信      No 1062  9月26日

  板野勝次 『嵐に耐えた歳月』


 岡山県の共産党から戦後に国会議員に当選したのは苅田アサノと板野勝次と則武真一の3人だ (岡山出身ではこれに川上貫一が加わるが、選挙区は岡山ではない)。私には3人のうち、板野だけが岡山で語られることが少ない気がする。尤もほんの短期間国会議員をやったからといって、党と社会運動への貢献が他の公然活動家に比べて勝っていると云う事ではないから、問題にするほうがおかしいのかも知れない。

 私にとっては苅田アサノは、津山の資本家の娘でありながら、戦後まもなく共産党から立候補して当選した伝説の才媛だ。則武真一はひと回り以上年上でありながら同時代人である。ところが板野勝次は中途半端なのだ。私が小学校の頃、岡山 2 区から選挙に出て何回か落選していたが、私が成人した頃には一線から引退していた。
 
 記憶にある板野勝次は1970年代の岡山平和書房の社長としての板野である。といっても書店に顔を見せる社長ではなく、名目的に担がれた社長だったようだ。当時板野の著書 『嵐に耐えた歳月』 が新日本出版社から刊行された。本が平和書房に平積されていた。私はそれを手に取って驚いた。この辺は端折るが、本が立派過ぎたのだ。それで店主の阿部さんに 「こんな本がよう出ましたなあ」 と言った。阿部さんは何を勘違いしたか、「ウチの社長の本じゃから、置かにゃなるまい」 と言った。実はこのとき私は始めて板野が平和書房の社長だと知ったのだった。

 たった一期でも国会議員をやったら、ウィキペディアに記事がある。以下がそれだが、奇妙なことに著書の 『嵐に耐えた歳月』 が載ってない。誰がこの記事を書いたのか。偶然に書き漏らしたのか。それとも故意に外したのか。とりあえず貼っておこう。



ウィキペディア

板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日 - 1985年12月30日)は日本の政治家、労働運動家。元参議院議員(日本共産党公認、1期)。元清涼飲料協同組合理事長。

出生から青年時代まで[編集]
岡山県岡山市紺屋町で古物商を営む森本岩助、寿子夫妻の次男として生まれる。3歳の時に広島に住む寿子の兄・板野安次郎の養子に出され板野姓を名乗る。岡山県立商業学校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)在学中から社会主義に目覚め、商業学校卒業後の1920年12月、堺利彦や山川均、大杉栄らが率いる日本社会主義同盟に加入する。
同盟は程なくして解散に追い込まれるが、在籍中は山川からマルクスの『共産党宣言』についての講義を聞き、労働組合の必要性を悟った板野は、1922年12月に県下初の本格的な労働組合・岡山労働組合を発足させる[1]。また、岡山労働学校や岡山県足袋護謨工労働組合の設立にも関わり、労働運動への献身を深めてゆく。
1926年1月に日本共産党に入党。板野にとっては念願の入党となったものの、共産党は当時非合法組織であったため、偽名を名乗りながら住所も転々と変える生活を余儀なくされる。1927年には神戸地方委員会の委員長に就任するが、翌年の三・一五事件で検挙。懲役8年の刑に服した末出獄すると、既に日本は戦争への道をひた走っていた。

国会議員として[編集]
終戦直後から農民運動の組織化に力を注ぎ[2]、1947年の初の参院選に岡山県選挙区から立候補し、定数4に対し7名が鎬を削る少数激戦の中、見事当選を果たす。この選挙で共産党は4名が当選しているが、板野は唯一の地方区選出議員であり、岡山県選挙区内でも最年少(当選時44歳)の議員となった。
議員在任中は農林や議会運営、決算の各委員会委員に就任。特に板野の専門分野であった農林委員会では、食糧確保臨時措置法改定法案の審議に際して、国内の農業保護の立場から同法案に反対し、当時の森幸太郎農相との10時間にも渡る議論の末、審議未了に追い込んだ[3]。議員当選から3年間で36回も登壇し政府の姿勢を質した。
再選を目指し1950年の参院選で、全国区に鞍替えし出馬するがあえなく落選。以後、衆議院を含め出馬を重ねるが何れも当選とはならなかった。1969年の総選挙で落選したのを機に、政界から引退を表明。引退後は党岡山県委員会名誉委員などを歴任する。
1985年12月30日死去。82歳。

政歴[編集]
1947年 第1回参議院議員通常選挙 岡山県選挙区 45,709票 当選
1950年 第2回参議院議員通常選挙 全国区 96,601票 落選
1953年 第3回参議院議員通常選挙 全国区 83,114票 落選
1956年 第4回参議院議員通常選挙 岡山県選挙区 18,955票 落選
1958年 第28回衆議院議員総選挙 岡山2区 10,105票 落選
1960年 第29回衆議院議員総選挙 岡山2区 8,960票 落選
1963年 第30回衆議院議員総選挙 岡山2区 9,405票 落選
1967年 第31回衆議院議員総選挙 岡山2区 14,314票 落選
1969年 第32回衆議院議員総選挙 岡山2区 11,427票 落選

関連項目[編集]
山川均
苅田アサノ
川上貫一





 古本屋通信

 手元に一冊の本がある。板野勝次著『嵐に耐えた歳月』 (新日本出版社 1977年)である。私が刊行時に平和書房から買った本ではない。この本自体は何回転もさせているので、手元の本の入手経路は分からない。ただ、本の表見返しに板野勝次の肉筆署名と落款があり、「向井喜典同志へ」 の献呈が明示されている。

 たぶん左翼に詳しくない古本屋は気にも留めないだろうが、私にとって赤字個所はそれだけで異様である。

 向井喜典は岡山大学法文学部(法経短大)教授だった人物だ。同姓同名は考え難い。向井はその後、著作権侵害で岡山大学を追われて大阪経済法科大学に移るが、当時はまだ岡山大学教授で国家公務員だった筈である。国家公務員であっても、誰もが党員だと知る大学教授はいる。しかしそれは公然化した事実ではない。それは例えば地方公務員の小中学校の教員の党員であっても、退職後も党機関の県委員、地区委員になれない。党が公務員党員の秘密を保護しているのだ。

 元に戻る。この献呈と署名が何時行われたのか判らない。出版記念会に知識人党員を集めて、その席で本を配ったのかも知れない。しかし「向井喜典同志へ」 はないだろう。たとえ署名本が純粋にプライベートな贈り物だったにせよ、贈り主の意識に公務員同志に対する配慮が決定的に欠けている。ここらも私の独善と偏見なのだろうか。

 次ぎに 『嵐に耐えた歳月』 の内容についてである。私は再読しないで40年まえの印象で書く。とうじ懐いた疑問は、党員はこういう本を出版してよいのだろうかという不審感だった。いうならば野坂参三の 『風雪のあゆみ』 や袴田里見の『党とともに歩んで』 のような本である。自伝だが党史の記述とも絡んでくる。野坂や袴田の著作は『前衛』に連載された、いわば党中央公認の本だった。それでも除名前後に問題になった。ここでまた独断だ。党員は現役の指導部を降りても、自分の歴史を党に重ね合わせて書いてはならぬ。ひとつの分野について書くのはよい。その範囲で自分を語るのはよい。しかしそれまでだ。現に徳田も、志賀も、宮本も自伝など書いていない。宮本が書いたのは戦前のプロレタリア文学運動の総括だけである。

  『嵐に耐えた歳月』は刊行後、党中央から叩かれたであろうか。板野の言い分は、これが党中央の何かの機関紙に連載された内容であった事だ。だから新日本出版社も書籍化した。けれどそれでは通らなかった。今まで遠慮して書いていた個所を、かなり大胆に加筆・訂正したからである。名前を出されて批判された党員が黙ってはいなかったのだ。このアレコレは何れ書きたい。証拠はあるが、十分とは云えない。

 とりあえず私の結論を書く。板野勝次は欠陥党員であった。自分が社長である岡山平和書房が(死後のことだが)多額の不良債務を残して倒産したことにも、幾分かの責任がない訳ではない。

 向井喜典については、板野に倍する不徳がある。しかし彼の生死が確認できない。植物人間に近いのは確かだから、そういう段階で追い討ちは掛けたくない。京大の岸本英太郎の高弟であった。専門は経済学と社会政策である。私の店の常連客の浦部信児弁護士との付き合いが長い。


 投稿

昨年来こっそりと拝読していますた(^^)。今後は公然と投稿させて頂きます。>退職公務員党員は公然化しないコレは事実に反します。わたすの地元京都でも、「退職教員や退職公務員が地方議員選に立候補(むろん党公認で)している」事実はあります。
09/26 08:07  KM生



 古本屋通信

 投稿を歓迎します。ただ、今回の投稿が何故画面左の「最新コメント欄」に表示されなかったのか、よく分かりません。たまたま「ブログ拍手」欄で見つけたので転記しましたが、見逃す恐れがあります。投稿は原則は表示です。非公開の投稿は受け付けないと言おうか、読まないのです。これは裏取引をしないということですが、もっと端的には実務量を削減するためです。例えていえば、今回のあなたの名前をもう一度コピーして貼らねばなりません。このブログ、実は記事を書く時間以上に編集に時間を取られるのです。宜しくお願いします。アッ、「ブログ拍手」欄の文字は既に消しましたよ。

 投稿内容に就いては、一面了解です。岡山でも中途退職と定年退職の公務員(おもに学校教員)が党公認で選挙に立候補する例は多くあります。しかし岡山で聞くところでは、これは例外で、やはり退職公務員は機関に入らず、公然党員としての活動はしないそうです。実質は余り変らないとはいえ、もっぱら党後援会活動です。それは退職しても以前の職場に同志はいるし、大衆的な影響力も残っていて、「嗚呼、やはりあの先生はずっと党員だったのか」 と云われるのがマズイからだと思います。全国一律の党規約の規定ではないでしょうが、少なくとも岡山地区党会議の地区委員リストからは外すと聞いています。もちろん党大会、県党会議、地区党会議の代議員にはなれます。これは当然です。党中央の人事でも元公務員を妨げないでしょうね。それから、元公務員が党公認で選挙に出たときの経歴表示は微妙です。決して入党関係を詳しく書きませんね。以上は私の心証ですから、間違いがあるかも知れません。


 再投稿

拍手からの投稿でうまく行かず、先程は失礼しました。何しろROM専ですたので、貴ブログへの投稿は初めてですたので(^^)。
>退職教員党員は基本公然化しない。
余談ながら、女子マラソン五輪メダリストの有森さんの父親は、岡山で党員教員だといわれていますた。やはり退職後も公然化はされていないのでせうか?
2014/09/26(金) 12:17:32 | URL | KM生 #-

 古本屋通信
 「正常ルート」に乗ってくださってホッとしています。
 有森さんのお父さんは高教組の活動をされていたらしいです。党員かも知れないし、そうでないかも知れません。それは私が「めったに無責任な事をしゃべらないゾ」と構えて言っているのではなく、今の高教組上がりの党員はみんな流動的ですからね。もちろん有森・父が公然党員であった事はなく、いまもそういう事実は一般的にはありません。しかし半公然で選挙の時に党員を名乗っているとしても、我々には分かりません。岡山の高教組の代々の委員長はたぶん共産党員だと私は思いますが、それは私がそう思っているだけです。もちろん公然党員ではありません。
 あのね、めったな事いえませんよ。私、ブサヨさんを元党員だと言って叱られ、謝罪しましたから。
  1. 2014/09/26(金) 04:49:37|
  2. 未分類

コミンテルンと日本共産党

古本屋通信      No 1061  9月25日

   資料集 コミンテルンと日本共産党



単行本 – 2014/9/27   ¥ 16,200
和田 春樹 (編集, 翻訳), G.M.アジベーコフ (編集), 富田 武 (翻訳)
モスクワの資料館が秘蔵し本邦初公開されるコミンテルン資料百十数点は、戦前期日本共産党の全体像を照らし出す特筆すべき存在である。党創立前から1941年まで、従来の歴史像を書き換える資料を収録。周到な解題と資料を参照することで、同党の秘史が解明される。現代史研究者必携の書。




 上記はたった今、キンピーサイト経由で入手した岩波の新刊情報の、岩波による能書きの全てである。明日にも発売だが、情報がほとんどない。グーグルに入れて検索したが何も出てこない。それで、これだけの新刊情報を目にしたときの第一印象を正直に書いておく。もちろん印象は事実によって後に修正されるだろう。それでも印象を書いておきたい。

 率直に言って魅力がない。目玉は何なのか、サッパリ分からない。旧版の大月書店のコミンテルン資料集(全7巻)がゴミになって久しい。私もマルエン、レーニン関係と一緒に倉庫に2セット持っているが、使い物にならない。もちろん売れはしない。これにソ連崩壊後に発見された新資料を翻訳して追加したのだろう。その予測は付くが、内実の一切が不明である。

 コレたぶん大月版の再録が大部分だろう。もちろん大月版は大昔に絶版である。岩波が大月の版権を受け継いだのだろう。まあ、それはよい。しかし売価が安い。全1巻というのも手抜きを思わせる。ブサヨさんは高いが妥当だという。私は自信がないから、全1巻にして安価に設定したのだと思う。

 この手の資料集は高値設定で全国の公立図書館と大学図書館にDMを打って注文を取るのが普通だ。しかし絶対に売れないだろう事を見越して、これを初めから諦めているようだ。

 私は編集・翻訳の和田春樹は知っているが、翻訳の富田武は初めてだ。G.M.アジベーコフも知らない。私は和田は朝鮮研究者として熟知している。野坂本も書いている。彼は研究が粗い。それが私の印象だ。

 いますぐ丸善に走る気は起こらない。書店で実物を見る機会があれば見だろう。しかし買わないと思う。1000円でも買わない。



 もうひとつ蛇足だが、見る気も起きない理由。大月版は編集が石堂清倫だったと記憶する。石堂と和田の実力の差は如何とも埋めがたい。下記に和田の著作を貼ったからご覧ください。手抜きしないと普通これだけ書けんよ。赤字部分は誤りでしたので取り消します。



 投稿

 大月書店版コミンテルン資料集の編者
大月書店のコミンテルン資料集は、村田陽一編集です。大月書店版が出版されたのは、80年代なので石堂氏は関係者ではないかと思われます。

2014/09/25(木) 17:56:35 | URL | 中Ⅱ病デモ #BgCG/k.M

 古本屋通信
 やばいかなあ、とりあえず石堂にしておけ、といい加減な事を書いたら早速指摘されました。ありがとうございます。田舎の倉庫の奥深く沈んでいるもんで。村田でしたね。ところでさっそく疑問が出てきました。大月版は70年代との認識だったのですが? ちょっと調べてみますね。
 村田陽一 編訳、 大月書店、 1978-1985
でした。私が第1回配本を新刊で買ったのが確か昭和53年だったもんで・・・。完結まで8年かかったんですね。 

 ところで思わぬ方からお褒めの言葉を頂戴して恐縮している。当ブログへの投稿ではなく、キンピーサイトへの常連・KM生さんの投稿である。少し面映いがそのまま転載させて頂く。先方さんの私への想いについて云えば、私もKM生さんに対してほぼ同様な想いを持っている。キンピーサイトの投稿は拝見している。私は初っ端ボロクソにやられたが恨みはなく、一度は高く評価させて頂いた。もちろん同意できない論もある。しかしこの業界で数少ない年長者として敬意を払っている。ま、今後とも宜しくお願いします。尚、折角お褒め頂いたのですが、岩波版が大月版の焼き直しであるという予測は事実に拠ってひっくり返る可能性もあります。それは今回の新刊が全1巻だからです。どっちみち近いうちに実物で確認しなければならなくなりました。


5. KM生@古本屋通信氏に感謝
2014年09月26日 00:07
私は、以前に「古本屋通信が当掲示板を取上げている」と管理人さんがコメントされて以来、「古本屋通信」にも目を通してきた。
9月25日付の古本屋通信では、「岩波の今回の出版は、昔々の大月書店版コミンテルンと日本(村田陽一訳)の焼直し。しかも編者が和田春樹というのがいけない」と喝破されていた。
私は、本掲示板で「古本屋通信」を酷評してきた。はっきりいって「管理人の人の好嫌いが激しく、独断と偏見に満ちている」印象は免れないが、今回に関しては素直に脱帽である。つまらぬ焼直しに無駄なお金を使わずに済んで本当に良かった(^^)。
古本屋通信氏よ。私はかつてあなたを厳しく批判したし、今も批判的である。しかし「変なプライドにこだわって、自分が批判を持つ他人を正当に評価できないようなけち臭い人間ではない」つもりだ。今回に関しては、素直に脱帽する。


 さらに当ブログへの投稿がありました。ありがとうございます。

和田春樹=アジベーコフ編『コミンテルンと日本共産党』ロシア語版、2001年 というのがあるようです。

加藤哲郎 戦間期「洋行インテリ」の情報共同体 : インターネットを活用した情報政治学 2007年5月
209ページ脚注
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/13432/4/0400700105.pdf

2014/09/26(金) 23:09:40 | URL | 四葉 #-

 
 更に投稿ですが、これは私のサイトへの投稿ではなく、キンピーサイトへの投稿でした。
KM生さん、そうでしたか。やっぱり私のカンが当たっていてホッとしました。あなたが本屋で確認されたので、私の手間が省けました。もう丸善にはわざわざは行きません。


14. KM生
2014年09月28日 08:18
書店で立読みしましたが、古本屋通信さんの仰る通り「全く大枚はたいてまで購入する価値なし。村田陽一訳本の焼直し」ですた。

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 ウィキペディア

  富田武

;">富田 武(とみた たけし、1945年9月24日 - )は、日本の政治学者、成蹊大学法学部名誉教授。専門は、比較政治学、ロシア・ソ連政治史。
略歴[編集]
福島県生まれ。1971年東京大学法学部卒業、1981年同大学院社会学研究科博士課程満期退学。予備校講師、大学非常勤講師などを経て1988年成蹊大学法学部助教授、1991年より同教授、1999年から2002年まで大学アジア太平洋センター所長を兼務、2002年から2004年まで法学部長を務める。成蹊大学法科大学院創設の提唱者。
単著[編集]
『スターリニズムの統治構造――1930年代ソ連の政策決定と国民統合』(岩波書店, 1996年)
『戦間期の日ソ関係――1917-1937』(岩波書店,2010年)
『コムソモリスク第二収容所 日ソの証言が語るシベリア抑留の実像』東洋書店ユーラシア・ブックレット 2012  
『シベリア抑留者たちの戦後 冷戦下の世論と運動 1945-56』人文書院、2013 
共編著[編集]
(李静和)『家族の変容とジェンダー ――少子高齢化とグローバル化のなかで』(日本評論社, 2006年)
訳書[編集]
F・フェヘール、A・ヘラー、G・マールクシュ『欲求に対する独裁――「現存社会主義」の原理的批判』(岩波書店, 1984年)
E・H・カー『コミンテルンとスペイン内戦』(岩波書店, 1985年)
R・W・デイヴィス『ペレストロイカと歴史像の転換』(岩波書店, 1990年)
O・フレヴニューク『スターリンの大テロル――恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相』(岩波書店, 1998年)



  和田春樹

和田 春樹 (わだ はるき、1938年(昭和13年)1月13日 - )は、日本の歴史学者、社会科学研究家、市民運動家である。専門はソ連史・ロシア史・朝鮮史。東京大学名誉教授。

人物[編集]
大阪府生まれ。静岡県立清水東高等学校を経て、東京大学文学部卒業。
大学入学から、退官まで、約50年間に渡って東京大学においてのみ過ごした。研究分野は多岐にわたるが、ロシア・ソ連・朝鮮半島の近現代史及び、それらの地域と日本の関係にまつわるものが多い。左翼運動・市民運動などの実践活動でも知られる。2010年に韓国の全南大学から「第4回後広金大中学術賞」を授けられる。

研究[編集]
Edit-find-replace.svg この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年7月)

民衆側の共産主義[編集]
日本における共産主義研究は、本家であるソ連における共産主義研究の影響のもと、ソビエト連邦共産党の支配確立の歴史をなぞるか、トロツキーをスターリンに対置する程度がせいぜいであった。[要出典]和田による研究対象は、1905年の『血の日曜日事件』で知られるゲオルギー・ガポン、革命家のネストル・マフノによる農民アナキズム運動、ナロードニキとマルクス・エンゲルスとあいだの政治的偏差などを含んだ。

ソ連崩壊と共産主義の瓦解[編集]
1980年代、ソ連においてペレストロイカが進行すると、和田はそれに共感を表明した。[要出典]さらに1990年代になって「急進改革派」が登場し、社会主義体制への批判を強めるようになると、和田は臆することなくそれを強く支持した。[要出典]
しかし、急進改革派が持っていた負の側面について和田は、それを熟知していながら言及を避けていた。それは政治的配慮によるものであったが[要出典]、ロシア近現代史研究の後輩である塩川伸明や下斗米伸夫からは、かつての「進歩的知識人」の誤りを繰り返すものだとして厳しく批判された[1]。また塩川は、和田がソ連・東欧社会主義の崩壊を、一貫して「国家社会主義の崩壊」と規定していることに対して、その用語の曖昧さとともに、国家社会主義でない社会主義という存在の検討がなされていないことについても批判した。
ソ連及びスターリンについては、「マルクス主義が実現すべき目標としたユートピアはスターリンのソ連においてともかくも実現された」、と述べている[2]。

韓国・北朝鮮[編集
和田は国際的な市民活動家としても知られる。[要出典]和田の研究はインテリゲンツィア(知識階級)にとどまらず、民衆の日常に目を向けるものであり、和田は朴正煕時代の韓国でも民衆との連帯を志向した。市民連帯活動では、韓国の民主化運動において、特に金大中救出運動において広い関心を起こしている。[要出典]
和田による朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)現代史研究については、日本の共産主義研究者にはその学問的功績が認められてはいるものの[要出典]、北朝鮮を『遊撃隊国家』とする規定について曖昧であるとの批判もある[要出典]。ラングーン事件について、事件発生直後には「韓国政府内部の人間がやったことも考えられる。北朝鮮の側が爆弾テロをやるということはありえない」(『世界』83年11月号)との立場を一時はとっていたが、『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(1998年)では、北朝鮮工作員の行為と述べている。

主義・主張と社会活動[編集]
対・北朝鮮[編集]
拉致問題
北朝鮮による日本人拉致問題について和田は、2001年(平成13年)の時点においても、「横田めぐみさん拉致の情報は、その内容も、発表のされ方も多くの疑問を生むものである」として、日本政府も拉致疑惑を認定しないことから「横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しないことが明らかである」と述べている。なお、久米裕の事件については拉致された可能性は高いと述べているが、「日本の警察が国外移送拐取罪で立件しなかった以上、行方不明者として交渉するほかない」と述べている[3][4]。
翌2002年(平成14年)、北朝鮮自身が日本人拉致を認めるに至り、『諸君!』『正論』からは、和田に対する激しい批判が加えられた。また、山脇直司からも、北朝鮮による拉致という国家犯罪は絶対に許してはならないし、左翼知識人の過去の言動は徹底的に糾弾されてしかるべきだろう、と批判された[5]。これを受けて和田は、自分は拉致そのものの存在を否定していたわけではないと弁明した。

対・韓国[編集]
在日韓国人
和田は、在日韓国・朝鮮人に対する社会処遇の向上や、積極的な戦後補償を行うことについて、一貫してそれを求めている。
慰安婦問題
朝鮮人従軍慰安婦問題については、当時の日本政府に対して一貫して批判的である。一方、『女性のためのアジア平和国民基金』に係わる活動によって和田は、朝鮮人慰安婦寄りの主張を行う社会運動家からも批判される立場に立った。
竹島問題
竹島問題について和田は、「竹島が日本の領土と宣言されたのは1905年だ。その時から敗戦までの40年間、 竹島は確かに日本の領土だった。1945年に日本の管轄から脱した後、サンフランシスコ条約でも明確な処理がなされなかった」とし、そのうえで、「植民地支配反省の表現として、日本は独島(竹島の韓国名)を韓国領土として認める」という独自の主張を展開している[6]。さらに2013年10月には、独島問題に関して、日本は韓国側の主張を認めること以外に答えはないとし、韓国は韓日友好のための特別な配慮として鬱陵島と隠岐の島の中間地点に経済水域の境界を設定することを提案した[7]。
また和田は、そのかわりに韓国側が、韓日友好のための思いやりとして、島根県の漁民に島周辺の漁業権を認めるという条件を、竹島を韓国に供与する見返りとして提案している[6]。しかしながら実際には、竹島周辺海は暫定水域として日韓漁業協定による漁業権が確定済みであり、和田の案により日本が得られるものは皆無である[6]。
日韓併合無効論
和田は2010年(平成22年)、日本が韓国を併合するに当たっての韓国併合ニ関スル条約(1910年)は当初から無効であったとして、日本政府がその無効性を認めるよう求める声明を発表した[8]。さらに、内閣総理大臣 菅直人に対しては、同条約の無効を、日韓併合100周年に当たる同年8月に宣言するよう求めた[8]。

歴史教科書[編集]
和田は2001年(平成13年)4月、『新しい歴史教科書』(扶桑社)を批判する声明を、連名で発表した[9]。
翌5月、歴史教科書問題をテーマにしたテレビ討論番組に参加した和田は、同教科書の記載について、「戦前ロシアが朝鮮北部に軍事基地を建設したと書いているが、これは伐採場でしかない」と批判した[10]。同討論に参加していた歴史家・秦はこれに対し、『近代日本総合年表』(岩波書店)にも 『軍事根拠地の建設を開始』との記載があること[11]、しかも同書の編集委員のひとりが、和田とともに抗議声明を出した経済学者、隅谷三喜男であることを指摘して反論した。

北方領土[編集]
和田は、「日本は北方領土の問題にこだわって日ソ関係を非常に悪いままにしている」と、領土問題を問わずにソ連との友好を優先することを主張していた[12]。

論争 - アジア女性基金[編集]
和田は、現代史家・秦郁彦とのあいだで、歴史の事実認定や解釈を巡って何度も論戦を繰り広げたことでも知られる。[要出典]
二人の関係は1995年(平成7年)、村山富市内閣が設立した財団法人 『アジア女性基金』において、ともに資料委員会委員を務めたことに始まる。大蔵官僚出身で官僚や自由民主党関係者との人脈が豊富であった秦は、社会党との関係が強い和田や大沼保昭等の同財団発起人らから、保守人脈をも網羅した国民的運動としての基金活動を展開すべく受け入れられた。
しかし、同基金に拠ってアメリカでも調査を行った秦が同基金への報告書を寄稿すると、和田は秦を激しく批判した。秦による従軍慰安婦に関する報告への、和田による批判は次の様だった。
1.同基金は『村山談話』を根拠としているが、秦の報告には、その趣旨・理念をわきまえないエッセイ的記述が多数ある
2.各自のイデオロギー的立場を越えた資料実証研究を行うという資料委員会の申し合わせに反する
そして、同委員会委員長・高崎宗司と共に和田は、秦に対して文章の撤回を打診した。しかしながら、和田らに撤回要求をするような権限があるかについての疑問を呈し、またそれは打診というよりも査問であったことを秦は訴え、撤回の要求を拒絶した。最終的には、「権限の有無を別として和田・高崎が没を希望、秦がそれを受け入れる」という形で秦論文は未掲載となった。
最終的に取りまとめられたアジア女性基金の報告書、没になった秦の文書で転載されたもの、秦の側の見解表明は以下。
アジア女性基金『「慰安婦」問題調査報告・1999』〔全文ダウンロード可能〕[4]
秦郁彦「『慰安婦伝説』--その数量的観察」『現代コリア』1999年2月〔転載〕。
秦郁彦「天皇訪韓を中止せよ!『アジア女性基金』に巣喰う白アリたち」『諸君』1999年2月号(同『現代史の対決』文藝春秋2005年に大部分が掲載)。

略歴[編集]
1960年(昭和35年)3月 東京大学文学部西洋史学科卒業
1960年(昭和35年)4月 東京大学社会科学研究所助手
1966年(昭和41年) 同・講師
1968年(昭和43年) 同・助教授
1985年(昭和60年) 同・教授
1996年(平成8年)4月 同・所長(1998年3月まで)
1998年(平成10年)3月 東京大学退官
1998年(平成10年)5月 東京大学名誉教授
2001年(平成13年)4月 東北大学東北アジア研究センター 客員教授

著作[編集]
単著『近代ロシア社会の発展構造――1890年代のロシア』(東京大学社会科学研究所, 1965年)
『ニコライ・ラッセル――国境を越えるナロードニキ](上・下)』(中央公論社, 1973年)
『マルクス・エンゲルスと革命ロシア』(勁草書房, 1975年)
『農民革命の世界――エセーニンとマフノ』(東京大学出版会, 1978年)
『韓国民衆をみつめること』(創樹社, 1981年)
『韓国からの問いかけ――ともに求める』(思想の科学社, 1982年)
『私の見たペレストロイカ――ゴルバチョフ時代のモスクワ』(岩波書店[岩波新書], 1987年)
『北の友へ南の友へ――朝鮮半島の現状と日本人の課題』(御茶の水書房, 1987年)
『ペレストロイカ――成果と危機』(岩波書店[岩波新書], 1990年)
『北方領土問題を考える』(岩波書店, 1990年)
『ロシアの革命1991』(岩波書店, 1991年)
『開国――日露国境交渉』(日本放送出版協会[NHKブックス], 1991年)
『金日成と満州抗日戦争』(平凡社, 1992年)
『歴史としての社会主義』(岩波書店[岩波新書], 1992年)
『ロシア・ソ連』(朝日新聞社, 1993年)
『朝鮮戦争』(岩波書店, 1995年)
『歴史としての野坂参三』(平凡社, 1996年)
『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(岩波書店, 1998年)
『北方領土問題――歴史と未来』(朝日新聞社[朝日選書], 1999年)
『ロシア――ヒストリカル・ガイド』(山川出版社, 2001年)
『朝鮮戦争全史』(岩波書店, 2002年)
『朝鮮有事を望むのか――不審船・拉致疑惑・有事立法を考える』(彩流社, 2002年)
『日本・韓国・北朝鮮――東北アジアに生きる』(青丘文化社, 2003年)
『東北アジア共同の家――新地域主義宣言』(平凡社, 2003年)
『同時代批評――日朝関係と拉致問題』(彩流社, 2005年) 
『テロルと改革――アレクサンドル二世暗殺前後』(山川出版社, 2005年)
『ある戦後精神の形成 1938-1965』(岩波書店, 2006年)
『日露戦争 起源と開戦』(岩波書店, 2009年)
共著(和田あき子)『血の日曜日――ロシア革命の発端』(中央公論社[中公新書], 1970年)
(前田哲男)『くずれる国つながる国――ロシアと朝鮮日本近隣の大変動』(第三書館, 1993年)
(高崎宗司)『検証日朝関係60年史』(明石書店, 2005年)
編著『レーニン』(平凡社, 1977年)
『ロシア史の新しい世界――書物と史料の読み方』(山川出版社, 1986年)
『ペレストロイカを読む――再生を求めるソ連社会』(御茶の水書房, 1987年)
『ロシア史』(山川出版社, 2002年)
共編著
職のいきさつから東京大学社会科学研究所の研究者との共著が多い。
(高崎宗司)『分断時代の民族文化――韓国[創作と批評]論文選』(社会思想社, 1979年)
(梶村秀樹)『韓国の民衆運動』(勁草書房, 1986年)
(梶村秀樹)『韓国民衆――学園から職場から』(勁草書房, 1986年)
(梶村秀樹)『韓国民衆――「新しい社会」へ』(勁草書房, 1987年)
(小森田秋夫・近藤邦康)『「社会主義」それぞれの苦悩と模索』(日本評論社, 1992年)
(近藤邦康)『ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較分析』(東京大学出版会, 1993年)
(田中陽兒・倉持俊一)『世界歴史大系 ロシア史(全3巻)』(山川出版社, 1994-1997年)
(家田修・松里公孝)『スラブの歴史』(弘文堂, 1995年)
(水野直樹)『朝鮮近現代史における金日成』(神戸学生青年センター出版部, 1996年)
(大沼保昭・下村満子)『「慰安婦」問題とアジア女性基金』(東信堂, 1998年)
(隅谷三喜男)『日朝国交交渉と緊張緩和』(岩波書店, 1999年)
(石坂浩一)『現代韓国・朝鮮』(岩波書店, 2002年)
(高崎宗司)『北朝鮮本をどう読むか』(明石書店, 2003年)
訳書『金大中獄中書簡』(岩波書店, 1983年)
アレク・ノーヴ『スターリンからブレジネフまで――ソヴェト現代史』(刀水書房, 1983年)
アレクサンドル・チャヤーノフ『農民ユートピア国旅行記』(晶文社, 1984年)

家族[編集]
夫人はロシア文学者の和田あき子。長女の和田真保は練馬区区議会議員をつとめた。

脚注[編集]
1.^ http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/wada.htm 塩川による厳しい批判
2.^ 和田春樹 「マルクス主義が実現すべき目標としたユートピアはスターリンのソ連においてともかくも実現された」 『世界』90年1月号
3.^ 2001年1月号『世界』「日本人拉致疑惑」を検証する[上]和田春樹[1]
4.^ 2001年2月号『世界』「日本人拉致疑惑」を検証する[下]和田春樹[2]
5.^ 山脇直司「日本外交の哲学的貧困」『論座』 2004年3月号
6.^ a b c ハンギョレ新聞(韓国語)2008年7月27日。
7.^ 和田春樹氏「日本は韓国の主張認めるべき」=独島問題、聯合ニュース、2013年10月1日
8.^ a b 日韓併合、首相談話で無効宣言を 『共同通信』 平成22年7月28日配信
9.^ 扶桑社中学校社会科歴史教科書の近現代史部分(第4,第5章)の問題点 [3]
10.^ 『朝まで生テレビ』 (テレビ朝日)
11.^ 初版~4版の各版とも1903年5月上旬に『露軍、鴨緑江を超えて竜岩浦に至り、軍事根拠地の建設を開始』と記載
12.^ 『世界』 1986年5月号
  1. 2014/09/25(木) 09:12:48|
  2. 未分類

漱石 彼岸過迄 初版 

古本屋通信      No 1059  9月24日

  夏目漱石 彼岸過迄 大正元年 初版本 春陽堂 菊版 箱傷み


  このところオークション出品もままならず、出してもサッパリ値が付かない日々が続いている。一昨日やはり雑紙と残り雑本を1万円で買い取った。こういう口は旧蔵者次第だと書いた。その通りだが、もうひとつ言えば、私が現場へ行って荷物を選択して積み込まなくてもよい、これが非常に助かるのだ。

 私よりひと回り年長の学校教師の残り本だ。ひと目みて敬虔なクリスチャンだと分かる。聖書・キリスト教を中心に、英語関係がたくさんある。しかし値が付かないジャンルなのだ。洋書半分は端から拾えない。支払った1万円は博打である。

 素人写真が腐るほどあった。しかし写真がボロである。カメラも写真の腕もよくない。カラー写真が出回り始めた頃だろう。現像も悪い。大半は捨てたが、白黒でアッと驚くピカ一が数十枚あった。何と矢内原忠雄の青年時代の生(ナマ)写真があったのだ。1951年(昭和26年)、南原繁の後任として東京大学総長に選出された総長だ。普段着のまま岡山で写っている。詳しく書くと出所が分かる。嬉しかった。売る気はない。


 本の中に一冊だけピカ一があった。タイトルの文豪の初版本である。解説は要らないだろう。すぐヤフオクに出品した。「日本の古本屋」 に3件だけ出品があったが何れも再版で、25000~45000 円の売価である。私のは初版だから10万円相当だ。然しこれは値を付けてみるだけだろう。ともかく出品した。後は結果が出るのを待つしかない。まあいい所、15000円だろう。文学作品の初版本がサッパリ売れない時代である。

結果  18000円落札

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ウィキペディア

 矢内原忠雄

矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年(昭和36年)12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。

目次 [非表示]
1 人物・生涯 1.1 青年期
1.2 壮年期
1.3 晩年

2 著作
3 著作・講演集
4 翻訳
5 伝記
6 エピソード
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク

人物・生涯[編集]
青年期[編集]
愛媛県今治市に四代続いた家系の医者の子として生まれる。教育熱心な父の影響で、神戸の従兄弟(望月信治)の家から兵庫県立神戸中学校(兵庫県立神戸高等学校の前身)に通学して卒業。旧制第一高等学校に在学中、無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていった。東大に入学後は、吉野作造の民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、思想形成を行っていった。ちなみに、矢内原が卒業した神戸中学校の在校当時の校長鶴崎久米一は、札幌農学校で新渡戸稲造と同期の入学生である。一高を出て大学に入る間の夏休みに、一人で富士山に登っている。1913年(大正8年)20歳の時であった[1]‎。

壮年期[編集]
1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属される。同年5月友人のすすめで西永愛子と金沢で結婚式を挙げた。新居浜時代は新婚生活時代でもあった。翌年5月長男が生まれ伊作[2]と名付けた[3]。当時の別子銅山には、後に住友を辞して無教会主義のキリスト教伝道者となる黒崎幸吉が先に赴任しており、黒崎の伝道集会で聖書講義を行ったりもした。1920年(大正9年)、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる。彼は、学者になって何か社会に貢献する事を神から示された道として決心した[4]。同年秋に欧州留学に旅立つ。イギリス・ドイツ・パレスチナ旅行・フランス・アメリカなどへの留学を経て、1923年(大正12年)予定を早め帰朝し、肺結核に侵されて療養中の妻を見舞った。しかし、その一ヶ月半後の3月26日に、24歳の若さで世を去った。同年9月に関東大震災に見舞われ、死者行方不明約14万3千人、全壊焼失訳57万5300戸の被害出る。この年に教授に就任し、植民政策を講ずることとなった。一年後、幼い子どもたちのことも考え堀恵子と再婚する。

昭和に入って日本の国全体が右傾化、ファッショ化の道を進み始めた。19231年(昭和6年)満州事変が起こっている。 矢内原の植民政策学は、統治者の立場から統治政策として考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に分析し、帝国主義論の一環として扱っている点に特色がある。前任者の新渡戸の学風を発展的に継承しているものといえよう。その研究の結実の代表的なものが、各言語に翻訳された『帝国主義下の台湾』(1929年)である。このような矢内原の姿勢は、しだいに軍国主義的な風潮が強まる中で体制との緊張関係を深めていくこととなった。 1937年(昭和12年)、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌に「国家の理想」と題する評論を寄せた。国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことなど、今日では日本でも常識化した民主主義の理念が先取りして述べられており、この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられた。同じ頃、矢内原が個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された南京事件を糾弾する目的で行われた彼の講演の中の一言、「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」が、不穏の言動として問題となった(以上、広い意味のファシズム批判を行った)。結局1937年(昭和12年)12月に、事実上追放される形で教授辞任を余儀なくされた(矢内原忠雄事件)。 辞職後は『通信』に変えて『嘉信』を毎月定期的に発行した[5]。毎日曜日、自宅で若者に対して聖書の講義をしたり、月一回の帝大聖書研究会を行った。1939年(昭和14年)から土曜学校を開いた[6]。 また、キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けた。

1941年(昭和16年)11月5日の夜、東京芝のフレンド教会で新渡戸稲造記念講演が行われ、矢内原が「新渡戸先生の宗教」という題で講演している[7]。

1945年(昭和20年)8月15日、矢内原は終戦の詔勅を山中湖畔で聞いて、これから新しい時代がくるのだから、平和のために働かなければねばならないと感じた[8]。

敗戦後の1945年(昭和20年)11月、経済学部からの度重ねた要請で東京帝国大学経済学部に復帰した。辞職してからちょうど8年後であった。休職になっていた大内、有沢、脇村らも復帰した。担当する植民政策論を国際政策論に名称を変更した。 その後1946年(昭和21年)社会科学研究所長、1948年(昭和23年)経済学部長、1949年(昭和24年)教養学部長を歴任し、1951年(昭和26年)、南原繁の後任として東京大学総長に選出される(1957年(昭和32年)まで2期6年務めた)。1952年(昭和27年)には、学生劇団「ポポロ」公演にて摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見し、東大側と警察が全面対立したが(東大ポポロ事件)、矢内原は総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取った。一方、学生のストライキに対しては厳しい姿勢を示し、ストライキを計画指揮した学生(学生自治会委員長、学生大会議長、ストライキ議案提案者の3名)は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出した。この原則を適用され退学処分を受けた者に、江田五月、今井澄などがいる。この「矢内原三原則」は東大紛争で廃止に至るまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となった。

晩年[編集]
退任後の1958年(昭和33年)に名誉教授の称号を授与され、その後も精力的に講演活動を行う。1960年(昭和35年)11月、姫路野里教会で「生死の問題」と題して講演している。教会における最後の講演となった。翌年の6月、東大教養学部学友会主催の講演会で「人生の選択」という題で東大生に対する最後のメッセージを残している。同年7月、札幌市民会館に於いて北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュワイツアー」と題してを講演し、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」、そして「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結んでいる。また、退職後は、学生問題研究所を創設し、その所長として学生の生活や思想の調査・研究に取り組んだ。[9]。 晩年の人生論に、1961年(昭和36年)NHK放送の「子供のために」の中で子供を大事にする思想的根拠として次のように述べている。「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちでありありますけれども、実はそうではなく、人に仕えることが人生の意味である。」[10]。 1961年(昭和36年)、胃癌のため逝去。68歳。なお、法大名誉教授で著名な詩人矢内原伊作、慶大経済学部名誉教授・作新学院大学長の矢内原勝は子息である。矢内原家は、食事時に私語をせず厳格な忠雄を子息たちは恐れていたという。東京大学駒場Iキャンパス内には、かつて「矢内原門」があり、今は「矢内原公園」にその名を残している。

著作[編集]
基督者の信仰 聖書研究社 1921 
英国植民省に就て 拓殖局 1921 
植民政策講義案 有斐閣 1925
植民及植民政策 有斐閣 1926
植民政策の新基調 弘文堂書房 1927 
人口問題 岩波書店、1928
帝国主義下の台湾 岩波書店 1929 「矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読」岩波現代文庫
マルクス主義と基督教 一粒社 1932 のち角川文庫 
満洲問題 岩波書店 1934
南洋群島の研究 岩波書店 1935
民族と平和 岩波書店 1936 
帝国主義下の印度 経済特殊研究叢書 大同書院 1937 
余の尊敬する人物 岩波新書 1940
イエス伝講話 マルコ伝による 嘉信社 1940 
山上垂訓講義 向山堂書房 1941 
訣別遺訓講義 ヨハネ伝による 嘉信社 1943 
アウグスチヌス「告白」講義 教文館 1943 のち講談社学術文庫 
日本精神と平和国家 岩波新書 1946
日本の傷を医す者 白日書院 1947
植民及植民政策 1947 経済学博士論文
内村鑑三と新渡戸稲造 日産書房 1948
帝国主義研究 白日書院 1948
聖書の平和思想とリンコーン 高木八尺共著 岩波書店 1948 (新渡戸博士記念講演)
聖書講義 第1-9 角川書店 1948-59
続余の尊敬する人物 岩波新書 1949
キリストの生涯 嘉信社 1949.2
講和問題と平和問題 河出書房 1950
大学について 東京大学出版会 1952
キリスト教入門 角川新書 1952
日本のゆくえ 東京大学出版会 1953
銀杏のおちば 東京大学出版会 1953
国際経済論 楊井克己共著 弘文堂 1955 (経済学全集)
主張と随想 世界と日本と沖繩について 東京大学出版会 1957
私の歩んできた道 東京大学出版会 1958
政治と人間 民主化と人間形成のために 東京大学出版会 1960
人生と自然 東京大学出版会 1960
教育と人間 民主主義と平和のために 東京大学出版会 1961
内村鑑三とともに 東京大学出版会 1962
『矢内原忠雄全集』全29巻(岩波書店、1963-64年)

著作・講演集[編集]
『嘉信』第1-7巻、みすず書房、1967年
『聖書講義』第1-8巻、岩波書店、1978年
『基督者の信仰』第1-8巻、岩波書店、1982年
『信仰と学問――未発表講演集』新地書房、1982年
『矢内原忠雄』日本平和論大系第10巻、日本図書センター、1993年
『土曜学校講義』第1-10巻、みすず書房、1998年
『矢内原忠雄』日本の説教第11巻、日本キリスト教団出版局、2004年

翻訳[編集]
ヨブ記 向山堂書房 1935
イザヤ書 向山堂 1936
奉天三十年 ドゥガルド・クリスティー 岩波新書 1938
武士道 新渡戸稲造 岩波文庫 1938
帝国主義論 ジョン・アトキンソン・ホブスン 岩波文庫 1951

伝記[編集]
矢内原伊作 『矢内原忠雄伝』 みすず書房、1998年7月23日。ISBN 4-622-03200-7。 『朝日ジャーナル』誌に1974年 - 1975年に連載されたものをまとめたもの。ただし連載は東大辞職事件の直前のくだりで中断され、著者はその後も完成を企てたが果たせず未完のまま刊行された。

エピソード[編集
矢内原と親交があった長谷川町子は、『サザエさんうちあけ話』の第29章でその思い出について触れている。

脚注[編集]
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1.^ 鴨下重彦他 2011年 69ページ
2.^ アブラハムの子イサクで、ヘブライ語で「笑う」と言う意味
3.^ 鴨下重彦他 2011年 20ページ
4.^ 鴨下重彦他 2011年 21ページ
5.^ これは真理の敵ファシズムに対する宣戦布告を意味した。(鴨下重彦他 2011年 31ページ)
6.^ 鴨下重彦他 2011年 31ページ
7.^ この日は、御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定された。つまり、12月初旬に米英欄に対しての開戦を決意したのである。(鴨下重彦他 2011年 35-36ページ)
8.^ 鴨下重彦他 2011年 38ページ
9.^ 鴨下重彦他 2011年 60-61ページ
10.^ 鴨下重彦他 2011年 74ページ

参考文献[編集]
大川原礼三 編著 『矢内原事件50年』 木鐸社、1987年12月。
『矢内原忠雄』 鴨下重彦・木畑洋一・池田信雄・川中子義勝 編、東京大学出版会、2011年11月。ISBN 978-4-13-003370-1。
『近代日本のキリスト者たち』 高橋章 編、パピルスあい(出版) 社会評論社(発売)、2006年3月。ISBN 4-7845-9110-9。
竹中佳彦 『日本政治史の中の知識人――自由主義と社会主義の交錯』上・下、木鐸社、1995年2月。ISBN 4-8332-2202-7 ISBN 4-8332-2203-5。
中村克己 『内村鑑三と矢内原忠雄』 リプロポート、1981年1月。ISBN 978-4-8457-0016-5。
南原繁ほか 『矢内原忠雄――信仰・学問・生涯』 岩波書店、1968年。
西村秀夫 『矢内原忠雄』 日本基督教団出版局〈人と思想シリーズ〉、1975年。
量義治 『無教会の展開――塚本虎二・三谷隆正・矢内原忠雄・関根正雄の歴史的考察』 新地書房、1989年11月。ISBN 4-88018-135-8。
藤田若雄 『矢内原忠雄――その信仰と生涯』 教文館、1967年。
三浦甫ほか 『矢内原忠雄と現代――矢内原忠雄記念講演集』 新地書房、1990年6月。ISBN 978-4-88018-138-7。




 彼岸過迄

『彼岸過迄』(ひがんすぎまで)は、夏目漱石の長編小説。1912年1月1日から4月29日まで「朝日新聞」に連載され、同年に春陽堂から刊行された。

「修善寺の大患」後初めて書かれた作品。自意識の強い男と、天真なその従妹との恋愛を描く。短編を集めて一つの長編を構成するという手法が具現化されている。後期3部作の第1作である。

連載が始まる前年、漱石は文部省からの文学博士号の授与を辞退している。辞退した理由は、学位の授与を審議する博士会が授与を見送ったにもかかわらず、漱石が大病を患ってから一転授与に変じたことにあるとされている。

目次 [非表示]
1 作品背景
2 あらすじ
3 関係図
4 外部リンク
5 注釈

作品背景[編集]
漱石は1910年の夏に病を悪化させ、危篤状態になった(修善寺の大患)。この1年半ののちに「彼岸過迄」の連載が始まったのだが、漱石は連載開始に当たり、初日(1月1日)に、「彼岸過迄に就て」という題の序文を発表している。これによれば、長く休んだために面白いものを書かなくてはいけないと感じているとしている。また、「彼岸過迄」という題名は、元日から始めて彼岸過ぎまで書くつもりだったので名づけたことがわかる。

漱石は修善寺の大患のほかにも、発表前年の11月に、生後2年の五女ひな子が死亡している。また、江藤淳は漱石がこの時期に文壇で孤立化していたと指摘している[1]。「彼岸過迄」は、序文にある通り、数本の短編が集まって1つの長編を構成する、という手法が採られている。柄谷行人は、これは「吾輩は猫である」と同じ構成だとして、この作品は漱石が原点回帰を図った探偵小説であると評論している[2]。ただし、漱石はその序文で、数本の短編が集まって1つの長編を構成する作品はこれまで試みたことがないとしている。

連載が始まった日と同じ1912年1月1日には孫文が中華民国の成立を宣言し、その翌月に愛新覚羅溥儀が清朝皇帝を退位して清が滅亡している。中国情勢だけではなく世界情勢はいよいよ混迷を深め、日本が暗澹の渦中に身を置き始めた時代でもあった。作品にはそうした時代的背景が盛り込まれているが、序文に「今の世に無闇に新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇に於る一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。自分は凡て文壇に濫用される空疎な流行語をかりて自分の商標としたくない」とあり、100年を過ぎてなお色褪せない作品と言える。

あらすじ[編集]
いくつかの短編小説を連ねることで一編の長編を構成するという試みがなされている。いくつかの章は話者がかわる。鈴木三重吉の選んだ「現代名作集第一編」には『須永の話』が独立した短編として収録され、『雨の降る日』は独立して文集『色鳥』に収録された。長編として厳密な統一性をもとめず、各章を個々の短編をかくようにして視点と文体の変化をさせている。各章の概要は以下である。
「風呂の後」大学を卒業して仕事に就けないでいる田川敬太郎の人物像が、同じ下宿の住人で、さまざまな仕事を遍歴した森本と比較して描かれる。「停車所」大学の友人の須永の叔父で実業家の田口に就職を頼む決意して、須永の家を訪ねると一人の女が家にはいるのを目撃する。須永から紹介された田口からはある時間に小川町の停車場に降りるある男の電車から降りてからの2時間以内の行動を調べて報告しろという依頼を受ける。敬太郎はそれを実行する。停車場には女が人を待っていて、調査の依頼がされた男はその女性と町を歩く。ミステリー的な風味を評価する解説もある。「報告」「停車場」の種明かしの章で、田口から、調査した男への紹介状をもらって、敬太郎は男を訪問する。男は義兄の松本で、女は田口の娘の千代子であったことが明かされる。松本は働かないで、財産で高等遊民として暮らしている。このイタズラを通じて、敬太郎は田口の家に出入りすることができるようになった。「雨の降る日」前の章で松本が雨の日に面会をことわった理由として、雨の降る日に幼い娘が突然死んだ話とその葬儀の話である。漱石自身の五女・雛子が1才で急死した時の気持ちを松本に託した章である。「須永の話」須永と千代子の恋愛の話である。この章では語り手が須永に変わる。須永の母親は千代子と須永の結婚を強く望み、千代子も須永に好意をよせているが、須永はそれから逃げようとする。「千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫の上に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違ひない。・・・僕は今云つた通り、妻としての彼女の美くしい感情を、さう多量に受け入れる事の出来ない至つて燻ぶつた性質なのだが、よし焼石に水を濺いだ時の様に、それを悉く吸ひ込んだ所で、彼女の望み通りに利用する訳には到底も行かない。もし純粋な彼女の影響が僕の何処かに表はれるとすれば、それは幾何説明しても彼女には全く分らない所に、思ひも寄らぬ形となつて発現する丈である。万一彼女の眼に留まつても、彼女はそれをコスメチツクで塗り堅めた僕の頭や羽二重の足袋で包んだ僕の足よりも難有がらないだらう。要するに彼女から云へば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、次第々々に結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。」などの一節がある。「松本の話」松本が語り手となって、須永の千代子をさけようとする気持ちが、須永が母親の実の子供でなかったという出生の秘密にあったことが明かされる。松本は須永に意見して、須永は気持ちの整理のために、関西に一人で旅にでる。須永からの手紙がとどくようになり、内向から世間への関心をもつようになってきていることが示されて物語はおわる。

関係図[編集]

                ┏━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓ 
     父(死去)┳ 母 妹 ┳ 田口    弟(松本)┳ 御仙
           ┃  ┃         ┃
   ┏━━━┻━┓ ┏━━━┻┳━━━┓      ┏━━┻━━━┓
 (主人公)    ┃   ┃  ┃    ┃   ┃      ┃      ┃
 田川敬太郎───須永市蔵  妹(夭折) 千代子  百代子  吾一    兄2姉2    宵子(夭折)
   │  (友人)                │        
   │                      │
   │                      │   
   森本                     高木
 (同じ下宿)               (百代子の友人の兄)
  1. 2014/09/24(水) 08:57:29|
  2. 未分類

中核派全学連大会

古本屋通信      No 1054  9月20日

 
中核派全学連大会


 ちょっと見逃していたが、中核派全学連大会が開かれていた。これを 『前進』 から転載しなければならない。これ実力なんだけど、ともあれオメデトウ。頑張ってください。最後に新三役の顔ぶれがあるね。大勢に変化なしだが、これとは別に沖縄大が凄い。前から知ってたけど、これ水面下で革共同の統一の布石だね。ゲバやってる暇なんてないよ。とっくの昔から共産党と中核派の実質共闘は進んでいたんだけど、いよいよ革マル派もやるんだね。そう、沖縄しかないよ。この間の選挙で共産党も勝ったしね。これ石村が行かなかったから勝てたんだ。


 以下、『前進』 の記事   


全学連大会 10・21国際反戦デーへ 絶対反対の自治会建設を 安倍打倒へ決意みなぎる

発行日: 2014年9月15日 第2648号 学生運動
週刊『前進』06頁(2648号05面01)(2014/09/15)
  全学連大会
 10・21国際反戦デーへ
 絶対反対の自治会建設を
 安倍打倒へ決意みなぎる

(写真 全学連大会の最後に肩を組みインターナショナルを歌う新執行部。左から森書記次長、澤田副委員長、作部副委員長、百武副委員長、斎藤委員長、坂野書記長【9月4日 東京】)

 9月3〜4日、全学連第75回定期全国大会が東京都内で行われた。大会は、2日間で70本の発言という白熱的討論をとおして、「①10・21国際反戦デー闘争に立ち上がろう! ②11・2労働者集会に大結集しよう! ③学生自治会再建へ、大学ストライキを復権しよう!」という三つの行動方針をうち立てた。そして時代の要請に応え、300万学生の先頭で安倍政権打倒へ壮大な労働者人民の決起を実現すべき全学連の新たな執行部体制を強固に確立した。

法政大・沖縄大を先頭に討論
大会1日目、「総括議案」を提起した坂野陽平書記長は冒頭、「7・1閣議決定を徹底弾劾するとともに、命をかけて戦争を阻止する決意を固めよう。7・1閣議決定に対して『安倍打倒の8月』が燃え上がり、怒りは満ちあふれています」と喝破し、300万学生の大決起を巻き起こそうと訴えた。
 続いて斎藤郁真委員長が「情勢議案」「方針議案」を一括提起。「『決定的な一人』が立つならば数百万、数千万、数億の決起を生み出せる情勢だと確認し、秋の闘いにうって出よう」「学生が立ち上がれば改憲・戦争を阻止できると現実に示す闘いとして、10・21国際反戦デー闘争の爆発をかちとろう! 全国大学で波状的に闘いを巻き起こし、法大―国会デモへ攻め上ろう!」と今秋決戦への総力決起を訴えた。
 続いて、沖縄大学学生自治会再建をかちとった赤嶺知晃委員長が特別報告を行った。「7・1と辺野古新基地建設着工は安倍の墓穴となり、沖縄の怒りは革命に向かって爆発しています。この怒りを県知事選に流し込む『オール沖縄』に、基地と戦争を止める力はありません。沖大当局と対決し抜く自治会が辺野古に登場する。これが新基地建設を本当に阻止する力です」
 討論に入り、武田雄飛丸・法大文化連盟委員長は、「いま大学人がキャンパスで安倍の『大学改革』を推進している。大学に巣食う体制内『左派』を容赦なく打倒しよう。最もラディカルなものが最も大衆的だという原点に立ち返ろう」と確信を持って提起した。
 1年生への当局・権力の大反動と対決する広島大学学生自治会の百武拓委員長は、「敵は学生が声を上げ、結集軸になることを恐れている。7・1は向こう側の踏み込みだ。自治会や労働組合が中心で戦争を止める運動が絶対に必要であり、それに10・21闘争で挑戦する。ここで闘いきれたら、体制内運動の中で声を上げられない人たちが膨大に結集する。今大会を私たちの転換点にしよう!」と訴えた。

 新執行部から熱い決意表明
 大会2日目冒頭に坂野書記長が「自治会とは『原則的・非和解的な闘争を大衆的にやる団体』です。10・21闘争を300万学生に歴史選択を問う第一歩としよう」と熱烈に訴えた。京都大同学会の作部羊平書記次長は、「今までは学内情勢から『大学の決定権を取り戻そう』と訴えてきたが、今秋は同学会として、改憲・戦争情勢と真っ向から対決する10・21闘争へ突き進む」と鮮明な決意を表明した。
 さらに大会では、来賓のあいさつとして、三里塚芝山連合空港反対同盟の萩原富夫さん、法大弁護団の藤田城治弁護士、酒田芳人弁護士が登壇した。萩原さんは、自らの学生時代の経験談も交えて学生運動への期待を表し、10・12三里塚への総決起を呼びかけた。
 2日間の討論を集約し、斎藤委員長がまとめの発言を行った(別掲)。そして、「300万学生のリーダー」として今秋決戦の先頭に立つ新たな執行部が選出された。全学連副委員長に就任した澤田光司君(東北大)が代表して「資本主義社会は絶対に間違っているとの確信を大会で得た。この怒りを忘れず副委員長をやる」と決意を表明した。
 今次全学連大会は、「7・1反革命」と対決し、10・21国際反戦デー闘争と11・2全国労働者総決起集会を集約点とする、全国大学での安倍打倒決戦の方針を強固にうち立てた。主体的・実践的な討論を通して、「もっと自分自身が階級闘争のリーダーとして飛躍したいという欲求が生まれた」(初参加者の感想)という決意みなぎる大会となった。
 大会の高揚の地平をただちにキャンパスへ持ち帰り、9月16日の法政大後期授業開講を皮切りに、巨大な今秋決戦の爆発へ躍り込もう!


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  全学連新執行体制(敬称略)

  委員長    斎藤郁真 (法政大学・法
  副委員長   百武 拓 (広島大学・理
         作部羊平 (京都大学・工
  同       澤田光司 (東北大学・工
  書記長    坂野陽平 (上智大学・文
  書記次長   森幸一郎 (京都大学・理
  1. 2014/09/20(土) 05:30:33|
  2. 未分類

右遠俊郎の2通の手紙

古本屋通信      No 1051  9月19日

  右遠俊郎の2通の手紙


 先日入手した右遠俊郎の2通の手紙をここに公表する。受信者によって放擲された私信には著作権がないが、道義的には一般に公表は控えるべきだろう。しかし右遠俊郎は広く世間に認められた職業作家であり、すでに故人である。手紙の内容は文学と詩に関するものだ。ただ、受信者は詩壇では有名な詩人だが、職業詩人ではない。よって文中を匿名のOに変えた。今回のエントリーについては一切の投稿を受け付けないし、非表示の問い合わせも即削除する。他人がこれについて、何処で何を語ろうが、それは古本屋通信の感知するところではない(古本屋通信)。
 
 

…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 前略
 帰りの新幹線のなかで、Oさんの詩だけを拝見しました。ぼくがそのなかでいちばん気に入ったのは、「華の首飾り」です。ぼくがまえに拝読した詩に比べると、全体としてことばの凝縮度が柔らかくなっていると思いました。それはたぶん詩人としての年輪を現わすものでしょう。鋭さを抑制できるほどに熟してきた場合、落とし穴としては、それがユルミになって現われる場合があります。そのユルミは多くの場合、正義の素材を選んだときに訪れるような気がします。「戦争とわたし」にはわずかながらそれを感じました。「華の首飾り」はやはりいいと思います。「私に背を向け / 花びらほどの血を吐いた」 人の心の姿と時代の影が目に見えます。そして、「ひた ひたとついて来る」 「一人の幼い者」 の 「手を引いて歩く」 ほかない作者の、決して高ぶることのない覚悟のほどがよく分ります。ぼくにはこの詩ひとつで充分でした。
 おたがいになまじりを決して何かを書くという年ではなくなりましたから、ゆるゆると書き進めるほかありませんが、それでも初心を忘れずにがんばりましょう。
 なお、Oさんの住所、黒瀬さんの住所、ついでに原明彦さんの住所など、お知らせください。お元気で。いっそういい作品を待っています。
                              右 遠 俊 郎
  O R 様                              1979. 9. 12

        文芸同人 群狼・群狼通信の封筒を使用。



 前略
 『道標』16 を読みました。目次を見て、まず道満さんの 「きれぎれの記録----吉塚勤治のことなど④」 を読み、その平明な文章に感心しました。ぼくは 『詩作』 を欠かさず買って読んでいた時期があり、その内容にはいろいろと思いださせられるものがあり、読みながら考えこんだり、懐かしく思ったりしました。一本一乾という名前も懐しいものの一つです。
 Oさんの詩は、素材と主題を睨んで、ことばがひらめこうとするのを抑え、抑えながら対象にアプローチする速度が、ミニサイクルのリズムとなって定着し、たしかな世界を読むものの行く手に拡げて見せる、そんな詩であるように思いました。 
 自分の原稿がうまくゆかないものですから、ついでのように詩作品のすべてを読みました。あまり批評する気もなく読んだので、気楽に楽しむことができ、ほとんどの詩に好感を持ちました。全体に真摯さがあり、緊張感があり、ぼくが接している小説の分野よりも文学的であるように感じました。いいものを読ませてもらったと思っています。また、桑村の詩も久しぶりに読み、健在だなと思いました。坪井さんの追悼文も読みかけて、なかなかいいものだなと思いましたが、自分の原稿のための時間がなくなりますので、これは翌日に回します。まずはとりとめのない感想まで。
                              右 遠 俊 郎
  O R 様                              1980. 5. 29

        文芸同人 群狼・群狼通信の封筒を使用。
  1. 2014/09/19(金) 03:31:41|
  2. 未分類

壺井繁治賞

古本屋通信     No 1043  9月15日

  壺井繁治賞


 左翼詩壇のもっとも名誉ある賞が壺井繁治賞であることはよく知られている。こんかい私が入手した詩人の肉筆はがきには、以下の一覧表中の赤文字の詩人のはがきが多数在った。先ほどはがき入れに収めた(約1000枚あるだろう)ので、記憶のあるうちに備忘録としたい。受賞した詩集・評論集名は今回は関係ない。


 受賞年  受賞回  名前  詩集・評論集名
1973年 第1回詩人会議賞 村上国治 『村上国治詩集』
1974年 第2回詩人会議賞 佐藤文夫 『ブルースマーチ』
1975年 第3回詩人会議賞 城侑 『豚と胃と腸の料理』
1976年 第4回詩人会議賞 津布久晃司 『生きている原点』  三田洋 『回漕船』
1977年 第5回詩人会議賞 滝いく子 『あなたがおおきくなったとき』
1978年 第6回壺井繁治賞 この年から賞の呼称を変更する。 鳴海英吉 『ナホトカ集結地にて』
1979年 第7回壺井繁治賞 浅井薫 『越境』
1980年 第8回壺井繁治賞 宮崎清 評論集『詩人の抵抗と青春ー槇村浩ノート』
上手宰 『星の火事』
1981年 第9回壺井繁治賞 仁井甫 『門衛の顔』  瀬野とし 『なみだみち』
1982年 第10回壺井繁治賞 中正敏 『ザウルスの車』
小田切敬子 『流木』
1983年 第11回壺井繁治賞 大崎二郎 『走り者』
1984年 第12回壺井繁治賞 近野十志夫 『野生の戦列』   佐藤栄作 『白い雲と鉄条網』
1985年 第13回壺井繁治賞 草野信子 『冬の動物園』
1986年 第14回壺井繁治賞 赤山勇 『アウシュビッツトレイン』   坪井宗康 『その時のために』
1987年 第15回壺井繁治賞 芝憲子 エッセイ集『沖縄の反核イモ』   くにさだきみ 『ミッドウェーのラブホテル』
1988年 第16回壺井繁治賞 斎藤林太郎 『斎藤林太郎詩集』
1989年 第17回壺井繁治賞 みもとけいこ 『花を抱く』
1990年 第18回壺井繁治賞 筧慎二 『ビルマ戦記』
1991年 第19回壺井繁治賞 片羽登呂平 『片羽登呂平詩集』
1992年 第20回壺井繁治賞 鈴木文子 『女にさよなら』
1993年 第21回壺井繁治賞 津森太郎 『食えない魚』
1994年 第22回壺井繁治賞 柴田三吉 『さかさの木』
1995年 第23回壺井繁治賞 金井廣 『人間でよかった』
1996年 第24回壺井繁治賞 返田満 『盆地の空』
1997年 第25回壺井繁治賞 茂山忠茂 『不安定な車輪』
1998年 第26回壺井繁治賞 彼末れい子 『指さす人』  稲木信夫 評論集『詩人中野鈴子の生涯』
1999年 第27回壺井繁治賞 佐々木洋一 『キムラ』  遠山信男 評論集『詩の暗誦について』
2000年 第28回壺井繁治賞 葵生川玲 『はじめての空』
2001年 第29回壺井繁治賞 市川清 『記憶の遠近法』
2002年 第30回壺井繁治賞 伊藤真司 『切断荷重』
2003年 第31回壺井繁治賞 中山秋夫 『囲みの中の歳月』
2004年 第32回壺井繁治賞 猪野睦 『ノモンハン桜』
2005年 第33回壺井繁治賞 真栄田義功 『方言札』
2006年 第34回壺井繁治賞 杉本一男 『消せない坑への道』
2007年 第35回壺井繁治賞 久保田穣 『サン・ジュアンの木』
2008年 第36回壺井繁治賞 杉谷昭人 『霊山 OYANA』
2009年 第37回壺井繁治賞 小森香子 『生きるとは』
2010年 第38回壺井繁治賞 宇宿一成 『固い薔薇』
2011年 第39回壺井繁治賞 詩人論賞  清水マサ 『鬼火』  草倉哲夫 『幻の詩集 西原正春の青春と詩』
2012年 第40回壺井繁治賞 秋村宏 『生きものたち』
2013年 第40回壺井繁治賞 照井良平 『ガレキのことばで語れ』


 私は詩壇に疎い。約2000枚のはがきのうち、無名の素人であると思われた約半分を捨てた。ところが捨てた中に上記の数名の詩人のものが含まれていた。自分の無知を恥じるしかない。もちろん受賞詩人以外も多く残しているし、優れた詩人はいるだろう。正直に告白しておく。私は字の上手な詩人のはがきを残し、下手なはがきを捨てたのである。上記の中正敏は下手だったので余程捨てようかと思ったが、辛うじて思い留まった。10通はあったろう。下手な半数は捨てた。

 それにしても時代を感じさせるのは、第1回の受賞が村上国治の 『村上国治詩集』 であることだ。私はこの詩集を持っているが、感無量である。あたかもこの賞が村上の出所記念に設けられたかの如くだ。

 それから坪井宗康の受賞ははっきりと憶えている。これが香川県の赤山勇と同時受賞だったので、余計記憶が鮮やかだった。私は高松時代に赤山勇を知り、その時代の詩集(血債の地方 赤山勇詩集)も持っていたのである。

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ウィキペディア

壺井繁治


壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年(明治30年)10月18日 - 1975年(昭和50年)9月4日)は、日本の詩人である。日本共産党員。
香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。その後、コミュニズムに接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。
戦後は新日本文学会の創立に参加し、発起人となる。しかし、戦後登場した武井昭夫や吉本隆明たち若手からは、戦時中の行動との差のために批判の対象にされた。その後、グループ「詩人会議」を結成し、民主主義文学の詩の分野を確立させていった。同郷の黒島伝治の業績の顕彰につとめ、岩波文庫収録の黒島作品集『渦巻ける烏の群』の解説を書いたり、『軍隊日記』を編纂したりもした。また、小林多喜二の全集の編集委員としても活躍した。妻は作家の壺井栄である。

  1. 2014/09/15(月) 00:56:06|
  2. 未分類

もう無茶苦茶な赤旗読者

古本屋通信     No 1034  9月6日

  もう無茶苦茶赤旗読者


 日本共産党の地方議員で朝日新聞の自己検証記事にコメントしたのは(私が知るかぎり)福山市議の村井明美さんだけだった。この村井文に2人目の投稿があった。その部分だけを下に貼って感想を書きたい。


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大丈夫ですか

朝日新聞記事を読んで、これで日本が汚名を晴らす第一歩と感じました。
従軍慰安婦のねつ造がはっきりしました、日本の若者、子供たちのために未来と希望を
与えましょう。
共産党さんも、自分たちで証拠を集めて掲示、証明してからにしてください。
慰安婦の方々も、自分に意に反して親や親族に売られたのはかわいそうだと思いますよ、
それをなぜ日本のせいにするのでしょうか、恥を知りなさい。
食えなくなった国を併合して助けてもらった のに、恩を仇で返すのはやめなさい。
ニッポンは良識の情のあるいい国です。

2014.09.03 10:22 |15年赤旗読者 |URL


大丈夫です

いかに戦時であったとはいえ、日本軍国主義が行った蛮行が消し去れるものではありません。
私たちは、2度と誤った道を歩まないために、歴史の真実にしっかりと向き合うべきではないでしょうか。
私は、新たなナショナリズムの台頭を、非常に危険な思いで受け止めています。

2014.09.03 23:01 |
村井あけみ |URL



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 古本屋通信

 村井さんは的確に回答している。この投稿者にはこうしか答えられないだろう。私がこれから書くことは村井文さんには関係ないことだ。


 まず投稿者だが、これは自分の思うままを自主的、自発的に投稿していると思う。恐らく反共組織のメンバーではなく、15年間の赤旗読者というのも本当だろう。だから村井さんの苦悩があり、私も溜息が出る。

 投稿文中の青大文字がこの投稿者の全てを顕している。これは歴史認識として半端じゃない。これが赤旗の長期読者かと嗤うのは容易い。私も元東大民青さんといっしょになって嗤いたい。もちろんこの投稿者をではなく、党中央委員会と赤旗編集局を。

 ちょっと考えてみよう。この投稿者 (赤旗の長期読者)のような人は多い。圧倒的だといっていいかもしれない。然しこの投稿者とわが石村とも子と一体どこが違うのだろうか? 殆んど違わない。すなわち「社会の仕組み歴史のすじみち」 (1960年代の民青の初級同盟員教室のテキスト) レベルの日本歴史を理解していない点で変わらない。もっといえば赤旗を15年間読み続けていても、たったこれだけの歴史認識なのだ。そんな赤旗を特別月刊設けて増やしてどうするんだろうか。

 私はいま日本革命をもう一度1961年綱領にかえって考え直さなければならない時期に来ていると思う。緑の党はたぶん近々に解体するだろう。岡山の地方議員 (横田悦子、鬼木のぞみ) は恐らくゼロになるだろう。共産党は解党も解体もしない。だがネック(社会構造上の無効化)は同一なのだ。共産党の地方議員も減少するだろう。


 昨夜夢を見た。革共同三派による臨時革命政府の樹立である。暫定政権だが、何とか平和的に革命に移行した。安倍政権改造内閣に取って代わって政権に就いたのだ。NHKを押さえて声明を発表した。そして日本共産党に対して政権に加わらないかと呼びかけている。閣僚ポストは3つ用意されている。24時間以内に回答することが求められている。志位委員長は応じる気配だが、閣僚ポストで揉めている。志位と山下は確定だが、あと一人の女性枠をめぐって揉めているのだ。党側が紙智子を主張しているのに対し、革共同三派は坂井希を望んでいる。けっきょく紙と坂井の話し合いになったところで目が醒めた。
  1. 2014/09/06(土) 10:10:08|
  2. 未分類

金ちゃんとのぞみさん

古本屋通信     No 1033  9月6日

  金ちゃんとのぞみさん


 きのう道路で田中金ちゃん(地域人権連岡山の職員で岡山市議の田中のぞみさんの夫君)に出会った。彼の職場のある岡山県民主会館が私の自宅と100メートルしか離れておらず、しばしば出会う。私がバイクで金ちゃんが車だ。すれ違っても私は気が付かないが、金ちゃんは気付く。で、きのうは車を降りて話になった。




 「 けっこうキツく批判しとるけど、気を悪うしとらんかのう?」

金ちゃん 「 (気を悪く ) しとりゃあせん。ウチの(細君ののぞみさんのこと)が集団的自衛権の件は当たっとる言うとった。鋭いなあ言うて」


 「 はあ? 何のこっちゃ? そんな事、ブログに書いたかのう?」

金ちゃん 「ウチのをこっぴどく批判しとった。ハッタリが目立つ云うて」



 私は岡山市議団をブラック企業関連で「若者の働き方アンケート」推進の張本人としてこっぴどく批判していたが、集団的自衛権で批判した記憶はなかった。然しのぞみさんが怒っているだろうという予想が外れたので、とりあえずホッとした。別に怒らせても構わないが、怒らせる目的で批判したのではないから、怒って貰わないに越したことはない。そのときは思い出せなかったブログだが、家に帰って調べて見ると該当する記事があった。自分の復習のためにそれを貼っておこう



・・・・・・・・・・・・・    ・・・・・・・・・・・・・・・     ・・・・・・・・・・・・・

 古本屋通信    No 924   7月 1日

  ネジレた文を書くな。文はわかるように書け。


 共産党岡山市議団が書いた文を転載する。論外である。批評も添削もしない。こういう文を他人が読んで理解して呉れると思っているのだろうか。典型的な「分っているのは自分だけ」の拙い文である。


 集団的自衛権、市議会では先延ばし
 2014年6月30日 (月)  田中のぞみ
27日閉会の岡山市議会で、
集団的自衛権の行使容認に反対する意見書について
の陳情が継続審査になりました。
明日1日にも閣議決定と言われているこの時期に、
継続審査で先延ばしにしてる場合ではない!
国の根幹にも関わる議論に
態度を示すのが政治家の責務!と
竹永議員が(継続審査に対する)反対討論に立ちましたが、
公明党議員の(継続審査に対する)賛成討論では、
「委員長判断を尊重するべき」と
内容には触れない討論。
何じゃそりゃ。
公明、市民ネット、新風会、明政クラブの賛成多数で
先延ばし「継続審査」になりました。
↓土曜日駅西口で宣伝しました。
 差し入れまでいただきました。
↓シール投票では、圧倒的に「反対」が多いのです。


 6月議会 最終日に! 6月27日  竹永みつえ
 6月議会が終了しました。
 (中略)
今日、最終日の 「集団的自衛権の憲法解釈変更をしないように求める意見書の提出について」の陳情が総務委員会では継続審査という結果だったことについての報告に対して、採択を求める立場で反対討論をしました。
討論内容はあげていますのでクリックしてください。(写真横の赤い字です!!)
主な内容は、国民の命にかかわる問題で、この国のあり方が大きく変わろうとする案件を、市議会として先送りにすることは許されない、
一人一人が政治家として判断することが必要、また我が党市議団の立場として「一内閣が憲法の根本原理を一方的にかえることは絶対に許してはいけない、戦前戦後一貫して戦争に反対してきた平和の党として認めるわけにはいかない」との見解も明らかにしました。
これに対し、「国も協議中であり、何よりも委員会の結果であり、委員会の結果も、継続審査賛成、反対が同数だったのを委員長の判断で継続審査とした経過もあるので、継続審査をみとめるべき」と公明党市議団から討論がありました。
そして自民党市議団からも、我が党とは集団的自衛権の行使の解釈は全く反対ですが、「継続審査ではなく採決すべき!」との立場で討論がありました。
そして継続審査が図られましたが、
公明党市議団、市民ネット、新風会、明生会、無所属1名が継続審査に賛成し継続審査となりました。
うーん、残念!
(以下、略)



 古本屋通信
 竹永さんの当日記事に陳情第13号の継続審査について反対討論 2014年6月議会 日本共産党岡山市議団 竹永光恵 が付いていたが、コピー出来なかった。直接読んでほしい。この文にも同様な分り難さを感じた。推敲が圧倒的に不足している。 尚、これを読まないと当日ブログ は理解できないというのではブログ記事とは言えまい(古本屋通信)。

 追記
 ひとことだけ。継続審議は一般的には民主的なんヨ。現に自民党は反対に廻ってる。竹永さんの反対討論も読んだが、全然説得力がないわ。言っちゃ悪いが、共産党、自民党、公明党、市民ネット、新風会、明生会、無所属、みんな揃って市議会でジャレて遊んでる? はっきり言って、こういう陳情第13号のような動議を提出するのはよい(コレ平和委員会陳情?)が、通らなかったら後追い討論なんかどっちでもよい。結局、自分たちが頑張っているとアピールしたいだけに見える。デモ・集会に力を入れたほうがよい。力の配分という点でも間違っていますね。


 追撃第二弾

 上記のような訳の分らん文を書くのは、単に文章力の有無、技術の巧拙ではない。論じている事の内容が分っていないから、こういう文になるのだ。だから添削は出来ない。特にのぞみさんはハッタリが目立つ。粗いんだ。これ、若いうちは誤魔化せるけど、議会で突っ込まれると逃げれなくなるよ。むかし県議会で近藤紗智子さんが長野知事に舐められたのは、組み立てが粗かったからだ。それでも今の河田さんレベルは行っていただろう。まあ、言いたくないけど福山を勉強せられえ (註) 
・・・・・・・・・・・・・・・・    
(註) 9月6日に古本屋通信が付け足した。
あ~今日は土曜日、そして明日は日曜日、あさっては月曜日で・・・
当たり前の事なのですが、こんな言葉を、ついつぶやいてしまいます
水曜が私の一般質問なので、今日を入れなかったら準備ができるのは
わずが3日!いや、3日もある?!
このように質問準備はあがくのですが、やっぱりしんどいのです
私の質問項目
●医療介護総合法について
・住民主体サービスについて
・チェックリストについて
・新しい日常生活支援総合事業の所要額
・報酬単価
・利用者負担
・市長要望署名について
●子ども・子育て支援新制度について
・保育者の資格要件
・幼保連携型認定こども園の課題
・保育所再整備計画と保育士の多忙化について
●中学校完全給食について
●上下水道料金について
・下水道料金の引上げによる市民への影響
・生活保護世帯の減免制度廃止について
●商工振興について
・リム・ふくやまの管理運営の在り方について
さて、第一質問原稿が出来たので、今度は再質問原稿です!
自分自身との闘いでもある・・・
苦しんでいる私に一羽の鳥が舞い降りた!
P1120284.jpg
娘ちゃんが作った、極小の折り鶴
いい事があるかな~
よしっ!頑張ろう!
 (匿名希望)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 今回の古本屋通信

 上記の通信 No924 を書くとき、私はのぞみさんや竹永さんの顔を思い浮かべたりしなかった。対象とする文だけと格闘した。しかし書き上げて再読した時、書き過ぎたかなあと思った。「ハッタリが目立つ」と言うのがそれだった。これは心証であって、それに該当する文があるわけではない。だから一歩間違えると、書かれた方は怒るだろう。まあ、ホッとしたわナ。

 約20分雑談したのだが、その中で私が地域人権連岡山と人権21岡山を混同していたことを指摘された。前掲エントリーで既に訂正しているが、これは県解連と県部落問題研究所の後続だろう。まあ、運動団体と研究団体だ。私は後者は前者の附属団体だろうくらいに捉えていたが、正式には関係のない別組織だということだ。以後注意したい。



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  1. 2014/09/06(土) 03:41:56|
  2. 未分類

岡山市議会、よう分らん

古本屋通信     No 1029  9月4日

  岡山市議会、よう分らん


 2日から岡山市議会が始まっているらしい。よう分らんが、議員各氏の至近のブログ記事を漏れなく貼っておく。言いたいことはたくさんあるが、何も言わん事にする。言わんが花であろう。

  ただ先日知り合いからいわれた。

  「あんた、えらい福山に入れ込んどるけど、その半分くらい岡山を応援しちゃったらどうなら。あんたのお気に入りのふたりは別嬪らしいが、岡山のふたりも負けちゃあおらんぞ

  嗚呼、やっとれん。


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 河田正一市議団長
 8月9日以来、記事の更新なし。



 竹永みつえ市議副団長
 9月02日
今日から9月議会開会されます。開会前は市議団5人そろって市役所横でお訴え。
皆さんが出勤してこられるお顔を見ると、こちらも元気もらえます。今日は勤務の前に市役所まわりを清掃される職員さんたちの姿が・・
頭が下がります。
9月議会は、子ども子育て新法にともない、こども園や、小規模保育、児童クラブなどの基準の条例が提案されています。
また市民病院移転に伴い跡地利用の件などが議題になっています。
私は代表質問で、安倍自公政権の暴走、集団的自衛権行使容認の問題・消費税増税NO!・原発NO!・沖縄の米軍進基地の問題など
国の問題でも市民の命をまもる市としてもきっちりと意見を!の立場をと市長の政治姿勢を問います。
福祉分野では、介護保険改悪に伴う影響・国保の問題・子どもの医療費・保育・子育て・児童クラブ
教育では・学力テストなど
まちづくりでは、路面電車の駅の乗り入れ、市民会館等、問うていきたいと考えています。
代表は9月10日(水)午後1時ころとなっています。
よろしくお願いします


 林じゅん市議
 生涯現役社会と生涯現役を応援する社会
 2014-09-02
 9月定例岡山市議会が開会しました。
朝は開会日恒例の日本共産党岡山市議団5人揃っての街頭演説で9月議会に向けての決意や市政の課題を訴えました。
初日は、市長の提案理由説明が主でした。議案検討の為に散会してから市議団で提案理由説明について検討しました。
私が気になったのは市の公共建築物の更新に今後40年間で1兆9,000億円が見込まれる、としていることと生涯現役社会でした。
公共建築物の更新費用の見込み1兆9,000億円は築年や延べ床面積を機械的に当てはめて算出する総務省の試算ソフトを用いて出した値です。
これまで総務委員会や公共施設マネジメント調査特別委員会の視察の度に他の自治体に「総務省のソフトは用いてますか?」と訪ねてきました。
取り組みを進めている自治体の答えは「目安だ。」「独自に実態に合わせている」などでそのまま金額を使っているところはありませんでした。
岡山市に合わない過大な数値の可能性が高いものです。
「生涯現役社会」は言葉の取りようで意味はいくつか考えられますが、気になるのは「年金が少ない」「老後の蓄えが少ない」などで収入の不安から働いている高齢者の相談が少なくないことです。
元気でやる気があり能力を社会に生かす為に個人の信条として「生涯現役」なら結構なことです。それは社会として応援するべきです。
反対に、年金が少ない、後進が育っていないなどで高齢者がいつまでも働かなくてはならず生涯現役で在職死亡するような社会は貧しい社会です。
社会としては年金の充実や次世代育成で高齢者が「安心して隠居できる社会」の方を目指すべきだと思います。
岡山市議会議員研修会が開かれ「地域活性化とスポーツ」と題して岡大教育学部の高岡先生に話を聞きました。
岡山市議会議会基本条例で「第20条 議会は、議案の審議及び審査又は市の事務に関する調査のために必要な専門的事項に係る調査に当たり、学識経験者等を積極的に活用するものとする。」と定めたことの具体化です。

 来週は市営住宅の受付期間
 2014-09-03
 9月8日〜13日の間、岡山市の市営住宅の入居申し込みの受付が行われます。
申し込みの場所は各区役所、岡山市営住宅管理センターです。

 お金があるところから税金を
 2014-09-04
 国税庁が富裕層への税務調査を強化している、との記事が9月3日付の日経に載っていました。
G20で連携して国際的に税逃れを防ぐ取り組みも始まっているようです。
税金はお金があるところからしっかり集めて国の財政を支えて欲しいものです。


 東つよし市議
 8月6日以来、記事の更新なし


 田中のぞみ市議
 9月議会はじまる
 2014年9月2日 (火)
今日から、9月議会が始まります。
恒例の、朝宣伝。
市民アンケートで2400件を超える返信があること、
6割近い方が生活が苦しくなったと答えられていること、
その中で、気になった一つとして、
市役所での働き方について訴えました。
官制ワーキングプアの現状は深刻です。

 子育てカフェ
 2014年9月 3日 (水)
どなたでもお気軽にご参加ください。



 古本屋通信

 まあ、いっちゃあ何だけど、市議さんの主要な仕事は議会の中で活動することでしょう。 市民要求をもとに、質問原稿を作成し、当局を追及し、よりよき市政を実現しなければなりませんね。正月でもないのに何故手を振るんですか? 政治宣伝は党活動として大切ですが、いまは議会に全力投入する時ではありませんか?

 忘れて貰っちゃあ困ります。毎月約80万円の議員歳費は議員活動に対して支払われるんですよ。私はその半分近くが党へのカンパや党活動に充てられる事を知っています。けれど党議員の主要な活動(仕事)が議員活動であることは変わりません。歳費は市民の税で賄われます。どうか議員活動に手を抜かないでください。

 こう言ってもピンと来ないと思うんです。長年のぬるま湯の習い性ですからね。ここでまた福山ですナ。困ったもんです。

 ここで福山の勢いのある記事を添付すれば、違いは歴然なのですが、それは余りにも嫌味なのでやめておこう。読者は勝手に福山にお行きください。行っても村井さんや河村さんの顔など見えませんけどね。


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 一寸サワリだけ。 村井明美さんの昨日の記事です。


お好み焼きの季節です
 2014.09.03 22:48
共産党市議団、4人居残って質問原稿を書いています。

控室1
夕食は、お好み焼きです。
福山駅前の路地をちょっと東に行ったところに、ねぎ坊主という広島風お好み焼きのお店があります。
美味しいので評判のお店です。
これから、9月議会が終わるまで、何回もお好み焼きのお世話になります。
本日も、頑張って原稿書きをいたしました。

控室2それにしても、国は地方への交付税や補助金を削り、介護保険や国保税度、保育制度などの改悪ラッシュです。
福山市の諸制度も負担増、負担増ですから、質問を書くのも一苦労です。
今回も下水道使用料の引き上げ、生活保護世帯への上水道料金、下水道料金の減免制度を廃止する条例案の提出という負担増です。
質問原稿を書くのも、全然心が弾みませんよね。
ホント、ひどい政治ですよ。
お好み焼き
お好み焼きを食べて、がんばります~。



 ええいっ、ついでだ。 一作日の河村さん。

いよいよ今日から9月議会
今日は9月議会、本会議でした
市長の補正予算や、企業会計決算などの総体説明がありました
今議会には、4本の請願署名が上程されています
広島県保険医協会から
集団的自衛権・秘密保護法・TPPに関して、国に対して議会として反対の意見書をあげてほしいという請願
そして、下水道料金引き下げと、生活保護世帯の減免制度の廃止の撤回を求めた請願です
今日は、日本共産党4人の市議が、それぞれ1本づつ
紹介議員を代表して、請願の趣旨説明をしました
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私は秘密保護法の請願書の趣旨説明をしましたよ~
さて、いよいよ9月議会スタートです!
質問原稿を書き
その間にも、生活相談もあり、相変わらずてんてこ舞いです
今日も気がつけば、夜の9時!
そろそろ市役所退散したいところですが・・・・
これから約1か月、苦悩の日々が続きます(^^:
が、市民の皆さんの声を届けるため、がんばりま~す
  1. 2014/09/04(木) 05:09:13|
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