古本屋通信 No 391 8月31日 社会科学と文学 一 今回のタイトル「社会科学と文学」は難しい話ではありません。当ブログは今回初めて民主文学ネタを連続してアップしました。これをこのまま続けると、たぶんアクセスは大幅に減るだろうという話です。既にその兆しはあります。私のブログは商売ではありませんから、アクセスが減っても構いませんが、それにしても文学は不人気ですね。特に民主主義文学は絶不調です。極端に言うと、書いている人以外は誰も読まないのです。 二 18年まえ、私の店は社会科学と文学を半々の商品構成で出発しました。それが今じゃあ(文庫本以外は)文学ゼロです。小説作品はもちろん詩歌も古典もダメ、評論はもっとダメです。つまり売れないのです。吉本隆明が(元々メゲていたけど)晩年あそこまでメゲたのは、ある意味(文筆で飯を食う者として)必然だったでしょう。三 もうかなりまえの事ですが、文芸雑誌の舞台裏(台所事情)は酷かった。読者が出版を支えていないことは確かです。作家・著者は自分の印税収入以外に興味がない。編集者は本の売れ行きに無関心、というよりそんなことを考えていては編集が出来ないのです。そういう意味では見城徹はバランス感覚を備えてると言えるでしょう。四 むかし岡山平和書房が売り上げのピークだった頃、店主の阿部さんが首を傾げていました(雑誌『民主文学』と新日本出版社の小説本を指差して)「どうしてこんな面白くない本を出すんかなあ。売れるのは多喜二・百合子賞の本だけじゃ。その他は8割返品じゃ。荷を解くのも鬱陶しい」。五 私の店がだんだん文学を扱わなくなった件で、本当のことを書きます。売れない、それは事実です。でもそれだけじゃあなかった。少数だけどファンはいたのです。私の店の狭い空間だけの事です。読者はいました。国語の教員がいた。大学の教員・研究者もいました。率直に言います。こりゃあダメだと思いましたネ。社会科学分野、自然科学分野に比べて認識力がかなり弱い。直感的把握に拘るから、科学的認識に至らない。こりゃあ、文学本はウチに置くべきではないと思ったのです。六 民文に戻ります。私は元もと文学青年じゃあなかったこともあって、かなり偏った作品が好きでした。蔵原や宮本の評論は好きでしたが、もう少し新しいところでは、彼らと論争した世代です。小説の大西巨人と評論の武井昭夫です。これを聞いただけで、大抵の文学愛好者はイヤな顔をします。政治的だからでしょう。私は社会科学を読んでいない文学者など軽蔑するのです。ちょうど歴史認識ゼロで、戦前の治安維持法が日本国憲法下の法律だと思っている元県議の武田サンみたいなもんです。民文の周辺にも結構いました。特に新しい世代がダメですね。浅尾クンなんかも。ネット右翼というのは全然勉強してませんね。事実を知らないのです。「左」だって勉強していないと、ネット右翼と変わりませんから。 この項、支離滅裂な放言を承知で、思いついた時に書き足していくつもりです。できればコメント対象から外して欲しいのですが。拍手はしてくださって構いません。
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2013/08/31(土) 01:12:37 |
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古本屋通信 No 384 8月26日 吉良よし子書記長 さきほど改めて、吉良よし子のYou Tube を見た。やはり、並はずれた能力である。魅力がある。観る者、聴く者を奮い立たせる力がある。むかしの言葉でいえば上手なアジ演説だ。アピールする力、すなわちアピール力(訴求力)と言ってよい。 ・・・・・共産党は奇跡的な才能をゲットした。この困難な時代を生きる若者たちの前に現れたジャンヌ・ダルクである。共産党に最も欠けていた世論へのアッピール力を十全に備えた才能の出現だ。政治家に不可欠な能力はさまざまあるが、アッピール力がなければ、どんな才能もむなしい。いかにすぐれた政策といえども、それを世論に訴える能力に欠如していれば、世の中を変える力とはならない。昔は文章が人を動かした。時代は変わった。(いまは)目と耳に訴える能力がなければ駄目だ。 吉良よし子はそれを完全に備えた人物である。・・・・・(石崎徹「吉良よし子] 2013年07月14日) これは選挙中に書かれた石崎さんの文の一部だ。改行は私が詰めた。当時、私はこれを読んで気をよくした。私の吉良をみる目に狂いがなかったと心強く思った。但し一箇所を除いてだ。つまり赤文字の部分にとても異和感があった。選挙が終わって、吉良の当落がはっきりしたら、これに就いて書かねばと思っていた。You Tube を鑑賞したこの機会に少し書くことにする。ただし、これは石崎さんへというより、自分の「共産党指導者論」を整理する目的のためだ。 赤文字の部分 について、私の認識は正反対だ。昔(1950年代、1960年代)には、名アジテーター(煽動家)は何処にでもいた。かれら指導者が大衆運動を指導した。これが1970年までだ。然しその後、時代は変わった。目と耳に訴える方法、つまり感性に訴える方法は時代遅れになった。今回詳しくは省くが、これが党中央の新日和見主義批判の一部分でもあった。以来、理論と文でもって、理性に訴える方法が主流になった。 具体例を挙げよう。1950年代、1960年代には、吉良クラスの雄弁家は全国の大学・学部それぞれに数人はいた。学生自治会の委員長は大抵アジテーターだった。でなかったら各派で争う自治会執行部の選挙に勝てなかったのだ。全学連中執はだれもが名演説をぶった。川上徹も新保寿雄も、吉良より数段演説上手だった。共産党中央はどうだったか。たぶん徳田は抜群に上手だったろう。野坂も下手ではなかった。袴田も上手かった。宮本は理論組立て型で理詰めだったが、聞かせた。まるでダメになったのが不破からだ。あの上滑りな抑揚はなんだ。以来まるで名演説がイケナイことのようになった。筆坂なんか不破の猿まねだった。つまり煽動家など時代遅れになってしまったのだ。 私は一点を除いて石崎さんに同意する。吉良は日本共産党にあって、稀な才能の出現だ。これを共産党は生かさねばならない。然し今日的な党の土壌において、吉良はあだばな【徒花】 なのだ。ジャンヌダルクなら委員長だが、私の見立ては書記長である。そして吉良書記長にとって、坂井希委員長はどうしても欠かせない必要条件なのだ。 以上から、ひとつの仮説を提出する。新日和見主義事件以後、共産党の周辺から、名演説とアジテーションが消えた。吉良の登場でそれらは復活するかも知れない。
2013/08/26(月) 00:04:51 |
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古本屋通信 No 383 8月25日 坂井希委員長 アカハタサカス は日本共産党の動静を紹介したり、独自?の目線で考察してそれをお知らせし、日本の政治・社会について考えることを主な任務(笑)としています。2010-01-17 第25回党大会人事 から 。新中央委員会の特徴―後継幹部づくり その1 そうそう、今回の党大会では中央委員会候補が代議員からも推薦が出て、その方も役員選考委員会が審査した結果中央役員名簿に名を連ね、そして大会で信任を得たようですね。定数のない選挙って何なんだろう。そしてそれは誰なのか気になって仕方がない。 さて、今回の中央役員の特徴として若い世代―30代、40代―の抜擢人事を行ったことがあげられる。正直、ネット中継で聞いた名前を文字でおこしただけだから見当もつかない人物がちらほらいる。准中央委員も半分くらいしかまだわからん。それでもいろいろおもしろいことが見えてきたのでとりあえず思いついたことを。その若い幹部育成に充てられた准中央委員 。そこから三人が書記局員に抜擢 された。まず坂井 希さん 。自分はこの世代じゃないけどその世代にとってはそれなりに有名だとか。確か民青中央初の女性委員長だったのかな。民青卒業後は赤旗の記者として署名記事見ますね。おそらく社会部なのかな。 もう一人は田川豊さん。民青の元都委員長で、前回大会で都委員会の青年学生部長に就任。東京21区の候補者もやっていた。准中央委員の田川実というのはたぶん兄。赤旗記者でどっかの特派員のはず。もどって記者なのか国際局なのかはわからない。あと辻真一さんというのはおそらく前回大会では文化・学術委員会の事務局次長で、赤旗の文化学問欄の文壇評論みたいのでみたことがあるようなきがする。この三人は幹部育成というか抜擢。 、
8月25日22時50分、この記事に早くも拍手がついた。いるんだ、私以外にも坂井希委員長をのぞむ(希む)ひとが。
2013/08/25(日) 19:17:37 |
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古本屋通信 No 382 8月25日 牧野紀之批判 通信 No 380 で牧野紀之氏の一方的な長谷川宏批判「長谷川宏氏のお粗末哲学」 を貼ったので、ここでは逆に牧野氏に対する批判文を貼っておきたい。ホントは長谷川氏の反論が欲しいのだが、そんなものはあろう筈もなく、三浦つとむ主義者だという寄筆一元 さんの修行日誌の転載である。私のこの記事は単なる資料提供である。論の当否は私には分らない、というより古本屋通信が自分の学習用に作った記事と思って下さい。 牧野紀之批判 2006年08月09日け、傑作な 著書を発見してしまった。牧野紀之『哲学の演習 考える悦び』(未知谷) である。発見にいたるまでの過程を説くと長くなるので詳細は次回以降にしたいが、簡単にいうと彼のブログの「自著紹介」のような記事で、本書が三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を扱っていることを知ったので、買ってみたわけである。 問題の、『弁証法はどういう科学か』に触れている箇所は、「論理的に考える」という章の中にある(噴飯ものである)。まず、『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」が引用されたあと、次のように述べられている。 「一読して、この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまうほどひどいものです。しかし、このような事は誰も気付かず、大いに売れているようです。 この『まえがき』での『科学』と『哲学』の区別(あるいは定義)はどこがどうおかしいのでしょうか。これが問題です。この定義とこの文章とはどう矛盾しているか、と言ってもいいと思います。又、その他のあいまいな叙述、または矛盾した叙述なども、気付いたら挙げてください。」(p.158) その後「講師の考え」として、自己の三浦つとむ批判を展開していく。次に、「Gさんの答案」として、教え子の1人による三浦つとむ批判があり、最後に「Gさんの答案を読んで」の牧野のコメントが載っている。 高校生レベルの論理能力を把持していれば、このあとの彼の文章を読んで、「この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまう」はずである。そして、「これでは売れないだろうな」と確信するだろう。 具体的な批判は、私と同じく三浦つとむ主義者であるS君が行ってくれたので、後ほど掲載するとして、全体的な印象としては、大学教授(三浦さん)に対して中学生(牧野)が愚にも付かないイチャモンをつけている感じである。 一番噴飯ものだったのが、「Gさんの答案を読んで」の最後にあるコメントである。教え子たちの答案を読んでの全体的な感想を記している。 「全員について言えることですが、『あまり』関心をもたなくなったとか、『ほとんど』役に立たないといった不正確な表現に三浦さんの自信のなさ、曖昧さが出ていることに誰も気付かなかったようです。」(p.164) そんな奇想天外な気付きは、たとえ弟子といえども、不可能であったようだ。科学に志す人たちが哲学にあまり関心をもたなくなったとか、哲学書を読んでもほとんど役に立たないとかいうのは、客観的な事実をありのままのとらえて、それを表現したものである。それを牧野は、三浦さんの自信のなさという主観的な原因に取り違えているのである。ハダカの王様もビックリ仰天の、逆立ちぶりである。 しかも、である。「自信のない三浦さん」というのは、「円い四角」と同じように、形容矛盾である。三浦読者ならば、ここから「三浦さんの自信のなさ」を読み取ることが、如何に甚だしい勘違いであるか、すぐに了解できるはずである。 さてお待ちかね、いよいよ具体的な牧野批判に移ろうと思う。今回は、友人のS君が文章を寄せてくれたので、S君の許可のもと、それをそのまま掲載したい。今後、同じく『哲学の演習』に載っている『新しいものの見方考え方』批判批判、あるいは、牧野による「科学とは事実を説明することである」という科学の定義批判、でも行おうかと思っている。---------------------- 牧野紀之なる人物が三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」を批判した文章(『哲学の演習 考える悦び』所収)を読んだ。一読して、この人の頭はどうなっているのだろうかと考えこんでしまうほどひどいものであった。 低劣な詭弁 牧野はまず「机の前で頭をひねって考え出した、現実との対決で証明されていない原理原則」という三浦さんの哲学の定義を問題にする。牧野は三浦さんの言葉を細かく切り刻み、「机の前で考える」のが悪いのか、「頭をひねって考える」のが悪いのか、それとも「現実との対決で証明されていない」のが悪いのか、と順に問うていく。前の2つについての牧野の言及は、三浦さんも机の前で考えていたはずだとか、頭をひねらずには考えることはできないはずだ、など、完全に詭弁の類でありアホらしい以外の何物でもない。あきれるほどに低劣なケチつけであると言う他ない。一応検討してやってもよいかなと思わせるのは、「現実との対決で証明されていない」についての言及だけである。そもそも、少し考えてみれば、三浦さんが、机の前で考えるのが悪いだの、頭をひねって考えるだのが悪いなどというアホらしいことを主張しているわけではなく(*)、「現実との対決で証明されていない」ことを問題だといっているのはあきらかである。三浦さんを批判したいならここを正面にすえて、自らの論を展開すべきである。しかし、牧野は、正面にすえて批判すべき論点とお粗末極まりない詭弁の類を同列に平面的に並べて恬として恥じないのである。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうかと考えこんでしまう。 (*)机の前「だけ」で考えるのは悪いとはいえるだろうが、これは結局、「現実との対決で証明されていない」ということにつながる。 唯物論が崩れる?? 牧野は「現実との対決で証明されていない」ことが悪いのか、として、次のように述べている。 「思考は現実の反映だと主張する唯物論は、現実といかなる意味でも全然対決していない思考は一つも存在しないという考えなのではないでしょうか。つまり、現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れるのではないでしょうか。」 ここで牧野はちょっとしたトリックを施している。三浦さんは「現実と対決していない原理原則」というような奇妙な言葉使いはしていない。あくまでも「現実との対決で証明されていない原理原則」を問題にしていたはずである。「対決」と「証明」はセットなのである。三浦さんは、現実を反映した認識を材料にして頭の中で原理原則をつくりだし、それを現実との対決で証明する、という過程を問題にしている。つまり、ここでいう「対決」は「反映」とは違うものであり、反映よりも後の段階で問題になるのである(*)。それを牧野は、「対決」と「証明」を切り離し、「証明」をこっそり引っ込めて「対決」だけを残し、それをあたかも「反映」と同じような意味で使うことによって、たんなる「現実の反映」だけが問題になっているかのように問題をすりかえている。その上で、おそらく彼は唯物論を機械的な反映論として捉えることで三浦さんの論に必死でケチをつけようとしているのである。曰く、唯物論とはどんな思考も現実の反映だという考えだから、現実の反映でない原理原則を認めると唯物論が崩れる、と。しかし、憐れむべきことに、牧野は、現実の反映でない原理原則を認めると唯物論が崩れる、という論理で三浦さんの論を突き崩すには、自らが機械的反映論の立場に徹することが不可欠だという、ごく簡単なことすら理解できないお粗末な頭の持ち主であったようだ。 (*)三浦さんは、対象と現実との間のダイナミックな過程的構造を捉えているのである。現実の反映→原理原則の確立→現実との対決=証明(直接的統一)。 反映:客観的な現実が感覚器官をとおして脳細胞に像として描かれる過程【対象→認識】 対決:原理原則と現実とをつき合わせる過程【認識→対象】 証明:現実とつき合わせることで原理原則の正しさを確認する過程【対象→認識】 対決と証明は直接的同一性において存在する 牧野は、唯物論とは「現実といかなる意味でも全然対決していない思考は一つも存在しないという考え」だという。言葉を変えれば、唯物論とはあらゆる思考は多かれ少なかれ現実と対決しているという考え、ということになるだろう。先に論じたように、ここでの「対決」という語の使い方は不適切だが、牧野の主張を検討するためだけに、一万歩ほど譲ってやって、牧野のいわゆる「対決」をたんなる「反映」の意味に解してやることにしよう。 さて、牧野自身の言葉を使っていえば、「現実と…全然対決していない思考は一つも存在しない」ということは「現実と少ししか対決していない思考が少しは存在する」ということでもある。つまり牧野の主張は機械的反映論の立場に徹しきれていないのである。問題点はまさにここにある。 三浦さんの唯物論は、機械的反映論の立場に立つ形而上学的な唯物論ではなく、人間の認識の能動性を認める弁証法的唯物論である。つまり、人間の認識は能動的だから、現実についての認識を材料にしながらも、頭の中でそれを加工して現実には存在しえないものつくりあげていくことができると考えるのである。そのわかりやすい例が、神、仏、幽霊などである。これは原理原則についても同じことである。てるてる坊主をつるしたという現実およびその翌日は晴れになったという現実についての認識を材料に、てるてる坊主をつるせば天気は回復するという原理原則をつくりあげることもできる。このような例は何を示しているか。まさに「現実と少ししか対決していない思考が少しは存在する」ということなのである。「現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」という牧野の主張は全く成立する余地がない。 「現実との対決で証明されていない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」と言えば、牧野の主張のお粗末さはあきらかである。牧野は、これを恥ずかしげもなく「現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」にすりかえ、機械的反映論の立場からの反論の余地を何とかつくりだそうとしたが、結局、何のまともな反論もなし得ず、自分の頭の不様な混乱ぶりを我々に見せつけてくれるだけに終わったのである。 科学の定義がないか 牧野は、「それ(哲学をさす――引用者)に対置される科学の定義なり、説明なりがない」と言って、科学の定義がないことへの不満を漏らしている。「哲学とは…」「科学とは…」とそれぞれ明示された形で定義を書くべきだ、という批判ならまだわかる。そこを批判したいのならはっきりとそのように書くべきである。しかし、ここでの牧野の文章から読み取れるのは、せいぜいのところ三浦さんの科学の定義が分からないという不満にすぎないのである。 しかし、ここでは、牧野の言うように科学の定義は哲学に「対置される」べきものであるから、これはごく簡単に「現実との対決で証明された原理原則」以外ではありえないのである。牧野には、こんな簡単なことも分からなかったのであろうか。 哲学不要論とは何か 牧野は「科学に志す人たちはそれらに『あまり』関心を持たなくなりました。理由は簡単で、それらを読んでも『ほとんど』役に立たないことがわかったからです」という三浦さんの文章は、「ですからわたしは哲学不要論の立場をとるわけですが、昔の哲学はナンセンスだったからみんな破ってすててしまえなどと主張しているのではありません」という次の文章とは「矛盾」するとして、これに噛みついている。 牧野は、まず「どうして『机の前で頭をひねって考え出した、現実との対決で証明されていない原理原則』が『少しは』役立って、従って科学に志す人たちによって『少しは』関心を持たれるのでしょうか。哲学はダメだというなら『全然』関心を持たなくなるはずではありませんか」と言う。その上で牧野は「哲学不要論というのは、哲学は『全然』役立たないから、哲学には『全然』関心を持たず、そんなものは破って捨ててしまえと主張する立場だと思います」と述べている。つまり「少しは役立つ」と「全然役立たない」は矛盾すると言うのである。 しかし、三浦さんが一体どこで哲学は「全然」役立たないなどということを主張したというのか。三浦さんは、哲学不要論というのは哲学を破ってすててしまえという主張ではない、とはっきり述べているではないか。牧野は「哲学不要論」を三浦さんがどのような意味で使ったかを三浦さんの言葉に即して検討しようとはせずに、その内容を自分の程度の低い思考能力に合わせて改ざんし、哲学は全然役に立たないから破ってしまえという哲学不要論をでっち上げ、これに噛みついているのである。これは他人の論を批判しようとする上で最もやってはいけないことである。 不要というからには全然役立たないと考えているはずだ――これが見事なほどに形而上学的な牧野の発想である。哲学も少しは役立つが科学のほうがはるかに役立つから科学の発展によって全体として哲学はもう不要になったのだ――これが三浦さんの弁証法的な「哲学不要論」である。牧野は、「三浦さんの頭は…混乱し、矛盾に満ちています」というが、これは三浦さんの頭の矛盾(不合理なものとしての)とか混乱とかではない。全体としての理解は誤っているが、部分的には正しいことを説いているという意味で、客観的な哲学のあり方そのものが矛盾しているのである。牧野のいう三浦さんの頭の「混乱」「矛盾」なるものは、現実の哲学が持つ矛盾した性格を的確に反映したもの、つまり弁証法的に把握したものにほかならないのである。 ところが、形而上学者・牧野は、「少し役立つ」と「不要」を絶対に両立し得ないものとして捉え、客観的に哲学が持つ矛盾を、あろうことか三浦さんの頭の混乱にすりかえているのである。牧野は、三浦さんの文章をまったく理解することができなかった己の頭の悪さにいささかも気付いていない。それどころか、哲学の指導者(『哲学の演習』!)ぶって平然と三浦さんの頭の「混乱」「矛盾」を説いているのである。おそらく三浦さんの頭の「混乱」に比べて自分の頭のはたらきはなかなか優秀だと一人悦に入っているのだろう。まことに醜悪極まりない自称・哲学の指導者である。 牧野は「『あまり』関心を持たなくなったとか、『ほとんど』役立たないといった不正確な表現に三浦さんの自信のなさ、曖昧さが出ている」というが、この文章に滲み出ているのは、牧野なる人物のどうしようもない頭の悪さであり、自分の頭の悪さを三浦さんの頭の「混乱」にすりかえて恥じることのない人格の低劣さである。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうか! この記事へのコメント お久しぶりです。 相変わらずSさんの切れ味は鋭いですね。 <しかし、三浦さんが一体どこで哲学は「全然」役立たないなどということを主張したというのか。三浦さんは、哲学不要論というのは哲学を破ってすててしまえという主張ではない、とはっきり述べているではないか。牧野は「哲学不要論」を三浦さんがどのような意味で使ったかを三浦さんの言葉に即して検討しようとはせずに、その内容を自分の程度の低い思考能力に合わせて改ざんし、哲学は全然役に立たないから破ってしまえという哲学不要論をでっち上げ、これに噛みついているのである。これは他人の論を批判しようとする上で最もやってはいけないことである。 ついでに思うのは、「指導者」であるためには絶対必要である、「自分の他人化」の低さですね。世間話やテレビの討論番組じゃあるまいし(愚にも付かない・あげあしを取れてもいない・非難をして)、相手の認識を理解せずいったいどんな指導ができるのか、それこそ「現実との対決で証明」してもらいたいですね。 <そんな奇想天外な気付きは、たとえ弟子といえども、不可能であったようだ。 寄筆さんも痛快ですね。なんにしてもこの牧野というおっさん(?)はなにものなんですかね?いったい何がしたいのですかね?まあ日常生活ではこうした”牧野”が沢山いますからなかなかしんどいところはありますわね。私も”牧野”にならないよう、努力したいと思います。Posted by ゆき at 2006年08月09日 22:22 ゆきさん、コメントありがとうございます。 >牧野というおっさん(?)はなにものなんですかね? 私もよく知らないのですが、在野の自称哲学者のようです。ヘーゲルの翻訳では、それなりに知られているようです。 >いったい何がしたいのですかね? 何か、三浦さんに個人的な恨みでもあるのではないかと推測しています。やたら、三浦さんの本が売れているとか人気があるとかいってます。あるいは、自称哲学者としては、哲学不要論を唱える三浦さんに噛みつかざるをえなかった、という感じでしょうか。 それにしても、自称哲学者が、「科学とは事実を説明すること」ですからね。「プッ」って感じですな。あと笑えるのが、あの超形而上学的認識の持ち主が、「弁証法の弁証法的理解」なる論文をモノしているのです。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまいますわ。 Posted by 寄筆一元 at 2006年08月09日 22:52 お久しぶりです。牧野紀之氏という人は、名前だけはネットや書店で何度か目にしたことがあるのですが(ヘーゲル関連の著作を出していたかと記憶していますが)・・・ここまでくると「最驚」ですな(==;)。その牧野紀之氏を徹底的に批判したS氏の論文にも驚きです。 Posted by liger_one at 2006年08月09日 23:37 liger_oneさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。 >ヘーゲル関連の著作 ヘーゲルを理解できているのは自分だけだ的な発言をしていたように記憶しています。一事が万事、『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」をあんなふうに独創的に解釈するわけですから、彼のヘーゲル理解も、おそらくビックリ仰天の独創的珍解釈であろうという予想ができるというものですね。 >その牧野紀之氏を徹底的に批判したS氏の論文にも驚きです。 経済学の歴史に名を残すはずの人物です。また機会があれば、彼の文章をこのブログで紹介したいところです。Posted by 寄筆一元 at 2006年08月10日 00:02 牧野紀之氏は血迷っただけでしょう。彼は小論理学や精神現象学など立派な翻訳をしている学者です。Posted by Sigesige
2013/08/25(日) 16:53:09 |
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古本屋通信 No 380 8月25日 『精神現象学』の翻訳 ヘーゲルの『精神現象学』の翻訳について、元東大民青さんから投稿があった。私の元記事の該当箇所を転記した後に、元東大民青さんの文を貼る。 私の元記事 通信 No 343 女子大の女講師2人 ・・・・私の店には阪本が先に来た。何回か店の前を通過していた。暗い顔でチラッと見ているなと思っていたら入ってきた。哲学関係を見ていた。そのうち「ニーチェはありませんか」というから、ちくま学芸文庫のニーチェ全集を指したら、それを手に取った。しばらくして平凡社ライブラリーの『精神現象学』(樫山訳)を手に取った。ニーチェとヘーゲルねえ。「ヘーゲルなら岡大にひとり研究者がいますよ。竹島あゆみさん・・・」と私。女はムッとしたらしい。なんなら、この女。あんたにゃ、ヘーゲルの樫山訳は無理じゃろう、長谷川訳にしときんさい、と言ったかどうか。女は傷ついたらしく、二言三言捨て台詞を残して出て行った。どうも彼女によると私は狂人らしい。あとで、この女が生命倫理の教員だと知ったが、私は屁とも思わなかった。若くても大学の教員は尊敬されるもんだと思いこんでいるらしい。 元東大民青さんの文 『精神現象学』の翻訳は未知谷のもの(訳は牧野紀之)が一番でしょう。 読解の正確さも、注釈の親切さも。 牧野紀之さんはクセのある人ですが、関口ドイツ語学を長年やってきただけあってヘーゲルの理解も深いです。 牧野紀之さんは都立大で寺沢恒信教授の指導を受けました。寺沢は共産党員で、毛沢東を高く評価していましたが、中国共産党と日本共産党が対立すると、どうすればいいかわからなくなって、逃げ場として『大論理学』を翻訳することにしたのだ、と厳しく批判しています。2013/08/25(日) 02:18:43 | URL | 元東大民青 今回の古本屋通信の文 そうでしたか。じつは牧野の訳本を入手したのは、ほんの5、6 年まえで、同業の一風堂書店さんの棚から買いました。ペラぺラっとめくって、そのまま哲学の棚に差しました。まだ読んでいないのです。いま哲学の棚は重ねた古本で埋もれているので、近いうちに取り出したいと思います。或いは売れてしまったかも。しかし元東大民青さんの投稿がなかったらそのままになったでしょう。牧野の本はいくらか読んでいますが、関口存男や寺沢恒信との関係は知りませんでした。関口、寺沢とも(書物のうえで)お世話になった人です。寺沢については、同時代の松村一人とともに、毛沢東思想との関連で書きたいと思っていますが、私には分らないことが多いのです。 尚、下記の転載は関連した別件です。私は下記の、牧野の長谷川批判文を今回はじめて読むのですが、長谷川訳が非難ゴーゴーなのは知っていました。一時大流行で、私の店でも10 冊ほど売りました。ブックオフにもころがっていました。抜いて持ち帰るとすぐに売れました。金子訳、樫山訳を売った覚えはありません。因みに上記の阪本センセが店に来られた頃、私は『精神現象学』の金子訳と長谷川訳の対照表を、原文とともに店内に張り出していました。そしたら、阪本 大 センセにキチガイ扱いにさたのです(笑)。鷲田清一の弟子なら、さもありなん(苦笑)。参考 長谷川宏氏のお粗末哲学 2010年01月28日 牧野紀之 長谷川宏氏が『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)という本を出しました。その表紙を見ると、「ヘーゲル翻訳革命」をなし遂げた方だそうです。その「翻訳革命」とはどんなものか、既に私は2度にわたって検討しました。『鶏鳴』第144号の「ヘーゲルはどう訳すべきか」、及び同第146号の「再び・ヘーゲルはどう訳すべきか」です。 それぞれ、ヘーゲルの「哲学史」と「歴史哲学」の長谷川訳を検討したものです。あまりにも大きな誤訳と誤解が多いことを指摘しました。「哲学の概念を覆す感動の新訳」と喧伝されています『精神現象学』の翻訳については、もう検討する気もありません。その後、長谷川氏はこの翻訳でドイツ文化協会からレッシング翻訳賞をもらったということを、或る雑誌で知りました。加藤周一氏などが選考委員を勤めているようです。選考委員の人たちは本当にきちんと検討したのだろうかと、疑問を持ちました。しかし、もう質問の手紙を出す気にもなりませんでした。 今回、この「入門」が出版されました。前回、同じ講談社から新書として『新しいヘーゲル』というのを出しているはずです。この方は本当は「易しいヘーゲル」と題すべきだったと思います。しかし、「新しい」という言葉の方が、少なくとも日本の出版界では好まれますので、内容と異なった題名にしたのでしょう。しかし、「新しい」にせよ、「易しい」にせよ、大した内容のない本ですから、もう忘れられているようです。 今回の本にも期待はしていなかったのですが、一応購入しました。そして、パラパラと読んでみたところ、最初から驚くべき間違いに出くわしました。次の文章です。 ──わたしが一九九八年に上梓した翻訳(作品社刊『精神現象学』)では、読者のとまどいを軽減すべく、原文にないことばを補ったり、接続のしかたを変更したり、力点の置きかたを変えたり、と、あれこれ工夫をこらしたが、それでも一文一文にヘーゲルがどれだけのふくみをもたせようとしているのか、読みとるのは容易ではない。たとえば、「まえがき」の冒頭の一文はこうである。 一巻の書物のはじめに「まえがき」なるものを置き、その書物で著者のねらいとする目的がどこにあり、また、同じ対象をあつかう前代や同時代の作品にどう刺激を受け、どう新境地を開いたかを説明するのが慣例のようになっているが、そうした説明は、哲学書の場合、不必要であるばかりか、事柄の性質上、不適当で不都合であるとさえ思える(001)。 「思える」、という、断定を避けた結びのことばがすでにしてヘーゲルの思考のゆらぎをものがたっているが、後続の文は、このゆらぎに歯どめをかけるどころか、ゆらぎをいっそう大きくするようにつらねられる。 客観的に見て、右の一文がいおうとしているのは、とりあえず以下の二点にまとめることができる。 一、「まえがき」は暫定的なものにすぎず、それを読んだだけで全体の大筋がわかるというわけにはいかないこと。 二、この「まえがき」は、著者のねらいや目的を述べたり、他の哲学書や哲学流派とのちがいを明確にしたりするものではないこと。 その主旨を受けて、後続の3ページばかりは、哲学における真と偽のからみあいが論じられ、哲学的真理の全体性が確認されて、そこまでは首尾一貫している。 「事柄は目的のうちではなく、展開過程のうちに汲みつくされるものであり、したがって、結論ではなく、結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなす」(003)というさわりの一節は、右にまとめた一、二と見事に照応している。そして、そこから、哲学は大きく円環をなす概念の体系として提示されねばならない、という学問観が引きだされてくる。 ヘーゲルの矛盾 が、概念や体系を問題とするとなると、もう話は暫定的なものにとどまりはしないし、他の哲学者流とはちがう自分のねらいや目的を語らないで済ますわけにもいかない。で、ヘーゲル自身、冒頭の一文とはっきりくいちがう発言に出ざるをえない。 「真理は概念の領域にしか存在の場をもたない、と主張されるとき、いまの時代に幅をきかせ、広く受けいれられている考えや、そこから出てくる帰結と、それが矛盾するような考えであることをわたしは十分承知している。この矛盾について説明しておくことは、たとえそれが、ここで批判の対象となる流行の思想と同様、一つの断定という以上の意味をもたないとしても、やってむだということはないだろう(004)。 ここにいう「説明」こそ、冒頭の一節で「哲学書の場合、不必要であるばかりか、事柄の性質上、不適当で不都合であるとさえ思える」といわれた、当のものではないのか。それを、わずか三ページ先で──俗にいう舌の根も乾かぬうちに──、「やってむだということはないだろう」という。これは明白な矛盾だ。論理の必然性を強調してやまぬヘーゲルが、こんな矛盾をおかす。おかしくはないか。 たしかに、おかしい。おかしいけれども、しかし、それが『精神現象学』の若きヘーゲルなのだ。矛盾にいらだって書物を投げだすようでは、『精神現象学』とはつきあえない。ヘーゲルがそんな矛盾をおかすはずがないと思って、なんとか辻棲の合う解釈をひねりだそうとすれば、こちらが苦しくなるだけだ。苦しみは、この本をいよいよ難解な書に仕立てあげることにしかならない。(11~14頁) (以上はすべて、長谷川氏の文章です。その文章自身の中にヘーゲルからの引用文〔長谷川氏の訳による〕がありますし、一行あきもありますが、いずれにせよ、みな長谷川氏の文章です。) 一体これは何なのでしょうか。長谷川氏はやれ「ゆらぎ」だ、やれ「からみあい」だと、文学的な言葉を使っていますが、そういう言葉に誤魔化されないようにしましょう。肝心な事は、ここで長谷川氏の言う「ヘーゲルの矛盾」とやらは、氏が「思える」と訳した言葉 scheinen の意味を「ヘーゲルが実際にそう思っている」と理解した場合にだけ発生する「矛盾」だ、ということです。 では、ここで氏が「思える」と訳した scheinen はヘーゲルにおいて、あるいは少なくともこの箇所で、「私は実際にそう思っています」、あるいは「そうとしか考えられません」という意味なのだろうか。否。その意味は「そう見えるけれど、実際はそうではない」という意味です。従って、ヘーゲルは少しも矛盾したことを言っていないのです。「ヘーゲルの矛盾」とやらは長谷川氏の頭の中にあるだけです。それは、長谷川氏がヘーゲルの scheinen の意味を知らないという、単なる不勉強の結果、長谷川氏の頭の中に生まれただけです。 この事実を指摘すればもう十分でしょう。これが「哲学の概念を覆す感動の新訳」を著した人のヘーゲル理解であり、「ヘーゲル翻訳革命」をなし遂げた方のヘーゲル理解であり、レッシング翻訳賞をもらった人のヘーゲル理解なのです。 最近、長谷川氏の訳した『精神現象学』を丁寧に読んでみたという人から、長谷川氏の訳では分からないとか、あの訳は論理的でないという感想を聞くことが多くなりました。こういう翻訳を天まで持ち上げている評論家や書評家とは別に、健全な読者が日本には健在なようです。嬉しい限りです。(1999年06月07日『鶏鳴』第154号)牧野訳 『精神現象学』(G.W.F.ヘーゲル、未知谷)2001年9月 『小論理学』上巻・下巻(ヘーゲル、鶏鳴出版)1989年
2013/08/25(日) 02:51:16 |
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古本屋通信 No 376 8月23日 宮本岳志のこと 私が宮本岳志のことを、どうしようもない救いがたい不良党員だと思ったのは、以下に貼るかれの一文を読だ時だった。全文を転載し、問題個所を色文字に変換した。そのあとに私の短文を添える。こういう男が何処でどう間違えたか、国会議員になってしまった。 故・森実一広同志のこと 宮本岳志 2006年02月20日 2月15日は私にとって終生忘れられない日です。1998年2月15日、ともに青年運動に打ち込んできた、当時日本民主青年同盟中央委員長だった森実一広さんが委員長在職のまま亡くなられました。前年末から「風邪ひきをこじらせた」とは聞いておりましたが、突然の訃報に驚愕したことを昨日のことのように思い出します。 森実さんがまだ民青京都府委員長をされていた時、私は大阪府委員長でした。民青同盟の中央委員会や都道府県委員長会議は伊豆にある青年学習会館で開催されるのですが、だいたい近畿圏の府県委員長は同じ部屋が割り当てられ、よくお互い深夜まで語り合ったものでした。若い時代ですから夜はずいぶん酒も飲みましたが、彼はそういう時でもあまり深酒はせず、気がつくとベッドで一人本を読んでいるというたいへんな勉強家でした。 森実さんは京都大学卒業という秀才で、頭脳が明晰 というだけでなく、青年運動にあくなき情熱を傾ける情熱家でもありました。当時、大阪の民青が京都よりさほど進んでいたというおぼえもないのですが、年齢的にも先輩に当たる私に、絶えずいろんなことを質問し、「京都もぜひ大阪に学んで」などとおっしゃるのです。こちらのほうが恥ずかしくなるときもありました。 1994年4月の民青同盟第22回全国大会で私が民青同盟大阪府委員長を退任、民青を卒業し、1995年7月にたたかわれる参議院選挙の日本共産党比例代表予定候補となったその時に、森実さんは民青同盟中央副委員長として、京都から東京に赴任されたのです。当時、私は彼のような有能な人が民青中央を担ってくれるのなら本当に安心だと思ったものです。 森実さんの死は、民青同盟にとっても、私たち同時期に青年運動に打ち込んできたものにとっても、簡単には受け止めきれない出来事でした。民青同盟にとっては、「亀戸事件」で関東大震災のさなか、官憲にとられられ虐殺された共産青年同盟初代委員長、川合義虎氏以来、二人めの委員長の在職死となりました。 「最初は風邪ひきだったものを、無理をしてこじらせてしまった」ということを知ったとき、私は忘れることのできない彼の人柄をあらわすある出来事を思い出したのです。 私たちが民青の活動をしていた頃、まだ「青年運動」という月刊誌があり、そこには「専従同盟員として生きる」というコーナーがあり、全国の専従者が順番に自分の思いを書くことになっていました。ある号に、森実京都府委員長の文章が掲載されたのです。彼は次のようなこと を書いていたのです。 自分の大学の同窓生は、ほとんどが銀行や一流商社 などにつとめ、海外へ赴任したりビジネスの最前線で働いている。しかし今、そういう職場では大企業の儲けのために、際限のない長時間過密労働がまかりとおり、体がボロボロになるまで働かされている実態がある。しかし 自分は、民青同盟の仲間たちとともに、生きがいを社会進歩に結んで生きる道を選んだことはたいへん幸せなことだと。 私はここまで読んで、きっと彼は「確かに経済的には恵まれない仕事ではあるが、いくら裕福でも身体がボロボロになるまで働かされるより自分のほうがずっと幸せだ」というふうに論じるのだろうと思ったら、彼は違ったのです。そこには「だから、深夜まで煌々と灯りがともるオフィス街を見上げながら、そこに苦しめられている同窓生たちがいる、もっと自分はがんばらねばならないと決意を固めるのです」と結ばれていました。 私は恥じました。われわれはこうでなくてはいけないと。 感動した私は、当時大阪の専従者を集めてこの文章をみんなで回し読みし、自分の反省を述べたのを覚えています。しかし、そういう人だっただけにがんばりすぎたのだと思うと、「森実君、もういい、何もそこまでがんばらなくってもよかったんだ」という思いが次から次へとこみ上げてきて、涙が止まりませんでした。 私が比例代表候補の任務を終え、大阪の地区委員会で赤旗の配達集金の仕事をはじめてまもなく彼が中央委員長に選出されたと聞きました。やっぱり日本を背負う人だ、将来は国会に出ても十分活躍できる人だとうれしくそのニュースを聞きました。それが、私が98年参議院選挙の大阪選挙区の予定候補となり大阪を駆けめぐる中での突然の訃報…「森実君、それはないだろう」との思いでした。 私は彼の葬儀の日、彼の遺影の前で、きたる参議院選挙で必ず勝利すること、そして彼がなしえなかった、政治の革新をその遺志を継いで必ず成し遂げることを誓ったのを今でもはっきり覚えています。98年の参議院選挙は彼の遺志も背負ったたたかいでありました。それ以来私は、彼とともにたたかっているつもりです。 毎年2月15日がやってきます。今年で8回目の命日でした。「去る人、日々にうとし」と言いますが、「森実一広」という名前は徐々に人々の記憶から薄れていくことは否定できません。日本民主青年同盟は青年の組織です。未来の組織です。若き担い手たちが次々と入れ替わっていくのは当然であり、それでこそ前進するのです。いつまでも過去を振り返り、涙するというようなことは青年同盟に負わせるべき仕事ではありません。 だからこそ、私たちが。「森実一広」とともに若き時代、青年運動に情熱を傾け、ともに学びともにたたかった我々同時代に青年運動を担ったものが、彼の名前と業績、その稀有な能力と優れた人となりを一生背負って行ってやらなければならないと思っています。2008年は彼の没後10周年です。ぜひとも彼を偲ぶ関係者のつどいを開きたい。そして来年は彼とともに参議院選挙をたたかい、再び勝ち抜いてその日を迎えることを彼に誓いたいと思います。古本屋通信の文 青文字部分の要約からして、宮本流の捏造だろう。森実が「一流商社」などの語を使用する訳がない。すべてきれいごとだ。おまけに死者をダシにした、自分の立ち位置の正当化、合理化だ。アホらしくて書く気も失せるが。 宮本は何も分かっていない。この資本主義社会を根本から変革していく力が、大企業で厳しい労働条件で働いている労働者、すなわち森実の旧同窓生たちの中にあることを。森実や宮本などの職業革命家の位置は、社会変革の事業にとって特殊な、いわば例外的な位置にあることを、宮本は全く分かっていない。言うまでもなく森実は分かっていた。だから旧同窓生に対しての優位性の意識などハナからない。 私が宮本を許せないのは、かれが革命における労働者階級の役割を理解していないだけではなく、職業革命家と労働者を対立させ、前者の優位性に囚われていることだ。そのうえ許せないことには、自分の甲羅に似せて森実を描いているのだ。その根底には科学的社会主義についての、驚くべき無知がある。しかし、こういうマルクス思想の欠片もない男が、非常勤とはいえ、党附属社会科学研究所に在籍していたという事実。宮本の一文は、死んだ森実の冒瀆であるばかりでなく、日本の労働者にたいする決定的な裏切りを示すものだ。 あんまり否定的な評価ばかりでは気が滅入るので、もうひとつ森実に関する追悼文を貼っておこう。こっちはマトモだ。執筆時がちょっと分からない。現在もHPが生きている。 森実一広さんの思い出 植田謙一 1998年2月15日、当時の日本民主青年同盟中央委員長だった森実一広( もりざねかずひろ)さんが亡くなった。その第一報を聞いたとき、僕は言いようのないショックを受けた。民青同盟委員長としては、これからが本領発揮だと期待していたこともあったが、他方で病気療養中だと聞いていて回復を願っていたところでもあった。死因は「ヘルペス脳炎」だという。医学は門外漢だが、事実上の過労死だと受け止めた。われわれの運動の至らなさが森実さんを殺したような気がしてならなかった。 森実さんについては、宮本たけしさんが ブログで思い出を書いておられる。宮本さんが民青同盟大阪府委員長だったときに、森実さんが同京都府委員長だったそうで、その頃の思い出が中心だ。僕は、学生時代にもっと密着して指導を受けた立場から思い出を語ってみたい。 1987年に僕は大学に入学しているが、そのときの京大学生党委員長が森実さんだった。森実さんはすでに大学を卒業し専従活動家となっていたが、僕が法学部の直接の後輩に当たる、ということもあって、折にふれて大変身近にお世話になった。 僕は、政治的に早熟で、小学校高学年の頃にはすでに「主義者」気取りだった。僕はそういうところをプライドにしてきたところがあったが、森実さんはレーニンの社会主義イデオロギーの外部注入論を紹介し、僕の経験は運動にとっては教訓化できないことを説き、僕の慢心を諫めてくれた。僕はレーニン理論の基礎を森実さんに教わったと思っている。僕の社会科学の基礎は、森実さんと学生学術サークルである社会科学研究会が固めてくれたと思っている。 印象に残っているのは、森実さんの指導の温かさである。僕が入学する前は、下回生の日和見的な発言を聞くと血相を変えるような人だったらしいが、僕が入学した頃にはそういうことはなく(おそらく相当の努力をしたのだろう)、努めて温和に指導をしようとしていたようだ。運動がなかなかうまくいかないときでも、われわれの運動にありがちな精神主義的にあおる、ということはせず、状況を分析的にとらえることで、事態を打開しようとする姿勢が見られた。「運動が進まないといっても、活動家がサボっていてそうなっているわけではないのだから、そこはよく考えてことを進める必要がある」といった趣旨の発言をしていたのが印象に残っている。これは、僕にとってはわれわれの運動の現段階を見るときの視点として、重要な意味を持っている。 僕は2回生のときに、所属大学を離れた活動上の任務を負っていたが、その任務を長期にわたって放棄をするという問題を起こし、所属大学での任務に復帰する、ということがあった。所属大学の活動家たちは割と僕に同情的だったが、当時民青同盟京大地区委員長だった森実さんはそこに釘を刺すことを忘れなかった。「問題を起こして帰ってきているのだから、大学の組織としては君を『歓迎』する、ということにはならない」と。厳しい言葉だったが、筋論だった。そういう筋を通す姿勢が、その温和な人柄とともに印象的な人だった。 僕は活動上の困難があると寝込む、ということがときどきあったのだが、そういうときも根気強く話を聞いてくれて、打開のあり方を一緒に考えてくれた。 プライベートでもお世話になることがあった。2回生の後期に僕は他大学の女性活動家と付き合っていたのだが、彼女は前の彼氏との関係を整理できず動揺を繰り返し、僕を振り回すことになり、僕はそれなりに苦労を強いられた。ことの経緯を知った森実さんは、率直に彼女の人格上の問題点を指摘し、僕に別れた方がいい、とアドバイスしてくれた。「恋愛は理性でするものではない」と即答を避けた僕だったが、そのことを彼女に告げ、「反論できなかった」と僕が言ったことが、別れの直接のきっかけとなった。反発した彼女は「じゃあ、別れよう」と売り言葉に買い言葉のつもりで、言ったが、僕はそれを機に本当に別れることにした。僕が本気で別れる決心をしたことに彼女はあわてたようだったが、僕の決心は固まってしまった。当時の彼女は恋愛をするには、人格上の問題点が大きすぎた。彼女に執着した僕にはそれは見えなかった。そこのところを森実さんは指摘してくれたのだった。この点では、僕は森実さんに感謝してもしきれないという思いを持っている。 3回生の時から、僕の森実さんについての記憶は途切れる。当時の学生組織は、教養部(これ自体がもはや「懐かしい」概念だが)対策が中心だったため、3回生の僕を直接指導する機会が減ったのだろう。3回生以降、僕は苦悩をむしろ深めていくのだが、そのとき森実さんに相談ができていいれば、何かが変わっただろうか? その後、森実さんは民青同盟京都府常任委員、京都府委員長、中央副委員長、中央委員長と民青同盟での「出世」の階段を登っていく。森実さんの親しい指導を受けた身からすれば、それは自慢だった。 最後に森実さんに会ったのは、1997年の中央赤旗まつりのときだった。ややお疲れの様子が気になったが、中央委員長ともなると大変だな、と思っていた。その後、森実さんは病に倒れ、逝ってしまうのである。 僕は、民青同盟の方針に不確信を持つことも多く、森実さんが中央委員長だったときにもそれが払拭されたわけではないが、森実さんなら今後、なんとかしてくれるだろう、という希望を持てたのも事実だ。その希望が、森実さんの死によって断ち切られる、というのは何とも悲しかった。 その後、民青同盟中央は、90年代後半の日本共産党の前進という情勢の中で、許しがたい路線をとることもあった。青年組織というのは構成員が若いため、どうしてもある程度の動揺が出てしまうものであるが、そんなとき、「森実さんが生きていたら」と思うこともあった。森実さんが健在であったら、本当に民青同盟の方針がまともなものになっていたかはわからない。しかし、森実さんは僕の希望の星だった。生きていたら、それこそ日本共産党を背負う人材になっていたに違いない、という思いもある。 日本共産党と民青同盟の前途を考えるとき、森実さんの死はあまりにも大きな損失だったのではないか、という思いが僕にはある。それは、僕の森実さんへの個人的な尊敬とはまた別の問題であるが。 厳密に言えば、唯物論者に「冥福」はない。森実さんの生きた証は、われわれ遺された者の中にしかない。森実さんの遺志をどう受け継ぐか、が問われている。しかし、ストレスにあまりにも弱い僕には、できることが少なすぎる。そのことの歯痒さを、森実さんならどう受け止めてくれるだろうか。
2013/08/23(金) 04:52:22 |
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古本屋通信 No 371 8月21日 下手が上手を制す 私は「通信 No 361 文章の上手と下手」 で、以下のように書いた。 上手な文章と下手な文章はある。あまり面倒な講釈は要らない。きれいな文章ときたない文章と言い換えてもいい。これは勿論、いい文章と悪い文章ということではない が、文章が自分の考えを他人に伝える手段である以上、前者が後者に優っていることは言うまでもない。好サンプルを発見したので、ひとつずつ貼っておく。 そして、その好サンプルとして大本芳子さんの終戦記念日のブログの文章と、それに就いての七誌さんのコメントの文章を挙げた。 この時 「いい文章と悪い文章ということではないが」 と、保留を残しておいた のは、特別な意図がある訳ではなかったが、大本さんの文を無条件に褒めあげることに対する警戒心はあっただろう。そして私の危惧は的中した。ついでに、下手な文の標本だと私が槍玉にあげた七誌さんが、ここでは大本さんの誤りをズバリ指摘しているではないか。お二人に再登場していただくことにした。きょうの山陽新聞、「滴一滴」に感動=本当に困っている人が「助けて」といえる社会を カテゴリー: 雑記 | 投稿日: 2013年8月14日 | 投稿者: 大本芳子 きょうの山陽新聞「滴一滴」を読んでその通りだと拍手を送ります。 昨年来、一部メディアやネット上で生活保護バッシングが続いています。その一つは不正受給にありますが、「滴一滴」でも言われているように、その額は保護費全体からすれば1%にすぎません。今の日本は、本当に困っている人が「助けて!」といえない社会にどんどん突き進んでいることです。まさに弱肉強食の社会です。 今忘れてならないのは、生活保護が憲法25条で保障された「最後の安全網」であることです。生活保護費にまで手を入れなくても、削れるものはあるはずです。その最たるものに「政党助成金」があります。七誌 2013年8月14日 7:30 PM 「本当に困っている人が助けて と言えない社会にしてはいけない」のに、マスコミが<「助けて」と言えない社会>を先導してしまっている。 「昨年来、一部メディアやネット上で生活保護バッシングが続いている。社会保障費を削減したい政権には好都合だったろう。」とされているが、財界・政府がマスコミと一体となって推進しているように私には見える。 山陽新聞の文章を読んでいて、新約聖書に書かれている話を想い出した。 キリストを磔刑(たっけい、はりつけの刑)に処したピラトが、処刑を命じた後に手を洗って処刑への責任を逃れようとしたのを思い起こした。 ポンティウス・ピラトゥス – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E6.95.99.E3.81.AE.E8.81.96.E6.9B.B8.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.83.94.E3.83.A9.E3.83.88 七誌さま そういわれてみるとそうですね。そこまでの深読みが必要ですね。(反省) 大本芳子 投稿作成者2013年8月14日 9:05 PM 参考 [滴一滴] 昨年秋、札幌市で70歳の母と42歳の娘が生活苦から心中を図り、娘だけが生き残った。生活保護を途中で辞退していたと知り、「なぜ」という疑問が頭から離れなかった 少し前に裁判があり、娘が理由を語っていた。母は脳腫瘍を患い、娘は1年以上も仕事が見つからなかった。「お金だけもらうのは心苦しい」。受給を断り、手元の金が底を突いても再申請しなかった 「ニュースを見て簡単には受給できないだろうと思った」。お笑いタレントの母親の受給が問題とされ、生活保護への風当たりが強くなったころである。家賃が払えなくなり「もう終わりにしよう」と言ったのは母だった 絶食自殺を試みたが、つらくて2週間で諦めざるを得なかった。理由を告げずに親族から金を借りて練炭を買い、並んで布団に入ったという。言葉を失う 昨年来、一部メディアやネット上で生活保護バッシングが続いている。社会保障費を削減したい政権には好都合だったろう。今月から支給額カットが始まった。しかし、他に削れるものはある。忘れてならないのは生活保護が憲法25条で保障された“最後の安全網”であることだ 批判の一つが不正受給だが、その額は保護費全体からすれば1%に満たない。本当に困っている人が「助けて」と言えない社会にしてはいけない。(2013/8/14 7:44) 以下、古本屋通信 それぞれの投稿内容、及び[滴一滴]の内容の具体に就いて書こうとは思わない。古本屋通信は七誌さんに全面的に賛成する。大本さんはちっとも(反省)していない 。口先だけである。以下、大本さんの誤りをその思想的根源に遡って指摘しておきたい。その前に私の過去記事の文 を引いておく。 「一寸、嫌いな文に就いて書いておく。ブル新は全て嫌いだが、朝日新聞の「天声人語」、山陽新聞の「滴一滴」。赤旗も「潮流」。自分が安全地帯にいて、俗に流し目をくれる、こういう自己完結的な文にはちょっと耐えられない」(通信No 355 「ブログの文章」から) 土台、山陽新聞の「滴一滴」に感動するなど、元共産党倉敷市議として完全失格である。たとえ感動しても書いてはいけない。感動するんなら赤旗の「潮流」に感動しんさい。あきれてものが言えんワ。私は大本さんは単なるオッチョコチョイだと思っていたが、ここまでくると頭が(科学的社会主義的に)空白だね。 古本屋通信のようにブル新を目の仇にしなくてもよい。取材に応じるもよし、よい記事の具体に共感するもよし。しかし「きょうの山陽新聞 [滴一滴] を読んでその通りだと拍手を送ります」 とは何なら? こう言っても大本さんはポカンとしているだろう。テンデ分かっていない。このひと、社会の仕組みが根本のところで分かっていない。生活保護叩きをしているのは「一部メディア」ではないのだ。体制に飼われているブル新の総体なのだ。しかし時々、世論の動向に流し目をくれて、今回のような欺瞞的な記事を書くこともある。それを何ですか、感動したりして。 共産党員は基本的にブルジョアジャーナリズムを褒めてはならない。批判するか、無視するかのいずれかだ。これ常識中の常識なのヨ。時々の新聞記事に肯定的にふれることがあっても、史的唯物論の根本命題(上部構造と土台)を欠いていては、話にならない。そういう共産党員の典型が前岡山県議の武田英夫氏だが、他には多くはいない。ふつうはちゃんと距離をとっている。 あのね、大本さん、もう御歳なんじゃから、政治的なこと書かれな。いいことにならんワ。いつも勇み足じゃ。短歌でもやられえ。そのほうが周囲も安心できる。 最後に。多少先走り気味だが、われわれはきれいな文、わけてもきれい過ぎる文には警戒が必要だ。ここでは仮説としてに留めるが、美文というものはしばしば右翼ナショナリズムと結びつく。悪文にそれはない。まあ、異論は出るだろう。三島、川端、小林秀雄、磯田光一 etc. 。
2013/08/21(水) 21:40:09 |
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古本屋通信 No 366 8月18日 描写と表現の問題 ⅰ 昨日のブログ「No 365 坂井(平野)希ツイート」で 、私ははだしのゲン を取り上げる羽目になった。はだしのゲンを取り上げようと記事をアップしたのではない。坂井さんのツイートを訪ねたら、たまたまこの問題がツブやかれていたのだ。坂井さんは自分の読書、息子さんの読書をつうじて、「良い作品は子どもに物事の本質を伝える。閉架化なんてナンセンス 」とキッパリ。吉良さんは幾分トーンダウンしてだが、「見るのが辛い描写があるのは確かですが、だからといって閉架にして原爆の実態を知る機会を奪ってしまうことに疑問です 」と。ⅱ この問題が起こっていたのは私も知っていた。しかし私ははだしのゲン を読んでいなかった。たまたま読んでいなかったのではない。読みたくなかったから読まなかったのだ。食わずぎらいという奴だ。だから当然スルーするつもりだった。しかし「坂井(平野)希ツイート」を取り上げるいじょう、まるでスルーという訳にもいかなくなった。それで、屁っぴり腰の短文を添えた。ⅲ これでもう寝ようと思って、「ひろ子ワールド」を訪問した。ここに、30分まえにはなかった怒りの文があった。こちらはツイートではなく、しっかりした文である。怒りの感情は伝わってくるが、感情的な文ではなく、説得力がある。その全文をコピーして、私の昨日のブログに貼り付けた。それが昨夜のことだ。ⅳ この作品が原爆文学(あえて文学という)であることは私も知っていた。然し、自分が読んでいない作品に就いて、モノをいうことはできない。他人の感動(怒りや悲しみも)を理解することはできても、それを共有することはできない。以下の文を書くに当たって、私の中には「はだしのゲン問題」 は全くない。 読んでないのだから在りようがないのだ。それを前提に読んでほしい。前置きが長くなった。侵略戦争の描写と表現の問題について、少しだけ書いてみたい。① 侵略戦争の描写と表現の問題で思うことの第一は、兵士がひとを殺すシーン、兵士が女を犯すシーン、死体の具体的有様のシーンは避けた方がよいと思う。これは何がなんでも描いてははらないということではない。また、その描写を含む出版物・映像を禁止すべきだということと同一ではない。② それから、その描写、表現が全体のごく一部であることをもって、「全体をみてくれ」といって正当化するのは適当ではないと思う。この点は「一箇所でも猥褻は猥褻」というのと同じだ。③ 商売の事になるが、戦地の日本兵と一緒に写っている中国人や朝鮮人の死体写真、そして殺された日本兵の死体の山の写真、そんなものを何回か見る機会があった。槍(?)で串刺しにした写真もあった。然しそんなものには何の価値もない。むごいだけだ。子供にみせるものではない。私は即刻、水を掛けて捨てた。④ 1965,6年頃、私は外国の革命文学の作品をかなり読んだ。新日本出版社や日本共産党出版局から出版された本だ。中国、朝鮮、東南アジア諸国の抗日戦争を描いた作品が多かった。私はこれらの優れた文学に、残虐シーンの描写があった記憶がない。文学におけるリアリズムとは、事実をそのまま描くことではない、細大漏らさず描いてそれを蓄積しても、感動をもたらす作品は生れない。だから文学は難しい。⑤ 私は「何がなんでも描いてはならないということではない」と書いた。私は少年のころ大の漫画少年だった。漫画家になろうと思ったこともある。少年漫画は赤胴鈴之助以来、人殺しのオンパレードだった。私が最後にその殆んどの作品を読んだのは白土三平だ。白土作品はとくに残虐だった。然し私はちっともむごいとは感じなかった。何故だろうか? それは時代がわれわれの時代ではないという暗黙の共通理解があったからだろう。たぶん、豊臣秀吉の軍が朝鮮で、日本刀で朝鮮人の首をはねるシーンがあっても、いまのわれわれには、それほど残虐だとは映らないだろう。⑥ 明治以降、すなわち近代以後の侵略戦争は、まだ完全には過去の歴史になっていない。もし殺人、強姦を描くとすれば、われわれは自己を殺人者、強姦者と重ねて描き、また重ねて読まねばならない。でないと欺瞞的だろう。われわれはそれに、よく耐えうるのか、どうか。あるいはまた、それが歴史における科学的な立場だと言い切れるのか、どうか。事は意外に単純ではない。 すこし書き足すかも知れない。 ⑦ ベトナム戦争の写真集について思い出したので、付け加えたい。これはカメラのシャッターをきる位置・場所によって、はっきりと2つに分れる。すなわち侵略者アメリカ(傀儡サイゴン政権)の側から写真を撮るのか、それとも南ベトナム解放民族戦線(及びホーチミン政権)の側から撮るのかだ。中間はあり得ない。後者のひとつに、ベトナムの少女の裸の陰部にアメリカ兵が竹を刺した写真があった。私は目を背けず凝視した。そして感動した。だれの写真だったか忘れたが、日本リアリズム写真集団 のだれかの作品だったと思う。参考 日本リアリズム写真集団とは (2009年9月現在 ) そのHPより引用しました。拡大してお読みください。名称 日本リアリズム写真集団(JAPAN REALIST PHOTOGRAPHERS ASSOCIATION) 略称 写真集団またはJRP 設立 1963(昭和38)年12月27日 所在地 東京都新宿区四谷3丁目12 沢登ビル6階 支部 全国各地に60支部と120人の個人会員 目的 日本リアリズム写真集団は、写真の創造活動を通じて表現の自由を守り、日本の平和と民主主義の発展に寄与しようとするプロおよびアマチュアの写真家、評論家、編集者などで構成する自主的な創造運動体です。 役員 代表理事 英 伸三、中村 梧郎、尾辻 弥寿雄、金瀬 胖、関 次男 事務局長 関 次男 理事 岩田 十士、岩渕 利彦、川上 源重、儀同 政一、倉沢 登志子、黒田 勝 小林 定之、五味 明憲、白鳥 智通、田沼 洋一、中西 篤行、山田 公男、山本 やす子 吉峯 達希、若橋 一三 略史 1963年 12月27日創立。会長:田村茂、事務局長:小西久弥を選出。 1964年 機関誌「日本リアリズム写真集団」を発行。第17回アンデパンダン展に参加。13支部結成。 1965年 第2回総会で理事長:田村茂、副理事長:永田一脩、伊藤逸平、事務局長:小西久弥を選出。 機関誌を「現実と写真」と改題、さらに「写真リアリズム」と改題し発行。 1966年 第3回総会で顧問に中島健蔵、木村伊兵衛、土門拳の各氏が就任。 1967年 第4回総会で、理事長:田村茂、副理事長:伊藤逸平、田中雅夫、藤本四八、事務局長:伊藤知巳を選出。第1回夏期講座を東京綜合写真専門学校で開く。 1969年 第3回夏期講座を高尾山薬王院で開催。 1971年 JRP写真塾(英教室、丹野教室、目島教室)を開講する。第5回夏期講座(高尾山)。 1973年 機関誌「写真リアリズム」第34号から108ページにし、“写真雑誌”へと発展めざす。 1974年 JRP付属「現代写真研究所」を開設。第1回新人展「風」をフジフォトサロン(東京)で開く。 1975年 第9回夏期講座(高尾山)、参加者143名、最高の参加者数を数える。 1976年 第1回公募写真展「視点」(委員長・丹野章)を東京都美術館で開く。視点大賞に中村梧郎「ベトナムの春」、東洋介「鬼灯(ほうずき)」。 1977年 第12回総会。第2回「視点」、地方巡回展を開く。神奈川、京都、松山。 1983年 JRP創立20周年記念パーティー開催。機関誌「写真リアリズム 創立20周年記年号」発行。 1988年 第17回総会第2回理事会で理事長:藤本四八、副理事長:丹野章、川島浩、事務局長:目島計一。顧問に伊藤逸平を選出。 1989年 第18回総会で、理事長:丹野章、副理事長:川島浩、英伸三、事務局長:目島計一。顧問に藤本四八を選出。 1993年 JRP創立30周年記念写真展「時代を見る眼・1000人の眼」開催。写真集「現代リアリズム」を発行。 1995年 企画展「1995ドキュメント日本-戦後50年」開催、作品集発行。 1998年 JRP塾東京教室開講。全国夏期講座を12年ぶりに開催。 1999年 JRP塾名古屋教室開講。 2000年 企画展「熱い時代の伝言-60年安保から高度成長へ」(新宿コニカプラザ)、「迷夢の国ニッポン-飽食時代から世紀末」展(半蔵門JCIIクラブ25)。企画展シンポジウム開催。 2001年 第26回総会で、理事長:川島浩、副理事長:英伸三、関次男、事務局長:黒田勝雄を選出。 2002年 JRP東京塾、近畿・東海塾開講。 2003年 第27回総会で、理事長:川島浩、副理事長:英伸三、関次男、尾辻弥寿雄、事務局長:黒田勝雄を選出。理事長:川島浩逝去。関次男を理事長代行に選出。 2004年 創立40周年記念写真展「この時代の光景」(東京芸術劇場)を現代写真研究所創立30周年記念展「写真の探求」と合同開催、同写真集発行、細江英公氏記念講演。 2005年 第28回総会で会則を改定。理事長制を改め複数の代表理事制に。代表理事:英伸三、中村梧郎、関次男、金瀬胖、尾辻弥寿雄、事務局長:黒田勝雄を選出。別冊「写真リアリズム」『核時代の光景』を発行。 2007年 伊藤逸平文庫開設。 2009年 第30回総会で、代表理事:英伸三、中村梧郎、関次男、金瀬胖、尾辻弥寿雄、事務局長:関次男を選出。45周年記念「写真リアリズム」特大号『一冊まるごとJRP』を発行。 >
2013/08/18(日) 03:20:37 |
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古本屋通信 No 365 8月17日 坂井(平野)希ツイート 既に紹介した秀逸ツイートです。是非とも「お気に入り」にお入れ下さい。吉良よし子さん も登場です。未来の委員長・書記長ですね。テーマははだしのゲン 。坂井(平野)希 @nozomi_ski3時間 代々木駅で浴衣姿の若者が多数下車。近隣の飲食店は外に焼き鳥だのポテトだのを出している。お祭りがあるのね? 私は逆走。ちと残念オテントSUN @otentosun014時間 はだしのゲン 全10巻が、アマゾンのコミックのベストセラーランキングで10位に急浮上。松江市教育委員会が「はだしのゲン」を閉架にした影響かな~。過去に目をふさいではいけない。表現の自由を奪っちゃいけない!日本の良心ここにあり!http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/2278488051/ref=pd_zg_hrsr_b_1_3_last …もとむら伸子(本村伸子) @motomura_nobuko6時間 おぉ!@sanbongisatoshi <ブラックバイト>被害学生ら労組結成へ 毎日新聞 8月17日(土)2時31分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130817-00000005-mai-soci … 坂井(平野)希 @nozomi_ski7時間 はだしのゲン。私は小5のとき学級文庫で出会い、怖いけど事実だから向き合わねばと必死で読んだ。今年小4息子が市の図書館で見つけ全巻読破。彼が一番感じたのは戦争を始める権力者は戦争で決して傷つかないという理不尽さだったよう。良い作品は子どもに物事の本質を伝える。閉架化なんてナンセンス 吉良よし子 @kirayoshiko13時間 見るのが辛い描写があるのは確かですが、だからといって閉架にして原爆の実態を知る機会を奪ってしまうことに疑問です。 “@lib_soultrain: @47news はだしのゲン「閉架」に 松江市教委「表現に疑問」 http://bit.ly/19lUxYi ”盛田隆二 @product195410時間 【はだしのゲンを松江市内の小中学校図書館で子どもたちが自由に読めるように戻してほしい】に賛同される方はリンク先で署名をお願いします。「はだしのゲン」を子どもたちの目から隠す教育施策は、戦後の墨塗り教科書と同じ愚を犯していると思います。 http://chn.ge/14mgFgQ 内田樹 @levinassien11時間 松江の教委が『はだしのゲン』を閉架にして、貸し出し抑制という報道に脱力。ぼくが陸軍内務班がどういうものかを学んだのは五味川純平の『人間の条件』からでした。小学校5年生のときです。でも、そのためには手元に本がないと(親はまさか息子がそんなものを読んでいるとは知らなかったけど)アライ=ヒロユキ @arai_hiroyuki8月16日 松江市の『はだしのゲン』閉架事件。情報出所 『まつえ市議会だより』2013.3.1 http://www1.city.matsue.shimane.jp/gikai/shisatu/gikai-11.data/gikaidayori-no14.pdf … 中島康治氏による陳情書46号 http://www1.city.matsue.shimane.jp/gikai/gian/teireikai24-12/gikai--d50.data/chinjou-46.pdf … 陳情書では、『はだしのゲン』は不良図書と形容されている。 姫井二郎 @himejiro19718月16日 夏休みやなあ。浴衣姿の若い人が国会前で原発いらない!。日本の夏、原発が動かない夏、なんかいいなあ pic.witter.com/N92qnm45jPほっしー @hossy2012088月16日 国会前ファミリーエリアで、笠井亮衆院議員と吉良よし子参院議員がスピーチ。 http://twitpic.com/d8lvkz 坂井(平野)希 @nozomi_ski8月15日 @ha_yuka ありがとうございます♪ 帰ってきてからも、楽しかった、楽しかったって言ってました。嬉しいことです。 古本屋通信より たしかに侵略戦争の残虐さ、とりわけ殺人現場、強姦現場をどう描くがは、はだしのゲンの問題をはなれても問題になろう。対象がこどもでなくてもだ。私は一般に(描くことに)否定的だ。すぐれた表現というのは想像力をかきたてるものでなければならない。真のリアリズムとは何かということだ。私はこの点で手塚治虫の作品に疑問をもったことがある。大むかしの学生の頃だ。だから手塚の弟子らしい中沢の作品を避けた。それで、はだしのゲンを読んでいない。発言資格はないのだが、心情的には松江の PTA に近いものもある。もっとも閲覧禁止には同調しないが。ついでだが、五味川純平の『人間の条件』にも批判がある。やりだすと泥沼に入るので避けたいが。 追記 記憶が曖昧なのだが、私が学生の頃、『文化評論(当時は日本共産党発行)に、個人論文だが手塚のクソ・リアリズム (表現の残忍さ)にたいする批判が載ったと思う。そして暫くして中沢が党関係の媒体(『赤旗』日曜版だったか?)にマンガを連載し始めた。あれっと思ったが、よく考えてみると文化関係だから一向に構わない。あの頃の『文化評論』は実によかったと思う。創刊号から終刊まで、古本屋を開始して5年ほど店においていたが、場所が不足して、大半を捨てた。今にして惜しかった。 再度追記 たった今、河村ひろ子さんが今日の記事をアップされた。全文を転載させて戴く。 「はだしのゲン」 なぜ貸出禁止? 河村ひろ子 2013-08-17 私は腹がたってたまりません! なぜかというと 松江市教育委員会が「はだしのゲン」の漫画の買い出し禁止要請を 小中学校にしていたという事 ニュースでご存じの方もおられると思いますが・・・ 被爆体験を描いた、故・中沢啓二さんが描いた漫画「はだしのゲン」は読んだ事がある方も多いと思います 今回の件は、昨年8月 一部の市民から「間違った歴史認識を植え付ける」として 学校図書館室から撤去を求める陳情が市議会に出され その年の12月、市議会では「不採択」としました ところが、市の教育委員会が内容を改めて確認 「旧日本軍がアジアの人々の首を切ったり、女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断 その月の校長会で「はだしのゲン」を閉架措置(教師の許可がないと自由に閲覧できない)とし、 できるだけ貸し出さないよう口頭で求めたそうです 市内の49小中学校にうち39校が、「はだしのゲン」全巻そろえているそうです そのすべての学校で閉架措置になっていると・・・ このニュースを聞いた時「はあ?!、何それ!!」 と、ただただびっくりでしたが、だんだん腹が立ってきました 私は小学生になった時から「はだしのゲン」を読み始めました 被爆の描写には、確かに衝撃をうけましたが 何度も何度も読みました 「原爆が投下された時の、広島の街ではこんなむごい状況になったんだ 「放射能はこうやって、人間の体をむしばむのだ・・・!」 と、リアルに原爆の事を知る事ができました 私にとってとても大事な漫画です 作者の中沢啓二さんも、自らの辛い被爆体験を継承するため 1973年から連載をはじめ、1987年に第一部が完結するという、長編漫画を 苦労しながら描き続けたのです 過激なシーンを・・・と言いますが 「はだしのゲン」で訴えたい内容について 子どもたちに、きちんと伝える事をすればいいと思うのです 被爆者が高齢化し、人数が減ってきている中で 原爆について被爆について、子どもたちに伝える一つの教材として 「はだしのゲン」はとても大事だと思います 貸出禁止にする事は、絶対におかしい!と私は思います この漫画は世界各国にも翻訳され 戦争・平和・原爆・放射能について深く考えさせられる 世界でも認められた漫画です 今回の松江市のやり方は、世界の平和の流れにも逆行していると、みなさん思いませんか?
2013/08/17(土) 21:18:17 |
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古本屋通信 No 361 8月16日 文章の上手と下手 上手な文章と下手な文章はある。あまり面倒な講釈は要らない。きれいな文章ときたない文章と言い換えてもいい。これは勿論、いい文章と悪い文章ということではないが、文章が自分の考えを他人に伝える手段である以上、前者が後者に優っていることは言うまでもない。好サンプルを発見したので、ひとつずつ貼っておく。 終戦68周年と「玉音放送」の思い出 大本芳子 2013年8月15日 1945年(昭和20年)8月15日、日本がポッダム宣言を受諾、無条件降伏をした日。多くの犠牲者を出した第2次世界大戦が、終戦の詔勅(しょうちょく)をもって終結しました。国民がこれを知ったのは、正午に放送された昭和天皇の玉音放送によるものとされ、私が7歳の時でした。この戦争ではアジアの人々2000万人、日本人310万人の命が失われました。アメリカの原爆投下を含む無差別爆撃は国土を焼土と化しました。まさに戦争犯罪です。 戦争は命を懸けて拒むもの母みなおみな牢に満つとも 平塚 らいちょう 私は、岡山市で空襲にあい縁戚を頼って倉敷市玉島に着の身着のままで父・母・兄・次兄・私とで疎開してきました。行くところがなく円通寺の良寛堂にしばらく住まわせていただきました。当時襖や障子を境に中国からの引揚家族、岡山空襲の罹災家族など5世帯が住んでいました。 あの日(8月15日)ふもとの町内会長宅で12時に大切なラジオ放送があるので集まるように連絡があり、母に連れられて行きました。私たちが町内会長さん宅に着いた時は、すでに何人かの人々が集まっていました。庭の真ん中にござを敷きその上にラジオがおかれていました。ラジオからは「ジャージャー」という音だけで人の声は、ほとんど聞こえてきませんでした。これが私が体験した玉音放送でした。玉音放送 七誌 2013年8月15日 5:25 PM 侵略戦争について、開戦前から考えが変わっていたのでしょうか。 国民や外国の人々に申し訳ない、という気持ちがあったのでしょうか。顕れていたのでしょうか。 それとも、負けて悔しい、もう一度やってやる、そういう気持ちだったのでしょうか。 靖国神社は、大日本帝国によって徴兵され、死地に追い込まれた人を神道的な宗教形式で勝手に「祀る」、侵略を合理化する政治的施設です。戦争を主導した戦犯まで紛れ込ませています。 そんな施設に、「参拝」したり、「献納」したりする、総理大臣や閣僚らは、侵略への態度が顕れています。 侵略された諸国(民)が非難するのは当然です。 現に、戦時体制を構築する動きが切迫化しています。 不安が襲って来ます。七誌 2013年8月15日 9:04 PM 「歴史をきちんと学」ぼうとしても、侵略戦争美化で修正された歴史教科書では、学べない。 マスコミの影響が大きい。大手マスコミ幹部が、アベ自民党公明党政権と親密に会食するようでは望めないのかもしれないが、消費税などで取引するなど、道を誤らないでもらいたい。 「解散後、家業を継ぎ、稲作農家となった臼方さん。従順な軍国少年だった自身を振り返り、「だまされないように、今の学生には歴史をきちんと学んでほしい」と、一言一言かみ締めるように語った。」 キャンパる:戦争を考える/中 「軍国少年」たちの証言 「少年農兵隊」「鉛筆部隊」での戦争体験とは−−古本屋通信のコメント 大本さんの文 、内容は一切問わない。私は大本さんの文章ほど、淀みのないきれいな文を、少なくとも日本共産党議員のブログ記事で見たことはない。これは才能と短歌修業のたまものだから、容易に真似ることはできない。私の第一印象は「ほれぼれする」だ。そして、それに尽きる。七誌さんの文 、内容はずいぶん改善された。ここに書かれた文も、内容がチンプンということではない。よく読めば分かる。ただ、分かるためには読み手が努力しなければならない。そういう文こそ良い文だという場合もある。然しそれはプロの書き手の場合だ。一般には読まれない。
2013/08/16(金) 02:53:58 |
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