古本屋通信

党籍消滅前後(その1)

古本屋通信  No 237 5月30日

   党籍消滅前後(その1) 

 他人の党籍のことをあれこれする羽目になった。「脱落分子」はいいとしても、それは俗称である。私自身の党籍を公表する。入党は1965年秋。正確な月日は憶えていないが、第9回大会3中総直後だったろう。党籍消滅は1970年秋。わずか5年の短い党生活だった。この5年間は私の2つの大学での学生生活6年のうちの5年である。
 一番肝心な党籍消滅のかたちに就いて書く。離党ではない。除名処分でもない。いわゆる除籍処分でもない。未結集(不活動)の自然消滅でもない。それならば一体何なのか。私自身、42年経った今でもはっきりとは判らないのだが、転籍書類の握り潰しなのだ。握り潰したのは地区委員会である。そんな馬鹿な話があるか、と言われても本当にあったのだ。それは当時よくあったらしい。しかし、いくら地区委員会が怠慢だとしても、何もないのに若い党員を切り捨てることはない。私の場合は転籍申請書類に添えて、長文の党批判文書を提出した。その細かい内容は憶えていないが、批判対象は党中央ではなく、中間機関だった。これが地区委員会には決定的に気に喰わなかったと見える。地区委員長の名は萩原。但し張本人が萩原かどうかは判らない。
 今回は「党籍消滅前後 その1」として、握り潰しに至る雰囲気を伝えるため、学生党組織の事を書いた私の文を貼る。これは、[古本屋通信 No46 大学中退] の一部分をとって再録したものである。これを読めば、私が提出した文書の内容は凡そ見当が付くだろう。当時の情勢を織り交ぜながら、私はこの通りの長文を提出して、転籍を握り潰されたのだ。


 [古本屋通信 No46 大学中退] から一部抜粋


私は1964年18歳で民主青年同盟に加盟し、翌年19歳で日本共産党に入党した。この時、私は四国の小さな大学の学生だった。小さな大学だったが、私が卒業するころ同盟は300人、党は3桁を数えた。いろいろな仲間がいたけれど、総じて自分たちが大学生であることに複雑な想いを抱いていたように思う。それはしばしば同年代の青年労働者にたいする劣等感だったが、同時に自分たちが大学で学んだことは労働者に返さねばならないという気負いのようなものもあった。とにかく一生懸命勉強して卒業し、一日も早く労働者になるんだ。そして階級的労働組合をつくる一端を担うんだ、それが当時の学生党員の共通の想いだったように思う。職業革命家になるんだと言うようなズッコケた学生は四国の小さな大学には一人もいなかった。

 61年党綱領のもと、党の青年学生運動の方針は戦後15年の経験を踏まえて練りあげられたものだった。学生同盟はつくらない、学生運動は青年運動の一翼として労働青年の運動から学んでこそ力を発揮できる、民青同盟で試されたものだけが入党を許される、学生運動 = 騎兵隊論も、「層としての学生」運動論も採らない。党の学生運動の指針は党綱領の採択から数年遅れて、「学生運動の2つの任務」として定式化された。2つの任務とは、平和と民主主義と学生生活擁護のために戦うこと。知識を身につけるために古い学問からも学ぶこと。それは『赤旗』や『学生新聞』に主張や論文のかたちで繰り返し載った。活動と勉強の両立で悩んでいたわれわれはそれを新鮮な感動で受けとめた。それをハンディな一冊に纏めたのが『現代日本の学生運動』(広谷俊二著 青木新書)だった。この指針のもと、60年代後半の民青同盟と民主的学生運動は飛躍的に伸びた。

 私自身は3年生のとき民青の地区委員の役がまわってきて、労働者と一緒に活動する機会に恵まれた。地区委員会ではいつも隅のほうで小さくなってほとんど発言することはなかった。みんな私をかわいがってくれた。これは私がいい子ぶったのではなく、当時の労働青年の、学生に対する優位性から自然な関係だった。日本共産党は綱領で明記しているように労働者階級の党であった。全人民の党ではなかった。ましてや小ブル知識人や学生の党ではなかった。党の構成は出身をふくめて労・農を中心に組み立てられなければならなかった。私は学生であることを恥じたことはない。しかし労働者から学ぶ事は一杯あった。それは主として労働者階級の規律性・組織性であったが、彼らは理論水準も高かった。

 当時の私のいた大学は小さかったので学生間のことはたいてい分った。病気以外で留年する者はいなかった。大学院入試 ( 旧帝大 ) に失敗して大学に残るものも留年しないで、専攻科に進んだ。民青同盟員や党員で大学を中退するものは私の在学中は皆無だった。みんな4年間で卒業した。五回生という言葉はなかった。それが党の方針だった。私自身は専門の英文学・英語学を十分勉強したとは言えなかったけれど、すべての単位を取って、卒業論文を書いて4年で卒業した。そのあと縁あって他大学に学士入学した。

 学士入学した先の大学でも私は組織の成員であることにに変わりはなかった。しかし私は自分の活動を制限した。やるべきはやったつもりだが、いい党員には映らなかったと思う。だから内部批判的な言動は一切しなかった。しかし、卒業して既に40年になる。もう書いてもよいだろう。
 今はじめてこの大学に移った時の驚きについて書く。全部ではないがこの大学の組織は、当時の党中央の指導の到達点とは著しく違っていた。多くは言うまい。留年が何人いたか。数え切れないほどいた。それも1年留年だけでなく2年留年、3年留年が何人もいた。中退は何人いたか。相当数いた。放校はいたのか。いたと聞いた。とにかく五回生から八回生という言葉は日常語だった。私が卒業したあとも、それは続いたらしい。まるで党の50年分裂時代の、学業を放棄しての党活動のように私には思えた。そして驚くべきことに、中退者は次つぎに党関係の仕事に就いていった。それが優秀な党員だけに許された道であり、英雄的な選択でもあるかのように。私は空いた口が閉まらなかった。これは資本主義社会における価値転倒のもうひとつの形態だった。正常と異常の価値転倒。ここで言う党関係の仕事とは党各級機関の専従のこともあれば、民主団体の職員のこともあったが、一般に卒業証明書の要らない職場だった。そのような仕事を経て議員になることも珍しくなかった。戦前ならともかく、また全学連中執などどんなに努力しても就職不可能な場合を除いて、学生党員が就職活動をしないのは闘争放棄だった。というより、そもそも入党の意味を理解してなかったことになる。

 稲沢潤子さんの初期の小説に、女主人公が授業に出ようとしないグウタラな恋人に説教する場面がある。恋人は「あんなつまらない授業に出席するのは時間の無駄だよ。そんな時間があったら自分で勉強するよ」と言う。女主人公は「つまらないって、そのつまらない授業にみんな出ているのよ。どうしてみんながやってることを、あなただけ出来ないの? あなただけどうして例外なの? まして、あなたは活動家を自認しているのに、それではひとを組織するなんて出来ないわ」 ( 引用は要旨 )。稲沢さんの小説は60年安保の頃の大学が舞台なのだが、60年代の学生運動の問題を考えるうえで、高橋和巳の小説とは違う意味で示唆に富んでいた。かの女は男を批判することで、当時の民主的運動の病める部分を抉った。主人公は恋人と別れ、恋人は運動から脱落し、自閉していく。
 稲沢さんには同じような作品が複数あるので、題名がはっきりしないのだが (『紀子の場合』だったか『青麦』だったか)、私は彼女の初期の作品が好きだ。それは宮本百合子の『伸子』との対比において特に好きだ。百合子より男をみる目が優しいから。ただし、読後感の強さでは『伸子』には及ばない。
 稲沢さんの小説で脱落し自閉していく部分がなぜ、実在する学生党組織では職業革命家になっていくのか。そしてそれはなぜ、遠いむかしの60年代70年代だけではなく、その後もずっと続いてきたのか。

 労働しない労働者はいない。労働しないものは労働者ではない。勉強しない学生は本来的に学生ではない。大学中退は、余程の事情がないかぎり怠学であろう。今日では雇用の形態も著しく変わってきたので、いちがいには言えないが、少なくとも60年代、70年代には、中退者は社会的にも怠け者と評価され、就職は著しく不利だった。それは不当な差別とは次元がちがう。そういう部分、いわば学業を放棄した横着者が、社会経験のないまま専従や民主団体職員になり、議員なっていく。当然ながら労働者的規律を身につけていない。それがすべて悪いと言うつもりはない。しかしそれは、当時の社会規範一般から外れていただけでなく、党が戦後作り上げてきた運動の峰を切り崩す試みだった。


  1. 2013/05/30(木) 21:02:28|
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『文禄・慶長役における被虜人の研究』

古本屋通信  No 231 5月27日

  『文禄・慶長役における被虜人の研究』


  本書は、日本の朝鮮侵略の前史の研究であるが、この記事はその内容の紹介ではない。この研究書が古書市場に出るに至るまでについて、古本屋として知り得たことを記す。

 『文禄・慶長役における被(手へん付)人の研究』
 内藤しゅんぽ著  東京大学出版会  1976年3月31日 初版

 著者略歴
 1896年島根県に生る。第三高等学校をへて、京都大学文学部支那史学科卒業。神宮皇学館、大谷大学、龍谷大学の各教授をへて、第六高等学校教授、岡山大学教授となり、1961年3月定年退官。更にノートルダム清心女子大学教授となり、現在(1976年)は中国短期大学学長、岡山大学名誉教授、ノートルダム清心女子大学名誉教授。 


 先日、古本屋通信の店に、この本について同業者から問い合わせがあった。自店に在庫はあったが、売値があわず結局流れたが、そのとき本書をめくってみて、気が付いたことがある。まず裏見返し頁に私が鉛筆で記載している。

 40,000円 見返しが一枚欠けていると思われる

ついでオモテを開く。

 ここに一枚白紙があったのを、切り取ったと思われる。その理由は、献呈署名と共に宛名が著者によって書かれていたのを、宛名の主が本を手放すときに除去する必要があったという事だろう。一枚欠けを承知でお買い求め下さい。読書には支障がありませんので、このことによる安価設定はしておりません(店主)


  この本、朝鮮史研究の名著として評価が高く、古書価も高い。神田でも「日本の古本屋」でもそうだし、だいいち出回らない。ところが何故か、岡山では結構見かけるのだ。私も既に2冊売って3冊目だし、シンフォニー古本まつりにもよく出る。

 私が最初に入手したのは7年まえだった。元岡山大学教授・大阪経済法科大学名誉教授の書庫整理のときだった。専門は経済学(社会政策)で約3万冊あったが、半分は洋書(仏語)だった。1万冊を買った。社会政策の領域は広く、いい勉強をさせてもらったが、いわゆる「銭になる」本はごく僅かだった。その一冊が『文禄・慶長役における被虜人の研究』だった。いくら 社会政策の守備範囲が広いといっても、近世朝鮮史は浮いていた。単品で値がついた最高の本だった。持ち帰って常連にその日のうちに売った。

 2冊目は3年まえだった。やはり元岡山大学教授で物故者だった。本は3万冊あった。この時はすべて持ち帰れということだった。専門は東洋史(中国古代史)だった。3万冊のうち雑誌と中文書が大半で、残りの有効本は五千冊前後だったろう。マンション5階から、赤帽さん2人を雇って3日かけて運び出した。死ぬかと思った。手間賃を差し引かず、本体評価で買った。私はいつもそうする。でない場合は断る。買いとり価格と赤帽の支払いが同額になった。ふつうなら割りが合わぬ商売だ。しかしこの時、雑誌・雑本のゴミと一緒にかなりの量の左翼文献が出て来た。旧左翼でも新左翼でもない、その中間だ。ほかの古本屋なら捨てる。私にとっては宝だった。これで私的には元を取った。
 横道にそれた。この時『文禄・慶長役における被虜人の研究』もあった。くわえて著者・内藤氏の色紙数枚も出て来た。この買取りを通じて、岡山大学法文学部(のちには文学部)の教員は、自著上梓の際に同僚全員に本を献呈する習慣があると知った。

 以上、本書が岡山でよく出回る理由に就いて書いた。
  1. 2013/05/27(月) 03:31:23|
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新婦人

古本屋通信  No 230 5月26日

  新婦人

「あんた、あんまり理屈を言うと嫌われるよ。実際の運動は理屈どうりには行かんもんよ」 No 229 で、自分の書いた過去記事を読んで、そういう批判が集中しそうな気配を感じた。記事にたいする拍手は少なく、たぶん批判が多いだろう。とくに女性からは総スカンかもしれない。

ここで2つの運動のことを想った。ひとつは部落解放運動。もう一つは婦人運動。私は部落解放運動の活動家といわれる人々に親しみを感じることはなかった。トップの著名な運動家ほど好きになれなかった。その一方で理論家といわれる人々は、理論の正否にかかわらず尊敬できた。これは理屈ではないのだけれど、私は運動が運動家の利害にかかわるような運動には警戒心が働く私は運動は理論ではない論には重大な落とし穴がある気がしてならない。 ここでは新婦人のことを一寸だけ書いてみたい。婦人運動には「同和成金」に匹敵するような言葉はない。

福山市議の河村さんが新婦人の中央の集まり(「新日本婦人の会」の「若い世代の活動推進のための全国交流会議」)に行ったそうだ。それでウィキペディアを引いてみた。会員数が20万人。へえ~、凄い。40年まえに較べて減っていない、まずこれに驚いた。1960年代後半、民青、新婦人はともに20万の組織と言われた。今日、民青は十分の一以下になった。新婦人は減っていない。

学生だったころ安保破棄中央実行委員会主催の集会に参加した。いわゆる共産党系の集会で、労働組合や民主団体に混じって学生も参加した。これに民青、新婦人はともに参加し挨拶した。順番は民青より新婦人が常に先だった。学生自治会は挨拶することも、集会で発言することもなかった。新婦人は頼もしい参加団体だった。日本母親大会の中心的推進力でもあり、「生命を生みだし育てる母親は生命をたいせつにし、戦争に反対します」をスローガンに幅広い運動に関わった。

運動の基本になる班活動は、いまもそんなに変わっていないようだ。わが家のポストの中にも、定期的に「野ばら班」のビラが入っている。色々な小組の活動があるらしい。中心になっているのは党員だろうが、政治色は必ずしも濃くない。もうひとつ婦人民主クラブというのがあるが、新婦人のほうが間口がひろく大衆的だ。しかし選挙のときには、そのメンバーのかなりが共産党の後援会活動に加わる。またそのことを隠していない。もちろん、加わらないのも自由だし、それを理由に新婦人から排斥されることはない。しかし新婦人がなかったら、共産党の選挙が立ち行かなくなるのも事実だろう。

私は新婦人の事情について、一寸しか知らないのであれこれ書けないが、労働組合や民青にかつての面影がない中で、なぜ新婦人だけかくも健在なのか、それについて触れたい。傍から見た感想だ。ピントはずれかも知れない。もし関係者が読まれていたら一笑に付してほしい。新婦人の活動の特徴は①女の組織であること。②本質的に非政治的であること。③対立軸をもたないこと。④大衆的であること。⑤(語弊があるが)通俗的であること。

①~⑤のうち⑤についてだけ書く、他は問題提起に止める。この記事を書くにあたって新婦人中央のHPを検索したがみつからなかった。ウィキの記事も短いものだった。その代り全国の班のHPがたくさんあった。この辺りも新婦人の強さの秘密だろう。それは措いて、新婦人が従軍慰安婦問題に係わる橋下発言に抗議したか、しなかったか。私は万に一つも抗議しなかったということはあり得ないと確信していた。果して抗議していた。これは私の価値基準では通俗なのだ。すでに書いたとおりだ。

新婦人を貶して書いているのではない。新婦人の強さについ書いている。結論だけ書こう。現実のいまある日本の政治のなかで新婦人の活動は貴重だ。新婦人は従軍慰安婦発言に抗議しなければならない。仮にそれが橋下にとって痛くも痒くもなく、寧ろ大歓迎であってもだ。新婦人の活動基盤からして、橋下発言を許すなど考えられない。だが同時に、私がこれまで書いてきた視点も、いくらか保留しておいたほうがよいのではないか。

少し違うが、私は部落解放運動における運動と理論の乖離を見てきた。それは運動分裂以前の解放同盟にも、分裂後の大きな二つの全国組織のそれぞれにもあったと思う。仕方がないことだった。せいぜい運動の立場と理論の立場、両方が必要だ位しか言えない。通俗を全否定すると運動は進まない。俗に譲歩することは欠かせない。しかし譲歩はいい加減にしなければならない。ほんとは怒っていないけれど、怒った振りをする、そのあとサッと引く。部落解放運動は、この辺りのさじ加減をよく心得ていたと思う。

 この稿、書きさしです。すこし間を置いて続きを書く予定ですが、先になるかも知れません。

このさじ加減(引き際)が分らなくなって、解放運動史上に大きな汚点を残したのが矢田事件と八鹿高校事件だ。すでに決着がついているが、これは100%解放同盟本部派が悪かった。組合に非は全くなかった。背景だとかなんだとか小理屈をつけて、共産党憎しだけで暴力のやりたい放題だった。関わったのは一部だったとしても、この頃から利権集団としての腐敗が本部派の全体にわたって進行することになる。本部派は総括をキッチリやるべきだ。そして、政治責任として共産党に謝罪すべきだと私は思う(この項だけは下記のインタビューを読んだあとに書いた)。



関連資料
この記事を書く過程で、新婦人ではなく部落問題のあたらしい資料をみつけた。おもに自分用に貼っておく。上記の私の記事とは直接には関係ない。また、私自身が未読なのだから、資料評価は及ぶところではない。念のため。



   部落解放運動の過去・現在・未来(3)
 ――山内政夫氏(柳原銀行記念資料館)に聞く――
 
(インタビュー記録/聞き手:山本崇記)

《趣旨》
これは、現在、柳原銀行記念資料館事務局長を務め、その他様々な地元の住民運動やまちづくりにかかわり続けてきた山内政夫氏に、戦前の水平運動、戦後の部落解放運動の歴史的評価という点についてお聞きしたインタビューの記録全文である。また、昨年来続けているインタビュー企画「部落解放運動の過去・現在・未来」の第三弾となる。

【山内政夫氏・略歴】
1950年、京都市東九条生まれ。小学5年生の時から丁稚として働き出す。陶化小学校・陶化中学校卒。17歳のときに自主映画『東九条』の制作に監督として参加。その直後に共産党から除名。工場などで働きながら、地域の青年たちと反差別の運動に取りくむ。30代になってから資格を取り鍼灸師として開業。1984年に部落解放同盟に加入。2003年~2006年まで部落解放同盟京都市協議会議長を務め、辞任。現在は、柳原銀行記念資料館で地域史(部落史)を丹念に掘り起こしながら展示としても広く発信し、さらに、崇仁・東九条でまちづくりに携わっている。

■『実録・連合赤軍――あさま山荘への道程』をみて
山本:今回は、「部落解放運動の過去・現在・未来」の第三回ということで、山内政夫さんにインタビューさせてもらいたいと思います。第一回のインタビューは、去年の12月にさせていただいて、その時は京都市長選挙を控えていましたので、同和行政に対する評価と市長選の立候補者に対する評価などをしていただきました。その時は、「組織でなくても解放運動は可能だ」と山内さんの主張を強く出していただきました。
 第二回のインタビューは、今年の2月です。その時は東九条のまちづくりの現在の状況について、歴史的な経緯を踏まえながら、「東九条CANフォーラム」という新しい運動体について話していただきました。また京都市長選挙を直前に控えていたことと、『部落解放運動への提言』というものが出ていたので、それに対する評価をしていただきました。今回は三回目として、前回から少し話しにも出てきていたのですが、戦前の水平運動、戦後の部落解放運動に対する歴史的評価について立ち入ってお聞きしていきたいなと思っています。
 その前に話しの枕として、若松孝二監督による『実録・連合赤軍』に触れてみたいとおもいます。ベルリン国際映画祭で賞を取ったりと非常に話題となっています。少し唐突かもしれませんが、山内さんはなんとこの映画を三度も見ておられ、色々考えるところがあったとお聞きしています。そこで本題に入る前に、共産主義の運動をどのように考えるのかという意味で重要な参照点になるであろうこの映画について話をしながら、徐々に歴史的な話にも入っていけたらと思っています。それでは早速、この映画の感想を話していただけたらと思います。

山内:自分にしては、同じ映画を、上映期間中に三回も見るのは珍しいことです。しかも三時間と長いものですから。だからそれぐらい興味があったということですね。1960年代の社共に対する学生諸君の絶望、失望、(第二次)ブントの結成、それが丁寧に描かれているという感じで分かり易かったし、面白かったです。ただこの連合赤軍事件を契機にいわゆる新左翼の運動が、潮が引くように消えていくんだけども、やっぱりそのぐらいのインパクトがあったということが改めて分かったなという感じです。
 そのインパクトは浅間山荘の銃撃ではなくて、死の総括ですね。総括をめぐってのやりとりで仲間を殺すということのおぞましさですね。共産主義化をして、銃の観点でもってゲリラ闘争を戦いぬくという。映画を見るだけじゃなくて、坂口、永田、坂東、加藤、植垣の書いたものも大体読んだのですけど、映画はそこから丁寧に事実を拾ってきて描いているから、恐らく真実であり、非常にリアルでした。それまで、権力側からの映画があるけれども、そういう意味では非常に面白かったなと。

山本:私もこの映画をみたのですが、非常に長かったというのが印象に残っています。『実録・連合赤軍』制作委員会は、企画意図のなかで、浅間山荘で学生運動は終わりを告げたということを言っていますね[1]。さらに「1972年に刻まれたメッセージは、粛清された同志たちの死が語るのではなく、10日間にわたる銃撃戦のなかにある。銃口は、いまも、日本の"この時代"に向けられている」と、ある意味で非常に楽観的な評価をしており、若松がそれを映画の中で検証しているということだと思います。山内さんとしては、いわゆる共産主義の作風というか、当時尖鋭的な学生運動が行き着いた連合赤軍の作風の象徴的なあり方として、「共産主義化」の名のもとでの同志へのリンチという問題が非常に大きかったのではないかということですか?

山内:そうですね。今の時代からこの映画やあの時代を見て、闘争してきたメンバーを批判するのは簡単です。けれども冷静に見た時に、彼らのうちの何人かが語っているんだけれども、1発の銃声によって10人が目覚めると。2発で100人、3発で1000人の人間が目覚めて武装すると言っているんだけれど、ちゃんちゃら可笑しいというか、何でそうなるんやと。そういう間違いというか、そもそも総括の意味が分かっていないし、共産主義化の意味も分かっていない。だから随分われわれと違うんだなという気がしました。
 ただ、共通してある目的をする、それは社会正義やし、世直しの思想ね。これはやっぱり否定できない。ただやり方として上から人民大衆を指導するというか、そこが間違いの第一歩で、大衆から学ぶということを全然していない。やっぱりあの年代で育った環境の中で彼らがそういうことができるとは思われない。山に入ってゲリラ闘争をやるということで、毛沢東の山岳闘争ね。彼らは革命左派で毛沢東好きやからね。それが今やどういう歴史的評価を受けているかと言えば、これはもう誰もが知っていることやからね。文化大革命で大粛清するとかね。いくつかあるんやけども。
 それを見ると共産主義は失敗したのかなと思わざるをえない。だからあの映画から受け取るべきものは、ソビエトが崩壊したことや、ベトナムの世界的な公約であった南ベトナムを解放すれば民主的な選挙をするということが破られたこと、また、北朝鮮なんかはもっとひどいし、最近で言えば中国のチベットの問題など、そういうものをもう一回ちゃんと冷静に、社会運動をやっている者は見直さなければならないと思う。それはおしなべてあの時代の問題だけでなくて、現在の問題であると思う。もちろん部落解放運動もそうだし。
 部落解放運動も連合赤軍がああいう間違いを犯した時のような社会的に容認されないことになっている。もちろん、部落解放運動は人を殺したことはないけどね。ひょっとしたら労働組合もおかしなことがあって、運動が退潮したこともあった。新左翼の運動も引いた。今回の一連の不祥事で部落解放運動がまさにそのような場面を迎えていると思う。そういう視点に立ってあの映画を見て、きちんと総括しなければならないと思ったね。

山本:戦後の部落解放運動の行き着いた先という話に入っていきたいと思っているのですけど、その前にエピソード的に聞いておきたいなと思うのは、当時の東九条にも赤軍のメンバーが何人か入ってきていたということです。山内さんの青年時代には奥平兄弟にも直接お会いしたことがあると聞きました。山内さん自身もまさに同時代には共産党員を経験し、その後、地域の青年たちと「東九条解放宣言」なども出され、彼らの運動に対してシンパシーや共通点もあったのではないかと思います。けれども東九条で青年たちが向かった先と、連合赤軍のメンバーが行き着いた先とは非常に大きく異なると思います。同時代の実体験からすると、どのように彼らの運動を見ており、自分たちの運動を位置づけていらっしゃったのでしょうか?

山内:彼らと深い議論をしたことはないけれど、後で赤軍と呼ばれる連中が来て随分変なことを言ったりとか、オルグしに来たりした時期があって、それは随分後の話やけどもね。何をしに来たのかさっぱりわからなかったけどもね。あまり接点はなかったけれども、ただ歌って、踊って、世の中変わるのかという視点を持っていて、それには全く同感しましたね。選挙だけで変わるものではないと思っているから。自分たちが中心になってやっていこうと。彼らと決定的に違うのは、別に権力とぶつかるとかそういうことではなくて、私らが地域の中でこそ世の中を変えていくという志向性、自分たちが立ち上がらないと変わらないということを東九条の青年たちは強く持っていたという感じがします。
 だから共産党と分かれても、関係ないし、前衛党があろうがなかろうが、自分たちのやることは変わらない。大きな組織を作ろうとしたわけでもないし。東九条にある様々な問題に直面して、それを解決していくということが人間を変えていくのではないか。それでこそ社会的な共感を呼ぶし、社会性を持った社会運動としての存在意義があり、社会が変っていく。単純に武器を持って、火炎ビンをほったり、権力に銃を向けたりすることで変わるわけではない。やっぱり人生賭けて、じっくりじっくりやっていかなければならないと思う。それは40年近くたっているけれども変わらないね。

山本:具体的には東九条青年会というグループを通じて実践されていたと思うのですが、『実録・連合赤軍』の中で「総括!総括!」という言葉が連呼されていました。ただ当時の東九条青年会の文章を読んでいても、当然「総括」という言葉が出てくるのですが、凄くトーンが違う気がします。「総括」の意味合いは、まず自分たちの運動がどうであって、これからどうしていくのかということを集団的に共有していくという一つの共同作業として「総括」という言葉が捉えられていたのではないかと思い、それこそが東九条の運動としての性格だったというような気がします。
 一方で連合赤軍の場合は、どちらかというと、自己批判というか、個人的な共産主義化の不徹底という中に「総括」という言葉があって。例えば遠山美枝子の描き方が非常にリアルだったと山内さんは言われているのですが、やっぱり「総括」という言葉一つとっても、意味するものやイメージが異なるのだと思いました。

山内:彼らとは違うね。個人攻撃に向くということで既に間違っているよね。それは全体で考えて、全体で間違った点を出し合って、厳しくてもそれを乗り越えて、次の方針を出すという方向に持っていかないと「総括」じゃないよね。森恒夫は「総括、総括」言うけれども、批判されている方は全然理解できていない。特に遠山批判の時に、永田洋子のセリフを聞いていると、個人的な妬みというものが凄く大きかったのではないかと感じる。凄くいやな気分になった。結局、同志を殺してしまう。同時に夢見た「世界同時革命」を共有できる、一番理解してくれる仲間なのに、あのように殺してしまうということですね。そこに一番の過ちがある。だからと言って全否定はできないんだよね。
 彼らが書いたものを見ると、世直しするというか、社会正義を行う。そのためには生易しい問題ではなくて、銃を敵に向けてしまうということになっちゃうんだよね。僕らは明確に一線を引いていたし、地域の厳しい人に寄り添って解決していくという方向性無しに、「総括」と言って議論しても何が変わるわけでもない。だから、まさに人民大衆に寄り添って、一緒に考えていくということがなければならない。一般大衆の中にこそ、差別感があり、問題の困難さがあるんであって、それと向き合うことなしに、一党一派に人民大衆を従わすということではないのだと思う。どの運動を見てもその傾向があるし、解放同盟にも濃厚やね。これはやっぱり基本的には同根ですね。そこのところを今日は議論したいなと思っています。

■戦前における共産主義運動と水平社
山本:ありがとうございます。そうすると、まさに日本の社会運動の上で、今言ったような問題を考えるためには、日本共産党の問題をどう捉えるのかということが重要なポイントになると思います。日本共産党は、1922年にできます。先ほどお話にも出てきたし、これまでのテーマでも話題にのぼった部落解放同盟の前身である水平社も1922年の結成です。水平社の場合はこれまでの融和運動(融和運動にも色々ありますが)の蓄積に対する批判的なスタンスを取ったかたちで結成されます。
 共産党の方は、結成以前に共産主義運動なり社会主義運動ががっちりとあったわけではないので、少々文脈が異なりますが、とはいえ同じ年に結成されていて、どちらも今(以前からしばしば言われてもいますが)岐路に立っています。また、その関係性が重要なテーマであり続けてきたと思います。まず戦前の水平運動と共産主義運動との関係性から話を進めていきたいと思います。

山内:まず、一番最初に水平社宣言の起草者の一人である西光万吉のことを語るべきだと思います。彼が「水平社宣言」のすべてを書いたわけではないけれども、しかし基本的な構想を練ったのは彼だろうと思います。それを佐野学が「特殊部落解放論」というのを『解放』1921年(大正10年)の7月号に掲載した。佐野は日本共産党の初代の委員長です。特殊部落の解放は特殊部落民によるものでなければ駄目だと。これはまさに、水平社宣言の「我が特殊部落民、団結せよ!」という言葉は共産党宣言と同じような言葉で始まるから、共産党と同質の運動の形態や考え方を持っていたということは間違いない。
 それを一番最初に押さえる必要がある。そのことが解放同盟の組織としてのありよう、大衆運動とはいえ、前衛党としての性質を持っているということにつながっていると思います。水平社も共産党からすれば日本革命の一翼を担う組織に過ぎない。まずそこから入っていくべきだと。共産党は部落解放同盟のことを色々と批判しているけれども、共産党こそが水平社を産んだのだという認識に立ち返らなければならないと思う。部落民として言えば、その責任をどう取ってくれるのだと言いたいくらいです。

山本:西光万吉は佐野学の思想に影響されて起草したことになるんですか?

山内:結局、水平社とそれまでの運動がどう違うのかということです。水平社が急に登場したというわけではなくて、例えば京都であったら、実質的な解放運動(自主的改善運動)をやっていたのは、柳原銀行の頭取である明石民蔵です。彼なんかも色々なところで、自分たちの力で解放すべきだと語っていました。そのような積み重ねがあるんでね。それこそ明治4年の解放宣言があって、千本の益井元右衛門なんかもね、解放令がだされる2年前に、明治政府に建白書を出していました。自分たちで解放運動を積み重ねてきたんです。そのような文脈があったうえで、それをより明確にしたのは、佐野学の「特殊部落民の解放は特殊部落民自身によってなされなければならない」ということになります。

山本:そう考えると、佐野学の論文は1921年なので共産党はできていないけれども、マルクス・エンゲルスの『共産党(主義者)宣言』、ロシア革命、世界的な社会主義運動も起っているという状況がありますね。それを受けつつも、部落民の問題は部落民が立ち上がることによって解決されるべきだと言い得た時代が最初期にあったということをきっちりもう一度考えなければならないということなんですね。戦後だとはっきりしてきますけど、共産党が大衆運動をどういうふうに指導し、距離を取っていくのかということが課題となってきます。戦前の水平運動で言えば、有名な「アナ-ボル論争」ですね。この論争をどのように山内さんは評価していますか?

山内:共産党は良くないことを二つしています。その一つは、初期の水平社の活動家、南梅吉、平野小剣、米田富、桜田規矩三、これら初期の指導者を融和的だということで、共産党の青年同盟のメンバーが追い落としを図っているんですね。これは当時の「遠山スパイ事件」というのもあったのかどうかもかなり怪しい。「事件」を理由にして排除します。その当時全水の事務所が千本にあって、初期には木村京太郎などの共産党のメンバーなどが専従になり、飯を食わせてもらったことも含めてかなり世話になっていた。
 だから、南梅吉の体質とかを彼らは良く分かっていたわけで、しかも南梅吉が個人的に水平社の活動資金を負担して、借金までしてかなりの部分補っていたにもかかわらず、そういうことを無視するようなことをします。特に、木村京太郎なんかは一切擁護してない。ボル派が主導権を取るために、言われもないものをでっち挙げてそういうことをした。それが混乱をもたらしたのであり、その結果として(1928年の)「3・15」の弾圧を呼ぶということだと思います。

山本:大衆運動としての水平社運動の中でボルシェビズムが台頭していく原因としてどのような背景があるのでしょうか?佐野学と初期のメンバーたちとの良い関係が追い出しへと繋がっていったのでしょうか?

山内:簡単に言えば路線の違いということになるのだろうと思うのですけどね。ただ、路線の違いと言われているが、当時の運動に明確にあったわけではなくて、まさに部落差別をなくすということで、貧しい人々もやる程度恵まれている人々とも多くの部落民が手を結ぶべきものを、労働者、農民が主体になるべきだとして、官僚的な組織形態を持つロシアのやり方をそのまま持ち込んでしまった。

山本:直輸入というか。

山内:そうそう。あてはめちゃったんだね。そこら辺に無理があったのだろうと思います。それまでの運動には色々な人が関わっているからね。それで良かったんだろうと思います。階級闘争だけを軸に展開するのが良かったのかどうか。色々な議論があるにしても、そこのところは二つ目の問題ですね。

山本:それはまさに戦後にも引き継がれていく問題だろうと思います。その手前で(1920年代初頭の)アナボル論争の際に、アナーキストがどの程度影響力を持っていたのか。恐らく思想的地盤としても微弱であったと思うのですが。それに比べ、共産主義者の方がソ連もあるし、世界的な共産主義運動もあるので、思想としても(間違っていたにせよ)がっちりとした世界観があって強かったと思います。しかも国際的な指導もある。その後、「解消論」ですね。水平社を解消していくという運動。振れ幅が凄いですね。
 初期においては、部落民の問題を部落民が解決していくということでしたが、労働者階級の運動、農民階級の運動へと解消されていくことがあるべき姿なのだという考えから「部落民のための部落民による組織」を解消すべきではないかという運動的な目標に行き着きます。それも共産主義運動の負の部分というか。

山内:そうですね。やっぱり「引き回し」ですね。先ほど、初期の活動家に対する仕打ちがそれであるとしたら、1931(昭和6)年の第10回全国水平社大会で「解消論」が出てきました。正式には、「全国水平社解消の提議、第10回全国水平社運動方針への意見書」です。簡単に言うと、水平社の中での階級分化をはっきりさせ、「労働者」「農民」が運動の中心になっていくというものです。何か一見正当性があるような感じだけれども、水平社の運動は労働運動に解消されるべきだというのは、まだ10年ぐらいしか経っていないのに、よくそういうことを言ったなという感じです。
 朝田も北原も、それを提案したメンバーです。彼らがよりリアルに関わっていると思います。その後に部落委員会活動が登場してくるわけですけど、結局労働者、農民に依拠しなければならない、そのために水平社を解消するという話ではなく、無理があって、結局失敗した。もっと反対に部落民、あるいは労働者を水平社運動の中心に据えるためには、彼らの生活の擁護、細かいところを一緒に取り組まなければ、社会運動として成立しない。それまでの水平社がやってきた糾弾闘争には限界があるということですね。
 それにしても前衛党がわずか10年ぐらいの間にこれだけ大衆運動に手を出し、自分たちの支配下に置くためにしたことはきちんと総括されなければならないと思います。そういうことをほったらかして、戦後、権力の手によって解散させられた水平社が今度は部落解放委員会になって、その後に解放同盟になります。水平社はどのように戦争に協力したのか、その責任の問題がどこにあって、何を総括すべきか議論することもなく、前衛党との関係も何も総括することもなく、戦後出発したと。ここらに今でも部落解放運動が抱えている問題があるように思います。

■戦後における部落解放運動
山本:1930年代後半に朝田善之助、北原泰作など共産主義者のグループはいったん水平社から排除されましたけど、その中でも水平社独自の運動を繰り広げながら戦争に対してぎりぎりの「抵抗」をしえたのではないかという評価もあります。戦後のスタートの時点で、色々な活動家が、融和運動も含めて解放委員会に結集していき、そのような課題は問われず終いでした。排除した問題、共産主義の問題、融和運動、自主改善運動などの評価など、戦前においても色々な総括ポイントがあったということです。戦後の自由で開放的で民主的な状況のなかで総括を留保したまま、再結成がなされてしまった。そういうかたちが今でも運動のなかで総括という作風を作り上げることができない原因にあるのではないかということですかね。

山内:そうですね。もちろん、日本人の多くが総括しきれたわけではなくて、戦争が終ってほっとしたということなんだと思います。もちろんそれを全然否定すべきでもないと思います。部落解放運動の中に、革命運動としての要素を組織の中に残しているということを十分吟味して、総括して、新しい方向性を打ち出す必要があったにもかかわらず、やっぱり組織の再結成を優先した結果なのだろうということを押さえなければならないだろうと思います。

山本
:なるほど。現実の部落解放運動に関わってこられた山内さんとしては、同時進行で進む運動を対象化して、総括して、次の運動に生かしていくという凄く難しいというか、そう簡単にはいかないことに取り組んできたのだとも思われます。総括してそれを集団で共有していくという作業の必要性が先ほど話しに出ましたが、ご自身の経験から、これまで運動として具体的にどのような作業をされてきたのか、またその作業がどうあるべきだとお考えでしょうか?

山内:なんというか解放同盟はエセ革命組織というような要素があって、特に糾弾闘争の矛先が結局共産党にまで向けられて、それが様々な過ちを犯すことに結びつくんだけども、十分総括されないままきたし、共産党もそのような要素を残しています。特に共産党と解放同盟が分裂した源流はその辺にあるのではないかと思います。水平社の時代の間違いを整理することなく、戦後引き継いだということに由来するのだろうと感じます。それと新左翼の運動が盛り上がった時に、自己否定の考え方があって、解放同盟がそれに乗っかるような部分があって、空気があるがごとく差別は存在するのであり、前衛党であろうが、労働者であろうが部落差別をするもんだという発展を遂げたことが非常に良くない結果を生んだのではないかと思います。それが今でも解消されていないんでね。特にそれを突きつけられた前衛党も非常に困惑しただろうし、困惑したということは、かつて自分たちが育ててきたメンバーの松本治一郎、北原、朝田にしたって、その当時の幹部たちは共産党の運動のスタイルを色濃く持った人たちです。
 朝田善之助はまさにそのなかでピカ一であり、社会科学として部落解放運動を唱えたわけであって、それは共産党の考え方そのものです。なぜ、そのようなメンバーと共産党とが分裂してしまうのか。それは一党独裁が孕む問題に行き着くわけです。つまり、一党独裁だから共産党の言うことを聞けと、しかし言われた方がより理論的にも実践的にも積み重ねがあって、だからこそ叛旗を向けられるという状況がある。その結果、分裂し、部落解放同盟正常化全国連絡会議までは良かったけれども、しばらくしたら全解連を作る。まさに大衆運動を分裂させる積極的な役割を担うという間違いを犯す。そして、解放運動が分裂状態へと入っていく。
 その結果として、どうなったかというと、連合赤軍がああいうことをやって、新左翼の運動が後退したように、今度は分裂によって多くの民主的な人びとが手を引いていったという事実があります。そのことは、あらゆる領域の社会運動、労働運動、障害者運動にも影響を与えていく。分裂したら負けていくというのは当たり前のことであって、そのことをどこまで理解したのかということ。少なくとも戦後間もない東九条の時の厳しい生活や環境に関して少しもよくしようとしなかった。そこで部落解放運動の分裂が社会運動の冬の時代を生んだ契機となっているということを押さえなければならないと思う。

山本:『部落解放論争史』(柘植書房新社、1980年~1985年)で師岡佑行さんが早い段階から双方(同盟・全解連)の議論や理論的支柱を整理して総括を求めていました。戦後の論争のなかにもいくつもの貴重な論点が出ていたけれども、それが十分発展せずに今にいたっているということを改めて問題提起していました。なかなかそのような問題提起が受け止められずに現在まで来てしまったと感じます。

山内:すごく不幸なことです。共産党との関係で言うと、階級史観によってのみ部落解放運動を語るということには二つの間違いがあって、一つは部落の起源の問題、これを階級史観にあてはめた。これは解放同盟も共産党も今でもそうだし、権力が差別を作り出したと。そうではなくて、一般大衆の中にこそ部落差別が根強くあるし、明治6年の岡山の解放令の反対一揆なんかまさにそうなわけです。民衆の中にあった部落に対する差別意識が根強いなかで、解放令による明日から自分たちと同じような扱いをされることに対する抵抗感があって、それで岡山県庁に竹やりをもって一般の農民の人々が行く。その街道筋にある部落に火をつける、人を殺すということまであった。この事件が恐らく部落差別の中でも最も厳しかったものだと思いますが、そういう間違いを呼ぶ。
 二つ目は、同和対策審議会答申に対する評価の問題。共産党は「毒饅頭論」というけれども、この法律によって全解連の人も大きな恩恵を受けて、組織を色々作ったし、運動をやった。つい最近問題となった学習会などに対する補助金に関して言うと、これは解放同盟だけではなく、全解連にもあったわけです。それを今だに前衛党が口を噤んでいるということは許されない状況がある。一方で「同和、同和」と必要以上に煽っています。そのうえ、部落解放同盟を否定するだけでなく、部落そのものまで否定までしようとしている。そんなことでいいのだろうかと思います。

■被差別部落における共産主義と住民性
山本:一つお聞きしたかった点なんですが、部落の中で共産党員である有名な活動家、例えば朝田善之助なども一時期そうでしたが、岡映、三木一平なんかもいると思うのですけれど、被差別部落民であることと共産党員であることというのは、どのように一人の人間の中で共存したり、しなかったり、優劣があったり、なかったりするのでしょうか?『論争史』なんかを読んでいても、もちろん共産党の「国民融合論」などというものは、何の運動経験もない共産党の理論家が北原の主張に乗っかって、作り出した理論です。同時にその理論に沿うかたちで総括をしていく部落民で共産党員の人も当然いたと思います。そういう部落における共産党の役割というか、部落のなかでの部落解放運動の役割というのは、どのように共存していたり、していなかったりしたのでしょうか?あるいはどのような関係が実践的には有意味な形態だと考えたらいいのでしょうか?

山内:部落解放同盟員全てがそういう方向を考えるべきでないとは思いませんが、「人民に奉仕する」という共産党員のこういう姿勢は正しいのであって、そこに間違いがあるのだとしたら、党のなかでそれを考えるということです。党の方針でしか考えられないという縛りがかかってくるという点です。中央集権制ということだけれどもね。そうではなくて、一人ひとりがもっと考えなければならないのに、そういう自由がない。党の枠のなかで、部落問題をどのように解決するのかという非常に厳しい局面にさらされてしまうわけです。そうした時に、もちろんバラバラであっては良くないのだが、ある程度一人ひとりが物事を考えられて、多くの人が議論するなかで、それを中央に持っていくという、全く反対のプロセスがないと、社会運動と社会主義運動は繋がっていかない。連合赤軍でもそうだけれども、党中央に全てを従わせる。それはとんでもないことである。
 ところが部落解放運動などは、日常生活の激しい生活不安とかの相談を受ける中で組織を作っていくという、こういう現場の人間と指導する人間との乖離の問題。現場の人間はいつもこれに悩まされるのであってね、俺なんかもそのうちの一人だけれども。結局、一人でもかまわないから何かするという姿勢こそが、部落解放同盟から離れても、共産党から離れても自分で運動を作りあげていくということが必要だと思います。そして日本人民に奉仕するというそういう基本的な原則が必要なのであって、解放同盟の中央がどうしたとかではなくて、一人ひとりが自律した活動家でなければだめですね。自律していないんだよね。特に共産党に籍がある部落解放運動の活動家のことを考えると思想を全て党に依存している。これが多くの間違いを生んでいる。おのれの頭で考えていない。

山本:山内さんの実践されてきたことを見ると、前回の話にも出てきた、同盟でなくても解放運動はできる。あるいは共産党でなくても共産主義運動ができるという確信があって、それを貫かれている。共産党から除名されても、解放同盟を退いても運動を続けているそういう個人の姿やその個人によって生み出されてきた共同性がある。だからというわけではないですけれど、朝田理論の歴史的経過を見た時に、ざっくり言うと、共産党が生み出したと。1960年代の前半の共産党が解放同盟に与えようとした影響に対して、運動路線としてどうもまずいのではないかというところから朝田理論が鍛え上げられていって、糾弾闘争、行政闘争という部分、しかも部落にきっちり足を置いてというスタンスにつながる。
 それがある程度の「真理」を捉えていたからこそ、解放同盟がある程度の力を持ち得た。一方で共産党は十分な理論なり実践運動を展開できなかったということがあるなかで「同和対策事業特別措置法」(1969年)の評価を迫られた。だからある意味で双子ではないのですけれど、共産党の運動路線のなかの反対物として朝田理論が出てきたと考えることができるでしょう。
 先ほど言った「解消論」や「アナボル論争」の問題でもそうだと思うのですが、そういう共産党の組織のあり様自体が、大衆運動に進むべき道を求めつつも、そこから行き過ぎてしまうという大衆運動の統制をせざるを得ないという事態を出来する。その意味で、適切に大衆運動に接することができなかったということ共産党の運動が、部落解放運動のなかにも典型的に現われているのだろうと思います。一方で、それを乗り越えていくような可能性が九条や崇仁の実践のなかにあるということを改めてどう評価する必要があるのか。
 朝田善之助の話は結構出てきたのですが、一方で北原泰作も重要な人物だと思います。彼は共産党系の融合論を初めて言った人の一人として評価される向きもありますが、山内さんから北原という活動家はどのように見えているのでしょうか?

山内:北原の著作である『賎民の後裔』を読んでいると、常に新しいことを考えて行動しようとする人であり、朝田善之助の理論に対抗するという考え方があると思う。それは非常に共産党的だし、ちがう潮流を作ろうとしたんだけどそれを実現できないままに退いていく。しかも共産党の中枢のなかでも不十分な理解しかされていない。彼もまた党から見れば一大衆に過ぎない。彼もちゃんと生き残って考えるべきだし、朝田善之助が『差別と闘いつづけて』のなかで書いていますが、北原泰作は演説は上手かった。しかし、オルグが下手で、実際、実践の面では大したことなかったと。その体質が全解連に結びつくのかなという感じがするね。やっぱり共産党的だし、北原泰作こそが分裂の潮流を作った一人ですね。
 理論的な出来としては大きいんだけれど、ただ分裂の問題に関して言うと、やはり分裂しては駄目だったと思います。当時東九条青年会に卓越した人がおってね、盛んにそういう話をしていたね。どっちにもつく必要はないと。自分たちのことは、自分たちで考えなければならないと。それは真実やね。先ほども話したけれど、部落解放運動の分裂がどういう結果を招いたのかと。あらゆる社会運動に影をもたらした。そういう意味では連合赤軍や新左翼が退潮したような分岐点であり、もしこれが分裂していなかったら、世の中がもっと変わったのかもしれない。

山本:そうですね。当時の革新自治体の分裂も、解放同盟と全解連・共産党の分裂が一番大きな原因となっているという事実があります。それがなければ、確かにあの時代に大きく高揚していた左翼の全般的な運動が今とはちがった結果をもたらしていたかもしれないと思います。ただその分裂の中で70・80年代と経験し、崇仁――この地域は非常に特殊で、部落解放運動の先進地域であるという「神話」が非常に強くあって、一方で自治会の勢力も強かったりして、崇仁教育の伝統、京都駅に近い、利権の対象になりやすいなどの色々な要素があり、様々な力がうごめいていた――という地域のなかで、そういう過去の運動に規定されながらも乗り越えていく運動を一つは文化保存の運動として、もう一つは崇仁まちづくり推進委員会というかたちで共同のテーブルに自治会・全解連・解放同盟もつく。そして、新しい主体を作り上げていくことが実践的に可能であった非常に稀な地域でもあります。
 この経験は現在においても、京都市においても十分に共有されておらず、評価されきれていないものだと思います。山内さんは、これまでの運動に規定されながらもそれを乗り越えていくことのダイナミズムを感じることのできる現場にいらしたと思うのですが、その様相をこれまでの話と絡めてお話しいただけますか。

山内:東九条から崇仁をずっと眺めていたのですが、どこに欠点があるかというと、分裂の余波があって、しかも自治会が強いからね。だから同和事業を推進しようとすれば、行政は自治会に相談するという状況です。それでバブル絶頂期に旧来の京都市の改良事業・同和事業の進め方が通用しなくなってきた。それは朝田理論の中で大きな欠点なんだけれども、部落を全て同一視するわけですね。部落といえば機械的に全てバラックで、貧しいという物の見方ね。でも実際はそうではない。それは中央から物事を考えているから間違いをおかすのですね。おのれの頭で考えないから画一的な捉え方になる。日本人民に奉仕する=崇仁の住民に奉仕するということがないと解放運動というのは駄目なんですよ。そういう観点に立って言うと、事業が進まないのは住民にとって大きな迷惑だから、それを進めるためには別々の意見があってはならない。
 大きな分裂を生んだ地区であり、皆が闘争しあって疲れていた。そういう状況の時に地上げ屋が「崇仁協議会」というスタイルをとって入ってきた。その時に東九条にも40番地にも彼らは入ってきた。その「崇仁協議会」が持ってきたのは地区指定の撤廃、民間活力の導入。それが脅威だったんですね。旧来の運動の考え方はこれに対して負けたわけだね。行政にすべてを任すという。そうではなくて、そこに住んでいる住民が主体的にならなければならない。そのためには窓口は一つにしなければならない。
 解放同盟の窓口を持っている書記長である山内、全解連の書記長の野々口氏、自治会の奥田会長これが集まった時に、柳原銀行を始め、すべてのことが見えてきて、ならば団結しようという非常に単純明快な話です。運動へ寄与するのではなくて、運動が住民に寄与するという当たり前の話です。それは今だに当時作ってきた体制は磐石だし、実践してきたし、最近では行き詰っているところもあるけどね。

山本:つまり住民性に徹底的にこだわったということでしょうかね。そう考えると、東九条の運動の流れを考えたとき、様々な運動団体が入ってきますよね。例えばセツルメントの運動、共産党、カトリック・キリスト教者の運動でもそうなんですけれど、そのなかで東九条青年会が4ヵ町や40番地で強調してきたのは、住民性であると思います。共産党と大衆運動の関係性に加え、東九条で言えば、部落と在日の非常に難しい関係が折り重なっています。
 それを乗り越えるのも、そこで育ってきたということや、同じ住民であるということを通じてだと思います。同時に、在日であること、部落であることをきっちりと問いながら、住民性にこだわるということが一つの突破口となっていった。それは崇仁でも、イデオロギー的な違いを乗り越えて、主体構築し得たという部分があったのではないでしょうか。

山内:そうやね。それは今でも追求していることであって、その過程で色々な運動をするということなんで、何も慌てることはないし、これから腰をじっくり据えてやればいいことです。俺はまだまだ若いし、運動は逃げない。

■京都市におけるポスト同和行政という文脈
山本:現在の崇仁地区という話が出ましたので、ここでテーマを変えてみたいと思います。前回、前々回と市長選挙に関連してお話しをしていただきましたが、結果的に教育長であった門川大作氏が市長として当選しました。公約で掲げた同和行政を見直す委員会が早速設置されて先日も第一回の会議がありました。正式には「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」ということなんですけれど、このなかでも六つの課題を挙げています。その一つの中に崇仁地区における環境改善についてというテーマが大きく位置づけられています[2]。この総点検委員会が公開性を保つ意味で(非常に少なかったのですが)傍聴席を設けたり、会議の後に議事録をホームページで公開したりなど、意気込みは一応伝わってくるものとなっています。また、各解放団体であったり、そういう取組みをしてきた人たちからも話を聞こうというかたちになってきています。
 崇仁に関しては「一部環境整備の事業が遅れている」ということが指摘されており、具体的には高齢化の問題が挙げられており、また、改良住宅の一般公募をどうするのかや持ち家など住宅ニーズの多様などにも触れられています。もっともな指摘もあります。この点検委員会、崇仁地区の問題に対する指摘を山内さんとしてはどのように評価していますか?

山内:門川市長は、教育行政の中で非常に苦労をされてきたし、同和事業がどのように推移してきたかということをよく知っている人物です。どう対処しなければならないかということも熟知している。そのような中から、今回の点検委員会は出てきました。一つ評価するべきことは、公開性を取っていることです。ここまで徹底して公開されるとなると、市民に伝わっていくだろうし、そのことは評価できる。ただ、委員については、今までの同和事業がどのように推移してきて、どのように変えなければならないということに関して、どなたが良くご存知なのかなという点が疑問です。
 ただ、リムボンという人は、同盟に近い、全解連に近いということではなくて、各部落のことを良く知っている。この人がおるということは心強いですね。しかも彼は、同和事業というものは行き詰っているから、新しく変わっていかなければならないというスタンスの人です。それは単純な事業打ち切りではなく、部落解放運動なり、部落が培ってきたことを活かすかたちで市民へと還元していかなければならないという新しい方向性を出しています。そういう意味では安心しています。

山本:11人の委員がいらっしゃって、大学教員、労働運動家、弁護士、ジャーナリスト、行政という構成で、同志社大学の新川達郎(にいかわたつろう)氏が委員長です。コミュニティセンターに行ったことがない、具体的な部落の状況が分からない人たちがたくさんいるなかで、10年以上かけてご自身の研究としても、実践としても関わってこられたリムさんがおられるということは、期待できる部分があるという感じでしょうか。

山内:見直すことがあるとしたら、それは遠慮なくすべきですね。運動体の意見に左右されるのではなく、自分たちの主体性を発揮してズバズバとやるべきです。この段階にきて、解放同盟京都市協の諸君に一つだけ提案したいことがあります。一年かかってこの点検委員会で議論されていくわけだし、公開されるわけだから、それよりももっと早く改革路線を進める。一歩二歩も先に行った内容を運動体そのものが示す。行政に頼るとか、行政闘争をするとかではなくて、各地区の解放同盟がやらなければならないことがたくさんあるし、京都市民からも歓迎されるような運動を展開する。そういう方針を示して欲しいですね。
 例えば、1980年代の後半から90年代の初めにかけて全解連が神戸とか大津で「解放宣言」を出すということをしていますよね。解放宣言された地区を見に行ったし、議論している場所にお邪魔して聞いたりしたけれども、短期間で一定のことをやってしまう。それが出来た地区は、自ら解放宣言を出す。その地区には解放宣言がなされたという石碑が残っているんですね。全く差別が無いと言えばそうではないもしれない。
 けれども、われわれが言うような差別はそういう所ではないんだろう。これをモデルケースにして考えてみる必要があると思います。これだけ多くの金と人が投じられて、見事に解放宣言するに相応しくなった地区があるわけです。例えば、久世の部落ですね。あんなん誰が行ったっていい町になっていると感じるし、そういう町を作ってきたのだと。そうすれば周囲の人が認めてくれるよね。それはもう差別の対象にならないし、解放宣言を出していくということをしなければならないと思います。だから解放同盟京都市協がその考えを全面に出して一つ一つの地区を解放していく具体的な取り組みをする。何も永久に事業を求めているわけではないという証左として、解放宣言を出すべきなのではないかという問題提起をしたいです。
 だから、このHPを読んだ諸君は、雑誌『部落』の中でそれがどのように展開されてきたのかということを確認して、勉強して、自分の地区に当てはめて欲しいなと思います。

山本:先ほど言ったような、イデオロギーや運動団体の違いを越えて、全解連、解放同盟それぞれにいい面、悪い面があると。口を開けば、誰しもが同和行政にも解放運動にもいい面、悪い面があったと言うのですが、具体的にどういうものが良くて、実現可能だったのかということをきっちり調査し点検していくかたちで、総点検委員会よりも先に提案し実践していくことが運動団体としてはあり得べき姿なのではないかということですね。
 この総点検委員会は1年間かけてやるということですが、かなり早いペースで展開していくようです。半年くらいで中間総括が出て、1年間かけて行政とともに方針を出していくということです。月に1回のペースで開催される予定だったのですが、課題が多いということで、隔週で進むことにもなりました。委員の方々が今後勉強して、リムさんもおられることですし、それなりに厚みのある方針が出てくる可能性が無きにしもあらずなんで、それに対して打って出る必要があるという山内さんなりのメッセージかなと受け取りました。

山内:そのことを貫くための思想を敢えて言うならば、自分たちの力で徹底してやる。しかも具体的な町内の人びとを説得できるように解放宣言を出していく。事業が終結したと。そのためにどういう課題が残っているのかということを議論すべきであって、そうでなければ通用しないと思います。

山本:具体的には、今後そういうことを議論していく場を作ったり、実践していく機会を設けていく必要があるかと思います。山内さんはこれまで色々な活動に携わってこられており、そういう話しあいの場を崇仁、東九条から京都全体を含めて作られてきました。このような同和行政や部落解放運動のあり方を考える際にどういう場があれば有効であるのか考えるご提案していただくことでこのインタビューを締めたいと思います。

山内:部落解放同盟でなくても、部落解放運動はできるわけで、別に共産党でなくても共産主義の持っている良いところ――平等であり、社会正義であり真の部落解放――を実践できる。そういう意味では、部落差別だけでなく色々な差別の問題が考えられるわけで、特に若い人たちに声をかけていこうと思います。「解放塾」という名前で、そこには解放同盟の人たちに呼びかければ多分参加してくれるだろうし、全解連の人たちも参加してくれると思いますし、在日の人、障害者の人たちも参加してくれるだろうと思います。同じような考え方を持つ人たちに一度集まっていただいて、学習をしながら、実践の場を持ち、「解放塾」という名前で色々これから立ち上げていこうと準備中です。
 東九条CANフォーラムも実践のうちの一つだから、そのようにしてこれからの運動をやっていこうと思います。最後に自分がこういう考え方になった経緯について話したいと思います。それは岡山の「長島愛生園」というハンセン病の療養所におる人から深い影響を受けました。その人は85歳で、身体が凄く不自由にも関わらず、世界中を飛びまわっている。その人に君はまだまだ若いんだからこれから頑張ってくれよと。なるほど、俺はまだ若いんだと。これからまだまだする事が一杯あるんだというようなことで、これからもやり続けるし、日本人民に奉仕するという姿勢を持っている限り通用するのだろうと思っています。

山本:それは凄く面白い取組みになっていきそうですね。それでは今回のインタビューはこのあたりで終わりたいと思います。現在、東九条、崇仁、京都全体で目まぐるしく状況が変化していくと思いますので、今後も折に触れてインタビューを続けていきたいと思います。その時にはどうぞよろしくお願いします。

山内:やらしてもらいます。

山本:本日はどうもありがとうございました。

  1. 2013/05/25(土) 21:04:59|
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従軍慰安婦問題と橋下発言

古本屋通信  No 229 5月25日

  従軍慰安婦問題と橋下発言


  最近の記事から、表題に関する数本の記事をまとめて、ここに掲載する。本格的に改稿するにはまだ早く、現段階ではそのままで再録した方がよいと考えた。但し、引用の他人の長文は省いたものもある。配列は古い順とした。


 No 214   従軍慰安婦と売春  

  「維新の会」の橋下が何か言ったらしい。新聞を読まないので、全く知らなかった。つれあいが色めきたって教えてくれた。まるで鬼の首をたったように。私は関心がない。たったひとこと、「いいから、ほっといたら」。
 それで夫婦の会話はおわり。
 過去の古本屋通信の一部を再録する。たぶんこの再録、現在進行中の議論と噛み合わないだろう。でも、それでいいんだ。

 通信 No25より
 
 ・・・・いま再度かまびすしい従軍慰安婦問題を思い出した。日本の右翼がえらい剣幕らしい。これって戦時の治安維持法下で宮本顕治が人殺しをしたという論法と基本的に同じではないか。こじつけ。いったい日本が1910年に韓国併合したのは侵略だったのか侵略ではなかったのか。この一点を曖昧にして論は一歩も前に進まない。だが、かれらはまさにこの一点を否定するために全力を振りしぼってあがく(足掻く)。
 中国大陸における南京大虐殺、朝鮮半島における従軍慰安婦。日本帝国主義の海外侵略のさい、一部の買弁資本家が日本の「進出」を歓迎したからといって、侵略ではないとはいえない。買弁資本家に動員された民衆が沿道で歓迎の旗を振ったからといって、侵略ではないとはいえない。
 従軍慰安婦を集めるのに強制の事実があったか否かは、本質の問題をはずれている。というより意識的にはずしている。個々のケースでは強制もあっただろうし、任意もあっただろう。そんなことは「内地」の「女郎」集めと大差あろうはずがない。「強制」の証拠? 状況証拠は腐るほどある。証言が。貧しさゆえに、あるいは貧しくなくても売春に応じた女が日本統治下の朝鮮半島にいたという事実。この事実はだれも否定できまい。まさに従軍慰安婦は歴史的事実として存在した。このことをを否定する日本の右翼と保守の本当の狙いは、この問題をえさにして日本のかつての侵略を合理化し、こんにち軍国主義の日本を復活することである。

 侵略は被侵略国の財産・文化・習慣あらゆる価値あるものを奪う。奪うことによって本来あるかたちを破壊する。人間の尊厳と男女間の性愛の自由を破壊する。それは被侵略国のそれを壊すだけでなく、自国の男女間の性愛のあるべきかたちを歪 ( いびつ ) にする。

 いま朝鮮半島からあれこれ言われているという事実。これが従軍慰安婦問題のすべてだ。坐して跪いたくらいでは屁にもならない。このさい「天皇制を廃止します」くらい言うのが筋だと思う。相手に「天皇の謝罪」を求められて、このていらくは話にならない。「戦前の絶対主義天皇制と今日の象徴天皇制は違う。今日の天皇に謝罪を求めるのは筋が違う」などという論理が通用すると思っているのか。戦後革命を流産させ、戦後天皇制を廃止できなかった「恥の告白」がまさかこのような時、このような言葉で、日本共産党委員長の口からでるとは夢にも思わなかった。

 ここで、いま起こっている議論の文脈からは少しズレるけれど、以前から思っていたことがあるので、ここに書き加えておきたい。戦時下の性にかかわる問題をむやみにとりあげないほうがよい。二十年以上まえ千田夏光がこの問題で本を書いたとき、私は感心しなかった。従軍慰安婦?今更なにをというのが率直な気持だった。もっとはっきり言うと、千田さん、せこい売文商売しなさんなよ、これ以上やっても泥沼に入るだけだ、そうおもった。そのときの気持はいまも変わらない。私は日本の左派は、従軍慰安婦問題はスルーしたほうが賢明だと思っているのだ。歴史の基本認識なく従軍慰安婦問題を語るなかれということだ。日朝問題について、ひとつだけ参考文献をあげておく。「日本の韓国併合」 (山辺健太郎 太平出版社 1970年)

 今回、古本屋通信が書き足した文

 「とんでもないこと」を書いておこう。橋下の今回の沖縄に関する発言は、そのむかし、売春防止法が国会に上程されたとき、一時的にだが日本共産党が法案に反対したのと似ている? どう似ているか、面倒だから、書かない。然し、ちょっとだけ。あとあと、「あのとき共産党は売春防止法に反対した」と、まるで党が女を喰いものにする政党のようにいわれた。面倒だからすぐに軌道修正したが、要するにどっちでもよいことだったんだ。今回も似たようなものだ。違いは、橋下が騒いでほしがっていることだけ。

 いま、沖縄であろうと、アメリカであろうと、日本のどこであろうと、性の商品化は溢れかえっている。橋下は橋下なりに計算してしゃべっている。しかしこの男、空論がすきだ。というより「良識」を敵に回し、これを挑発して問題を提出したつもりになっている。一貫した政治手法だ。騒ぎが大きくなればなるほどうれしい。特に、女の団体の抗議など大歓迎だろう。相手にするな。

 女性の人権や、「政治家」のあるべき倫理の観点で批判しても屁にもならない。やるんなら、『家族、私有財産および国家の起源』から『資本論』に拠って、本格的に論じないとだめだ。「良家の子女」なら納得できるが、いま現在アウトロウの世界で生きている女にとってなんの役にも立たない議論。これほど傲慢で日本の下層民衆に無益な議論はなかろう。その意味で市川房枝は「女の味方」ではなかった。橋下がこの国の底辺から這い上がってきた男だということは、しっかりと押えておかねばならない。だからかれは傍若無人に振る舞い、一定の支持を得てきたのだ。

 赤旗を読んだあとで 

 上記の記事を書いた数時間後に、今日の赤旗日刊紙を読んだ。まあ、予想通りの記事だ。選挙前でもあるし、大いにやったらよかろう。私は日本共産党支持だ。しかし上記の私の見解はいささかも揺るがない。或る意味、橋下が言ったことは、それから石原が言ったことは「常識」なのだ。落ち目の維新には、これを機に消滅してほしいが、日本に圧倒的な性の商品化=人間の商品化が罷り通っている以上、議論は選挙直前らしい、きれいごとの議論に終わることは間違いなかろう。

 性の商品化は、世界のすべての国が戦争と貧困から解放される日まで続くだろう。「社会主義」ソ連にも、解放後のベトナムにも売春はあった。日本が民主主義革命を達成したのちにも、貧富の格差は相当長期に残るだろう。その間、性の商品化は残る。それを無理やり禁じることがどうか。ことはそう簡単ではない。戦後まもなく売春防止法が制定されて60有余年。この面で日本はよくなったか。ある意味、日本共産党が売防法に反対したのは、先見の明があった。現在の取り締まり対称は、突出した管理売春のみで、あとは売春天国だろう。

 基地があって売春がないということはあり得ない。それは、あってよいということではないし、勿論あった方がよいということではない。ただ、事実として、売春は必ずあるし、ないということはあり得ないのだ。
 もういい。ラディカルな議論をする環境ではない。しばらく赤旗も書けばよい。私は尻馬にのることにやぶさかではない。しかし、せいぜいやりすぎんことだ。

 上記の全文にたいし、焦眉の問題とズレているという批判があろう。従軍慰安婦の問題を売春一般に拡げるなという批判だ。とんでもない。従軍慰安婦問題の核心は売春なのだ。しかし、こういう問題は議会の政争の具としてはならない。だから、取りあうなと書いた。

 たった今、テレビの国会中継を10分ばかり観た。共産党の井上が質問し、安倍が答えていた。模範質問と模範回答。まるでコピーだ。一種の儀礼(セレモニー)だろう。議場は白けきっていた。テレビと無縁な私は、安倍がここまで冴えんとは知らなかった。そのくせ慇懃無礼だ。「従軍慰安婦の方」だと。差別意識が滲み出ていた。井上は髪に寝クセがついて、毛がはねていた。櫛くらい通したらどうか。



  No 216   日韓併合

 古本屋通信のまえがき
 
 ここに貼る資料は私が通信 No25 の冒頭で書いた、20世紀における日本の朝鮮侵略のはじまり、日韓合併(韓国併合)に関するものである。合併に先立って2万人殺しているという。この資料には殺人や強姦についての、あれこれの記述はないが、殺すまえに強姦、殺したあとに略奪は侵略戦争の「常識」だろう。殺す側だって命がけだった。従軍慰安婦「制度」は侵略戦争の人殺しの過程で不可避的に成立した**淫売制度だった。その非人間性をいうとき、元従軍慰安婦「の方」(安倍)の証言をいくら集めても、それだけでは不十分だ。慰安婦と交わった兵士の証言を集めてもだめだ。2万人をいつ誰がどのように殺したのか、殺すまえに強姦したのかしなかったのか。これが侵略の「本線=本命」だ。淫売制度は付随して不可避的に生じた「支線」に過ぎない。私が従軍慰安婦問題それ自体を、侵略戦争の残虐性から切り離して採りあげるのにためらいを感じるのは、それが侵略=大量殺人の本当の怖ろしさを隠蔽する場合さえあると思うからだ。日本の右翼は、この淫売が合意にもとづくとさかんに言う。騙そうが金で釣って「合意」させようが、そんなことは枝葉末節、どっちでもいいのだ。従軍慰安婦が侵略戦争の犠牲者であるのはその通りだ。しかし慰安婦は少なくともその場で殺されてはいない。侵略軍兵士は女を抱いたあと、人殺しに出掛けて行った。かれらのうち、正義の抵抗によって返り血を浴びて死んだ者がいた。これを称えて祀ったのが靖国神社である。日本軍の戦死者は日本近代史における絶対主義天皇制の犠牲者だったが、侵略戦争の局面においては加害者に他ならなかった。従軍慰安婦問題で遺憾の意を表明することと、靖国神社を参拝することは両立しない。参考資料はネット上のブロブからだ。検索すればたちどころにヒットするだろう。末尾の関連記事すべても、同じHP からのリンクで読める。

**淫売…色々な言葉があるが、私は売春よりもこの言葉がすきだ。性の売買をあらわす言葉は「即物的」であった方がよい。女の春を売るのではなかろう。葉山嘉樹の小説名を連想するのだが、一応辞書を引いてみた。それを末尾に付した。

  引用文(資料)は省略


国語辞書の検索結果 - 大辞泉(JapanKnowledge)
いん‐ばい【淫売】女が金品を得て男に性行為を許すこと。また、それを職業とする女。売淫。売春。
いんばい‐ふ【淫売婦】淫売を職業とする女。売春婦。
いんばい‐や【淫売屋】淫売婦を抱えていて、それに客をとらせるのを職業とする家。淫売宿。
和英辞書の検索結果 - プログレッシブ和英中辞典(JapanKnowledge)
いんばい【淫売】 〔売春〕prostitution; 〔売春婦〕a prostitute, a whore◇淫売をする|walk the streets, prostitute,((米口)) work as a hoo ...
百科事典の検索結果 - 日本大百科全書、ニッポニカ・プラス(小学館)
淫売 ⇒売春
Wikipediaの検索結果 - Feペディア(デジアナコミュニケーションズ)
淫売 ⇒遊女
淫売婦 ⇒遊女
パートナーサイト「JapanKnowledge」の検索結果
いん‐ばい【淫売】-日本国語大辞典〔名〕女性が金銭などの代償を得て、ひそかに肉体を相手に提供すること。また、その女性や、そうした性情をいう。売淫。売春。*当世書生気質〔1885〜86〕〈坪内逍遙〉七「淫売といふ陋習のみは、尚禁じがたき ...
いんばい‐くつ【淫売窟】-日本国語大辞典 〔名〕淫売婦の多くたむろする所。淫売屋の集まっている場所。私娼窟(ししょうくつ)。*女工哀史〔1925〕〈細井和喜蔵〉三・一〇「金一円で肉を売る亀戸の淫売窟へ落ち込んだ悲惨な物語中の発端を対話にしたも ...
いんばい‐ふ【淫売婦】-日本国語大辞典 〔名〕体を売る女。淫売を業とする女。醜業婦。*一年有半〔1901〕〈中江兆民〉附録・貴公子と雲助「宛も是れ令嬢と淫売婦と也、羊と狼と也、貴介公子と雲助と也」*夢の女〔1903〕〈永井荷風〉一五「芸者や



  No 218  エンタテインメントとしての橋下徹

  政治の右傾を批判する場合、俗に媚ないことだ。俗に媚ない地平を獲得してモノを言うことだ。でないと、自分の発したことばが凍っていく。これは橋下徹批判者すべてについて言える。

  橋下徹が許せるだとか、許せんだとか、どうしようもない議論も山をこえた。ブル新発の娯楽「番組」のさいたるものだった。女だの、売春だのが絡んでくるから、観客の劣情を刺激する。大して問題にもならないような「海外の反応」まで、拡声器を使って報道する。まさに、この国にふさわしい最低の見世物だった。

 私が書いた「力作」を凌ぐ言論がひとつでもあったか。ありはしなかった。それは、まともな判断力を備えた個人が今回の問題をシカト (無視) したからだ。

 岡山県内議員のブログをザッと見た。田儀公夫の「はるかぜ日記」以外は触れていない。田儀の文には七誌の、どうしようもないコメントが付いている。そうじて岡山の議員はまともだ。忙しいから、暇人の古本屋通信のような「力作」を書く時間はないのだろう。

 橋下発言それ自体をとってみても、そんなにおかしいことを言っている訳ではない。侵略戦争を侵略戦争として認めていなければ、戦地限定ではああいう発言になる。「明日の命がわからない、神経が高ぶって気が狂う、女でも抱かないと、このまま死ねるか」だ。この限りで、どうということはない。女が兵隊の慰みものになることがどうかという論とは次元が別だ。従軍慰安婦制度を肯定した発言とは言えない。過去に存在した実在を前提にモノをいうことは、実在の正当性を言うことと同一ではない。

 これが駄目なら、別仕立てでは何にも言えなくなる。これは言葉狩りに通じる。早くも自主規制の兆しありだ。この文脈のなかで、安倍の「従軍慰安婦の方」という答弁もあった。これは、裏返しにした差別表現だろう。これを引き出したのは共産党の井上だ。さすが共産党だ。これは皮肉ではない。それに、この点を除いても、安倍の国会での答弁は日本語になっていなかった。
 
 橋下発言をみるポイントは、日本語の【時制】 (tense) だ。これは高校英文法の仮定法 (**叙想法 ともいう) のところを復習すると解り易い。おもに仮定法過去形と仮定法過去完了形のところだ。ここでいう仮定とは、立ち位置を仮想してみる位の意味だ。立ち位置を固定してしまうから、今回にような強引な橋下攻撃になる。

 
 今日の表題は「エンタテインメントとしての橋下徹」とした。これは「エンタテイナーとしての橋下徹」の間違いではない。

参考(英文法) **叙想法
多くの日本人に欠けているのが「法」(mood)概念である。
英語には叙実法(直説法、indicative mood)、命令法(imperative mood)、叙想法(仮定法、subjunctive mood)という3つの「法」がある[1]。「叙実法(直説法)」とはものごとを「事実として(as a fact)」述べるやり方、「命令法」とはまさに命令をするやり方、そして「叙想法(仮定法)」とはものごとを現実の事実としてではなく一つの「想念」すなわち話し手の心の中で考えられたこととして、あるいは仮想世界の状況として述べるやり方である。
このうちの叙実法と叙想法の区別が日本人についていない。叙想法とはif節のことだと思っているケースも少なくないようだ。
重要なことは、英語の世界では事実とを?事実として認識しているときと、現実の事実ではなく自分の心のなかにあるだと認識しているときとでは、言葉としての表現形式そのものが違うということである。ところが日本語の世界にはそうした区別がない。そのためこの英語的な世界観の理解が浅い部分でとどまりがちだ。 ところで実際の言語形式としては英語では動詞や助動詞の時制を過去へとずらすことで「現実離れ感」つまり想念を表現することができる。
じつは英語という言語は西欧言語としては本来あるはずの叙想法語尾変化をすでに失ってしまった言語である。そのために「時制ずらし」の方法を叙想法として利用しているのだ。
たとえば名探偵シャーロック・ホームズのセリフのなかに To fly would be a confession of guilt. というものがある。このwouldが叙想法である。これを「逃亡は罪の告白だろう」と訳すのはよろしくない。「逃げ出すようなら罪を認めたようなものだ」ぐらいがよい。この場合「逃亡する」という行為はまだ事実ではなく、ホームズの心にある想念にすぎないからだ。
[1] 学校文法ではindicative moodとsubjunctive moodは「直説法」「仮定法」と訳されているが、この翻訳語はよくない。「直説」は「直接」とまぎらわしく、「仮定」は「もしも~」とつなげてしまう。ここでは安藤貞雄の『現代英文法講義』(開拓社)にしたがって「叙実法」「叙想法」とする。 (成瀬由紀雄「新しい英語の学び方」より)


 No 223  主語の問題
  
石崎徹氏が従軍慰安婦問題について、鋭いことを書いている。全文は私のリンク集から読めるので、今回は転載しないが、私は一本とられて参っているのだ。正直に言うが、「従軍慰安婦は(当時としては)必要だった」の主語が、少なくともこのフレーズを書く瞬間には、きれいさっぱり私の頭から抜けていた。
マイッタというのが本音だった。その次に反論というか、言い訳で武装しようと試みた。しかし、ヘーゲルの存在の合理性と私の「従軍慰安婦は(当時としては)必要だった」には大きな溝がある。私の論は「従軍慰安婦は(当時としては)必要だった」に限っては無理があった。[通信 No 220  5月19日 赤旗主張]の全文を削除することにした。この一文は正規のブログからは消したが、自分の反省用に資料収納庫に残すので、御覧になりたい方は [古本屋通信 No 1] 末尾の倉庫にどうぞ。



  No 225  選挙は商売

 橋下は頭が少し変なやつ、これは初めから分っていた。それにしても、選挙が商売とはいえ、醜(みにく)いねえ。叩いている奴、み~んな、従軍慰安婦も、沖縄も、女の人権も、どっちでもよいのだ。どう言えば選挙に有利か、どうすれば選挙に勝てるか、それだけだ。見ていてごらん、選挙がおわると、従軍慰安婦はきれいサッパリ消えるから。これくらい女をコケにした与野党(主に野党)はなかろう。いまさら議会周辺のゴミを例に挙げるのもなんだ、インテリ崩れの、どうにも我慢ができない例をひとつだけ挙げておく。もっともらしい口ぶりの舌の根から胡散臭さが透けて見える。

 イガラシ・J
 橋下大阪市長の従軍慰安婦肯定発言と沖縄駐留米軍への「アドバイス」が大きな問題になっています。このような「妄言」は橋下市長の女性蔑視と人権無視の本質を示すもので、とうてい許されるものではありません。
 橋下さんのこの発言は、全世界に日本の男性はあたかも「セックス・アニマル」であるかのような誤解を与えるものです。また、日本の弁護士があたかも人権感覚を全く失っているかのような印象を振りまきました。
 日本の男性としても、この発言は許すことはできません。橋下さんが属している法曹界としても、無視するわけにはいかないでしょう。
 橋下さんには、これら一連の発言に対する謝罪と撤回、市長や日本維新の会の共同代表などの公職からの辞任を求めたいと思います。それにしても、石原前東京都知事による橋下発言の擁護、猪瀬東京都知事によるイスラム社会に対する侮辱、安倍首相や高市自民党政調会長による侵略戦争肯定など、なぜこれほどまでに、日本を国際的に孤立させるような「妄言」が繰り返されるのでしょうか。それほどに、政治家の質が低下し、過去の歴史に対する反省が失われてしまったということなのでしょう。
 安倍首相は、侵略戦争への反省を表明した村山談話を訂正しようと狙っていましたが、アメリカなどからの懸念もあり、これを全面的に受け継ぐ方向へと軌道修正しました。これを見た橋下さんは、「今がチャンス」とばかりに安倍さんが明け渡した極右の空間に飛び込んだのでしょう。
 それが従軍慰安婦肯定発言でした。それによって、参院選に向けて自民党との違いを際立たせ、安倍さんに失望した極右ナショナリストの支持をかき集めようとしたのではないでしょうか。
 ところが、飛び込んだ場所は底なし沼だったようです。発言の正当性を示そうとしてあがけばあがくほど、ますます泥にまみれて沈んでしまうというのが現在の姿です。
 この橋下発言によって、改憲をめぐる状況にも大きな転換点が訪れたように見えます。日本維新の会の「賞味期限」は切れ、腐り始めたからです。
 維新の会は都議選で惨敗し、参院選でも敗北するにちがいありません。自民党と合わせて参院の3分の2を突破する可能性は小さくなりました。
 自民党やみんなの党は、維新の会と距離を置き始めています。安倍さんにとって、維新の会は強力な援軍どころか、大きなお荷物になってしまったようです。
 魯迅は「水に落ちた犬を打て」と言っています。今がその時です。改憲勢力は「水に落ち」ました。こぞって、その「犬」を打つべき時がやってきたのです。
 

私こと古本屋通信は、イガラシなる男の尤もらしい言い分を逐一論難する「野蛮な情熱」を持たない。

ふつう、個人はこういう言い方(書き方)はしない。言葉が出来あいに過ぎる、そして軽い。人間の、腹から発した言葉ではない。かと言って、単なるアジテーションやプロパガンダでもない。衝こうと思えばいくらでも衝ける。しかし、まず直観による全体の把握だ。厭な予感がする。

私はこれまでこの男はたんなる阿呆だと思ってきた。しかしこれを読んで、国家権力のイヌ=そうく【走狗】ではないかと思うに到った。この男からして、最後の2行で他人を犬呼ばわりしているのだから、私がこの男をイヌとよんでも差別にはなるまい。そして、この男のイヌ人生は40年間続いてきたのではないか、ふとそう思った。

私にはイガラシの文が、青年時代から自己変革の闘いを持続してきた科学的社会主義者の文章とは、到底読めないのだ。直観だ。この男の師匠であるシオタやマツオは、こういう文は決して書かなかった。私は彼らを想い、戦時下でスパイとたたかった宮本顕治ら、そしてスパイの手引きでとらえられて虐殺された小林多喜二を想った。

私の直観の根拠を一寸だけ書いておく。この男は流れに半歩先んじている。「南の島」の時もそうだったが、今回もそうだ。上記の文は改憲反対勢力、政党でいえば日本共産党、その主張の半歩先を言(行)っている。それは色々に言えよう。リードしている、挑発している。媚びている。

はっきり言おう。日本共産党に迎合し、挑発し、あわよくばミスリードしようとしているのだ。後ろめたいから迎合し、ポイントを稼ぐため挑発的に半歩先んじる。しかし、前回は石原を「国賊だ」と書いて、墓穴を掘った。さて、今回は?

私はこの種のことに決して敏感な方ではない。党中央はとっくに気が付いているかも知れない。 しかし、規約違反でもないし困っている? 表面だけ赤い奴には気をつけろ、私はこれを*映画 『武器なき戦い』 のセリフから教えられた。山本薩夫や西口克己が生きていたら、どう思っただろうか。

「スパイ挑発者とのたたかい」は戦時下でなくてもあるし、違ったかたちで、なければならない。いまの共産党に「革命的警戒心」という言葉はあるのだろうか。私の妄想であれば幸いである。匿名だから書けた、それも承知している。 

映画『武器なき闘い』
戦前の労農党代議士・山本宣治(通称・ヤマセン)を描いた映画です。
ヤマセンは学者として同志社大学で教鞭をとり、当時としては斬新な性教育もし、産児調節の考え方も説いていました。それは当時の「産めよふやせよ」という国策に反するとされ、自由主義を唱える学者などへの弾圧の中で、ヤマセンも大学を去ることになりました。労働運動や農民運動、社会主義思想にも接していたヤマセンは代議士になりました。ヤマセンは帝国議会で、治安維持法に反対して一人論陣を張りましたが、右翼に刺殺されてしまいました。
日本が当時侵略戦争をすすめ、国内においては思想弾圧・言論弾圧をしていた様子、その中でのヤマセンのたたかいが見事に描かれた映画です。ヤマセンのたたかいは戦後制定された日本国憲法の人権規定に影響を与えたことは間違いありません。多くの人々に観てもらいたい映画です。
大東映画1960年作品
監督・山本薩夫
原作・西口克己 
脚本・依田義賢 
出演・下元勉、渡辺美佐子、東野英治郎、小沢昭一、宇野重吉ほか 


  No 227 単勝不動

(参議院選挙情勢を書いた文の末尾に)
上記の一文を書いたのち、「橋下辞めろ」なるスローガンが、大阪以外で有る事を知った。これは大阪市民が決めることだ。大阪市長は全体の代表ではない。「すべての公職を引け」と言うのも、言うほうが僭越だろう。「維新の共同代表を辞めろ」というのもピントはずれ、つまり何から何まで戯言だ。すべて橋下に手玉にとられている、そのことに気が付いていないか、または気が付かないフリをしているのか、完全に橋下の勝ちである。選挙で負けても橋下は勝っている。少し頭のおかしい男の三勝目だ。
  1. 2013/05/25(土) 03:21:32|
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八村伸一

古本屋通信 No 224  5月20日

  
八村伸一


同業の軽トラの荷台に、古紙回収業者が置いて帰った、ツブシ手前の十数冊の古本があった。昨日は同じような古書数冊の中に、傷んだ木村荘十 『雲南守備兵』 があったから、手抜きはできない。今日はだめのようだ。しかし一冊を手にとって見返しを広げた瞬間、私はハッとした。続いて、全ての本の裏表の見返しを見た。うち3冊に明晰な文字で、詩のような書き込みがあった。それぞれ最後に 「しんいち」 「しんぼう」と添えられている。間違いない。故八村伸一の旧蔵書だ。私は十数冊すべてを買った。
 
八村伸一は私にとって懐かしい人だ。しかし匿名で、個人的な思い出話を詳しく書くことはできない。ウィキペディアに載るような有名人ではない。県立 T 高校の英語教師だった。当時、神戸市外大に小西友七という教授がいた。ジーニアスの辞典で有名だが、その小西グループの筆頭格として精力的に動いたのが八村だった。単著も数冊ある。恐らく小西の推奨があったのだろう、彼は徳島文理大の教授として迎えられた。こういう場合ふつう助教授だが、彼は教授としてだった。しかし数年後に死亡する。過労死だと噂された。

私は彼との付き合いは、編集者と執筆者の関係として約十年あった。彼が高校教諭だった時代であり、大学に移ってからは途切れた。編集者と執筆者の関係などと言うとハイカラにきこえるが、内実は騙し合いの果てしないバトルなのだ。八村、いや八村先生は群を抜いて優秀な執筆者だった。

どれくらい優秀だったか。『ジーニアス和英辞典』 は実質的に八村が作ったのではないか。その労働は言語を絶するものがあった。この記事は八村伸一こと八ッつあんへのレクリエムである。これ以上あれこれ書かないで、若き日に書かれた詩?を掲載する。ただし、私にはその文学性・芸術性は分らない。



 『白い魔魚』 舟橋聖一著  昭和31年  新潮社  に記載。

(奥付けに1956年5月31日読了とある)
 白い魔魚
 悶々とした拠物線上の彼方で
 体をくねらせながらと吐息を繰り返す
 絶対の真理
 ぼくにはお前の前にひざまづく勇気がない。
              -しんいちー



 『白い魔魚(完結編)』  舟橋聖一著  昭和31年 新潮社  に記載。

 乙女の魚肌のような白い皮膚 
 それが私の眼を射るように照り輝く
 激流や渓流の底で
 時として
 もだえ苦しんでいるお前
 お前に何という名をつけたらいヽのか
              -しんいちー 


 『狂つた果実』 石原慎太郎著  昭和31年初版 新潮社
  に記載。

(奥付けに1956年8月25日読了、自宅にてとある)
 かすかに漂う青春の香り
 青春の息吹きの中に
 反抗という字を頭 こうべにはりつけて
 暗中模索する若人よ
 ぼくにはそんな勇気はないのだ
              -しんぼうー
  1. 2013/05/20(月) 20:32:11|
  2. 未分類

エンタテインメントとしての橋下徹

古本屋通信 No 218  5月18日

  エンタテインメントとしての橋下徹


  政治の右傾を批判する場合、俗に媚ないことだ。俗に媚ない地平を獲得してモノを言うことだ。でないと、自分の発したことばが凍っていく。これは橋下徹批判者すべてについて言える。

  橋下徹が許せるだとか、許せんだとか、どうしようもない議論も山をこえた。ブル新発の娯楽「番組」のさいたるものだった。女だの、売春だのが絡んでくるから、観客の劣情を刺激する。大して問題にもならないような「海外の反応」まで、拡声器を使って報道する。まさに、この国にふさわしい最低の見世物だった。

 私が書いた「力作」を凌ぐ言論がひとつでもあったか。ありはしなかった。それは、まともな判断力を備えた個人が今回の問題をシカト (無視) したからだ。

 岡山県内議員のブログをザッと見た。田儀公夫の「はるかぜ日記」以外は触れていない。田儀の文には七誌の、どうしようもないコメントが付いている。そうじて岡山の議員はまともだ。忙しいから、暇人の古本屋通信のような「力作」を書く時間はないのだろう。

 橋下発言それ自体をとってみても、そんなにおかしいことを言っている訳ではない。侵略戦争を侵略戦争として認めていなければ、戦地限定ではああいう発言になる。「明日の命がわからない、神経が高ぶって気が狂う、女でも抱かないと、このまま死ねるか」だ。この限りで、どうということはない。女が兵隊の慰みものになることがどうかという論とは次元が別だ。従軍慰安婦制度を肯定した発言とは言えない。過去に存在した実在を前提にモノをいうことは、実在の正当性を言うことと同一ではない。

 これが駄目なら、別仕立てでは何にも言えなくなる。これは言葉狩りに通じる。早くも自主規制の兆しありだ。この文脈のなかで、安倍の「従軍慰安婦の方」という答弁もあった。これは、裏返しにした差別表現だろう。これを引き出したのは共産党の井上だ。さすが共産党だ。これは皮肉ではない。それに、この点を除いても、安倍の国会での答弁は日本語になっていなかった。
 
 橋下発言をみるポイントは、日本語の【時制】 (tense) だ。これは高校英文法の仮定法 (**叙想法 ともいう) のところを復習すると解り易い。おもに仮定法過去形と仮定法過去完了形のところだ。ここでいう仮定とは、立ち位置を仮想してみる位の意味だ。立ち位置を固定してしまうから、今回にような強引な橋下攻撃になる。

 また、今回の問題は人間、とりわけ政治を仕事にしている人間を照らすのに役立った。

 今日の表題は「エンタテインメントとしての橋下徹」とした。これは「エンタテイナーとしての橋下徹」の間違いではない。



参考(英文法) **叙想法
多くの日本人に欠けているのが「法」(mood)概念である。
英語には叙実法(直説法、indicative mood)、命令法(imperative mood)、叙想法(仮定法、subjunctive mood)という3つの「法」がある[1]。「叙実法(直説法)」とはものごとを「事実として(as a fact)」述べるやり方、「命令法」とはまさに命令をするやり方、そして「叙想法(仮定法)」とはものごとを現実の事実としてではなく一つの「想念」すなわち話し手の心の中で考えられたこととして、あるいは仮想世界の状況として述べるやり方である。
このうちの叙実法と叙想法の区別が日本人についていない。叙想法とはif節のことだと思っているケースも少なくないようだ。
重要なことは、英語の世界では事実を?事実として認識しているときと、現実の事実ではなく自分の心のなかにあるだと認識しているときとでは、言葉としての表現形式そのものが違うということである。ところが日本語の世界にはそうした区別がない。そのためこの英語的な世界観の理解が浅い部分でとどまりがちだ。 ところで実際の言語形式としては英語では動詞や助動詞の時制を過去へとずらすことで「現実離れ感」つまり想念を表現することができる。
じつは英語という言語は西欧言語としては本来あるはずの叙想法語尾変化をすでに失ってしまった言語である。そのために「時制ずらし」の方法を叙想法として利用しているのだ。
たとえば名探偵シャーロック・ホームズのセリフのなかに To fly would be a confession of guilt. というものがある。このwouldが叙想法である。これを「逃亡は罪の告白だろう」と訳すのはよろしくない。「逃げ出すようなら罪を認めたようなものだ」ぐらいがよい。この場合「逃亡する」という行為はまだ事実ではなく、ホームズの心にある想念にすぎないからだ。
[1] 学校文法ではindicative moodとsubjunctive moodは「直説法」「仮定法」と訳されているが、この翻訳語はよくない。「直説」は「直接」とまぎらわしく、「仮定」は「もしも~」とつなげてしまう。ここでは安藤貞雄の『現代英文法講義』(開拓社)にしたがって「叙実法」「叙想法」とする。
(成瀬由紀雄「新しい英語の学び方」より)
  1. 2013/05/18(土) 21:04:12|
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学生自治会派閥現勢一覧

 古本屋通信 No 217  5月17日

 学生自治会派閥現勢一覧

 昭和43(1968)年1月現在 大学問題研究会

 日共系全学連


  委員長  田熊和貴(東経大)
  副委員長 岩村智文(東北大)
  同    池田雄平(東教大)
  同    三好利幸(阪教大)
  書記長  家野貞夫(京 大)
  書記次長 近藤紘一(一橋大)

  293自治会  372000名

  東大(理、工、教育、薬、文、経、農、教養)
  法大(教養、ニ文、二法、ニ社、ニ経)
  都立大(A、B、深沢) 東京理大(一部、二部)
  東京教育大(文、理、農、教育、体)
  お茶大、東経大、一橋大(前、後)
  学習院大(法、経、文、理) 
  北大(教養、文、教育、理、水産)
  東北大(文、法、経、理、医、農、教養、教育、工)
  京大(法、経、理、農、工、薬、教育、教養、看護)
  名大(教育、教養、文、経、医、工、法、理、農、看護) 
  他、多数。


 革マル系全学連

  委員長  成岡康治(元早大)
  副委員長 根本仁(元北学大)
  同    佐々木道知(愛大)
  書記長  木下宏(東大)
  書記次長 横川克弥(法大)

  23自治会  45800名
  
  国学院大(一部、二部)
  早大(商、文、ニ文)
  日本女子大、日本獣医大 
  愛大(豊橋、同二部)
  金沢大(文、工)
  福岡教大、熊商大(一部)
  鹿児島大(教養、文理、教育、水産)
  岐阜大(農、工)、熊本大(教育)
  宮崎大(工)、岡山大(法、経)古本屋通信
  秋田大(学芸)



 マル学同中核派

  委員長  秋山勝行(横国大)
  書記次長 山口紘一(法大)
  中執   青木忠(広大)
  同    吉羽恵(東工大)

  21自治会  58000名

  法政大(一文、一経、一法、一社)
  東工大、早大(理、工)、横国大(工、横浜)
  慶大(日吉)、山梨大(教育、工)、群馬大(医)
  広大(教養、東雲)、九州大(農)
  西南大、高崎経大、都留文大
  鳥取大(工、医連)、京都センイ大



 社学同(ブンド)派 (統一派)

 副委員長  成島忠夫(静岡大)
  同     蓮池裕治(同志社大)
  中執委   久保井拓三(中大)
  同     山下志(医学連)

  29自治会  92000名

  明大(昼、農、工)、東大(医)、中大(昼)、
  東海医大、東海大(湘南)、専修大(生田
  京大(文、医、工、教)、立命大(一理)
  和歌山大(経)、関東学院大、東医歯大(本校、教養)
  京都府大(本校、花園)
  同志社大(一部、法、文、商、工、神、二部、ニ法、ニ経、ニ文、ニ商)



 社学同(ブンド)派 (ML派)

       三戸部貴士(横国大)
         富山嘉克(東海大)

  7自治会  10300名

  東大(法)、東海大、東京水産大
   立正大(一部、二部)、横浜国大(経、教育)


 
 社青同解放派(反帝学評)

  副委員長  高橋孝吉(早大)
  中執委   渡木繁(同)
  同     北村行夫(同)


  9自治会  17600名

  早大(ニ法、に政、一政)、電通大(一部)
  武蔵美大(一部)、都立商短大、京都外大
  関西学院大(法)、宇大(教育)



 国際主義共産青年同盟(第4インター日本支部)

  元京大同学会副委員長  湯川順天(元京大)

  2自治会  6600名

  大阪経大(一部)、熊本大(法、文)


 構革派・共産主義労働者党系(民学同派)

 大阪府学連(反代々木系)委員長  西村正彦(阪大)

 14自治会  フロント派と併せて62500名 

 大阪大(教養、文、法、理、医、工)
 大阪市大(一部)、大阪工大(一部)、島根大(農)
 岡山大(医、教育、農、文、化
 大阪教育大(天王寺)、慶応大(全塾)
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 構革派・統一社会主義同盟 (統社同)系 (フロント派)
 兵庫県学連(反代々木系)委員長   糸魚川至郎(神戸大)


 16自治会  民学同派と併せて62500名

 新潟大(医、歯)、立命大(一文、一営)
 神戸大(文、法、経、営、工、医、教養)
 関西学院大(社、文、商)、富大(経)、慶応全塾


社青同派(日本社会党系)日本社会主義青年同盟学生班

 社青同学対部長  立山学

 5自治会  3100名 

 佐賀大(文、教育、農)、九州大(医)
 大分大(経) 




古本屋通信の最小限の註

資料の出所は、正確には分らない。何かの雑誌か、パンフレットだろう。入手経路も時期も憶えていないが、古本のゴミの中から出た。古本屋通信が、出た資料のエッセンスのみを抽出してここに貼りつけた。

公安調査庁の調査を下敷きにして作成したと思われる。当時、雑誌『全貌』(のちの『ゼンボウ』) がしばしば掲載していたのと同類の性格のものだろう。

信憑性はきわめて高い。当時の政治党派作成(発表)の資料がしばしば自派勢力を水増ししていたのに比べて「公平」である。調査の不十分や間違いは避けられないが、鋭意精確を期した跡がうかがえる。

当時、学生自治会の執行部は選挙によって目まぐるしく変わった。これが昭和43(1968)年1月時点のものであることを忘れてはならない。

当時の学生自治会は学部単位のものが過半だったが、例外も多かった。この資料は実態を反映している。一部 (昼間部) と同じ位、二部 (夜間部) の自治会が力をもっていたが、その点も資料に反映されている。

内容評価は読者がなすことだが、私がいま改めて思うことは、民青系の圧倒的強さである。加盟・支持自治会の名は、ほんの僅かしか書けないのだ。

それと、社会党系の絶望的なまでの弱さだ。社青同 ( 解放派を除く) は九州の5自治会を押さえていたに過ぎない。それも全て、向坂逸郎が三池闘争で残した向坂学校の足跡だ。社会党江田派系の学生自治会など、全国どこを探してもひとつもない。当時の大学生のなかでの社会党支持率は60%、共産党は ( 民青の半分は未青年) はわずか10%の支持率だった。ブルジョア選挙がいかに水モノだったか分る。

公安資料というのは、マル秘資でなくても一級品だ。日本の警察の調査能力は抜群だ。当時どこの大学にも、警察への情報提供者はいたと思う。
  1. 2013/05/17(金) 22:07:52|
  2. 未分類

日韓併合

古本屋通信 No 216  5月17日


  日韓併合


 古本屋通信のまえがき
 
 ここに貼る資料は私が通信 No25 の冒頭で書いた、20世紀における日本の朝鮮侵略のはじまり、日韓合併(韓国併合)に関するものである。合併に先立って2万人殺しているという。この資料には殺人や強姦についての、あれこれの記述はないが、殺すまえに強姦、殺したあとに略奪は侵略戦争の「常識」だろう。殺す側だって命がけだった。従軍慰安婦「制度」は侵略戦争の人殺しの過程で不可避的に成立した**淫売制度だった。その非人間性をいうとき、元従軍慰安婦「の方」(安倍)の証言をいくら集めても、それだけでは不十分だ。慰安婦と交わった兵士の証言を集めてもだめだ。2万人をいつ誰がどのように殺したのか、殺すまえに強姦したのかしなかったのか。これが侵略の「本線=本命」だ。淫売制度は付随して不可避的に生じた「支線」に過ぎない。私が従軍慰安婦問題それ自体を、侵略戦争の残虐性から切り離して採りあげるのにためらいを感じるのは、それが侵略=大量殺人の本当の怖ろしさを隠蔽する場合さえあると思うからだ。日本の右翼は、この淫売が合意にもとづくとさかんに言う。騙そうが金で釣って「合意」させようが、そんなことは枝葉末節、どっちでもいいのだ。従軍慰安婦が侵略戦争の犠牲者であるのはその通りだ。しかし慰安婦は少なくともその場で殺されてはいない。侵略軍兵士は女を抱いたあと、人殺しに出掛けて行った。かれらのうち、正義の抵抗によって返り血を浴びて死んだ者がいた。これを称えて祀ったのが靖国神社である。日本軍の戦死者は日本近代史における絶対主義天皇制の犠牲者だったが、侵略戦争の局面においては加害者に他ならなかった。従軍慰安婦問題で遺憾の意を表明することと、靖国神社を参拝することは両立しない。参考資料はネット上のブロブからだ。検索すればたちどころにヒットするだろう。末尾の関連記事すべても、同じHP からのリンクで読める。

*淫売…色々な言葉があるが、私は売春よりもこの言葉がすきだ。性の売買をあらわす言葉は「即物的」であった方がよい。女の春を売るのではなかろう。葉山嘉樹の小説名を連想するのだが、一応辞書を引いてみた。それを末尾に付した





2万人殺して成立した「日韓併合」
前文
「韓国側に頼まれた・韓国の皇帝や政府が認めた・韓国のため・国際社会が認めた」等々、日韓併合を正当化する様々な歴史認識が、世間に出回っています。
以下の情報を見れば、日本の都合で韓国を強引に植民地化したことは、否定できません。
韓国民の長期にわたる根強い抵抗運動を討伐し、約2万人を殺して一応鎮圧した後に日韓併合が行われたことこそが、それを象徴しています。

1.韓国から求められた?日韓併合
「日韓併合は、韓国最大の政治団体(一進会)に求められて行われたことであり、正当である。」という説があります。実態は、下記の年表情報から判断できます。
「日本史年表  増補版」 岩波新書  歴史学研究会編
【1909/12/4 韓国一進会、日韓合邦に関する上奏文を韓国皇帝に提出、却下される】
【1910/9/12 韓国統監府(ブログ注:韓国を支配する日本の官庁)、朝鮮の全政治結社解散の方針により一進会を解散。】

(コメント)
一進会による「日韓合邦」の上奏は韓国皇帝により却下され、また、一進会は日韓併合直後、日本によって他の政治団体とともに解散させられています
一進会に対する評価は様々ですが、日韓併合直後に一進会を解散させた日本が、「一進会の求めによって日韓併合を行った」などと言える筋合いは、ありません。
(注:一進会が求めた「日韓対等の合邦」と「日韓併合」は異なるものです。)

2.韓国皇帝による抵抗
当時韓国の主権者であった韓国皇帝は、日本による韓国支配への動きをどう見ていたのでしょうか、以下年表情報を参照願います。
「日本史年表  増補版」 岩波新書  歴史学研究会編
1904/2/10 宣戦布告(日露戦争)
1904/2/23 日韓議定書調印
1904/8/22 日韓協約(第1次)調印
1905/9/5 日露講和条約調印(韓国保護権、南樺太・遼東租借権、東支鉄道支線などを獲得)
1905/11/17 第2次日韓協約調印(外交権を日本が掌握)、朝鮮全土に反日暴動おこる
1907/6/15 第2回ハーグ国際平和会議開催(~ 10-18)・韓国皇帝高宗、同会議に密使を送り、日韓協約の無効を訴える。
1907/7/3 伊藤韓国統監、ハーグ平和会議への密使派遣で韓国皇帝の責任追及。
1907/7/19 皇帝譲位
1907/7/24 第3次日韓協約調印(韓国の内政全般を掌握)
1909/12/4 韓国一進会、日韓合邦に関する上奏文を韓国皇帝に提出、却下される
1910/8/22 韓国併合に関する日韓条約調印(-29 公布施行)

(コメント)
韓国皇帝が、ハーグ国際平和会議に密使を送り、(日韓併合に先立って締結されていた)日韓協約の無効を訴えたということは、日韓協約が(韓国皇帝によって公式に承認されたことになっていても)、納得ずくで締結されたものではないことを象徴しています。
それは、この後1910年に日韓併合のために締結された「韓国併合に関する条約」も納得ずくで締結されたものではないことを、示唆しています。

3.義兵闘争と日本軍による討伐作戦
1907年8月には、日本が韓国軍を解散させ、解散させられた韓国軍の一部を中心とする「義兵闘争」が始まります。
長期間にわたり根強い抵抗が行われ、また、その開始から日韓併合(1910年8月)前後までの3年間に及ぶ日本軍による討伐作戦には、極めて過酷なものがありました。
「日本史年表  増補版」 岩波新書  歴史学研究会編
【 1907/8/1 京城で韓国軍隊の解散式、一部韓国軍、日本軍と衝突、反乱全土に拡大(義兵運動)】
「世界史年表」 岩波新書  歴史学研究会編
 【 1909/9/1 日本軍が「南韓大討伐作戦」を開始する(10/31) 】
「日本国政事典」 東出版 日本国政事典刊行会編著
p.155
【 韓国兵暴発広報  (明治40・8・1   西紀1907・8・1)
(東京朝日新聞 明治40年8月3日による)
1日午後丸山警視発電
今日午前9時韓国軍に解散の命傳はるや侍衛第一大隊長は憤激して自殺したるより忽ち同隊の兵は銃を執りて日本軍隊に挑戦したるを以て我軍応戦の末突撃を加へ其兵営を占領せり
韓兵将校以下俘虜200死傷無数我軍戦死中隊長1名特務曹長1名外に死傷40名あり他の韓兵は総て解散し騒擾既に鎮定せり 】
「日韓併合史の研究」 岩波書店 海野福寿著
p.332~333
【・・・・表15(A)・(B)は、朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」 付表が示す1907年8月以降(ブログ注:~1910年12月)の統計である。両表を通じて ・・・・確認できることは、日本側の「戦死」者数に対する「暴徒」側の膨大な「殺戮」者数である。
全期間を通じて日本側「戦死」者は133人にすぎないのに対し、「暴徒」側「殺戮」者は1万7718人、133倍に上る。
これは正常な戦闘による犠牲とは考え難い。「討伐」隊の装備に対して、「暴徒」側の兵器が旧式小銃・猟銃にすぎなかった、ということだけでは説明できないだろう。
それよりも無抵抗の住民を含む義兵虐殺の結果と見るほうが自然である。
「捕虜」数が「殺戮」者数の約9分の1に相当する1933人にすぎないことも、義兵の投降の機会を奪っての虐殺ではなかったか。
軍事訓練を受けた正規軍ではなく、一般住民主体の義兵部隊が、圧倒的に強力な日本軍の攻撃を受けた場合、投降して捕虜となることは十分に考えられることだからである。
「暴徒討伐誌」が義兵死亡者を戦闘死とせず「殺戮」と記したのも、大虐殺を暗示している。 】
(注:朝鮮駐箚軍とは、朝鮮駐留日本軍)
「韓国併合への道」 文春新書 呉善花著
p.184~185  転記略
「日清・日露戦争」 岩波新書 原田敬一著
p.229      転記略
「日本国政事典」 東出版 日本国政事典刊行会編著
p.169
【 朝鮮に於ける暴徒討伐  (明治41・6・29 西紀1908・6・29)
(東京日日新聞 明治41年7月8日による)
7日発京城電報
6月29日より本月3日迄に我が討伐隊と韓国暴徒との衝突24回に及び
暴徒側の戦死者120名捕虜51名あり
當初よりの降服者総計1990名に上たりと。 】

4.国際社会による承認とは?
日韓併合は、当時の欧米諸国から承認されました。「だから、正当だった」とする説があります。しかし、その実態は次のようなものです。
「(市販本)新しい歴史教科書」  扶桑社 西尾幹二ほか著 (2001年6月20日初版第2刷
p.239
【 ・・・・1907(明治40年)日露協約が成立した。これにより、ロシアの外モンゴル支配と北満州の勢力範囲、日本の韓国支配と南満州の勢力範囲とが、互いに承認された。
・・・・・フランスは、日仏協約(1907年)を日本と結び、インドシナの植民地支配の承認と引き換えに、日本の韓国支配を支持した。
同様に、アメリカのフィリピン支配と日本の韓国支配とを相互に確認する覚書が、1905年(明治38年に日米政府間で交された。
イギリスは、1905年の日英同盟の更新の折に、日本の韓国支配を承認し、かわりに、日本にインド防衛の同盟義務を負わせた。】
これらの国は、いずれもアジア等を植民地支配する国で、「自国の縄張りを守ることと引き換えに、相手の縄張りを認める」ということが「承認」の実態であり、植民地支配されている国にとって、「これで納得できる」はずがありません。

管理者コメント:
「ザ・ブッタ斬り」の管理人様の調査に感謝。日本の歴史修正主義者たちは「韓国は日本に抵抗することもなく自ら併合された」と言い張るが、その根拠とされる一進会の要求はあくまでも「日韓の対等な合邦」であって「日本による韓国の併合」ではなかったし、さらに韓国皇帝からも抗議があったことや、日本軍が韓国の抗日義兵闘争を武力弾圧して約1万8千人を殺害したことを考えればとても「韓国人が望んだ併合」とは言えない。
おまけに「国際社会による承認」も日本が欧米列強と相互にそれぞれの植民地領有を認め合うことによるものだったし、韓国併合を承認してもらうために欧米列強によるアジア植民地支配を承認した大日本帝国が後年に「アジア解放のために戦争をする」などと喧伝したところで、それが侵略戦争正当化のための都合のいい名目に過ぎないのは明らかだ。

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嫌韓厨が示す朝鮮の人口推移データを考察する
李氏朝鮮の清国に対する美女三千人の朝貢について
人口増加は善政の証という勘違い
四方氏の研究 (韓国・朝鮮の両班について)



国語辞書の検索結果 - 大辞泉(JapanKnowledge)
いん‐ばい【淫売】女が金品を得て男に性行為を許すこと。また、それを職業とする女。売淫。売春。
いんばい‐ふ【淫売婦】淫売を職業とする女。売春婦。
いんばい‐や【淫売屋】淫売婦を抱えていて、それに客をとらせるのを職業とする家。淫売宿。

和英辞書の検索結果 - プログレッシブ和英中辞典(JapanKnowledge)
いんばい【淫売】 〔売春〕prostitution; 〔売春婦〕a prostitute, a whore◇淫売をする|walk the streets, prostitute,((米口)) work as a hoo ...

百科事典の検索結果 - 日本大百科全書、ニッポニカ・プラス(小学館)
淫売 ⇒売春

Wikipediaの検索結果 - Feペディア(デジアナコミュニケーションズ)
淫売 ⇒遊女
淫売婦 ⇒遊女

パートナーサイト「JapanKnowledge」の検索結果
いん‐ばい【淫売】-日本国語大辞典〔名〕女性が金銭などの代償を得て、ひそかに肉体を相手に提供すること。また、その女性や、そうした性情をいう。売淫。売春。*当世書生気質〔1885〜86〕〈坪内逍遙〉七「淫売といふ陋習のみは、尚禁じがたき ...
いんばい‐くつ【淫売窟】-日本国語大辞典 〔名〕淫売婦の多くたむろする所。淫売屋の集まっている場所。私娼窟(ししょうくつ)。*女工哀史〔1925〕〈細井和喜蔵〉三・一〇「金一円で肉を売る亀戸の淫売窟へ落ち込んだ悲惨な物語中の発端を対話にしたも ...
いんばい‐ふ【淫売婦】-日本国語大辞典 〔名〕体を売る女。淫売を業とする女。醜業婦。*一年有半〔1901〕〈中江兆民〉附録・貴公子と雲助「宛も是れ令嬢と淫売婦と也、羊と狼と也、貴介公子と雲助と也」*夢の女〔1903〕〈永井荷風〉一五「芸者や ...span>
  1. 2013/05/17(金) 18:44:57|
  2. 未分類

転載・石崎徹 2

古本屋通信 No 215  5月15日

 

 転載・石崎徹 2

 
  石崎徹氏が久しぶりに、「政治」の記事を書いている。その全文を貼っておく。ご覧のとうり新聞記事評だが、内容的には氏の日本共産党論の続篇であり、私の引用も「No 174 転載・石崎徹 日本共産党について」に繋ぐべきものである。しかし間隔が空いているので、新しいエントリーを立てて、「転載・石崎徹 2」とした。私は自分が読んでいない文の、他人の書評(記事評)については、感想は述べない。ただ、これを読んで思い出したのは、「国家独占資本主義(国独資)」というマルクス経済学の用語だった。すっかり死語になっているなと思いつつ、石崎文を読ませてもらった。

 別件だが石崎氏といえば、このところブログの更新が鈍っていた。もしかして民主文学会の大会参加で東京に行っていたのかなとも思った。民主文学会の HP は今日現在まだ更新されていないが、今年は笹本敦史「ユニオン!」が新人賞受賞で、石崎氏も批評を書いている。私には作品はわからないが、石崎氏は大会に参加したのなら、その関係の記事は書かないのだろうか。それとも、そういことことは書かない方針にしているのだろうか。

 
 内田樹「壊れゆく日本という国」
  政治 - 2013年05月15日 (水)

 5月8日付の朝日新聞で内田樹が興味深い指摘をしている。現在は世界的な国民国家の解体期に入っているというのである。同様の指摘は同紙5月14日付で、中島岳志も行っている。
 どういうことかというと、いまや企業が国籍を失い、建設費、賃金、税金すべてにおいて安いところを探して、世界中をうろついている。もはや企業は国民に何の恩恵も与えない。にもかかわらず政府は企業を支援する。その政府を支えているのは国民である。重税、低福祉、低賃金、失業という犠牲を払って。
 このからくりを国民に悟らせないために、ナショナリズムを煽る。北朝鮮、韓国、中国を仮想敵視することで、国民国家がもはや存在しないことを隠蔽しようとしている。日本企業というものはもはや存在せず、日本企業を名乗る企業が儲けても日本人にはもはや何の恩恵もないのに、ナショナリズムを煽ることで、日本企業という幻想を信じこませようとしているというのである。
 以上、ぼくの下手くそな要約だけでは、「なんだ当たり前のことを言ってるだけじゃないか」、特にマルクス主義者には、「企業も政府ももともと国民のためにあるんじゃない」、と一蹴されてしまいそうだが、紙面の3分の1を使った内田論考本文にぜひ目を通してほしい。
 そこで展開されているのは、国家と資本主義の歴史を踏まえた、「現在」において国家とは何か、資本主義とは何かという分析である。
 マルクス主義者の国家論、資本主義論はあまりにもおおざっぱすぎるのだ。国家も資本主義も歴史を刻んでいるのに、「根本において変わらない」の一言で済ませてしまう。現実を丁寧に見ようとしない。だから現在における説得力を失ってしまうのである。
 日本共産党綱領に党の歴史など書いても無意味である。国民が知りたいのは、「現在」世界と日本がどうなっているのかについての、国家と資本主義の歴史的変遷を踏まえた上での具体的で、最新で、説得力のある分析だ。内田文をそのまま綱領の書き出しに持ってきてもよい。
 その上に党として必要なのは、どこに、これと闘うための方法と主体を見出すことができるのかという提起であろう。
 現状分析が雑では、見当違いの方向しか見ることができない。
  1. 2013/05/15(水) 22:00:52|
  2. 未分類

従軍慰安婦と売春

古本屋通信 No 214  5月15日


 従軍慰安婦と売春


  「維新の会」の橋下が何か言ったらしい。新聞を読まないので、全く知らなかった。つれあいが色めきたって教えてくれた。まるで鬼の首をたったように。私は関心がない。たったひとこと、「いいから、ほっといたら」。
 それで夫婦の会話はおわり。
 過去の古本屋通信の一部を再録する。たぶんこの再録、現在進行中の議論と噛み合わないだろう。でも、それでいいんだ。



通信 No25より  
 ・・・・いま再度かまびすしい従軍慰安婦問題を思い出した。日本の右翼がえらい剣幕らしい。これって戦時の治安維持法下で宮本顕治が人殺しをしたという論法と基本的に同じではないか。こじつけ。いったい日本が1910年に韓国併合したのは侵略だったのか侵略ではなかったのか。この一点を曖昧にして論は一歩も前に進まない。だが、かれらはまさにこの一点を否定するために全力を振りしぼってあがく(足掻く)。
 中国大陸における南京大虐殺、朝鮮半島における従軍慰安婦。日本帝国主義の海外侵略のさい、一部の買弁資本家が日本の「進出」を歓迎したからといって、侵略ではないとはいえない。買弁資本家に動員された民衆が沿道で歓迎の旗を振ったからといって、侵略ではないとはいえない。
 従軍慰安婦を集めるのに強制の事実があったか否かは、本質の問題をはずれている。というより意識的にはずしている。個々のケースでは強制もあっただろうし、任意もあっただろう。そんなことは「内地」の「女郎」集めと大差あろうはずがない。「強制」の証拠? 状況証拠は腐るほどある。証言が。貧しさゆえに、あるいは貧しくなくても売春に応じた女が日本統治下の朝鮮半島にいたという事実。この事実はだれも否定できまい。まさに従軍慰安婦は歴史的事実として存在した。このことをを否定する日本の右翼と保守の本当の狙いは、この問題をえさにして日本のかつての侵略を合理化し、こんにち軍国主義の日本を復活することである。

 侵略は被侵略国の財産・文化・習慣あらゆる価値あるものを奪う。奪うことによって本来あるかたちを破壊する。人間の尊厳と男女間の性愛の自由を破壊する。それは被侵略国のそれを壊すだけでなく、自国の男女間の性愛のあるべきかたちを歪 ( いびつ ) にする。

 いま朝鮮半島からあれこれ言われているという事実。これが従軍慰安婦問題のすべてだ。坐して跪いたくらいでは屁にもならない。このさい「天皇制を廃止します」くらい言うのが筋だと思う。相手に「天皇の謝罪」を求められて、このていらくは話にならない。「戦前の絶対主義天皇制と今日の象徴天皇制は違う。今日の天皇に謝罪を求めるのは筋が違う」などという論理が通用すると思っているのか。戦後革命を流産させ、戦後天皇制を廃止できなかった「恥の告白」がまさかこのような時、このような言葉で、日本共産党委員長の口からでるとは夢にも思わなかった。

 ここで、いま起こっている議論の文脈からは少しズレるけれど、以前から思っていたことがあるので、ここに書き加えておきたい。戦時下の性にかかわる問題をむやみにとりあげないほうがよい。二十年以上まえ千田夏光がこの問題で本を書いたとき、私は感心しなかった。従軍慰安婦?今更なにをというのが率直な気持だった。もっとはっきり言うと、千田さん、せこい売文商売しなさんなよ、これ以上やっても泥沼に入るだけだ、そうおもった。そのときの気持はいまも変わらない。私は日本の左派は、従軍慰安婦問題はスルーしたほうが賢明だと思っているのだ。歴史の基本認識なく従軍慰安婦問題を語るなかれということだ。日朝問題について、ひとつだけ参考文献をあげておく。「日本の韓国併合」 (山辺健太郎 太平出版社 1970年)


 今回、古本屋通信が書き足した文

 「とんでもないこと」を書いておこう。橋下の今回の沖縄に関する発言は、そのむかし、売春防止法が国会に上程されたとき、一時的にだが日本共産党が法案に反対したのと似ている? どう似ているか、面倒だから、書かない。然し、ちょっとだけ。あとあと、「あのとき共産党は売春防止法に反対した」と、まるで党が女を喰いものにする政党のようにいわれた。面倒だからすぐに軌道修正したが、要するにどっちでもよいことだったんだ。今回も似たようなものだ。違いは、橋下が騒いでほしがっていることだけ。

 いま、沖縄であろうと、アメリカであろうと、日本のどこであろうと、性の商品化は溢れかえっている。橋下は橋下なりに計算してしゃべっている。しかしこの男、空論がすきだ。というより「良識」を敵に回し、これを挑発して問題を提出したつもりになっている。一貫した政治手法だ。騒ぎが大きくなればなるほどうれしい。特に、女の団体の抗議など大歓迎だろう。相手にするな。

 女性の人権や、「政治家」のあるべき倫理の観点で批判しても屁にもならない。やるんなら、『家族、私有財産および国家の起源』から『資本論』に拠って、本格的に論じないとだめだ。「良家の子女」なら納得できるが、いま現在アウトロウの世界で生きている女にとってなんの役にも立たない議論。これほど傲慢で日本の下層民衆に無益な議論はなかろう。その意味で市川房枝は「女の味方」ではなかった。橋下がこの国の底辺から這い上がってきた男だということは、しっかりと押えておかねばならない。だからかれは傍若無人に振る舞い、一定の支持を得てきたのだ。


 赤旗を読んだあとで 

 上記の記事を書いた数時間後に、今日の赤旗日刊紙を読んだ。まあ、予想通りの記事だ。選挙前でもあるし、大いにやったらよかろう。私は日本共産党支持だ。しかし上記の私の見解はいささかも揺るがない。或る意味、橋下が言ったことは、それから石原が言ったことは「常識」なのだ。落ち目の維新には、これを機に消滅してほしいが、日本に圧倒的な性の商品化=人間の商品化が罷り通っている以上、議論は選挙直前らしい、きれいごとの議論に終わることは間違いなかろう。

 性の商品化は、世界のすべての国が戦争と貧困から解放される日まで続くだろう。「社会主義」ソ連にも、解放後のベトナムにも売春はあった。日本が民主主義革命を達成したのちにも、貧富の格差は相当長期に残るだろう。その間、性の商品化は残る。それを無理やり禁じることがどうか。ことはそう簡単ではない。戦後まもなく売春防止法が制定されて60有余年。この面で日本はよくなったか。ある意味、日本共産党が売防法に反対したのは、先見の明があった。現在の取り締まり対称は、突出した管理売春のみで、あとは売春天国だろう。

 基地があって売春がないということはあり得ない。それは、あってよいということではないし、勿論あった方がよいということではない。ただ、事実として、売春は必ずあるし、ないということはあり得ないのだ。
 もういい。ラディカルな議論をする環境ではない。しばらく赤旗も書けばよい。私は尻馬にのることにやぶさかではない。しかし、せいぜいやりすぎんことだ。


 上記の全文にたいし、焦眉の問題とズレているという批判があろう。従軍慰安婦の問題を売春一般に拡げるなという批判だ。とんでもない。従軍慰安婦問題の核は売春なのだ。しかし、こういう問題は議会の政争の具としてはならない。だから、取りあうなと書いた。

 たった今、テレビの国会中継を10分ばかり観た。共産党の井上が質問し、安倍が答えていた。模範質問と模範回答。まるでコピーだ。一種の儀礼(セレモニー)だろう。議場は白けきっていた。テレビと無縁な私は、安倍がここまで冴えんとは知らなかった。そのくせ慇懃無礼だ。「従軍慰安婦の方」だと。差別意識が滲み出ていた。井上は髪に寝クセがついて、毛がはねていた。櫛くらい通したらどう
か。



 
  1. 2013/05/15(水) 02:39:43|
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