fc2ブログ

古本屋通信

スターリニスト

古本屋通信  No 97  2012年  12月27日

スターリニスト

 不破哲三氏の『スターリンと大国主義』(1982年)と 『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(1993年)に就いては、それぞれが61年党綱領採択後の党の歩みを考える上で、一つの画期をなす論文だったと思います。それは肯定的、否定的の両義においてですが。
 とりわけ前者については、著書の刊行後まもなく日本共産党の刊行物や『赤旗』の記事から、トロツキズムや、トロツキストのことばが一斉に消えました。また、スターリンについて多少とも残っていた肯定評価も消えてしまいます。その影響は党関係の文献に留まらず、党員研究者の仕事に少なからず及んだように思います。社会科学や哲学関係に戸惑いがあり、ある意味では活気も失われました。その個別の事例をあげるのは難しいのですが、小さなさざ波としては、「不破・田口論争」や藤井一行氏のトロツキー評価、さらにネオ・マルクス主義の発生と党からの離反などはこの流れの中で起こったと思います。
 後者は東欧ソ連の崩壊をうけての大国からの干渉のあとけづけです。事実関係について初めて公表されかこともありました。それはそれとして面白かったのですが、大部分が記録でしたから、インパクトは前者ほど大きくはなかったと思います。
 まあ、この2つについてはいつか書くつもりですが、年末年始は寒いし、倉庫に行って本を探すのも面倒なので、ここでは体験談で済ませます。1960年代 「日共・民青」 が 「トロツキスト」 から 「スターリニスト」 と呼ばれたという話です。

 1965年、党9回大会から10回大会のあいだ、私は四国の小さな大学教育学部の学生であり、民青同盟員であり、日本共産党員でありました。ちょうどこのとき教育学部の学生自治会の委員長をしておりました。もちろん学部全学生の選挙のよって選ばれた委員長で、大学当局公認の委員長です。
 当時は毎年1回、中国四国地方の教育系学生が一堂に会して、日頃の自主的研究活動の成果を持ち寄って交流する中四ゼミの大会が開かれていました。全国的には全教ゼミがあるのですが、その地方ブロック版です。日教組の教研集会の学生版だと考えれば解りやすいでしょう。この年は高知大学に700名が集まりました。以下は当時の関係者以外には面白くないと思いますが、記録も残っていないでしょうから、ここに記しておきます。

参加者の内訳 岡山大50名、広島大20名、広島大福山分校10名、山口大40名、山口女子10大名、鳥取大50名、島根大30名、香川大150名、愛媛大130名、徳島大70名、高知大120名,高知女子大20名、計700名。

 私は教ゼミ活動の蚊帳の外にいましたので、ほんとは全体会議で発言などしたくなかったのですが、学生自治会の委員長か、書記長は発言しないといけないというので、仕方なく喋りました。どういうことかというと、大会では大会実行委員会 (執行部) から先ず基調報告がされます。その基調報告にたいして基本的に「賛成か反対か」を各大学単位で表明しないと、前に進まないというわけです。
 大会そのものは政治性が強いものではありませんでしたが、基調報告ともなればどうしても政治性が出ざるを得ません。それに対して公式に選挙で選ばれたものが、賛否をのべるのです。このとき自分が何をしゃべったかはなにも憶えていないのですが、教育を取りまく情勢など尤もらしく、日本を支配している2つの敵すなわち米帝国主義と日本独占資本の教育支配について熱っぽくアジったのではなかったかと思います。なぜなら会場からのヤジが絶えなかったから。もちろん、私は基調報告を支持する立場から、野次はそれに反対する立場からのものです。
 大会実行委員会は民青でしたが、全大学の自治会執行部がすべて民青というわけではありませんでした。私の演説中に前列にじんどって野次りまくったのは、鳥取大の5、6人です。野次と殆んど同時に後方からそれを支持する拍手がある。すべて鳥取大です。私には会場に掃いて捨てるほどいる民青同盟員からの支援は全くありませんでした。仕方がありません。
 私 「・・・これで、OO大学教育学部からの挨拶をおわります」
 鳥取大の委員長の T 君 「いうことはそれだけかっ、スターリニスト!」
ドッと笑い。そして拍手。拍手は野次に対する拍手。マイッた。
 大会のあとで、大会実行委員会が各大学自治会執行部に礼を言う場がありました。そこで T 君と顔をあわせました。
 私 「よう、言うてくれたなあ」
 T 君 「すみません、広島がおとなしいもんで、つい力が入ってしもうて」
つまり中四の教育系で中核派は広島大と鳥取大なのだが、広島が参加者も少なくだらしないので、マル学同中核派の責任を一手にひきうけて予行演習までして頑張ったそうです。この大会、全体会議に限っては鳥取がいちばんよかったと思いました。地域にはいっての児童文化サークルの報告もよかったし。

 参考までにこのときの党派関係を記しておきます。そんなことが自治会活動や教育ゼミと何の関係があるのかという向きもあるのを承知のうえで。 
 岡山大 民学同、広島大 中核派、広島大福山分校 中核派、山口大 民青のち福田・原田派、山口女子大 不明、鳥取大 中核派、島根大 民青と民学同、香川大 民青、愛媛大 民青、徳島大 自民党青年部、高知大 民青と民学同、高知女子大 不明。

 ときは1965年である。党派対立に険悪な空気はなかった。もうひとつ、教育関係で後に深刻化する部落問題をめぐる対立は、学生部落研活動に限ってはなかった。

 最後に。当時の民青同盟は他派をどう呼んでいたか。
① 中核派、革マル派、ブント(社学同)各派に対しては、トロツキスト、トロ、トロちゃん、ただし全学連傘下の自治会の活動の場合はトロツキストと言わず、分裂主義者と呼んだ。暴力分子とか左翼日和見主義者は使わなかった。
② 民学同両派、フロントに対しては、修正主義者、修ちゃん、ただし全学連傘下の自治会の活動の場合は分裂主義者または右翼日和見主義者。 

広島大の参加が少なかったのは、①その教育学部が教員養成を目的にした学部ではなかったこと、②全体に「日共支配」が動かない教育系のゼミ活動にエネルギーをついやす党派的メリットがないという広島大中核派の判断があったから、だと思います。
スポンサーサイト



  1. 2012/12/28(金) 07:52:40|
  2. 未分類

ディミトロフ日記関連

古本屋通信  No 96  2012年  12月25日

ディミトロフ日記関連

  不破連載の予告記事はショックだった。それは『ディミトロフ日記』なるものがこの世に存在し、既に数ヶ国語で刊行されていたという事実についてだ。全く知らなかった。いますぐ読みたいと思った。邦訳は未刊らしい。何故だろう? 英語版を入手して読むのは、いまの私には骨だろう。取りあえず、ポータルサイトで『ディミトロフ日記』のトップから自分用に抽出して貼り付けた。資料板として追加していきたい。
 『ディミトロフ日記』の存在を教えてくれただけでも『赤旗』と不破氏に感謝だ。またひとつ、共産党に借りがで来た(笑)。願わくば社研で訳した邦訳を『前衛』連載と並行して公刊してほしいものだ。(古本屋通信)



   先ず共産党*****





      削除









ディミトロフとスターリン指導
ディミトロフ『日記』による、ディミトロフの<内戦>関連の活動

著者:島田 顕



論文題目:ソ連・コミンテルンとスペイン内戦-モスクワを中心にしたソ連とコミンテルンのスペイン内戦介入政策の全体像
著者:島田 顕 (SHIMADA, Akira)
論文審査委員:加藤哲郎、上野卓郎、土肥恒之、吉田 裕

一 本論文の構成

島田顕氏の学位請求論文「ソ連・コミンテルンとスペイン内戦——モスクワを中心にしたソ連とコミンテルンのスペイン内戦介入政策の全体像」は、1936−39年のいわゆるスペイン内戦の時期の、ソ連邦(1917-91)とコミンテルン(共産主義インターナショナル、1919-43)の関わり方、介入・不介入のあり方を政策決定システムとして検証するもので、旧ソ連崩壊後に現れた第一次史資料を駆使して、当時のソヴェト国家と世界政党であるコミンテルンのシステム的関係、それぞれの内部の政策決定機構とスペイン内戦との関わりを綿密に分析した、400字原稿にして1400枚にのぼる大作である。
全8章からなる本論文の構成は、以下の通りである。文献、付録資料も掲げておく。
0.序論
0.1.はじめに―問題の所在 8
0.2.研究史の整理 11
0.3.課題と方法 18
0.4.システムとは何か―栗原浩英の「コミンテルン・システム」論批判 20
0.5.本論文のコミンテルン・システムとスペインシステム 23
0.6.本論文の構成 25
1.二つの中央指導部―モスクワにおけるソ連とコミンテルンの関係(支配と従属)
1.1.従属とは何か―従属の定義 30
1.2.従属の歴史 30
1.3.従属の研究史 32
1.4.ソ連従属下におけるコミンテルンの意義(役割) 36
2.ソ連指導部―政策の決定機関1  
2.1.政治局 38
2.2.ソ連の指導者 41(スターリン、カガノヴィッチ、カガノヴィッチの経歴、スペイン問題とカガノヴィッチ、カガノヴィッチとスペイン内戦、ヴォロシーロフ、モロトフ)
2.3.スターリン執務室会議 53
2.4.組織局 55
3.ソ連の政策決定過程―政策決定の過程1
3.1.ソ連指導部のスペイン内戦介入の意味 57
3.2.勃発以後の対応 57
3.3.特派員の派遣 58
3.4.武器以外の援助 59(重油・食料その他の物資の輸出について、人道的援助について、金準備について、重工業原料について、武器以外の援助の終焉、スペイン児童の疎開問題について)
3.5.不干渉委員会に対する対応 66(最初の対応、紛糾する不干渉委員会、1937年以降の不干渉委員会とソ連指導部)
3.6.人事面での決定 76
3.7.武器援助―作戦「X」 77
3.8.ソ連指導部とスペイン内戦 81
4.コミンテルン中央―政策決定の機関2
4.1.コミンテルンにおけるフォーマルシステム―実質的な政策決定機関83(コミンテルン執行委員会幹部会・書記局、書記長ディミトロフ、書記局ビューロー、書記長個人小書記局、ディミトロフの役割、ディミトロフのスペイン観、マヌイリスキー、マヌイリスキーの活動1―スペイン内戦以前、フランス関連の活動、コミンテルン執行委員会での活動、スターリンとのパイプ役、ディミトロフ招致、マヌイリスキーの活動2―スペイン内戦以降、スペイン問題担当小書記局長としての活動、スペイン問題に関する会議の報告者、ディミトロフの相談役、スペインについてのマヌイリスキーの見方、スペイン内戦とマヌイリスキー、トリアッティ、その他のコミンテルン指導者)
4.2.コミンテルンにおけるインフォーマルシステム―コミンテルンの制度的支柱113(全連邦共産党(ボ)コミンテルン執行委員会内代表団、全連邦共産党(ボ)コミンテルン執行委員会内党細胞、全連邦共産党(ボ)コミンテルン執行委員会内委員会=パルトコム、コミンテルン執行委員会人事部(組織局)、コミンテルン執行委員会国際連絡部(連絡課、OMS、SS)、国際統制委員会(IKK))
4.3.コミンテルン内の政策決定の方法とその問題点 125
5.コミンテルン中央の会議
5.1.コミンテルン中央の会議の意味 128
5.2.9月以前の会議について 129
5.3.9月16日から19日の会議―最初の大会議 130(出席者の問題、報告内容について、トレーズの報告について、フローリン報告について、ポリット報告について、コプレニッヒ報告について、ゴルキッチ報告について、ディミトロフの発言とコドヴィーリャ報告について、決議)
5.4.9月18日の会議 148
5.5.9月19日の会議 151
5.6.全体の決議について 153
5.7.コミンテルン中央の会議とスペイン内戦 154
6.コミンテルンの政策決定過程―政策決定の過程2
6.1.ディミトロフを中心としたコミンテルンの研究史 156
6.2.勃発から1936年末まで 158(国際旅団義勇兵の派遣、勃発当初から1936年末までのコミンテルンの動き、ソ連指導部との関係1—ソ連側組織との連携)
6.3.1937年からの動き 165(カバリェロ首相解任について、第二インターとの協議、粛清に関連して、1937年後半、社共統一政党への動き、ディミトロフのスペイン内戦関連活動)
6.4.1938年からの動き 175(国際旅団の廃止決定、ソ連指導部との関係2、終戦まで)
6.5.コミンテルンとスペイン内戦 182
7.スペイン―コミンテルン代表を中心にして
7.1.コミンテルン代表の意味(中央と地方の関係) 183
7.2.最初のコミンテルン代表団 185
7.3.スペインにいたコミンテルンの活動家 187(ヴィクトリオ・コドヴィーリャ、ストヤン・ミネフ、エルネー・ゲレ、暗号名「カウツキー」、パルミーロ・トリアッティ)
7.4.代表団の活動190(1936年前半まで、ゲレ報告1936年7月23日のコミンテルン執行委員会書記局会議、コドヴィーリャ報告1936年9月16―19日のコミンテルン執行委員会幹部会会議、書記局会議、1937年前半まで、トリアッティのスペイン着任とコドヴィーリャの解任)
7.5.代表団のあり方 201(トリアッティ、イバルリの批判、業務から見た代表団、組織から見た代表団、コミンテルン代表とスペイン内戦)
8.コミンテルンとソ連―スペイン内戦は何だったのか
8.1.ソ連とコミンテルン 207(ソ連の政策決定システム、コミンテルンの政策決定システム、ソ連とコミンテルン―両者の交錯、スペイン駐在コミンテルン代表団)
8.2.スペインシステムとは 211
8.3.コミンテルン指導者 215
8.4.スターリンとソ連指導部の変化 218
8.5.スペイン内戦は何だったのか 220
8.6.今後の課題 225
文献目録 231[略語一覧][史料][英語文献][ドイツ語文献][ロシア語文献][ブルガリア語文献][スペイン語、イタリア語、カタロニア語、フランス語文献][日本語文献]
付録 246
1 スペイン内戦当時のソ連国家の人民委員部および人民委員(閣僚)、全連邦共産党(ボ)中央委員会政治局会議、書記局会議のメンバーの顔ぶれ〔1〕スペイン内戦当時のソ連国家の人民委員部および人民委員(閣僚)の顔ぶれ、〔2〕スペイン内戦当時の全連邦共産党(ボ)中央委員会政治局会議、書記局会議のメンバー
2 全連邦共産党(ボ)中央委員会政治局会議議事録スペイン内戦関連決議抜粋 250
〔1〕スペイン内戦関連決議リスト、〔2〕スペイン内戦関連決議内容
3 コミンテルン執行委員会幹部会会議・書記局会議議事録(Auszug spanien) 270
〔1〕コミンテルン執行委員会幹部会会議・書記局会議スペイン関連会議議事録抜粋、〔2〕アウスツークによるスペイン問題審議回数統計、〔3〕アウスツーク出席者統計
4 モロトフ宛書簡 297
5 ディミトロフ日記 303
6 主要人物の経歴 321
〔1〕ヴォロシーロフの経歴、〔2〕モロトフの経歴、〔3〕クーシネンの経歴、〔4〕コドヴィーリャの経歴、〔5〕ミネフの経歴、〔6〕ゲレの経歴
7 スペイン内戦政策決定のパターン 330
8 模式図・解説 331〔1〕ソ連のシステム、〔2〕ソ連システムの政策決定システム、〔3〕コミンテルン・システム、〔4〕スペインシステム、〔5〕ソ連とコミンテルン中央との関係
註 339-386

二 本論文の概要

1930年代のコミンテルンについては、その世界革命組織、国際連帯組織としての建前とは裏腹に、スターリン体制確立期のソ連国家の外交政策の道具として扱われることが多い。とりわけ本書の対象とする30年代後半は、コミンテルン第7回大会決定(1935年)「反ファシズム統一戦線・人民戦線」の実践期であると共に、ソ連邦内では、スターリンの政敵から外国人亡命者にいたる大粛清期として知られている。一方でのスペイン共和国支援、国際旅団派遣などファシズム台頭に対する民主主義・平和主義の主張、他方での自由・人権の抑圧の同時進行をどう理解するかで、歴史的評価も分かれてきた。旧ソ連が健在でソヴェト国家・コミンテルン双方の内部資料が隠匿されていた冷戦時代には、それらの研究は、公式の決議・決定・声明・国際協定以外は、関係者の回想や第二次資料に頼るのが常だった。
本論文の著者は、ソ連解体期に閲覧可能になったいわゆる旧ソ連秘密文書、旧ソ連共産党マルクス・レーニン主義研究所付属ソ連共産党中央文書館(現ロシア国立社会政治史アルヒーフ、通称RGASPI=ルガスピ)の関係史資料を可能な限り収集・整理し、英米を含む世界の研究状況を改めて学んだ上で、これまで研究史上のブラック・ボックスになっていたモスクワにおけるスペイン内戦への政策決定のメカニズム解明に挑戦した。

序論は、研究史整理と対象・方法の限定で、1936年2月のスペイン総選挙による人民戦線政府の成立から39年3月の内戦終結、フランコ政権確立にいたる時期の、ソ連国家とコミンテルンのそれぞれのスペイン政策を、その制度的担当部局・担当者、それぞれの政治資源と動員の態様、スペイン現地との連絡・指導ルート、「システム」という視角の使用法と意義などが述べられる。そのさい、同時期に進行するフランス人民戦線政府や独ソ関係・米ソ関係、中国抗日運動やアジアにおける民族運動、それにソ連国内の粛清や経済建設の問題は、ソ連国家とソ連共産党、及びコミンテルン=世界共産党のそれぞれの全体システムがいったん抽出され、その重なり合い・関係が検討された上で、それらの中のスペイン内戦に直接・間接に関わる小システムや政策機構・ルートのみを検討の対象とすると述べられる。そこで国内粛清や中国政策のシステムはいったん捨象され、スペイン政策のためのシステム——著者のいうスペイン・システム——が析出される。
研究史の上では、H・トマス、E・H・カー、旧ソ連の正統史、アメリカの全体主義研究等が、カーを除いて「政策決定の多元性」が目配りされていないと批判され、主としてソ連崩壊後に現れた「システム」に着目した内外の諸研究が注目される。ソ連システムとコミンテルン・システムを一元的な支配・従属ととらえるのではなく、コミンテルンのソ連への従属を認めながらも相対的に別個なシステムととらえるべきこと、モスクワと現地システムの関係も、一方的な支配・指導ではなく、多様なルートの存在を想定して把握すべきだという。そのうえで、ソ連については共産党が決定し国家が執行する「ソ連システム」、その内部にあるが相対的に自立した「コミンテルン・システム」、それらシステム中枢がスペイン現地と関わる「スペイン・システム」の3つの「システム」が、それぞれ多元的で小システムを持つものとして抽出される(巻末付録で図示される)。

第1章「二つの中央指導部―モスクワにおけるソ連とコミンテルンの関係(支配と従属)」は、1930年代のコミンテルンはソ連に従属してきたという通説を、「ソ連システム」と「コミンテルン・システム」という二つの中枢システムの関係の中におき、従属とは一般に「強者が弱者を従わせること」だが、両者の目的が等しい場合は指導ないし援助で、目的が異なる際に従属となるとし、現地=「スペイン・システムへの介入」との関係で具体的に明らかにすべきだという。そのさい「介入」を広くとり、政策のみならず組織統制、財政及び人事をも視野に入れた点が、本論文の特徴である。

第2章「ソ連指導部―政策の決定機関1」は、「ソ連システム」を扱う。ソ連の国家と共産党の基本政策を決定する政治局は、俗称インスタンツィヤと重なり、そのメンバーは、スターリンと側近指導者カガノヴィッチ、ヴォロシーロフ、モロトフである。ようやく公開された政治局議事録やスターリン執務室訪問記録にもとづき、スターリンのスペインへの関心は高くなく、側近ではカガノヴィッチが相対的にスペインに関わり、外務人民委員のモロトフはほとんど関係せず、総じて実務的であったことが抽出される。

第3章「ソ連の政策決定過程―政策決定の過程1」では、1936年2月スペイン内戦勃発時の「介入」が、ソ連共産党機関紙『プラウダ』特派員の派遣と報道、武器や石油、衣料品援助、スペイン国立銀行金準備、重工業原料輸出、27か国不干渉委員会での対応等の政策を検討する。不干渉委員会での独伊と英仏の狭間でのソ連外交では、「作戦X」というスターリンと政治局レベルの暗号を用いた武器援助決定があったこと、国際義勇軍の派遣・撤兵も最高レベルで決められたこと、しかし「人道的援助」とよばれた子供の衣料品援助等はソ連の労働組合の義捐金で賄い、税金投入どころか逆に課税していたこと、スペイン国立銀行の金準備や武器・石油輸出も人民戦線政府の経済的困難につけ込んだ国家ビジネスで、ソ連の国家財政を潤す「援助という名の輸出」であったことを、秘密文書を用いて緻密に明らかにした。

第4章「コミンテルン中央―政策決定の機関2」は、「ソ連システム」の一部であるが相対的に自立的な「コミンテルン・システム」を扱う。そのさい「フォーマル・システム」として、コミンテルン執行委員会幹部会・書記局、書記長ディミトロフと書記局ビューロー・個人小書記局、コミンテルン執行委員会ソ連共産党代表のマヌイリスキー、スペイン問題について重要な発言をし後にコミンテルンからスペインに派遣されるイタリア共産党のトリアッティらをあげる。「インフォーマル・システム」として、ソ連共産党のコミンテルン執行委員会内代表団、コミンテルン執行委員会内党細胞、コミンテルン執行委員会内党委員会(パルトコム)、コミンテルン執行委員会人事部(組織局)、国際連絡部(連絡課、OMS、SS)、国際統制委員会(IKK)などを扱う。著者によると、ソ連国内の粛清で重要な役割を果たした「インフォーマル・システム」は、スペイン内戦との関わりではほとんど作動せず、わずかに国際連絡や情報収集にOMSが介在したこと、政策決定ではディミトロフ、マヌイルスキー、トリアッティの役割が決定的であったことを、閲覧可能になった秘密決定・書簡類など第一次資料を駆使して論じる。粛清に関わって世界の研究者が注目しながら未だに全容のはっきりしないOMSについて8頁に渡り歴史的に分析し、ディミトロフとスターリンの頻繁な会見の記録を見出して、それを仲介するマヌイルスキーの役割を浮き彫りにした。

第5章「コミンテルン中央の会議」は、ソ連崩壊前からコミンテルンとスペイン内戦の関わりで最も注目されてきた、1936年9月16日から19日のコミンテルン執行委員会幹部会会議及び書記局会議の詳細な分析である。コミンテルン第7回大会の統一戦線・人民戦線政府論との関わりでは、この会議でディミトロフがスペインを「真の人民民主主義を持つ特別な国家」と特徴づけ、会議後トリアッティが「スペイン革命の特殊性について」を書いて、戦後のマルクス主義政治理論に大きな影響を与えた。著者は、史資料を駆使して会議の模様を議事録風に再現し、この会議が従来注目されてきた新しい革命論や民主主義論の提示というよりも、世界各国の共産党代表者たちにスペイン支援の意義を認識させ徹底させるためのものであったこと、理論的には深い討論などなく、ディミトロフとトリアッティのスターリンやソ連共産党とは相対的に異なる個人的見解が表明されたものであることを解明した。戦後のマルクス主義政治理論には、人民戦線政府への過剰な思い入れ、過大な理論的評価があり、本論文の著者も当初はそうした発見を期待して史資料に接したが、新資料で実務的な議事進行を見出し、客観的な評価を下した。

第6章は、「コミンテルンの政策決定過程―政策決定の過程2」と題して、新公開資料の中で国際的に最も注目されている「ディミトロフ日記」を用いて、スペイン戦争義勇軍・国際旅団の派遣決定から解散までを詳細に分析する。前章までの分析でコミンテルン書記長ディミトロフのイニシアティブが「ソ連システム」と「コミンテルン・システム」の結節点であったことが明らかにされ、あわせてディミトロフはコミンテルン内の「フォーマル・システム」と「インフォーマル・システム」の接点にあったことから、二つの中枢システムと「スペイン・システム」の具体的作動と従属の意味が検討される。1991年に存在が明るみに出た「ディミトロフ日記」は、ブルガリア語原本が最も詳細で信頼でき、世界的に流布しているイエール大学出版会の英語版は編者の恣意的抜粋であること、スペイン内戦関連ではスペイン、フランス、イタリア語圏でも未だに「日記」を用いた本格的研究がないことを踏まえ、著者はブルガリア語版「日記」及びロシア語執務記録等を丹念に検討し、ディミトロフのスペイン内戦との関わりを日誌風に再現する。国際旅団と共に、武器買い付けやカバリェロ首相解任問題、アナーキスト・トロツキー派への態度、第二インターナショナルとの協議など、従来の政治史研究で扱われてきた問題が、新しい史資料から探求された。国際旅団の派遣と解散の基本決定は「ソ連システム」のスターリン執務室で行われたが、それはスターリンのディミトロフ及びマヌイルスキーへの信頼と緊密な連絡をもとにしていた。国際旅団の具体的募集・派遣・運用は、ディミトロフ中心の「コミンテルン・システム」で行われた。その中での「従属」事例は、スターリンはスペイン革命の深化も急激な国際関係変化も望まず、コミンテルン側が現地の要請と軍事的状況から必要と考えたカバリェロ首相解任に反対して遅らせたこと、ソ連国内で粛清を進める秘密警察NKVDが、スペイン人民戦線内部の対立に乗じてトロツキストとみなされたPOUM(マルクス主義統一労働者党)非合法化に介入し粛清したことだった。

第7章「スペイン―コミンテルン代表を中心にして」は、スペイン現地の共産党、国際旅団との連絡、現地ソ連大使館との調整などで重要な役割を果たしたコミンテルン執行委員会派遣スペイン代表団を扱う。この問題も、国際連絡部(OMS)と並んで、世界の研究者が注目している点で、日本に派遣されたカール・ヤンソン、中国共産党のオットー・ブラウン、フランス人民戦線成立の立役者となったヴァサール、アメリカ共産党に派遣されたゲアハルト・アイスラーなど存在は知られているが、先行研究の少ない領域である。著者は、コミンテルン派遣代表の役割を、連絡、助言、調整、報告、分析と機能的にパターン化し、この期のスペイン駐在コミンテルン派遣メンバーを、ヴィクトリオ・コドヴィーリャ、ストヤン・ミネフ、エルネー・ゲレ、暗号名「カウツキー」、パルミーロ・トリアッティと具体的氏名(「カウツキー」のみ本名・経歴不明)と役割を分析し、特にコドヴィーリャの官僚的・恣意的「介入」がスペイン共産党との軋轢を生み、「コミンテルン・システム」中枢にあったトリアッティがスペインに派遣されたのは、コドヴィーリャとゲレの解任・更迭とコミンテルンからの「指導と助言」徹底のためであったとする。

最後の第8章「コミンテルンとソ連―スペイン内戦は何だったのか」は全体のまとめで、これまで述べてきた政策決定事例を「ソ連システム」「コミンテルン・システム」「スペイン・システム」のそれぞれでどの部局・指導者・ルートが担ったか、それがスムーズに効率的に進んだ「指導」ないし「助言」であったか、問題を起こした「従属」的介入であったかを、総括的にパターン化している。ソ連から8ルート、コミンテルンから11ルート、全部で19に類型化された政策決定パターンは、スペイン内戦の歴史を語るにはやや煩瑣であるが、「システム」の多元性、相対的自立を示すという著者の問題設定への回答になっており、またスターリン、ディミトロフ、マヌイリスキーをトップ・リーダーと判定したリーダーシップ論につながる。末尾で著者は、スペイン人民戦線での財政や人事をも用いた直接・間接の「介入」、ソ連外交を補完した「積極的従属」の経験が、実は第二次世界大戦後のソ連による東欧諸国支配の原型であり実験場であったという重要な問題提起を行っている。かつてE・H・カーが示唆したものを、より実証的に敷衍したものだが、本研究が同時代のフランス人民戦線、中国国共合作の研究のみならず、戦後の中東欧地域研究やコミンフォルム研究に応用できることを示唆した。
特筆すべきは、674項目の注解をはじめ全体の3分の1の分量を占める付録である。英語、ドイツ語、ロシア語、ブルガリア語、スペイン語、イタリア語、カタロニア語、フランス語、日本語の文献史資料目録、スペイン内戦当時のソ連国家・党、コミンテルンの各部局毎の指導的メンバー一覧、主要人物の経歴等、本書の分析のもとになった基礎資料が整理され、日本ではもちろん初めてのコミンテルン執行委員会幹部会会議・書記局会議の重要な議事録(Auszug)、会議出席者統計、日記・書簡などが訳出されている。これらはソ連及びコミンテルン研究の百科全書的意味を持ち、独自の書誌学的貢献とみなしうる。

三 本論文の評価

 以上に要約した島田顕氏の論文は、以下の諸点で、高く評価できる。
第一に、本論文は、これまで資料的制約によりブラック・ボックスになっていたスペイン内戦時のソ連国家・共産党、及びコミンテルンの政策決定過程を、旧ソ連崩壊で閲覧可能になった第一次資料を丹念に読み込んで、ソ連共産党頂点での国際旅団派遣及び解散の決定、スペイン国立銀行金準備を担保にし人民戦線政府の経済的困難につけこんだ武器援助・人道援助の名によるソ連国家のビジネス、ディミトロフとスターリンの頻繁な会見記録、カバリェロ首相解任問題でのスターリンの反対、コミンテルン派遣スペイン代表の具体的氏名と活動実態、トリアッティのスペイン派遣の理由、国際連絡部(OMS)の介在等々、国際的な研究状況から見ても重要な史実を、実証的に明らかにした。
第二に、そのさい1936年9月コミンテルン執行委員会幹部会・書記局会議議事録の解読、ブルガリア語版「ディミトロフ日記」からの関連事項抽出など、ソ連崩壊で新たに利用可能となった第一次資料をいち早く活用し、ロシア語、ブルガリア語、スペイン語、カタロニア語、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、日本語の文献と史資料を系統的に整理して、イシューに即した時系列の政治史に仕上げ、コミンテルン国際連絡部(OMS)、コミンテルン派遣各国代表など世界的にも未開拓な領域での研究を進展させる史資料的土台を作った。世界で初めて利用される資料を含み、日本語になるのは初めてのものが大半で、当該領域における新時代の世界的研究の先駆けと評価できる。
 第三に、スペイン内戦との関わりに集中することにより、ソ連国家・共産党とは相対的に異なるコミンテルンの政策決定の諸機構と機能を、単純な全体主義論・一枚岩論やソ連外交の道具説に対置して、多次元的で立体的なコミンテルン像を提示した。「フォーマル」な諸機関・指導者ばかりでなく、「インフォーマル」な領域にも踏み込み、1930年代後半のスターリン粛清最盛期にもコミンテルンが実務的に機能していたことを明らかにした。またスペイン内戦介入を戦後のソ連の東欧諸国支配、他国共産党支配の手法・ルートの原型と位置づけて、今後の幅広い旧ソ連・コミンテルン研究に道を拓いた。
 しかし同時に、本論文にも、問題点がないわけではない。
第一に、本論文の問題設定が「ソ連システム」「コミンテルン・システム」「スペイン・システム」の三者の関係解明として設定されたため、スペイン内戦の歴史そのものの再検討・再評価には踏み込むことができず、外的条件を明らかにしえたものの、著者がかつて志した包括的なスペイン内戦研究という意味では、未完成なものとなっている。
第二に、「ソ連システム」と「コミンテルン・システム」のスペイン内戦介入の諸ルート・諸機能は明らかしえたが、同時に基本決定がソ連国家・党により独占されたことは著者も認めるところで、やはり従属ではなかったかという疑問は残る。世界の研究の近年の焦点だったスターリン粛清問題を敢えて捨象したために、ソ連国内での粛清、例えばラテン系諸国出身の亡命共産党員粛清とどう関係したかは、改めて問われうる。
第三に、本書で多用された「システム」の概念は、パーソンズ、ルーマンらのシステム社会学を必ずしも踏まえたものではなく、「体制」ないし「レジーム」に近く、やや機械的・図式的な印象を与える。またその作動を「効率性」を中心に評価したために、ロシア革命とソ連邦、コミンテルン、スペイン内戦という重要な20世紀的事象の歴史的・全体的評価を正面から論じていないのではないかという批判はありえよう。
その他文体や用語に日本語論文としてはわかりにくい表現も散見するが、もとよりこれらの問題点の多くは、著者が対象と方法の限定としてあらかじめ断ってあるもので、著者が実証的に示した大きな貢献を減ずるものではない。著者も十分自覚し、今後の課題としているものである。本論文は、これらの点を考慮し著書や外国語論文として公刊されれば、国際的にも有意味な学問的貢献となりうるであろうと評価できる。
以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に十分に寄与しえたと判断し、本論文が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨
 2005年10月5日、学位論文提出者島田顕氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査委員が、提出論文「ソ連・コミンテルンとスペイン内戦」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、島田顕氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、島田顕氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。
国立大学法人 一橋大学  大学院社会学研究科・社会学部




博士論文要旨
論文題目:ソ連・コミンテルンとスペイン内戦-モスクワを中心にしたソ連とコミンテルンのスペイン内戦介入政策の全体像
著者:島田 顕 (SHIMADA, Akira)
博士号取得年月日:2005年11月29日

審査要旨へ
 本論文は、ソ連・コミンテルンによるスペイン内戦(1936-39年)中の介入政策、スペイン共和国支援政策の全体像の再構築、つまりスペイン内戦における政策決定システムと政策の流れを把握し、指導、援助の有効性と意味の考察を目的とするものである。本論文は、スペイン内戦当時のコミンテルンを一個のシステムととらえる。コミンテルン・システムは、ソ連という全体的なシステムを構成する一つの小システムである。ソ連には、コミンテルン・システム以外にも独自の政策決定システムが存在し、スペイン関連部門もあった。他方でコミンテルン・システムを構成する個々の小システムの中に、政策決定システムがあり、その中のスペイン関連のものがコミンテルンのスペインシステムだった。コミンテルンのスペインシステムの大きな特徴は、ソ連との密接な関係と、スペイン駐在コミンテルン代表の存在である。コミンテルンはソ連の従属下にあったが、コミンテルンが他国にはないルートであり、人民と直結し、世界の様々な民族が関与し、一国の枠を飛び越えているなど、従属下のコミンテルンの積極的な面もあった。
 ソ連側のスペイン内戦政策決定における最重要アクターは、インスタンツィヤと呼ばれる最高指導部、つまりスターリンとその側近たちだった。側近たちの中でも、モロトフ、カガノヴィッチ、ヴォロシーロフがスペイン内戦関連で主要な役割を演じていた。全般的には、カガノヴィッチの活躍が目覚しい。カガノヴィッチは他の二者に比べ若かったが、スターリンとの書簡のやり取りは最も頻繁だった。ヴォロシーロフは軍事面で他をリードしたが、第二次世界大戦で犯した失策と同様、無能さをすでにスペイン内戦の時期に露呈し始めていた。武器をどのくらい送るかなど、細かな点はスターリンが決定し、ヴォロシーロフはそれを実行し報告するだけだった。モロトフはこの時期は目立った動きがなかったが、スターリンの最も身近な相談相手であり、他の二者より重要だった。側近たちはスペイン内戦を冷淡かつ、事務的に取り扱っていた。カガノヴィッチのオルジョニキッゼ宛書簡がそのことを如実にあらわしている。スターリンとの往復書簡でも彼らのスペインに対する独自の考え方がわかるものはなかった。モロトフは、スペインに関する文章を残していないが、外交問題には特に注目していた。スペイン内戦の動きにも目を配っていたが、スターリン以上のスペイン内戦に対する思い入れはなかった。つまりスターリンがスペイン内戦を含めて、対外政策の指針を決定していた。
 組織局会議は、政治局会議に先立つ人事・組織問題の決定を行っていた。執務室会議は、政治局に先立つスターリンと側近の間の審議・決定と、外部の人間を招き、広く意見を聞く場だった。執務室会議はほぼ毎日のように開かれるが、スペイン問題では会議の頻度もさほど高くなかった。しかもソ連駐在スペイン大使や関係省庁幹部を招いた対外政策の話し合いと、コミンテルン関係者を招いたコミンテルン政策に関する協議は、決して一緒に、合同で行われることはなかった。個別の話し合いが慣例となっていた。
 政治局会議は最終決定の場であった。政治局会議の頻度は高く、緊急決定として持ち回り決定を採用していたが、それでもスペイン問題では間隔が空いていた。だからこそ刻々と変わる情勢への対応は、インスタンツィヤが担っていた。全連邦共産党は政策決定の場であり、政策の実施はソ連国家に委ねられていた。そのことはスペイン内戦でも変わらなかった。スペイン内戦問題でも様々な省庁が動いていた。だが不干渉委員会に参加しているソ連代表に対する命令からもわかるように、綿密な対応が必要なときは、細部にわたり政策の実施にインスタンツィヤが干渉した。
 ソ連はスペイン銀行の金準備を武器の代金として前もって納めさせた。武器「援助」が輸出だったことは以前から知られていた。その金準備の輸送の責任はスペイン側が負った。ソ連側は責任を負わなかった。輸送中の不祥事により金準備が失われたとしても、武器の代金は免除されることなく、請求されるのだった。このことは武器「援助」でのソ連の非情さをあらわしていた。しかもスペイン共和国の勝利は決して望まれておらず、スペイン共和国がソ連に送った金準備に見合っただけの武器は、スペインに届けられることはなかった。
 武器「援助」開始以前の、食料品、石油なども援助ではなく、輸出だった。しかも、その費用はソ連の労働者が集めた義捐金によって賄われ、ソ連の国庫を傷めることはなかった。ソ連指導部がやったのは、輸出品の値段を少々値引きしたことくらいだった。人道的援助ではいくらか軽減されていたが、輸出のための税金も当然のごとくかけられていた。
 コミンテルン・システムには、フォーマルシステム(表のシステム、実質的政策決定システム)と、インフォーマルシステム(裏のシステム)があった。フォーマルシステムとして、①幹部会・書記局、②ディミトロフとディミトロフ書記長個人小書記局、書記局ビューロー、③マヌイリスキーとスペイン関連小書記局であるマヌイリスキー個人小書記局、④トリアッティ、⑤その他の書記(クーシネン、モスクヴィン)を挙げた。①は、表の心臓部であり、議論・政策立案決定の場であった。だがスペイン問題では頻繁ではない。重要な問題に関しては大きな会議が開かれ、しかも幹部会会議、書記局会議が連続し、数日間にわたることもあった。②は、コミンテルンの活動を監督し総攬する立場にあり、スペイン内戦政策でも重要な役割を担った。書記長の直接指揮下にあった書記長個人小書記局は、スペイン関連小書記局とともにスペインに具体的指示を伝える暗号電文連絡業務に従事し、書記局ビューローは事務的補助機関だった。③は、スペイン関連小書記局を従え、ディミトロフとともにスペイン関連政策立案決定を担当した。第7回大会以前の地域小書記局の役割に比べ、個人小書記局の権限は小さくなったが、人事的なつながりは残っており、この系列からコミンテルン代表がスペインへ派遣された。
 コミンテルンの制度的支柱であるインフォーマルシステムとして、①全連邦共産党(ボ)コミンテルン執行委員会内代表団、②全連邦共産党(ボ)コミンテルン執行委員会内細胞組織・党委員会、③OMS国際連絡部・国際統制委員会・コミンテルン人事部があった。だが、これらのほとんどが政策決定に関与できる機関ではなかった。唯一政策決定に影響を及ぼすことができたのは、①だった。だが代表団も組織的に形骸化していた。モスクヴィン、マヌイリスキーなど、ディミトロフを補佐するソ連側党員が代表団長になったためである。ディミトロフの強力なイニシアチブも無視できなかった。代表団会議といっても、実際はソ連側のインスタンツィヤとコミンテルンのトップを指していたのである。
 また政策決定機関ではないが、政策遂行機関としてOMSを重視する。コミンテルンのスパイ組織であるOMSの実態は未解明だが、連絡業務その他でスペイン内戦でも重要な役割を担った。連絡業務以外に、スペイン内戦下でOMSが担った特殊重要な役割に挙げられるのが、義勇兵募集・派兵活動、コミンテルン代表らの派遣ルートの確保、移動の際の護衛だった。コミンテルンの連絡システムがOMSだった。
 コミンテルン中央の決定方法を綿密に把握するために、1936年9月16-19日のコミンテルン執行委員会幹部会会議・書記局会議の一連の会議を検討した。一連の会議は、まず幹部会会議として開かれ、各国共産党代表によるスペイン内戦への対応、スペイン内戦の国内的意義の発表が行われた。それらに対するディミトロフの発言の後、スペイン駐在コミンテルン代表のコドヴィーリャが報告した。幹部会会議はここで一旦閉められ、議論は書記局会議に持ち越される。書記局会議ではさらなる議論の後、決議が行われ、重要な一連の問題(コミンテルンによる国際旅団派遣など)が決定されたのである。
 ディミトロフの『日記』、アウスツーク、その他の史料を用いて、コミンテルン中央の政策決定過程を考察した。これまでスペイン内戦に関する詳細な命令、決定は、決して表に出ることはなく、機関誌『KI』、通信誌『ルントシャウ』などで推測するしかなかったが、本論文では実際の決定、命令を明らかにできた。ディミトロフは、スペインへ派遣していたポーランド党員たちをモスクワに召還することによって、粛清に手を貸した。またスペインから入ってきた反党活動に関する情報を、ソ連側(NKVD)に伝えていた。
 スペイン内戦において、ソ連とコミンテルンは密なる連携・協力体制下にあった。スターリン執務室会議には、僅か8回だが、ディミトロフ、マヌイリスキー、トリアッティその他が出席していた。執務室会議ではスペイン問題も数回議題となっている。そこでスターリンの具体的指示(①カバリェロ首相続投、②戦時下スペインの国会選挙実施、③スペイン共産党の政府からの離脱)があったが、スターリンからの指示の実現は実質的に不可能で、コミンテルン側は拒否した。
 コミンテルン中央は、ソ連指導部に、書簡による詳細な報告を逐次行っていた。スペインから文書が届くと、その文書のコピーが、ディミトロフ、マヌイリスキーによって、インスタンツィヤに届けられていた。コミンテルンの重要な動き(第二インターとの交渉、トリアッティのスペイン派遣など)も報告されていた。『日記』によれば、ディミトロフとスターリンらソ連指導部との直接接触の機会が頻繁にあり、そこでスペイン問題が話し合われていた。常にスペイン問題を含めた重要な問題について、スターリンと直接話し合う機会があった。ソ連、コミンテルン双方の伝達手段としては、文書(電報)、文書(ファックス)、伝書使、電話、直接面会(口頭)などがあった。
 重要なコミンテルン関連の決定、しかも最終決定の一部(国際旅団結成、その廃止など)は、全連邦共産党政治局会議で行われた。その際、ディミトロフ、マヌイリスキーがオブザーバーとして出席していた。つまり、コミンテルンの重要な動きはソ連側の許可が必要だった。スターリンはディミトロフを全面的に信頼していた。加えて全連邦共産党代表団は、スペイン問題では形骸化していた。ソ連党員のみの代表団で、ディミトロフを除外してのスペイン問題論議は無意味で不可能だった。コミンテルンは、粛清ではソ連の完全な従属下にあったが、政策自体では密接な関係の下、ある程度の行動自由があった。ソ連側の指示はあるが、必ずしもそれに従うものではなかった。また国際旅団のための資金はソ連側から出されていたことは、ソ連側がコミンテルンを信頼していたことを示している。信頼していないのならば、資金を与えなければよい。コミンテルンは、ソ連からの資金がなければ、何もできない組織だったからである。
 コミンテルン代表(コドヴィーリャ、ゲレ、ミネフ、暗号名「カウツキー」、トリアッティ)は、スペインに常駐し、スペイン共産党とカタロニア統一社会党を指導した。ディミトロフが示した代表のあり方は、組織的に曖昧なものだった。コドヴィーリャとゲレは、ディミトロフが求めたコミンテルン代表のあり方を逸脱して行動した。逸脱はスペインに停滞をもたらし、人民戦線崩壊の一原因となった。コミンテルンは状況を打開するために、トリアッティを送り込み、情勢分析させ、コドヴィーリャとゲレの更迭を決める。二人の更迭後、トリアッティとミネフによる指導、助言によって、状況はいくらか改善されたが、1939年3月にスペイン共和国は敗北する。
 結局、党(コミンテルン)の介入も国家(ソ連)の国家(スペイン共和国)への介入であった。スペイン内戦では、党の介入と国家の介入が交錯していた。スペイン内戦は、党の介入と国家の介入が交代する、いわば過渡期に位置していた。スペイン内戦が終わり、コミンテルンが1943年に解散すると、ソ連国家が台頭してきた。ソ連が直接乗り出し、コミンテルンにとってかわった。コミンテルン・システム、スペインシステムに注目したソ連は、スペイン内戦での「援助」という名の介入、支配をふり返り、その中で無駄なものが何だったのかを問い直し、コミンテルン・システムの削除を図った。ソ連はスペイン内戦後、システムをスリム化した。スペイン内戦でコミンテルンが受け持っていたシステムを、すべてソ連側が乗っ取ったのである。つまり、スペイン内戦はソ連にとって東欧支配の準備室であり、東欧支配方法の鍵を見つけ出した場所だった。ソ連にとってコミンテルンとは、支配(援助)に本腰を入れられる段階ではなかった時代の、丸投げシステムであり、肩代わりさせるためのシステムだった。スペイン内戦で強大化したシステムは、逆にソ連の注目を浴びることになった。コミンテルン・システムの侵食がソ連によって始まるきっかけになったのが、スペイン内戦だった。コミンテルンはスペイン内戦においてソ連を積極的に関与させたシステムを完成させ、機能させた。そのシステムは、単なる従来型のソ連外交に従属するシステムとは異なる、積極的従属と評せられるものである。ソ連を積極的に関与させることにより、コミンテルンの路線である人民戦線戦術の積極的な意義を認めさせる意味もあったのだろう。スペインにとって、コミンテルンとソ連、それらの介入、コミンテルンとソ連のシステムは、勝利をもたらさないものであり、まさに非効率なものだった。
国立大学法人 一橋大学  大学院社会学研究科・社会学部




つぎは中国研究者らしい人から

 中国語 版ディミトロフ(季米特洛夫)日記を購入
 ディミトロフは1935年から43年までコミンテルンの書記長を務めた人物で、この時期の中ソ関係を知る上では重要な人物である。特に僕の関心から言えば、中共との電報のやりとりや、指示、通知の伝達などがディミトロフ日記から伺えるのではないか思われる。中国語の訳書ということで問題はあるであろうが、まさかブルガリア語の原書を読む訳にもいかないため、仕方がない。英語版『The Diary of Georgi Dimitrov』の方が信頼性はあるのかな。

 
ディミトロフの見たモスクワでの「西安事変」
 もうすでに知っている人も少ないかもしれないが、ディミトロフはブルガリアの共産主義者で、1934年からコミンテルン書記局の中心的メンバーとなり、1935年のコミンテルン第七回大会での「反ファシズム国際統一戦線」についての報告で知られる人物である。特にかれが30年代オーストリアで活動していたとき、ヒトラーの企てた「国会放火事件」で犯人にでっち上げられ、裁判でのファシストとの闘争は一躍彼を世界的な名士にした。死刑判決を受けたが、死刑執行の直前になって国外追放に減刑され、ソ連に来てコミンテルンの職務に着いた。ディミトロフの日記と言うものが中国語に訳されて出版されていることを最近ようやく知り、古本を取り寄せた。(『季米特洛夫日記選編』、2002年10月、広西師範大学出版社)抄訳であるため研究対象としては不十分であるが、これまで全く知らないで過ごしてきた重要な記述があるので、紹介したい。後日詳細な研究がなされることを期待する。
 西安事変に先行する重大な問題は、中国共産党中央と紅軍の長征である。このことは1936年9月7日の条に初めて出てくる。「クレムリン宮にて。/中国問題を討論。/建議;中国共産党人が提出した計画草案(寧夏と新疆を通過して武器を運送して、中国紅軍を支援する、等)に同意できると考える」。重要な点は、この記事の以前に長征に関する記事はないことである。続いて9月11日の条にやや詳しい記事がある。「中国問題についての決定を確定;”(1)中国紅軍の行動計画、すなわち寧夏の部分地区と甘粛西部を占領すること、に同意する。同時に中国紅軍は引き続き新疆方面へ推進してはならないことを明確に指摘する、そうでなければ紅軍は中国の主要な地区から離れる危険がある。/(2)中国紅軍が寧夏地区を攻撃占領したあと1.5万~2万丁の歩兵銃、8門の火砲、10門の迫撃砲と相応の数量の外国制式の弾薬を与えることを繰り上げて決定する。武器は1936年12月モンゴル人民共和国南部辺境に集中し、名の知られた烏拉圭洋行を通じて売り渡す。寧夏へ運び入れる準備とする。”」
 一般に中国の長征として知られるものは、1934年秋江西省を出発し、1935年10月陝西省の呉起鎮に到着したものである。しかしここでディミトロフが述べているものは、それではないように見える。まず第一に毛沢東同志の指揮する長征の部隊は、1936年2月東進し、黄河を渡って山西省南部へ進出した。その目的は日本軍と戦うためである。これに対し蒋介石は宿敵閻錫山を助けて、主力部隊の一部を河北省、河南省に移動して紅軍の進出を阻止した。紅軍は4月に陝西省へ戻ったあと「征西」した。これは前年四川省西部で張国燾と朱徳によって分裂させられていた紅軍主力が、これを追ってきた賀竜軍と合流し、北上を開始したために、これを迎えるためである。朱徳、賀竜の紅軍は黄河を西に渡り、寧夏から甘粛までを占領し、ソ連国境に接近することが事前に大筋で決まっていた。つまり紅軍を三つの部分に分け、毛沢東同志が東部(陝西省西部)、おそらく朱徳が寧夏、張国燾が甘粛である。ここで述べられている「紅軍の行動計画」とは後の二者のことを言っていることは疑いない。そして紅軍に甘粛からさらに西へ進む(つまり新疆に入る)ことを禁じたのは、この時すでにソ連が事実上新疆省を支配していたからである。もし紅軍を追って国民党軍までもが新疆に大挙してくれば、ソ連にとってきわめてまずいことになるからである。ただし、実際に黄河を渡ったのは、徐行前指揮の25000人で、半数以上は国民党軍が追って来たために渡河出来なかった。
 次にあらわれるのは1936年11月26日の条である。「クレムリン宮にて。スターリンと会談。/”---中国に対する工作の決定を改変しなければならない。当面はソヴィエトをやってはならない。民族革命政府、全民防衛の政府を樹立して、中国人民の独立を守る。ただ都市だけはソヴィエトをやってもよいが、ただし政府機構ではなく、大衆的組織とする。没収しない。君が草案を作り、われわれはそれを見よう!”/ヴォロシーロフと中国に対する援助を話した。」スターリンの発言は、コミンテルン七回大会の王明の発言と同じ内容であるといえる。
 その一週間後、ソ連政治局は基本的な決定をした。ディミトロフの述べるところでは、1936年12月2日の条で、「政治局が今日行った決定を受け取った。/1166トンの箱に詰めた貨物(ここで指しているのは中共に提供する援助である‐‐原注)。/外国貿易人民委員部から責任を持ってトラック、燃料、弾薬を提供する。/すでに財政人民委員会へ電報を発している。200万ルーブルを支出するほかに、さらに50万ドル、5000ルーブル(そのうち15万ドルはすでに外国制式の飛行機を買うために用いている)を提供する。484名の関係ある専業の軍人(操縦士、技術員、指揮員)が新疆政府に入って服役する。/遠征隊隊長はモウンコフ大校。」のちにこの兵器は新疆経由に一本化されて提供された。それにはかなりの曲折があった。
 1936年12月3日の条には、「鄧発の報告(未完)」の短い一句がある。そして実はこの鄧発がきわめて重要な役割を果たしている。
 西安事変直前の1936年12月9日、重要な情報が入っている。「ポカモロフが来て話した;/(1)日本は中国に対する侵略を引き続きやってゆく;/(2)南京はもはや重大な領土の譲歩は出来ない;/(3)中国は日本と戦うだろう;/(4)統一戦線運動はまさに迅速に発展している;/ (5)蒋介石は日本に対する開戦の前夜ならびにソ連との協議のあとはじめて共産党との和解を決意する;/(6)蒋介石は西北で紅軍を追撃し得ないだろう;/宋慶齢(孫中山夫人)はすでにほとんど共産党員である。」かなり正確な見通しである。蒋介石政府のモスクワ大使館からの明確な意思表示を受けたものであろう。
 そして12月12日、蒋介石が西安で張学良に逮捕される。ディミトロフの日記に現れるのは12月13日である。「張学良の部隊が陝西で起義したことについての報道がある。蒋介石を逮捕した。/ストマニアコフが来て会った。彼は張学良についてよい楽観的な評価をした。ソ連は慎重にそして巧妙に西安事変と関係する反ソ運動に対処しなければならない。」このようにディミトロフは問題をただちに「反ソ運動」として理解している。かれらは中国人民の抗日運動の高まりについて、全く理解していないし、その政治的意義を全く認めていなかったといえる。ただ蒋介石を日本と戦わせるために、共産党に蒋介石への譲歩、妥協を迫ってきただけであるから、蒋介石の逮捕はなによりもまずソ連の政策に対する反逆でしかなかった。翌日の『プラウダ』社説はこれと同じ意見を発表している。ソ連首脳部の中ではこうした思想は完全に一致していた。
 その12月14日の条では、まず、「中国工作についての会議。鄧発の報告をスターリンに送った」と述べる。つまり10日前から鄧発の報告を整理してこの日ようやく完成し、鄧発の確認のあとスターリンに送付したと読める。重要なのは、スターリンがこの報告になんら異議を唱えていないことである。つづいて、「かれにわれわれの中国の同志の立場について意見を提出することを求めた。建議は;/"かれらが自主的な立場をとり、内戦に反対し、平和的に衝突を解決し、和解と共同の行動を闘い取る採ることを宣言することを建議する、共産党は国民党への手紙と毛沢東が記者の質問に答えた中で所持した立場に立つことを強調すると同時に、中国の領土の完整と独立を主張する各党派が民主宣言を発表することをたたかい取る。” 」つまりコミンテルン首脳は鄧発の主張になんら異議はなく、その主張を傾聴している。
 ところが日記はつづけて述べる。「深夜0;00スターリンから電話;/“中国の事件は君の認可のもとで発生したのか”/(ちがいます!このことは日本にもっとも有利である。われわれもまたこのようにこの事件を見ている!); /王明は君たちのところで何をしているか?かれは挑発者か? かれは電報を発してかれらに蒋介石を銃殺させようとしている。/(わたしはそのようなことがあるとは知りません)/それならわたしが君にこの電報を送ろう!/つづいてモロトフから電話があった。/“明日の午後3.30君たちはスターリンの事務室へ来てくれ、われわれは一緒に中国工作を討論する。君とマヌイルスキーだけだ。ほかの人は着てはならない!”」
 従来中共党内でスターリンに最も忠実な人物とされてきた王明が、なぜかここではスターリンのもっとも厳しい叱責を浴びている。その理由は西安事変で逮捕された蒋介石の銃殺を主張したためである。しかしこの時まで王明は1935年のコミンテルン大会で中共党員としてはじめて蒋介石と連合して国防政府の樹立を主張した人物として知られている。これ以後も王明は中共党内で、「統一戦線」主義者として蒋介石への譲歩、妥協を重ね、最後は皖南事変に至った右傾日和見主義の代表的人物である。その彼がなぜ蒋介石逮捕の一報を得るや、ただちに蒋介石の銃殺を主張したのか。そして従来この主張は毛沢東同志のものであるとひそかにささやかれつづけてきたものである。毛沢東同志のこの主張はスターリンの直接の電報で制止され、毛沢東は夜中悪態をついてスターリンをののしったと伝えられているものである。ここで鍵はやはり鄧発である。かれが14日にはすでに毛沢東の談話の立場を擁護しているのは、問題の本質を説明している。この問題の中には、事実とその本質を隠蔽するとともに、毛沢東同志を陥れようとする勢力がひそひそと耳打ちして広めたデマが存在し、やがて一人歩きした背景を感じないわけにはゆかない。
 それでは毛沢東同志の政策はスターリンと一致していたのか、もちろん全く違う。特に張学良のこの行動を、スターリン、コミンテルンは日本を利するものという一点に凝集して攻撃しているが、毛沢東同志は蒋介石に抗日の条件を認めさせる好機と捉えているから、張学良との結束を第一にかかげている。張学良だけでなく、広西派、広東派、馮玉祥、張発圭(改組派)を含め、あらゆる反蒋派を抗日運動に結集し、蒋介石派の転換を勝ち取ろうとする戦略をもって行動していた。この毛沢東同志の戦略はすでに鄧発が報告していたと思われる。
 このため中国問題についての最高指導部の会議が開かれた。ディミトロフの日記は次のようになっている。
 1936年12月15日、「中国問題を討論する会議。/「クーシネン、マヌイルスキー、モスクーウェン、王明、鄧発、エルコリ、マンダリヤンが参加。」
 この会議はコミンテルン書記を中心とする会議である。前日のモロトフの電話はすでに15日の午前になっていたと考えられるから、「クレムリンへ3;30に来るように」言われたのは12月16日を指していたと思われる。いずれにしろこのメンバーではソ連党の最上層とはいえない。
 1936年12月16日、「クレムリン宮で“五人組”に会見した。/(スターリン、モロトフ、カガノヴィッチ、オルジョニキッゼ)/中国事件について意見を交換。/協議のあと中共中央に以下の電報を発出することを同意した。/”復電 きみたちに以下の立場を採ることを提案する;/(1)張学良の行動はかれの意図に関わりなく、客観上は中国人民の力を抗日統一戦線の中に団結することに損害を与えることが出来るだけであり、日本の中国に対する侵略を鼓舞するものである。/(2)この行動がすでに行われたために、われわれは現実の情況を考慮しなければならない。中国共産党は断固として以下の基礎の上でこの衝突を平和的に解決することを宣言しなければならない;/中国の領土の完整を主張し独立した抗日運動の代表的人物の政府への参加を通じて、政府の改組を行う;/われわれが草案の中で建議した文字は;“中国の領土の完整を主張し独立した抗日運動のもっとも傑出した活動家によって政府を改組する;/中国人民の民主的権利を確保する;/紅軍を消滅する政策を停止する;日本の侵略に反対する闘争の中で紅軍と合作関係を樹立する;/中国人民が日本帝国主義の進攻の中から解放することに同情する国家と合作関係を樹立する;/最後にわれわれは”ソ連と同盟する“のスローガンを提出しないことを建議した」。
 さまざまな条件は提出されているが、すべて交渉によって左右できるものである。ただ一点張学良の行動を否定することにこの電報の主眼があることは明白であり、それは中共に国民党への投降を要求するに等しいものである。そしてまさにこの点でこそ、毛沢東同志がスターリンを軽蔑し、憫笑した一点がある。ソ連は中共と反蒋各派が連合して蒋介石を追い詰めれば、「親日」に転換することを恐れていたことが、以上の経過から赤裸々になる。しかし蒋介石がこの段階で日本と組むということは決してありえないものであり、ソ連のやり方は妥協によって「安全」な道を選択したつもりが、泥沼への道でしかなかったということである。
 ディミトロフが触れていない王明の動揺について、最後に考察しよう。中国革命の勝利がいずれにしろ蒋介石政権の打倒であることは当然である。それをいつどのように実現するかは、戦略の問題であるとともに、戦術の問題でもある。王明にとってここで蒋介石を消滅すれば、国民党は弱体化し、操縦しやすくなると考えただろう。王明はソ連滞在が長いだけでなく、中国でいかなる大衆闘争、軍事闘争にも参加していないから、中国の実際の闘争については全く無知であった。にもかかわらず自分を蒋介石、毛沢東に対置できる指導者に自認していたから、これらのライバルを早期に消滅することが出来れば、これほどよいことはないのである。同様のことはソ連にも言える。ソ連は蒋介石を日本と戦争させようとしていたが、しかし日本の中国侵略もまたアメリカ、イギリスなどの帝国主義に牽制されていたから、決して中国全土を支配できないと考えている。時期が到来すれば、蒋介石に見切りをつけ、中共に武器を与えて攻撃させればよいわけである。核心はスターリンとソ連が中国情勢を統制できるかどうかであり、中国人民の革命運動、反帝運動、抗日闘争はその道具でしかない。だから王明が考えていることも、スターリンが考えていることも、全く同様にどの機会に蒋介石を打倒するか、またどの機会に毛沢東を打倒するか、だけである。西安事変では王明はいかにも過激に行動したかのようであるが、特にこの基本路線から外れているわけではない。
 このことから導き出される彼らの、そしてまた世界のすべてのブルジョア階級、自由主義者、寄生民族の思考もまた同様である。つまり、どの程度の妥協をするか、その位置をどの程度右または左へずらすか、どの程度までの右または左の勢力と連合するか、と言うことにつきる。それがかれらの「政治」である。毛沢東同志が述べているように、観念論者は物事を量の増減と場所の移動で認識する。それはつまり、社会主義はソ連では正しいが、中国では適さない、それは資本主義の発達の「程度」(つまり資本主義の量)が足りないからである。ではなぜロシアより発達した資本主義国は社会主義にならないのか。ロシアの農村より資本主義が発達した中国の特に南方の農村はどうか。結局のところそういう問題ではないからである。
 レーニンは『帝国主義論』を書いた。前半の各章はきわめて順調に資本の集積から説き起こし、世界の分割まで進んだ。ではそのあと帝国主義はどうなるのか。資本輸出、金融的支配、最後に帝国主義本国にはもはや寄生階級に奉仕するわずかな産業しかなくなり、生産の大部分は植民地に移る。ここまで書いてレーニンは完全に行きづまる。それならば帝国主義本国の労働運動、革命運動の意義はどうなるのか。かれはもう答えられない。答えられないのはレーニンの理論、レーニンの哲学が未熟であったからと言うしかない。にもかかわらずレーニンは『帝国主義論』を出版した。確かにかれはこの本は『未完』であると注をつけているが。しかし未完の理論を公開したのはレーニンの政治的誤りでしかない。その点を早くもコミンテルン第二回大会でインドのM・N・ロイに鋭く指摘された。しかしレーニンは自説の不十分さを承認せず居直ってしまった。これは誤りを自乗するものであった。スターリンは小人物である。レーニンの権威を借りて、自分よりはるかに名声のある数々の指導者たちを打倒してきた。当然にもスターリンにはレーニンを一字たりとも修正する力はない。レーニンの誤りをただひたすら拡大再生産するしかなかった。そういえばもう『帝国主義論』から90年になる。『帝国主義論』はわずか10年で重大な思想的、理論的、政治的破滅を迎えた。20年後には明々白々に世界の革命の同志を裏切った。ディミトロフの日記にはかれらのその思想の奥秘が、すでにいたるところで暴かれているといってよいだろう。





  1. 2012/12/25(火) 15:50:45|
  2. 未分類

不破連載の予告

古本屋通信  No 95  2012年  12月25日

 不破連載の予告

 昨日24日付と今日25日付の『赤旗』日刊紙に、以下の記事が掲載されたので紹介する。記事は上・下2回に分けて掲載されたが、ここでは一本化した。『前衛』でのこの連載は多分不破氏にとってだけでなく、日本共産党の幹部がスターリンの時代をふくむ国際共産主義・社会主義運動について語る、最後に機会になるだろう。2年間の長期連載になるそうだ。最後まで続いて無事完結することを祈る。( 古本屋通信 )


「スターリン秘史」―巨悪の真相に迫る   

 『前衛』新連載 不破社研所長に聞く
『前衛』2013年2月号から、不破哲三社会科学研究所所長による長期連載「スターリン秘史」が始まります。不破さんは「しんぶん赤旗」連載の『スターリンと大国主義』(1982年)以来、スターリンの専制主義、覇権主義の問題を長年研究してきました。新連載の特徴や魅力について不破さんに聞きました

 ――今回の「スターリン秘史」が、全体としてどういう内容になるか、いままでの研究とのかかわりで話してください。

『スターリンと大国主義』から30年、ディミトロフの日記に至るまで
 不破 私が『スターリンと大国主義』を「赤旗」連載で書いてから、30年ほどになります。スターリン研究の書は日本でも世界でもずいぶん出ているんですが、大国主義という角度から系統的に見るというものはないのですね。それであの連載を書いたのです。9年後(91年)にソ連が崩壊し、「クレムリンの金庫」があいて、ソ連時代の秘密文書が大量に出回りだした。それを一部のマスコミが日本共産党攻撃に使い出したので、私たちもモスクワで関連の文書を集めたのですが、読んでみて驚きました。私たちがたたかってきたソ連の日本共産党攻撃作戦の内情が、彼ら自身の言葉で書かれているじゃないですか。これは、非公開でしまっておくわけにはゆかないと思って、また「赤旗」に連載したのが『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(1993年)でした。

 その時、こうして表に出てくる秘密文書から、スターリンの大国主義を追究したら、もっと深い歴史の真相がわかるはずだと考えました。しかし、その後、秘密文書を使ったスターリン時代の研究はいろいろ出るのですが、大体は「大テロル」とかソ連の国内問題の研究で、大国主義、覇権主義という方面に目を向けたものはほとんどないのです。

 そんな中、おととしのことですが、インドシナ共産党の歴史についてのある日本人研究者の本を読んでいたら、スターリンが1941年にコミンテルン(当時の共産党の国際組織)の解散をその書記長ディミトロフに指示したという一節があった。コミンテルンの解散は1943年、ソ連も含めた世界大戦の真っ最中でしたから、その2年前に解散が問題になったなんて聞いたこともないのです。典拠を見ると、ディミトロフの『日記』から、とある。『ディミトロフ日記』なるものが公刊されているということを知ったのは、その時でした。

 そこで調べてまず手に入れたのは、アメリカのエール大学で出した英語版です。続いて、ドイツ語版、フランス語版、中国語版もみつかりました。1933年5月から49年1月まで17年にわたる記録で、英語版はダイジェスト版なのですが、読んでみると実に面白いのです。

スターリンの近くでの17年の貴重な記録
 ――日記はどんなところから始まるのですか。
 不破 それがヒトラー・ドイツの獄中からなんですね。ディミトロフはブルガリア共産党の幹部で、ベルリンに拠点を設けて国内の運動の指導にあたっていました。その頃、政権に就いたヒトラーが「国会議事堂放火事件」を起こし、これを「国際共産主義運動の陰謀」にでっちあげようとして、ドイツの共産党員だけでなく、たまたまベルリンに帰っていたディミトロフを逮捕したのです。

(写真)『ディミトロフ日記』の各国語版(左から仏、独、英、中国語版)

 日記はその獄中記から始まります。ごく簡単なメモ書きですが、虐待に抗しての奮闘ぶりがよくわかります。そしてライプチヒでの裁判では、誰も名前を知らなかったバルカンの無名の革命家が、ゲーリングとかゲッベルスとかヒトラーの腹心の大物を相手に大論戦を展開して、一躍世界の注目の的になり、無罪を勝ちとりました。しかし、本国では欠席裁判で死刑判決が出ています。そこをスターリンが注目して、この「反ファシズムの英雄」をモスクワに呼び、コミンテルンの中心にすえようと考えたのです。

 モスクワに行ってからも、ディミトロフは日記を書き続けます。日記は、2行の日もあるし、空白の期間もありますが、ともかく17年にわたり、スターリンの近くで仕事をした人物が、スターリンとの対話を含めて書き続けた日記というのは他に例がないし、本当に貴重な記録です。

 身近で見たスターリンのときどきの人物像も見えてきます。たとえば、ディミトロフがモスクワにきた時、スターリンは実に温かい態度で彼を迎えて、何でも相談に乗ります。ディミトロフにとってはそれまでは遠くから仰ぎ見る存在だったスターリンでしたが、この対応で親愛感とともに絶大な信頼を抱くようになるのです。そして、1年もたつと、スターリンの言うことは絶対で、多少疑問をもっても従ってゆく典型的なスターリン体制の官僚的人物に変貌してしまう。日記ではその過程もよくわかるのです。

 もちろん、彼の日記に出てくるのはスターリンの活動の限られた分野ですが、スターリンの足跡を歴史の流れに沿って“たて線”で見るのには、絶好の文献です。そこで、党本部で、社会科学研究所を中心に有志が参加する「スターリン問題研究会」をつくり、昨年から今年にかけて約10回、『日記』の翻訳をもとに私が報告しました。その経験からも、これを“たて線”に、“横線”には問題ごとのほかの資料を組み込んでゆけば、相当突っ込んだスターリンの覇権主義の歴史を描ける、こういう思いを強くしました。それで『前衛』で来年の2月号から連載を始めることに思いきって踏み切ったのです。

 ――かなり長い連載になりますか。
 不破 予定ですが、2年前後はかかりそうですね。
覇権主義が完全な姿を現す転機となる「大テロル」
 ――スターリンがソ連の権力をにぎって、社会主義とは無縁な権威主義、覇権主義の巨悪に変貌してゆく。まずその過程にも光が当てられるわけですね。

 不破 『スターリンと大国主義』で専制主義、覇権主義が完全な姿を現すのは1930年代半ば、「農業集団化」に始まった専制化の流れが36~38年の「大テロル」――何十万の人間の生命を奪った暴挙で本格的な体制となる。こう見ていたのです。そのことが今度の研究でもより詳細に立証されたと思います。

 そして、ここをつかむのが大事なのですが、この大量の人間抹殺はスターリンがただこの連中は気に入らないということでやったものではないのです。「ドイツや日本の帝国主義と通じたスパイ・暗殺者の集団だ」という罪をなすりつけ、それを裏付けるシナリオはスターリンが自分でつくるのです。それでそのシナリオに沿った材料を無数に集めて証拠資料とするわけです。ディミトロフにしても、このシナリオの全体がスターリンの創作だとは夢にも思わないのです。だが、スターリンからシナリオを渡されて、「この通りにやれ」といわれた人々、秘密警察のごく少数の幹部だけはことの真相を知っているのですが、この人びとは事が終わると、みな「大テロル」の最後の犠牲者になるのです。

 こうして、自分が創作した偽りのシナリオで罪を勝手になすりつけ、レーニンとともに革命をたたかった歴戦の闘士をはじめ、自分の専制支配の邪魔になると思われる人々を何十万も抹殺し、何百万の規模で弾圧を加えました。

 このような暴虐は、社会主義や革命の精神を、ひとかけらでも胸に残している者には、絶対にできないことです。だから、この時期を経て以後のスターリンは、そういう「巨悪」へと完全な変貌をとげている、ここをきちんと見極めることがスターリン研究では本当に大事になります。

 最近のいろいろなスターリン研究を見ると、「大テロル」はみんな痛烈に批判するのですが、いろいろな国の革命運動との関係や、あれこれの外交問題を取り上げる時は、その本性とは切り離してスターリンの動きをみるといったものに、しばしば出あいます。しかし、スターリンは、世界の共産主義運動の指導者として振る舞うためには、いろいろなことを社会主義の言葉、革命の言葉で語りますが、そこでやっていることの本音は、ソ連の国家的利害以外の何ものでもない。それを、社会主義とも革命とも無縁な人物が、革命の言葉を使って話している。その表と裏を見極めないと、本当の歴史は書けない、それが実感ですね。

 ――スターリンの本体の見極めが大事なんですね。その観点で、コミンテルン(当時の共産党の国際組織)第7回大会(1935年7~8月)の見方も変わってきますか。

人民戦線時代にソ連では大弾圧が
 不破 新しい側面が見えてきますね。スターリンは、ヒトラー・ドイツという相手に直面して、当面、反ファシズムの戦線を築こうとします。ディミトロフをソ連に迎えたのも、反ファシズムの旗を掲げる闘争の先頭に立つのに、うってつけの人物だったからでした。そのディミトロフを励まし、その知恵と経験を大いに発揮させて、世界が求めていた人民戦線戦術を打ち出した。そういう意味では、第7回大会が運動の大転換をやった輝かしい大会だったことは、間違いありません。

 そして、選挙で人民戦線政府ができたフランス、人民戦線の政府への右派の反乱で内戦に突入したスペイン、日本帝国主義の侵略を前に抗日統一戦線が焦眉の課題となった中国、この三つの国が、大会方針を実践する最大の重要な舞台となりました。

 これがスターリンの歴史でどんな時期にあたるかというと、ソ連の国内で「大テロル」が始まり拡大する時期なんです。「大テロル」の直接の根拠とされたのは、ソ連の政治局員キーロフの暗殺(34年12月)ですが、まさに第7回大会の準備中に起きた事件でした。誰が考えても、この暗殺の受益者はスターリン以外にない。しかも、彼は、事件が起きるとすぐ弾圧体制と偽りのシナリオづくりにとりかかります。そして、第7回大会が開かれ、人民戦線の世界的な展開が問題になる同じ時期に、スターリンは、ソ連で大量弾圧作戦に取り組んでいました。

 池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』に、「人間というものは、いいことをやりながら悪いことをやる」という有名なせりふがありますが、スターリンの場合、世界ではいいことをやりながら、国内では悪いことをやった、というわけにはゆかないのですね。

 実は、コミンテルンの第7回大会で、スターリンは、コミンテルンのどんな決定もスターリンの承認なしには実行されない、という仕組みをつくっていました。その仕組みを活用して、スターリンは、フランス、スペイン、中国の運動に介入しますが、それが全部、表向きは革命の言葉で語られているが、中身はソ連の大国主義的思惑、そういうことが早くも露骨に出てきました。

 たとえば、スペインの内戦でスターリンが何をやったかは、ヘミングウェイの有名な小説『誰がために鐘は鳴る』(1940年)にもかなりリアルに描かれていますよ。

覇権主義の行動を表向きは革命の言葉で
 ――ヒトラー政権とスターリンとの関係にも歴史の謎を解く光があてられるようですね。

 不破 人民戦線に続く時期、1939年に、スターリンは反ファシズムからヒトラーとの事実上の同盟政策に大転換をします。ヨーロッパで戦争が迫った前夜に、突然、ドイツとソ連が握手し不可侵条約を締結したので、世界はびっくりしました。しかも、スターリンは、この大転換を、党にも政府にも事前の相談を何一つしないで、完全にスターリン個人の独断でやってのけるのです。こんなことができるようになったのは、「大テロル」を経て、スターリン専制の体制が出来上がったからなんですね。同時に締結した東ヨーロッパ再分割の秘密条約は、指導部でもごく一部の者しか最後まで知らなかったのではないでしょうか。

 こういう完全な個人専制の体制は、スターリン時代に特有のものです。後継者たちは、覇権主義は引き継ぎましたが、スターリンほどの力はないから、個人専制の体制までは引き継げなかった。だから、どんな覇権主義の悪業も、報告や会議の記録として残るのです。その結果、日本共産党への干渉史は相当なところまで秘密文書から再現できました。スターリンの場合は、誰とも相談する必要がないから、そんな生の記録は少ないのです。そこにスターリン研究の苦労のしどころがあります。それだけに、ディミトロフのように、スターリンとの日常の対話を『日記』に記録した人物がいたということは、たいへんありがたいわけですよ。

スターリンの領土拡張欲にヒトラーがつけこむ
 不破 39年の条約をめぐる重要な資料に、独ソ交渉の経過を記録したドイツ側の外交文書集があります。戦後、アメリカがドイツの一部を占領した時に手に入れ、冷戦の始まりの時期に、ソ連はナチスとこんな取引をしていたんだぞということで、公表したのです。日本語訳も『大戦の秘録』(読売新聞社)があり、若い頃古本屋の店先で見つけました。その時は全部が真実とは思えず、一方的資料として読んだのですが、これは間違いない真実の記録でしたね。

 この中には、40年11月にヒトラーが世界再分割の新条約をソ連に提案した話まで詳しく出ています。今年の党創立90周年の記念講演(7月18日)であらましを紹介しましたが、これは、ヒトラーの大謀略でした。ヒトラーは、40年夏、イギリス本土攻略はだめだと、対ソ連攻撃に方向転換するのです。そのためには独ソ国境からバルカン方面まで大軍を配置しないといけないが、それを隠す“煙幕”が必要でした。ヒトラーは39年以来の交渉で、スターリンの領土欲の強さをいやというほど知っていましたから、そこに付け込んで、イギリスを撃滅した後、日独伊とソ連で世界を分割し、それぞれの「生存権」を確保しようじゃないかともちかけたのです。スターリンはその話に乗って受諾の回答をしました。その結果、ヒトラーは、「イギリス作戦のためだ」として平気でバルカンにドイツ軍を進出させました。

 コミンテルン解散の話も、その過程でスターリンが言いだしたことなんです。世界分割の大同盟となると、いくらなんでもコミンテルンの運動とは両立しませんからね。それが1941年4月、ヒトラーのソ連攻撃の2カ月前の話ですよ。ヒトラーがどうしてソ連をあれほど見事に不意打ちできたのかは、歴史家のあいだでも議論がいろいろありますが、答えはそこにあったんですね。

連合国の中で領土拡大を要求した唯一の国
 不破 ドイツの攻撃を受けると、スターリンは反ファシズムの旗を再び取り上げますが、そのなかでも領土拡張の大国主義は止まりません。1945年2月のヤルタ会談で、アメリカのルーズベルトから対日戦への参加を求められた時、日本の千島列島から旧ロシアが中国にもっていた権益の回復まで要求したのは、その典型でした。おそらくスターリンは、これで東と西にツァーリズムの時代以上の領土を手に入れて、ロシア史上最大の大帝国をつくったと、覇権主義の成果を大いに自賛したのでしょうね。

 戦後も、スターリンが死ぬまでの8年間に、その覇権主義はたくさんの問題を引き起こしました。日本に直接かかわる問題でも、「50年問題」や朝鮮戦争の問題があります。これらも、秘密文書を活用した新しい文脈で見ると、より深い真相が浮かんでくるのでは、と感じています。スターリンはこの干渉で、日本に武装闘争を持ちこもうとしたのですが、なぜそんな企てに出たか、まだそこまでは解明されていないのです。発達した資本主義国で、しかもアメリカの軍事占領下にある日本で、そんな方針は見込みがないに決まっています。それをなぜスターリンがあえて強行したのか。独立したばかりのインドにも、同じようなことがやられましたが、このあたりも今度の研究で掘り下げたい謎解きの一つです。

科学的社会主義の立場から真実を明らかにする
 ――今度の「スターリン秘史」にもりこまれる研究の現代的な意義はどこにありますか。

 不破 『ディミトロフ日記』をはじめこれだけ資料が公開されているのに、共産主義運動の本来の立場から研究されていないというのは、科学的社会主義の立場に立つものにとって、重大な欠落なんです。しかも、内外の多くの研究書が、大国主義、覇権主義という角度からはほとんど興味を示していません。

 わが党は、世界の運動の中で、ソ連覇権主義との闘争の先頭に立ち、それをやり抜いた党として、抜群の地位を持っています。それだけに、世界で最初に社会主義への道に踏み出したソ連で、レーニンの後継者を装って、スターリンがソ連を社会主義とは無縁の国に変質させ、覇権主義者として世界に流してきた害悪を歴史的事実そのものに照らして全面的に解明する、これは、社会主義・共産主義の事業の今後の発展のために、どうしてもやらなければならない仕事だし、わが党に課せられている重大な任務だと考えています。いまやれることは限られていますが、今回の連載がその第一歩となることを願っています。研究が進めば、世界の現代史の見方も多くの点で変わってきますよ。(おわり)

 

  1. 2012/12/25(火) 03:40:11|
  2. 未分類

『白鳥事件 偽りの冤罪』

 古本屋通信  No 94  2012年  12月24日

 『白鳥事件 偽りの冤罪』

 白鳥事件に関する新刊予告!
 以下はすべて資料です。この事件を冤罪と見做し、村上国治救出の運動に加わった全てのひとはお読み下さい。私も1960年代後半、民青同盟の一員としてその活動に加わりました。刊は同時代社から、12月28日に発売されます。( 古本屋通信 )

『白鳥事件 偽りの冤罪』   同時代社刊
「不都合な真実」によって消された者たちに捧げる渾身のレクイエム
 渡部富哉 著  B6・384ページ 2,800円+税 

その内容の一部
白鳥事件は冤罪ではなかった
 新資料・新証言による60年目の真実   2012年 3月 18日 
 特別インタビュー 社会運動資料センター・渡部富哉氏に聞く①
             聞き手:今西 光男、山城 オサム
(インタビューは2月23日、東京・日比谷の日本記者クラブで行われた)

 60年前の1952(昭和27年)1月、札幌市内で同市警の警備課長、白鳥一雄警部が拳銃で射殺された「白鳥事件」。当時、捜査当局は、地下に潜行して武装闘争を目指していた日本共産党札幌地区委員会の組織的な犯行と断定し、同委員会の委員長・村上国治氏(故人)ら同党関係者を一斉検挙した。事件は村上氏が犯行を計画・指揮した首謀者として懲役20年の有罪判決が確定して終わった。ところが、この事件は、指名手配された実行グループは未だに逮捕されず、凶器の拳銃が未発見など物的証拠も乏しかった。さらに転向組の同党党員の証言が立証の決め手とされただけに、多くのナゾが残され、冤罪説や謀略説がいまだに絶えない。
 これに対し、日本共産党の元党員で同党大幹部やこの事件の関係者とも深い交流があり、同党の裏も表も知り尽くした元活動家、渡部富哉氏(82歳)は長年の独自調査で発掘した裁判の新資料などを基にこう断言する。「この事件は、日本共産党札幌委員会軍事部による組織的な犯行であり、冤罪ではなかった。ただ、朝鮮戦争という時代背景のなかで、当局は共産党の壊滅を狙った戦前の「スパイM」(飯塚盈延)を使って、大森銀行ギャング事件などを引き起こした手法を使った経験の再生ともいえる「やらせ」の側面、つまり当局は事件の発生を事前に承知のうえで謀略を行った。当局の証拠の弾丸のねつ造などもあったという。白鳥事件60年目の真実が今、明かされようとしている。

事件の核心を物語る裁判資料を発掘
当時から「党がやった」と確信
――米占領軍の統治下にあった昭和20年代、わが国では下山事件、松川事件、三鷹事件などの不可解な事件が相次ぎました。多くは当時の日本共産党による組織的な犯行とみなされ同党関係者が検挙されました。しかし、大半は証拠の決め手に欠き冤罪で終わっています。そうした流れの中でみると、同時代に起きた白鳥事件(注1)も、有罪判決が確定して一応の決着がついた形ですが、今でも冤罪説が根強いようですね。
渡部 そりゃそうでしょう。当時、日本共産党は公式には白鳥事件との関係を否定し、白鳥事件対策協議会(機関紙「白鳥事件」)を発行して110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた冤罪キャンペーンの国民運動を展開しましたからね。一般国民の目に冤罪と映ったのも無理はありません。それに、この事件を取り上げ独自の推理を展開した松本清張著『日本の黒い霧』の影響も大きいでしょう。彼はよく調べて書いてはいますが、CICの謀略・冤罪説ですね。確かに当局による一部証拠(弾丸)のでっち上げがありましたから、それが、なおさら冤罪説を広めたといえるかもしれません。しかし、あの当時、日本共産党にいて地下活動をしていた私達のような一部活動家にとっては、事件が発生した時、「ああ、党がやったな」とピンときたものです。
——————————————————————————————-
白鳥事件:1952(昭和27)年1月21日午後7時40分ごろ(警察発表)、札幌市内で、札幌市警の警備課長、白鳥一雄警部(36歳)が自転車で帰宅途中、後ろの自転車の男に拳銃で撃たれ死亡した。体内から見つかった弾丸から凶器は拳銃(ブローニング32口径)とわかり、死体のそばから薬きょう1個が見つかった。捜査当局は、日本共産党北海道地方委員会傘下の札幌委員会メンバーの複数の自供などから、同党の地下軍事委員会指揮による中核自衛隊の犯行と断定。犯行を指揮したとみられる委員長の村上国治氏ら同党員多数を検挙した。しかし、殺人容疑で指名手配された関係者10名は中国に逃亡し、うち7名は帰国したが、実行犯(共同正犯)とされる3名は現在まで逮捕されていない。国外逃亡は時効が停止するため、逮捕状は現在も更新されている。殺人罪などで起訴された村上氏は1審、2審とも有罪となり、1963(昭和38)年、最高裁で上告が棄却され懲役20年の刑が確定した。その後再審請求を経て最高裁で特別抗告も棄却されたが、「疑わしきは被告人の利益に」という「白鳥決定」が下され、再審裁判の門戸を開く役割を果たした。村上氏は1969(昭和44)年に仮釈放されたが、1994(平成6)年11月、埼玉県大宮市の自宅で焼死体となって発見された。
——————————————————————————————–
5全協から武装闘争に方針転換
――となると、立場は変わって渡部さんが、当時、白鳥警部殺害の指令を受けていたら犯行に加わっていたかもしれない。そんな党の時代だったということでしょうか。
渡部 極端な話で言えば、そういうことですね。私も独身の活動家の基準で選ばれて日電三田工場のレッドパージ反対闘争を支援する「南部プチロフ行動隊」に加わり、反米ビラを撒きましたからね。これが翌年の蒲田糀谷の反植民地闘争にいなって暴発したのです。ご存知のように、日本共産党は、1951(昭和26)年10月の5全協(第5回全国協議会)以降、武装闘争の時代(注2)に入っています。後に左翼冒険主義といわれる暴力闘争路線にカジを切ったのです。それは、紛れのない事実です。
——————————————————————————————–
武装闘争の時代:日本共産党は5全協以降、それまでの合法的な平和革命論から武力による暴力革命へ、いわゆる武装闘争の方針に転換。表向きの組織とは別に秘密地下組織として、全国の都道府県、その傘下の地域単位に各軍事委員会が設置され、地域には闘争の実施部隊である中核自衛隊が組織された。党が発行した秘密文書「球根栽培法」「新しいビタミン療法」などには、軍事組織の作り方、戦略・戦術、武器の調達・製作の方法などが具体的に書かれており、これに基づいて軍事訓練なども実施された。このほか、農山村での革命の拠点づくりを目指す山村工作隊、祖国防衛隊などもつくられた。こうして主に警察、米軍、公共施設などを襲撃する本格的な軍事闘争が展開され、それは朝鮮戦争が休戦となる1953(昭和28)年7月ごろまで続いたとされる。
——————————————————————————————–
――白鳥事件も、そうした軍事闘争の一環だったというわけですね。
渡部 その通りです。冤罪ではないという根拠を説明する前に、私のことをお話ししておきましょう。私は終戦の翌年16歳で郵政省の東京貯金局に就職し、1950(昭和25)年5月に日本共産党に入党し、11月にレッドパージされました。
党の非公然活動に入り、地下に潜行しました。非公然活動では、党の中央組織局(大衆運動綜合指導部)のテクをやりました。テクというのは、非合法の連絡や会議場所の設営などを担当する秘密技術部です。公然化した6全協以降は、神奈川県鶴見で未組織労働者を組織して労働組合運動、60年安保闘争、その後ベトナム反戦運動などに携わりました。

――地下に潜行してテクをやっていた時に、党の大物幹部と知り合うのですか。
渡部 潜行当時から六全協によって公然化したのち、さらに70年にかけて石川島播磨重工の田無工場(ジェットエンジン製造)の研磨工として、田無反戦を組織して活動した時代まで党の裏側を見ることができたし、大物幹部と接触し、深い交流をすることができました。名前を挙げると、政治局員クラスでは、志賀義雄(元衆院議員)、志田重男(国内指導部責任者)、椎野悦朗(元臨時中央指導部議長)、伊藤律(元党政治局員)、長谷川浩(元党政治局員)、鈴木市蔵(国鉄労組元副委員長、臨時指導部員)、御田秀一(組織部長)、)吉田四郎(北海道地方員会元議長)などです。ここに列挙した人物は全員が故人になっています)の各氏とは、親しくさせてもらいました。いずれも党の中枢にいた人たちですから、白鳥事件のことは、そういう人たちから詳しく聞いていました。このうちの何人かは、上京すると、私の自宅を定宿にしていたし、この人たちの葬儀や追悼会も私が担当しました。志賀、椎野、鈴木、御田氏は、その死後、各氏の資料整理をまかされました。それが社会運動資料センターの基礎資料になりました。志田重男は私が神奈川に行って労働者工作をする決意表明したとき、「所帯をもって落ち着いてやれ」と激励し、仲人になりました。私のかみさんは彼の女房が世話してくれのです。伊藤律は私が彼の遺言の執行者で、文藝春秋から、のち彼の遺稿『伊藤律回想録』を出版しました。吉田四郎の最期は経済的な苦境を私が援助したのです。こんなわけですから、白鳥事件が党の組織的な犯行というのは、当時から私にはわかっていました。

埋もれていた裁判資料をボランティアで製本化
――渡部さんは、戦後の党関係の様々な資料を収集・分析し、研究成果を発表しています。白鳥事件についても、膨大な裁判資料を収集・整理するなど研究を進めているそうですね。
渡部 ええ、白鳥事件は私の青春時代の忘れがたい事件ですし、友人たち(北海道地方委員、深倉其義氏)が関与していますので強い関心を持っていました。そんな折、この事件を研究している北海道の知人から白鳥事件の裁判資料を見たいと協力を求められたのです。調べてみると、長野県松本市の司法博物館に裁判資料一式が保存されていました。これは、事件の主任弁護人、杉之原舜一氏(故人)が保管していた札幌地裁、同高裁、最高裁の全裁判資料でした。段ボール箱30数個に入れられたままで未整理の状態にありましたが、同博物館関係者からこの整理を依頼されたので、原本のコピーを提供してもらうことを条件にこれを引き受けました。こうして私は、多くの友人の協力を得て、1年半をかけてボランティアで整理・製本化しました。全部で156冊にのぼる「白鳥事件関係裁判資料」が完成し、2002(平成14)年3月閲覧室で公開され、記者会見をおこない、テープカットして、華々しくスタートしましたが、2008(平成20)年、財政難から同博物館は松本市に移管となり、とたんに裁判資料はお蔵入りとなってしまいました。公開されては困る人たちの仕業といきり立ち、情報公開法にもとずいて白井久也氏(日露歴史研究センター代表)が手続きして調べましたが、真相はわからずしまいでした。そこで、私は、限られた友人に「白鳥事件裁判資料抄録」(上下、150頁)を30セット作って配っています。とにかく、この裁判資料を読めば、事件の核心がすべてわかります。冤罪ではないことが明白になります。

有罪の根拠となった「追平雍嘉(おいだいらやすよし)上申書」(手記)を発見  
――たとえば、その資料から具体的にはどんな事実がわかるのでしょうか。
渡部 その裁判資料によると、当時の日本共産党北海道地方道委員会の下にあった札幌委員会の組織的な犯行であることを、検挙されて脱党した3人の党員が詳しく自供しています。とくに追平雍嘉氏(札幌ビューロー委員)が自分の入党の経過、地下組織の全容、事件の詳細を述べた「追平雍嘉上申書」(手記)は、有罪判決の根拠の1つとなった重要な証言です。この上申書の存在は分かっていましたし、彼の供述は裁判資料にありますが、私が整理するまで本人が執筆した「手記」は行方不明でした。たまたま私が整理する中で発見できました。その全文は、これまで明らかにされていませんでした。裁判資料による供述書や裁判長の訊問記録などは「手記」にもとずいているから彼の供述の根本資料と言えるものです。
それによると、札幌委員会には、地下組織として軍事委員会があり、その責任者が委員長の村上国治氏です。彼の指示で事前に白鳥警部の銃撃作戦が練られ、拳銃の射撃訓練を実施。さらに北海道大学の学生を中心とした中核自衛隊の隊員が数グループに分かれて、白鳥警部の尾行を開始し、銃撃の機会をうかがいます。実際に銃撃をした実行犯はポンプ職人の佐藤博という人物(事件後中国に逃亡、1988年1月14日に病死、月刊「治安フォ―ラム」)、因みに宍戸均は同年2月7日死去)であることなどが詳細に述べられています。犯行翌日に追平氏が佐藤氏の自宅で、佐藤氏から犯行の具体的な状況を聞く部分があります。その一部を抜粋してみます。
   「(追平氏が)『やったなー』と炬燵のわきに立ったままで言うと、『誰がやったと思う』と、ヒロ(佐藤博氏)が真剣な顔つきで言うので『君だろう』と言うと、『うーん、どうしてわかった』と、多少警戒するような様子で、またどうしてわかったのだろうという顔つきで、慌てた様子であった」
   「また自転車の上から乗ったまま、ピストルを撃つのはどうやったのか、非常に興味があったので、『どうやって撃つんだ』というと、ヒロは『後ろからペダルをとめて手拭(?)に包んだまま出して、後ろから撃った』『しばらくそのまま走っていたがガックリとした』と言っていた」(以上原文のまま)

――生々しい証言ですね。脱党して転向した3人の供述は信用できないという言い方をする人もいますが、具体性があって信用できると渡部さんはみているわけですね。
渡部 ええ、詳細に分析してみましたが信用できますね。弁護団は佐藤直道、追平雍嘉、高安知彦たちの証言の微細な証言の食い違いと矛盾点を衝いて、「信用できない」としていますが、私はむしろそれが当然だと思っています。高安知彦を例にとれば、彼が逮捕されるのは翌年の6月9日です。1年4箇月も経っているのです。「そこに誰がいたか」、「それは何時、何時ころだ」と追及されても細部に記憶がずれるのはむしろその方が真実だと思っています。
事件立証の決め手はまだ他にもあります。しかし、それとは別に当局の証拠のねつ造の疑いも出てきました。真相に迫る事件のタネは尽きません。
渡部 富哉(わたべ・とみや)氏略歴  1930(昭和5)年東京生まれ。日本共産党元活動家。社会運動資料センター代表。46年郵政省東京貯金局に就職。50年日本共産党に入党し、レッドパージを受けたあと、翌51年労働組合の書記となり、その後、非公然活動に入る。6全協以降は造船所の労働者として労働組合を結成し、60年安保闘争を闘う。61年石川島播磨田無工場に研磨工として入社。同時に田無反戦を組織し、ベトナム反戦や数度の造船合理化と闘う。85年に定年退職となり、「徳田球一記念の会」理事となる。著作には、伊藤律のスパイの冤罪を立証した『偽りの烙印』(五月書房)。『生還者の証言』五月書房などがある。
「メディアウォッチ100 2012.3.16. 第159号」より許可を得て転載。
———————————————————————————-
<講演会・白鳥事件60年目の真実>
主催  社会運動史研究会、現代史研究会、ちきゅう座、社会運動資料センター
1. 日 時  4月14日(土)午後1時~5時
2. 場 所  明治大学リバティータワー
3. 講 師  ① 渡 部 富 哉(社会運動資料センター)
       演題「裁判資料から検証する白鳥事件」
       ② 中 野 徹 三(札幌学院大学人文学部教授)
       演題「北海道大学の学友たちが体験したこと」(仮題)
       ③ フロアー発言(事件関係者、研究者)
4. 参加費 資料代  1000円
      
  1. 2012/12/24(月) 20:09:28|
  2. 未分類

思想的・政治的立場

古本屋通信   No 89  2012年  12月20日

  思想的・政治的立場

「思想や考え方が違うということは、自分がその人と付き合うかどうかの基準にはならない。思想は違ってもいい。ずいぶん違ってもいい。ただ、信用できるまっとうな人間と付き合う 」 ( No 76 三浦聡雄氏インタビューより )

 先日の三浦氏の発言のなかでも心に残った一節だ。それは私の場合、付き合いだけでなく、ネットで人を見る際の最大の基準でもある。思想は違ってもいい。政治的立場も違っていい。信用できる人間かどうか。それをみきわめるのは最終的には行動だろうけれど、文にあらわれたかぎりでも十分に人間は出る。とりわけ勢いで書くブログは隠しようもなく殆んど裸の人間が出る。インターネットは怖ろしい。
 私は自分を政治的には左翼のはしくれだと思っている。思想的にはマルクス主義唯物論の影響をつよくうけた。死ぬまで左翼でありたいし、唯物論者であり続けたいと思っている。しかしそれは他人に左翼や唯物論者を求めることとは、まるで違う。
 No 88 の姫井由美子さんが一番引きやすいのだけれど、信用できる人はいっぱいいる。不器用でも誠実なひとだ。ブログは議員に公開が多いので、それを見る機会が多いのだけれど、男は権威主義の匂いが強くて駄目だ。女性議員のほうがいい。いままでも気にいったブログにはそれなりのエールを送っている。しかし一方通行でよい。たったいま、ひとり思い出した。議員ではない。

坂井(平野)希さん
小3・年長の2人の個性派息子の母。政治関係のお仕事してます。関心あるトピックは保育・教育、若者雇用・就職、原発、JAL問題、メディア論など。主にはニュースや読んだ本の感想、思わず笑った子どもの一言をつぶやきます。


 こういうひとがいい。こういう人でこういう自己紹介をする人が、たまらなくいい。権威主義と正反対で、フェミニズムを振りかざすでなく。何所にでもいそうな日常着のお母さん。私が委員長になってほしい人だ。総理大臣でも構わない。
  1. 2012/12/20(木) 21:40:20|
  2. 未分類

常任幹部会報告

古本屋通信   No 87  2012年  12月19日


  常任幹部会報告


総選挙の結果について
2012年12月17日 日本共産党中央委員会常任幹部会
・・・・私たちが出発点とすべきは、2010年参院選比例票の356万票(6・10%)(4中総決定)であることを銘記して、このたたかいにのぞみました。この出発点にてらすと、総選挙で、わが党は、比例代表で369万票(6・13%)に、得票・得票率をわずかですが前進させました。小選挙区での「全区立候補」に挑戦し、選挙区選挙で470万票(7・89%)を獲得したことも、積極的意義をもつものでした。とりわけ、比例票を参院比例票の約1・2倍に増やして議席を守り抜いた東北ブロックでの勝利は、被災地復興の今後を考えても、きわめて重要なものとなりました・・・・

私の文
常任幹部会報告の全文を読んだ。但し速読。こんなもんだろう。あれこれ言う気になれない。上記引用はその中の数字部分だ。この部分を詐欺的だと論難する向きもあろう。しかし嘘をいっている訳ではない。ピントが外れているわけでもない。外しているだけだ。声明文には声明文の書き方がある。そういうものとして読めばよい。しかし、これだけではさみしいから、昨日の「土佐高知の雑記帳」さんの数字部分を補足として再引用しよう。こっちのほうがリアル数字。

土佐高知の雑記帳

・・・共産党は362万で1議席減の8議席。目標の650万、18議席に及ばなかった。・・・
比例を軸に299選挙区に候補者を立ててのたたかいだったが、前回の比例494万、9議席に及ばなかった・・・


私の文

『赤旗』日刊紙で選挙結果の集計を見る。共産党は比例区得票数で東北以外、軒並み減っている。私は他党の得票数も当落もあまり興味がない。ひたすら共産党比例区の絶対得票数だけを見る。岡山も他県並みに減っている。石村が岡山出身であることによる票の上積みはない。共産党はどこも悪かったが中国ブロックが一番悪かった。全ブロック中、最低の5.0%の得票率だった。仕方がない。共産党の議席についての私の評価は「8は上出来」だ。他ブロックでは、京阪神の3議席目は元々無理。前回の宮本当選はハプニング。今回吉井が引退で穀田・宮本がもちあがりの順位に。橋下維新の伸び悩みがなかったら2議席目も黄信号だったろう。何事も最初が肝心ということ。全国的には、あと1,2議席落とすだろうと思っていた。絶対得票数の減少をみても、落としておかしくなかった。それが8で留まったのはひとえに低投票率のおかげだ。万々歳の8議席だと言えよう。はじめから中国、四国での当選などはありえなかった。私の周囲はみんなそういっていた。ハッタリも結構だが18議席など革命より難しだ。まあ実力7のところ、日ごろの行いがよかったので、ご祝儀の1を加えて8つ。万々歳だ。

土佐高知の雑記帳
総選挙の結果について
常任幹部会の「総選挙の結果について」で、4中総決定の「2010年参院選比」というのは事実なんだが、いまの情勢が要求しているという選挙前(中)に言っていたことに照らすとどうなんだろう。
この夏に入党した息子はずけずけ言う性格で(DNAひいているんだろうか)、帰ってきたときに「会議で志位さんのDVDを見せられて『この認識は甘いんじゃない?』と言ったらどん引き*された」と言っていたが、きょうも「もうちょっと現実を見据えるべきだ」と電話してきた。
党員人生をかけて」という意気込みで臨んだ選挙で、「政権交代選挙」の時よりも得票、得票率を後退させた現実はしっかり見据えるべきだと思う その点で常任幹部会が「古い自民党政治が崩壊的危機にあるにもかかわらず、また、党員と支部、後援会のみなさんの燃えるような奮闘があったにもかかわらず、この選挙でそれを議席の前進に結びつけることができませんでした。私たちは、その最大の理由が、党の自力の問題にあることを、選挙戦の全体を通じて痛感してきました。党の力の根源は、何よりも、さまざまな困難に直面しその解決を求める各層の広範な国民に溶け込み結びつく力にこそあります。日本共産党が持つ「草の根の力」は、他党と対比するならば、抜群のものがあります。しかし、それも、いま情勢が求めているものに比べればまだまだ小さいし、これまでより弱まっている面も少なくないのです」と提起したことは、正面から受け止めたい。
ここ数年、ウチでも「力持ち」が相次いで亡くなった。
地域活動や労組、住民運動で有権者と深く結びつき、選挙のたびに3桁を超える「票」を読んできた人たちが、両手に余るくらい亡くなっている。
その一方でそれに代わる活動家を獲得できていない。
常任幹部会が「党の自力の問題」を単に党勢にだけにしなかったことは正しいと思う。
昨年来、党勢拡大に力を入れてきたが、ある意味「カベ」を感じていた。
いわゆる「対象者」が「細い」のだ。
それは党の関わる運動が狭まっていること、党員が関わっていても運動から新たな活動家を育てることに成功していないこととも関連する。
「党の自力の問題」を広い角度から分析して、発展の道を探りたいと思う。
そのためには、まずたたかった人たちの肌感覚に耳を傾けることからはじめなければならない。
年末年始も多忙だが、休みだけはキッチリとりたい。
心が亡びては正しい道を見つけ出すことは出来ない。
*どん‐びき【どん引き】 だれかの言動で、その場の雰囲気が急にしらけること ( 古本屋通信 )。
  1. 2012/12/19(水) 14:29:21|
  2. 未分類

**さんはまだ比例区候補?

古本屋通信   No 86  12月19日


  **さんはまだ比例区候補

 ++++氏の 12月17日付ブログより 
「「 総選挙が終わりました。とりわけ中国ブロックは、・・・中略・・・
・・・・・安倍・石破両氏が率いる中国地方の自民党は、全国11の比例ブロックの中で全国トップの得票率を誇っています。
 危険な政治潮流と対決し、平和・民主主義を守りぬくため引き続き中国地方をかけ回りたいと思っています。
さっそく「公約実現」を訴える*****・+++両候補

            写真掲載   」」


 以下は私の文
 総選挙はおわった。まず青文字の文の主語は明記されていないが++氏本人だ。++氏は引き続いて「中国ブロック比例代表選挙の事務局長」に任命されたのか? それとも解任されていない以上、任務は自動継続されているという解釈なのか? 任命は県委員会ではなく中央委員会のはずだが、中央委員会のどの機関で、いつ決定されたのか? 党員が党の任務の範囲を越えて党内を自由に行き来することは規約違反だが、それをご存知か? 次に赤文字。選挙が終っても2人は候補なのか?なんの候補なのか?4年後の衆議院選挙の候補なのか?それとも来年の参議院選挙の候補なのか?それは何時どの機関で決定されたのか?

 私のこのブログは古本屋の客人をはじめ、私の読者にむけて発信される。++氏はもとより共産党のいかなる機関との交通 (交流) をも目的としていない。よって+氏の記事が削除された場合にも残される。
 現実の政治に関わってそれを職業にするということは、全勤労者・人民の苦しみを全身で受けとめて闘うということだ。そのために党 (共産党に限らない) があり、党議員がおり、党専従 (党職員) がいる。そのために党綱領があり、党規約がある。ほんとは党外の私などが書かなくて党内で解決すべきだった。++氏流に言えば、共産党の「歪みをただすということになろうか。

党外から、ベテラン党員の党規約違反を糾す!
党外から、ベテラン党員の党規約違反を糾す!
党外から、ベテラン党員の党規約違反を糾す!
  1. 2012/12/19(水) 00:16:52|
  2. 未分類

敗因分析

古本屋通信   No 85  12月18日


  敗因分析

 高知県の共産党員「土佐高知の雑記帳」さん記事を転載させていただく。記事に付いている Comment もそのまま掲載する。 


土佐高知の雑記帳
2012年総選挙に思う
総選挙が終った。自公で三分の2とは、事前の予測通りで改めて小選挙区の破壊力を見せつけられた結果ではある。
共産党は362万で1議席減の8議席。目標の650万、18議席に及ばなかった
日本共産党と候補者に一票を投じてくれた有権者に心からお礼を申し上げるとともに、その期待に答えることが出来なかったことをお詫びする。
比例を軸に299選挙区に候補者を立ててのたたかいだったが、前回の比例494万、9議席に及ばなかったことは吟味する必要があると思う。
高知三区は橋元陽一候補が過去最高の3万2千余を獲得したが、比例がそれに結びつかず前回よりも減してしまった。
別に選挙区を重視していたわけではない。
一騎打ちで大いに外に出て、比例に確実に結実させる戦略は間違っていなかったと思う。
だが結果はそうならなかった。
原因は足腰の弱さにあることは否めない。
途中で「せめて10年前の若さがあれば」と思ったことは一回ではなかった。
それを補うためにいくつかの手を打ったが、いずれも不完全燃焼だった。
チャンスをいかし切れなかったことに責任を感じる。
小選挙区比例代表という選挙制度になってのたたかいは6回目。
たたかいかたに工夫を加える必要がある段階にさしかかっているのではないだろうか。
様々な角度から反省を加え、参議院選挙に向けたたたかいを組み立てたいと思う。

Comment
自公の勝因を小選挙区制に帰着させても
共産党の敗因を小選挙区制の弊害だけに解消させてはいけない。
現行の選挙制度を前提にしても、もっとも簡単かつ必要な分析すべき課題事実は多くある。共産党の比例票が選挙区票よりも100万票も少なかったことなどが方針との関係で大問題だからだ。
次に、かつて小選挙区制の下でも高知、京都で議席を取り26議席を得ていたような事実との対比。歴史的考察の必要である。
もっとも、この事実を、今度は「党の高齢化」といった違う原因に依拠して説明し切ろうとすることも分析努力の放棄に近いであろう。
選挙の敗因を党勢の低下に解消しようというような思考態度は、同義反復だからである。「党勢が落ちたのは党勢が落ちているからだ」というような。問題は、ナゼ、左翼的運動圏の高齢化を克服出来ないか、ということの別表現でしかない。
党中央に先駆けて何事かを書いたことは多少評価出来るが、まだまだ分析努力や謙虚な自己客観化が足りないと思われる。
他所の左派系ブログも参照されたい。
posted by バッジ@ネオ・トロツキスト URL 2012.12/17 20:22

加藤紘一の落選
 自民党圧勝の中、なぜか同党の加藤紘一は落選。今の自民党においては数少ない良識派だった加藤の落選は誠に残念である。当人の年齢や落選という事実を踏まえると、今後加藤が国政に復帰することは困難だろう。
 このたびの加藤の落選を一番喜んでいるのは、実は自民党総裁の安倍晋三かもしれない。何せ安倍にとって加藤は目の上のたんこぶのような存在だったからだ。安倍の暴走にブレーキをかける人間が自民党内からいなくなったことの損失は今後じわりじわりと顕在化していくであろう。
posted by 万物流転 URL 2012.12/18 09:43

選挙結果総括の数量的基準を

前回参議院選とする4中総の立場が恣意的過ぎることは詳論しない。
また、得票結果に現れている数々の問題状況を党の高齢化によっては説明出来ないことも指摘するだけに留めておく。
日本共産党にとっての真の課題は、党の綱領にまで遡及せざるを得ない(例えば原発問題)理論・政策・方針問題での総括である。
たとえば、選挙戦術問題に限定しても、解明・総括すべき課題は山ほどある。「自動崩壊論」を戒める党中央自体に選挙戦術をめぐる事実上の自動崩壊論的・形勢観望的な無為無策があるからである。
中心視・重要視している比例票を選挙区選挙活動により増大させるというような、前回選挙以前に既に破綻が証明済みの過去の方針・経験則に固執し続けるだけで、比例票獲得・増大戦術の創造的発展や選挙区選挙闘争の本格化を怠ってきたこと(=事実上の闘争放棄)などが大問題だからである。
こういう問題は、依然として統一戦線戦術や選挙区選挙戦術にいい加減な位置づけしか与えていないことの証明でもある。
何よりも必要なことは、自己分析性に徹した党内議論である。
このままでは党員の高齢化によって、党消滅の危機が到来している社民党の後を追うことになる。
posted by バッジ@ネオ・トロツキスト URL 2012.12/18 09:55

万物さん
時代は変わる・・・ですね。
良くも悪くも消え去って行く人が何人もいます。
posted by 阿波太郎 URL 2012.12/18 10:30

自動崩壊論が拙いのは、自動崩壊や自然発生それ自体がこの世に存在しないからではない
「経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる」マルクスの立場(『資本論』序言)は、自動崩壊や自然発生の存在を当然認めるが、「自然発生性への拝跪」(レーニン)を共産主義者にあるまじき日和見主義的態度として拒否し、それに目的意識的な実践を対置するからである。
そう、共産主義者における社会発展の「助産婦」(レーニン)として役割の自覚である。「その社会の産みの苦しみを短くし、やわらげること」(マルクス)の必要の自覚である。
しかし、ここで逆ユレすると、今度は主観的意思主義に転回してしまう。ロシア革命でその無力が証明された階級闘争万能論という誤った立場への振動である。「自然的な発展初段階を跳び越えることも法令で取り除くことも出来ない」(マルクス)ことの無視という主観主義への転落である。
ま、釈迦に説法だったかな?w
posted by バッジ@ネオ・トロツキスト URL 2012.12/18 10:40

通りすがり
もしかして、もう負けて悔しいという思いすらなくなってませんか?
負けることが当たり前になって、なれていませんか?
posted by 特定日本人です URL 2012.12/18 20:40

自民党の100倍努力せよ
共産党の議席を伸ばしたいと思うなら、候補者は日頃から自民党の10倍は努力しないといけない。政権獲得を目指すなら100倍だろう。そういう自覚もなく選挙の時だけ運動したところで投票してもらえるわけがない。
posted by 万物流転 URL 2012.12/19 09:46

努力の方向
ま、がんばっているんだとは思いますが、、、その方向性を考え直す必要があるのかも知れませんね。同じ調子を続ければ将来は・・・・。
他党批判はともかく自身は今回の結果をどう総括するんでしょうね。知りたいもんです。
posted by 阿波太郎 URL 2012.12/19 11:51

Comment が追加され、「土佐高知の雑記帳」さんが追記されるなら、その全てを転載することになる ( 古本屋通信 )。

田中角栄
下記は田中角栄語録の一部。角栄がこの通りに言ったかどうかは分からないが、こうしたポリシーを持って政治活動に取り組んでいたことは確かだろう。共産党こそ大いに参考にすべきだと私は思うが。
①「『戸別訪問は3万軒、辻説法は5万回やれ』、2万人と握手をして廻れ、靴が何足も履き潰されるほどに雨の日も風の日もやれ。有権者の目から君が去れば、有権者の心から君が去る。親の七光を当てにするな。カネを使えばなくなる。選挙区は1軒ずつしらみ潰しに歩け。3分でも5分でも辻立ちして自分の信念を語れ。それを繰り返せ。それしかない。山の向うを見ても援軍は来ない。
②聴衆の数で手抜きはするな。流した汗と、ふりしぼった知恵だけの結果しか出ない。選挙に僥倖などあるものか。そして、選挙民には口でいって見せるだけでは絶対駄目だということだ。、必ず、自分で率先してやってみせろ。政治は結果である。そのためにこそ、選挙区をくまなく歩くことだ。選挙民が何を一番望んでいるのか、何に一番困っているのかを、他の誰よりも早くつかまなきゃいかん。とにかく歩け、歩いて話を聞け。
③分かったようなことを言うな。気の利いたことを言うな。そんなものは聞いている者は一発で見抜く。借り物でない自分の言葉で、全力で話せ。そうすれば、初めて人が聞く耳を持ってくれる。
posted by 万物流転 URL 2012.12/19 16:50

はははは
公職選挙法違反のお薦めですか?
それとも、悪しき客観主義と化した遵法精神への批判かな?
posted by バッジ@ネオ・トロツキスト URL 2012.12/19 17:00

土佐高知の雑記帳
総選挙の結果について

常任幹部会の「総選挙の結果について」で、4中総決定の「2010年参院進」というのは事実なんだが、いまの情勢が要求しているという選挙前(中)に言っていたことに照らすとどうなんだろう。
この夏に入党した息子はずけずけ言う性格で(DNAひいているんだろうか)、帰ってきたときに「会議で志位さんのDVDを見せられて『この認識は甘いんじゃない?』と言ったらどん引きされた」と言っていたが、きょうも「もうちょっと現実を見据えるべきだ」と電話してきた。
「党員人生をかけて」という意気込みで臨んだ選挙で、「政権交代選挙」の時よりも、得票、得票率を後退させた現実はしっかり見据えるべきだと思う。
その点で常任幹部会が「古い自民党政治が崩壊的危機にあるにもかかわらず、また、党員と支部、後援会のみなさんの燃えるような奮闘があったにもかかわらず、この選挙でそれを議席の前進に結びつけることができませんでした。私たちは、その最大の理由が、党の自力の問題にあることを、選挙戦の全体を通じて痛感してきました。党の力の根源は、何よりも、さまざまな困難に直面しその解決を求める各層の広範な国民に溶け込み結びつく力にこそあります。日本共産党が持つ「草の根の力」は、他党と対比するならば、抜群のものがあります。しかし、それも、いま情勢が求めているものに比べればまだまだ小さいし、これまでより弱まっている面も少なくないのです」と提起したことは、正面から受け止めたい。
ここ数年、ウチでも「力持ち」が相次いで亡くなった。
地域活動や労組、住民運動で有権者と深く結びつき、選挙のたびに3桁を超える「票」を読んできた人たちが、両手に余るくらい亡くなっている。
その一方でそれに代わる活動家を獲得できていない。
常任幹部会が「党の自力の問題」を単に党勢にだけにしなかったことは正しいと思う。
昨年来、党勢拡大に力を入れてきたが、ある意味「カベ」を感じていた。
いわゆる「対象者」が「細い」のだ。
それは党の関わる運動が狭まっていること、党員が関わっていても運動から新たな活動家を育てることに成功していないこととも関連する。
「党の自力の問題」を広い角度から分析して、発展の道を探りたいと思う。
そのためには、まずたたかった人たちの肌感覚に耳を傾けることからはじめなければならない。
年末年始も多忙だが、休みだけはキッチリとりたい。
心が亡びては正しい道を見つけ出すことは出来ない。

Comment
NoTitle

 党派を超えて支持を集められるような魅力ある人物が減っていますね。共産党に限った話ではありませんがね。
 自民党の議員・候補者の質の低下は言うまでもないですが、共産党も傾向は同じ。私の居住する県の共産党の候補者については「こんなのが候補者か…」と思ってしまうような有様。なかなか見所のある共産党員もいることは知っていますが、そうした人物が候補者になることはなく、出てくるのは中央委員会か県委員会のイエスマンになっているようなのばかり。さすがにこういうのには投票する気にはなれません。候補者選定も見直す必要あるでしょうね。
 とにかく自民党の候補者の質が低下している状況で、それに付き合っているようでは苦しいでしょうね。
posted by 万物流転 URL 2012.12/20 09:41

良いご子息をもって幸せですね
彼には、活字の書物も、現実世界という書物も、良く学び、深く考え、行動に活かせる人間に成長してもらえるよう、親子の立場を超えて温かく援助して欲しいと思います。
それにしても、彼の意見に「どん引き」するような今の組織実態は重大ですね。戦後(特に8回大会以降)、こういう党員しか作り出せなかった組織のありようを深く反省すべきだと思います。今、テレビで小出裕章も語っていましたけれど、日本人は総括や自己批判が出来ない人間が多いということそれ自体を、左翼も含めてまず、反省しなければならない。
>常任幹部会が「党の自力の問題」を単に党勢にだけにしなかったことは正しいと思う。昨年来、党勢拡大に力を入れてきたが、ある意味「カベ」を感じていた。
いわゆる「対象者」が「細い」のだ。それは党の関わる運動が狭まっていること、党員が関わっていても運動から新たな活動家を育てることに成功していないこととも関連する。「党の自力の問題」を広い角度から分析して、発展の道を探りたいと思う。
常幹声明はまだ無謬論の鎧を付けてますね。
例えば、まだ、「大衆運動と党建設の関係における段階論」批判のような謬論の名残りを感じます。党員だけでなく、元読者さえどんどんこの世を去って行っている時代なのだという認識がほとんど無い。こんな初歩問題に対してすらこの状況ですから、理論政策や選挙方針問題のような指導部の「固有責任」については全然自覚が無いのでしょう。「方針は正しかったが実践が足りなかった」論への開き直りがまだ続いているのです。
つまり、「『党の自力の問題』を単に党勢にだけにし」ていない、と言っても、それはたかだか下部の「運動」や「実践」の問題だけであり、指導部の「自己責任」領域である理論や政策、方針についてはあらかじめ批判に対するバリアーを張って身構えているように見えます。
しかし、本当は、そこにこそ真の問題があると思いますがね。
たとえば・・・・川田たちのHIV運動がメディアで報道され始めた頃、元衆議院議員の岩佐恵美が漏らしていたのを聞いたことがあります。
以前は、いろいろな大衆運動の現場に行くと、そこでは必ず党員の姿が見えたが、川田たちのようなこの頃の運動に接してもそこに党は見えない、というような、一種の困惑というか、危機感の表明というか、そういう感想をです。
今回の官邸前反原発運動なども同様ですね。
あの運動のプロトタイプは3.11直後の高円寺で自然発生した1万人デモでしょうが、ああいう運動の火付け役の中にも党員は居なかった。ま、反原発運動では、党の原発政策の遅れも実践の足を引っ張っていたのでしょうが。
「日本共産党が持つ『草の根の力』は、他党と対比するならば、抜群」だなどと自画自賛していても、時代や社会構造の変化に全く鈍感、広い視野に立って現実と接することが出来るような「現代の草の根」にはなっていない、ということです。せいぜい『しんぶん赤旗』のフィルターを通した現実の後追いぐらいしか出来ない。
しかし、今何よりも緊急に必要なのは、選挙戦術問題です。そして、都市部勤労者を獲得出来るような政策。
党の中にも、そういうことを感じていた幹部は居たのですがね。
石原が都知事になるはるか以前に、都市部を土壌にした今日の渡辺的・橋下的・石原的・安倍的事態の到来を予見していた人間がね。そう、排外復古主義を利用しつつ新自由主義政策を強行しようとする勢力が台頭するだろうことを予見していたマルクス主義者がね。
「上」の方でもこういう少数意見に鈍感なのが問題なのですね。ご子息の意見に「どん引き」するような鈍感で不勉強な党員が、上でも下でも党の多数派を占めている現状。
あ~、前進は困難そうだなぁw
posted by バッジ@ネオ・トロツキスト URL 2012.12/20 10:10

ご子息が入党とは喜ばしいですね
こんにちは。おひさしぶりです。
ご子息が入党とは喜ばしいですね。
親が人間的にも魅力的な党員でなくては、子供は入らないものです。
(周囲でも子供には入って貰えなかったという党員もチラホラ…苦笑)
ズケズケ言う正確って、大事な資質だと思います。
その資質を生かして、色々と自分で考え、学んでいって欲しいものですね。
トラックバックの御承認ありがとう御座います。
このコメントにも、リンクを貼っておきますね。
選挙「総括」短信 | 伊賀篤のブログ
http://blue.ap.teacup.com/nozomi/138.html
また党中央批判をしています。(苦笑)
posted by 伊賀篤 URL 2012.12/20 15:01

土佐高知の雑記帳
褒めてくれてありがとう

あいつこれをみているかなあ。
選挙総括にもどれば、バッチさんが言うとおり運動の中に党がみえないんですよね。
11月11日の伊方も、高知からの参加者はそこそこ居たのに、愛媛は知っている顔がなかった。
それぞれで事情があるだろうから、断定は出来ないがもっと幅広にかまえた方がいいと思いますね。
それはウチもおなじだけれど。
posted by 土佐高知 URL 2012.12/20 21:21


  1. 2012/12/18(火) 14:49:04|
  2. 未分類

劣化

古本屋通信   No 84  12月16日

  劣化

 自民294、民主57、維新54、公明31、みんな18、未来9、共産8、社民2。 選挙結果の件。手短かに書く。面白いことも面白くないこともない。これが自然のなりゆきだろう。

 民主党政権に冷徹な審判が下った。その意味で、日本人民の健康的な政権批判の勝利。三年余の民主党政権は自民党政権の反動的諸政策を引き継いだが、それ以上に無為無策のインポテ政権であった。それは政治の甚だしい劣化であった。だれの目にも明らかだった。それがもっとも率直なかたちで選挙結果に出た。
 今回の選挙投票は劣化にたいするノーの選択だったが、不幸なことに、もっとも劣化していないと映ったのが自民党であった。そして日本維新の会であった。公明党も無傷であった。

 社民党と共産党はマスコミ報道の枠外に置かれたが、それでも劣化の対立軸にあれば躍進は十分ありえた。それが極右の自民党と日本維新の会に流れたのは何故か。社民党と共産党の両党が、民主党と同様に劣化していると映ったからである。そして事実、紛れもなく劣化していた。共産党については、私が No 54 と No 56 で書いたとうりである。これでははじめから選挙にならない。候補者選定の段階ですでに負けている。政治状況の正確な見きわめなど望むべくもない。勝てるわけがないが、万が一に間違って当選し、国会議員になって困るのは党自身だ。そういう例はいまもある。キンピー以外に誰も言わないだけだ。

 原発は争点にならなかった。私は既に「原発は選挙の争点にしてはならない」むね書いていたが、今回はこれでよかったと思う。限られた期間にラディカルな討論は無理だ。原発新党=嘉田新党=未来の党の沈没は象徴的である。この党の不興は小沢隠しが不成功だったからでも、卆原発が分り難かったからでもない。そもそも原発は票にならない、選挙に馴染まないのだ。このことは再稼働反対の運動を軽視することを意味しない。すべての社会運動を議会に収斂させる志向は如何なものか、ということだ。その点で、緑の党の今後の議会活動に「反省」の材料をもたらしたのではないか。

 政局の今後については私にはよく分らない。そういうことを得意そうに語る「評論家」にはなりたくない。ただ、国会で改憲勢力が多数を占めたことは、戦後民主主義にとって忌々しき問題だ。今後、公明党の選択がひとつの鍵になる。創価学会さんにふんばってもらわねばならない。創価学会だのみというのも情けない話だが、この日のために私は公明党批判を遠慮してきた。
 
 余談

 選挙のたびに店に来ていた創価学会のおじさんとおばさんが最近こない。公明党が自民党と連立してから、私が冷たくしたからかもしれない。また来て欲しい。私にとって貴重な情報源なのだ。
 はなしは憲法九条、靖国、戦前の牧口先生のことなど私は多くを教わった。彼らは護憲の一点ではそう易々とは妥協しないだろう。


 参考
 私は政局「評論家」は御免だが、そういう人を全て軽蔑しているというわけではない。ときどき潜って参考にするブログもある。その本日付の記事を貼っておく。文末に【続き - 以下は有料です 転載禁止】とあるとうり商売なのだ。ここに貼ったのは無料サンプル部分だから転載してもよいだろう。気にいった人はファンになってあげてください。「世に倦(あぐ)む日日」さんです。

世に倦む日日
参院選でも極右が圧勝する - 反中扇動に打つ手なし
予想どおりの選挙結果となった。自民294、民主57、維新54、公明31、みんな18、未来9、共産8、社民2。民意が示され、国民の審判が下され、改憲と国防軍については賛成、原発については推進、消費税増税については賛成、TPPについては参加、生活保護切り下げについては賛成、の民意が示された。しかも、自民と維新を合わせれば348議席の圧倒的多数であり、これらの政策を遂行する上で何の障害もない体制となり、3分の2の再可決権も握られている。マスコミは今後、原発と消費税について順次に世論調査を打ち、選挙前と世論が変わり、賛成派が多数になったことを国民に告げて行くだろう。これらの争点について決着がついたことを確定させ、蒸し返しさせないように固めて行くだろう。原発については、来夏以降、規制委に安全宣言を出させて順番に全国の原発を再稼働させて行く。安倍晋三が言っている「10年後にベストミックス」という公約は、例の寺島実郎の「原子力立国計画」のことで、3.11以前に国が決めた原発比率50%のエネルギー戦略の意味だ。上関の工事再開も含めて、新規の立地計画が策定され認可されることだろう。一つ言わせてもらえれば、今回の選挙における反原連の不感症には驚かされる。官邸の主が野田佳彦から安倍晋三に代わるという事実についての想像力の欠如に呆れる。野田佳彦と安倍晋三は人格が少し違う。「大きな音だね」で済むはずがない。
【続き - 以下は有料です 転載禁止】

もう一つ
 投稿者 あっしら 日時 2012 年 12 月 17 日 05:48:58
投票が終わった途端、“自公連立は既定方針”というスタンスで開票速報番組が進められたのには笑ったが、
現段階の連立与党:自民党294+公明党31:計325(67.7%:2/3超)
これに、
「社会保障と税の一体改革」で既に一体:民主党57
自民党の別働隊:維新の会54
最終的には自民党サポート:みんなの党18

を加えると、454議席(94.6%)に達する。
一方、[原発稼働ゼロ+消費税増税反対+TPP参加反対]派:26議席(5.4%)である。
 総選挙の結果は考えていた範囲だったので驚きはしない。しかし、3.11を経験した国民の意思に近いものと考えられる比例獲得票数状況を見聞きして、やっぱりがっかりした。
橋下氏じゃないが、選挙は戦(いくさ)だから、負けた責任は、他の誰でもなく、負けた政党にある。が、メディアの報道姿勢はあまりにひどすぎると思う。言っても詮ないことだが・・・。
 尖閣(竹島)問題は、本来、係争を棚上げにしたり放置したりしてきた自民党や火付けに走った「維新の会」代表石原氏にとって大きなデメリットを与える事柄であるはずなのに、“やっぱり、毅然と軍備で対抗”という武張った主張が正当であるかのように見えるように情報操作を行った。
 短期では済まず長期にわたってとんでもない損害を日本に与える、とんでもないことを意図的に行った石原氏や彼が率いる政党が第3党になったのだから笑うしかない。
 あやしげな「北朝鮮“ミサイル騒動”」も、その路線の政治勢力を後押ししたに違いない。(半分冗談だが、本当にロケットを打ち上げたのかな?と思っている)
 今回の総選挙が、しらけムードや“何がなんだかわからない状況”で行われたことは、投票率(59%前後)の低さに象徴されていると思う。投票率の低さは、公明党・自民党・共産党を利したであろう
 来年7月に行われる参議院選挙の結果がどうであれ、政治状況が変わることはないであろう。
 大惨敗の民主党は、自民党にすり寄る政党に成り下がることで生き残りを果たそうとするだろう
 橋下氏は、かつての民主党のポジション=先見交代可能の第2党を目指すだろうし、今回の総選挙の論功行賞として、それに対するサポートもなされるだろう。
 民主党も、「維新の会」も、参議院選挙後になるかもしれないが、分裂騒動を起こすような気がする。
 ことここに至れば、実質的に日本を統治している官僚機構の“良心”と“知性”に期待するしかないと思っている。(他に手がないから、本気で・・・)


 


  1. 2012/12/17(月) 03:38:13|
  2. 未分類

加入戦術

古本屋通信   No 82  12月12日

加入戦術
 

インターネットで遊んでいたら、聞いたことのない情報? へえ~、ホント?

「「1997年ごろは、信州大は東大とならぶ ( 民青系全学連の ) 拠点でしたが、民青同盟員数は100名には達していませんでした。立命館大・日本福祉大が最大拠点であり、その次が東大・信州大だったのではないかと思います。なお、一橋大の民青には中核派が加入戦術していました」」

  ちょっと、にわかには信じられないが、左翼オタク的には美味しいネタだ。キーワードは「加入戦」。これって、スパイのこと? かたい話が続いたので、少し遊びたい。
 旧社会党に2派が加入戦術を採用していた以外に聞いたことがなかった。

加入戦術 - Wikipedia
独力での勢力拡張が難しい日本の新左翼党派も、加入戦術を採用した。その際に最も標的とされたのは、日本社会党だった。日本社会党は、「反自民統一戦線党」の分権的な性格があり、党内で自由に異論を唱えられる余地が大きかったからである。日本社会党所属の参議院議員であり、国鉄動力車労働組合(動労)副委員長だった目黒今朝次郎は、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派の支持を受けていた。他にも、上田哲なども革マル派から支援を受けていた。一方革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)や日本労働党なども、機関紙で大田昌秀ら社会党・社民党所属候補への支援・投票を呼びかけた。
社会党系の青年団体日本社会主義青年同盟(社青同)から分裂した革命的労働者協会も、「社会党社青同解放派」を名乗っている。
なお日本共産党は、中央集権制の一形態たる民主集中制(民主主義的中央集権制)を採用し、分派活動を禁じているため、他党派が影響を及ぼせる余地は少ないが、日本トロッキスト聯盟など一部の新左翼党派が実行した例がある。

都知事選と第四インターの加入戦術/span>
あれは1970年代始めでしょうか。当時の社会党の青年組織である社青同に第四インターは加入戦術を用いました。これは当時世界中の第四インターで行われていたことです。加入戦術とは、自らの属する政治組織を明らかにしないで政治的方向性が似た大組織にメンバーとして加入し、その中での活動を通して自らの属する組織にシンパシーを抱くメンバーを獲得していくという戦術です。第四インターのメンバーの方、間違っていたらご指摘下さい。
 さてAAA+さんは、浅野陣営の勝手連の中に第四インター等の加入戦術が行われていると思われる、ということですが、仮にAAA+のおっしゃることが事実だとして、何が問題なのでしょうか。第四インターの主張に共鳴するか反感を抱くかは個々の勝手連のメンバーの意志が決めることです。AAA+は何が問題なのか明確に説明する必要があります。
 第四インターは社会党の青年組織である社青同への加入戦術を行なった効果もあり、1974年に青年組織・共青同を1500名のメンバーの参加で創立大会を行ないました。その当時は中核派、革マル派、解放派に次ぐ第四の新左翼党派の誕生として注目されました。第四インターは当時最高潮に達していた内ゲバに対して唯一、明確に内ゲバ反対を主張した党派です。その後、1977年に三里塚空港(現成田空港)の管制塔占拠・破壊を行なった中心党派として少なくない大衆から支持を得ました。
 その後、第四インターは1980年代前半に起きた女性差別をめぐる内部対立から衰退・分裂し、現在では新時代社派と労働者の力派に分裂しています。メンバー数も大幅に減少しているものと思われます。
 AAA+さんが、浅野氏支援の勝手連が第四インターに乗っ取られるかのように主張されていますが、そう主張されるのであれば具体的な根拠を示していただきたい。具体的根拠もないのであれば、その主張は直ちに撤回すべきです。浅野陣営への為にする中傷行為と断じられても反論できないはずです。
 最後に一言、吉田陣営は浅野批判を活発に行なっているが、浅野陣営は吉田批判を一切行なっていない。どちらが「石原陣営」の利益になる行為なのか考えるまでもなく自明なことだろう。

都知事選と第四インターの加入戦術
 
最初に言っておきますが第四インターの是非について議論するつもりは全くありません。「根拠は貴方が述べておられる過去における「加入戦術」の事実そのものです。」ということですがなぜこれが根拠になるのでしょうか。昔やったから今もやるという推測だけが「根拠」ですか。それでは根拠にならないのは明らかです。それにしても今では見る影も無く弱体化した第四インターが浅野陣営の批判の道具に使われるとは驚きです。
 「>勝手連の中に共産党より『左』の市民活動家がおり、支持拡大を阻害しているようだ」と、ある永田町関係者。」
 この「永田町関係者」とは何者でしょうか。まさか自民党関係者だということはないのでしょうね。出所のいかがわしい情報を元に浅野陣営を批判するのはまさに利敵行為です。
 政策論争は現都知事である石原に対して行なうのが最優先されるべきです。これについてはAAA+さんにも同意していただけると思います。なぜ浅野陣営が吉田陣営の批判を行なわないのか。この理由は吉田陣営の批判をするひまがあったら石原陣営の批判をするほうが石原打倒に有効だからです。
 私は吉田陣営は「共産党の勢力拡大が最優先」であり、そのためには「反石原である浅野陣営も攻撃対象」とする、という方針だと受け止めています。違うでしょうか。それが結果として石原当選に手を貸す政治的犯罪行為であることが分かってもらえないのがなさけないです。昔からの共産党のセクト主義にはあきれています。



●参考文献  (途中からの部分が飛んでいます)
現古研党派・団体別目録 「日本革命的共産主義者同盟小史」 ――日本トロツキズム運動の20年――

第四章 労働者の中へ ――加入活動の時代――


 1 加入戦術をめぐる論争と分裂
 加入戦術をめぐる論争は、日本トロツキズム運動の初期に、組織方針の分野でもっともはげしくたたかわされた論争である。
 加入戦術は、一九五〇年代に、山西英一や太田竜によってすでに実行に移されていたが、六全協以後の日本共産党の学生党員を中心とする大量の代々木ばなれした活動家にとって、新しい党建設を志向する立場から第四インターナショナルに判断を下すための重大な問題点としてクローズアップされた。
 加入戦術を一貫して熱心に主張したのは、太田竜であった。彼は、パブロの第三回世界大会における立場と路線の熱心な支持者であり、日本の第四インターナショナルを強固なパブロ派として組織しようとしていた。
 パブロの加入戦術論は、次のように提起された。
 「第三回世界大会=ついで国際執行委員会第十回総会によって決定された戦術(加入戦術)は何よりも時代の深く革命的な性格の評価と国際的力関係の革命に基本的に有利な発展に基づいている」
 「帝国主義の戦争へ向っての志向と具体的前進にもかかわらず国際的力関係が革命に基本的に有利に発展する基本的に革命的な時期という条件のもとで、第三回世界大会ついでIEC第十回総会は、各国の現実の大衆運動への可能なかぎりのあらゆる深い浸透と作用という戦術を決定した。」(第四回世界大会への報告――パブロ)
 「……この展望は、資本主義の終局的危機と世界革命の拡大の展望として定義づけられる。この二つとも、第二次世界大戦でひきおこされた混乱によって激化し、終戦後ますます顕著となり、いまや決定的解決への決定的闘争にむかうこの歴史的時期全体を特色づけるものである。」
 「決定的戦闘までになお二年か三年――いやもう少し――残されているとしても、われわれが準備するのに十分ではない。それどころかいたるところでわれわれが現実の大衆運動へ参加するためにすみやかに行動し、われわれの勢力を配置し、今から行動にうつらなければならない。これが、第三回世界大会の戦術適用についての討論を長々とひきのばしてはならない理由である。」(第十回国際執行委員会報告――パブロ)
 きわめて急速に革命的危機が到来する。われわれはこの危機にどのように間に合うことができるか――これが、パブロが加入戦術を提起した核心の問題設定であった。パブロはユーゴ革命と中国革命を総括するなかから、革命的大衆の圧力は、スターリニスト党をも(革命党不在の場合には)ゆり動かして、権力にむけて押しやるであろうと予測した。今日第四インターナショナルがきわめて微弱である前提のうえに立てば、来るべき数年のうちに開始される決定的戦闘においては、大衆の革命的エネルギーは、スターリニスト党や社会民主主義党の既成の大衆的政党に流れ込むであろう。われわれはそれを外から評論するのではなく、これらの党の内部にいて、大衆のエネルギーを待ちうけ、合流し、これらの党の官僚と大衆のミゾを拡大し、大衆的な革命党建設のダイナミックな出発点をたたかいとらなければならないのである。
 来るべき二~三年というようなパブロの切迫した問題設定は、事実とはならなかった。世界資本主義は世界大戦を回避しながら、経済上昇の長い時代に入っていった。こうしたなかでマンデルは、加入活動を全般的な組織戦術として再度定式化した。
 「一、大衆的革命党の創造は広汎な勤労大衆の急進化なくしては不可能である。
 二、……この急進化は、その第一局面においては、伝統的大衆党への労働者の流入とこれら諸党の労働者党員の重要な部分の急進化によって表現されるであろう。
 三、この急進化の基盤に立って強力な左翼がこれら諸党の内部に結成されるし、それは大衆の目には予備指導部としての真の役割をはたすであろう。この左翼は伝統的指導部とあすの大衆的マルクス主義政党とのあいだにわたされたカケハシとなるだろう。」(IEC二十回総会)
 マンデルはこう定式化することによって、加入戦術を、一般的な組織戦術に高めた。パブロの「来るべき対決」の展望はくずれたとはいえ、加入活動の戦術は、第四インターナショナルの基本的組織戦術として六〇年代後半の急進的青年運動の爆発の時期まで受けつかれていくのである。
 これにたいしてキャノン派は、加入戦術一般には反対しないが、その基礎にすえられている「スターリニスト党と革命的大衆」の関係のとらえ方が、修正主義的であるとして猛烈に反対した。キャノン派によれば、こうしたとらえ方はトロツキストの原則の放棄、武装解除につながるのである。したかってキャノン派の加入戦術にたいする理解は、あくまでも一時的で部分的なものでなければならず、スターリニスト党の「可能性」に立脚したり、主体性を喪失した「全面加入」であったりしてはならないのである。
 ICPの太田竜は、パブロ―マンデルの方針を忠実に実行すべきだという立場に立った。
 「第四インターナショナル日本支部は、社会党左派とその周辺、及び共産党の戦闘的労働者・学生の中に見られる革命路線への多分に自然発生的な潮流を意識的に指導し、その中に計画的にボルシェビズムを注入し、この潮流を強化し、意識化することを当面の任務とする。この目的のために支部は独立の組織をあくまで維持しながら、比較的長期に亘って既存の労働者諸党すなわち社会党及び共産党の内部で活動することにその主たる努力を向ける。」(日本革命のテーゼ)
 ここでは社・共両党としてのべられているものの、共産党内活動はエピソード的にしか展開されず(「鉄の戦線」の活動)、太田は全力をあげて、社会党加入活動を早くから推進しようとした。
 これにたいしてJRは、加入活動には当初から消極的であった。西京司が行った六一年の第二回全国大会政治報告の結語は次のようにのべている。
 「いずれにせよ、今日労働運動内部における左への潮流は、なお多分にこれら既成組織(特に社会党)の下部における左翼的動きとしてあらわれつつあること、このことをはっきりと認めねばならぬ。そしてその事実の上に立ってわれわれは労働者大衆との接触を求め、その左翼化をおし進めるに当って一切の戦術的組織的配慮を行うことが必要である。それは加入戦術の採用の可否を考慮する点においても極めて重要である。だが、もちろんこのことは決して安易に加入戦術の採用を正当とするものではない。われわれはこの労働者大衆内部の左翼化の傾向にいかに接触し、われわれの影響を拡大するか、という見地から戦術を考慮する。それはいうまでもなく、わが同盟自身の独立の組織の強化拡大と深く結びつけて考えられるべきであり、結局はそれに従属させられねばならない。」
 第二回大会の最終日、九州の代議員は、青年労働者が安保闘争のなかで政治化し、社青同に結集しつつあること、彼自身も社青同加盟をすすめられているが、どうすべきか、という問題を提起した。これと同じ問題は、全国各地方ですでに起っており、JRの地方組織は、社青同・社会党系の組織に接触しつヽあった。加入戦術をめぐる実践的な決断を行なうべき必要が、運動のなかからつき出されていた。しかし大会は、結論をくださず、加入戦術の検討に着手することをきめるとともに、他方青年インター(国際主義共産青年同盟)準備会の発足を決定した。社学同左翼反対派(レフト)は、青年インターに解消、吸収されることになった。
 大会後、中央書記局の鎌倉らは山西英一らの示唆をうけて加入戦術の採用を提案した。鎌倉提案は、組織全体を社会党加入活動に移行させようとするものであった。したがってそれは青年インターの解散をもふくんでいた。この提案は、すでに青年インターの組織化のとりくみを開始している関東のメンバーに、強い不満と反発を生み出した。他方、関西は、全体として鎌倉提案に反対であった。関西は、部分加入はあり得るが、全面加入は誤りだとの立場にいた。だが、関西でも青年労働者は社青同に急速に結集しつつあった。青年インターとして活動を開始した若い労働者活動家は、孤立を強制され、分散化していた。彼らは、大原を中心とする関西の青年インター指導部がこうした現場の困難に適切な指導を行ないえず、官僚化しているとして不信と反発を深めていた。青年インターのこの混乱のなかで、関西ビューローは、部分的加入戦術を採用することによって、労働運動の総体的情勢との結合をはかることを提案した。大原は、ビューローのこの方針に反対し、ビューローは鎌倉を中心とする全面加入派と野合したとの批判を展開した。
 関東の青年インターメンバーは、当初、関西ビューローと結合して鎌倉提案に対抗しようとしていた。だが中央指導部の岡谷らは、彼らの実践的な困難を理解せず、方針上問題はあるけれども指導部としては鎌倉を信頼するとして、彼らの直訴を斥ぞけた。大原はこうした複雑な組織内情勢を利用して、政治的には十分な必然性が存在しなかったにもかかわらず、関東の反対派と結合することに成功し、「革命的分派」なるものを結成したのである。それは「青年インター派」と呼ばれた。
 六一年末の六中委において、「青年インター派」はJRから分裂した。
 「彼らの政治的主張と批判は①全国指導体制と能力の弱体さ、②同盟活動の政治的・組織的総括の必要性の主張、③社会民主主義政治組織への加入戦術に対する絶対拒否、④青年インター(レフトをふくむ)の解散に対する反対等であった。
 これらの政治的主張ないしは批判はそのままでは同盟の分裂を正当化する何等の理由もない。分裂の決定的点は、同盟中央委員会を、『革命的分派』と同盟の残余の部分との連邦主義的機関に変更せよという要求が、中央委員会多数派によって拒否されたことによる。彼らはその組織的要求を固執して分裂していった。
 この連中は分裂以降、身を細らせて細々と『高く独立の旗』をかかげている。」(六四・一一、『政治討論ブレチン』№6、酒井)
 六中委は分裂の後、主たる組織戦術を加入戦術とすることを決定した。さらに翌年の第三回大会では、六中委決定を確認、青年インターの解散を決めた。
 だが、六中委の後、もう一つの分裂が、関西と神奈川を結んで発生した。その中心は、大原指導部との闘争で先頭に立った京大の篠原である。
 「第二は、主要に関西を中心とするものであって『赤い旗手』グループ、『革命的理論建設』派である。彼らの言い分は『結局のところ、我々はトロツキストだと思って活動してきたが一切は全く疑がわしいということに気づいた。自分自身、果して現にマルクス主義者であるか否かわからない。まず、このことを理論的に確かめ、そして世界革命の理論、その展望、戦略、戦術を明らかにすることが第一に必要なことであって、それ以前には一切の実践は行うべきではない』として、書斎派の立場へ『確固として』移行し、一切の大衆的諸闘争への参加を拒むことによって、同盟から分裂していった。このグループは、黒寛に接近しつつ、革共同全国委員会に参加し、今日『前進派』にいるr (同右)
 加入戦術の全国的実践に先立つ二つの分裂は、JRの中央機関に深い打撃を加えた。そのなかで、東京の東学大グループによる加入戦術が開始された。中央機関の中心メンバーも加入にふみ切った。二つの分裂と同時におこなわれたこの加入の実践と同じころ、中央書記局の独立活動メンバーは、事実上活動から召還した。こうした連続的な痛手のために中央指導部の機能はマヒし、加入活動の統一的な組織的な展開はおこなわれず、地方の組織の自主的な実践にゆだねられることとなった。
 他方ICPも、六〇年に分裂を経験し、さらにその年の末、三多摩の加入グループは太田と袂別して離党した。                       」
 六〇年のICP分裂の基本的背景は、やはり加入活動にあったといえよう。学民協という形での無理な加入活動の結果、学生運動での基盤を失なってしまった学生カードルが、太田の路線に反乱し、基本的に独立活動にうつることを主張して多数派を形成したのである。かれらは六月には太田を除名して、JRとの合同に踏み切ったが、そののちJRからもとび出して、闘争から召還してしまった。
 六〇年末の三多摩グループの離党は、これとは逆に、太田の指導の下では、加入活動そのものがつづけられない、加入活動をより深く推進するためには、太田と一旦絶縁しなければならないという危機感から出たものであった。
 旧JRにおいても旧ICPにおいても、加入活動は大きな犠牲を払ってはじめて実践にうつされ、しかも多くの場合、組織的な指導がないなかで始められていったのである。

 2 加入のためのたたかい
 加入活動は、このように、けっして組織的とはいいがたい、多分に個人的、経験的なやり方ではじめられた。
 三多摩では、最初の加入はICPによって五九年におこなわれていたが、その段階では、純然たる個人活動の領域を出なかった。加入メンバーのイニシアの下で、社青同三多摩支部準備会が結成され、機関紙「青年の力」が発刊され、労動組合を対象とする宣伝活動がおこなわれていたが、参加する活動家は社会党の青年党員に限られていて、しかもそのほとんどは、青年というよりは社会党の若手というにすぎず、青年部運動に一定の基盤をもっていたのは国鉄労組八王子支部だけであった。
 六〇年安保闘争のさなかに、第二陣が加入して来た。このメンバー達は、東京学芸大学に社青同の班を組織して、十数名の活動家を三多摩支部に提供した。六月四日、六月二二日の国労ストに際して、東学大で百名をこえる学生を支援動員し、社会党、三労に一躍社青同の名を売った。
 この時点から、三多摩での加入活動は、急速に前進しはじめた。
 社会党にとって、ある組織が有用であるか否かを見きわめる最大のテストは、つねに選挙である。六〇年秋の衆院選で、山花秀雄選対に参加し、行動隊として活躍した東学大グループは、社会党のこのテストに見事に合格した。三多摩での加入のためのたたかいは、この衆議院選挙で基本的に終ったとしてよいだろう。これ以後、三多摩の社青同運動の指導部は、最後まで加入メンバーの手からはなれたことはなかった。
 六一年四月、社青同三多摩支部が結成された。
 「同盟員数六〇名。うち五分の一は学生で他のほとんどは社会党青年部活動家であった。
 われわれは六〇年に社会党、労動組合活動家の信任を得、六一年にその全ての青年部活動家と親密になった。社会党に合体するという視点から言えば、もうやることはなかった。社会党系青年運動というものはまったく存在しなかったr
 「だが、いずれにせよわれわれが支部を結成したとき、そこにはまだ運動はなかった。二年前に学民協をはじめたときと同じ矛盾にわれわれは直面した。われわれは青年運動を通じて社会党に食い入ろうとしたのだが、青年運動自身が社会党に存在せず、われわれの手で最初からはじめなければならなかったのである。」(『三多摩社青同闘争史』)
 三多摩における加入のためのたたかいは、先行する青年運動の不在、対抗する異なった党内分派の不在にうらづけられた、合体の容易さによって特徴づけられる。唯一の行動力ある部分であった加入メンバーの手に、社青同の指導権はすぐに帰した。そこで、すべての問題は、この指導権をどこにむけて発揮するのか、どのような青年運動をつくり出していくのかにあった。
 東北地方では、これとはまったく事情がことなっていた。宮城における加入のためのたたかいは、きわめて大きな障害にぶつかった。ここでは、加入を達成するために、独自の運動をつくり上げ、その運動の力を動員しなければならなかったし、加入のためのたたかい自体が、数年にわたる分派闘争となったのである。
 当時社会党宮城には、旧左派社会党の青年活動家グループが地区労働運動に影響力をもっていた。労働運動への介入をはじめようとしたJRメンバーは、この旧左社グループと接触し、ここから、五九年四月の統一地方選挙を通じて地区労働運動への足がかりをつかんだ。
 彼らは五九年夏、民間労連の書記のポストを得た。仙台の主要な民間中小労組を結集した民間労連の中で、彼らはその戦闘化と産別組織への再編を押し進めた。五九年の年末闘争の中で、いくつかの組合は結成以来はじめてのストライキ闘争を行い、全国金属加盟をきめた。また、同じ年の十一・二七安保闘争に参加した民間労連の部隊は、JRメンバーの指導のもとに果敢なデモを展開し逮捕者を出すなど、その戦闘化は急速に進んだ。
 六一年民間労連は、全金宮城地本、仙台印刷労組、宮城化学労協の三つの産別組織に再編され、六五年に仙台印刷労組は宮城合同労組と統一する。JRメンバーは、その各労組にひきつづき書記、あるいは専従役員として活動を継続していった。
 加入活動の宮城での第一段階は、このように、かならずしも社会党への加入活動ではなく、労働組合活動への介入を目的としながら、そのために社会党の活動家グループと接触をもっていくという形ですすめられた。したがって、社会党加入活動自体にたいして、どのような方針をとるべきかという点では、JRとしての基本的な一致が確立されていたわけではなかった。
 六〇年に、社青同宮城地本準備会がつくられたとき、JRメンバーは、旧左社青年グループとともにここに参加した。だが、一年後、実際の宮城地本結成が、構造改革派のイニシアティブのもとですすめられるようになったとき、そこに参加すべきかどうかをめぐって、JR内に対立がおこった。全金に参加していた部分は、構革派主導下の社青同運動への合流を主張し、JRを脱党していった。他のメンバーは、この路線に反対して、社青同運動からはわかれて、独自の労働組合を拠点とする活動をつづけていった。
 JR中央委において、加入活動を支持する多数派と反対する少数派の間で分裂がおこなわれたのち、六一年暮、レフト(社学同左翼反対派)東北大班は、社青同加入を決定し、四~五人のメンバーが、社青同東北大班に加盟した。東北大の社青同には、当時解放派の活動家が、同じく四~五名所属していたが、かれらは大衆運動に足をもたず、レフトが民青に対抗する大衆運動の指導権をもっていた。
 六二年四月、憲法公聴会が仙台でひらかれた。レフトの社青同グループは、まだ社青同に加入していないメンバーとともに、新入生を結集し、阻止闘争のヘゲモニーを完全にとった。当然のなり行きとして、この闘争は、構革派の地本指導部と、東北大班の解放派を脅やかした。
 当時社青同全国学生班協議会の指導部であり、中執メンバーであった、解放派の創設者佐々木は、中執内部では構革派と対立していたが、東北大班におけるレフトの抬頭に危機感をもち、地本執行部と結托して、レフトのメンバーの排除の陰謀をめぐらした。
 五月、闘争において中央の指揮、統制にしたがわなかったという理由で、一名が除名通告をうけた。この処分は、抗議をうけて一たん撤回されたが、その後、今度は教養部班解散という、いっそうきびしい処分が、強行された。このときの理由は、直接に「加入活動とみなす」というものであった。反対派を組織処分によって排除するという方法は、やがて解放派自身が社青同から追放される際にうけたのであったが、その先鞭をつけたのは、かれら自身であったという歴史的事実は、記憶されてよい。
 これ以後約二年間にわたり、宮城のJRは処分反対をかかげ、非合法の社青同を名のりつづけ、加入のためのたたかいをおこなっていった。
 地本から追放された東北大の社青同は、社青同東北大学生班と自称し、公聴会阻止闘争以後、ソ連核実験をめぐる論争、青葉山移転阻止闘争、学園民主化闘争をたたかいぬき、大学法闘争の先頭に立つなかで、急速に大衆的な基盤を獲得し、六三年には、九〇名以上に成長した。自治会においても、六二年には川内東分校六三年には文学部、六四年には経済学部の執行部をにぎった。
 この間、公認の社青同東北大班、(解放派)は、なんら大衆闘争に登場できず、弱小なセクトの位置にとどまりつづけた。
 他方、労働戦線ではこの学生班の闘いを地区に動員しつつ、構革派に対抗するために、国労、全逓、市職等社青同のメンバーを左派として社会主義協会に組織する活動が進められた。
 六四年、社青同第四回全国大会は、構革系指導部にたいする、協会派を中心とする左派の反乱が勝利した。いわゆる「改憲阻止・反合理化の基調」が、修正案として提出され、採択されたのである。これは、江田ビジョンのもとで展開されて来た社会党構造改革派の運動が、次第にその右翼的本質を明らかにして、反共右寄り統一戦線づくりであることが暴露されるなかで、社青同運動のなかに反撥をつくり出して来たあらわれであった。第四回大会は、全国の構革派系地本に大きなショックを与えた。
 宮城地本も例外ではなかった。二年間にわたる「加入のためのたたかい」を進めてきたJRに、攻勢のチャンスが訪れた。
 六四年はじめ、開店休業となっていた仙台支部が、左派の手で再建され、七月支部大会で、学生班から専従書記長を送り出して、指導権が掌握された。つづいて、この年の秋に地本再建大会が左派のヘゲモニーでひらかれた。学生班からは、専従組織部長が送り込まれた。この過程で、六二年の処分は、事実上撤回され、「加入のためのたたかい」は完全に勝利した。
 宮城の加入活動の特質は、重要な政治闘争に打ち勝つことではじめて加入を達成し得たという点に、まずある。加入活動の通常の理解では、加入すなわち同化の第一段階では、われわれは独自の政治性を表わすことは極力さし控えるべきであり、加入の過程が完全に終り、社会党の党機構のなかに一つの歯車としてわれわれがくみこまれたのちに、注意深く情勢を待ち、機会をつかんで徐々に政治的な独自性を主張し始めるべきであるとされていた。事実、他の全ての地区での加入活動は、程度の差や時間の長短はあっても、基本的にはそのような第一段階を必ず経ていたのである。
 だが、宮城のJRは、加入のためのたたかいそのものが、明白な分派闘争であり、加入が完了したときには、社青同宮城全体において、すでにヘゲモニーをゆるぎなく確立していた。この経験は、加入活動の教科書には、想定されていない経験である。
 宮城のJRの加入の前に立ちふさがった勢力は、右派構革派だけでなく、当時全国社青同の最左派分派となっていた解放派でもあった。この「反四トロ左右連合」は、機関の力に依拠していたが、大衆運動を組織する能力をもっていなかった。JRは、学生の大衆運動を先行させ、その大衆的戦闘力の魅力をもって、労働運動への工作を並行して進めた。解放派は学生運動で終始劣勢に立ち、防戦を強いられたために、労働運動工作でもほとんどなに一つできなかった。JRの組織した二つの戦線が合流したとき、勝負がついたのである。大衆運動の魅力には、なにものも勝てない。
 独自の大衆運動を組織することによって、既成の社青同運動を内側から変革する方向で加入活動を成功させたという点では、三多摩と宮城の二つの事例は共適している。だが、三多摩の場合、この変革の過程は、上から、丸がかえ的にすすめられた。宮城の、下からの分派闘争を経てたたかいとられた過程と比較するとき、活動家の結集の質の政治的水準において、大きな差が存在していることは否めない。この差は、六〇年代後半の情勢転換に対応する、加入活動から独立活動へむかう転進の際に、大きなハンディキャップとして三多摩にあらわれたとみなければならない。この転進において、宮城のJRは加入活動の基本的成果を失なうことなく新しい段階に飛躍できた。だが三多摩のJRは、ばくぜんとした地区的な影響力という点ではたしかに大きな財産を残したけれども、新しい段階をになう具体的なカードルという点では、きわめてわずかな収獲しかかちとり得なかったのである。このことの原因は、三多摩を中心に展開したJR指導部の混乱に帰すべきではあるが、さらに遠くさかのぼって、三多摩での加入のためのたたかいと宮城のそれとの質的なちがいもまた、無視し得ない背景の一つをなしていたことを、認めなければならない。
 他の地区での加入のためのたたかいは、この二つの地区よりも時間的にも、また量的にもおくれていた。
 山形、福島、秋田を中心とする東北の各県は、六二年~六三年にかけて加入が進んだが、これらの地区では、さして問題になるような障害に出合うことなく、六五年頃までに、地本における一定のヘゲモニーを獲得することに成功した。
 東京では、三多摩地区以外には、太田竜を中心とするICPのメンバーが、東京南部の社会党、社青同に加入し、JRのメンバーは、三多摩や、その他の地区で、主として労働組合の書記として加入していった。
 太田竜は、社会党の品川に加入したが、ここでかれは反右派闘争の先頭に立ち、品川を曾我派の拠占にするために大いに役立った。だが、品川における左派のヘゲモニーが確立されたのち、曾我は右派の攻撃材料を後にのこすことを恐れ、この天下にかくれないトロツキストを、さっさと除名してしまった。
 東京JRの加入部分の中心的指導者は、社会主義協会のなかで活動していたが、かれはあまりにも深く加入しすぎて、その思想もふくめて社会主義協会派になってしまい、トロツキストであることをやめてしまった。かれがその後の社会主義協会の発展のなかで、どのような非凡な役割を果したかについては、ここではふれない方が礼儀であろう。
 この二つの実例は、東京都内における加入のためのたたかいが、基本的には失敗したことを示している。このため、東京の社青同運動には、協会派、解放派、そしてわがJRによる三派鼎立の条件が出来上ってしまった。これは、六〇年代後半の、東京を中心とするはげしい分派闘争の構造をつくっていったのである。
 関西での加入活動は六一年から部分的に開始されたが、機関として開始されたのは六三年であり、六三年から六四年にかけて大阪の学生、高校を中心に加入が進んだ。
 だが、関西の創成期から六〇年前後までJRをになった第一期のカードルは、加入活動に消極的であった。このため、加入の実際的指導は若いメンバーにゆだねられた。関西では、六〇年前後にすでに一定の労働者拠点を、JRはつくり出していたのだが、この拠点と加入活動は結びつくことができなかった。この事情は、若いメンバーによる加入が基本的に完了し、社青同大阪池本を中心とした浸透が開始されたあとでも、一つの無視しえないシコリとして尾を引いていった。
 それにもかかわらず関西の加入活動は、きわめて有能なカードルによってになわれて急速に前進し、社青同大阪地本のイニシァチブは六〇年代後半にはJRの手に帰した。このもとで六七年以降の反戦青年委員会運動のヘゲモニーもまた、JRによって掌握されることになっていくが、旧指導部と加入メンバーのシコリが、完全に解決されていなかったことが、六六年のビューロー指導メンバーの交代以降大きな問題になっていくことになる。だがその点は、次章にまわすことにしよう。
 加入のためのたたかいは、全国的にみるとき、六四年にほぼ完了したといえる。この時点で、組織建設をめぐるICPとJRの間の対立は、理論的にも実践的にも解消したのである。両者はともに社会党、社青同の加入活動に立脚しており、情報交換や方針上の一致が要求されていた。 統一のための条件と、なによりもその必要が生み出されていたのである。

 3 同盟の統一
 太田竜とわかれ、ICPから離脱した部分によっておこなわれてきた三多摩の加入活動は、三多摩社青同を拠点にして、急速に発展した。六一年からはじまった統一労組運動は中小企業の青年労働者の戦闘的活動家を大量に社青同に流入させ、その生々とした運動は官公労や民間労組に波及し、文化運動、婦人運動にも広がり、さらに六二年以降JRの東学大グループが社青同加入を決めたことによって、学生運動でも大きな前進がかちとられた。その勢いは、誕生後三年にして民青を大きく引きはなすところまで到達し、六四年の四月、青学共闘主催の春闘決起集会では、民青の動員力一五〇名にたいし、社青同は七〇〇名を上まわったのである。
 三多摩社青同のこうした発展のなかで、専従者が次々と配置され、社会党、地区労の書記は、ほとんどICP、JRメンバーによって占められることになり、その数は五〇名近くにのぼった。こうした活動家の増大と、それを基盤とする全国政治闘争への登場は、社青同運動を指導する党の必要性を増大させた。六三年半ば、極秘裡につくられていた三多摩社青同トロツキスト・フラクションは、ICP、太田竜のもとに復帰することを決定し、ただちにそれを実行した。突然の復帰の申し出を受けた太田竜が、きわめて複雑な感慨を抱いたであろうことは、想像に難くない。
 こうして、三多摩のICPの組織化が、三多摩社青同の活動家を対象としてすすんだ。このICP組織は、厳格な非合法中央集権であった。それは加入活動は二重の秘密活動であるという理由にもとづいていた。
 一方、在京の指導的メンバーが、加入活動のなかで社会主義協会派に移ってしまったこと、そして独立活動メンバーの招還という二つの理由によってJRの関東指導部、中央指導機能は、きわめて弱体化した。こうしたなかで東北、関西から、数名のメンバーが六三年~六四年に在京、ことに三多摩に派遣され、加入活動強化の努力がつづけられた。
 東北、関西からのメンバー派遣は、三多摩のICPからの要請を受けておこなわれた場合もあった。急速に力を拡大しつつあった三多摩の加入活動は、社会党、社青同の地区機関や労働組合の専従者に配置するトロツキスト・カードルを大量に必要としたが、ICPのメンバーだけではこの需要に応じられなかったのである。
 JRメンバーの三多摩への配置がすすむことによって、ICPとJRの実践的な協働がきずかれ、過去の経緯にもとづくよそよそしい関係を克服することが要求されて来た。とりわけ、このことは、JRの側にはつよく意識されていった。三多摩社青同を中心とするICPの加入活動の急速な発展は、エピソード的な成功の様相をこえて、社会党、社青同における一つの重要な拠点として機能しはじめたのである。
 六三年七月に書かれた関東書記局通達(№4)は、JRの側のこのような問題意識を正直に伝えている。
 「……多摩において、ICPの部分に対する我が方の介入は飛躍的に進みつつある。しかしこれは理論的なあるいは将来の見通しに関するものであって、指導部内部に限定されたものである。この地域における我々のメンバーが、各自、その直面している具体的闘争の先頭に立って果敢に活動し、ここにおける社青同運動の発展に対し全く具体的な寄与をなすなら、我々とICPの部分との合同統一の問題は全く近い将来の時間の問題となるであろう。
 理論的には全く反バクの余地なく、彼らは我々の見解にひきつけられつつあるが、我々のメンバーの戦闘性の欠除、実践活動におけるサボタージュとそれと対照的なICPに対する評論家的な批判的態度は、実践活動のなかで彼らを我々に決定的に引きつけることを妨げている。」
 「具体的な闘争の先頭に立つことをぬきにした、他党派に対する理論的優越などというものはどっちみち長続きするものではない。運動の尻尾からついていって、理論的批判的言辞によってのみ、党派的独自性、運動における地位を獲得しようとするのは、革命家として、革命的政治組織として、全く恥ずべきことである。
 関東書記局は、全メンバーに対し、各自の活動場所における当面の具体的任務を、SKにおける討論と客観的資料から、絞り出し、全メンバーに具体的特殊的任務を課し、その任務がどのように果されたかをねばり強く点検しつづけるであろう。」

 JRの中央指導部再建の努力は、二つの分裂を経た後に、六三年から開始された。六三年第四回大会、六四年第五回大会によって、中央委員会、中央書記局体制が再編、確立された。ICPからの統一の申込みは、六三年に太田竜によってなされた。第四回大会は、この申し込みを受けて、統一にむけた努力を開始することを書記局に義務づけた。
 両組織の統一へのとりくみが開始された背景には、六三年、第四インターナショナルの国際書記局派(IS)と国際委員会派(IC)の統一があった。従来、JRはキャノンに代表されるICを支持し、ICPはパブロに代表されるISを支持していた。もっともこの支持の色合いは、それほど厳密なものではなく、JRのICにたいする態度は、批判的な支持といったものであり、またICPのISとの関係は、IS内のポサダス派(ラテン・アメリカビューロー)に近いものである。
 第四インターナショナルの六三年における統一は、どちらの側にも新しい分裂をつくり出した。IC内では、ランベール派(フランス)、ヒーリー派(イギリス)の二つのセクト主義潮流の分離を生み出し、IS内ではポサダス派(植民地革命派)につづいて、新パブロ派(平和共存、労働者管理、植民地武装解放闘争)が分裂したのである。
 だが、いずれにせよ、第四インターナショナルの基本的中心は、ICとISの合体した統一書記局(US)にうけつがれた。JRは、このUSへの合流を志向し、その立場から、ICPとの統一についても努力することになった。

 テテの登場が絶対に必要であり、宮城地本がそれを担う以外にないという結論をもった。地本執行委員会が起草した第七回大会への意見書は、協会派系、解放派系の同盟員を含めて拡大池本委員会で満場一致で決定された。
 六七年六月の社青同第七回全国大会は、東京地本の官僚的組織処分にようやく成功した協会派にとって、新しい全国分派闘争の再開を思いしらせることになった。新しい反対派が宮城―福岡連合、大阪―埼玉連合という二つの方角から登場した。前者は協会派系自らの内部から、後者は、第四回大会で一度はほうむりさられたかにみえた構造改革派の戦闘的再建として。
 宮城地本意見書は、第一に反戦闘争の強化、第二に「改憲阻止・反合理化」の基調の全面的再検討、第三に組織の民主的運営を要求するものであり、それは反対派全体に共通する意見でもあった。そして、協会派のメッカとされていた福岡地本が中央に反逆したことは、全国協会派に大きな打撃となり、反対派にとっては全国展望を与えるものとなった。
 六七年十月末、大阪、三多摩、東北各県のメンバーによって、仙台で開かれた全国社青同グループ会議は、社青同内に公然たる全国連合反対派を形成すべきであるという結論をだした。宮城地本がそのイニシアチブをとった。
 六四年から六五年にかけて、協会派系の姿をとりながら宮城地本を全面的にヘゲモニーをとって再建したのち、宮城のJRは、社青同運動を労働組合に根づいた反戦闘争の部隊としてつくり上げていった。東北大で最盛時には百名に近い班をつくり上げることに成功したことが、豊富な活動家を保証し、この活動家たちを全県に派遣して宮城社青同総体を活撥な反戦派として組織することに成功した一つの大きな理由であった。六七年以降のベトナム反戦闘争の高揚は、東北の政治的中心である宮城の労働者を政治的に活撥化させ、学生達と青年労働者の連帯した反戦闘争拠点へと宮城の社青同を前進させた。六七年宮城平和友好祭蔵王祭典は、ベトナム一色でぬりつぶされ、一千名の青年達が、「グエン・バン・チョイの歌」を歌いながら山を上り、そして下った。国際主義的な連帯の感動が蔵王をつつむなかで、宮城社青同は、その運動の絶頂期を、反戦派として全国政治闘争に踏み出していくことを宣言したのである。
 六八年三月、三里塚現地闘争で、一五〇名の赤へル部隊が宮城反戦の旗のもとに文字通り機動隊との激突を展開し、全国の反戦青年委運動の最前線におどり出た。それ以前の一月佐世保闘争の中では、福岡社青同の部隊が、闘争の中心を担っていた。反戦闘争の高揚の中で社青同の各反対派はそれぞれの地で県反戦を担い、その闘いを通じて宮城を中心に連合反対派の形成にむかっていた。
 この時点まで、宮城社青同の政治的急進化は、協会派系、解放派系をも有無をいわさずにまき込んですすめられた。しかし、権力との公然たる激突は、遅まきながら社民たちのこれ以上の随行をあきらめる決断を下す機会となった。協会系、あるいは民同系、そして解放派系の同盟員達は、撤退を考えはじめた。だが、主力の大勢は決していた。この部分は、そのまま蔵王の誓いの道を憶することなく突き進み、やがて宮城国際主義労働者委員会の隊列をつくり出していったのである。
 六八年の社青同第八回大会は、前年末の社会主義協会の向坂派、太田派への分裂によって、三派鼎立の大会となった。この大会で成立した連合反対派としての反戦派は大会代議員の三分の一をかぞえ、どの派も単独過半数をとることができなかった。協会両派の妥協が成立し、両派による中執を選出することで社青同は辛じて統一組織の体裁を保つことができたとはいえ、社青同の政治的分解はもはや明らかだった。中央委員会を開いても何も決定できない状況が続いた。
 六八年十月一〇・二一新宿騒乱を機に総評青対部、社青同中央によって全国反戦が凍結された。しかし、青年労働者、学生の闘いはさらに発展していた。六九年三月、宮城反戦、埼玉反戦のよびかけによる全国県反戦代表者会議がもたれ、四月沖縄闘争の方針をきめるとともに総評、社会党に「全国反戦再開」を申し入れた。この行動は社青同はもちろん「社会―総評ブロック」のワクをはみ出すものだった。九月全国全共闘の結成に呼応する形で、「全国反戦」が再建された。
 こうした中で、六九年十・十一月闘争をまえにして開かれた社青同第九回大会は、統一組織としての最後の大会になった。中執多数派をにぎる太田派が起草した大会議案は、大会冒頭に反戦派が提案した動議「中執(多数派)提案の議案と、中執少数意見書(向坂派)、八地本共同意見書の三つを大会議案とする」が可決されることによって事実上否決されてしまった。執行部は総辞職し大会は大混乱となった。結局三派による執行部をつくる以外になかった。しかし太田派が最終日に大会をボイコットしたため、向坂派を多数、反戦派を少数とする中執が成立した。反戦派は社青同中執の名のもとに、やりたいことをやれることになったわけである。
 七〇年七月、社青同の組織的統一性はついに全面的に崩壊した。向坂派が作成した第十回大会議案が中央委員会で否決された。反戦派中執は直ちに辞任した。しかし、向坂派は中央委員会多数の辞任要求を拒否し、七一年二月、自派だけの十回大会をひらいた。こうして全国社青同の分裂が完了した。
 これ以後、向坂派のひきいる社青同が社会党の公認を得ているが、太田派の社青同、解放派の社青同もそれぞれ自己の正統性を主張して今日まで組織を存続させている。また反戦派は、次々と社青同を解散して、新しい組織形態や活動家グループにうつった。構革系は「主体と変革」派へと結集し、旧福岡地本は、ゆるやかな学習会的活動家グループに転じた。そしてわれわれは、国際主義労働者委員会=ILCから、日本共産青年同盟へと飛躍したのである。
 加入活動の最終戦は、こうした社青同内の分派闘争と結合しながら、雑誌「根拠地」の活動としても展開された。「根拠地」は主として社会党、総評内の反戦派活動家とJR東京の社会党加入部分の共同で、六八年に発刊された。それは、急進的青年学生運動の発展がつくり出した社会党、総評内の反戦派を基盤として、反戦、全共闘の闘いと労働運動の架橋の役割を果そうとしていた。
 六九年十二月の総選挙での社会党の惨敗の結果、七〇年春に社会党本部専従者のクビキリ反対闘争がおこった。クビの対象者は反戦派の活動家であり、「根拠地」の主力メンバーでもあった。この「社文闘争」(社会党本部の建物「社会文化会館」の名からこうよばれた)は、社青同内分派闘争の協会派の勝利、急進的青年学生運動の全般的後退の中で敗北に終った。そして「根拠地」もこの同じ背景の中で七一年に停刊した。JR東京の加入活動もまた終了した。
 こうして加入活動は終った。加入活動は、わが同盟建設の巨大な礎石を築いた。
 それは、パブロやマンデルの予想した方向にほかならずしも進まなかったけれども、ダイナミックな、荒々しい大衆運動のなかでわれわれの基幹部をきたえたのである。同時にそれは、階級闘争の沈滞の時期を高揚の時代にむかって生きのび、階級の体温と政治的リズムに密着しながら、新しい爆発にそなえていく前衛党の役割、統一戦線戦術と反対派活動の経験を、否定的にも肯定的にも与えたのである。
 加入活動の基本的成果のうえに、七〇年代、わが独立の党建設のたたかいが、本格的に始まっていく。


 この続きは、疲れたとき息抜きで書く。

 >span
>
  1. 2012/12/12(水) 17:42:06|
  2. 未分類
次のページ