古本屋通信

マル・エン等関連資料

 古本屋通信  No 494  10月31日

 マル・エン等関連資料


 ネット上で見つけた論文等をここに収録することにした。私もまだ読んでいない(古本屋通信)。



 「世界の革命文学・労働者文学」のあとをうけて、近世の時代を画するいくつかの革命もしくは革命的蜂起に対して、それらの歴史的な評価を定めた重大な評価やルポタージュの紹介を連載することになった。これらは16世紀のドイツの農民戦争にはじまり、1970年代に及ぶ人民の革命闘争と諸階級、諸党派の闘いを生き生きと措いている十~十数冊の書物である。担当は林紘義、田口騏一郎同志。

1 エンゲルス「ドイツ農民戦争」
妥協派を鋭く告発――1525年の二大農民蜂起を分析

 エンゲルスは1848年の革命に敗れてロンドンにのがれた1850年にこの論文を書きあげている。
 この書は一読して明らかなように、16世紀におけるドイツの一大農民蜂起に関する書物であると共に、何よりも改良派、妥協派を暴露し、革命派を弁護しその意義を明らかにしたもので、実際彼は常にルター派をドイツの裏切り的ブルジョアジーに、ミュンツァー流を革命的な労働者党(共産主義者同盟)になぞらえひきうつして考察しているのである。
 当時ドイツの封建主義はすでに解体に向かいはじめ、封建主義の打倒と統一したブルジョア的な国家の形成が客観的な歴史的課題として登場していた。封建主義的搾取の重荷はすべて農民階級の上にのしかかり、農民は一切の社会の寄生虫を、支配階級を支えなくてはならなかった。
 封建的支配層に反対する闘いの合図は「市民的穏健派」たるルターからやって来た。ローマ教会の腐敗を打倒せよというルターの革命的なよびかけは、ドイツのすべての階級をゆさぶった。「ルターによって投ぜられた雷は落下した。全ドイツ国民が運動に参加した。一方では農民や平民が、彼の僧侶に対する反対の叫びやクリスト教的自由にかんする説教のうちに決起の合図をみた、そして他方では穏健派の市民や大都市の下級貴族らが彼に荷担したのみならず、諸侯までもがこの潮流にまきこまれた。そして前者は自分たちのすべての圧制者と決算をなしうる日が来たのだと信じていたし、後者はたんに僧侶の努力、ローマへの従属、カトリック的階級組織等を打破し、教会領の没収によって富もうと望んでいたにすぎなかった」(岩波文庫、84~5頁)。
 だが「穏健派」の、つまりブルジョア的、小市民的勢力の熱狂は長続きせず、農民の一大蜂起が始まるや否や、被らはあっさりと転向し、反動派と妥協しそこへ帰着した。エンゲルスはルター派のこの裏切りが、1848年の革命におけるドイツブルジョアジーや小市民的民主主義者の裏切りと本質的に同一のものであることをくり返し暴露している!社共の諸君は次のような文章をどう読むのか?
 「ルターのこの転向から……れいの維持されるべき或いは改革されるべきもろもろの制度や教義の取引や売買が、れいのいとうべき折衝、譲歩、陰謀、妥協等とがはじまった……それは最近(1848年の革命において)、ドイツの国民議会、連邦議会……において、政治的な形において嘔吐をもよおすまでにくりかえされているのと全く同じかけひきである。官許的宗教改革の小市民的性格はこの取引においてもっともあからさまにあらわれたのである。ルターがそれ以後は市民的改革の公然たる代表者として、合法的前進を続けたことは立派に理由があることであった」(同86頁)。
 ルター派がブルジョア的、小ブルジョア的改良派を代表したこと、そして現代では、それは社共の政治的傾向が対応するものであることは明らかだ。この書物はドイツの宗教改革時代の農民戦争の分析、その意義の確認であると共に、ブルジョア的、小ブルジョア的改良派(ルター派つまり現代では社共)に対する告発と断罪の書物である。こうした意味で、1525年の農民蜂起を描いたこの本はきわめて現代的な意義をもっている。
 ドイツの農民戦争が敗北することによってドイツの分裂と立ちおくれは決定的なものになった。農民戦争の敗北から利益を得、その立場を強化したのは諸侯であったからである。この点でイギリスの17世紀の革命は別の途をたどった。
 ミュンツアーの綱預は革命的ではあったが空想的であった。当時の生産力の低さや農民の政治的意識は、必然的に空想的共産主義の要求となったが、これは多かれ少なかれすべての農民蜂起に見られるであろう。「神の国という言葉で、ミュンツァーが考えていたのは、階級的差別も、私有財産も、また社会の成員に対して独立した外的な国家権力ももはや存在しないような社会状態であった」(同98頁)
 我々はこの書から改良的政策の無力と欺瞞性を、そしてまた革命的政策の真実の意義を確認することができるだろう。


2 ミシュレ「フランス革命史」
革命を活写す――1789年のフランス革命

 本書は、フランス革命(1789年)から約60年後の1847年から53年にかけて発行された(約本――「世界の名著」中央公論社――は全体の5分の1程度に圧縮された部分訳)。
 ミシュレがえがいているのは、1789年のバスチューユ襲撃からロベスピエール没落にいたる5年間である。
 だがフランス革命は、貴族との妥協に終ったイギリスとは別の途を辿った。18世紀の社会的発展のなかで、経済的・精神的力を自覚したブルジョアジーは、経済の領域においても、また他の領域においても主役たらんとしていた。封建的階級の激しき抵折の下ではフランス革命をイギリスの様な妥協の革命として終らせることができなかった。内乱と対外戦争とを決定的な契機として、ブルジョアジーの急進的な部分=ジャコバン派は、都市の小ブルジョアや農民の急進的エネルギーを吸収して貴族階級の打倒を徹底的におしすすめた。こうしてフランス革命は、普通選挙を採用し、共和制を宣言し、農民を解放し、国家と教会を分離し、イギリスの革命よりもはるか先に進んだ。
 89年8月議会は人間の「自由・平等」を内容とする「人権宣言」を発表した。だが「平等」は法律上の平等であり、「自由」とはなによりも所有、営業、搾取の自由を意味した。すなわちそれは私有財産制と経済活動の自由、したがって資本主義的秩序を謳うものであった。「宣言」で平等が謳われたにもかかわらず実際には、選挙権も財産資格によって制限された。
 「すでに市民を能動市民と受動市民(最低3日分の賃金に相当する税を支払わない者、公民権をもたない――引用者)に分けていたが、それではたりず、被選挙権をすくなくとも54リーブルの税を支払う者に制限しようとした。また司法・行政の官職につけるのは能動市民だけに制限した。人民にたいする不信、所有のうちにのみ秩序の保証を認めるブルジョア的唯物論が議会を支配していたのだ」(148頁)。
 革命の初期において、議会では国民との妥協をめざす立憲派が優勢であった。
 革命をさらにおしすすめる要因となったのは、国内の封建勢力の反革命的策動であり、プロイセン、ロシア、オーストリア等の外国の反革命戦争である。
 内外の反革命の危機のなかで、ダントン、ロベスピエールなどに指導されたジャコバンクラブと民衆は蜂起し、立法議会は廃止され、国民公会とよばれる憲法制定議会が誕生した。普通選挙制が導入され、封建的権利とその買い戻しは事実上完全に撤廃された。
 ミシュレは、国王を処刑し、立憲主義と手を切った議会についていう。「公会は、立案、立法の両議会とまったく異なっていた。これら前任の議会は、おしゃべりは多かったが行動せず、行動を国王に、つまり敵にまかせ、権力分立といううるわしい理論によって、フランスを深淵に落ちこまんばかりのところへ追いこんだのだ。公会はいま全権力を集中し、領土のすみずみまで権力をおよぼす」(333頁)。
 国王の処刑は、革命の波及を恐れる外国の反革命戦争、国内での反革命反乱をさらに本格化させた。
 内外の反革命の攻勢から革命を防衛するためには、革命を総統させ、深化していかなければならない。強制借款、価格の統制、課税の強化等々は「自由経済」に反するとして反対するジロンド派は、急進的なジャコバン派にのりこえられていく。ロベスピエールのジャコバン派は、テロルによる独裁政治、恐怖政治を実現していった。
 だがロベスピエールの政治も長く続かなかった。国内の経済のまひ、崩壊のなかで、大衆の支持を失い、没落し、テルミドールの反動への道を歩むことになる。ジャコバン派はジロンド派と激しく抗争し対立したが、かれらもブルジョアジーの一分派であったのかれらが理想としていたのは、農民や手工業者を中心とする小ブルジョアの自由な共和国であった。だがそれが、現実の社会では空想でしかないことは階級闘争のなかで暴露された。
 ミシュレは、結論で、大革命の歴史は「ひとりの英雄しかいない。すなわち人民である」(500頁)とのべている。だが彼にあっては、フランス革命を人類解放の革命として賛美され、そのブルジョア的限界について全く無自覚である。それは戦闘的共和主義者としてのミシュレの政治的立場の帰結だ。
 こうした大きな欠陥をもちつつも、本書はフランス革命の政治過程を生き生きと描写している。今日の階級闘争をすすめるうえで我々がこの革命から学ぶところは大きい。(G)


3 マルクス「ブリュメール十八日」
小ブル民主派を暴露――フランス1848年革命の分析

 この「ブリュメール十八日」があつかっているのは、1848年の二月革命から51年12月のナポレオン三世のクーデタに至るまでの期間である。マルクスは革命の過程を分析することによって、ナポレオンの権力獲得が偶然ではなく、階級闘争の必然的な結果であることを示している。
 二月革命によって、七月王制が打倒され、共和制が生まれた。この共和制は、ブルジョア共和制であったが、臨時政府は、労働者階級の直接の圧力によって、「労働の権利」の宣言、十時間労働法、普通選挙制の布告をおこなった。だが二月革命で実現された民主制は、それから約4年の後、ボナパルト三世のクーデタによって葬り去られてしまった。
 マルクスは、48年の革命の過程を、立憲派からジロンド派の支配へ、さらにジャコバン派の支配へと、より進歩的な党派が革命を前進させた第一次フランス革命の「上向線をえがいてすすむ」革命と対比して、「下向線をえがいてすすむ」(岩波文庫、48~9頁)と特徴づけている。
 この相違は、労働者階級の革命的な闘いが登場したからである。ブルジョアジーは、封建勢力から権力を奪いとったその瞬間から労働者階級の革命的な闘いに脅かされた。
 48年の二月革命によってブルジョアジーは権力を握ると労働者の要求はユートピア的たわ言であり、絶滅しなければならないと宣言した。これに対してパリの労働者は六月蜂起をもってこたえた。それは自然発生的ではあれ、労働者がブルジョアジーと決別し、自己の支配をうちたてようとした世界史上はじめての反乱であった。
 だがこの蜂起は労働者だけの孤立した闘いに終り、敗北した。ブルジョアジーは労働者をはじめ一切の反対運動を“社会主義”として弾圧した。かれらは共和制を宣言し、憲法は「自由」や普通選挙権を謳った。だが「自由」は「公共の安全」すなわち「ブルジョアジーの安全」という制限つきのものであったし、またかれらが普通選挙を謳ったのも、軍隊や警察、裁判所が反対派を窒息させることができる限りにおいてであった。マルクスは、「ブルジョア共和制」を「人民の名においてブルジョアジー全体が支配する」(27頁)政治形態とよび、その限界、欺瞞を暴露している。
 しかし、労働者階級の進出をおそれるブルジョアジーは、彼らの“民主主義”や“自由”を去勢していき、ボナパルトの独裁への道を準備していった。6月の労働者蜂起は労働者階級によってその存在をおびやかされるブルジョアジーが反動化する決定的な契機となった。
 労働者はブルジョア秩序を脅かすまでに成長したとはいえ、いまなお主体的にも客観的にも階級としては未成熟であったことも革命が下向線をたどった原因であった。
 労働者の独自の闘いは6月の敗北以降はほとんどみられず、政治の表面にたったのは小ブルジョア民主派であった。マルクスはかれらの動揺性、反動性を徹底的に明らかにしている。
 「連合したブルジョアジーに対し小ブルジョアと労働者の連合がつくられた。いわゆる社会民主党である」「(共同の綱領では)プロレタリアートの社会的要求からは、革命的な点が骨抜きにされ、かわりに民主主義的ないいまわしがあたえられ、小ブルジョア層の民主義的要求からは単に政治的な形式がとりさられて、かわりに社会主義的な点が強調された。こうして社会民主主義がうまれた。……(綱領では)民主主義的共和諸制度が、資本と賃労働という二つの極端をともに廃止するためではなくこの対立をよわめ調和にかえるための手段として要求される。……その内容とは民主的な方法で社会をかえること、ただし、小ブルジョアの限界内でのことである」(56~7頁)。
 ルドリュ・ロランに代表される小ブルジョア民主派は、六月労働者蜂起には傍観し、なお政府にとどまり、議会の反動的決議に手をかした。かれらはすぐブルジョアジーによって議会からしめだされ労働者階級に近づいたが、それはブルジョアジーとの闘いを貫徹するためにではなく、階級を和解させるためであった。こうしてかれらもまた、ボナパルトがペテンや空文句によって「あらゆる階級に対する家長的な恩恵者」としてあらわれ、政権の座につくことを助けたのである。
 社会民主党、それは資本主義の“民主的変革”をもてあそぶ今日の社共であろう。我々はこの書から、ブルジョア共和制の本質、小ブルジョア民主主義、改良主義の無力さと欺瞞、ボナパルチズムの本質など多くのことを学びとることができよう。(G)


4 エンゲルス「革命と反革命」
ブルジョア自由主義の批判――1848年ドイツ革命の分析

 「革命と反革命」は、1851年10月から52年12月にわたって、アメリカにおける進歩的新聞「ニューヨーク・デイリー・トゥリビューン」に連載された一連の論文を、96年になってマルクスの末娘エリナー・アヴェリングが編集して一冊の本にまとめたものである。
エンゲルスは、48年3月、ドイツにおいて勃発した革命運動がさまぎまな過程をへて、ついに反革命のために敗北するまでの歴史を分析している。エンゲルスが本書で目的としていることは、「1948年のドイツ革命を必然ならしめたもの……同時にまた、1849年および1850年におけるその一時的鎮圧をも不可避ならしめたところの、諸原因をしめす」ことによって、労働者階級とその党の理論的武装をととのえることであった。
 1848年フランスに二月革命がおこり、共和制が成立した。この革命はヨーロッパの封建的秩序をゆるがす革命の合図となった。フランス二月革命に刺激されて、3月にはウィーン、ベルリンで革命がおこった。三月革命の結果プロイセンでもオーストリアでもそれぞれ国民議会が設置された。プロイセンの国民議会で政権をにぎったのは自由主義的ブルジョアジーのカンプハウゼンやハンゼマンであった。
 だがブルジョアジーは、封建的、官僚時勢力に対する闘いを徹底しておしすすめるのではなく、かれらと同盟した。
 「パリ的『無政府』状態をくりかえす危険がせまっていた。この危険をまえにして、従来のあらゆる紛争は消滅した。勝利をえた労働者は、まだ自己のためになにひとつ特別な要求を提出していなかったが、その労働者に対抗して、多年の敵味方が連合した。そしてブルジョアジーと顛覆された制度の支持者との同盟が、ところもあろうにベルリンのバリケードのうえでむすばれた」(岩波文庫、62頁)。
 また、ドイツ連邦最高立法機関として期待されたドイツ国民議会=フランクフルト議会も、「偉大にして至高な国民唯一の全体的代表」と称しながらも、その要求を承認させる意思も力も発揮しようとしなかった。こうしたドイツブルジョアジーの恐るべき無為や臆病さは、イギリスやフランスに比べて著しくおくれたドイツの経済関係の結果であることを、エンゲルスは明らかにしている。
 小ブルジョアジーも無能力で動揺的であることをさらけ出した。
 オーストラリア、プロシアにおいて反革命が勝利したのちも、革命の残り火は、フランクフルト議会の簡定したドイツ帝国悪沃の確認運動という形で、再びもえあがった。プロシアを中心とする反革命勢力とフランクフルト議会とのこの闘争で、議会と反乱を指導していた小ブルジョアジーは、彼らの呼びかけにこたえて労働者が武器をとるや動揺し、自らにおしつけられた権力に驚愕し、闘いを放棄し或いは反革命を助けさえした。
 「かれらは、強大な封建的または君主的政府のもとでは、卑屈ではいつくばるほど従順であるが、ひとたび第三階級が勢力をえれば、たちまち、自由主義のがわに身を転ずる」(17頁)とエンゲルスは、かれらの動揺的態度を暴露している。
 48年のフランス革命、そしてドイツの革命の経験は、マルクス・エンゲルスをして、ブルジョア民主主義派や自由主義派に希望を託しえないこと、小ブルジョア民主主義党派が労働者階級の発展をおしすすめる自由な政治状態をつくりだす力となりえないことを確信させたものであっ、た。そしてかれらと区別された労働者階級の独自の政党、独自の闘いが必要であることを明らかにしたのである。これ以降マルクス・エンゲルスは活動の中心を労働者の中に移すことになる。
 ドイツの一連の革命は、労働者のみが革命をおしすすめる階級であることを示した。有産階級(ブルジョアジー・小ブルジョアジー)は動揺的であり、労働者に対してはかれらの敵と手をむすんだり、封建勢力との闘いをよびかけておきながら平然と闘いを放棄した。エンゲルスの次の文は、小ブルジョアジーとの半恒久的統一戦線を唱える共産党への説い批判であろう。
 「だが、種々ことなる諸階級のこうした結合は、ある程度までは、いかなる革命にとってもつねに必要な条件であるが、それが長く存続しえないこともまた、すべての革命の運命である。共同の敵に対して勝利をうるやいなや、勝利者はその内部で、種々ことなる陣営に分裂しはじめ、かれらの武器を相互にまじえるようになる」(56~7頁)。(G)


5 マルクス「フランスの内乱」

プロレタリア国家の解明――1871年パリ・コミューンの分析

 本書は、第一インタナショナル総評議会の世界の労働者にあてた呼びかけとして書かれたもので、パリの最後のバリケードが陥落してからわずか2日後に公表された。
 1870年9月、ナポレオンの軍隊がドイツ軍に降伏するやパリの民衆は立ち上って、ボナパルトの帝政をたおし、共和制をうちたてた。革命的プロレタリアートを恐れるブルジョアジー=ティエール政府は、パリをドイツ軍に引き渡そうとして、パリの労働者の武装解除を試み、パリの労働者・人民はブルジョアジーの陰謀を粉砕して、コミューンが誕生した。
 マルクスは、敵が城門に追っているときに、共和制を打倒することが「むこうみずの愚挙」であること、労働者の当面の課題は共和制のあたえる自由を利用して闘いをおしすすめることである、と説いて労働者の軽挙を戒めた。だが階級闘争が発展し労働者が蜂起するや、「時期尚早な反乱」を警告したマルクスは、直ちにこれを支持し全力をあげて援助した。そしてこの歴史的なパリ・コミューンを分折し、その諸政策に深い解明を加え、その政治的・歴史的意義を明らかにしている。
 マルクスがパリ・コミューンの経験から得た重要な結論は、「労働者階級はできあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」(国民文庫、76頁)ということであった。先に、「ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日」のなかで、マルクスは、プロレタリア革命の第一の任務は古い国家機構を粉砕することであるとのべているが、パリ・コミューンの経験は、このマルクスの予見を実践の中で確証し、粉砕された古い国家機構を何によっておきかえるか、を明らかにしたのである。
 マルクスは、パリ・コミューンを分析することによって、未来の国家、労働者階級がブルジョアジーの国家を粉砕して、実現すべきプロレタリア国家の性格を解明している。
 パリ・コミューンは、常備軍を廃止して、それを武装した人民でおきかえた。警察や司法職員をはじめ行政府の全ての公務員は、選挙によって選ばれ、全人民に責任を負い、いつでも解任できるものとし、その職務は労働者並みの賃金で果たされるようになり、官僚組織が根絶された。3年ないし6年に一度支配階級のどの成員が人民のにせの代表となり、人民の意思をふみにじるという古い型の議会ではなく、人民に基礎をおき人民を代表する議会となったこと、議会はおしゃべりの機関ではなくて、立法権と執行権とをかねそなえた、自ら決定し、行動する行動的機関となったこと、教会を国家から分離し教会の基本財産を没収することによって、精神的な抑圧を打ち砕いたこと、教育を全ての人に解放し、また学問そのものを階級的偏見と旧政府の束縛から解放したこと――等々がコミューンの基本的施策であった。
 そしてこのコミューンこそ、「本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級にたいする生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」(85頁)。
 マルクスは続けて、「この最後の条件(賃労働の廃止――引用者)がなけれぱ、コミューン制度は不可能であったろうし、迷妄であったろう。生産者の政治支配と、生産者の社会的奴隷制度の永久化とは、両立することはできない。だから、コミューンは、諸階級の、したがってまた階級支配の存在を支えている経済的土台を根こそぎ取りのぞくための桿杆とならなけれぱならなかった」とのべている。
 ここにこそプロレタリア国家=パリ・コミューンの真の目的があり、また旧来の国家――搾取階級が搾取制度を維持するために必要とした――とは区別される根本的な特徴がある。マルクスは草稿の中で、「コミューンは、国家権力のあれこれの形態、…に対する革命ではなかった。それは、国家そのものにたいする、社会のこの超自然的な鬼子にたいする革命であり、人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復したものであった。それは、国家権力を一つの分派から別の分派の手に移すための革命でなく、階級支配のこの恐るべき機構そのものを打ち砕くための革命であった。……コミューンは、それ(国家権力)の決定的な否定であ」(142~3頁)るとのべている。プロレタリア国家が、もはや本来の意味での国家ではなく、半国家、「死滅しつつある国家」であることを強調しているのである。
 パリ・コミューンの新たな社会を創造しようとするその先駆的事業は、我々がくりかえし、たちかえり、学ぶべき教訓をあたえている。(G)


6 ジョン・リード「世界をゆるがした十日間」
伝わる革命の息吹――ロシア10月革命のルポルタージュ

 本書は、アメリカの社会主義者であり、ジャーナリストであったジョン・リードのロシア十月革命のルポルタージュである。
 ポリシェヴィキに指導された労働者、兵士は、十月武装蜂起し、帝国主義戦争を継続するケレンスキー内閣を打倒し、自らの権力をうちたてた。それは歴史上初めて成功したプロレタリア革命であった。
 ジョン・リードは、首都であり蜂起の中心であったペトログラードにあって、十月革命の最初の数日間を社会主義者の目をもって力強く、生き生きと伝えている。
 プロレタリア革命は、階級社会の一切の汚物を破壊し、おし流し、抑圧され虐げられてきた人々(貴族どもに「暗黒の人々」とさげすまれてきた人々)を社会の表面に押しだした。
 「戦線では、兵士たちが士官達と戦いを交え、自分らの委員会を介して自治を学んだ。工場では……旧秩序との闘争によって、経験と力と自己の歴史的使命の自覚とを得た。ロシア史が読むことを習いつつあった。そして政治・経済・歴史などを読んでいた、――なぜなら、民衆は知ることを欲していたからだ。……ながい間阻止されていた教育にたいする渇望は、革命とともに狂気のような爆発的表現を示した。スモーリヌイ学院【ソヴエート本部】だけからでも、最初の六ヵ月間に、何トン、何車、何貨車、という文書が毎日でていって国土に浸みこんだ。熱砂が水を吸うように、ロシアは読み物を吸収して、飽くところがなかった。しかもそれは、お伽話、嘘っぱちの歴史、宗教話をうすめたもの、頽廃をおこす三文小説、などではなくて、社会学や経済学の理論、哲学、トルストイやゴーゴリやゴーリキーの作品、などであった。」(岩波文庫、上、49頁)。
 階級闘争の渦中で学び、自覚を高め、急速に成長しつつある労働者、農民の姿をこのようにリードはえがいている。労働者農民は、闘いの中、誰が自分たちの真の友であるかを識別し、真実を学びとった。古い権威は何の役にもたたず、ただ、歴史の真実を語り、労働大衆の利益を代表する者のみがかれらの支持を準得することができた。リードは、インテリ学生と兵士との会話を書いている。
 学生“革命家”はその経歴を鼻にかけて、“同胞”にむかって武器をとったポリシェヴィキは無政府状態をつくりだしていると農民出の兵士に向かっていう。
 「『ねえ君、君がまだ革命家を射ち殺して、『神よ、ツアーリを救い給え』を歌っていたころに、僕は革命的活動のために2年をシュリッセルブルグですごしたんだぜ』『そして僕は、われわれのロシアを、われわれの自由なる革命を、破壊しつつあるポリシェヴィキーに反対なんだ。さて、君はそれをどう説明するかね』
 兵士は頭を掻いた。『俺にゃ全然説明できんよ』とかれは知力を働かせることの苦痛で、しかめ面をしながら言った。『俺は全くかんたんだと思うんだが――ところでしかし、俺はいい教育をうけていないんだ。ただ二つの階級だけがあるように思うんだ。プロレタリアートとブルジョアジー――』」(同、257頁)。
 リードは、“革命家”を名のるインテリ俗物と素朴な兵士の会話の中に、反動や反革命に抗し歴史を前進させる人々、無数の無名の労働者、勤労大衆の姿を鮮やかに浮かびあがらせている。
 貴族やブルジョアジー・小ブルジョアジー・自由主義者らは、労働者階級の革命の中に混乱や混沌、無政府、絶望・絶滅しか見いだすことができなかった。かれらは、ポリシェヴィキが政権を樹立したとしても崩壊するのは間近であると確信していたし、ポリシェヴィキの中にさえ「われわれは持ちこたえてゆけない」「あまりにも多数がわれわれに反対している。われわれは人を得ていない。われわれは孤立してしまい万事休することになるだろう」と動揺し、メンシェヴィキやその他の政党との連合を望んだ。しかし、労働者・勤労大衆はサボタージュや反革命を粉砕し、動揺をのりこえ革命を成功させた。リードはのべている。
 「ポリシェヴィキーの成功の唯一の理由は、ポリシェヴィキーが人民の最低層の広大にして単純な欲求を成就させ、かれらに呼びかけて旧いものを引き裂き破壊する仕事をおこなわせ、次いで崩れおちる廃墟の煙のなかで、かれらと協力して新しいものの骨組をうちたてた点にあった」(下、124頁)と。
 リードは革命に立ち上った勤労大衆の真の姿を生き生きとえがきだしている。(G)


7 トロツキー「ロシア革命史」

革命の真実の記録――ロシア革命を描いた最高最善の書物

 「1917年の最初の2ヵ月、ロシアはまだロマノフ王朝であった。8ヵ月後には、ボルシェヴィキが国家の枢機をになっていた。この年のはじめには、彼らは、ほとんどだれにも知られていなかったし、彼らが政権を掌握したときにも、彼らの指導者たちは、叛逆罪によって告発されていた。およそ歴史において、こんな急激な転換を他に見いだすことはできないであろう」(序文)という文章にはじまるトロツキーの「ロシア革命史」は、「1、帝政の転落」、「2、反革命の陰謀」、「3、ソビエトの勝利」からなる浩瀚な書物であり、1917年のロシア革命を描いて余すところのないトロツキーのライフワークである。われわれ社会主義労働者党のすこしでも経歴の長い同志は皆この本をむさぼり読み、いくらか誇張して言えば、この本によって革命家として育てられたのである。
 「ロシア革命史」は、まず、なぜかくも深刻な大革命がロシアに勃発し勝利したかの歴史的経済的分析からはじまり、諸階級と諸政党について簡単に述べたあと、直ちに2月から10月(新暦では3月から11月)に到るロシア革命の絢爛豪華、光彩陸離たる描写へと移っている。
 我々は、二月革命の5日間とその結果生まれた二重政権、レーニンの帰国と党の再武装、四月事件、連合政権、総攻撃、六月デモ、七月事件、ポリシェヴィキ党への弾圧と半非合法状態の到来、反革命の台頭とケレンスキーの陰謀、コルニロフの反乱とその挫折、革命に向けての大衆の意識の急速な転換と反乱へのレーニンの呼びかけ、そして冬宮の奪取と十月蜂起と、ロシア革命へと成熟していく情勢の一コマ一コマを息もつかず読みとおしてしまうのである。まさにここには、革命とは何であるかが真実に生き生きと描かれている。
 実にロシア革命こそは真実の革命の一つであった。革命とはトロツキーが述べているように広汎な大衆が「彼らを政治的領域からしめだしている障壁を突き破り、彼らの伝統的代表者たちを一掃し、彼ら自身の干渉によって新制度への最初の基礎工事をつくりだす」が故に、まさに革命である。トロツキーはこうした大衆の態度や意識の変化や闘いを何よりも重視し、それを深く研究し、後づけている。トロツキーの方法論は「政党や指導者の役割は、大衆自体のあいだにおける政治的過程の研究を基礎としてのみ、はじめてこれを理解することができる。指導的団体がなかったら、大衆のエネルギーは、ピストン筒につめられない蒸気のように消散してしまう。だが、それにもかかわらず、ものを動かす原動力となるのは、ピストンでもピストン筒でもなくて、蒸気なのである」(序文)という言葉からも明らかであろう。
 勿論、トロツキーの「ロシア革命史」は、いわゆる“トロツキー臭”とでもいうべきくさみを時おり感じさせる。例えぱ二月革命までの「オールド・ポリシェヴイズム」への彼の評価には、「永久革命論」の一面的な観点が投影されているし(「党の再武装」参照)、第1巻及び3巻末の付録も直接にトロツキーの「永久革命論」の正当化や革命の時期における自らの立場(戦術)の弁護のためのものである。しかしこの点について言えば、我々は、レーニンの「十名の資本家大臣反対!」というスローガンと、トロツキーの「妥協主義的社会主義の大臣だけで政府をつくれ!」というスローガンには微妙なちがいがあり、ロシア革命の過程でトロツキーの日和見主義が実際的な影響力を持たなかったからといって、トロツキー的スローガンが正しいとは思われない。こうした例は、まだいくつもあげることができる。
 我々はまた、この書物が全体としてのロシア革命の評価で、二月革命はブルジョア革命、十月革命は社会主義革命であり、ロシア革命の結果生まれたソ連は社会主義国家だという人類史的な誤解もしくは偏見をうえつけ、強化しているという、その根本的な欠陥をも忘れるべきではないだろう。だが、この欠陥はこの書物にとって小さな欠陥であり、この書物の偉大な価値をいささかも低めるものではない。
 いくつかの“民主連合”政権の本質(それに対する大衆の闘い)とか、コルニロフの反乱期のポリシェヴィキの戦術等々、ロシア革命の経験から我々が学ぶものは無限であるが、その場合、この書物以上のものはどこにも見出しえないだろう。先進労働者はこの書物を徹底的に研究しなけれはならない。(H)


8 ローザ・ルクセンブルグ「選集第四巻」
ドイツ革命の貴重な証言――“社民”の裏切りを鋭く告発

 1918年11月、世界の、とりわけロシアの革命家たちが待ち望んでいたドイツ革命が勃発した。そしてその先頭には、スパルタクス団が、つまりローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトが立っていた。
 だがドイツのこの革命は、ちょうどロシアの二月革命がそうであったように、権力を革命に反対していたような社会民主主義の裏切り者――シャイデマン、エーベルト、ノスケ等――の手にわたしたにすぎなかった。
 ローザは書いている。「革命の進展は11月9日の基本的誤りのため、いまだに阻害されている。あの日に革命政府の頂点に据えられた連中は、革命の爆発を阻もうと、最後の瞬間まであの手この手をつくした連中だった。革命が爆発すると、都合のよい機会をつかみしだい革命を絞殺しようというはっきりした意思をもって、政府の頂点にすわったのである」(156頁)。
 開始された革命を決定的な変革にまでおしすすめ、貴族、地主階級、軍国主義者のみならずブルジョアジーをも打倒する社会主義革命にまで発展させるか、それとも旧い反動階級と結びつくブルジョアジーと妥協して“民主革命”や“民主的変革”の段階にとどめるのか、すなわち「革命か改良か」が鋭く問われる情勢がやって来た。
 ローザの著作集第4巻は、主として、1918年のこの革命のころと、そのあと1919年1月の非業な死にいたるまでの激動の時代における、ローザの数々の論文を集めたものであり、まさにそれ故に、この革命の時代の最もすぐれた証言である。
 ローザが闘ったのは、ブルジョアジーの手先となった右派社会主義者であり、さらにレーデプールやカウツキーの“中間派”(独立社民党)であり、また労働者、兵士評議会を圧殺して国民議会の独裁をうちたてようとする彼らの陰謀に対してであった。我々は右派、中間派の政策のなかに、現在の社共と全く同じ日和見主義と裏切りを見出すであろう。
 1918年11月の革命の結果、労働者、兵士評議会ができたが、他方ブルジョアジーと社会民主主義者(組合主義者)はそれと併行して「人民委員評議会」を、つまりエーベルト・ハーゼ“政権”をでっちあげていた。そしてこの両者は権力を求めてお互いに鋭く争わざるをえなかったのである。
 「じじつ、この状態は、ながくつづかなかった。はやくも翌日には、エーベルト内閣を独立の機関として、まずはじめは執行評議会と対等にならべ、それから一歩一歩、執行評議会の上におこうとする、シャイデマン一派のあからさまな策動がはじまった。……かれらは、反革命分子を動員し、反革命将校団をたよりに、ブルジョアジー軍隊の中に拠点をもうけて、執行評議会を強引に壁ぎわに追いのけてしまった」(102頁)。
 ローザの日和見主義者への憎しみと軽蔑は限りない。彼女は共産党創立大会(18年12月30日)で言う。「断言してもいいが、ドイツの組合幹部や社会民主党員は、これまでこの地上に存在した限りでもっとも下劣な、げすな連中である。……社会主義運動のユダだけでなく、とうていまっとうな世間に顔出しができない懲役囚だ」(154頁)云々。
 ローザの論文集は1918年から19年にかけてのドイツ革命の激動する時代を生き生きと反映し、日和見主義者の裏切りを暴露・攻撃し、労働者の闘うべき方向を断固としてさし示しているが、しかしいくつかのまちがった傾向――それはある意味で、またある限度内でドイツ革命の敗北とローザの死を規定している――を我々は確認せざるをえない。
 例えぱ彼女は11月革命後に開かれた、スパルタクスから共産党への移行大会で、革命を「底辺から」「下から」準備するためと称して、今や権力のための闘い、政治的闘いよりも“経済闘争”が重要となった、「ブルジョア国家を底辺から、土台から掘りくずす」経済闘争が必要となったと強調している。
 この直後に、アイヒホルン罷免に端を発する鋭い決定的な政治闘争が発展したことからみても、ローザの誤りは明らかである。余りにおそく日和見主義者と手を切ったこと等々とあいまって、ローザの大衆運動主義的、“経済主義的”日和見主義はドイツの(世界の)労働者にとって「高くついた」のだ。
 また、付録にあるロシア革命への(ボリシェヴィキ独裁への)評価も、正当な面を含みつつも、抽象的な民主主義観にわざわいされて、結局ブルジョア民主主義の美化に帰着しているのも惜しまれる。(H)


9 アイザックス「中国革命の悲劇」
スターリンの裏切りを暴露――1925~27年の中国革命敗北の原因

 ドイツの革命的な高揚が終ると共に、植民地、半植民地の後進的大国における偉大な革命の時代が始まった。もしこれらの国々で革命が勝利しえたなら西欧の先進国の労働者の闘いは大きな刺激や激励をうけ、新たな高揚へと再び向かいえたかもしれなかった。そして1925~27年の人民の巨大な革命的エネルギーの爆発は古い中国を根こそぎ変革するにはたして不十分であったろうか?
 1911年の辛亥革命がブルジョア的、軍事的な“上層の”革命であったとすれば――従ってこの革命の成果はすぐ蓑世凱の“封建的軍閥”にさん奪された――1925年にはじまる“国民革命”はまさに労働者、農民の大衆運動、革命運動として怒涛のように発展して行った。
 たしかにその先頭には国民党が、つまり中国のブルジョアジーがたっていた。だがそうなったのは、コミンテルンが1922~3年に“統一戦線戦術”を採用し、国民党へと連合し、国民党を“国民革命”の担い手としてもちあげ美化していたからであった。労働者、農民の闘いはブルジョアジーが統制し許容しうる限りで認められていたのであり、その闘いがこの限度を越えたとき、ブルジョアジーは狂暴に労働者人民に襲いかかり、その闘いを残酷に弾圧し圧殺したのであった。
 これが1927年の上毎における蒋介石の反革命クーデタの意味である。このクーデタを境にブルジョアジーは反革命に転じ、“北伐”は打ち切られ、蒋介石は軍閥的独裁政権への道を歩んでいく。ブルジョアジーを信用させられてきた労働者、農民の闘いは破滅的な打撃をうけ中国革命運動はこの痛手からたち直るに大きな儀牲と長い時間を必要としたのであった。
 中国革命は20年おくれたといえるが、この20年のおくれこそ、激動の時代の世界史にはかりしれない影響を及ぼしたと言えないであろうか?
 1925~27年の中国革命を指導した人こそスターリンであった。彼は中国共産党に、国民党を信頼しそれに依存するように忠告し、国民党と連合するだけでなく、国民党員となってその統制の下に完全に服するように、つまり共産党に結集した革命的労働者にブルジョアジーの下ばたらきの役を果たすように強要したのであった。
 トロツキーはコミンテルンの“統一戦線”戦術の主唱者の一人であったが、さすがに国民党への加入戦術まで勧めるスターリンの日和見主義まで支持できず、それを厳しく論難した。かくて、中国革命の問題は、当時対立を深めていたスターリンとトロツキーの重大な争点の一つとなったのでもあった。
 アイザックスはトロツキストとして、隠蔽され、ごまかされ歴史の忘却のなかにおしやられているスターリンの政策の真実を多くの資料に基づいて徹底的に暴いている。彼は、スターリンが、蒋介石の反革命クーデタの日まで、蒋介石を信じ蒋介石の言うがままにせよと、上海の労働者と共産党員にときつづけていたこと、そして国民党の反動性が蒋介石のクーデタで完全に暴露されたのちも、国民党“左派”政権(武漢の王精衛政権)を「革命の中心」として持ち上げ続け、労働者、農民の革命的な闘いを見殺しにし(否、むしろ、その弾圧に事実上手をかし)、あまつさえ、突如として“極左的”方針へ移って、中国の革命運動に再起不能ともいえる打撃を与えた様子を明らかにしている。
 この時代は中国革命運動の歴史のなかでも特別に重要な印象深い時代であった。労働者階級は広東や上海を始めとする大都市で嵐のように闘いに立ち上がり、その闘いはたちまち何千万という農民の決起と結びついて行った。労働者と農民の全般的な決起の前に、それに敵する勢力は何一つなかった。中国革命がブルジョアジー(国民党)の革命としてでなく、“人間の”革命としてのみ現実的であり、勝利しうることは、この後の中国史が事実でもって明らかにしている。労働者、農民の闘いを弾圧した国民党権力は“国民”革命を遂行するどころか、必然的に自ら反動的な軍閥的独裁へと転落して行った。
 アイザックスは「世界は全体として社会主義のために成熟している」(至誠堂版、56頁)というトロツキスト的なドグマにもとづいて、中国革命の勝利が人民革命でなく直接にプロレタリア社会主義革命である(もしくはそうなりうる)という幻想を抱き、この観点からすべてを論じているが、こうした限界をふまえて読めば、この書は、中国革命の敗北の真の原因を我々に知らしめてくれて余りある。(H)


10 D・ゲラン「人民戦線――革命の破産」
左翼諸党派を暴露――“社会党左派”の無力さも自省?

 フランス人民戦線の真実の“証言”はおどろくほど少ない――あの歴史的な大事件を考えるとき、これは一見、きわめて奇妙に思われる。
 だが、その理由は明らかだ。スターリニスト(共産党)は勿論、社会民主主義者もトロツキストも、そして知識人もまた、フランス人民戦線の真実を語ることができないのである。彼らは皆、決定的に、フランス人民戦線の時代に労働者階級を裏切り破産したからである。彼らは自己の犯した誤りや犯罪を隠しごまかさなけれはならない以上彼らの語る真実は真実でありえないのだ。
 例えば、なぜ1934年から35年にかけてスターリニストは、それまでのセクト政策から「人民戦線」戦縮へ、「階級対階級」の政策(口先きだけの!)からブルジョア民主主義擁護を絶対化する超目和見主義へと移って行ったのか、その真の原因は何なのか、経過はどうだったのかについて、共産党系のどんな書物も我々に本当のことを教えてはくれない。
 この書物の著者であるゲランは人民戦線の時代に形成されたフランス社会党の“左派”の「ピヴェール主義者」のグループの一員である。彼は、スターリニストに対しては勿論、社会民主主義者、トロツキストに対しても否定的であり、また自らの所属する「ピヴェール主義者」さえも客観的かつ冷静に評価し、その欠陥を明らかにしている。彼はトロツキズムに相当のシンパシィを持っているが、その教条主義や独善や動揺や評論家風の党活動を具体的に暴露している。これを読めば、なぜフランスにおいてもトロツキストが一小セクト以上に成長しえなかったが明らかとなる(例えばゲランはトロツキストの加入戦術=「社会党通り抜け」戦術を非難する、といってもそれは社会党内で活動することこそ“現段階”では孤立しないために必要という日和見主義からではあるが)。
 これはまさに、1930年代の激動するフランスの十年の、“左翼”の歴史そのものである。
 ゲランらは、フランスの労働運動の敗北が、従ってまた人民戦線の解体と破局がすでに完全に明らかになった1938年に社会党を出て「社会主義労働者農民党」を組放する。この党は歴史的にみて一つのエピソード以上を出ないのだが、それはこの党の社会民主主義的、急進主義的限界のためである。この党が社会党を出るのは社会党が彼ら(革命的な左派!)を受けいれなかったからであって、彼らが独自の労働者政党の必要性と必然性を固く信じていたためではない!
 「社会民主主義はわれわれと緑を切った。われわれは社会民主主義の全ての先天的欠陥と縁を切るべきだ。駄弁と、無節度な文章極味、場当たり的性向とある種の組織軽蔑と、一種のしかし極めて必然的な規律の過小評価と」(185頁)。
 彼らの(というよりゲランの)思想は次の文に明らかだ。 「われわれの運動は(言葉の真の意味において)民主的で、かつ絶対自由主義的であるだろう。われわれがその到来を早めようとしている、プロレタリア民主主義を現実に体現するものとして社会主義労働者農民党はその内部に批判と思想交流の完全な自由を確立する」。
 「われわれは、絶対自由主義的顧慮から組合運動の独立を厳守しようとした」(87~8頁)。
 彼らの立場は、社共への批判としてはある意味で正当であるとてもそのものとしてはプチブル的、半アナーキズム的空文句であり、彼らがいくらかでも大きなプロレタリア運動に成長しえなかったのも当然であろう。
 全体としてはこの書は、いわゆる“社会党左派”といったものの根本的な限界を教えるものだが、勿論そこにとどまらない。この害は、人民戦線のもとで、各政治潮流が人民戦線といかなる関係にあり、いかに行動したか(いかに労働者大衆をそれぞれ裏切ったか)を明らかにし、すべての党派の破産の総括のうえに革命的な政策――我々の綱領は階級闘争を最後まで貫いて人民戦線政府を「支持し擁護する」のでなくそれを「克服」することを謳っている――のみが唯一の正しい政策であることを教えている、といえよう。(H)


11 G・オウエル「カタロニア賛歌」
共産党による革命の絞殺――スペイン人民戦線の挫折

 スペイン人民戦線――それはフランス人民戦線やチリ人民連合政権とともに、闘いに立ち上った労働者人民の苦い敗北の経験として知られている。
 36年2月、共和派、社会党、共産党、POUM(統一労働者マルキスト党)による人民戦線が成立したのに対して、ファシストドイツ・イタリアに支援されたフランコの反革命反乱がおこり、スペインは内乱に突入した。
 フランコの反乱に反対して決起した労働者人民は、工場委員会、市民軍委員会――農民委員会等々各種の革命委員会を組織し、大土地の分割、農業の集産化、労働者工場管理、市民軍組織等の革命的政策を次々と実行していった。内乱勃発の当初、ブルジョア共和政府が公的機関として存在しながらも、実質的な支配は武装した労働者人民の側にあった。
 内乱は約3年続きフランコの勝利に終るが、労働者人民が何故敗北したかについて共産党の見解は真実を明らかにしていない。イギリスやフランスの“民主主義”国家の「不干渉政策」やアナーキストや「トロツキスト」の「分裂主義」を非難し、そこに敗北の原因があるというのが共産党のおきまりの見解である。しかし、闘いを解体させたのは共産党の日和見主義であった。
 本書は労働者人民の革命的闘いに敵対し、それを崩壊させたスターリニスト共産党の真実の姿を暴きだしている貴重な記録である。
 36年12月下旬、オウエルはジャーナリストとしてバルセローナを訪れ、革命的状況に感動して、民兵としてPOUM市民軍に参加、アラゴン戦線に配置される。そこで彼は、将校と兵士の間に社会的平等が確立されていたのを見て、「階級なき社会の小宇宙」(現代思潮社版、100頁)を体験し、社会主義の将来に明るい希望を抱く。
 だが3カ月余の戦線勤務の後に休暇でバルセローナに帰って来た彼が見いだしたものは、革命の熱気あふれる街ではなく、ブルジョアや小ブルジョアが我がもの顔で闊歩するあまりにもかわりはてた市の姿であった。
 37年5月のバルセローナのアナーキスト・POUMと政府の衝突はオウエルの共産党批判を決定的なものにする。共産党は、戦争の「唯一の目的が共和制的秩序の防衛と(私有)財産の尊重」にあるとして、労働者の階級的闘いの発展に反対し、それをブルジョア的秩序の内におしとどめようとした。バルセローナの労働者と政府の衝突も労働者の革命的秩序にかえてブルジョア秩序を回復しようとする共産党、政府によってひきおこされた事件であった。
 「摩擦の直接の原因は、私有されている武器をすべて没収するという政府の命令にあった。それは重装備した『非政治的』警察力を創設して、それには労働組合員を排除するという方針と暗に一致するものであった。そしてつぎの措置は、CNTに支配されているある種の重要産業を接収することになるだろうということもはっきりしていた。……5月3日、政府は電話交換局の接収を決定した」(140頁)。オウエルはこれらの政策が政府の反革命的意図によるものであることを暴露している。
 5月事件を契機としてアナーキスト=CNTに同情的であった左翼社民のカバリェロは辞職し、共産党の支持の下にブルジョア共和派のネグリン政権が生まれた。
 POUMは反革命、第五列として告発され、非合法化された。ソ連の武器供与をテコに支配的地位を占めた共産党は、ゲーペーウーまがいの秘密警察をつくりあげ、嘘と中傷でPOUMやアナーキスト指導者を逮捕、処刑した。粛清の嵐が吹きあれ、革命は決定的な衰退に向う。
 かつて希望と確信に満ちており、労働者であることが誇りであったスペインは、不信と不安、疑惑が支配し、たえず密告におどおどし、革命家であることをかくさねば生きていけない状態に一変した。
 オウエルがいうように、フランコとの戦争に勝利しなければ一切は無である、勝利のためには、労働者はブルジョア秩序をこえてはならないとする共産党の戦術が、労働者人民の闘いを内部から解体し、対フランコ戦争を挫折させ、敗北に導いたのである。(G)


12 V・リチャーズ「スペイン革命の教えるもの」
アナーキズムの自己批判――“社共”の裏切りも容赦なく暴いて

 V・リチャーズの「スペイン革命の教えるもの」の翻訳は」六○年安保闘争直後の1960年8月に出版され、当時の“新左翼”の活動家に――とりわけ我々に――少なからぬ影響を与えた深刻な書物である。
 V・リチャーズがこの書を執筆した動機はスぺイン革命においてアナーキズムも又労働者大衆を裏切り、その革命的原則をなげすててフルジョア的連合主義に走ったことを反省し、自己批判を行うことであった。つまりこの書は、アナーキズムのきびしい自己点検の書なのである。
 筆者は、2月選挙ですでにアナーキストか「原則を犠牲にして政治的な戦術を受けいれた」こと(政治犯の釈放とひきかえに人民戦線派に労働者の票を集中させるようとりひきをしたこと)を告発するが、こうした裏切りは、7月に軍部が反乱し、これに対して労働者人民が蜂起して対抗し、スペインの3分の2の地方で事実上勝利した瞬間、一そう大規模に、決定的な形で行われたのである。
 革命的労働者の都市バルセローナを中心とするカタルーニヤでも他の多くの都市における同様に労働者階級は決起し、軍部の反革命的反乱を粉砕し、事実上権力を自分の手中にした。
 だがこの労働者の革命的闘いを指導していたアナーキストは、労働者階級が権力をとることは「革命的全体主義」であるとして、「合作と民主主義」へと走ったが、これは実際にはブルジョア(民主)政党や社共(アナーキストが「権力主義政党」と呼んて軽蔑していた政党)と連合すること、であった。当時、カタルーニヤには自治州政府(ヘネラリタート)があり、その総督はルイス・コンバニイスだったが、この老練なフルショア的政治家は、苦もなくアナーキストたちを丸めこむことができたが、これはアナーキストが労働者階級の革命的な権力を「全体主義」などとよんで否定し、自ら権力を握る決心、準備もなかったからである。
 V・リチャーズは、この後もアナーキストか中央の人民戦線政府に4名も入閣したこと、まずファシズムに勝つことが先決で社会革命はそのあとだとしてフルジョア民主政党や社共と連合したことを、アナーキズムの原理への裏切りとして告発し、これこそがスペイン革命の堕落の一つの決定的な契機であったとする。
 周知のように、民主的統一や「まずファシズム打倒、そのあとで社会変革」は社共のスローガンであった――だが事実上、これはアナーキストの議員先生や大臣方の立場でもあったのである!アナーキストの政治家連中も又、ブルジョアの立場に陥ったのであり、たからこそV・リチャーズは彼らをも告発せざるをえないのである。彼が理解しないのは、労働者の独立した革命的政治と労働者権力を否定すれば、結局、ブルジョア政党との連合やブルジョア権力の是認(それへの追随)に行きつかざるをえない、という真実である。筆者はアナーキズムの自己批判をやっている(きわめて誠実に!)が、しかし実際には社共ばかりかアナーキズムもスペイン革命で致命的に破産したことを自ら明らかにしている。
 たが、V・リチャーズの社共への(とりわけスターリニズム共産党への)批判は具体的であり決定的である。例えば11章「共産主義者(共産党員、と読め)――反革命の先鋒」や12章「バルセローナの『五月の週間』」、などは真実のみかもちうる真迫の力でもって、スターリニストのおそるべき悪事を暴露している。しかも、それは決して卑俗で安っぽいものでもない。
 V・リチャーズは、スペイン革命が勝利しえたかもしれない――もしくは、社共は勿論アナーキスト指導部までもがあらゆる裏切り的な“政治”にかかわった――と深く実感するが故に、アナーキスト指導部の“誤り”を書きつづらざるをえないのだ。
 そしてアナーキスト指導部の裏切りへの批判は、当然社共の上に及んでいく――否、社共が裏切るであろうということは、彼にとってははじめから「分かり切ったこと」であったのだ。だからこそ、彼にとってアナーキストが「原則を放棄した」ことこそ、スペイン革命にとって決定的にみえるのである。
 だが我々はこの書から、アナーキズムもスターリニズムも破産したこと、革命的マルクス主義のみが真に“有効な”唯一の労働者の原則であることを確認できるだろう。(H)


13 A・アンダースン「ハンガリア1956」
蜂起の真実を伝える――ソ連の支配の告発も

 1956年のハンガリアの労働者蜂起は衝撃的事件であった。ハンガリア労働者階級の闘いは、フルシチョフ=ソ連共産党の“スターリン批判”の欺瞞を、そしてソ連=社会主義という神話を打ち砕いた。この事件を契機として、スターリン主義を根本から批判し、スターリニズムを克服した共産主義をめざす運動がおこったといっても過言ではないだろう。
 A・アンダースンのこの書はハンガリア事件から8年後の64年に書かれ、日本では66年に翻訳、出版された。アンダースンは、ソ連国家が労働者階級の国家ではなく官僚層が労働者階級を支配し、収奪する「全体主義国家」、「官僚資本主義」として、その東欧支配の実態琴を告発している。
 ハンガリーは第二次大戦後、ソ連経済圏に組み入れられ収奪(多額の賠償、不平等貿易、機械設備の略奪等)され、労働者大衆は生活水準を犠牲にした重工業政策、集団化政策、スターリニストの専制的圧政の下に苦しめられていた。
 ドイツやポーランドでそうであったように、ソ連、スターリニスト政府の圧政への不満はスターリンの死とそれに続くスターリン批判を契機に爆発した。
 56年6月ポーランドのボスナム蜂起に勇気つけられたハンガリアの学生・労働者は10月、ソ連軍の撤退、ストライキ権、民主的秘密自由選挙、言論出版の自由、秘密治安警察制度解体など16項目を要求してデモを行い秘密治安警察と衝突した。これをきっかけにハンガリー全国民をまき込む革命に発展していった。労働者は評議会をつくり、いくつかの地方では実質的な権力をにぎった。そして軍隊も蜂起に合流した。
 ソ連は機甲十五師団、戦車六千輌の軍隊を投入して、ハンガリアの蜂起を武力鎮圧した。当時ハンガリアの蜂起は、全世界の共産党(日本も含めて)によって資本主義復活をめざす「反革命的分子」による一揆とか、国際帝国主義による陰謀とよばれた。だが、こうした非難がまったくのデマであり、ソ連の圧政と「官僚的資本主義」からの解放をめざす労働者の革命的蜂起であったことをアンダースンは主張している。ソ連が労働者国家ではないこと、東欧諸国もまたスターリニストが支配する専制的国家であり、労働者は生産の実権から疎外され、搾取され、収奪されている社会であること、これこそアンダースンが強調してやまないところである。「あつかましくも自分を『社会主義』と呼び、実際は最後の、最も完全な搾取と抑圧の形撃を代表する体制に対して大衆は戦闘に入った。『人民民主主義』と宣言している支配体制と闘うために、全人民が街頭に進出した。仮面ははぎとられた」「ハンガリア革命は、理論上の論争ではなく、武装闘争の銃火のなかで史上最大のペテン――ロシア社会をいかなる形や変装にせよ社会主義と等置するという企画――を粉砕したのである」(現代思潮社」230頁)。
 しかしアンダースンは、自然発生的な武装闘争の中から生まれた労働者評議会を「新たな社会を具体化するもの」(293頁)として賛美し、ここに「ハンガリア革命の大きな歴史的な意義」(188頁)を見いだしている。彼はソヴィエトのクロンシュタットの反乱に対するポリシェヴィキの例をひきながら、ポリシェヴィキは間違っており、革命後のレーニンの段階からスターリニズム的変質が始まっていたと批判している(183頁)。スターリニズムを国家資本主義の現実の中に見いだすのではなくポリシェヴィズムに責任があるとする著者は、革命政党の意義を否定し、労働者評議会をこれに対置するアナルコ・サンジカリストの立場にたっていることは見のがしてはならない点であろう。こうしたアナルコサンジカリスムの無力さ、限界は80年のポーランド連帯の闘いでも明らかである。(G)


14 W・G・バーチェット「十七度線の北」
民族統一戦線の誤りを衝く――ヴェトナム解放闘争

 1954年ヴェトナム人民はデイエン・ビエン・フーでの戦闘でフランス軍に対して決定的な勝利をおさめ、約80余年にもわたるフランスの植民地支配から脱し、北半分の独立を勝ち取った。
 バーチェットは独立直後の北ヴェトナムにいき、フランス帝国主義軍隊に勝利したヴェトナム人民がいかに闘ったかをルポルタージュしている。
 当時のヴェトナムは、農民が圧倒的な地位を占めるおくれた農業国であった。長年にわたるフランスの植民地支配はヴェトナムを地主――小作関係が支配的であるおくれた農業国としておしとどめてきた。したがって民族解放闘争の主体となったのは、帝国主義の支配と封建的な地主階級の下で苦しめられている農民であった。
 著者は、近代的兵器で武装された帝国主義の軍隊をまずしい武器しか手にすることの出来なかったヴェトナム人民が長期にわたる抵抗、戦闘の後に勝利をかちとることが出来たのは、「人民の戦争」であったからだと強調している。
 数キロにおよぶ地下塹壕の建設、ジャングルの奥深くにかくされた工場での兵器の生産、牛車、手押し車、自転車、人力に依存した輸送等々解放戦争で示されたヴェトナム人民の自己犠牲的な精神、強靭で勇敢な闘いの叙述は感動的である。
 バーチェットは、ヴェトナム解放闘争の課題が単にフランス帝国主義の植民地支配からの独立ではなく、フランス植民地支配と結びついた地主―小作的土地関係の打倒にあること、民族解放であるとともに、封建的な土地有を撤廃する社会革命であったこと、そして、スターリストの「反帝民族統一戦線」が、国内の階級闘争という契機を軽視して人民の闘いを民族解放闘争に一面化した誤りを指摘している。
 「1945年8月革命の直後、政府は、小作料の一律2割5分引、貸付金に対する法外な利率の値下げ、また植民地地主や国家的裏切り者たちの所有地の分配等々ということを、政策として取上げてみた。だが結局それは政策だけにすぎなかった。……フランス軍が攻撃を加えて来、そうなると民族闘争においては、できるだけ広汎な統一が必要になってくるために、地主に対する階級闘争は、一時その蔭になってしまう。1949年にはじめて小作料軽減をあくまで強行することを目的とした法令が、解放区に向かって発せられた。
だが広い統一戦線方針をいいことにして、地主連中がいつのまにか行政機関、いや、農民連合から地方の委員会、さらには労働党の中まで浸透してきた。そして政府の方は戦争遂行の方に気をとられていたため、それら地主連は、すべての地方行政機関に入り込んで、逆にそれらを、自分たちの古い特権維持――いや、ところによっては奪還――の手段に使っていた」(上、170頁)。
 ヴェトナム労働党がこの誤りを訂正するのは52年末から53年にかけてのことである「耕作する者に土地を」というスローガンの下に徹底した土地改革を実践に移すことによって解放闘争は人民の側の優勢となり、54年の勝利に結実していく。
 このように著者はスターリニストの「反帝民族統一戦線」戦術の日和見主義を明らかにしているが、全体としては民主主義派としての立場からヴェトナム人民の英雄的な解放闘争に感動し、帝国主義者や封建的地主の抑圧を告発するにとどまっている。バーチェットは54年の総選挙による南北両ヴェトナムの統一等を内容とするジュネーブ協定の「完全実施」がヴェトナムの「真の平和、統一そして民族解放闘争の完全な勝利の保障」(下、183頁)と展望を語っている。しかし、それはソ連や中国、ヴェトナム労働党の帝国主義者との妥協、取引であり、人民の革命を徹底しておしすすめるものではなかった。(G)


15 国際問題研究会編「チリの悲劇」

人民連合政権の実像を暴く――「適法的」移行論の破産

 1973年チリ人民連合政権は反革命軍事クーデタによってあえなく崩壊した。
 70年9月に成立したチリ人民連合政権(社共を中軸としこれにブルジョア民主主義派の小党が加わった)は、合法的に社会主義への移行を謳った。「適法的な」社会主義への道として世界の共産党からもてはやされたチリの“実験”の挫折の経験は、労働者が学ぶべき多くの教訓をのこしている。
 本書は、アジェンデが大統領になって以降人民連合政権が崩壊するまでの階級闘争の諸段階について情勢を分析した海外の評論、論文集である。
 人民連合の挫折について共産党は、人民連合が大統領府と行政権力を握っただけで立法府はブルジョア政党が多数派だったとか、左翼急進主義運動(MIR)や社会党の一部の急進主義的運動が労働者の団結を破壊し、小ブルジョア層の結集を妨げたとか、チリ軍部と結びついたアメリカ帝国主義の策動とかをあげている。
 だが人民連合の崩壊の原因は、「適法的」な社会主義への道、すなわち、できあいの国家機構を選挙によって合法的に占拠し、それによって労働者人民の解放を行いうるとする社共の議会主義、改良主義にあったことをこれらの評論、論文は明らかにしている。
 人民連合の「綱領は決して資本主義の継続的存在に挑戦するものではない。それは資本主義の武装した守護者、軍隊と警察にも、私有財産という神聖なるブルジョア的権利にも挑戦しはしない。綱領は、外国投資を排除せず、私企業を援助することによって、チリ資本主義経済の下部構造を改善しようと目指す」(拓植書房・28頁)。
 軍隊、警察、裁判所などブルジョア国家機構はなんら手をつけられずブルジョアジーのもとにのこされた。そしてこれこそ政府の政策の遂行を紡げたのである。
 他方、人民連合は資本の支配の経済的基礎には手をつけようとしなかった。72年資本のストに対して大衆はデモのみならず工場を占拠接収し反撃に出た。農民は、土地改革に抵抗する地主に抗して、土地を占拠した。こうした労働者人民の闘いに対して政府は所有者に工場を返還する法律を布告し、占拠の指導者は逮捕され、裁判にかけられた(110、130頁)。
 社会主義を謳いながらブルジョア的秩序をこえようとしない人民連合の日和見主義、改良主義こそ、小ブルジョアを離反させた原因である。かれらは、階級矛盾の激化、経済的混乱のなかで、ブルジョア側に移っていった。
 激化する階級矛盾の中で政府はブルジョアジーヘの譲歩を重ね、その無力をさらけだした。
 社共はブルジョアジーのストライキ、内乱の策動に対して労働者人民の革命的な行動をよびかけるのではなく、「内乱の回避」を叫び、闘争の自制を訴えるのみであった。社共は資本家のストライキによる危機に際して、軍人の入閣によって事態の乗り切りをはかった。かれらは革命の平和的、合法的発展というその根拠として、「チリ軍隊の中立の伝統」をあげていたが、自らそれを破ったのである。だが勿論、軍隊の“中立”など全くのたわいもない幻想であることは実証された。
 人民連合政権は、経済的な混乱とその崩壊を解決しえず、無力なものであった。それはチリの資本主義的発展をきり開くものであった。だからこそ政府はブルジョア政党の支持を議会でとりつけることができた。だが人民連合政府がこうしたブルジョア民族的な課題を果たしおえた時、ブルジョアジーにとってそれはもはや用済みになった。かれらにとって人民連合は混乱と無秩序の元凶であることを暴露した。人民連合政権は労働者人民の革命的闘いによって乗りこえられるか、ブルジョア反革命によって打倒されるかいずれかであった。
 人民連合政権は何であったか。著者たちは明らかにしていない。人民連合政権の行った国有化も土地改革もそれは社会主義的というよりブルジョア的なものであり、人民連合政府は軍隊の力によってしか事態を乗り切ることができないまでに無力さを暴露するなかで“中立”の装いをかなぐりすてた軍隊反革命によって打ち倒された。(G)


16 D・ベンセード他「燃え上がるポルトガル革命」
――軍共路線の破綻を暴露――

 チリ人民連合政権の崩壊に続いて、ポルトガル革命もまた、共産党の軍隊依存路線のために敗れ去った。
 1974年4月、半世紀にわたったファッショ的独裁政権が軍人将校で組織された「国軍運動」によって打倒された。国軍運動の目指したものはもはや資本の発展にとって桎梏と化した体制=(植民地戦争を継続し、教会、地主勢力と結びついていたサラザール=カエターノ体制)を打倒し、資本主義の発展の道をきり開くことであった。革命は、政治的民主主義を実現し、植民地戦争を終結させた。この革命はブルジョア民主主義的な政治革命ではあったが、独裁体制の打倒を契機に階級闘争は爆発的に燃え上った。労働者人民の階級闘争は国軍運動にも反映し、ポルトガルは激動の一時期を迎えた。
 本書は、第四インター系のトロツキストによる階級闘争の分析であり、同時に革命の記録である。本書がとりあつかっているのは四月の革命の開始から、ブルジョアジーのまきかえし、反共暴動の発生、国軍運動の分裂=左派が後退し右派が台頭してくる・時期(75年8月)までの約一年半である。
 四月革命を契機とした労働者大衆の闘いの高揚は、独占資本の代弁者であった国軍右派=スピノラを大統領の地位から追放した。国軍運動はこうした労働者大衆の闘争の高揚を反映し、左派=急進ブルジョア派がヘゲモニーをにぎり、かれらは国軍右派とブルジョア政党の組織的解体をすすめていく。
 だが国軍左派の運動は労働者の階級闘争の圧力の下で植民地の独立の承認、重要産業の国有化、土地改革をなしとげたのちは、社会革命を一歩も推進することが出来ず、分裂・解体し、ブルジョア秩序派が台頭し、ポルトガル革命は事実上終焉していった。
 著者はポルトガル革命を労働者人民の徹底した社会革命にまで推し進めようとしなかった社共の日和見主義を暴いている。
 社会党は「挙国一致」政府の名の下に、共産党は「民主的自由を救う」と称して、公然たるブルジョア内閣に入閣した。特に共産党は、左派のゴンサルベス派と結びつき、国軍運動に依存することで革命が前進するかの幻想をふりまき、労働者人民の闘いを急進ブルジョア運動の従属物におしとどめた。
 「(四月革命以降)全く急速に共産党はMAF(国軍運動)や軍部と『ひっつき』、穏健で責任ある、しかも『国家再建』にむけて労働者階級を動員する用意ある『秩序党』のような顔をする。カエターノ転覆後発展をみせた、経済要求やファシズムと妥協した幹部のサネアメント(粛清運動)を求める労働者の主なストや闘争は、経済を混乱に陥れようとするファシストの反動に操られた『無貴任な』、『冒険主義的挑発』だとして共産党の激しい非難を受ける」(柘植書房、221~2頁)。
 共産党は反動派を利するとか経済再建とかを理由にストライキやデモを規制する反動的法律に賛成、労働者のストライキや自然発生的な工場管理・土地占処闘争に反対した。その一方で軍の主導権をにぎっていたゴンサルベス派と癒着し、権力主義的なやり方で労働運動・大衆運動から社会党の影響力を排除した。
 だが労働者の階級的・革命的闘争に依拠せず、労働者の闘いを急進ブルジョアの運動の補完的役割に堕落させた共産党はゴンサルベス派の没落と運命をともにしていった。ポルトガル革命はスターリニスト共産党の軍共路線の破産と権力主義の反動性を明らかにした。本書はトロツキー流の統一戦線や過渡的綱領の美化などの主張が見られるが、社共(そして毛沢東派などの急進派)の日和見主義の具体的で生き生きとした暴露として価値をもっている。(G)


17 T・クリス、I・バーチャル「フランスの反乱」
一千万ゼネストの記録――秩序党=共産党の告発

 ポルトガル革命より時期は若干さかのほるが、フランス資本主義を震撼させた68年の一千万労働者のストライキ闘争も世界の労働者の闘いの歴史に記録されるべきであろう。それは第二次世界大戦後先進資本主義国での最も大規模で深刻な労働者の革命的開いの一つであった。
 「革命の火の手は、革命的学生――トロツキー主義者毛沢東主義者、アナーキスト――の側での戦闘的な行動によって火蓋を切られ、さらに警察の残虐さにあおられて、労働者階級にまで燃え広がった。……巨大な労働者階級はフランスを行き詰らせた。非力な資本家階級の手からあらゆる産業を奪い、いたるところに社会主義の赤旗をかかげた。国家は、麻痺したまま、それを傍観した」(「現代思潮社11~2頁)。
 一千万人をまき込むスト工場占処闘争に発展した労働者階級の闘いは急進的学生の闘いを契機に爆発した。だがそれはフチブル学生の急進的闘いが労働者階級の闘いの“起爆剤”となるという“先駆性”論を正当化するものではない。労働者の闘いの根底には急進的学生闘争をよびおこしたと同じ原因=フランス全土を覆う資本主義の諸矛盾の増大があった。労働者の闘いの爆発は、過去二年間の工場における闘い(スト、工場占拠、保安隊との衝突)の結果であった(ストによる損失日数は65年の98万日から67年には422万日に増加)。警官による学生の虐殺に抗議して労働組合はゼネ・ストとデモを決定した。組織労働者の四倍にあたる千万人がストに突入、デモには百万人が参加した。これらは名目だけの一日ストですまそうとする組合指導者の思惑を乗りこえ、自然発生的に闘われたのである。「基幹産業の100万人近い男女が職場を占拠し、門を封鎖している。当惑した無能な管理者の多くが、絨緞を敷きつめた自分の事務所に監禁されている」(49頁)。
 だが労働者の闘いが燃え上り、資本との全面的な闘いにのぼりつめようとした時、共産党は秩序の擁護者として労働者の前にたちはだかった。共産党=CGTは、「われわれはフランスに対して責任をもっている」と叫んだ。
 共産党政治局員=CGT書記長のセギは「1000万人ストライキ参加者労働者は労働者階級が権力を握ることを要求したわけではなく、生活とよりよい条件を要求したのです。そして圧倒的大多数が個人的支配(ドゴールのこと)に反対して、民主主義に対する彼らの愛着を表現したのです」(145頁)と総括した。
 共産党は、労働者が社会主義革命の理念に到達していないとか、農民が置きざりにされているとか、軍隊が軍事独裁の準備を整えているとかの口実で、労働者の闘いを抑圧し、解体した。労働者のゼネ・ストは意識的政治闘争に高められるのではなく、経済闘争に矯小化され、来るべき議会選挙での有利な地位を占めるための一手段にゆがめられた。軍事独裁云々についていえば、それは労働者の階級闘争が反動を挑発しているという自由主義者のきまり文句の猿まねである。
 著者はスターリニスト共産党が戦前から一度として労働者の党としてあらわれなかったこと、彼らが労働者の基盤からはなれ、プチブルや町村議会や地方行政の管理に進出した労働者の上層=組合官僚に社会的基盤を持つ党として頽廃してきたことを明らかにしている。
 フランス五月闘争の教訓は、労働者の自然発生的な闘いでは決定的な限界があること、資本主義体制を打倒し国家権力を奪取するためには革命的な労働者の政党が必要であること、だと著者は結論している。フランス共産党の姿は来るべき激動の時代の日本共産党の姿である。五月闘争は、前衛政党なくして、労働者は階級闘争を最後まで貫徹することが出来ない、という真理――これまで世界の階級闘争が明らかにしてきた真理――を再び証明したのである。(G)


18 工藤幸雄監修「ポーランド『連帯』の挑戦」「ポーランド不屈の『連帯』」
――“連帯”の闘いの記録――

 80年8月の「ポーランドの夏」に始まり、翌年12月の軍事政権下での戒厳令布告によって非合法化されるまでの「連帯」の闘いは我々の記憶にまだ新しい。そしていまなお、非合法下でポーランド労働者の抵抗は続けられている。
 ここでとりあげた二つの本は、連帯に結集した労働者の闘いの記録である。「ポーランド『連帯』の挑戦」では、80年8月の日刊のストライキ情報紙「連帯」の全号と、連帯の代表的指導者たちの闘いの性格、展望についての見解が、そして「ポーランド不屈の『連帯』」では、軍事政権下で非合法への追いやられた連帯の地下からの抵抗の聞いの呼びかけ、今後の闘いの方向をめぐっての論争が収録されている。
 80年7月の食肉価格の値上げに端を発した労働者の抗議のストライキはたちまち全土に波汲していった。労働者は、労働組合とは名ばかりで、実際には国家機関の一部でしかない労働組合をすて、国家“政府から独立した労働組合”連帯にたちまち結集した。連帯は9月の段階で3500企業を代表し、39の地方組織に結集する600万人(有業人口の4分の1)の組織となった。
 ポーランド労働者の闘いの意義について、日本共産党は何一つあきらかにしていない。共産党にとってポーランド労働者の闘いは統一労働者党(共産党)の「政策の誤り」によってもたらされた経済的困難、官僚主義、政治的腐敗に反対し、労働者の生活の改善、諸権利を求める“民主化”闘争である。
 しかし、ポーランド労働者の闘いは、共産党=政府の政策の一時的な誤りとかいったものではなく、ポーランドの国家資本主義の現実の矛盾の爆発によって必然化したものであった。
 「連帯」に大きな影響力をもった社会自衛委員会(KOR)のミフニクは、西欧左翼の「絞切型の考え方」として否定しているのであるが、「この――“官僚的”ないし“国家資本主義”的な――体制は、労働者階級の登場の諸条件を作り出し、今度はこの労働者階級が体制を廃止するだろう」ということ(柘植書房「挑戦」352頁)こそが闘いのもっていた客観的な意味であった。
 しかし、「連帯」の指導者たちは、労働者の闘いを「自己限定ある革命」とよび、ブルジョア国家権力を打倒し、労働者の階級的権力を樹立する方向に発展させるのではなく、たんに権力の横暴のチェック、国家への圧力におしとどめようとした。
 「労働組合の任務を、自らの利益防衛を目的とする労働者組織と明確に規定することである。労働組合は自主管理の領域にはいり込むべきでなく、経済改革、行政改革に着手したり、行政にとって替ったりすべきではない」(同、196頁)。
 かれらは労働者の闘いを国家の圧迫に対する自衛と位置づけその目的は「権力をめざす抗争ではなく、権力の施行方法をめぐる抗争」(「不屈の『連帯』、179頁)であるとした。
 ここにこそポーランド「連帯」運動の根本的な限界があった。ポーランド社会の現実は労働者が労働組合としての団結をのりこえ、闘いを発展させることなしには、どんな根本的な改革もありえないことを明らかにしていた。しかし「連帯」の指導者は社会の根本的な変革ではなく、国家=政府との共存の道を進もうとし、労働者解放の展望を明らかにすることが出来ず、自ら袋小路にまよい込み、軍事反革命によって崩壊した。地下の「連帯」は中央集権的な組織かあるいは自立的な組織の連合体として抵抗すべきか論争している。だが労働者の闘いは、「連帯」の運動の復活としてではなく、支配階級を打倒し、自らの権力の樹立をめざす革命的闘いとして貫徹されなくてはならない。(G)

「変革」3号(1984.5.27)~22号(1984.10.21)


■労働者解放のためマルクスと協同
……エンゲルスの輝かしい生涯……


 社労党は今月下旬と2月上旬に、エンゲルス没後百周年記念の時局演説会を開催する。ここでは、エンゲルスの75年にわたる偉大な生涯を振り返ってみよう。
少年時代から青年時代へ
 フリードリッヒ・エンゲルスは1820年ラインの繊維工業の中心地、ウッパータールのパルメンという小さな都会に生まれた。マルクスとは二歳違い。マルクスが非常に知的な家庭に育ったのに対し、エンゲルスの方は古い織元、相当に富裕な家庭だったが、ひどく厳格な宗教的家庭であった。
 エンゲルスの少年時代のドイツは、すでに産業革命の嵐の中にあったが、絶対主義の小国が後のドイツ帝国の地域内にはたくさん連立していて、まだ統一的なドイツ帝国が出来ていなかった。そこで経済上および政治上の進歩主義といえば、当然に国家的統一の要求であった。それを一番よく象徴していたのは、経済的にはリストの関税同盟論、思想的にはヘーゲルの総合哲学であった。
 そこでエンゲルスのような秀才が、ベルリンの大学に行き、そこでヘーゲルについて学びたいと思ったのは当然のことであったが、地方商人たる父がそれを許さなかった。彼は17歳で学校をやめさせられ、前掛けを掛けた小僧として、父の商売を見習うことになったのである。しかし商売はどうしても彼の好みにあわなかったので、一年志願兵を志願してベルリンに出ることになった。1841年、エンゲルス21歳の頃である。
 ベルリンでのこの一年志願兵は、大学の青年たち、特にヘーゲル派の人々と交わり、いつの間にかヘーゲル哲学に心酔してしまった。ヘーゲル自身はプロシア国家の崇拝者であり、ベルリン大学に奉職していたが、その哲学は弁証法で革命的であり、エンゲルスはヘーゲル左派に属した。困った父は、エンゲルスをマンチェスター(イギリス)にやり、自分が経営していた紡績工場で働くように勧めた。
 だが、マンチェスターに来ても、エンゲルスは紡績工場の帳場でソロバンをはじきつつも、ヘーゲル研究からヘーゲル批判に向かっていった。彼はイギリスのチャーチストたちと交わり、さらにマンチェスターの労働者街をみて歩いた。
 後年彼は次のように述べている。「わたくしは、労働者諸君の日常生活を観察し、諸君の困窮について諸君と打ちあけて話をし、諸君の圧政者の社会的および政治的権力に対する諸君の闘争を目撃しようとした」(『イギリスにおける労働者階級の状態』の序)
 彼はこのような評論を海を越えて祖国ドイツの『ライン新聞』(マルクスが編集していた)に送っていたが、45年には有名な『イギリスにおける労働者階級の状態』を発表することになる。この書物は資本とブルジョア階級に対する恐るべき告発状であるとともに、労働者自身が自ら解放のために闘うべきことを最初に明らかにしたものだった。
 レーニンはこの本について次のように述べている。
 「プロレタリア階級の苦悩を描き、彼らを救済する必要を叫んだ人はエンゲルスより前にもあった。エンゲルスは、プロレタリアートが苦難する階級であるにとどまらないこと、プロレタリアートがおかれている恥ずべき経済的地位そのものがさからいがたい力で彼らを前へ推し進め、自己の終局的解放のために闘わせるということを、最初に語った人であった。そして、闘うプロレタリアートは、自分で自分を救うであろう。労働者階級の政治運動は、かならず労働者に、社会主義以外には自分らに活路がないことを自覚させるようになろう。他方、社会主義は、労働者階級の政治闘争の目標とならなければ、一つの力となることはできない。これがエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』の基本的な思想である」(レーニン全集第二巻)
マルクスとの出会いと唯物史観の確立
 1844年8月、エンゲルスはパリに行き、マルクスと出会う。マルクスはパリで、フランスの社会主義者とフランスの生活の影響を受けて、社会主義者になっていた。マルクスは『独仏年誌』で「ユダヤ人問題」や「ヘーゲル法哲学批判序説」などを発表していた。そしてエンゲルスが投稿した「国民経済学批判大綱」を「天歳的スケッチ」と評価していた。エンゲルスはもちろんのこと、マルクスも自分と同じような見解をもつエンゲルスをパリに迎えることを喜んだ。
 「そういう意味で、二人は相見て十年の旧知のように語りあったのである。すなわち、エンゲルスはマンチェスターにおけるプロレタリアの生活と彼らの政治的自覚、イギリス社会主義の萌芽について語ったにちがいない。それにたいしてマルクスは、今まで自分が抽象的にのみ想定していた社会革命は、君のいうようであれば、空想ではなく現実だなあといって喜んだにちがいない。/この会話において二人の『お酒の肴』になったのはヘーゲル左派、その絶対精神であったことはいうまでもない。というのは、これをかつぎまわって、今ベルリンの論壇を支配していた人は、昔のマルクスの先輩ブルーノ・パウエルであったからだ。二人はいまはこの人の天上性を笑わずにいられなかったからだ」(大内兵衛『マルクス・エンゲルス小伝』)
 1845年、エンゲルスはイギリスを離れてブリュッセルに移る。パリから移っていたマルクスのすぐ隣にすむことになった。マルクス27歳、エンゲルス25歳の時である。いうまでもなく、経済と政治、社会組織とその革命について語りあった。二人はドイツ哲学だけでなく、フランス社会主義やイギリスの古典派経済学について、猛烈な勉強を繰り広げたのである。こうした生活が3年(1845年から47年)も続いた。
 後になってエンゲルスは、二人の出会いを次のように述べている。「1845年ブルュッセルでマルクスに面会したとき、彼はこの思想(唯物史観)を完成して、これを、ほぼ明瞭な文句でわたしに示した」
 マルクスもいっている。「エンゲルスとわたくしは、経済学的諸カテゴリーを批判したかれの天才的小論(すでに述べた『国民経済学批判大綱』)が『独仏年誌』に現れて以来たえず手紙で思想の交換を続けてきたが、彼は別の道をたどってわたしと同じ結論に到達していた(彼の『イギリスにおける労働者階級の状態』をみよ)、そして1845年の春彼もブリュッセルに落ち着いたとき、我々はドイツ哲学の観念的見解に対立する我々の反対意見を共同でしあげること、実際には我々のこれまでの哲学的意識を清算することに決心したのであった。この計画はヘーゲル以後の哲学の批判という形で遂行された」
 二人は相談し、お互いに影響しあいつつ、唯物史観を確立していったのである。ここでいわれている「ヘーゲル以後の哲学の批判」とは、もちろん『ドイツ・イデオロギー』であった。この書物は、マルクスとエンゲルスがはじめて完成された形で、唯物史観を述べたもので、ヘーゲルを最終的に克服したことをあらわしていた。それは当然二人の共同の仕事として実現したものであった。
 マルクスとエンゲルスはそこで、永遠の発展過程というヘーゲル思想を保持しながらも、観念論的な先入観を放棄した。ヘーゲルやその他のヘーゲル主義者とは反対に、マルクスとエンゲルスは唯物論者であった。世界と人間を唯物論的に観察した結果、彼らは、一切の自然現象の基礎には物質的な原因があるのと同じに、人間社会の発展も、物質的な生産力によって条件づけられている。人間の欲求を充足するのに必要な物質の生産に当たって人間が互いに結ぶ関係は、生産力の発展によって決まる。そしてこれらの関係によって、社会生活の一切の現象、人間の志向、観念、法律が説明されることを明らかにしたのである。この著作において、二人はヘーゲルを完全に止揚し、唯物史観を確立したのであった。
 ブリュッセルでの三年間はこうして、二人の共同の仕事のために費されたのであり、その後二人の信頼と友情は変わることはなかった。
『共産党宣言』とドイツ革命
 ブリュッセルでの三年間、一方で彼らは、イギリスやフランス、ドイツの進歩的な人々と連絡をとりあったが、その連絡には主としてエンゲルスがあたった。彼らは「共産主義的通信委員会」をつくり、同志を集めた。彼らはこれを拠点にして、新しい社会主義の宣伝の手を世界に伸ばそうとはかったのである。
 1847年の始めのある日、旧知のヨーゼフ・モフが「正義者同盟」を代表して訪れ、総会への出席を求めた。総会にはエンゲルスが出席し、名称も「共産主義者同盟」に変更された。その団体規約一条は「同盟の目的は、ブルジョアジーの打倒、プロレタリアートの支配、階級対立に基づく古いブルジョア社会の止揚、階級と私的所有のない社会の建設にある」としるされた。
 そして彼らは綱領改定も決定し、その起案をマルクスとエンゲルスに託した。これが「ヨーロッパに共産主義という妖怪が俳個している」という書き出しで始まり「支配階級をして共産主義革命の前に戦慄せしめよ。プロレタリアは革命において鉄鎖の他に失うべきものは何ももたない。彼らは世界を獲得しなければならない」「万国のプロレタリア団結せよ!」で締めくくられる有名な『共産党宣言』であった。
 「共産主義者同盟」そのものは小さな団体にすぎなかったが、そこで明らかにされた内容は労働者の闘いにとって歴史的に重要な意義をもち、その後の全世界の労働者の聞いの基軸となったのである。そして、ここでもエンゲルスは大きな役割を果たしている。『宣言』はマルクスの手によるものであったが、それに先立ちエンゲルスは問答形式の『共産主義の原理』を同盟の会議に提出しており、『宣言』もこの『原理』を下敷きにしつつ起草されたのであった。
 『共産党宣言』が1948年1月に発表されてまもなく、3月にはドイツ革命が起こった。1848年の革命は、はじめフランスにおこり、ついで西ヨーロッパのその他の国々にも波及したが、それはマルクスとエンゲルスを祖国に連れ戻した。プロイセン領ライン州において、彼らはケルンで発行された革命的民主主義的な新聞『新ライン新聞』の先頭に立った。
 二人の友は、プロイセン領ライン州におけるあらゆる革命的・民主主義的志向を代表した。彼らは反動勢力にたいして、人民の利益と自由の事業とを力のおよぶかぎり最後まで守った。周知のように反動勢力が勝利し、革命は敗北し、『新ライン新聞』は禁止されてしまった。マルクスは亡命生活の間にプロイセン国籍を失っていたので追放されたが、エンゲルスは人民の武装蜂起に参加した。彼は義勇軍であったウィリの副官として市街戦に参加し、驚くべき軍事的才能を発揮したという(彼は「将軍」というあだ名を頂戴することになった)。三つの戦闘において自由のために聞い、反乱軍が敗北した後スイスを経由してロンドンに逃げた。
 そしてこの革命の敗北を踏まえて、マルクスは『フランスにおける階級闘争』、そしてエンゲルスは『ドイツ帝国憲法戦争』を、そして16世紀の宗教革命を扱った『ドイツ農民戦争』を発表した。さらに後になって、エンゲルスはこの革命を総括した『ドイツにおける革命と反革命』を著わしたのであった。
第一インター創立とパリ・コンミューン
 48年の革命の敗北の後、50年末にエンゲルスはマンチェスターに移った。エンゲルス30歳のときであった。彼はかつて勤めたマンチェスターの商館にもう一度店員として入り、後にはその共同出資者ともなった。マルクスはロンドンに住んだが、そのことは、彼らがきわめて活発な思想的交流をもつ妨げにはならなかった。この間、彼らは毎日のように文通を続け、共同して科学的社会主義を作り上げる仕事を続けた。
 マルクスとエンゲルスにとって、この時期の最も大きな仕事の一つは『資本論』の完成、出版であった。マルクスは研究について問題があるたびにエンゲルスに相談し、エンゲルスはそれについてたえず意見を述べている。『資本論に関する手紙』は、その数が250通になっていたことを教えている。『資本論』第一巻の原稿が完成したとき(1867年4月4日)、エンゲルスは「万歳!第一巻が完成した。……わたしは制し切れなくて万歳と叫んだ!」との手紙をだしているが、ここには二人の固い友情を見ることが出来る。『資本論』の刊行によって資本主義の搾取、その矛盾が暴露され社会主義への歴史的必然性が明らかになった。
 また、1864年マルクスは「国際労働者協会」(第一インター)を創立し、丸10年にわたって、この協会を指導したが、エンゲルスもこの協会の事業に積極的に参加した。ポーランド問題についての諸評論、成長しはじめたドイツの労働運動についてのエンゲルスの評論――特にラッサール派への批判は容赦なかった――などは、エンゲルスが単なる研究者ではなく、世界の労働運動に深い関心を払いつづけたことを教えている。
 そして、1870年エンゲルスはとうとう「小銭稼ぎ」「犬の仕事」「強制労働」(彼は生活のために止むなく、その嫌いな仕事を続けていた)を止めることになった。
 1870年、エンゲルスはロンドンに移った。丁度この年の7月、普仏戦争が起こり、さらにパリ・コミューンが成立した。マルクスとエンゲルスは、フランスの労働者がただちに社会主義革命を遂行する力をもっていないと考えており、その蜂起には反対していたが、誕生したコミューン政府を、彼らは第一インターをあげて支援しつづけた。ロンドンにあったマルクスは、第三声明を発表したが、これが『フランスにおける内乱』であった。
 パリ・コンミューンは70日余りで崩壊し、第一インターもバクーニン派の策動の中で崩壊していった。
『資本論』の編集、出版
 1870年、ロンドンに移ったエンゲルスは、以後マルクスが死去した83年まで、一緒に仕事をすることになった。二人の緊張した共同の思想生活が続けられたのである。その成果は、マルクスにあっては最大の経済的著作である『資本論』であり、エンゲルスにあっては大小多数の著作であった。マルクスが資本主義経済の複雑な諸現象の分析に従事する一方で、エンゲルスは、きわめて平易に書かれ、しばしば論戦の形をとった諸労作――最も一般的な科学上の問題や、過去および現在の各種の現象を、唯物史観とマルクスの経済理論の精神に即して説きあかした――を発表していった。これらのエンゲルスの労作のうちで、われわれはさし当たり次のものをあげることが出来るだろう。『住宅問題』(72年)、『反デューリング論』(78年)、『家族・私有財産・国家の起源』(84年)、『フォイエルバッハ論』等々。
 体力の衰えたマルクスにとって、『資本論』はどうしても完成させなくてはならない課題であった。そのための時間をつくるために、各国の労働運動を指導する仕事は、エンゲルスが引き受けるようになっていった。エンゲルスは上記の労作を仕上げる一方で、ラテン諸国をはじめ、ベルギーやデンマークの新しい労働者政党にも忠告や助言を欠かさなかった。マルクスとの「分業」であった。中でも、ドイツの労働運動の指導は欠かせないものになっていた。ラッサール派とアイゼナッハ派が対立する中で、マルクスが書いた『ゴータ綱領批判』(75年、レーニンはこれを「マルクス主義の総決算」と呼んでいる)は、エンゲルスの協力なくしては成立しえないものであった。
 マルクスは『資本論』を仕上げることなく死んだ。しかし、その大綱はすでに完成していたので、エンゲルスは『資本論』の第二巻と第三巻を仕上げて出版するという難事業に着手した。原稿は出来上がっている部分が多かったが、書き直しが多く、引用のところなどは未整理で英、独、仏、原文のままであったりした。そして何より、分量が多く、独特の書体で、書いた本人さえ読めないような走り書きであった。形式、内容ともエンゲルス以外にこれを出版出来る人はいなかった。
 彼はマルクス死後の12年、その主力を『資本論』の出版に注ぎ込んだ。引き続きヨーロッパの社会主義者の相談役または指導者としての役割を果たしつつ、85年に第二巻、そして94年に第三巻を刊行した。まさにこの二つの巻は、マルクスとエンゲルスの二人の共同の労作であったといいうるであろう。
 彼は『資本論』第三巻を刊行した翌年(第四巻『剰余価値学説史』を仕上げることなく)、1895年8月、その偉大な生涯を閉じたのである。
まとめにかえて
 最後に、簡単にマルクス主義におけるエンゲルスの地位にふれておきたい。
 すでに見てきたように、この科学的社会主義=マルクス主義は、マルクスとエンゲルスの二人の合作である。エンゲルスは、つねに――そして大たいにおいて正しく――自分をマルクスのうしろにおいた。彼はある旧友への手紙に『マルクスの生きているあいだはわたくしは第二ヴァイオリンをひいた』と書いているが、それはエンゲルスの独自の役割を決して否定することではないであろう。
 マルクスが生きていたときも、エンゲルスは彼の単なる助手ではなく、解説者でもなかった。彼は独自の分野の仕事をやりとげてきたし、マルクスのかけがえのない同志であり協力者であった。二人は、相談し、影響しあい、「分業」しあいながら、科学的社会主義を仕上げていったのである。
 エンゲルス没後百周年、われわれもレーニンとともに次のように叫ぼう!
 「プロレタリアートの偉大な戦士にして教師、エンゲルスに永遠の追悼あれ!」

 週刊労働者新聞」第518号(1995年1月22日)


林 紘義(はやし ひろよし、1938年7月24日 - )は、日本の共産主義活動家。社会主義労働者党委員長を経て、マルクス主義同志会代表。組織名・栗木伸一。
東京大学文学部在学中に、共産主義者同盟の一員として60年安保闘争に参加。樺美智子と出会う。後に同大学院社会科学研究科へ進学。専攻は農業経済学。大学院修了後、北海道の大学から教員としての採用を打診されたが、地方で活動することについて否定的であり、東京に残るためにその打診を断った、というエピソードがある。

共産主義者同盟崩壊後、共産主義者同盟「共産主義の旗」派を組織する。この組織を改組して「日本共産労働党」となる。

しかし、前衛党としての力量がまだなかったため党組織を解体し、理論研究集団として「全国社会科学研究会」(全国社研)を組織する。

全国社研が発展して、マルクス主義労働者同盟(マル労同)となる。

1977年の参議院議員選挙では、栗木伸一名義で、マルクス主義労働者同盟公認で神奈川県選挙区から立候補するが落選。1986年・1989年の参議院議員選挙では、社会主義労働者党は10名の候補者を立て、林は比例代表に立候補したが、いずれも落選している。

第一次共産主義者同盟(プロレタリア通信派)→共産主義者同盟(共産主義の旗)→全国社会科学研究会(全国社研)→マルクス主義労働者同盟(マル労同)→社会主義労働者党(社労党)→マルクス主義同志会

元東京女子大学教授・林道義の弟。兄については厳しい批判を展開している。

著書[編集]
『宮本・不破への公開質問状 ハンガリー事件・スターリン批判・ポーランド問題について』(全国社研社)
『愛惜の樺美智子』(三一書房)
『林紘義著作集』全六巻(ういんぐ・出版企画センター)
『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(全国社研社)
『教育のこれから』(全国社研社)
『不破哲三の“唯物史観”と「資本論」曲解』(全国社研社)
『「家族、私有財産及び国家の起源」を探る』(全国社研社)

 山田明人

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  1. 2013/10/31(木) 21:24:36|
  2. 未分類

左翼党派公式サイト一覧

 古本屋通信  No 491  10月30日

 日本 左翼党派・団体 公式サイト一覧


 日本の左派・左翼を一堂にまとめたリンク集はいくつかあるが、もっとも使い易いと私が思い、常時「お気に入り」に入れて使っているサイトを紹介する。サイトの名前は表題の通りだが、確実にヒットさせるにはグーグルに「Others link」と入力すればよい。そうすれば下記の一覧表が現れる。私はずっと使っているが、これがコピー可能だとは思ってもいなかった。ところが今日やってみると、はなはだ読み難いながら下記が出現した。手を加えて再編集すれば読みやすくなるが、それをしないでそのまま貼り付けた。というのは実際には実物の完璧なリンク集が現われ、それを使用すればよいのだから。ただ、やってみれば分るが、死んでいる左派サイトもたくさんあるし、最後の方は左翼でないものもある。ともあれ、「Others link」を入れて、一覧表が出たら「お気に入り」に入れて、片っ端からクリックしてみることをお勧めしたい。
 一覧表を見れば分かるが、各サイトは管理者の編集によって(便宜的に)系統別に集められている。しかし利用者は自由に使用すればよいだろう。因みに私(古本屋通信)が訪問するサイトを赤文字にしてある。私見だが、これらが活きているサイトだろう。



革共同系
第四インター系 新時代社派系
第四インター新時代社派
『かけはし』 http://www.jrcl.net/
日本革命的共産主義者同盟(JRCL)(第四インター新時代社派)
日本共産青年同盟(JCY)
国際主義共産学生同盟(学生インター)
全国国際主義高校生委員会(高校生インター)
アジア連帯講座 http://www.jca.apc.org/~monsoon/index.htm
アジア連帯講座
つげ(拓殖)書房新社 http://www.tsugeshobo.com/
つげ(拓殖)書房新社
第四インター再建派
『インターナショナル』 http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks/
http://www5.justnet.ne.jp/~tor-ks/
第四インターナショナル日本支部再建準備グループ
(第四インター再建派)MELT(メルト)
第四インター
統一書記局派 http://internationalviewpoint.org/
第四インターナショナル統一書記局派
第四インター
国際社会主義潮流派 http://www.istendency.net/
第四インターナショナル国際社会主義潮流派

第四インター
スパルタシスト派 http://www.icl-fi.org/
国際共産主義者同盟(第四インターナショナリスト)
スパルタシスト・日本グループ(ICL・International communist League)
第四インター
国際共産主義者連盟派 http://www.union-communiste.org/
第四インターナショナル国際共産主義者連盟派
第四インターP派
『労働者の力』 http://www.interq.or.jp/leo/sinter/
国際主義労働者全国協議会(第四インターP派)「労働者の力」
ロゴスの会 http://www.nn.iij4u.or.jp/~logos/
ロゴスの会 
武装蜂起準(プロ軍) 武装蜂起準備委員会(武装蜂起準)AIPC、
プロレタリア軍団(プロ軍)、暴力革命戦線(暴革戦線)
暴力革命高校生戦線(暴革戦線)
第四インター女解G 第四インター・女性解放グループ(第四インター女解G)
第四インターボル派 第四インターナショナル・ボルシェヴィキ派(準)ボル派
電気通信産業労働組合 http://www.dentu-rouso.or.jp/
電通労組(全労協系)
中核

中央


革共同全国委(中核派)
『前進』
(中央派・安田派) http://www.zenshin.org/#top
革命的共産主義者同盟全国委員会(前進派・中核派)
マルクス主義青年労働者同盟(マル青労同)
マルクス主義学生同盟中核派(マル学同中核派)

マルクス主義高校生同盟(マル高同)
戦争と植民地主義に反対し生活と権利を守る高校生協議会
(反戦高協・AGH=アゲハ)
革共同『団結Solidarity』総合版 http://www.zenshin-s.org/zenshin-s/index.html
革共同『前進』速報版(旧) http://www.zenshin.org/blog/index.html
週間『前進』mobile http://www.zenshin.org/f-m/index.html
(中核派系)全学連 http://www.zengakuren.jp/

全日本学生自治会総連合(中核派系)span>
都政を革新する会(都革新) http://www.tokakushin.org/
都政を革新する会(都革新)
都革新・旧Website http://members.jcom.home.ne.jp/tokakushin/
都革新・旧Website

北島邦彦の
「すぎなみ未来BOX」 http://blog.goo.ne.jp/kjmirai2009
こくがブログ
泉佐野市会議員・国賀祥司 http://kokuga.cocolog-nifty.com/blog/
STOP! 介護保険
杉並10万人署名運動 http://www.interq.or.jp/sun/tokaku/
STOP! 介護保険杉並10万人署名運動
国労共闘 http://www31.ocn.ne.jp/~kokurouk/
国労共闘全国協議会
動労千葉 http://www.doro-chiba.org/
国鉄千葉動力車労働組合
解同全国連 http://www.zenkokuren.org/
部落解放同盟全国連合会
三里塚芝山連合空港反対同盟 http://www.sanrizuka-doumei.jp/blog/
反戦共同行動委員会 http://www.anti-war.jp/index.htm
全国労働組合交流センター http://www.k-center.org/
婦人民主クラブ全国協議会 http://www5a.biglobe.ne.jp/%7Efumin/
星野文昭さんを取り戻そう!
全国再審連絡会議 http://www3.cnet-ta.ne.jp/f/fhoshino/
星野文昭さんを取り戻そう! 全国再審連絡会議
無実の富山保信さんの
再審無罪をかちとる会 http://www4.ocn.ne.jp/~tomiyama/
無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる会
十万人保釈署名運動 http://www5c.biglobe.ne.jp/~hosyaku/
無罪!迎賓館・横田裁判の完全無罪をかちとる会
とめよう戦争への道!
百万人署名運動 http://million.at.webry.info/
とめよう戦争への道! 百万人署名運動
インターナショナリズム http://marxistjp.fc2web.com/index.html
イスクラ(火花) http://blog.livedoor.jp/uchamikun/
瀬奈 優さんのブログ






系 革共同再建協議会
『未来』(『革共同通信』)
(反中央派・塩川派)
(関西委・関西派)
http://kakukyodo.jp/
革命的共産主義者同盟全国委員会の再建をめざす全国協議会
(革共同再建協議会)、

革命的共産主義者同盟関西地方委員会(関西派・塩川派)2009.01.17よりWeb開設
『展望』The Perspectine創刊号 単行本(ソフトカバー)¥1,000
『展望』The Perspectine第2号 単行本(ソフトカバー)¥1,260
『展望』The Perspectine第3号 単行本(ソフトカバー)¥1,050
現代革命論争資料蒐集 http://www.geocities.jp/katura0043/index.html
けしば誠一・新城せつ子 http://www.keshiba-shinjo.net/杉並区議会議員・前杉並区議会議員(無所属区民派




社 社会批評社(小西G) http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/shakai.htm
社会批評社(小西G) 
反戦自衛官 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/hansen.htm
ネット・マガジン「新左翼・大論争」 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/net1.htm
社会主義歴史研究所
(元中核派白井G) 社会主義歴史研究所(元中核派白井G)
中核派田川G 中核派田川G 
革マル派系 革共同革マル派
『解放』
(中央派・黒田派) http://www.jrcl.org/
日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派
(革マル派)


マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派(マル学同革マル派)
反戦高校生連絡会議(反戦高連)


(革マル派系)全学連 http://www.zengakuren.org/
全日本学生自治会総連合(革マル派系)
あかね図書販売 http://www.akanebooks.com/
あかね図書販売
こぶし書房 http://www.kobushi-shobo.co.jp/
こぶし書房

神戸事件の真相を究明する会 http://www2.odn.ne.jp/~cac05270/
神戸事件の真相を究明する会
JR総連 http://jr-souren.com/
全日本鉄道労働組合総連合会(JRU)
JR東労組 http://www.jreu.or.jp/
東日本旅客鉄道労働組合(JREU)
JR東労組仙台地本 http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~jreu-sen/
東日本旅客鉄道労働組合仙台地方本部
JR東海労働組合新幹線
関西地本 http://www.jrcu-kansai.com/
JR東海労働組合新幹線関西地方本部
JR西労 http://www2.odn.ne.jp/nisirou/
JR西日本労働組合
早稲田大学新聞 on Web http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1471/
早稲田大学新聞会
革共同革マル派
(松崎派) 革共同革マル派(松崎派)
革共同革マル派
(嶋田派) 革共同革マル派(嶋田派)

共産同(ブント)系
叛旗派系 情況派系 共産同情況派 共産主義者同盟・情況派(再建準備委員会)
社会主義学生同盟(社学同)
共産同遠方から派 共産主義者同盟・遠方から派(旧情況派分裂)
共産同游撃派 共産主義者同盟・游撃派(旧情況派分裂)→革命の旗派→
赫旗派→首都圏委派・黒赫旗派・赤赫旗派へ分裂
共産同首都圏委派 共産主義者同盟・首都圏委員会(首都圏委派)『風をよむ』
(赫旗派分裂・旧游撃派)→共産主義者協議会へ合流(2009.03)
叛旗派系 共産同叛旗派 共産主義者同盟・叛旗派、神津陽G
(神津陽塾)
叛旗派互助会 叛旗派互助会
乾坤社G 乾坤社(乾坤社G)
戦旗派系 日向派系 Actio Network
『Actio Network』 http://www.actio.gr.jp/(旧http://www.bund.org/)
旧ブント(BUND)せんき社、「人権と環境をテーマに行動するNGO」〔旧戦旗共産同・日向派・荒派、共産主義青年同盟(KIM)、労働者共闘会議(労共闘)、社会主義学生同盟(社学同)、社学同高校生委員会、全国高校生安保闘争委員会〕
実践社 http://www.jissensha.co.jp/
実践社
学生エコアクション http://www.st-eco-action.org/
学生エコアクション
反日向派系 ブント清算事業団 http://www.tk3.speed.co.jp/wolves/jigyoudan.html
ブント清算事業団 
ロフトプラスワン襲撃を
許さない共同声明 http://www.t3.rim.or.jp/~punsuka/
ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明
共産同(統一委)
『戦旗』 http://www.bund21.org/index.htm
共産主義者同盟(統一委員会) (2004年結成)
〔共産主義者同盟戦旗派+共産主義者同盟全国委烽火派〕
反帝戦線(AIF)、共産主義青年同盟(共青同)学生班

共産同焚火派 共産主義者同盟・焚火派
共産同戦旗西田派 共産主義者同盟(戦旗派)戦旗西田派・反荒派・両川派→蒐
共産同(統一委)へ合流(2004年)
共産同プロ戦派 本多派→北海道共産同→共産主義者同盟(プロ戦編集委)プロ戦派
12

18



系 蜂起派系 共産主義者協議会
『赤いプロレタリア』 http://redproletarian.web.fc2.com/index.html
共産主義者協議会(2009年3月結成)
〔共産主義者同盟蜂起派+共産同首都圏委+共産同プロ通編集委〕
共産同蜂起派
『赤星』 共産主義者同盟・鉄の戦線派→蜂起派(さらぎ派)、反帝戦線(AIF)→共産主義者協議会へ合流(2009.03)
共産同蜂起左派 共産主義者同盟・蜂起左派→プロ通派へ合流
烽火派系 共産同(全国委)烽火派 共産主義者同盟(全国委員会)烽火派→共産同(統一委)へ合流(2004年)
共産同全国委ML派 共産主義者同盟(全国委)マルクス・レーニン主義派
(共産同全国委ML派)
共産同赤報派(RG) 共産主義者同盟(RG・エルゲー・共産主義突撃隊)赤報派、榎原均G
共産同プロ通派 共産主義者同盟・プロ通派=プロレタリア通信編集委員会(蜂起左派+赤報派少数派+神奈川左派)→共産主義者協議会へ合流(2009.03)
赫旗派系 共産同黒赫旗派 共産主義者同盟・赫旗派(革命の旗派+紅旗派)生田あい
日共(マルクスレーニン主義)と統合→労働者共産党へ
共産同赤赫旗派 赤赫旗派→共産主義者の建党協議会(建党協)へ
建党協 共産主義者の建党協議会(建党協)
赤軍派系 プ

革派系 共産同赤軍プロ革派 共産主義者同盟・赤軍派(プロ革)赤軍プロ革派
共産主義青年同盟赤軍派、革命戦線、高校赤軍
自主日本の会
『ぱとり』 http://homepage2.nifty.com/patri/
自主日本の会(共産主義者同盟・旧赤軍派・塩見孝也G) 
共産同赤軍日本委派 共産主義者同盟・赤軍派「革命戦争」編集委→共産主義者同盟・赤軍派日本委員会(赤軍日本委派)
連合赤軍 「赤軍」総司令部(統一赤軍)→ 連合赤軍(森恒夫G)(赤軍派獄外G+日本共産党神奈川県常任委員会革命左派=京浜安保共闘)


号系 アジア新時代研究会 http://www.asiasinjidai.jp/
アジア新時代研究会(かりの会)(赤軍派よど号G)田宮高麿G
「かりの会」
帰国支援センター http://www.karihayuku.ecnet.jp/
「かりの会」帰国支援センター
日本赤軍系 ムーブメント連帯
(旧日本赤軍) 赤軍派アラブ委員会(アラブ赤軍)→日本赤軍→PEOPLE'S REVOLUTION編集委(人革グ) →人民革命党(人革党)→連帯(重信房子G)→ムーブメント連帯(重信房子G) 
帰国者の裁判を考える会 http://www3.tky.3web.ne.jp/~sper/
帰国者の裁判を考える会
共産同火花派
『火花』 http://www.hibana.org/
共産主義者同盟(火花)(火花派)
共産同プロレタリア派
『プロレタリア』 共産主義者同盟・プロレタリア派(竹内派)
首都青年労働者社会主義研究会(首都社研)
反帝学生戦線(AISF)
共産主義者党 共産主義者同盟・前衛派→共産主義者党
日本革命党 日本革命党
マル戦派系 労共委系 労共委怒濤中央委派 労働者共産主義委員会・怒濤中央委派
労共委怒濤都委派 労働者共産主義委員会・怒濤都委派
労共委怒濤神奈川県委派 労働者共産主義委員会・怒濤神奈川県委派
労共委怒濤臨中派 労働者共産主義委員会・怒濤臨中派
L協 レーニン主義者協議会(L協)
民統同 http://www.ganbarou-nippon.ne.jp/
民主統一同盟(民統同)「がんばろう、日本!」国民協議会
市民の党 市民の党 
社労党系 社会主義労働者党 http://homepage3.nifty.com/mcg/swp_arc/jswphome.htm社労党(全国社研→マル労同→社労党)

マル同系 マルクス主義同志会『海つばめ』 http://www.mcg-j.org/
マルクス主義同志会(旧社労党)
『資本論』を読む会 http://members3.jcom.home.ne.jp/study-capital/
『資本論』を読む会
赤星マルクス研究会 http://www.asahi-net.or.jp/~zr8k-yki/
赤星マルクス研究会(マルクス主義同志会離党)
労働者の新世界 http://blog.livedoor.jp/kodama1872/
赤星マルクス研究会(ブログ)
社会主義連盟 http://www2.bbweb-arena.com/hiraku/
社会主義連盟(旧革命的社会主義運動・グループ95 / 旧社労党離党)
ワ|カ|ズ系 旧ワーカーズ http://www.workers-2001.org/top2.htm
新しい労働者党をめざす全国協議会(旧ワーカーズ・旧社労党離党)
旧ワーカーズネット http://homepage2.nifty.com/ingnet/
旧ワーカーズ・ネット(旧ワーカーズ離党)
ワーカーズ http://www.workers-2001.org/
ワーカーズ・ネットワーク(旧ワーカーズ+旧ワーカーズネット)
イング http://www.geocities.jp/ing9702/index.htm
イング・ネットワーク(旧ワーカーズ離党)




系 国際主義 http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/
『国際主義』編集会議(国際主義)
革命21(準)
『コモンズ』
http://www.com21.jp/
運動型・新党「革命21(準)」2008.5.11新党準備会総会
〔協同・未来+関生コミュニスト同志会他〕
協同・未来 http://www.commirai.org/
コム未来・生田派(いいだもも=旧共労党・生田あいG=旧共産同赫旗派)→革命21(準)2008.5.11新党準備会総会
関生コミュニスト同志会 http://www.kancomi.jp/




ト 旧コム・未来 http://www.ne.jp/asahi/com/f/indexa.htm
共産主義協議会(コム・未来)
コム・ネット http://www.ne.jp/asahi/com/f/
共産主義ネットワーク(コム・ネット / 旧コム・未来)

構造改革派系
統社同系 フロント[社会主義同盟]
『先駆』 統一社会主義同盟(フロント)→
日本共産主義革命党(共革党)→再建派→フロント[社会主義同盟]
社会主義学生戦線、安保粉砕高校生戦線、レーニン主義青年同盟(L青同)、全国反帝高校生戦線連合(反帝高戦)
共産主義同志会 共産主義同志会
思想運動 活動家集団・思想運動(思想運動)
社労同系 社労同赤焔派 社会主義労働者同盟(社労同赤焔派)
共産主義学生同盟(共学同)
社労同新左翼派 社会主義労働者同盟(社労同新左翼派)
フェニックスG 青共委→評議会的変革のための協働委員会(フェニックスG)
共労党系 蒼

系 蒼生
『グローカル』 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/
自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ・蒼生(蒼生)旧共産主義労働者党・プロレタリア革命派(旧共労党プロ革派)
→2012.8解散→緑の党他
プロ青同 http://pyl.at.infoseek.co.jp/
プロレタリア青年同盟(PYL)
プロレタリア学生同盟(プロ学同)、反帝学生戦線
プロレタリア高校生同盟(プロ高同)、全国高校生闘争連合(全高闘連)
国連憲法問題研究会 http://www.winterpalace.net/kkmk/
共労党赤戦派 共産主義労働者党・赤色戦線派(共労党赤戦派)
共労党労革派 共産主義労働者党・全国委員会(共労党労革派)労働者党派
統共同 統一共産同盟(統共同)

親ソ連派系
民学同系 民主主義的社会主義運動(MDS) http://www.mdsweb.jp/index.html
民学同民主主義の旗派→民主主義的社会主義運動(MDS) 民学同デモクラート派『PEACE News』 http://www.jca.apc.org/~p-news/
民主主義学生同盟(民学同デモクラート派)『ピースニュース』
日本のこえ
民学同新時代派『ASSERT』 http://www.assert.jp/
民主主義学生同盟(民学同新時代派)「ASSERT(アサート)」 統労同系 新民連 新・民主主義連合(新民連)
社統党 社会主義統一党(社統党)

親中共派系




系 日本共産党(左派)
『人民の星』 http://ww5.tiki.ne.jp/~people-hs/index.htm
日本共産党(左派)、日共左派





系 日本共産党
(行動派) http://jinminsensen.com/kodoha.html
日本共産党(行動派)
日本人民戦線
http://jinminsensen.com/index.html
日本人民戦線
日本人民戦線
ブログ http://jjs.seesaa.net/
日本人民戦線ブログ
日本共産党(ボル派) 日本共産党(ボルシェビキ)日共ボル派
日共ML主義者全国協 日本共産党(マルクス・レーニン主義者)全国協議会
(日共ML主義者全国協)
日共革左神奈川県委 日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)
(赤軍派獄外Gと統合し連合赤軍へ)





系 日本労働党 http://www.jlp.net/
日本労働党 
あらかわ元気クラブ http://www.kt.rim.or.jp/~genki-c/
あらかわ元気クラブ
自主・平和・民主のための広範な国民連合 http://www.kokuminrengo.net/
自主・平和・民主のための広範な国民連合
三橋緑の党 緑の党(三橋緑の党)
労社同 http://www.rousyadou.org/
労働者社会主義同盟(労社同)〔日本労働者党(旧・日本ML同盟、学生解放戦線(SFL)、高校生解放戦線)+建党同盟〕
人民連帯 日本共産主義人民連帯(人民連帯)
労共党 http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/
労働者共産党(労共党)
〔共産主義者同盟・赫旗派+日本共産党(マルクスレーニン主義)〕
反覇権通信派 反覇権通信編集委員会(反覇権通信派)
毛沢東思想研究会 毛沢東思想研究会(毛研)
毛沢東思想学院 毛沢東思想学院(毛学) 
日中正統 日本中国友好協会(正統)本部(日中正統)
人民新聞
『ピープルズニュース』
http://www.jimmin.com/
人民新聞社(人民新聞)

日共系


系 日本共産党 http://www.jcp.or.jp/
日本共産党(日共不破派)
日本共産党資料館 http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/main.htm
民青 http://www.dylj.or.jp/
日本民主青年同盟(民青)
(日共系)全学連 http://www.zen-gakuren.org/index.html
全日本学生自治会総連合(日共・民青系)
新日本出版社 http://www.shinnihon-net.co.jp/
かえるネット札幌(北区・東区) http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/5321/
kaerunet_001.htm
かえるネットかながわ http://homepage2.nifty.com/kaeru-net/
かえるネット兵庫ブログ http://blog.livedoor.jp/kaerunethyogo/
夢・共産主義 http://www.kitanet.ne.jp/~takashi/1bu-kyou/1bu-kyou-
index.htm
日本共産党東京都北区議会議員(八百川孝氏のWebsite)
さざ波通信 http://www.geocities.jp/sazanami_tsushin/
日本共産党中央の官僚主義に抗する現役共産党内批判派のサイト

社会党・社青同系



系 革


系 狭


革労協現代社派 革命的労働者協会(社会党社青同解放派)(革労協現代社派・主流派・千木良派)反戦青年委員会
全国反帝学生評議会連合(反帝学評)
全国反帝高校生評議会連合(反帝高評)
(革労協現代社派系)
全学連 http://zengakuren.info/index.html
全日本学生自治会総連合(革労協現代社派系)
 「解放」940号 http://policy.ken-nyo.com/kaihou-940.html
 「解放」947号 http://policy.ken-nyo.com/kaihou-945-947.html
「解放」954号 http://policy.ken-nyo.com/kaihou-954.html
「解放」955号 http://policy.ken-nyo.com/kaihou-955-toukou.html
 「解放」957号 http://policy.ken-nyo.com/kaihou-959-nittyou.html
「解放」972号 http://policy.ken-nyo.com/kaihou-972-1-nentou.html
「解放」987号 http://policy.ken-nyo.com/kaihou-987-1-kakumaru.html
立ち読み書店 http://policy.ken-nyo.com/menu-afl-index.html
革労協赤砦社派 http://www.kaihou-sekisaisya.jp/
革命的労働者協会(革労協赤砦社派・革労協解放派・反主流派・木元派・山茂派・山田茂樹派)反戦青年委員会
全国反帝学生評議会連合(反帝学評)
全国反帝高校生評議会連合(反帝高評)
(革労協赤砦社派系)
全学連 全日本学生自治会総連合(革労協赤砦社派系)
革労協西原G 革命的労働者協会(革労協西原G) 
革労協永井G 革命的労働者協会(革労協永井G) 
革労協労対派 http://www.kaihou.org/
革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(革労協労対派・滝口派)
青空企画 http://rentaifan.at.infoseek.co.jp/top.htm
人民の力派 http://www.janis.or.jp/users/jnc/
日本労働者階級解放闘争同盟→人民の力(人民の力派)
戦線派 労働者階級解放闘争同盟(戦線派)



系 新社会党 http://www.sinsyakai.or.jp/
新社会党
社会主義協会(坂牛派) http://www5.ocn.ne.jp/~sksgkk/
社会主義協会坂牛派(新社会党系)
新社会党東京都本部 http://park17.wakwak.com/~nsp-tokyo/
新社会党兵庫県本部 http://www.portnet.ne.jp/~nsphyogo/
新社会党灘総支部 http://www16.ocn.ne.jp/~nsp-nada/
新社会党神戸市会議員団 http://www.portnet.ne.jp/~nsp-kobe/
原和美の井戸端考 http://home.kobe-u.com/kazumi/
岡崎ひろみ http://www5a.biglobe.ne.jp/~ichigo-o/net.html
あわはら富夫の言いたい放題 http://www.portnet.ne.jp/~awara/
小林るみ子たんぽぽ倶楽部 http://tanpopo-club.net/
いなむら和美どっと.こむ http://www.inamura-kazumi.com/
山下けいき(茨木市議会議員) http://www.genki-yamashita.com/index.html
9プラス25市民の会 http://www8.plala.or.jp/h9plus25/
9プラス25改憲阻止市民の会
9条ネット http://www.9jo-net.org/
労働者運動資料室 http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/index.html
まなぶ書房 http://www.manabu-book.com/
社青同北海道地本 http://www.h5.dion.ne.jp/~lsyho/
日本社会主義青年同盟北海道地区本部
社民党 http://www5.sdp.or.jp/
社会民主党(社民党)
社会主義協会(佐藤派) http://www.kyokai.gr.jp/
社会主義協会佐藤派(社民党系)
進歩と改革研究会(旧太田派) http://www.s-kaikaku.com/
旧太田派
福島みずほと一緒に
国会へ行こう http://www.mizuhoto.org/
保坂展人 http://www.hosaka.gr.jp/
原水禁 http://www.gensuikin.org/
原水爆禁止日本国民会議
社青同協会向坂派 日本社会主義青年同盟(社青同協会向坂派)
改憲阻止学生会議、高校生反戦連絡協議会(高校反戦)
社青同構改派 日本社会主義青年同盟(社青同構改派)
主革派 主体と変革全国委員会(主革派)

アナキスト系
アナキスト系 日本アナキスト連盟(アナ連)
(自由連合社) 自由社会主義評議会(CSL)→麦社
アナキスト革命連合(ARF) アナキスト社会革命戦線

無政府共産主義者同盟(アナキストブント・黒色ブント)

アナキスト高校生戦線→
アナキスト高校生連合(アナ高連)

ベトナム反戦直接行動委員会
(ベ反委) 背叛社→タナトス社

労働者連帯運動
(RRU-JAPAN) http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/
アナルコ・サンディカリスト・ジャーナル
自由労働者連合/
黒色救援会 http://federaciodechifonproletoj.wordpress.com/
世界のアナキストグループ
(リンク) http://anarchism.sanpal.co.jp/links/

革新系 地域政党
沖縄社会大衆党
(社大党) http://www.okinawashadai.com/
沖縄社会大衆党 革新系 政党
緑の党 http://greens.gr.jp//
緑の党



新左翼系統図 70年安保闘争史 Search & Link


中間政党
未来の党 http://nippon-mirai.jp/
日本未来の党
みどりの風 みどりの風


保守系 政党
生活の党 生活の党 http://lifeparty.jp/
生活の党
新政研 http://www.shinseiken.jp/index.html
新しい政策研究会(新政研)
新党大地 http://www.daichi.gr.jp/
国民新党 http://www.kokumin.or.jp/
新党日本 http://www.nippon-dream.com/
民主党 http://www.dpj.or.jp/
新党改革 http://shintokaikaku.jp/
みんなの党 http://www.your-party.jp/
日本維新の会 http://j-ishin.jp/
公明党(宗教政党) http://www.komei.or.jp/
自民党 http://www.jimin.jp/

Others(宗教政党)
幸福実現党 http://www.hr-party.jp/index.html
女性党 http://www.ai-star.co.jp/ (アイスター)

Others
第二院クラブ http://www.niinkurabu.gr.jp/




  1. 2013/10/30(水) 19:10:04|
  2. 未分類

しょむ研さんから投稿

古本屋通信  No 488  10月29日

  しょむ研さんから投稿


 たったいま田舎から帰ってきた。一昨日貼ったばかりの「緑の党」総会の記事にさっそくコメントが付いていた。しょむ研さんといわれる。初めての方だ。ようこそ。ありがとうございます。


初めまして。ミニ政党観察家のしょむ研と申します。

 今回、旧「共産主義労働者党プロレタリア革命派」の指導者だった
白川真澄氏が、全国協議会委員から外れてますね。高齢による引退
でしょうかね?

 とはいえ、宮部彰氏や漢人明子氏、横田悦子氏など、旧共労党及び
プロレタリア青年同盟の影響力はまだまだ非常に強そうですが。

2013/10/29(火) 03:55:43 | URL | しょむ研

連投失礼致します。
 しかし規約に「国会議員は代表委員になれない」とありますが、ならば
何故代表委員の須黒氏や長谷川氏を参院選に出馬させたんでしょうねぇ。
何か自己矛盾っぽい気がしますし、「政党の最高責任者が議員でないのは
おかしい」と言われて参院議員になった宮本顕治共産党議長と同じ批判を
受けそうな気が。
2013/10/29(火) 04:03:56 | URL | しょむ研  


 以下、古本屋通信

 ところで私、ブログに「緑の党」の総会報告を貼っただけで、直後から出掛けていたもんで、まだ読んでいないんです。これがひとつ。もうひとつは(たぶんこれからすぐに読むと思うけれど)、この党については今回の総会報告だけでは、私はコメントしたくないんです。慎重を期したいということです。だから、しょむ研さんの投稿についても、ちょっと意見が言いにくい。人事は政治方針と組織方針のあとに来るものですね。運動の総括と政治方針が先ですよね。

 とは言うものの、一寸だけ書きます。私も白川さんの名前があるかどうかは一番に見ました。なかったです。でも、驚きはしませんでした。宮部さんの名前はありました。岡山の横田さんはありましたが、光吉準さんはありませんでした。私は共労党・プロ青の延長としての緑の党しか関心がありませんから、彼らに残ってもらわねば困るんです。

 それと後半ですが、須黒氏や長谷川氏は今回代表委員を降りているでしょう(ありゃ、降りてなかった)。ちょっと宮本さんのケースとは逆ではないですか。色々議論があったんでしょう。私はこの党が議会主義に傾斜しすぎだと思っていましたから、今回の「国会議員は代表委員になれない」はびっくりですが、歓迎です。いっそ日本共産党もそうしたらいい。「幹部会委員長、中央委員会書記(局)長は国会に議席を有する者以外から選出する」。国会中心主義で世の中が変わる訳がない。党が非合法化されたらひとたまりもない。

 いま、ふと思ったのです。この党、二重構造になっているのでは? 蒼生時代に「赤と緑の結合」を言っていたけど、赤の部分が何処にも見当たらない。そうだ、この部分は非公然に存在するんだ。なにも非公然で悪いことはない。これも憲法に保障された政治結社の自由だ。当然ながら、この部分の政治方針は公表しない。然しこれは仮説であり、確信がある訳ではありません。
  1. 2013/10/29(火) 17:15:55|
  2. 未分類

第2回緑の党定期総会

古本屋通信  No 487  10月27日

  第 2 回 緑の党定期総会


 第2回緑の党定期総会については、[通信 No 448 10月2日 緑の党]で、「取りあえずHPから報告のみします。いまのところ、これが報告の全てです」としたままになっていた。その後HPを注意していなかったので、たぶん見過ごしていたのだろう。きょう見ると各議案について詳しい報告が記されていた。遅れ馳せながら全文を貼っておく。私の不注意から遅くなったことをお詫びしたい。


■ 総会議案
第1号
政治・組織活動の総括
1.2013参議院議員選挙の総括/2.組織活動の総括
→議決された議案書

第2号
決算報告

第3号
共同代表の選出
→選出結果は下記参照

第4号
全国協議会委員の選出
→選出結果は下記参照

第5号
監査の選出
→選出結果は下記参照

第6号
政治・組織活動の方針
→議決された議案書

第7号
予算案

第8号
規約改正「第33条 規約の改廃」
→規約参照

第9号
規約改正「付則第1条」(暫定規約としての位置づけ)
→規約参照

第10号
規約改正「第19条 (全国協議会委員の)選出」
→規約参照

追加
決議
→決議文

共同代表                ★運営委員 
長谷川羽衣子★/京都府   .
髙坂 勝★/東京都
すぐろ奈緒★/東京都
中山 均★/新潟県

全国協議会委員 
          ★運営委員  ◎運営委員長  〇副委員長 
島崎 直美/北海道
久保 あつこ/北海道
高橋 良/宮城県
蛇石 郁子★/福島県
笠原 一浩★/福井県
八木 聡◎/長野県
片山 いく子/埼玉県
長谷川 平和★/千葉県
石川 奈央/東京都
田口 まゆ/東京都
川野 孝章/東京都
重松 朋宏/東京都
杉原 浩司★/東京都
漢人 明子〇/東京都
中村 まさ子/東京都
郡山 昌也★/東京都
宮部 彰★/東京都
大野 拓夫/神奈川県
窪田 誠/山梨県
松谷 清★/静岡県
尾形 慶子/愛知県(ブラジル)
松尾 京子★/大阪府
野々上 愛〇/大阪府
四津谷 薫/兵庫県
丸尾 牧/兵庫県
松本 なみほ★/兵庫県
井奥 雅樹★/兵庫県
横田 えつこ〇/岡山県   .
渡辺 さと子/香川県
足立 力也★/福岡県
歌野 礼/長崎県
のぐち 英一郎/鹿児島県  .

監査 
猪股 和雄/埼玉県
猪股 美恵/神奈川県


第1号議案 政治・組織活動の総括
2012 年7 月の結成総会以来、1年間の準備を経て取り
組んだ参議院選挙では、議席獲得の目標を達成できず、
敗北しました。一方で選挙戦での全国的な活動および選
挙後のマスコミ報道などを通じて、緑の党の存在を全国
にアピールすることができました。今回の参院選の結果
を受けて、反省すべきところは厳しく反省し、得られた
成果を拡大していくことによって、3年後の参議院選挙
の勝利につなげていきます。
以下に、これからの緑の党発展のために反省点と成果
をまとめてふりかえります。
なお、参議院選挙に至る過程で大きな節目となった衆
議院選挙、東京都知事選挙については別項にて述べます。
1.目標の最低1議席、得票率2%を達成できず
私たちは参議院選挙に挑戦し、比例区での1議席獲得
とともに得票率2%を達成し、政党要件の獲得をめざし
ました。9人の比例区候補者、1人の兵庫選挙区候補者
を擁立して取り組みましたが、全体で45 万票
(0.86%)と議席獲得はかないませんでした。政党票8
割(96 万票)、個人票2割(24 万票)という目標でし
たが、政党票は24 万票、個人票が三宅17 万票+他個人
票4万票と、三宅票を除けば、いずれも大きく届かずと
いう結果となりました。
2.3つの背景
2-① 政治的背景/自民党の圧勝と共産党の伸び、山
本太郎氏の当選
参議院選挙の全体的な結果としては自民党の圧勝でし
た。政権交代に期待した多くの市民は失望し、先の衆議
院選挙と同じく棄権に回り(約670 万票)、低投票率
(52.61%)により、自民党、公明党、共産党が組織票
によって躍進する結果となりました。共産党は東京都議
選でも躍進し自民党の批判票の受け皿となり、民主党は
二大政党の一翼から転げ落ちるほどの凋落、維新の会、
みんなの党も伸び悩みました。
こうした中、争点が経済・雇用政策となり、脱原発政
策は争点からはずされました。有権者はアベノミクスに
不安を抱きながらも経済の先行き不安の中、自民党を消
極的に選択しました。私たちは「脱原発による雇用創
出」「ドイツでの雇用拡大の実績」を訴えましたが、浸
透しませんでした。
一方で都市部を中心に、共産党が「アベノミクス」に
対抗する勢力として、また「脱原発票」の受け皿として
票を集めました。さらに東京選挙区では市民に支えられ
た脱原発と脱被ばく・反TPPを掲げた山本太郎氏が当
選しました。しかし、これらの有権者の支持は私たちが
獲得をめざした対象であり、獲得できなかった分析が必
要です。
2-② 主体的背景/私たちの力量不足 基礎的組織力
が小さく、ひろがりをつくりきれなかった
会員数(会員・サポーターで1500 人弱)・地方議員
数(60 人弱)は選挙を行うには十分な体制ではありませ
んでした。党内外の自治体議員へのアプローチも不足し
ていました。数だけではなく、会員外のボランティアを
含め、選挙により深く関わってもらう努力と巻き込む力
が必要でした。浮動票獲得をめざしたいわゆる「空中
戦」に頼りすぎたのではないかという反省も残ります。
また、選挙実務作業は東京事務局に集中するため、各地
域からの支援体制なども課題です。
3月には都道府県単位の「地域窓口」を設置しました。
名簿の提供も含めて地域の中での交流促進をめざしまし
た。一部は成功しましたが、役割の不明確さ、特に地域
組織との役割分担が課題となりました。
事務作業の分担が不十分な中、特定の人に仕事が集中
し、複数のかなり異なった役割を担うことになりました。
特に他の政治勢力や市民団体・組織などとの渉外関係に
課題を残しました。
「脱原発勢力」の受け皿づくりとしての「統一名簿方
式」の追求が長引いたことは、選挙ハガキの作成の遅れ
など選挙準備に悪影響をもたらしました。
また、各選対の動きを全国的に調整し、戦略的に動か
すことができませんでした。選対同士や選対と会員との
情報共有も十分ではありませんでした。特に比例区非拘
束名簿という選挙制度の特性に沿った活動ができたか反
省点が残ります。街頭での不特定多数への訴えだけでな
く、確実な個人票の積み上げ戦略が必要であったとの指
摘もあります。
2-③ 選挙事情的背景/「みどり」名称の混乱とマス
コミの「諸派」報道
政党要件のある「みどりの風」は、参院選の特集記事
やテレビニュースなどの報道で政策などが紹介され、政
党票は32 万票を超えました。みどりの風(略称登録
【1】2013 年7 月参議院議員選挙総括
2
「みどり」)との名称による混乱は最後まで払拭できず、
有権者に「緑の党」を充分に浸透させることができませ
んでした。一方、マスコミは、供託金という厚い壁を突
破したにもかかわらず、緑の党を「諸派」として扱い、
比例区報道では徹底して無視しました。2004 年の「みど
りの会議」の立候補の際にはあった「マニフェスト紹
介」の報道すらありませんでした。この二つの背景によ
り、有権者の選択肢として「緑の党」がメディアにおい
て見えない存在となりました。その結果、「緑の党」的
な政党を求める有権者の投票が分散してしまい、24 万票
(政党票)の得票に留まりました。
今後は選挙中に行った公正な報道を求める問題提起の
継続やオルタナティブメディアの活用が課題になります。
3.選挙戦術上の課題
3-① 「予備選挙」実施と候補者擁立
「自分たちの1票で候補者を選ぶ」という会員の権利
と、会員自身の立候補する権利を確保するため、また対
外的にアピールするために予備選挙を2回行いました。
第1次予備選の投票率は43.7%、第2次予備選は
52.8%でした。第2次予備選では7人が立候補し、候補
者選定委員会が選挙プロモーションを行ったため、投票
率は上がりましたが、いずれも投票率は低調で課題が残
りました。一方で党内民主主義の確立や全国紙に取り上
げられるなど一定の効果はありました。
予備選挙と直接選出という候補者の決定の二つの役割
を候補者選定委員会が担いました。この負担が過重であ
ったことも、10 人の候補者決定が6月9日臨時総会寸前
まで遅れた要因の一つでした。 9人目、11 人目の候補
者が福島原発事故による避難者、12 人目の候補者が三宅
洋平氏であるなど、「最後までのより良い候補者追求」
が功を奏した面もありましたが、選挙準備、有権者への
周知などを考えると、もっと早い時期での選出が望まし
く、課題が残ります。
3-② 「市民が立ち上げた新しい政党」「ドイツ緑の
党との連携」は評価が分かれる
「市民が立ち上げた新しい政党」というアピールは、
力の弱い「新しい政党」への期待よりも、政治的決定へ
の影響力ある投票として共産党が選択されるという結果
となりました。「脱原発を実現したドイツ緑の党との連
携」は、緑の党が日本で十分に知られていないこともあ
りましたが、その国際性は一定の評価を受けました。し
かし「脱原発なら緑の党」というアピールは、国内での
力不足のために信用される受け皿となりませんでした。
一方で「『脱経済成長至上主義』や『スロー・スモー
ル・シンプル』など新しい価値観を全面的に打ち出すべ
きであった」という指摘もあります。
知名度の低さを打開するために、選挙公報を最大限に
利用する方針のもと、比例区9人を擁立し、選挙公報の
半面分のスペースを確保しましたが、期待通りの反応は
得られませんでした。その効果の検証は難しく、「選挙
区で多数擁立した方が効果的」という意見もあり、選挙
区での擁立効果と選挙公報スペース増の効果との兼ね合
いは今後の課題です。
4.選挙における成果
4-① 供託金を集め「緑の党」としてデビューした
多くの寄付者の協力により9000 万円(供託金負担分
を含む)を超える選挙資金を集め、「緑の党」として国
政選挙に挑戦できたことは大きな第一歩です。国会議員
(元職も含めた)なしの試みとしては稀なことであり、
国政政党とも対等に戦えたことは緑の党への広範な期待
と選挙の担い手が存在したことを明らかにしました。
選挙後も「緑の党の今後に期待する」として参加を求
める人々があり、厳しい結果ながら、今回の参議院選挙
への挑戦を通じて「緑の党」として社会的にデビューし
た意義は大きいと言えます。
4-② 三宅洋平氏の「選挙フェス」がブレイク
緑の党推薦候補として比例区選挙の一翼を担った三宅
洋平氏は、「選挙フェス」とネットの融合で一大ブーム
を巻き起こしました。17 万票の個人票獲得は、他の政党
では当選ラインであり、選挙後もNHKをはじめ、テレ
ビや新聞などマスコミに注目され報道が続いています。
三宅氏は政治団体「日本アーティスト有意識者会議:N
AU」の代表であり、2000 万円をネットで集め、自らの
供託金600 万円を拠出して緑の党の候補者として全国的
な選挙を展開しました。三宅氏のこれまでの生き方と主
張が緑の党の政策に合致していたからこそ「選挙フェ
ス」の大ブレイクにつながったと言えます。
三宅氏のような新しい感覚を受け入れる土壌があるこ
とも緑の党の強みです。
4-③ 多彩な候補者を擁立することができ、基盤が広
がった
三宅氏以外にも、福島原発事故による避難者、アイヌ
民族、自死遺族など当事者性をもった多彩な候補者を擁
立することができました。
選挙によりネットワークや担い手が大きく広がった地
域もあります。例えば、地域政党である東京や千葉の生
活者ネットワークが政策協定を結んで候補者推薦を表明
するなど具体的な動きにもつながりました。
また、政策立案を透明化し選挙公約「いのちをつむぐ
緑のプロジェクト」とした成果、選挙マニュアルの整備
など基本的な資料も準備することができました。政見放
3
送も評価が高く、ネット解禁にあわせて実際の放送以外
にも活用することができました。
選挙も一つの大きな運動であり、一緒に運動をして汗を
流した仲間こそ信頼できて議論もより深くなります。貴重
な全国選挙の経験を今後に活かすことが求められます。
5.三宅洋平氏との統一行動は成功 脱原発連合
型選挙に課題は残す
緑の党としては、統一名簿方式の選挙も視野に最後ま
で調整に努力しましたが、諸状況により広い枠組みでの
統一はかないませんでした。
しかし、交渉の過程で「熟議を大事にする組織」や
「国際性」が評価されて、政治団体「日本アーティスト
有意識者会議:NAU」の三宅洋平氏との統一行動(比
例名簿に搭載)に結びつきました。
一方で、国政政党「みどりの風」との連合をすべきだ
った/山本太郎氏との連合をすべきだった/衆議院選挙
後の早い時期での交渉をすべきだった、という指摘があ
ります。しかし、議員中心で組織風土の違いがあり、吸
収合併路線を譲らなかった「みどりの風」との連合は困
難でした。山本太郎氏との連合も「緑の党」の名称を含
む統一名簿方式での合意ができませんでした。
最終的な結論は臨時総会を開催して決定しましたが、会
員への交渉過程の情報公開のあり方など課題は残りました。
6.反省すべきところは反省し、今からが「緑の
党」の勝負
さまざまな障害を乗り越えて45 万票を獲得し三宅洋
平氏による「選挙フェス」ブームを巻き起こした緑の党
は、2013 年参議院選挙を通じて次の飛躍に向けた基盤を
構築できたと考えます。
選挙における3つの成果を拡大し、地域基盤のぜい弱
さをはじめとする主体的力量や選挙戦術上の問題点を改
善し、2015 年の統一自治体選挙や3年後6年後の参議院
選挙にも「緑の党」として挑戦し続けることが必要です。
その手法として、今回の事実上の単独挑戦以外にも、
結成総会での議決で示した「統一名簿方式」などさまざ
まな可能性も追求していくことが求められます。
○補論:2012 年12 月衆議院議員選挙・東京都知事選挙に関する総括
参議院選挙に至る経緯で、大きな節目となった衆議院
選挙、東京都知事選挙についてその意義などを述べます。
(1)「脱原発連合」による衆議院東京比例区ブロック
への挑戦及び単独挑戦の断念
緑の党は結成以来、2013 年7 月参議院選挙への挑戦と
時期未定の衆議院選挙への準備を行ってきました。
衆議院選挙については知識人や幅広い市民団体と連携
し、「脱原発連合」型選挙の東京比例ブロックでの実現
をめざしました。
著名人を中心にした立候補の要請や団体間での話し合
いを行っていましたが、十分な準備が整わない段階で解
散総選挙を迎えることとなり、断念を余儀なくされまし
た。すでに都知事選挙が先行し、応援体制に参加してい
たことも一因です。「緑の党」による小選挙区での単独
挑戦も一部に議論されましたが、当選可能性がない中で
「本命」たる 2013 年7月参議院選挙への悪影響を考え
て断念しました。
一方で、候補者としての交渉相手のひとりであった山
本太郎氏が、無所属ながら杉並区からの立候補を決意。
緑の党が高円寺の党事務所を選対事務所として提供する
など全面的に支援しました。この選挙で「太郎フェス」
と銘打った音楽と演説を融合した街頭演説スタイルが生
まれ、参院選の「選挙フェス」につながりました。そし
て、その中心を担った三宅洋平氏が緑の党から参院選に
立候補を決意する基盤となりました。 山本氏は7万票
を超える得票で民主党、共産党など既成政党をおしのけ
て次点となりました。
また、東京比例ブロックでは断念した「幅広い脱原発
勢力のブロック」は、東京都知事選挙で、共産党から未
来の党および市民団体までの幅広い枠組みとして実現し
ました。当選にはいたらなかったものの、100 万票近い
得票を得ました。
(2)衆議院選挙の全体情勢 「未来の党」の失敗、民
主党の大敗 自民党復調
解散後、公示直前に嘉田滋賀県知事や飯田哲也氏の主
導で「未来の党」が結成され、「脱原発連合」的政党と
して期待を集めましたが、失速して大敗しました。もと
もとの地域基盤のなさ、小沢系とそれ以外の確執などが
比例順位で明らかになるなどで国民に失望感が広がりま
した。
緑の党は未来の党候補などへの幅広い推薦に取り組みま
しだが阿部知子氏以外は当選せず、大敗による徒労感が広
がり、「あいまいな連合」への嫌悪感が先行しました。
衆議院選挙全体では、未来の党以外にも民主党が大敗
4
し、維新の会やみんなの党も想定されたよりは伸び悩む
中、自民党が全体の票は伸びなかったものの本来の地盤
を活かして復調しました。この自民党復調の流れはさら
に加速して参議院選挙につながりました。
参議院選挙対策本部メンバーの大半は運営委員である
ことなど、この1年間の組織活動は、2013 年参議院選挙
にむけた準備活動と一体でした。参議院選挙に初挑戦し
たことで緑の党の存在をアピールでき、また三宅洋平
氏・山本太郎氏をはじめ、全国各地で新たな「つなが
り」や「成果」を生み出すことができました。一方で、
知名度の低さ、組織基盤のぜい弱さなど課題が浮き彫り
になりました。厳しい状況での再スタートとなりますが、
参議院選挙の経験・成果を活かし、また組織の総点検を
行い、戦略的、着実に動き出すことが求められています。
1.組織運営
全国協議会は、候補者決定などの準備のため、当初想
定していたより頻繁に開催されましたが、議案を十分に
検討する時間や、政局・政策についての議論が不足して
いた面は否めません。また全国協議会の人数、役割、運
営委員会との関係など、今後あり方を見直す必要性が明
確になりました。
1-① 全国協議会
候補者決定および選挙方針に係る重要な決定のため必
要に応じて開催(全26 回予定)しました。スカイプの
活用で全国メンバーによる柔軟な会議対応が可能となり
ましたが通信状態の安定確保が課題です。
総会に準ずる議決機関としての正式な会議録作成が必
要でしたが、候補者選定、対外政治交渉に関する議題の
公開性の制限などもあり、作成に時間を要したため、会
議録を待たずに概要報告を「会員内部連絡メール」で配
信しました。より詳細、迅速な報告を求める意見もあり
課題です。
1-② 運営委員会
月2回を基本とし、2013 年4月以降は選対本部会議に
一本化し、必要に応じて開催しました(全30 回以上)。
スカイプの活用で全国メンバーによる会議を行いました
が通信状態の安定確保が課題です。
組織、政策、広報、国際などの担当を置きました。各
担当責任による迅速な対応が求められます。
開催のお知らせと概要報告を「会員内部連絡メール」
で配信しました。
1-③ 事務局
有給スタッフを常勤3名+パート1名から最大常勤4
名+パート2名程度に増員し、無給スタッフ、ボランテ
ィアを拡充しました。選挙中のボランティアの組織化が
十分ではありませんでした。
2.財政
2012 年7月の結成総会での財政方針(予算)を踏まえ、
2013 年1月の全国協議会での修正を経て、以下の総括と
します。
2-① 収入の部
●全国協議会で予算を修正
2012 年末のカンパ目標は、3000 万円でしたが、達成
されたのは2167 万円。2012 年末は会員800 名とサポー
ター300 名で、会員2000 名への拡大は実現が厳しい状況
でした。したがって収入が厳しいと判断し、1月の全国
協議会で収入を9600 万円から8120 万円に1480 万円下
方修正した予算を確認、また借金を800 万円ほど想定し
ました。
●結果
1億円カンパは総計で6500 万円を想定し、結果は
6690 万円、内、非会員からのカンパは906 万円でした。
当選債券は1500 万円を想定し、最終的に1530 万(30 万
円債券)+400 万(5 万円債券)=1930 万円でした。議
席獲得を実現できなかったので寄付として処理しました。
追加で新聞債権を600 万円発行、得票率1%を超えなか
ったため寄付として処理しました。
借入金は1030 万円となりました。
会費収入は7月末時点で、会員674 名、サポーター
503 名で808 万円でした。予算1020 万円を下回り、納入
率は73.4%でした。年末までに未納の会員284 名、サポ
ーター116 名が収めると318 万円の会費収入となります。
2-② 支出の部
供託金は5700 万円(比例区9人としたため供託金の
総額は結成時より600 万円増加)でした。選挙運動費用
【2】組織活動の総括
5
は1015 万円の予算で、結果は2354 万円。内、新聞広告
が980 万円です。
通常の政治・組織活動費は予算1405 万円に対して、
結果は2460 万円でした。
(全国キャラバン、NL8、10 号を予算に合わせて選挙
費用に含んで算出)
3.会員・組織
3-① 会員と「2013 参院選、緑の党を国会へ」賛同者
の拡大
2012 年7月の結成時は会員641 人、サポーター167 人
でしたが、2013 年7月末で会員958 名、サポーター598
名、計1556 名となりました。年末までに2000 名の目標
には、あと444 名、月あたり89 名です。
賛同者は結成時点の1000 名から7月末で約2400 名と
なりましたが、目標の3000 名には届きませんでした。
会員証(またはバッジ)などの発行は実現できません
でした。
3-② 地域組織
選挙を前にした各地での活発な活動を反映して23 の
地域組織が登録されました。地域組織の連絡協議会を開
催し、メーリングリストを作成しましたが十分に活用さ
れませんでした。
地域組織は大きさや活動内容もさまざまであり、緑の党
会員のみの場合と会員外も含む場合があります。その多様
性が「緑の党」らしいともいえますが、今後、緑の党全国
組織との関係をどのようにしていくのかが課題です。
3-③ 会員メーリングリスト(ML)
熟議MLを廃止し会員MLを一本化しましたが、流量の
多さ、投稿者の偏りなど多くの課題があります。ブロック
ごとのML立ち上げには至らず、ML以外のコミュニケー
ション・ツールの導入を検討しましたが困難でした。
4.政策・政治アピール
原発問題や「領土」問題などをはじめ、さまざまな政
治的課題で緑の視点からの声明や見解を公表しました。
昨年結成後の8 月から本年7 月までに40 本(月平均約
3.3 本)ですが、頻度はバラツキがあり、より迅速な対
応、書き手の補強・育成などが課題です。
また、声明や見解の背景となる包括的な政策議論や政
治議論などを組織として十分に共有・深化させるには至
りませんでした。政策担当者ばかりでなく、組織的な議
論の深化を意識的に進めていく必要性があると考えます。
5.広報・宣伝
5-① ニュースレター「緑でいこう」
会員拡大版(フルカラー)1、3、6、8、10 号(8、
10 号は選挙前全戸配布用)、会員版(モノクロ)2、4、
5、7、9号をほぼ交互に毎月発行しました。拡大版は
発行部数は3万~5万部、1部20 円での買い取りを基
本に、脱原発関係を主に各地のイベント・行動等で積極
的に配布し、効果的に緑の党の宣伝を行いました。
5-② 刊行物・宣伝グッズ
ガイドブック「緑の党キックオフ」、リーフレット、
のぼり、マグネットシート、缶バッチ、手ぬぐい、シー
ルを作成・販売し、好評を得ました。
5-③ インターネット活用
ホームページを2012 年8月リニューアル、4月に
「参院選候補者一覧」の追加など一部修正しました。
連携組織として会員の自主的な発議により「ICTチ
ーム」が発足し、IT関係のさまざまなアドバイス、立
案や実施を担いました。参院選候補者HPについてはI
CTチームの協力の上、ランディングページの共通サー
バーやセキュリティの導入を行いました。共通メルマガ
申し込みフォームや一部の候補者HPの作成も依頼しま
した。
フェイスブックを充実し、ツイッター専用アドレスを
取得しました。映像発信にも力を入れてユーストリーム、
ユーチューブを活用してイベントのリアルタイム発信や、
参院選期間中も中継などを行いました。
一部の候補者をのぞき、参院選期間中に個人も自由に
発信できるネット解禁に対応した十分な活用ができたと
いい難く、専門スタッフの充実・ボランティアの育成な
ど課題が残りました。
5-④ 広報
マスコミ報道に関しては、年間40 本以上のプレスリ
リースを行いました。その成果もあり、昨年7 月の緑の
党結成総会を国内外の多数のメディアが報道。また、今
年7 月の参院選は、「諸派扱い」のため期間中はマスコ
ミに無視されるも、選挙後に「選挙フェス」で17 万票
を獲得した三宅洋平氏を中心に、NHK や朝日新聞などの
主要メディアによる、社説や一面での報道を獲得しまし
た。全国キャラバンは、訪れた各地の地方紙が予想以上
に取り上げてくれました。
6.自治体議員と選挙
6-① 自治体議員活動と組織化
緑の党には自治体議員71 名(サポーター16 名を含
6
む)が所属していますが、組織活動における自治体議員
の役割・位置づけ、党内での議員会員の組織化は十分で
はありませんでした。議員会員の拡大とともにその活動
の組織化・充実が課題となります。
6-② 自治体議員(首長)選挙
この1年間は衆議院選挙、参議院選挙があり、国政選
挙中心であったことから、各自治体議員選挙の応援態勢
が充分ではありませんでした。
参議院選挙の結果からも、自治体議員を増やしていく
地道な努力が今後の緑の党の発展には欠かせません。
2015 年統一自治体選挙に向けて、候補者の擁立、選挙ス
クールなど早いうちから準備することが求められます。
6-③ 東京都議選
都議会議員選挙(6/23 投開票)に中野選挙区で緑の
党公認候補を擁立しました。政党選択的色彩の強い都議
選への初挑戦は、7 月の参議院選挙の試金石となるもの
でした。結果は3,224 票(得票率2.9%)で落選。参議
院選挙に向けての課題と可能性が明らかになりました。
7.キャンペーン・イベント
7-① 脱原発運動
脱原発に関するさまざまな声明・見解の発信を行い、
「原発ゼロはいますぐ可能だ」チラシとウェブ版「緑の
党エネルギーシフトプラン」を作成しました。
官邸前抗議をはじめ、大きな集会・デモにおいてチラ
シ配布やのぼりなどを掲げて「緑の党」として参加しま
したが、脱原発運動において、緑の党としての独自の取
り組みがほとんど出来ておらず、存在感はまだまだ希薄
です。再稼働反対運動や「福島原発震災情報連絡センタ
ー」などの取り組みにおいても、脱原発担当や共同代表
などがアクションや共同行動のコーディネート、現場で
の非暴力直接行動などの面で重要な役割を担いましたが、
それらが「緑の党」の認知にストレートには結びついて
いません。他団体とは共同行動における一定の連携は出
来ましたが、政策的連携や選挙における協力は不十分で、
都議選、参院選で応援に入ってくれた団体、個人はごく
一部に留まりました。
当初「原発即時ゼロ」を掲げていたのは緑の党だけで
したが、世論の高まりを受けて、社民党、共産党が「即
時ゼロ」へ転換しました。今後、政策的な独自性をどの
ように発信できるか、脱被ばく、住民・国民投票問題に
ついての打ち出し方、脱原発基本法についての態度など
が課題となります。
7-② 原発ゼロ全国キャラバン
5月7日~26 日、北ルートと南ルートで実施しました。
主に地域組織が主体となり、市民団体の協力を仰ぎ、原
発施設、電力会社、都道府県庁や自治体への申し入れや
街頭宣伝を行いました。予算は150 万円。以下のような
成果があり、成功といえます。
1)地域組織が主体的に動き、ユニークなイベントを
立案・実施し(著名人講演、福島被災地訪問、ゼ
ロノミクマとの申し入れなど)、地域組織間の交
流も行えたこと
2)選挙直前にもかかわらず、申し入れについて「緑
の党」の活動として地元各紙・TV局でとりあげ
られたこと
3)キャラバン報告のフェイスブックページが好評で
あり、最大1万7000 人以上もの閲覧者があった
(福島下水汚泥の保管報告の記事)こと
7-③ イベント
・2012.11.25『脱フカイ!! ユカイなモテセンキョ』at
日本教育会館
トークゲストに田中優氏/藤波心氏/山田玲司氏、
ライブゲストにはシアターブルックの佐藤タイジ氏が
出演し、盛り上がりました。党のビジョンを絵画と朗
読で表現し、好評でした。
・2013.4.6『市民発“緑の党”が国会にチャレンジ』at
YMCA アジア青少年センター
参議院選候補者5人と「緑のプロジェクト」を発表。
その他、会員の大橋一郎氏が結成宣言を曲にして演奏
したり、安倍首相を皮肉った寸劇などで、盛り上がり
ました。イベント後のパーティーではオーガニックな
料理と酒で交流に花が咲きました。
・2013.5.26『参院選キックオフ! 希望は緑 緑の党を
国会へ!』at 杉並産業商工会館
「北から南から原発ゼロ全国キャラバン」の成果発
表、参院選候補者10 人の紹介、ドイツから来日した
ベアベル・ヘーン氏の講演など、参院選本番に向けて
参加者の士気が高まるイベントになりました。
8.国際
参院選での議席獲得に向けて、ドイツ緑の党をはじめ
とする世界の緑の党との連携を活かして活動しました。
具体的には、2012 年11 月のドイツ緑の党大会に3 名が
招待され、連携を強化しました。参院選前の4月には、
ドイツ・ベル財団の評議委員長シュレーヤー氏が来日し
て京都と伊勢で国際シンポジウムを開催。6月にはドイ
ツ参議院議長で緑の党の初の州首相でもあるクレッチュ
マン氏や連邦議会会派副代表のヘーン議員が来日し、そ
の連携をアピールしました。


第6号議案 政治・組織活動の方針
■基本方針
2013 年参議院選挙では、議席を獲得することができず
厳しい結果でした。知名度の低さ、社会への貢献不足、
組織基盤のぜい弱さなど課題が浮き彫りになり、一から
出直す気持ちでの再スタートが必要です。一方で、単独
挑戦したことにより、三宅洋平氏の新しい選挙スタイル
での広がりや多様な候補者の支援者など今後につながる
新たなつながりや可能性を生み出し、緑の党の存在をア
ピールできました。この経験を活かし、次回勝利を得る
ためには、会員・サポーター・支援者の拡大を戦略的・
計画的に図るだけでなく、応援する全ての人の協力が不
可欠であることがより明確になりました。政策のブラッ
シュアップ、組織の見直し、調査能力の向上、インター
ネットなどを活用した発信力の強化、参加型の仕組みづ
くりなど、より魅力的で影響力のある緑の党の進化に全
力を挙げます。
以下4点の基本方針を定め、目標に向かって各種の施
策を実行します。
1.2016 年の参議院選挙挑戦に向けて、全力で取り組む。
2.自治体議員選挙については、緑の党の基盤を拡大す
るために積極的に取り組む。
3.2015 年夏の臨時総会において、全国比例区・選挙区、
単独挑戦・連合選挙などを含め選挙方針を最終決定する。
4.次期衆議院選挙については、連合を含め、さまざま
な可能性を模索する。
1.組織運営
1-① 組織の見直し
組織基盤を強化するために、現在の暫定規約を本規約
に改定します。2014 年2月の定期総会で提案し、同時に
新規約に基づく組織体制をスタートさせるために(仮
称)規約検討委員会を設置し、準備を進めます。
(1)全国と地域の関係を再検討
現在の暫定規約では支部の位置づけがありません。組
織拡大を図るには、地域組織のあり方、自治体議員の位
置づけ、会費、意思決定の方法を再検討する必要があり
ます。地域単位のブロック制の導入も検討します。
(2)各機関の見直し
共同代表、全国協議会、運営委員会のあり方(人数、
任期、選出の方法、権限)を見直し、機能的な組織体制
を再構築します。
(3)各種規則(ルール)づくり
会議の非公開を含めた情報公開のルール、議事録のあ
り方、会員の意見集約の方法など再検討を行います。
1-② 事務局体制の再構築
負債を抱えての再スタートとなるため、少ないスタッ
フで組織を運営せざるを得ません。今まで以上に、役員、
会員の協力が必要です。
インターンや専門技術を持つボランティア(プロボ
ノ)のネットによる募集も検討します。
2.財政
2-① 2013 年8~12 月・収入の部
未納会費と新規会員・サポーターの参加により会費収
入を440 万円、期末カンパを300 万円、新聞広告債券
500 万円の借り入れなどにより、1550 万円の収入を見込
みます。
2-② 2013 年8~12 月・支出の部
選挙態勢からの再スタートへの移行期間であるため、
事務所費、人件費などで調整的な支出が発生しますが、
経常的な経費が中心です。事業的には拡大版ニュースレ
ター1回の発行費を計上しました。
2-③ 活動別寄付の検討
寄付する際、その使途に関心の高いプロジェクトを選
択できる制度の導入を検討します。
2-④ 城南信用金庫などでの口座開設
脱原発に積極的な金融機関に口座を開き応援します。
3.会員・組織
3-① 会員・サポーター、支援者、地域組織の拡大
2013 年12 月までに新たな会員・サポーター各100 人
の入会を目標とします。
3-② 会員ML
昨年の結成総会の決議に従い、全国規模の会員MLは
廃止します。引き続き会員間の情報交換をどのように行
うか、受け皿の検討を進めます。
3-③ 会員名簿の作成
地域基盤の強化のために、会員の顔ぶれがわかり、地
2
域のつながりのキッカケづくりに資する簡易な名簿を、
自己申告に基づいて作成し会員に配布します。
4.政策・政治アピール
4-① (仮称)調査部の設立
政策立案能力・調査能力を高め、生み出された成果を
発信することにより、有権者から信頼される、社会によ
り役に立つ組織となることが重要です。(仮称)調査部
の設立に向け、あり方を検討します。
4-② 声明・見解等の発表
包括的な政策議論や政治議論などの組織としての共
有・深化を図ることで、書き手を補強・育成し、タイム
リーで迅速な対応をめざします。
5.渉外
5-① 目的を共有する個人・団体との関係
市民団体や他党、個人との協力・連携不足が2013 参
議院選挙で明らかになりました。3年後にむけて志を同
じくする個人・団体とのより深い信頼・協力関係を構築
します。担当を決めて、責任をもって進めます。
①目的を共有する現職国会議員
②三宅洋平氏との選挙フェスや統一自治体選挙などの連

③めざすべき社会像が同じ議員経験者など。特に次期緑
の党の候補者になってもらえそうな人
④市民運動との連携 など
6.広報・宣伝
6-① ニュースレター「緑でいこう」
年6回発行、内4回を拡大版として発行することとし、
年内には拡大版を1回発行します。
6-② メールマガジン
現在の内容は組織内部に関する事項が多いですが、例
えば脱原発に関心ある人が興味を持つような、社会的に
役立つ情報発信が必要です。自治体議員向け、分野別な
どに分けた発行や動画メルマガの発行を検討します。
目標メルマガ登録 3000 人(2014.2 月までに)
6-③ IT関係の研究・実践
2013 参議院選挙は、ネットが解禁された初めての国政
選挙でしたが、影響はかなり限定的との評価が一般的で
す。その一方で三宅洋平氏は、ネットの影響を最大限活
かした新しい選挙スタイルを構築しました。絶え間ない
技術革新の研究を常に怠らず、安価で効果をあげる姿勢
が問われます。
3年後に挑戦するときにも、緑の党は「諸派」扱いさ
れることを想定し、マスコミに全面依存しない、支援者
と党を結ぶ媒体としてのネットの活用は有効です。具体
的には、フェイスブック公式ページ、ツイッター、メル
マガの購読者(フォロワー)を増やすことです。ネット
での情報配信や現実社会で個々人との関係を増やし、ネ
ットでその関係を維持、蓄積していくことが戦力の柱の
一つです。
(1)ICTチームとの連携、協力
(2)(仮)めざせフォロワー110 万人「ツイッターマ
ラソン」
「250 万枚ヒマワリアクション」のように、HP上で
会員・サポーター・支援者の中から参加者を募り、登録
者全員の合計で3 年間かけて110 万人のフォロワー獲得
をめざします。
7.2015 年統一自治体選挙
選挙を通じて、組織基盤のぜい弱さを再認識しました。
これから3年間で特に地方の基盤強化、知名度の向上が
求められます。その一番の柱は、2015 年の統一自治体選
挙、それ以外にも行われる自治体議員・首長選挙です。
特に県庁所在地や政令指定都市では、積極的に候補者を
擁立することが求められます。同じような運動との連携
を模索しながら党公認、推薦候補を当選させるよう全力
を挙げます。
7-① 選挙スクール
2014 年2月定期総会までに立候補者募集、声かけを行
い、選挙スクールの準備を始め、2014 年2・3月頃に選
挙スクールを開講します。
7-② 協力・合同の模索
緑の党で準備を進めるとともに、三宅洋平氏など、理
念を共有する個人・団体と統一自治体選挙にむけた運動
を協力・合同できないか模索します。
7-③ 現職自治体議員へのサポート
選挙で党公認候補を増やしていくだけでなく、現職議
員が緑の党に関わっているメリットを増やすことが求め
られます。研修会やメルマガ発行、ML開設などによる、
仕事(調査)に関する良質な情報の提供を模索します。
自治体議員政策情報センター「虹とみどり」との関係を
考慮する必要があります。
7-④ローカル(自治体版)マニフェストづくり
2015 年の統一自治体選挙などに備え、「緑の党ローカ
ル(自治体版)マニフェスト」をつくります。これによ
3
り緑の党の地方自治体向けの政策を明確にします。
8.各種キャンペーンの発足
知名度を上げるためには、社会的に分かりやすい切
り口で訴える必要があります。運営委員、全国協議会委
員だけでは限界があるために、会員有志による自発的行
動を期待します。党としては、担当を配置、必要に応じ
て資金提供をするなど、積極的に応援します。
8-① 供託金裁判
高額な供託金は被選挙権の制限に当たり、重要な課題
として取り組みます。同じ目的意識をもつ人との連携・
協力を模索します。
8-② ポスター大作戦
今回の選挙でポスターの有効性が再認識できました。
政党ポスターを早急に制作し今回の選挙で確保した場所
に掲示し(成果の活用)、3年間で掲示箇所を増やしま
す。デザインの公募を検討します。
8-③ 脱原発運動
当面は再稼働阻止と「原発事故子ども被災者支援法」
の実施に全力を尽くすことが重要です。中期的には、再
生可能エネルギーへの転換による雇用創出プランを作成
します。高レベル放射性廃棄物の最終管理について、グ
ローバル・グリーンズを活かした国際的な議論の枠組み
をつくります。各国の緑の党との連携を活かした、原発
輸出反対や東アジアの脱原発ビジョンづくりなどが重要
な課題となります。
9.世界の緑の党との連携
2014 年3 月には、フィリピンで「アジア太平洋緑の党
ネットワーク(APGN)」の第3回大会が開催されま
す。この会議に、三宅洋平氏をはじめ、今後の政治活動
で連携できる可能性がある関係者も一緒に参加して、ア
ジア太平洋地域での緑の党ネットワークを活かした脱原
発や反TPP運動に貢献します。大会ツアーを企画して、
会員や自治体議会をめざす候補者などの参加を実現しま
す。


規約
2012年7月28日
最終改定 2013年10月24日

第1章 総則
(名称)
第1条 この政党の名称を「緑の党グリーンズジャパン」(英語名:Greens Japan)とします(以下、「この政党」といいます)。

(目的)
第2条 私たちは、グローバルグリーンズ憲章の6つの理念―①エコロジカルな知恵、②社会的公正/正義、③参加民主主義、④非暴力・平和、⑤持続可能性、⑥多様性の尊重―に基づき、「緑の社会ビジョン」を実現します。そのために、国会に議席をもち、政党として「緑」の政治に取り組みます。

(活動および事業)
第3条 前条の目的の実現のため、次の各号に示す活動および事業を行います。
(1) 国政選挙
(2) 政治的な論説や声明の公表
(3) キャンペーンおよびイベント
(4) 国際的な「緑の党」勢力(グローバルグリーンズ)との連携
(5) NGO、研究機関または研究者などと連携した政策立案および提言
(6) 政策研究集会等の開催
(7) 自治体調査
(8) 機関紙および研究誌の発行ならびにインターネットなどを活用した情報の交換および発信
(9) その他活動に必要な事業

(組織づくりの原則)
第4条 この政党の組織づくりは、地域、ジェンダー、活動領域、世代のバランスおよび組織の硬直化防止に配慮し、すべての会員に開かれたものとすることを原則とします。この原則を共同代表、役員、国会議員候補など人事選出においては必ず反映させるよう努力し、選出過程においては、選出理由および構成バランスをわかりやすく会員に明示しなければなりません。

(事務所)
第5条 この政党の事務所は、東京都杉並区高円寺北2-3-4高円寺ビル601に置きます。

第2章 会員およびサポーターと直接民主主義
(会員の資格)
第6条 この政党の目的に賛同する人は、原則として誰でも会員となることができます。ただし、国政に議席を有する政党との二重加盟をすることはできません。

(会員の義務)
第7条
1.会員は、会費を払う義務があります。会費は年額1万円を原則とし、減免制度については別に定めます。
2.当該年度の総会の時点で前年度の会費が未納である会員は、この政党を退会したものとみなします。

(会員の権利)
第8条 会員は、次の各号の権利を有します。
(1) 意見表明権 会員は、この政党の運営に関し、自由に意見を表明することができ、総会、全国協議会および運営委員会への意見を、ニュースレターまたはホームページに表明することができます。
(2) 決定の尊重ならびに発言および行動の留保権 会員は、総会および全国協議会で決定した事項を尊重しなければなりませんが、個人の良心およびそれに基づく言動までもが拘束されるものではありません。
(3) 直接投票権 総会や全国協議会で決定された事項について、開催後2か月以内に会員の10分の1以上の署名による異議申立てがあった場合には、適当な方法で決定の再確認がなされなくてはなりません。そのうえで原則として代表は2か月以内に会員による投票を実施しなければなりません。
(4) 発議権 会員は、この政党が取り組むべき課題について、総会、全国協議会および運営委員会に対して発議することができます。

(サポーター)
第9条 この政党の目的に共感し応援しようとする人は、年額3000円を支払ってサポーター(協力会員)になることができます。サポーターにはニュースレターなどの情報が提供されます。また、議決権はありませんが各種の会議にオブザーバーとして参加することができます。

第3章 組織

(地域組織)
第10条 会員は、地域で相互に交流し、地域組織形成に向けて活動します。地域組織には会員3名以上が含まれるものとし、運営委員会での確認をへてホームページなどで公表されます。

(連携組織)
第11条 会員は、この政党と連携する次の各号のような連携組織をつくることができます。連携組織には会員3名以上が含まれるものとし、運営委員会での確認をへてホームページなどで公表されます。
(1) 選挙のための実行委員会
(2) テーマ別の組織
(3) ユース組織

第4章 議決機関

第1節 総会
(総会)
第12条 総会は、会員全員が参加資格をもつ最高決定機関であり、全国協議会が招集します。

(成立要件および議決)
第13条
1.総会は会員の委任を含む過半数で成立します。委任は議長および総会に出席する会員に委任することができます。委任する場合は書面で委任する者の氏名を明記し、委任状提出者は署名の上、総会7日前までに届け出るものとします。
2.議決に関しては、第33条(規約の改廃)に関わる事項を除き、議決参加者の過半数をもって決定とします。議決については書面をもって採決に参加することができます。
3.議案については、当日参加者の賛否および委任による賛否と書面による賛否をあわせた過半数をもって決します。

(付議事項)
第14条 次の各号に定める事項は、総会で決定しなければなりません。
(1) 本規約の制定および改廃に関する事項
(2) 活動の報告および方針ならびに予算および決算に関する事項
(3) 代表および全国協議会委員などの承認、選出および解任に関する事項
(4) 全国協議会で総会に付議することが決定された事項
(5) 総会出席者の5分の1の賛成を得た事項
(6) 基本政策に関する基本的事項。ただし、その細目はこの限りではありません
(7) その他必要な事項

(定期総会)
第15条 定期総会は、年に1回開催し、少なくとも前項の2号および3号に関する事項を承認し、可決しまたは決定するものとします。

(臨時総会)
第16条 次の各号に該当する場合には、臨時総会を開催しなければなりません。
(1) 全国協議会が必要であると判断した場合
(2) 会員の10分の1以上の要求があった場合

(議案の提出)
第17条 総会の議案は、全国協議会が提案します。議案の提案は総会前の会員の提案や事前討論に配慮した時期に行うものとし、会員6名以上の連記で所定の期日以前に提出された修正案および追加議案については審議しなければなりません。

第2節 全国協議会

(全国協議会)
第18条 この政党に全国協議会を置きます。全国協議会は、共同代表および総会で選出された委員によって構成します。

(選出)
第19条 全国協議会の委員は、次の各号のいずれかの条件を満たした会員の中から40名以内を総会で選出します。
(1) 全国協議会の推薦
(2) 会員6名以上(本人を除く)の推薦を受け、所定の期日以前に推薦状が提出された立候補者
なお、任期は一年としますが再任は妨げません。

(成立要件)
第20条 全国協議会は、委員のうち過半数の出席をもって成立します。ただし、代理人出席や委任状の提出があった場合には、これを出席したものとみなします。

(調整権および決定権)
第21条 全国協議会は、出席した委員の過半数の賛成により、総会で確認された方針等を逸脱しない範囲において、この政党の全体的な運営と活動に関する調整と決定を行います。ただし、総会に付議しなければならない事項は除きます。

(招集)
第22条 全国協議会は、次の各号に該当する場合に共同代表が招集します。
(1) 共同代表が必要と判断した場合
(2) 全国協議会を構成する全委員の5分の1以上の要求があった場合
(3) 全会員のうち20分の1以上の要求があった場合

第5章 執行機関

第1節 共同代表
(共同代表)
第23条 共同代表は、共同してこの政党を代表し、この政党の基本理念や総会の意思に反しない限りにおいて、対外的に意見を表明し、他の組織等と交渉することができます。

(選出)
第24条 共同代表は、次の各号のいずれかの条件を満たした会員の中から4名を総会で選出します。
(1) 全国協議会の推薦
(2) 会員6名以上(本人を除く)の推薦を受け、所定の期日以前に推薦状が提出された立候補者
なお、任期は全国協議会委員の任期と連動し、再任は妨げません。

第2節 運営委員会

(運営委員会)
第25条 全国協議会の下に運営委員会を置き、運営委員は共同代表4名ならびに全国協議会委員の互選により選出される15名程度の委員で構成します。なお、任期は全国協議会委員の任期と連動し、再任は妨げません。

(役割および義務)
第26条 運営委員会は、総会および全国協議会で決定された活動を実際に運営する役割および義務をもちます。

(運営委員長)
第27条 運営委員会の互選により運営委員長および副運営委員長若干名を選出します。運営委員長は、運営委員会の活動の実務に責任をもちます。

(事務局)
第28条 運営委員長の下に事務局を置きます。事務局は、庶務および会計などの必要な実務を遂行します。

(担当)
第29条 運営委員会の中に総務、組織および政策など、この政党の活動および運営に必要な担当を置きます。

第3節 監査
(監査)
第30条 全国協議会委員以外の会員から、会の財産および会計を監査する監査を2名以上、総会で選出します。なお、監査の任期は1年とし、再任は妨げません。

第6章 所属国会議員の責務

(所属国会議員の責務)
第31条 この政党に所属する国会議員は、以下の原則を遵守しなければなりません。
(1) 国会における採決については党との協議を行い、会員に開かれた議論を保証すること
(2) 国会議員は、共同代表になることができないものとする。なお、この政党のほかの役職への就任についても、一定の制限を設けるものとする。
(3) 議員報酬の2割以上を、会費としてこの政党の活動に支出すること。
(4) 立法事務費の使途について、この政党と協議すること。文書交通通信費の使途について、この政党に報告すること。なお、両会計は、それぞれ独立会計とし、内容を公開するものとする。
(5) 国会議員のスタッフ人事は、この政党と協議を行い、この政党の同意を得ること。

第7章 会計
(会計年度)
第32条 会計年度は、1月1日から12月末日までとします。

第8章 規約の改廃ならびに細則
(規約の改廃)
第33条 この規約は、総会の出席者の3分の2以上の決議をもって制定し、改正し、または廃止することができます。 ただし、第5条については全国協議会の議決を以ってこれに代えることができます。

(細則)
第34条 全国協議委員は、規約の実施に必要な細則を別途定めます。細則を定めた場合には、すみやかに会員に知らせます。

付則
(施行期日)
第一条 この規約は、2012年7月28日から施行します。
2.この規約は、2013年6月8日から施行します。
3.この規約は、2013年9月28日から施行します。
4.この規約は、2013年9月29日から施行します。
5.この規約は、2013年10月10日から施行します。
6.この規約は、2013年10月24日から施行します。

(暫定規約としての位置づけ)
第二条 この規約は、2014年2月に開催予定の定期総会までの暫定的な規約であり、定期総会において支部などの要素を含んだ規約に改正するものとします。

■ 共同代表、全国協議会委員の選出に関する細則

・規約第4条に基づき、地域・ジェンダー・活動領域・世代のバランスに配慮して実施します。
・特に、基本政策5に掲げる結果の平等を実現するクオータ制を取り入れ、半数以上が女性となるようにします。
・2013年参議院選挙・選挙要綱との整合性の取れたものとします。
・性別については性自認に基づく自己申告によるものとします。
・全国協議会は、地域・ジェンダー・活動領域・世代のバランスに配慮し、半数以上が女性となる候補を推薦しなければなりません。

1 会員からの立候補がなく、異議がない場合は拍手承認により決定します。

2 会員からの立候補がなく拍手承認に異議が出た場合、および会員からの立候補があり全国協議会からの推薦と合わせて定員以内の場合は、信任投票を行います。
〈投票〉何人の候補者を信任してもよいこととします。
〈当選〉過半数の信任を得た候補者のうち、女性が半数以上となる上位のものを当選とします。

3 会員からの立候補があり、全国協議会からの推薦と合わせて定員を超えた場合は、選挙を行います。
〈投票〉定員以内の何人の候補者に投票してもよいこととします。
〈当選〉定員以内の、女性が半数以上となる上位のものを当選とします。

*ただし、投票資格者の3分の2が特に必要と認めた場合は、女性が半数を下回ることもできることとします。
2012.7.28 結成総会で確認

■ 総会運営規則
(目的)
第1条 この規則は緑の党(以下、「この政党」という。)暫定規約に基づき、この政党の総会運営に関し、会員の参加を最大限保障し、総会が円滑に運営されるために必要な事項を定めることを目的とします。

(招集)
第2条 全国協議会は、この政党の暫定規約第12条に基づき、総会開催日の30日前までに、日時、場所、議案書等必要な資料を会員に送付し、総会を招集します。

(成立要件・委任)
第3条
1 総会の成立要件は暫定規約第13条の1項によります。ただし、総会の成立要件となり、議決権を有する会員は、総会開催の30日前に会員資格を有するものとします。
2 総会に参加できない会員は、委任状(様式1もしくは様式2)または書面議決書(様式3)を総会開催日の7日前までに提出することができます。 ただし、議長への委任状(様式1)については、議案の採決を行う前の議長の指定する時刻まで提出することができます。
3 書面議決書を提出する場合、議決権を行使できるのは人事を除く議案とし、議決権を行使する事項以外については議長に委任するものとします。
4 総会に出席する会員に委任する委任状を提出する場合、予め、委任する者の同意を得なければなりません。
5 総会に出席する会員は、参加できない会員2人に限り委任を受けることができます 。
6 以下の委任状については議長への委任として扱います。
(1) 委任を受ける会員の同意を得ていない委任状
(2) 委任を受けた会員が欠席した委任状
(3) 複数人からの委任を受けた場合の3人目以降の委任状

(総会進行委員会の選出と構成)
第4条
1 総会の成立および運営のために、総会開催日の30日前まで に総会進行委員会を設けます。
2 総会進行委員会は、全国協議会委員から2名、それ以外の会員から2名の4名で構成します。
3 総会進行委員会は、全国協議会で指名し、総会で承認します。

(総会進行委員会の役割 )
第5条 総会進行委員会は、次の各号について協議し総会の承認を得て実行します。
(1) 議長団の選出
(2) 議事日程の編成と変更
(3) 緊急動議の取り扱い
(4) その他、総会進行に必要な事項

(議長団の選出)
第6条 総会進行委員会から議長団を選出します。ただし、総会出席者から議長に立候補する者があれば、採決で決定します。

(議長団)
第7条
1 議長団は、総会の運営と進行に関して、会員に対して責任を持ちます。
2 議長団は、指示に従わない発言、故意に議事進行を遅延させる発言および他人の名誉を毀損する発言に対し、必要な注意を与え発言を制限し中止させることができます。

(議案の提案と審議) 
第8条
1 会員は、暫定規約第17条に基づき、議案を提案することができます。
2 議案の提案者は、議長の許可を得て簡潔明瞭に趣旨を述べるものとします。
3 発言の順序は議長が決めるものとし、事前に発言の通告があった会員を優先します。ただし、議長は、可能な限り発言者が特定のジェンダーや年代に偏らないように配慮しなければなりません。

(議事進行動議)
第9条 
1 会員は、総会の議事進行に関して動議を提出することができます
2 前項の動議について、議長は直ちに採決しなければなりません。

(承認および採決)
第10条
1 議長は、議案について、審議および議事の進行状況から判断し、審議を終了し承認を求めます。 承認方法は原則として拍手によることとし、承認に異議がある場合は、挙手もしくはこれに代わる方法で採決を行ないます。
2 議長は、原案に対して修正案が提出された場合、原案に先立ち修正案の採決を行うものとします。
3 修正案の採決においては、書面議決書によって、原案に賛成の議決権が行使された場合は、修正案に反対の意思が表明されたものとして扱います。また原案に反対または棄権の議決権が行使された場合は棄権したものとして扱います。

(修正案の提出)
第11条 会員は、暫定規約第17条に基づき、原案に対する修正案を総会開催日の20日前までに全国協議会に提出することができます 。

(臨時総会)
第12条 臨時総会の開催に当たっては、その趣旨や緊急性に鑑み、全国協議会は、この規則の目的に添って運用するものとします。

(改廃)
第13条 この規則の改廃は全国協議会が行います。その直近に開催される総会に報告するものとします。
 附則
この規則は、2013年1月15日から施行します。
この規則は、2013年6月8日から施行します。
この規則は、2013年8月18日から施行します。

2013年1月13日全国協議会で可決


総会決議
昨年12 月の衆院選と7月参院選での自民党の「圧勝」を受け、安倍政権は無
駄な公共土木事業を大幅に復活させる一方で、社会保障の削減・切り捨てと「一
体」化した消費税を増税しようとしています。しかも、本来社会保障の財源に
充てるとされた消費税をこの大型公共事業の財源とする方針です。また、派遣
法の改悪やリストラを支援する「労働移動支援助成金」などで労働規制をさら
に撤廃しようとしています。国内産業や環境・労働規制などを崩壊させるTPP
参加にも前のめりになり、その交渉過程の情報は秘密とされたままとなってい
ます。また、福島原発事故の深刻な汚染と被災者の困難な生活が続く中、原発
の再稼働や輸出拡大も明確にしつつ、被災者の「棄民」施策が進んでいます。
周辺諸国との緊張を口実にして、改憲や集団的自衛権の容認に向けた布石も進
めています。
自民党と対抗できる力を持った野党がほとんど存在しない「一強」体制の中、
格差の拡大と貧困化が進み、経済や環境の点で持続可能性のひとかけらも無い、
そして国内外の市民にとって危険で粗暴な政治の姿が一層明確になっています。
私たち緑の党は参院選で敗北しましたが、巨額の借金や環境破壊、周辺諸国と
の対立関係、そして核のゴミを将来の世代に残さず、誰もが生き生きと心豊か
に暮らせる社会を創り上げる私たちの責任を放棄することはできません。私た
ちは、現在の日本の政治状況を踏まえ、党内外の市民やグループと協力・連携
し、引き続き、下記の課題に積極的に取り組むことを決意します。
1.東電福島原発事故への抜本的な対策強化と原発再稼働の阻止
2.原発事故子ども・被災者支援法の具体施策の実現・拡充など、原発事故被
災者への支援の強化
3.TPP 参加への反対、環境保全型農林水産業の再生や労働・環境規制の再構築
4.改憲・集団的自衛権容認への反対、対外諸国との環境保全での協力など平
和外交の確立
5.社会保障の充実なき消費増税への反対、公平でエコロジカルな税制の構築
2013年9月29日
緑の党グリーンズジャパン第2回定期総会
参加者一同



































  1. 2013/10/27(日) 19:07:57|
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渡辺知明さん

古本屋通信  No 486  10月26日

 渡辺知明さん


 私の過去記事通信 No 469 右遠俊郎に対し、渡辺知明さんから以下の投稿があった。私には未知の方だ。私の本文記事も再録する。そのあとに渡辺さんのページを貼らせていただいた。最後に付したプロフィールはHPにあったものだ。

右遠俊郎さんは、わたしの師です。いい記事をありがとうございます。
下記のサイトに、わたしの朗読した「初恋」の録音があります。
思いを込めています。お時間がありましたらお聞きください。
http://kotoba-hyogen.seesaa.net/article/109647549.html
2013/10/26(土) 21:53:29 | URL | 渡辺知明 



 再録  古本屋通信 No 469 右遠俊郎

 右遠俊郎が死んだことを、たったいま知った。私が初めて右遠(以下同じ)の作品を読んだのはかなり古く、それは「残った松笠」ではなかったかと思う。いま検索したら、この作品は『忘れ得ぬ人』に収録されていると判った。朝日茂を扱った右遠の最初の作品だったろう。そしてこの系列の最後が『小説 朝日茂』だ。これが刊行されたとき右遠は岡山に来て講演した。私も聴きに行った。あれこれは省略し『小説 朝日茂』でいちばん強烈だった印象をひとつだけ書く。それはこの作品の中で右遠が、朝日茂が早島の結核療養所で共産党主流派細胞に所属していたことを明記したことだ。私にとってこの赤文字3字は決定的に重要だった。これがどうでもよいことだという「批評家」を私は信用しない。この作品で右遠は多喜二・百合子賞を受賞した。これが右遠の本領だろう。

 私はある時期(古本屋開業後)民主文学関係の書籍(雑誌以外)の殆んどを捨てた。売れないし、私自身も再読しないと思ったからだ。しかし右遠の作品だけは残した。殆んど全部の単行本があった。私は全作品を集めていたのだ。売価は定価より全て高く付けていた。売る気はなかった。ところが全ての本を一時に買った男がいた。何処の誰か分らない。文学筋の人ではなかった。同業でもなかった。値引きも要求しなかった。右遠のファンではなかった。
 「これだけ沢山、郷土作家のものが出ることはもうないでしょうね」
 「ええ、私が40年かけて集めたコレクションですから。買って頂ければ嬉しいです」
 もう十五年になる。その客人が再び店に来ることはなかった。私と同年輩の小商人風の男だった。

 まだまだ書きたいことは沢山ある。しかし書きたい事の十分の一も書けばよいとおしえてくれたのが右遠俊郎だったろう。めい福を祈る。あと、稲沢潤子さんが書く文が気になる。『民主文学』を二十年ぶりに買うかも知れない。




【別館】表現よみ作品集
渡辺知明によるポッドキャスティングのための朗読作品

2011年09月01日
朗読から表現よみへ=右遠俊郎「初恋」
右遠俊郎「初恋」中学校の教科書にも掲載された作品。(よみの公開は筆者に承認済みです)
(『赤いシクラメン』新日本出版社所収。『右遠俊郎短篇小説全集』本の泉社)
※ボルルさんのモンゴル語訳があります
21分25秒
表現よみ:渡辺知明(著者に録音承認済み2011/09/01追加)


渡辺知明さんのプロフィール
1952年(昭和27)生まれ。群馬県桐生市出身。大学在学中に日本コトバの会に入会。大久保忠利氏より、言語理論、国語教育理論、文章、話し方、表現よみ指導法を学ぶ。ホームページ、コトバ表現研究所所長、 表現よみO(オー)の会代表、日本コトバの会事務局長。


以下も渡辺知明さんのページ
更新2013/10/19(開設1997/5/28)eXciteことば・言葉・コトバ/Blogことば・言葉・コトバ
ご訪問に感謝します。あなたは250480番のお客さまです(2000/06/04以来)
―文章、話し方、表現よみ、朗読、に関心ある方がたへ―

●渡辺知明のコトバ研究と文学作品の録音を公開するサイトです。問い合わせメールは こちらから どうぞ。

●2011/03/11大震災から2年7か月経過●『Web表現よみ入門』●表現よみ☆宮澤賢治集/中島敦&梶井基次郎/太宰治集 ●ボランティア朗読サイト「お話しPod」●掲示板事件(全記録)●リンク(朗読&教育)●独演会&公演予定
2013年
•12/7(土)日本コトバの会第13回表現よみフェスティバル(ドラマよみ特集)で記号づけの解説講義
•11/29(金)川崎多摩表現よみの会で表現よみに参加
•11/10(日)第24回渡辺知明表現よみ独演会(梶井基次郎「城のある町にて/ある午後」、中島敦「悟浄歎異」、太宰治「赤い太鼓」)PDFチラシ
•11/1(金)川崎多摩朗読の会で表現よみ「カイロ団長」とお話し
•10/20(日)栃木県小山市・進駸堂書店で店頭リクエスト無料朗読会
•10/6(日)群馬県富岡市で表現よみと講演(賢治「虔十公園林」、太宰「義理(新釈諸国噺)」、講習=斎藤隆介「ソメコとオニ」)
•9/12(木)「いちょう塾(八王子学園都市大学)」『朗読の教科書』講座(全11回木曜夜11/21まで)満員御礼!(案内画像)
•9/1(日)第25回表現よみオーの会(個人よみとドラマリーディング「瘤取り(お伽草紙)」)満員御礼!PDFチラシ
•7/28(日)「子どもいちょう塾」で国語(朗読)講師(YouTube動画)
•7/21(日)『朗読の教科書』による「歌唱のための詩の表現よみ講座・第2回(上越市)
•6/16(日)『朗読の教科書』による「歌唱のための表現よみ講座(上越市)」案内チラシ(PDF)
•6/5(水)『人間会議』(目次一覧を見る)読書特集に対談と読書論掲載
•6/2(日)第23回渡辺知明表現よみ独演会「路上/名人伝/義理」チラシ
•3/3(日)第24回表現よみオーの会(太宰治「粋人」ほか)PDFチラシ

2012年
•12/1(土)表現よみフェスティバルで「記号づけ」講演
•11/18(日)『朗読の教科書』「朗読教室」小山市進駸堂中久喜店
•11/16(金)川崎多摩表現よみの会で掛け合いよみ与一の天のぼり
•11/4(日)第22回渡辺知明表現よみ独演会(東京JR大崎駅前)
•11/2(金)川崎多摩朗読の会で森鴎外「最後の一句」の表現よみ

(これまでの活動記録)
講演・講習・講座の案内
渡辺知明著『朗読の教科書』(2012パンローリング社2205円A5判344頁CD付)
過去80年間の朗読理論の空白を埋めた画期的な本。音声言語は「話し・聞き、読み・書き」の基礎です。文科省学習指導要領準拠▼注文はでじじへ。

◎朗読の基礎や表現を学びたい方―(1)東急カルチャーBE雪ヶ谷(空き3名/見学可)、(2)新百合丘産経学園(空き5名/見学可)へどうぞ。(3)グループに参加したい方は、表現よみオーの会(常時受付/見学可)へ。

◎通信で文章を添削で学びたい方は、文章添削通信講座へどうぞ。表現よみ通信添削講座もあります。講演・講習などのご依頼、お問い合わせのメールも、 こちらから どうぞ。

自己紹介
わたなべ・ともあき―メールは こちらから どうぞ。1952年(昭和27)生まれ。群馬県桐生市出身。大学在学中に日本コトバの会に入会。大久保忠利氏(元都立大学教授。言語学・国語学)より、言語理論、国語教育理論、文章、話し方、表現よみ指導法を学ぶ。国立国語研究所第1回日本語教育研修修了(1980)。現在、コトバ表現研究所所長(1993/4-)、表現よみO(オー)の会代表(2000/10-) 。日本コトバの会事務局長/講師(1980/5-)。東急カルチャーBE雪ヶ谷講師(1998/4-)。新百合丘産経学園講師(2004/4-)。明星大学(経営学科)で文章講義(2006/4-2012/11)。著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム発起人。
・著書=『朗読の教科書』(2012パンローリング社)、『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995明治図書)、『放し飼いの子育て―やる気と自立の教育論』(1994一光社)ほか
・編著=CDブック『ロシアのクリスマス物語』(2006群像社)、『コトバ学習事典』(1988/1990一光社) 、『大久保忠利著作選集』3巻「生きたコトバI話し・聞き」、4巻「生きたコトバII読み・書き」(1992三省堂)ほか
・論文=「連載・教師と子どもの文章入門」(児童言語研究会編『国語の授業』101-110号/1990-92/一光社)ほか(著作&論文リスト/表現よみ独演会&公演予定)
  1. 2013/10/26(土) 22:24:10|
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香川県の広谷俊二

 古本屋通信  No 485  10月26日

 香川県の広谷俊二


 広谷俊二については、ウィキペディアの記事もあるし、シンヒヨとの関係でよく知られていると思う。しかし彼が党中央の青年学生部長を降りてから、いっとき香川県委員長として高松市にいたことは一般には知られていない。また記録もないだろう。広谷は1967年~1968年、日本共産党香川県委員長として四国・高松の地にあった。私は当時のことに特に詳しい訳ではないが、いくらか記憶が残っているうちにメモしておこうと思う。

 私が広谷を初めて見たのが、高松市の何処だったか記憶にない。然し党中央から青学対のトップが県委員長として派遣されて来ると言うので、大学の民青は色めき立っていた。広谷は大学の民青の間では有名人だった(職場の民青には余り知られていなかったろう)。私はすでに自治会活動も、民青地区委員も降りていてた。一学年下のH見やT中がはしゃいでいた。ちょうど広谷の著書『現代日本の学生運動』(青木新書)初版が出版された直後だったろう。教育学部の書記長だったT中が広谷のサインをもらってきて見せてくれた。

 派遣に至る細かい事情は分らないが、県委員長だった下川行夫の急病のためだったのは確かだ。それが証拠に1年後?に広谷は東京に帰り、下川が県委員長に復帰している。因みに当時の県副委員長は石田千年であり、大学細胞は石田の指導を受けていた。しかし下川、石田とも党中央委員候補でさえなく、香川県党は初めて党中央委員を県委員長に迎えるというので活気づいたようだった。

 いま調べてみると、『現代日本の学生運動』初版は1966年12月に出版されている。たぶん翌1967年早そう「日本共産党演説会」があった。演題は忘れたが、広谷がひとりで喋った。抜群に上手かった。聴衆を奮い立たせるアジ演説だった。こう言っちゃあ悪いが、下川も、石田も、民青県委員長の上杉も演説が下手だった。この日、広谷俊二は実質的にも県党のトップになった。私のとなりで演説を聞いていた電通民青のMが私に言った「党中央はやっぱり違うな。これで香川の党も民青も伸びるぞ」。

 ついでに当時の民青香川県委員会。やはり県委員長の交代があった。当時、専従は活動費(月給)が出なかったのだろう。県委員長の上杉が音をあげた。かれは不動産鑑定士の資格を持っていたので、民青の事務所の近くで、不動産屋を開業した。奥さんが病弱だったから、どうしても収入が要ったのだ。その後釜に、やはり民青中央から比留川洋が派遣されてきた。いま「本の泉社」のHPを見たら、懐かしい比留川の写真があった。あれから45年経っているが、四人の中で誰が彼かは一目で判った。私が学んだのは上杉からであり、比留川からではなかったが、「ぼくは女房に喰わして貰っている」と言っていた比留川。いま「本の泉社」で飯が食えるのだろうか。かれは確か民青中央常任委員だったと思う。私はかれのシンヒヨ対応を知らない。いつ香川県を去ったかも知らないが、あの「事件」まえだったのは確かだ。1972年春に民青香川県委員長だったのは、比留川ではなくT村だった。大学民青出身のT村については、いずれ別項を立てて書くつもりだ。

 註記1
 『現代日本の学生運動』 は手に入り難い本ではないが、安保闘争~全学連再建(1960~1964)までの時期の学生戦線の動向について、当時の党指導部の立場で書かれた記述がある。近いうちにその部分を貼る予定だ。

 注記2
 今回のエントリーに限らないが、当ブログには党や民青にかかわる個人がしばしば登場する。それらの人物を本名で記すか、それともイニシャルのアルファベットで記すか、その基準について書いておきたい。赤旗民青新聞も組織外にひらかれた新聞である。これらに氏名が公表されたと私が確認した人の名前は、当ブログでも本名で書く。上記で言えば、広谷をはじめ下川、石田、上杉、比留川だ。上杉、比留川は民青新聞にそれぞれ中央委員、中央常任委員として名が載った。然しそれは40年以上前のことだ。だから現在の彼らにとって、触れてほしくない過去だということはあり得る。しかしそれを認めると、そもそも歴史記述が成立しなくなる。私は遠慮なく書かざるを得ない。一方、大衆組織、大衆運動の中で運動している党員、同盟員については、公然活動家でない限り本名は出さない。アルファベット・イニシャルを使う。上記で言えば、H見やT中がそれだ。またT村は民青県委員長として民青新聞に本名が載った筈だが、私はそれを確認していない。だからT村とした。また、媒体に名前が公表されていなくても、本人が公言している場合は本名で書く場合もある。しかし離脱していることも公表していれば、可能な限りそれも添える。民青の「卒業」はいちいち頓着しない(笑)。党公認の地方議員は、議員を引退しても、党員と見做すことは言うまでもない。
  1. 2013/10/26(土) 14:57:04|
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『夏の栞』の読み方

古本屋通信  No 482  10月24日

 『夏の栞』の読み方


「No 481 資料)中野重治 ・神山茂夫・佐多稲子」のエントリーを立てて、検索していたら 「過去たちとの対話」 という名の記事に出くわした。No 481 に貼ろうと思って読んでいたのだが、読み進むうちに一寸待てよと思うに至った。たしかに私の知らない事実なども書いてあり、資料的価値はある。だが、どこか違和感があるのだ。それで別エントリーを立てて少し批判的に論及したいという衝動に駆られた。私はこの方の文を読むのは初めてである。左派系のブログらしいが、そういうことには一切頓着しないで、当該文だけについて論及したい。

 過去たちとの対話  思想と文学 
 2008/9/15(月)  北の大地の文人
  
(革命に翻弄された人々)
中野重治氏の死を身近に看取った佐多稲子氏の「夏の栞 -中野重治を送る-」(新潮社版)を読みました。そこには、戦後すぐの「革命前夜(仮称)」に、若き情熱家たちが弾圧から解放への夢を紡ぎながらも、その後に来る思想闘争の渦に巻き込まれ、文学と政治の狭間で苦悩しながら彼岸に逝った異能な作家の最後が書き綴られていました。佐多氏の自己遍歴と共鳴させながら、「驢馬」に代表される「同人誌時代」の終焉として克明に書き込まれているのです。

『・・・・・私の感情の中で、「驢馬」の時代を背景にしたときの中野重治は、私としてのもっとも素直な親しみに囲われる。中野重治が「驢馬」を背景にしているというのではなく、あの時代においての中野重治を私がおもうとき、ということなのだが、中野を知った当初の、水しぶきを上げて流れているようなあの雰囲気の内に生じたその親しみは、つつましくもありながら率直さを併せ持つという色合いでその後の私の感情の底に根づいた。この親しみは「驢馬」の他の同人に対しても一様に抱いた私の感情であって、同時にそれは、あの中におかれた私というものの当時の有りようを映すものであったろう。・・・・・』(「夏の栞 -中野重治を送る-」より)

中野重治氏は1931年に戦前の共産党に入党しますが、逮捕され1934年に転向出獄します。戦後直ぐの1945年11月に再入党し、この時の推薦人が獄中で転向せず解放されるまで闘った宮本顕治氏と西沢隆二氏です。この年の11月以前にも中野氏は二人から入党を薦められていますが、戦前の「転向」経験もあり、当初は辞退した、と佐多稲子氏は中野氏の再入党の経緯を説明しています。更に、中野氏は1964年部分核停条約の批准に関し、党中央と方針を異にして賛成票を投じ、三ヶ月間の党員権停止処分を受け、その後、除名となりました。中野重治氏の大作「甲乙丙丁」はこのころから書き始められたとも彼女は言っています。

中野氏の中央委員会からの退場を即座に要求した、「驢馬」時代の同人であり、再入党の推薦人だった西沢隆二氏も中国寄りの路線を批判され「除名」されています。当時、西沢氏は中国「文化大革命」を賛美し、党からは「毛沢東盲従分子」として批判されていました。党の文化活動責任者だったこともある彼が除名されたことは「党文化活動家」の一部に混乱をもたらしたことは事実に違いありません。「ぬやまひろし」(「わかものよ体を鍛えておけ」の作詞家)というのは西沢隆二氏のペンネームです。

第四高等学校出身の知の巨人「石堂清倫」氏を同窓の士とした中野重治氏の周辺には、堀辰雄、佐多稲子などの「著名な作家」が集っていましたし、西沢隆二氏もその一人だったのです。

代々木から見放された、伊藤律氏・・・志賀義雄氏、鈴木市蔵氏、神山茂夫氏・・・・片山さとし氏・・・中野重治氏、佐多稲子氏・・・西沢隆二氏・・・袴田里見氏・・・川上徹氏・・・・有能で異才な人々が心のよりどころとした「前衛党」から三行半を押し付けられたのでした。

・・・・コミンフォルム批判、国際派・所感派論争、六全協、砂川基地闘争、60年安保闘争、中ソ対立、部分核停条約、文化大革命、新日和見主義批判・・・・時代の流れのなかで「ドグマ」が跳梁跋扈し、熾烈な思想闘争が展開され数多の人々が代々木を去ったのです。

私の尊敬する北の文人「林白言」氏も前衛党から見放された一人ですが、彼は、円熟した筆力で「人生の機微」や「人との交流」を書き続けました。私は彼の随筆ではなく、彼の小説を是非読みたかったのですがそれは叶いません。

北の大地に文化活動で金字塔を打ち立てた「林白言」氏の「思想と文学」についての「シビアな」お話もお聞きしたかったですが・・・・・「思想と文学(芸術)」は私にとっても永遠の課題かもしれません。

私も中野重治氏に向けた佐多稲子氏の「流麗で甘美な美しい鎮魂歌(レクイエム)」のようなものを書きたいものです。



 以下、古本屋通信
 この方の文は論理的に批判できるような性格の文ではない。過去の党内論争などにも精通され、それを振り返っての実感を率直に述べられている。私が敢えて一言で感想を述べれば、文学系のひとの文だなあということ位だ。ただ、こういう風に書かれては、名前を挙げられた人は厭だろうなあと思う。そして率直に言うと私 (これらの人々と個人的接触はないけれど、同時代より少し後に生きた自分) も厭だなあと思う。で、その理由をやはり一言。つまりこの方の文は社会運動史(社会科学)の記述として真実を書きえていないのみか、文学の文としても真実をいい当てていない。その理由をちょっと考えてみたいのだが、これを考えること自体が多少鬱陶しいので、先延ばしになるかもしれない。


半日措いて書く。私は一行目から、拒否的だ。

「中野重治氏の死を身近に看取った佐多稲子氏」

「中野重治氏の死を身近に看取った」のは中野の細君の原泉であり、佐多ではなかったろう。どうして原の神経に触るような無神経な表現を平気で使うのか。


「戦後すぐの「革命前夜(仮称)」に、」

なぜ戦後すぐが革命前夜なのか。それは戦後左翼の共通認識だったのか。そうではあるまい。評者ひとりの認識だったのだろう。そのひとりよがりに自信がなかったから、意味のない(仮称)を付したのであろう。或いは、戦後左翼の一部に占領軍を解放軍と見誤る者もいた。戦後数年しての共産党の議席増で「革命近し」と思ったのかもしれないが、少なくとも「戦後すぐの革命前夜」など評者の表現だ。そして、私はこういういい加減な表現をきらう。それが事実と主観の境界を曖昧にし、人の認識を誤らせる表現だから。


「若き情熱家たちが弾圧から解放への夢を紡ぎながら」

非合法下で獄にあった非転向の共産主義者、また心ならず転向した中野や佐多たち。戦後の解放を迎えた彼らを一括して「若き情熱家」で括る無神経が分らない。それに、陸軍将校でもなかろうに共産主義者は「情熱家」か。「夢を紡ぎながら」か。たぶん評者はプロレタリア文学の一冊も、作家の心情に分け入って読んだことがないのだろう。


「その後に来る思想闘争の渦に巻き込まれ、文学と政治の狭間で苦悩しながら彼岸に逝った異能な作家の最後が書き綴られていました」

ちょっと耐えられないが冷静に。敗戦直後の党再建とほぼ同時にすすめられた新日本文学会の創立。それ以来、「近代文学」や「人民文学」の問題を含め、文学と政治の問題は今日に至るまで連綿と続いている。然しそれを「その後に来る思想闘争の渦に巻き込まれ」と書く稚拙は、あらゆる意味で私の許容範囲を超えている。私が自分の店から文学関係の大半を撤収したのは、こういう人物を前にしてであった。文学的に生きるとは主体的に生きることではなかったのか。


再引用
「文学と政治の狭間苦悩しながら彼岸った異能な作家の最(最)が書き綴られていました」

これは中学生か高校生が国語の単語を覚えるための例文だろう。それ以上ではあり得ない。これでは、書いた佐多も、書かれた中野も気分を害することさえない。私が高校の国語教師だったら書いた生徒にどう言おうか。「文庫本の解説のつまみ食いはやめなさい」。


「佐多氏の自己遍歴と共鳴させながら、「驢馬」に代表される「同人誌時代」の終焉として克明に書き込まれているのです」

「共鳴させながら」の表現はいいのだろうか。私が『夏の栞』を読んだのは刊行直後だが、記憶でも「同人誌時代の終焉として克明に書き込まれている」とは思わなかった。この要約は口から出まかせだろう。


ここで、『夏の栞』の引用がある。これをよんで私はホッとした。懐かしいこの作家の文だ。佐多稲子の文体である。私はすでに佐多の「好並かおる追悼文」について、絶賛した文を書いている。

以下の9行が私の役に立った個所である。『夏の栞』に書かれていたことだが、私はすっかり忘れていた。感謝したい。とくに再入党の推薦人が宮本と西沢だったという箇所は、佐多の経由といえども貴重な記述である。というのは宮本も西沢も、そして共産党関係も、この件には決して触れていなかったろうからだ。『夏の栞』はよく読まれ、古本市場でも百円本だが、この個所について触れている批評家の文は、私の知るかぎりなかったと思う。

それに続く7行だ。西沢が「驢馬」の同人だったことは私も知っていた。西沢と佐多との付き合いも知っていた。しかし彼が党の文化活動責任者だったのは徳田書記長時代だった。「ぬやまひろし」のペンネームまで書くのなら、「人民文学」を書き添えるべきだった。この時代の彼らの思いは複雑だったろう。書き切れないなら、いっそ初めから触れぬことだ。ここら辺が文学史家といえない所だろう。

以下、
「有能で異才な人々が心のよりどころとした」「前衛党から三行半を押し付けられ」「時代の流れのなかでドグマが跳梁跋扈し、熾烈な思想闘争が展開され数多の人々が代々木を去った」

私はこういう文をトコトン嫌う。これは左翼の文ではない。「反日共」の文ではなく、反共主義者の文だ。

そして、ここに名前を挙げられている人は、こういう並べられ方をされることを等しく嫌うだろう。これはこの文の筆者の何を物語っているのだろうか。コミンフォルム批判も、国際派・所感派論争も、六全協も、砂川基地闘争も、60年安保闘争も、中ソ対立も、部分核停条約も、文化大革命も、新日和見主義批判も、何ひとつ主体的には理解していないことを自己暴露している。

伊藤律氏・・・志賀義雄氏、鈴木市蔵氏、神山茂夫氏・・・・片山さとし氏・・・中野重治氏、佐多稲子氏・・・西沢隆二氏・・・袴田里見氏・・・川上徹氏。
コミンフォルム批判、国際派・所感派論争、六全協、砂川基地闘争、60年安保闘争、中ソ対立、部分核停条約、文化大革命、新日和見主義批判。 (了)



  1. 2013/10/24(木) 07:00:05|
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資料)中野 ・神山・佐多

 古本屋通信  No 481  10月24日

 資料)中野重治 ・神山茂夫・佐多稲子


 グーグルで「中野重治 ・神山茂夫」を引くや否や、面白い記事があった。私が飛び付いたのでここに紹介する。2人に佐多稲子を加え、今後も資料的価値のあるものをここに追加していきたい。3人はほぼ同じ時期に日本共産党を除名されている。もっとも、神山はこれが3回目の除名だそうだが(笑)。

土本典昭主要作品  偲ぶ中野重治
記録映画 白黒 16%55分 1979年 製作:中野重治を偲ぶ映画人有志の会
製作スタッフ:小田博 久保田幸雄 小林義正 鈴木志郎康 高岩仁 高橋達雄 土本典昭 西山正啓 山邨イ申貴 若月治 加納宗子
音楽:「パンの笛」より(演奏ゲオルク・ザンフィル)
詩朗読:鈴木瑞穂 自作朗読:「わたしは嘆かずにはいられない」(原盤提供・NHK)協力:青林舎 東京シネアート 長征社 労働映画社 菁映社他 有志

解説
 映画の冒頭、神山茂夫の告別式(1974年)で中野重治が語る。 「近年の史実偽造、事実の抹殺に対していろいろな事を記録に残してほしい、私たちがどのように生きたか、どのように生きているかを明らかにするために」。
 中野が生前愛聴していたゲオルグ・ザンフィル「パン・パイプ」をバックに、中野の経歴、作品歴の字幕が流れる。 
小田切秀雄の司会で中野重治の告別式が始まる。青山葬儀所の壇上は秋草で飾られ、遺骨、遺影、全集既刊分27巻と『沓掛
筆記』が置かれてある(製作・戎居研造)。
 最初に山本健吉が弔辞を読み上げる。「中野の死は、自分にとっての星、つまり光が消えてしまったことだ。中野は羞恥心を持ち合わせていたので政治家を続けられなかった。だから詩人でいられた。その詩人に自分はめぐり会えて幸せだった」。
 続いて国分一太郎、 「新日本文学会の幾多の役員を務め、苦労した中野の早すぎた死をくやしく思う。社会の不義のどんなちいさなことにも積極果敢に対処すべきこと、型はまりでない日本語をえらんで書くべきことなどを中野はさし示した。また、本来来てよいはずの人が告別式に来ないという低俗な政治主義からはなれ、会は芸術・文学運動での自律的態度を全うする決意である」。
 尾崎一雄、「『驢馬』の時代に立場の違いから中野に批判されたが、近年病床の自分を見舞ってくれた。それこそ芸術による仲立ちで あった」。
次に石堂清倫、「日本において全人間的に社会主義の問題を提起した最初の人が中野であった。東大新入会の仲間からの見舞いを伝える前に君は逝ってしまった」と述べたところでしかし石堂は、こみ上げる悲しみに弔辞を続けられなくなる。多くを残して弔辞の原稿を閉じ、最後に中野の19歳のときの句を詠む。「今日の愛いやはての愛とあいにけり」。
 続いて臼井吉見が立つ。「中野には物言いの息づかいの中に鋭敏で潔癖な感受性と人間的なぬくもりがぎっしり詰まっていて、全作品の魅力となっている。中野は、上質の人間的なものに対する心からの感動と、下等で非人間的なものに対する本能的な憎しみを持ち合わせた人だった」。
 桑原武夫は、[中野は、誠実と心のあたたかさ、戦う意志が渾然一体となった人物であった]と述べ、
宇野重吉は、福井の屋敷跡を訪ねて選挙の手伝いをした頃の想い出を語る。
 最後に本多秋五が「国民自身も意識せぬ潜在的心と革命理論とを結びつけたのは中野ただ一人だった。晩年は親鸞のようだった。自分にとって呼べば答えてくれる前方を照らす人だった]と述べるが、悲しみにつまってしまう。

 8人の弔辞が終り、友人総代・佐多稲子が病状の経過を報告、喪主・原泉が挨拶する。
ほおずきの実を献げる会葬者の流れに「雨の降る品川駅」の朗読が重なる。
陸続と続く会葬者の列。中野自身による「わたしは嘆かずにはいられない」の朗読。郷里・丸岡町の簡素な墓所の風景で映画は終る。

土本典昭
映画「偲ぶ・中野重治」をつくるまで 1979年12月20日     
 中野重治さんの死を知ったのは、8月下旬、天草下島の深海町の宿100円入れて2時間点くテレビの前で夕食前の焼酎を仲間と酌みかわしているときだった。
 私が最後に中野さんの声をきいたのはその年の3月、『養護学校はあかんねん』という私も少しはかかわった映画の試写の案内を電話で申し入れたとき,中野さんは「眼がわるくなって、テレビも見ないように節制しているので、わるいがいけないとおもう」と詫び声でことわられた。
 しかしその声はまだ張りもあり、決して訃報の来る日を予想させるものではなかった。
 宿でシュンとなった気持を立て直し,弔電をうつことにした。あと旅は十余日残っていたからだ。しかも最後の旅程は中野さんの故郷福井の若狭の原発地帯を歩くことだった。

 中野さんについて私は゛知る"とまでは言えない付き合いだった。ただ『水俣―患者さんとその世界』を見て批評をいただき、ついで『不知火海』の試写もみてもらった。中野さんが「映画雑感・素人の心もち」の文章で語られたわすれ得ぬことばから、私の映画に正直な採点をしてもらいたいと思った。真物とにせもの、いささかの論点の移動もゆるさないその鑑識眼に半ば畏怖しつつ,半ば後輩として教えを乞いたい気持がたえず私にはあったからだ。

 「『不知火海』はまえの『水俣』より進みましたね。アジテーションのない話だからむつかしかったでしょうが,それだけ深くなった」といわれ、嬉しかった。そしてのちに、折りにふれて、友人に私の映画をみなさいと口づたえしておられたと聞いて感謝した― それだけというか正確にはそのようなお会いのしかただった。

 9月の日本海の海岸線をたどり、高浜・大阪・美浜・敦賀と四大原発をしらみつぶしに見、その周辺漁村の人びとに話しをきかせてもらいながら、更に、越前海岸や九竜川口にかけて漁村を視覚に納める旅をしながら、私の追悼のこころをどうあらわしたらよいかを考え、映画でその告別をのこすのが実は一番いいのだが…とは思いつつ、しかしもう間に合わないだろうとひとりぎめにしていた。帰って新日本文学の事務局の谷口さんに電話すると、それはあす9月8日の昼からという。
私は間に合ったことが奇縁に思え、次々に仲間の映画人に電話をかけ、助監督の西山正啓君にフィルムを買いに走ってもらった。

 葬式の映画記録とは何ぞやといわれるかもしれない。しかし1929年(昭和4年)山本宣治の虐殺にあたり、その葬儀をとったフィルムがあると聞いている。スチール(写真)だけ見たが、若き日の革命家が当時着物を着たものもありハンティングを眼深にかぶったものあり、恐らく特高にとりかこまれての葬列でもあったに違いない。よくぞ撮り残してくれたものと当時の映画人を偲ぶことができた。
 
 しかし私が5年前、神山茂夫氏の死に際し,映画をとると決めたときは趣きは全くちがう。別に権力の危険はない。しかし、ある党はついに一人の参列もないだろうと聞いた。その数ヶ月前関西の党長老Tさんが死んだ時、二千余人でその死をいたんだという。路線のちがいはあれ、ともに獄中をたたかった革命家の死、一回しかない葬いに対し、非礼にすぎると思った。歴史の短い尺度までいま人間の革命への寄与を全人間的に抹殺できるのか―という根本的な疑問でもあった。
そして映画『告別・神山茂夫』を若い仲間、小池征人君、大津幸四郎君他、いわゆる水俣スタッフで作った。今回も思いは同じであり,更に意識的な仕事としてとりくむことにした。この映画で映像資料としての保存だけでも果たせればいいとした。

 幸い鈴木志郎康,高岩仁、小田博カメラマンで三班で編成し、『東京クロム砂漠』を元アテネフランセの若いグループが演出を分担しテープをまわしてくれ、ほぼ全記録を撮る事ができた。
幸いにもというか、生前,中野氏がある神山氏の告別式でのべた弔辞のシーンが私たちの手中にあったので、この映画の冒頭に位置させ、7年前NHKが採録していたみ発表の中野さんによる自詩朗読のLPがみつかり、それを納め,中野さんを偲ぶ映像・音声としてこれに加えることができた。

 弔辞をよんだ人びと、友人代表の佐多稲子さんらはすべて言葉を選びぬくひとであったし、生前の親交と同世代の代表者たる中野さんとの関係を結んでいた石堂清倫、臼井吉見、本多秋五、国分一太郎、宇野重吉、尾崎一雄、山本健吉らの選ばれたことば,期せずして中野さんの像を改めて結ぶものとなった。それが映画『偲ぶ・中野重治』だ。

 ひとの一生は棺をおおいてはじめてさだまるといったことばがあるが、なかなか、死んでもきまらないのが今の世の中であろう。死が聖化も浄化しおえるものではなく、その一生の仕事と生き方が私たちに何を告げているかを学び切るのは残された私達自身の問題であろう。高校・大学時代からマルクス主義者としての仲間であった老友石堂清倫氏は私達にポツリといわれた「中野が死んで、ある偉大は文学者、読本にものってなじまれる一詩人としてのみ後世にのこされたら、中野にふさわしくない。革命を思いつづけた中野としてのこってほしい」なるほど50年余りの友のことばとして胸に沁みた。

 映画はやはり70万円近く実費がかかる。それを製作委員会的カンパで作るのは、理屈抜きにはばかられた。私の発起心を直接理解してくれた伊丹一三、栄田清一郎氏をはじめ、青林舎の高木隆太郎、庄幸司郎さん、他の私の身近な友人の浄財をもとに、有志の金だけで作れるように物事は動いた。深く感謝するとともに、中野さんを偲ぶ心の篤さを知らされる。

 77歳の中野さんと50歳の私世代とつながっている。しかし若い人びとにも天皇制と闘いつづけたこの老革命家たちの声がつながってほしい。ゆえに『偲ぶ・中野重治』(55分)をやはり観て欲しいとねがう気持でいっぱいである。(1979.10.15)

記録映画「偲ぶ・中野重治」  佐多稲子
 中野重治の告別式を映画で残しておきたいということは、その告別式を執り行う原泉さんや友人としての私たちがはじめに考えたことではなかった。それは神山茂夫の告別式を記録映画に撮った土本典昭さんの希望で、告別式の前日位に決まったことである。土本典昭さんは水俣記録映画の作者である。映画人としての土本さんには、中野重治への告別はこの仕事を通してということだったのであろう。原さんと友人たちはそれに従った。
 その記録映画が「偲ぶ・中野重治」として完成し、十一月十五日の夜、岩波小ホールで試写会を待った。その試写会には、立つたままの人もあったほど、大勢の人が見に来られ、それも殆どが、九月八日の告別式に参集された人たちのように見受けられた。中野重治への告別式をもう一度、ということだろうか、と私は自分に引つけてそうおもいもした。映写のはじまる直前から、会場には横笛のひびきに似た音楽が流れる。

青山葬儀所の告別式のときに流れたルーマニアのゲオルゲーザンフィルのフハン(牧羊神)の笛」である。その中で画面は先ずはじめに中野重治を写し出した。生前の中野重治の姿である。
神山茂夫の告別式のときの中野の姿であって、中野は立って、「戦旗」創立のときの、その「戦旗」の編集長に選ばれた佐藤武夫のことを話していた。「娘のように優しい」と云ったかとおもう。その優しい佐藤武夫にみんながおぶさって、と話す中野重治に、いねば不意に対面した感じで、私は感情のこみ上げてくるのを押え兼ねた。中野が、優しいと話しているその佐藤武夫の風貌を私も覚えている。あれはきっと佐藤武夫が若死にしたこととについて述べているのだったろう。が、とにかく、画面に近々と写し出されている中野重治の顔と、そして聞き慣れたその声が、ついこの間まで親しかったから、どう説明のしようもない感情に私はとらわれたのである。

まざまざとしている中野の映像が、すでに生前ということに私は感情を乱したらしい。が、画面はそのあと小田切秀雄さんの司会の言葉に移り、告別式の記録に入った。秋草にかざられた壇上に、遺骨と遺影がおかれ、全集二十七巻と「沓掛筆記」の並べてあった当日の青山葬儀所の祭壇である。映画は弔辞を読まれる八人たちをじっくりと写した。
山本健吉、国分一太郎、尾崎一雄、石堂清倫、臼井吉見、桑原武夫、宇野重吉、本多秋五のみなさんである。私には、みなさんの弔辞はこの映画でようやく確かに聞くことのできるものであった。告別式当日はあまりそばにいた私の位置のせいか、みなさんの読まれる声が却って間きとりにくく、とぎれがちに耳にとめる程度だったからである。静止している画面にも拘らず、むしろ八人たちの中野重治を語るそれぞれの弔辞が、はっきりとこちらにも伝わり、この間の流れは、映画による言葉の収録として貴重におもえた。

友人代表としての私自身のあいさつにも、はにかむ感情の余裕など、そのときの私にはなかった。よろばうようだった原泉さんを支えて立った自分のうしろ姿を、告別式当日を追うカメラの目といっしょになった感じで見ていた。奈良岡朋子さんの弔辞を読むのがなぜか落ちていた。
 映画は祭壇に別れを告げる人々を、殆ど余まさずというふうにとらえていたが、その頃から流された中野重治の自作の詩を朗読する声が、画面の人々の上を蔽うように満ちて聞えた。NHKに未公開のまま残されていた原盤から収録したものだということだが、それは「わたしは嘆かずにはいられない」という詩である。あとでわかったのだが、画面から流れたのはこの詩の終りの一節であったようだ。
 
「 わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
 
しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
 
よしやヒネクレモノとなるまでも しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと」
 
以上が私の耳にとらえた中野の自作朗読の声である。

「中野重治全集」第一巻に収録してあるこの詩は、一九三七年六月十三日号の「都新聞」に発表、と解説にあるが、聞いているとこの詩を私も知っている、とおもい出す。
NHKでいつこれを吹き込んだのであろう。それも調べればぐわかるのだろうが、中野重治のこの自作朗読の声はゆったりとして、そして詩の意味に添ったリズムで読み上げられて、中野の胸の内を直かに問くおもいにさせた。しかもそれは一九三七年のその時のおもいとしてだけではなく、中野重治の生涯にわたる嘆きとして聞えだ。それは中野の死の直前までつづけられた仕事を知っているものにすぐ受け取られることであったろう。

この自作朗読の前だったろうか。鈴木瑞穂氏の「雨の降る品川駅」の朗読があり、この詩が私たちに親しいから、それも告別式の情景の中で、中野を偲ぶ感情に添って、波のひびきのように聞え、それはそれとしてよかったのだが、「わたしは嘆かずにはいられない」と中野自身がその詩を続行のを闘くとき、中野重治の全生涯へのおもいが私をとらえた。映画製作者たちがこの自作朗読の原盤を、NHKから探し出した過程はどういうことだったろう。土本典昭さんに「偲ぶ・中野重治」を製作中のこまかな話を直接にはまだ聞いていない。が、この自作朗読の原盤をキヤッチしたのは[最高の録音だった]と土本さんも書いている。これは製作者たちの情熱であったろう。

 土本さんは中野の郷里である福井県の在にもゆき、中野家の墓所を写してきて、それもこの映画に収められた。その墓所で終る「偲ぶ・中野重治」は白黒・55分である。
55分が終ったとき、岩波小ホールは静かであった。その中で土本さんから原泉さんにこの一巻が贈られ、そのとき拍手があった。
 中野重治の告別式をこの映画によってもう一度たどりながら、しかし私にとってそれがまた新たな感動であったことは確かである。
「偲ぶ・中野重治」を製作者は「映像による現代の保存さるべき資料の一部になれば」と述べているが、その意図は、中野重治その人が、現代という意味を伴う、ということなのであろう。告別式をつぶさに追うこの記録映画の中で、現代を生きた中野重治の生涯が私の内に浮び出る。ホールを出ながらひとりの友人が私に言葉をかけた。この映画を作った意味がわかった、と。私は、私の受取り方でその言葉にうなずいた。



【越境するサル】No.089「1979年へ⑦~土本、中野重治の葬儀を撮る~」(2010.07.24発行)

越境するサル/成田清文(harapapメンバーズ)

執筆者: harappa
 2008年に亡くなったドキュメンタリー映画監督土本典昭は、1979年、『偲ぶ・中野重治ー葬儀・告別式の記録ー1979年9月8日』(以下、『偲ぶ・中野重治』)という作品を製作している。長い間、上映会等で出会いたいものだと考えていたが、なかなかその機会は訪れなかった。

 先月、思い切ってDVDを購入し、早速鑑賞した。土本典昭と中野重治、それぞれの作品に影響を受けている私にとって、大きな意味を持つ体験であった。しかも「1979年」である。

「1979年へ⑦~土本、中野重治の葬儀を撮る~」
 『偲ぶ・中野重治』は、1974年、神山茂夫の告別式における中野の弔辞のシーンから始まる。その中で中野は、「史実偽造、事実の抹殺に対して、いろいろな事を記録に残してほしい」と訴える。そして音楽(ゲオルグ・ザンフィル「パン・パイプ」)をバックに、中野の経歴と作品歴が示される・・・

 1979年9月8日、東京青山葬儀場。壇上に置かれた遺骨、遺影、「中野重治全集」。小田切秀雄が司会をつとめ、8人の弔辞が続く。 山本健吉、国分一太郎、尾崎一雄、石堂清倫、臼井吉見、桑原武夫、宇野重吉、本多秋五。

 「中野は羞恥心を持ち合わせていた」と語る山本、「本来来てよいはずの人が告別式に来ない」と語る国分、「立場の違いから批判されたが、近年病床の自分を見舞ってくれた」と語る尾崎、こみ上げる悲しみに弔辞を中断し中野の19歳のときの句を詠む石堂、「中野は、上質の人間的なものに対する心からの感動と、下等で非人間的なものに対する本能的な憎しみを持ち合わせた人だった」と語る臼井、「中野は、誠実と心のあたたかさ、戦う意志が渾然一体となった人物」と語る桑原、選挙の手伝いをした頃の想い出を語る宇野、「晩年は親鸞のようだった」と語る本多。

 友人総代・佐多稲子による病状経過報告、喪主原泉の挨拶。ふたりはずっと手を握り合っている。

 献げられたほおずきの実、朗読「雨の降る品川駅」、会葬者の群れ、さらに中野自身の朗読「わたしは嘆かずにはいられない」、故郷・丸岡町の墓所・・・映画はここで終了する。55分。

 戦後日本共産党の文化部門の「顔」であり、「新日本文学会」のリーダーであった中野重治の晩年は、自らがその人生の大部分を献げた日本共産党からの除名という事件に大きく規定された。

 除名処分に対する異議申し立てと党に対する批判的論説・行動、それが除名された1964年以降の中野の日々のほとんどすべてである。もちろん「全集」という形での文学的達成も、晩年の日々になされたのではあるが・・・

 『中野重治全集』(筑摩書房、全28巻)別巻「年譜」を頼りに、中野の略歴を追いかけてみる。

 1902(明治35)年福井県に生まれた中野は、金沢の旧制四高を経て22歳で東京帝国大学に入学(文学部独逸文学科)、同人誌を中心に詩作を続ける。その一方「新人会」でマルクス主義を学び、日本プロレタリア芸術聯盟・全日本無産者芸術聯盟に参加、『戦旗』の創刊・編集にも関わる。

 1928(昭和3)年以降何度か逮捕される(この間、原泉と結婚、1931年には日本共産党入党)が、1934(昭和9)年「転向」して出獄、以後敗戦まで当局の監視を受ける。

 1945(昭和20)年、日本共産党に再入党。以後、「アカハタ」文化部長、参議院議員、「新日本文学会」書記長と表舞台で活躍するが、所感派と国際派に党内が分裂した1950(昭和25)年のいわゆる「五〇年問題」(中野は国際派に属した)以降離党に至るまで、党内問題ではつねに非主流派的な立場に追いやられた。

 1964(昭和39)年、日本共産党は部分的核実験停止条約に反対する党の決定に従わないことを理由に神山茂夫・中野重治の除名を決議。両名はこの決定を不当として共同声明を発表。その後両名は「日本共産党(日本のこえ)」の結成に関わる。

 その間の党との軋轢を描いたのが、1964年から1969(昭和44)年にかけて書かれた長編小説『甲乙丙丁』である(※注)。

 その他の代表作として、『中野重治詩集』(1931年)、『歌のわかれ』(1940年)、『むらぎも』(1954年)、『梨の花』(1959年)がある。

 さて、ここまで記してきた中野重治の人生と、ドキュメンタリー映画作家土本典昭の人生がどこで交錯するのか。中野が、土本の水俣についての映画を高く評価していたことはたしかだ。だが、土本が中野を記録しようとしたのは何故か。このことを私なりに解明(というより納得)しようというのが、今回の通信の目論見である。

 土本典昭・石黒健治共著『ドキュメンタリーの海へー記録映画作家・土本典昭との対話ー』(2008年、現代書館)巻末の「年譜」を頼りに土本の略歴を追いかけてみる。

 1928(昭和3)年岐阜県に生まれた土本は、1946(昭和21)年早稲田大学専門部法科に入学(3年後、第一文学部史学科に再入学)、1947(昭和 22)年「二・一スト」後に日本共産党に入党、全日本学生自治会総連合(全学連・武井昭夫委員長)の活動家として活躍する(全学連副委員長、財政・機関紙担当)。

 1950(昭和25)年、コミンフォルム批判を受けて日本共産党が所感派と国際派に分裂した際は国際派に属した。そのため、翌年の国際派追放の流れの中で、武井委員長とともに副委員長の地位を追われる。

 1952(昭和27)年、早稲田大学除籍。「山村工作隊隊員」として東京・小河内村へ行くが、小河内事件で逮捕、以後3年間裁判闘争を続ける(日本共産党党籍離脱は1957年)。

 1956(昭和31)年、岩波映画製作所に臨時雇員として入社。翌年退社するが、以後フリーランスの立場で同社で記録映画(TVとPR映画)の演出を続けるとともに、羽仁進監督のスタッフとして働く。

 1963(昭和38)年、長編ドキュメンタリー第1作『ある機関助士』、翌年第2作『ドキュメント路上』発表。60年代はその後、『留学生チュアスイリン』(1965年)、『シベリヤ人の世界』(1968年)、『パルチザン前史』(1969年)と続く。

 70年代は、土本の代名詞となった「水俣」と関わり合った10年間と言うべきだろう。1970年撮影に入り、1971(昭和46)年、『水俣ー患者さんとその世界ー』発表。この作品を携えて3ヶ月、ヨーロッパを上映行脚。

 以後、『水俣レポート1 実録 公調委』(1973年)・『水俣一揆ー一生を問う人びとー』(1973年)・『医学としての水俣病ー三部作ー』(1974年)・『不知火海』(1975年)と大作・秀作を作り続け、『わが街わが青春ー石川さゆり水俣熱唱ー』(1978年)に至る。

 そして1979年、天草をロケハンしている途上、土本は中野の訃報をテレビで知る。葬儀の日に間に合うことがわかった土本は「有志の会」を急遽結成し、仲間の映画人と連絡をとる。こうして中野の葬儀は撮影された・・・

 ここまでふたりの略歴を追いかけてきたが、こうして表に出ている人生を比較しただけでもいくつかの接点があることがわかる。

 戦前の弾圧で「転向」を選択したが、時代の制約の中その後も書き続け、戦後は日本共産党に再入党しオピニオンリーダーとなる中野。戦後日本共産党に入党し、全学連の活動家として活躍した土本。

 「五〇年問題」ではともに反主流派(国際派)に所属したふたり。中野はその後も非主流派として党内に残るが、1964年除名。土本は「不満分子」として(懲罰的意味合いもあったというが)「山村工作隊」に編入され逮捕、1957年党籍離脱。

 文学者である中野、映画監督である土本、それぞれにとって「党」は愛と憎しみの対象であり「政治」(「革命」)は本来第一義的なものであった。しかし彼らふたりは表現者として生きた。「今の生き方は違う」という意識はあったにせよ、だ。

 『偲ぶ・中野重治』の冒頭、「これは記録のために作った映画である」と字幕が出る。そして「史実偽造、事実の抹殺に対して、いろいろな事を記録に残してほしい」と訴える中野自身の映像が続く。

 「党史」から消えた人々や事実を記録しなければならない。むろん「党史」だけに限るわけではないが、土本は使命感をもって「記録」に向かう。土本典昭・石黒健治共著『ドキュメンタリーの海へー記録映画作家・土本典昭との対話ー』の中で、土本はこの映画の製作動機について次のように語っている。

 「あれだけの芸術家として人生を全うした人だったら、僕らの常識では、全国の人民とは言わないまでも、共産党をはじめ革命家の手によって厚く葬られるのが当然だと思うけど、共産党の指導部や幹部は<反党分子>として彼の葬儀には参加しない。まあそうなるかなとは思ったけど、党のそのときの考え方によって、革命家としての履歴を持った人が無視され、記録されないのはおかしい。それなら一矢報いよう、という思いはありました。」

 中野の葬儀自体は、大手出版社の葬儀担当者が取り仕切った「ブルジョア化した葬儀」(と土本は言う)に過ぎない。だが、8人の弔辞の見事な切り取り方をはじめ、この映画の印象は(つまり表現は)、土本の作品の中でもひときわ鮮烈さを放っているように見える。

 それが何故なのか、そして80年代の土本作品にどうつながっていくのか。いまの私には、まだそこまで展開することはできない。
(※注) 『越境するサル』№1「記憶へ歩き続ける男」参照。

<後記>
 『偲ぶ・中野重治』という作品は、当初私が考えていた以上に奥行きを持っていた。奥行きとは、その歴史的意義のことであり、さらにはその表現の見事さのことである。もちろん登場人物たちひとりひとりの印象も強烈であった。「1979年へ」シリーズのひとつとして展開すべきテーマであったことは疑いない。
 だが、本格的に展開するには土本作品をもっともっと観なければならないし、中野作品をもっともっと読まなければならない。そのことを痛切に感じた。したがって、またしても宿題がふえたことになる・・・
 次号は安藤昌益に関する内容を考えている。来月、安藤昌益をテーマのひとつとする研究会に出かける(八戸)。せめて1年にひとりくらいは日本の思想家と向き合いたいと考えていたので、ちょうどいい機会だ。その次の号からは、映画についての話題が続く。年内に発信する『越境するサル』の予定はすべて決まっている。

[harappaメンバーズ(映画部)=成田清文]

※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。

  1. 2013/10/24(木) 03:10:03|
  2. 未分類

秘密保護法案

古本屋通信  No 476  10月19日

 
 秘密保護法案


 いつものようにひろ子ワールドから転載です。最新記事です。河村さん、お世話になります、ありがとう。


みなさん、知ってますか?
「秘密保護法案」を   
河村ひろ子   2013-10-18
簡単に説明をすれば
国民に知らせたくない情報を国が隠し
国民がその情報を知ろうとすれば厳罰を処すのです
ほんと、これは恐ろしい中身なのです
国民の「知る権利」を剥奪し
国民の知らない間に、いろんな事が国家だけで決まっていく
(ケイトの花が咲いていました。思わず触っちゃう~)
最大の狙いは「戦争ができる」国づくり
秘密保護法案に対して、各界から批判が続出です!
あの、藤原紀香さんも「おかしい」と表明しています
日本弁護士会や日本ペンクラブ、日本新聞協会なども
「強い危惧」を表明しています
15日、安倍首相は所信表明演説で
米国にならって、外交・軍事政策の司令塔となる
「国家安全保障会議(日本版NSC)創設を」と述べました
秘密保護法を一体にすすめる安全保障とは・・・・?
う~んとっても危険な臭いがするなぁ・・・

戦争をする国づくりなんて信じられないかもしれませんが
日本政府が行っている政策をみると
残念ながら「戦争への道」は確かだ、と感じます
母としても戦争は絶対に反対
秘密法案は許さず、平和憲法を守る闘いを頑張らなくちゃ!!

 すこし共産党をケナシたので、ここらで党支持者としてバランスをとっておく。この法案が戦争への一里塚であることは共産党も骨身にしみている筈だ。これに反対しているうちは共産党も大丈夫だ。赤旗の関連記事を紹介する。連載記事・秘密保護法案Q&Aである。きょう全9回が全て終了した。転載にあたっては私が読み易くした。赤旗の日付け等は省略してある。これらに対する私の批判はない。全面的に赤旗を支持する。転載に当たってひとことだけ皮肉を言っておく。いい記事だ。赤旗にはいい記者が多くいる。地方の市会議員クラスにもピカイチがいる。どうして国会議員や常任幹部会委員にはアホウがいるんだろうか。この世界でも人間エラクなるとダメになるんだろうか。(古本屋通信)。



秘密保護法案 Q&A
 
「秘密」範囲 歯止めなし
 安倍内閣は秋の臨時国会へ「秘密保護法案」を提出しようとしています。安倍首相が「日米同盟強化のため」と強調するこの法案で、何を目指すのか、国民にどのような影響があるのかをQ&Aで考えていきます。

「秘密保護法」の対象
密保護法」の対象になる「秘密」ってなんですか?

 政府の原案では、国の安全保障に関わる(1)軍事(2)外交(3)外国の利益を図る目的で行われる特定有害活動の防止(4)テロ活動の防止―の4分野が対象です(図)。各分野で秘密にする「事項」をリスト(別表)にして“絞り込む”方式ですが、秘密にするかどうかは行政機関の長(閣僚など)次第。何が秘密かも「秘密」―という事態になりかねません。

紀香さんの懸念
 女優の藤原紀香さんは9月、自身のブログにこうつづりました。
 もし国に都合よく隠したい問題があって、それ(法律)が適用されれば、私たちは知るすべもなく、しかも真実をネットなどに書いた人は罰せられてしまう…なんて恐ろしいことになる可能性も考えられるというので、とても不安です

 法案の本質をついた指摘です。秘密を漏らした国家公務員に加え、秘密を知ろうとするメディアや一般国民にもこれまでにない重罰を科そうというのが法案の狙いです。

 国家機密にあたる範囲が曖昧なのが問題なのだと思います

 藤原さんは別の問題点も指摘しています。

 法案は、例えば(1)軍事のリストでは10項目を列挙。中身をみると「自衛隊の運用、これに関する見積もり、計画、研究」などとあります。これでは、自衛隊の活動についての非常に広範な情報が秘密の対象になります。

運用で膨大な量
 この軍事リストは現在の自衛隊法が定める「防衛秘密」と同じもの。「防衛秘密」の場合、法律で決められている10項目が運用にあたって233項目に細分され、それにしたがって指定された3万752件という膨大な量の秘密が保有されています(2011年時点)。

 リストが秘密を“絞り込む”どころか、政府の裁量でいくらでも増やせるというこの仕組みで、(4)テロ活動防止の分野では原発関連の情報なども「秘密」になりえます。国家の恣(し)意(い)的運用を防ぐ歯止めはありません。


ワイン購入まで闇の中

憲法では国民の「知る権利」が保障されていると思いますが、それとの関係はどうなるのでしょうか。

 「知る権利」とは、国に対して情報の提供を求める権利や、国家の妨害を受けずに自由に情報を受け取る権利をいいます。国民主権の原理や基本的人権である「表現の自由」から説明されます。

回答も「黒塗り」
 「秘密保護法案」で政府は「知る権利」を明記するといっていますが、本当に「知る権利」を尊重し、擁護するものではありません。「秘密保護法案」の概要や原案を読む限り、軍事・外交・テロ活動などの情報統制強化や、国民監視につながる基本的人権の抑圧、国家安全保障会議などでの活用を目的にしているからです。

 実は、政府の情報は今でも「秘密」だらけです。米軍が日本に核兵器を持ち込む日米核密約、アメリカに日本を売り渡す環太平洋連携協定(TPP)交渉、首相や官房長官らが領収書なしで使える内閣官房機密費、在外公館のワイン購入に関する情報に至るまで政府は秘密にし、国民の「知る権利」を侵害しつづけています。

 政府の「秘密保全法制」の検討経過について「しんぶん赤旗」が情報公開請求したところ、「黒塗り」の文書が返送されてきました(写真)。秘密保護法案そのものが闇に隠されています。

国民監視の活動
 それどころか、自衛隊の秘密漏えい防止を目的とする自衛隊情報保全隊が、国民個人の名前・住所・学歴・所属団体・所属政党などを収集し、文書にまとめる活動をしています。自衛隊のイラク派兵の際には、著名な映画監督や集会、デモ、学習会、日本共産党員作家の小林多喜二の展示会まで監視されました。

 国民の「知る権利」というなら、自衛隊情報保全隊による監視活動を直ちにやめ、情報公開法の改正、公文書管理法の改正に着手すべきです。「秘密保護法案」は提出すべきではありません。


国民・メディアも厳罰


 「秘密保護法」では一般国民も厳罰の対象になるのですか?

 対象になります。法案は国の「秘密」を知ろうとする行為を“未然に”防ぐ発想から、広範な国民の活動を厳罰の対象としています。

取材どころでは
 「防衛省なんて取材どころじゃなくなりますよ」。ある大手紙の記者は法案への懸念をこう漏らします。日本新聞協会も2日、「強い危惧」を表明しました。法案に「報道の自由に十分に配慮」とあるにもかかわらず、批判や懸念が相次ぐのはなぜでしょうか。

 一つは、「管理を害する行為」で「秘密」を知ろうとした外部の人間にも重罰を科すからです(図、最高懲役10年)。「管理を害する」の意味は不明確で、対象には「秘密」をもつ公務員を取材するジャーナリスト、情報公開を求めて活動する市民団体や弁護士なども含まれます。未遂でも罰せられます。

 さらに重大なのは、「管理を害する行為」をしたとみなされる本人だけでなく、その周囲にいる人間も広く処罰される点です。「秘密」を得ようとする行為を、(1)2人以上で計画する(共謀)(2)他人に勧める(教唆)(3)不特定多数に呼びかける(扇動)―これらは最高で懲役5年です。(1)は国会で繰り返し廃案になってきた共謀罪創設を先取り、(2)では勧められた人が「その気」にならなくても処罰されます。

 「秘密」を知ろうとする活動を市民団体などが相談してもダメ、デスクが記者に取材を指示してもダメ、識者が講演してもダメ―ということになりかねません。

 このような広い範囲の活動が厳罰を伴う“罪”になれば、治安当局は犯罪が起こる前から捜査を理由に国民を監視できることになります。政府に批判的な言動を弾圧することも可能です。

萎縮効果は絶大
 このような法案の仕組みは、国民全体の言論活動に大変な萎縮をもたらします。冒頭の記者が口にするように、処罰される行為が何なのかが分からないと、厳罰を恐れて正当な行為まで自粛してしまうということです。「報道の自由」どころか、表現・言論の自由に対する配慮もありません。


公務員を萎縮させる

 公務員には一般的に守秘義務がありますが、国民への情報公開も責務では?

 現行の国家公務員法では、職務上知ることのできた「秘密」を漏らすと、1年以下の懲役か50万円以下の罰金ですが、「秘密保護法案」では「故意の漏えい行為」を最高懲役10年に厳罰化し、過失や未遂、共謀、教唆、扇動まで処罰対象にしています。

執行猶予つかず
 懲役10年に執行猶予はつきません。情報公開に対する公務員の姿勢をいっそう萎縮させる可能性は大です。

 行政機関の保有する情報は本来、誰のものでしょうか。憲法の国民主権の原則、「知る権利」によれば、行政機関の長の恣意(しい)的な運用にゆだねていいものではありません。日本弁護士連合会(日弁連)の意見書が指摘するように「そもそも国政の重要情報は、主権者たる国民のもの」だからです。

 行政機関では国家公務員約64万人、地方公務員約277万人が働いています(2013年現在、総務省資料)。「秘密保護法案」に記された行政機関には、内閣府と防衛省、外務省、警察庁、宮内庁など全省庁、会計検査院、各種の委員会、試験研究機関、検査検定機関、文教研修施設、医療更生施設、矯正収容施設、作業施設、特別の機関などが含まれます。

学問の自由侵す
 各省庁から地方公共団体、民間団体に出向し、逆に民間団体の技術者、労働者が省庁に出向する人事交流もあり、行政機関の関係者だけでも処罰対象者はとめどなく拡大していきます。科学技術が軍需や原発に使われることから、「軍事機密」「テロ活動防止」と称して大学などの研究者に秘密保持義務が課せられ、学問・研究活動の自由が侵害される恐れもあります。

 「秘密保護法案」を準備してきた内閣情報調査室は警察からの出向者が多数です。同法案では警察庁長官が都道府県警の保有する情報提供を求めることができるなど、警察の中央集権化も狙っています。警察の不正も隠される恐れがあります。


国会議員まで処罰

 秘密指定された情報は、国会ではどのように扱われるのですか?

 国会は主権者国民の代表機関であり、国権の最高機関、唯一の立法機関(憲法41条)です。したがって国会には、行政機関が保有する専門的な情報を広く集めて、法案をつくり、それを審議し、行政を監督する活動の基盤とすることが当然求められます。

 そのために憲法は、衆参両院に対し国政調査権を保障しています(62条)。それは、少数党が政府・与党を追及、批判することを通じて、国民の知る権利にこたえる重要な役割を果たすものでもあります。

議会政治がマヒ
 ところが、秘密保護法案は、秘密を国会に「提供」する前提として、非公開の秘密会であることを要求。国会に提出する場合も、国民の目には触れないという「制限」を課しているのです。秘密会の開催には3分の2以上の議員の賛成が必要なので、これをクリアできなければ、国会には出さないでよいということになります。

 その上、秘密会で知った秘密を漏えいした場合には、国会議員さえも懲役5年の処罰を受けるとしています。

 これでは、秘密会に参加した国会議員が、自分の所属する政党に持ち帰って議論することも、専門家に意見を聞くこともできなくなります。これでは当たり前の議会政治、政党政治がマヒしてしまうことになります。

重要情報出ない
 驚くべきことに、これだけ国会に対する制約を課したうえで、行政機関の長がなお「我が国の安全保障に著しい支障を及ぼす」と判断すれば、結局“秘密”を公開しないとしているのです。これでは、多数派と行政の判断一つで、国会に重要情報がまったく出てこないことになります。

 国会議員には、議院における発言について院外で責任を問われないという免責特権が与えられているので、秘密会で知りえた秘密を国会活動の中で提示しても処罰することはできません。そうなると刑罰の脅しも限界があるため、行政機関の判断で結局、「提供」しないこととしているのです。

 国会中心の民主的政治運営が、行政と官僚が支配する「専制」へと逆転しかねません。


身辺調査で国民監視

秘密保護法案では国民への身辺調査を行うのですか?

 政府の原案では、「秘密」にたずさわる人物が漏えいする恐れがないかを調べる「適性評価」として、身辺調査を行うとしています。

民間人も対象に

(写真)調査対象と、その周辺人物のプライバシーを徹底的に書き出させる防衛省の「身上明細書」

 適性評価は、行政機関の職員だけでなく、民間人も対象となります。例えば軍事や原子力にかかわる企業の社員や、共同研究などを請け負った大学の研究者らに対しても身辺調査が行われることが考えられます。

 政府原案では、(1)「特定有害活動及びテロリズムとの関係に関する事項」(2)犯歴や懲戒歴(3)情報の取り扱いについての非違歴(4)薬物の影響(5)精神疾患(6)飲酒(7)信用情報や経済状況―について身辺調査するとしています。

 身辺調査は、本人にとどまらず家族や父母、子ども、兄弟、配偶者の親族、同居人も対象としており、多くの市民のプライバシー情報を侵害します。調査のために、例えば病院や金融機関などに照会することも可能です。

 調査で具体的にどんなことを聞くのか―。手がかりになるのが、国の行政機関で2009年から行われている「秘密取扱者適格性確認制度」です。

 本紙が入手した「身上明細書」と書かれた防衛省・自衛隊の内部文書(本紙3月15日付既報)では、プライバシー侵害の実態が明らかになりました。

 同明細書は、「適格性確認制度」に基づいて、調査対象の自衛隊員に19項目にわたる個人情報をたずねています。このなかで家族や親族、知人の職業や勤務先の記入が求められ、知人にいたっては「交友交際の程度」を回答しなければなりません。

自衛隊に情報が
 記入方法のマニュアル文書には「記入に際しては、本人に問い合わせて確認してはならない」としており、本人の知らないところで個人情報が自衛隊に知られることになります。

 「所属団体」については「政治、経済等の団体及び出身学校関係の親睦団体からスポーツクラブその他あらゆるものについて、現在過去問わず記入する」としています。思想信条の自由を侵すだけでなく、「秘密」と無関係の国民の活動を監視するものといえます。


「戦争する国」への入り口

 「秘密保護法」は米国が求めてきたものと聞きましたが…。

 米国は米軍と自衛隊の一体化や、日本との武器の共同開発が進む中、自らの軍事情報が日本から漏れることを懸念し、これを防ぐ措置(=罰則強化など)を繰り返し要求してきました。

 アーミテージ元国務副長官ら米国の超党派シンクタンクが発表した報告書は2000年、日本に秘密保護の法整備を要求。同報告書は、集団的自衛権の行使を求めるなど日米軍事同盟の強化に大きな影響を与えてきたものです。

 両政府間では05年の2プラス2(軍事・外交担当閣僚会合)共同文書で、「秘密保護の追加的措置」を軍事協力のための「不可欠な措置」として合意します。そこにはこんな一節があります。

あらゆる範囲で
 「部隊戦術から国家戦略レベルまで情報共有・協力をあらゆる範囲で向上させる」。米国の軍事戦略との“融合”を首脳(官邸)から末端の兵隊(戦場)まであらゆる層で進めるということです。

 07年には軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を締結。この中で米側は、日本側に提供した秘密軍事情報に「同等の保護」を求めました。つまり、米国自身が秘密漏えいに最高10年の懲役を科すのに対し、多くの場合が懲役1~5年で、秘密を扱う者への“身辺調査”制度もない日本の法制度が“甘い”ということです。「秘密保護法」ができれば、懲役が最高10年で「同等」になります。

 協定締結の前日、日本政府は公務員への“身辺調査”制度の導入を決定。今回の「秘密保護法」を先取りする措置を法律1本通すことなく成し遂げました。

 日米軍事一体化は、政府同士や軍同士にとどまりません。法案が軍需産業などの民間企業も秘密を扱うことを前提にするように、武器の共同開発の拡大も念頭にあります。

軍事国家に変質
 安倍首相はこの法案を集団的自衛権の行使や国家安全保障会議(NSC)の設置とともに、「日米同盟強化を見据えたもの」と位置づけています。そこには、政府から軍需産業まで一体となって「米国とともに戦争できる国」に変えるための“入り口”にする意図がはっきり示されています。


軍事司令塔づくり

 安倍内閣が秘密保護法案とセットで成立を狙う日本版NSC(国家安全保障会議)設置法案とは何ですか?

 日本版NSC設置法案は、首相と防衛相、外相、内閣官房長官の4人を中心とする「国家安全保障会議」で軍事・外交・安全保障などの「重要事項」を審議する軍事司令塔をつくるものです。米国政府のNSC(大統領、副大統領、国務長官、国防長官で構成)がモデルです。

作戦決定迅速化
 同法案では、内閣官房に「国家安全保障局」(日本版NSA)を新設するとしていますが、日本版NSAがどのような組織になるかは具体的に明記されていません。

 いわば、アメリカと一体で戦争を行う体制に向けて米大統領のホワイトハウスと日本の首相官邸を結び、戦争の作戦決定を迅速化する仕組みです。

 政府は日本版NSC設置法案を先の通常国会にすでに提出し、今回の臨時国会で審議する予定です。安倍首相は法案の成立前から自衛隊高級幹部(空将補)を内閣官房審議官(安全保障・危機管理担当)に任命し、「国家安全保障会議」設置の準備にあたらせています。

各国公館を盗聴
 安倍内閣がお手本とする米国の「国家安全保障局」(NSA)は、同国最大の情報機関で、国連や欧州連合(EU)、各国の在米公館を盗聴していたことが明らかになり、大問題となっています。

 「秘密保護法案」を準備してきた内閣情報調査室(内調)は「日本版CIA」とも呼ばれてきた情報収集機関です。内調のもとにスパイ衛星を運用する「内閣衛星情報センター」が置かれていますが、大規模災害への対応を目的に掲げながら、福島第1原発事故の状況や台風被害の状況をつかむ画像の公開を拒否しています。

 米国の情報機関や内調の動向からも、「秘密保護法案」が成立すれば、およそ国民の生命・安全のためとはいえない「国家安全保障会議」「国家安全保障局」が暴走する危険性は十分にあります。 


戦争は「秘密」から始まる

 そもそも「秘密保護法案」は必要ですか?

 まったく必要ありません。「秘密保護法案」の狙いは、アメリカ政府の要求にこたえて日本国民の目・耳・口をふさいで「海外で戦争する国」づくりを進めることにあるからです。

最高刑が死刑に
 戦争は、「秘密保護」と国民弾圧の法規で準備されてきた歴史があります。戦前の絶対主義的天皇制国家は、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)に前後して軍事機密(軍機)を隠す法制をつくりました。

 軍機保護法(1899年)は「軍事上秘密を要する事項または図書物件」の探知・収集や秘密の漏えいなどを懲役15年以下で罰するものでした。1937年の日中全面戦争下で最高刑が死刑・無期に引き上げられ、予備・陰謀、誘惑・扇動などの行為も処罰対象としました。

 天皇制国家は、とくに日本共産党の主権在民と反戦平和の主張を弾圧するため、1925年に治安維持法(懲役10年以下)をつくり、緊急勅令(28年)で最高刑を死刑に引き上げ、さまざまな口実で国民を弾圧していきました。

 41年の太平洋戦争開戦前には、「国家機密」の範囲を外交、財政、経済などに拡大した国防保安法(最高刑は死刑)をつくり、治安維持法に「予防拘禁」制度を加え、「秘密保護」と国民弾圧の体制を強化しました。太平洋戦争開戦日の12月8日には、札幌で北海道帝国大学の学生が、大学教員の米国人夫妻に旅行先の見聞を語っただけで軍機保護法違反で逮捕される悲劇が生まれました。戦後、釈放された学生は27歳で病死しました。えん罪事件の真相解明、名誉回復のたたかいが現在も続いています。

国民運動で阻止
 戦後、治安維持法や軍機保護法、国防保安法は廃止されました。日本国憲法が侵略戦争の反省をふまえ、国民主権や基本的人権、平和主義を「人類普遍の原理」とし「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」(前文)と宣言しているのもそのためです。

 1980年代半ばに自民党議員が国会に提出した「国家機密法案」(最高刑は死刑)に対して国民は大々的な反対運動を展開し、廃案に追い込みました。憲法違反の「秘密保護法案」は絶対に阻止しなければなりません (おわり)


国民の目耳口ふさぐ秘密保護法案  
超党派の勉強会
  2013年10月16日(水)  しんぶん
赤旗
 超党派の国会議員と市民が秘密保護法案の問題点を考える勉強会の第2回が16日、国会内で開かれ、野党5党の国会議員17人や市民ら90人が参加しました。各党議員らは口々に法案提出阻止の決意をのべました。

 日本共産党の山下芳生書記局長代行・参院議員は「国民の目、耳、口をふさぎ、アメリカとともに海外で戦争する国づくりが狙い。このことを国民に知らせて法案提出を阻止するため頑張る」と表明しました。

 生活の党の鈴木克昌代表代行・幹事長は「憲法は国の最高法規。情報統制を基本的人権の上位におくことは明らかに違憲だ」と強調しました。

 民主党の辻元清美衆院議員は「三権分立と民主主義の根幹が崩されかねない」、みんなの党の真山勇一参院議員は「このままでは国民の知る権利が侵される」、新党大地の鈴木貴子衆院議員は「国民が声を上げることを萎縮させる法案は危うい」と警鐘を鳴らしました。

 日本弁護士連合会秘密保全法制対策本部長代行の江藤洋一氏と新聞労連副委員長で琉球新報記者の米倉外昭氏が基調講演しました。

反対の市民団体 広島ネット結成
 安倍政権が今国会で成立を狙う秘密保護法に反対する市民団体「STOP!国家秘密法広島ネットワーク」が15日、結成されました。自民党が1985年に最高刑が死刑で提出して廃案に追い込まれた「国家秘密法」と実質は変わらないとして、団体の名称に「国家秘密法」を使用します。

 広島市中区の原爆資料館で開かれた結成集会には約100人が参加し、「主権者である国民の耳目(じもく)をふさぎ、口を封じる法案には、私たちは断固反対です」とのアピールを採択。山田延廣弁護士ら4人を共同代表に選出し、国会で法案に反対するよう求める嘆願書を国会議員に送る取り組みを確認しました。

 産経新聞社記者を経て弁護士になった尾山慎太郎・広島弁護士会秘密保全法制問題対策プロジェクトチーム幹事が講演し、法案の問題点について「知る権利を萎縮させ、民主主義の根幹をゆるがす」と告発しました。

監視社会を拒否 「会」が反対声明
 監視社会を拒否する会(共同代表・伊藤成彦中央大学名誉教授ら4氏)は14日、安倍自公政権が成立をねらう「秘密保護法」の制定に「政府による強権的かつ強圧的な情報統制・表現規制の企てには絶対反対」とする声明を発表しました。

 声明は、「行政機関の長」(大臣や警察庁長官等)が自分の判断だけで特定の情報を「特定秘密」に指定することができ、「内部告発者」やジャーナリスト、市民らを念頭において、秘密漏えい行為とともに秘密取得行為にも重罰を科すことは「『特定秘密』を明らかにしようとする団体の弱体化をめざすおそれ」と指摘しています。



「戦争する国」に連動
秘密保護法案反対で集会   2013年10月16日(水)  しんぶん赤旗
 安倍政権が臨時国会に提出をねらう秘密保護法案に反対する院内集会が15日、国会内で開かれ、約90人が参加しました。法律家や労働組合、ジャーナリスト、女性組織などでつくる「STOP! 秘密保護法共同行動」の主催です。

 清水雅彦・日本体育大学准教授は、日本版NSC(国家安全保障会議)設置法案や改憲など、戦争する国づくりの動きと「連動している」と指摘。「国民に何も知らせず、国家中心で物事を決める体制づくりが着々と進んでいます。こうした動きを止めるためには、秘密保護法を今止めることが非常に重要です」とのべました。

 田島泰彦・上智大学教授は「情報源を厳罰に処すというのが法案のミソ。政府・行政機関は情報を出さなくなり、取材もできなくなる。『メディアは規制されない』という見方は大間違いです」と発言。

 自由法曹団の森孝博弁護士は「私たちの目、耳、口をふさぐ法案で、絶対に認められない」。

 毎日新聞の臺宏士氏は、東京電力福島第1原発の事故で、真実を伝えるためにジャーナリストらが行ってきた潜入取材なども認められなくなると話しました。

 日本共産党の赤嶺政賢衆院議員、仁比聡平参院議員も連帯のあいさつをのべました。
  1. 2013/10/19(土) 03:07:04|
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共産党のHPより

古本屋通信  No 475  10月18日

 共産党の HPより


  本日の日本共産党の HP から引用する。

 先生の時間外労働月91時間  しんぶん赤旗  10月18日(金)
 自宅でも仕事、過労死レベル 全教実態調査

 全日本教職員組合(全教)は17日、「勤務実態調査2012」のまとめを公表しました。調査は10年ぶり。全国6879人の教職員から深刻な実態が寄せられました。
 教職員の1カ月の平均時間外勤務時間(校内)は69時間32分でした。家に持ち帰った仕事を加えると、時間外労働は月平均91時間13分にも。厚生労働省の過労死ライン(月80時間)を10時間以上超過するレベルです。
 なかでも部活動顧問をしている教諭の時間外労働は長く、月平均95時間56分にのぼりました。部活動指導や、平日にこなしきれない仕事を土日に回すことにより、2006年の文部科学省調査と比べて土日の時間外労働が急増しました。
 教諭の81・5%が仕事のやりがいを感じています。同時に「授業準備の時間が足りない」が75・8%、「おこなうべき仕事が多すぎる」が84・6%を占め、強いストレスを感じる項目の第1位は「業務の量」でした。
 減らしてほしい仕事は「資料や統計作成、報告提出など」が33・2%と最多で、2位の「会議・打ち合わせ」(11・7%)を大きく上回っています。
 今谷賢二書記長は「勤務実態はすさまじく、一刻の猶予もないことが改めてわかりました。教職員の命と健康を守り、子どもの教育を充実させるために、負担となる仕事を減らし、教職員定数を抜本的に増やしてほしい」と話しています。



 以下、古本屋通信
 これは企業における労働実態ではない。教職員(公務員)労働の実態である。公務員は残業規定も、36(サブロク)協定も、残業手当もある訳ではないが、れっきとした労働者である。全教の組合員でこれだ。「時間外労働は月平均91時間13分」。これは年に換算すれば1100時間になる。共産党が国会に提出した法案の年上限360時間を遙かに超える。しかも全てサービス残業=タダ働きだ。こんな「ブラック」な職場があるか。共産党は「ブラック」職場の筆頭に、全教の職場を名指しで挙げるべきだろう。日本共産党はただちに使用者側(県教委、市教委)を厳しく追及し、今回提出した法案の趣旨に遵って、全国の教育現場に介入せよ。
全国の教育委員会はすべての教育労働者に残業手当を支払え。これまでの未払いのサ-ビス残業代、つまり全残業代を倍化して支払え。午後5時以降の部活を直ちに廃止し、校長は全教職員に帰宅命令を出せ。日曜祭日の対外試合の顧問教師の参加(休日出勤)をやめさせよ。もし参加する教師がいれば、命令不服従として処分せよ。
と、まあこうなる。共産党の法案の趣旨からはこうなる。
 こんな阿呆が何処の世界で通用するのか。全教の組合員の職場の労働実体は改善されなければならない。だが、今回提出した法案がクソにもならないことは共産党系の全教の職場ひとつとっても明々白々だ。
 あのね。超過勤務がよいことでないのは言うまでもない。しかしそれは共産党の専従だって地方議員だって、やらざるを得ないからやっている。たしかに使用者のいない自主的な労働と、資本による強制された労働では、同じ次元では論じられない。しかし、全教の職場がそうであるように、疎外された労働の諸段階に於いても、労働過程のなかに労働者自身の自己実現の部分はある。要は労働者自身が自己実現のためにどう闘っていくかだ。共産党が今回提出した法案は労働者の闘いの妨害以外ではない。それは法案提出の翌々日の「赤旗」記事そのものによって証明された。

 
  1. 2013/10/18(金) 15:08:30|
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