古本屋通信

雑賀さんのコメント

古本屋通信  No 278 6月26日

  雑賀さんのコメント

 私が [通信 No 190 雑賀光夫の徒然草] で記事を書いていた共産党和歌山県議の雑賀光夫さんから、当ブログにコメントがあった。左記のコメント欄で読めるが、私はこの欄を定期的に消去するので本文に入れた。全文は短文で以下の通りだが、私にはこのコメントは、三重の意味で嬉しかった。それは敬意を払って「徒然草」を読ませてもらった雑賀さん本人のコメントである事はもちろんだが、加えて時期がよかった。東京都議会選挙で共産党が議席を大幅に増やした直後であること。もうひとつは当ブログが京大同学会中執のエントリーを立てたのとほとんど同時だったことだ。
 暫く御無沙汰していた「徒然草」にも近いうちに再訪問したい。部落問題の記事に目をつけていたのだが、これが難しくて、私はいったん「徒然草」から離れたのだった。


 お読みいただいてありがとう

私の「徒然草」と読みいただきありがとうございます。
ご指摘のように「後書き」は、戦前の蔵原への批判ですね。

共産党の県会議員をしていますが、いろいろ刺激的なご意見
をいただければありがたいです。


かみつくメールなどいただければ幸いです。
  1. 2013/06/26(水) 06:55:13|
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文学碑に就いて

古本屋通信  No 277 6月25日

  文学碑に就いて


 私は「通信 No 267 碑について 」で、顕彰碑について否定的見解を書いた。その時、文学碑については「あってもいいのかなあという気もする」と、曖昧に態度保留の含みを残した。それは私が文学碑に就いて殆んど知らなかったという理由もあった。その後とくに調べたわけではないが、すこし書いてみたい。

 小林多喜二の文学碑が北海道小樽にあることは知っていた。あってもいいのかなあと思ったのは、多喜二の碑を意識しての事だった。そのとき宮本百合子の文学碑はきっとないだろうと思った。これは確信に近かった。生前の百合子がこういうことを極端に嫌っていたことを知っていたからだ。ところが意外にも、百合子の文学碑は福島県郡山にあった。「貧しき人々の群れ」の文が碑に刻まれていた。民主主義文学会の現在のHPにも紹介がある。

 それと関係がないが、全国に文学碑なるものがゴマンと存在することも初めて知った。なんと佐多稲子の文学碑も兵庫県相生市にあるではないか。
 
 この辺の新しい認識をふまえて少し書きたい。私は文学碑については、私が一般論として書いたこと、つまり 「碑は基本的には、個人崇拝だろう」「尊敬や敬意を表すのに、碑は間違っている」「これはそれにかかわる人間に、ある種の思考停止をもたらすから、碑の対象になった人物の真の理解に繋がらないのみか、理解を妨げる」 は妥当ではないと思った。それじゃあ、それでもう言いたいことはないのか、と問われればやはり言いたいことはあるのだ。

 色々書けばキリがなくなるので、今回は宮本百合子の碑に限って書きたい。建立の経緯については知らない。それは公表されている訳でもないだろう。だから推測で書くことになる。顕彰碑建立に著作権が絡んでくるのか否かは知らない。然し、たとえ法的に絡まなくても、この場合宮本顕治の承認がなくては建立は不可能だったろう。因みに百合子の著作権は、現在は死後50年経過して消滅しているが、建立時の1970年代には顕治にあった。

 私の推測を書く。宮本顕治は百合子の文学碑建立に極めて否定的、消極的だったと思う。それは生前の百合子を知っていれば当然だが、加えて顕治自身が碑について、否定的は認識を持っていたと考えられるからだ。私は何処でそれを読んだか定かでないが、上記の私の考えは、顕治から学んだように記憶している。顕治は徳田派の百合子攻撃から百合子の文学を守りたい気持ちは強かった。そのためのたたかいをかつて精力的に為してしてきた(『宮本顕治文芸評論選集』 第三巻)。その顕治が徳田派の百合子攻撃の口実になる文学碑を嬉々としてすすめるはずがない。私の知る限り、顕治の残した文に百合子文学碑にふれたものはない。これでも顕治の全著作を集めてきた積りなのだ。断定するにはちょっと躊躇うが、そう思う。

 それと日本共産党だが、百合子は党員作家だったが、党のお抱え作家だったわけではなかったし、党の幹部でもなかった。だから、公的には日本共産党の出る幕は何処にもなかった。党が百合子の文学碑建立に取り組んできたという事は、公式にも非公式にもなかっただろう。しかし古いはなしだから、或いはカンパ活動などやっていたかも知れぬ。

 百合子の文学碑建立は結局、民主主義文学と近代文学の周辺、それと地元郡山から出た要望に、顕治周辺が押し切られて建てられたのではないかと私は思う。党の周辺も「あってもよいのではないか」という意見が強かったのではなかろうか。袴田里見あたりがしたり顔で、顕治に説教を垂れる情景が目に浮かぶ。これは碑に就いての意見というより、当時の大衆運動一般をすすめていく立場からだったろう。

 顕治は例の苦虫を潰したような顔で、苦り切っていたのではないか。百合子の葬儀に湯浅芳子が参列するのを拒み切れなかった時の顔だ。顕治はその顔で序幕式に出ただろう。「赤旗」は極めて小さな報道記事だった。党側からはただ一人、桑原信夫幹部会員が出席した。顕治も共産党も、「百合子の文学は顕彰に値しないのか」という一般の声に引きずられた格好だった。時は高度成長の真っ盛り、全国で文学碑が乱造された時代だった。

 ところで、百合子の文学碑は百合子の文学の理解になんらかの貢献をするのだろうか。民主主義文学会のHPの紹介にもあるが、私はこの場合悪くないと思う。ただ、こういう碑を百合子が嫌っていたことを(変な話だが、碑の脇に)明示しておいた方がよいのではないかと思う。しかし、そういうみっともない事ができるか、と言われれば黙るしかない。 

 ここまで書いてきて、文学碑はやはり商売だと思った。ただし罪のすくない商売だ。大目に見てもよいのではなかろうか。そのうえで誉められた事かと問われれば、やはり感心しないと言わざるを得ない。近代文学、現代文学の評価が定まるのは、作家によって異なるだろう。文学碑はそんな事に構わず建てられる。大江健三郎辺りが、生前のいまから「ボクの碑は絶対に断わる」と明言しておいても、松山市は子規以来の巨匠の碑は建てるだろう。

 この項、かなり独断的に書いた。私の事実認識に大きな誤りがないとは言えない。もうひとりのキーパーソンは大森寿恵子だったが、かの女も死んでしまった。宮本太郎氏は何も知らないだろうが、宮本家の文学関係の資料は公開していただきたいものだ。


補記 上記の文を書いたあと、ネット検索していたら早くも下記の文献に出会った。まだ全文が読めないので何とも言えないが、少なくとも私の文中の「顕治の残した文に百合子文学碑にふれたものはない」は誤りということになる。拙文が印刷物ではないから、誤りの記述も暫くそのままで残すが、ハラハラものだと思った。


参考資料
露草あをし:
宮本百合子文学散策
宮本顕治, 小林栄三, 桑原信夫
宮本百合子文学散策編纂委員会, 1996 - 205 ページ
宮本百合子文学マップ(宮本百合子文学碑;安積野開拓顕彰碑と中条政恒翁頌徳碑;開拓者の群像;開成山の堤の桜ほか);百合子文学誕生の地―郡山(宮本百合子と郡山;開成山を描いた初期作品―宮本百合子文学の思想的基盤;露草あをし―小説『播州平野』のこと;『貧しき人々の群』私の読み方―宮本百合子文学碑建立十年に寄せて;宮本百合子の今日的意義―近代史に生きた日本の知性ほか)
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  1. 2013/06/25(火) 23:22:15|
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学生自治会再建運動

 古本屋通信  No 276 6月25日

 
学生自治会再建運動

 昨日、当ブログは京大同学会中執HPの訪問を受けた。同学会再建運動にエールを送り、あわせて学生自治会再建運動一般について、古本屋通信の考えを述べたい。
 いわゆる中核派系が京大をはじめ、東北大、富山大、広島大で自治会再建運動を進めていることは知っている。私はこれらを含め、あらゆる大学に学生自治会が存在して活発な活動を展開することは、大学の自治と学問の自由にとって不可欠の条件だと思っている。今日のように産学一体が一般化し、大学の自治も、教授会の自治も、いわんや学生の自治も存在しない大学は異常だと思っている。
 学生自治会が無党派の諸君によって担われるならそれもよい。私は東大C自治会のその後に注目している。然し一般的には無党派では持続的活動は無理だろう。私は監獄大学文化連盟にも、信州大学自治会にも、早稲田大学新聞会にも注目している。要するに、取り合えず何派でもよいのだ。極端には統一協会でも、在特会でもやれるもんなら(支持はしないが)やったらよい。中核派は上等だ。ただし学生自治会活動は党派活動とイコールではない。全員加盟の組織にふさわしいかたちを執らないと、すぐに崩壊するだろう。動労千葉の経験豊富な中核派はそんなことは百も承知だろう。
 HPを見る限り、熟慮された活動方針と拝見した。京大同学会の活動が他派主導の自治会活動のよき見本になるように頑張って欲しい。 
 
  1. 2013/06/25(火) 13:45:06|
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スパイ問題

古本屋通信  No 271 6月22日

  スパイ問題

 中核派のスパイ摘発を重大な関心をもって読んだ。直観だが、スパイは本当で、よく摘発したと思う。これを冷笑するスレも貼ったが、本気で 「スパイの潜入を20年も許した政治責任」 と思っているなら、政治党派と権力の関係に無知と言わざるを得ない。戦前の共産党が権力のスパイによって崩壊させられたことをもって、共産党の政治責任をいうようなもんだ。スレ自体が敵対党派と公安と阿呆の合作だろう。そのようなものとして読んだ。ただし、このスレ、ひとつだけいい事言っている。
   833 :もっこす:2013/06/23(日) 01:51:16.21
   スパイの最大の特徴は、理論が弱いという点だな。


 中核派の評価は別として、革命党派がそれにふさわしい政治活動と組織活動を続けているかぎり、対権力関係は避けられない。すなわちスパイはつねに入ってくるし、現にいまも潜入しているとみてよいだろう。国家権力はスパイ(協力者)を入れる対象組織を隠していない。すなわち日本共産党、旧共労党、第四インター、旧ブント戦旗派を含む新左翼全党派がスパイ工作の対象組織である。革マル派と中核派が互いに相手組織の全体をスパイの巣窟と呼ぶのは勝手だが、実際には党組織の中枢がスパイで独占されていることはあり得ない。なぜなら、その時その組織は既に崩壊しているだろうから。ただし中枢の一部に喰い込んでいることはあり得る。

 日本共産党の歴史も一面ではスパイとの闘争史だった。戦前の一時期、党の実権はスパイ松村に握られていた。小林多喜二や宮本顕治が逮捕されたのもスパイの手引きによるものだった。戦後もまた、最近の約20年を除いて、赤旗にスパイを摘発した記事が載らない年はなかった。いまもスパイは党内にいると看るのが現実的だろう。岡山でも県委員長がスパイだったこともあるし、地区委員クラスなら何回もあった。

 しかしビビることはない。革命的警戒心を持ちつつ、仲間を信頼して原則的な活動をすることだ。そのさい党の組織原則は重要だ。民主集中制は空文句ではない。党規約に忠実に活動すること。組織を横断して自分の所属以外の党組織に出入りしないことだ。それをする者はスパイの疑いがある。

 私はスパイと闘った経験はないが、民青の地区委員のとき(学生だった)、スパイを疑う基準を聞かされたことがあった。いくら立派なことを言っても行動が伴なわない者。派手なことはやるが地味なことをやらない者。頭の先だけ赤くてそれが思想化されていない者。それらがスパイ、またはスパイになり易い者だと教えられた。その上で、「そんなこと、いつもは忘れろよ」と言われた。

 私は今回の中核派のスパイ摘発を好意的に共感をもって読んだ。それにたいして、スレは皮相だと思った。中核派の多数派が内部対立から、異端をスパイとして断罪することはないだろう。それは連合赤軍で終わっている。それをあるようにいう。それがネット右翼だ。これはレベルが低く人間としても賤しい。

  1. 2013/06/22(土) 20:16:51|
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竹永みつえさん

古本屋通信  No 269 6月22日

  竹永みつえさん

 その後、福田英子顕彰碑移転問題に関する、現岡山市議・竹永みつえさんの関連記事を見つけた(書かれた日付けは判らなかったが、碑の移転直後だろう)。淡々とした記事で気負いはなく、私は崎本さんに看た「プチ・スターリン」を全く感じない。黙殺しようかとも思ったが、公平を期して貼ることにした。ただ、私が(崎本さんに既に)した批判は、竹永さんの文にも当てはまると思うので、その一部分を末尾に再録して、コメントに替えた。




今だから伝えたい、そのひたむきな人間愛を! 女性解放・人権・社会進歩の先駆者「福田英子の生涯」  竹永みつえ

1・福田英子顕彰碑の移設運動について
慶応元年に生まれた福田英子は明治維新の変革の時代、その後の政治経済社会制度、特に女性の地位が低く差別され
労働者、農民等の社会生活の貧困と無権利社会の矛盾を自ら体得し、どうすれば人間としての生きる権利、自由、経済的な自立し得る社会はどうあるべきか、この時代に女性の開放、人権尊重、社会進歩を主張し、政治的弾圧や迫害に屈することなく行動しました。
岡山県民の誇りとして女性解放運動の先駆者を後世に伝えるため、今から40年前1966年に発起人170人により、県消費を建立する運動が起こりました。当時戦災復興区画整理事業が未着手だったため生誕地野田屋町にという、発起人たちの希望はかなえられず笠井山山頂に建立となりました。
戦後60年の今年、ふたたび福田英子を生誕地にもどしてあげようとの声がたかまりました。40年前中心的にがんばった方の遺言ということもあり、昨年の10月、40年前の発起人の生存者を中心に「福田英子顕彰碑を生誕地に移設する会」が発足、萩原市長や当時の市議会議長を顧問に募金運動もひろまり、市から野田屋町公園の一角に建立できる許可がおり、今年6月戦後60年、生誕140周年の記念すべき年に生誕地野田屋町公園に、笠井山かた顕彰碑を移設することができました。写真は6月19日に行われた除幕式での様子です。

2・福田英子について
福田英子は1865年(慶応元年10月5日)景山確・うめの三女として岡山市野田屋町に会った下級武士の刑部屋敷で生まれました。父・確は明治維新後は巡査となり、母のうめは、私塾を開いて生活をたてていました。
英子は明治12年岡山研知小学校を卒業し15歳で助教となり、英子の友達からジャンヌ・ダルクの訳書をかりて読み自由民権の理想を画くようになりました。
また、明治15年、岸田俊子らの岡山での政談演説会を聞いて感激し「岡山女子懇談会」を組織して自由民権運動に入りました。女性の精神と経済的な自立のためには学校教育の重要性を認識していた英子は私塾「蒸紅学舎」も開きました。
しかし自由民権の気炎を吐く英子を強くマークしていた高崎県令(県知事)から、旭川の河原で行われた納涼大会に参加したことで目をつけられ「蒸紅学舎」の閉鎖が命令されました。
英子は明治17年10月に岡山市内から人力車で旭川沿いの沿道を三幡港まで行き新天地での活動を思い蒸気汽船で神戸をへて板垣退助ら自由民権運動の活動家らの援助で東京に出ました。
新栄女学校に入学し勉強しました。
1885年10月朝鮮独立運動を支援するために、爆弾運搬事件にかかわり63人のうちの紅一点、逮捕・投獄されました。
こどもをつれた女こじきが残飯をあさる生き様や監獄での女囚のあわれな身の上話や免罪などを聞き女性のおかれた差別の
実態を肌身に感じました。そのご明治憲法発布の大恩赦により釈放。
1893年(明治26年)福田友作と結婚、福田姓に。その7年後に友作36歳で死去、短い結婚生活もおわりました。
その後も明治政府のもと、足尾銅山事件で被害にあった農民の救済活動や1905年明治38年、平民社の女性を中心に政府に治安警察法の改正をもとめ女性の政治上の自由を求める請願書提出。
1906年(明治39年)堺為子らと社会主義同士会を発足。
1907年(明治40年)「世界婦人」弟一号を刊行。発刊の辞で福田英子は
「従来の法律、習慣、道徳はすべて婦人を奴隷化してその天職を破壊し没却するものでありこれら一切の束縛を排除して婦人の一切の束縛を排除して夫人の絶対的解放を成就」することを目的に発刊したことを書いています。
男女の基本的平等とそれを基礎にする「愛」による結婚、家族制度の廃止、土地・資本の共有という根本問題を解決することなしに婦人問題の解決はないという主張に到達している雑誌でした。
そのため度重なる発行禁止処分や罰金にも屈せず、治安警察法の改正運動の先頭にたって闘いをひろげています。
その頃平塚雷鳥による「青鞜」が発刊、その第3号で福田英子は
「婦人問題の解決」は「婦人だけでなくもちろんすべての人々が人間としての自由を獲得することであり徹底した共産制がおこなわれないうちは充分な開放はない」と主張しました。
その後も3人のこどもをかかえ、呉服小間物の行商をしながら生活と運動を両立をしていましたがその生活は苦しく厳しいものだったとおもわれます。
1927年(昭和2年)享年63歳で市川房枝さんなど200年に見送られ死去しました。
自伝「妾(わらわ)の半生涯」(明治37年刊)の序文で
「妾(わらわ)の過ぎ来しかたは蹉跌の上の蹉跌なりきされど妾はなお戦わん、妾が血管に血の流れるかぎりは、未来においても戦わん、妾の天職は戦いにあり、人道の罪悪を自覚すればこそ、回顧の苦闘、苦闘の昔も懐かしくおもう。妾の苦闘、懺悔を癒す道はただ苦闘にあり先に政権の独占に抗して自由民権の叫びに狂せし妾も今は大資本の独占に抗して不幸なる貧者の救済のために傾くなり・・・新たに世と己とに対して妾の戦いを宣言するためなり」
と自らの半生涯を総括し今後の戦いを宣言しています。
これこそ英子の社会主義宣言であるといわれています。
そしてこの自伝の最後では
「進みます、妾に資と才がなくとも退きません。人のとるべき道はただひとつ、誠を尽くして天命をまつのみ」
と締めくくっています。

3・竹永より
 こういう生き方をされたかたが郷土岡山の出身であることに誇りをもちました。
いま、こういう時代だからこそ、彼女のひたむきな人間愛、人間解放、女性解放の思想を丁寧に伝えていかなければいけません。しかし今年中学校の歴史教科書の検定に通った7冊の教科書のうち福田英子の紹介を載せているのはなんと一冊だけ、あの平塚雷鳥でさえ3冊だけだとか・・・・当時彼女の主張が[家族制度破壊」として攻撃をくわえられましたが、今その論調で男女平等教バッシングがこの教科書問題でもくりひろげられています。
あらためて今、彼女の生き方を伝えることにこだわる時代になってきていると思います。
私も彼女の「悪政に抗して社会の前進にその一生を投じた彼女の誇り高き生き方」をしっかりまなびたいと思います。



 [古本屋通信 No 267 碑について] の一部分の再録
 顕彰碑一般について、私見をかいておきたい。顕彰碑は基本的には、個人崇拝だろう。レーニン像は引き摺り降ろされた。私が入党した頃、四国の共産党県委員会にはマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、徳田球一の肖像が掲げられていた。随時降ろされて、今はないだろう。尊敬や敬意を表すのに肖像や碑は、民主主義の国の民主主義者のあいだのやりかたとしては、決定的に間違っている。個人崇拝は前近代の封建思想の表現である。すでに「スターリン批判」で決着が付いている。顕彰碑はその典型だろう。それはこれにかかわる人間に、ある種の思考停止をもたらすから、碑の対象になった人物の真の理解に繋がらないのみか、理解を妨げる。 しかし、こんなことを考えるのは余程の暇人だろう。碑は実際は街おこし、村おこしの目的で、多くの場合、超党派で作られる。つまり商売なのだ。(古本屋通信)
  1. 2013/06/22(土) 05:00:33|
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碑について

古本屋通信  No 267 6月21日

  碑について


 ひ【碑】後世に伝えるために先人の事跡・氏名などを石に刻んで建てたもの。いしぶみ。「―を建てる」

私は碑について詳しくない。碑を自分で意識的に訪ねたことはない。 [通信 No 264 佐多稲子] で福田英子の碑にふれた。その文の末尾で、これを詳しく取り上げる事も考えたが、思い止まった。あれは佐多稲子を肯定的に書いた記事であり、碑を批判的に書く文ではなかった。私は福田英子の碑も含めて、碑にはすこぶる否定的な考えの持ち主なのだ。ただ、碑といっても色々なレベルがあろうし、その方面の知識に乏しい私は、それらのすべてを否定してしまう自信はない。だから、ここではひとつの問題提出のつもりで書く。批判をまちたい。特に文学碑については、「あってもいいのかなあ」という気もする。急がないから、石崎さんあたりの意見が聞ければ嬉しい。

さて、福田英子の碑から済ませたい。私は好並かおるさんたちの、福田英子の碑詣りに感心しなかった。今まで書いた事はないが、婦人民主クラブは一流でないなあと思っている。佐多稲子も一緒に行ったが、これは岡山支部の企画に乗っただけだ。佐多は追悼文の中で福田英子の碑について触れていない。女性解放運動の先達であるにも関わらず、だ。だから佐多稲子は一流であり、好並かおる以下は二流なのだ。
 随分嫌味な書き出しになったので、ここでバランスをとっておく。少し長くなるが、事の性格から、万全を期したいので辛抱ねがいたい。かなり古い、市会議員(当時)の崎本とし子さんのブログから引用する。

 福田英子顕彰碑の移設運動にとりくんで   崎本とし子
(1) 県母親連絡会の元会長・豊田文子さんの「思い残し切符」 豊田文子さんは長年、県母親連絡会会長として活躍された女性運動の大先輩である。若いころ治安維持法のもとで不当な拷問の体験者である。かつて私は「モグラの唄」で知られる地下鉄争議の闘いの話をきいた。(労働学校の記念講演だったと思う)
その講演の際、「崎本さん、福田英子の碑を山奥から生誕地の町中へ移したいの」と相談された。そうして、私は豊田さんからの「切符」を受けとった。その後、豊田さんが亡くなり、その切符は「思い残しの切符」をなって私の手に残った。
「これは、どうしても実現しなくては・・・!」と決意し、議会で福田英子さんのことや碑の移設を取り上げたのが3年前(2002年)の6月議会だった。その時の市長の答弁は「市民の盛り上がりを見て・・・」 それならば市民運動を・・・!と思うがなかなかうまくいかない。運動はいつも直線ばかりではない。川の流れのごとく蛇行するが必ず大河となる。
(2) 治安維持同盟の皆さんとともに本格的に「移設する会」ができ、それから募金集めがはじまった。大先輩が、体の不調をおして活躍される姿をみて、私も事務局として縁の下でがんばった。
市公園緑地部との調整、地元調整、市長への要請、そして募金集め・・・。
1番大切なのは「福田英子」という人を知ってもらうことだ。パネル展を4回企画。市民協働事業で講演会も成功。マスコミも関心をもって報道していただいた。マスコミの力は大きい。40年前にかかわられた人々からの反応があった。
(3) ついに6月19日除幕式 東京からひ孫の福田博さん。40年前の建設時の事務局長・宗政若子さん、岡大名誉教授の宮本隆先生なども参加をしていただき、市長や議会代表も加わって盛大で感動的な除幕式が実現。
懇談会で感涙にむせぶ皆さんの姿をみて、豊田文子さんから受けとった「思い残しの切符」の決着がついたと空を見上げた。
(4) これからがスタート! 140年前に岡山市に生まれ、信念をもって闘いつづけ生きぬいた福田英子さん(旧姓 景山英子)。6月26日に井久保先生の語る「英子の生涯」をあらためて思った。今度は「福田英子顕彰会」をつくり(10月5日の誕生日に発足めざす)「福田英子賞」を創設して、女性も男性も1人の人としてその人らしく生きぬける社会づくりを後押ししたいと決意した。さあ、これから第2ステージのスタートだ!
おわりに  今、英子が生きていたら、毎日どれほどのエネルギーで闘っているだろうか。空の方から「男女平等を明記した憲法を生かしてよい社会に!」「平和と人権は何としても守るのよ。今、女性ががんばる時よ!」と偉大な先輩たちの声が聞こえるようだ。
岡山とは「社会にシッカリかかわって生きる女性」のエネルギーの脈々と流れているところなのだ 
先人がいてこそ今がある! この社会を少しでも前に進めて娘たちにバトンタッチしたいと思っている。UP 2005年6月29日

 以下の文では、敬称を省略させていただく。長い文に逐一批判を加えることはしない。崎本の文で決定的に欠落している点がニ点ある。もっとも重要なニ点だ。
 第一に、崎本が福田英子を尊敬するのはいいとして、何故それを碑で顕彰しなければならないか、それが彼女の頭には全くない。豊田文子にもなかったと思われるが、ここには豊田の文はないから確定的な事は言えない。崎本は井久保伊登子も引用しているが、井久保は講演しているだけだ。「治安維持同盟」の「大先輩」も感心しないが、戦前に生きた人々に過大な要求はできまい。しかし崎本は戦後民主主義に生きた世代なのだ。
 第二に、崎本の文には「福田英子の碑を山奥から生誕地の町中へ移」さなければならない理由が全く書かれていない。これは致命的である。私はかりに笠井山の碑をよしとするにせよ、碑の移転は全くの無駄だと思っていた。だが、崎本の頭にはそういう市民もいる事について、想像力が全く欠如している。あるのは大先輩豊田文子の切符を引き取って、共産党市会議員としての筋を通すことだけだ。この限りにおいて崎本に何の私心もないことは疑いない。しかし、それだけでは困るのだ。気負いで世の中は変わらない。共産党のいちばん悪いところが顕れた。

 余談だが、崎本が思いもしない事を書いておく。私はこのとき、長年の崎本支持を止めた。止めて横田えつこに乗り換えた。横田も市議会で顕彰碑の移転に賛成しただろう。しかしせいぜい便乗組だ。横田は一流で、崎本は二流だ、私はそう思った。これは佐多稲子が一流で、好並かおるが二流なのと対応する。

 ついでだが、豊田文子も一流じゃあない。戦前の戦いに対する敬意が無条件でないこと(転向の問題)も知らねばならない。であれば、あとにつづく者、とりわけ崎本タイプに自分の想いをバトンタッチすることに慎重であってほしかった。推測だが、崎本には「転向」の観念はなかっただろう。酷かも知れないが、戦前の拷問を書く以上、口にしないまでも、それに耐えて非転向を貫いたか、屈して転向したかは、どちらでもよい事ではない。私の一貫したモチーフは 「転向者は大きな面をするな」 だ。でないと非転向が浮かばれない。

 私は知識人でない崎本に無理な要求はしない。ただ、共産党の名を背負って「いいとこ取り(ポイント稼ぎ)をするな」ということだけだ。3・11のあとに市職員に、カンパ集めで街頭に立つことを呼び掛けたのも崎本だった(林潤のブログによる)。万人が賛成せざるを得ない案件で、党の看板を背負って嫌われることをするな、ということだ。あと、豊田が崎本に直接相談したなど、随分眉唾だが、死人に口なしとばかり、いい加減なことを書かない方がよい(この点については、いずれ崎本の欺瞞を暴くつもりだ)。

 この項が長くなり過ぎたが、ついでにもうひとことだけ言いたい。佐多稲子も転向したじゃあないか、という論に就いて。たしかに佐多は転向した。しかし佐多はそれを明言し、戦後の作品でしばしば書いている。豊田とは桁が違う。

私の頭のなかにある実在の碑をあげておく。家の近所500米位離れた所に坪田譲二の碑がある。坪田は中学(のちの高校)の先輩だ。私は記念誌に載っている文を精読したが、碑を訪ねたことはない。旧岡山職安の近くに土光敏夫の石碑がある。これは階級敵だし、行革理論も取るに足りないから馬鹿にしているが、碑そのものは「敵陣営の勝手」であり、知った事ではない。あと、別個に取り上げる碑を列挙しておく。片山潜の碑(これは資料もあるようだ)。朝日茂の人間裁判の碑。北海道の小林多喜二の碑。たったこれだけだ。思い出したら付けくわえるかも知れない。

個別にはいるまえに、顕彰碑一般について、私見をかいておきたい。顕彰碑は基本的には、個人崇拝だろう。レーニン像は引き摺り降ろされた。私が入党した頃、四国の共産党県委員会にはマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、徳田球一の肖像が掲げられていた。随時降ろされて、今はないだろう。尊敬や敬意を表すのに肖像や碑は、民主主義の国の民主主義者のあいだのやりかたとしては、決定的に間違っている。個人崇拝は前近代の封建思想の表現である。すでに「スターリン批判」で決着が付いている。顕彰碑はその典型だろう。これはそれにかかわる人間に、ある種の思考停止をもたらすから、碑の対象になった人物の真の理解に繋がらないのみか、理解を妨げる。 しかし、こんなことを考えるのは余程の暇人だろう。碑は実際は街おこし、村おこしの目的で、多くの場合、超党派で作られる。つまり商売なのだ。

片山潜の碑。これについては既に [通信 No 9 野坂参三スパイ論] で触れているので、その部分を引いておく。
「これは、資料を見たひとの話ではなく、見たひとから話を聞いた人の話だが、片山潜が野坂と同じような手紙を書いたという話がある。久米南町の片山潜の碑はどうなるんだろうか。これについても、私の結論を書いておきたい。碑など作るのがそもそも間違いだったのだ」
 私は野坂参三がコミンテルン書記長のディミトロフに手紙を書いた事をもって(その結果、山本懸蔵が殺されたにせよ)、コミンテルンのスパイだとは思わない。しかし、この論でいくと、片山潜も確実にスパイになると私は思う。違いは、旧ソ連の資料室が解放されたとき、生きていたか死んでいたかの違いだ。私は潜の著作を可能な限り持っている。入手し難いものばかりだ。これを読む限り潜は革命家であり、理論家だ。それは措いて、久米南町の建物はもう取り壊してはどうか。衣服の展示など何の意味もない。県委員会はアリバイ的な訪問行事をやめて、その時間に赤旗の拡大でもやったらどうか。潜の著作の復刻でもやったらどうか。

朝日茂の人間裁判の碑について。ここに至って、私は須増伸子のブログ記事を貼れば、他に言うべき事はない。
「朝日茂生誕100周年・50回忌を記念して」のおしらせ     2013/2/18  須増伸子 
憲法25条の生存権をかかげたたかった「人間裁判」の原告朝日茂さんの命日にあたる2月14日に、早島町矢尾にある碑の前で恒例の碑前祭を行いました。
今年は、なんと、朝日茂さんの生誕100周年そして50回忌の年に当たります。この記念すべき年に、朝日茂さんのたたかいを忘れてはならないし、社会保障の大改悪が進められようとしているいまこそ、引き継いでいかなくてはならない活動だと思いを新たにしました。
早島の朝日さんにゆかりのあるメンバーで実行委員会をつくり、「朝日茂生誕百周年記念講演」を計画することになりました。骨子は「朝日茂生誕100周年記念講演会 ――憲法25条の生存権を守れ朝日茂の功績を学び、現代の社会保障充実・再生へ」 実行委員会(仮称)
【目的】
①国立療養所南岡山病院(早島町)を舞台に行われた「人間裁判」を起こした朝日茂氏が、今年、生誕100周年であり50回忌という記念すべき年です。早島町にゆかり深い、全国に誇れる「憲法の生存権をかけた」たたかいの歴史を、広く町民に知らせる。
②また、いま、安倍自公政権が計画している社会保障の大改悪は「毎年一兆円の社会保障費の社会保障給付を縮小する」という小泉「構造改革」のときより悪い形で復活させようという狙いで進んでいる。その最初の標的が生活保護の切り下げ・改悪であり、それを突破口にしながら、介護、医療、年金、保育などの制度改悪に乗り出そうとしていることを広く知らせる。
③さらに、生活保護受給者と国民を対立させるような思想攻撃に対し、社会的連帯で反撃し、国民全体にかけられた社会保障改悪許さず、充実への道を開くたたかいとする。
④早島町が、あたたかい自立のまちとしてさらに発展する一助となるようにすすめ
日程―5月19日(日) 14:00~
場所―早島町ゆるびの舎 研修室(100人席あり)
講師 朝日健二氏(予定)
まだこれから具体化をしていきますが、詳細が決まればまた、お知らせします。

朝日茂生誕百周年記念講演会
 2013/5/20  須増伸子
朝日茂生誕百周年を記念し「人間裁判」朝日訴訟を学ぶ会が、早島町のゆるびの舎で開かれました。
この講演会は、昨年から早島町の朝日訴訟にゆかりのあるメンバーで企画し、後援会の実行委員会として進めてきたもので、私も実行委員の一人としてかかわりました。
早島町と早島町教育委員会の後援もいただき、NPO法人朝日訴訟の会と共催で、実施しました。
当日は、町の林副町長と磯山議長が来賓として挨拶をされましたがお二人とも早島生まれで早島に住んでおられるので早島の国立療養所の結核患者さんとの交流や大変な実態なども懐かしい話も交えて話をしてくださいました。
講演は、もちろん朝日茂さんのご養子になられ、裁判を引き継ぎ、さらに社会保障の充実を目指す専門家として全国で講演活動や執筆活動を進めてこられた朝日健二さんが東京から駆けつけてくださり、話をされました。
生活保護のバッシングの中、現政権が大幅に生活保護予算を削る方向を出しているが、、生活保護を削ることは、あらゆる社会保障の制度が、生活保護を゛ものさし゛となり後退していくことを具体的な資料で話をされとてもよくわかりました。
さらに、朝日さんの養子になるエピソードなどは、朝日健二さんがどんな思いで引き継がれたのかとてもよくわかり、感動し健二さんご夫婦を尊敬しました。


 完璧な文で文句のつけようがない。ここでういう完璧な文とは、深い認識に裏打ちされた文ということだ。その意味でスキが全くない。垣内(女性)と双壁の第一級だ。碑のことは、事実として碑前祭を執り行ったことだけが書かれている。私は朝日が碑の建立に苦笑いすると思うが、須増が実行委員の一人であるかぎり安心することもできる。その上で、朝日訴訟は画期的なたたかいだったが、今日の生活保護を求める運動とはまるでちがっていたことも強調しておきたい。

小林多喜二の碑。
(丁度ここで石崎さんの見解が入った。これを読んでの私の感想だが、すっかり安心した。みょうな安心だ。これはあんしんではなく、あんじんだ。石崎文を貼って一先ず終りにする。)
古本屋通信さんへ 12   メッセージ - 2013年06月21日 (金)
 ぼくはほとんど旅をしたことがないので、文学碑を訪れたこともなく、訪れたいとも思いません。小説家は小説がすべてです。碑に何か意味があるとは思えません。ただ例えば子供がそれを目にしたとき、興味を持つかもしれない。長い年月のうちには誰かに何らかの影響を与えるかもしれない。そういう意味はあるのじゃないですか。それは作家の碑に限らないでしょう。
 古本屋通信さんは岡山県の事情をいろいろと書いてくれるので、興味深く読ませてもらっています。ただぼくは岡山県下で40年近く暮らしたわりに、岡山のことはほとんど何も知らないのです。登場する人物名の大部分が初めて聞く名前か、かすかに聞いた覚えがある程度です。いま福山に住んでいて、(ここがもともとの故郷なので)、岡山は結局仮の宿だったなという気がしています。だから、興味深く読んではいるけど、内容に意見を持つことはできません。
  1. 2013/06/20(木) 19:58:29|
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佐多稲子

古本屋通信  No 264 6月19日

 佐多稲子


 ここに一枚の色紙がある。寄せ書きである。写真を掲載すればよいのだけれど、その術を知らないので、文字で全文を載せる。
 
福田英子の碑を佐多稲子さんと訪ねて 一九七〇年十月三十日
(マジックペンと毛筆の肉筆で)
佐多稲子  好並かおる(その下に、二人のお子さんの名があるが省く)  溝辺節子  豊田美津保  イイダシヅエ  たおまさこ  磯崎加世  中西寛治  河合徹  山口佳子  宇佐美寛子  矢田清  永瀬清子  宍甘エミ子  よこたゆみこ  古川たま  寺田憲生  藤田昌子  よしつかきんじ

 この色紙は、私が五年前の買取りで得たものだ。福田英子の碑は、現在は西川緑道公園添いの野田屋公園に移されているが、当時は笠井山にあった。そこを婦人民主クラブ岡山支部のメンバーが訪れたとき、互いの記念に、寄せ書きし合ったっものだ。当時の岡山支部は分裂しており、その辺の事は私の「通信 No 209 坪井あき子さん」を参照されたい。この中の坪井さんの証言は共産党系の側からの証言である。実際の反共産党系組織は坪井さんが言うよりも大きかったようだ。その中心には好並かおるさんがいた。これは坪井さんが言う通りだ。

 上記のなかの半数程は私も名前を知っているひとだ。この中には当時岡大哲学科の学生だった懐かしいたおまさこの名もある。これまでブログでとりあげた人も数名いる。死ぬ二年まえのよしつかきんじも参加しているし、同じころ除名になった市会議員の河合徹もいる。寺田憲生はこのとき議員だったかどうか。しかしここでこの色紙について、これ以上書く事はしない。永瀬清子も含めて当時これらの人々が、こういう運動をつうじて交流があった事を示せればよい。

 さて、この日岡山に来た佐多稲子は好並さん宅に泊まった。今日この記事を書く私の意図は、ゆいいつ佐多稲子にある。岡山を訪れて好並かおる宅に泊まった佐多稲子が、のちの好並かおるの死後書き送った追悼文を、ここに全文掲載したいのだ。
 
 私は、好並かおるさんの死と、追悼文集については、「通信 No 209」ですでに書いている。多くの人がそれぞれ、故人の思い出を書いている。心のこもった文ばかりだ。僭越ながら、みんな筆達者であり、たどたどしい文などひとつもない。それを前提にして言う。

 数ある追悼文の中にあって、佐多稲子の文はずぬけて光っていた。私はまたしても、素人の文と職業的物書きの文のちがいをいやと言うほど見せつけられた。掲載文は、佐多が走り書きしたものだろう。数年後に刊行が始まった講談社 * 『佐多稲子全集』 にも入れられていないだろう。私は佐多のこの文をいつか貼りたいと思って機会をうかがっていた。文学の文としても、岡山の婦人運動史の文としてもいいと思う。この文をここに貼る、大袈裟にいえば、これは岡山の古本屋の矜持なのだ。掲載文の評価は読者に委ねられる。誉めすぎだという評価は私への批判として受けとめたい。


  好並かおるさんを偲ぶ       佐多稲子
 好並かおるさん、と胸のうちに好並さんを浮べると、そこに見えるのは元気な、生きいきした美しい元気なお顔である。何年前だったろう。婦人民主クラブが創立記念の集会だったかを東京で開いた。このとき、好並さんは岡山支部のかた達三、四人と連れ立って上京なさった。
 「大勢で来ました」というようなことをおっしゃって明るく笑われた。このときのことは、岡山支部のかた達も覚えていられるとおもう。そのとき好並さんはきび
きびとした感じであった。私も嬉しくて、手を取り合うようにしてあいさつしたのである。好並さんと遇ったのはこのときが最後であったろう。
 それより数年前に、岡山支部の開催した講演会があって私を招んでもらった。このとき私は好並さんのお宅に泊めて頂き、お連れ合いの好並隆司さんにもお目にかかった。良き御夫婦とおもったのを覚えている。
 婦人民主クラブ岡山支部での好並かおるさんは、数年の間、支部長の役をなすった。中央委員には、十鳥小夜子さん、国定幸子さんというかたたちをおくって、好並さんは支部長でいらっしたようだ。好並さん支部長の時期は数年つづいたのではなかろうか。好並さんに私のお目にかかったのは今書いてきたように、数度でしかないが、もっとお目にかかったような気がするのは、お宅に泊めていただいたりしたせいかもしれない。または私が忘れていて、大会などでお目にかかっていたのかともおもう。岡山の好並さん、と言えば本部のみなさんにも印象が深いのは、きっと岡山での好並さんの活動によっていることなのであろう。とにかく本部のみなさんにもそして私にも、好並かおるさんへの思いが濃いのは、岡山支部における好並さんの活動によるものに違いない。が、同時にまた好並かおるさん、と言う人そのものが、誰にでも深い印象を与える人だった、ということがあるようにおもう。好並さんに私の逢ったときなどの好並さんは鮮明な、きびきびした好並さんだったのである。誰にでも深い印象を与える人柄であったと私のおもうのは、好並さんのこの一面なのであろう。
 好並さんの一面と、私は書いた。そう書くしかない。その一面は複雑だったということだろうか。好並さんの死が惜しい。何故、何故、と問う想いである。好並さんの御逝去を聞いたとき私は、夫君の隆司さんにおくやみの手紙を書いた。が、私は、好並さんの霊前にお花を供えることはできなかったのである。何故、何故、とおもうとき、お花を供えられはしなかった。この気持は複雑であった。そして少し経って、岡山支部で、好並さんを偲ぶ集りがあるとき、ようやく私は、好並かおるさんの霊前にお花を供える気にもなったのである。
 婦人民主クラブ岡山支部が、この度、好並かおるさんを偲ぶ本を出されるという。支部のみなさんの、好並さんへの想いを察する。支部のみなさんの思い立たれたこの出版は、私にも嬉しい。好並さんを偲ぶこの本が出されることで、好並かおるさんという、ひとりの鮮やかな人の在りし日が、いろいろな姿で浮るび出され、そして私たちには、共にあった時の想いを、一層深く呼ぶことであろう。型どおりの表現になれけれど「平和と民主主義」を求めて共に活動したつながりは、好並かおるさんへの私たちの想いとして残ります。


* 『佐多稲子全集』 全18巻 (講談社 1977〜79年)
 ひと頃、古書価はずいぶん高く、私が古本屋を始めた頃は全18巻揃で25万円位だった。いまは落ちついて3~5万円位だ。随分な差だと思うが、需給の変動を示す指標のひとつと見れば参考になろう。
  1. 2013/06/19(水) 02:35:31|
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吉塚勤治の党籍

古本屋通信  No 262 6月17日

  吉塚勤治の党籍


 通信 No 259 『苅田アサノ 人と思い出』 の、吉塚勤治の追悼文をやっと入力し終えた。今日の記事で書きたい事は後回しにして、まず全文を貼っておく。この文は当然 No 259 に入れられるが、独立の詩人論、詩論としても読まれるべき内容をもっていると思う。もったいないないのでここに再録した。
 尚、吉塚文に限らず、本書の全文字がタイプ印刷で、校正ミスも所々にみられる。これは著者のミスというより、当時の出版事情からくる制約だろう。あきらかな誤植は訂正したものもあるが、基本的には原文のままとした。


 後半の「吉塚勤治の党籍」は、吉塚の本文とも、苅田の詩とも関係なく、私がこの期に便乗して提出したテーマである。関心のない方は読み跳ばしてほしい。(古本屋通信)

 
 白ばらの君    吉塚勤治

 苅田アサノと、私は戦後の岡山で昭和二十一年に逢うことになった。戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加したのは、昭和二十一年はじめであったから、そのあと間なしのことにちがいあるまい。
 苅田アサノは、戦後間もなくだったりうと思うが、津山から岡山へ出てきて、上伊福絵図町の深見民市の二階に住むことになった。当時、深見民市は山陽新聞の校閲部におり、かれの奥さんも通信部にいたのである。そのころの苅田アサノはまだ若々しくずっと独身だったから、白薔薇の清潔な感じがあって、じじつかの女はしばしば「白薔薇」とあだ名を呼ばれていたのである。しかし、この白薔薇のきみ、苅田アサノが詩を書くことを知ったのは、知り合ってから、だいぶたってからのことであった。戦争中、津山の家にいたころから、かの女はネクラーツフの詩を訳しつづけてもいたのである。その一部分は「詩作」ではなく、久保文子、矢木明が中心になった「くるまざ」に発表されている。苅田アサノが「詩作」に参加したのは、第三集(昭和ニ三・三・二〇)の「朝」からで、第四集に「吉塚勤治に」第五集に「阿修羅」、第六集に「三月堂月光菩薩」を書いている。 「朝」は、女ひとりきりの生活のなかで、白髪のお母さんの顔を思いうかべながらわが部屋にしだいに朝の光がみちてくるひとときつつましい朝げのはしをとることをうたった、女らしい静かな詩である。いかにも白薔薇らしい清潔な詩であり、母への孝心をうたったものであろう。

  金箋花をいれた花がめのそばから/ 小さな化粧水の瓶をとって / ほのかな匂いのある水を掌にこぼす / それからフキンをかけた小瓶のまえにすわって/ お母さんおはようございますと / 北にむかってあいさつする / くるしみもかなしみも / またときには訪れたかもしれない歓びも / 影をとめないしづかなとしよりの瞳をした白髪の / おだやかな母の顔を思いうかべ / こころたりおちついて / ゆっくりと / ただ一人きりのつつましい朝げの箸をとる

 苅田アサノが「詩作」に発表した詩のなかでは第五集の「阿修羅」がすぐれていると思う。この白ばらのきみは仏像に強く惹かれるところがあったのであろう。そのことはかの女の抑制された内部生命のあこがれの表われであり、あるいは形にみえない、かの女の生命力の希求する造形を、仏像そのものの姿に見たのでもあったろう。
 苅田アサノは「少年の姿をした阿修羅」の「うでわのはまった蜘蛛のように細かくながい手」が「胸のあたりで折れんばかるにうち合わされ」「その手はたえかねた叫びのように」「のろのろと天はさし伸されている」ことに、ほとんど全心の共感を示し、この像を刻んだ天下の仏師のところへとさかのぼっているのである。
 いってみれば、「この半ぶん裸の下袴だけのかぼそい少年らしい体を」「おしたおそうとしている」「無法な熱い願い」「無法な切ないなやみ」は、苅田あさの自身のものであろう。苅田アサノ、この津山の豪家にうまれて女子大を卒業した才媛の美女が、ほかならぬ社会主義運動の道に進み出た道すじについて、私は一度も話しあったことはなかったが、その苅田アサノの心の底からは、「どんな無法な切ないなやみが」かの女自身を「おしたおそう」とばかりに湧きあがってきたのであったことは疑う余地のないところである。「阿修羅」という一篇の詩は、それまでの作者苅田アサノの女人像をしめしているかの女の革命的情熱の源を明らかにしているばかりか、女としてにんげんとしての隠微な心のぞめきのようなものまでのぞかせているようである。
 (筆者は岡山の詩人。吉塚氏が中心となって、昭和二十二年詩の雑誌「詩作」を発刊、苅田さんは第三集から参加した。ここにのせた文は吉塚氏の著書「茫々二十年」から、その一部を転載させていただいた。刊行委員会 )


 以下が、今回古本屋通信がテーマとする「吉塚勤治の党籍」についてである。全文が古本屋通信の地の文である。

 党籍問題というのは難しい。私の党籍など世間になんの影響もないが、名だたる作家・詩人の党籍はそうはいくまい。それは彼らの生み出す作品との関係でいえば、関係ないことも「多い」が、関係あることも「多い」はずだ。
 ところが、厄介なことにすべての作家・詩人が自分の党籍を公表している訳ではない。そこに色々な推測、誤解、軋轢などが生じる。ふつう確かでない事は書かない。いまの社会では、共産党員だということをもって不当に差別されることもあろうし、それでなくても周囲と不必要な摩擦を起こさないために隠す場合が多い。「あなた、共産党員?」 などとふつう訊かないし、訊いても 「ええ、そうよ」 などと応える場合は少ないだろう。しかし、お互いの会話では 「あいつ、党員だろう」 とか 「あの作家、いつ除名になったの」 などの話になる事は多い。

 前置きは措いて、吉塚勤治の党籍。
 追悼文の冒頭に「戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加した」とある。吉塚は昭和21年はじめに「再入党」した。「山陽新聞のグループに加わり」は山陽新聞社に職を得たことを意味するが、山陽新聞細胞に加わったと読んでいいだろう。もうひとつ大事な事は「戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が・・」とあることだ。ここで「うじうじしていた」とは党籍が宙に浮いて、再入党をのびのびにしていた事を意味する。つまり彼は戦前に党員だったのだ。

 これについて、私は近親者(たぶん姪)の証言を得ている。古本屋を始めて間もないころ、市内門田文化町、東山の山頂の家で老婦人から本を分けて貰った。量は多くなく、自転車の荷台に積める位だった。その大半は吉塚関係の本だった。特に高価なものはなかったから、私はその場で金を支払おうとした。老婦人は固辞した。どうしても受け取ろうとしなかった。私は諦めて本を頂戴した。後にも先にも、金を払わないで本をもらった唯一のケースだった。もうお亡くなりになっているだろう。当時九十歳だった。あれから十五年経っている。

 かの女は初対面の私によく喋ってくれた。これはかの女が私に左翼の片鱗をかぎ取ってくれたからだろう。約30分間、戦前に特高が訪ねて来て怖くて押入れに隠れていたことなどを、生きいきと話してくれた。私はかの女が知識人だと思った。最後に、もっとも知りたかった事をズバリ訊いてみた。

「ところで、吉塚さんは除名になったんかな」

「除名されたんよ」

「それは何時だったのですか」

「はっきりしたことは憶えとらんけど、安保のあとだったと思うよ」

「いろんな組織ができていた頃だけど、その関係は分りませんか」

「それが分らんのよなあ、私がボケてきて忘れたんじゃあのうて、当時も分らなんだ。しかし市会議員の河合徹さんなんかと一緒じゃったと思うよ」

このあと、かの女は自分はずっと党だったから、吉塚は組織関係は隠したのだろうと推測を加えた。しかし、私の資料には吉塚も河合徹も社革(社会主義革新運動)関係に名前がない。除名はされたが新組織には加わらなかったのだろう。

 吉塚の追悼文の最後に付された刊行委員会の注記に注目されたい。本書が刊行された1976年には、吉塚は既に死んでいる。もう一度調べてみるが、1972年に死んだはずだ。これは苅田アサノの死「1973年4月代々木病院に再三の入院になり、8月5日朝永眠」(本書所収の「苅田アサノさんの経歴」)より1年まえだ。したがってこれは正確には追悼文ではない。その辺のことも本文を読むとき、若干考慮に入れて読まれたらよかろう。

 あとは党を除名されたのちの吉塚の後半生だ。なぜ被除名者で死者の文がわざわざ本書に加えられたのか。私は推測を逞しくして書く予定だった。然し紙幅も尽きた。いやパソコンだから紙幅などないが、これから店に行かねばならない。店にもパソコンはあるが、光ファイバーでないから字句の修正くらいしかできない。続きは暫くあとに「被除名者は追悼文集に参加できるか」「党員は被除名者の葬儀に参加できるか、またその追悼文集に文を寄せる事ができるか」みたいなことを、古在由重の葬儀の事例などを引いて書くつもりだ。共産党は嫌うだろうが仕方がない。では、ひとまず打ち切ります。



参考資料 [吉備路文学館の資料] より

吉塚勤治  よしつか きんじ

明治42年(1909)~昭和47年(1972)   詩人   岡山市
第6高等学校在学中から、詩のグループ「窓」に所属し、詩作をはじめる。京都帝国大学に入学したが、社会科学研究会に所属していたため、検挙され中退。上京し、出版社勤務を転々とした後、総合雑誌「日本評論」の編集に携わっていたが、病気のため帰郷。昭和20年、合同新聞社(山陽新聞社の前身)に入社、論説委員を務める。戦後、詩誌「詩作」を創刊。地元の詩作活動に活力を与えた。
のちに日本文教出版社に入り、岡山文庫を企画した。昭和20年刊行の詩集『あかまんまの歌』をはじめ、『鉛筆詩抄』、『日本組曲』、『頑是ない歌』がある。『茫々二十年』は遺作となり、没後『よしつかきんじ詩抄』が発刊され、昭和49年には遺稿集『あしうら』が刊行された。
  1. 2013/06/17(月) 03:34:13|
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『苅田アサノ人と思い出』

古本屋通信  No 259 6月15日


『苅田アサノ 人と思い出』


 表題の本がきわめ入手しにくい事が判った。「日本の古本屋」にない。アマゾンにもヤフオクにもない。たぶん、全国の古本屋を探しても、すぐには見つからないだろう。図書館にも当たってみた。県立図書館にも、岡山市立にも、倉敷市立にもない。国会図書館にもない。県下では笠岡の図書館のみにあった。
 私は持っている。ヤフオクに出品しようかと思った。しかし、思いとどまった。左翼ブログの名がすたる。共産党岡山県委員会にはあるだろうが、自由に借りて読めるというわけにはいくまい。どこまで出来るか判らないが、少しずつネット化していこうと思う。手始めに「本の概要」と「はしがき」と「あとがき」と「もくじ」を紹介する。

本の概要
 表題  苅田アサノ 人と思い出 
 発行人 堀江邑一   
 発行日 1976年8月   
 形態  224頁 変形  
 刊行委員会 阿部ちとせ 沼田秀郷 生田八重子 松崎浜子 
         豊田さやか 杉本ハマ 池田孝江

はしがき  
 苅田(堀江)アサノさんが亡くなったのは1972年8月5日 、婦人活動家たちが、関西でひらかれる第18回日本母親大会の準備におわれているときでした。
 あれから、もう三年近くの歳月が流れました。苅田さんの書きのこしたものや友人、知人の思い出をあつめて追悼集をつくりたいという願いは、夫君の堀江邑一氏をはじめ、苅田さんと親しかった人たちのものでありました。昨年秋に私たちは刊行委員会をつくることができました。
 刊行委員会は、前衛、赤旗、議会速記録や、故人の書斎などから論文、演説、詩歌を探しながら、苅田さんの友人、知人にも追悼文をよせていただきました。 
 このささやかな本が、多くの婦人のたたかいの道標になり、日本の平和と民主主義の運動に役立つことを念じて、発行に辞といたします。
 1976年8月5日                苅田アサノ 人と思い出 刊行委員会


あとがき 
 五月四日、刊行委員会一堂は、新緑に包まれた鎌倉を訪れ、苅田アサノさんが眠る東慶寺へ墓参しました。そしてあらためて苅田アサノさんの生前の人となりを偲び、苅田さんの遺稿集を出すことを大きな喜びと深く感じました。 
 この本を編集するにあたっては、堀江さんをはじめ、苅田アサノさんの恩師山原鶴先生や旧友からの示唆もいただき、うもれていた詩や歌を中心とする遺稿を、未発表のものをふくめて数多く発掘することができました。私たちは、その一つに、日本共産党婦人部長という重責をになった苅田さんの心の奥にひそめられていた「詩人苅田アサノ」「人間苅田アサノ」を発見し、感嘆の声を何度もあげました。苅田さんのきびしさと温かさのみなもとにふれた思いでした。そこで刊行委員会は、苅田さんの秘められたこの面を中心に編集しました。最後に、お忙しいなかを苅田さんの思い出を執筆して下さった方がた、また遺稿や写真、関係資料などをおよせ下さった方がた、岡山の皆様、山原鶴先生、表紙の題字と装画をおよせ下さった小野他忠重先生、苅田アサノさんのイメージにふさわしいレイアウトをして下さった宮沢とも子様に厚く御礼申し上げます。
 1976年8月5日                苅田アサノ三回忌を迎えて


もくじ

西の海 / 指導者 / 弟よ / 道 / 正倉院 / 池 / 東大寺 / 三月堂 / 阿修羅 / 冬のばら / 山脈 / 丹後山の碑 / 結婚を祝ううた / 反歌 / ひぐれまえ / 桐の花 / 寒山拾得 / 吉井川 / 友の門出 / ビラ貼り / にっぽんばら高原 / ゆびわ / 雨あがり / ヒマラヤ雪の下 / ベトマムの子 / ミモザの花 / 秋海裳 / 大会の花

短歌

国会活動・論文


追悼
苅田さんのお墓のこと  山原鶴
織女星(ヴェーガ)  赤木健介
白ばらの君  吉塚勤治
なつかしい友・えがたい友  石井あや子
戦前の苅田さん  阿部ちとせ
そのころの苅田アサノさん  中村郁子
津山時代の苅田さん  田外幸恵 
東洋経済のころ  松島治重
やさしかった叔母の憶い出  福永宣子
東慶寺のお墓  丸岡秀子
苅勝目てる
苅田さんを悼む  帯刀貞代
苅田さんの憶い出  松島とし子
いのちの尊さ   沼田秀郷
苅田さんと浅間山   生田八重子
白ばらの君といわれしやさしき人に  小笠原貞子
柔和の瞳の詩人  野田義人
アサノと私   堀江邑一
故苅田アサノ殿 病状と経過  佐藤猛夫

弔辞
日本共産党中央委員会/日本婦人団体連合会/新日本婦人の会/日本民主青年同盟/日本共産党岡山県委員会/日本共産党岡山県委員美作委員会/日本共産党愛生支部/妹尾包子/会葬御礼 堀江邑一 


古本屋通信より
 このところ眼のつかれが激しく、どこまでやれるか自信がありません。好きなところから、少しずづやるつもりです。さしあたり詩の関係で吉塚勤治の追悼文を貼って、そのあとに故人の詩を紹介しようと思っています。



 白ばらの君    吉塚勤治
 苅田アサノと、私は戦後の岡山で昭和二十一年に逢うことになった。戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加したのは、昭和二十一年はじめであったから、そのあと間なしのことにちがいあるまい。
 苅田アサノは、戦後間もなくだったりうと思うが、津山から岡山へ出てきて、上伊福絵図町の深見民市の二階に住むことになった。当時、深見民市は山陽新聞の校閲部におり、かれの奥さんも通信部にいたのである。そのころの苅田アサノはまだ若々しくずっと独身だったから、白薔薇の清潔な感じがあって、じじつかの女はしばしば「白薔薇」とあだ名を呼ばれていたのである。しかし、この白薔薇のきみ、苅田アサノが詩を書くことを知ったのは、知り合ってから、だいぶたってからのことであった。戦争中、津山の家にいたころから、かの女はネクラーツフの詩を訳しつづけてもいたのである。その一部分は「詩作」ではなく、久保文子、矢木明が中心になった「くるまざ」に発表されている。苅田アサノが「詩作」に参加したのは、第三集(昭和ニ三・三・二〇)の「朝」からで、第四集に「吉塚勤治に」第五集に「阿修羅」、第六集に「三月堂月光菩薩」を書いている。
 「」は、女ひとりきりの生活のなかで、白髪のお母さんの顔を思いうかべながらわが部屋にしだいに朝の光がみちてくるひとときつつましい朝げのはしをとることをうたった、女らしい静かな詩である。いかにも白薔薇らしい清潔な詩であり、母への孝心をうたったものであろう。

  金箋花をいれた花がめのそばから/ 小さな化粧水の瓶をとって / ほのかな匂いのある水を掌にこぼす / それからフキンをかけた小瓶のまえにすわって/ お母さんおはようございますと / 北にむかってあいさつする / くるしみもかなしみも / またときには訪れたかもしれない歓びも / 影をとめないしづかなとしよりの瞳をした白髪の / おだやかな母の顔を思いうかべ / こころたりおちついて / ゆっくりと / ただ一人きりのつつましい朝げの箸をとる

 苅田アサノが「詩作」に発表した詩のなかでは第五集の「阿修羅」がすぐれていると思う。この白ばらのきみは仏像に強く惹かれるところがあったのであろう。そのことはかの女の抑制された内部生命のあこがれの表われであり、あるいは形にみえない、かの女の生命力の希求する造形を、仏像そのものの姿に見たのでもあったろう。
 苅田アサノは「少年の姿をした阿修羅」の「うでわのはまった蜘蛛のように細かくながい手」が「胸のあたりで折れんばかるにうち合わされ」「その手はたえかねた叫びのように」「のろのろと天はさし伸されている」ことに、ほとんど全心の共感を示し、この像を刻んだ天下の仏師のところへとさかのぼっているのである。
 いってみれば、「この半ぶん裸の下袴だけのかぼそい少年らしい体を」「おしたおそうとしている」「無法な熱い願い」「無法な切ないなやみ」は、苅田あさの自身のものであろう。苅田アサノ、この津山の豪家にうまれて女子大を卒業した才媛の美女が、ほかならぬ社会主義運動の道に進み出た道すじについて、私は一度も話しあったことはなかったが、その苅田アサノの心の底からは、「どんな無法な切ないなやみが」かの女自身を「おしたおそう」とばかりに湧きあがってきたのであったことは疑う余地のないところである。「阿修羅」という一篇の詩は・それまでの作者苅田アサノの女人像をしめしているかの女の革命的情熱の源を明らかにしているばかりか、女としてにんげんとしての隠微な心のぞめきのようなものまでのぞかせているようである。
( 筆者は岡山の詩人。吉塚氏が中心となって、昭和二十二年詩の雑誌「詩作」を発刊、苅田さんは第三集から参加した。ここにのせた文は吉塚氏の著書「ぼう(漢字)々二十年」から、その一部を転載させていただいた。刊行委員会 )
  1. 2013/06/15(土) 10:50:52|
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伊里一智と志位和夫

古本屋通信  No 258 6月14日

  伊里一智と志位和夫


 通信No 255で予告しておいた志位和夫の処女論文の件。ざっと読み直してみたが、どう考えても論ずるような代物ではない。あとでちょっとからかうが、表題を上記のようにして、寧ろ伊里一智の事を書く。ウィキぺディアの記事を No 255 に貼ったので、予備知識がない方はそれを参照してください。書くといっても伊里は過去文献をひいて書かねばならないような人物ではなく、記憶に頼って書けば十分だろう。

 伊里一智 は話題になった時点で、既に2つの点で済んでいた。

 一つは、彼が党大会代議員を目ざしたのはよいとして、その主張が「宮本顕治の勇退を勧告する」であったことだ。これは人事案件であり、単独で取り上げること自体が異常だった。「長いから駄目だ、独裁だ」というのだろうが、こんな主張が都党会議まで上がる訳がない。むしろ東大院生支部で通ったのが不思議な位だ。党中央の人事は党大会の最後にくる案件だ。中央委員会議長、幹部会委員長などは、大会代議員によって選ばれた中央委員の互選で決められる。私はこれは現実的で民主的な選出方法だと思う。伊里が、いやこれはよくない、自民党や(当時はなかったが)民主党のように「トップは党員の直接選挙で選ぶべきだ」と言うのなら、そのように「規約改正しよう」と提案すべきである。伊里の目の上のタンコブとして宮本顕治がいたにせよ、宮本憎しなどは感情の問題であり、たとえ彼が大会代議員に選ばれたとしても、中央委員を選ぶ選挙の時に、宮本顕治に不信任票を投ずることが出来るに留まる。「勇退を求める特別決議案」など案件としても認められよう筈がない。なぜなら、党大会は新しい中央委員を選ぶことを大会の主要任務の一つとしており、党大会の始まった時点で宮本顕治は中央委員にさえ選ばれておらず、その候補者名簿さえも発表されてないからだ。

 だいいち、人事は大会決議案のあとに来るものだ。前大会以後の指導部の責任は、新しい議案の討議の中でそれも含めて討議される。いままでだって、第8回大会の綱領採択以降の限っても、4・17問題での聴濤常任幹部会員の辞任、宮城県委員会における誤まった指導の責任をとった藤原幹部会員の辞任など、前例はある。伊里は宮本顕治の指導責任を具体的に指摘すべきだった。それを、長いから辞めろなど児戯の類いだ。

 もう一つは、伊里一智が徹頭徹尾ブルジョアジャーナリズムに依拠して、或いはそれに期待して行動したことだった。私の記憶は薄れかかっているが、大会会場でのビラまきはブル新を意識してなされた。「朝日ジャーナル」は数ある商業媒体の中でも最悪である。これに登場したら一巻のオワリだ。

 余談だが、党批判がブル媒体に依拠したら、その時点で党批判は効力を失う。それはいかなる装いを凝らそうと、例外なく反共攻撃に堕すからだ。袴田里見も広谷俊二もそうだった。比べるべくもないが、伊里一智も完全に済んでいた。この点で新ヒヨが誰ひとりブル新に手記を寄せていないのは、際だって光っている。川上さんなんかにはずいぶん声が掛ったと思うよ。古在由重も沈黙をたもった。たとえ生あるあいだ認められなく死すとも、歴史の判断にゆだねる、これが唯物論者だろう。それと人間の品格が違うんだ。

 
 志位和夫 に移る。

 再読してみて筆が萎えた。志位にはネオ・マルクス主義批判の論文がある。こちらはまだマシだが、『投降主義者の観念論史観』所収の文は戴けない。
 「変節者のあわれな末路」
 せめて小見出しを書こうかと思ったが、その気持ちも失せた。これを書いたのは党中央青学対部員のころだ。志位はその後、ネオ・マル批判で党イデオロギー官僚の仲間入りする、十人程いた中の最若手だった。

 志位和夫擁護の弁。この男は私心のない人物だ。当時、かれは党の最高幹部になることなど夢想だにしなかっただろう。もしかれに党官僚として最高指導者への志向があったなら、こういう「首斬り朝」のような文は決して書かなかっただろう。かれは自分は捨て石でよいと思っていたのだ。今回は、志位文には一切触れない。但し、志位文の筆の運びだと、古本屋通信など反党分子( 私は党を除名されたのではない。地区委員会の手違いによって、転籍が不首尾に終わっただけだ。念のため )として殺してもよいという、連合赤軍顔負けの左翼ファシズムには当然行き着くだろう。


補記
 上記の文を書いて半日後、夕方のいま、再度書いている。振り返って、伊里の宮本退陣要求を引っ提げての行動は、マスコミ受けを狙っていたとは言え、解り易かったと思う。それにたいして、これを批判する上記の私の文は理屈っぽく、私が宮本の崇拝者に近い事もあってか、わかりにくくて支持されにくい。夕方までに「拍手」がたった一人しか付かないのを見てそう思った。

 志位和夫の文の、それぞれのセンテンス中の幾つかを抽出しておく。

・・・・低劣で、下品な党攻撃に終始している。・・・・かくしてこのふたりの反党分子は、手に手をとって・・・・。反党分子というのは、よほどの「義人」ぞろうということか。・・・ふたりの反党分子の麗しい「友情」が・・・。・・・そろって新しい党攻撃のシナリオを練りあげ・・・。・・・いかに低劣な内容のものであるかは・・・・。三文反共雑文を書き送る売文家と同じ地点まで、・・・。・・・破たんしたみずからの主張をとりつくろうための苦しまぎれの弁明・・・。科学的社会主義の階級的見地のイロハすらわきまえないもの・・・・。・・・・混乱した自己撞着におちいった弁明・・・・。・・・観念の世界での言葉遊びのようなもの・・・・・。右転落した社会党の新与党化路線への追従と投降という、底なしの敗北主義、右翼日和見主義に立ったもの・・・。・・・あからさまな解党主義の主張を・・・・・・。・・その深刻な政治的退廃ぶり・・・。    

もうやめておこう。これは出だしの数ページだけだ。まことに貧しい処女論文の、こけおどしの形容句を抽出したものだ。書く者の品性が疑われるだけのこのような文でも、党内用の恫喝にはいくらかの効用もあるのかもしれない。しかし伊里批判の文としては、私の上記の短文にさえ及ばない。これが天下の党委員長の処女論文のサワリだったのである。
  1. 2013/06/14(金) 02:51:25|
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