古本屋通信

メモランダム

古本屋通信 No 193  4月25日


  メモランダム

  私は通信 No24 で「ブントは左翼か」を書いた。ほとんど罵倒だった。しかし訂正する気はない。ようやく、続きを書く気になった。もちろん不真面目にだ。私はもともと第2次ブントを左翼と認めていない。それに今日では左翼党派として現存しているとは思えない。だが、雑賀さんの学生時代には京大にブントがいた。元東大民主化行動委員会の三浦聡雄氏のインタビューでもブントは存在感のある党派として登場する。以下、気分転換のアソビで書くメモランダムだ。メモランダムとは、備忘録とする程ではないという意味だ。内容は「ブントは左翼か・その2」にあたる。

1964~1970 年の6年間が私の学生時代だが、中国・四国の大学・学部では、この期間ブントが執行部を占めていた学生自治会は皆無だった。間違っていたら教えてほしい。

京大にブントがいたことは聞いていた。
「僕が大学教養部にいたころ、京大同学会・教養部自治会とも主導権をとっていたのは、社学同(社会主義学生同盟)、いわゆるトロツキストといわれる一派だった。後に赤軍派で有名になった塩見孝也らがいた。僕は、自治会では反主流派の統一派に属していた」(雑賀さん、私の通信No190参照)。
 私は京大のその方面に疎いが、東京の学生集会に参加していたとき、京大の学生が「たったいま京大は同学会を民主化しました。社学同を名乗るトロツキストに勝利しました」と報告し、会場はわれるような拍手に包まれたと記憶している。これがいつだったか、確かネット上に記録があったと思う。

1970年代に入ってから京大ではブント系がもり返す。京大と同志社大で暴力支配が続き、民青系は半殺しにあう。私はこの時期の京都の学生運動にとても興味がある。トロツキスト=暴力学生だけではカタが付かないのだ。私はこの40年間、この時期に京都の大学(京大、同志社大、立命館大)に在籍したひとに訊いたが、どうもよく分らないのだ。ただ、京大と同志社大の赤ヘルはゴロツキに近かったこと、京都の共産党と民青が体制派として、一部の批判派からは毛虫のように嫌われていたらしいこと、等。

京大経済学部は講座派系のマルクス経済学のメッカの地だった。そこで尾崎助教授事件も起きる。少しまえの助手の事件も尾を引く。赤軍派の塩見孝也も、日本赤軍の奥平剛士も京大だった。岡大殺人事件のマル青同一派も京大ブントのなれの果てだった。私にはブントはたちの悪いアナーキスト=ゴロツキとしか思えない。そこへ行くと内ゲバ3派( 革マル、中核、青解 )のほうがマシに思える。

もう20年以上前になるが、O大全共闘20周年記念文集が出され、依頼されて寄稿したことがあった。その関係で 元ブント赤軍派の一人と(おたがいのつれあいを交えてだが)飲む機会だあった。自分の下獄体験も含めて、じつにあっけんからんと語る口ぶりから、私はかれはもともと左翼ではないと思った。かれは自慢そうに言った「ブントには同窓会がある。民青にも中核派にも同窓会がないじゃろうが」。そういえばO大全共闘同窓会を企画したのも彼だった。「昨日殴り合っていても、今日は一緒に酒を飲む、それがブントじゃ」とも。断っておくが、左翼失格だということは、なんら人間失格を意味しない。彼はこうもいった「民青も中核派も、やめても党派にこだわる、わしらは元左翼だなどとこだわらん。自民党も左翼もいっしょじゃ」とも。この時これを聞いて、私は60年安保闘争時に田中清玄から金をせしめた唐牛ら安保ブントを思い出した。

たった一週間まえ、シンフォニー古本まつりで荒岱介の『マルクス・ラジカリズムの復興』を買った。何処にでも転がっているブント戦旗派の本だ。私はこの本だけは買いたくなかった。最終日に百円均一に追加されているので買った。案の定、廣松渉とのやり取りが書かれている。廣松が組織的にもブントに所属していたのは事実だし、ブントの理論家として指導的論文も書いている。然しその理論の全体は飽くまでかれ個人の思惟と研究の所産だろう。ブントの党派的財産ではない。宮本百合子の作品が日本共産党の占有物ではないように。

廣松哲学の全体について評価する力は私にはない。私が著作のうえで彼を知ったのは、彼の名古屋大学助手時代だが、以後30年のあいだにいくたびか変化があった。また彼の認識論について、晩年の近藤洋逸先生が軽く触れておられる。私はそれについて紙の通信に書いた。私流に言えば、レーニンが『唯物論と経験批判論』で批判している直観主義=マッハ主義に当たると思う。しかし自信がない。ちょっと横道にそれるが、廣松の弟子に佐々木力という科学史家がいる。近藤先生の全数学史論文を編んで出版にこぎつけてのが佐々木だ(『近藤洋逸数学史著作集』全5巻)。その関係で近藤先生は廣松を読んだのだろう。

ブントにもどる。これは私自身に課した宿題なのだが、ブント戦旗派の最後の晴舞台、赤ヘル3派時代のあれこれについて、少し資料を買おう。やがてどうなるかわからない万歩書店本店に『理論戦線』が10冊ばかり売れないで残っている。それと島成郎編の『ブント(共産主義者同盟)の思想』だ。これは高かったので、買おうかどうしようか迷っている。

 もともと思いつきで立てた項だ。以降を加えるかも知れない。
  1. 2013/04/25(木) 04:45:54|
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雑賀さんの自己形成

 古本屋通信 No 192  4月24日


  雑賀さんの自己形成


  No 190 のつづき「雑賀光夫の徒然草」の紹介の第2弾といきたい。「徒然草」の過去記事の中に、雑賀さんの自己形成史を端的に語る読書記録がある。その文章をそのまま引用したい。尚、引用文中で 2 から 5 にとんで 3、4 がないのは、筆者が文末で断っているように、元原稿を短縮したためだろう 古本屋通 )。


 グラムシから「経済学哲学草稿」へ
 さらに田中吉六から僕の原点への旅

1 グラムシに引かれて「経済学・哲学草稿」へ
 竹村英輔「グラムシの思想」を読んで「(グラムシの見解は)しばしば、自然の先位性の否定のように引用されたが、人間の認識の歴史的社会的相対性の否定に対する詰問として…理解すべきではないか」として、「人間がなかったとしたら、という仮説が成り立たぬことを指摘しているという意味で、むしろマルクスの『経済学哲学手稿』(岩波文庫P146-147)の指摘と共通であり…」との指摘にぶつかった僕は、「経済学・哲学草稿」の岩波文庫版を買わなくてはならないことになった。
 県庁まえの宇治書店で取り寄せて手元にとどいた。「城塚登・田中吉六訳」となっている。「田中吉六」というのは、在野の異色の理論家である。戦後民科に結集していた「正統派」マルクス主義哲学者とは一線を画し、三浦つとむなどと親交があり、物理学者・武谷三男を尊敬していた。「経済学・哲学草稿」に沈潜して「主体的唯物論」を主張した人だということは知っていた。
さっそく「P146-147」をくってみる。 
 「…すなわち君がさらにだれが私の父を産み、だれが父の祖父を産んだのか、などと問いつづけでいくような無限の進行にだけ注目してはならない。君はまた、あの進行のなかで感覚的に見てとることができる循環運動をも、すなわちそれにしたがえば人間が生殖において自己自身を反復するところの、したがって人間がつねに主体としてふみとどまるところの循環運動をも、しつかりつかまなければならない。……君が白然と人間との創造について問う場合、君は人間と自然とを捨象しているのだ。君はそれらを存在しないものとして措定しておきながら、しかもそれらを存在するものとして私が君に証明することを君は要求しているのだ。そこで私は君にこう言おう、君の捨象をやめたまえ、そうすれば、君はまた君の問いをもやめるだろう。それとも君が君の捨象に固執しょうとするなら、首尾一貫したまえ。そして君は人間と自然とを存在しないものとして考えながら、考えを進めるのなら、君もまた自然であり人間であるのだから、君自身を存在しないものと考えたまえ。…」
 何のことだかさっぱり分からない。竹村英輔氏に導かれてこの文章にたどりついた経過からみれば、「人間がいない自然など考えることが無意味だ」ということにつながるのだろうか。
僕は「経哲草稿」をあちこちひっくり返してみるが、さっぱりわからない。理解する手がかりになる解説はないのだろうか。

2 田中吉六とその周辺
 そこで僕は、田中吉六の著作を買っていたのを思い出した。「マルクス、再出発」(三交社1975年刊)である。東京には、古本ではない新本だが本屋で売れ残って返本になった本を安い値段で売る店がある。そんな書店で買ったもので、定価1500円の本に250円のシールを貼っている。もう一冊「史的唯物論の成立」(1949年理論社刊、1971年季節社再刊900円)は、300円のシールを貼っている。

 私は、歯が立たない難解な古典に近づくために次のようは方法をとっている。
 「岩波文庫」で先に引用した「P146-147」の欄外に「竹村『グラムシの思想』p225」と記入しておく。実際にはもっと簡略に「竹グp225」とする。「竹村『グラムシの思想』p225にこの箇所についての論及があった」という意味である。
 こんどは、「マルクス、再出発」の田中の講演に引用されているものをマルクスの原本にあたって、欄外に「田中P18」など書き込んでいくのである。
 堀江正規さんの「文章の読み方」にも「経済学・哲学手稿から」として「意識的生産と美の法則にもとづく創作」と表題をつけた文章の解説があったのを思いだした。それを開いてみたが「マルエン全集第40巻」というだけで、ページが示されていない。これでは探しようがない。ところが、「マルクス、再出発」に同じ文が引用され、ページが示されている。さっそく探して、欄外に「堀江178」「田中50」と書き込む。さらに「文章の読み方」の該当箇所に「岩波P96」「田中・再出発p50」と書き込むわけである。
 書き込みはつづく。「ドイツイデオロギー」(岩波P37)「人間相互の間にはひとつの唯物論的つながりがあって、これは欲望と生産様式とによって制約され、そして人間と同じように古いのである」という箇所の欄外にも、「田中P41」と書き込む。

 田中吉六は戦後直ぐの時代に、一定の注目を浴びた理論家である。1970年代に突然生き返ったように「左派」学生(ブンド派)の中で講演してまわる。その講演には、僕にとって懐かしい名前がでてくる。
・ 武谷三男……湯川・坂田とともに「素粒子論グループの三羽烏」といわれた物理学者。最近の日本の物理学者のノーベル賞受賞にかかわって、マスコミにも湯川・坂田の名前はよくでるが、武谷の名前があまりでてこない。不破さんがこの問題にふれるときには、正当に評価している。

・三浦つとむ……僕が高校時代に一番よく読んだ「哲学者」。共産党では神山茂夫(志賀義雄とともにソ連に追従して分派)に近く、神山よりも先に党を離れる。「日本語とはどういう言語か」という本が講談社文庫ででている。早くからスターリン批判をしていた点では、先駆性をもつ。
・梅本克己……「人間論」「マルクス主義における思想と科学」などの著作を持ち戦後活躍した「主体的唯物論派」といわれた理論家。緻密な理論家で、三浦つとむ批判では、この方の批判で納得した。
・黒田寛一……トロツキスト学生の大御所である。
・広松 渉……ドイツイデオロギーの原文に近い翻訳をした。その翻訳をめぐっては服部文男氏などから批判があり、新訳が出されている。広松訳についても、最近、「岩波文庫」(ワイド版)が出ている。

 田中吉六の論争の対象は、三浦つとむ、黒田寛一、広松渉、梅本克己などにかぎられる。古在由重、芝田信午、寺沢恒信などことのついでにふれられるだけである。田中に言わせと戦後「民科」に結集した民主的哲学者、マルクス主義・科学的社会主義の学者は、話にならない、論争相手にする必要もないという調子で、「左翼」学生の中でとくとくと講演しているわけである。
そんな田中の講演を、「経済学哲学手稿」を読み解く手引きにするなんて、僕もかわりものだなあと思う。

4 河合栄治郎教授の登場
 田中吉六が、河合栄治郎が「経済学哲学手稿」についての「書評」を昭和2年の東大経済学部「経済学論集」に載せているとして、評価しているのをみつけてびっくりした。(「マルクス、再出発」P149 )
                
 僕のマルクス主義への接近途上で、忘れることができない一人が、河合栄治郎教授なのである。僕の本箱には「マルキシズムとは何か」「学生に与う」(「現代教養文庫」)がある。
 「学生に与う」という本は、学生の思想善導(赤化防止)のためにかかれたものである。「マルキシズムとは何か」の中で、河合教授は大要次のようにのべている。
 「東大、法経学部には、3000人の学生がいるが、7割は何の目的ももたない酔生夢死の徒である。あとの300人のうち、100人がマルクス主義に近い、100人が自由主義的、100人が右翼的学生である。その中で100人のマルクス主義的学生が頭脳も優れた人格の立派な学生だということが心配だ。」(「マルキシズムとは何か」P19)
 この文章は、同じく反マルクス主義の小泉信三が「私とマルクシズム」の中で、野呂栄太郎の思い出を敬意をこめて書ていることも思い出させる。

 反マルクス主義の立場で学生の「思想善導」につとめた河合栄治郎教授は、その後、その自由主義的思想のゆえに、官憲の弾圧を受けることになる。
 河合教授と僕の出会いは、海南高校の「どんぐり会」の一員だったころだった。マルクス主義とちがったものも読まなくてはバランスを欠くと言う思いから読んだ。柳田謙十郎さんの「わが思想の遍歴」は、西田哲学からマルクス主義への思想遍歴を述べた名著だが、「わが思想の遍歴」によく似た表題の著作で「わが精神の遍歴」(亀井勝一郎)がある。これは僕にとってはやっかいな本だった。亀井勝一郎は「東大新人会」という左翼学生のメンバーだった。自分としては無理をして左翼学生をつづけるのがしんどくなっているときに逮捕されて転向してすっきりしたということらしい。僕も、部落子ども会にとけこめず、「左翼であることに自分は無理をしてるんじゃないかな」と学生時代思ったとき、亀井勝一郎を思い出したものである。
 河合栄治郎の「マルキシズムとは何か」亀井勝一郎の「わが精神の遍歴」は、マルクス願望の青年だった僕を、うしろから引き止めるものだった。

5 おわりに

 グラムシから「経済学哲学草稿」、そして田中吉六を読んで、思いつくことを書いてきた。これは僕の青春の思想遍歴の思い出である。
 ところで、河合栄次郎や亀井勝一郎から後ろからひっぱられ、新左翼・社会主義学生同盟からオルグされてはゆらぎ、構造改革派(統一社会主義同盟)にもゆらぎ、いろいろ揺らいだ僕が、人生の方向を決断したのは、大学一年生の夏休みに古い海南教育会館での中山豊先生との出会いだった。
 とつとつと語る中山先生のお話を聞きながら、「僕は大学に入ってすごく世界が広くなったように思っているが、あの学生たちは地域に帰ってその思想を通せるのだろうか」という疑問がわいた。
これが、わたしの人生を決め、いま共産党県会議員をさせていただいている原点なのである。(2009/07/24原稿を3分の2に圧縮)


  古本屋通信の感想


 これは雑賀さんの「青春の思想遍歴の思い出」である。しみじみと読ませてもらった。ちょっとだけ感想を書きたい。
 雑賀さんは私より一歳だけ年上だが、これを読むと五歳位年上のように思えた。それは感受性、知的能力ともに大きな差があるからなのだが、もうひとつはたった一年の時代の差もあると思った。
 私は1964年、当時でいう地方の国立二期校に入った。まず学生運動があった。本などなにも読んではいなかったが、運動に飛び込んでいった。本をよみ始めたのは、運動にとってそれが必要だったからだ。無論自分の内なる欲求もあったが。
 私は学生時代後期には多少の濃淡はあれ、雑賀さんがあげた哲学者を殆んどは読んでいる。しかし「入り方」はすこぶる違う。私は民科哲学部会の「正統派」の哲学者から読んだ。松村一人、古在由重以下である。雑賀さんがあげているその他の哲学者も一括りにはできないが、私は彼らを概ね現代修正主義の哲学者として読んだ。それがよかったか、わるかったかわからない。しかし、そういう経路しかなかった。また、いまでこそ河合栄治郎も小泉信三も評価できるが、当時は亀井勝一郎をふくめて「敵」だった。のちに「経済学・哲学草稿」を大学の卒業論文のテキストに選ぶなかで、田中吉六や広松渉には大変世話になったが、それはテキスト解読の上でのことである。
 長くなりそうだからこの辺で打ち切る。雑賀さんの読書遍歴を読んで感無量だったのは、彼がいま日本共産党の県議会議員として日々活動し、その原典が青春のこの読書遍歴だということだ。こういう言い方はどうかとも思うが、回り道をすることがどうかということだ。
  1. 2013/04/24(水) 22:56:10|
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雑賀光夫の徒然草

 古本屋通信 No 190  4月23日
 

  雑賀光夫の徒然草


  面白いサイトを見つけて嬉しくなったので、さっそくヘバリついた。自分だけ愉しむのは勿体ないので紹介する。雑賀さんは共産党の和歌山県議らしいが、私がネット上で見つけたのは雑賀光夫の徒然草なる HP 内の随筆のページだ。それもその中の小林多喜二と「早春の賦」によせての一文だった。とても面白かった。とくに宮本顕治のプロレタリア文学の総括に半畳を入れているあたりが、とてもほほえましかった( 断っておくが私は宮本顕治の第一巻「あとがき」絶賛組だ* )。
 次いで、不破連載スターリン秘史(「前衛」不破哲三)を読み始めるを読んだが、これも愉快だった。あとはまだ読んでないが、目次をコピーした。追って読むつもりだ。このひと、私より一歳年長の1944年生まれらしい。京大同学会の民青の活動家だったと読める。ディミトロフの思い出なんか、四国にいた私なんかとも変わらない。私は不破連載のまえから野坂に引っかけてディミトロフの名を書いている。私にとっても、かれは反ファシズム統一戦線の一級の理論家だった。そこへいくとグラムシもトリアッチも新参者だ。もっとも私は、不破連載については最終回完結まで感想は書かないが。 
 雑賀さんは年上なので「いい気分で」噛み付けそうだ。それにこのひと、ネットが好きらしい。多忙なひとに相手にして貰おうとは思わないが、愉しみは殖えた。正直、「オーソドックスに正道を歩み続けた優等生」に負けてたまるかという気持ちもある。ホントの事をいえば、私は岡山県内の年下の党員の批判などやりたくないのだ。革マルが中核にテロを加えるみたいに「日本革命にとってやらねばならん」からやっているだけだ。誰が自分の娘みたいな歳の小娘を相手にしたいものか。ただ、書記局長の市田がメモを見ながら「**さんは地方では一級の論客です」などと紹介するから、憎まれ役をやっているまでだ。ほんとは雑賀さんのようなひとに噛みつきたかった。


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「朝田理論」と部落解放運動

ギリシャ財政危機と世界金融危機によせての学習

スターリン秘史(「前衛」不破哲三)を読み始める

体罰問題について 1

体罰について 2

福沢諭吉の評価をめぐって 

 以下、ご自分で開いてご覧ください


 私が面白かった箇所を引用する(古本屋通信)。

 ≪小林多喜二と「早春の賦」によせて≫より

 まあ、そんな議論は、脇においておこう。こんな議論をしていたら「むずかしい文章だね」といわれそうだ。そこで私の思いは、宮本顕治の「第一巻あとがき」への思い出に飛ぶ。
この「文芸評論選集」の刊行がはじまったのは、私の学生時代の1966年である。「第二巻」から出た。私は、初版を買ったはずなのに手元にあるのは1981年出でた「第15刷」だ。そうだ、誰かに貸して返してもらえなかったので買いなおしたのだ。ちなみにあとの巻は、すべて初版である。「第三巻」1968年、「第四巻」1969年。待ちかねて買ったのだ。そして、11年の空白のあと、戦前のプロレタリア文学運動を全面総括した「あとがき」がついた「第一巻」が出された。佐藤静夫、津田孝といった文芸評論の第一線のひとたちが、「文化評論」「民主文学」などの雑誌で、この「あとがき」を絶賛した。
 私は、この「あとがき」の意義を認めながら、複雑な気持ちになったのを思い出す。文芸評論の一線でいる佐藤・津田という人たちは、政治活動で忙しい合間に、宮本顕治が、戦前のプロレタリア文学運動の全面総括をやってのけたことをうけて、自分のふがいなさを感じないのだろうか。宮本顕治も、当時まだ現役だった蔵原惟人やこれらの文芸評論家にアドバイスして、この人たちの手で総括をかかせてやろうという気にならなかったのだろうか。これが、当時の「複雑な気持ち」の中身だった

*「あとがき」絶賛組の古本屋通信からひとこと反論すれば、宮本顕治は文学運動に携わってきた一表現者( 文学者 )として、個人の責任で書いたのだ。それは佐藤や津田に代行させたり、指導して書かせるような性質の仕事ではない。まして蔵原をやだ。雑賀さんは「あとがき」が読めてない。これは名指しこそしていないが、宮本顕治の蔵原惟人批判の論文なのだ(古本屋通信)。

 ≪スターリン秘史(「前衛」不破哲三)を読み始める≫より         
 不破さんが、[前衛]誌であらたな連載をはじめた。そこでは、スターリンの暗い政治の片棒をかついだディミトロフの役割が解明されると聞いて、僕はいやな気持ちになった。自分の青春の思い出が汚されるような気がしたのである。
 本箱から「反ファシズム統一戦線」(ディミトロフ著・国民文庫)を取り出してみる。あまり汚れていないから、学生時代に読んだものをなくして、買い換えたものにちがいない。「学生運動の統一」の問題など考える時も何度も読み返したから、最初に買った本は、ぼろぼろになっているはずである。
 僕が大学教養部にいたころ、京大同学会・教養部自治会とも主導権をとっていたのは、社学同(社会主義学生同盟)、いわゆるトロツキストといわれる一派だった。後に「赤軍派」で有名になった塩見孝也らがいた。僕は、自治会では反主流派の「統一派」に属していた。
 「原子力潜水艦寄港反対」などで主流派が組織するデモ・河原町でジグザグデモをくりかえし、機動隊と衝突するデモに参加するかどうかは大きな迷いだった。基本方針は、こうしたデモには参加しないということだが、クラスのまじめな学生が参加している。僕は、デモがある前の晩、「反ファシズム統一戦線」を読み返して、悩みぬいた末、翌日のデモに参加した記憶がある。活動家というほどでもない級友が、このデモに参加していて、多分参加しないだろうと思っていた僕の顔を見つけて嬉しそうにした表情まで、今でも思い出す。その行動が、よかったのかどうかは分からない。ただ、そこまで考えたことはなつかしい思い出である。だから、あのころ読んだものなら、赤線・青線で汚しまくっていたはずである。
 それでも、パラパラとめくると「幹部政策」のところに、赤い線をいれている。民青同盟の時代に、「幹部のありかた」を語るのに引用したのを思い出す。
 ぼくは、「一番美しい国の名前・ブルガリア。一番美しい町の名前・ソフィア。一番男らしい人の名前・ディミトロフ」と呟いてみたことがある。音声的に本当に美しいと思う。ディミトロフにそんなにほれ込むほど、「反ファシズム統一戦線」(コミンテルン第7回大会へのディミトロフ報告)には、感銘をうけた。
 そのディミトロフが、スターリンの粛清の片棒をかついたんだって。不破さん、たのむから、僕の青春の思い出を汚すような暴露はやめてほしい。こんな気持ちだったのである。
  1. 2013/04/23(火) 12:54:27|
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議員の呼称

 古本屋通信 No 188  4月20日

 
 議員の呼称


福山市議会議員の河村ひろ子さんが、自分が先生と呼ばれることの違和感について書いている。違和感を大切にし、可能なかぎり 「~さんと呼んで」 と言ったらよいと思う。国語的にも不適切な表現だから。ただ、なにがなんでも、というのではなかろう。小学校の先生というのと同様に定着している場合もあろう。下手に文句を言うとかえって人間関係が壊れる事があるかもしれない。柔軟に対応したらどうだろうか。

一方、国語的には誤りではないけれど、私には我慢出来ない表現がある。議員( 国会議員、地方議員 )を政治家と呼ぶ言い方だ。ここでひとつ一般には通用しにくい前提が入る。保守系の議員を政治家と呼ぶ、私はこれに違和感はない。ダーティー(ダンディにしておこうか)の代名詞でもあり、実にしっくり来る(笑い)。しかし、共産党および革新系の議員を政治家と呼ぶなら、私は途端に激しい拒否反応を起こす。私は国語的に誤りでなくても、内容的には誤りだと思っているのだ。少しややこうしい話になるが、この点を共産党議員に限って書きたい。その他の革新派は共産党議員に準じて考えればよい。 

共産党の議員は政治家ではない。ついでだが、中央・地方の専従も政治家ではない。それでは何か。前者は議員であり、後者は専従(政治団体職員)である。そしてかれらは、日本の現実政治に関わるその密接度・密着度において、経営や居住の党支部に所属する党員となんら変わらない。また、現実政治の真っただ中にある日本の民衆とも同列である。議員も専従も如何なる意味でも政治エリートではない。つまり政治家ではない。

日本共産党員にとって、その働く部署は、誤解を恐れずいえば党から与えられた任務である。幹部会委員長も、県委員会常任委員も、市議会議員も、赤旗分局員も、経営支部党員も、居住支部党員も、寝たきりで闘病している党員も等しく日本の政治の革新のために闘っている。職業的に政治専業か非専業かは党員任務の差別化に繋がらない。そのために割く時間に多少の差があろうとも、それは政治にかかわる本質的な差異では断じてない。

「党中央での新しい任務のなかで、日を経るにつけ、しばしば鴨川さんのことが頭によぎり、一度お訪ねしたいと、かねてから思いつづけていました」(現・石井ひとみ岡山県委員長)。石井さんが岡山県党から中央に移ったのも、岡山にもどったのも党員としての任務だったろう。いまは亡き中原猛さんだってそうだったろう。
 地方議員の立候補要請も党の必要によってなされる。本人の希望がまるで無視されることはなかろうが、すべて希望通りにいくとは限らない。一般企業にあってもそうだが、厳しい戦いの只中にある共産党においては一層あたりまえのことだ。この一点をとってもいま尚、中国地方を徘徊する肩書不透明の輩は不審の目でみられるに十分値する。要はけじめがつけられない、というより初めからけじめという単語が存在しないのだ。だから規約もクソもない。民主党みたいなもんだ。これは容易にファシズムに転化する。こういうのに日本国憲法を説かれたらたまらない。

話をもとに戻す。議員も専従も政治家ではないという話だ。もう少し突っ込みたい。日本共産党員にとって、本来、職業党員は特殊な位置にある。職業党員とは党員として党活動をすることで党から活動費を支給される党員だ。一般には専従を指す。全党員の1%の比率で党員の中から選ばれる( 99人の党員で一人の職業党員の生活を支える。だから党費は総収入の1%なのだ )。そして私は議員も職業党員に加えてもよいと思う。党規約は中央委員会はじめ各級機関について規定しているが、職業党員の規定は何処にもない。そこで、私見だが、私は職業党員は極力固定しないほうがよいと思う。この固定化がつづくと党官僚を生み出し、その腐敗が生じやすい。職業党員は絶えずエリート化の危険を孕んでいる。理想をいえば、専従は任期がきたら非専従に戻るのが理想だと私は思う。労働組合たとえば県教組の専従が任期がきたら現場に戻るように。しかし現実的には党専従の一般企業への再就職は難しいだろう。ならば、可能な限り部署を固定しないことだ。他県との往来は難しいだろうが、県内地区委員会の移動は可能だろう。専従が党議員に転身する道も大いにある。

また、地方議員は継続性が求められるだけに、安易な交代はむつかしそうにも見える。しかし、私は議員の在職期間はできるだけ短い方がよいという意見だ。共産党議員の議席は党の議席だ。個人の議席では断じてない。だから後援会も個人後援会ではなく、党の後援会なのだ。しかし、過去には不心得者もいた。議席を自分の力量で獲得したと錯覚する議員だ。また、一般にはそれを煽る風潮も存在する。

ここでもう一つ、異論が起こりそうな事を書く。私はつい15年程まえまで、議員の歳費は党で一括管理しているものだと思っていた。ところが、それがそうではなく、議員個人が管理していると知った。教えてくれたのは現岡山地区委員長の植本完治氏だった。私は議員の歳費が高すぎるとは思わない。しかし、党専従よりは手取りは多いだろう。そこで思った。技術的な問題もあろうが議員歳費を党管理に戻すのだ。私は実際には両者の収入がほとんど変わらないことも薄々知っているのだが、議員が専従より手取りが多くなければならない理由は何一つない。 

専従の仕事と議員の仕事が違うことは知っている。しかし両者は絶対交代できないほど専門性が強い仕事だろうか。私は共産党の場合、交代可能だと思う。ここで本音を言う。専従バカというのはいないと思う。しかし議員バカはいた。先生と呼ばれて名士気取りになるなどその典型だ。そうでなくても議員は視野が狭くなりがちだ。2期もやったら、他と交代して専従に移行したらどうか。岡山の共産党議員で議員年金が付いたとたんに辞めたのがいた。これなど社会的に非難されないだけで、納税者からすれば駈け込み泥棒だ。この議員が引退すると同時に議員年金制度は廃止された。見事という他はない。自民党顔負けだ。辞めても使いものになるまいと思っていたら案の定だ。

あれやこれや、とりとめのない事を書いた。共産党議員が党に対する逆風を一身に受けて大変なストレスはのは分る。こんなことを書くと「アホらしくてやっとれん」と思われたかもしれない。明らかな私の思い違いも含めて、この拙文がどこかで話の種になれば望外の歓びである。

 おわりに。読み返すのが苦痛な、出来の悪い非論理的な文だ。しかし消さない。ずっと書きたかって書けなかった事だから。それと共産党組織論。民主集中がどうのというより、こういう野暮ったいことを書いて組織論の一端を担いたかった。
  1. 2013/04/20(土) 21:34:18|
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備忘録 4

 古本屋通信 No 187  4月19日


 備忘録 4

  今回はちょっと変わった備忘録になる。私の中では飽くまで備忘録なのだが。No 181 で緑の党の前史にふれて「社革から緑の党まで」を書いた。それはその必要を感じたからであり、その折自分の過去ブログも併せて再録した(通信 No29 グローカル最終号 )。しかし、その後、自分の認識について反省する点があることに気が付いた。私はグローカル最終号を不真面目にしか読んでいなかったのだ。そのことに気付いたのは No 181 を書いた後である。とりあえず丁寧に再読した。然しそれについて書いても仕方がない。幸いなことに蒼生のHPがまだ残っていて、「グローカル」最終号の2論文のうち白川論文はいまだコピーできることが分かった。いつまでも、という訳にも行くまい。私は紙の新聞も持っているが、ネットに勝るものなしだ。大急ぎでコピーした。間に合ってよかった。


共産主義労働者党の歴史的な挑戦
――思想と行動のラディカルさを追い求めて

               2012年8月 白川真澄
  
 ・共労党のたたかいの歴史を振りかえる
 ・資本主義へのラディカルな批判とオルタナティブ社会の構想
 ・社会変革と主体形成の路線の探究
 ・組織活動の経験から学ぶ



Ⅰ 共労党のたたかいの歴史を振りかえる


 共産主義労働者党とそれを引き継いだ「政治グループ蒼生」は、八月二五日、政治党派としての歴史的役割を終えて解散することを決定し、その活動に幕を下ろした。この党派を担ったメンバー、共にたたかった人びと、陰で支えてくれた人びとに心からお礼を言いたい。党派としての活動には終止符を打つが、私たちが歴史的に挑戦してきた課題や目標は、これからも一人ひとりが自分なりの形や場で追求することになる。
 私たちは何に挑戦し、どこまで来たのか。何が未決の課題として問われているのか。新左翼党派のなかで最もラディカルであろうとした私たちの歴史的な挑戦について論じたい。

ベトナム反戦闘争の渦中での結党
 共産主義労働者党は、ベトナム反戦闘争の渦中に誕生した※。このことは、私たちの党のその後のあり方を規定する重要な意味をもった。党は、結党大会直後に(六七年九月、第三回中央委員会)、ベトナム反戦闘争を第一義的な課題とし、このたたかいに全力で取り組むことを確認した。
 この時代、南ベトナムで解放民族戦線(一九六〇年結成)は米軍に支援された政府軍に対して優位に立ち、米軍はついに北爆を開始した(一九六五年)。ベトナム革命とベトナム反戦闘争は、米国を盟主とする帝国主義との対決の世界的な焦点にせり上がった。
 日本でも、米国の侵略戦争に加担する佐藤政権と対決しながら、戦争加担の具体的な拠点の鉾先を向けるたたかいが全国に燃え広がった。総評のベトナム反戦スト(六六年一〇月)、砂川闘争(六七年五月、七月)、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止羽田闘争(一〇月)、南ベトナムでテト大攻勢、佐世保で空母エンタープライズ寄港阻止闘争(六八年一月)、王子野戦病院闘争(三月)、北九州山田弾薬庫の列車阻止闘争(四月)、一〇・二一新宿:米軍タンク車輸送阻止闘争(騒乱罪適用)、沖縄二・四ゼネスト闘争(六九年)、四・二〇全国反戦青年委員会総決起闘争、四・二八東京:沖縄闘争。
 私たちの党は、中核派など新左翼諸党派がベトナム反戦闘争で先行していた状況のなかで、これに負けじと「左旋回」をとげ、行動主義的な左翼たらんとした。とくに、党の指導下にあった学生部隊は、民主主義学生同盟から訣別し、プロレタリア学生同盟を結成し(六九年三月)、実力闘争を担っていった。
 ※一九六六年一一月の結党大会は、党名を含めて議論が白熱して結論を出せず、六七年二月の後期結党大会で正式に結党した。機関紙「統一」は六六年一二月に創刊された。

六八~六九年反乱に全力投入
 六八~六九年の世界的な青年・学生の反乱は、社会運動の歴史的な分岐点になるたたかいであった。それは、ベトナム革命・ベトナム反戦闘争(米帝とのたたかい)の枠組みには収まりきらない深さと広がりをもって展開された。フランス五月革命(六八年)、世界各地での大学占拠の学生反乱は、その象徴である。日本でも、日大闘争と東大闘争が大学占拠の形態をとって始まった(六八年四月、六月)。東大安田講堂の攻防戦(六九年一月)を合図にして、大学占拠・封鎖の闘争が全国一一〇の大学に波及していった。
 ベトナム反戦・安保粉砕の闘争と全共闘運動は互いに共鳴・連動して相乗的に発展したが、しだいに引き裂かれていった。大学占拠・封鎖が空洞化しはじめ、警察による占拠・封鎖の解除とともに、運動全体は社会的拠点を失った。六九年のたたかいは、街頭実力闘争による政府打倒闘争へ絞りこまれていった(党は、これを「強いられた政治決戦」と規定した)。
 党の第三回大会(六九年五月)は、六九年秋の佐藤訪米を阻止することが政府打倒・安保粉砕(一〇年目の日米安保条約の自動延長阻止)の鍵になると位置づけ、その阻止闘争に全力を投入することを決定した。プロ学同は全共闘運動の行動的中核となっていたが、一〇・二一反政府闘争で実力闘争を展開した。反戦青年委員会を形成していた党のメンバーは、職場での拠点スト(休暇闘争)を試みた。大衆的実力闘争は引き続き、一一・一三に大阪(このとき糟谷貴幸君が機動隊によって虐殺された)と東京で、一一・一六~一七佐藤訪米阻止の羽田闘争として展開された。
 しかし、六九年の一〇・二一闘争をピークにした政府打倒の街頭実力闘争は、国家権力の分厚い包囲網の前に一敗地にまみれた。とはいえ、反戦・反安保のエネルギーはすぐには下降線を辿らず、七〇年にも十万人規模のデモが展開され、七一年秋の沖縄返還協定阻止闘争まで街頭実力闘争は継続した。同時に、街頭実力闘争の限界を武器のエスカレーションによって突破しようとする軍事主義の傾向が台頭し、すべての党派を捕えていった。私たちの党も例外ではなかった。
 党は、七〇年から七一年にかけて反安保闘争と沖縄返還協定阻止闘争に取り組み、同時にゼネラル石油精製の長期スト(七〇年七月~九月)や三里塚の代執行阻止闘争(七一年二月、七月、九月)に力を注いだ。また、日産車体京都工場で季節工の山ねこストを組織し、労働運動の新しい展開を試みた。
しかし、三里塚の九・一六闘争(東峰十字路闘争)、一一月の沖縄返還協定阻止闘争をくぐる過程で、党内では軍事主義への傾斜(「建軍」路線)をめぐる路線対立が表面化し、党は七一年末に三分裂した。

三里塚闘争を献身的に担いきる
 七〇年代の民衆運動は、六八~六九年反乱を特徴づける反権力(国家権力だけではない)の異議申し立てのエネルギーをさまざまの課題と分野で噴出させた。水俣病患者がチッソ本社前座り込み(七一年)、自衛隊の沖縄派兵阻止闘争(七二年)、第一回ウーマンリブ大会(七二年)、国労・全逓の反マル生闘争(七三年)、狭山差別裁判糾弾闘争(七四年~)。反政府の街頭実力闘争は後景に退くが、社会生活の多様な分野では運動はむしろ活性化した。
 党は三分裂したが、新左翼党派のなかでは例外的に内ゲバに走ることを自己抑制できたことは、特筆すべきことであった。そして、党の再建をめざして共労党全国協議会が結成され(七三年四月)、「統一」再刊準備版が発刊された。また、プロレタリア青年同盟全国協議会も結成された(五月)。三分裂した他の二つの流れは、全国組織を維持することができず、党の全国協議会が共労党を実質的に受け継ぐことになった。
一九七七年、三里塚闘争は、福田政権による成田開港宣言を受けて最大の決戦場を迎えた。「三里塚闘争に連帯する会」に結集する人びとと党派は、「空港包囲・突入・占拠」の方針を掲げて開港阻止決戦を組織した。五月には岩山大鉄塔破壊に対して怒りの大衆的実力闘争が展開され(東山 薫さんが虐殺される)、夏の試験飛行阻止闘争、そして全国の人びとを三里塚闘争に招き入れる全国大行進が組まれた(九月~一〇月)。年末には、私たちが空港突入を試みる闘争を敢行した。年が明けて、建設されたばかりの横堀要塞を死守する二昼夜にわたる闘争が厳冬のなかで展開された(二月)。
こうして、三・二六管制塔占拠・空港突入の闘争が成功し、開港を延期させた。民衆のたたかいの見事な勝利であった。福田政権は巻き返しに転じ、五月の開港阻止闘争にもかかわらず、滑走路一本で開港を強行。これに対して、飛行阻止闘争(~七九年)、ジェット燃料輸送阻止闘争がたたかわれた。
党とプロ青同は、「すべての力を三里塚へ」の方針の下で、多くの逮捕者を出しながら三里塚決戦に総力を投入し、闘争の行動的中核の役割を献身的に担った。

社会運動の多様化・拡散の中での政治の復権への試み
 八〇年代に入ると、民衆運動は、いちじるしい多様化・拡散という特徴を見せはじめた。特定の課題(反安保、三里塚など)に人びとの関心やエネルギーが集結するという求心力は後景化し、新しい課題や分野で運動が次々に生まれた。シングル・イシュー型の「新しい社会運動」の時代の到来である。代表的な運動だけでも、次のような運動が展開された。
 韓国の光州蜂起に連帯する行動(八〇年)、四〇万人を結集した反核行動(八二年)、トマホーク配備反対運動(八四年)、反天皇制運動の大衆的展開(八六年~)。
柏崎を皮切りにして全国で原発新設公開ヒアリング阻止行動(八〇年~)。そして、チェルノブイリ原発事故をきっかけに、都市部でも反原発運動(「原発いらない、いのちが大事」のニューウエーブ)が高揚(八八年)。
反開発の住民運動は、逗子の米軍住宅建設反対運動(八二年~)、三宅島の訓練基地建設反対運動(八七年)、長良川河口堰建設反対運動(八八年~)、ゴルフ場・リゾート開発反対(八九年~)が噴出。
女性たちによる真の男女平等法を求める運動(八三年~八六年)。生活クラブ生協、ネットの結成を生んだ「生活者」の運動。在日外国人の指紋押捺拒否行動(八五年~)。
他方で、戦後の民衆運動を支えた総評労働運動は解体の危機に陥った。国労の分割・民営化反対運動(八六年)は敗北し、連合結成と総評解散に行き着いた(八九年)。
党は、民衆運動の多様化・拡散を積極的に評価しながら、新しい形態での運動の全体性、つまり政治の復権の必要性を提唱し、一連の取り組みを開始した。すなわち、政治的イニシアティブ装置としての「時局協商懇」の立ち上げ(八二年~)、 社会主義理論フォーラム開催(八六年)を積極的に推進した。同時に、「共産主義者の連合」をめざす「建党協」に参加し(八二年、後に脱退)、後に「社会主義政治連合」の結成(九二年)に関わった。
私たちは、赤の潮流と緑の潮流が連合する「人民的政治勢力」の形成を提唱し(八七年)、その具体的な試みとして参院選で「原発いらない人びと」の選挙に力を注いだ(八九年)。また、「ピープルズ・プラン21」の開催(八九年)、「フォーラム90s」の創設(九〇年~)をきっかけとして、オルタナティブの議論の推進を提唱し、自分たちもこの作業に継続的に取り組んでいった。

社会主義の歴史的敗北とグローバル資本主義の攻勢の中での試行錯誤
 八九年から九一年、二〇世紀の歴史は大転換に見舞われた。ベルリンの壁の崩壊(八九年)からソ連邦解体(九一年)へ、そしてユーゴ内戦の勃発(九一年~)と、社会主義の歴史的敗北は誰の目にも明らかになった。このことは、冷戦の勝者としての米国が主導権を握って、グローバル資本主義が全世界を呑み込んでいくことでもあった。
九〇年代は、地球環境サミット(九二年)に象徴される地球環境問題が世界政治の焦点化する時代となった。日本では、反PKO法闘争(九一年)がたたかわれ、参院東京選挙区で反PKO選挙が組織された。全国各地で、原発・基地・ごみ処分場・開発などの課題をめぐる住民投票運動が活発化し(九六年~、巻町、名護市、御嵩町、徳島市など)、政府と住民の対決点が浮上した。同時に、村おこし・まちおこしの運動が広がった((長井市のレインボープランなど)。阪神大震災(九五年)をきっかけに、ボランティア活動が噴出し、NGO/NPOの運動が法制化を伴いながら広がった。
世界的には、グローバル資本主義の攻勢に対抗して、シアトルでの大衆的直接行動(九九年)を号砲にして反グローバリゼーションの運動が高揚していった。しかし、この時期、沖縄の米軍基地撤去のたたかい(九五年、二〇一〇年)を別とすると、日本の運動の活力は目立って落ち込んだ。
九・一一同時多発テロ(二〇〇一年)は、ブッシュ政権をアフガン戦争、イラク戦争(〇三年)に走らせたが、戦争の泥沼化の中で米国の軍事的覇権の凋落が始まった。
日本では、二一世紀に入ると、小泉「構造改革」(〇一年~〇六年)という形で新自由主義改革が本格的に強行され、非正規労働者の急増によって格差拡大と貧困の急増が進行した。新自由主義改革に対する抵抗と反撃はひじょうに弱かったが、二〇〇八年リーマンショックに伴う「派遣切り」は反貧困の課題と運動を登場させた。
九〇年代以降、私たちが力を注いだ課題は、新しい政治勢力の形成と登場であった。統一地方選挙への本格的な挑戦(九一年~)と国政選挙への取り組みを進めた。参院選「平和・市民」の選挙の惨敗(九五年)を経て、ローカルな政治勢力の登場に重点を移し、地方選挙では着実な成果を得た(岡山、大阪、神奈川、東京など)。同時に、ローカルを基盤にして全国的な政治勢力の可視化を諦めずに追求し、「虹と緑の五〇〇人リスト」結成(九八年)、参院全国比例区選挙(〇四年、「緑の会議」)、東京選挙区選挙(〇七年、川田龍平)、「みどりの未来」結成(〇八年)に積極的に推進し関わった。
もうひとつの課題は、社会主義の歴史的敗北を総括して、社会変革の路線と将来社会のオルタナティブを打ち出す作業であった。その一環として、私たちは党名を変更することを決断し(九六年)、「共産主義労働者党」は「自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ蒼生」に、「統一」は「グローカル」に変更された(九七年)。

民衆運動の新しいうねりの到来
 グローバル資本主義は、全世界を席捲し新興国の高い経済成長をもたらした。だが、それは金融資本主義化による経済の極度の不安定化、環境の危機の深刻化、至るところでの格差の拡大を引き起こした。リーマン・ショック、そしてユーロ危機(一一年)は、資本主義が先の見えない危機の時代に入ったことを告げた。
これに対応する動きとして、「アラブの春」(一一年)、「99%」を代表するオキュパイ運動、緊縮財政路線に対するヨーロッパ民衆の抵抗行動、ドイツなどの脱原発行動に代表される民衆運動の新しい波動が出現しつつある。
日本でも三・一一福島原発事故以降、脱原発運動の高揚と持続が始まり、大飯原発再稼動に抗議する大規模な官邸前行動のなかで「デモ」が蘇りつつある。民衆運動の新しい動きに呼応して、「緑の党」が結成された。


Ⅱ 資本主義へのラディカルな批判とオルタナティブ社会の構想

帝国主義への批判・闘争としての資本主義批判――六〇年代後半
 “資本主義は帝国主義(侵略と抑圧の体制)して現われている”、“米国のベトナム侵略戦争を阻止・挫折させることが資本主義の世界システムに大打撃を与える”。これが、 六〇年代のベトナム反戦闘争の渦中で共有されていた資本主義批判の内容であった。この認識は、新左翼のみならず旧左翼にも共通するものであった。
 当時の党は、米国のベトナムでの軍事的劣勢とドル危機の同時進行は、“戦後の安定的な世界秩序(米ソの平和共存、高度経済成長による統合)の危機・崩壊の始まり”であると捉えていた。ただし、“戦後世界秩序の崩壊は、一挙的ではなく漸次的・波及的に進行する”という時代認識(第三回党大会)に立っていた。しかし、それがひじょうに長期にわたる複雑でジグザグなプロセスを辿ることを予測していなかった。
 そして、資本主義に代わるオルタナティブ像は、「プロレタリアート独裁」を経由しての「社会主義的市民社会」の形成という抽象的なものにとどまっていた。

第三世界解放革命との合流という視座からの資本主義批判
 当時のベトナム革命は、間違いなく戦後の世界秩序を食い破る民衆運動の最先端に位置していた。世界を根本から変革するたたかいというリアルな可能性が、そこに見出された。
 私たちは、ベトナム革命を、民族解放闘争(独立と民主化)の枠を超える普遍性をもつ(近代的と前近代的の複合的な支配構造を変革する)革命たりうると美化した。すなわち、ベトナム革命のなかに、“近代的な物質的生産力に優越する人民の革命的創造力”による社会形成の可能性を見ようとした(『「第三世界」解放革命との合流のために』、七二年)。しかし、理念化されたベトナム革命像と現実の勝利した革命(七五年)・その変質とのあまりにも大きな落差を突きつけられていった。
 米国を盟主とする資本主義世界は、ベトナムでの敗北、さらに七〇年代の石油危機の衝撃をグローバル資本主義化によって包摂する再編へ向かったのである。現在から捉え返すと、ベトナム革命の勝利は、民衆を政治的に解放したが、同時に資本主義的近代化=市場経済化を推進する政治的前提づくり(杖払い)に帰結したのである。この逆説的な事態は、ロシア革命、中国革命にも当てはまる。
 民衆による独裁政権打倒の解放闘争の前には、巨大な壁が立ちはだかっている。韓国とフィリピンでも(八六年)、東欧でも(八九年)、アラブでも(2011年)、政治的民主化を実現するまでには至る。だが、資本主義的市場経済(グローバル市場への統合)に代わる新しい社会・経済システムの創出にまでは進めない、という壁である。この壁をどう乗り越えるが、問われ続けている未決の課題である。そのためには、自力更生の路線(中国)、内発的発展の路線などが、なぜ挫折したのかを総括することが必要である。
 また、ベトナム革命勝利後、武装闘争は国際的に波及した(パレスチナ、フィリピン)。しかし、武装闘争による勝利を達成することはできず、挫折・衰退に向かった。

近代への批判・対決としての資本主義批判、エコロジカルな経済と社会の提唱

  ――七〇年代後半から八〇年代へ
 七〇年代から八〇年代、三里塚闘争や反公害住民運動が燃え上がると同時に、科学技術(の中立性)批判が出現した(宇井純の公害原論、高木仁三郎の反原発論など)。また、社会主義理論フォーラムや「ピープルズ・プラン21」を契機としてオルタナティブ議論も始まった。そして、八〇年代末には、社会主義の歴史的敗北が冷厳な現実となった。
この時代、私たちは、エコロジーの視点(自然・人間関係の根本的な捉え返し)を学ぶことによって、マルクス主義が色濃く保持してきた“開発・進歩”の神話、科学技術の発達(自然支配)の礼賛、生産力主義、工業化の推進といった近代主義イデオロギーと最終的に訣別していった。資本主義批判は、近代への根本的な批判という深みにおいて行なわれるべきだというのが、私たちが辿りついた地平であった。そこから、オルタナティブとして、農(的価値)の復権、循環型経済といった要素を積極的に評価することになった。
私たちは、新左翼党派のなかでほぼ唯一、三里塚闘争からエコロジー思想を学びとったと言える。 
それでは、「近代の乗り越え」とは何か。私たちは、エコロジー・フェミニズム・人権思想(リベラリズム)・ポストモダンの思想との対話を通じて、「近代の乗り越え」の内容を提示した。それは、近代が否定・破壊・切り捨ててきたもの(エコロジー、共同体的自治)の再生・復権と近代から継承すべきもの(個人の自立と人権、自治と参加の民主主義、権力への監視、市場経済の一定の合理性)を明確にすることであった。
エコロジーとコミューン的自治の視点を取り入れた私たちの思想的な営為は、八〇年代末に訪れた社会主義の歴史的敗北を総括する座標軸ともなった。敗北の主要な理由は、「国家に転じる革命」への変質と国家の独裁の完成、その根拠としてのプロレタリアート独裁論と前衛党主義、また近代的生産力(工業化)の継承による自然と農民からの収奪、経済成長の速度を競う資本主義との競争という路線にあった。
私たちは、オルタナティブの討論の呼びかけと提案を行ない、そのための活動を強化してきた。そして、「自治・連帯・エコロジーの原理に立つ民衆主体の社会」(九一年)、「循環型で失業なきゼロ成長社会」(九六年)といったビジョンをいち早く提唱した(九六年)。「脱成長」というオルタナティブは、二〇〇〇年代後半に市民権を獲得し、いまや無視できない社会的潮流に成長している。

グローバル資本主義への批判・闘争としての資本主義批判、多様なローカルが連帯する世界へ

 ――九〇年代後半から二一世紀へ
“資本主義に代わるオルタナティブはない”というイデオロギー=神話が、ポスト冷戦=グローバル資本主義の時代に圧倒的な力をもって世界を席捲した。 このイデオロギーとたたかい、資本主義を乗り越えるオルタナティブを提示することが、民衆の解放運動にとって避けて通れない重要な課題になった。
グローバル資本主義は、非資本主義的な要素(労資同権制、所得再分配、競争の制限など)を組み込んだ資本主義[ケインズ主義的福祉国家]を否定・解体し、国境を超える市場原理に純化する資本主義[新自由主義的な純粋資本主義]として登場した。社会主義という対抗力の消滅は、資本主義をある意味では古典的な姿(市場原理主義)に立ち帰らせた。
しかし、グローバル資本主義の展開は、エコロジーの危機をいっそう深刻化した(地球温暖化、原発事故、「リスク社会」化)。同時に、金融資本主義化(マネーの暴走)によって世界経済を極度に不安定化している(リーマン・ショック)。そして、格差のいたる所での拡大(「1%」VS「99%」)を招き、民衆の不安と怒りをかき立てている。
問われている選択肢は、何か。非資本主義的な要素を組み込んだ資本主義(「ルールで規制された資本主義」、「グリーン資本主義」)への再度の進化か。それとも資本主義世界システムと非資本主義的なローカル・システムの拮抗(後者による前者の蚕食 → 前者による後者の再包摂 → 再度の後者による前者の蚕食 という永続的な過程)か。これが、グローバル資本主義がその行き詰まりと限界を露わにしている現在、あらためて問われている課題である。
そして、現代の世界は、覇権国=基軸国なき混沌の世界へ入りつつある。米国の軍事的覇権の凋落は、アジア・太平洋への軍事力のシフト、中国との主導権争いとして現われれている。同時に、米国はリーマン・ショックによって「世界の金融センター」の地位を喪失し、基軸通貨としてのドルの信認は地に墜ちた。ユーロがドルに代わって基軸通貨になる夢も潰え去った。
それでは、中国がアメリカに代わって覇権国となるのだろうか。その可能性はおそらく小さい。世界は、米中二極=G2体制というよりも「Gゼロ」、つまり覇権国=基軸国なき時代に入りつつある。
希望は、多様なローカルが連帯する世界の構築にしか見い出せないだろう。民衆が自分たちの手でエコロジカルな循環型社会と自治・参加型の社会を創りあげる。ローカルな社会像は、かなり明確なビジョンとして共有されつつある。だが、多様なローカルが国境を超えて連帯する仕組みの原理とビジョンは、まだ空白である。この課題をどのように解いていくのか、問いは重く大きい。


Ⅲ 社会変革と主体形成の路線の探究

政治=社会同時革命という路線の提起――六八~六九年反乱の意味の捉え方
 六八~六九年反乱は、次のような特徴を帯びながら、世界的な同時代性をもって出現した。それは、独自の起源をもち性格の異なる二つの闘争が共鳴し合いながら発展したことである。ひとつは、国家のあり方や路線を変えるべく政治権力に挑む闘争(ベトナム反戦、安保粉砕、政府打倒の闘争)。もうひとつは、社会生活のすみずみにまで張り巡らされた権力関係を解体し、自治・自主管理・自己決定を実現する闘争(全共闘運動、フランス五月革命の占拠運動)であった。
 私たちの党は、六八~六九年反乱の特徴を「政治=社会同時革命」(政治革命と社会革命が同時的に進行する)という視点から捉え、現代革命の路線として一般化した(党三回大会)。これは、政治権力奪取だけをめざす革命路線(レーニン主義)に囚われていた当時の新左翼の中では、群を抜いた理論的提起であった。しかし、「政治=社会同時革命」論は、抽象的な次元にとどまり、政治闘争と社会闘争の相乗的発展と引き裂かれの複雑な過程を描ききれていなかった。両者のダイナミックな関係をどのように組み立てるべきかという未決の課題は、その後、私たちを長く悩ませることになった。
六八~六九年反乱は、政治闘争と社会闘争が相乗的に発展する局面から、両者が引き裂かれていく局面に反転することを教えた。日本では、社会的な反乱や拠点が潰され(大学占拠・封鎖の解除)、たたかいはそこから切断された反政府の街頭実力闘争に絞り込まれ敗北した(フランスの工場・学園占拠の闘争は、ドゴール政権打倒の闘争にまで登り詰めたが敗北)。しかし、この敗北をくぐって、社会的な権力関係に対する異議申し立てと自己決定の運動が噴出してきた(ウーマン・リブ、地域住民運動、工場の占拠・自主管理闘争など)。
六八~六九年反乱の敗北は、反安保闘争(佐藤訪米阻止闘争)の敗北という以上に政治権力奪取を優先する社会変革の構想の終焉を歴史的に告げた。
しかし、当時の党は、この敗北から学んで「政治=社会同時革命」論を再検証し、政治権力奪取優先主義に代わる社会変革構想の獲得と提示を行なうまでには至らなかった。その理由は、次のことにあった。(1)反安保・沖縄返還協定阻止の反政府政治闘争のエネルギーはすぐには衰えず、七一年まで持続していた。(2)街頭実力闘争から政府打倒・政治権力奪取へという路線は、武装闘争への戦術的高次化に向かい、その是非が主要な論争点になった[「攻撃の暴力」も「抵抗の暴力」も一括りにした「武装闘争」論の枠に囚われていた]。(3)私たちも、強固な前衛党主義に呪縛されていた。
さらに、七〇年代の党再建の時期も、私たちは、“党―革命的統一戦線”という古典的な主体形成の構想に固執していた(これは、“建党―建軍”路線との対抗という意味をもったことはたしかだが)。これは、六八~六九年反乱における主体の特徴(政治党派と無党派活動家との協力・競合、“左翼政党と労働組合”の統制を突破する活動家や市民の登場など)を捉え損ねていた。

「根拠地」の形成という構想
三里塚闘争は、国家権力による「問答無用」の農民の土地強奪に対して実力による抵抗が持続し、全国的な反権力闘争の最前線にせり上がった。しかし、この闘争には、主体の複合性(部落共同体の連合とその組み換え、反対同盟と支援勢力の協力・相互変革と利用・依存の関係)、そして闘争を通じて「土」の思想や「農」的価値が再発見されたという特質があった。日本の「緑」の原点の1つは、疑いもなく三里塚闘争にある。
私たちは、三里塚闘争のなかに「闘争とその大義の主張が、生産・生活の現場から切り離されることなく、闘争と生産・生活との一体化した姿で実現されてきた」「根拠地の生成の可能性を発見」した(八二年、注1)。
 「根拠地」の形成という着想は、その後、これまでの世界的な革命の経験を捉え直すことを可能にした。私たちは、“国家権力奪取による社会変革”のモデルとされたロシア革命のなかに「自治と対抗社会形成」というコミューン革命(「共同体の自治の革命」)を見出した。また、中国やベトナムの人民戦争の過程で形成された「解放区」を、政治権力獲得の足がかりという位置づけではなく、新しい社会形成のモデル(対抗社会形成)として意味づけた。
「根拠地」は、国家権力に対する実力抵抗(闘争)と対抗社会モデルの形成(生産・生活)という二つの面を併せもつ。したがって、「根拠地」は、特殊な条件の下で個別課題での闘争に即して生まれる(三里塚闘争から学んだ国家は、強権的・暴力的な方法で住民の土地を強奪するやり方を回避するようになった)。
したがって、「根拠地」の生成と維持はいくつかの難題にぶつからざるをえない。一方では、個別闘争の実力抵抗は当然にも永続できない(人はいつまでもたたかい続けることはできない)。他方では、対抗社会形成の運動は急速に広がってきたが、抵抗や闘争から切断された市民事業(食の自給・産直、ケア、エネルギー自給など)に純化しがちである。市民事業は、行政の下請け事業化や市場経済への順応とどこで一線を画するかという課題に直面している(その点で、祝島の反原発闘争がエネルギー自給の実験に着手していることは興味深い)。
しかし、「根拠地」の構想は、いぜんとして有効な面をもっている。サパティスタの革命運動に見られるように、国家権力との攻防の特殊な条件の下で自治的な社会が登場する可能性があるからである。

            ※注1)白川『もうひとつの革命』(社会評論社、一九八二年)

主体形成(“党と人民”の関係)および「暴力」問題の発想の転換
私たちを含む新左翼の政治党派は、三里塚闘争の過程では行動的中核の役割を果たしたが、八〇年代に入ると、その役割が次第に小さくなっていった。社会運動の多様化・拡散(可視的な全体性の消失)、実力闘争の衰退、内ゲバの影響と思想的硬直性による新左翼党派の政治的・組織的力量の急速な低下が、その理由であった。
私たちは、ベトナム革命への連帯と三里塚闘争の過程で、“革命主体としてのプロレタリアート”という神話からの脱却を試みていたが、三里塚闘争をくぐり抜けて、「人民」という主体像を提起した。「人民」は、すでにどこかに存在するものではない。異なる利害・要求や対立・分断を抱える諸集団の相互変革的な連帯として生成する主体である。このことは、前衛党主義(“党―革命的統一戦線”構想)の自己批判と新しい“党―人民”関係の定立を不可避の課題とした。
そのとりあえずの答えが、“指導的核心としての党”(八〇年)という立場であった。“前衛としての党”観を克服し、自ら権力になる人民の矛盾を孕んだ主体形成の内側に党(党派)を契機として埋め込むという発想であった。その上で、党(党派)の固有の役割を、抽象的だが仮説としての全体性の提示(「大きな物語」、課題提起)と行動的な集中力に求めた。そして、九〇年代には、私たちは、自分たちを「党」という規定ではなく「政治集団」として規定することにした。その固有の存在意義を、問題提起者、課題設定、支援者=「ボランティア」集団、政治議論の場、人材育成として確認した(九六年)。
新左翼運動のアイデンティティのひとつは、「革命的暴力の復権」(議会主義の乗り越え)にあった。六〇年代のベトナム反戦闘争から七〇年代の三里塚闘争は、「実力闘争」として展開された。だが、八〇年代に入ると実力闘争は下降線をたどり衰退していった。その背景には、パレスチナやフィリピンやラテンアメリカにおける世界的な武装闘争の行き詰まりがあった。
私たちは、三里塚闘争の渦中はむろんのこと八〇年代においても、国家権力奪取優先の社会変革構想を再検討する作業との関係で、実力闘争の意味と「革命的暴力」を捉え返す作業に手をつけず、先送りしていた。
「革命的暴力」の抽象性、つまり実力闘争から武装闘争までを包摂する融通無碍さを自己批判し、「抵抗の暴力」の意味を明確にするのは、九〇年代以降のことであった。三里塚闘争の経験を総括し、国家権力奪取のための「攻撃の暴力」と自らの生活空間を守るための「抵抗の暴力」を区別し、「抵抗の暴力」を自分の身体を武器にする非暴力直接行動から大衆的・象徴的な実力闘争までを含むものと位置づけた。そして、「抵抗の暴力」=「対抗暴力」の特徴としての自己限定性と防御性を明確にした※。
現在、「アラブの春」を含めて、世界的にも非暴力直接行動が世界的な民衆運動の特徴となっているが、独裁政権に対する武装抵抗が行なわれている国もある。ベトナムをはじめ第三世界の解放闘争における武装闘争の意味と問題点をきちんと総括する課題は、いぜんとして残されている。
 ※注2:白川「暴力はなくせる?」(『格差社会から公正と連帯へ』、工人社、〇五年)

新しい政治勢力形成をふくむ社会変革の構想の提唱
 八〇年代は、中曽根政権が登場し、日米同盟の本格的な強化と新自由主義改革の攻撃が開始された時代であった。しかし、民衆運動の側は、運動と課題の多様化・拡散による活性化がありつつも、国家に対するトータルな政治的反撃を組織できず、戦後の民衆運動の基盤であった総評―地区労の運動は解体されていった。
 私たちは、赤と緑の潮流の連合による「新しい政治勢力形成」を提起した(八七年)。運動の全体性という意味での「政治」の衰弱と社会運動の多様化・拡散、そして実力闘争の行き詰まりのなかで、三里塚闘争に依存する形ではない「政治」の創出が、私たちに問われたからである。
 私たちがめざした「新しい政治勢力」(「人民的政治勢力」)は、前衛党(革命政党)ではなく制度圏内の政党をめざすものと位置づけられた。その大きなヒントになったのは、ヨーロッパ左翼の再生、すなわちドイツにおける「緑の党」の出現の経験である。
 政治勢力(制度圏内の政党)の形成という課題の定立は、3つの契機=要素から成る社会変革のプロセスの明示化によって根拠づけられた。私たちは、実力抵抗プラス対抗社会形成という社会変革の構想を、もう一歩前に進めた。それが、“持続する抵抗(大衆的直接行動など)”と “対抗社会の形成(市民事業の組織化など)”と “制度的改革(議会や法制化の活用など)”の緊張を孕んだ結びつきと相乗的な発展という展望である(八八年※)。
 そして、実践的には、国政選挙への共同の取り組みの推進およびローカルな選挙への(無党派の人びととの協力の下で)独自の取り組みに力を傾注した。
 ※注3 白川「地域住民運動」(フォーラム90s『20世紀の政治思想と社会運動』)

民衆運動の新しい波と「緑の党」形成の緊張に満ちた関係をどう構築するか
 グローバル資本主義の動揺と危機が民衆に厄災と犠牲を押しつける状況に対抗して、世界的な民衆運動の新しい波が登場している。これは、二〇世紀末からの反グローバリゼーション運動を助走路とし、一一年のオキュパイ運動に代表される。これはまた、「アラブの春」や南欧での反緊縮財政策の闘争と緊密に連動している。日本では、三・一一以降の脱原発運動の波、とくに原発再稼動に抗議する行動の高まりは、新しい何かの始まりである。
 オキュパイ運動に象徴される民衆運動の新しい波は、(1)特定の中心や指導部が存在せず(イニシアティブを発揮した個人はいるが)、多様な個人や集団の柔軟で水平的なつながり、(2)ツイッターなどインターネットの自在の活用による動員、(3)非暴力の直接行動、(4)広場の占拠による「コミューン的自治」の空間の創出、を特徴としている。
 オキュパイ運動は、個別の要求の実現ではなく(要求リストのない運動)、「体制」(1%による富と権力の独占)そのものに異議申したてをする運動である。その点で、シングル・イシュー型の運動(「新しい社会運動」)が噴出した六八年以降の時代の民衆運動とは異なり、古典的な階級闘争(格差や貧困を問題視し資本主義的「体制」を標的にする)の復権という面をもつ。しかし、運動の中で「コミューン的自治」や「公共空間」の創出を試み、多様な人びとが水平的なネットワークで結びつくという主体と運動のあり方は、シングル・イシュー型の運動の時代の経験や特徴を引き継いでいる(ポストモダンの運動)。
 いま登場している新しい波の民衆運動は、(1)それがどのような形で持続し、波及するのか、(2)資本主義に代わるどのようなオルタナティブを共有できるのか、(3)制度圏内の政党の動きを含めて、どのような政治表現を獲得するのか、という課題を解いていくことを求められている。
 日本では、民衆運動の新しい波は、三・一一以降の脱原発運動の波として出現し、「デモ」(直接民主主義)が再生している。このデモには、オキュパイ運動に見られる多様な人びとの水平的なつながり、ツイッターなどインターネットの自在の活用、非暴力といった特徴が現われている。
そして、脱原発の運動と意識の高まりに後押しされて、新しい政治勢力形成の努力がようやく「緑の党」の立ち上げとして結実した。もちろん、それは始まりにすぎない。現在の民衆運動は、誰かによって「代表」されたり「指導」されることを拒む多様性や自立性を特徴としている。「緑の党」は、民衆運動を「代表」したり「指導」する存在ではないが、民衆運動の孕んでいる重要な契機(ビジョン、制度圏への要求や発言)を表現する。
脱原発運動はさまざまに異なる発想や多様な人びとから成る運動であるが、「緑の党」は、この脱原発運動との間にどのような協力・対話=論争・相互促進・緊張の関係を創りだしていくのか。「緑の党」は、いかにすれば脱原発運動および人びとの脱原発・脱成長の志向の政治的表現になりうるのか。


Ⅳ 党の組織活動の教訓

    (ここでは項目のみを挙げ、別の機会に論じたい)

1 活発な党内論争と組織分裂
 ◆第三回大会における組織分裂:六九年秋期政治決戦に突入する判断をめぐる古参共産主義者の離脱
 ◆七一年秋の三分裂:暴力をめぐる路線対立(「建党・建軍」路線)の表面化
 ◆八〇年代初頭、「建党協」参加をめぐる方針上の対立で、九州地方委員会の一部の離脱。
 ◆分裂は回避できたか:論争のあり方、論争のリーダーシップの発揮の有無、路線上・方針上の対立と人間的な不信感の作用、

2 分権的な組織論と行動的集中力
 ◆地方党組織の専従活動家は地方組織が責任をもち、中央指導部が介入しなかった。
 ◆行動的集中力の発揮:六九年秋期政治決戦、七一年三里塚九・一六闘争、七七~七八年三里塚決戦。現地闘争団の設置(三里塚、熊本での自衛隊沖縄派兵阻止闘争)
 ◆女性党員の比重、役割、位置づけ(中央指導部に女性が一人もいなかった)。
 ◇グラムシのいう「党形成の3つの基本要素の融合の必要」という視点からみた組織のあり方を総括する。

3 組織活動の経験から何を得たか
 ◆定期的な会議と政治討論、学習会
 ◆共同の闘争体験を蓄積することの意味と限界。
 ◆組織からの離脱(「脱落」)をどう考えるか。

4 人材(リーダー)養成にどこまで成功したか
 ◆トップリーダーの継承:内藤知周議長・いいだもも書記長(結党時) → いいだ議長・白川真澄書記長 → 田井允男書記長・白川編集局長(全国協議会) → 白川代表 → 宮部 彰代表
 ◆指導部内(幹部間)の関係はどのようなものであったのか。
 ◆地方党組織のリーダー。
◆専従活動家という問題、専従活動家と(働いている)党員の関係。

5 指導者の個性
6 党組織を内と外から支えた人びと。 
  1. 2013/04/19(金) 18:33:34|
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朝鮮学校差別に反対する

 古本屋通信  No 182  4月15日


 朝鮮学校差別に反対する

 日本左翼の中にあって、第四インター系は差別問題にとりわけ敏感である。少し古くなったが、この間の朝鮮学校に対する差別を取り上げた記事を転載する(以下はすべて「かけ橋」4月15日号からの転載である 古本屋通信)。



 朝鮮学校無償化はずし反対!
3.31東京 全国から六〇〇〇人が参加し集会・デモ
日朝共同闘争で朝鮮学校・民族教育を守り抜こう

 すべての子どもたちに学ぶ権利を
 三月三一日、東京日比谷野外音楽堂で「朝鮮学校外しにNO!すべての子どもたちに学ぶ権利を!3・31全国集会・パレード」が、同実行委員会の主催で行われ会場を満杯にする六〇〇〇人が結集した。
 かつて民主党が打ち出した「高校授業料無償化制度」は朝鮮高校だけを適用対象から外し、その後、在日朝鮮人民衆、高校生、父母会、教師たちの必死の闘いによって「審査」という形にもちこんだ。こうした紆余曲折を経たが適用対象にはならず、自民党安倍政権の誕生によって完全に対象外にされてしまった。
 しかし、在日朝鮮人の闘いの火は終わったわけではなく、ますます燃え上がり新たな高揚が始まろうとしている。三月二四日には名古屋で愛知朝鮮高校の生徒五人(無償化制度開始の年に高校生だった)が国を相手に国賠訴訟を起こす闘いを開始し、その勝利をめざす決起集会が五〇〇人の結集で勝ち取られ、大阪では、無償化外しに反対する集会、デモが二〇〇〇人の結集で勝ち取られた。東京でも抗議行動が勝ち取られた。
 今回の集会は、無償化適用から外すだけでなく、神奈川や大阪など補助金の打ち切りなどの動きに対し、朝鮮学校と民族教育を守る決意をうちかためる全国集会として勝ち取られた。

 右翼の排外主義宣伝を許すな!
 会場の日比谷野外音楽堂の周辺は、集会が始まる一時間以上前から右翼の街宣車数十台が大音量で差別排外主義を煽り騒然と緊張感の張りつめる状況となっていた。このような中でも続々と朝鮮人高校生、学生、父母会、教師たち、そして日本人労働者が日比谷野音に結集してくる。平和フォーラム系の労働組合も約一〇〇〇人が参加し、会場右側を陣取った。
 定刻前、朝鮮大学の学生、数十人がステージに勢ぞろいし、無償化外しに対する怒りのアピールとシュプレヒコールを上げ、学生たちが作詞作曲した「声よ集まれ、歌となれ」を参加者と共に合唱した。

 ともに人権と民主主義守る
 午後一時、集会が始まり、集会実行委員長の長谷川和夫さんが開会あいさつを行った。
 「今、日本は、社会排外主義が蔓延し、憲法改悪の動きが活発化している。この安倍政権が最初に行ったのが朝鮮高校無償化排除の方針でした。この動きに対し七つの団体が実行委員会をつくり本日の全国集会を開催しました」。
 「私たちは思い起こすべきです。二〇世紀は戦争の時代でありアジアの人々の言語と文化を奪った時代です。過ちは反省し、二度と繰り返さないのが人間だ。今の安倍政権を糾弾するだけでなく在日朝鮮人と日本人の人権と民主主義を守るべき闘いをしよう」。
 「私たちは、在日朝鮮人の人々が愛し守り抜いた朝鮮学校を絶対に守る、かたい団結を作った歴史的な日として今日の集会を記憶しよう」。

 良心をつなぎ信念をこめて
 集会によせたメッセージでは、ルポライターの鎌田慧さん、千葉大学文学部教授の三宅晶子さん、元スカルノ大統領夫人のデヴィ・スカルノさん、映画「ウリ・ハッキョ」監督のキム・ミョンジョンさんが発言した。この中でキムさんは「日本は外交で子どもたちを人質にとり国際政治に利用するのか!」と糾弾し、会場周辺で大音量の罵声で妨害する右翼に対しても「ヤクザのコールで私たちを黙らせるとでも思っているのか!」と一喝した。また日本人に対しても「日本のみなさん、自分の国を美しくしてください。真実に向けて顔を上げてください。日韓を連帯の手で結びましょう。日本の良心と韓国・世界の良心をつなぎゆるぎない信念で闘いましょう」とアピールした。
 キムさんの発言の後、司会から、本年三月二九日、韓国の参与連帯などの市民団体五〇〇団体が朝鮮高校無償化外しに抗議する共同声明が出されたことが紹介された。

 朝鮮高校生徒たちのアピール
 続いて、朝鮮高校生による民族舞踊と合唱団の歌と踊りが披露され、全国に一〇ある朝鮮高校の生徒代表一〇人が登壇し、アピールを行った。「二〇一〇年の無償化制度は画期的なものでした。しかし、『国交がない』『反日教育をしている』『総連とつながりがある』との理由で適用から外されました」。
 「どれも私たちには、かかわりのないことです。この制度は各高校生個々人への支援だったのではないのですか?民主党は個人ではなく朝鮮高校だから外した。これは明白に差別だと思います」。
 「私たちは街頭署名やデモを行い一〇代後半の私たちにできることをすべてやりました。街頭に立つとののしられることもあります。そういう怖い思いもしながら署名を集めました。しかし、そのたびに自分は差別される存在なのだと思ってしまいます」。
 「この間、神奈川や大阪で朝鮮高校への補助金が廃止されています。このような状況の中『希望をもて』『正義は必ずとおる』と周囲の大人たちは励ましてくれますが、現実のあまりの理不尽の前になすすべを持たない私たちの気持ちは、複雑です」。
 「私たちは生まれ育った日本に敵意も害意もありません。それなのになぜ差別するのですか?無償化と補助金の問題は金銭の問題ではなく、この日本で生きていくためによりよいものにするためだと考えています。差別をする道理や余地はありません。私たちはこれからも日本の地で一人の朝鮮人として堂々と胸をはり人の役に立つ人間になるために学び続けることを約束したいと思います」。

 人間の尊厳がかかる闘いだ
 続いて、朝鮮高校校長会の高さんが登壇し「まさか適用されないまま三年も卒業させてしまうとは思わなかった。無償化が実現できたら親に楽をしてもらえる。そういう思いがあった。三年間頑張ってきたがつらい思いをさせてしまった。だがお金の問題ではない、人間の尊厳をかけて堂々と闘いたい」とくやしさを乗り越えて闘う決意を述べた。また「日本人の支援者は『自分のことのよう』ではなく『日本人の問題』として運動を繰り広げてくれた。本当に頭がさがります」と連帯への感謝の気持ちを述べた。
 連帯あいさつでは、「無償化連絡会・大阪」の代表が、三月二四日大阪で無償化外しに抗議する集会とデモが二五〇〇人の結集で勝ち取られたことが報告された。さらに無償化外しと補助金の廃止に対する裁判を始めていることと、逆に大阪市が土地の明け渡しを求めて中朝鮮初中級学校を提訴したことを報告し、守る闘いを展開する決意を述べた。そして補助金が打ち切られた朝鮮学校の財政を支えるために「ホンギルトン基金(大阪朝鮮学園支援府民基金)」が設立され現在、約一千万円が集まり、基金した人の七割が日本人であることが報告され、大きな拍手を受けた。(※ホンギルトンとは差別と悪政に苦しむ民衆を救った朝鮮中世のヒーロー)
愛知県からも無償化ネット愛知の代表がこの間の取り組みを報告した。(別掲記事参照)


 全国のオモニたちが訴える
 集会も後半に入り、全国のオモニ(母)会の代表二二人が登壇し、それぞれの決意と怒りを述べた。茨城の代表は「子どもたちが街宣などに頑張っている姿を見て、私たちも闘ってきた。安倍は完全に私たちを排除した。許せない」と発言した。
 東京オモニ会の代表は「二〇一〇年二月二七日から行った国会への要請行動、集会、街宣は数え切れません。理不尽であからさまな差別です。こんなことをしてはいけないことぐらい先進国の日本はわからないのでしょうか?子どもたちの未来を閉ざすわけにはいかない。先代が作り、育んだように私たち親の世代が頑張るのは使命だ。私たちは孤立していない。多くの日本人の味方がいます。強いスクラムで子どもの未来を守ろう」と決意を述べた。
 神奈川オモニ会の代表は「今、朝鮮学校の助成金が次々廃止されています。皆、義憤に満ちています。政治の刃が大人たちの手によって子どもたちにも危害が加えられようとしています。これは間違いです。差別です。私たちの願いは安心して朝鮮学校で学べるようにすることです。」「こんな中でも日本の友人たちは、自分の子どものことのように行動してくれた。三年間本当にうれしかった。多くの勇気をもらいました。みなさん、これからも私たちと共にいてください」と思いを述べた。

 胸を張ってパレードをやりぬく
 すべての発言が終了し、集会アピールが読み上げられ、常盤橋公園までのパレードに出発した。数寄屋橋交差点や東京駅周辺には数十台の右翼が街宣車を反対側車線沿道に停め、大音量で罵詈雑言をあびせかけたが、パレード参加者はものともせず、堂々とパレードを貫徹した。パレード後尾の平和フォーラム、労働組合も力いっぱいコールをあげ最後までパレードを行い解散地点前では朝鮮人参加者からエールをもらい共に交歓しあい、この日の行動を終了した。日朝日韓民衆連帯が今まで以上に求められている。共同の闘いで朝鮮学校、民族教育を守り抜こう。 (青木)

 3・31集会アピール 私たちの決意!
 私たちは、日本に生きる者として強く要求する。
「日本に生きるものすべてに平等な権利を保障することを。」
 日本政府は、高校授業料無償化制度を決定し2012年9月11日、国連人権規約社会権規約13条2項の留保を撤回した。このことにより、日本の高校等のすべてが「無償化」されるはずであった。しかし、朝鮮高校で学ぶ生徒には適用しないことが決定された。
 日本政府は、日本国民の理解が得られないと主張する。「国民」とはだれか。そして、日本に学ぶすべての高校生に無償化制度を適用することは、日本政府の国際社会での責任でもある。
 国連憲章55条3項は「人種、性、言語または宗教による差別のないすべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」を要求している。このことは、人類の長い歴史の中から普遍的原則としてつくられてきたものである。どのような状況にあっても、どのような理由があっても、侮り軽んじてはならない。
 私たちは、今日ここに集うすべての者は、そして今日の集会に賛同するすべての者は、この日本政府の理不尽な、許されない差別に対して満腔の怒りを込めて主張する。「日本に生きるものすべてに平等な権利を保障することを。」
(本アピール文は、四月三日に文部科学省に提出された。)
 運動へのカンパ振込先は、ゆうちょ銀行00190-9-473007「高校無償化」連絡会まで。

3.24朝鮮高校就学支援金差別は違憲だ

 国家による不当排除NO 決しておカネの問題ではない
 【愛知】三月二四日愛知県名古屋市の千種区役所講堂で「3・24朝鮮高校就学支援金差別違憲訴訟決起集会」が、「愛知朝鮮学園」と「朝鮮高校にも差別なく無償化適用を求めるネットワーク愛知」の主催で行われた。参加者の発表はなかったが講堂を満杯にする朝鮮高校生とその卒業生、父母、教師、そして共に無償化実現にむけて闘いを開始した日本人の参加者で熱気あふれる決起集会となった。

 存在と人格をかけた闘いだ
 愛知県では、二〇一〇年民主党政権下で高校授業料無償化政策が行われたが朝鮮高校だけが無償化適用を外されたことに反対する闘いが三年にわたって続けられてきた。そして、ついに日本国そのものを訴訟する闘いに踏み切った。今回、訴訟するのは、二〇一〇年(高校無償化制度開始年度)の当時の朝鮮高校生である。マスコミによる反「北朝鮮」キャンペーンや在特会などの差別排外主義の動きが激しい中での日本人社会に生きる在日朝鮮人の全存在と全人格をかけての決断であった。日本人労働者の共同の闘いが今こそ必要であり、共に朝鮮高校の無償化を勝ち取らなければならない。

 みんなが原告になったつもりで
 定刻になり、司会者のあいさつで集会が始まった。最初に朝鮮中高級学校の校長先生が経過報告を行った。「日本は朝鮮高校だけを無償化適用しなかった。他のインターナショナルスクールや国交のない台湾の学校は問題なく適用したのに朝鮮高校だけ排除するのは差別だ。今日の集会は、その訴訟を力強く進めるために開催した」「三年間にわたり朝鮮高校の生徒たちは何度も集会や街頭署名を行い、一万一〇〇〇筆の署名を集め、文部科学省に提出した。しかし時間をひきのばし拉致問題を理由に無償化は実現できていない」。
 「今回の訴訟にあたっては、何度も悩み、意見を出し合い決断し、今年一月二四日提訴した。これは金銭の問題ではなく日本国に差別を認めさせる闘いだ。すべてのみなさんが原告になったつもりで強い意志でご協力をお願いする」。
 続いて結成された訴訟弁護団一二人の内七人が壇上に勢ぞろいし紹介された。代表の弁護団長の内川恵一さんは「いよいよ裁判が始まる。日本国憲法の下でこのようなことが起こるのはとんでもないことだ。裁判では多くの傍聴者の参加が裁判官の変化を起こすこともある。ぜひ、裁判の傍聴をお願いする」と決意と支援を訴えた。

 子どもが教育を受ける権利
 次に弁護団事務局長から訴訟報告が行われた。「本件の訴訟は、生徒と卒業生による国家賠償請求になる。国賠訴訟とはなにか?それは、国家公務員の違法行為による権利侵害に対して損害賠償金を求める裁判です。損害項目として慰謝料を請求する。なぜか?この裁判で支給されなかった額を請求するためだ。しかし、これはお金の問題ではない。これは、差別なのだと明らかにすること。社会的認識として差別だと認めさせ是正させる。そういう思いで国賠請求を決断した」。
 「日本国憲法では外国籍の人も平等に扱うとしています。民主党の政策で無償化が画期的だったのは今まで支援してこなかった外国人学校にも支援するということだ。ところが当時の拉致担当大臣がストップをかけ、これに対し国連が『子どもの教育に政治外交は関係ない』と勧告したが『教育内容がよく分からないから審査する』とした。ところがヨンピョン島砲撃事件で中止され、その後、再開されたが『拉致問題が安定しないから』『国民の理解がえられないから』として打ち切られた」。
 「今回の高校無償化外しの意味は、『気に入らない子どもには支援しない』ということだ。これは、学習権の侵害であり、学生たちに対する人格権の侵害だ。朝鮮学校は民族性を取り戻す学校です。一世二世の多くの犠牲で作り上げてきた。子どもが教育を受ける権利を享受するのは大人の責任だ。原告と私たちの決意を支えてください。民族差別の激しい中での闘いになる。みなさんの支援をお願いします」。
 次に、この集会のために韓国から来日した、映画「ウリハッキョ」の監督であるキム・ミョンジャンさんがあいさつを行った。キム・ミョンジャンさんは、まず自分が韓国のNPO団体「朝鮮学校を愛する人々―モンダンヒョンヒル」の事務総長であることを紹介し、「これから読む文は、朝鮮学校を愛する韓国市民団体全ての共通の声だ」と前置きし、無償化から外すことの差別への怒りを述べると共に日本人に対しても、「立場を変え、歴史をふりかえって考えてほしい」と訴え第二次世界大戦時、アメリカで多くの日系人が収容所に入れられた歴史を例にして考えを促すとともに日本政府を批判した。さらに今回の事態は私たちの無関心だったと述べ謝罪するとともに日本の良心的な人々と共に手をつないで勝利を確信しようと述べた。

 分断はねのけ統一を求めて
 小休止を挟んだ後、愛知朝鮮高校の生徒、父母、教員がそれぞれの思いと決意を述べ、日本人の側からは、
愛知県立大学教授の樋口浩造さん、「ネットワーク愛知」共同代表の磯貝治良さんが発言。さらに「朝鮮学校を支援する全国ネットワーク」は、三月三一日東京日比谷野外音楽堂で「朝鮮学校外しにNO!すべての子どもたちに学ぶ権利を!全国集会・パレード」への参加を呼びかけた。文化公演として朝鮮高校合唱部の唄と弁論部の「統一祖国の一世はわたしたちだ」が読まれ、祖国統一への思いと祖国が分断されていることへの痛みを述べた。
 最後に集会アピールが読み上げられ、サムリノルの演奏とアリランの唄を歌いながら決意を固め集会は終了した。すべての日本人労働者は在日朝鮮人民衆の呼びかけにこたえ全力で朝鮮高校無償化を勝ち取ろう。(越中)







  1. 2013/04/15(月) 10:15:15|
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社革から緑の党まで

 古本屋通信  No 181  4月13日

 社革から緑の党まで

 7月参議院選挙において全国選挙に名乗りをあげた緑の党について、私は基本的支持を表明した。また、その選挙政策について、支持すれども批判することはないとも書いた。このことに変わりはない。ただ日本共産)党には未来がないと見切りをつけたから(緑の党を)結党したのだろう という意見がある。「見切りをつけた」層も新党の有力な構成部分だろう。しかし見切りをつけたから結党した」というのとは一寸ちがう。この点を述べるのには、「緑の党」の前史に少々立ち入らざるを得ない。

 「緑の党」に前史などないと言ってしまえばそれまでだ。事実、この新党は過去のいかなる政治党派の政綱も引き継いでいない。だから選挙前に余分なことを持ちださないに越したことはない。然し上記のような意見がある以上、触れねばならない事もある。

 「緑の党」は、日本共産党内において綱領論争に敗れて党外に去った「社革」グループをそのルーツとし、共産主義労働者党としての長期の活動を経て、政治グループ蒼生の約10年の政治活動の総括の上それを解消し、そのメンバーのほとんどが参加するかたちで結党された。だから新党は従前の党、政治グループの限界を感じて結党されたものだ。日本共産党はちょくせつ関係ない。

 さらに新党にとっては迷惑かも知れないが、この党の中心は共産主義者・コミュニストであろう。名乗らなくともそうだ。もしかして日本共産党より共産主義者の比率は高いかも知れない。私は近年の日本共産党を見ていると本当にそう思う。組織方針は内輪の問題なのであまり公表していないが、選挙候補者決定のための組織内選挙の採用など、一般にも見えやすいかたちを採り入れている。これは部分的な直接民主主義の採用であり、組織の可視化の試みとして評価できる。しかし組織原理は民主集中制の応用だろう。この党の前史の共産主義労働者党も組織の分裂と統一で苦しんだ。すぐに組織が瓦解するようなユルい方針を採用するわけがない。

 下記に貼った資料中の赤字部分は追って紹介する(下記「党の組織活動の教訓」は個人論文中のものである。従って赤字部分がどういうかたちで詳述されるのか分らない。いまのところその具体化を私は知らない)。
 私がこの党を支持するのはこの党が共産主義者を中心とする党だからだ。市民主義の匂いをチラつかせているからでは決してない。
 私は根っからの市民主義など馬鹿にしきっている(市民運動をではない。念のため)。あんなものは出たがり屋のお遊びだ。山本太郎もそうだし、右翼崩れのネエちゃんもそうだ。最低、ヘンな恰好せずに出てこい。

 しかし「緑の党」にとっては迷惑な事を書いたかも知れない。


  資料  古本屋通信  No29  グローカル最終号   9月21日
 

 政治グループ蒼生の機関紙 「グローカル」 最終号を入手して、ざっと読んだ。最終号にふさわしく、ニュース的な記事はなく、6ページの全てが共労党時代 (その延長としての蒼生時代を含む) の総括だ。前半2ページが本葉一成の、後半4ページが白川真澄の署名文だ。
 ここでは白川文を一読した直後の感想を書く。私が特に興味を持って読んだのは、この文が1966年11月の結党から2012年8月の解党に至る46年の、事実上の党史だと思うからだ。そして事実そういうものとして書かれている。以下、感想を個条書きにする。
①白川文に先立つ本葉文の冒頭のサブタイトル 「原点としての新左翼」 にあるように、この党史は党の出発を1969年5月の第3回大会をとしている。従って社革の尾を残した構改派時代の党は切り捨てられている。つまり、初代内藤知周議長も民学同もなく、ベトナム反戦は出てくるが 「思想と行動のラディカルさ」 つまり 「68-69年反乱に全力投入」 した運動が党の出発とされる。
②1971年の党の3分裂と73年の再建について触れられてはいるが、その内容は当事者以外にわかるようには書かれていない。この件に限らず、この党史の記述は他派批判を意識的に控えている。つまり分裂よりも共同ということのようだが、私はこれは筆者・白川の人間性にも関係があるように思う。美質な性格だが、運動史の記述としてはどうか。
③この号から離れるが 「よく判らん」 例を身近なところから挙げておこう。岡山は社革の拠点だった。言葉は悪いが、内藤知周や松江澄の息のかかった組織だった。それが第3回大会でなぜ党に残ったのか、また3分裂の後の再建時になぜ全国協議会の中心の一つであり得たか、さっぱり判らん。
④三里塚闘争の位置付けは、党としてはよく判るように書かれている。これが一時の左翼的偏向として自己批判的に総括されていないのがよい。
⑤80年代の世界と日本の捉え方は、私とはずいぶん距離があるが、党史の記述としては一貫性がある。ただし、ソ連・東欧の崩壊以前にレーニン主義と訣別したのなら、そのように明記したほうがよいのではないか。
⑥最後の 党の組織活動の教訓 で項目だけ挙げている諸点は、後日詳述されることを望む。この点が深かめられれば②の不満もかなり解消されるだろう。
⑦ともあれ、最終号がこういうかたちで出されたことに、私はおおいに満足している。こういうかたちとは 「緑の党」出発号的ではなく、共労党機関紙の最終号として出されたということだ。総括をウヤムヤにしなかったということだ。
⑧いうまでもなく共労党のかつてのいかなる 「決定」 も、今回の 「党史」 も緑の党の活動を拘束しない。しかし少なくとも私の世代は両者を 「非連続の連続」 とみている。もちろんレーニン型の組織政党ではないが、今まで無数に存在して消えていったエコロジーのグループと違う運動を期待しているのだ。しかし、危惧ももっている。
 以上、思いつくままに8項目あげた。この文は、去る7月22日「緑の党」と題して書いたときの約束を果たすかたちで書かれた。しかしグローカル最終号にそくして書いたため、 緑の党について述べる文にはならなかった。新しい党については折を見てふれることになろうが、いま暫く様子を見たい気持ちも強い
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  1. 2013/04/13(土) 18:33:34|
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緑の党・最新情報

古本屋通信  No 178  4月10日


  最新情報・緑の党

 参議院選挙に向けた緑の党声明と第一次政策が発表されたので、ここに転載しておく。それに先だって、この党に対する私の立場を表明しておきたい。この党の全国選挙は初めてだが、基本的に支持する。選挙期間中に選挙政策について支持はするが、批判することはない。この点では、日本共産党に対するのと同等・等距離である。ただし7月選挙においては、緑の党が全国選挙で未知数であるというそれだけの理由で、投票行為は日本共産党になされる。誤解なきように加えれば、ここ何回かの地方選挙で、この党の前身とも言えるみどり岡山と日本共産党がともに候補者をたてた県議選・市議選において、私は双方にわけて投票してきた。前回の地方選挙においては、共産党から投票依頼はなかったが、みどり岡山の横田悦子さんからは電話で投票依頼があった。その時に横田さんに答えたのが、両選挙で双方にわけて投票するということであった。すなわち 「わかった、県議選ではあんたに入れるよ、森脇さんにではなくあんたに投票する。そのかわり市議選では鬼木さんではなく、田中のぞみさんに入れるよ」というものだった。事実そのようにした。
 私は7月選挙においてこの両党への支持を呼びかける。古本屋通信の呼びかけなど何の効果もない(笑)が、それほど選挙妨害にもなるまい。今後第二次政策が発表されれば、この記事の末尾に加えて転載する。また、これとは別に選挙本番7月までに、緑の党関連の記事を書くことになろう(古本屋通信)。

 以下の文面、コピーをとって御自由にお使い下さい


【声明】 7月参院選は歴史的分岐点。不退転の決意で、緑の党の議席をかちとろう  ~選挙まで待ったなしの100日~
  2013年4月6日 緑の党全国協議会


参院選に向けて準備整う
参院選の予定候補者7人が確定しました。その顔ぶれは、大飯原発再稼働反対、原発即時ゼロをめざし活動してきた仲間、自死遺族の当事者、格差・貧困問題にも積極的に取り組む仲間、地域で活動する自治体議員など多様です。女性が多く、緑の党がめざす未来の社会像を示す、誇れるメンバーです。
一億円カンパは3月末で遂に5,000万円を超え、超高額な供託金の巨大な壁も突破しつつあります。ご支援いただいた方々に感謝の気持ちでいっぱいです。選挙公約は討議を積み重ね、第1次案を発表しました。全国では緑の党と連携する緑の地域組織の活動も活発化し、ネットワークも日々広がっています。まさに選挙に向けての準備が整いました。

昨年末の衆議院選挙では、原発を推進して来た自民党が政権に返り咲き、謝罪するどころか原発推進を明言し、新たな原発の建設にまで言及しています。また、TPP交渉への参加、生活保護費の削減を進め、さらに「集団自衛権の行使」、「平和憲法の改正」に踏み出そうとしています。これは明らかに民意に対する挑戦です。自民党が、衆議院だけでなく参議院の多数を確保すれば、平和で持続可能な未来はもはや展望できません。一方、自公政権に抵抗する既存政党は「選挙のための離合集散」を繰り広げ、脱原発の民意は行き場を失い、政治不信が深刻化しています。

あと100日、一層の力の結集と支援を
私たちは、もはや既成政党、その離合集散に希望を託すことはできません。閉塞した政治状況に風穴を開け、政治への信頼と期待をつなぎ、子どもたちに希望ある未来を築くために私たちの代表を国会に送ることは、いまや歴史的責務です。
残された時間はあと100日。7月の参院選挙に不退転の決意で挑むために、より一層の結集を呼びかけます。ともに進み、勝利を掴みとりましょう。


【政策】 参院選公約・第一次案「いのちをつむぐ緑のプロジェクト」   2013/04/08

①(脱原発) いのちと子どもを守るため、原発は今すぐゼロヘ
  -福島を忘れない 福島の悲劇を繰り返すな!
        再生可能エネルギーへシフトし、豊かで健やかな生活を-
 
原発再稼働と新規建設、核燃料サイクルの継続を止める。原発利益と癒着してきた組織や個人の責任を追及し、「原子力ムラ」の解体を図る。
福島復興と被災者の生活再建は生存権の保障から-「原発事故子ども被災者支援法」の理念に沿った具体化と拡充を図る。同法の支援対象地域は「追加線量1mSv/年以上」とする原則を遵守する。
原発労働者・除染労働者の労働環境の抜本的な改善と被ばく防護対策、健康調査と医療ケアを確立する。
「節電所」など効率的なエネルギー供給の施策とシステムを拡充し、電気を大量に使う社会と生活をチェンジ!
地域分散型の再生エネルギーを2020年までに電力需要の30%に、2050年には100%へ

②(環境) 開発・大量消費社会から環境保全型社会へ
  -豊かな自然の恵みあふれる社会を子どもたちの手に- 
 
「防災」・「国土強靭化」を名目にした大型公共事業をチェックし無駄な事業をストップ、自然再生型の公共事業へシフトチェンジする。
環境保全型の有機的な農・林・水・畜産業の振興に向けた支援策を充実させる。
生物多様性保全によって環境と調和した持続可能な循環型社会をつくる。愛知ターゲット(註1)の完全実施を目指す。
2020年までに温室効果ガスの25%削減(1990年比)を実現するための着実な対策・施策を実施し、国際合意形成に貢献する。
(註1)愛知ターゲット:人類が自然と共生する世界を2050年までに実現することを目指すため、各国に2020年までに緊急行動を起こすよう「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)」で定めた戦略目標。

③(TPP・経済) 経済成長至上主義からスロー・スモール・シンプルな社会へ
  -地域でモノ・金・仕事が回る経済へ 

 いのちと環境を壊すTPPは要らない-TPP交渉に参加せず、東アジア諸国との公正な貿易・経済協力を実現する。
フード、エネルギー、ケア(註2)の分野で仕事を創り地域から経済を活性化する。
非正規労働者に安心と安定を保障するために、同一価値労働同一賃金を実現する。
仕事を分かち合い(ワークシェア)、労働時間を短くし働きすぎをやめて質の良い労働を実現する。
協同組合・NPO・自営など多様な働き方を支援する「協同組合基本法」「協同労働の協同組合法」や「社会的事業所促進法」を制定する(註3)。
(註2)フード、エネルギー、ケア:「フード」は農林水産業や食 「エネルギー」は再生可能エネルギー、「ケア」は医療・介護・子育て・教育などを意味する。頭文字の「F」「E」「C」をとって、これらを自給するエリア を「FEC 自給圏」と呼ぶ言い方(内橋克人)もある。
(註3)「協同労働の協同組合法」などについて:わが国では協同組合の一般法がなく、農 協・漁協・企業組合・生協など行政庁ごとの閉鎖的な個別法のみで、協同組合の社会連帯という重要な意義が認識されにくい。国際協同組合年の昨年 (2012)、韓国やブラジルで協同組合基本法が相次いで制定・施行されているが日本では未だに成立の見込みが立っていない。


④(税制・社会保障) 富と負担を公正に分かち合い、消費増税はやめる
  -人として尊重され安心して暮らせる社会へ-
 
税金のムダ使いを放置し社会保障の充実のないままの消費増税はやめる。
最低賃金・生活保護・基礎年金の拡充で年間200万円の最低所得保障を実現し、将来的なベーシック・インカムの導入に向けた制度設計に取り組む。
官僚の天下りを根絶し、大型公共事業の再開にストップをかけ、ムダな財政支出を減らす。
公務労働の適切な数と質は確保しつつ、給与体系については手当の削減を中心に改革し、それによって生まれる財源を住民サービスの向上・拡充に充てる。
年収3000万円以上・資産1億円以上の富裕層に対し、十分な課税で社会貢献を求める。
法人税を引き下げず、租税特別措置など企業への優遇措置をなくし、法人税の国際的な引き下げ競争にストップを
低家賃の公営住宅の拡充、低所得者への空き家の提供・家賃補助などによって住まいの権利を保障する。
人生前半の社会保障(児童手当、保育サービス、奨学金の無償給付、職業訓練、若者基礎年金など)の充実で「子どもの貧困」をなくす。
  
⑤(平和) 国内外の市民の交流と連帯で平和な国際社会へ
  -領土争いはストップ。対立ではなく相互理解と信頼関係の構築、対話と交渉で北東アジアに平和の実現を-
 憲法9条堅持の立場を明確にし、その理念を実現するために平和・外交政策を展開する。
「領土問題」の存在を互いに認め合い、係争地の共同保全や資源管理も含めた対話と交渉による解決を目指す。
米軍と自衛隊が共同作戦する集団的自衛権の行使は認めない。
米軍基地と米兵や米軍関係者に対する国内法の適用範囲を拡大し、日米地位協定の抜本的な見直し・改正を図る。
東北アジア地域各国との相互理解と信頼関係を醸成し、各国のNGOとも積極的な連携を図りながら、非核地帯構想など平和構築へ向けた外交施策を展開する。
東北アジア地域の平和構築と併行し、米国との安保条約の解消と日米友好条約による対等な関係の構築に向け、米国と交渉する。

⑥(参加型民主主義) 「おまかせ民主主義」にサヨナラし、自分たちが決める-
 徹底した情報公開と市民参加の実現
 議会と選挙制度の抜本改革を-国会の選挙制度は、民意を大きく歪める小選挙区制度を廃止し、比例代表制を基本とする。世界的に見ても異常に高額の供託金制度は廃止する。
市民への徹底した情報公開を実現するための制度改正(「情報公開庁(仮称)」の創設、情報公開法や行政手続法の拡充など)を図る。
議会の安易な拒否を許さない!国民投票は有権者の2%、住民投票は有権者の5%の請求で実施を義務づける。
国会議員の歳費を半減し欧米と同水準に。歳費以外の費用の廃止・削減・透明化を図る。多様な民意を反映するために議員定数は増やす。
政党の党利党略に拘束された議会から公開の場で徹底討論・政策議論する議会に向け、先進的な地方議会改革の実践を活かしながら国会議会改革を先導する。
住民が主役の自治体行政に向け、計画の策定・実行・評価のすべての段階で住民参加を保障する仕組みを実現する。

⑦(女性・子ども・多様性)多様な生き方を認め合い、子どもとともに未来を育む社会へ-
 誰もが差別も排除もされずに安心して暮らせる社会のための法制度を-
 障がいのある人びと、被差別部落の人びと、先住民族や外国系(籍)市民、性的マイノリティなど、少数者の人権や当事者としての権利を保障する。
差別禁止(基本)法を制定する。
性暴力防止施策を実効性あるものにするため、性暴力防止基本法を制定し、DV防止法など関係諸法の抜本的改正や整備を進める。
先住民族や外国系(籍)市民が、その言語を継承し独自の文化を維持し守る権利を保障する。
女性の政策決定過程への参画を促進するために、選挙制度や審議会などで女性に過半数を割り当てるクオータ制を導入し、その範囲の拡大を図る(註4)。
子どもの権利条約を実効化するため「子どもの権利基本法」を制定する。
働き方の多様化と、地域や当事者のニーズを反映する多様な保育・子育てサービスで、安心して子どもを生み育てる仕組みを充実させる。
現場の教師と子ども達が主役となるよう、教育制度を抜本的に改革する。既存の教育制度と異なるさまざまな学びの場を提供するとともに、本人の希望に応じて多様な生き方と技術を習得できるよう、教育体系の質的拡充を図る。
かけがえのない存在としての自己を肯定する感情や他者のいのちも尊ぶ感覚を育む教育を充実させる。
女性の置かれている労働環境(職場での不均等待遇など)を改善するための制度や施策の充実・整備を図る。
(註4)緑の党は、共同代表、全国協議会、運営委員会、参院選候補者の選定過程で女性を半数以上とする原則を採用している。



緑の党 2013年参議院選挙・候補予定者 詳細

すぐろ奈緒(すぐろなお)
緑の党共同代表、杉並区議 東京都 33歳
○プロフィール
栃木市生まれ(1979年4月28日)14歳で栃木市の水源地を守るため産廃処分場反対運動に関わる。東洋大学法学部卒業。イラク反戦運動や脱原発など様々な市民運動に参加。2004年参院選で「みどりの会議」から立候補した小林一朗氏を応援したことを機に緑の党結成をめざす活動開始。NGO「フォーラム平和・人権・環境」勤務。2007年杉並区議会議員当選(現在2期目)。2012年「緑の党」共同代表に就任。
○メッセージ
 私すぐろ奈緒は、平和、脱原発、そして持続可能な社会の実現に向けて、議席獲得をめざす決意をいたしました。
 私が政治の世界に身を置く契機となったイラク攻撃開始からちょうど10年が経過しました。一市民として立ち上がるも日本の戦争加担を止められなかった悔しさ、二度と繰り返さないと誓ったあの頃の気持ちは今も変わっていません。戦争が成り立つ経済のしくみや劣化ウラン弾を通して知った原発の問題、それらを変えるために緑の政治が必要だと気付いてから約10年間、党結成の準備と平和や脱原発を求める活動を重ねてきました。
 そして迎えた2013年。日本の政治は歴史上非常に重大な局面に立たされています。私たちは原発の廃止と放射性廃棄物問題への取り組み、憲法9条の遵守による平和の構築など様々な課題を参加型民主主義の実践によって獲得していかなければなりません。その先頭に立つ責任と覚悟をかみしめています。
 すぐろ奈緒は区議としての2期6年間の経験を糧にして、緑の理念と政策を国政の場で示すべく全力を尽くします。議席獲得に向け一緒にがんばりましょう!よろしくお願い致します。


松本なみほ(まつもとなみほ)
環境政策コンサルタント 兵庫県 38歳
○プロフィール
兵庫県神戸市生まれ(1974年6月10日)。神戸外国語大学卒業。農村出身の両親に育てられ、常に畑が身近な暮らし。28歳で神戸市議会議員選挙に立候補するも次点落選。市議会会派の政務調査員をしながら緑の党設立に向けて活動。現在は環境政策コンサルタント自営業主として、家庭の省エネ診断事業に携わる。半農半Xを目指し米作り修行中。息子6歳。緑の党運営委員・緑の党ひょうご共同代表。
○メッセージ
 公認候補となったことが地元紙の神戸新聞にも掲載され、様々な方から期待の言葉をいただき、身の引き締まる思いです。
 また、私事ではありますが、息子が保育所を修了し、4月から小学生になります。ちなみに息子は緑色のランドセルを選びました。私が緑にしようと言ったわけではないです(笑)。こどもの成長を満開の桜とともに感じられることはとても幸せです。
 しかし、どうしても心の底からウキウキする気持ちになれないのです。超重低音のような「危機」が心の底に降り積もります。こうしている間にも、空気、水、大地への放射能汚染は拡散し、暮らしを破壊するTPP参加が進められ、戦争に向けた準備が整えられている、そう感じます。
 とうてい一人では抱えきれない危機ですが、ツイッターやフェイスブック、パレードやデモで「ようやく私、気づいたんです!」「私実はデモに参加するの初めてなんです!」という人との出会いに勇気を与えられます。緑の党の結成宣言にあるような、豊かで安心できる分かち合いの世界を創るべく、7月参院選に向かって全力を出し切っていきます!共にがんばりましょう!

長谷川羽衣子(はせがわういこ)
緑の党共同代表、NGO代表 京都府 31歳
○プロフィール
京都・東山生まれ(1981年7月14日)。奈良女子大学在学中、産官民連携の大阪府環境事業の実行委員を務め、毎年約1万人の来場を実現。上智大学大学院で、江戸時代の都市環境を研究、修士論文が優秀論文に選ばれる。2011年震災と原発事故を受けNGO 「e-みらい構想」設立、代表に。2012年7月より緑の党共同代表。『原発ゼロ~私たちの選択~』2012年かもがわ出版(共著:安斎育郎.飯田哲也.大島堅一.長谷川羽衣子)
○メッセージ
 ほんの1年前まで政治とは無縁だった私ですが、東日本大震災と福島原発事故を受けて立ち上がった市民のひとりとして、また緑の党の共同代表として、議席獲得のため先頭に立つ決意を固めました。
 福島をはじめ多くの人々の生活、そして人生が大きく変えた2011年3月11日の東日本大震災と福島原発事故から、2年。私の人生も、この2年で大きく変わりました。
 福島原発事故に衝撃を受けて立ち上がり、何とか原発のない、持続可能な社会を実現したいと活動するなかで、たくさんの方と出会い、多くを学びました。そして、脱原発を実現したドイツ緑の党のベアベル・ヘーン連邦議員との出会いを経て、日本にも緑の党が必要だと痛感し日本の緑の党の結成に参加、共同代表に選ばれました。
 しかし、昨年の衆議院選挙は市民の声を受け止める政党がないまま行われ、その結果、得票率を大幅に減らしながらも既得権益を持つ自民党が多くの議席を獲得し、再び原発を推進しようとしています。
 私、長谷川羽衣子は、これまで研究を続けてきた、環境・経済に関する専門的な知識と、研究活動・市民活動で培った日本全国・世界各地に広がるネットワークを生かして、具体的かつ実効性のある政策を提言します。
 今年7月の参議院選挙は、日本の未来を左右する選挙です。
 今はまだ小さな緑の芽を、たくさんの葉をしげらせるしなやかな木に育てるため、緑の仲間たちとともに精一杯力を尽くします。
 どうかみなさまのお力添えを頂けますよう、心からお願い申し上げます。

杉原浩司(すぎはらこうじ)
緑の党脱原発担当 東京都 47歳
○プロフィール
鳥取県生まれ(1965年11月19日)。京都教育大学中退。80年代半ばより市民運動に参加。PKO法反対、仏中米の核実験反対、故・小田実さんら阪神・淡路大震災被災者による住宅再建への公的支援を求める「市民=議員立法」、ミサイル防衛反対などに関わる。「3・11」以降、脱原発運動に没頭。緑の党の前身、みどりの未来・脱原発担当を経て、現在、緑の党スタッフ・脱原発担当。『宇宙開発戦争』(作品社)に日本語版解説を執筆。
○メッセージ
「原子力ムラ」に挑戦状!
 市民が自前で政党を作り上げる歴史的な挑戦。 「センセー政治」を変え、民主主義を主権者の手に取り戻すそのチャレンジに、候補者の一人として関わることの責任の重さを感じます。今自分に何ができるのか、悩んだ末の立候補です。私にあるのは、今までつちかってきた市民運動の経験と人のつながりだけ。だから、そのありったけを投じていきます。困難な時代に、共に活動を担った仲間の顔も思い浮かべながら。
 もちろん、状況の厳しさは生半可なものではありません。原子力規制委員会による「5年猶予」という名の対策先送りは、年内の原発再稼働に直結しています。私にとって、今回のチャレンジは、この恐ろしい企てに全身で立ちはだかることの一つの表現でもあります。あきらめの先に、被害者切り捨てと次の大事故が待ち構えている以上、退くことなどできません。
 私は、「原子力ムラ」の作法と話法を目撃しながら、それに立ち向かう言葉を鍛えてきました。その地声の力を信じています。私が国政に送り出されることが、「原子力ムラ」への何よりの挑戦状となるように。緑の党が、既成の政治の歯車ではなく、確かな砂粒となるように。


田口まゆ(たぐちまゆ)
自死遺族NPO代表 東京都 39歳
○プロフィール
1973年山口県生まれ。13歳の時に父(享年39才)が自殺。短大専門学校卒業後、派遣や契約社員で働く。2009年NHK「日本の、これから」出演をきっかけに任意団体「自死遺族への差別偏見を失くす会」設立。2011年NPO法人Serenity(セレニティ)設立、前日弁連会長・宇都宮健児弁護士が世話人に就任。東京都後援で、シンポジウム「大切な人を自死で亡くすということ」、連続講座「生と性~それでも私たちは生きていく~」主催。
○メッセージ
 私は父を今から26年前に自殺で亡くした自死遺族当事者です。
今現在、自死遺族への差別偏見の問題を考えるNPO法人セレニティの代表をしております。
 父を亡くした当時、私は中学一年生でした。小さな町に住んでいたため父の自殺のことは町中に広まってしまいました。そしてその時、担任の教師から「父の自殺についてクラスメイトの前で謝罪しろ」と言われた辛い体験から2011年4月にNPO法人セレニティを設立しました。
 昨年こそ自殺者3万人を切りましたが、14年連続自殺者3万人を超える自殺大国の日本。その周辺には5人遺族がいると言われています。そう考えると自死遺族の数は膨大です。
 私のようなあからさまな体験は数少ないかもしえませんが、家族が自殺した、ということを言えなかったり・・・
 また最近問題になっているのは、賃貸物件で自殺をした人の遺族が大家から多額の損害賠償を請求されるという事件です。「自殺した家族が悪いんだ」ということで遺族は泣く泣く支払ってしまうことが多くあります。
 声を上げられない、自死遺族がたくさんいることをもっと知って欲しい、社会に、国会に届けたいという思いでこの度の立候補を決意しました。
  1. 2013/04/10(水) 00:44:56|
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ブル新と新聞労働者

古本屋通信  No 176  4月8日


  ブル新と新聞労働者

 書こう、書こうと思いながら先に延ばしてきた表題の「ブル新と新聞労働者」について手短に書く。
 ブル新はブルジョア新聞の略であり、その名のとおり資本家の利益のために存在する御用新聞である。その本質は資本主義が続くかぎり変ることはない。ブル新が人民新聞になることはない。ブル新は人民の敵である。
 それでは新聞労働者(記者をふくむ)はどうだろうか。敵であろう訳がない。味方も味方、労働者そのものなのだ。それでは、新聞労働者たる記者が、その力をたくわえて、御用記事ではなく人民の側に立った記事を書くことはできないのだろうか。良心的な記者はそのために努力しているのではないか。
 その部分はたしかにある。しかし、編集権は新聞資本(経営者)にある。部分的に新聞労働者の編集権を認めた判決もあるが、まず無理だ。だって資本主義社会なんだから。努力は、体制擁護の範囲内でなら、ほんの少しだけ報いられることがあるかもしれない。しかし現実的にはほとんど無理だろう。
 うちの古本屋には、新聞はじめマスコミ・出版で働きたいという学生がよく来る。そして実際に就職した者もこれまでに10人程いる。みんな優秀だ。本のことだけでなく、業界のことも話す。私もこの業界の事は比較的よく知っているが、みんな幻想をもっていない。ときどき頭でっかちで足もとがフラついている学生がいないでもない。私は「あんた、新聞労働者になるんだろ。ジャーナリスト? そんなもん、いまは何処にも存在せんゾ」と言う。

 働きがいのある職場をもとめて就職活動をする、それは大切なことだ。だがもう一方で、いまの世の中、労働は賃労働であり、強制された労働であり、奴隷労働であることは知らねばならない。
 そして、賃労働、強制された労働、奴隷労働に従事する階級こそ新しい時代の中心的な担い手なのだ。マルクスはまったく古くなっていない。もちろんマルクス主義は古くなっていない。レーニンの国家論だって、一部を除いて、いま尚有効だ。
 最後に。未来の若い新聞労働者に、私が敬愛する詩人・坪井宗康の詩集『その時のために』の中の一編を送る。

その時のために   
ー故足立昌弘君へ    坪井宗康
 
その時がきたら 
号外を出そう
一面には人民共和国樹立の宣言を
二面には喜びにわく市民の表情を
簡潔な記事と
写真入りで

記事はぼくが 
写真はおれが 
活字はわたしらが
大組みはおれたちが

口ぐちに言い争う車座の隅から
諸君! と君は言った
紙型を輪転機にかけて最後に刷り上げるのは 
このわしじゃということを
わすれるなよ

その時が来たらと
ぼくらの夢を語り合って二十五年
その時のためにと
あるものたちは党の専従に
あるものたちは党の議員に
あるものたちは平和運動に
あるものたちはずっと社内でがんばって
いまここに一堂に会した

頭が薄くなったり白くなったりしてはいるが
デスクも取材記者も
カメラマンも整理記者も
活字工も印刷工も
みんな揃っているというのに
輪転機のキャップの
君がいない

君はどんな、
その時を夢みたろうか
その時君の体をゆさぶる輪転機の唸りを
その時輪転機がくり出すインクの香りを
君はどんなに夢みたろうか
その時のために
すすんで党の専従となり
県党の機関紙、財政、選挙の責任者を歴任し
激務のなかで五十歳の命を燃やしつくした
足立っつあんよ

安らかに眠ってくれとはいうまい
ぼくらの中によみがえり
ぼくらの手足を動かし
ぼくらの心を燃え立たせて
ともに生きてくれ
ともにたたかってくれ

ともに夢みた
その時のために   84年11月 故足立昌弘氏一周忌に寄せて
  1. 2013/04/08(月) 03:49:33|
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戸坂潤全集・月報

 古本屋通信  No 173  4月6日


 戸坂潤全集・月報

 通信 No 166 で予告したように、『戸坂潤全集』( 勁草書房 1966~67年 )の月報 を入力する。掲載は順不同とさせていただく。同じ勁草書房から後に出版された『新版・回想の戸坂潤』と論稿が重複していないか気になったので、倉庫を探したが見つからなかった。取りあえず見切り発車する。最後まで行くのに半年くらいかかるだろう。

 第1回目は梯(かけはし)明秀だ。ウィキペディアを繰っても詳しい記事はないだろう。近藤洋逸先生の岡大の同僚だ。レッドパージのとき近藤先生とともに追放にあいそうだとの噂がながれ、立命館大に去った。近藤先生はそのことをずっと気にされていたそうだ。それから、これは梯本人の預かり知らぬ事だが、梯哲学は革マル派の黒田寛一の理論形成に影響を与えたと「いわれている」。「 」を付したのは、私にはその関連がよく分らないからだ。あれやこれやで、梯(かけはし)を冒頭に置くことになった。あとは未定だが、小山弘健はどうだろう? 近藤先生の文は何回も読んでいるので、最後にしたい。


 彼との淡々とした親交   梯 明秀

 戸坂と私が親しい交友関係に入った最初の時期は、何年の何月であったのか、それを想い起こす機縁になるはずの何らかの事実なり挿話については、全く記憶に残っていない。私が一高を出て京大の哲学科に籍をおいたのは、大正十三年の四月であるが、その時に丁度、戸坂は学士になって大学院に籍をおいていた。その頃には、母堂と共の山科に居を構えており、よく十四年には左京区の鹿ヶ谷に転居している。この年の十月に三木清氏が帰朝しており、その前にすでに、三木氏を中心とした哲学一高会を持つ意向を、私は戸坂から漏らされていたのであったから、それまでに、二人の間は或る程度に親しい関係になっていたはずである。ただ彼についての面識の程度まらば、私が入学して間もなく開講となる頃までに遡ることができるであろう。西田、田辺両先生の講義が始まるのを待つ間、教室の前の芝生で、聴講生に取り囲まれた木村素衛、高坂正顕、西谷啓治の各氏と戸坂との相互に談笑する容姿は、私たち一回生の学生にも、将来の哲学科のポストが彼等に約束されているかのように印象づけられていたからである。この印象を私たちに実証いてゆく業績としては、戸坂の場合には、二十五才の卒業の年に早くもヴィンデルバンドの『意志の自由』を翻訳、刊行しており、また、学生時代から取りくんでぃた『空間論』の研究の成果を、昭和三年の二十九歳の時まで続々と『哲学研究』および『思想』に発表してゆき、その論文の数は、六篇に及んでいるのである。
 この理科系の頭脳明晰な若き哲学者の宅を、私が、しばしば訪ねることになったのは、前記の哲学一高会を通じての校友の頃からでなかったかとも推察されるが、私が彼の家庭の雰囲気に溶け込んでいた時には、すでに彼は結婚していたように記憶している。確かなことは、昭和二年四月に三木氏が東京へ去った後の一年近くの間、毎週一回、私が彼の家で共にクールノーを読んでいたことである。この年の三月は、私にとって卒業すべき時期であったが、一高時代をボート部で過してきた秀才ならぬ私は、それまでに辛じて特殊講義の論文「社会への関心」を提出することが出来たにとどまっていた。そして、卒業を一年さきに延すことにして、四月から翌年の三月まで、黄檗山万福寺の或る塔頭に寓居して、そこで卒業論文のための準備をしていたのである。これらの二つの論文のために、私の研究対象としたものは、タルドであった。というのは、デュルケムおよびデュルケム学派の文献よりも、タルドのものの方が哲学的であったからである。タルドの主要著作は一とおり眼をとおしたが、それらが要するに社会心理学的であるにすぎなかった点から、それらを比較して、より哲学的な『モナドロジー・エ・ソーイオロジー』に焦点を絞っていくことになった。この小論文において、ライプニッツのモナドが「その窓の閉されている」のにたいする批判として「開かれたモナド」の思想が、主張されているのではあるが、  
 つづく。あと、この4倍ほどある。悪文だねえ、疲れる。
  1. 2013/04/06(土) 14:35:42|
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